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オペラ映像「カーチャ・カバノヴァー」「王様の子供たち」「影のない女」

 酷暑が続いている。まさに危険な暑さ。外に出る気になれない。現在、一人暮らしなのでスーパーなどに買い物に出ているが、暑くならないうちや、少し暑さが和らいでからさっさと出かける程度。気象も政治も経済も狂っているとしか言いようがない。

 そんな中、オペラ映像を数本見たので、簡単に感想を書く。

 

ヤナーチェク 「カーチャ・カバノヴァー」 20228月 ザルツブルク音楽祭 フェルゼンライトシューレ

 

 素晴らしい上演。「カーチャ・カバノヴァー」はヤナーチェク作品の中で最も好きなオペラだ。期待してみたが、期待以上。

 まず、カーチャを歌うコリーヌ・ウィンターズに圧倒された。これまで私のみたカーチャの中で最高(と言っても、めったに上演されず、映像も少ないが)。清楚で美しい容姿と強靭な澄んだ声で、抑圧され人権を蹂躙された健気な女性を見事に歌い、演じる。以前、英国ロイヤルオペラでフィオルディリージを歌う映像を見てとてもいい歌手だと思っていたが、今回はもっと驚嘆した。ボリスを歌うデイヴィッド・バット・フィリップもきれいな声で申し分ない。そして、傲慢で抑圧的なカバニハを歌うエヴェリン・ヘルリツィウスがさすがの貫禄。憎々しいほどの演技と歌。

 バリー・コスキーの演出もとてもいい。フェルゼンライトシューレの横に広い会場の特性をうまく利用している。登場人物は全員が現代の服装。黙役の群衆が最後から最後まで舞台の奥で背を向けて立っている。その中からセリフを与えられた人物が現れて、オペラが展開していく。群衆の何人かが振り向くと、その人々は顔のほぼ全体を肌色のマスクで覆っている。人に背を向け、人の苦悩に関心を持たず、だんまりを決め込み、抑圧の側に回る、まさに物言わぬ群衆! 無言の圧力! そこで田舎の抑圧が展開される。若さにあふれるカーチャやヴァルヴァラは激しく動き回る。チホンはかなり老けているのも演出のうちか。ただ、カバニハがサディズムの性的嗜好を持っているかのように描くのはむしろ平凡な田舎での伝統的な抑圧状況から離れて説得力を欠くように思うのだが。

 ヤクブ・フルシャ指揮のウィーン・フィルも素晴らしい。精妙にして官能的で暴力的。抑圧状況を音で描く。ヤナーチェク特有のローカル色がないのが、私としては寂しいが、むしろ普遍的なものとしてこのテーマを描こうとしているのだろう。

 演奏、演出ともに最高に満足できる「カーチャ・カバノヴァ」だと思う。

 

フンパーディンク 「王の子供たち」20221013,18日 アムステルダム、オランダ国立歌劇場

 

 以前、メッツマッハー指揮、イエンス=ダニエル・ヘルツォーク演出、王様の息子をカウフマンが歌う映像をみたことがあったが、なんと、このめったに上演されないオペラまでも読み替え演出してわけのわからないストーリーにしていた。そんなわけで、今回の映像を見てやっとストーリーを理解した。ただ、寓話だということははっきりしているものの、いったい何が言いたいのかよくわからず、あれこれと辻褄が合わないストーリーではある。その点で、音楽的にも筋立て的にも、作曲者フンパーディンクの師であったワーグナーの「パルジファル」を連想させるような面があるのはおもしろい。

 演奏はとてもいい。マルク・アルブレヒトの指揮も緊張感があり、叙情性もある。歌手陣も充実している。王の息子のダニエル・ベーレは高貴な声で、まるでパルジファルのように歌う。そのうち本当にパルジファルを歌う(あるいは、すでに歌っている?)のではないか。ガチョウ娘のオルガ・クルチンスカも透明で強い声。吟遊詩人のヨーゼフ・ワーグナーも太めのしっかりした美声。その他の歌手陣もまったく穴がなく、緊密なアンサンブルを作っている。

 演出はクリストフ・ロイ。第2幕まで、登場人物の衣装はすべて白。舞台の小道具もほとんどが白。第3幕の悲劇的な冬の場面になってからは、黒い色が増えて暗い雰囲気が増してくるが、ここでも白が基調になっている。まさしく抽象的な舞台。現実ではない、架空の世界であることを浮き彫りにしたのだろう。

 フンパーディンクの意図がどこにあったかは定かではないが、少なくとも、この演出からは、正統な後継者であるべき王の子どもたちを愚かな民衆が排斥し、自ら社会を廃墟にしてしまうという寓意が浮かび上がってくる。それはそれでとても説得力がある。

 

「影のない女」 バーデン・バーデン復活祭音楽祭2023(NHKプレミアム)

 キリル・ペトレンコがベルリン・フィルを率いてのバーデン・バーデン復活祭音楽祭の「影のない女」とあっては注目しないわけにはいかない。NHKに感謝。

 とはいえ、近年のオペラ上演を観るたびに繰り返してきたことを、ここでもまた言わなければならない。演奏は見事だが、演出があまりに噴飯もの!

