2024年3月5日から9日まで旅行代理店のツアーを利用して、バングラデシュ旅行に出かけた。ツアーと言っても、参加者は私一人。現地ガイドが案内してくれる。
まだ母の体調がすぐれないので長い旅行には行けない。そのため、毎回、弾丸旅行になるがやむを得ない。バングラデシュには以前から興味を持っていた。40年以上前だっただろうか、報道カメラマンだった叔父が仕事でバングラデシュに出かけたことがある。帰ってすぐに印象を聞くと、「この世の地獄だった」と一言しゃべっただけだった。何があったのか、何を見たのかくわしく聞かなかったが、強烈な印象を受けたようだった。そのころから、私も観光してみたいとずっと思っていた。これまで何度か計画しつつ、ちょっと恐れをなして先に延ばしていたが、いよいよ思い立った。
写真をアップする技術を持たないので、文字だけの印象記をここに書く。弾丸ツアーの印象なので、表面しか見ていないのは承知だが、それでも一応は書くことに意味があると思う。
3月5日
キャセイパシフィック航空で成田空港を午後に出発し、香港経由でダッカへ。ダッカに到着したときには、深夜の24時を過ぎて、6日になっていた。
ちょっと古ぼけた空港。最近、イスラム圏にも旅行に行っているので慣れてきたが、女性たちはほぼ全員がヒジャブを着用。男たちのほとんどが髭を生やしているが、ここでは、ヒジャブはピンクだったり、花模様だったり。真っ黒で目だけ出している女性もいるが、決して多くない。それが先日訪れたサウジアラビアとの大きな違いだ。
深夜なので閑散とした空港かと思っていたら、荷物引き取り所あたりは多くの人が行き来している。いくつものスーツケースをカートに積んでいく現地の人たちがたくさんいる。その中に、私の名前を紙に書いている男性がいた。ガイドさんかと思ったら、どうやらその特定のいくつかの旅行会社を通じてやってきた日本人を空港の外まで案内する係の人ということらしい。ともあれ、ガイドさんに無事あえそうなので安心。荷物を受け取り、ほんの少しだけ両替。貧しい国にもたびたび出かけているので、慣れているとはいえ、紙幣のあまりの汚さに呆れた。決して潔癖症ではない私も手に持つのをためらうような汚さ!空港内だというのに、蚊がたくさん飛んでいる。
荷物を受け取った後、男性について空港の外に出て現地ガイドさんと運転手さんと顔を合わせた。空港の外に出てびっくり。空港内にも人が多かったが、空港の建物の外は深夜なのに、車はぎっしり、人もごった返している。旅行業者の人というより、家族を出迎えに来た人たちなのだろう。空港の建物の周囲は繁華街の雑踏のようになっていた。どうやら、ラマダン(断食)が近づいているために、多くの移動があるとのこと。
それほど暑くはない。20℃くらいだろう。昼間は30℃くらいになるようだった。
ガイドさんは、日本語は完璧ではないが、誠実そうなので安心した。さすがに深夜なので、車は少なく、そのまま30分ほどでホテル到着。あまり良いホテルではなかったが、やむを得ないだろう。
3月6日
朝8時半に車(トヨタ・プレミオ)でホテルを出発。前夜ホテルに到着したのは2時くらいになっていたので、結構つらかった。
ダッカからまずはバハルプールに向かい、その日のうちに、ガンジス川を国境にしてインドの対岸にあるバングラデシュ第4の都市ラジシャヒに向かうという日程。
まず、朝のダッカの街の様子に驚いた。これから先、どこに行っても驚くことになるが、なんという人の多さ! 路地を抜けて大通りに出ても、また路地に入っても、どこもかしこも人がいる。すいすいと車の進める道路は、ダッカ市内にはめったにない。
