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デニス・ラッセル・デイヴィス&京響の第九 スケールは小さいが素晴らしい演奏

 2022年12月27日、京都コンサートホールでデニス・ラッセル・デイヴィス指揮、京都市交響楽団の第九特別演奏会を聴いた。私は東京都に住んでいるが、評判が関東にまで伝わっている京響がデニス・ラッセル・デイヴィスの指揮で第九を演奏するとあれば、聴かずばなるまいと思って出かけた。まあ、もちろん、それ以上に、少し旅をして気晴らしをしたいという思いもあったので、これを機会に関西に出かけようと思ったのだった(久しぶりに奈良を見物した)。

 合唱団が入場。全員が口から下に布をたらしている。アラビアンナイトか何かの挿絵に出てくる踊り子のような扮装。コロナ対策だと思うが、それにしても! 全員がP席に座って、出番までじっと姿勢を正していた。あの姿勢で40分近くじっとしているのはきっとつらいだろうと同情した。先回りして言うと、ソリストたちは第3楽章の始まる前に登場。その時、拍手を防ぐためか、コンサートマスターが立ち上がって調音を始めた。

 ちょっとスケールの小ささは感じたが、素晴らしい演奏だと思った。

 何よりも丁寧な指揮ぶり。低弦が雄弁で重心が低く、音がしなやかで繊細。一つ一つの楽器の出だしを指示して、構成を明確にしながら音楽を進めていく。第1楽章は、繊細でしなやかな部分と激しく切り込んでいく部分のコントラストを明確にしようとしているのを感じる。ただ、京響の力量によるものなのか、激しい音が指揮者の思っている通りには出ていないのではないかと思える部分もあった。

 第2楽章はスケルツォのメロディをフーガ的に積み重ねていく。確かにベートーヴェンはそのように作っているのだが、それをデイヴィスは強調しているように思えた。そのため、音楽が躍動していった。第3楽章はヴァイオリンの最初メロディがとても美しかった。コンサートマスターの泉原の功績によるのかもしれないが、ニュアンスに満ちた心の奥から湧き上がってくるような音の流れだった。弦のピチカートからの静かな盛り上がりも素晴らしかった。第4楽章は、声が出てくる前のレチタティーヴォにあたる部分がしっかりと整理されていた。歌手陣は充実していたが、とりわけソプラノの安井陽子が素晴らしかった。メゾ・ソプラノの中島郁子、バス・バリトンの山下浩司、テノールの望月哲也もとてもよかった。ただ、私の席のせいか、4人の声がうまく溶け合わないのを感じた。

 京響コーラスは、口の前のマスクのせいか、やはり声がくぐもっており、私としては少々不満を覚えた。

 全体的に、とても良い演奏であり、デイヴィスの音楽の作りにも納得できた。私は何度も感動に身をふるわせた。ただ、ちょっと爆発力は弱かった。合唱の布のせいもあるかもしれない。あと少しの爆発が欲しかった。そうすれば、もっと感動しただろうと思った。

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インバル&都響の第九 第4楽章に納得できなかった

 20221224日、東京芸術劇場で、東京都交響楽団の第九特別演奏会を聴いた。指揮はエリアフ・インバル、合唱は二期会合唱団。

 全体的にはとても良い演奏だと思った。力感にあふれており、きわめて構築的。第3楽章までは、ところどころに独特の間の取り方があったり、チェロを中心に大きく鳴らす楽器があったりして、個性的な雰囲気もあったが、全体的にはきわめてオーソドックスな音楽展開だと思った。タメを作って、スケール大きくベートーヴェンの世界を作り上げていく。

 第1楽章は壮大、第2楽章は跳躍的、第3楽章は求心的な演奏。見事な演奏だと思った。ただ、第4楽章になり、合唱が加わってから、私はかなり疑問を覚えた。徐々にテンポが上がり、猛烈な速さになってきた。意図的な速度だったのだろうか。むしろ、何かの乱れから、コントロールが効かなくなって速まったのではないかと思った。オーケストラも、その速度についていけず、乱れを生じているように私には思えた。インバルらしからぬ、コントロールの甘さとでもいうか。四人のソリストがフーガ的に歌う部分になって、今度は逆にぐっと遅くなった。それにも私は納得できなかった。

 バスの妻屋秀和は私には少し音程が不安定に聞こえた。テノールの村上公太はきれいな歌いまわしだが、少し迫力不足を感じた。ソプラノの隠岐彩夏、メゾソプラノの加納悦子は安定した歌唱。二期会合唱団については、あまりの速さのせいか、じっくり歌うことができずに、必死にがなり立てているように聞こえた。

 まあ要するに、第3楽章まで感動して聴いていたのだったが、私は第4楽章に関してはまったく納得できなかった。釈然としないまま帰宅した。

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7つの国の歌・博覧会 7人の名歌手に満足!

 20221222日、HAKUJU HALLで「歌曲ガラコンサート 7つの国の歌・博覧会」を聴いた。とてもレベルの高いコンサートだった。

 盛田麻央(フランス)、松島理紗(オーストリア)、ジョン・ハオ(中国)、関定子(日本)、彌勒忠史(イタリア)、井上雅人(フィンランド)、塩田美奈子(スペイン)。いずれもしっかりした発音と音程の良い美声で見事に歌った。ピアノ伴奏は鳥井俊之と朴令鈴。

 盛田は美しい発音による色気のあるニュアンス豊かな歌。ドビュッシーの香りがしっかりと聞こえてきた。サティを歌う時にはちょっとシャンソン風にして、洒落た雰囲気を出して見事。

 松島の歌は彼女が学生時代に初めて聴いて、そのころからとびぬけて素晴らしいと思ってきた。久しぶりに聴いて、まさしく日本を代表する歌手になったと確信した。迫力ある歌。新ウィーン楽派の初期の歌曲を歌ったが、確かにこれらの時代を歌うのに適した声だと思った。以前、彼女の「ルル」を聴いたことがあるが、それを思い出した。ジーツィンスキーの「わが夢の街ウィーン」も楽しく、ちょっと退廃的でとてもいい。これからぜひとも世界に羽ばたいてほしい。

 ジョン・ハオの中国の歌も、まさに広大な中国を思わせる。関定子もさすがの日本歌曲。弥勒もますます磨きがかかった自在の歌いまわし。井上は朗々たるバリトンでのメリカントの歌はとても良かった。アカペラでアンコールとして、シベリウスの「フィンランディア」に用いられている歌が歌われた。まさにロシアへの抵抗歌。塩田はスペイン情緒を掻き立てる歌だった。

 ガラコンサートと銘打っているので仕方がないが、これほどのメンバーをそろえて、一人34曲ずつでは実にもったいないと思った。どの歌手ももっとじっくりと聴きたいと思った。しかも、あまり観客が多くなかった。なんともったいない。