 ただ、演奏に関しても、私は実演を聴いた2011年のザルツブルク音楽祭でのティーレマン指揮のウィーン・フィルの演奏のほうがずっと良かったように思った。ペトレンコの指揮は確かにシュトラウスのくんずほぐれつの色彩的なオーケストレーションを最高度に美しく聴かせてくれているのだが、なんだか柔らかすぎて芯がない気がする。しなやかで官能的なのもいいが、このオペラはもっと推進力があって芯の強いものではなかろうか。

 歌手陣の歌については私に不満はない。皇后のエルザ・ファン・デン・ヘーヴァー、乳母のミヒャエラ・シュスター、皇帝のクレイ・ヒリー、バラクのウォルフガング・コッホ、バラクの妻のミナ・リザ・ヴァレラ、いずれもよく歌っている。ただ、発育の良い男性陣がスーツ姿で歌うと、まるで力士がスーツを着ているようになって、大写しで見るのはつらい。やはり力士は浴衣姿がふさわしく、恰幅の良い歌手陣はそれなりの台本に即した衣装がふさわしい。

 それよりなにより、私はリディア・シュタイアーによる演出に問題を感じる。どうやら、オペラ全体を修道院にいる、妊娠してつわりで苦しむ少女の妄想に見立てているとのことで、黙役の少女が、歌手たちに交じってずっとパントマイムをしている! 気になって音楽に集中できない。しかも、最後には、歌手たちがハッピーエンドに終わって子どもを産むことの賛歌を歌っているのに、少女は怒りに任せて土を掘り続ける。音楽の興を殺ぐこと甚だしい。それどころか、音楽を真正面から否定している。

 少女は土を掘ることによって自分が子どもを産むことの意味を探しているのだろうか。最後の場面は、「登場人物たちは子どもを産むことができた。だが、私はどうなる! 子どもを産むことのできない人、様々な事情のある人はどうなる!」という少女のプロテストを表現しているのだろうか。

 だが、いずれにしても、演出家が作曲家の音楽を邪魔して、せっかくの盛り上がりを否定してよいことにはならないだろう。いや、そもそもホフマンスタールの見事な台本があり、テーマがあるのにそれを捻じ曲げて、少女の妄想などをでっちあげる権利が演出家にあるとは思えない。もっと言わせてもらえば、このところ、黙役を主要な役にしてパントマイムをさせてオペラとは別の話をでっちあげる演出が流行しているが、それはオペラの演出を放棄して、それとは別の自分の物語を語っているだけだと私には思える。いつまで、このような演出家の愚かな暴挙を人々は許すのだろう。

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吉田志門のフォレと木下牧子の歌曲に感動!

 2023824日、ムジカーザで吉田志門・碇大知のリサイタル「いちばんすきなひとに」を聴いた。素晴らしかった。

 テノールの吉田志門については以前から名前は知っていたが、初めてリサイタルに足を運んだのは今年の1月だった。これまで聴いてきた世界的なテノールに匹敵する「水車小屋の娘」だと思った。今回、木下牧子の歌曲を中心に歌うとあって出かけてみた。

 木下牧子とフォレ(一般にフォーレと表記されるが、確かに、フォレのほうが原音に近い。本日のプログラムでも吉田さんのトークでも一貫してフォレとされていたので、ここでもそれにならう)の歌曲が数曲ずつ交代に歌われた。木下牧子は、確かにフォレに似た雰囲気がある。言葉を大事にし、繊細で内面的。ピアノのパートもまさに珠玉!

 木下牧子の「ほんとにきれい」「うぐいす」「竹とんぼ」「うつくしいもの」「秋のかなしみ」「きんいろの太陽がもえる朝に」など、素晴らしいと思った。そして、本日のリサイタルのタイトルにもなっている「いちばんすきなひとに」。これは確かに別格。フォレに似て、決して声を張り上げることなく、静かに淡々と深くて情熱的な感情を歌い上げる。それを吉田が素晴らしい美声で見事に歌う。感動した。ピアノの碇もしっかりと抒情を奏でる。

 私は日本歌曲をあまり聴かない。以前(たぶん、1970年代)、伊藤京子のリサイタルを聴いて、ほかの歌手の歌うのよりは聴きやすかったが、それでも西洋的なソプラノで歌われる日本語にかなり違和感があった。その後、ドイツやフランスの歌曲のプログラムに混じった日本歌曲も聴くことも何度かあったが、そのたびに、やはり西洋式歌唱と日本語は合わないと思ってきた。

