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映画「存在のない子供たち」「ある子供」「ロルナの祈り」「少年と自転車」「サンドラの週末」「午後八時の訪問者」

 DVDを購入して、映画を数本みた。レバノン映画とベルギー映画。簡単に感想を記す。

 

「存在のない子供たち」 2018年 ナディーン・ラバキー

「キャラメル」を監督・主演したレバノンの女性監督の作品。数年前にDVDでみて、ベイルートの状況に驚き、監督の手腕に驚き、この女性監督=監督のあまりの美貌に驚いたのだった。今回観た映画はもっと深刻。

 少年ゼインはシリアからの難民の子どもで、多くの妹や弟とともにレバノンのスラム街に住んでいる。11歳の妹が強制結婚させられるのに抗議して家出をして、エチオピア移民の女性ラヒルの厄介になる。ラヒルは偽の証明書で働いており、その間、ゼインは赤ん坊のヨナスの面倒を見て過ごすが、ラヒルはニセの証明書がばれて収容されてしまい、ゼインは一人で赤ん坊の面倒をみなければならなくなる。街のあちこちをさまよって、赤ん坊を育てようとするが、警察にとらえられる。そして、裁判の中で、自分を生んだ罪で両親を訴える。

 実にリアルにレバノンの現実を描いている。貧しい中であえぐ人々、移民の置かれている状況、移民の必死のサバイバル。そして、何より驚くのが、12歳の少年ゼインを演じる少年の演技力、まだ言葉も話せない、よちよち歩きの赤ん坊ヨナスの演技力。いったいどうやって撮影したのだろう! 

 暮らしが立たないのに次々と子どもを作り、国籍もなく、存在証明もなく、ただ苦しむためだけに生まれてきた子供をふやしていく移民。国家の側も対策が遅れ、一部の人の善意に頼ることしかできずにいる。そのような現状を、少年の目を通して描いている。

 とても感動的な映画だった。ただ、これを自宅のテレビ受像機で見るのはつらい。子どもたちがあまりに不憫で、みていられなくなる。私は何度もDVDを停止し、しばらくしてまた覚悟を決めてから再開した。

 

「ある子供」 2005年 ジャン=ピエール&リュック・ダルデンヌ監督

 ダルデンヌ兄弟の映画はこれまで「その手に触れるまで」(2019年)をみただけだった。とても良い映画だった。DVDを探しているうちに、数本、この兄弟監督の作品を見つけたので、みることにした。これはなかなかの佳作だと思う。

 ブリュノ(ジェレミー・レニエ)はこそ泥で日銭を稼いで食いつなぐ青年。恋人ソニア(デボラ・フランソワ)との間に男の子が生まれる。金に困ったブリュノは子どもを売ろうとするが、ソニアの怒りのために途中で断念。仲間たちから裏切者扱いされていっそう苦境に陥る。ソニアからも見放され、仲間の少年とともにひったくりをするが、少年が警察に捕まったために、自分も出頭。心を入れ替えて、ソニアの許しを請う。

 カメラはカップルの日常を淡々と追いかける。前半は、観客をいらだたせるほどの愚かなカップルの様子を映し出す。ソニアが怒りを爆発させても、ブリュノは懲りずにまじめに働こうとしない。「異化効果」というべきか、どうしようもないクズのブリュノを描いていく。心優しく悪気はないのだが、精神年齢が幼く、責任をもって生きていけない青年。この上なく弱くて卑怯な人間。ソニアを苦しめ、赤ん坊を苦しめ、ひったくりを手伝わせた少年を苦しめて、やっと自分の責任に目覚める。そのあたりの描き方がとてもリアル。

 ただ、ここまで極端に描かなくてもよかろうという気がする。私はここまで極端にダメ男が描かれると、むしろ少々不快になる。

 

「ロルナの祈り」 2008年 ジャン=ピエール&リュック・ダルデンヌ監督

 良い映画だと思うが、あまりにシリアスなために、みるのがつらかった。映画館ならもちろん続けて感動してみただろうが、自宅でこの種の映画をみると、忍びなくなって何度も中断してしまう。

 ロルナ(アルタ・ブロシ)はアルバニアからやって来て故国の恋人とお店を持つことを夢見て、ベルギーで必死の生活をしている。ヤク中のどうしようもない男クローディ(ジェレミー・レニエ)と同居しているが、それは国籍を得るために偽装結婚しているだけだ。ところが、麻薬をやめようとしてやめられないクローディに頼られ続けているうち、ロルナは愛を感じるようになって肉体関係を持つ。クローディは偽装結婚をあっせんする犯罪者集団に殺されるが、ロルナには妊娠の兆候が見られる。その後、ロルナは妊娠ではなかったと医師に知らされるが、それを信じず、生まれてくる子供とともに生きていこうとして、犯罪組織から逃げ惑う。

