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拙著『70過ぎたら「サメテガル」』(小学館新書)発売

 2025年4月1日、拙著『70過ぎたら「サメテガル」』(小学館新書)が発売になる。

「サメテガル」(Ça m’est égal.)とはフランス語でよく用いられる表現で、「どちらでもいい」の意。カミュの『異邦人』にも繰り返し出てくるので、ご存じの方も多いだろう。

 こうでなくてはならない、と思い込んで暴走する高齢者がしばしば話題になる。それほどではなくても、こうでなくっちゃなどとこだわったり、懸命に頑張ったりして、むしろ自分を苦しめている高齢者は多い。

 本書は、そのような人に対して、「70過ぎたら、こうでなくちゃなどと思わず、どちらでもいい、と思って生きてきましょうよ」と呼びかけた本だ。同時に、これは、暴走して老害化する高齢者の心の内を明らかにして、なぜそのような行動に走るのかを、高齢者の一人として解説した本でもある。

 そしてまた、サメテガルの考え方こそが、実は、効率主義、生産至上主義を乗り越えて、多様性を尊重し、最終的には「善悪もない」「生と死も同じこと」というある種の悟りのような考え方に達するまじないの言葉であろうことにも触れている。

 サメテガル(「どっちでもいい」)と口にすれば、すべてのことが楽になる。考えてみると、世の中のほとんどのことはどっちでもいい。この言葉が高齢者の生き方を楽にする。

 今年に2月刊行の「頭のいい人が人前でやらないこと」(青春文庫)ともども、お読みいただけると、うれしい。

 

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ヴァンスカ&東響 プロコフィエフの5番で躁状態になった

 2025年3月29日、サントリーホールで東京交響楽団定期演奏会を聴いた。指揮は

 オスモ・ヴァンスカ。曲目は、前半にニールセンの序曲「ヘリオス」とイノン・バルナタンのピアノ独奏でベートーヴェンのピアノ協奏曲第3番、後半にプロコフィエフの交響曲第5番。

 ヴァンスカは思い入れの少ない、かなり即物的な音楽を作り出す指揮者だと思う。骨太で構築性がしっかりしており、全体が強い低弦によって支えられている。そうして作り出される音楽は、かなりの爆音でありながらも、透明で高貴で明晰。そうすると、音そのものは即物的にもかかわらず、男性的な叙情が入り込み、過度にならない歌心が入り込む・・・私はそんな印象を持っている。今回もそのようなヴァンスカの音楽が聞こえてきた。東響も見事。濁りのない強烈な音を聞かせてくれた。

 ニールセンの「ヘリオス」については、私はほとんど知らない曲なので、何とも言えないが、なかなかおもしろい曲だと思った。ヴァンスカらしい抒情が聞こえてきた。

 ベートーヴェンの協奏曲は、ソリストのバルナタンの持ち味なのかもしれない。高貴で精妙。ハ短調を強調するような悲劇性はあまりなく、むしろ第2楽章の叙情を強調するような演奏。ヴァンスカのほうが大きな音でバリバリ演奏する傾向はあるが、根っこのところでこの二人の音楽性はよく似ていると思った。ちょっとこじんまりしているが、とてもよい演奏だった。

 ピアノのアンコールはベートーヴェンのピアノソナタ第6番第3楽章とのこと。チャーミング、というべき演奏。ベートーヴェンらしい強い表現とユーモラスな面を強調しているようだ。

 後半のプロコフィエフは素晴らしかった。まさにプロコフィエフの音楽性が爆発。自由自在に縦横無尽に天衣無縫に多彩な音が転がり、重なり、広がり、発展し、爆発していく。第2楽章はほんとうにうきうきわくわく。第3楽章はもっと悲劇的な方が効果的だと思ったのだが、意外とそっけなかった。第4楽章は、まさにプロコフィエフの御しがたいまでのとてつもない才能が飛躍する。ワクワクを通り越して、私は躁状態になった。

 とても満足。

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東京春音楽祭「パルジファル」 世界最高レベルの演奏に興奮!

 2025327日、東京文化会館で東京春音楽祭、ワーグナーシリーズ、「パルジファル」(演奏会形式)を聴いた。指揮はマレク・ヤノフスキ。管弦楽はNHK交響楽団

 これは、間違いなく世界最高レベルの演奏だと思った。

 まず、ヤノフスキの指揮に圧倒された。かなり快速。もしかしたら、リハーサルよりももっと速かったのかもしれない。終了予定時間が20時になっていたのに、1945分には終わった。しかし、だからと言って味が薄いわけではなく、じっくりと音楽が成り立っていく。きびきびしてドラマティック。すべてがぴたりと決まって、曖昧なところがない。一つ一つの音がしっかりと鳴り、それが重なり合い、ワーグナー特有のうねりを作り出す。厳粛さもあり官能美もある。私はワーグナーの音楽のうねりに身を任せるばかりだった。N響もとりわけ弦楽器と木管楽器の美しさにほれぼれした。しっかりとワーグナーの音を出して見事。

 歌手陣は申し分ない。まさに世界最高の布陣! グルネマンツのタレク・ナズミは圧倒的な声。この役にふさわしい柔らかく包容力のある声。アムフォルタスのクリスティアン・ゲルハーヘルは、いかにもこの名歌手らしく知的な歌唱。まるでリートを歌うようにアムフォルタスの心の傷を歌う。それがひしひしと聴く者に伝わる。クンドリのターニャ・アリアーネ・バウムガルトナーも圧倒的な声でこの謎の女を歌って説得力がある。パルジファルのステュアート・スケルトンも高貴な声で、これまたけた違いの声の威力を聴かせてくれる。そしてもうひとり、クリングゾルのシム・インスン(アジア系の歌手)もとてつもない声で悪役を歌う。

 この外国人勢5人の声の威力たるや凄まじい。分厚いオーケストラをものともせず、ホール中にビンビンと響く。

 脇を占める日本人歌手も大健闘。すべての歌手が最高度に歌ったと思う。東京オペラシンガーズの合唱もとても威力があった。ただ、そうはいっても、やはり世界最高レベルの歌手たちとの距離は大きいなあ・・・と改めて思った。

 私は少し風邪気味で、少々体調を心配しながら聴いたのだったが、第2幕と第3幕で何度も体全体に悪寒が走り、ぞくぞくしてきた。「これはまずい。風邪が悪化しているようだ」と思ったのだったが、どうやら感動の悪寒だったらしい。体が音楽に反応して震えていた。しばらくしてからは、ワーグナーが私の体の中の病原菌を追い出してくれているような気がした。

 これほど素晴らしいワーグナー演奏を聴く機会はほとんどない。堪能した。興奮した。感動した。

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金川&ゴールドシャイダー&グァレーラのホルン三重奏曲に興奮!

