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笹沼&上田のシュトラウスのソナタに感動

 2022930日、HAKUJUホールで、笹沼樹(チェロ)・上田晴子(ピアノ)のデュオリサイタルを聴いた。曲目は、前半にグラズノフの「吟遊詩人の歌」、ラフマニノフの「2つの小品」作品2、プロコフィエフのバレエ組曲「シンデレラ」より「アダージョ」、プロコフィエフのチェロとピアノのためのソナタ ハ長調 op.119、後半にブラームスの晩年の歌曲2曲とリヒャルト・シュトラウスのチェロとピアノのためのソナタ ヘ長調。

 前半のロシア、ウクライナの音楽については、私の守備範囲ではないので、批評家めいたことは何も言えないが、笹沼の歌心が伝わる演奏だったと思う。過度にロマンティックにならないのがいい。素直に歌い上げる。技巧的な部分も、歌心があるので、とても自然だと思う。上田のピアノも芯が強く、輝きがあってとても魅力的だ。プロコフィエフのソナタについては、天衣無縫という感じが出ていて、とてもおもしろかった。プロコフィエフはおもしろい!

 後半のシュトラウスはとりわけ素晴らしかった。若々しいシュトラウス。生命力にあふれ、意欲にあふれた作品だ。派手好きでちょっとこけおどし的な面があるのは、いかにもこの作曲家らしい。しかし、若々しいエネルギーにあふれているので、少しも嫌味ではない。それを笹沼と上田は真正面から描いていく。感動的なまでにまっすぐな高揚だと思う。衒いもなしに若い心をそのままぶつけている感じ。そこに好感が持てる。

 私は中学生のころから、つまり55年以上前からのシュトラウス好きなので、ひいき目かもしれないが、この若書きのチェロ・ソナタも素晴らしい名曲だと思った。こんなに素直に躍動感にあふれた若い心を描く音楽はほかにないではない。今日のような演奏で聴くと、とりわけそう思う。

 アンコール3曲。1曲目はシュトラウスの歌曲(たぶん「夜」?)。ほかの2曲は知らない曲。でも、とてもよかった。

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ウォン・カーウェイの映画

 一昨日、両腕に赤い湿疹が30か所以上もできているのを発見。妻を亡くした後、部屋の掃除をろくにしていないので、ダニにでも刺されたのか、それともほかの虫なのかと気になって皮膚科で診てもらった。「虫ではなさそう。何か大きなストレスがあったのではないか。ストレスによって免疫力をなくすと、それが皮膚に現れることがある」と言われて納得。

 妻の死後、一日中落ち込んでいるわけではないが、なかなか元気が出ない。気晴らしをしようと思っても億劫になってしまう。これが、70歳を過ぎて妻に先立たれた夫のかなり普遍的な状況だと思う。こうして、陰鬱な気分が肌に出てきたわけだ。

 湿疹くらいならたいしたことはないが、このままでいると、からだを壊してしまうと思い当たった。免疫力を弱めていたら、コロナにかかって重症化することも考えられる。かくなるうえは、ストレス解消を最優先にするほうがよさそうだ。まあ、これまでもコンサートに出かけていたが、これから少し意識的に明るい方向の向こうと思う。

 先日、プーンピリア監督の「プアン 友だちと呼ばせて」を見て大いに感動。このタイの監督がウォン・カーウェイの影響を受けていると知った。そういえば、香港映画の巨匠ウォン・カーウェイの名前は知っているが、作品をみたことがない。この機会に何本かみることにした。簡単に感想を書く。

 

「欲望の翼」 1990年 ウォン・カーウェイ監督

 1960年の香港の裏町が舞台になっている。生みの親に捨てられ、育ての親に虐待されたという思いを抱いている青年ヨディ(レスリー・チャン)。投げやりな生活を送っているうち、サッカー場の切符売り娘スー(マギー・チャン)を口説き、付き合い始める。だが、ヨディはスーを捨て、踊り子のミミ(カリーナ・ラウ)に乗り換える。ヨディを愛してさまようスーの様子を心配して見守る警官タイド(アンディ・ラウ)、ミミを慕うサブがからんで、物語は進んでいく。最後、実の母を探しにヨディはフィリピンに行き、中国人街の闇社会とかかわりを持って殺されてしまう。

 ヨディがスーに語る「1960年4月16日の3時1分。君は僕といた。この1分を忘れない」という口説き文句は出色だ。そのほか、詩的な言い回しがたくさんあり、映像にも乾いた詩情が漂う。刹那的に生きるしかない若者たち。まさに1960年前後のイタリア映画やポーランド映画を思い出す。いい映画だと思う。

 

「花様年華」 2000年 ウォン・カーウェイ監督

「欲望の翼」と同じように、1960年代の香港を舞台にしている。チャウ(トニー・レオン)とチャン(マギー・チャン)はそれぞれ家庭を持っているが、配偶者とともにアパートの隣に住むようになる。ある時、それぞれの配偶者が行動を共にして不倫しているらしいことに気づく。裏切られていることを感じた二人は、絶望の意識を介して接近してゆく。愛を率直に表現できない二人は、それぞれの配偶者や作家志望のチャウの小説中の出来事に仮託して愛を告げあう。それぞれの配偶者は声だけで映像は出ない。そのために、親密で閉ざされた雰囲気が強調される。

