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カプワ&ティベルギアン&日フィル カプワの指揮に驚嘆!

 20241130日、サントリーホールで日本フィルハーモニー交響楽団の定期演奏会を聴いた。指揮は沖澤のどかの予定だったが、出産のためにパヴェウ・カプワに変更。ポーランド出身の若い指揮者だ。まったく初めて名前を聞く。曲目は前半にセドリック・ティベルギアンが加わってブラームスのピアノ協奏曲第2番、後半にシューマンの交響曲第2番。素晴らしい演奏だった。驚いた。

 ティベルギアンのピアノはイブラギモヴァのヴァイオリンとのデュオで何度か聴いたことがある。今回も見事な演奏。音の一つ一つの粒立ちが美しくて繊細だが、十分にダイナミック。ブラームスにふさわしい。知的でロマンティックすぎないが、十分に叙情にあふれている。

 が、私が驚いたのはむしろカプワの指揮のほうだった。ブラームスの協奏曲では、おそらく格上のティベルギアンに遠慮していたのだろう。全体的な構成はかなりオーソドックスに思えたが、ピアノをたてて、おそらくはティベルギアンの音楽を作っていた。ただ、細部ではかなりオーケストラにニュアンスを加えていた。ブラームスらしいがっしりした構成の中に、微妙なニュアンスが顔を出してとても魅力的な演奏だった。素晴らしかった。

 カプワの本領が発揮されたのはシューマンだった。ひとことで言うと、まるで交響詩のような交響曲だった! もしかしたらシューマン好きはこのような演奏を嫌うのかもしれない。が、私のように、「メンデルスゾーンやブラームスに比べてどうもシューマンはおもしろくない、とりわけ交響曲第2番は退屈だ」と思っている人間には、これは目を見張るようなおもしろい演奏だった。

 山あり谷あり、様々な仕掛けがあり、適度にクライマックスがあり・・・。映画でも見ているよう。もしかすると、指揮者は頭の中で何かのストーリーを想像しているのかもしれない。とりわけ第2楽章はユーモアにあふれ、盛り上げた後のちょっとした肩透かしのような部分もあった。第3楽章はとても美しリリシズムにあふれていた。第4楽章はまさしく賛歌。よくぞここまでおもしろく演奏できるものだ。

 しかも、まるで交響詩のよう、と言いながら、それほど元の音楽をいじっているわけではなさそうだ。十分に理にかなっている。あれ、もしかしたらシューマンのこの曲は本来、このように演奏するべきだったのかもしれない!と思わせるほど説得力がある。

 私以外の人はこの演奏をどう受け取ったのだろう。もし、ベートーヴェンまでもこのように演奏したら私はきっとムッとすると思うが、この人が古典派を演奏したらどうなるのだろう。ブラームスの交響曲も是非聴いてみたい。

 沖澤のどかの指揮を聴けなかったのは残念(もちろん、ご本人にとってはとてもめでたいことであり、私も遠くから祝福させていただきたい)だが、カプワという指揮者を知ることができて、とてもありがたかった。

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ベルリンRIAS室内合唱団 バッハ一族のモテット 幸せな時間を過ごせた

 20241128日、神奈川県立音楽堂で開館70周年記念、音楽堂ヘリテージ・コンサート ベルリンRIAS室内合唱団“J.S.バッハとバッハ一族のモテットを聴いた。

 今回の公演については、今年の7月の吉田志門のリサイタルで知った。吉田さんの所属するベルリンRIAS室内合唱団が来日してバッハ家のモテットを歌うという。録音ではかなり聴いてきたはずだが、これまでベルリンRIAS室内合唱団の実演を聴いたことはなかった。これを機会に聴かずばなるまいと思った。

 曲目は、ヨハン・クリストフ・バッハ「愛する主なる神よ」、ヨハン・ルートヴィヒ・バッハ「われらのこの世の家が壊れても」、ヨハン・バッハ「われらの生は影に過ぎず」、ヨハン・クリストフ・アルトニコル「いざ諸人よ、神に感謝せよ」、ヨハン・ミヒャエル・バッハ「主よ、あなたさえわがものなれば」。ヨハン・クリフトフ・バッハ「義しき人は、年若く死すとも」、ヨハン・セバスティアン・バッハ「イエスこそわが喜び」。指揮はジャスティン・ドイル。ポジティフオルガンは重岡麻衣、チェロは山根風仁。

 素晴らしい合唱。音程がとてもよいために、音の響きが心地よい。まさに信仰心が静かに音として聴こえてくる。いや、それ以上に、まるで音が見えるよう。音が重なり、動き、流動していく。それがしっかりと聞こえてくる。

 合うべきところは完璧に合っており、ところどころ、たとえば音の入りなどで少しだけずれが生じるが、それもまたとても人間的で美しい。機械的にそろっているのではなく、まさに人間たちが心を合わせて歌っている。ほとんどが、大バッハ以前のバッハ家の音楽家たちの曲なので、もちろん知らない曲なのだが、昔から知っている曲のような気がする。指揮も素晴らしい。静かで柔和で、しかも厳かなひと時!

