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読響&ヴァイグレ 「ばらの騎士」組曲 とても良かったが、あと少しの香りがほしい!

2024年928日、東京芸術劇場で読売日本交響楽団の演奏会を聴いた。指揮はセバスティアン・ヴァイグレ、曲目は、前半にウェーバーの歌劇「オベロン」序曲と、チェロのエドガー・モローが加わって、ブルッフの「コル・ニドライ」とコルンゴルトのチェロ協奏曲。後半にコルンゴルトの「シュトラウシアーナ」とリヒャルト・シュトラウスの歌劇「ばらの騎士」組曲。ドイツ、ロマン派の音楽を盛りだくさん。

「オベロン」序曲は、いかにもドイツ風の奥の深い音でふくよかに生き生きと聞かせてくれた。音の重なりがとても心地よい。重い音ではないのだが、しなやかな重厚感がある。「コル・ニドライ」はゆっくりとしたわかりやすいメロディの曲。チェロの音がとても美しいのだが、私としては少々退屈した。曲自体の問題だろうが、もうちょっと変化が欲しいと思った。

 コルンゴルトのチェロ協奏曲は初めて聴いた。ヴァイオリン協奏曲と同じように、甘美でダイナミックで華やかで、とても魅力的な曲だと思った。モローのチェロも歌心にあふれていてとてもいい。とてもロマンティックな音だと思う。ヴァイグレの指揮するオーケストラと見事に合致していると思った。

「シュトラウシアーナ」はヨハン・シュトラウス2世のいくつかの曲を引用してコルンゴルトがまとめたもの。コルンゴルトらしいオーケストレーション。甘美的! とても楽しくおもしろい。

 最後に「ばらの騎士」組曲。これもさすがの演奏。シュトラウスらしい華やかで繊細でゴージャスで官能的。楽器の響きも美しく、まとまりととてもいい。ただ、あと少しの精妙さ、あと少しの香りが欲しいと思った。これまで聴いて感動したこの曲の演奏(ザルツブルクで聴いたガッティ指揮、グスタフ・マーラー・ユーゲントの演奏など)と比べると、ほんの少しそのような香りが不足している気がする。とてもいいのだが、心の底から陶酔することはできなかった。

 なお、コンサートマスターの長原幸太さんが今回で退団なさるとのこと。知らなかった! これからどうなさるのだろう。

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オペラ映像「神々の黄昏」「マクベス」

 やっと秋らしくなった。外に出るのも楽になった。オペラ映像を2本みたので簡単な感想を記す。

 

ワーグナー 「神々の黄昏」202210月 ベルリン国立歌劇場

 バレンボイムが振る予定だったが、体調不良のためにティーレマンに代わったベルリン国立歌劇場の「ニーベルングの指環」チクルスの「神々の黄昏」がやっと発売になった。結論から言うと、これまでの3作と同じように、演奏は素晴らしいが、演出は噴飯もの。

「ワルキューレ」「ジークフリート」と同じように、やはりブリュンヒルデのカンペが圧倒的。細身の美しい声だが、芯が強い。細やかな表現も見事で完璧に声をコントロールしている。男っぽい演技もとてもいい。ジークフリートのアンドレアス・シャーガーはしっかり歌っているが、あと少しの威力がほしい。ハーゲンのミカ・カレスは大柄でさすがの声量だが、これももう少し威力がほしい。どす黒い迫力を感じない。グンターのラウリ・ヴァサールは、気弱な人間をうまく歌っている。グートルーネのマンディ・フレドリヒもうまい。ヴァルトラウテを歌っているのが、ヴィオレータ・ウルマーナだとあとで気づいた。道理ですごい迫力だと思った!