 そして何より、学生のころから応援してきた松島の成長が私はとてもうれしい。まだまだ若い歌手なので、これからもっと聴く機会が増えるだろう。楽しみだ。

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芸劇ブランチコンサートでブラームスを楽しんだ

 20221221日、東京芸術劇場で午前11時スタートの芸劇ブランスコンサート」を聴いた。今回は「ブラームスのソナタ」という副題の下、ヴィオラソナタの第1番とクラリネットソナタの第2番が演奏された。ヴィオラは佐々木亮、クラリネットは伊藤圭。ピアノはコンサートの企画者でありMCでもある清水和音。もちろん、ヴィオラソナタはクラリネットソナタ第1番をヴィオラ独奏に改めたもの。

 私は何度かヴィオラソナタを聴いているが、やはりこれはクラリネットのほうがよい。少なくとも私は好きだ。クラリネットは低音と高音によって音色が変化する。ヴィオラはそんなことはない。ブラームスの当初の考えでは、やはりクラリネット特有に多様な音色を重視していたはずだ。だから、ヴィオラで演奏されると、もともと地味で暗い曲が、ますます地味になってしまう。

 とはいえ、ブラームス晩年の境地をたっぷり味わうことができた。晩年といっても、ブラームスが死んだのが63歳だから、今の私よりも10歳近く若いわけだ。気持ちはよくわかる。諦観、陰鬱、過去の楽しかったことの回顧、残った生のエネルギーのざわめき。そんなものが交錯する世界。それがクラリネットのほうが多様な音色を使って、しんみりと、しかし、時に滑稽に描くことができる。ヴィオラだと、しんみりしてしまう。

 いずれの曲も清水和音が輝きのある芯の強い音でサポート、佐々木のヴィオラは、まさに地味で誠実。きっとブラームスはこういう人だったのだろうと思わせるような音楽だった。まさにしみじみとした思いがこもる。

 伊藤のクラリネットも堅実にして、ちょっと人間的だが、やはりしみじみ。

 2曲のソナタの間に、清水のソロでブラームスのインテルメッツォの1曲が演奏された。ピアノにはあまり関心のない私だが、きれいな音に聞き惚れた。

 

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鈴木優人&読響の第九 意外とふつうの演奏だったが、大感動!

 20221220日、サントリーホールで読売日本交響楽団の第九特別演奏会を聴いた。指揮は鈴木優人、合唱は新国立劇場合唱団(合唱指揮・冨平恭平)。第九の前に、鈴木優人のオルガンによって.バッハの曲(パッサカリアとフーガ ハ短調 BWV 582だったらしい)が演奏された。

 第九は、実は第1楽章の途中まで、ちょっとマンネリというか、意外とふつうの演奏であまりおもしろくないと思って聴いていた。だが、第1楽章の後半から、私はぐいぐいと引き込まれた。古楽的なアプローチだが、かなりオーソドックスな演奏だと思う。弦の重なりが世界を作り出し、そこに管楽器が重なっていく。それがズバリズバリと決まっていく。第3楽章は圧倒的だと思った。まさにメロディが天に昇っていく。そう、何も特別なことはしていないように聞こえる。だが、すべてが理に適っている。すべてが自然に世界を作っていく。そして、壮大で生き生きとして、深い思いに満ちた世界が現出していく。鈴木優人は若くしてもうこんな境地に達したのか!と思った。オーケストラ団員もいかにも楽しそうに弾いているのを感じる。存分に楽器を鳴らし、それが見事にベートーヴェンの世界を作っていく。凄い!

 第4楽章の音楽の途中、「歓びの歌」のメロディをオーケストラで大きく奏でているときに、合唱団が登場、独唱者も歌いだす直前に、バラバラに登場する。このような登場の仕方を初めて見た。とてもうまい方法だと思う。こうすれば、途中で拍手が起こって音楽を中断させることもないし、歓喜のオーケストラに乗って合唱団が登場するのは、きわめて音楽の理に適っている。

 バスのクリスティアン・イムラーは高貴な声、とてもいい。テノールの櫻田亮も、ちょっと声量不足を感じたが、美しい声で歌いまわしが実に自然。ソプラノのキャロリン・サンプソンとメゾ・ソプラノのオリヴィア・フェアミューレンはともに伸びやかな美声。合唱も文句なし。第4楽章の鳴り物入りのお祭りの雰囲気も実に感動的。第4楽章も本当に素晴らしいと思った。改めて感動した。

 第九のコンサートは普段と雰囲気が異なる。若い客、子どもの客もたくさんいる。めったにコンサートに足を運ばないような人も大勢見かける。ふだん、いかに「通好み」のコンサートにばかり通っているかを改めて感じる。だが、このような雰囲気こそが本当のコンサートだと私は思う。めったにコンサートに行かない客も大勢いて、初めて聴いて立ち上がれないような感動を覚える人が何人かいる・・。そうであってほしい。ふだんからこんなコンサートが増えてほしい。きっと今日は、初めてクラシック音楽を聴いて深い感動を覚えた人がたくさんいただろうと思う。

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インバル&都響のフランク 熱いロマンティスムに酔った!

 20221219日、東京文化会館で東京都交響楽団定期演奏会を聴いた。指揮はエリアフ・インバル。曲目は、前半にマルティン・ヘルムヒェンのピアノが加わってベートーヴェンのピアノ協奏曲第5番「皇帝」、後半に、セザール・フランクの交響曲ニ短調。

 ピアノの貴公子として話題のヘルムヒェンなので期待したのだったが、どうも私の好みのピアニストではなかった。私はピアノ曲はあまり聴かないので、よくわからないのだが、どうも指づかいにムラがあるような気がする。「皇帝」の冒頭の華麗なピアノも、なんだか私には指の引っ掛かりがあるように聞こえる。歌心といえるのかもしれないが、私には美しく聞こえない。その後も、妙に性急で余裕を感じない。そのため構築性を感じない。第2楽章のリリシズムも私はあまり響かなかった。

 ただオーケストラは、勢いがあり、若々しい。久しぶりのインバルの指揮だが、さすがというか。まったく年齢を感じさせない。

 ピアノのアンコールは、シューマンだとのこと。本人が曲名を言ったが、「シューマン」以外は聞き取れなかった。これもとてもロマンティックな演奏で。歌心にあふれているといえるのだが、このような演奏は私には情緒的に揺れているような気がして落ち着かない。

 後半のフランクは、打って変わって素晴らしかった。

 まさに煮えたぎるようなロマンティスム。色彩的なオーケストラ。色彩的といっても、ラヴェルやドビュッシーのような印象派的な色彩ではなく、ドラクロアのような色彩とでもいうか。情念が渦巻き、音がダイナミックにたたきつけられる。しかし、形は崩れず、しっかりとした構築美が保たれている。フランクの交響曲のあるべき演奏だと思った。熱い音に私は何度か感動に震えた。都響の音色は本当に素晴らしい。金管楽器も色気のある音で、フランクにピッタリ。イングリッシュホルンの響きもとても美しかった。

