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長崎ひとり旅

 2025年4月8日から10日、2泊3日の長崎旅行をした。

 九州出身でありながら、長崎県に足を踏み入れたのは、帰省の際に子どもたちをハウステンボスに車で連れて行ったときだけで、長崎市を見物したことがなかった。一度は行きたいと思っていた。今年の3月末日をもって、定年退職後も続けていた多摩大学の非常勤講師と入試顧問の仕事も辞め、MJ日本語教育学院の学院長の職も辞して、定期的に行う仕事から身を引いたのを機会に、長崎に行こうと思い立った。忙しかったり、コロナ禍にひっかかったりで、マイレージがたまりながら消化できず、むざむざと期限切れになるばかりだったが、その消費を兼ねての一人旅だ。

 なお、どうやって画像を入れればよいのかわからないので、このところの私の旅行記は例によって写真なし。ご容赦願いたい。 

4月8日

 昼過ぎのJAL機で長崎空港着。山や海に囲まれた空港。風光明媚! すぐにバスで長崎駅に向かった。

 私の一人旅は基本的に「いきあたりばったり」。ガイドブックは一応は購入して目を通すが、子どものころから「予習」は大の苦手で、勉強の場でも、ほとんど予習した記憶がない。旅行でも、私は予習できない(しようと思っても、頭に入らず、投げ出してしまう。ついでに言うと、自分がそうだったから、教員の仕事をしている間も、生徒や学生に予習を求めたことはない。「予習なんかしないで、予断を持たないで俺の説明を聞いてくれ」とずっと思っていた)。

 長崎駅内の観光案内所でもらった地図をみたら、「出島」という言葉が目に入った。そうか、長崎に来たからには、最初は出島に行くことにしよう!と思った。30年以上前、幕末に日本を訪れたフランス人の手記を訳したことがある。そのころ、出島に関する本もかなり読んだ記憶がある。出島は駅から市電ですぐのところにある。長崎市は市電が発達していて、とても便利。駅前のホテル(アパホテル長崎駅前店。ネットで見て、ロケーションが最高というのでここにしたのだったが、確かに、快適性などについてはそこそこだったが、ロケーションはこれ以上は望めないほどだった!)にチェックインして、荷物を置いてすぐに出発。

 今や周囲に町が広がっているが、出島があったところにそのまま残っているのだろう。川べりの一角にかつての出島を再現し、そこで過ごした人たちの生活がわかるような解説が施されている。こじんまりした施設だが、きれいに整備されている。

 侍の格好をした職員が数人。ボランティアの案内の方もおられるようだったが、私はぶらぶらと部屋をのぞいて歩いた。上映されている短い映画をみた。帝国主義の出先であると同時に、知の最先端でもあった出島がわかりやすい形で示されていた。客はぽつりぽつり。西洋系の観光客がほとんど。高齢のご夫婦に見える人が多い。

 市電を使うと、大浦天主堂とグラバー園も簡単に行けることに気づいた。先に大浦天主堂に向かった。坂を上り、観光客らしい人についていくと、おみやげ物屋やレストランの並ぶ道を歩いて、すぐに丘の上に紺碧の空を背景に白壁の聖堂が見えた。ごくこじんまりした聖堂だが、とても美しい。凛とした姿とでもいうか。1597年に殉教した26人の日本人に捧げられた聖堂で、博物館が併設され、日本におけるキリスト教の歴史、聖堂建設にあたった神父たちの苦労などを知らせる展示物がある。私は、カトリック系の幼稚園に通ったせいか、子どものころからカトリック文化にはなじんでいる。隠れキリシタンに関心をもって調べたこともある。感慨深い。

 大浦天主堂を出た時にはあたりは夕方になりかけていたので、グラバー園には改めて行くことにして、市電で駅を通り過ぎて、平和公園まで行ってみた。やはり長崎に来たからには、原爆関係の場所をみておきたい。

 市民が日常生活の中で利用する広場かと思っていたら、エスカレーターで登って、小高い場所に広がる公園だった。平和公園は特別の地として存在しているようだ。いくつもの彫刻があり、噴水があり、あの有名な右腕を空に向けた青い男性像がある。薄暗くなる時刻であるせいか、訪れていたのは、外国人観光客(ほとんどがアジア系)数名だった。

 しばらく歩いてから、市電で駅付近に戻って、アミュプラザの魚料理の店で食事をした。かぶと煮は絶品だった。

 長崎はこじんまりして清潔な街。もしかしたら原爆で古いものが破壊されたためかもしれない。東京と違って、横断歩道を歩こうとすると、車は必ず停車してくれる。観光客は、西洋系の人が多い。