 リアルな現実なのかもしれない。犯罪組織は先進国の最底辺の人間と移住を希望する外国人を結び付け、そこから利益を得る。善良で、ただ必死で生きようとしている人たちが食い物にされる。その恐ろしい現実を、ダルデンヌ兄弟は淡々と、日常の些末な出来事を重ねながらリアルに描く。悩みを抱え、苦しみ、それでも必死な人たちの心の奥が画面から見えてくる。

 ただ、ここでもジェレミー・レニエがダメ男を演じているが、この映画でもやはり私にはしつこすぎて少々不快になる。ここまで人間の弱さを強調しなくてもよかろうに、と思ってしまう。

 最後に聞こえてくるブレンデルの弾くベートーヴェンのソナタ第32番の第2楽章「アリエッタ」(ベートーヴェンの本当に最後のソナタの最後の楽章!)の冒頭部分が心にしみる。

 

「少年と自転車」 2011年 ジャン=ピエール&リュック・ダルデンヌ監督

 児童養護施設で父親が迎えに来るのを待っている少年。しかし、父親(ジェレミー・レニエ)にその気はない。里親の美容師の女性サマンサ(セシル・ドゥ・フランス)に面倒を見られながら、父親を追いかけるが、父からは邪険にされ続ける。年上の犯罪者の仲間になって強盗を働くが、その犯罪者からも切り捨てられる。警察にとらえられ、強盗被害者への負い目もなくなって、里親と平穏な日を得て、二人でサイクリングに出かける。

 肉親に退けられ、周囲に疎んじられ、多くの人に敵意をもって生きる少年。自転車に乗ることを好み、あちこちに出かける。少年の心の痛みを日常生活のディテールを丁寧に描くことによってあぶりだしていく。

 映画の中で、ベートーヴェンのピアノ協奏曲第5番「皇帝」の第2楽章の断片が何度か聞こえてくるが、ピアノの音が聞こえる前にオーケストラの音は途切れる。エンドロールになってやっとピアノ独奏に叙情的な美しいメロディが聞こえてくる。穏やかな幸せを求めながらずっとそれに達しなかったが、最後になって、サマンサのおかげでそれを得たということだろう。

 ダルデンヌ兄弟の監督作品を3本見続けて、どうも私はこの兄弟の映画が好きになれない。人間失格と思われるような人間が毎回登場し、そのろくでなしの面が強調され、しかもそれが淡々とリアルに描かれるので、私は毎回イライラしてしまうのだ。

 確かに、ろくでなしを毎回演じるジェレミー・レニエはこれらの役にピッタリで感嘆してしまうほどなのだが、それにしてもろくでなし度がひどすぎはしないかと思ってしまう。そして、また、このろくでもない人間に対して、あまりに寛容な態度をとる人々が描かれることにも私はあまり説得力を感じない。ろくでなしを「弱い人間」として描いているのだろうが、共感できる範囲を超えているように思える。

「少年と自転車」にしても、なぜサマンサはこうまでして、この反抗的でかわいげのない少年を愛し、立ち直らせようとしているのか納得できない。そのような善意を訴えたいのかもしれないが、それにしてはその面を映画は十分に語ってくれない。説明過多にならない映画の作り方をしているのでやむを得ないとはいえ、もう少しサマンサの内面が理解できるような場面が欲しいと私は思ってしまう。

 

「サンドラの週末」 2015年 ジャン=ピエール&リュック・ダルデンヌ監督

 はっきり言って、私はまったく映画に、そしてヒロインに共感できなかった。

 サンドラ(マリオン・コティヤール)は病気から回復し、復職の予定だったが、社長から解雇を言い渡される。そして、社長は従業員にサンドラの復職かボーナス支給かを選ばせ、多くの社員がボーナス支給を決めたのだった。それを知ったサンドラは採決のやり直しを求め、従業員全員に会って、考えを変えるように説得して回る。結局、過半数に達しないが、社長が同情して臨時雇いの二人を代わりに解雇してサンドラを復職させる提案をするが、サンドラはそれを断る。

