« 樫本&シュテッケル&藤田のメンデルスゾーンに圧倒された | トップページ | ムローヴァ&ネトピル&読響 ムローヴァはやはりとてもよかった »

映画「象は静かに座っている」「ラヴソング」「八月のクリスマス」「セントラル・ステーション」

 一昨日(2022年11月28日)、5回目のコロナウイルスのワクチンを接種した。これまで毎回、それなりの副反応に襲われた(38度前後の熱だった)が、今回は、ほとんど異状なくすみそう。どれくらい効果があるのかわからないが、ともあれ少し安心。

 ちょこちょこと自宅テレビで映画をみている。数本見たので、簡単な感想を記す。

 

「象は静かに座っている」  2018年 フー・ボー監督

 ベルリン国際映画賞などの数々の賞を獲得した中国映画。監督のフー・ボーは処女作であるこの映画を完成させた後、29歳で自ら命を絶ったという。

 まさに鮮烈な映画だと思う。どこを切ってもそこから血が噴き出すような鮮烈さ。かつて見たパゾリーニの映画を思い出す。作風はと言えば、よく言われているようだが、タル・ベーラに似ている。

 舞台になっているのは石家荘市の郊外のようだ。友をかばっているうちに級友を階段から突き落として死なせてしまう少年ブー、親友の妻と浮気しているところを見つかって、目の前でその親友に身投げ自殺されたやくざ者の青年チェン(彼は、階段から落ちて死んだ少年の兄でもある)、家庭の都合で老人ホームに入れられるのに抵抗している老人ジン、だらしのない母との生活に嫌気がさして学校の副主任を相手に性的な関係をもって、それがネットでさらされてしまう少女リン。

 それぞれに居場所を失った四人。投げやりになりながら、必死にあがくがどうにもならない。その四人が交錯しあい、影響を与え合う。チェンは撃たれ、ブーとリンとジンは、満州里にいるといわれている座ったままの象を見に行こうと旅に出る。

 象のいる遠い都市・満州里というのは、「ここではないどこか」「居場所のある地域」なのだろう。モンゴル自治区の都市なので、中国の人にとっては国内にある異郷と思えるのかもしれない。そこに行っても結局はどこも同じだと思い知らされるだけだと思いつつ、そこに行こうとする。そうするしかない。そのような絶望と閉塞とかすかな希望を描いているといえるだろう。

 だが、それよりなにより、登場人物の上半身を中心に手持ちカメラで撮ったような映像が鮮烈だ。上半身以外は映し出されていないことが多い。そうすると、登場人物が何をしているのかよくわからない。横に誰がいるのかもはっきりしない。登場人物が携帯電話で動画を見る場面があるが、ふつうの映画なら、動画の内容が映し出されるところ、この映画ではそのような説明的な場面はほとんどない。登場人物以外の遠景は焦点がずれて常にぼやけている。観客は画面の外に何があるか、遠くのぼやけている光景は何なのかを推測し、読み取りながら映画をみなければならない。そして、観客にも何が起こっていたのかを発見していくように映画は作られている。

 メネシュ・ラースロ監督のハンガリー映画「サウルの息子」でも同じような手法が用いられていた。ラースロはタル・ベーラの弟子筋の人なので、きっとフー・ボー監督はその影響を受けているのだろう。視野の広くない画面なので、登場人物と同じように観客も激しい閉塞感を覚える。狭苦しく、何もかも理不尽、何もかもゴミ、そんなやりきれなさが伝わる。

 234分の長い映画だが、息もつかせぬ展開なので、だれている暇はなかった。途中、食事などで休憩はいれたが、一気に見た。このような感性を持つ若者であれば、この世の中は生きにくいと思うが、そうであるだけに自死せずに鮮烈な作品を作ってほしかった。今更ながら残念。

 

「ラヴソング」 1997年 ピーター・チャン監督

 香港映画。1986年に大陸から香港に移住してきたシウクワン(レオン・ライ)は、マクドナルドで働く大陸出身の女性レイキウ(マギーチャン)と出会い、テレサ・テンの歌が好きだという共通の趣味もあって意気投合し、恋に落ちる。シウクワンには大陸に残した婚約者がいたが、レイキウとの関係を断ち切れない。婚約者を香港に呼んで結婚するが、レイキウとの関係を続けて、結婚は取りやめ、レイキウもほかの男と結婚して、二人は別れてしまう。だが、テレサ・テンの歌を好む二人は、この歌姫の死が伝えられた日、ともに思い出の場所に行って、再会する。