 2025325日、東京文化会館 小ホールで、金川真弓(ヴァイオリン)、ベン・ゴールドシャイダー(ホルン)、ジュゼッペ・グァレーラ(ピアノ)のコンサートを聴いた。曲目は、前半に、ヴィトマンの「エア」、ベートーヴェンのピアノ・ソナタ第26番「告別」、リゲティのホルン三重奏曲「ブラームスへのオマージュ」、後半にクルターグの「サイン、ゲームとメッセージ」より J.S.B.へのオマージュ、バッハの無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ 第3番よりルール、ブラームスのホルン三重奏曲。

「エア」は無伴奏のホルン曲。ピアノの屋根を挙げた状態で、ピアノに接近して演奏。一人の演奏のはずなのに、まさにやまびこのようにエコーになって音が重なる。そのほか、様々な奏法によって、様々な音が聞こえる。初心者の失敗のような音がしばしば鳴るが、きっとそれも楽譜通りなのだろう。時に和音のように音が重なる。最後は、モンゴルのホーミーのような音。ゴールドシャイダー(もしかして、20代? スーツをきちんと着こなした若者!)が声を出しながら吹いている? おもしろい曲だった。それにしても恐るべきゴールドシャイダーのテクニック!

「告別」は、まるで現代曲のような演奏。一つ一つの音の響きを大事にし、切れがよく、勢いがある。そして、これまたもの凄いテクニック。ただ、私としてはもう少しロマンティックとは言わないが、歌心のようなものがあってもいいのでは?とは思ったが、これがこの人の持ち味なのだろう。

 リゲティのホルン三重奏曲もとても魅力的だった。特に第2楽章のリズミカルな躍動感に私は惹かれた。第4楽章も深みのある音楽。演奏も見事。

 後半の二つの無伴奏ヴァイオリン曲は続けて演奏された。ピアノのグァレーラと同じようにかなり現代音楽的な音だが、もっと歌心がある。正確な音程、鋭さのある美音で歌心をもって演奏していると感じた。

 ブラームスのホルン三重奏曲は圧巻だった。ピアノが現代音楽的だったので、近年、欧米の演奏家たちに多い、切れの良すぎるブラームスになりはしないと心配だったが、金川さんのヴァイオリンの力なのか、そうはならずにしっかりと歌心をもって、ブラームス特有の叙情を保った。しかし、全体的にとてもキレがよく、若々しく勢いがある。第2楽章と終楽章の勢いは特に素晴らしかった。ブラームス特有の抑制したリリシズムもあるが、そうした中から若い熱情がほとばしる。三つの楽器がぴたりと合って、緻密な世界を作り上げていく。ここでも音程のよいヴァイオリンとホルンが手を取り合って音楽を進めていく。興奮した。

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ピノック&紀尾井室内管弦楽団 アグレッシブで推進力のある演奏!

 2025323日、東京文化会館小ホールで、東京春音楽祭、トレヴァー・ピノックの指揮、チェンバロによる紀尾井ホール室内管弦楽団の演奏を聴いた。曲目は、バッハのブランデンブルク協奏曲第3番と、同じくバッハ作曲、ユゼフ・コフレル編曲によるゴルトベルク変奏曲(室内管弦楽版/ステュアート・ガーデン校訂)を聴いた。このヴァージョンは全曲版日本初演とのこと。

 素晴らしい演奏だった。ブランデンブルク協奏曲第3番については、勢いのある、かなりアグレッシブな演奏。ピノックの個性なのだろう、78歳だというが、少しも丸くなっていない。第3楽章は特に圧巻。音と音が響きあい、闘いあい、くんずほぐれつ、しかも流動し、高揚していく。そして、崇高なものが浮かび上がってくる。紀尾井ホール室内管弦楽団はほとんどが女性メンバーだったが、まったく力感に欠けることなく演奏。私は大いに感動した!

 ゴルドベルク変奏曲については、まずは編曲の巧みさに驚嘆した。あまりに色彩的で、バッハらしからぬところも多々あったが、様々な楽器を用いてオーケストラによる繊細でしなやかなゴルドベルク変奏曲が聞こえてくるのには驚くしかない。とりわけ、私のような、鍵盤楽器を苦手とする人間には、このような編曲はとても楽しめる。

 ピノックの指揮する紀尾井ホール室内管弦楽団の演奏は、しなやかさは失わないものの、やはり勢いがあり、硬質でアグレッシブ。「攻撃的」と訳すほどではないが、少なくとも、おっとりとして優雅な演奏ではない。推進力があり、きびきびしている。弦の美しさもさることながら、木管楽器の美しさ、その躍動感にも感銘を受けた。メンバーがそれぞれ自分の役割を完璧に理解して、そこにふさわしい音を出し、全体を作り出しているのがとてもよくわかる。ピノックの指揮は、かなり推進力があるものの、かなりメンバーの自主性を重んじているようだ。