 だが、吉田志門の木下牧子を聴くと、まったくそんなことはない! 木下牧子の歌曲自体がきわめて自然な日本語だが、吉田の語り口もまさに日本語の発声で、日本語の詩を歌っている。言葉がはっきりと聞き取れ、言葉の意味がしっかりと伝わる。リリックではあるが、知的にコントロールされているので、いっそう詩情が伝わる。

 木下牧子の歌曲がフォレの歌曲にまったく引けを取らないと示してくれた。ぜひ吉田の歌で木下牧子の真価を世界に知らせてほしいと思う。

 フォレの歌曲も素晴らしかった。初期のフォレの初々しい感情のほとばしりがしっとりと繊細に、しっかりしたフランス語で歌われた。フランス語の響きを大事にして繊細に歌っているのがよくわかったが、ただ鼻母音がかなり控えめなのが気になった。何か意図があったのだろうか。

 アンコールは木下牧子の「ねこぜんまい」、フォレの「消えない香り」、そして木下牧子の「音楽」。いずれも素晴らしい!

 吉田志門は、私の知る限り、初めて日本に現れた世界的なリート歌手(フランス語では、リートと言わずメロディというが)だと思う。今後が楽しみだ。

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映画「崖上のスパイ」「悲情城市」「赤い闇」「オネーギンの恋文」

 酷暑が続いている。今日は、午前中は雨が降って少し落ち着いているが、また午後になるとひどい暑さになるだろう。

 妻の新盆、一周忌を終え、一息ついている。この一、二年、まったく想定していなかったことが次々起こって、あたふたするばかりだったが、そろそろ自分の時間を大事にして生きていくことを心掛けたい。

 ソフトを購入して数本の映画を見たので、簡単な感想を記す。

 

「崖上のスパイ」 チャン・イーモウ監督 2021

 チャン・イーモウ監督の映画。昨年だったか、日本で公開されたが、ぐずぐずしているうちに終わってしまった。DVDを見つけて購入。

 日本が傀儡国家・満州を建国した時代。ソ連で訓練を受けた男女4人が満州国に潜入して、「ウートラ作戦」を行おうとする。だが、味方の裏切りによって満州の特務警察がその動きを察知して、4人を泳がせながら「ウートラ作戦」を探ろうとする。ところが、特務警察の中にもスパイがいて、四人を手助けする。そのようなサスペンス。映像美は見事。ハラハラドキドキ。

 ただ、残念ながら、私には登場人物の顔の区別がつかず、実に参った。敵味方入り乱れるのに、顔の識別ができないとどうにもならない。しかも、けがをしたり拷問を受けたりして、顔がはれていたりするし、満州の冬なので厚着をして顔を覆っている。これでは、いっそうわからなくなる!

 途中で初めから見直した。最後まで見たあとも、また飛ばし飛ばし見直してみた。だが、それでもまだ識別できず! 男たちもわからないし、よく見ないと女性スパイと特務警察の女性の区別もつかない! 私はとりわけ識別能力が劣るという自覚があるのだが、ネットのレビューを見たら、多くの人が私と同じように顔の識別ができなかったことを書いている。

 もう少し顔の識別という点に考慮して作ってほしかったと思うのは、私自身の能力欠如を十分に認識していないわがままな願いだろうか。

 

「悲情城市」 1989年  侯孝賢(ホウ・シャオシェン)監督

 先日みた「少年」があまりに鮮烈だったので、ホウ・シャオシェンの代表作といわれる台湾映画「悲情城市」のDVDを購入。

 映画は玉音放送で始まる。台湾の基隆に住む林家の四兄弟を通して、まさに終戦になって日本が台湾から離れる日から国民党政府の樹立までの4年間を描く。中心をなすのは、四男の文清(トニー・レオン)。日本という支配者が去ると、その後、もっと横暴な大陸人がやって来て、台湾は翻弄される。その様子が描かれる。長男は上海マフィアに殺され、次男は戦争で行方不明のまま、三男は上海マフィアとの闘いの中で精神を病み、四男・文清は台湾独立運動に巻き込まれて官憲に連行されたまま消息不明になる。

 四男・文清役の香港スターであるトニー・レオンが台湾語を話せないためにやむなく聾唖の役にしたというが、それが成功している。聾唖者が中心にいるために、映像に不思議な空間ができて、リアルな悲劇が神話のようなポエジーを生み出す。まさしく叙事詩になる。しかも、その聾唖者である文清は写真館を営んでいる。流動するリアルな事件を普遍的な歴史として永遠化させるのが写真の役割だ。こうして、知的で善良な聾唖者を通して、日本の敗北、中国からやってきた大陸人の横暴、台湾人の反抗が一つの叙事詩となって浮かび上がる。

 この映画で観光地として有名になったといわれる九份の光景もこの映画の魅力の一つだろう。映像が美しく、詩情があふれ出る。

 ただ、この映画でも私は林家の人々や上海マフィアの人々、文清のもとを訪れる知識人たちの顔の識別ができず、途中でDVDを見直さなければならなかった。私の能力不足なのだろうが、何とかならないものかと思ってしまう。私以外の人は、これをきちんと識別できるのだろうか?