 最後の大バッハの曲は、なんとなく聞いたことがあるような気がした(私はバッハ愛好家ではないので、モテットはあまり聴いたことがない!)が、やはりほかのバッハ家の人とは一味違うと思った。もっとずっと重層的で奥深い。これも素晴らしい演奏!

 アンコールには「朧月夜」(高野辰之作詞、岡野貞一作曲)が日本語で歌われた。さすが、発音を大事にするこの合唱団。日本語の発音も完璧! 編曲も見事。この曲がこんなに美しい曲だったとは! ソロを歌ったのはもちろん吉田志門。音程の良い美しい発音。素晴らしかった! なるほど、吉田さんはこの合唱団の中で鍛えられて、今のような際立った歌唱力を自分のものにしていったのだ!と納得。

 幸せな時間を過ごすことができた。

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田中一村展 最後に到達した澄み渡った境地

 東京上野の東京都美術館で田中一村展をみた。

 美術に強い関心があるわけではない私だが、美術好きの知人に聞いて、奄美で晩年を過ごした画家・田中一村の名前はかなり前から知っていた。20年以上前だっただろうか、仕事がてら奄美大島に出かけた時、田中一村記念美術館に行こうとした記憶がある。が、どのような展示があったかまったく覚えがないところをみると、閉館していたのか、何らかの事情で中は見られなかったようだ。そのころから、一村が奄美で描いたという絵は何枚か見たことがあった。が、今回、かなりたくさんの作品をみて印象が変わった。

 子どものころからの絵がいくつも展示されていた。いやはや神童ぶりに驚く。幼児のころにすでに見事な絵を描き、10代にして大家の趣がある。緻密にして大胆。草木の襞の一つ一つの生命が宿っている! きっと遠近法がほかの画家とは異なるのだろう、じかに迫ってくる凄味がある。

 私は、20歳前後の絵画の中の赤の使い方に惹かれた。草木の中に血の色がある! そんな感じがした。等伯などにみられるような日本画特有の楓や草木の構図があるが、そんな落ち着いた風景の中にも血が迸っている! とてつもないエネルギー、強い自負心!

 こんな圧倒的な絵を描いていながら、いや、こんな圧倒的な絵を描いていたからこそ、画壇に認められなかったという。苦しかっただろう。だからなのか、南画風の絵を描いたり、観音像を描いたりする。自我の叫びに押しつぶされそうになりながら救いを求めているように見える。

 そうして、50代で奄美大島に移住。ゴーギャンにおけるタヒチと同じように、一村は奄美に自分の居場所を見つけ出したのだろう。蘇鉄や枇榔樹、アダンなどの南方の植物が大胆な構図で描かれるようになる。南方の植物の特性というべきなのか、おおらかで、形がそれ自体、かなり抽象的な印象を与える。しかも、アンリ・ルソーを思わせるようなプリミティブな要素がある。有名な「アダンの海辺」は、まるでダリの抽象画のようなアダンの花と緻密に描かれた具象的で静謐な波が一枚の絵の中に同居している。

 ベートーヴェンの最後の弦楽四重奏曲(第16番)のようなシンプルな高みを、私はこれらの絵の中に感じる。最後に到達した澄み渡った境地。様々な苦悩や怒りや憎しみや喜びなどが抽象的な風景の中の昇華している。

 ここに書いたのは、もちろん私の勝手な思い込みにすぎない。が、大いに感動した。

 ただ、展覧会はあまりの人気のために、人が多くてゆっくりみられなかったのが残念。私のようなにわかファンが駆け付けたせいだろうが、もっとゆっくりと見たいと思った。そのような機会がまた訪れると嬉しい。

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新国立「ウィリアム・テル」 長年の念願がかなった!

 2024年11月26日、新国立劇場でロッシーニ作曲のオペラ「ウィリアム・テル(ギヨーム・テル)」をみた。

「ウィリアム・テル」は、小学校5年生の時(たぶん、1961年)、学校の音楽の時間に鑑賞曲として、その序曲を聴いて天地がひっくり返るような感動を覚えて、私がクラシック好きになるきっかけを作ってくれた曲だ。当時、「序曲は名曲だが、本編は長くてつまらないので、現在では上演されない」といわれていた。そんなものかと思っていたが、1970年代のロッシーニ・ルネサンスの後、CDや映像でこのオペラを知って、いやいやなかなかの名作ではないかと思っていた。今回、念願がかなって初めてオペラをみた。素晴らしかった!