 紀尾井ホール室内管弦楽団はとても小回りの利くオーケストラだと思った。繊細で、しかも指揮者の指示に即座に答える。ピノックの手の動きが音にしっかりと現れるのが感じられる。しかも、その動きが、先ほど述べた通り、まったく機械的ではなく、自主的に音楽を作っているのが感じられる。音の一つ一つが生きている。小さなオーケストラだからこその長所だろう。

 近いうち、ピノック指揮の紀尾井ホール室内管弦楽団によって、バッハの管弦楽曲(もちろん、協奏曲を含めて)を全曲演奏してほしいものだ。

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映画「ヒロシマ、そしてフクシマ」 原子力について討論する契機に

 ドキュメンタリー映画「ヒロシマ、そしてフクシマ」をみた。恩師である山本顕一先生(先ごろ公開された映画「ラーゲリより愛を込めて」で二宮和也が演じた実在の人物・山本幡男のご長男でもある)がプロデュースした作品。

 監督はマーク・プティジャン。広島の原爆投下の治療にあたり、その後、被爆者の治療や反核運動にかかわってきた、映画の公開当時96歳であった肥田舜太郎医師の活動を描いている。フランス人監督がフランスで肥田医師の活動を知り、感銘を受けて映画作りを思い立ったということらしい。

 肥田医師は、原爆投下直後に、被爆の身体に与える大きな影響に気づき、それを隠そうとするアメリカ軍に抗議し、すべての原子力に反対して活動している。そして、福島の事故についても、日本の企業の無責任や政府の事実隠ぺいの責任を追及している。粘り強く、確信にあふれ、しかもヒステリックにならずに地道に活動している。その真摯な姿が描かれる。とても意義のある良い映画だと思う。原子力の怖さがとてもよくわかる。

 ただ、この映画について疑問に思うことがいくつかあった。まず、フランス人である監督がなぜ日本のこのような活動に関心を持ったのか、いやそもそも、この映画は日本人に見せようとしているものなのか、フランス人に見せたいのか。つまりは、この映画の製作動機は何なのかということが、この映画をみてもよくわからなかった。原子力反対という自分の立場を鮮明に打ち出して作る映画である以上、自分の基盤を明確に示す方が説得力が増すと思うのだが、どうだろう。

 もう一つは、反対意見をあまり考慮していないことが気になった。原子力発電を廃止するとなると、日本の電力供給はどうなるのだろう。きっと日本の電力を維持できなくなるだろう。原子力を否定するのであれば、電力使用を控えるべきなのか。電力使用を控えると国力低下は必然であり、原子力発電所を放棄しなかった国々に後れを取ることになるだろう。だが、それを受け入れるべきなのか、それともほかの方法があるのか。

 同じことが、安全保障面でもいえる。原子力発電を止めるということは、原子力開発を諦めるということであり、核兵器を完全に放棄するということだ。もちろんそれが理想だが、人権否定の国は悪いものを率先して開発する。ロシア、中国、北朝鮮が核開発をして日本を脅すようになってもよいのか。それをどうとらえ、どう解決するのか。

 おそらく肥田医師は、そのような反対意見を何度も耳にし、そのような人たちと論戦を交わしてきただろう。肥田医師はどのように語っていたのだろう。どのような信念を持っておられたのだろう。それをもっと知りたいと思った。

 監督がフランス人であれば、日本人とは異なって、そのようなリアルな視点でとらえることが可能だろう。フランス本国の考え方と比較することもできるだろう。

 この映画によって原子力の怖さを改めて知ることができたが、私が解決できずにいることについてのヒントを与えてくれるものではなかった。ただ、この映画をみたうえで、その後に討論会が催され、原子力について考えを深める場になるとすれば、これは素晴らしい映画ということができるだろう。

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イタリア映画「絆」「いつまでも君を愛す」「困難な時代」「八月の日曜日」「嫉妬」

 しばらく映画をみなかった。先日、久しぶりに「ゆきてかへらぬ」をみて、自分が映画好きだったことを思い出した。このところ、立て続けに映画館に足を運び、家でもDVDなどで映画をみている。購入して長い間放置していた安売りのイタリア映画のDVDセットを何本か見たので、簡単に感想を記す。

 

「絆」1949年 ラファエロ・マタラッツォ監督

 自動車修理工場を経営して幸せに暮らす一家。そこに、自動車泥棒が車を修理に出すが、その男は妻(イヴォンヌ・サンソン)のかつての恋人だった。男は、未練のある妻を脅して自分のものにしようとするが、それに気づいた夫(アメデオ・ナザーリ)が男を殺してしまう。妻は弁護士に言われて裁判ではあえて男の愛人だったとうその証言をして夫も無実にする。弁護士がのちに事実を語って、妻は元の家に戻る。

 ちょっとできすぎた話で、しかも、リアルに考えれば、妻がこのような事態になるのを避ける方法はいくらでもあると思うのだが、ともあれハラハラしながら見ることができ、最後はほっとする。妻役のサンソンは、自動修理屋の奥さんとしてはあまりに派手な美人なのがリアリティに欠ける気がするのだが、当時のイタリアの観客はそうは思わなかったのだろうか。

 

「いつまでも君を愛す」 1933年 マリオ・カメリーニ監督

 1942年に同じ監督がリメイクしたとのことなので、これは旧版ということになる。子どものころから過酷な人生をたどってきたアドリアーナ(エルサ・デ・ジョルジ)は恋人の子どもを産んだとたんに代理人を通して別れを告げられ、その後、シングルマザーとして生きることになる。働いている美容室でかつての恋人に再会して身勝手な復縁を迫られるが、それ以前から思いを寄せていた誠実な会計士に助けられ、愛し合うようになる。

 よくあるタイプのストーリーだが、1930年代のローマ(?)の状況が描かれ、美容室の様子、会計士の家庭などがリアルに描かれていてとてもおもしろい。70分に満たない短い映画だが、心情はしっかり描かれている。なかなかに良い映画だった。

 

