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オペラ映像「アラベラ」「アイーダ」「蝶々夫人」

 昼間は春の暖かさだが、朝晩は寒い。それほど仕事は立て込んでいないので、のんびりとオペラ映像をみた。感想を記す。

 

リヒャルト・シュトラウス 「アラベラ」2023318,23日 ベルリン・ドイツ・オペラ

 舞台で観た人はともかく、このソフトを観た人はこのオペラのタイトルは「アラベラ」ではなく、「ズデンカ」であるべきだと思うにちがいない。

 アラベラのサラ・ヤクビアクはもちろん悪くない。しっかりした声で歌う。私の好きな歌手の一人だ。ただ、演出のためもあるだろうが、衣装も表情も歌いまわしも、あまりに「華」がない。大きな表情で歌うが、それが気位の高い絶世の美人らしくない。しかも、高音があまり美しく伸びていかない。なぜ男たちがアラベラに群がるのか理解できない。それに対して、エレナ・ツァラゴワの歌うズデンカの何と可憐で美しく健気なことか! 男の子として育てられながら、姉のアラベラを恋するマッテオを慕い、アラベラのふりをして体を許す。その心の揺れを見事に演じている。芯のしっかりとして美声が素晴らしい。

 マンドリカのラッセル・ブラウン、マッテオのロバート・ワトソン、ヴァルトナー伯爵のアルベルト・ペーゼンドルファー、アデライデのドリス・ゾッフェルはいずれも文句なし。フィアカーミリのムン・ヘヨンもとてもきれいな声。韓国系の歌手だろうか。

 演出はトビアス・クラッツァー。カーテンコールでブーイングもかなり混じるが、それほど過激なわけではない。

 舞台が左右に二分割され、基本的には物語は左側で進行する。右側は別の部屋になったり、映像などが映されたりする。第1幕でカメラマンが舞台上に何人か登場して伯爵一家の様子を撮影しており、その映像も右半分に示される。また、舞台となっているホテルは、いかがわしい場所という設定になっており、警察の摘発らしいことが起こったり、娼婦らしい女性や抱き合うゲイ・カップルが現れたりする。

 なぜカメラマン? なぜセックスのイメージが強い?と疑問に思いながら見ていたところ、第3幕冒頭のズデンカとマッテオのベッドシーンは右側に映像として映し出された。そして、マッテオがズデンカが女性だと気づいてもすんなり受け入れるところで、少しマッテオのバイセクシャル性らしいものがほのめかされる。このようなことの伏線として、カメラマンやセックスのイメージを出したのだろう。確かにこの伏線のおかげで観客の違和感は軽減される。ただ、違和感が減っただけで、私は特に納得したわけでもなく、感動したわけでもなかった。

 ドナルド・ラニクルズの指揮は明晰で、緻密で音が美しい。ただ、もっと官能的な部分があってもいいのではないか、もっと大きく盛り上げてもいいのではないかと思う。いかにも、こじんまりとして、室内楽的。やはり私は、アラベラは華やかで気品があり、気位が高い注目の女性であり、音楽はそれを強調しなくては、オペラが生きてこないと思う。アラベラという主人公の華やかさがないと、このオペラは「ばらの騎士」の劣化版になってしまう。華やかさがあってこそ、陰に隠れたズデンカの可憐さがいっそう引き立つ。「アラベラ」独特の魅力が出る。そう思うのだ。ちょっと不満が残った。

 

ヴェルディ 「アイーダ」 022年3月9・13日 ドレスデン国立歌劇場 (NHK放送)

 NHK・BS4Kで放送された。何とティーレマンが「アイーダ」を振る。が、さすがティーレマン。冒頭の前奏曲の音の美しさは格別。繊細にして官能的。なるほど、これはドレスデン国立管弦楽団ならではの音、ティーレマンならではの音だろう。

 その後も、ティーレマンらしく、ぴしりぴしりと音が決まって、ドラマティックに展開していく。面白みがないと言えばその通りだが、きわめて立派な音楽であることは確かだ。ドイツ音楽の巨匠がイタリア・オペラを振るとなるほどこうなるのかと納得するような演奏だが、そう大きな違和感があるわけでもない。ただ、イタリア・オペラを得意とする指揮者だったらもっと盛り上げるだろうな、と思えるところがあちこちにあった。

 歌手陣はきわめて充実している。現在考えられる最高の歌手陣であることは確かだろう。 アイーダのクラッシミラ・ストヤノヴァはさすがの歌唱と存在感。これまで私のきいたマルシャリンなどの歌に比べると少し大味なところを感じたが、きっとアイーダはこれでいいのだろう。ラダメスのフランチェスコ・メーリも見事な声で歌う。アムネリスのオクサナ・ヴォルコヴァは少し線は細いが、恋に狂う王女を見事に歌う。この三人に文句なし。もうひとり圧倒的なのは、ランフィスのゲオルク・ツェッペンフェルト。この人はそれほど大柄ではないのだが、高い靴を履いて巨大に見せている。声はまさに巨大。

 演出はカタリーナ・タルバッハ。美術的にはとても美しく、動きも自然だが、きわめてオーソドックスな演出と言えるだろう。ほとんど台本通りだと思う。ドイツの劇場での演出がこんなに伝統的なのに驚いた。たまたまなのか、ドレスデンではこのような傾向なのか。

 

プッチーニ 「蝶々夫人」2024319,23,26日 ロンドン、ロイヤル・オペラ・ハウス

(このソフトについての感想は、一度、ブログにアップしたが、友人からの指摘を受けて私の考え違いに気づいたので削除したのだった。考え直したので、まだ、結論が出たわけではないが、今まで考えたことをここにアップする)

