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札響東京公演 いぶし銀のバーメルトの音楽

 2024131日、サントリーホールで札幌交響楽団東京公演2024を聴いた。指揮は首席指揮者マティアス・バーメルト。

 曲目は前半にイアン・ボストリッジ(テノール)とアレッシオ・アレグリーニ(ホルン)をソリストとして、ブリテン作曲の「セレナード~テノール、ホルンと弦楽のための」、後半にブルックナーの交響曲第6番。

 ブリテンの「セレナード」は初めて聴いた。テニスンやブレイク、ベン・ジョンソン、キーツなどの夜にまつわる詩から成る。ボストリッジの明晰でよく通る美声、アレグリーニの弱音の美しいホルン、超時代的ともいえるような清澄でしなやかな曲想。そして、弦楽器の柔らかくて繊細な音。素晴らしかった。ボストリッジとアレグリーニという二人の世界を代表する演奏家だけのことはある。ただ、言葉がよくわからなかったので、そのうち字幕付きで聴きたいと思った。

 後半のブルックナーの第6番はまさにいぶし銀の音楽。いぶし銀という言葉はこの指揮者のためにあるとさえ思った。かつて札響を指揮して旋風を巻き起こしたエリシュカもいぶし銀の演奏だったが、バーメルトはいっそうそれを感じる。

 少しも誇張したところがない。「これがブルックナーだ!」と押し付けるようなところが少しもない。指揮の動きも省エネだし、出てくる音楽も省エネというか、音量は大きくない。だから、実を言うと、ちょっと物足りなくはある。もっともっとブルックナーらしく盛り上げてもいいではないか、もっとフォルティシモも強調してもいいのではないかと思う。だが、バーメルトはそうしない。まるで、シューマンやブラームスのように演奏しているように聞こえる。第3楽章のスケルツォもちょっと遠慮がちというか。だが、すべての楽器がしっかりとバランスを保ち、繊細に演奏されるので、音楽が構築的に出来上がっていく。そして、間違いなくブルックナー独特の世界が出来上がっていく。最後には私は間違いなくブルックナーを聴く時の感動に襲われる。本当にいぶし銀の世界。凄い。オーケストラも本当に良い音を出している。堪能した。

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拙著「凡人のためのあっぱれな最期 古今東西に学ぶ死の教養」(幻冬舎新書)発売

 拙著「凡人のためのあっぱれな最期 古今東西に学ぶ死の教養」(幻冬舎新書)が131日に発売になる。一昨年に亡くなった妻・紀子の生き方、死に方についての私の考えをまとめたものだ。私はこれまでほとんどの一般書で、社会に対して斜に構えて書くスタイルをとってきたが、本書では真摯な思いを書いている。

 本のカバーなどに以下のような文章が添えられている。これは私自身の書いたものではないが、本書の内容をとても的確にまとめてくれているので、そのまま引用する。

 

『妻ががんで逝った。61歳、1年あまりの闘病生活ののちの早すぎる死だった。家族が悲しみ、うろたえるなか、妻は、嘆かず恨まず、泰然と死んでいった。それはまさに「あっぱれな最期」だった。決して人格者でもなかった妻が、なぜそのような最期を迎えられたのか。そんな疑問を抱いていた私が出会ったのは、「菫ほどな小さき人に生まれたし」という漱石の句だった。そうか、妻は生涯「小さき人」であろうとしたのか――。妻の人生を振り返りながら古今東西の文学・哲学を渉猟し、よく死ぬための生き方を問う、珠玉の一冊。』

 

 妻の死というこの上なく私的なことを本にするのにためらいはあったが、これから死を迎える多くの人のヒントになるのではないかと考えて刊行を決めたのだった。多くの人に読んでいただけると嬉しい。

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映画「葬送のカーネーション」 意味不明の荒涼たる世界の生と死のまじりあい

 トルコ映画「葬送のカーネーション」をみた。2022年のベキル・ビュルビュル監督。

 老人と10歳前後の女の子が車の後ろの座席で移動しているところから始まる。そして、徐々に二人が棺をもって冬の荒野地域を移動しようとしていること、どうやら車に乗せてもらったのはヒッチハイクだったらしいこと、車から降ろされた後は、棺を徒歩で運んだり、トラクターに乗せてもらったり、洞窟を探して夜を過ごしたりして、国境に向かおうとしていること、二人は祖父と孫らしく、祖父はトルコ語を理解できない様子であること、どうやら棺の中の遺体は少女の祖母らしいこと、祖母が故国に埋められることを望んでいたために祖父が遺体を運ぼうとしていたことなどがわかってくる。そして、遺体を段ボール箱に入れかえてトラックに乗せてもらって国境にたどり着くが、そこで中身が遺体だと発覚して警察にとどめられ、祖父の強い抗議にもかかわらず、その土地に埋葬される。祖父は故国に帰ることを願い、そのまま孫をトルコに置いて、国境を一人で超える。