 久しぶりにインバルの指揮を堪能した。素晴らしかった。

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クァトロ・ピアチェーリ 平和で穏やかなドヴォルザーク

 20221218日、市川市文化会館小ホールで、クァトロ・ピアチェーリのコンサートを聴いた。第一ヴァイオリン大谷康子、第二ヴァイオリン木野雅之、ヴィオラ百武由紀、チェロ苅田雅治にピアノの佐藤卓史をゲストとして加わった、「明るい未来を願って」という副題のついたコンサートだ。その昔、たぶん35年以上前、市川の文化会館でアルゲリチとクレメルのリサイタル(確か、シューマンのヴァイオリンソナタが演奏された)を聴いた記憶があるのだが、それはこのホールだっただろうか。まったく覚えがなかった。

 前半はナチス・ドイツによって強制収容所で殺害されたチェコの作曲家シュルホフの弦楽四重奏曲第1番の第2楽章とショスタコーヴィチの「5つの小品」、そして、ショスタコーヴィチの弦楽四重奏曲 第8番。後半にウクライナの作曲家スコリックの「メロディ」とドヴォルザークのピアノ五重奏曲 第2番。ウクライナの戦争で苦しむ人々に心を寄せ、平和を願うコンサート。メッセージの伝わるコンサートだった。

 シュルホフの曲は、強制収容所で殺害されたと知って聴いたせいか、鋭くて悲劇的な曲だった。とても魅力的。全曲を聴いてみたいと思った。ショスタコーヴィチの小品は佐藤、大谷、木野の3人による演奏。2台のヴァイオリンのからみがとてもおもしろかった。

 ただ、ショスタコーヴィチの弦楽四重奏曲第8番については、私はちょっと「緩い」感じがした。アンサンブルはきれいだし、よくまとまっていると思うのだが、ショスタコーヴィチの激しい感情が伝わってこない。戦争への怒り、ファシズムへの怒り、専制的なものへの憤怒が伝わってこない。特に第1楽章の緊密度が不足しているように思った。だから第2楽章の爆発が弱いと思った。

 後半の、ドヴォルザークのピアノ五重奏曲はとても美しかった。弦楽器もドヴォルザーク特有の親しみやすくしみじみとしたメロディを美しく奏で、ピアノの佐藤もとても優美でしなやかな音でそれを支える。まさに平和を祈るような音楽。ただ私としては、第3楽章はもっと躍動がほしいと思ったし、フレーズとフレーズの曲想の変化をもっと鮮明にする方がいいと思ったが、きっとこの演奏家たちは、柔和で平和な音楽にしたかったのだろう。それはそれで成功していると思った。

 私もウクライナの平和を祈りたい。多くの人が苦しまないで済むように祈りたい。専制主義が世界を覆うような状況にならないことを祈りたい。

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オペラ映像「トリスタンとイゾルデ」「低地」「売られた花嫁」「人間の声」、プッチーニ三部作

 12月も半ばを過ぎた。今年もあとわずか。ある意味で情けないと思うのだが、つい大量の音楽ソフトやら映画ソフトやら本やらを購入、テレビの放送も録画して、それを追いかけてみるのに必死になっている状況だ。まるでノルマをこなすような感じでオペラをみている気分になる。が、もちろん、みている間は、大いに心動かされる。

 何本かオペラ映像をみたので感想を記す。

 

ワーグナー 「トリスタンとイゾルデ」2007729日、81,6日 グラインドボーン歌劇場

 以前にみたことのあるソフトだが、今回、ブルーレイディスクが販売されていると知って購入。

 なにはともあれイゾルデを歌うニーナ・シュテンメ(あるいは、ステンメ)が圧倒的に素晴らしい。張りのある美声で、気品があり、節度がある。トリスタンのロバート・ギャンビルも決して悪くないが、シュテンメと歌うと力量の差がはっきり出てしまう。シュテンメは、演技も見事。気位の高い、しっかりとした王妃を演じている。ギャンビルはちょっとよくわからないトリスタン像。

 マルケ王のルネ・パーペはさすが立派な王様! ブランゲーネのカタリーナ・カーネウスは従順な侍女、クルヴェナールのボー・スコウフスは一本気の家臣を見事に歌う。

 イルジー・ビエロフラーヴェクの指揮は緻密で繊細で知的。従来のワーグナー演奏とはかなり息遣いのようなものが異なる。初めのうち、私は少々違和感を抱いた。だが、さすがビエロフラーヴェクというべきか、ぐいぐいとドラマの世界に巻き込んで、聴くものを納得させるだけの力を持っている。演出はニコラウス・レーンホフ。昔、「ニーベルンクの指輪」の演出で見た覚えがあるような円環状のものが現れ、その簡素な背景の中で物語が展開する。男たちが甲冑姿で現れる。近年では珍しい台本の時代に忠実な演出といえそう。

 

ダルベール 「低地」 2006年、チューリヒ歌劇場

 ダルベールの「低地」というオペラについては、音楽関係の本を読んでいるとしばしば出くわすし、CDは聴いたことがあった。DVDが以前から発売されていることに気づいて購入した。

 とても充実した上演だと思う。演奏的には、まったく文句なし。ダルベールのオペラそのものもとてもおもしろい。山育ちの貧しいペドロは、村の支配者セバスティーノから妻としてマルタを与えられて喜ぶが、実は、セバティアーノは政略結婚をするために、自分の愛人のマルタをペドロに便宜上与え、その実、愛人関係を続けるつもりだった。しかし、ペドロとマルタが心から愛しあうようになり、ペドロは、邪魔をしようとするセバティアーノを殺す。そんな物語だが、手際よく話が進み、音楽もちょっとワーグナー風。最後には、私は大いに感動してみた。

 ペドロのペーター・ザイフェルトはさすがの歌唱。マルタのぺトラ・マリア・シュニッツァーも揺れ動く女心をみごとに歌っている。二人とも設定された年齢よりもずっと年上であり、現代のリアルな服装をしているので、映像で見ると違和感をぬぐえないが、それを言っても仕方がなかろう。セバスティーノのマティアス・ゲルネもしっかりした声と邪悪な眼光で見事に悪役を演じている。

 指揮はフランツ・ウェルザー=メスト。このオペラについてほとんど無知なので批評めいたことは何も言えないが、じわじわと各登場人物の思いを描きだして、とてもいい。

 演出はマティアス・ハルトマン。こんなめったに上演されないオペラまでも読み替え演出をしているのにあきれる。山岳部で暮らすペドロが、低地の村にやって来て、息苦しさを覚え、再び「上」に戻ろうとする、というのがこのオペラのテーマだと思うが、普通に描けば、それがしっかりと感動的に描けるだろうに、舞台を現代の無機質なオフィスにとり、山岳地方をどうやら人々の脳内幻想として描いているようだ。なんだかよくわからないが、からだに電極をつけての人体実験のようなことが舞台上で行われ、背後の映像に山岳部が映し出される。変にいじくって意味不明な噴飯ものにするのはやめてほしいと切に思う。

