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英国ロイヤル・オペラ・ハウス 「フィデリオ」 充実した演奏、挑発的な演出

 イギリス、アイルランド旅行から帰って5日がたつ。通常の仕事のほか、10日間留守にしたためにたまった仕事があって、毎日、それなりに忙しい。しかも、時差ぼけがまだ完全には解消していない。遅くなったが、旅行中の20241016日にコヴェントガーデンのロイヤル・オペラ・ハウスでみた「フィデリオ」の感想を記す。

 指揮はアレキサンダー・ソディ、演出はトビアス・クラッツァー。このプロダクションは数年前、NHKで放映されたことがある。ただ演出は少し異なっていたような気がする。とても良い上演だった。

 席に着くと、舞台上に観客席が映し出されている。次々と席についた客たちがそれに気づいて反応している。舞台上には、またフランス語で「自由・平等・友愛」の文字。

 序曲の始まりとともに舞台が開く。牢獄にフランス国旗がかかっている。革命後の混乱期らしい。貧しい市民がやってきて食料を奪い合っている。殺伐とした雰囲気。

 そうした中で、「フィデリオ」が始まる。

 歌手陣はきわめて高いレベルでそろっている。レオノーレのジェニファー・デイヴィスは強靭で美しい声。ただ少し抑え気味なのかも。第2幕になってから声が出てきた。マルツェリーネのクリスチーナ・ガンシュはまっすぐなよく伸びる声でとてもいい。ヤッキーノのミヒャエル・ギブソンもしっかりした声。ロッコのペーター・ローズも堂々たる声で深みがある。ドン・ピツァロのヨッヘン・シュメッケンベッヒャーは、ちょっと無理をしている感もあるが、悪漢らしいどすの効いた声を出す。フロレスタンのエリック・カトラーはとてもきれいな声でコントロールもしっかりしているが、ちょっとベルカント風でこの役にはふさわしくない気がした。しかしとても良い歌手だと思う。抜きんでた歌手はいないが、アンサンブルが良く、いずれもしっかりと役柄をこなして実に見事。

 ソディは来日もしているようだが、私はこの人の指揮を初めて聴いた。第一幕は快速の演奏ではあるが、丁寧な音作りで音楽を進めていき、第二幕になって躍動的になってきた。前半は堅実に演奏し、後半盛り上げていったといえるだろう。その作りは成功していると思う。

 やはり問題なのは演出だろう。どうやら、状況からすると、ドン・ピツァロは革命派の人物らしい。フランス革命のテロルの時代、権力争いの中で、マラー、ダントンら革命派の人々が次々と失脚していくが、ピツァロもその一人ということになりそうだ。

 NHKでみたときに驚いたが、なんと第一幕の段階で、レオノーレが女であることにマルツェリーネが気づく。そして、第二幕は、舞台の前方に牢獄の地下の場面が作られ、現代の服を着た聴衆がそれをとり囲んで眺めている中で展開される。初め、聴衆はものを食べたりあくびをしたりしながら無関心にフロレスタンの状況を眺めている。が、徐々に、フロレスタンに同情し、心を動かされるような態度を示し始める。そして山場に差し掛かり、牢獄では、フロレスタンを殺そうとするピツァロにレオノーレは自分の正体を明かして救い出そうとする。と、そのとき、レオノーレの意図を知っていたマルツェリーネがピストルでピツァロを撃って二人を助ける。同時に、現代の服を着た聴衆がなだれ撃つように立ち上がってピツァロに詰め寄り、一緒になってフロレスタンを解放する。その後、レオノーレ第三番なしに終盤に入る。囚人たちの解放は描かれず、現代の服を着た聴衆が厳しい表情で、挑むように舞台の前面に出てくる。

 ウクライナで、ガザで多くの人々が苦難にあっている。今の次々と無垢の人々が殺され、理不尽な暴虐にあっている。それなのに世論はのんきに構えている。フロレスタンの解放を手伝った聴衆は、私たちにこのままのんきな気持ちでいいのか、立ち上がらなくていいのかと訴えかける。私たち聴衆が自分たちを反省するのを促すために、オペラが始まる前から、私たちの映像が舞台に映し出されていたのだった。

 見直してはいないのだが、この最後の部分は、NHKの放映の上演ではなかったような気がする。確か、聴衆は最後まで暢気に構えていたと思う。ウクライナやガザの状況に憤ったクラツァーが手を加えたのだろうか。

 私は基本的には読み替え演出反対派なのだが、この演出はベートーヴェンの精神に即していると思う。大変説得力のある演出だった。

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ロンドン・ダブリン旅行

 20241014日から23日まで、イギリス、アイルランドに旅行した。イギリスは1986年、2000年につづいて3回目。24年ぶりということになる。アイルランドは初めて。

 この10年ほど、母の容態がよくなく、いつ何が起こっても不思議はない状態なので、海外旅行に行ってもアジア地域、しかも5日前後の日数にしていたが、母の状態も安定。息子がロンドンに滞在しているので、大学が学園祭で休講になるこの時期を狙って出かけたのだった。ただ、出発直前に母の体調が悪くなったのでひやひやしながらの旅行だったが、母も持ち直し、ともあれ無事に帰ってこられた。息子があちこち案内してくれて、楽しい旅行になった。

 すでに10月24日(帰国の翌日だった)に東京文化会館でみた「影のない女」についての感想をアップしたので、時間的に前後するが、旅の簡単な報告をここに記す。これまで同様、私の技術不足のせいで、このブログに写真を載せることができない。残念だが。

 

1014

 130 5分羽田出発。

 ヒースロー空港で、滑走路に別の飛行機が現れたということで、着陸やり直し。しかし、大きな動揺なく着陸。ヴィクトリア駅付近のホテル。雰囲気があって清潔。この値段だったら、日本では豪華ホテルのはずだが、イギリスでは普通のホテル。

 

15

 朝、早く目が覚めたので、ハイドパークを散歩。ぽつりぽつりと散策する人がいる。気温は10℃前後。晴れていて気持ちがいい。

 その後、息子が来てくれてロンドンを案内してくれた。バッキンガム宮殿の前を通って、ナショナルギャラリーへ行き、レンブラントなどの絵を鑑賞。その後、ウォーターストーンという書店見物。書店は、一つの美術館のよう。空間をぜいたくに使って、色彩美しく展示されている。ただ、日本文学も日本史もスペースは少ない。当然のことではあるが、ヨーロッパが知的関心の対象であって、それ以外は旧植民地であった地域がこちらの人の関心であることがよくわかる。ただその中に、村上春樹の数冊があり、柚月麻子の「バター」は平積みになっていた。

 フォートナム&メイソンというデパートでちょっとしたおみやげ物を買って、バスでウェストミンスター寺院へ。入場料が130ポンド。今の価格では6000円。2人分払って、なんと12,000円!