 ずっと老人が苦労して棺を運ぶ様子が描かれる。トルコのそこそこ善良な人々がそれを手助けしたり、途中で放り出したりする。それだけの映画だ。説明がほとんどないので、観客はちょっとしたことを手がかりに推測していくしかない。しかも、少しずつしか真実は明かされない。観客はずっと様々なことに疑問を抱いたままだ。

 しかも、最後まで老人の故国はなんという国なのか(たぶん、シリアなのだろうが)、なぜ老人はトルコに来たのか、決して親しげに見えない老人と孫との間に何があったのかも明かされない。子どもの描いた絵や、国境付近で難民らしい人々が見えることから、どうやら内戦が起こって子どもの両親は戦争で殺され、祖父と祖母は命からがらトルコに逃げたらしいことは推測できるが、それも断定はできない。老人は洞穴の中で寝ている間に、貨物列車の脇で目を覚ました夢を見る。だが、その意味もよくわからない。

 私がこの映画を見て、最も興味を引かれたのは、何よりもこの「わからなさ」だった。二人を車に乗せる人々は、観客にも老人と孫にも意味不明の内輪の話を長々とする。とりわけトルコ語を介しない老人にはすべてが意味不明の世界だ。そのような不確定で意味不明の世界の中で生と死がまじりあう。老人はきっと孫を寒さから守るためだろう、棺から遺体を取り出して、そこに孫を寝かせたりする。二人にとってこの世界は死にあふれている。そうした世界を、観客も一緒になって味わう。

 祖母の墓に孫が描いた祖母の絵とともにカーネーションを飾ることから「葬送のカーネーション」という日本語タイトルがつけられているが、原題は「クローブを一つまみ」という意味だという。クローブ(丁子)は臭い消しとして使われる植物で、たしかに老人が車を運転する女性にもらったクローブを棺に入れる場面がある。しかも、カーネーションはクローブの香りがするとのことで、トルコ語ではクローブと同音異義だという。

 考えてみると、カーネーション=クローブは死を悼む花であると同時に臭い消しであり、生の世界と死の世界をつなぐものなのだろう。私が、よく理解できないながら、この映画をとてもおもしろいと思い、最後まで惹かれて見続けたのは、きっとこの生と死をつなぐ冬の荒涼とした世界での孤独な人間の営みを見る思いがしたからだと思った。

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藤原歌劇団「ファウスト」 カッチャマーニがすごい!

 2024127日、東京文化会館で藤原歌劇団公演、グノー作曲「ファウスト」をみた。最高のパフォーマンスと最悪のパフォーマンスが混じった上演だった。

 まず圧倒的に素晴らしかったのが、メフィストフェレスを歌ったアレッシオ・カッチャマーニ。一人だけ世界最高レベルの歌手が紛れ込んでいた、と言って間違いないだろう。張りのある見事な美声。演技も堂に入って他を圧倒する。メフィストフェレスにふさわしい得体のしれない不気味さを醸し出して申し分ない。世界にこれ以上のメフィストを歌える人がそれほどいるとは思えない。

 マルグリートの砂川涼子も素晴らしかった。清澄な声。声量面ではさすがにカッチャマーニには負けるが、細やかな感情を含んだ歌唱はさすが。しみじみと歌って、観客を感情移入させた。シーベルの向野由美子もチャーミングな歌いっぷり。とてもよかった。ヴァランタンの岡昭宏は声がまだ堅い。もう少し歌いこむ必要があるのだろうと思う。

 合唱は藤原歌劇団合唱部。とてもよかった。迫力ある声。私はふだんはバレエが始まると、早く終わるのを待っているのだが、今回はとてもおもしろかった。踊りについてどうこういえる能力を持たないが、ともあれ目を引かれてみた。

 指揮は阿部加奈子。このところ沖澤のどかさんを筆頭に次々と女性指揮者が活躍を始めたが、この人もその一人なのだろう。なぜこの人がこれまであまり脚光を浴びなかったのか不思議に思った。十分にオーケストラを掌握して、自然に、そしてドラマティックに音楽を進めていく。初めは抑え気味だと思ったが、徐々に盛り上がって最後は見事だった。

 ダヴィデ・ガラッティー二・ライモンディの演出は、巨大なパネルに花や絵画などの映像を投射するだけ。費用の節約の中でやむを得ずにこのようになったのだろう。その割には工夫をして十分に見せてもらえたとは思うが、もう少し何とかならないか。

 グノーの「ファウスト」、ワーグナーなどに比べると迫力不足で、ストーリーもせっかくのゲーテの作品を上っ面だけにしてしまっているが、それはそれでとてもおもしろい。ソフトでは何度も見てきたが、とても良いオペラだと改めて思った。