 エロティックと言えるほどの美しいチャイナドレス、赤い色調の部屋、官能的な音楽。セリフは少なく、絵画のように美的で蠱惑的な映像が二人の世界を作り出す。トニー・レオンとマギー・チャンは、私のようなオールド・ファンには佐田啓二と山本富士子に見えてしまう。なんだか往年の日本映画のスターたちに雰囲気がよく似ている。

 ただ、いったい、このアパートはどんなシステムになっているのだろう? バルザックの小説や往年のフランス映画(「ミモザ館」など)に出てくるようなパンションのようなものなのだろうか。このようなシステムは今もあるのだろうか。そのあたりはよくわからなかった。

 とてもいい映画だと思う。ストーリー的に大きな展開があるわけではないが、この官能的で親密な雰囲気はとても魅力的だ。

 

「2046」  2004年 ウォン・カーウェイ監督

「欲望の翼」「花様年華」とともに三部作をなすとみなされる作品。とても良い雰囲気で、つい引き込まれるが、なんだか話はよくわからない。

 チャウ(トニー・レオン)は官能小説家となって退嬰的な生活をしている。かつて、ホテルの2046号室で女性と愛を交わしたことが忘れられずにいる。過去にこだわり、そこから抜け出して、新たな2046を求めて女性遍歴を重ねているが、SF小説「2046」を書き始める。2046に向かって進む列車にはアンドロイドの女性たちが客室乗務員として勤務しており、その女性たちの自分の遍歴してきた女性たちを投影させる。ざっとまあこんなふうにストーリーはまとめられるだろう。

 失われた愛を求めての渇望の物語といえるだろう。ミケランジェロ・アントニオーニの映画を思わせる。愛し合うことが不可能なので、不毛なセックスを求める。しかし、それでも満たされず、過去から抜け出せない。ベッリーニのオペラ「ノルマ」の有名なアリアが何度か流される(ゲオルギューが歌っているようだ)。一途に恋に生きるノルマの生きざまが浮かび上がってくる。

 チャウを愛し、チャウと同じように素直に愛を交わせない娼婦役のチャン・ツィイーが本当に魅力的。そのほか、フェイ・ウォン、コン・リー、カリーナ・ラウ、マギー・チャンらの中国人の女優たちが存在感にあふれていて、素晴らしい。日本人タクの役に木村拓哉が出演している。トニー・レオンらの中国人俳優たちの圧倒的な存在感に比べて、いかにも頼りなげだが、きっとこれが監督の意図なのだろう。一人異世界に紛れ込んだ感じが、それはそれでおもしろい。

 

「恋する惑星」 1994

 香港ヌーヴェル・ヴァーグというべき作品だと思う。失業した刑事(金城武)と勤務中の警官(トニー・レオン)の二人を基軸に、その恋の相手(ブリジット・リンやフェイ・ウォン)との突拍子もない行動を独特の映像で追いかける。説明が少なく、主人公や女性たちの行動の意味がよくわからない。だが、ポップな音楽、流れる映像が実に心地よい。そうした中、秩序からはみ出して生きるしかない若者の生の衝動が伝わってくる。金城武やトニー・レオンがとても魅力的に描かれている。

 

「天使の涙」 1995

「恋する惑星」と同じような雰囲気の作品だ。殺し屋(レオン・ライ)とそのエージェント(ミシェル・リー)、殺し屋がたまたま出会う金髪娘(カレン・モク)、口のきけない青年(金城武)などがそれぞれの行動をモノローグの形で語り、これらの人物が交錯していく。ゴダールらのヌーヴェル・ヴァーグ作品をもっと先鋭化させた感じ。それぞれの人物がマンガ的に行動し、詩的だが、意味を確定しがたいセリフが続く。ただ、映像が美しく、映像の動きも見事なので、まったく退屈することはない。とても良い映画だと思う。

 

「愛の神、エロス」 2004年 オムニバス映画

 ウォン・カーウァイ「若き仕立屋の恋(The Hand)」、スティーブン・ソダーバーグの「ペンローズの悩み」、ミケランジェロ・アントニオーニの「危険な道筋」の3編からなる。

 カーウェイの作品が最もおもしろかった。仕立て屋(チャン・チェン)は囲われ者の女性(コン・リー)の身体を手で探って寸法を取り、その虜になる。女性は仕立て屋をいたぶるばかりだったが、最後には零落し、娼婦に成り下がって難病にかかる。女性も仕立て屋を憎からず思っているが、すでにセックスはできず、手を使って満足させようとする。手を使っての性的関係であるだけに、一層フェティシズムを掻き立てる。映像も実に淫靡。

 ソダーバーグの作品は精神分析医(アラン・アーキン)と患者(ロバート・ダウニーjr)のやり取り。夢と精神科医とのやり取りと現実の交錯がおもしろいといえばおもしろいが、どこがエロスなのかよくわからなかった。アントニオーニの作品は、愛し合おうとしながら愛し合えずにいる夫婦の物語。海辺の映像と二人の女性の全裸は目を見張るほど美しいが、アントニオーニの映画としては物足りない。

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日本を代表する演奏家たちのモーツァルト、フルート四重奏曲に感嘆