「困難な時代」1948年 ルイジ・ザンパ監督

 とても良い映画だと思った。舞台はシチリア。ファシズムが台頭し、市役所に勤める初老のピシテッロ(ウンベルト・スパダーロ)は反ファシストの仲間たちと親しくしているが、ファシスト党に入党しなければ解雇されると脅されて従い、いやいやながら党員として活動する。国全体がムッソリーニ熱に浮かされるなか、長男(マッシモ・ジロッティ)とともに時代に抗しようとするが、長男はドイツ軍に殺害されてしまう。時代が変わって、ムッソリーニが失脚、アメリカ軍が上陸して、今度は国全体が反ファシストになる。国民の多くは、以前から反ファシストだったふりをする。ピシテッロは時代の空気についていけない。「私たちは卑怯者だ。投獄を恐れずに自分の意見を言っておれば、こんなことにならなかった」というようなことをピシテッロは語る。

 家庭内でも、家族がムッソリーニを崇拝するようになり、社会が分断され、理不尽が幅を利かせるようになる。そんな中、若者は恋をし、生活は続いていく。そのような状況がリアルに描かれる。家族や周辺の人々をわかりやすく描く。

 戦前、戦中、戦後に日本でも同じようなことが起こっただろう。ピシテッロの思いは、多くの良識ある人の終戦直後の思いだっただろう。

 ただ、マッシロ・ジロッティがあまりに輝かしく描かれ、兵役を終えて命からがら戻ったときも一人超然としている。大スターだったゆえの演出だろうか。少し奇異に思えた。また、反ファシストは教養あるタイプの人たちで、集まって余興にオペラ(「ノルマ」など)を歌うのに対して、ファシストはオペラを理解せず、歌劇場で「ノルマ」をみて、反ローマ的なセリフを知ってあわててカットを指示する様子が語られる。これは事実に基づくのだろうか。そして、ファシストは無教養という認識は正しいのだろうか。

 

「八月の日曜日」 1950年 ルチアーノ・エンメル監督

 戦争が終わってから、7年ほどたった8月の日曜日、ローマの人々は列車や車や自転車でこぞって大海水浴場オスティアにでかける。東京の人が湘南の海に出かけたように。その大勢の人々の朝から夕方までの1日の人間模様を描く。ローマの人々なので、にぎやかこの上ない。わいわいがやがやの中で若い恋や中年の恋が芽生えたり、不和が起こったり、恋が進展したり、犯罪が起こったり、大家族がともあれ楽しんだり。この映画の主人公は、まさにローマの人々! 庶民の哀歓が伝わる。手際よく人物を描く手腕にも驚く。これもネオリアリズムの一つの形だろう。

 オスティアは、私の大好きだった映画監督パゾリーニが殺害され、遺体を捨てられていた場所なので、1978年、ローマを訪れた折、タクシーでその場所まで行った記憶がある。知らない俳優ばかりだと思ってみていたら、真面目な警官役にマルチェロ・マストロヤンニが出てきた! このころから独特の雰囲気を持っている!

 

「嫉妬」 1953年 ピエトロ・ジェルミ監督

 無駄のない台本と隅々まで計算しつくされた映像。全体がびしりと決まって、きわめて論理的に物語が展開する。これぞ名匠ピエトロ・ジェルミの醍醐味。ある意味で定石通りの展開なのだが、緊迫感にあふれ、俳優たちの演技が見事なので、ぐいぐいと引き込まれる。

 イタリアの村を支配する侯爵(エルノ・クリサ)。親戚の圧力で、貧しい出の娘アグリッピナ(マリーザ・ベリ)と別れて、別の女性を結婚せざるを得なくなるが、忠実な男ロッコとアグリッピナを偽装結婚させて、関係を続けようとする。だが、ロッコが裏切りそうなのに気づいて、嫉妬のあまり殺してしまう。ロッコ殺しの罪でほかの人間が無実で捕らえられたために苦しんで神父に告解はするが、警察には伝えない。結局、無実の人間は殺され、侯爵はいよいよ苦しんで、死を迎える。最後までアグリッピナへの愛を貫く。

 狂ったように愛し合う身分違いの男女、嫉妬のあまり男を殺して良心の呵責に苦しむが、真実を語る勇気を持たない男。そのようなドラマティックな状況を見事に描いていく。まさにリアリズム。

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映画「校庭」 ローラ・ワンデル監督 徹底的な視野の狭さによる凄味!

 2021年のベルギーの映画。子どもを扱った72分の映画だが、なかなか重くて凄い映画!

 7歳の少女ノラ。3歳年上の兄アベルとともに、どうやら転校してきたようだ。仲のよい兄と妹なのだが、不安なノラがアベルに頼ろうとして接近したことが原因で、アベルはいじめにあうようになる。ノラは父親にそのことを話して解決しようとするが、いっそういじめは悪化。父親も頼りにならない。理解を示してくれた先生は退職してしまう。兄の心はどんどんと離れていく。その後、父親が介入して、ともあれアベルへのいじめは沈静化するが、その後、ノラにまでもいじめは広がり、しかも、アベルは今度はいじめの加害者になって、もっと弱い子をいじめだす。

 ある意味で、学校ではかなりありふれた出来事だろう。この映画がすごいのは、このような子どもの世界を、子どもの目からリアルに描いている点だ。子どもの背丈にカメラが設定される。しかも、まさに子どもの視線はこうなのだろう、映像は視野が狭く、遠くは映されず、中心以外はぼやけている。子どもがみているであろう世界が描かれていく。場所の全体像も大人の全体像も映されない。子どもの目から、おとなへの絶望、身動きの取れない状況が描かれていく。

 明らかにハンガリーのラースロ―監督の映画「サウルの息子」(私は驚異的な名作だと思っている!)の影響を受けているだろう。「サウルの息子」は、アウシュヴィッツで、ユダヤ人でありながナチスの手先としてユダヤ人虐殺の当事者として活動する男サウルの狂気じみた世界を描いた映画だった。そこでも、サウルから見た視野の極端に狭い世界がスクリーン上に映し出されて、サウルの意識を描いていた。