 今回の上演で最悪だったのは、ファウスト役の村上敏明。風邪でもひいていたのだろうか。あるいは、あまりに声量豊かなカッチャマーニに負けじと声を張り上げているうちに喉をつぶしてしまったのだろうか。第2幕の途中まではきれいな声で歌っていたが、その後、突如として声がつぶれるようになった。第45幕では強い声はほとんど出ない状態。強い声でなくてもしばしば声がかすれた。これでは本人もつらいだろう。観客がお金を払って聴くレベルではない。最初の休憩の後に代役を立てるべきだったと思うのだが。そういえば、数年前の新国立劇場の「ワルキューレ」でも、ジークムントを歌った村上は途中で声が出なくなったことがあった。やはりこのようなことはプロの、しかも第一線の名歌手にあってはならないことだと思う。

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伊藤亮太郎と名手たちのモーツァルトとブラームスに感動!

 1 月 22 日、ヤマハホールで「伊藤亮太郎と名手たちによる弦楽アンサンブル」を聴いた。

 メンバーは伊藤のほか、横溝耕一(ヴァイオリン)、柳瀬省太、鈴木康浩(ヴィオラ)、横坂源、辻󠄀本玲(チェロ)。

 曲目は、マルティヌーの弦楽三重奏曲第2番とモーツァルトの弦楽五重奏曲第 4 番ト短調、そして、ブラームスの弦楽六重奏曲第 1 番。いずれの曲も演奏者たちがピタリと息を合わせ、本当に楽しそうに演奏している。まさに室内楽の醍醐味。

 マルティヌーの曲はとても勢いがあり、最初から私はかなり惹かれて聴いた。初めて聴く曲だったが、なかなかの名曲だと思った。3つの楽器は重なり合い、くんずほぐれつしてうまく進んでいく。

 モーツァルトのト短調の弦楽五重奏曲は、ハ長調の弦楽五重奏曲やクラリネット五重奏曲とともに私の大好きな曲。堪能した。第一楽章の出だしは、それほど悲しみを強調したものではなかったが、音楽が進むにつれて、だんだんと悲しみが深まっていく。最終楽章の長調への転調の後の快活さも素晴らしかった。5人が息を合わせて自然に高揚し、自然に悲しみが描かれ、それが明るい世界に転換していく。それが素晴らしい。

 後半のブラームスの六重奏曲第1番も全員が心を1つにしているのがとてもよくわかる演奏だった。冒頭からととても充実していたが、第2楽章の思いの強さは凄まじかった。穏やかに官能的に演奏するのではなく、ロマンティックな感情を激しくたたきつけるかのよう。すべての楽器が思いの丈を語り、それが相まって強い音楽になっていく。第3楽章、第4楽章も、その勢いが続いて、深くて濃い弦の世界が広がった。

 それにしても、ブラームスの曲は本当によくできている! CDで聴いていると気づかないが、目の前で見ていると、例えば二台のチェロの役割、分担など本当に舌を巻くうまさ。それを日本を代表する名手たちが見事に奏でていく。至福の体験だった。

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エスメ四重奏団のベートーヴェンに興奮!

 2024121日、紀尾井ホールでエスメ四重奏団のコンサートを聴いた。

 実は、この団体についてはほとんど何も知らなかった。ポスターを見て、ファニー・メンデルスゾーンの弦楽四重奏曲とベートーヴェンの13番の弦楽四重奏曲が演奏されるのを知り、まあ聴いてみようかと軽い気持ちでチケットを購入したのだった。

 で、聴いてみたら、すごい! これはとてつもない団体ではないか!

 エスメ四重奏団は韓国人女性四人によって2016年に結成された若い団体だ。現在は、ヴィオラが西洋人の男性に変更になっている。

 曲目は、最初にハイドンの弦楽四重奏曲第4129)番ト長調「ご機嫌いかが」というタイトルで知られている曲。くっきりとして一つ一つの楽器の音が鮮明に聞こえ、その絡み合いが美しい。音程が素晴らしく良く、リズム感もいい。しかし、無機的ではなく、ハイドンらしいおちゃめな様子と人間性が聴こえてくる。

 ファニー・メンデルスゾーンはもっとよかった。やはり弟のフェリクスに比べると、ちょっと稚拙。だが、初々しい感性。歌心にあふれ、しかも思いのこもった音楽。とりわけ第3楽章以降の演奏が素晴らしかった。小気味よく切っ先鋭い強い音がロマンティックなメロディを奏でる。女性らしい音楽などではない。細身だが、強くて激しい音。終楽章の音の重なりも圧巻。

