引っ越しのこと、そして日フィルの健康的すぎる「道化師」
6日かけて、引っ越しをしていた。妻を亡くしたことで、子どもたちが老父(つまり私!)の心配をしてくれて、今の家を取り壊して二世帯住宅に建て替えることにした。我が家には一般家庭では珍しい可動式の書架があり、そこに大量の本と音楽ソフトが積まれているので、それを運ぶのに、これだけの労力と時間がかかった(必然的に費用もかかった!)。
その間、家の荷物のほとんどはレンタルルームに保管し、私はこれまで仕事場として使っていたマンションで暮らすことになる。自宅は多摩地区のはずれにあったが、マンションは山手線の駅からすぐ近く。狭いが、かなり便利にはなる。
マンション暮らしを始めた初日である2023年7月7日、サントリーホールで、日本フィルハーモニー交響楽団定期演奏会、レオンカヴァッロの歌劇「道化師」(演奏会形式)を聴いた。指揮は広上淳一。
歌手陣は、それぞれの役の最高の布陣といってもよいのではないか。やはり、カニオの笛田博昭が圧倒的な声量で輝かしくも強靭に歌う。「衣装をつけろ」も圧巻。ネッダの竹多倫子も笛木に負けない声量で見事に歌う。トニオの上江隼人も前口上も含めて、複雑な役をしっかりとした解釈で立派な声で歌う。ベッペの小堀勇介も、この役がこれほど重要だったかと再認識させるような輝かしい声。シルヴィオの池内響もまじめな優男を造形している。合唱は東京音楽大学、児童合唱は杉並児童合唱団。これもとてもよかった。
ただ、実をいうと、私はこの音楽にあまり乗り切れなかった。簡単に言うと、「音が健康的すぎる」とでも表現するか。
このオペラには善人は出てこない。みんなが利己的で差別的で心に闇を抱いている。そんな人物たちのやりきれない愛のもつれがドラマティックに、しかもリアルに描かれるのがこのオペラだ。だが、歌手陣はみんなが見事な大声で歌う。広上の指揮も、スケール大きく音楽を作る。だが、そうすると、人間のどす黒い欲望、やりきれない感情、内にこもってふつふつとわいてくる屈折した思いが表現されない。かなり健康的な音になってしまう。そして、ずっと劇的に、ずっと大きな音で演奏されると、それはそれでちょっと一本調子に感じてしまう。
とはいえ、日本人のオペラがこれだけのレベルになったことには、改めて驚くしかない。今日の出演者たちは、全員が極めて音程が正確で声が出ており、申し分なかった。十分に世界に通じる歌手陣と言えるのではないか。
ところで、どういうわけか、今日の私の席に周辺に、演奏中、プログラムをパラパラめくり続ける人が目立った。私の周囲だけで5人いた! たまたまかもしれないが、全員が女性だった。ふだんのコンサートでもそのような人がいて、音の面でも視覚の面でも気になるが、今日は演目が演奏会形式のオペラなのであらすじを確認しているのか、いっそう目立った。それにしても、長い間、かなりの音を立ててめくり続けていた。オペラのあらすじくらい、前もって確認しておいて、演奏中は音楽に集中するのが、演奏家に対しての、そして音楽そのものに対しての礼儀だと思うのだが。
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コメント
私は翌日の演奏会に行きました。歌手がほんとうに良く、またオーケストラも良かったと思います。じつはこのオペラはあまり好きなオペラではなかったのですが、演奏会形式だと音楽がよくわかり、期待以上に楽しめました。
引っ越し、お疲れ様です。暑い中、大変だったのではないでしょうか。ゆっくり疲れを取ってください。
投稿: Eno | 2023年7月 9日 (日) 15時29分
Eno 様
コメント、ありがとうございます。
ブログを読ませていただきました。実は私の感想と重なる部分があります。いえ、むしろ私もそっくり同じように感じたのでした。が、私は、このオペラが、ロッシーニ以外のイタリア・オペラでは最も好きですので、Eno 様のおっしゃるとおりであるがゆえに、不満を抱いたのでした。
コメディア・デッラルテを劇中劇として用いるというあざとさ、前口上というわざとらしさも、見事にこのストーリーにはまっていると思うのです。わざとらしさと生の真実、虚実ないまぜの醍醐味とでも言いましょうか。
それを、こんなに明晰で、こんなに立派にまっすぐに演奏されると、昏くてどす黒くて、しかもけばけばしく騒がしい二重性にあふれるこのオペラの魅力が失われるような気がしたのでした。
投稿: 樋口裕一 | 2023年7月13日 (木) 22時54分
樋口様のおっしゃることはよく分かります。私はあの「道化師」を聴いて、最近のマーラー演奏を思い出しました。だれの演奏ということではないのですが、一般的なトレンドとして、マーラーの毒気がすっかりなくなり、さわやかで爽快感さえある演奏が増えたような気がします。マーラーの毒はどこへいった?という思いがしないわけではありませんが、アンサンブルの優秀さはたいしたもので、そんな演奏を楽しんでいる自分に気付きました。
投稿: Eno | 2023年7月14日 (金) 13時29分
Eno 様
コメント、ありがとうございます。
先日、私はミンコフスキ、都響のブルックナーを聴いて、大いに感動したのですが、これもかなり明るくて健康的でした。ただ、やはりディオニュソス的な雰囲気のものをもっと聴きたいと思うのです。
投稿: 樋口裕一 | 2023年7月18日 (火) 17時01分