 まず歌手陣がいい。テルのゲジム・ミシュケタはこの役にふさわしい強くて深い声。音程もよく、声量も豊か。アルノルドのルネ・バルベラも高音が美しく、これまた声量豊か。そして、マティルドのオルガ・ペレチャッコは本当に美しい声! そして、皇女にふさわしい気品ある動きと容姿。これまで何度かペレチャツコの実演を聴いて、もっと声量豊かだった気がしたが、少し声が小さかった。あえてそうしていたのか。ジェミ役の安井陽子も声が通って、少年らしくて見事。そして、冨平恭平の合唱指揮による新国立劇場合唱団も本当に見事。このオペラは合唱が重要だが、見事に大きな感動をもたらしてくれた。

 そのほか、エドヴィージュの齊藤純子も好演、ジェスレルの妻屋秀和、ヴァルテルの須藤慎吾、メルクタールの田中大揮、ロドルフの村上敏明、リュオディの山本康寛、ルートルドの成田博之、狩人の佐藤勝司も健闘。

 それぞれのアリアも素晴らしかったが、第1幕のアルノルドとテルの二重唱、第2幕のアルノルドとマティルデの二重唱、第4幕のマティルデ、ジェミ、エドヴィージュの三重唱も本当に見事。ロッシーニの世界を堪能できた。ただ、ロッシーニにしては、いずれの歌もそれほど技巧的ではない。歌手の名人芸を楽しむというよりは、歴史群集劇の厚みを味わうオペラだと言えそうだ。自由を求めて戦う民衆の歌声に何度も深く感動した。

 指揮の大野和士はむりやり盛り上げようとせず、じっくりと演奏。それが成功していると思う。一つの歴史絵巻のように圧政に抵抗するスイスの民衆の重厚な物語に仕上げていた。東フィルも美しくて輪郭のしっかりした音。

 ヤニス・コッコスの演出も簡素な舞台ながら説得力がある。第1幕、第2幕は森の中、第3幕のジェスレルの圧政を描く場面は、いくつもの槍が上から刺さるような構図。自由を求めて立ち上がる民衆をうまく描き出していた。

 私は、この「ウィリアム・テル」よりも、「セミラーミデ」や「アルミーダ」、「湖上の美人」の方がオペラとしては傑作だと思う。フランス語による、いわゆるフランス・グランド・オペラに属するオペラなので、バレエが入ってくるのはやむを得ないが、舞踊好きではない私にはバレエの部分はちょっと退屈。だが、さすがにロッシーニ最後の作品だけあって、堂々たる構えで、これはこれで見事な作品だと思った。

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日生劇場 ピーア・デ・トロメイ」 ベルカントを堪能した!

 2024年11月22日、日生劇場でNISSAYOPERA ドニゼッティ作曲のオペラ「ピーア・デ・トロメイ」をみた。指揮は飯森範親、演出はマルコ・ガンディーニ。新日本フィルハーモニー交響楽団、藤原歌劇団合唱部。とても楽しめる内容だった。

 飯森の指揮は躍動感があり、細部までしっかりコントロールできて、とてもよかった。私の席は打楽器が大きく聞こえて、弦楽器がよく聞こえないことがあったが、それはやむを得ないだろう。演出はきわめてオーソドックス。服装は近代に近づけているが、台本に沿って舞台は展開され、とても分かりやすい。

 歌手陣は充実していた。ピーアの伊藤晴はとても美しくて強い声で、音程もしっかりしている。可憐な女性を見事に歌っている。ネッロの井出壮志朗も強さのある美声。悪役のギーノを歌う藤田卓也も張りのある強い声。ベルカントを堪能できた。ただ、どうもベルカント系の歌手たちは声の威力を示そうとしてずっと力いっぱいに歌おうとする傾向がある。もう少し弱音の効果をうまく用いると、もっと表現の幅が広がるのではないかと私は思うのだが。

 ランベルトの龍進一郎、ウバルドの琉子健太郎、ピエーロの相沢創もとてもいい。ロドリーゴの星由佳子は風邪でもひいていたのだろうか。声が出ていなかったのが残念。とはいえ、全体的に日本の声楽家たちは一昔前からは考えられないほど高レベルになっている。安心して聴いていられる。

 ただ、私はドニゼッティ好きなのだが、やはりこれは大傑作ではないなと思った。ドニゼッティらしい美しく親しみやすいメロディにあふれているが、傑作として知られているオペラのようなとびぬけて魅力的な歌がない。しかも、台本がやや平板。そもそも、ピーアが秘密で会おうとしたのが弟であるのに不義をみなされ、夫に死を命じられる・・・というストーリーが少々不自然で、どうも主人公3人の心情に感情移入しにくい。とても楽しみながらも、このオペラそのものの限界を感じた。

 ところで、オペラをみながらひょいと先日のコンヴィチュニー演出の「影のない女」ことを思い出した。「影のない女」の中に子供を産めない女は役立たずという思想があると騒いで、「反時代的」「胸糞悪い」という人たちは、不義を働く女は夫に殺されてしかるべきだという思想が展開されるこのオペラに対しても「反時代的」あるいは「胸糞悪い」というのだろうか。だが、そんなことを言い出したら、オペラのほとんどに現代にそぐわない思想があふれていて、反時代的で胸糞悪いということになりはしないのか。・・・また蒸し返してしまった!

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エーネスのベートーヴェン2日目 圧倒的なクロイツェル!