 クリスティアーン・ティーレマンの指揮するベルリン国立歌劇場管弦楽団、合唱団は言うまでもなく緻密で躍動感にあふれていて、とてもいい。ただ、演出のためにそう感じるのか、あるいは演出に合わせてあえてそのような演奏にしているのか、スケールが小さくて、大きくうねっていかない。

 ディミトリ・チェルニャコフの演出については、これまでに引き続き、ある研究所での出来事という設定。三人のノルンは研究所に巣くう老婆たち。愛馬グラーネはぬいぐるみの馬。ジークフリートは、どうやらちょっと知的障害の気味があるらしい。ハーゲンやグンターやグートルーネの部屋に行って、障害者いじめのようにしてからかわれてころりとだまされる。

 第2幕のどす黒い世界も明るい研究所の中で展開。ジークフリートが殺されるのも、もちろん狩りではなく、バスケットボールの練習中でのこと。黙役だが、ヴォータンが登場して、ジークフリートの様子を見守る。

 最後、火にも包まれないし、水も押し寄せない。終わった後暗転し、カバンを持ったブリュンヒルデが現れ、そこに長いドイツ語の文章が流れる。どうやら、「女はさまよいの旅に出て、真実を見つけようとした」というような内容のようだ(きちんと調べる気にもならない!)。有名な文章なのだろうか。それにしても、これは原作にはないと思う。

 よくもまあワーグナー作品をここまでおちょくって、勝手に改竄して平気でいられるのだろう。そして、よくもまあ多くの知識人がこれを許しているものだ。私は我慢できない。

 

ヴェルディ 「マクベス」 20237月 ザルツブルク、祝祭大劇場

 音楽面では圧倒的な名演だと思う。なんといっても、マクベス夫人を歌うアスミク・グリゴリアンが言葉をなくす凄まじさ! 圧倒的な声と演技! 「乾杯の歌」も夢遊病患者のように手を洗う場面もあまりに素晴らしい。そして、ウィーン・フィルを指揮するフィリップ・ジョルダンも素晴らしい。私はかつてザルツブルクでムーティ指揮、ネトレプコの歌でこのオペラをみたが、実はあまり感動しなかった。が、ジョルダンで聴くと、これはものすごい名曲ではないか! イタリア・オペラ臭くなく、ちょっと表現主義的ともいえるアプローチ。ぞくぞくしてくる。ウェルザー=メストの代役として3週間前に引き受けたというから驚く。

 マクベスのヴラジスラフ・スリムスキー、バンコーのタレク・ナズミ、マクダフのジョナサン・テテルマンもしっかりした声で見事に歌う。まったく穴がない。しかも、演技も達者。いうことなし。

 演出はクシシュトフ・ワルリコフスキ。時代を20世紀中ごろに移している。盛りだくさんであれこれ詰め込んでいる。パゾリーニの映画「エディポ王」(邦題「アポロンの地獄」)の映像が何度かバックに映し出される(この映画は私の人生を変えた最も好きな映画の一つだ!)。そして、マクベス夫人は冒頭で不妊治療に出かけて、子どもを産めないと知らされているらしいことがほのめかされる。しかも、舞台上には、たくさんの子どもたちが登場、第2幕の宴会の場面の最後、嬰児の死体が皿に盛られて出される!

「父を殺し、実の母と交わる」という予言を受けて殺されかけながらも、最後には予言通りの行動をとってしまうエディプス王と、「王になるが、バンクォーの子どもに王の座を奪われる」という予言を受けて、バンクォーの子どもを殺そうとしながら果たせずに殺されてしまうマクベス。「子殺し」と「予言の成就」という点で共通する二つの物語が重ねあわされる。どうやらワルリコフスキは、子どもを持てなかったマクベス夫妻は図らずも子共たちを殺すという蛮行を行ってしまい破滅してしまう物語としてこのオペラを展開したようだ。

 パゾリーニ好きとしては彼の映画が出てきたことはとてもうれしいが、この演出にはかなり無理があり、しかも、あまりに盛りだくさんのために煩わしい。

 これもまた最高の音楽と、自己顕示欲の塊の演出家の合体の上演だったといえるだろう。

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松島理紗&中本優衣の「月に憑かれたピエロ」に震撼!