 後半のベートーヴェンの弦楽四重奏曲第13番(大フーガ付き)。これもすさまじかった。研ぎ澄まされたシャープな表現。しかし、エベーヌ弦楽四重奏団ほどではなく、東洋人中心であるせいか、どこか柔和さもあり、それが私にはほどよく響く。若い女性たちなのに、その音楽には年齢を経たものにしかわからないような深みがあるのを感じる。第5楽章「カヴァティーナ」で感動に震えた。かすかな音の中にロマティックな律動が聴こえる。人間の心の中の静かな静かなリリシズム。本当に美しい。そして、「大フーガ」は、鋭い切っ先で四つの楽器が縦横無尽に音を投げつけ、峻厳なる宇宙を作り出していく。ただただ圧倒された。

 感動した。興奮した。凄い弦楽四重奏団が現れたものだ。日本にも圧倒的な力を持つ若手の団体が現れている。頼もしい限りだ。

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オペラ彩の「魔笛」 充実した歌手陣による見事な公演!

 2024年1月20日、和光市民文化センター・サンアゼリア大ホールでオペラ彩設立40年記念公演「魔笛」をみた。

 オペラ彩は和田タカ子さんが総合プロデューサーとして埼玉県で続けてきたオペラ団体。レベルの高い公演が毎年なされてきた。ピアノ伴奏の小さな公演や演奏会形式公演でさえもなかなか難しい中、本格的なオペラを、しかも高いレベルの公演をしてきたことは並大抵に努力ではなかっただろうことが想像される。この活動のおかげで埼玉県民はオペラになじみ、その素晴らしさを知っただろう。大変な功績だと思う。

 今回は、天沼裕子の指揮、直井研二の演出、管弦楽はアンサンブル彩。

 歌手陣は実に充実していた。私が最も心を惹かれたのはパミーナを歌った斉藤真歩だった。澄んだ美声。ほんのちょっと音程の怪しいところを感じたが、テクニックも見事。夜の女王の奥村さゆりも堂々たるコロラトゥーラで十分に声の余裕もあった。東城弥恵、川口詩子、丸山奈津美の三人の侍女もしっかりした声。ただ三重唱になるとちょっと声が濁って聞こえた気がしたが、気のせいだったか。石塚幹信(モノスタトス)、大澤一彰(タミーノ)、原田勇雅(パパゲーノ)も好演。ザラストロの佐藤泰弘は、もちろん悪くないのだが、もっとどっしりした声がほしいと思った。ちょっとザラストロにしては細い声だと思った。

 三人の少年たちは素晴らしかった。また合唱やバレエもとても見事。みんなでオペラ全体を作っていこうという態度があちこちで見えて、とてもうれしかった。

 演出は、かなり妥当なもの。初めてオペラをみる市民がたくさんいるのだから、それが当然だろう。しかも、序曲の部分で、このオペラのストーリーのわかりにくさ(どう考えても、途中で話が逆転しているとしか思えない!)を補うために、夜の女王が初めから悪巧みをしていることを知らせる字幕をつけていた。セリフは日本語で、後半は十分に笑いを取っていた。これらも成功していたと思う。

 私が最も気になったのは天沼の指揮だった。オーケストラそのものもとてもレベルが高い。きれいな音。それを天沼は、ずっとかなりのスローテンポで、しっかりとゆるぎなく音を鳴らし、丁寧に、緊張感をもって、しっかりとオーケストラをコントロールして音楽を進めていく。それは素晴らしい。しかし、全体を通して同じ調子なので、音楽にあまり表情の変化がなく、一本調子になっていた。もっと暗い部分、明るい部分、わくわくする部分、甘美な部分などがあるはずなのに、それがあまり感じられなかった。このような演奏にしたことに何か意図があったのだろうか。私には理解できなかった。

 とはいえ、全体的にはレベルの高い公演。このような公演が市民団体(特定非営利活動団体とのこと)によって行われるとは本当に奇跡に近いと思った。

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ソヒエフ&N響のラヴェル 「マ・メール・ロワ」にうっとりした

 2024114日、NHKホールでNHK交響楽団定期公演を聴いた。指揮はトゥガン・ソヒエフ。曲目は前半にビゼー(シチェドリン編)のバレエ音楽「カルメン組曲」、後半にラヴェルの組曲「マ・メール・ロワ」と「ラ・ヴァルス」

 シチェドリン編曲の「カルメン組曲」は実演で初めて聴いた。「アルルの女」の「ファランドール」も含まれると、基本的には「カルメン」のメロディを使って自由に遊んだといった雰囲気の曲。弦楽器と打楽器による曲で、笑い出したくなるようなところもたくさんある。エスプリの利いたパロディというか。とてもおもしろかったし、N響の実力のほどもよくわかったが、まあそれだけの曲だと思った。

 ラヴェルの2曲はとても良かった。「マ・メール・ロワ」は管楽器が丁寧に美しい音で奏でられ、静謐で古風でちょっとユーモラスで親しみにあふれた世界を作り出す。まさにチャーミング。ソヒエフは繊細に、しかし、構築的に音楽を進めていく。オーケストラの盛り上がりも美しい。うっとした。

