オペラ映像「アラベラ」「アイーダ」「蝶々夫人」
昼間は春の暖かさだが、朝晩は寒い。それほど仕事は立て込んでいないので、のんびりとオペラ映像をみた。感想を記す。
リヒャルト・シュトラウス 「アラベラ」2023年3月18,23日 ベルリン・ドイツ・オペラ
舞台で観た人はともかく、このソフトを観た人はこのオペラのタイトルは「アラベラ」ではなく、「ズデンカ」であるべきだと思うにちがいない。
アラベラのサラ・ヤクビアクはもちろん悪くない。しっかりした声で歌う。私の好きな歌手の一人だ。ただ、演出のためもあるだろうが、衣装も表情も歌いまわしも、あまりに「華」がない。大きな表情で歌うが、それが気位の高い絶世の美人らしくない。しかも、高音があまり美しく伸びていかない。なぜ男たちがアラベラに群がるのか理解できない。それに対して、エレナ・ツァラゴワの歌うズデンカの何と可憐で美しく健気なことか! 男の子として育てられながら、姉のアラベラを恋するマッテオを慕い、アラベラのふりをして体を許す。その心の揺れを見事に演じている。芯のしっかりとして美声が素晴らしい。
マンドリカのラッセル・ブラウン、マッテオのロバート・ワトソン、ヴァルトナー伯爵のアルベルト・ペーゼンドルファー、アデライデのドリス・ゾッフェルはいずれも文句なし。フィアカーミリのムン・ヘヨンもとてもきれいな声。韓国系の歌手だろうか。
演出はトビアス・クラッツァー。カーテンコールでブーイングもかなり混じるが、それほど過激なわけではない。
舞台が左右に二分割され、基本的には物語は左側で進行する。右側は別の部屋になったり、映像などが映されたりする。第1幕でカメラマンが舞台上に何人か登場して伯爵一家の様子を撮影しており、その映像も右半分に示される。また、舞台となっているホテルは、いかがわしい場所という設定になっており、警察の摘発らしいことが起こったり、娼婦らしい女性や抱き合うゲイ・カップルが現れたりする。
なぜカメラマン? なぜセックスのイメージが強い?と疑問に思いながら見ていたところ、第3幕冒頭のズデンカとマッテオのベッドシーンは右側に映像として映し出された。そして、マッテオがズデンカが女性だと気づいてもすんなり受け入れるところで、少しマッテオのバイセクシャル性らしいものがほのめかされる。このようなことの伏線として、カメラマンやセックスのイメージを出したのだろう。確かにこの伏線のおかげで観客の違和感は軽減される。ただ、違和感が減っただけで、私は特に納得したわけでもなく、感動したわけでもなかった。
ドナルド・ラニクルズの指揮は明晰で、緻密で音が美しい。ただ、もっと官能的な部分があってもいいのではないか、もっと大きく盛り上げてもいいのではないかと思う。いかにも、こじんまりとして、室内楽的。やはり私は、アラベラは華やかで気品があり、気位が高い注目の女性であり、音楽はそれを強調しなくては、オペラが生きてこないと思う。アラベラという主人公の華やかさがないと、このオペラは「ばらの騎士」の劣化版になってしまう。華やかさがあってこそ、陰に隠れたズデンカの可憐さがいっそう引き立つ。「アラベラ」独特の魅力が出る。そう思うのだ。ちょっと不満が残った。
ヴェルディ 「アイーダ」 022年3月9・13日 ドレスデン国立歌劇場 (NHK放送)
NHK・BS4Kで放送された。何とティーレマンが「アイーダ」を振る。が、さすがティーレマン。冒頭の前奏曲の音の美しさは格別。繊細にして官能的。なるほど、これはドレスデン国立管弦楽団ならではの音、ティーレマンならではの音だろう。
その後も、ティーレマンらしく、ぴしりぴしりと音が決まって、ドラマティックに展開していく。面白みがないと言えばその通りだが、きわめて立派な音楽であることは確かだ。ドイツ音楽の巨匠がイタリア・オペラを振るとなるほどこうなるのかと納得するような演奏だが、そう大きな違和感があるわけでもない。ただ、イタリア・オペラを得意とする指揮者だったらもっと盛り上げるだろうな、と思えるところがあちこちにあった。
歌手陣はきわめて充実している。現在考えられる最高の歌手陣であることは確かだろう。 アイーダのクラッシミラ・ストヤノヴァはさすがの歌唱と存在感。これまで私のきいたマルシャリンなどの歌に比べると少し大味なところを感じたが、きっとアイーダはこれでいいのだろう。ラダメスのフランチェスコ・メーリも見事な声で歌う。アムネリスのオクサナ・ヴォルコヴァは少し線は細いが、恋に狂う王女を見事に歌う。この三人に文句なし。もうひとり圧倒的なのは、ランフィスのゲオルク・ツェッペンフェルト。この人はそれほど大柄ではないのだが、高い靴を履いて巨大に見せている。声はまさに巨大。