「校庭」でも、極端に視野の狭い子どもの世界が同じような手法で描かれる。大人はみんながそれなりの善意を持っているが、それでも信用できない。子どもたちは屈託なく、しかも残酷。自分が何かをするといっそう事態は悪くなる。みんなが辛いのはわかっているが、どうにもならない。それが俯瞰的な視野を持てずに、目の前のことしか理解できない映像によって描かれていく。

 この映画では、いじめへの解決の道は示されない。この映画の原題はun monde。フランス語(≒ベルギー語)で「一つの世界」。まさに、子どもたちにとっての「世界」そのもの、しかもありふれたひとつの世界を描いている。

 それにしても、子どもたちの演技が素晴らしい。とりわけ、ノラを演じるマヤ・バンダービークの表情や動きに驚く。多感で兄思いだが、時に依怙地になり、時に怒りを爆発させる等身大の子どもを目の前に見せてくれる。観客はノラに感情移入していく。このあたりが、主人公への感情移入も許さなかった「サウルの息子」と違うところだが、描かれるのが学校なので、「校庭」では、感情移入が不可欠だっただろう。

 ところで、このところ、私のみる映画は中年以上の客がほとんど、60代、70代が中心の場合もある・・・という状態だったが、この映画は、客はまばらながら、ほとんどが20代、30代に見えた。60歳以上に見える人はひとりもいない! あれ、もしかして私は間違えて別のホールに入り込んでしまったかな、と不安に思ったほどだった。若者がこの映画をみて感銘を受けてくれると嬉しい。

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東京春音楽祭シュトラウスの室内楽 ピアノ四重奏曲 若々しく甘美で華麗な世界

 2025315日、旧東京音楽学校奏楽堂で、東京・春・音楽祭「R.シュトラウスの室内楽」を聴いた。出演は、水谷晃(ヴァイオリン)、店村眞積(ヴィオラ)、加藤陽子(チェロ)、加藤洋之(ピアノ)。曲目は前半に、シュトラウスのチェロ・ソナタ へ長調とヴァイオリン・ソナタ 変ホ長調、後半にピアノ四重奏曲ハ短調。いずれもシュトラウスの初期の作品。

 シュトラウスは、オペラや交響詩だけでなく、室内楽作品にも良いものがたくさんある。私は中学生のころからのシュトラウス好きなので、今回、東京春音楽祭で初期の室内楽作品が取り上げられるので、期待して出かけた。

 加藤陽子のチェロはのびのびしてとてもよかった。若さを強調しての演奏だろう。ただ、ずっと同じようにのびのび弾いているので、私はちょっと変化が欲しくなった。それに、ちょっと音の線が弱く、ピアノに押され気味で大きく広がらなかった。せっかくのびのび弾いているのだから、もっと大きな音で強く押し出してもよかろうと思った。そのほうが気負いを含めて若さが爆発するこの曲の良さが出ると思う。

 水谷のヴァイオリンについては、音が美しく、技巧的に見事で、華やかさは申し分ない。だが、確信を持たないまま弾いているのをときどき感じた。しかも、音楽がなだらかに連続せずにブツ切れになっているように聞こえた。もっと流動的であってほしかった。ピアノの加藤洋之もそのような傾向をカバーできずにいるように感じた。なんだか、おそるおそる弾いているというか、十分に消化しないままに弾いているというか。

 後半の四重奏は素晴らしかった。もしかしたら、この曲に照準を合わせてリハーサルをしていたのかもしれない。4人の息がぴたりと合って、若々しくも甘美で華麗で流麗な音楽を作り出した。前半に感じられたような自信なげなところはなく、確信に満ちた演奏だと思った。一つ一つの音が表情を持ち、勢いを持っている。若々しく気負いに満ち、しかも「ばらの騎士」などで見せるような官能性も聞こえてくる、まさにシュトラウスの若い才能が爆発した。前半の2曲に比べて演奏される機会が少ないが、なかなかの佳作だと改めて思った。

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映画「ジュテーム、ジュテーム」 不定形で不確定な世界

 アラン・レネの監督作品はかなりみた。50年ほど前、周囲にはゴダール、トリュフォー好きが多かったが、私はこれらの監督よりもレネのほうが好きだった。特に、「二十四時間の情事」は圧倒的名作だと思っていた。「去年、マリエンバードで」も、少々退屈で意味不明ではあったが、おもしろいと思っていた。

 そして、今回、レネの死から10年以上たって、1968年に作られた「ジュテーム、ジュテーム」が日本で初めて封切になった。レネを愛した人間としては観に行くしかない。

 自殺に失敗して回復したクロード(クロード・リッシュ)が、タイムトラベルの研究所の実験の被験者に選ばれ、1年前に1分間だけ戻ることのできる不思議なタイムマシンの中に入る。ところが、機械は故障したらしく、クロードは過去の中に閉じ込められ、断片的な過去を繰り返し生きることになる。そうするうち、観客にも、クロードが恋人カトリーヌ(オルガ・ジョルジュ・ピコ)を愛していたが、事故か自殺か、あるいはクロードが殺したのか曖昧ながら、カトリーヌが死に、その不在のために生きる気力をなくしたクロードが自殺を図ったらしいことがわかってくる。クロードは、自殺を図った状態で現在に戻るが、すでに手遅れになってしまう。

「去年、マリエンバードで」をみた時とそっくり同じような印象を抱いた。主人公とともに観客までも時間の迷路のなかに閉じ込められた感覚に襲われる。カフカの「城」の世界に入り込んで出られなくなった雰囲気と言ってもいい。同じ場面が繰り返され、それが少しずつ変容し、いったい何が起こっているのかわからない、映画が何を言おうとしているのかもわからない。事実が事実でなくなり、すべてが不定形で不確定になる。確実なものはなくなり、すべてが意味不明になっていく。

 アラン・レネはまさにそれを狙っているのだと思う。彼は言葉にすることのできない、繰り返しと意味不明と不確定な世界を感じている。それを観客に追体験させようとする。事実が解体され、世界が解体される。

 おもしろい映画ではない。感動する映画ではない。退屈で意味不明。しかし、私もレネと同じようにしみじみと思う。世界って、実はこうなんだよなあ。こんなふうに不確定でねじれていて、歪んでいて意味不明なんだよなあ・・・と。

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読響&ヴァイグレ「ヴォツェック」(演奏会形式) バランスの取れた素晴らしい演奏!