 堂々たる建築物で、その威容はさすがなのだが、フランスやイタリアの寺院と比べてどうも俗っぽく感じる。装飾が簡素で機能的というか。

 

 24年ぶりのロンドンだが、全体的な印象は変わらない。以前もパリよりもずっと整然としているという印象を抱いていたが、今回もそう思った。2階建てのバスが走り、機能的に都市が動いている。

 外国に行って最も気になるのは、公共交通網の切符の買い方、乗り方だが、クレジットカードでバスや地下鉄にそのまま乗れるのもありがたい。グーグルマップで交通経路を調べ、その通りに乗ればどこにでも行くことができる。私は、ドコモを使用しているので、「そのままギガ」を契約。ありがたいことに、海外でも自由にスマホが使える。

 以前来た時も、「アングロサクソンの国と言われるわりには有色人種が多い」と思ったが、今回はそのレベルではない。ロンドンのどこを歩いても、白人は半分以下の比率という感じ。東洋系が多い。昔は東洋系と言えば、定住している中国系らしい人以外は日本人だったが、今は、様々な国の出身者がいるようだ。本当にさまざまな言語が聞こえてくる。まさにグローバル社会! 

 

16

 大英博物館を訪れて、アフリカと日本の展示物を中心に見た。英国から見た世界が良くわかる。あえて植民地主義とは言わないが、どうしてもヨーロッパ中心の地理、ヨーロッパ文化がスタンダードであって、アフリカ、アジアは、それなりに魅力的な、しかし未開の文化という扱い。しかももちろんかつて英領であった地域が中心。

 お昼は中華街を歩いて、中華の店で北京ダックなどを食べた。おいしかったが、高い!

 夕方、コヴェントガーデンの英国ロイヤル・オペラ・ハウスで「フィデリオ」をみた(これについては別に感想を書く予定)。劇場の周辺は市場になっており、オープンスペースのレストランがたくさんあった。映画「マイ・フェア・レディ」でオードリー・ヘプバーンが歌ったうす汚れた市場(他は吹替だったが、ここで歌ったのだけはヘプバーン自身だったといわれている)があるのではないかと思っていたが、さすがにもうきれいに整備されたようだった。

 

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 ひとりでロンドン出発のツアーに参加して、ウィンザー城、ストーンヘンジ、バース観光。

 ヴィクトリア・コーチ・ステーションで7時半に集合、エヴァンエヴァンズ社の観光バスで出発することになっていたが、日本語ガイドツアーのはずなのに、日本人らしい人が数人しか見当たらないので心配になった。結局、日本人は7人、他の国の人が20数名の総勢30人前後のツアーだった。ガイドさんは、おそらく70代のイギリス人女性。英語の発音はとてもきれいで流暢。日本語はたどたどしい。英語で説明した後、その三分一くらいの時間で日本語で話す。ずっと語りが続くので、私としては少々煩わしかった。

 ウィンザー城はウィンザー家の居城。清潔できれいに整備されており、歴史から現在までの王族の生活ぶりがわかる。城からの見晴らしが絶景。ただ、ヴェルサイユ宮殿などに比べると、かなり簡素で、宗教性が薄いのを感じた。衛兵交代式をみることができた。金色や赤色の兜をかぶったトロンボーン中心の楽隊の後、大きな黒い帽子、赤い軍服、黒いズボンの兵隊が行進。道路わきは観光客の人だかり。

 1時間以上バスに乗って、次はストーンヘンジ。

 施設の入り口から行列を作ってシャトルバスに乗り込み、数分して降ろされ、野原を歩いて、ストーンヘンジの石が見えてくる。観光客が取り巻く中、青空の下に十数個の石が見える。日本の神社などにもありそうな石たちなのだ、5000年ほど前からここにあるとすると、これは確かにただごとではない。どうやってこれらの石が運ばれたのか、これにどのような意味があるのか、まだ不明だと言う。ただ、単なる石なので、観光客としては、とりわけ感動するものはなかった。

 再び1時間ほどかけて、今度はバースへ。バースと日本語で呼んでいるが、要するにBath、つまり「お風呂」。温泉が出て、ローマ時代のお風呂が作られ、それによって発展した街。中世の佇まいがあちこちに残っており、歩くだけでも落ち着く。ローマ時代の浴場に入った。日本語の音声ガイドなどがついて建物の中を見て回った。映像などでローマ時代が再現されている。

 ただ、カルカッソンヌやモン・サン・ミシェルなどと比べると、これもいかにも簡素。ごてごてしたフランスやイタリアの建築物よりもずっと機能的なのを強く感じる。

 高速道路を通って、2時間半ほどかけてロンドンに戻った。左右に牧場が広がり、満月が見えた。

 

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 午後、ヴィクトリア駅から列車でカンタベリーへ。1時間半ほどで到着。綺麗で乗り心地の良い郊外電車。カンタベリー・イースト駅で降りて10分ほど歩いてカンタベリー大聖堂に到着。途中から大聖堂の屋根が見えてその方向に歩いた。