 

8月9日

 平戸に行こうかとぼんやりと考えていたのだが、調べてみたら、長崎市からかなり遠い。何も考えずに長崎市内に2泊のホテルを取ったので、平戸に行くと、長崎まで戻るのが大変。そこで、佐世保に行くことにした。軍港都市佐世保といったくらいの知識しかないが、ともあれ少し佐世保を歩いてみることにした。

 佐世保までJR快速シーサイドライナーで2時間弱。質素ながらおしゃれな電車。諫早などを経由し、時折、文字通り窓の外に海が広がる。山間部や田園地帯は、私が育った大分県とよく似ている。植物も山の形、家の形も私にはなじみの光景だ。

 ガイドブックをみると、佐世保では九十九島の眺めが絶景だという。島に行くには大変そうだが、佐世保の陸地に展望台があるという。そこに行ってみようと思った。

 佐世保駅について、駅構内の観光案内所で担当の方にその旨を話してみると、「12時10分に駅前を出る九十九島観光公園行きの路線バスがあり、それに50分ほど乗って展海峰で降りれば九十九島がみられる」とのこと。ただし、1日に1往復なので、そこで20分ほど過ごしたら、同じバスに乗って帰らなければ今日中には帰れなくなる。タクシーを呼ぶのもなかなか大変とのこと。すでに12時5分。あわててバス乗り場に向かった。

 5分ほど遅れてバスは到着。乗客は観光客らしい人(日本人と中国人)数名をのぞいて現地の人。それぞれに顔見知りのようで声を掛け合っている。圧倒的に80歳以上、あるいは90歳前後の高齢者が多い。バスは都市部を抜け、すぐに農村地帯に入った。狭い道をぐるぐる回って、丘の上の方に行ったり、また降りたり。降りてくると、海沿いの道を走る。高齢の客は買い物帰りらしい。買い物袋をもって停留所で降りる。かなりの高齢者で歩くのがやっとという人も多い。バスが止まって、よろよろしながら降りるので、かなり時間がかかる。バスの停留所で降りる客の三人に一人くらいがそのような状態。

 ふと思った。このバスは本当に一日に一往復のみらしい。私のような観光客以外の乗客はおそらくこの地域の住民で、街で買い物をしての帰りなのだろう。だが、考えてみると、少なくとも2往復のバスがないと、乗客はどこかに行って、用を済ませて帰ることができない。だとすると、この人たちはいつ佐世保の中心に行ったのだろう。前日のバスに乗って、市街地のどこかで泊まったのか。それとも、今朝、誰かに車に乗せて行ってもらったのか。いずれにせよ、恐ろしく苦労して街に買い物に出かけているのだと思った。

 50分ほどバスに乗って展海峰に到着。そこまで乗っていたの乗客はすべてが観光客だった。合計10名ほど。たぶん半分ほどが外国人(中国系?)。桜が咲き誇り、その横を歩いて高台に行くと、まさに絶景が広がっていた。

 ベトナムのハロン湾や桂林の風景を思い出した。海の中に緑色のたくさんの島が浮かんでいる。九十九は大げさかもしれないが、50や60の島は見て取れる。かすんでいるが、遠くに見えるのは五島列島らしい。

 展望台の横に「美しき天然」の作曲者・田中穂積の像があった。田中はこの景色から着想をして「美しき天然」を作曲したという。私が子どものころ、この曲はクラシックまがいの曲としてよく演奏されていた。傷痍軍人がヴァイオリンやアコーディオンで弾く定番の曲でもあった。久しぶりにこのメロディを思い出した。

 折り返してきたバスに乗って佐世保の中心街に戻り、遅い昼食として、繁華街で佐世保バーガーを食べた。おいしかったが、食べにくかった。客は私一人だけだったので、現地の人がどうやって食べているのか確かめられなかった。大きすぎて口に入らず、ソースや肉がこぼれてしまった。

 駅の反対側の出口を出て、佐世保港で少し時間を過ごしてから、高速バスで長崎に戻った。まだ明るかったので、グラバー園に急いで、グラバー亭やその周辺を散策。市内を一望できた。帝国主義、植民地主義の一つの表れではあるが、これはこれで間違いなく日本の近代化である歴史を知ることができた。

 夜、思案橋付近の雑魚屋という魚料理の店で食事。刺身、かぶと煮、すべて絶品。久しぶりに感動的なほどにうまい刺身を食べた! 