 2024年9月21日、代官山教会で、松島理紗(ソプラノ)と中本優衣(ピアノ)によるリーダーアーベントを聴いた。曲目は、前半にベルクの初期の7つの歌と、昨年の日本音楽コンクール作曲部門で1位の前川泉の新曲「Herbst」、後半に「月につかれたピエロ」。 代官山協会には初めて足を運んだ。50人程度のこじんまりしたホール。

 松島、中本、前川の三人はともにケルン音楽大学で学んでいるとのこと。私は桐朋音大時代の松島さんの歌を聴いて衝撃を受け、それ以来、機会があるごとに聴かせていただいている。以前から素晴らしい歌唱力だったが、さらに磨きがかかって本当に素晴らしい。

 最初の音から、聴く者を虜にするような、音楽の魂の本質にぐいぐいと入り込んでいくような表現。声も完璧にコントロールされている。中本のピアノはそれに比べると、ずっと控えめでおとなしいが、粒立ちの美しい鮮明な音なので、松島の歌に決して負けていない。

 この小さなホールで目の前で素晴らしい演奏をされると、魂が震える。ベルクの初期の歌曲はとても魅力的。レコードの時代、繰り返し聴いたが、そういえば、しばらくご無沙汰していた。こうして聴くと実にいい。ベルクの世紀末的な雰囲気とロマンティックな疼きが聴きとれる。前川の新曲は、歌詞が配布されたが、どこを歌っているのかまったくわからなかった! が、新鮮な音の響きに退屈しなかった。

 やはり圧巻は「月に憑かれたピエロ」。松島が椅子に座って、いわば独り芝居。白石加代子の早稲田小劇場時代の物狂いの演技を思い出した。表面的な美しさをかなぐり捨て、狂気の中に潜む真実をえぐり出す。ものすごい迫力。シュプレヒシュティンメも完璧に自分のものにして、ホール全体を震撼させる。見事。ピアノが正気を保っているので、ギリギリのところで音楽が成り立っている。二人のバランスが絶妙だと思った。

 久しぶりに新ウィーン楽派のコンサートに足を運んだが、小さなホールで聴くと、とてもいい。作曲から100年以上がたってもまさに新鮮。現代の人間の心の中をまざまざと聞かされる気がした。

 

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ウォン&日フィル やはり私はウォンの演奏に違和感を覚えた

 2024年9月20日、東京オペラシティコンサートホールで日本フィルハーモニー交響楽団特別演奏会を聴いた。指揮はカーチュン・ウォン、曲目は前半にゲルハルト・オピッツの独奏でブラームスのピアノ協奏曲第2番、後半にチャイコフスキーの交響曲第4番。

 先日、ウォンと日フィルのブルックナーの第9番を聴いて、私はとても不快に思った。ブルックナーにあるまじき音だと思った。途中退席したい気持ちになった。今回は、作曲家が異なるので、もしかしたらよいかもしれないと思って出かけた。

 だが、やはり、どうも私はウォンの音楽をよく理解できない。大喝采が起こったので、きっと良い演奏だったのだと思う。が、私は大喝采に参加できなかった。

 ブルックナーよりはずっと良かった。とりわけチャイコフスキーの第3楽章は私も素晴らしいと思った。が、全体的にはどうも違和感を覚える。

 演奏を聴きながら、途中から、なぜ私はこの音楽に乗れないのか、なぜ違和感を覚えるのかを考えていた。

 一言で言うと、「騒々しい」という感じがする。ブルックナーもブラームスも、私は静謐の中から音が浮かび出てくる雰囲気が好きなのだが、そんな雰囲気がない。もしかすると、リズムに問題があるのかもしれない。リズムがぴたりと決まっていると静謐な感じを抱くのだが、そうではないのだろう。

 拍の取り方にも違和感。拍の始まりが野放図な感じがする。そのため、フレージングがぼやけているように思う。ぴしぴしと音が決まらない。流され、流動し拡大し、うやむやのうちに爆発していく感じ。それがどうも私の感覚に合わない。なんだか、がやがやしている中でいつの間にか盛り上がっている。

 まったくの素人の感想なので、的外れなのかもしれない。が、私が耳にした感覚を言葉にすると、以上のようになる。

 オピッツはきわめてドイツ的で、私の好きなピアニストなのだが、オーケストラの騒々しさのためにせっかくの重厚な音楽が邪魔されているような気がした。チャイコフスキーの交響曲第4番は、実はもともとあまりに派手で、あまりに騒々しいので、私はあまり好きではない。ウォンが指揮すると、輪をかけて騒々しい。その意味では、チャイコフスキーらしい演奏なのだと思う。が、やはり私は拒否感を覚える。