 2025年3月12日、サントリーホールで読売日本交響楽団定期演奏会を聴いた。曲目はベルクの歌劇「ヴォツェック」(演奏会形式)。オーケストラも歌手陣も合唱も素晴らしかった。名演奏だと思った。

 まず、セバスティアン・ヴァイグレの指揮がとてもいい。この指揮者らしい、柔らかみのあるしなやかな音。もう少し鋭角的というか、表現主義的というか、狂気を前面に出した強烈な演奏のほうがこのオペラにふさわしいと私は思うのだが、ヴァイグレはそうはしない。むしろ、豊穣にロマンティックに演奏。だが、もちろんヴォツェックの孤独な心、救いのない狂気の世界を抒情を交えてドラマティックに描く。とてもバランスがいい。こういう「ヴォツェック」もあっていいだろう。

 読響も指揮にこたえて、しなやかな中にも色彩的で豊かでドラマティックな音を出す。

 歌手陣は世界最高レベルといって間違いないだろう。やはり、ヴォツェックのサイモン・キーンリーサイドは圧倒的。少しだけ演技を加えているが、もともと演技力のあるこの人の動作を見ていると、今回、舞台がないのを残念に感じる。声の伸び、おどおどした人物像がとてもいい。知的でありすぎたり、立派でありすぎたりするとヴォツェックでなくなってしまうが、しっかりとおどおどして、孤独で絶望的なヴォツェックを歌っている! マリーのアリソン・オークスも素晴らしかった。ただ、これについては素晴らしすぎて、うらぶれたマリーの枠をはみ出していた、まるでジークリンデ! だが、張りのある最高に美しい声。聴き惚れた。

 医者はファルク・シュトルックマン。私は実演や映像で、この人のオランダ人やザックスやアンフォルタスを見た記憶がある。かつての輝きは失われているが、さすがの声と存在感。大尉のイェルク・シュナイダーもシュトルックマンに匹敵する声の威力。鼓手長のベンヤミン・ブルンスは知的で真面目そうな顔つきで、この役には合わない感じがしたが、歌い出すと見事に横柄で傲慢な人物を作り出した。アンドレスの伊藤達人もほかの外国人勢に少しも引けを取らずに主要な役を歌った。マルグレートの杉山由紀、第一の徒弟職人の加藤宏隆、第二の徒弟職人の萩原潤、白痴の大槻孝志、(テノール)、新国立劇場合唱団、TOKYO FM 少年合唱団もみごと。

 全体的にバランスの良い、素晴らしい演奏。もう少し突き抜けたものがほしいというのは、ないものねだりだろう。十分に素晴らしい。

 3幕連続で、休憩なしの演奏だったが、居眠りしている客が目立ち、幕の間、あるいは演奏中の退席者も何人かいた。体調を崩してやむを得ず退席した方もいただろうが、ふだんよりも多い気がした。それに、私の前にいた客は、ストーリーがつかめないらしく、途中でさかんにプログラムのあらすじのページを読んでいた。確かにこのオペラに初めて接した人は、字幕でセリフだけ読んでも、いったい何が起こっているのか、どういう場面なのかも理解できないだろう。もう少し、ストーリーを説明するようなガイドがあるほうが親切だっただろうと思った。

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映画「ドクトル・ジバゴ」「ミツバチのささやき」「エル・スール」「暗殺の森」

 NHKBSで放送され、録画していた映画をまとめて観た。いずれも、封切当時に観た記憶があるが、その後、55~40年ぶりに再び観たもの。簡単な感想を記す。

 

「ドクトル・ジバゴ」 1965年 デヴィッド・リーン監督

 封切時、私は中学生だった(あるいは高校1年生?)と思う。当時、それなりに感動してみた記憶はあるが、ロシア革命についてもよく理解していないままみたせいもあるかもしれない。今回、60年ぶりくらいにみて、内容をほとんど忘れていたことに気づいた。記憶に残っていたのは、ララ(ジュリー・クリスティ)の美しさくらい。

 改めてみて、よくできた映画だと思った。ロシア革命に翻弄される人間の物語。「社会ではなく個人こそが大事」というメッセージを強く訴える。ロシア革命の状況も手際よく描いている。スケールの大きな大歴史ドラマとして映像も美しい。ただ、二人の女性の間で板挟みになりながら誠実に生きようとするジバゴ(オマー・シャリフ)やその周辺に次々と革命の理不尽が襲い掛かるので、観ていて辛くなる。実際に、ロシア革命時の知識人はこのような目にあったのかもしれないが。オマー・シャリフの演技も一本調子に感じる。コマロフスキー役のロッド・スタイガー、妻役のジェラルディン・チャップリン、兄役のアレック・ギネスの演技に感嘆した。

 

「ミツバチのささやき」 1973年 

 これも封切時にみたのだが、人間の記憶はあてにならない。ところどころ記憶にあったが、私が最も鮮明に覚えていたのは主人公の少女が死んだ後の父親の嘆きの場面だったので、少女が死ぬものと思ってみていたら、死ななかった! 心の底からほっとした! どうもほかの映画と混同していたようだ。それにしても、これは素晴らしい映画!