 20241116日、紀尾井ホールで、ジェイムズ・エーネス ベートーヴェン ヴァイオリン・ソナタ全曲演奏会の2日目を聴いた。ピアノはオライオン・ワイス。2日目は第6番から第10番まで。2日で全曲なので、かなりハード!

 初日に続いて、素晴らしい演奏だった。

 初日は、まったく誇張もなく、主観でゆがめることもなく、ただただ正確な音程と切れの良い弓さばき、自然な構築によって素晴らしい音楽を作り出していることに感銘を受けた。心が洗われるような気持になり、ベートーヴェンの初期の音楽の生き生きとして初々しい響きに魅了された。

 2日目は中期以降のベートーヴェンのソナタ。スケール感が増し、より深い精神を表現するソナタなので、少し勝手が違うのではないかと思って出かけた。が、やはりエーネスは凄い。

初日と同じように端正で濁りのない音。が、最初の第6番から、前日とは違ったスケールの大きさを示してくれた。完璧にコントロールされた音で、ベートーヴェンらしい情熱的で宿命的な音楽を作り出していく。

 とはいえ、冒頭の第6番は、初日の第1番と同じように、少しだけ自然な流れに乗り切れないところがあるように思った。ちょっとぎくしゃくしていたというか。第7番からは自然な流れの中にスケールの大きな音楽が鳴り出した。エーネスの音は、それほど宿命的な雰囲気を前面に出さない。がさつに激しく、というわけではない。あくまでも端正で美しい。しかし、音の切込みがシャープなので心にぐさりと刺さる。第2楽章は天国的な美しさ! 第8番の第1楽章は、とりわけピアノとヴァイオリンのやり取りがとても見事だった。二人の音楽がぴたりと合って爽快! ベートーヴェンの音楽は無理矢理に宿命的にしなくても、ただ端正にしっかりと演奏するだけでこれほど宿命的でスケールが大きくなるのだと改めて納得する。

 そして、なんといっても第9番「クロイツェル」は圧倒的だった。これも特にスケールを大きくしようという意図はないだろう。だが、第1楽章の序奏から、端正で鮮烈な響きによって大きな世界が展開される。第2楽章のそれぞれの変奏曲のニュアンスにも圧倒された。そして、第3楽章の壮大な盛り上がり。私は何度も感動に震えた。

 第10番は、明るく屈託なく清澄。すべての苦悩を乗り越えた後の不思議な単純さ。そうした音を二人が再現していく。これも素晴らしかった。

 大変満足なベートーヴェン全曲演奏だった。感動した。

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エーネスのベートーヴェン初日 清澄にして繊細なヴァイオリンの音色!

 2024年11月14日、紀尾井ホールでジェイムズ・エーネス ベートーヴェン ヴァイオリン・ソナタ全曲演奏会の初日を聴いた。ヴァイオリンはエーネス、ピアノはオライオン・ワイス。初日はソナタの第1番から第5番「春」まで。

 エーネスの名前はかなり前から聞いていたが、実演を聴くのは今回が初めて。素晴らしい演奏だった。

 エーネスはきわめて素直な演奏だと思う。何も付け足さない、何も減らさない。誇張もせず、テンポも動かさない。もう少しユーモラスにしたいところやら、劇的にしたいところ、ロマンティックにしたいところもあると思うのだが、そうはしないで真正面から演奏。しかし、なんと高貴で清澄な音色であることか。そして、繊細でありながらも切れの良い弓さばき、きわめて理にかなった音楽の流れのために、自由で伸びやかな雰囲気が漂う。ぐいぐいと観客の心をとらえる。ピアノのワイスも繊細でシャープな美しい音でヴァイオリンとぴたりと合っている。

 第1番はちょっとぎくしゃくしていたかもしれない。客席の音のせいで、少なくとも私は音楽に集中できなかった。しかし、第2番からは私はエーネスの音楽世界に入り込んだ。作曲順に演奏されるので、ベートーヴェンの成長もよくわかる。初々しくて素直な第1番、自由な雰囲気のある第2番、徐々にスケールが増し、ベートーヴェンらしくなる第3番。そして、休憩をはさんで本格的なベートーヴェンの音楽になっていく第4番と第5番。若きベートーヴェンの喜びと悲しみの心の襞が見えるかのような演奏だと思う。しかし、あくまでも知的で構築的であって、情緒に流れることはない。そうであるこそ、そのリリシズムにため息が出そう。

 アンコールは第6番の第2楽章。本当に清澄で繊細。この全曲を16日に聴けると思うと楽しみでならない。

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米ドラマ「将軍」 うたかたの命を自覚しつつも自分の宿命をまっとうする人々

 アメリカのエミー賞の18部門受賞した真田広之プロデュース・主演のドラマ「SHOGUN 将軍」をみた。私は二世帯住宅で娘一家と暮らしているが、娘の家がディズニープラスに入会しており、一家が留守にしている間を利用して、全10話連続でみた。