 2022926日、東京文化会館小ホールで日本モーツァルト協会例会、フルート四重奏曲全曲を聴いた。演奏は上野星矢(フルート)、郷古廉(ヴァイオリン)、安達真理(ヴィオラ)、横坂源(チェロ)。素晴らしかった。

 先日、若いメンバーによる同じ曲を聴いたばかりだったが、やはり今回は一味違う。すべての音が完璧にコントロールされ、しなやかで、まさに典雅な演奏。音楽が自然に流れ、しかも初々しく美しい。しかも、変奏形式の部分のそれぞれの変奏の表現の変化が息をのむほどに鮮やか。

 まず、上野のフルートの音があまりに美しい。突き抜けた典雅さとでもいうか。心が洗われる気持ちになる。そして、肌触りを感じるかのような弦の音のしなやかさ。この三人のメンバーはしばしば共演しているのだろうか。まるで常設の団体のようなまとまりの良さ。

 やはり第1番と呼ばれているK298のニ長調の曲が素晴らしい。音楽そのものの美しさを感じる。晩年の人生の深みを感じさせる曲ももちろん素晴らしいが、若いころのモーツァルトの自然な音楽もまた素晴らしい。

 前半にオーボエ四重奏曲のフルート・ヴァージョンも演奏された。これもまさに名曲。

 このような音楽を聴いていると、だんだんと生きる気力がわいてくる。

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ヴァイグレ&読響の「ドイツ・レクイエム」 「人はみな草のようで」に涙した

 2022年9月20日、サントリーホールで読売日本交響楽団定期演奏会を聴いた。指揮はセバスティアン・ヴァイグレ。曲目は、前半にダニエル・シュニーダー作曲の「聖ヨハネの黙示録」(日本初演)。後半にブラームスの「ドイツ・レクイエム」。

「聖ヨハネの黙示録」は2000年に作曲された曲だという。黙示録の言葉を歌詞にしているようだ。「ドイツ・レクイエム」と同じようにソプラノとバリトンの独唱と合唱による30分ほどの曲。調性のある音楽だが、きわめて劇的で神秘的で音が渦巻いている。ヴェルディの「レクイエム」の「怒りの日」のような雰囲気で音楽が展開していく。とても面白く聴くことができた。バリトンの大西宇宙もいいが、ソプラノのファン・スミがことのほか素晴らしい。ヴィブラートの少ない澄んだ声だが、きれいに伸びて、声量も豊か。宗教音楽にはこれ以上の声は考えられないほど。

「ドイツ・レクイエム」は素晴らしかった。ヴァイグレらしいしなやかな音。読響もヴァイグレの要求をしっかりと満たして、深い響きを出している。冒頭のヴィオラの音が全体の音楽を決定づけているように思えた。深く沈潜し、心の奥深くにしみこんでくる。いたずらにドラマティックにするのではなく、じわじわと盛り上げる。

 私は第2曲「人はみな草のようで」が大好きなのだが、このじっくりとした盛り上がりはすさまじかった。合唱(冨平恭平合唱指揮・新国立劇場合唱団)もしっかりと声が出て、音程も安定している。人はみな草のようにすぐにしぼむ。人間のはかなさを思い知らせ、それを救う創造主をたたえる。歌詞を納得させる音楽だとつくづく思った。私は涙を流して聴いた。

 全7曲が有機的につながっていることも納得できるような演奏だった。大きく盛り上がって、死を前にした人間の悲しみを歌い。永遠の生を与える神をたたえる。そして、静かに終息していく。この「ドイツ・レクイエム」においても、ファン・スミのソプラノがあまりに素晴らしい。本当に美しい声。

 妻を亡くして一月ほど。レクイエムを聴くとやはりどうしても自分の状況と重ね合わせてしまう。他人事としてこの音楽を聴くことができない。私はキリスト教徒ではないので、永遠の神は信じない。だが、個々の人間の苦悩や悲しみの果てに、もっと普遍的な救いのようなものがあるのを信じたくなった。

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ルイージ&N響のシュトラウス 音響にやや不満

 2022916日、NHKホールでNHK交響楽団の定期演奏会を聴いた。指揮はファビオ・ルイージ。曲目は、すべてリヒャルト・シュトラウス。前半に交響詩「ドン・ファン」と、エヴァ・スタイナーが加わってのオーボエ協奏曲、後半に「ばらの騎士」組曲。

 改修工事が終わって、久しぶりのNHKホール。外観が変わっているのかと思っていたが、私の気づく限りまったく違いがない。ステージも座席も天井も壁も床も以前のままだと思う。もしかしたらトイレは違っていたかもしれないが、定かではない。音響もまったく変化を感じない。改善されていないようだ。私は2階中央部分で聴いたが、やはり音が届かない、鮮明ではないといったストレスを感じる。

 ルイージは相変わらずのきびきびとして繊細な指揮ぶり。豊饒な音楽ではなく、むしろ細身の、機敏な音楽と言っていいだろう。音楽全体をきっちりと把握して、ニュアンスをつけながら音楽を推進していく。「ドン・ファン」の指揮ぶりは素晴らしいと思った。理詰めに展開されるが、勢いがあり、ニュアンス豊かなので、堅苦しくなく、わくわく感がある。ただホールのせいなのか、もう少し抜けるような響きがほしいと思うのだが、ちょっとよどんだ雰囲気がある。それが少し残念。とはいえ、私は大いに感動した。シュトラウスの音響世界に酔った。

