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コンヴィチュニーの演出に怒った観客の多い日本はガラパゴス?

 コンヴィチュニー演出の「影のない女」についてはもう忘れようと思っていたのだが、今日の朝日新聞夕刊の吉田純子さんの署名記事「原典に忠実たれ 求める日本」を読んで、また少しものを言いたくなった。

 岡田暁生氏、長木誠司氏、片山杜秀氏らそうそうたる評論家のインタビューをつなげる形になっているが、この記事は以下のようにまとめられるだろう。

「コンヴィチュニー演出の『影のない女』が一部の音楽ファンから大ブーイングを浴びた。日本では観客は作曲者の書いた通りのものをオペラに求めるが、日本以外の国では、オペラという演劇を通して何か新しい世界をつかみたいと思っている。日本はガラパゴス化して、原典に忠実であれと考える人が圧倒的に多い。ブルックナーの交響曲も日本の音楽ファンは版にこだわる。また日本の観客はオペラを音楽としてとらえる。だから、日本では演奏会形式のオペラが多い。劇場は自由な実験やそれに対する批判のための解放区なのに、それを理解しない日本の観客の無理解は、劇場文化の欠如という日本特有の問題をあぶりだしている」。

 どうやら、コンヴィチュニーの演出に怒った私は、世界でも類をみない時代遅れの天然記念物的存在であるかのようではないか。

 いや、コンヴィチュニーら当事者がそう主張するのはちっとも構わない。当事者は自分の感覚、自分の経験で断言する資格があると私は思う。だが、吉田さんは朝日新聞の記者のはずだ。何かを主張するのなら、評論家の語った都合の良い言葉をつなげるのではなく、しっかりとしたエビデンスが必要だろう。

 私の理解では、演出に対して激しいブーイングが起こるのは大体において欧米なのではないか。日本人はむしろ読み替え演出もかなりおとなしく拍手するのではないか。それなのに、日本の観客のほうが演出に対してアレルギーが大きい、いや、日本の観客はガラパゴス化していて、日本の観客だけが読み替え演出に怒っていると吉田さんは書かれているようだ。それを示すエビデンスがあるのだろうか。統計やアンケートがあったら、ぜひと示してほしいものだ。

 ブルックナーの版に対して日本人が特にこだわっている? 初校などを重視して次々と録音するのはインバル、ヤング、ロト、ルイージなどの演奏家ではないのか。ブルックナーの版にうるさい人は日本だけでなく、世界中にいるだろう。ブルックナーに限らない。原典尊重は、むしろ近年の欧米で盛んになった考えではないか。それなのに、日本人に特にそのような人が多いというエビデンスはあるのだろうか。記者がそのようなエビデンスもなく記事を書くのだろうか。

 まるで日本ばかりで演奏会形式のオペラが上演されているかのように書かれているが、それもおかしい。いや、日本でこのところ演奏会形式が増えているのは、主として財政難のせいだろう。特に海外から名歌手を呼んで本格オペラを上演するのは、日本が豊かでなくなり、円が強くなくなった現在では難しい。新聞記者であれば、少なくともそのような要因にも目を配ったうえで記事を書いてほしい。

 コンヴィチュニーの演出に怒るのは、日本の観客に特有のことではないだろう。むしろこの背景にあるのは、演出の役割、オペラの意味、劇場の役割についての考え方の違いであり、また、ある意味で、先進的な音楽評論家を中心とする知的エリート(残念ながら、私はそのグループに入らない)と、保守的な音楽愛好者(私はこちらに属する)の対立だろう。日本特有の現象にできるものではない。

 そもそも、私はコンヴィチュニーが「影のない女」を「子どもを産めない女は役立たず」というような浅はかな解釈をして、あらすじを改変し、音楽も大幅にカットしたことに怒っている。もう少し鋭く、しかもシュトラウスとホフマンスタールの精神をえぐり出し、その美しさを再現してくれるような演出をしていれば、たとえ読み替え演出であって、時間を短縮したところで、これほどまでには怒りはしない。それを無視して、まるでコンヴィチュニーの解釈が説得力のあるものだという前提で記事を書いてよいのかも私は大いに疑問に思う。

 吉田さんの最近の署名記事には納得させられることが多かった。今日の夕刊のノット&東響の演奏会形式「ばらの騎士」の紹介記事はとても楽しんで読んだ。そうであるだけに、「影のない女」についての記事を残念に思ったのだった。

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音楽」カテゴリの記事

コメント

日本人がもしこだわっている部分があるとしたら、作曲者に対するリスペクトだと思います。それを押しのけての演出家のエゴが前面に出た時は、けっこうな反発が出ているような気がします。ただそれはオペラだけでなく、オーケストラコンサート、さらには映画やアニメでも顕著ですし、アニメなどリスペクト欠如と思われる演出等にはかなり激しいブーイングが出ています。今回の「影のない女」は観ていないのであまり突っ込んだ話はできませんが、共同で演出された方の発言などを読むと、作曲者も台本作家も自分たちより出来損ないと思っているように感じられ、少なくともそこにはリスペクトはあまり感じられませんでした。演出の新しさを追求する前に、作品あっての演奏であり演出であるという大前提をいまいちど再考してほしいものです。

投稿: かきのたね | 2024年11月15日 (金) 22時37分

かきのたね 様
コメント、ありがとうございます。
あれこれ書きましたが、おっしゃる通り、演出で最も大事なのは、作曲家、台本作家への敬意だと思います。ひとことで簡単に言えば、私の演出評価の基準は、「シュトラウス、ホフマンスタールが、もし今の時代に生きているとすると、これをみて喜ぶか、怒るか」です。今回のコンヴィチュニー演出の「影のない女」は、まちがいなく、シュトラウスとホフマンスタールは烈火のごとく怒っただろうと思います。

投稿: 樋口裕一 | 2024年11月17日 (日) 16時13分

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