田中一村展 最後に到達した澄み渡った境地
東京上野の東京都美術館で田中一村展をみた。
美術に強い関心があるわけではない私だが、美術好きの知人に聞いて、奄美で晩年を過ごした画家・田中一村の名前はかなり前から知っていた。20年以上前だっただろうか、仕事がてら奄美大島に出かけた時、田中一村記念美術館に行こうとした記憶がある。が、どのような展示があったかまったく覚えがないところをみると、閉館していたのか、何らかの事情で中は見られなかったようだ。そのころから、一村が奄美で描いたという絵は何枚か見たことがあった。が、今回、かなりたくさんの作品をみて印象が変わった。
子どものころからの絵がいくつも展示されていた。いやはや神童ぶりに驚く。幼児のころにすでに見事な絵を描き、10代にして大家の趣がある。緻密にして大胆。草木の襞の一つ一つの生命が宿っている! きっと遠近法がほかの画家とは異なるのだろう、じかに迫ってくる凄味がある。
私は、20歳前後の絵画の中の赤の使い方に惹かれた。草木の中に血の色がある! そんな感じがした。等伯などにみられるような日本画特有の楓や草木の構図があるが、そんな落ち着いた風景の中にも血が迸っている! とてつもないエネルギー、強い自負心!
こんな圧倒的な絵を描いていながら、いや、こんな圧倒的な絵を描いていたからこそ、画壇に認められなかったという。苦しかっただろう。だからなのか、南画風の絵を描いたり、観音像を描いたりする。自我の叫びに押しつぶされそうになりながら救いを求めているように見える。
そうして、50代で奄美大島に移住。ゴーギャンにおけるタヒチと同じように、一村は奄美に自分の居場所を見つけ出したのだろう。蘇鉄や枇榔樹、アダンなどの南方の植物が大胆な構図で描かれるようになる。南方の植物の特性というべきなのか、おおらかで、形がそれ自体、かなり抽象的な印象を与える。しかも、アンリ・ルソーを思わせるようなプリミティブな要素がある。有名な「アダンの海辺」は、まるでダリの抽象画のようなアダンの花と緻密に描かれた具象的で静謐な波が一枚の絵の中に同居している。
ベートーヴェンの最後の弦楽四重奏曲(第16番)のようなシンプルな高みを、私はこれらの絵の中に感じる。最後に到達した澄み渡った境地。様々な苦悩や怒りや憎しみや喜びなどが抽象的な風景の中の昇華している。
ここに書いたのは、もちろん私の勝手な思い込みにすぎない。が、大いに感動した。
ただ、展覧会はあまりの人気のために、人が多くてゆっくりみられなかったのが残念。私のようなにわかファンが駆け付けたせいだろうが、もっとゆっくりと見たいと思った。そのような機会がまた訪れると嬉しい。
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