大通りでは歩道を通勤・通学の人たちだろう。大勢が歩いている。道路にはサイクルリキシャ(要するに自転車の人力車)、三輪タクシー(オートバイの後ろに客席をつけたもの)があふれ、歩道脇にそれらの待合場所などがある。歩道上には小さな屋台もあって、そこに人が集まって何かを食べたり飲んだりもしている。道路わきはお菓子の袋やポリ袋や紙類が散乱。日本で海岸に打ち付けられたゴミの山がよく報道されるが、すべての道がそのような状態にある。
道路は大渋滞。ただ、ガイドさんによると、今日は人が少ないとのこと。
バスが通る。真新しいバスもないではないが、日本だったら10年前から廃車になっていただろうと思えるような老朽化し朽ち果てたようなバスが大半。しかも、それらのバスの壁面は傷だらけ。傷なんてものではない。もとの塗装が見えないくらい傷でおおわれているものもある。バスはインド製のようだ。トラックもインド製らしい。乗用車は9割が日本製。圧倒的にトヨタが多い。乗用車は比較的きれいだが、トラックなどはすべてが、よくこれで動いているなと思うほどのものがほとんど。
信号がない! 車線そのものはあるようだが、それを誰も守っていない。3車線のはずなのに5列くらいになって走っている。乗用車のほか、リキシャや三輪タクシーも割り込んでくる。だから交差点ごとに大混乱が起きる。渋滞している車の間を人が通り抜けて横断する。しかし、これもガイドさんによれば、今日はまだとても空いているという。
ダッカを出て国道をひた走る。やっと渋滞から解放される。いたるところで工事中。道路の拡張工事のようだ。国道はもちろん舗装はされているが、りっぱな舗装とは言い難い。道路の両端は水がたまったりゴミがたまったり。周囲は水田が広がっているところも多い。手作業で田植えをしている様子も見えた。
基本的に広めの片側1車線の道がほとんどだが、いったい交通法規はどうなっているのか? 平気で逆走してくる車がかなりあるが、どうもそれが許容されている雰囲気がある。ともあれ、田舎道ではトラクターや自転車、三輪タクシー、トラック、バス、乗用車が行きかう。さすがに渋滞はしていないが、いたるところ工事中。国道の横に、線路があり、列車が通っている。
私の車の運転手さんは、猛スピードで運転。次々と追い抜いていく。ずっとクラクションを鳴らし続けている。クラクションは存在確認のようだ。「これから追い抜くぞ」「ここに車がいるんだぞ、気を付けろ」「おいおい、危険だぞ」というようなニュアンスでクラクションを鳴らす。無謀とも思える運転だが、周囲をしっかり見きわめたうえでの運転なので安心していられる。
バハルプールの仏教遺跡に到着。野原の中に赤茶けたレンガ色の仏教遺跡がある。ソーマプラ僧院といい、十字型の建物になっており、中央に塔がある。インドネシアのボロブドゥール寺院を少し小さくした感じ。周囲に滞在していた仏僧の宿舎跡がある。僧院の表面には様々な動物の塑像がある。8世紀から9世紀、この地域はこの時期、仏教が栄えたという。ただ、その後、イスラム教徒によって塑像の多くが破壊されたという。
赤茶けた朽ちた建物が雲一つない青空の下に広がり、この喧騒の国の中で静かにたたずむのは、とても美しいと思った。
その後、クスンバモスクを経て、ラジシャヒ到着。ホテルは静かなところにあった。さすがにこの都市の郊外はそれほど渋滞していない。
ホテル内でガイドさんとともに夕食。昼もカレー、夜もカレー。ここにはカレー以外の選択肢はほとんどない。すでに一日にして、私の胃は悲鳴を上げ始めた。カレーは大好きだった。今も好きでたまに食べる。そして、バングラデシュのカレーもとてもおいしい。しかし、私はカレーを食べると数時間、胃がもたれる。2回続いたら、途端に食欲がなくなった。おいしいのはわかっているが、食べられない!