 

「蝶々夫人」は嫌いなオペラだが、今回、アスミク・グリゴリアンが蝶々夫人を歌っていると知ってBDを購入。グリゴリアン好きとしては、嫌いなどとは言っていられない。

 で、観てみたら、予想通りというか、歌手陣はとてもよく、とりわけグリゴリアンは圧倒的に素晴らしい。ピンカートンのジョシュア・ゲレーロ、シャープレスのラウリ・ヴァサルも見事に歌っている。スズキ役のホンニー・ウー、ゴロー役のヤーツォン・ホァンも見事。指揮については、情緒的な感じがして、私の好きな演奏ではないが、プッチーニ好きには不満はないだろう。

 私が疑問に思ったのはモッシュ・ライザー&パトリス・コーリエの演出だった。

 演出家は、間違いなく、1900年前後の日本をそれなりにリアルに描こうとしているようで、日本らしい光景が描かれている。ホンニー・ウーやヤーツォン・ホァンを初めとして何人か東洋系の歌手が見える。もちろん白人歌手も多いが、遠目から見れば、日本を舞台にした日本人の物語だと納得するだろう。だが、「蝶々夫人」にはよくあることだが、日本人からすると和服とは言えない珍妙な服装で登場人物が出てくる! 和服を着ている登場人物もいるが、その着付けはあまりにお粗末。

 私が驚いたのは、ピンカートン夫人をヴェーナ・アカマ=マキアという黒人歌手が演じていることだった。いや、たまたま黒人歌手が演じたということではなさそうだ。ピンカートン夫人が登場する前、そのシルエットが映る。そのシルエットは、映画などで「黒人女性」の典型として描かれたようなシルエット。そして、実際に登場すると、映画「風と共に去りぬ」に出てきた黒人女性たちのような服を着ている。演出家は、「ピンカートン夫人は黒人女性だった」と主張しているようだ。

 初め私は、植民地主義的な傾向が強く、西洋と東洋の文化の違いや西洋から見た異国趣味を描くこのオペラで、ピンカートン夫人を黒人女性とみなすのは、まずはあまりに時代錯誤だと思って、演出家に対して憤慨した。この時代にアメリカの海軍士官が黒人女性と結婚しているとはまず考えられない。それに、ピンカートン夫人が白人であるからこそ、東洋人である蝶々夫人が捨てられる悲劇が伝わる。ピンカートンが黒人女性と結婚するような人間であったら、まったくオペラの意味が違ってくるではないか。そう思ったのだった。

 だが、それにしても、これほど黒人性を強調するのはなぜなのか。なぜ、「風と共に去りぬ」のような服を着ているのか。「風と共に去りぬ」は南北戦争時代の話であって、「蝶々夫人」よりも40年ほど前のはずだ。そう思って考え直してみた。

 で、ふと気づいた。もしかしたら、演出家はこのオペラの植民地主義的発想を批判しているのではないか。ピンカートンは黒人も東洋人も手に入れ、自分のものにしている、それどころか、黒人も東洋人も解放してやったと思っている、そのような傲慢さを皮肉っているのではないのか。ピンカートンはアメリカ人、アメリカ社会全体を象徴しているのではないか。

 そう考えると、日本人の役の登場人物の一人(このオペラに詳しくないので、役名はわからない)は黒人男性だった。そして、その男性は、それこそ和服と言えないような、まるでアフリカ人のような服を着ていた。だとすると、これはまさにグローバルに世界を支配しているつもりでいるアメリカ人への皮肉なのではないか。もしかすると、これは1900年ではなく、現在のトランプ大統領への皮肉も混じっているのかも?とも勘繰りたくなった。

 あまり自信はないのだが、この演出をみて、以上のようなことを考えたのだった。

 なお、私は演出家の演出ノートなどまったく読まず、特に演出についての解釈を調べようとしないまま、自分だけの思い込みでこの文章を書いている。私は評論家ではなく、単なる保守的な音楽愛好者なので、むしろこうやって自分なりに演出を解釈して、「意味不明」と怒ったり、もしかすると見当違いかもしれないが、自分なりに納得して感動したりして楽しんでいる。それで十分だと思っている。

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東京二期会「カルメン」 ただつまらなくしただけの演出

 2025224日、東京文化会館で東京二期会公演「カルメン」をみた。指揮は沖澤のどか、演出・衣裳はイリーナ・ブルック。沖澤さんの「カルメン」をぜひ聴いてみたいと思って出かけたのだった。

 まず、演出に少々がっかりした。第1幕、殺風景な場所に塹壕のようなものが中央に見え、横に軍隊の詰め所があり、塹壕のようなところから女たちが登場する。なんだか情景がわからない。そこでドン・ホセはカルメンと出会うが、この設定では、ドン・ホセがカルメンのどこに惹かれたのかさっぱりわからない。カルメンの魅力も伝わらない。子どもたちがなぜいるのかもわからない。意味不明。第2幕もいったいどこかわからない。無機質なので、共感もできないし、そもそもオーケストラの音楽が何を語ろうとしているのかもわからない。第4幕は闘牛場らしいとわかるが、しかし、なぜこの幕だけ具象的なのか理解不能。しかも舞台が意味不明なために、合唱団や歌手陣が踊ったり、手を動かしたりするが、それにどんな意味があるのかもわからない。