「ラ・ヴァルス」も音が見事に流動する。ラヴェルの曲の中で、私はこれが最も好きだ。この曲を聴くと、色彩的な龍がオーケストラの中から形をとり、動き出し、生命をもって動き回っていくかのように感じる。まさに舞台を動き回っているような錯覚を覚えることがある。一つ一つのうろこがそれぞれ微妙に色が異なっており、それが光にあたって反射しながらも動いていく。ただ、とてもいい演奏だとは思いながらも、2011年のザルツブルク音楽祭で聴いたヤンソンス指揮、ウィーンフィルほどの感動は与えられなかったが、それは致し方ないだろう。

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沖澤&シティフィルの「ダフニスとクロエ」に感動

 2024113日、東京オペラシティ コンサートホールで東京シティフィルハーモニー管弦楽団の定期演奏会を聴いた。指揮は沖澤のどか。曲目は、前半にシューマン(ラヴェル編曲の「謝肉祭」より3曲と、黒木雪音のピアノが加わってシューマンのピアノ協奏曲、後半にラヴェルの「ダフニスとクロエ」第1組曲、第2組曲。

「謝肉祭」については、ラヴェルの編曲を初めて聴いたが、シューマンのオーケストラ曲の雰囲気を残していると思った。ラヴェルだからもっと華麗になるのかと思ったら、意外と淡い。ラヴェルはシューマンをこのように聴いていたのだろう。

 ピアノ協奏曲については、ピアニストと指揮者の意思統一が十分にできていないのではないかと思った。ピアノは時々ぐっとテンポを落としてロマンティックになる。もちろん、指揮はそれに合わせるが、そうなると曲の組み立てがゆがんでくる。結局、私はピアニストが何をしたいのかよくわからなかった。ピアノのアンコールはカプースチン作曲の「8つの演奏会用エチュード第1曲」とのこと。バリバリ演奏するちょっとジャズっぽい現代曲だが、私の席からは少なくとも音が鮮明には聞こえなかった。

 後半は素晴らしかった。ただ、「ダフニスとクロエ」第1組曲の初めの部分はちょっともたついているように思った。一つ一つの楽器を緊張して演奏している感じで、少し精妙さに欠いた。が、だんだんと乗ってきた。オーケストラ全体が盛り上がるころから、一つ一つの楽器もしっかりと音が出るようになり、ラヴェルの音楽の精妙さと美しい音の爆発を聴かせてくれた。とりわけ、第2組曲の「夜明け」は圧巻。魂が震えた。

 沖澤のどかは絶妙なリズム感でオーケストラを束ねる。音が濁らず、鮮明に盛り上がり広がる。まさに色彩的な音楽の運動! シティフィルからこんな精妙なフランス音楽の音が出るのを初めて聴いた(と言っても、私がドイツ音楽ばかりを追いかけているためでもあるが)。

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オペラ映像「湖上の美人」「イオランタ・くるみ割り人形」「コシ・ファン・トゥッテ」

 昨日は鏡開きということで、今年の正月も終わったということだろう。不穏な年を予言するかのような様々な出来事の続く正月だった。物事が早く解決して、明るい年に向かってほしいものだ。

 数本、オペラ映像をみたので感想を記す。

 

ロッシーニ 「湖上の美人」 2016年 ぺーザロ、アドリアティック・アリーナ

 2016年の映像だが、新発売だと思う。素晴らしい上演。以前、同じマリオッティ指揮、メトロポリタン劇場の素晴らしい映像があったが、それに匹敵する。

 ジャコモ5世のフアン・ディエゴ・フローレスはさすがの輝かしい声。りんりんと響き渡る。エレナ役のサロメ・ジーチャもとてもいい。メトロポリタン盤のディドナートほどの躍動感はないが、美しい声と確かな技巧、しっかりした音程、そしてきれいな容姿、すべてそろっている。最後の歌も素晴らしい(ただ、私は浜離宮朝日ホールで先日聴いた脇園さんの声のほうにより感動を覚えたが、実演なので、それは当然だろう)。ロドリーゴのマイケル・スパイアーズもフローレスに負けない強い高音が素晴らしい。そして、マルコム役のヴァルドゥイ・アブラハミヤンも文句なし。メトロポリタン盤のバルチェッローナに引けを取らない。ダグラスのマルコ・ミミカは音程が不安定。

 ミケーレ・マリオッティの指揮は、この人らしく躍動感にあふれている。この人のロッシーニは本当に圧倒的。ボローニャ・テアトロ・コムナーレ管弦楽団&合唱団はちょっと雑な気がするが、特に不満はない。