演出はカタリーナ・タルバッハ。美術的にはとても美しく、動きも自然だが、きわめてオーソドックスな演出と言えるだろう。ほとんど台本通りだと思う。ドイツの劇場での演出がこんなに伝統的なのに驚いた。たまたまなのか、ドレスデンではこのような傾向なのか。
プッチーニ 「蝶々夫人」2024年3月19,23,26日 ロンドン、ロイヤル・オペラ・ハウス
(このソフトについての感想は、一度、ブログにアップしたが、友人からの指摘を受けて私の考え違いに気づいたので削除したのだった。考え直したので、まだ、結論が出たわけではないが、今まで考えたことをここにアップする)
「蝶々夫人」は嫌いなオペラだが、今回、アスミク・グリゴリアンが蝶々夫人を歌っていると知ってBDを購入。グリゴリアン好きとしては、嫌いなどとは言っていられない。
で、観てみたら、予想通りというか、歌手陣はとてもよく、とりわけグリゴリアンは圧倒的に素晴らしい。ピンカートンのジョシュア・ゲレーロ、シャープレスのラウリ・ヴァサルも見事に歌っている。スズキ役のホンニー・ウー、ゴロー役のヤーツォン・ホァンも見事。指揮については、情緒的な感じがして、私の好きな演奏ではないが、プッチーニ好きには不満はないだろう。
私が疑問に思ったのはモッシュ・ライザー&パトリス・コーリエの演出だった。
演出家は、間違いなく、1900年前後の日本をそれなりにリアルに描こうとしているようで、日本らしい光景が描かれている。ホンニー・ウーやヤーツォン・ホァンを初めとして何人か東洋系の歌手が見える。もちろん白人歌手も多いが、遠目から見れば、日本を舞台にした日本人の物語だと納得するだろう。だが、「蝶々夫人」にはよくあることだが、日本人からすると和服とは言えない珍妙な服装で登場人物が出てくる! 和服を着ている登場人物もいるが、その着付けはあまりにお粗末。
私が驚いたのは、ピンカートン夫人をヴェーナ・アカマ=マキアという黒人歌手が演じていることだった。いや、たまたま黒人歌手が演じたということではなさそうだ。ピンカートン夫人が登場する前、そのシルエットが映る。そのシルエットは、映画などで「黒人女性」の典型として描かれたようなシルエット。そして、実際に登場すると、映画「風と共に去りぬ」に出てきた黒人女性たちのような服を着ている。演出家は、「ピンカートン夫人は黒人女性だった」と主張しているようだ。
初め私は、植民地主義的な傾向が強く、西洋と東洋の文化の違いや西洋から見た異国趣味を描くこのオペラで、ピンカートン夫人を黒人女性とみなすのは、まずはあまりに時代錯誤だと思って、演出家に対して憤慨した。この時代にアメリカの海軍士官が黒人女性と結婚しているとはまず考えられない。それに、ピンカートン夫人が白人であるからこそ、東洋人である蝶々夫人が捨てられる悲劇が伝わる。ピンカートンが黒人女性と結婚するような人間であったら、まったくオペラの意味が違ってくるではないか。そう思ったのだった。
だが、それにしても、これほど黒人性を強調するのはなぜなのか。なぜ、「風と共に去りぬ」のような服を着ているのか。「風と共に去りぬ」は南北戦争時代の話であって、「蝶々夫人」よりも40年ほど前のはずだ。そう思って考え直してみた。
で、ふと気づいた。もしかしたら、演出家はこのオペラの植民地主義的発想を批判しているのではないか。ピンカートンは黒人も東洋人も手に入れ、自分のものにしている、それどころか、黒人も東洋人も解放してやったと思っている、そのような傲慢さを皮肉っているのではないのか。ピンカートンはアメリカ人、アメリカ社会全体を象徴しているのではないか。
そう考えると、日本人の役の登場人物の一人(このオペラに詳しくないので、役名はわからない)は黒人男性だった。そして、その男性は、それこそ和服と言えないような、まるでアフリカ人のような服を着ていた。だとすると、これはまさにグローバルに世界を支配しているつもりでいるアメリカ人への皮肉なのではないか。もしかすると、これは1900年ではなく、現在のトランプ大統領への皮肉も混じっているのかも?とも勘繰りたくなった。
あまり自信はないのだが、この演出をみて、以上のようなことを考えたのだった。
なお、私は演出家の演出ノートなどまったく読まず、特に演出についての解釈を調べようとしないまま、自分だけの思い込みでこの文章を書いている。私は評論家ではなく、単なる保守的な音楽愛好者なので、むしろこうやって自分なりに演出を解釈して、「意味不明」と怒ったり、もしかすると見当違いかもしれないが、自分なりに納得して感動したりして楽しんでいる。それで十分だと思っている。
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