 

「赤い闇 スターリンの冷たい大地で」 アグニエシュカ・ホランド監督 2019

 ヒトラーの取材経験があり、ロイド・ジョージに顧問をしていたジャーナリスト、ガレス・ジョーンズ(ジェームス・ノートン)は、スターリンの取材をしようとモスクワに出かける。ところが、モスクワで会うつもりだった仲間のジャーナリストが殺されている。疑問を持ったジョーンズは、スターリンの宣伝する革命の成功を疑い、単身ウクライナに赴き、そこで餓死する人々を目撃し、飢餓の中を彷徨う。生還した後、周囲の無理解にもかかわらず、スターリンの欺瞞とソ連の実情を訴え続ける。

 リアルに描かれており、とても説得力がある。権力者の農業指導が誤っているために不作になり、しかも、収穫された穀物はモスクワに送られて、現地には残されない。ウクライナはソ連中枢の植民地のようにされている。そのような状況が描かれる。現在のロシアとウクライナの戦争の原点がこのような点にあることもよく理解できる。

 よくできた映画だが、まあ予想通りといった感じで、特に感動はしなかった。

 

「オネーギンの恋文」1999年 マーサ・ファインズ監督

 チャイコフスキーのオペラ「エフゲニ・オネーギン」が大好きなので、ひょいとこの映画DVDを見つけて購入。細かいところでは、プーシキンの原作(ただ、家の建て替えのため、蔵書はレンタルルームに入れて仮住まいで暮らしているので、すぐには確かめられない)とも、オペラとも少し話が違うが、基本的には大差ない。最も大きな違いは、オネーギンとレンスキーの決闘が雪の中の郊外ではなく、湖畔で行われることだろうか。

 ただ、オネーギン(レイフ・ファインズ。監督はレイフ・ファインズの妹だとのこと)の造形が不十分で、映画をみるだけでは、なぜタチアナ(リヴ・タイラー)がオネーギンに惹かれて恋文を書くのか、なゼオネーギンはタチアナの恋文に冷淡だったのか、なぜオネーギンはレンスキーをからかったのか、なぜ最後にタチアナに夢中になるのかが納得できない。何の説明もなしに音楽だけで描かれるオペラのほうが説得力があると思った。もう少し、初々しくもひねたニヒリストであるオネーギン、純情なレンスキー、夢見る少女だったのが大人として脱却するタチアナを描いてほしいと思った。

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映画「ふたりのマエストロ」 おもしろかったが、なぜかオペラが演奏されなかった!

 ブリュノ・シッシュ監督のフランス映画「ふたりのマエストロ」(2022)をみた。芸術的な名作というわけではないが、クラシック音楽好きの私にはとても楽しめる映画だった。

 フランソワ・デュマール(ピエール・アリディティ)とドニ・デュマール(イヴァン・アタル)。父と子で同じ指揮者の仕事をしているが、決して親子の仲は良くない。どうやら父は少し不遇のようで、息子の方は大活躍中(なにやらヤンソンス父子、ヤルヴィ父子を思い起こしてしまう。ただ、これらの実在の父子は仲が良いと聞いているが)。嫉妬なのかほかに事情があるのか、父は息子の受賞に不快感を隠さない。そして、こともあろうに、ミラノ・スカラ座の支配人は、息子に音楽監督の依頼をしようとするが、秘書の勘違いで父に依頼してしまう。父はその気になるが、事実を知った息子はどう伝えるかを悩む。もろもろの葛藤ののち、最後、スカラ座の就任公演で二人がともに指揮台に立って同時に指揮をして、見事な「フィガロの結婚」序曲を演奏することで和解する。

 息子のドニが、その息子(つまり、フランソワの孫)とピアノ連弾をする場面がある。そこで二人が心を通わせることが、最後の場面の伏線になっている。

 現実には二人の指揮者がタクトを振るということはあり得ない(ベートーヴェンの第九の初演で、耳の聞こえないベートーヴェンの横に副指揮者が立ったという有名なエピソードはあるが)し、もしそんなことになったら、オーケストラは大混乱するだろう。しかし、二人のタクトのリズムはぴたりと合って、確かにこのようなタクトだったらもしかしたら演奏は成り立つかもしれないと思わせる。とても感動的な場面。私の目には涙がにじんだ。

 劇中にクラシック音楽がかなり出てくるが、ミラノ・スカラ座(もちろん、歌劇場!)にかかわる話なのにオペラがまったくかからない。きっと意図的だろう。ドヴォルザークの「母の教えてくれた歌」、ベートーヴェンの第九の第2楽章、ラフマニノフの「ヴォカリーズ」、モーツァルトの「フィガロの結婚」序曲、モーツァルトの「ラウダーテ・ドミヌム」、カッチーニ作とされる「アヴェ・マリア」、シューベルトの「セレナーデ」など、声楽曲、本来声楽で演奏される曲、声楽の入る部分のある曲、そしてオペラの序曲が出てくるが、オペラそのものが演奏されない。いわば、オペラの周辺のタイプの音楽ばかり。ドニは経験不足ということなので、おそらくオペラを振った経験があまりないということだろうが、それにしても、もし、ふつうにこの映画を作るとすれば、主人公がスカラ座の音楽監督に就任しようというのだから、ヴェルディやプッチーニやドニゼッティやベッリーニやロッシーニ、あるいはモーツァルトのオペラの演奏場面が出てきそうなものだ。ところが、見事にそれらが避けられている!