 まず、酷な二項対立を持ち出して従業員に決定させるという社長の提案したシステムがあまりに不条理。そして、それを覆そうとして、一人一人に会って自分の窮状を伝え、自分に味方してもらおうとするサンドラの行為も私にはあまりに強引で不道徳に思える。無理やり賛成させようとして、一人一人の自由意思を踏みにじっているとしか思えない。一人一人に、社会正義を訴え、資本家に対して共闘して戦おうと訴えかけるのならともかく、単に自分の都合のために相手の不利益を求めるのだから、自己本位も甚だしい。臨時雇いの従業員の立場を考えて自分が身を引くことをまるで美徳のように描かれているが、美徳というほどのこととは思えない。それにそもそも、このように自己本位で情緒不安定な人のためにほかの従業員が自分のボーナスを我慢しようとするとは思えない。

 そんなこんなで、私にはまったく説得力が感じられず、このサンドラも、これまでみたダルデンヌ兄弟の映画のダメ男たちと同じようなダメ女に見える。とことんだめで弱い人間を淡々と描くというのが、この兄弟監督の手法だと思うが、私はこのようなつくり方にあまり感動しない。

 

「午後8時の訪問者」 2016年 ジャン=ピエール&リュック・ダルデンヌ監督

 町の開業医の代理を務める女医のジェニーは、診療時間を過ぎて鳴るインターホンを無視する。ところが、のちにそこに映ったアフリカ系の女性が、その直後に殺害されたことを知る。ジェニーはドアを開けなかったことを後悔し、女性が何者なのか調べ始める。ところが、どうやら犯罪組織が関連しているようで、脅されたり、目撃者たちは言葉を濁したりする。そうして真相にたどり着く。

 サスペンス映画といえるだろうが、むしろ謎解きよりも、ひとつの殺人事件がその周辺の人々に様々な影響を与える様子を克明に描くところに主眼があると言えそうだ。ジェニーはより良い条件の大病院勤務の地位を捨てて開業医を続けようと決意する、研修医は悩みながら医師の道に進むことを決意する。殺人者の家族は自分たちを守るためにきゅうきゅうとする。被害女性の家族はジェニーの行動に感化されて、犯罪者との決別を考え始める。

 そうした状況を、淡々と、しかしリアルに描く。説明の少ない映像だが、それ以上に人間の存在感がある。ダルデンヌ兄弟の数本の映画にはあまり感動しなかったが、この作品は見事だと思った。。

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アルトシュテットのバッハ無伴奏チェロ組曲 とても良かったが、飽きてしまった!

 2023219日、紀尾井ホールでニコラ・アルトシュテットの無伴奏チェロ・リサイタルを聴いた。曲目はバッハの無伴奏チェロ組曲第1番から第5番。つまり、第6番を除くバッハの無伴奏組曲の全曲。

 まずは、あまりの技巧に驚いた。見ていて指がもつれそうな曲をやすやすと弾きこなす。これまで聴いたほかのチェリストだともっとゆっくりと演奏するところも、かなりのハイ・テンポでばりばりと弾きまくる。切れ味鋭く、鮮烈な音。しかも、音色を使い分け、それぞれの舞曲に合わせて見事に音楽を作っていく。時に音量を抑え、穏やかに、ある時には激しく。しかも、6つの舞曲を別々のものととらえるのではなく、一つの統一として演奏する。それぞれの舞曲を切って演奏するのでなく、まるでひとつながりのように、ほとんど間を置かずに演奏するのもそのような意図の表れだろう。一つの曲にも人生のドラマがあるのがよくわかる。

 しかも、第1番から第5番までを、これまた一つのつながりとしてとらえているようだ。第1番はまさに序奏、第2番、第3番と思いが深まって、第4番、第5番と、スパイラル式に同じような展開を取りながら、深く沈潜していく。

 ところが、ほれぼれしながら聴きながらも、実を言うとちょっと退屈した。確かにニュアンスをしっかりと弾いている。知性も感じるし、ともかく音は完璧にコントロールされている。ところが、なんだかすべてが同じように聞こえる。

 一時期、両親が都内のサービス付き高齢者向け住宅で暮らしていた。そこのレストランは味に定評があった。居住者だけでなく、面会客もそこで食べることができたので、私も何度か味わった。時に感動するほどおいしかった。和食、中華、洋食の三色から選ぶことができ、どれも高級レストラン並みの味だった。両親も初めのうちは喜んでいた。ところが、一月もすると、両親は、たまに検査などで出かけた病院で、さほどおいしいとは思えないカレーライスを食べたがるようになった。サービス付き高齢者向け住宅のレストランの料理は、どんなにおいしくて、どんなに細かいところを工夫していても、やはり基本の味はみんな同じなので飽きてしまう、父はそのように言っていた(その後、父は亡くなった)。

 アルトシュテットのチェロを聴きながら、それを思い出した。どれも見事。工夫をしている。しかし、すべてがハイスピードで進んでゆき、基本的には同じように味付けされた舞曲が30も続くと、どうしても飽きてくる。まだ、アルトシュテットは若すぎると思った。もっと根本のところで30の舞曲の作り出す世界を描き分けるだけの年齢と経験を積む必要があるのだろうと思った。

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新国立劇場オペラ研修所修了公演「コジ・ファン・トゥッテ」 素晴らしい上演!