 近年の読み替え演出のように何かのメッセージを強く打ち出しているわけでもない。新たな解釈を示しているわけでもない。ただつまらなくしただけの演出だと思った。

 歌手陣については、カルメンの和田朝妃には、かなりの非力さを感じた。ヴィブラートが強く、初めのうち音程も不安定だった。歌にも外見にも「華」がなく、カルメンの存在感がない。声そのものはだんだんと整っていったが、やはり最後まで説得力不足だった。

 ドン・ホセの古橋郷平は声量があり、外見もこの役にふさわしいが、声のコントロールが甘いというのか、音がぴしゃりと決まらないのを感じた。

 もっともよかったのは、ミカエラの七澤結だった。澄んだ音程のいい声でしみじみと歌って、世間知らずの心やさしい女性を好演。エスカミーリョの与那城敬はさすがの貫禄なのだが、役作りなのか、ちょっと無理やり悪役風の声を出そうとしているように思えた。高貴な声を持っているのだから、そのまま歌ってもいいのではないか。そのほかの歌手陣も全体的に好演。とびぬけた存在を感じることはなかったが、安定していた。

 指揮の沖澤については、やはりまだオペラには慣れていない様子を感じた。歌わせようとしているのだと思う。だから、そのような場面ではしっかりと場面が生きる。最終幕はさすがにしっかりと感動的にまとめた。だが、歌わせようとするあまり、ドラマの流れをあまり考えていないのではないかと思われるところがあった。演出が意味不明なために、音楽の意味を私たち聴衆がくみ取れなかったところもあると思うが、それにしても、ドラマ的な盛り上がりがなく、もたついていると思われるところもあった。

 が、ともあれ、さすが「カルメン」。これははっきり言って、かなりレベルの低い演出だと思うが、それにもかかわらず、最後には観客の心を動かす力を持っている。

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アントネッロ公演「オルフェオ」 病みつきになりそう!

 2025223日、神奈川県立音楽堂で、濱田芳通&アントネッロによるモンテヴェルディ「オルフェオ」をみた。

 私は長い間、バロック・オペラにはあまり関心がなかった。ソフトで何本か見たが、少々退屈に感じていた。ところが、昨年、アントネッロの「リナルド」をみて感激。バロック・オペラのおもしろさを感じるようになった。今回、アントネッロが「オルフェオ」を上演するとなると、観ないわけにはいかないと思って、紅葉坂の急坂はいやだなと思いつつも、神奈川県立音楽堂にまで出かけたのだった。

 素晴らしい公演だった。

 まずオーケストラがいい。本当に活気のある音。濱田芳通の勢いのあるエネルギッシュな指揮もさることながら、一つ一つの楽器の音が美しい。古楽の美しさ、楽しさを堪能できる。大オーケストラと違って一人一人の音がはっきり聞こえてうれしい。

 歌手陣もとてもよかった。まずオルフェオの坂下忠弘が見事。自然な美声で音程もいい。容姿も含めてこの役にふさわしい。エウリディーチェの岡崎陽香も澄んだ美声。ムジカとプロゼルピナを歌った中山美紀も深みのある美声。そして、圧倒的な存在感を示したのがメッサジェーラの彌勒忠史。エウリディーチェの死を伝える凄味のある声に震撼した。さすがというしかない。その他の歌手陣も健闘。中村敬一の演出も、簡素にしてわかりやすく、しかも十分に感情移入ができる。

 まさに手作りの雰囲気。音楽が目の前で生まれ、目の前でイマジネーションが花開き、オルフェオが生きて、黄泉の国に出かける。観客とオーケストラ、歌手陣が一体となって神話世界を作り上げていく。これがアントネッロの世界だろう。親しみやすく、生き生きとして、楽しい。そうか、これがバロック・オペラの楽しみか! 病みつきになりそう。

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下野&三浦&N響 スッペとサン・サーンスとオッフェンバックを楽しんだ

 2025年2月21日、NHK交響楽団第2033回 定期公演 Cプログラムを聴いた。指揮は下野竜也、曲目は前半にスッペの喜歌劇「軽騎兵」序曲とヴァイオリンの三浦文彰が加わってサン・サーンスのヴァイオリン協奏曲第3番、後半にスッペの喜歌劇「詩人と農夫」序曲とオッフェンバック(ロザンタール編)のバレエ音楽「パリの喜び」(抜粋)。

 私は基本的に重苦しい系のドイツ音楽が好きなのだが、今回の曲目に選ばれたスッペとサン・サーンスとオッフェンバックはかなり好きな作曲家だ。とりわけ、サン・サーンスとオッフェンバックは大好き! 下野さんが振るとなると、これはぜひとも聴きたいと思ったのだった。

「軽騎兵」序曲は久しぶりに聴いた。小学生のころにレコードで好んで聴いた曲だったが、1970年代か80年代、チェリビダッケだったか誰だったかの指揮でものすごい名演奏のこの曲の実演を聴いた覚えがある(チェリビダッケじゃなかったかなあ…)。これはなかなかの名曲ではないか!と、そのとき思い知った。その時ほどの感動は覚えなかったが、見事な演奏。下野の楽器のコントロールが実にうまい。N響もさすが。

 サン・サーンスの演奏は、私は少し不満に思った。もちろん悪くない。しっかりしたオケ、そして凛とした美音のヴァイオリン。ただ、この曲は、もう少し派手なヴァイオリンを求めているような気がした。三浦のヴァイオリンは抑制しすぎてはいないか。私は抑制したリリシズムというのは大好きなのだが、この曲は抑制しなくていい個所がたくさんあるのではないか。