 オーボエ協奏曲については、私自身あまりなじんだ曲ではないせいか、うまく整理して聴くことができなかった。冗漫でとりとめがないと感じた。スタイナーのオーボエは音がしっかりして、一つ一つの音がきれいだったが、残念ながら、それ以上には感銘を受けなかった。

「ばらの騎士」組曲の冒頭、私は少し違和感を覚えた。グシャッとした感じに聞こえたのだが、気のせいだったのだろうか。私の席からはよくわからなかったが、楽器の一つが音を外したか何かのことが起こったのではないかと思った。ただ、その後は取り戻し、ところどころ、とても繊細で甘美な音楽になった。ルイージの音楽の作りについては、私は完全に納得する。曲想の変化も素晴らしい。オペラの場面が目に浮かぶような音楽。

 ただ、これもホールのせい、あるいは席のせいかもしれないが、おそらくはルイージが求めていると思われるような音が、私の耳には届いてこない。生硬さを感じる。全楽器のうねりに濁りを感じる。もちろん、悪くはない。しばしば感動を覚えた。だが、もっともっと官能的でしなやかで輝かしい音が聞こえるはずなのに、そうではないと感じたのだった。

 全体的に、とてもいい演奏だった。ただ、最高に素晴らしい演奏ではなかった。

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野田一夫先生、ラルス・フォークト、ジャン・リュック・ゴダール 合掌

 9月3日に野田一夫先生が95歳、5日にラルス・フォークトが51歳、13日にジャン・リュック・ゴダールが91歳で亡くなった。私の妻が先月19日に61歳で他界して以来、お世話になった方、影響を受けた芸術家の訃報が続く。

 野田先生は多摩大学の初代学長であって、私が多摩大学で仕事をするようになってからお話を伺う機会が多かった。かなり前のことだが、雑誌「いきいき」で連載をしていた関係で、野田先生をお招きして「対談」をしたことがある。だが、「対談」というのは看板だけで、編集者が気を遣ってくれて、編集の段階で私の話した部分をたくさん残してくれたのであまり目立たなくなったものの、私はもっぱら聞き手。98パーセントくらい野田先生がお話になった。私が口をはさむ必要のない、野田先生がご自分の人生、人生観、その魅力を語る最高におもしろい「独演」だった。90歳を超えてからも矍鑠として、お会いするごとに面白い話を大声でなさってくれた。野田先生の理念は多摩大学に受け継がれている。私の中にも、少しだけかもしれないが、受け継がれている。偉大な教育者であり、偉大な経済理論先駆者だった。合掌。

 ラルス・フォークトの凄さを初めて知ったのは、2018年、日本のラ・フォル・ジュルネにおいてだ。ピアノの独奏曲をあまり聴かない私は、それまであまりこのピアニストには注目していなかった。日本でベートーヴェンの協奏曲を「弾き振り」した演奏を聴いて仰天。その後、注目していくつかのCDを聴いて、ますます好きになった。音楽に表情を付け、細かいニュアンスを強調するが、バランスが取れており、音楽に勢いがあるので、それがまったく不自然ではない。繊細にしてバランスがとれており、音楽が生きている。まさに魔法の音楽だと思った。近日中に来日が予定されているということで、楽しみにしていた。51歳、ガンでの病死だという。私の妻もガンだった。今でも、まだガンは見くびることができない恐ろしい病気だ。合掌。

 ゴダールは、言わずと知れたフランスの映画監督だ。私は高校生まで大分市で過ごしたので、ゴダールの名前を知り、批評を読んで憧れるばかりで、ゴダールの映画を見たことがなかった。1970年に東京に出て立て続けに「勝手にしやがれ」「気狂いピエロ」などの映画をみた。当時の映画青年としてはやはり衝撃だった。私はゴダール派ではなく、「パゾリーニ派」に属す人間だったが、ゴダールの映画は必ずみて、仲間たちと語り合った。ゴダールが映画の文法を変えたのは間違いない。いや、当時の若者の生き方を変えたのも間違いない。九州の田舎の権威主義に反発しながらも権威主義の中に生きていた私にもっとしなやかで自由な精神を教えてくれたのはゴダールだったといえるかもしれない。合掌。

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カサロヴァの歌曲の夕べ 重々しい歌い方にちょっと退屈した

 2022914日、紀尾井ホールでヴェッセリーナ・カサロヴァの「名作歌曲の夕べ」を聴いた。久しぶりのカサロヴァ。2009年の新国立の「チェネレントラ」以来だ。ピアノ伴奏はチャールズ・スペンサー。

 最初のベルリオーズの「夏の夜」が始まったときは、ちょっと音程が不安定だと思った。声を十分にコントロールできていないようだ。だが、まるで男性のような凄みのある低音を響かせて、深く重々しく歌う。それはそれでものすごい迫力。しかも、まるでオペラのような振り付けをして、ゆっくりとドラマティックに歌う。ちょっと衰えは感じるものの、素晴らしいと思った。