 2023年2月17日、新国立劇場中劇場で、新国立劇場オペラ研修所修了公演「コジ・ファン・トゥッテ」をみた。指揮は星出豊、演出・指導は粟國淳、管弦楽は新国立アカデミーアンサンブル。私は数年前から、研修所公演を楽しみにみている。ここ数年は、あまり感銘を受ける上演ではなかったので残念に思っていたが、今回はとてもレベルの高い上演。とてもよかった。

 管弦楽はときどきずれや音割れがあったが、全体的にはしっかりと演奏。星出豊の指揮も、ゆっくりしたテンポで堅実に一歩一歩音を重ねていくくっきりした演奏で好感を持った。ただ、やはりこれは喜劇なので、後半、もう少しテンポをあげて、躍動感のある音楽にするほうがこのオペラらしいと思った。

 歌手陣はとても充実していた。その中で私が最も感銘を受けたのは、ドラベッラを歌った杉山沙織だった。第1幕のはじめこそ、少し本調子でなかったと思うが、その後、声が出てきた。しっかりした表現力でドラマティック。フィオルディリージの内山歌寿美も劣らず素晴らしかった。フィオルディリージの歌はどれも難しいので、名歌手たちでも低音が出なかったり、音程がずれたりといったことは往々にして起こるが、そこはしっかりと踏みとどまって、表現力豊かに歌った。ドン・アルフォンソの大久保惇史も声量豊かで歌に余裕があるのが、この役にふさわしい。

 グリエルモの長冨将士は音程の良い美声でしっかりと律儀なこの役を造形していた。フェルランドの髙畠伸吾は輝かしい声がとても魅力的だった。デスピーナの河田まりかは、この役にふさわしいかわいらしい容姿で、上手に「小間使役」の類型を自分のものにしていた。ただ、きれいな声だが、少し声量不足のため、表現の幅がやや狭いのを感じた。

 演出はきわめてオーソドックスだが、センスが良く、舞台の回転もとても要領を得ていた。ただ、笑いが起こらなかったのが残念。着実で堅実な演奏だったので、舞台にも躍動感が生まれなかったのが原因かもしれない。

 研修生による上演でこれほどまでに高レベルというのは驚くべきことだと思った。今後が楽しみな歌手たちだった。久しぶりにモーツァルトのオペラを堪能できた。やっぱりモーツァルトのオペラは楽しい!

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フルシャ&N響のブラームス  私の好みの演奏ではなかった

 2023215日、サントリーホールでNHK交響楽団のコンサートを聴いた。指揮はヤクブ・フルシャ。曲目は、前半にドヴォルザークの序曲「フス教徒」と、ピョートル・アンデルシュフスキのピアノが加わってシマノフスキの交響曲第4番「協奏交響曲」。後半にブラームスの交響曲第4番。

 私の席のせいかもしれない。全体のバランスがよくないのを感じた。シマノフスキの交響曲については、後期ロマン派らしい叙情的で官能的な音がしなり、そこに芯が強く、しかも弱音の美しいピアノが加わって、とても良かったのだが、ドヴォルザークとブラームスで、低弦が少し強すぎ、しかもほんの少し遅れているように聞こえた。ただ、それを除けば、ドヴォルザークは親しみやすいメロディとしっかりしたオーケストレーションを楽しめたし、シマノフスキは濃厚なリリシズムを味わえた。

 私が不満を覚えたのは後半のブラームスだった。かなり個性的な解釈だと思う。フルシャが部分部分を強調。その部分だけをとれば納得できるのだが、そうすると全体の流れが崩れてしまう。しばしばぐっとテンポを落としてじっくりと、あるいは力感を込めて演奏をする。だが、どうしてもぎくしゃくしてくる。第1楽章も不発に思えたし、第2楽章は、部分部分のつぎはぎのようになっていた。第3楽章も位置づけがわからなくなり、第4楽章のパッサカリアでは、変奏と変奏がつながらなくなっていた。

