映画「ヒロシマ、そしてフクシマ」 原子力について討論する契機に
ドキュメンタリー映画「ヒロシマ、そしてフクシマ」をみた。恩師である山本顕一先生(先ごろ公開された映画「ラーゲリより愛を込めて」で二宮和也が演じた実在の人物・山本幡男のご長男でもある)がプロデュースした作品。
監督はマーク・プティジャン。広島の原爆投下の治療にあたり、その後、被爆者の治療や反核運動にかかわってきた、映画の公開当時96歳であった肥田舜太郎医師の活動を描いている。フランス人監督がフランスで肥田医師の活動を知り、感銘を受けて映画作りを思い立ったということらしい。
肥田医師は、原爆投下直後に、被爆の身体に与える大きな影響に気づき、それを隠そうとするアメリカ軍に抗議し、すべての原子力に反対して活動している。そして、福島の事故についても、日本の企業の無責任や政府の事実隠ぺいの責任を追及している。粘り強く、確信にあふれ、しかもヒステリックにならずに地道に活動している。その真摯な姿が描かれる。とても意義のある良い映画だと思う。原子力の怖さがとてもよくわかる。
ただ、この映画について疑問に思うことがいくつかあった。まず、フランス人である監督がなぜ日本のこのような活動に関心を持ったのか、いやそもそも、この映画は日本人に見せようとしているものなのか、フランス人に見せたいのか。つまりは、この映画の製作動機は何なのかということが、この映画をみてもよくわからなかった。原子力反対という自分の立場を鮮明に打ち出して作る映画である以上、自分の基盤を明確に示す方が説得力が増すと思うのだが、どうだろう。
もう一つは、反対意見をあまり考慮していないことが気になった。原子力発電を廃止するとなると、日本の電力供給はどうなるのだろう。きっと日本の電力を維持できなくなるだろう。原子力を否定するのであれば、電力使用を控えるべきなのか。電力使用を控えると国力低下は必然であり、原子力発電所を放棄しなかった国々に後れを取ることになるだろう。だが、それを受け入れるべきなのか、それともほかの方法があるのか。
同じことが、安全保障面でもいえる。原子力発電を止めるということは、原子力開発を諦めるということであり、核兵器を完全に放棄するということだ。もちろんそれが理想だが、人権否定の国は悪いものを率先して開発する。ロシア、中国、北朝鮮が核開発をして日本を脅すようになってもよいのか。それをどうとらえ、どう解決するのか。
おそらく肥田医師は、そのような反対意見を何度も耳にし、そのような人たちと論戦を交わしてきただろう。肥田医師はどのように語っていたのだろう。どのような信念を持っておられたのだろう。それをもっと知りたいと思った。
監督がフランス人であれば、日本人とは異なって、そのようなリアルな視点でとらえることが可能だろう。フランス本国の考え方と比較することもできるだろう。
この映画によって原子力の怖さを改めて知ることができたが、私が解決できずにいることについてのヒントを与えてくれるものではなかった。ただ、この映画をみたうえで、その後に討論会が催され、原子力について考えを深める場になるとすれば、これは素晴らしい映画ということができるだろう。
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