 ただダミアーノ・ミキエレットの演出に問題を感じる。冒頭に老年になったマルコムとエレナとみられる男女が登場。マルコムはエレナがジャコモ5世の肖像画に捧げものをするのを不快に思っている。そうして過去に戻ってオペラが始まる。場面場面に高齢の男女が黙役で登場し、あれこれのパントマイムを行いながら過去に立ち会う。最後、マルコムはかつての事情を知って王に対する敬意を持つのかと思っていたら、王にもらった贈り物を投げ捨てる。どうやら、王の施しに反発を覚えたようだ。つまりは、このオペラの王様崇拝的な傾向に異議を唱えているのだろうか。

 だが、わざわざそのようなことを、今更する必要があるのか。二人の高齢者を出して、ずっとパントマイムをさせて音楽の邪魔をしてまで主張するほどのこととは思えない。それとも私には理解できないもっと深いメッセージがここには隠されているのだろうか?

 

チャイコフスキー 「イオランタ&くるみ割り人形」2022年 ウィーン、フォルクスオーパー

「イオランタ」と「くるみ割り人形」を、チャイコフスキーは同日に上演するつもりで作曲したとのこと。そんなわけで、この上演はその二つを合体したヴァージョン。「イオランタ」を抜粋したものが上演され、その間に「くるみ割り人形」の音楽とバレエが入る。イオランタとそっくり同じ衣装のバレリーナが登場。

 ただ、あまりに中途半端。「イオランタ」の良さも「くるみ割り人形」の良さもなくなって、つまらないものを見せられたという印象を持つ。まあ、音楽に関して保守反動の私のきわめて個人的な意見ではあるが。この頃、「イオランタ」に関して、このような上演が多いようだ。同じように、「くるみ割り人形」と合体したものを前に見た記憶がある。ストラヴィンスキーの「マヴラ」と合体したものもあった。困った流行だと私は思う。そんなつまらないことをするより、じっくりと「イオランタ」を味わわせてほしい。

 演奏もあまりよくない。指揮のオメール・メイア・ヴェルバーもウィーン・フォルクスオーパー管弦楽団も緻密さに欠け、精度が高くない。歌手陣についても、ドイツ語歌唱のせいか、チャイコフスキーらしさが伝わってこない。オレーシャ・ゴロヴニョーワのイオランタは悪くはないのだが、しっとりした魅力に欠ける。ルネ王のステファン・チェルニーも安定はしているが、それ以上のものを感じない。ベルトラン役で平野和が出演している。フォルクスオパーの一般的な上演はこのようなレベルなのだろうか。

 こんな際もののソフトだったら買わなければよかったとつくづく思った。

 

モーツァルト 「コジ・ファン・トゥッテ」202082日 ザルツブルク祝祭大劇場

 NHKBSで放送されたもの。私は録画して見始めたのだが、放送時の天候のせいか、私の使っている機材の不具合のせいか、時々画面が乱れる。よって市販のDVDを購入(なぜか、ブルーレイディスクは販売されていない!)。ただ、DVDには日本語字幕がないので、やはり放送を焼いたBDディスクをセットしてみようとしたら、なんと「非対応ディスク」という表示が出て、何度試してもかからない! この同じ機械で記録したのに! うーん、どういうことだ!! ほかに作ったBDも見られなくなるとすると怖い。ともあれ、市販のDVDをみた。なお、コロナ禍の上演であるためか、かなりカットがあるようで、覚えのある場面がなかったりする。上演時間も短め。

 指揮は、今話題の女性指揮者ヨアナ・マルヴィッツ。オーケストラはウィーン・フィルハーモニー管弦楽団。オーケストラに関しては、清潔で切れが良くてリズミカルで自然な演奏で素晴らしい。理想的なモーツァルトと言ってもよさそう。話題になるだけのことはある。

 歌手陣もそろっている。まるで演劇のように容姿もよいし、演技力もある。フィオルディリージのエルザ・ドライジグ、ドラべッラのマリアンヌ・クレバッサ、グリエルモのアンドレ・シュエン、フェランドのボグダン・ヴォルコフ、ドン・アルフォンソのヨハネス・マルティン・クレンツレ。いずれも抜きんでているとは思わないが、バランスがいいし、指揮や演出と相まって、自然でこまやか。

 演出はクリストフ・ロイ。コロナ禍中のあまり気合の入っていない上演であるせいか、実に簡素で、しかもみんなが現代の服を着て、変装もほとんどしない。ただ、そのせいかもしれないが、まさしく誇張のないかなりリアルな現代劇になっている。これはこれでいいだろう。

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脇園&小堀&園田のロッシーニに酔った!