 今日は私の好みの演奏ではなかった。残念。

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「メタモルフォーゼン」に感動した

 202326日、ヤマハホールで伊藤亮太郎と名手たちによる弦楽アンサンブルを聴いた。

 演奏は伊藤亮太郎のほか、横溝耕一(ヴァイオリン)、柳瀬省太・大島亮(ビオラ)、横坂源・辻本玲(チェロ)。曲目は、ボロディンの弦楽六重奏曲ニ短調、チャイコフスキーの弦楽六重奏曲「フィレンツェの思い出」、そして、リヒャルト・シュトラウスの弦楽六重奏のための「カプリッチョ」と、最後に西山真二(コントラバス)が加わって「メタモルフォーゼン」(弦楽七重奏編)。

 ボロディンの曲は初めて聴いた。ロシア的情緒に溢れた曲。ただ、後半の2つの楽章は散逸したということで、第二楽章まででおしまい。中途半端な感じは否めない。チャイコフスキーの「フィレンツェの思い出」は、中身の濃い充実した演奏。一つ一つの楽器がとても雄弁でチャイコフスキーの思いを心いっぱいに伝えている。見事なアンサンブルだと思う。ピタリと音色があって、深い彩りを作り出す。とてもよかった。

 後半のリヒャルトシュトラウスの演奏は、前半以上に素晴らしかった。「カプリッツォ」の官能的で、しんみりした音色にも心惹かれたが、「メタモルフォーゼン」はまさに感動的だった。官能的な思い、悲痛な思い、絶望からよみがえろうとする命、そんなものが一つ一つの楽器に込められて、次から次へと音色を変えて行く。変容に変容を重ね、最後に、ベートーヴェンの「エロイカ」の葬送行進曲の断片が聞こえてくる。つまりこの曲全体が葬送行進曲をめぐる変奏であったことが最後に種明かしされるという作りになっている。第二次世界大戦の荒廃を目の当たりにしたシュトラウスの思いが深く突き刺さった。

 この曲は、これまで何度か実演を聞いたことがあるが、これほどまでに異様なリアリティを持って迫ってきたのは初めてだった。本当に素晴らしい演奏だった。深く感動した。

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樫本&ル・サージュ 内省的なブラームスの3番

 202323日、サントリーホールで樫本大進&エリック・ル・サージュのリサイタルを聴いた。曲目は、前半にシューマンのヴァイオリン・ソナタ第1番とブラームスのヴァイオリン・ソナタ第2番、後半にシューマンのヴァイオリン・ソナタ第3番イ短調WoO27、ブラームスのヴァイオリン・ソナタ第3番。

 正直言って、前半はおもしろいと思わなかった。とても内省的な演奏だと思う。そうだとすると、このホールは大きすぎる。それに、シューマンの第1番がやけにおとなしい曲になっている。樫本大進のヴァイオリンは誇張せず、ロマンティックでありながらもかなり行儀がいい。まさに内省的に自らの心の中を探るような音楽。

 私はシューマンのヴァイオリン曲を聴くと、いつもどうしても狂気のようなものを感じるのだが、それがない。私はけっしてシューマンの狂気は好きではなく、居心地の悪さを強く感じる(だから、シューマンは好きな作曲家ではない!)のだが、樫本とル・サージュのような、おとなしくて狂気じみたところのないシューマンを聴くと、シューマンの音楽にとって狂気じみたところは大きな魅力なのだと強く思う。これがないと、気の抜けたビールのような感じになる。

 後半も シューマンの第3番は、狂気の中で死の前年に作曲し、死後にまとめられた曲。この時代のシューマンらしいよくわからない音楽だと私は思った。ただ、前半と違って、まぎれもなく狂気のようなものを感じた。わけのわからない曲だと思ったが、それはそれで、これぞシューマンだとも思った。

 ブラームスの第3番は素晴らしかった。ただ、やはりこれももっと狭いホールで、演奏者と一体になれるような親密な空間で聴きたかった。そうするにふさわしい演奏だと思った。ブラームスの心の嘆き、やるせない感情、ぐっと抑えた熱情がこみあげてくる。ヴァイオリンとピアノがぴたりと合っている。ル・サージュのピアノはとても知的でしっかりした音。最後には感動した。

 アンコール曲については、ル・サージュが日本語で曲名を言ったが、聞き取れなかった。曲を聴いて、もしかしたら、「クララ・シューマンのロマンス」といったのかな?と思った。確か、クララにこんな曲があった。2曲目も同じロマンスの中の曲だろうか。しみじみとしたロマンティックな曲だった。

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