 素人なので、建築様式などについてはまったくわからないが、シャルトル大聖堂に行った時のことを思い出した。同じような佇まいの静かな街。威容を誇る大聖堂。

 大聖堂の中を見物。厳かで壮大で静か。

 

19日(ロンドン→ダブリン)

 息子とダブリン一泊旅行を予定していた。

 ヒースロー空港のアイルランドの航空会社Aer lingus の搭乗手続きは大混乱。担当者2人が搭乗手続きをしていたが、モタモタしていてなかなか進まない。

 1泊だけなので荷物は預けずに、手荷物だけにしたが、セキュリティにひっかかって大変だった。アラームが鳴ったということで、別のところに連れて行かれ、バッグの中を荷物の一つ一つ、空のバックの各部分に何度もスキャナーのような機械をあて、それを分析機にかける。私は手動タイプのお尻洗浄機を持ち歩いているが、それを出されて、「これは何か」と聞かれて返事に困った。が、ともあれ、何度やってもアラームが鳴る。なぜアラームが鳴るのか担当者にもわからないとのことで、結局、責任者のような人が来て、私のパスポートを見ながら何かの書類に書きつけていたが、ともあれ通してもらえた。

 

 ダブリン空港に無事到着。ただ、着陸から30分ほど、タラップや移動用のバスが到着せず、飛行機の中に閉じ込められたままだった。アイルランドでは、イギリスに比べてこの種の不手際を感じることが多かった。

 アイルランドを訪れるのは初めて。私にとっては、オスカー・ワイルド、ジェームス・ジョイス、サミュエル・ベケットの祖国。そして、ワーグナーの様々な作品の素材になった国。それ以外にはほとんど知識がない!

 タクシーで市内のホテルに。晴れていて気持ちが良い。緑の多いきれいな道路。ただ道はかなり渋滞していた。

 ホテルでも、予約がうまく伝わっておらず、チェックインにかなりの時間を要した。

 荷物を置いて早速食事。ホテル近くのバルト海料理の店で食べた。たまたまかもしれないが、イギリスでそれまで食べたどこよりもおいしかった。値段もロンドンの3分の2くらい。日本の2倍くらい。安いと思うようになってしまった。

 まずは、ダブリン城をめざすことにした。

 マルボロ・ストリートを歩き、目についたプロ大聖堂を見ながら、先に進んだ。

 ひょいと見ると、不思議な大きな塔があったので、その方向に歩いた。

 それはダブリンの尖塔と呼ばれるもので、2002年に設立された高さ120メートルの金属製の尖塔。そのすぐ横に円形のモニュメントがあり、人だかりができていた。円形のモニュメントがディスプレイ面になっており、そこは映像が映し出されていた。その映像はニューヨークのもので、ニューヨークと映像でつないで友好の象徴にしようとして作られたものだと言う。ところが不適切な使用がなされたためしばらく中止され、今年になって再開されたとのこと。

 それにしてもこの国はイギリスの影響を強く受けながら、英国には強い敵愾心を抱き、アメリカに好意を抱いているのを感じる。アメリカに渡ったアイルランド人が多いこともその理由だろう。空港にもアメリカ国籍の人間を優遇するような標記があった(どんなものだったか忘れた!)。きっとイギリスとアイルランドは、日本と韓国のような関係なのだろう。

 オコンネル通り(もちろん、アイルランド解放の英雄ダニエル・オコンネルにまつわる名称だろう)を歩いた。ダブリンの中心的な通りのようだ。広い通りで左右にはデパートや様々なお店が並んでいる。土曜日だったので、人出も多くごった返している。本当にいろんな人種の人たちがいる。東洋系も多い。インド系アフリカ系も見かける。

 

 ロンドンとはかなり雰囲気が異なる。ちょっとうらぶれた感じがする。ロンドンほど高級な店がなく、ロンドンほど近代的な建築物がない。せいぜい、5階建て、6階建ての建物。むしろ私は、40年以上前に歩いた東ヨーロッパの国や、数年前に旅行したイルクーツクの街並みを思い出した。

 あちこちをトラムが走り、ちょっと古ぼけた建物が左右に並び、普段着の人々が歩いている。なんだか少し街の色が薄い気がする。

 英国国教会とカトリックの違いもあるのかもしれない。英国とは異なる、フランスの裏町を歩いているような気分になる地区もある。もう少し厳密に考えてみなければわからないが、直感的には、やはりイギリスと大陸の中間のような感じがする。

 オコンネル橋を通ってリフィー川を渡って川沿い歩いた。よどんだ川。川辺の道にも商店やレストラン、パブが並んでいる。だが、いずれも年代を帯びた雰囲気。10分ほど歩いたところにダブリン城があった。

 ダブリン城は1204年に初めに建てられ、その後、改修されて現在に至る。イギリスによるアイルランド支配の象徴だと言う。石畳の中庭はとても美しく、どこから見える灰色の石造りの城は、とても赴きがあった。

 その後、私の最も好きなアイルランド作家であるオスカー・ワイルド記念館の方向に行こうとしているうち、トリニティ・カレッジ・ダブリンの構内に入っていることに気づいた。要するにダブリン大学ということらしい。とても雰囲気のある大学。日本の国立大学の雰囲気にとてもよく似ている。芝生が広がり、校舎と校舎を結ぶ静かな道を学生たち、そしてもしかしたら周辺住民や観光客?も歩いている。

 歩いてオスカー、ワイルド記念館に行った。ワイルドの生涯を解説する短い映画を見て何かを見物。ワイルドの生涯、そして同性愛に関するスキャンダルなどを解説した動画だった。

 バスでホテルに戻って休憩。その後、夕方からテンプル・バーに歩いて中に入ろうとしたが、ものすごい人だかり。お店の中も大きな音を立てて、大勢の人が大声で喋りながら飲んでおり、中に入る雰囲気ではない。少し歩いてリーフィ川沿いのパブに入った。ここも大きな音楽がかかり、お客さんが大声で喋っていてゆっくりできない。ギネスをいっぱいだけ飲んで外に出た。

 ホテルに戻って、ホテルのレストランで夕食。フィッシュ・アンド・チップスを頼んだ。おいしかった。イギリスとは段違いにおいしい!