3月7日
早朝、6時20分にガイドさんと待ち合わせをして、ホテルから5分ほど歩いてポッダ川(インドで、ガンジス河と呼ばれている河)の日の出を見に行った。日の出そのものを見るのかと思っていたら、すでには夜は明けていたので、正確には夜明け後の川をみたことになる。
河の道沿いにはみすぼらしい住居が並んでいる。廃材のような木と錆びたトタン板を打ちつけて家の形にしている。廃墟に見えるが、立派に人が住んでいる。土間で人は料理をしたり、作業をしたりしている。牛を飼っている家もあった。女性がミルクを絞っていた。
ここにはヒンドゥー教徒が多く暮らしているらしいが、イスラム教徒もいるという。バングラデシュでは人口の八割を占めるイスラム教徒も少数派のヒンドゥー教徒、キリスト教徒、仏教徒と衝突を起こさずに平和に共存していると、ガイドさんは強調した。
確かにガイドさんはイスラム教徒だが、ヒンドゥー教徒にも親しく声をかけ、相手も楽しそうに話に乗ってくる。少なくとも、ガイドさんにはまったく差別意識はなさそうだった。
ポッダ河は海のような広大な河だった。向こう岸が見えるが、そこはインド領土。そこに朝日が美しく出ている。散歩している人が何人かいる。日本と同じようにジョギングしている人もいる。川岸は海岸のように砂や石が広がっており、そこにところどころ低木が生えている。ここにもあちこちにゴミがたまっている。小さな舟が数隻あったが、どうやらこれは漁のための舟というよりは、たまに観光客が楽しむためのものらしい。
河畔には早朝から店も出ていた。バナナや野菜、果物を売っている。不潔なテーブルに汚れ切ったバケツや皿があり、そこに果物や野菜が並べられている。ハエがたかっている。地元の老人が数人でしゃべりながらチャイを飲んだり、タバコを吸ったりしている。見るからにみすぼらしい恰好をしている。ガイドさんにチャイを勧められたが、さすがにここで何かを食べたり飲んだりしようという気にはなれない。
ダッカの下町の店も多かれ少なかれこのように不潔でみすぼらしい店がほとんどだったが、この川べりの店は今回の旅の中でも最も不潔な店だった。
8時半に車で出発。ラジシャヒの街もダッカと同じようなすさまじい人込み。ホテルの周囲は静かだが、少し行くと、リキシャと三輪タクシーでごった返している。あいかわらず、道路の脇はゴミだらけ。
ラジシャヒから出る前に郊外でガススタンドに寄った。私が移動する車はトヨタだったが、ガス仕様とのことで、この都市にはスタンドは一箇所しかないという。4つのホースで注入するが、それぞれの前に10台以上が列を作っている。注入時には車に乗っている人は、安全のためか全員が外に出てワイワイガヤガヤ。注入までに1時間以上かかった。
その後、また国道を通って、ボグラ県にあるプティアに到着。四角い池の周囲をヒンドゥー教の寺院が林立している。12世紀に広まり、いったんイスラム勢力に押された後、16世紀に再びベンガル地方ではヒンドゥー教の勢力が増した。その時期にこれらの寺院が作られた。この村は本当に素晴らしかった! まるでおとぎの国。
まず白い屋根に赤いレンガの小さな寺院に惹かれた。その横に、屋根が三つ連なる赤いレンガの繊細なアニク寺院が並んでいる。それぞれの壁面はテラコッタの装飾がなされており、本当に美しい。そのほか、北のほうに白い大きなシヴァ寺院が建っている。
日本語が完璧とは言えないガイドさんの話を聞いても、その内容が頭に入らないので、帰ってから本を調べようと思っていたが、日本では本は出ていないようだ。こんな美しい村の、こんな美しい寺院群なのに、ほとんど知られていないようだ。残念。
その後、サリー機織り工場によって見学。きっと見学というのは名前だけで、サリーを買わされるのだろうと思っていたら、まったくそんなことはなく、ひたすらに暑い工場の中、機織りの機械を使って働く男たちを見ただけだった。どの店でも男性店員ばかりだったが、この工場も働いているのは男性ばかり。