 第2楽章は、本来、モーツァルトのピアノ協奏曲第21番の第2楽章などとともに音楽史上まれにみる天国的で繊細な美しいメロディだと思うのだが、すんなりと過ぎ去ってしまった。第3楽章も、もっと大きな身振りの音楽の方がふさわしいと思ったのだったが、おとなしめに終わった。誠実で美しい演奏だったが、私の好きなサン・サーンスではなかった。ちなみに、私の好きなサン・サーンスは、ドイツ的ながっしりした構成の中に豪華絢爛にして不思議な色気と人を食ったようなユーモアとシニカルな孤独癖を聴かせてくれる作曲家だ。それがあまり感じられなかった。

 後半の「詩人と農夫」は、素晴らしい演奏だった。「軽騎兵」もよかったが、それにもましてオーケストラがよく鳴り、びしりと線がそろい、しかも盛り上がりも素晴らしかった。

「パリの喜び」もとてもよい演奏だった。なじみのオッフェンバックのメロディが次々と出てくる。カンカン踊りの曲ももちろん楽しい。ただ、やはりバレエ音楽だなあ…と改めて思った。踊るための音楽なので、バレエ、いやそもそも舞踏そのものにあまり関心のない私としては、どうも音楽本来の持つメリハリではないような気がする。あえて言葉を選ばずにいうと、「たるんでいる」というか「ぼやけている」というか、そんな感じがする(ちなみに、私は「白鳥の湖」もそんな感じがしてなじめずにいる)。オッフェンバックのこの上なく楽しい音楽を聴いて躁状態の愉悦に浸りたいと思っていたのだったが、それほどではなかった。

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オペラ映像「アッティラ」「ポントの王ミトリダーテ」

 また風邪をひいてしまった。孫がしょっちゅう保育園から風邪をもらって帰って来て、それがどうやら私にうつるようだ。が、今回は軽い咳とちょっとした熱で終わりそう。明日には全快するだろうと思っている。オペラ映像を数本みたので感想を記す。

ヴェルディ 「アッティラ」 2016年 ボローニャ市立劇場

 ネットで見つけてBDを購入。とてもいい上演だった。

 やはり、アッティラを歌うイルデブランド・ダルカンジェロが圧倒的。私はこの人の実演をザルツブルクでも、ウィーン国立歌劇場やロイヤルオペラの来日公演でも何度か見ているが、そのたびにその凄味に驚いてきた。このアッティラはその中でも飛び切り凄まじい。豪胆にして人間的な味を出し、その声は他を圧倒する。演技も見事。

 オダベッラを歌うマリア・ホセ・シーリも真摯で清純な声がとてもいい。エツィオのシモーネ・ピアッツォーラも堂々たる歌。フォレストのファビオ・サルトーリは容姿が二枚目でないのが残念だが、伸びのある輝かしい声で不満はない。

 指揮はミケーレ・マリオッティ。全力での指揮ぶりで実にドラマティックで躍動感にあふれている。ずっと同じテンションなのでちょっと一本調子の感があるが、2時間かからない短いオペラなので、それはそれで緊迫感にあふれた魅力を作り出している。演出はダニエレ・アバド。クラウディオの息子さんだけあって、音楽を邪魔しない演出といえるだろう。古代ローマ帝国とフン族の争いを描くオペラだが、人々は現代の服装で登場する。中東地域の紛争を思わせる。リアリティがあってとてもいい。

 モーツァルト 「ポントの王ミトリダーテ」 202212月 ベルリン国立歌劇場

 モーツァルトが14歳で作曲したオペラ。CDで聴いたことはあったが、映像は初めてみた。今更ながら、これが14歳の少年の作とは!! この年齢で、おそらく当時の一流の作曲家たち(サリエリ、チマローザ、パイジェッロ、ミハエル・ハイドンなど)と肩を並べる技量をもっていただろうことがよくわかる。ただコンサート形式のアリアが並列的に並んでいるだけのような雰囲気で、オペラとしての盛り上がりに欠ける。台本のせいもあるかもしれない。

 演奏は素晴らしい。マルク・ミンコフスキの指揮するルーヴル宮音楽隊の活気あるオーケストラに乗って、すべての歌手が見事に歌う。中でもやはりミトリダーテ役のペネ・パティが素晴らしい。和らない声だが、英雄的な強い声もとてもいい。自在な歌いまわし。アスパージアのアナ・マリア・ラビン、シーファレのアンジェラ・ブラウアー、ファルナーチェのカウンターテナー、ポール・アントワーヌ・ベノス=ジアン、イズメーネのサラ・アリスティドゥ、いずれも最高の歌。

 演出は宮城聰、そのほか、舞台は木津潤平、美術は深沢襟、衣裳は高橋佳代、振付は太田垣悠というように日本人が舞台を支えている。それはそれでとても良い演出なのだが、正直言って、「ここまで日本的にやらなくてもいいのでは!」という思いを抱いてしまう。武将たちは日本の戦国時代の兜や鎧を思わせる。キモノを着た女性も登場。背景に富士山らしい山やら日本画を思わせるような竹の絵など。ミトリダーテというのは、小アジアの国ポントスのミトリダテス6世のことだというから、「アジア」という点を強調したいのかもしれないが、これほど日本的にしてしまうと、普遍性をなくすような気がする。日本的な手法を応用して、もう少し小アジア的にした方が説得力を持つの思うのだが。日本人の演出陣が日本を強調する演出をすると、私としては気恥ずかしくなる。

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金川・佐藤・久末の「偉大な芸術家の思い出に」に感動!