 なぜだろう。さっきから考えているが、答えが見つからない。

 まったく自信はないが、一つだけ仮説を思いついた。もしかしたら、シッシュ監督は、「これは実際にはありえない虚構の話なんです」という徴として、オペラを用いなかったのではないか。オペラを用いると、リアルなスカラ座の音楽監督をめぐる物語になってしまう。そうなると、最後の二人の指揮者が同時に指揮をする場面はあまりに荒唐無稽。それを避けて、あえて父と子の和解に関する、実際にはありえない寓話になるように最後の場面を作り、オペラを避けた・・・。あまり説得力はないのかもしれないが・・・。今のところ、このくらいのことしか思いつかない。

 ともあれ、楽しめたので、それで良しとしよう。

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飯守泰次郎の訃報をみた!

 2023817日、朝、友人からのLINEでマエストロ飯守泰次郎が15日に亡くなったことを知らされた。新聞でも確かめた。とても残念、とても悲しい。

 私が最初に飯守先生の演奏を聴いたのは、1972年、二期会の「ワルキューレ」公演だった。この若い指揮者は何者なんだ?と話題になったのを覚えている。それまでレコードで聴くばかりだった「ワルキューレ」の実演を日本人指揮者、日本人歌手で見て感動した。ワーグナーのまさに本格的演奏だった。私はいっぺんで飯守ファンになった。それ以来、ずっと飯守さんに注目していた。

 東京シティフィルのワーグナーシリーズ、ブルックナー・シリーズはほとんどすべて聴いた。素晴らしい演奏だった。「フィデリオ」「こうもり」などのオペラも公演のたびに出かけた。京都や名古屋にも足を運んだ。何度、感動で身を震わせたことか! おそらく、私が最も数多くの実演を聴いた指揮者は飯守さんだろう。しっかりと地に足をつけたオーソドックスな解釈だが、しっかりと自己主張をし、納得できる形で世界を広げてくれた。稀有な指揮者だった。

 何度か個人的にお話したことがある。最初は、バイロイト音楽祭で知り合った仲間たちと押しかけてワーグナー談義をさせていただいた。その後、私がラ・フォル・ジュルネのアンバサダーになるなどしていたために顔を覚えていただいたようで、声をかけていただいたこともある。私がブログに飯守さんの演奏の感想を書いた後に顔を合わせた時、それについて意見を言ってくださった。新国立劇場でお会いすると会釈をしてくださることも多かった。

 近年、「もう飯守さんはブルックナーもほかの作曲家も繰り返し聴いて、どんな指揮をするかわかっているので、しばらく聴かなくていいか」という気になって、公演から遠ざかっていた。おからだがよくないとは聞いていたが、まさかこんなにすぐに亡くなるとは思っていなかったので、あと少ししてまた聴かせていただこうと思っていた。こんなことになって本当に残念!

 また日本は優れた才能を亡くした。飯守さんの実演をもう聴けないと思うと本当に悲しい。

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フォーレのピアノ四重奏曲 自分の悲しみにじかに触れるような音楽

 2023816日、東京芸術劇場で、「芸劇ブランチコンサート 〜清水和音の名曲ラウンジ〜 第43回 フォーレの世界にひたる」を聴いた。出演はピアノの清水和音のほか、チェロの佐藤晴真、ヴァイオリンの藤江扶紀、ヴィオラの佐々木亮。大御所の清水と佐々木のほかは、近年脚光を浴びている若手演奏家と言ってよいだろう。

 プログラムは、すべてのフォーレの作品で、チェロとピアノの演奏で、「シシリエンヌ」「エレジー」、ヴァイオリンとピアノの演奏で「ロマンス」変ロ長調、ヴィオラとピアノで「子守歌」、最後にピアノ四重奏曲第1番ハ短調。

 佐藤のチェロは音程の良いしっかりした音でロマンティックに歌う。フォーレらしい内向的な情熱が感じられた。私はエレジーの馥郁たる音にしびれた。藤江のヴァイオリンは音色が素晴らしい。気品があり、清潔でのびのびしている。心が洗われるような純粋な音だと思う。佐々木のヴィオラはしっかりと地に足を付けながらロマンティック。清水のピアノは音楽を推進していく。