 

スメタナ 「売られた花嫁」 19824月 ウィーン国立歌劇場

 マジェンカをルチア・ポップが歌い、ハンスをジークフリート・イェルザレムが歌う往年の名舞台。ドイツ語による歌唱。VHSだったかLDだったか、この映像はかつてみた覚えがある。今みても、とてもおもしろい。

 往年の名歌手たちの歌は最高度に充実している。ポップの独特の美しい声とかわいらしい歌いまわしが魅力的だ。いやあ、今更ながらポップは本当に素晴らしい歌手だった(三十数年前、息子の手術日と重なっために、バイエルン国立歌劇場の「アラベラ」来日公演を見られなかったのが、私の人生の心残りの一つだ!)。 イェルザレムも声の輝きには欠けるとはいえ、自在に歌って、この役になりきっている。私は実演を含めて、この人がワーグナーのいくつかの役を歌うのを聴いているが、とてもいい歌手だ。過小評価されていると思う。ケチャル役のカール・リッダーブッシュも実に楽しい。悪役になりきれない道化的な敵役を自在な美声で見事に歌っている。知的障害があって吃音のヴェンツェルの役をハインツ・ツェドニクが歌っているが、これが実にいい。滑稽だが、内気で純粋な愛すべき青年になっている。ツェドニクもオペラ界の偉大なバイプレーヤーだと思う。今回初めて思ったが、イェルザレムとツェドニク、外見がとてもよく似ている。異母兄弟の役にピッタリ。

 カーテンコールの際、どうもイェルザレムに対して一部からブーイングがなされているようだが、どうしたことだろう。十分に素晴らしいと思うのだが。

 指揮は若きアダム・フィッシャー。とてつもなく切れのよい音で切り込んでいく。序曲からして、信じられないほどの切れ味。ただ、録音のせいかもしれないが、合唱がちょっと雑なためか、音がうまく合わないところがある。

 演出はオットー・シェンク。この演出家らしくきわめてオーソドックスだが、これがまたとても楽しい。チェコの片田舎はきっとこうだっただろうと思われるとおりの舞台が繰り広げられる。合唱団は、先ほど言った通り、ちょっと粗いが、演技については舌を巻く。村人たちになりきって、歌い、踊り、主人公たちを支えている。

 もっと上演されていいオペラだと思う。私は、「わが祖国」などより、このオペラの方がずっと好きだ。

 

プーランク 「人間の声」2021年 パリ、ロンドン NHK BSプレミアムで視聴

 ダニエル・ドゥ・ニースが「彼女」を演じる。ジェームス・ケントの演出、英国ロイヤル・オペラ・ハウス管弦楽団、指揮はアントニオ・パッパーノ。

 ドゥ・ニースの歌唱と演技に引き込まれる。なんという演技力! まさにこれを迫真の演技というのだろう。私はこれまで、もう少しプライドを保とうとしてやせ我慢をしながら、それが徐々に崩れていくモノオペラとしてこれをとらえていたが、今回の演出では、女は表面を取り繕って弱みを見せようとしないのではなく、最初から必死の形相で訴えかける。それはそれで説得力がある。これを可能にしたのは、まさにドゥ・ニースの歌と演技の力だろう。パッパーノも躍動感にあふれている。プーランクの「カルメル派修道女との対話」のギロチンの場面のような緊迫感にあふれている。

 

プッチーニ 三部作(「ジャンニ・スキッキ」「外套(とう)」「修道女アンジェリカ」)20228月5・9・13日 ザルツブルク祝祭大劇場 NHK BSプレミアムで視聴

 プッチーニは苦手な作曲家なので、放送されると知ってはいたが、一応は録画しておくにしても、すぐにみるつもりはなかった。ところが、録画後、冒頭を再生してみると、なんと、三部作の三つのヒロインをアスミク・グリゴリアンが一人で歌っているというではないか。今、私が最も好きな歌手と言えば、まちがいなくグリゴリアンだ。サロメ、クリソテミス、ゼンタ、イェヌーファ、ルサルカを映像でみて、その圧倒的な歌唱に引き込まれた。先日は、東響のコンサート形式の「サロメ」で初めて実演を聴いて、改めて驚嘆。まれに見る名歌手だと思った。プッチーニであっても、ともあれみてみることにした。

 私はザルツブルク音楽祭でネトレプコの「ラ・ボエーム」をみてもプッチーニには感動できなかったのだが、グリゴリアンの「ジャンニ・スキッキ」のラウレッタ、「外套」のジョルジェッタ、「修道女アンジェリカ」をみると、これは感動しないわけにはいかない。清純で輝きのある強い声、しかも、下町のうぶな娘、夫と心を通わせられなくなって夫を裏切る女、子供の死を知り絶望する貴族出身の修道女を見事に演じる。オペラ全体に引き込まれた。

 フランツ・ウェルザー・メストの指揮するウィーン・フィルも、あまり感情移入しないドラマティックな音で支える。こんな音楽だったら、プッチーニも悪くない。クリストフ・ロイの演出で、グリゴリアン以外の歌手たちも実に適役。若くて細身で美しいグリゴリアンが登場したことで、オペラがリアルになった。かつてのように、目に見えている歌手たちの外見を頭の中で若い美男美女に変換する必要がなくなった。この功績もまた大きい。そうであるがゆえに、ロイのリアルな演出も生きる。

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「寒い国のラーゲリで父は死んだ」感想

 基本的に、私はこのブログには書物についての感想は書かないことにしている。今では私はかつてほどの読書家ではないが、小論文指導に必要な書物は日常的に目を通すし、文学作品やミステリーも読む。月に10冊以上はコンスタントに読んでいるだろう。しかし、私の場合、読書体験は企業秘密に属するので、ここには書かない。

 が、山本顕一(ここではあえて呼び捨てにさせていただく)の「寒い国のラーゲリで父は死んだ」(バジリコ 12月22日発売)については、ひとこと語りたくなった。

 この著者は私の大学院時代の恩師のひとりであり、実話に基づく映画「ラーゲリより愛を込めて」の主人公・山本幡男のご長男でもある。映画の中でも、何度か、顕一は登場する。その著者が、父・幡男のこと、ご自身のこと、ご自身と父親との関係について赤裸々に語ったものだ。

 全体を貫くテーマは父・幡男との相克だ。戦争にとられる前、幡男は家庭では陰気で強権的であって、顕一はそんな父を嫌悪していた。ところが、父は捕虜となり、シベリアに抑留され、過酷な状況の中、高潔なリーダーとして活躍し、偉大な足跡を残し、悲劇的な死を迎える。そして、あまりに劇的で、あまりに説得力のある、そして家族への愛にあふれた遺書が家族のもとに届けられる。遺書によって道義を尽くして立派に生きるように強いられた著者は反発しつつ、それに沿おうとするが、プレッシャーを感じ、しかも父親へのわだかまりを捨てられない。そして、人生に挫折し、苦しむ中で、父の偉大さを再認識し、素直に尊敬できるようになる。