 だが、聴き進むうちに、私は退屈してきた。「夏の夜」の6つの歌をすべて同じように歌う。それだけでなく、後半のシューベルト(「漁師の歌」「水の上で歌う」)もブラームス(「わが恋は緑」「ひばりの歌」「永遠の愛について」)もブルガリア民謡も同じように超スローペースで重々しく歌う。これでは一本調子になってしまう。そして、それよりなにより、男のような低音で深く重くゆっくり歌うと、音楽が流れなくなってしまう。切れ切れに深く、重く歌うので、まるでブルースのような重い音楽になってしまい、チャーミングさがなくなり、どの曲も同じように聞こえる。

 もちろん、これは意図的にしていることだろう。だが、きっとこれは、高音をコントロールできなくなって、やむなく選択したことではないのか。直球で勝負できなくなったピッチャーが変化球で勝負するように、声のコントロールができなくなって、重々しく低音を響かせてゆっくり歌う方法を選んでいるように思えた。それなりに見つけ出した表現の方法だとは思うが、やはりこれでは、ベルリオーズの「夏の夜」の、チャーミングで、しかも深みがあり、おどろおどろしさがあるという魅力が伝わってこない。そもそも、この曲も美しい旋律が流れてこない。シューベルトもブラームスも一様に重々しくなる。

 アンコールは「カルメン」の「ハバネラ」。これまた男のような声を出して、重く歌う。それはそれで、もちろん迫力ある見事な歌で、今日のリサイタルでは最も洗練されていたが、私としてはこの重々しい表現に対して、「もうあきたよ」と言いたくなってしまった。

 そんなわけで、期待して出かけたカサロヴァのリサイタルだったが、ちょっとがっかりして帰ったのだった。

 重々しい曲もあっていい。だが、軽快でチャーミングな歌もあってほしい。ベルリオーズもシューベルトもブラームスも、そのように歌うべき曲があったはずだ。私はそのような歌を聴きたかった。

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モーツァルトのフルート四重奏曲全曲を楽しんだ

 2022913日、ルーテル市ヶ谷ホールで、モーツァルトのフルート四重奏曲全曲演奏会を聴いた。

 モーツァルトはフルートをあまり好まなかったといわれるが、私は2つの協奏曲も4つの四重奏曲も大好きだ。ケッフェル200番代の、言ってみれば、あまり深みのない音楽ではあるが、音楽そのものの美しさにあふれている。若い人が4つの四重奏をすべて演奏するというので、ぜひ聴きたいと思った。

 フルートは森岡有裕子、そのほかはエウレカ・カルテット(森岡聡、廣瀬心香、石田紗樹、鈴木皓矢)の演奏。

 良くも悪くも若々しい演奏だと思う。最初に演奏された第3番の第1楽章は素晴らしかった。明るくて初々しくて溌剌。この曲にふさわしい。私はフルートの音はもっと突き抜けている方が好みだが、森岡のフルートはテクニックも十分、音楽の楽しさを味わわせてくれた。ただ、第2楽章になると、ちょっと音楽に迷いがあるように感じた。そして、それは2曲目の第2番になると、一層強まっているように感じた。フルートとほかの人の間で十分に音楽を詰めていない気がした。どんな音楽を作りたいのか、はっきりしない。弦楽器が、ただ合わせているだけになっている。特に変奏形式の部分で、それぞれの変奏をどのように演奏するか定まっていないのを感じた。この演奏を聴きながら、この団体は、このようなちょっと大雑把な演奏で良しとしているのか、それとも、リハーサル不足でこうなってしまったのか、どちらなのだろうと考えていた。

 前半の最後の、弦楽四重奏によるアダージョとフーガハ短調K.546は、それまでと違って、演奏意図がはっきりわかる見事な演奏だった。きっとこの団体は、フルート四重奏曲についても、このように練り上げた表現にしたかったのだと思う。ただ、きっとリハーサルの時間が十分に取れずに、練り上げられなかったのだと思った。

 後半の第4番は前半の第2番よりはずっと良かった。そして、最後に演奏された、最も有名な第1番については、素晴らしい演奏だった。この曲はこの団体にとって取り組みやすかったのか、それとも練り上げる時間が十分に持てたのか。

 まとめて言うと、第3番の第1楽章とアダージョとフーガと第1番が素晴らしかった。それだけでも私は満足だった。もちろん、アダージョとフーガの時代のモーツァルトは別格。だが、フルート曲を作曲していた時代のモーツァルトもやはり魅力的だ。

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メンデルスゾーンのピアノ三重奏曲に感動

 2022年9月10日、サントリーホール ブルーローズで「~ベルリン便り~メンデルスゾーンが聴きたい」と題されたコンサートを聴いた。妻の葬儀の後、二度目のコンサートだ。もちろん、チケットを購入したとき、妻の病の重さはわかっていたが、まさかこのコンサートが開催されるときにすでにこの世にいないなどとは思っていなかった。これから、私が出かけるコンサートのいくつかは、そのような思いを抱きながら聴くことになる。そのようにして音楽を聴きながら、私は少しずつ社会復帰を進めることになる。

 演奏は、ベルリン芸術大学で学んだ(学んでいる)石原悠企(ヴァイオリン)、野上真梨子(ピアノ)、藤原秀章(チェロ)。曲目は、前半にヴァイオリン・ソナタ へ長調 とチェロ・ソナタ 第2番、後半に、無言歌集から3曲とピアノ三重奏曲 第1番。