 

4月10日

 雨の予報。荷物をホテルに預けて、雨がひどくならないうちにと思って、市役所前まで市電で行き、そこから歩いて中島川沿いに歩いた。川にかかる橋をみて歩いた。有名な眼鏡橋だけでなく、すべての橋に風情がある。

 中島川と並行に走る寺町通を歩いて、まさに寺の中を歩き、ベルナード観光通り、浜市商店街アーケードを歩いた。特に目的地があるわけではなく、ただ歩くだけ。20代、30代のころ、こうやって海外の街をほっつき歩いたものだ。しばしば道に迷い、途方に暮れ、怪しい場所に入り込み、まあまあ何とかホテルに戻れた。それが私の旅だった。今は、そのころと違ってすぐに疲れて歩けなくなるが、スマホがあるので迷子にはならない。しかも、現在の私は、いざとなればタクシーに乗れるだけの経済力を持っている!

 その後、新地中華街にいった。長崎の中華街は、横浜の中華街に比べると規模が小さく、一つ一つの店も狭い感じがするが、区画の四方に門があり、店先で豚まんなどを売る店もあって、雰囲気はもちろんよく似ている。江山楼でちゃんぽんと豚の角煮を食べた。これも絶品! ちゃんぽんのスープは濃厚。豚の角煮はとろける柔らかさ。客のほとんどは日本人だと思うが、中国人、西洋人もいたようだ。

 雨が降り出したので、原爆資料館と追悼記念館に行った。原爆の悲劇が再現されている。あまりに残酷なものは避けられていると思うが、それでも原爆の悲惨は伝わる。見学者の三分の二が西洋人。残りが日本人とアジア系の外国人。日本人は一、二割に思えた。日本人はここはあまり訪れないのだろうか。

 追悼平和祈念館にはほとんど人はいなかった。犠牲になった人々の写真が飾られ、それぞれの言葉が残され、亡き人の魂を鎮魂するモニュメントがあった。ゆっくり歩いてみて回った。

 カトリック信者が最も多く暮らし、日本における西洋化、近代化の先端にある長崎がよりによって原爆投下の場所にされたことに皮肉を覚えるしかない。

 外に出ると大雨になっていた。市電で駅まで行き、コーヒーを飲みながら雨がやむのを待った。もう少し市内を見て回ろうと思っていたが、雨のせいで動けなくなった。中途半端な時間になって、これからどこかに行ったら、帰りの便に間に合わなくなる。早すぎるが、荷物をホテルで引き取り、そのまま高速バスで空港に向かった。

 この旅行を思い立ったのが遅かったためにすでに満席だったせいか、それともマイレージの特典航空券に制約があったのか忘れたが、20時30分に長崎を出発する便しか取れなかった。遅延したら困るなと思っていたのだったが、天候のせいで飛行機の到着が遅れ、40分遅れで出発。飛行機から降りた時には23時近くになっていた。しかも羽田は土砂降り!

 電車を乗り継いで帰れなくはないが、夜中に電車で最寄り駅まで行っても、その先、我が家までは歩いて20分はかかる。この土砂降りではタクシーを最寄り駅で捕まえるのは無理だろう。土砂降りの中を歩いたら、間違いなく風邪をひいてしまう。ええい、思い切って羽田からタクシーに乗っちゃえ!と腹を決めた。多摩地区の我が家まで1万円以上かかるかも、と思ったのだったが、ほぼ予想の2倍かかってしまった! が、まあ、マイレージを使っての旅ではあったし、ホテルもケチったし、全体的には安上がりで済んだので、まあこれでよしとしよう。ただし教訓として、夜遅い便は避けるべし! ともあれ楽しい一人旅だった。

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コメント

旅行記を楽しく読ませていただきました。羽田からの帰りは思わぬ散財でした!でも、我々の年になると、土砂降りの雨の中を電車を乗り継いで帰り、しかも最寄りの駅からけっこう歩くのはしんどいですね。ともかく良い旅でよかったです。お疲れさまでした。

投稿: Eno | 2025年4月12日 (土) 19時09分

Eno 様
コメント、ありがとうございます。
実を言いますと、タクシーで自宅付近に着いた時、ほとんど雨はやんでいたのでした! いっそのこと、大雨が続いていれば、悔しい思いをしないですんでのですが。
Eno 様のブログ、楽しく読ませていただいています。私が聴いたコンサートの感想について、賛同したり、なるほどそんな聴き方があるのかと発見したり。ありがとうございます。

投稿: 樋口裕一 | 2025年4月13日 (日) 09時28分

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