その後、ダッカのホテルへ向かった。18時ころに到着するという話だったが、大渋滞。ダッカに入ってしばらくしてから、ぱったりと車は動かくなって、1時間に2キロくらいのスピードになった。
それにしても、私の乗る車の運転手さんの技術にびっくり! こんなに運転の上手な人にこれまで出会ったことがない! ひっきりなしにリキシャや三輪タクシーが割り込んでくるし、歩行者が渋滞を縫って道路を渡っていくが、運転手さんは見事にかわし、しかも自分もバスや車の列にほんのちょっとしたすきを見て割り込む。さすがにここは曲がれないだろうと思われるような場所も数センチの余裕で曲がり切る。しかも、うしろからの割り込みも含めてすべて予測しているようで、あらゆる動きに余裕がある。凄い! ただ、ほとんどずっとクラクションを鳴らしっぱなし。
ホテルに戻ってからだと遅くなるので、途中のホテル近くのレストランに20時前に着いて食事をした。私がずっと食欲をなくし、昼間もほとんど何も食べなかったのを気にして、ガイドさんが中華の店に連れて行ってくれた。ほんの少しでいいという私の願いを聴いてくれて、五目焼きそばを注文してくれた。おいしかった。やっと少し食欲が出た。本当にカレーの連続はつらい!
3月8日
3泊5日の弾丸旅行の最終日。
ホテルをチェックアウトしてオールド・ダッカ市内観光。まずは18世紀に造られたというスターモスク(タラ・モスジッド)を見た。星のしるしがあちこちにある。風格のある美しいモスクで、お祈りの時間をさけて見物したので、人がちらほらいる程度。壁面は花やアラベスク模様のタイルが敷き詰められていたが、中には明治時代の日本から輸入された富士山を描いたものも含まれていた。
その後、ヒンドゥのダケッシュリ寺院。シヴァ神の男性のシンボル(でかい!)など飾られていたが、基本的にはヒンドゥ教徒たちの生活の場のようだった。おなかを出したサリー姿の中年女性たちが何人もいて、結婚式のような儀式が行われていた。イスラム教徒も見物に来ている人がいるようだった。
その後、市民の憩いの場である広大な公園、ラールバーグフォートでのんびりした。ムガル帝国の第6代皇帝アウラングゼーブの子アザム=シャーにより、1678年に建立されたという。愛嬢ビビパリの霊廟があり、周辺が公園になっている。日本の日比谷公園や駒込の六義園などを思わせる。イスラム教徒に限らず、ほかの宗教の人もやって来て子どもづれで楽しんでいた。様々な花が咲き、とても美しい。入場料は、外国人は400タカ、現地人は5タカとのこと。一日中ゆっくりできる様子だった。
ラールバーグフォートを出て、少しだけリキシャに乗った。40年ほど前、マレーシアで乗って以来のリキシャ。路地を行き来しただけだった。女性や老人が一人で道端に座り込んで野菜や果物を売っている。その前に人がいて買い物をしている。向こうからリキシャがやってくる。そうした人たちを避けて走る。路地でも危険を感じた。広い道に出るのはあまりに怖い。よくもまあ、あの大渋滞の中をリキシャが走っているものだと感心した。
その後、ニューマーケットへ。市民が日常的に買い物を行う市場で、敷地の奥の方に広い大きな建物があり、その周囲には回廊状に衣料品、食べ物、日常器具などのたくさんの小さな店が軒を並べている。広い建物の中も同じように小さな店が並んでおり、そこにも大勢の買い物客が押し寄せている。それにしても人の多さよ! イスラム社会の金曜日は、私たちの社会の日曜日にあたる。人気の店の前など、身動きが取れないほどの人込みのところもある。通勤ラッシュの時間帯に新宿駅のホームを歩いている感じ。店の店員はほぼ全員が男。客のほうは8割がたが女性。時間になると、お祈りの時間を知らせるアナウンスがあり、大勢の男たちが併設されたモスクに向かう。コーランの言葉が流れる。それでも客はひっきりなしに歩いている。