 2025年2月13日、紀尾井ホールで、金川真弓(ヴァイオリン)・佐藤晴真(チェロ)・久末航(ピアノ)によるトリオを聴いた。曲目は前半に、ジョーン・タワーの「Big Sky」とベートーヴェンのピアノ、ヴァイオリン、チェロのための三重協奏曲(ライネッケ編曲によるピアノ三重奏版)、後半に、チャイコフスキーのピアノ三重奏曲「偉大な芸術家の思い出に」。

 ソリストとしても活躍している三人のトリオ。しかも、この三人、ドイツで演奏し、その後、日本各地ですでに演奏しているとのこと。期待しないわけにはいかない。

 現代作曲家タワーの曲は、現代音楽に疎い私でも楽しめるものだった。まさに神秘。金川のシャープで美しい音、佐藤の包容力のある深い音、久末の知的に構築していく音が絡まって不思議な世界を作り上げていく。私はあまり「空」は連想しなかったが、淡い色の万華鏡のようなものを想像した。

 ベートーヴェン三重協奏曲のピアノ三重奏版は、オリジナルと楽器の割り当てが異なるので、しばしば戸惑った。元の曲をとてもよく知っているのなら、それはそれで楽しめるのだろうが、私は中途半端にしかこの曲を知らないので、乗り物酔いのような気分になった。もちろん、とてもよい演奏だったが、正統派好きの私は、「やっぱりオリジナルのほうがいいなあ」と思ったのだった。

 後半、佐藤さんがマイクを持って、三人ともソリストとして先ごろ亡くなった秋山和慶さんとともに演奏していたこと、そしてたまたま準備していたこの曲の演奏を秋山さんに捧げると話して、演奏を始めた。この曲は、チャイコフスキーが先輩であったニコライ・ルービンシュタインの追悼として作曲したものなので、秋山さんの追悼にふさわしい。

 これは素晴らしい演奏だった。シャープでスマート、しかし、最近ありがちなシャープすぎる演奏ではなく、包容力もあり深みもある。第2楽章の変奏曲はニュアンスの変化、元のメロディと変奏の重なりなど、実に見事。それぞれの楽器の特性、それだけでなくそれぞれの奏者の個性を見事に生かしている。金川さんの凛とした音色、佐藤さんの深い音色がしっかりと発揮され、それをピアノが支える。三人の息はぴったり合って、まるで常設の三重奏団のよう。変奏曲が徐々に盛り上がり、親しい人を失った慟哭になり、あきらめにも似た追悼になる。感動した。

 アンコールは、キーゼヴェッターの「タンゴ・パテティック」。「悲愴」やら「エフゲニ・オネーギン」やらのメロディが引用される楽しい曲。

 追悼と言えば、昨日の新聞でエディット・マティスが亡くなったことを知った。実演は聴いたことがなかったと思うが、レコード、CDはかなり聴いてきた。そして、今日は下條アトムさんが亡くなったことを知った。下條さんが、町田市民ホールで「ダモイ」(辺見淳のノンフィクション「収容所(ラーゲリ)から来た遺書」を原作とする演劇。これはのちに二宮和也主演で「ラーゲリより愛を込めて」というタイトルで映画化された)で主人公の山本幡男を演じた時、山本幡男の息子さんである山本顕一先生とご一緒して、終演後の打ち上げに参加させていただいた。楽しく飲むことができた。良い思い出だ。素晴らしい俳優だった。合掌!

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二度目の女義太夫 三味線の音に惹かれた

 2025211日、蕨市立文化ホールくるるで、花のように香れ「女流義太夫」を聴いた。

 誘ってくださる方がいて、一昨年あたりから少しずつだが、文楽などの日本の古典芸能に関心を持つようになった。女義太夫を聴くのはこれが二回目。右も左もわからない状態だが、とても楽しめる。

 初めに人間国宝の鶴澤津賀寿とツレの鶴澤朔弥でレクチャー。三味線による表現などについてとても興味深い話だったが、さてきちんと私に理解できたかどうか自信は持てない。

 その後、竹本越若の大夫、鶴澤津賀佳の三味線で「菅原伝授手習鑑」の「車曳の段」。有名な場面なので、私も十分に記憶している(文楽のDVDで見たり、本で読んだり)。初めのうちは三味線に負けるほどの細い声の語りだと思ったが、すぐに迫力ある語りになった。笑いの部分は言葉をなくすすごさ。男性の大夫のこのような笑いは聴いたことがあったが、女性でもこれほどの迫力が出せるのに驚いた。

 休憩後、お三輪を竹本綾一、橘姫を竹本京之助、求馬を竹本越里、三味線を鶴澤弥々、鶴澤津賀榮、鶴澤津賀寿で「妹背山婦女庭訓」の「道行恋苧環」。こちらの演目では三味線の力に聞き惚れた。とりわけ、語りのない三味線だけの部分の迫力が素晴らしいと思った。まったくの素人なので、どう表現すればいいのかさえもまったくわからないのだが、三味線のバシッと決まる低い音がとてもいい。平坦な時間の流れに喝を入れて生きた時間にしているのを感じる。

 ただ、子供のころから西洋音楽になじんできた人間としては、三人の大夫が楽譜もなしに声を合わせて、ユニゾンでもなく、時に不協和音になりながら進んでいく、というシステムに違和感を禁じ得ない。聴いているうちに慣れていくのだろうか。

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インバル&都響 死と恐怖の音楽!