 

20日(ダブリン→ロンドン)

 気温は10℃ほどだったが、かなりの強風。体感的にはかなり寒かった。

 中央郵便局(1916年、アイルランド独立の義勇軍司令部がおかれた場所)、クライストチャーチ(地下礼拝堂のある大聖堂。聖人の心臓、猫とネズミのミイラなどがあった)、

 聖パトリック大聖堂(13世紀建造)をみた。聖パトリック大聖堂の前の広場では市が立てられており、テントの下にパンや雑貨品、絵画などが売られていた。

 歩道を歩いているとき、ショルダーバッグに異変を感じてふと振り向くと、中東系に思われる40歳前後の男女四人がすぐ後ろを歩いており、男の一人が私のバッグの中に手を突っ込んでいた。すぐに払いのけたら、男は笑いながら何かを言って遠ざかっていった。きっと「たまたまぶつかっただけだよ」とでも言っているのだろう。金目のものはすべて身に着けており、バッグには常備薬や筆記用具、ティッシュペーパー、ガイドブックくらいしか入っていない。男もきっとがっかりしただろう。こちらは私と、私と同じくらいに腕力に自信のない息子の二人。衝突しても勝ち目がないので、そのままにした。

 午後には郊外までバスで行って、キルメイナム刑務所(アイルランド独立のための闘士が入獄していた)をみた。館内ツアーに参加したら、ガイドさんの言葉が不思議な節回しの英語でまったくと言っていいほど聞き取れなかった。途中でめげて退出。

 台風並みの強風になったので、欠航になるのではないかと心配して早めに空港に行った。19時のヒースロー行きは1時間ほど遅れたが、ともあれ離陸。無事ヒースロー到着。

 ロンドンの後半の宿は、ファランドン駅付近のビジネスホテル風のホテル。それなりに快適だが、設備はそこそこ。しかし、このくらいの値段を出せば、日本では高級ホテルに泊まれる。

 

21

 昔、ヴァレリー・ラルボーの短編を読んで、チェルシーという地域が気になっていたので、ひとりでスローン・スクエア駅まで地下鉄で行き、周辺を歩き回った。おしゃれな裏通りを歩き回るうち、ハロッズが目に入った。有名なデパートではないか! 中に入ってみたら、高級ブランド品が並んでいて、これは私の立ち入るところではない。が、うろうろしているうち、地下にお土産物コーナーがあることに気づいた。孫たちにお土産を買った。

 その後ホテルに戻ろうとしたが、Google マップでよく似た名前の別のホテルを指定したようで、まったく違う場所に導かれた。しかも悪いことに、「そのままギガ」がこの時に限って「圏外」になってしまい、しばらく動きが取れなかった。

 30分ほどで回復。昼過ぎにようやくホテル到着。

 15時に息子と合流。ベイカー街のシャーロック・ホームズ博物館見物。ロンドン・ブリッジ、タワー・ブリッジ、ロンドン搭など、定番の観光地を歩いた。これまでの二度の旅行でも見たはずだが、覚えがない。

 ロンドン最後の夜、息子と二人で日本料理店・池田で食事。外国でこんなにおいしい寿司が食べられるのか!と驚くほどおいしかった。翌々日には、私は日本に帰るので、行きつけの安くておいしいすし屋に行けば五分の一、あるいはことによると十分の一くらいの料金で同じくらいおいしい寿司を食べられると思ったが、私の旅行に付き合ってくれた息子への感謝の気持ちとしてごちそうすることにした(もっとも、息子のほうは、ホームシック気味だったところに私が訪れたので、これ幸いと日本語で話しまくり、ついでにすっと食べたいと思っていた日本食を食べるのに私の財布を利用したということなのかもしれないが)。

 

22日~23日 

 早朝にヒースロー空港に行き、9時40分の日航機で日本へ。日本時間、23日午前7時過ぎに無事、帰国。

 

 

今回の旅行で感じたこと

・2014年を最後にフランス、ドイツにも行っていないので、今のほかのヨーロッパの国がどのような状況なのかわからないので、ロンドン独特の状況を語ることができない。大した発見をすることはできなかった。

・悲しい話だが、まずは日本人の誰もが最初に驚くのは物価の高さだろう。何もかもが高い! 日本経済の低迷、円安(1ポンドが約200円だった!)などが原因だろうが、それにしても! すべてのものが日本の3倍から4倍。レストランに行って、パスタなどでも1品10ポンド以下のものはほとんどない。飲み物などをつけると、20ポンド、つまり4000円くらいになる。しかもまったくおいしくない!

・グローバル化がはなはだしい。かつてはさまざまな人種の人がいるとはいえ、ロンドンではみんなが英語を話していたような気がする。ところが、今は、観光地でないところを歩いていても外国語が普通に聞こえてくる。隣の人、あるいは携帯電話で母語で話している。ほとんどの人が2か国語を使っているのだろうが、もしかしたら母語しかできない人もいるのかもしれない。

・レストランでのこと。隣の席で若い二人が盛んにしゃべっていた。一人はおそらくネイティブ、もう一人は中東出身。ふつうに流暢にしゃべっているが、中東出身らしい人の英語の発音は、私が聴いてもかなりおかしなものだった。そう思って聞くと、聞こえてくる英語の発音がかなりひどい。もはや、「きれいな英語」である必要はなくなっているのかもしれない。

・以前に比べて掃除が行き届いているように思った。世界中で清潔意識が高まっている。もしかしたら、コロナの影響?