 第3話くらいまでは、よくぞこれでアメリカの視聴者がついてきてくれたものだと感心しながらみた。

 吉井虎永(真田広之)が天下を取る前の状況を、難破船で日本に到着したイギリス人ジョン(コスモ・ジャーヴィス)と、その通訳・鞠子(アンナ・サワイ)を通して描いていくが、まず人間関係がかなり複雑。日本人であれば、みているうちに、なるほどこれが徳川家康で、これが三浦按針、これが細川ガラシャ、石田三成、淀君・・・をモデルにしているとわかっていくが、日本史をまったく知らない西洋人は理解できたのだろうか。

 しかも、私の識別能力が格別に劣っているということかもしれないが、画面がずっと暗いこともあって、日本人である私が登場人物、とりわけ女性たちの顔を識別できない。誰が誰やらわからなくなる。欧米人にはいっそうわかりにくかっただろう。

 ただ、冒頭から、画面の持つ存在感やリアリティは凄まじい。日本らしい風景やら美しい構図、存在感のある小道具、人物のしっかりした所作。そして、人の命が軽く扱われ、目上の者の命令でいとも簡単に命が奪われていき、それを当然、あるいは、それを正義とする文化。そうした存在感、現実感を作り出す真田広之、アンナ・サワイ、西岡徳馬、二階堂ふみらの演技力。視聴者はきっと異世界に入り込むような気持で見続けていったのだろう。

 ドラマは第4回目、5回目と回を重ねるごとに面白くなっていく。登場人物たちが、歴史上のモデルを飛び越えて生きた人間になっていく。フィクションが広がり、いっそう人間の心の機微が描かれるようになる。石田三成をモデルとする石堂(平岳大)の虎永に対する包囲網、それに対する虎永のしたたかな権謀術数、ジョンと鞠子のひそかな愛、浅野忠信演じる人間臭い樫木藪重の二枚舌などが並行して描かれ、同時に日本人の死生観が語られていく。

 第7回以降は、私はかなり夢中になってみた。自分の命をうたかたのものとみなして、主君に仕え、よろこんで自分の命をささげる生き方、そうした死生観に疑問を抱きながらも女性を愛することによってそのような価値観の中に入り込んでゆくジョン、そのような愛憎のもつれに引き付けられた。

 登場人物たちは敵、味方とは別に、二つのグループに分かれる。うたかたの命を自覚しつつも自分の宿命をまっとうしようとする賢い人たちと、そうしたことに気づかず物事のことわりを理解せず、愚かに生きていく人たち。賢い者同士は心を通わせ、それぞれの宿命を理解しあいながらも互いに別の道を行く。その潔さが美しい。

 鞠子らの大阪城脱出の企て、切腹未遂に終わった後の鞠子とジョンの交わり、鞠子の壮絶な最期、虎永との腹を割った話の後の藪重の最期などの見せ場も多い。

 日本人が中心になってこのようなドラマをアメリカで作ることができたことを、私も日本人の一人としてとても誇らしく思う。同時に、このような異文化を描くドラマがアメリカで大きな人気を得たこともまた頼もしいことだと思う。異文化の価値観を知り、その死生観を知って、自らの死生観を顧みるという知的営為は文化社会には必要なことだ。

 同じジェームス・クラヴェルの原作に基づく、三船敏郎、島田陽子、リチャード・チェンバレンらの出演した1980年のドラマもよく覚えている。とてもおもしろいドラマだったが、今回ほどの感銘は受けなかった。今回のドラマはエミー賞12部門受賞も当然だと思った。

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アントネッロ公演ロ短調ミサ曲 興奮のバッハ!

 20241111日、東京オペラシティ コンサートホールで濱田芳通&アントネッロ第18回定期公演を聴いた。曲目は J.S.バッハのミサ曲ロ短調。

 古楽アンサンブル・アントネッロについては以前から関心を持っていながらなかなか聴く機会がなかったのだが、先日、「リナルド」をみて、その実力のほどを知った。そのアントネッロがバッハのロ短調ミサを演奏するというのなら聴かないわけにはいかないと思って足を運んだ。

 いやはや期待以上の充実! まずオーケストラが素晴らしい。一つ一つの音が美しく、快速の部分もまったく乱れない。音程もよく、音がしなやかで音そのものに表情がある。そして、合唱も全員がそろっている。堅さがなく、しなやかで音楽の喜びにあふれている。独唱者たちもみんなが素晴らしい。オーケストラと同じように、快速の部分でも声が躍動する。これほど充実した古楽アンサンブルは世界でもそれほど多くないのではないか。

 そして、濱田芳通の指揮ぶりに圧倒された。まさに興奮のロ短調ミサだった。凄まじい躍動感! 音楽そのものの持つエネルギーが押し寄せ、音が重なり、命をもってかけまぐる。「ミサ曲」のわりにはあまりに若々しく、あまりに生きる喜びにあふれているが、このロ短調のミサ曲は、おそらくは信仰心を吐露する音楽というよりは、このような躍動の音楽ともいえるだろう。これがバッハなのかもしれないと思った。気難しいバッハよりも、このように躍動感にあふれる若々しいバッハのほうが、私は好きだ。

 冒頭の「キリエ・エレイソン」も素晴らしかったが、グローリアの最後の合唱にはとりわけ興奮した。これぞポリフォニーの醍醐味。管弦楽と声の重なりが躍動する。そして、彌勒忠史の歌う「アニュス・デイ」も美しくしみじみしており、最後の合唱になって深い信仰の心が高らかに告げられる。

 この人たちが「マタイ受難曲」を演奏したら、どうなるのだろう。これまで演奏したことがあるのだろうか。ぜひ「マタイ」を、そして、できれば「ヨハネ」も聴きたいと思った。

 

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NISSAY OPERA「連隊の娘」 充実の上演! 楽しかった!