 2025年2月10日、東京文化会館で東京都交響楽団の定期演奏会を聴いた。指揮はエリアフ・インバル、曲目は前半にラフマニノフの交響詩「死の島」、後半に、グリゴリー・シュカルパ(バス)とエストニア国立男声合唱団が加わって、ショスタコーヴィチの交響曲第13番「バービイ・ヤール」。死と恐怖をテーマにしたコンサートといっていいだろう。とてもいい演奏だった。

「死の島」の実演を初めて聴いた。暗くて悲劇的で恐怖に満ちていながら、いかにもラフマニノフらしくロマンティックで官能的。まさにタナトスとエロスが入り混じっている。インバルの指揮もさることながら、都響の響きが見事。しなやかに音が重なり合い、流動して、グレゴリオ聖歌の「怒りの日」のメロディが浮かんでくる。この暗く恐ろしい音楽はなかなか捨てがたい。

「バービイ・ヤール」は堂々たる名演だった。バスの独唱によりバービイ・ヤールで虐殺されたユダヤ人の心を叫び、ロシアへの愛、そしてロシアをゆがめる人々への怒りをたたきつける。ショスタコーヴィチらしい怒りと皮肉を交えた音楽。字幕がつくのがありがたい。第二楽章「ユーモア」はとてもおもしろかった。まさにショスタコーヴィチの面目躍如といったところ。毒のある皮肉を叫ぶ。ショカルパはまだ若い歌手だが、堂々たる歌。合唱も素晴らしい。都響は澄んだ音でショスタコーヴィチの屈折した心を爆発させて見事。これほどの怒りの表現を、少しも手加減しないままに知的にぶつけるインバルの手腕にも驚く。

 ユダヤ人虐殺への怒りがテーマだが、もちろん、聴く者としては、ウクライナを攻撃する現在のロシアへの怒りを重ね合わせてしまう。

 実はラフマニノフもショスタコーヴィチもそれほど好きな作曲家ではない。たまに聴きたくなるが、それほど親しんでいるわけではない。だから、演奏がどうこう言う資格は私にはない。ショスタコーヴィチに至っては、聴くたびにどう理解してよいのか途方に暮れる。だが、そうであったとしても、今日もまた大きな衝撃を受け、またショスタコーヴィチを聴きたいという気持ちになったのだった。

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ツァグロゼク&読響のブルックナー第5番に興奮!

 202527日、サントリーホールで読売日本交響楽団の定期演奏会を聴いた。指揮はローター・ツァグロゼク。曲目は、ブルックナーの交響曲第5番変ロ長調WAB105。素晴らしかった。興奮した。超名演といってもよいのではないか。

 第2楽章までは少しおとなしめに思えた。ひと昔前のブルックナー演奏のような重厚で深い音というよりは、シャープで明るめの音と言っていいだろう。純度の高い音というべきか。こけおどしなしに、すっきりと、しかし鳴らすべきところはしっかり鳴らす。それでいて、空疎ではなく、私のようなブルックナーのオールドファンも納得させる深みのある音! 長い休止のあと、前の部分と表情が変わるが、それが実にニュアンス豊かだと思った。構築性があって、きわめて知的でもある。

 第3楽章が圧倒的だった。明るめの音ながら、これぞブルックナーのスケルツォ! 大きく躍動し、予定調和を崩されたようなバタバタ感があって、とてもいい。コントラバスの激しい音に心を奪われた。第2楽章までの抑えめの演奏と打って変わって、激しい音が鳴り響く。

 そのまま終楽章に入って大団円を迎える。最終部に向けて、少しずつ少しずつ高揚していく。金管が咆哮するが、びしりと音が決まっている。見事! そして、ブルックナー特有の法悦を迎える。凄い! 私は感動に震えた。

 ツァグロゼクの実演を聴くのは、たぶん初めてだと思う。ワーグナーの「ニーベルングの指環」全曲のDVDを見て、その見事な指揮に感心したのは覚えているが、これほどすごい指揮者だとは知らなかった。そして、読響の音の精度にも改めて感嘆した。

 大喝采が起こった。私も興奮して喝采に加わった。

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オペラ映像「ボエーム」「カルメン」「売られた花嫁」「ルスランとリュドミラ」

 トランプ大統領が「ガザを米が所有、全住民を域外移住」という案を打ち出したという。トランプに投票した人、そして共和党支持者は、これを常軌を逸していると思わないのだろうか。

 そんな中、私は平和に自宅でオペラ映像をみた。簡単に感想を記す。

 プッチーニ「ボエーム」 Eテレで放送

 昨年(2024年)末、NHK Eテレで「マエストロ井上道義入魂の『ボエーム』」というタイトルで放送されたもの。プッチーニ嫌いの私は、録画したまましばらく放っておいた。時間の余裕ができたので、やっとみることにした。

 いわれている通り、確かに井上道義入魂の演奏だと思う。読売日本交響楽団も美しい音を出す。びしっと決まり、静謐にして躍動的。しみじみと歌いあげる。私からするとプッチーニのイヤなところはたくさんあるが、それでも十分に説得力がある。

 歌手陣も見事。まず、ロドルフォの工藤和真に驚嘆。知らない歌手だったが、世界の一流にまったく引けを取らない。しっかりとコントロールされた音程の良い美声。華やかさもあって、まさに堂々たる歌と演技。マルチェッロの池内響もしっかりした美声で自在に歌う。藤田嗣治風のヘアスタイルがおもしろい。まさにその時代のパリに集まった芸術家たちをほうふつとさせる。