 四重奏は飛び切りよかった。常設ではないメンバーでこれほど息のあった演奏を聴かせてくれることに驚いた。バランスがしっかりと取れている。もしかすると、ヴィオラの佐々木が二人の若手を上手に支えているのかもしれない。ヴァイオリンの純粋で高貴な音とチェロのロマンティックな音が重なり合ってい嬉々とした音楽になり、複雑に絡み合う内面を描き出していた。

 私はフォーレの室内楽を聴くと、自分の中の悲しみの感情と向き合った気持ちになってしまう。悲しいときに聴くといっそう悲嘆にくれ、昏くなっていく。自分の悲しみにじかに触れた気になる。だが、そうでありながら、それがけっして不快ではない。今日もそんな気持ちになった。

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鈴本演芸場で笑い転げた!

 2023815日、鈴本演芸場で寄席をみた。納涼名選会鈴本夏祭り。久しぶりの寄席。とてもおもしろかった。楽しめた。特に印象に残ったものについて感想を書く。

 柳家やなぎは若い噺家で、私は初めて名前を知った。新作落語。とてもおもしろい。間の取り方がとてもいい。北海道に久しぶりに帰郷して友人と出会う話。笑わせながら、しんみりさせる。

 古今亭菊之丞は「短命」。美人の婿養子に入って短命に終わった三人の男性の話。軽妙で流れるような語り口で、喚起力が素晴らしい。いや、語り口だけでなく、身のこなしも実に洗練されている。

 柳家喬太郎は新作。夫婦の会話を題材に、まさに自由に語る。知的で余裕のある語り口がまさに絶妙。素晴らしい!

 春風亭一之輔の評判は聞いていたが、落語は今回、初めて聴いた。「天狗裁き」。50年ほど前に聞いた小三治の「小言念仏」を思い出した。あの頃の小三治は、めっぽううまかったが、落語的なデフォルメがちょっと鋭角的というか、リアルすぎるというか、とぼけた雰囲気が多少不足して、それがまた一つの魅力でもあった。一之輔についても、ちょっと語気の強さがあって同じような雰囲気を感じた。が、評判通り凄いと思った。鮮明に状況が見えてくる。

 江戸家猫八のものまねは先々代、先代と寄席で聞いたが、初めて鶯の声を聴いた先々代(つまり、「お笑い三人組」でテレビの人気者になったあの江戸家猫八)の衝撃を今も忘れない。グルベローヴァのツェルビネッタを初めて文化会館で聴いた時と同じくらいの衝撃だった! 1970年の末広亭だったが、会場中に澄み切った音が響き渡った。それに比べると、ちょっと劣るかなと思ったが、さすがの芸!

 柳家さん喬は「船徳」。さん喬については、10年以上前の映像を何本か見たことがあるが、年齢とともに魅力を増したのを感じた。静かに語り始めて徐々に観客を世界に引き込む力はさすが。船頭の動き、客たちの様子もうまく描き分けていると思った。

 トリは柳家権太楼の「へっつい幽霊」。この人についても、私は昔は、空騒ぎが気になったが、今はそれも魅力になっている。大笑いした。ただ、私が話についていけなかったのかもしれないが、途中、だれが語っているのかあいまいになって状況が見えなくなるところがあった。

 全体的には、一線にいる噺家たちを聴くことができて、とても満足。私は、1970年代、新宿の末広亭に通っていたが、これほどのレベルのものを見ると、また再開したくなる。

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マロオケのベートーヴェン 第5番の素晴らしい高揚

 2023812日、サントリーホールで「マロオケ古典派浪漫」を聴いた。指揮者なし、「篠崎史紀と39人の武者たち」による演奏で、曲目はベートーヴェンの交響曲第5番、第6番、第7番。

 メンバー39人は篠崎史紀さん(マロさん)の呼びかけに応じて集まった全国のオーケストラで活躍する名手たち。郷古廉、伊藤亮太郎、大江馨、笹沼樹がふくまれる。マロオケはこれまでも指揮者なしの演奏を行ってきたらしいが、私は今回初めて聴いた。名手が集まれば、指揮者なしでも見事な演奏が可能になる。まさにそれを証明するような演奏だった。

 それぞれの曲の演奏前に、マロさんとほかのメンバーとのトークがあったが、マロさんがいかに信頼されているか、そして、指揮者なしで演奏することをメンバーがひそかに喜びを感じていることがうかがい知れた。

 コンサートマスターのマロさんが大きな身振りで全体に指示を与えている。が、音楽はかなり演奏者たちの自発性を尊重しているようだ。指揮者がいないと、ただ合わせているだけの、はっきりした方向のない音楽になりがちなのだが、さすがにこれほどのメンバーになると、きっと他のメンバーの音を聞きながら自分たちの音楽を作っていけるのだろう。