 山本先生をよく存じ上げているためかもしれないが、私はハラハラしながら、そして共感しながら、ちょっとだけ読むつもりだったのが、やめられなくなって、最後まで一気に読んだ。幡男という人物についても、映画「ラーゲリより愛を込めて」やその原作となった辺見じゅんのノンフィクション「ラーゲリ 収容所から来た遺書」に描かれていない部分を含めて知ることができた。

 私が最も感銘を受けたのは、この山本家の人々の言葉への信頼ということだった。

 幡男はロシア語が達者で通訳をしながら、シベリア抑留の中でアムール句会を主宰して、優れた俳句を自ら作り、仲間たちに句作を促す。故国から遠くに離れても日本語を忘れず、そこに誇りを持つためだっただろう。第13章に紹介される幡男の句は、私のような素人にも、その研ぎ澄まされた感覚によって深い思いを描く名句であることがわかる。顕一の母親(つまり、映画では北川景子が演じる幡男の妻)のモジミという珍しい名前は、その父親が「文字美」を意識してつけたという。顕一はフランス語、フランス文学という言語の専門家であり、この著書からわかる通り見事な名文家だ。そして、本書の中でひときわ文学的な色彩を持つ第11章に語られる弟さんは経済学者で、不遇の中で見事な言葉をつぐんでいたことを著者は死後に発見する。

 そもそも私は辺見じゅんの「ラーゲリ 収容所から来た遺書」は、ドーデの「最後の授業」(母語の大切さを訴えた短編として以前から取り上げられてきたが、近年、知られるようになった通り、これには、そう単純には解釈できない様々な問題がある)以上に、母語の大切さを語る名作だと思う。幡男はロシア語の達人でありながら、日本語を大事にしてシベリアの過酷な状況の中、句会を主宰し、句を詠む。それに感化された仲間たちが、幡男の紡ぐ見事な言葉から成る遺書を暗唱して遺族に伝える。言葉を大事にし、言葉の中で生きた幡男の人生を描き出している。(映画「ラーゲリより愛を込めて」の中で、言葉に対する愛という、原作の最大のテーマと思われるものがカットされていたのは、まことに残念だと私は思う)。

 そして、本書「寒い国のラーゲリで父は死んだ」は、幡男の遺書を受け取った顕一が、その一つ一つの言葉を吟味し、それを言葉として乗り越えていく物語だ。第7章に書かれる渡辺一夫の思い出も、この日本を代表する知識人の言葉に惹かれる著者の思いにほかならない。顕一はきっと渡辺一夫の中にもう一人の父親を見出したのだろう。そして、父親に対してと同じように、渡辺一夫の言葉に対して葛藤する。

 同じ構図は、先ほど触れた第11章、「弟の屁」にも表れる。これは一つの文学作品として素晴らしい。優秀でありながら、「屁」の持病のために実力を発揮できない、社会的活動ができない苦しみ、その中での葛藤が、兄の目から、愛情を込めたクールさで描かれる。それを語る言葉に中身が詰まっている。

 考えてみれば、弟さんは、顕一以上のプレッシャーの中に生きたのだろう。偉大な父親、そして優秀な兄。弟さんの心の中では、顕一が、顕一における父と同じ役割を果たしている。しかも、その二重のプレッシャーの中で、まるで父・幡男と同じように、言葉を紡ぎながらも、悲劇的な癌による死を迎える。このような父の遺書の成就の仕方に著者はある種の羨望を抱いているかのようだ。

 山本先生は、偉大な父親の遺書のプレッシャーの中で生き、ご自分は父親に託されたことを何一つ成し遂げていないという思いを抱いているとおっしゃっている。東京大学で学び、大学教授として多くの学生を教えたこと、まさにフランス語という言葉を教え、言葉を大事にする平和な世界の大事さを教えたことそれ自体で十分すぎるほどに遺書に書かれたことは達成していると、私は思うのだが、ご本人はそうは思えないらしい。

 しかし、そうした心の迷い、父との相克をここに描いたことは、間違いなく父親の意志を最終的に立派に達成されたということだと思う。ここに書かれるのは、前世代から宿題を課されて、その中で悪戦苦闘した人々のかなり普遍的な葛藤を見事な言葉で描きつくしているのだから。

 単に、今、話題になっている映画「ラーゲリより愛を込めて」のスピンオフ的な書物としてではなく、一つの著作として、「寒い国のラーゲリで父は死んだ」は見事な作品だと思う。映画に惹かれた人も(そして、もしかしたら、それに物足りなく思った人も)、原作の「ラーゲリ 収容所から来た遺書」とともに、この「寒い国のラーゲリで父は死んだ」を読んでほしいと思う。

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映画「ラーゲリより愛を込めて」 遺書を読む場面は涙なしではいられない

 映画「ラーゲリより愛を込めて」をみた。原作は辺見じゅんの「収容所(ラーゲリ)から来た遺書」。終戦と同時にシベリアに抑留された山本幡男が、抑留されながら様々な文芸活動で仲間たちを鼓舞するが、苦難の中で死亡、友人たちが、文書の持ち出しを禁止されたため、山本幡男の書き残した遺書を暗唱して家族に伝えた事実を描くノンフィクションだ。

 映画の主人公、山本幡男は、私の大学院時代の恩師のひとりである山本顕一先生のご尊父。つまり、恩師は、映画の中で幡男の長男としてたびたび登場し、高齢になった姿を寺尾聰が演じているその人だ。そんなわけで、山本先生と親しくさせていただいている私は、以前から、原作も読み、深く感動してきた。今回、映画化されると山本先生に聞いて、ずっと楽しみにしていた。やっと時間ができたので、観てきた。

 とても良い映画だった。最後まで希望を捨てず、愛を貫くというメッセージには説得力がある。高潔で人間愛にあふれた山本(二宮和也)の周囲に、戦友たちを裏切ってしまった原(安田顕)、卑怯者の烙印から逃れようとする松田(松坂桃李)、権威をかさに着ていた自分を反省する相沢(桐谷)、心優しい青年、新谷(中島健人)、そして、クロという犬を配して、戦争、そしてその後の抑留の悲惨、その中で希望を抱き、愛を守ろうとした山本をはじめとする人々を描く。

 最近作られた戦時中の映画をみると、どうしても役者がみんなあまりにあか抜けており、服装も当時ほどみすぼらしくなく、したがって、リアリティが不足しているのを感じる。やはりこの映画でも、同じことを感じた。山本先生のお母様はきっと美しい方だったのだろうとは思うが、それにしても北川景子は美しすぎる。極寒のシベリアを描いているとはいえ、やはりそこは本当の極寒には見えない。現代のジャニーズっぽい美男たちは、戦争に赴いた貧しくみすぼらしい日本男子には見えない。実際の山本が経験したシベリア抑留はもっともっと過酷なものだっただろう。そのような様々な問題点はある。だが、そのようなことを監督は重々承知だろう。