 2024119日、日生劇場でNISSAY OPERA 2024 ドニゼッティのオペラ「連隊の娘」をみた。演奏、演出ともにとても満足できるものだった。とても楽しかった。

 指揮は原田慶太楼、オーケストラは読売日本交響楽団。きびきびした演奏で、ドニゼッティ特有のわくわく感もあって、とてもいい。歌手との息もしっかりと合っているように思える。読響もしっかりとした音を出している。

 粟國淳の演出もとても納得できる。舞台全体がおもちゃ箱という設定だろう。巨大なクマのぬいぐるみがあり、連隊の兵士たちは兵隊人形を思わせる。映画「トイ・ストーリー」へのオマージュもあるのだろう。トニオは「トイ・ストーリー」の主要な登場人物を連想させる。連隊の兵士たちも動きもぎくしゃくして機械人形のよう。貴族たちも、紙で作った衣装を普段着の上に取り付けただけの格好で現れる。マリーやトニオの動きも子どもっぽい。

 このオペラを現代において大真面目に上演すると、やはり、いくら何でも嘘っぽくて、観客はついていけない。そこであえておもちゃ箱の世界にして子供っぽいファンタジーに仕上げたということだろう。これなら堅いことを言わずに心から子どもの世界を楽しめる。

 マリーの砂田愛梨は素晴らしかった。音程のいい美しい声。高音もしっかりとコントロールされてとても美しい。ホール中にビンビンと響き、合唱団の中で一人、マリーの声がはっきり聞こえる。この役を欧米の一流の劇場で歌ってもきっと大喝采を浴びるだろうと思った。トニオは、糸賀修平が予定されていたが、練習中のけがのため欠場とのことで、代役として澤原行正が演じた。突然の代役だったのだろうが、大健闘。声もよく出ていて、高音も美しかったが、ちょっと音がかすれた。

 ベルケンフィールト侯爵夫人の金澤桃子はメゾの美声。フランス語の発音も見事だった。シュルピスの山田大智もしっかりした声でとてもよかったが、いかにもカタカナふうのフランス語はご愛嬌というところ。

 全体的に大いに楽しむことができて、とてもよかった。ドニゼッティのオペラは理屈なしに楽しい。

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コンヴィチュニーの演出に怒った観客の多い日本はガラパゴス?

 コンヴィチュニー演出の「影のない女」についてはもう忘れようと思っていたのだが、今日の朝日新聞夕刊の吉田純子さんの署名記事「原典に忠実たれ 求める日本」を読んで、また少しものを言いたくなった。

 岡田暁生氏、長木誠司氏、片山杜秀氏らそうそうたる評論家のインタビューをつなげる形になっているが、この記事は以下のようにまとめられるだろう。

「コンヴィチュニー演出の『影のない女』が一部の音楽ファンから大ブーイングを浴びた。日本では観客は作曲者の書いた通りのものをオペラに求めるが、日本以外の国では、オペラという演劇を通して何か新しい世界をつかみたいと思っている。日本はガラパゴス化して、原典に忠実であれと考える人が圧倒的に多い。ブルックナーの交響曲も日本の音楽ファンは版にこだわる。また日本の観客はオペラを音楽としてとらえる。だから、日本では演奏会形式のオペラが多い。劇場は自由な実験やそれに対する批判のための解放区なのに、それを理解しない日本の観客の無理解は、劇場文化の欠如という日本特有の問題をあぶりだしている」。

 どうやら、コンヴィチュニーの演出に怒った私は、世界でも類をみない時代遅れの天然記念物的存在であるかのようではないか。

 いや、コンヴィチュニーら当事者がそう主張するのはちっとも構わない。当事者は自分の感覚、自分の経験で断言する資格があると私は思う。だが、吉田さんは朝日新聞の記者のはずだ。何かを主張するのなら、評論家の語った都合の良い言葉をつなげるのではなく、しっかりとしたエビデンスが必要だろう。

 私の理解では、演出に対して激しいブーイングが起こるのは大体において欧米なのではないか。日本人はむしろ読み替え演出もかなりおとなしく拍手するのではないか。それなのに、日本の観客のほうが演出に対してアレルギーが大きい、いや、日本の観客はガラパゴス化していて、日本の観客だけが読み替え演出に怒っていると吉田さんは書かれているようだ。それを示すエビデンスがあるのだろうか。統計やアンケートがあったら、ぜひと示してほしいものだ。