・グローバル化が進んでおり、どこに行っても様々な人種。ただ、ロイヤル・オペラハウスに行くと、もちろん私を含めて有色人種も大勢いるが、圧倒的に白人の比率が高くなる。クラシック音楽は白人文化だということなのだろう。

・以前ロンドンを訪れた時、あちこちで日本人観光客に出会った。時期によるのかもしれないが、今回は、バッキンガム宮殿やホームズ博物館のような定番の箇所で数人見かけるくらいだった。中国人、韓国人観光客には大勢出会った。円安のせいもあるのかもしれないが、日本人は外国旅行を控えている? 両替のお店をのぞいてみたが、円のレートが出ていないお店が多かった。日本の存在感が薄れている。

・個人的なことだが、このトシで英語圏を一人で動き回るのはつらいと思った。英語圏では、英語を話すのが当然という前提で話しかけられる。ほかの国では、外国語として英語で話しかけられるので、いまのところ、まあどうにかなる。私の英語力とフランス語力は20歳代をピークにして、今や底を打っている。

・クレジットカードとスマホがあれば、迷わずに目的地に到着できる。キャッシュレス化しているので、現地の現金に換える必要もない、私は英国ポンドとアイルランドのためのユーロに換金して出かけたが、まったく現金は使わなかった。

・あいかわらずイギリスは食べ物がまずい。よく言われることであるし、私自身、これまでのロンドン滞在で十分に体験していたが、今も変わらないのにショックを受けた。グローバル化のためにいくらか改善されていると思ったのだが、相変わらず味がない。エスニック料理だともっとおいしいのかもしれない。

・ダブリンは、明らかにロンドンと雰囲気が異なる。単に小都市と大都市の違いを超えて、宗教の違い、歴史の違いがあるのだと思う。だが、知識を十分に持たない私にはどう違うのは分析的にとらえることはできない。

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「影のない女」ではなかった! 単なる悪ふざけだった!

 20241024日、東京文化会館で、リヒャルト・シュトラウス作曲、ホフマンスタール台本の「影のない女」が上演されるということで期待して出かけたのだったが、これは「影のない女」ではなかった。

 プログラムの中でドラマトゥルクのベッティーナ・バルツという人物がわざわざ「あらすじ」を書いているが、これはまったくホフマンスタールの「影のない女」ではない。マフィアの争い、遺伝子操作研究所、心理療法の治療室での話だとされ、音楽も順番が違っていたり、あるべき場面がなかったり。バラクと皇后がセックスしたり、バラクが妻をピストルで殺したり。舞台上で人物が何やらしているが、「あらすじ」を読んでいても、いったい何が起こっているのやらさっぱりわからない。聞こえてくる音楽や語られるセリフと舞台上の動きがまったく異なる。

 このオペラは確かに、子どもを産めない女性を題材にしており、その意味で現代では物議をかもすテーマではある。だが、大作家ホフマンスタールを見くびっていけない。そんなに単純に子供を産めない女性を蔑視しているわけではない。それを理由に、こんな意味不明の演出を横行させてはならない。悪ふざけもいい加減にしてほしい。

 これは演出のペーター・コンヴィチュニーが勝手に切り貼りした偽物の「影のない女」。いつから演出家は作曲家や台本作家よりも偉くなったんだろう!

 演奏家たちがかわいそうだと思った。客も四分の一程度しか入っていなかったのではないか。終わった後、日本では珍しい大ブーイング。

 指揮はアレホ・ペレス。東京交響楽団はきれいな音を出していた。が、演出がこうでは、何が起こっているのかわからないので、音楽の表情もさっぱりわからず。

 歌手陣は皇后の冨平安希子、乳母の藤井麻美、バラクの大沼徹はとてもよかった。皇帝の伊藤達人、バラクの妻の板波利加もよかった。ひと昔前からは考えられない声の充実だと思う。

 繰り返すが、それにしても、このような演出家の悪ふざけを許していいのだろうか。

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オペラ映像「スペードの女王」「愛の妙薬」「ランメルモールのリュシー」

 すっかり秋めいてきた。オペラ映像を数本みたので感想を記す。

 

チャイコフスキー 「スペードの女王」1992516日 ウィーン国立歌劇場

 小澤征爾の指揮する「スペードの女王」。かつてこのソフトをみた記憶はあるが、細かいことはまったく覚えていない。久しぶりに見て、なかなかの名演だと思った。やはり小澤の音の威力に圧倒される。生気にあふれて勢いのある音。その音がドラマを作っていく。しばしばグッとくる。

 ただ、私は実は小澤の指揮するオペラについては、カラヤンやベームやアバドと比べて、あと少しのニュアンスが足りない気がしていたが、やはり今回もそう思った。素晴らしい音楽!でも、チャイコフスキーの得も言われぬオペラの世界としてはほんの少し物足りないと思う。小澤は、私はオペラより管弦楽曲のほうが断然いいと思う。

 ゲルマンを歌うウラディーミル・アトラントフとリーザのミレッラ・フレーニ、そして トムスキー伯爵のセルゲイ・レイフェルクスがやはり凄い。伯爵夫人はなんとマルタ・メードル。私が中学生のころ初めて買ったオペラの全曲盤「フィデリオ」のレオノーレを歌っており、その後、何枚かレコードやCDで追いかけた往年の名歌手。声は出ていないが圧倒的な迫力。そして、ポリーナはヴェッセリーナ・カサロヴァ。エレツキー公爵のウラディーミル・チェルノフはかなり弱く、合唱は粗いが、それ以外はとても満足。

 演出はクルト・ホレス。この時代の演出は読み替えや新解釈やらがないのがありがたい。素直に物語を追いかけてとても説得力がある。

 

ドニゼッティ 「愛の妙薬」 2023928日、103,5日 ロンドン、ロイヤル・オペラ・ハウス

 とても楽しい舞台! 演奏も演出もそろっている。

 肝心のネモリーノを歌うリパリット・アヴェティシャンはかなり若いテノール。ちょっと頭が弱くて頼りない善良な若者を見事に歌って、「人知れぬ涙」もとてもいいが、やはり影が薄い。存在感の上で、圧倒的なのは、アディーナのナディーン・シエラとドゥルカマーラのブリン・ターフェル。声のコントロール、声量、演技、ともにまさに自由自在という感じ。楽しいこと、この上ない。ベルコーレのボリス・ピンカソヴィチは最初のうち調子が上がらない様子があるが、すぐにこの役にふさわしく歌い出す。