 好きな指揮者がいる(今、現役では、私はビシュコフに強く惹かれている!)のと同じように、嫌いな指揮者がいる。それは仕方のないことだ。ウォンは、私の嫌いな指揮者のリストに入ることになったようだ。

 ところで、私は同世代の人の例にもれず、小学生のころからの野球好き。大谷選手のメジャー50本塁打・50盗塁達成、1試合6安打3本塁打2盗塁10打点の日として、今日は記憶に残るだろう。

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ルイージ&N響のブルックナー8番  現代的だが、確かにブルックナーの息づかい

 2024915日、NHKホールでNHK交響楽団定期演奏会を聴いた。指揮はファビオ・ルイージ、曲目はブルックナーの交響曲第8番(初校・1887年)。私の知っている版とはかなり違っていたが、違和感なく聴くことができた。素晴らしい演奏だった。

 先々週のカーチュン・ウォン指揮、日フィルのブルックナーの第9番は私には我慢できない演奏だった。簡単に言ってしまうと、かなりマーラー風の演奏だったのだと思う。

 私は酸っぱいものが大嫌いで、唐揚げなどの料理にレモンをかけられると、好きなものもいっぺんに最もまずいものに変貌してしまう。それと同じで、マーラー的なソースがかかると、大好きなブルックナーが我慢できないものになる。ネットを確認してみたところ、かなりの方がウォンの演奏を絶賛していた。そして、私とまったく同じように我慢できないと記しておられる方もいた。きっと、マーラー風のブルックナーを許容できるかどうかが評価の境目だったのだと思う。

 ただ、私はずぶの素人につき、私がマーラー風と感じるのが具体的にどのようなものなのかは分析的につかめずにいる。

 で、今日。実は不安に思いながら出かけた。ルイージもマーラーに定評がある。もしかして、今日もマーラー・ソースがかかっているのではないか?

 が、さすがルイージ。見事にブルックナーの息づかいの音楽になっていた。冒頭から深い音楽が鳴り響き、まとまりのある澄んだ音でスケール大きく大伽藍を作っていく。昔の大巨匠のような重々しい音ではないが、見事に構築的で巨大で精神的な深さを感じる。版の違いのため、あちこち、知らないメロディが出てきたり、終わったと思ったら続きがあったりして驚いたが、それも含めてきわめて説得力がある。

 第1楽章、第2楽章はじっくりと、しかし躍動感をもって進めていき、第3楽章で、じっくりじっくりと音楽を作っていく。テンポはかなり遅く、緊張感にあふれ、繊細にして緻密。そしてだんだんと盛り上がって激しいシンバル! そして、徐々に静まる。そして、第4楽章。繰り返し盛り上がって、最後に法悦へ向かう。

 N響はブルックナーの音を見事に作り出している。金管群の響きも言うことない。バランスも良く、全オーケストラによる爆発に私の魂は感動に震えた。版の問題がややこしいのは困ったものだが、ともあれブルックナーは素晴らしいと改めて思った。ルイージはまちがいなく、昔風でなくきわめて現代的でありながらも、十分にブルックナーの息遣いを持った演奏をしてくれる。ありがたいことだ。

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原田慶太楼&日フィルのショスタコーヴィチ第5番に感動

 2024年9月14日、相模女子大学グリーンホールで日本フィルハーモニー交響楽団相模原定期演奏家を聴いた。指揮は原田慶太楼、曲目は、前半にヒグドン作曲のファンファーレ・リトミコと、吉本梨乃がソロに加わってのモーツァルトのヴァイオリン協奏曲第4番、後半にショスタコーヴィチの交響曲第5番。

 久しぶりのグリーンホール。相模女子大学には、その昔、非常勤講師として勤めていたので土地勘がある。大学のすぐ横にグリーンホールができた時からよく知っている。なつかしい。原田の評判は聞いているが、実演に接したことがなかったので、ショスタコーヴィチが演奏されるというので足を運んだ。