 ブルックナーの版に対して日本人が特にこだわっている? 初校などを重視して次々と録音するのはインバル、ヤング、ロト、ルイージなどの演奏家ではないのか。ブルックナーの版にうるさい人は日本だけでなく、世界中にいるだろう。ブルックナーに限らない。原典尊重は、むしろ近年の欧米で盛んになった考えではないか。それなのに、日本人に特にそのような人が多いというエビデンスはあるのだろうか。記者がそのようなエビデンスもなく記事を書くのだろうか。

 まるで日本ばかりで演奏会形式のオペラが上演されているかのように書かれているが、それもおかしい。いや、日本でこのところ演奏会形式が増えているのは、主として財政難のせいだろう。特に海外から名歌手を呼んで本格オペラを上演するのは、日本が豊かでなくなり、円が強くなくなった現在では難しい。新聞記者であれば、少なくともそのような要因にも目を配ったうえで記事を書いてほしい。

 コンヴィチュニーの演出に怒るのは、日本の観客に特有のことではないだろう。むしろこの背景にあるのは、演出の役割、オペラの意味、劇場の役割についての考え方の違いであり、また、ある意味で、先進的な音楽評論家を中心とする知的エリート(残念ながら、私はそのグループに入らない)と、保守的な音楽愛好者(私はこちらに属する)の対立だろう。日本特有の現象にできるものではない。

 そもそも、私はコンヴィチュニーが「影のない女」を「子どもを産めない女は役立たず」というような浅はかな解釈をして、あらすじを改変し、音楽も大幅にカットしたことに怒っている。もう少し鋭く、しかもシュトラウスとホフマンスタールの精神をえぐり出し、その美しさを再現してくれるような演出をしていれば、たとえ読み替え演出であって、時間を短縮したところで、これほどまでには怒りはしない。それを無視して、まるでコンヴィチュニーの解釈が説得力のあるものだという前提で記事を書いてよいのかも私は大いに疑問に思う。

 吉田さんの最近の署名記事には納得させられることが多かった。今日の夕刊のノット&東響の演奏会形式「ばらの騎士」の紹介記事はとても楽しんで読んだ。そうであるだけに、「影のない女」についての記事を残念に思ったのだった。

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再びコンヴィチュニー演出の「影のない女」について

 1024日の東京二期会公演、ペーター・コンヴィチュニー演出の「影のない女」をみて、私は大いに怒りを覚え、その日のうちに、当ブログに「『影のない女』ではなかった! 単なる悪ふざけだった」というタイトルで、コンヴィチュニーの演出を非難した。久しぶりに怒りのために眠れないほどだった。

 その時点で、おそらく多くのファンが私と同じようにこの演出に怒りをぶつけるだろうが、評論家と呼ばれる人のかなりがこの演出を擁護するだろうと思っていた。もちろん、それはそれで結構。様々な考えがある。まあそれでよかろうと思っていた。

 が、1031日の朝日新聞夕刊掲載の鈴木淳史氏の評を読んだ。その冒頭に、「初めてリヒャルト・シュトラウスの「影のない女」を見たとき、なんと胸糞悪いオペラだと思った。「子供を産まない女は役立たず」というテーマが通底したファンタジーであり、登場する男たちの一言一句に「妻は夫の持ち物」という意識が宿る」とある。

 シュトラウス好き、ホフマンスタール好きの一人として黙っていられなくなった。

 とはいえ、私は鈴木氏のような音楽評論家ではなく、単なる素人。しかも、ホフマンスタールについてはろくに知らない(かつて、河出書房新社から出ていたホフマンスタール選書3巻本や集英社の世界文学全集の1冊、そしてシュトラウスとの往復書簡を必死に読んだが、それ以上ではない!)。今回の公演をみて、私も自信がなくなったので、NHKの放送を録画した2019年のウィーン国立歌劇場公演のディスクを探し出して見直してみた(ティーレマン指揮、ユゲ演出。皇后のニールント、乳母のヘルリツィウス、バラクの妻のシュテンメ、皇帝の故シュテファン・グールド、バラクのコッホという最高の布陣!)。そして、やはり私の考えに間違いはないと確信を持った。

 

 実を言うと、私は、このオペラに「子供を産まない女は役立たず」というテーマが通底しているとは思ったことがなかった。今回の公演プログラムで堀内修氏も鈴木氏と同じような趣旨で、このオペラを「反時代的」と書かれておられたので、驚いたのだった。

 いったいどこに「子供を産まない女は役立たず」というテーマがあるのだろう。子どもを産めないことが確かにオペラの中で問題になるが、それは「子どもを産まない女は役立たず」という文脈では出てこない。それでも、ここにそのテーマがあるという方がおられたら、くわしく説明していただきたいものだ。