 指揮はセスト・クアトリーニ。とてもいい演奏。わくわく感があり、オーケストラをしっかりまとめており、躍動している。

 演出・衣装はロラン・ペリー。舞台は20世紀後半?に移されている。トラックやバイクが田舎道を走っている。そこに、ペリーらしい軽快でリズミカルな動きの合唱団が大活躍する。みんなの動きも楽しくエスプリにあふれている。クスリと笑えるところがたびたびあり、わくわくしながら最後まで楽しめる。

 

ドニゼッティ 「ランメルモールのリュシー」2023121日 ベルガモ、テアトロ・ソチャーレ

「ランメルモールのルチア」のフランス語版。イタリア語版と台本も音楽もかなり異なっている。ジルベールというレーモン(イタリア語版ではレイモンド)の腹心がいたり、アリーサが登場しなかったりとかなりイタリア語版と異なる。

 演奏はピエール・デュムソーの指揮するオーケストラ・リ・オリジナーリ。古楽器使用のオーケストラで、独特の音がする。ただ、私としては、音程が定まらなかったり、よどんだ音がしたり、歌に即応しないなど、古楽器の意義をあまり感じることはできなかった。

 演出はヤコポ・スピレイ。舞台を現代に移し、暴力団の抗争のように描いている。アンリ(イタリア語版のエンリーコ)の率いるガラの悪い男たち(ただし、何しろ合唱団だから、どんなにガラが悪そうにふるまっても、顔は生真面目なのはいかんともしがたい!)が女性たちを凌辱するなどの場面がみられる。エドガールはジーンズをはいたアフリカ系男性なので、まさにニューヨークの1コマのような雰囲気なのだが、様々な出来事が森の中で展開する。どうにも演出意図が私にはつかめない。

 それに、練習時間が短かったのか、合唱団(少なくとも男性の三分の一以上が東洋系のようだ)の演技が十分にできていないようで、第三幕の狂乱の場など、合唱団はぼんやりしているように見える。せっかくの第3幕が少しも盛り上がらない。

 歌手陣では、アンリのヴィート・プリアンテが歌・演技とも見事。ジルベールのダビド・アストルガも複雑な役をうまく演じて、声も美しい。どうも悪役のほうが歌も演技も達者。

 リュシーのカテリーナ・サーラは声はきれいだが、歌唱も演技も一本調子で、血だらけになって歌いながらも、悲劇が伝わらない。狂気の雰囲気もない。エドガールのパトリック・カボンゴも声はきれいなのだが、もっと一本調子で、しかもフランス語の発音がうまくない。ほかの歌手たちはみんなとてもきれいなフランス語なのだが。アルチュールのジュリアン・アンリックは少し声が弱い。レーモンのロベルト・ロレンツィはかなり声が不安定。

 全体的に、あまり強い感銘を受けなかった。

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佐藤俊介&スーアン・チャイ ポルタメントの多用が気になった

 2024年10月11日、浜離宮朝日ホールで佐藤俊介(ヴァイオリン)&スーアン・チャイ(フォルテピアノ)デュオリサイタルを聴いた。曲目は、前半にブラームスのヴァイオリン・ソナタ第1番、ブラームスの親友であったヴァイオリンの名手ヨアヒムのロマンス ハ長調、ブラームスのソナタ第2番、後半にクララ・シューマンの3つのロマンスとブラームスのソナタ第3番。ブラームスとそれを取り巻く人たちの音楽がその時代の楽器で演奏されたわけだ。佐藤はガット弦で演奏。

 内向的で優しくて抒情的。ぐっと抑えたロマンティックな感情。その意味ではとても良い演奏だった。フォルテピアノも生き生きとした音でそれを支える。ソナタ第3番は大きく盛り上がった。

 ただ、私としてはヴァイオリンにあまりに頻繁にポルタメントが用いられるのが気になった。今回は言ってみれば、「ポルタメント大会」とでもいえるような演奏だった。クララの曲はほとんどずっとポルタメント。第3番のソナタの第二楽章もほとんどすべての音がポルタメントではないと思うほど。アンコールもポルタメントの連続!

 ほかの楽器とともに演奏している中でこうしたヴァイオリンのポルタメントが時折出てくるのは、それなりの彩と思えるが、これほど頻繁だと、情緒に流れとりとめがなくなってしまう。音楽が立体的に構築されず、ふんにゃりする。少なくとも私の好きなブラームスではなくなる。もっと言えば、なんだか酒に酔ったような気持ちになってしまう。後半はポルタメントに辟易してしまった。

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テツラフの無伴奏ヴァイオリン演奏会 等身大の無伴奏!

 2024年10月7日、紀尾井ホールで、クリスティアン・テツラフ無伴奏ヴァイオリン・リサイタルをきいた。曲目は前半に、J.S.バッハの無伴奏ヴァイオリン・パルティータ第2番と無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第3番、後半にクルターグの「サイン、ゲームとメッセージ」から,そして、バルトークの無伴奏ヴァイオリン・ソナタ。

 これまで何度かテツラフの演奏する協奏曲を聴いてきた。ただ、実を言うとそれほど感動したことがなかった。スケールが小さいというのか、ちょっと内向的すぎるというのか、協奏曲では、押し出しが弱い感じがしていた。そして、今回、無伴奏曲を聴いて、案の定、この人はこのような曲の方が向いていると、私は思った。

 最初からバッハのパルティータ第2番! ほとんどの演奏会で、この曲は最後に演奏され、最終曲であるシャコンヌでコンサートは終わる。ところが、テツラフはこれを最初に持ってきた。快速の演奏。見事な指使い。しかし、少しも乱れず、完璧にコントロールされており、しかも自由感が漂っている。そうしながらなぜか見事に統一が取れている。