 とても良い演奏だった。ジェニファー・ヒグドンは現代アメリカの女流作曲家。この曲は日本初演とのこと。タイトル通り、リズミカルでエネルギッシュで鮮やかで華やかな曲。とても楽しかった。原田の指揮は実に鮮やか。見事に整理され、楽器が美しく響く。

 モーツァルトの協奏曲も、とてもしなやかでよい演奏だった。吉本のヴァイオリンは率直で溌剌として、まさにモーツァルト中期の曲にぴったり。原田の指揮する日フィルもとてもうまくフォローしている。ちょっとした緩急によって音楽を活気づけるところはさすが。ソリストのアンコールはパガニーニのカプリース第24曲。しっかりとしたテクニックと音楽性を聴かせてくれたが、もう少し超絶技巧をひけらかしてもよかったのではないか。パガニーニはもっと外連味がほしいと思った。

 後半のショスタコーヴィチは素晴らしかった。原田はまだ若いのに、まさに堂に入った指揮ぶり。楽器を手際よく整理して音を鮮明に響かせるのはもちろん、ある種の「活劇」のように、面白くドラマティックに聴かせてくれながらも、音楽の表情がこの作曲家らしく陰影があって一筋縄ではいかない深みがある。第2楽章の終わり方をゆっくりとして戯画化を印象付け、第3楽章はじっくりと心の奥底からの嘆きと希望を描く。そして、終楽章はある意味で、やけくその勝利のファンファーレ。なんだかよくわからないが、すごい。これぞショスタコーヴィチの醍醐味。

 私も大いに感動したが、私の周囲にいた、演奏前の話の様子から、どうやらオーケストラの演奏を聴くは初めてらしい少女や高齢女性もおおいに心を動かされた様子。この曲の持つ魅力でもあるだろうが、原田と日フィルの功績でもあるだろう。たいしたものだ!

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イザイとフォーレ 若々しい見事な演奏!

 2024912日、みなとみらい小ホールで、イザイとフォーレと題するコンサートを聴いた(日本イザイ協会主催、絆シリーズ第5弾)。出演は、北村朋幹(ピアノ)とエール弦楽四重奏団(山根一仁・毛利文香・田原綾子・上野道明)。曲目は前半にフォーレの「エレジー」と「夢のあとに」(田原・北村)、イザイの「ポエム・エレジアク(クニャーゼフによるチェロ編曲版」上野・北村)、フォーレのヴァイオリンソナタ第2番(毛利・北村)、後半にイザイの「詩曲 糸車の情景」(山根・北村)、フォーレのピアノ五重奏曲第1番。

 いずれも好感の持てるとてもいい演奏だった。若々しい演奏と言ってよいだろう。

 北村のピアノは、とても繊細。一つ一つの音がとても美しく、まさにフォーレの内向的で情熱を秘めた心を描き出す。田村のヴィオラは、しなやかでロマンティック。エレジーの情感は見事。上野のチェロもとてもロマンティックでいいのだが、やはり私はチェロで演奏されると、この曲はイザイの曲に聞こえない。クニャーゼフ編曲だということで私の先入観なのかもしれないが、ロマンティックすぎる気がする。

 毛利のソナタも率直でとてもいい。妙にひねらずに、率直に素直に演奏。飾らない高貴さのようなものが醸し出される。終楽章の盛り上がりは素晴らしかった。フォーレの精神が迫ってきた。

 山根の「糸車の情景」は、私がCDで聴いたこの曲とあまりに雰囲気が異なるので戸惑った。山根はかなりスケール大きく、おそらくは少し遊び心を加えて演奏。私はCDを聴きこんでいるわけでもなく、この曲をよく知っているわけでもないので、この演奏をどう判断するのかわからない。

 五重奏曲もとてもよかった。名曲だなあとつくづく思う。第1楽章は楽器によって繊細な心の動きが絡み合う。フォーレらしい美しいメロディ。それぞれの楽器が本当に人間の心の襞を語っているかのよう。同じような旋律の繰り返しだが、徐々にやるせない気持ちが高まっていく。第2楽章は透明でしなやかな曲想。ただ、ちょっと集中力が途切れたように感じられるところがあった(もしかしたら、私の集中力が切れたのかもしれないが)。第3楽章は単純な音型で、肩の力の抜けたある種、卓越した境地に達しているかのように感じる。のびやかな力を持った若々しい音であるがゆえに、いっそう説得力があった。