 なるほど、オーケストラのメンバーはこのような音楽を作りたいのか!と納得のいくような演奏だった。全員が楽器を美しく鳴らそうとする。そのため、一つ一つの楽器がニュアンス豊かになる。第6番「田園」の第2楽章など、木管楽器が本当に雄弁。ただし、これほどのメンバーだと自分の楽器ばかり目立たせようとするのでなく、時にしっかりと脇役に回ることもできる。そのため、実に豊かな音楽になっていく。

 第5番がとりわけ素晴らしかった。第3楽章以降は言葉をなくす凄さ。まさに奏者が自発的に一つになって音楽に集中している。凄まじい推進力で音楽が進んでゆき、大きく高揚した。その高揚は演奏者たちの高揚でもあっただろう。

 第6番は、曲自体の性格のせいか、盛り上がりには欠けたが、これも一つ一つの楽器の美しさが存分に発揮された演奏だった。

 第7番は、大いに盛り上がったが、私の耳にはとりわけ終楽章などアンサンブルが乱れそうになっているように聞こえた。指揮者がいないためにリズムが少し不確かになり、切れが悪くなった。だが、さすがというべきかギリギリのところでとどまり、すぐに立て直して激しく高揚していく。ちょっと乱れつつあるところが、ある意味でスリリングでもあり、ある種の熱狂を作り出している。

 アンコールはベートーヴェンの交響曲第1番の第4楽章。これは文句なしに素晴らしい演奏だった。やはり指揮者がいない場合、このくらいの規模の音楽が最も合わせやすい。すべての楽器が一体となり、生き生きとした音楽を作っていく。

 指揮者の個性的な演奏を聴くのもいいが、時にはオーケストラメンバーが思いっきり自分の楽器を鳴らすのもいいなあと、つくづく思った。

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2本の「ラ・ペリコール」映像

 7月中に自宅の建て替えのために一時的に仮住まいに引っ越しをし、その後片付けなどをしているうちに、7月下旬に新型コロナウイルスに感染。その後も倦怠感が残り(ただ、怠惰な私は常に倦怠感を覚えているので、病気のせいなのか元来のものなのか判断がつかない)、しばらくの間ごろごろしていたが、やっと通常の日常生活を取り戻した。

2本の「ラ・ペリコール」映像(1本はBDを購入、もう1本はNHKBSの放映)をみたので感想を書く。

 

オッフェンバック オペレッタ「ラ・ペリコール」(1874年、改訂版)2022517,19日 パリ、オペラ・コミック座

「ラ・ペリコール」は私の好きなオペレッタの一つだ。テレサ・ベルガンサの歌ったディスクはとても楽しかった。それを上回る楽しいディスクは現れないかと思っていたら、やっと実現した。

 とても楽しい舞台だ。まず、指揮のジュリアン・ルロワがとてもいい。若い指揮者で、素人の私にはこの人にどのような将来性があるのかなどはまったくわからないが、フレージングがしなやかで、オペレッタ特有のはしゃぎっぷりと余裕の両方が見事に両立している気がする。ヴァレリー・ルソールの演出もとても気が利いている。ユーモラスで漫画的。みんなが酔っ払った場面など、まさに酔っ払いの空間感覚を再現していておもしろい。

 歌手陣も充実。ペリコールのステファニー・ドゥストラック(何度か来日しているようだ。私も聴いて感心した覚えがある)もチャーミングで明瞭な声と演技。ピキーヨのフィリップ・タルボも人の好い芸人を見事に歌う。副王のタシス・クリストヤニスも芸達者で楽しい。すべての歌手がしっかりとした声と演技。申し分ない。いかにもペルーを舞台にしたらしい色彩的な舞台で、時代的な服装がおもしろい。

 オペラ・コミックはオッフェンバックのオペレッタのこのレベルの上演をしばしば行っているのだろうか。本当に上質の上演。いかにもオペレッタらしい歌手陣とオーケストラ。このようなオッフェンバックのオペレッタをもっともっと観たい!

 

オッフェンバック オペレッタ「ラ・ペリコール」 2022112324日 シャンゼリゼ劇場 (NHK/BSプレミアムにて放送)

 シャンゼリゼ劇場で上演された「ラ・ペリコール」。NHKで放送された。2022年というから、上にあげたオペラ・コミックと同じ年だ。たまたまた重なったのだろうか。めったに上演されないこのオペレッタが同じパリで同じ年に上演されたとすると、オッフェンバック・リバイバルが訪れているのだろうか。そうだとすると嬉しい。

 こちらの管弦楽はレ・ミュジシャン・デュ・ルーヴル、指揮はマルク・ミンコフスキ、演出・衣装はロラン・ペリーという、現在、このオペレッタ上演に考えられる最高の布陣。そして、事実、最高度の充実している。躍動感あるオーケストラ、センスと躍動感にあふれる演出。ペリコールのマリナ・ヴィオティ、ピキーヨのスタニスラス・ド・バルベラクともに立体感のあるスケールの大きな歌、副王のロラン・ナウリはさすがの演技と歌唱。いうことなし。ベートーヴェンやシュトラウスを歌っても通用するような見事な歌唱。