 まさに全編が美術品。美しい映像。光と影が絶妙。6歳くらいの少女アナの純真な表情も可愛い。

 フランコ時代のスペインの田舎町で閉塞状況の中にいる家族。自然は生と死と性にあふれている。ミツバチもしかり。父親はミツバチを飼っているが、論文を書いておそらく外の世界に飛躍したいと思っている。母親は外の世界にいる昔の恋人に向けて届くかどうかわからない手紙を書いている。アナとイザベルの姉妹は無邪気に生きているが、あるとき、村の集会所で映画「フランケンシュタイン」をみる。これは、生と死の秘密を子どもたちにまざまざと知らせるものだった。しかも、隠されているが、そこに性的な要素も含まれる。そんなアナの前に、脱走兵が現れる。まさに外の世界からの来訪者! アナは脱走兵にフランケンシュタインを重ね合わせて、そこに大人の男を感じて交流するが、脱走兵は射殺されてしまう。アナはショックを受け、森をさまようが、街の人たちに助けられる。

 そうした少女から大人への脱皮。それを閉塞状況の中に描き、そうしたアナの変化によって家族全体が閉塞状況から少し立ち直っていく様子も描かれる。

 

「エル・スール」 1983年 ヴィクトル・エリセ監督

「ミツバチのささやき」と同じ監督の10年ほど後の作品。「ミツバチのささやき」にもまして美しい映像。まるでジョルジュ・ドゥ・ラ・トゥールの絵のような陰影。すべての画面が一幅の美術作品。

 1950年代と60年代、スペイン北部の村で暮らす一家の様子が、8歳の時と15歳の時の娘エストレーリャの目から描かれる。ナレーションが入っているので、「ミツバチのささやき」よりもずっと話はわかりやすい。父(オメロ・アントヌッティ)は南部の生まれだが、反フランコであったために父親と仲たがいして南部を離れ、妻子とともに北部で暮らしている。エストレーリャはあるとき、父がある女性に憧れていることを知る。そして、それが映画女優であり、かつて父が付き合っていたことを知る。それまで父は何度も家を出ていたが、ついに父が真相を娘に明かした翌日、家を出て自殺してしまう。

 娘を深く愛し、南部での過去の暮らしを忘れようとしながらそこから離れられない男の物語と言えるだろう。多くの人間がこの男性と同じような面を持っているだろう。私も大いに共感する。しみじみと共感する。

 ただ、私としては、「ミツバチのささやき」ほどの感動は覚えなかった。

 

「暗殺の森」 1970年 ベルナルド・ベルトルッチ監督

 封切時にみて大いに感動した覚えがある。私はパゾリーニが大好きだったので、その弟子筋にあたる若手監督の作品だというので注目して観たのだったが、これまたドミニク・サンダの怪しい魅力以外ほとんど覚えていなかった。だが、改めて観て、これもまた圧倒的に素晴らしい映画だと思った。

 まず斬新な映像美に驚く。今でも新鮮なのだから、当時はもっと驚いただろう。パゾリーニの映像詩と呼べる映像も素晴らしかったが、こちらは若いのに、もっとこなれている。画面の構図、背景など考えつくされており、音楽のようにそれだけで意味を作り出す。

 子どものころ、同性愛者に襲われて、その人間を殺してしまったというトラウマを持つ青年マルチェッロ(ジャン=ルイ・トランティニャン)は、その異常な体験のゆえ、普通の人になりたいという願望を抱き続けている。ムッソリーニ政権下、マルチェッロは大勢に順応してファシストになり、秘密組織の指令を受けて、新妻ジュリア(ステファニア・サンドレッリ)との新婚旅行を利用して、パリ在住の恩師である反ファシズム運動を行うクアドリ教授の内情を偵察することになる。が、クアドリ教授の若い妻アンナ(ドミニク・サンダ)に惹かれ関係を持つ。しかも、偵察するだけでなく、夫妻を暗殺する命令を受ける。マルチェッロはためらって、自分では実行できずに手引だけする。夫妻は殺される。そして、ムッソリーニ政権は崩壊。ファシストの時代は終わる。すると、今度はマルチェッロは反ファシストの側につこうとする。しかも、どうやら子どもの頃のマルチェッロを襲った男はどうやら生きていたことに気づく。マルチェッロの人災が反転する。そのような状況が描かれる。

 クールで冷酷だが人間の弱さを持つマルチェッロ、謎の女性アンナ、ちょっと愚かだが、それはそれで魅力的なジュリア。それぞれを説明過多にならずに描く。その手際にも驚嘆する。モラヴィア(ひところ、私はかなりこの作家の小説を読んだ!)の原作だというが、ストーリーもとてもおもしろい。久しぶりにみて、改めて感動した。

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小川響子&秋元孝介 フランクのソナタ 思い切りがいいが、フランス的

 202536日(15時開演)、Hakuju HALLリクライニング・コンサートをきいた。出演は、小川響子(ヴァイオリン)と秋元孝介(ピアノ)。葵トリオの二人によるコンサートだ。曲目は、リクライニングを意識して、ミヨーの「春」、ラヴェルのヴァイオリンとピアノのためのソナタ(遺作)、メシアンの「主題と変奏」、フランクのピアノとヴァイオリンのためのソナタ。

 思いきりのよいヴァイオリン、溌剌として力強いピアノ。しかし、力で押しまくるのではなく、フランスの息遣いというのか、まさに鼻母音が聞こえてくるような趣がある。技術的なことはわからないが、少し音の強弱のニュアンスがベートーヴェンやメンデルスゾーンを演奏するときと異なっているような気がする。ちょっと肩透かしみたいな部分があるというか。そうしたところにフランス的な抒情を感じる。葵トリオで常に演奏している二人なので息もあっている。

 ミヨーの「春」、メシアンの「主題と変奏」、どちらも初めて聴いたが、初々しい思いにあふれた曲だと思った。ラヴァルのソナタもこの二人が演奏すると、くっきりして若々しい抒情が聞こえてきてとても魅力的。