 それだけの話なのだが、大陸人にとっての香港、自由への憧れなどとともに男女の機微が描かれて、とても味わい深い映画になっている。天真爛漫だったシウクワンが人生を知って大人になっていく過程、レイキウがやくざ者の夫をもって二人男の間で揺れ動く様子などが淡々と、しかしリアルに描かれる。テレサ・テンの存在が大陸人にとっていかに大事であったかもよくわかる。

 とても良い映画だと思うが、残念ながら、テレサ・テンをテレビで見たことはあったものの、特に思い入れのなかった私には、この部分についてはピンとこなかった。

 

「八月のクリスマス」 1998年 ホ・ジノ監督

 別の映画を探しているうちに、間違えてつい注文してしまったDVDだったので、あまり期待してないでみたが、感動して見入った。韓国のラブストーリー。

 小さな写真館を営むジョンウォン(ハン・ソッキュ)は若い女性客キム・タリム(シム・ウナ)と懇意になって心を通わせあう。ともに恋愛感情を抱くが、不治の病に侵され死期の近いジョンウォンは何も告げず、世を去る。

 それだけの物語なのだが、ほのぼのとした日常の中の愛と死に心打たれる。監督の日常の描き方、二人の主人公や周囲の登場人物の心の描き方に感服。さりげない日常の中で人が生き、人が死んでいく。そこに愛が芽生え、それは写真のように心の中に刻印される。「重病もの」というジャンルに入るだろうが、深刻にならず、お涙頂戴でもなく、人間の愛と死をやさしく、しかも鋭く描いてまさに感動的な映画になっている。

 韓国映画にも韓国ドラマにもそれほど強くない私(ただ、「冬のソナタ」「チャングムの誓い」「トンイ」はひょいと見たらやめられなくなって、かなり夢中になった)は、この二人の有名俳優を知らなかったが、ハン・ソッキュのさりげない演技力に脱帽、そしてシム・ウナのあまりに初々しい美しさにうっとりした。うーん、今更ながらだが、韓国映画おそるべし!

 

「セントラル・ステーション」 1998年 ヴァルテル・サレス監督

 NHKBSプレミアムでみた。ブラジル映画。初老の女性ドーラ(フェルナンダ・モンテネグロ)は、リオ・デジャネイロのセントラル・ステーションで、字の書けない人のために代筆屋をしている。そこに中年女性とその息子ジョズエがやってきて、遠くに離れた父親への手紙をドーラに依頼するが、その直後、女性は交通事故死する。一人残された少年ジョズエはほかに知り合いがいないためにドーラを頼る。ドーラは厄介に思いながらも面倒を見ざるを得なくなって、ついには二人で父親を探す旅に出る。そのロード・ムービー。

 ドーラはけっして善人ではないという設定。ジョズエを厄介払いしたいとたびたび考えるし、助けてくれたトラック運転手の男性に恋をしてのぼせ上ったりもする。だが、心を通わせあってゆく。そして、最後、父親には会えないが、異母兄弟に出会うことができ、ドーラはジョズエを兄弟に託して、自分は去っていく。

 アメリカ映画でもよくあるパターンだが、登場する人々の雰囲気、途中で出会う光景がアメリカ映画ではありえない。二人が紛れ込む宗教的な村祭りも驚く。復活祭か何かなのだろうか? 二人を助けるトラック運転手は巡回牧師を兼ねているという。敬虔な、というか、ちょっと狂信的なカトリック社会の状況が描かれる。この映画はまさに群れからはぐれてしまった子羊たちの物語でもある。その意味でとても興味深かった。

|

« 樫本&シュテッケル&藤田のメンデルスゾーンに圧倒された | トップページ | ムローヴァ&ネトピル&読響 ムローヴァはやはりとてもよかった »

映画・テレビ」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 樫本&シュテッケル&藤田のメンデルスゾーンに圧倒された | トップページ | ムローヴァ&ネトピル&読響 ムローヴァはやはりとてもよかった »