 ミミのルザン・マンタシャンはちょっと堅い声だが、しっかりと歌っていて見事。ムゼッタのイローナ・レヴォルスカヤ、コッリーネのスタニスラフ・ヴォロビョフもとてもいい。ショナールの高橋洋介も負けていなかった。

 演出・振付・美術・衣裳は森山開次。黙役のダンサーが登場し、黒子のように火の様子を踊るなどする。ただ、ダンス全般に興味のない私としては、このようなダンサーが目に見えない霊のように思えて、不気味に感じる。プロコフィエフの「炎の天使」の霊気漂う部屋にこのようなダンサーが登場するのなら、わからぬでもないが、「ボエーム」に登場すると、オペラ本来の味がなくなってしまうような気がするのだが。

 引退を表明した井上道義の境地を示す名演奏を聴くためのオペラとしては、私はとても満足だった。

 

ビゼー 「カルメン」1978129日 ウィーン国立歌劇場

 言わずと知れたカルロス・クライバー指揮、フランコ・ゼッフィレッリ演出・装置・衣装の伝説の名演。かつてDVDで観たことがあった(あるいはVHSLDかもしれない)が、BDが再発売されたので購入した。

 録音のせいだと思うが、音が随分と硬い。昔のトスカニーニの録音を思わせるところがある。が、何はともあれ、クライバーの指揮ぶりがすさまじい。切れの良さ、瞬発的な躍動感、えも言われぬわくわく感、そして緊迫感、どれをとっても言葉をなくす凄さ。

 歌手陣もそろっている。やはり圧倒的なのは、ドン・ジョゼのプラシド・ドミンゴ。全盛期だろう。声の輝きが見事。カルメンのエレーナ・オブラスツォワは、カルメンにほしい退廃的な色気がないのが少々残念だが、十分に色香があり、魅力的。エスカミーリョのユーリ・マズロク、ミカエラのイソベル・ブキャナンもとてもいい。

 ゼフィレッリの演出は、現在では考えられないような豪華さ。映画的でリアル。一時代をなしたオペラ演出であることは間違いない。

 

スメタナ 「売られた花嫁」 198012月-19812

 テレビ収録らしい。これも、かなり前、VHSだったかLDだったかで観た記憶があるが、このたびDVDを購入。一昨年、アダム・フィッシャー指揮、ルチア・ポップ、ジークフリート・イェルザレムが歌う1982年のウィーン国立歌劇場の上演(ドイツ語)を久しぶりにみて、ほぼ同時期のチェコ語によるこの映像をまたみたくなったのだった。ウィーンの上演もよいが、これも捨てがたい。

 チェコ・フィルハーモニー管弦楽団を指揮するのはズデニェク・コシュラー。たぶんかなりオーソドックスなのだろう、ツボを心得た良い演奏だと思う。歌手陣も充実している。マジェンカのガブリエラ・ベニャチコヴァーはきれいな声で可憐な娘を演じている。イエニークのペテル・ドヴォルスキーも好青年をうまく歌っている。この二人は一時期、チェコのオペラではたびたび名演奏を聴かせてくれたものだ。今聴いても、とても説得力のある美しい声だ。ミーハのヤロスラフ・ホラーチェクも芸達者でおもしろい。

 オペラ自体がそうなのだろうが、ふんだんに民族色が取り入れられ、ダンスの部分も多い。それも楽しい。まさに東欧の田舎町ののどかな光景が広がっている雰囲気がある。「実は本当の子どもだった」という、最初から結末が読めるありがちな物語なのだが、それがまたほのぼのとしていていい。

 チェコの民族楽派の嚆矢となったオペラだが、確かに、それにふさわしい作品だと思う。なかなかおもしろい!

 

グリンカ 「ルスランとリュドミラ」1995年 マリインスキー劇場

 だいぶ前に購入していたが、そのままになっていた。「売られた花嫁」をみたついでに、ロシアの民族楽派のこのオペラをみたくなった。

 先日、2011年のボリショイ劇場の映像をみたが、今回観るマリインスキー劇場のロトフィ・マンスーリ演出はそれよりもずっとオーソドックスでほぼ台本通り。衣装も舞台もかなり豪華。指揮はワレリー・ゲルギエフ。若々しいゲルギエフが作り出す音楽はかなりダイナミックといえそうだが、いかんせん、やはりこのオペラは、バレエの部分があまりに長く、退屈してしまう。

 歌手陣は全体的にはかなりレベルが高い。ルスランのヴラジーミル・オグノヴィエンコ、ラトミールのラリーサ・ジャチコーワ、ゴリスラーヴァのガリーナ・ゴルチャコヴァはなかなかいい。ただ、リュドミラを歌っているのは世界の大スターになる前のアンナ・ネトレプコだが、これを聴いた時点では、近い将来、あれほどの大歌手になると思う人は少ないだろうと思う。容姿は抜群だが、声は堅いし、音程が怪しい。

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札響東京公演 伊福部の曲に圧倒された!

 2025年2月3日、サントリーホールで、札幌交響楽団東京公演2025を聴いた。指揮は広上淳一。

 冒頭、86年から98年まで札響のミュージックアドバイザーを務めた秋山和慶さんを追悼して、モーツァルトのディベルティメントK136の第2楽章が演奏された。前もってアナウンスがあったため、拍手なし。心の中で合掌!