 現代人にもわかりやすく共感しやすい形で描くには、このようにするしかない。しかも、観ているうちに、そうしたことは忘れるだけのドラマの盛り上がりを見せる脚本の手際の良さ、安田や二宮の演技力がある。戦争の理不尽、抑留の理不尽、それに翻弄される男たちや家族が十分に伝わってくる。

 ただ、私がとても残念に思ったのは、アムール句会の話題が映画には描かれなかったことだ。山本幡男はハバロフスクでアムール句会を主宰し、俳句を抑留者たちに広めていく。小さな文芸誌を作り、そこに抑留者たちが小説や詩を発表する。山本幡男は外国の土地に抑留されていながら、日本語を忘れず、日本の土地を思い起こし、日本人である誇りを保つためにこのような活動をする。抑留者たちは、それに共鳴するがゆえに、山本は多くの人の信頼を得る。そして、だからこそ、山本の遺書を友人たちが暗唱して家族に伝えようとする。

 私は、少なくとも、辺見じゅんのノンフィクションのテーマは「言葉の力」だと考えている。山本は語学の天才だった。言葉の力を信頼する人だった。言葉の力で抑留者を力づけようとした。日本語の力で家族に愛を伝えようとした。共鳴した友人たちが言葉の力を信じて、それを家族に伝えた。原作からそのようなテーマが浮かび上がってくる。

 ところが、映画では、言葉=日本語という面が重視されていなかった。むしろ、山本の愛唱歌が「いとしのクレメンタイン」であって、抑留者たちが声を合わせてこの歌を英語で歌うところがある。きっとグローバルな視点で世界平和を描こうという監督の意志の表れなのだろう。だが、これには私は違和感を覚えずにはいられなかった。

 そもそも当時、敵性語である英語の歌を日本人抑留者たちが声を合わせるというのはあまりに非現実的だと思うし、そうすると、「日本語を大事にする」という句会の意味が薄れてしまう。映画では、山本はソ連の軍人にたてつき、罰を受けながらも日本人の言い分を主張し、草野球をひろめたために抑留者たちの間で信頼を得ていったように描かれていた。映像としてわかりやすくするためにそのようにしたのかもしれないが、だがそうすると、やはり山本がリーダー的存在になっていくのが不自然に感じられてしまう。

 とはいえ、友人たちが家族に遺書を届け、それを暗唱する場面は涙なしではいられない。あれこれ気にはなったが、ともあれ遺書を暗唱する場面はさまざまな雑念を吹き飛ばして映画に没入させるだけの力がある。

 それにしても、私のよく知る山本先生の役を寺尾聰が演じているのをみて、不思議な気持ちになった。同時に、当事者である山本先生はこの映画をどうご覧になったのだろうと、大いに気になった。

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郷古&ガヤルドのクロイツェル まっすぐな演奏

 20221210日、トッパンホールで、郷古廉(ヴァイオリン)のリサイタルを聴いた。ピアノはホセ・ガヤルド。曲目は、前半にシマノフスキの「神話」とプーランクのヴァイオリン・ソナタ、シューマンの3つのロマンス、後半にベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタ第9番「クロイツェル」。とても良い演奏だった。

「神話」は初めて聴く曲。ショーソンの「詩曲」をドイツ後期ロマン派風にした曲とでもいうか。官能的でとりとめがなく夢想的。それを郷古は音程のよい音で、情緒に流されず、しっかりと知的に演奏する。ヴィブラートをあまり強くかけず、まっすぐに表現する。明確な音による夢幻の世界。ピアノもまたしなやかに、そして知的に支える。音の粒立ちがとても美しい。とてもおもしろいと思った。

 プーランクは強い音による激しい表現。冒頭のメロディはとても衝撃的だった。プーランク特有の洒脱というか、ちょっと斜に構えた雰囲気はあまり強調されず、まさに真正面からの音楽。きっと郷古さんは気まじめな人なのだろう。ピアノのガヤルドはしなやかで鮮明なタッチでぴったりとヴァイオリンに寄り添って、陰影を示していた。それはそれでとてもいいのだが、私としては、もう少し、洒落ていたり、悪戯っぽかったり、気まじめだったりといった多様な面を見せるほうが、深みが出てプーランクらしい曲になったと思う。

 後半に入っても、「三つのロマンス」は、前半の「神話」と同じように、ロマンティックな曲を知的でごまかしのない音で演奏された。不思議なロマン性が生まれる。

「クロイツェル」は、激しさを強調した演奏と言えるだろう。ヴァイオリンは暴力的といえるほどの激しい音。強いアクセントをつけて、情熱的に弾く。しかし、音程はしっかりしており、構成も崩れないので、むしろ直球によってぐいぐい攻めていく雰囲気。ピアノの方はヴァイオリンほど直球ではないが、こちらもまじめなアプローチでしっかりとサポートする。ピアノも鮮明な音でしっかりと激しい感情を描いているが、ヴァイオリンが暴力的になりすぎるところをうまくセーブしている面もありそう。

 ただ、第2楽章の変奏形式の部分で、それぞれの変奏のニュアンスのつけ方がちょっと一本調子の気がした。もう少し変化をつけて面白くしてくれる方が私としてはうれしかった。だが、きっと郷古というヴァイオリニストは、そのようなことを考えずに、直球勝負をしたいと思う人なのだろう。それはそれで見事なことだ。第4楽章の高揚は素晴らしかった。

 アンコールはシベリウスの「5つの小品」の「ワルツ」とのこと。これもまた真正面からごまかしなしの演奏。情緒に逃げずに、あくまでも知的にロマンティックな雰囲気を作り出す。

 郷古は女性に人気なのだろう。客の8割以上が女性だったと思う。このような人気、実力のあるヴァイオリニストが活躍するのはうれしいことだ。

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ルイージ&N響の「リンツ」と「スコットランド」 ちょっと一本調子に感じた

 2022129日、NHKホールでNHK交響楽団定期演奏会を聴いた。指揮はファビオ・ルイージ、曲目はモーツァルトの交響曲第36番「リンツ」とメンデルスゾーンの交響曲第3番「スコットランド」。土地の名前に基づく二つの交響曲という趣向。

 繊細で切れの良い演奏をしてくれるだろうと期待して出かけた。確かに繊細でキレがよかったが、私としては少々不満だった。もしかしたら、不満を覚えたのはまだ記憶の中に、一昨日、昨日と二日連続で聴いたシュターツカペレ・ベルリンの音があったからかもしれない。音の味わいにあまりに差がある。N響の音はなんと味わいのない、無機質な音であることか、と思わずにはいられなかった。昨日の濃厚で質感のある強い音とはまったく異なる。NHKホールとサントリーホールの違いもあったかもしれない。

 ルイージの指揮も、少し一本調子であるように思った。「リンツ」については、確かにしなやかで活気にあふれているのだが、あと少しの雅というのか、色気のようなものを感じない。「スコットランド」も、勢いがあって、生命にあふれているのだが、陰りの部分や心の機微のようなものを感じない。勢いだけで押している感じがする。

 これまで聴いたルイージは、こんなことはなく、もっとしなやかで気品があり、しかも切れが良かったと思うのだが、なんだかそうならなかった。リハーサル不足? あるいはルイージの得意な曲ではない? あるいはやはり私の側の問題であって、耳に昨日までのシュターツカペレ・ベルリンの音が残っているから?