 舞台にペルーらしさはまったくなく、登場人物の服装も現代のもので、ペリコールとピキーヨはともに、タトゥーだらけのパンクファッションの若者。コンクリートだらけの場末や無機質な牢獄で場面が展開される。むしろ、そのような無機質な場で躍動的な音楽が生み出され、楽しい舞台になっていくことを狙っているようだ。

 とても見事な上演だが、個人的にはいかにもオペレッタ風のオペラ・コミックの上演のほうが好みだ。

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台湾映画「少年」 人物とモノのしみじみとした存在感

 台湾映画「少年」をみた。台湾映画に疎い私は、巨匠・侯孝賢(ホウ・シャオシェン)の作品をみるのは初めて。台湾ニューシネマの原点ともいえる1983年の幻の作品のデジタルリマスター版だという。とてもいい映画だった。感動した。

 シングルマザーである母親シウインが実直な男性ターシュンと結婚したため、連れ子として新しい父親と暮らすことになった少年アジャの物語。父は優しくかばってくれるが、アジャは心を開くことができず、いつまでも反抗をやめず、不良仲間と連れ立って悪さばかりしては親は学校に呼び出されている。そして、中学生になると、刃傷沙汰まで起こし、ついに母は夫の間で板挟みになったと感じて自殺してしまう。アジャはさすがに心を入れ替えて軍隊に入る。そのような物語を、隣の家で暮らす同級生の女の子の目を通して語られる。

 わだかまりをもって素直になれない子どもの気持ちがとてもよく描かれている。どうしようもない悪ガキなのだが、憎めなく描くところもさすがというしかない。子どもたちの表情が生き生きとしており、舞台となった淡水の光景がとても美しい。登場人物ひとりひとりが立体感を持っている。

 淡々としたリズムだが、シウインのホステス時代の仲間の来訪、1学年下の女の子に対するアジャの不器用な恋が描かれ、それぞれの人物の過去が明らかにされたり、心の襞があらわになったりして、観客は静かに登場人物の心の中に入っていく。また、おもちゃや扇風機や古本などの小道具がさりげない存在感を示す。人物だけでなく、モノや風景も静かに、しかし雄弁に懸命に生きている人々の姿を語る。

 

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ヴァイグレ&読響 オーケストラによるワーグナーを堪能!

 202381日、ミューザ川崎シンフォニーホールでフェスタサマーミューザKAWASAKI 2023、読売日本交響楽団のコンサートを聴いた。指揮はセバスティアン・ヴァイグレ。曲目は、前半にベートーヴェンの交響曲第8番、後半にワーグナー(デ・フリーヘル編曲)の楽劇「ニーベルングの指環」オーケストラル・アドヴェンチャー。

 ベートーヴェンの第8番もとても良かった。ところどころでリズムを動かしたり、楽器の一部を際立たせたりしているが、全体的にはきわめてオーソドックスな解釈だと思う。勢いがあり溌剌としており、細部に至るまでニュアンスにあふれている。晩年の枯れたベートーヴェンではなく、若々しく起伏のあるベートーヴェン。4つの楽章の組み立てもとても立体的で、最終楽章が自然に高揚していく。オーケストラもしっかり鳴って、実に美しい。

「ニーベルングの指環」はいっそう見事だった。このオーケストラ・ヴァージョンは初めて聴いた(というか、実をいうと私は、ワーグナーを聴くなら声を加えて全幕を聴きたいので、オーケストラ版はあまり聴かない)。とてもうまく全体を構成している。これを聴くだけで4つの楽劇の主だった場面が目に浮かび、しかも音楽的にも満足できる。ただ、名場面をつなぐとどうしても巨人族やニーベルング族の出番が少なくなって、ミーメやハーゲンを彷彿とさせる部分が少ないのが残念だが、やむを得ないだろう。

 ヴァイグレの手際の良さはまさに格別。読響からまさに本格的なドイツの音楽が聴こえてくる! ただ、昔の巨匠のワーグナーのように重々しくはない。しなやかでふくらみがあり、しかも特有のうねりがある。楽器の音が見事に重なり、決して濁らない。もう少し毒のある部分もあってよいような気がするが、この気品のある音楽がこの人も持ち味だろう。読響メンバーも、初めのころは金管楽器のいくつかにちょっとしたミスを感じたが、途中からは素晴らしい音を出していた。「ジークフリートの葬送」「ブリュンヒルデの自己犠牲」の部分はまさに圧巻。がなり立てる音でなく、しなやかな音でありながら、心の底から高揚させていく音楽の作りに舌を巻いた。

 午後、一時的に豪雨だったため、しばらく続いていた酷暑が少し和らいだ。久しぶりに涼しさを感じて帰途に就いた。

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