 シャコンヌが始まってもあまり特別感がない。構えたところがなく、自然に音楽に入っていく。スケールの大きな演奏ではない。むしろ、余計なものを取り去った演奏とでも言うか。シャコンヌにまつわる様々な伝説を取り去って、楽譜だけを頼りの演奏した雰囲気が伝わってくる。しかし、そうであるがゆえに秘めたエネルギーが徐々に盛り上がっていく。巨大な世界は広まらないが、苦しみやら祈りの心やら希望やらの人間の魂の叫びが確かに聞こえてくる。等身大の素晴らしい演奏だと思った。

 無伴奏ソナタ第2番もとてもよかった。こちらはパルティータほど自由な雰囲気はなかったが、研ぎ澄まされた音で深い世界を作っていく。

 クルターグの曲は初めて聴いた。1926年生まれの、バルトークの影響を受けたハンガリーの作曲家。バルトークをより現代的に先鋭化させたような短い曲。おもしろかった。

 最後のバルトークの無伴奏ソナタも圧巻。私はこの曲を戸田弥生さんの演奏で何度か聴いたことがあるが、戸田さんとはまた違った雰囲気の名演奏だった。戸田さんの演奏ほど悲劇的な雰囲気はない。もう少し客観的で研ぎ澄まされている。そこにじわじわと悲嘆の気持ち、それを乗り越えようとするような魂が感じられる。

 私の偏見かもしれないが、テツラフは協奏曲よりも室内楽、とりわけ無伴奏のほうがいいのではないかと強く思ったのだった。

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新国立劇場「夢遊病の女」 ムスキオとシラグーザの美声を堪能した

 2024年10月6日、新国立劇場でベッリーニ作曲「夢遊病の女」をみた。CDDVDBDは何枚か持っているが、実演をみたのは初めて。

 ベッリーニのオペラをみる(聴く)とき、まず私は「オーケストレーションには目をつむろう(耳をふさごう)」と腹を決める。が、やはりいざ聴き始めると気になって仕方がない。ベッリーニのオペラの「歌」については本当に素晴らしい。格調高く凛として気高い。が、あまりに薄いオーケストレーションがどうにもならない。本人も自覚していたようで、オーケストレーションの勉強を本格的にしようと思っている矢先に夭折してしまったという事情があったらしい。

 歌手については、やはりアミーナのクラウディア・ムスキオとエルヴィーノのアントニーノ・シラグーザが別格。ムスキオはヴィブラートの少ない澄んだ声でこの作曲家にふさわしい気品ある歌を聴かせてくれる。第二幕の最後は本当に言葉をなくす美しさ。静まり返った会場にビンビンと美声が響く。シラグーザも、独特の輝かしい声で会場を沸かせる。

 ただこの二人の二重唱については間延びして聞えた。特に第一幕ではそう感じた。マウリツィオ・ベニーニの指揮のせいなのか、二人のリハーサルの時間が取れなかったのか、それともそもそものオーケストレーションの薄さのせいなのか。ベニーニほどの指揮者が間延びするはずもないので、このオーケストレーションではそのように聞こえるのかもしれない。確かに、二重唱以外のところでも、ベニーニはこの薄くて工夫のないオーケストレーションをうまく鳴らすのに苦労している様子が見て取れる。

 ロドルフォ伯爵の妻屋秀和、テレーザの谷口睦美、リーザの伊藤晴、アレッシオの近藤 圭はもちろん健闘しているが、やはり主役二人とはかなり格が違うのを感じざるを得ない。

 演出はバルバラ・リュック。音楽が始まる前、10人のダンサーがアミーナの周囲を不気味に動きまわる。どうやらこれらのダンサーは「夢魔」といったところ。アミーナが夢遊病で彷徨するところなどでこのダンサーたちが動き回る。簡素な舞台ながら、わかりやすい舞台だと思った。

 第1幕では、舞台全体に間延びしたところがあり、オーケストラと歌がぴたりと合わないところなどを感じたが、第2幕では緊迫感が出てきて、最後はとてもよかった。ともあれ、ベッリーニ特有の歌の魅力を味わうことができ、二人の主役の美声を堪能できた。

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小山実稚恵&広上淳一&N響 しなやかで自然な流れのブラームスの協奏曲

 2024年10月5日、サントリーホールで、小山実稚恵 サントリーホール・シリーズ Concerto<以心伝心> 2024を聴いた。指揮は広上淳一、管弦楽はNHK交響楽団。曲目は前半にモーツァルトのピアノ協奏曲第27番、後半にブラームスのピアノ協奏曲第1番。

 前半のモーツァルトはオーケストラのあっと驚くほど軽やかな音で始まった。後半のブラームスとの違いを明確にするという意図もあったのかもしれない。力まず、柔和に、さわやかに。そこに粒立ちの美しいしなやかなピアノが入る。小山さんの好きな曲だとのこと。第2楽章がとても美しかった! 技巧を弄さず、飾りも取り去り、ただ美そのものが流れていくかのような演奏。素晴らしいのだが、実をいうと、私のような俗っぽい人間は、これだとちょっと退屈に感じてしまう。もう少し何とかしてくれるほうが嬉しいなあと思ったが、きっとそれは私の修行が足りないせいだろう。

 後半が始まる前、客席がざわめき始めたと思ったら、2階席に上皇ご夫妻が着席なさった。客席の多くの人が立ち上がって拍手。お元気なご様子だった。

 ブラームスの第1番の協奏曲はこれまで聴いた演奏では、力みを感じることが多かった。肩に力が入り、ブラームスが必死に大曲を書いている様子が伝わってくる。そのために、あちこちで音楽に軋みができ、壊れそうになる。そんな曲だ。ところが、今日の演奏はまったくそんなところがなかった。