いったん外に出て、歩道橋から下をみた。いやはや、ニューマーケットの外の大通りも車と人でごった返していた。見渡す限り、人や車が目に入る。「デモの参加人数10万人」などという報道が海外でなされ、おびただしい数に人が広場に集まっている写真を見ることがあるが、そんな感じで、見渡す限り人や車で覆われている。そして、絶え間なくクラクションが鳴り、人声が聴こえ、時にコーランの放送が聴こえる。
なんという混沌、なんという喧噪。これがバングラデシュだと思った。
帰りの飛行機は深夜に出発予定で、午後は自由行動の時間になっており、夜の9時半に車が迎えに来てくれることになっていたが、やはり私のような老人が、まったく言葉も文字も地理もわからない都市を一人でうろうろするのはかなり危険。どうしようかと迷っていたら、ガイドさんから自宅に招かれた。言葉に甘えて訪れた。
ガイドさんは10数年前に日本に来て日本語学校で学んだ後、レストランで働いていたという。写真を見せてもらったが、とんでもなく美しい奥様と中学生くらいのお子さん二人、そしてお母様と暮らしているとのこと。残念ながら、ほかの家族の方は出かけていてお会いできないとのことだった。
ガイドさんの住まいは、閑静な(といっても、バングラデシュにおいての話ではあって、日本と比べると十分に騒々しいが)住宅街のマンションだった。閑静な住宅街だというのに、子どもたちがサッカーをしたり、クリケットをしたりして騒いでいる。こんなに道路で子供が遊んでいるのを久しぶりに見た。
ガイドさんの部屋は異様にきれいに片付いていた、そしてとても趣味の良い部屋だった。客間でしばらく休憩させてもらったが、大理石を思わせるような白のスレートの床、いくつものソファを備えたとてもいい部屋だった。
9時ころに近くにおみやげ物を買いに出た。夜だというのに、まだ人がいっぱい。魚も売っている。鯉などの大きな魚がそのまま台に載せられている。ダッカの生ものの店はどこもそうだが、もちろんハエがたかっている。子どもたちがまだサッカーをしていた。
予定通りに車が来て、空港に向かい、香港経由で帰国した。
・交通
私は、訪れた国の民度を測る指標として、渋滞の状況、交通ルール順守、クラクションの状況などの交通事情を考えている。バングラデシュは、これまで私が訪れた国の中でも最下位に属するといってよいだろう。40年ほど前のバンコクもすさまじいと思ったが、それ以上のひどさ。インフラが整備されていないために大渋滞が起こり、だれも交通法規を守っていない状況。車間距離もごく短い。大渋滞の場合が多いので車間距離どころではない(場合によっては数センチの間隔で時速2キロくらいで走っているところも多い)。
バンコクはその後、公共交通網ができて渋滞は解消され、見違えるようになった。今、ダッカは電車ができ、地下鉄も工事中。きっとダッカもバンコクのようになるだろう。
・女性
店の店員のほとんどは男性。ホテルなどでも圧倒的に男性が多い。現在の首相は女性なのだが、まだまだ女性の社会進出は十分ではなさそうだ。女性は消費者としてマーケットを訪れているが、働いている様子を見ることは難しい。きっとどこか女性の仕事とされているものがあってそこに女性が集まっているのだろうが、観光客にはそれは見えない。
ただし、顔を黒い服ですっぽりかぶった人は少数で、スカーフをかぶっただけの人が多い。しかも、それは色とりどりでかなり派手。