 私の席(最前列のピアノの前!)のせいかもしれないが、ピアノの音が強くて、楽器のバランスが悪く、初めのうち戸惑った。しかも、ピアノが若々しくがんがんと攻めるので、私としては少しつらかった。若々しい躍動を重視しているのかもしれないが、このようにピアノを鳴らすとどうしても一本調子になってしまう。とはいえ、石原悠企のヴァイオリンからは躍動感とともに、メンデルスゾーンらしい初々しい感性、かすかな憂いが聞こえてきて、とても魅力的だった。チェロ・ソナタの方も、ピアノにはもう少しニュアンスがほしいと思ったが、チェロはとてもニュアンス豊かで、しかも響きがよく、大きな包容力があって見事だと思った。

 後半のピアノ独奏による無言歌集は、もう少しピアノの旋律に「歌」がほしいと思った。「無言歌」と題されている割には、せっかくのメンデルスゾーンの初々しくほとばしり出るメロディが浮かび上がってこなかった。

 ピアノ三重奏曲第1番は素晴らしかった。まず、曲そのものが素晴らしい。メンデルスゾーンの傑作の一つだと思う。屈折のない、まっすぐな精神を感じる。真摯に物事にぶつかっていく律義さが全体を覆っている。屈折がない分、ちょっと単調ではあるが、メロディが美しく、構成がしっかりしているので、ぐいぐいと心に入り込んでくる。とりわけ第1楽章は悲劇的な気持ちを美しいメロディに託して歌い上げる。まさに感動的。第4楽章は、同じような音型が執拗に繰り返されるが、沈鬱だった気分が徐々に開放的になっていく。ベートーヴェンのいくつかの曲と同じようなに、沈鬱な表情が徐々に明るくなって、開放的になって音楽が終わる。

 ピアノの音も、この曲では私は気にならなかった。三つの楽器がしっかりと絡み合って、緻密な世界を作り上げていく。ピアノの音に歌心が足りないとは思うが、ヴァイオリンとチェロが補って強い思いが迫ってくる。終楽章には興奮した。

 アンコールはメンデルスゾーンのピアノ三重奏曲第2番の第2楽章。しっとりしたよい演奏だった。

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拙著『「確かに、しかし」で生き方上手』(さくら舎)発売

 さくら舎より、拙著『「確かに、しかし」で生き方上手』が発売になった。

 私は30年以上前から大学入試の小論文指導を行ってきた。その中で、「確かに、しかし」という表現を第二段落に用いると、反対意見を取り込みながら自説を語ることができて、説得力が増すと指導してきた。これは、「小論文はイエスかノーかを答えるものだ」「小論文には型がある」とともに、「樋口式小論文」の基本をなしている。

 私自身も「確かに、しかし」を用いてあれこれの文章を書くうち、この表現は驚くほど多様な効果があり、様々な威力を発揮することに気づいた。単に反対意見を取り込むだけではない。ほかにも様々な用法がある。しかも、それは文章を書く時だけに限らない。読むときも、話をするときも、批評をするときも絶大な力を持つ。言ってみれば、「確かに、しかし」は魔法の表現ともいえるものなのだ。

「確かに、しかし」がいかに威力を発揮するか、この表現をどのように使えばうまくいくのかをまとめたのが、本書だ。この本はまるまるすべて「確かに、しかし」の用法について説明している。それほど、この表現には多様な威力がある。きっとこの本を読めば、この表現のあまりの威力に驚かれるだろう。

 私自身、「確かに、しかし」の表現を多用するようになる前、「しかし」だけを多用する人間だった。「感じが悪い」「傲慢」「独りよがり」とよく言われていた。人間関係を築くのも苦手だった。ところが、この表現を多用するようになったとたん、複眼的にものを考えることができるようになった。その結果、「人の話をよく聞く」「バランスが取れている」と評価されるようになった。人間関係もうまくゆくようになった。この表現を多用して文章を書くと、次々と本が売れ始めた。250万部のベストセラーになった「頭がいい人、悪い人の話し方」(PHP新書)を注意深く読んでくだされば、すぐに気づかれるだろう。まさに、「確かに、しかし」のオンパレード!

「確かに、しかし」は、文章作成のテクニックであるだけではない。実は生き方のテクニックでもある。この表現を用いれば、たちまち生き方上手になる。

 この本を多くの人の読んでいただき、「確かに、しかし」の用法をマスターして、文章を書くとき、読むとき、話をするとき、生き方に迷ったときに役立てていただけると嬉しい。

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イタリア映画「田舎女」「修道院のガリバルディ部隊兵」「十字架の男」など

 かなり前に10枚組DVD1980円のイタリア映画コレクションを購入。1本目からみていったが、1本目をみたころ、妻はまだ家にいた。妻の入院中、そして、葬儀の後も、家にいる時には、音楽を聴いたり、このDVDをみたりしていた。10枚みおわったので、簡単な感想を記す。

 

「外套」アルベルト・ラトゥアーダ監督 1952

 ゴーゴリの「外套」に基づいているが、ゴーゴリ特有のロシア的な得体のしれない不気味なユーモアではなく、イタリア的なユーモアになっている。ゴーゴリの場合、マスとしての貧しい人々はあまり強く描かれないが、この映画ではいかにもイタリア的なエネルギッシュで騒がしくて集団的な庶民が描かれる。まあそれなりにはおもしろいが、とてもおもしろいわけではなかった。