 202419日、浜離宮朝日ホールで、「脇園彩&小堀勇介 ニューイヤー・デュオリサイタル」を聴いた。ピアノ伴奏は園田隆一郎。まさに世界最高峰のレベルのリサイタルだった。

 曲目は、ロッシーニの「アルミーダ」「湖上の美人」「ランスへの旅」「湖上の美人」「オテッロ」「エルミオーネ」、ドニゼッティ「マリア・ストゥアルダ」「ロベルト・デヴリュー」「ラ・ファヴォリート」からアリアや二重唱。アンコールはロッシーニ「チェネレントラ」から。

 これまで、日本人歌手にロッシーニ歌手はいないといっても間違いなかっただろう。この二人はまさにようやく現れた世界レベルのロッシーニ歌手。やはり凄い。次々と繰り広げられるロッシーニとドニゼッティの圧倒的なベルカントに酔った。

 脇園の張りのある強い声、しかもテクニックも完璧で、アジリータもびしりと決まって小気味いい。とりわけ、「湖上の美人」の「たくさんの想いが今この胸に溢れ」はまっすぐに声が伸び、ダイナミックで躍動感にあふれ、まさに圧倒的。ロッシーニの醍醐味にあふれていた。脇園さんの歌にしびれた。

 小堀の歌う「オテッロ」の「ああ、なぜ私の苦しみを憐れんでくれないのですか?」も輝かしくて強い声がホール内にビンビンと響き、音程も安定して素晴らしかった。

 そしてもちろん、二人の歌手を支えるマエストロでもある園田のピアノの躍動感も見事。

 あっという間の2時間だった。目くるめく時間だった。この二人に続いて、次々とロッシーニ歌いが登場してくれると嬉しい。

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準・メルクル&N響 オーチャード定期 楽しいコンサートだった!

 202418日、オーチャードホールでNHK交響楽団オーチャード定期を聴いた。私にとって今年最初のコンサート。指揮は、準・メルクル。

 曲目は、前半にデュカスの交響詩「魔法使いの弟子」、トマ作曲のオペラ「ミニョン」の「私はティタニア」、そして、ヨハン・シュトラウス2世の「常動曲」と「春の声」(「ミニョン」と「春の声」のソプラノは森野美咲)、後半にブラームスの交響曲第1番。とても良い演奏だった。

「魔法使いの弟子」は、小中学生のころ、よくレコードで聴いたが、もしかすると実演で聴いたのはこれが初めてだったかもしれない。大人になってから聴くほどの曲ではないとなんとなく思っていたが、どうしてどうして。色彩的なオーケストレーションのとても楽しい曲だと改めて思った。メルクルの指揮もN響の音もとても繊細で色彩的で素晴らしいと思った。「私はティタニア」もとても色彩的。森野美咲の声もとても美しく、私にわかる限りフランス語の発音もとてもきれいだった。

 ただ、ヨハン・シュトラウスの曲については、ちょっと気まじめすぎる気がした。もう少し躍動感というか、羽目を外したところというか、そんなところがあってもいいのではないかと思った。もっと弾んだ雰囲気がほしい。森野の歌も、声はとてもきれいなのだが、あと少しの爆発力がほしいと思った。

 後半のブラームスもとてもよかった。比較的肩に力の入らない冒頭部分。誠実に、しっかりとテンポを取って誇張なく淡々と音楽を進めながら、徐々に高揚していく。だんだん、だんだんと音楽が熱くなっていく。そして、各楽章の後半部分になってクライマックスがうまれてくる。力演タイプではないが、しみじみとした曲にしていく。

 第2楽章が特に素晴らしかった。精密で繊細な音。コンサートマスター郷古廉のソロ・ヴァイオリンが凛として美しい。第4楽章の盛り上がりも素晴らしい。無理をせず、誇張せず、自然に音楽が進んでいくが、前半の音楽がすべて伏線になって、後半、いやがおうにも盛り上がる。それがすごいと思った。後半、私は興奮でわくわくした。

 アンコールは、ヨハン・シュトラウス2世のポルカ「狩りにて」。メルケルが曲目を語って演奏が始まったが、私には「ポルカ」という言葉が聞き取れただけだったので、きっとハンガリー舞曲がアンコールだろうと思っていた私は、ブラームスにポルカなんてあったっけと思って焦ったが、そうかヨハン・シュトラウスだったか。これも端正だったが、アンコールだけあってさすがにちょっと羽目を外した部分があってとても楽しかった。実を言うと、前半のヨハン・シュトラウスの演奏もこんな感じで演奏してほしかった。

 前半は楽しい曲、後半は感動する曲。このような新春のコンサートは実にうれしい。

 ところで、ちょっと思いだしたことがある。

 私が生まれて初めて購入したレコードは、17センチ盤の「ウィリアム・テル」序曲だった。小学校の音楽鑑賞の時間に聴いて大感動。親に無理を言って貧弱な電気蓄音機を買ってもらってレコードを買ったのだった。そのB面がトマ作曲の「ミニョン」序曲だった。圧倒的に「ウィリアム・テル」序曲のほうが楽しくて、B面はめったに聴かなかった。1961年か62年ころのことだ。