 日本イザイ協会の主催コンサート。この協会、素晴らしいコンサートをしばしば企画してくれる。企画力に感服! そしてその活動力に頭が下がる。

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オペラ映像「ドン・ジョヴァンニ」「フィガロの結婚」「二人のフォスカリ」

 9月中旬になったのに、連日33℃、34℃。この先も暑さが続く予報だ。私は部屋を涼しくしてマイペースで過ごしている。オペラ映像を3本みたので感想を記す。

 

モーツァルト 「ドン・ジョヴァンニ」 20148月 ザルツブルク音楽祭

 実際に私がザルツブルクで観た年に録画されたものだ。私は812日に観たのだったが、この映像が同日のものかどうかはわからない。あれから10年以上たっているので、細かいところまで覚えていない。が、深い感動を覚えたのを思い出した。今、映像でみても本当に素晴らしい。

 ドン・ジョヴァンニ役のイルデブランド・ダルカンジェロが太い美声で魅力的な悪漢を見事に演じている。レポレッロのルカ・ピサローニも、知的な風貌で、しかも太い美声なのに見事に軽妙な役を演じている。騎士長のトマス・コニェチュニーも凄味があり、アンドリュー・ステイプルズのドン・オッターヴィオも見事な美声。マゼットのアレッシオ・アルドゥイーニは声は美しいが、おもしろみに欠けるのがちょっと残念。とはいえ、これほどまでにそろった男声陣を聴くことはめったにないだろう。

 女声陣はいずれも声も容姿も理想的。なかでもドンナ・エルヴィラを歌うアネット・フリッチュの迫力ある美声が素晴らしい。ドンナ・アンアのレルケ・ルイテンも清純でありながらも芯の通る声で演技力も抜群。ツェリーナは歌も演技も少し弱いが、それでも十分に可憐な役を演じている。

 演出はスヴェン=エリック・ベヒトルフ。舞台をホテルに設定し、警察関係者らしい騎士長が売春婦の一斉摘発をしようとしたところ、そこに我が子ドンナ・アンナがいて、混乱の中でドン・ジョヴァンニに殺されてしまうということらしい。貴族階級の人たちはホテルの客で、庶民はホテル従業員。最後、すべてが解決した後、ドン・ジョヴァンニがよみがえって、また女性を追いかける。「どんなに罰せられようと、男はみんなこうしたもの。男のさがは変わらない」ということだろう。

 ウィーン・フィルを指揮するのはクリストフ・エッシェンバッハ。実演を聴いた時ほどの衝撃は覚えなかったが、やはり深みのあるどす黒い世界をしっかりと描いて見事。

 

モーツァルト 「フィガロの結婚」201589日 ザルツブルク音楽祭

「ドン・ジョヴァンニ」の翌年のザルツブルク音楽祭の上演。かなりの歌手が重なっている。歌手陣は充実。とりわけ伯爵夫妻がとてもいい。伯爵のルカ・ピサローニは、声も素晴らしく、傲慢で横暴な貴族というよりも神経質で陰険な人物像を作り出してとても説得力がある。伯爵夫人のアネット・フリッチュは美しい声で情感豊かに歌う。ハリウッド女優並みの美形であるためにいっそう感情移入してしまう。2010年代に活躍したのち、あまり名前を聞かなくなったようだが、今、どうしているのだろう。2014年に実演を聴いて凄いと思ったが、今回映像を見ても改めて深い感銘を受ける。

 スザンナのマルティナ・ヤンコヴァも二人に匹敵する素晴らしさ。自在な歌いっぷりで全体の雰囲気を作り出している。フィガロを歌うのはアダム・プラチェツカ。しっかりした声で健闘しているが、フィガロらしい軽妙さに欠けるのが残念。ケルビーノのマルガリータ・グリシュコヴァは男っぽい太い声。これまで可憐な声で歌われることが多かったが、確かにこのような声のほうがこの役にふさわしい。バルバリーナのクリスティーナ・ガンシュも迫力ある歌いっぷり。マルチェリーナを歌うのはなんとアン・マレー。声は出ないが、さすがの貫禄!