 まあ、こんな日もあるだろう。

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ベルリン・シュターツカペレ ブラームス交響曲2日目 感動の2日間

 2022128日、サントリーホールで、昨日に続いて、クリスティアン・ティーレマン指揮、ベルリン国立歌劇場管弦楽団(シュターツカペレ・ベルリン)の演奏を聴いた。曲目はブラームスの交響曲第3番と第4番。昨日と同じように素晴らしい演奏だった。

 ただ、第3番に関しては、ちょっといじりすぎではないかと思った。第1楽章は、繊細に始まり徐々に勇壮になっていき大きく展開した。テンポが揺れ、時に音が小さくなったり、繊細さを強調するようになったり。私はとても納得した。しかし、第2楽章、第3楽章が細かいニュアンスは素晴らしいのだが、テンポが揺れすぎ、曲想が安定せず、私は少し煩わしく感じた。ただ第4楽章になってからはぐいぐいと音楽が推進され、ティーレマンらしい大きな高揚に至り、そして、引き潮になってゆくように音楽が終結した。終わってみれば、もちろん素晴らしかった。

 第4番は文句なしの名演だと思った。第一楽章冒頭のメロディからして、テンポの揺れが実にロマンティックでニュアンスに富んでいる。第一楽章の終わりの盛り上がりはまさに最高。第2楽章、第3楽章と徐々に高揚して行き、第4楽章のパッサカリアになる。これらのそれぞれの変奏のニュアンスも豊かで、まさに楽器の色使いが見事。音の色が重なり合い,質感にあふれる、厚塗りされた絵画のような音の重なりがうねっていく。最後の2分間くらい、私は至福の中にいた。

 先日、私の最も好きな日本人指揮者は誰だろうと考えたことを、このブログに書いた。コンサートの帰り、私の好きな現役の世界の指揮者は誰だろうとふと考えた。結論は出なかったが、バレンボイムとティーレマンは間違いなく有力候補だと思った。

 感動の2日間だった。実に満足。

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ティーレマン&シュターツカペレ・ベルリンのあまりに凄まじいブラームス

 2022127日、サントリーホールでクリスティアン・ティーレマン指揮、ベルリン国立歌劇場管弦楽団(シュターツカペレ・ベルリン)のコンサートを聴いた。曲目は前半にブラームスの交響曲第2番、後半に交響曲第1番。凄まじい演奏だった。

 まずシュターツカペレ・ベルリンが素晴らしい。先日、東響の「サロメ」を聴いて、日本のオーケストラも世界に通用するようになったと思ったのだったが、(サッカーではないが、)世界の壁は厚いと改めて感じる。世界の一流は、一つ一つの楽器の音の色がちがう!もちろん、アンサンブルの音も違う。「音色」という以上に、まさに「音の色」の圧倒的な違いを感じる。なんという豊かな音の色だろう。まるでフェルメールやらのオランダ絵画を見ているかのような質感のある音。

 第2番の交響曲は、静かに、しなやかに始まった。だが、濃厚な強い音で見事に展開していく。ティーレマンの指揮はまさにドラマティック。まるでオペラを見ているかのよう。あちこちに仕掛けをし、タメを作り、時にしなやかに、時に激しくあおる。しかし、構築性は全く崩れず、小手先の仕掛けではなく、きわめてオーソドックスなアプローチであり、それぞれの仕掛けがきわめて音楽の理に適っているので、すべてに納得がいき、あざとさは全く感じない。これこそがブラームスの作りたかった音楽なのだろうと納得する。私はまさにティーレマンの魔法にかけられたかのように音楽とともに魂がゆすぶられるがままになってしまった。第4楽章、あっと驚くようなタメを作って、結尾部に入っていった。凄まじい高揚が巻き起こった。

 第1番はもっとドラマティックだった。第2番と同じようなアプローチだと思うが、こちらのほうが音楽自体がドラマティックなので、ティーレマンの指揮がいっそう威力を発揮する。第2楽章のヴァイオリンソロも美しい。第4楽章のホルンの音、そして、その後の高揚は言葉をなくすほど。私は何度感動に身を震わせたことか!

 今回の演奏は当初、バレンボイムの指揮が予定されていた。体調不良ということでティーレマンに変更になった。バレンボイムを聴けないのは残念だが、ティーレマンも私の大好きな指揮者だ。バイロイトでもザルツブルクでもティーレマンの名演奏に触れて深く感動した。今回も、バイロイトやザルツブルクで味わった同じような感動を味わうことができた。

 明日はブラームスの第3番と第4番の交響曲が演奏される。楽しみだ。

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オペラ映像「クリスマス・イヴ」「椿姫」「愛の妙薬」

 寒くなってきた。子どもたちは独立し、妻は他界したため、昔、四人で暮らしていた家に一人で暮らしている。一人で暮らす久しぶりの冬だ。寒さが身に染みる。何はともあれ、温かくすることを心掛けている。電力節約が呼びかけられているが、今年ばかりはちょっと大目に見てもらおう。人数が減った分、昨年よりはずっと電力消費は少ないはずだから。

 最近発売になったオペラ映像を数本見た。簡単な感想を記す。

 

リムスキー=コルサコフ 「クリスマス・イヴ」 20211217-19日、202218日 フランクフルト歌劇場

 数年前にオペラ作曲家としてのリムスキー=コルサコフの真価を知って以来、この作曲家のオペラ映像をたくさんみてきたが、このオペラについては、その存在を含めて今回初めて知った。チャイコフスキーの「チェレヴィチキ」と同じゴーゴリの「ディカーニカ近郷夜話」の中の短編「降誕祭の前夜」に基づく作品で、台本は作曲者本人による。鍛冶屋の青年ヴァクーラが結婚を申し込むと、相手のオクサーナに「女王の靴をくれたら結婚してあげる」と言われて、悪魔に協力させてそれを手に入れる話。

 ゴーゴリの原作はいかにもゴーゴリらしく、不気味なユーモアと暗い情感にあふれているが、それに対してチャイコフスキーのオペラは民話的、おとぎ話的、リムスキー=コルサコフのオペラは、今回のクリストフ・ロイの演出のせいもあるかもしれないが、ちょっとシュールで諧謔的。「金鶏」の流れをくむオペラになっていると言えそうだ。