 ところで、近年になってオペラ「ミニョン」DVDを見つけた。CDでも「ミニョン」序曲を聴いてみた。ところが、近年聴くこの曲は、私がかつてレコードでなじんでいた「ミニョン」序曲と異なる気がする。私がかつて聴いていたこの曲には、今日聴いた「私はティタニア」のメロディが入っていた。ところが、最近になって聴くこの序曲にはこのメロディがない。二つのヴァージョンがあるのだろうか。その情報を探したがネットでは見つからなかった。

 かつてのレコードが誰の演奏だったか忘れてしまった。オーマンディ指揮、フィデラルフィア管だったような気がするが、記憶違いかもしれない。私はその後、家を離れて大学に進んだし、親は転勤族だったので、そのレコードもとっくに失った。確かめるすべはない。どなたか事情をご存じないだろうか・・・。

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国立文楽劇場で令和6年初春文楽公演をみた

 2024年1月3日と4日、大阪の国立文楽劇場で「令和6年初春文楽公演」をみた。私は文楽初心者だが、浄瑠璃の本場である大阪に国立劇場があり、毎年、最高の人たちの出演する新春公演が行われていると、恥ずかしながらつい最近知って、友人にチケットの手配をしてもらって出かけることにしたのだった。

 3日の午後、大阪に到着、そのまま「伽羅先代萩」の竹の間の段、御殿の段、政岡忠義の段、床下の段。夕方から、「平家女護島」の鬼界が島の段、「伊達娘恋緋鹿子」の八百屋内の段、火の見櫓の段。4日の午前中、「七福神宝の入舩」、「近頃河原の達引」の四条河原の段、堀川猿廻しの段。堪能した。

 本来、それぞれの段を語った太夫や三味線弾き、人形遣いの方々のお名前を書くべきなのだろうが、私は圧倒的な初心者で、今はまだ文楽のストーリーを追いかけているだけの状態なので、ここには書かない。ただ、豊竹呂太夫をはじめとする太夫、鶴澤清治、鶴澤燕三をはじめとする三味線のほとんどが圧倒的だった。人形の動きにも圧倒されるばかり。

 政岡忠義の段は、腹をすかせていることを語る部分が長くてそこは少々退屈したが、その後の忠義の場面は凄い。鬼界が島の段の島に取り残された俊寛の人形の動きと場面転換の巧みさには感動。火の見櫓の段の活劇スペクタクルは楽しめた。そして、堀川猿廻しの段では、老いた母の心情に涙し、猿回しの場面に深く感動した。

 初心者につき、このくらいしか書けることがないのが残念。

 ところで、このところNHKから出ている文楽DVDをみている。先ごろ「妹背山婦女庭訓」と「菅原伝授手習鑑」のDVD通してみて、文楽という芸術の凄さを痛感した(「義経千本桜」と「仮名手本忠臣蔵」は購入したまままだ観ていない。現在、いくらか理解を深められるように予習中)。本当にすごい芸術だとつくづく思う。

 なぜこれほどの芸術があまり日の目を見ない状態にあるのだろう。そして、通しですべての段を上演すれば、これほどすごいのに、なぜ一つ、あるいはいくつかの段に分けて上演されるのだろう。

 バイロイト祝祭劇場での「ニーベルングの指環」の上演のように数日かけて上演してもいいではないか。それこそ、日本のどこかの劇場で通し狂言をずっと上演してもいいではないか。世界の人を呼んで上演したら、きっとバイロイト祝祭劇場のように、世界中から人が集まってくるのではないか。適切なガイドがあれば、西洋の人もきっと心から感動すると思う。そして、多くのワーグナー好きがバイロイトにはるばる行きたいと思うように、世界のファンが集まるだろう。

 これほどレベルの高い芸能を持っていながら、日本人もほとんど知らず(かく言う私も70歳を超して数人の友人に勧められて知ったばかり!!)、外国からもあまり知られずにいるのは、あまりにもったいない。

 今、国立劇場が建て替えのために休館になっている。そして、建て替え計画が頓挫しつつあり、このままでは東京の古典芸能の殿堂が失われてしまう可能性が高いという。バイロイト祝祭劇場は建築されてから150年以上たっている。それに比べれば、バイロイト祝祭劇場よりも100年近く後に建てられた東京の国立劇場などまだ十分に新しい! 耐震工事などをして、そのままそれを世界に向けての会場に使えないか。日本を観光立国にするというなら、観光地だけでなく、日本の古典芸能を世界に理解してもらうことを考えるべきではないか。古典芸能に造詣の深い文化人、経済人が中心になって、もっと活動してくれないだろうか。

 能登半島で大きな地震があり、羽田で大きな事故があって波乱含みの新春だが、このようなことを考えたのだった。

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