 私の理解によれば、このオペラは、ひとことで言えば、霊界の王の娘が人間である皇帝に恋をして人間になろうとする物語だ。オペラで言えば、「ルサルカ」、文学作品で言えば、「ウンディーネ」や「オンディーヌ」でも取り上げられる、ある意味でよくあるテーマだ。

 霊界の王の娘である皇后は、霊界の存在、すなわち「死なざる者」であるのだから、生を持たない。生を子孫に残すこともできない。そこで皇后は人間になるために生殖能力(オペラでは暗喩的に「影」として示される)を手に入れようとする。乳母の計略で、生殖能力は持っているものの過酷な状況にいるために十分に愛の交わりの機会がなく子どもを持てずにいるバラクの妻から生殖能力(=影)を奪おうとする。しかし、皇后はバラク夫妻の愛やそれなりの崇高さを知って諦める。そうすることで影ができる。

「死なざる者」という存在を示すことによって、人間の生命を称え、人間の誕生を称えたのがこのオペラだ。これのどこが「子供を産まない女は役立たず」なのだろう。

 

 むしろ、コンヴィチュニーのように、皇后を霊界の存在ではなく、敵対するマフィアの娘と設定するからこそ、これが「子どもを産めない女」の問題になってしまう。そして、コンヴィチュニーがあれこれセックスがらみ、胎児虐待がらみの動きを登場人物にさせるので、いっそう女性蔑視になってしまう。むしろ、このオペラを女性蔑視にしたのはコンヴィチュニーではないか。

 人間の生命誕生の賛歌を描いたシュトラウスのこのオペラが「子どもを産めない女性の蔑視」というのであれば、子どもの誕生を称える文学作品やドラマはいずれも子どもを産めない人への侮蔑ということになるだろう。ヤナーチェクの「利口な女狐の物語」のような生命賛歌のオペラも、現状では生命を作り出すのは原則として生殖機能によるのだから、それも産めない女性への差別になってしまうだろう。

 いやいや、ほとんどすべてのオペラや文学や映画や演劇の男女の愛の物語も、異性愛ばかりを描いているわけだから、同性愛を否定する差別の物語になってしまうだろう。「影のない女」を攻撃するのであれば、イスラム教への侮蔑が混じる「リナルド」や「後宮からの逃走」や「アルジェのイタリア女」はどうなのか。「イオランタ」は盲目の人を差別していることにならないのか。鈴木氏は、これらも「胸糞悪い」と言っているのだろうか。

 芸術作品は時代の精神を写すので、現在の価値観で捉えると様々なところで手放しで肯定できないところがあるだろう。「源氏物語」にしても、現在の女性の権利が尊重される社会からすると、とんでもない色魔を肯定する物語ということになってしまう。

 もちろん、芸術作品は多様な解釈を許す。だから、現代の価値観で浅く捉えて、「影のない女」を鈴木氏のように解釈する人も、もしかするといるかもしれない。しかし、あえてそのような浅い解釈を取り上げて、それを理由にオペラを腐し、ストーリーを改変し、短縮してオペラを上演することが許されるのか。それをシュトラウス作曲、ホフマンスタール台本のオペラとして上演してよいのか。

 

 私は以前、このブログに「現代のオペラ演出について」というタイトルで書いたこともある。その時も、何かの読み替え演出に怒りを覚えたのだった。http://yuichi-higuchi.cocolog-nifty.com/blog/2011/03/post-2875.html

 そこで書いた通り、私は演出は以下の原則を守るべきだと思っている。

① 演出は、そのオペラ作品そのものの解釈でなければならない。オペラそのものと無関係な演出家の考える物語や世界観を描くものであってはならない。

② 演出は、言葉の助けなしに成り立つものでなければならない。演出意図を読んだ人にしか理解できないような演出は、できそこないだと私は考える。舞台装置や登場人物の仕草や表情から、それをわからせなければ、演出とはいえないだろう。

③ ストーリーを改変してはならない。台本上のト書きについては、ひとつの隠喩として捉えるべきなので、変更はやむを得ないが、それはあくまでも、台本の背後にあるものを示すものであるべきだ。ストーリーを改変したら、別の作品になってしまう。

④ オペラは、演出の読み取りを目的とするものではない。オペラの主役は音楽であって、演出はそれを邪魔するものであってはならない。

⑤ オペラ演出は一部の知的エリートだけのものであってはならない。オペラ演出の意味を読みとることを得意とする知的エリートのみを対象とした演出にするべきではない。

 

 いうまでもなく、東京二期会のコンヴィチュニー演出の上演は、ここに示した私の原則にすべて違反していた。それゆえ、私としては、コンヴィチュニーの今回の上演を認めることはできない。

 もちろん、これはそもそも読み替え演出反対派の私が勝手に考えた、私なりの原則なので、私に反対する人はたくさんおられるだろうことはすでに想定している。私としては、コンヴィチュニー演出を肯定する人が演出というものをどうとらえているのか、きちんと説明してほしいと思っている。同時に、先ほど述べた通り、なぜこのオペラが「子どもを産めない女性蔑視」なのかも説明していただきたいものだ。

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