 演出はスヴェン=エリック・ベヒトルフ。かなりリアルな造りで、舞台を20世紀前半(電話があり、蓄音機があり、ネクタイにスーツ姿!)に変えて、貴族の館の日常生活の中にこのストーリーを織り込む。いくつもの小さな部屋で仕切られている様子が描かれ、使い込まれて汚れの目立つ壁、作業をしたり、食事をしたりする召使たちがリアリティを作り出す。ただ、歌っていない人も絶えず舞台上で何かをしていることになるので、私は音楽に集中できず、うるささを覚えた。また、痛みや辛さを強調するためか、伯爵夫人が足を引きずっているが、そんなことをする必要があるのか疑問に思う(それとも、フリッチュが怪我をしていたために、仕方なくこのような設定にしたのだろうか?)。バジーリオがどうやらケルビーノに激しく片思いをしている様子。これも余計だろう。

 ウィーン・フィルを指揮するのはダン・エッティンガー。悪くはないし、序曲など細かい工夫をあれこれしているのはよくわかるが、推進力が弱く、モーツァルトの音楽の愉悦に浸ることはできなかった。

 

ヴェルディ 「二人のフォスカリ」 2022年 ハイデンハイム・オペラ・フェスティバル

 あまり期待せずに見始めたのだったが、素晴らしかった!

 まず驚いたのが、指揮のマルクス・ボッシュ。以前、「ニュルンベルクのマイスタージンガー」の目覚ましい指揮を映像で見た記憶がある(ただ、その時の映像と比べて、同じ指揮者とは思えないほど体型が変化している!)が、その時に匹敵する凄さ。ドラマティックで切れがよく、音楽に推進力がある。オーケストラはカペラ・アクイレイア。この音楽祭のために結成された臨時のオーケストラのようだが、とても精度が高い。

 歌手陣も充実している。フランチェスコ・フォスカリのルカ・グラッシはまさに熱演。深い声で悲劇的な役を歌いきる。ヤコポ・フォスカリのエクトル・サンドバルも高貴な美声で不遇の若者を見事に歌う。ルクレツィアのソフィー・ゴルデラッヅェはちょっと線が細いが、これも熱演。必死の状況が伝わって、これはこれで悪くない。

 演出はフィリップ・ヴェスターバルカイ(と読むのかな? Philipp Westerbarkei)。簡素な装置だけの舞台で、全員が現代の服装で歌い、ガラの悪い派手な身なりの男女が黙役として登場する。演出意図はよくわからないが、どうやらヴェネツィア総督の地位をめぐっての抗争を現代のギャング(あるいはマフィアというべきか)の抗争と重ね合わせ、金の亡者になる権力者たちを皮肉っているようだ。演出にあまり説得力は感じなかったが、ともあれ、演奏は素晴らしいので、とても満足。

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東京二期会「コジ・ファン・トゥッテ」 ペリー演出に感嘆!

 2024年9月7日、東京オペラシティ、オペラパレスで東京二期会オペラ劇場、「コジ・ファン・トゥッテ」をみた。指揮はクリスティアン・アルミンク、演出・衣裳はロラン・ペリー。とてもおもしろかった。

 まずはやはりロラン・ペリーの演出に目を引かれる。どうやら「コジ・ファン・トゥッテ」のレコードの録音をしているという設定で始まる。機材から考えて、どうも1960年代か70年代の雰囲気。盛んにオペラのレコードが録音された時代だ。そこに歌手たちが集まって歌い出す。周囲には技師たちやその助手たちがいる。そして、音楽が進んでいくうちに幻想が高まり、人物が生きて動き出す。そのような仕掛けになっている。

 私が2014年にザルツブルクでみた「影のない女」が同じようにレコード録音の場面で始まったが、私にはその理由を理解できなかった。が、今回はとてもよく理解できる。

 プログラムに掲載されているインタビューでペリー自身が語る通り、このオペラはコメディア・デッラルテと近代劇の両方の面を持っている。それを現代によみがえらせようとすると、どうしても無理が出てくる。ヒロインたちがちゃちな変装に騙され、たった一日に心変わりすることに、現代人は納得しない。それをどう処理するかがこのオペラの演出のキモになる。それを解決するために、ペリーはいわば劇中劇という形をとった。こうすることによって、コメディア・デッラルテ風の笑劇と近代心理劇を重ね合わせることができる。そこにペリー特有の、登場人物たちのリズミカルでコミカルな動きが重なって、現代人の戯画化された不思議な舞台を作り出すことができる。うーん、ペリーはとんでもない天才だ!!