 プログラムの曲目は、前半に武満徹の「乱」組曲とピアノの外山啓介が加わって、伊福部 昭「リトミカ・オスティナータ~ピアノとオーケストラのための」、後半にシベリウスの交響曲第2番。

 黒澤明監督の「乱」は、封切当時劇場でもみたし、テレビ放映でもみたが、音楽に特に印象はなかった。そうか、武満の作曲だったかと思い出した。が、あまり武満らしくない。藤野峻介氏の曲目解説に、武満が黒沢監督に「マーラー風のものを」と要求されて困惑した話が書かれていたが、これは苦心の作だったのだろう。ただ、確かに悲痛な雰囲気は伝わる。

 伊福部の曲は大変おもしろかった。タイトルを日本語に訳すと「執拗に反復する律動」。打楽器のようにたたきつけるピアノを中心に一定の音型が執拗に続き、強烈に盛り上がっていく。まるであらゆる生命体の舞踏が宇宙全体で繰り広げられているかのよう。こんな曲だとは思わなかったのであまり注視していなかったのだが、ピアノの外山啓介はもしかして暗譜だったのではないか? 単純な繰り返しが多いとはいえ、いやそうであるからこそ、これを暗譜で弾くのは至難の業だと思うのだが! オーケストラの機能性の高さも存分に示してくれた。見事! マエストロ広上の手腕に圧倒された。同時に、札響がこれほどのオーケストラに育っていることにも改めて驚いた。

 シベリウスの交響曲第2番も、オーケストラはよく鳴り、さすがマエストロ広上、音の広がり、重なりといい、実に見事。ただ、音が外に大きく広がっていく面では実に素晴らしいのだが、内にこもっていかないところに、私は広上の指揮を聴くといつも不満を感じる。ないものねだりとわかっているのだが、もっと心の内に秘めた思い、激しく煩悶する音がほしいと思う。音そのものの威力には圧倒されるものの、私はそこに自分の魂の奥底を重ね合わせられない。

 アンコールは「悲しきワルツ」。これも見事な演奏。ただ、私にしてみると、これもまたとても美しい音を作り出しているのだが、得も言われぬ小さな悲しみが伝わらない。

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2025年1月の出来事

 2025年も2月になった。1月に起こったことについて、いくつか感想を書く。

 

118日に藤井一興さんが亡くなった。私は、10日ほど前の18日に豊洲シビックセンターホールでコンサートを聴いたばかりだったので、とても驚いた。そのコンサートの様子はこのブログにも書いたが、実は、少し遠慮がちな書き方をしたのだった。やはり、藤井さんは異様なほど元気がなかった。藤井さんが登場したとき、観客の誰もがそのやつれように驚いたと思う。やせ細り、ゆっくり歩き、まさにやっと立っている状態。マイクを使ってお話をしたが、その声は見た目よりはお元気だったが、それでも、元気があるとはいえず、舞台から退場しながら、ドアのところで観客に背を向けたままおしゃべりするなど、その振舞も異様だった。

 ただ、ピアノを弾かれると、その音は驚異の響き! ご本人は最後のメッセージの思いで弾いておられたのだろう! 私はピアノ演奏をあまり聴かないので、藤井さんの演奏を目的にコンサートに出かけたことはないに等しい。曲目やほかの演奏者をめあてに行くと、藤井さんが弾いておられることが多かった。が、聴くたびに藤井さんの本当にフランス的なピアノの響きに感嘆した。素晴らしいピアニストだった。合掌!

126日に秋山和慶さんが亡くなった。その数日前に、転倒して大怪我をなさったために指揮者を引退するというニュースが流れて、大変残念に思っていた。その数日前には、広島交響楽団を指揮したベートーヴェンの6枚組CDを注文したばかりだった。

 秋山さんの指揮については、おそらく10回は聴いていない。聴くたびに、オーソドックスで細部まで神経の行き届いた気品ある演奏に感動したが、この10年間くらいは、どんな演奏をなさるかわかるような気がして、あえて足を運ばなかった。最後に秋山さんの指揮を聴いたのは、2022年、都響とブラームスの交響曲第1番の演奏だった。これも素晴らしい演奏だった。こんなことなら、もっと聴いておくべきだった!

・中居問題についてのフジテレビの10時間を超すという127日から28日にかけての記者会見の中継をちょこちょこと見た。ひとことで言って、あの会見に出席していたフジテレビ役員に私は大いに同情した。肝心の日枝会長に出席を促したが拒否されてしまった、記者に質問されても答えられないこと、言ってはならないことがあるが、言い方を間違うと大顰蹙を買ってしまう、同じような質問ばかりでウンザリして疲れもたまっているが、それを表に出すわけにもいかない・・・。そんな気持ちだっただろう。役員にも落ち度はもちろんある。会社の風土にも大きな問題がある。だが、私が役員と同じ立場だったとしても、その時その時でどうすればいいかわからず、とりあえずもっとも無難な方法を選んで、この役員たちと同じような態度をとるしかなかっただろうと思った。

 それにしても多くの質問者たちの不勉強、マナーの悪さ、居丈高ぶりにはあきれた。それに文春の訂正記事がきちんと示されなかったというではないか。訂正前の記事に基づいて役員を一方的に攻撃する記者も多かった。

 そして、おお遠藤龍之介! そういえば、芥川賞を取ったので息子には龍之介という名前を付けた、というのは有名な話だった。遠藤周作のエッセイの中で息子さんの話を読んだ記憶がある。これがあの息子さんか!

・トランプ大統領の次々と打ち出す政策が恐ろしい! 世界の危機が訪れなければいいが!

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