 広上の指揮するN響の音は、しなやかで、音楽の流れがきわめて自然。第一楽章の大きく盛り上がるところも、スケールが大きく荘重ではあるが、けっして力んでいる感じはない。第2楽章はことのほか繊細でしなやか。きっと小山さんはこの楽章に思い入れがあるのだろう。ピアノの音に抒情的で深い思いがこもっている。ただ、それを没入して演奏するというよりは、少し突き放した感じで静かにやさしく演奏。素晴らしかった。第3楽章は大きく盛り上がったが、ここでも音楽が崩れない。見事な演奏だった。

 ピアノのアンコールはブラームスのワルツ15番。優美で美しく、懐かしいといってよいような深い思いがこもる。とても良いコンサートだった。

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オペラ映像「トリスタンとイゾルデ」「ギリシャ受難劇」

 9月から、後期だけ週に1日、大学で教えている。それ以外は、家でごろごろして原稿を書いたり、小論文指導の仕事をしたり、本を読んだり、テレビをみたり、孫の面倒をみたり。歌劇・楽劇の映像をみたので簡単に感想を記す。

 

ワーグナー「トリスタンとイゾルデ」 2024年7月25日 バイロイト祝祭劇場(NHKBS

 NHK/BSのプレミアムシアターで放送された。

 指揮はセミョーン・ビシュコフ。私の大好きな指揮者だ。2008年にこの人の指揮するパリ・オペラ座の来日公演の「トリスタンとイゾルデ」をみて大いに感動したのを覚えている。今回は、もっと進化したというべきか。ぴたりとリズムの決まった静謐な音。そこから精妙な音が立ち上がって徐々に徐々に感情が高まり、ドラマが大きく動いて陶酔に導く。第2幕はことのほか素晴らしい。

 ただ私はこの「トリスタンとイゾルデ」を「揺らぎ」の音楽だと思っている。もしかしたら、高校生のころからフルトヴェングラー指揮のレコードを繰り返し聴いて刷り込まれたのかもしれないが、海の揺れ、心の揺れ、血潮の揺らぎが「トリスタンとイゾルデ」の本質だと思う。その点では、ちょっと私の理想とは違っていた。が、ともかく言葉をなくす素晴らしさであることは間違いない。

 歌手陣も最高。トリスタンのアンドレアス・シャーガーも見事にこの役を歌いきる。第3幕で少し声がかすれるが、むしろそのほうが瀕死のトリスタンにふさわしい。先日、ブルーレイでジークフリートを歌うシャーガーを聴いたばかりだが、あまり英雄的な声ではないので、トリスタンのほうが声質にあっていると思う。

 イゾルデのカミッラ・ニールントは20年以上前、武蔵野市民文化会館でリサイタルを聴いて以来の私のひいきの歌手なのだが、これまでのすべての役にまして今回は素晴らしい。清楚で高貴で、しかも強靭な声。イゾルデにぴったり。

 マルケ王のギュンター・グロイスベックは深い声で口をゆがめて怒りを表現。クルヴェナールのオウラヴル・シーグルザルソン、ブランゲーネのクリスタ・マイヤー、メロートのビルガー・ラデ、ともに申し分ない。

 演出はソルレイフル・オーン・アルナルソン。第1幕、イゾルデは筆記文字がびっしり書かれた衣装を身に着けている。イゾルデの肉体には「思い」がこもっているということだろうか。ブランゲーネが用意した媚薬を二人は飲まない。イゾルデがはねのける。飲まないまま二人は愛に溺れる。

 第2幕は雑多なものの置かれた船底で展開される。「夜」を称える場面では、むしろ赤い光(人工の光ということだろう)がむしろ強まる。最後、トリスタンはメロートに切られるのではなく、そこで媚薬の瓶を取って飲む。が、これは毒薬ということらしい。

 第3幕、ここも船底。ただし、第二幕と雰囲気は異なる。今度はトリスタンが文字に覆われた服を着ている。イゾルデは愛の死の前に毒薬を飲む。

 つまり、二人は媚薬のおかげで愛し合うわけではない。二人の愛は必然だったとみなされ、トリスタンが瀕死状態になるのも、イゾルデが死に至るのも毒薬を飲んだためとされている。媚薬だの、前兆もなく突然死ぬなどのワーグナーの台本の前近代的な部分をうまくかわして、台本の本質をあらわにしたといってよいかもしれない。全幕が船の中で展開されるというイメージも、全体を「揺らぎ」だと考える私にはかなり説得力が感じられる。演奏がもっと揺らぐものだったら、もっとこの演出にあっていたかもしれない。バイロイト音楽祭の演出としては、とても納得できる演出だった。演出陣がカーテンコールでさかんにブーイングを浴びせられていたが、それがなぜなのか私には納得できない。ともあれ満足の行く「トリスタンとイゾルデ」だった。

 

マルチヌー 「ギリシャ受難劇」(1961年版)20238月ザルツブルク音楽祭、フェルゼンライトシューレ

 昨年だったか、このオペラのDVDを見て、実はあまり深い感銘を受けなかった。が、今回みて、強く惹かれた。現代的な音がして、鋭く、しかも深みがある。ストーリーもとてもおもしろい。

 村で催される受難劇で心ならずもイエス・キリストの役を与えられたマノリオスが、ギリシャからやってきた難民を救おうとし、村の司祭フォティスに破門され、現代のキリストのように殺される物語。ただ、英語歌唱なのがちょっと残念。

 モノリウスのゼバスティアン・コールヘップが気品ある声と演技。マグダラのマリア役のカテリーナを歌うサラ・ヤクビアク、グリゴリス司祭のガボール・ブレッツ、フォティス司祭のルカーシュ・ゴリンスキー、レニオのクリスティーナ・ガンシュなど、すべての役が実に適役。

 マキシム・パスカルの指揮するウィーン・フィルハーモニー管弦楽団ももちろん精妙な音でとてもダイナミックに演奏。演出はサイモン・ストーン。登場人物は現代の服装。ほとんど装置のない空間で展開される。現代の難民問題と重ね合わせ、難民排斥に走る保守的な民衆を批判している。リアルな空間ではないだけに、いっそう現代性を持っている。とてもいいオペラだと思った。

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