 ペリーの演出のためもあるだろうが、歌手陣の演技はみんなとても素晴らしい。ただ、私はペリー演出のオペラの映像をかなりみているが、それと比べると、やはり動きのキレが少し鈍い。これまでみたものは、いずれも人物の動きをみているだけでダンスのように美しかった。ヨーロッパで上演されたこのオペラの映像が発売されたら、ぜひ見てみたい。

 歌手陣は、世界的とは言わないが、かなりレベルが高い。フィオルディリージの種谷典子は美しくも芯の強い声。声域が広くて難しいアリアをかなり見事に歌った。ドラベッラの藤井麻美もドラマティックに歌ってとてもいい。この二人は声の質も体型も似ていて、演出にぴったり。声のアンサンブルも素晴らしかった。

 グリエルモの宮下嘉彦はしっかりした声で堅実に歌ってとてもよかった。フェランドの糸賀修平は少し癖のある声。一人で歌う分にはよいと思うが、ほかの歌手から少し浮いているのを感じた。デスピーナの九嶋香奈枝は全力疾走の元気な人物を作り出し、ドン・アルフォンソの河野鉄平は軽妙な曲者を作り出して見事。

 新日本フィルハーモニー交響楽団を指揮したアルミンクについては、私は少し不満を抱いた。もちろん、しっかりと音をまとめてしなやかに演奏してくれたが、どうも推進力に欠ける。もう少しぐいぐいと音楽を引っ張ってもいいのではないか。

 ともあれ、ペリーの演出ときわめてレベルの高い歌手陣の歌と演技を見て、私はとても満足だった。

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日フィル&ウォンのブルックナー ことごとく私の美学に反するブル9だった!

 202496日、サントリーホールで日本フィルハーモニー交響楽団の定期演奏会を聴いた。指揮はカーチュン・ウォン、曲目はブルックナーの交響曲第9番。

 ウォンの評判は前から聞いていたので、一度実演を聴きたいと思いながら、取り上げられた曲が私の苦手なものばかりなので、これまで敬遠していた。今回、ブルックナーの演奏ということでやっと聴けると思った。私の好きなタイプの演奏にはならないだろうとは覚悟していたが、それにしても、それにしても!

 すべてにおいて私の美学に反する! 一つ一つの音が、私の耳にはあまりに雑駁に聞こえる。音の重なりも、信じられない響きを作り出す。私の求める音ではない。ブルックナーの音がしない。音が一つにまとまらない。金管の音が妙に突出していたり、金管の不思議なメロディが大きな音で流れたり。そして、フレージングもまた私には納得できない。流れが途切れ、唐突に別のところに向かってしまう。フォルティシモのところで音が濁る。私にはあまりに汚い音に聞こえる。

 要するに、音も響きも音の流れも構成感もすべて違和感だらけ。違和感どころではない。我慢ならないと思った。

 第一楽章の始まりからして、耐え難いと思った。私は大のマーラー嫌いだが、マーラーを聴くときのような耐えがたさをずっと味わい続けた。私がもう少し若かったら、そして、私の席が隅っこのほうだったら、きっと楽章の途中で抜け出しただろう。

 第二楽章のスケルツォも、あまりに雑然。高揚をまったく感じない。濁った音が大きくなっているだけ。第三楽章も、私の好きな魂の奥底をえぐるような音楽にならない。

 演奏後、大喝采が起こったので、この演奏を我慢ならないと思ったのは一部の人間だったらしい。少なくともこの指揮者のブルックナーは私には合わないことを確信して帰った。

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