 フランクのソナタは圧巻だった。まず冒頭のピアノのえもいわれぬ精妙にして美しい音に驚いた。そして、徐々に盛り上がり、スケールの大きなドラマになり、この曲らしい、熱い情熱がほとばしる。しかも、かなり若々しい。小川の思い切りのよいヴァイオリンの音が高揚し、爆発する。フランクの写真で見るような老人ではなく、かなり若い感性を持ったフランクだとでもいうか。しかし、若々しいとはいえ、この曲でも、一方的に押すのではなく、抑制され、フランス的な抑揚がある。

 アンコールはイザイの「子どもの夢」。これはぐっと抑制されて、静かな叙情。これもよかった。

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映画「ゆきてかへらぬ」 美しい映画だったが、中也の詩への思いがよくわからなかった

  映画「ゆきてかへらぬ」をみた。

 文壇の恋愛事件では、千代をめぐる谷崎潤一郎と佐藤春夫の争いが有名だが、もう一つ、大部屋女優だった長谷川泰子をめぐる中原中也と小林秀雄の関係も有名だ。これはその三人の関係を映画化したもの。

「ツィゴイネルワイゼン」などの脚本を担当した田中陽造が秘蔵していた脚本を根岸吉太郎監督が掘り出して映画化したということらしい。なるほど、いわれてみれば、根岸の「ヴィヨンの妻」の趣もあるが、田中脚本、鈴木清純監督の「ツィゴイネルワイゼン」の雰囲気もある。なお、私は根岸吉太郎氏とは早稲田大学第一文学部演劇科で同期だった。映画を志す仲間としてよく話したのを覚えている。彼の映画は今も気になるので、さっそくみたのだった。

 京都で一人暮らしをしている17歳の中原中也は女優志願の女・長谷川泰子と知り合い、同棲するようになる。二人は東京に出た後、文芸評論家として活躍を始めた小林秀雄と交流するようになるが、泰子は小林に心変わりして、今度は小林と暮らすようになる。だが、中也も泰子も互いの思いを完全には断ち切れない。小林もそれを理解して、奇妙な三人の関係が始まる。が、中也は別の女性と結婚、病にかかって若くして死ぬ。そうした状況を描く。

 映像はとても美しい。屋根瓦の家が立ち並ぶ中、和傘を上から撮影した場面など、息をのむほど素晴らしい。花屋敷だろうか、遊園地の場面もとても魅力的だ。そして、泰子を演じる広瀬すずと小林を演じる岡田将生の演技もとても説得力がある。根岸監督らしい繊細で色彩的に美しく、心の機微を描く作品だと思う。

 ただ、私が不満に思ったことが二つあった。一つは、中也の詩人としての思いやその天才性が伝わらないことだった。中也は天才であり、小林はそれを理解し、その天才性を共有しようとするわけだが、中也がどのような思いで詩を書いているのか、どのように天才なのかが納得できないので、映像に没入できない。木戸大聖は天才を演じようとして健闘しているが、むしろ空回りしてしまう。

 もう一つの不満は、中也の死は1937年、日本の中国進出は泥沼化し、太平洋戦争へ突き進んでいる時期なのだが、そうした時代的雰囲気がまったく描かれない。意図的に三人の関係に絞って描こうとしているのだろうが、そのような時代に、閉塞的な日本でフランスの影響を受けた詩人たちの思いを描かないと、彼らの必死さが伝わらない。彼らの行動が社会から孤立した絵空事に思えてしまう。

 肝心なところで私を納得させてくれなかったので、あちこちにある映像美も、唸るような脚本の見事さも、私を深く感動させてくれなかった。

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伊藤亮太郎の室内楽 仲間たちと息を合わせれば名演奏が生まれる!

 202531日、伊藤亮太郎の室内楽を聴いた。出演は伊藤亮太郎(ヴァイオリン)のほか、柳瀬省太(ヴィオラ)、佐藤晴真(チェロ)、浜野与志男(ピアノ)。曲目は前半にシューマンのヴァイオリン・ソナタ第1番とショスタコーヴィチのピアノ三重奏曲第2番 、後半にブラームスのピアノ四重奏曲第1番。

 私は伊藤亮太郎を中心とする室内楽のコンサートを楽しみにしている。今回もとてもよい演奏だった。

 ただ、シューマンのソナタは、私にはよくわからなかった。私がシューマンのソナタをよく理解していないということもあるのだが、どんな解釈で演奏しているのかつかめなかった。

 ショスタコーヴィチは本当に素晴らしい演奏! まさに鬼気迫る。実を言うと、私はこの曲を数回した聴いたことがなく、とてもよく知っているというわけではない。だから、自信を持って言えないが、無理やり大袈裟に演奏しているのではなく、ショスタコーヴィチの音楽をあるがままに演奏しているのがとてもよくわかる。仲間たちがしっかりと心を合わせて演奏すれば、それだけでこんなにものすごい世界が生まれるのだと納得。自然のうちにメリハリがつき、構築性が生まれ、音が広がり、音が重なり、それが伝わっていく。うーん、ショスタコーヴィチはなんだかさっぱりわからんけど、すごい!

 ブラームスは、チェロの佐藤のしっかりとしながらもロマンティックな面のある音に惹かれた。チェロの音が全体に彩りを与えている。もちろん、浜野の芯の強いピアノの美音も、そしてもちろん伊藤の表情のあるヴァイオリンの音も、柳瀬のしっかりとしたヴィオラの音も一つ一つがしっかりと活かされる。終楽章の盛り上がりも素晴らしかった。しかし、これも無理やりにジプシー的な色付けをしている様子はない。心を合わせて演奏するうちに、ブラームス本来の音楽が出来上がっていく。構築性のしっかりとした、そしてロマンティックで気品のあるブラームスの世界が広がった。これが室内楽の魅力なのだろうな、と改めて思った。

 アンコールは、ブラームスのピアノ四重奏曲第3番第3楽章。これもとてもよかった。チェロが美しい!

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