 

「ローマの太陽の下で」 レナート・カステラーニ監督 1948

 戦後すぐのネオレアリズモ映画。ローマの育ちのよくない若者たちの戦中戦後の無軌道な行動を描く。自分のしでかしたことが原因で母と父を失ってしまい、やっと自分の行動の愚かさに気づく。ただ私としては、ロッセリーニやデ・シーカのような貧しい子どもたちのやむにやまれぬ行動ではなく、パゾリーニの初期の小説や映画のような不良たちのむき出しの激しい生でもなく、中途半端な不良たちの軽率な行動なので、あまり共感できずあまりおもしろいとも思わない。つまらないことを騒がしくしているだけに思えた。

 

「百万あげよう」マリオ・カメリーニ監督 1935

 大富豪の青年(ヴィットリオ・デ・シーカ)が、周囲の人々が本心で接してくれないのを苦にした青年が貧しい浮浪者になりすましてサーカス団に紛れ込み、心から心配してくれる女性(アッシア・ノリス)と恋に陥る。他愛のない話をコメディタッチで描いている。

 デ・シーカの軽妙な演技はとても魅力的だが、あまりに都合よく話が進むので、現代人としてはリアリティを感じられない。

 

「永遠のガビー」 1934年 マックス・オフュルス監督

「みんなの恋人」として人気絶頂の女優ガビー(イザ・ミランダ)が自殺を図った。手術台でのガビーの回想で映画が始まる。ガビーは女学校で教師に一方的に愛されたために退学になり、親の厳しい管理下に置かれる。そんなとき、近所の大富豪の息子ロベルトに憧れるが、ついに愛し合うようになる。ロベルトの母親にも信頼されるが、大富豪の父親にも愛されるようになり、それが発覚。母親を自殺に追い込んでしまう。ロベルトの父親と結婚するが、良心の呵責から、ともに暮らすことに耐えられずに別れ、女優になって成功。その後、ロベルトと再会するが、ロベルトはガビーの妹と結婚していた。

 男に愛され、そのために不幸になって、いつまでも精神的に満たされないガビー。見ていて辛いが、名誉と富を得ても愛の渇望に苦しむ様子がリアルに描かれており、よくできた映画だといえるだろう。ただ、今となってはありふれていると感じてしまう。

 

「スペイン広場の娘たち」 1952年 ルチアーノ・エンメル監督

 昼になるとローマのスペイン広場に集まる仲良しの美しい三人娘(ルチア・ボゼー、コゼッタ・グレコ、リリアナ・ボンファッティ)の恋模様をコメディタッチで描いている。ローマの庶民の生活の状況を含めてとても興味深く見ることができる。近所の人たちとわいわいがやがやと騒ぎ、自分の感情を表に出しながらも他人を思って生きているローマっ子たち。三人はそれぞれに恋をし、失恋したり、修復したり。リアリティがあり、共感してみることができる。

 最後の方に気のいいタクシー運転手の役で若きマルチェッロ・マストロヤンニが登場。三人の一人と恋に陥る。いやあ、このころからマストロヤンニにはオーラがある!

 それにしても三人ともとても美しい! ボゼーはとびっきり魅力的。いや、それだけでなく、その恋敵役をする女性もものすごい美人だと思う。今の私から見ると、その母親の世代の人たちも美しい。

 ただ、スペイン広場で見かけて三人と親しくしている大学教授の語りで物語が展開するが、この人が知るはずもない内容なので、その点、現代のナレーションの常識からすると、少し違和感を覚える。

 

「田舎女」 1953年 マリオ・ソルダーティ監督

 モラヴィア原作。大学教授夫人ジェンマ(ジーナ・ロロブリジーダ)が自宅で食事中、客の女性をナイフで刺そうとして錯乱するところから映画が始まる。呼ばれた医師パオロ、母親、夫の大学教授、ジェンマ本人の回想によって映画が進んでいく。最初に恋したパオロは実は腹違いの兄だった。自暴自棄になって教授と結婚するが、田舎暮らしに退屈し、ある女性人と知り合いになって、うまく丸め込まれて売春まがいのことをさせられそうになる。そこでその女性を刺したのだった。ジェンマは夫にそのことを告白し、許しを得る。

 ちょっとできすぎの感がある(モラヴィアの小説の多くにそのような傾向があると思う)が、リアルな映像、俳優たちの見事な演技によって、とても良い映画になっている。

 私は映画を見始めたころからジーナ・ロロブリジーダのファン(知ったときには、すでにかなりの年齢だったが!)。本当に魅力的だと思う。

 

「タッカ・デル・ルーポの山賊」 1952年 ピエトロ・ジェルミ監督

 19世紀後半、ガリバルディによるイタリア統一後、国民の生活は必ずしも好転したわけではなかった。南イタリアの貧しい人たちの一部は山賊となってブルボン朝の残党と結びついて新政府を攻撃していた。そのような時代に、新政府の兵士たちが国民の無理解に直面しながら山賊を鎮圧する姿を描いている。社会矛盾を諸見の側から描く映画の多いジェルミ監督としては珍しいのではないかと思うが、兵を率いる厳しい大尉(アメデオ・ナザーリ)が主人公として描かれる。