 親しみやすいメロディがあるわけではないので、あまり人気がないのも仕方がないかもしれないが、オーケストレーションはさすがだし、歌も美しい。人間臭い悪魔やら色気のある魔女やらが登場して、原作のゴーゴリ(平井肇氏の訳が青空文庫に収録されている。とてもおもしろかった)よりもブルガーコフの世界に近いかもしれない。不思議な雰囲気があってとてもおもしろい。

 今回の上演は素晴らしい。歌手陣はそろっている。ヴァクーラのゲオルギー・ヴァシリエフはきれいな声のテノールで勢いもあって音程も確か。オクサーナのユリア・ムジチェンコも透明な声でとても魅力的。ソローハのエンケレイダ・シュコーザは声にも容姿にも熟女のお色気があってとてもよろしい。悪魔のアンドレイ・ポポフも人間味のある悪魔をうまく歌っている。

 フランクフルト歌劇場管弦楽団を指揮するのはセバスティアン・ヴァイグレ。さすがのタクトで、しっかりとまとめている。ロシア色は薄いといえそうだが、色彩的でしなやかな音楽世界を作り出している。

 舞台は現代に移されている。民族色、時代色はまったくない。普遍的な世界を描いているといえるだろう。リムスキー=コルサコフの世界は、「民族楽派」と言われるわりにはインターナショナルなので、私としてはこれで特に不満はない。

「皇帝の花嫁」「金鶏」「見えざる町キーテジと聖女フェヴローニャの物語」ほどの傑作ではないと思うが、なかなかおもしろいオペラの素晴らしい上演だと思う。

 

ヴェルディ 「椿姫」 2021928日 フィレンツェ五月音楽祭歌劇場

 素晴らしい上演。

 メータの指揮は、遅いテンポでくっきりとしている。一つ一つの音をかみしめるように音楽が進んでいく。まったくほころびがない。堅実でしっかりとした美しい音が聞こえてくる。

 歌手陣もみごと。ヴィオレッタを歌うナディーン・シエラは衝撃的といってよいほどだ。のびやかな声。これまで多くの美女がこの役を歌ってきたが、ナディーン・シエラの美しさは一味違う。現代的で知的でのびのびとしている。解放感というか、健やかに伸びていく雰囲気を感じる。すごい歌手が出てきたものだ。

 アルフレードはフランチェスコ・メーリ。この人らしい高貴で端正な歌で、これもとてもいい。シエラに対して、どうしても年齢が上に見えてしまうのは痛いが、一途でまじめな青年の歌になっている。ジョルジョ・ジェルモンはなんとレオ・ヌッチではないか。ずっと前に引退と言われていたのだが、まだ歌っていたのか。調べてみたら、どうやら79歳! もちろんかつての声の輝きはないが、堂々たるジェルモン!

 演出はダヴィデ・リヴェルモーレ。1960年代のパリを舞台に移しているという。要するに、観客の中心をなす高齢者(日本でいう団塊の世代)の若かりし頃ということなのだろうか。ただ、その時代に設定した必然性が舞台からは伝わらない。最後、ヴィオレッタは自分の亡骸から解き放されて自由になるが、そうした自由のメッセージがこの舞台設定には込められているのだろうか。

 ともあれ、シエラとメーリの歌、そしてメータの指揮だけで、私としては大いに満足。

 

ドニゼッティ 「愛の妙薬」 20211119日 ベルガモ、ドニゼッティ歌劇場

 素晴らしい上演。まず、歌手陣が充実している。アディーナのカテリーナ・サーラはヴィブラートの少ない自然な声で、高音がとても美しい。歌いまわしも見事。容姿的にもアディーナに見える。ネモリーノを歌うのはハビエル・カマレナ。いうまでもなく、見事な歌。この人は、容姿の面で二枚目に見えないのが難点だが、この演出はそれを配慮してのものかもしれない。道化役として登場するので、芝居が自然に見える。ベルコーレのフロリアン・センペイはしっかりした歌、ドゥルカマーラのロベルト・フロンターリも見事。最高度の充実といってよいだろう。

 指揮はリッカルド・フリッツァ。驚くべき元気な演奏。ネモリーノがモテ始めるあたりの活気は圧倒的。とても説得力がある。まさに舞台全体が躁状態になって、まさにお祭り気分になる。

 演出はフレデリック・ウェイク=ウォーカー。現代を舞台にしているが、そうなると、どうしてもネモリーノの馬鹿さ加減が不自然になってしまうところを、道化っぽくすることによってうまく処理している。色彩的な舞台で、楽しさを演出する。

 歌もオーケストラも舞台もとても楽しめた。合唱団も観客も全員がマスクをしている。そのような時期の上演だったのだろうが、観客は、この閉塞状況をこの舞台によって跳ねとばしただろうと思う。

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ムローヴァ&ネトピル&読響 ムローヴァはやはりとてもよかった

 2022年12月2日、サントリーホールで読売日本交響楽団定期演奏会を聴いた。指揮はトマーシュ・ネトピル、曲目は前半にヴィクトリア・ムローヴァが加わってショスタコーヴィチのヴァイオリン協奏曲第1番、後半にモーツァルトの交響曲第25番とヤナーチェクの狂詩曲「タラス・ブーリバ」。

 ネトピルの指揮については,先日の読響定期の「新世界より」はとても良かったのだが、今日は少し疑問を覚えた。モーツァルトの交響曲でとりわけ顕著だが、くっきりと枠組みを作って、フレーズに大きな表情をつけ、対比を明確にしながら音楽を進める。わかりやすいし、メリハリがはっきりして、時に感動を呼ぶが、どうしても音楽が緩慢になり、自然に流れていかない。ショスタコーヴィチでは緊張感が薄れ、モーツァルトでは音楽が停滞し、ヤナーチェクでは、特有のイントネーションのあるこの作曲家特有のわけのわからない音楽の展開を、かみ砕いてわかりやすくしてしまって、せっかくの魅力を半減させてしまっているように思った。

「新世界」では、スケールの大きなとてもいい演奏を聴かせてくれたのだったが、少なくとも私の好きなショスタコーヴィチ、モーツァルト、ヤナーチェクにはならなかった。ただ、ショスタコーヴィチに関しては、ちょっと不満を持ちながらも、スケールが大きくなった分、やはり感動的な部分も多く、私は音の爆発に何度となく感動したことは伝えておく。

 ムローヴァに関しては素晴らしいと思った。昔のショスタコーヴィチの協奏曲のCDは何度か聴いたが、それは鮮烈な演奏だった。それを思い出した。ムローヴァもだいぶ丸くなったが、やはり相変わらずのテクニックと相変わらずのストイックでクールな演奏スタイルだと思った。もっと鋭く切り込んでほしいところ、ちょっと鈍くなって、その分、音楽が大きくなったのは指揮者の影響ではないかと思った。カデンツァの部分では、私はその鋭い音色に感動した。

 ヴァイオリンのアンコールはバッハの無伴奏パルティータ(「サラバンド」だっけ?あまり自信がない)。ちょっと草書体風の余裕のある演奏だった。これはこれで素晴らしい。

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