再びコンヴィチュニー演出の「影のない女」について
10月24日の東京二期会公演、ペーター・コンヴィチュニー演出の「影のない女」をみて、私は大いに怒りを覚え、その日のうちに、当ブログに「『影のない女』ではなかった! 単なる悪ふざけだった」というタイトルで、コンヴィチュニーの演出を非難した。久しぶりに怒りのために眠れないほどだった。
その時点で、おそらく多くのファンが私と同じようにこの演出に怒りをぶつけるだろうが、評論家と呼ばれる人のかなりがこの演出を擁護するだろうと思っていた。もちろん、それはそれで結構。様々な考えがある。まあそれでよかろうと思っていた。
が、10月31日の朝日新聞夕刊掲載の鈴木淳史氏の評を読んだ。その冒頭に、「初めてリヒャルト・シュトラウスの「影のない女」を見たとき、なんと胸糞悪いオペラだと思った。「子供を産まない女は役立たず」というテーマが通底したファンタジーであり、登場する男たちの一言一句に「妻は夫の持ち物」という意識が宿る」とある。
シュトラウス好き、ホフマンスタール好きの一人として黙っていられなくなった。
とはいえ、私は鈴木氏のような音楽評論家ではなく、単なる素人。しかも、ホフマンスタールについてはろくに知らない(かつて、河出書房新社から出ていたホフマンスタール選書3巻本や集英社の世界文学全集の1冊、そしてシュトラウスとの往復書簡を必死に読んだが、それ以上ではない!)。今回の公演をみて、私も自信がなくなったので、NHKの放送を録画した2019年のウィーン国立歌劇場公演のディスクを探し出して見直してみた(ティーレマン指揮、ユゲ演出。皇后のニールント、乳母のヘルリツィウス、バラクの妻のシュテンメ、皇帝の故シュテファン・グールド、バラクのコッホという最高の布陣!)。そして、やはり私の考えに間違いはないと確信を持った。
実を言うと、私は、このオペラに「子供を産まない女は役立たず」というテーマが通底しているとは思ったことがなかった。今回の公演プログラムで堀内修氏も鈴木氏と同じような趣旨で、このオペラを「反時代的」と書かれておられたので、驚いたのだった。
いったいどこに「子供を産まない女は役立たず」というテーマがあるのだろう。子どもを産めないことが確かにオペラの中で問題になるが、それは「子どもを産まない女は役立たず」という文脈では出てこない。それでも、ここにそのテーマがあるという方がおられたら、くわしく説明していただきたいものだ。
私の理解によれば、このオペラは、ひとことで言えば、霊界の王の娘が人間である皇帝に恋をして人間になろうとする物語だ。オペラで言えば、「ルサルカ」、文学作品で言えば、「ウンディーネ」や「オンディーヌ」でも取り上げられる、ある意味でよくあるテーマだ。
霊界の王の娘である皇后は、霊界の存在、すなわち「死なざる者」であるのだから、生を持たない。生を子孫に残すこともできない。そこで皇后は人間になるために生殖能力(オペラでは暗喩的に「影」として示される)を手に入れようとする。乳母の計略で、生殖能力は持っているものの過酷な状況にいるために十分に愛の交わりの機会がなく子どもを持てずにいるバラクの妻から生殖能力(=影)を奪おうとする。しかし、皇后はバラク夫妻の愛やそれなりの崇高さを知って諦める。そうすることで影ができる。
「死なざる者」という存在を示すことによって、人間の生命を称え、人間の誕生を称えたのがこのオペラだ。これのどこが「子供を産まない女は役立たず」なのだろう。
むしろ、コンヴィチュニーのように、皇后を霊界の存在ではなく、敵対するマフィアの娘と設定するからこそ、これが「子どもを産めない女」の問題になってしまう。そして、コンヴィチュニーがあれこれセックスがらみ、胎児虐待がらみの動きを登場人物にさせるので、いっそう女性蔑視になってしまう。むしろ、このオペラを女性蔑視にしたのはコンヴィチュニーではないか。
人間の生命誕生の賛歌を描いたシュトラウスのこのオペラが「子どもを産めない女性の蔑視」というのであれば、子どもの誕生を称える文学作品やドラマはいずれも子どもを産めない人への侮蔑ということになるだろう。ヤナーチェクの「利口な女狐の物語」のような生命賛歌のオペラも、現状では生命を作り出すのは原則として生殖機能によるのだから、それも産めない女性への差別になってしまうだろう。
いやいや、ほとんどすべてのオペラや文学や映画や演劇の男女の愛の物語も、異性愛ばかりを描いているわけだから、同性愛を否定する差別の物語になってしまうだろう。「影のない女」を攻撃するのであれば、イスラム教への侮蔑が混じる「リナルド」や「後宮からの逃走」や「アルジェのイタリア女」はどうなのか。「イオランタ」は盲目の人を差別していることにならないのか。鈴木氏は、これらも「胸糞悪い」と言っているのだろうか。
芸術作品は時代の精神を写すので、現在の価値観で捉えると様々なところで手放しで肯定できないところがあるだろう。「源氏物語」にしても、現在の女性の権利が尊重される社会からすると、とんでもない色魔を肯定する物語ということになってしまう。
もちろん、芸術作品は多様な解釈を許す。だから、現代の価値観で浅く捉えて、「影のない女」を鈴木氏のように解釈する人も、もしかするといるかもしれない。しかし、あえてそのような浅い解釈を取り上げて、それを理由にオペラを腐し、ストーリーを改変し、短縮してオペラを上演することが許されるのか。それをシュトラウス作曲、ホフマンスタール台本のオペラとして上演してよいのか。
私は以前、このブログに「現代のオペラ演出について」というタイトルで書いたこともある。その時も、何かの読み替え演出に怒りを覚えたのだった。http://yuichi-higuchi.cocolog-nifty.com/blog/2011/03/post-2875.html
そこで書いた通り、私は演出は以下の原則を守るべきだと思っている。
① 演出は、そのオペラ作品そのものの解釈でなければならない。オペラそのものと無関係な演出家の考える物語や世界観を描くものであってはならない。
② 演出は、言葉の助けなしに成り立つものでなければならない。演出意図を読んだ人にしか理解できないような演出は、できそこないだと私は考える。舞台装置や登場人物の仕草や表情から、それをわからせなければ、演出とはいえないだろう。
③ ストーリーを改変してはならない。台本上のト書きについては、ひとつの隠喩として捉えるべきなので、変更はやむを得ないが、それはあくまでも、台本の背後にあるものを示すものであるべきだ。ストーリーを改変したら、別の作品になってしまう。
④ オペラは、演出の読み取りを目的とするものではない。オペラの主役は音楽であって、演出はそれを邪魔するものであってはならない。
⑤ オペラ演出は一部の知的エリートだけのものであってはならない。オペラ演出の意味を読みとることを得意とする知的エリートのみを対象とした演出にするべきではない。
いうまでもなく、東京二期会のコンヴィチュニー演出の上演は、ここに示した私の原則にすべて違反していた。それゆえ、私としては、コンヴィチュニーの今回の上演を認めることはできない。
もちろん、これはそもそも読み替え演出反対派の私が勝手に考えた、私なりの原則なので、私に反対する人はたくさんおられるだろうことはすでに想定している。私としては、コンヴィチュニー演出を肯定する人が演出というものをどうとらえているのか、きちんと説明してほしいと思っている。同時に、先ほど述べた通り、なぜこのオペラが「子どもを産めない女性蔑視」なのかも説明していただきたいものだ。
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