 イタリア史に関心を持っている人には面白いかもしれないが、そうでない現代の日本人にはあまり面白さがわからない作品だといって間違いなさそうだ。

 

「道化師の晩餐」 1942年 アレッサンドロ・ブラゼッティ監督

 15世紀のフィレンツェ。義理の兄たちにいじめられ、恋人を奪われ、辱めを受けた男が復讐をして、兄たちを滅ぼす物語。1942年には目新しかったのかもしれないが、今から見ると、どうということのない物語。復讐の方法も現在から考えるとリアリティを感じない。まったく感銘を受けなかった。

 

「修道院のガリバルディ部隊兵」 1942年 ヴィットリオ・デ・シーカ

 さすが、デ・シーカの映画というべきか、これはおもしろい! 娯楽作品としての常套手段をうまく取り入れ、センス良く話を進める。ユーモアあり、ほろりとさせるところあり、サスペンスありで飽きさせない。

 二人の孫を連れて、老婦人カテリネッタが侯爵夫人マリエッラの館を訪れ、昔話を始める。若かったころ、台頭するブルジョワ家庭に生まれたカテリネッタと没落貴族の家に生まれたマリエッラは、隣同士でありながらも家庭が敵対していたので、初めはぎくしゃくするが、同じ女子修道院の寄宿舎に入り、仲良くなる。そこにガリバルディ部隊の将校が負傷して修道院に逃げ込み、二人で助けようとする。ところが、実は、その将校はマリエッラの恋人だった。

 ガリバルディの独立戦争の時代背景に女性二人の友情をうまく描いている。ブルボン側からガリバルディ側に移ろうとする市民の状況もよくわかる。高貴なマリエッラと、活発で自然児のカテリネッタの対比もとてもおもしろい。ガリバルディ軍の隊長役にデ・シーカ本人が登場。それだけで画面がしまる。

 

「十字架の男」 1943年 ロベルト・ロッセリーニ監督

 ロッセリーニの戦争三部作の一つ。イタリア軍のソ連戦線。ウクライナが舞台だろう。イタリア軍に加わる従軍司祭の活動を描く。負傷した兵士とともに戦場になる村に残り、砲撃を受けながら現地の農民と合流し、ソ連軍の兵士に対しても分け隔てなく接する。そして、最後、個人的感情から仲間を撃ったソ連兵を助けようとして自分の命もなくす。

 1943年というから、まだ戦争中。しかも、イタリア軍はファシスト政権下にある。そのさなかにこれほど迫真力のある戦争場面を作り上げたこと自体に驚く。しかも、そこで人道主義を訴える。さすがロッセリーニ!

 恋人を殺されたソ連軍の女性兵士が自分の過去を話して従軍司祭がそれを慰める場面。ソ連兵がイタリア語で話をしていることに違和感を覚えるし、突然、改心したように共産党を批判的な立場から自分の人生を語り始める女性の態度も説得力不足だが、そこで語られる司祭の「神は見捨てない。イエスはすべての死者が生きるために死んだ」という慰めの言葉はなかなかに説得力がある。これが当時のカトリックの従軍司祭の理念だったのだろう。

 

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大野&イブラギモヴァ&都響のブラームス 感動に震えた

 202293日、東京芸術劇場コンサートホールで東京都交響楽団定期演奏会を聴いた。妻の病状急変の少し前に聴いたコンサート以来、ほとんど一月ぶり。

 考えてみると、昨年、妻の病気が発見されて以降、かなりの数のコンサート・チケットを無駄にした。チケットの購入も、行けなくなる場合を考えてふだんの半分以下に減らしていた。妻の体調の良いとき、誰かほかの家族が妻のそばにいられるときに限ってコンサートに出かけていた。今回のチケットも妻の病状によっては行けなくなるかもしれないと思って恐る恐る買ったのだったが、妻が亡くなってしまったので、結局聴けることになった。複雑な思いで会場に向かった。

 指揮は大野和士。曲目は前半に、ヴァイオリンのアリーナ・イブラギモヴァが加わってブラームスのヴァイオリン協奏曲、後半にブラームスの交響曲第2番。

 イブラギモヴァのヴァイオリンは何度か聴いているが、期待していた通りに素晴らしかった。出だしはドラマティックに激しい音楽だった。だが、力任せに音楽を高めるのではなく、繊細に美しく展開する。弱音がとりわけ美しい。女性的な演奏といってよいだろう。第二楽章では、特にその印象が強い。その意味で、あまりブラームスらしくないといえるかもしれない。写真で残されているような、髭もじゃで骨太の男性の音楽という感じがしない。もっと現代的で知的で繊細。しかし、生き生きとしており、力感にあふれている。終楽章には知的な音が力感にあふれて激しく盛り上がっていく。大野もそれをしっかりと支えている。これがイブラギモヴァの音楽なのだろう。興奮した。

 後半の交響曲もよかった。ただ、第二楽章は少し停滞しているように感じたが、気のせいだったか。終楽章はとりわけ素晴らしかった。協奏曲と同じように、論理的な構成感がズバリと決まり、音楽を高めていく。最後の二分間ほど、私は感動に震えていた。

 やはり音楽は素晴らしい。音楽を聴くと、本来の自分に戻れる気がする。

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