ところで、ダッカ市内で渋滞のため、車が止まっていると、着飾った女性がいくつもの車の窓をたたいて何やら話している。これまでも何度か物乞いがそのようにしてやってきたが、様子が違う。ガイドさんに聞いてみたら、それはトランスジェンダーの人で女性の格好で物乞いをしているとのこと。ガイドさんによれば、この国ではトランスジェンダー(ガイドさんは「おかま」と呼んでいた)はそのようにして生きていくのだという。ちょっとこれについては帰って調べてみようと思った。
・祈り
イスラム社会では一日に5回、定められた時間にお祈りをすることが求められているようだが、バングラデシュではそれほど厳格ではないようだ。ガイドさんは、移動中は時間になっても仕事をつづけ、食事などの前に祈りに行くことにしていた。ほとんどの人がそのようにしているようだった。なお、祈りについても女性はモスクの奥には入れず、一部の制限された地域で祈るしかないとのことだった。
金曜日はイスラム教の聖なる日だとのことで、大きなモスクの前では、中に入り切れない人々が道路で祈りをささげていた。それもまた大渋滞の原因になっていた。
・人懐こいガイドさん
ガイドさんによれば、バングラデシュには宗教対立はないとのこと。もちろん、ガイドさんは多数派のイスラム教徒なので、ヒンドゥー教徒の差別の実態などを知らないのだろうと思う。ネットで調べても、宗教対立があることがすぐにわかる。そして、どうやらヒンドゥー教徒は貧しい地域に大勢住んでいる様子がわかる。
とはいえ、私がこれまで見てきたインドネシアやスリランカほどには宗教対立は根深くないのではないかという印象を得た。
ガイドさんは異様なまでにコミュニケーション力のある人だった。誰にでも話しかけ、だれともすぐに打ち解ける。明らかなヒンドゥー教徒にもふつうに話しかけ、相手も愛想よく対応していた。同じ建物に二つの宗教が同居しているのも見かけた。
・日本びいき
かつてトルコに行って、「日本人だ」というと大歓迎された。バングラデシュはそれ以上だった。
どうやら外国人そのものが珍しいようで、観光で寄った田舎町では、通りかかる人から握手を求められた。7、8人に「一緒に写真を撮ってくれ」と言われた。そんなとき、「ジャパニーズ?」と聞かれる。ときどき、「チャイニーズ? ジャパニーズ?」と聞かれる。「ジャパニーズ」と答えると、にっこりとして嬉しそうにする。「こんにちは」「ありがとう」などと日本語を口にされる。日本人というだけで人気者になる。
日本はバングラデシュにかなりの援助をしている。そのためにあって日本びいきなのだろう。
・物価
物価は日本人にとってはかなり安い。水のポットボトルやチャイなどは10タカか20タカ(1タカは1.2円くらい)で買えるが、バングラデシュの世帯当たりの平均月収が4万円強ということらしいから、実はいろいろなものが高い。ナツメヤシ500グラムを買おうとしたら、高級なもので600タカだった。輸入品なのかもしれないが、収入からすると異様に高い。
・観光客
観光客は少なかった。大きな団体には一つも出会わなかった。日本人には家族連れらしい小グループ二つと顔を合わせただけだった。欧米人もときどき見かける。どこにも大勢で押しかけている中国人の姿がまったく見えない。ホテルも少なく、しかも設備はあまり良くない。まだまだ観光は産業として成り立っていない。
・総まとめ
叔父は「この世の地獄」と語っていた。何か大きな出来事を目撃したのだと思うが、今、私が見ると、この国はもちろん地獄ではない。最貧国であることは間違いない。ものすごい数の人が集まって大混乱しており、混沌としてエネルギーにあふれている。そして、ガイドさんやガイドさんと話をする人々の様子を見ていると、本当に明るくて善良な人ばかり。私が育った1950年代の田舎の人々の人情と重なるところがあった。
そして、何よりもプティアのヒンドゥー寺院の美しさに打たれた。ぜひまた、あの寺院群を見に行きたいと思う。
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