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映画「美しい夏」 良い映画だったが、私のパヴェーゼとは異なる雰囲気だった!

 イタリア映画「美しい夏」をみた。

 原作はチェザーレ・パヴェーゼ。私は、50年ほど前、恩師であり、人生の大恩人であるイタリア文学者・米川良夫先生に教えていただいてパヴェーゼを知り、ひところ盛んに読んだ。今度、パヴェーゼの「美しい夏」が映画化されたという。これはみないわけにはいかない。監督はラウラ・ルケッティ。

 第二次世界大戦直前の1938年、イタリアのトリノが舞台になっている。ファシスト党が横暴をふるっている様子が描かれる。16歳の少女ジーニア(イーレ・ビアネッロ)は田舎から出てきて、兄と暮らしながら洋裁店でお針子として働いている。あるとき、絵のモデルとして働く年上の女性アメーリア(ディーバ・カッセル)と知り合い、彼女を通して画家たちと交流して、新しい世界を知るようになる。画家の一人グィドと恋をし、絵のヌードモデルになろうとし、アメーリアと同性愛的なかかわりを深める。

 従来の、田舎の道徳が崩れ、抑圧的な社会になろうとしている時代に、そこからはみ出して生きる芸術家たち。そのはざまを生きる少女の苦しくもさわやかな成長物語と言ってよいだろう。

 とても良い映画だと思った。演じている役者たちもとてもいい。イーレ・ビアネッロは純真でありながら大人の世界への好奇心を抱くジーニアを見事に演じ、ディーバ・カッセルは圧倒的な肉体美によって、奔放に生きるアメーリアを見事に具現する。ほかの登場人物も背景も、なるほど原作を読んでイタリア人がイメージするのはこのような人やモノなのかと納得する。

 映像も美しい。本当に今もこのような建物が残っているのか、街並みが残っているのか、どうやって撮影したのかと疑問を抱くほどに時代をしっかり描けていると思われるし、それぞれの画面がまるで美術品のような美しさを持つ。二人の女性が枯葉に埋もれる場面など息をのむほど美しい。

 ただ、好きな小説が映画化されるとそう思うのが宿命なのだとは思うが、やはりパヴェーゼを自分なりに読んできた人間からすると、「どうも、これはオレの読んできたパヴェーゼとは違うぞ」という気になってしまう。

 実を言うと、始まってから20分くらいたってもまだパヴェーゼの原作を思い出せなかった。かつて感動して読んだはずなのに、この映画の原作はどの物語だっけ? もしかして読んだつもりで読んでいなかったのだろうかと思っていた。画家たちが登場してからやっと、これがまぎれもなくパヴェーゼの原作だと確信を持った。それほどに、この映画の雰囲気は、私の原作から思い描いていた雰囲気と異なっていた。あとで読み返してみたら、細かいところを除いてほぼ原作に忠実に描いている。だが、本質的なところで私のイメージとは違う。

 どこが違うのか考えてみた。一つだけ思い当たった。

 映画では、ヒロインであるジーニアがおずおずとした態度をとる。引っ込み思案で、しばしば暗い表情をし、ためらいがちに行動する。もちろん原作でもそのような傾向があるが、映画ほどではないと思う。原作では、繊細でためらいがちで内向的な雰囲気が強いのは文体であり、話の進め方であって、ジーニアはもう少し屈託のない印象が強い。文体や描写、話の進み方から繊細で人間味にあふれた寂寥感と孤独感がにじみ出る。

 映画化するとすれば、文体を表現するのは至難の業であって、どうしても登場人物の表情を用いるしかないのだろう。だから、やむを得ないとは思う。しかし、私はやはりこれはパヴェーゼではないと感じてしまう。

 一言でまとめてしまえが、なかなか良い映画だった、だが原作には及ばなかった、という、文学作品を映画化した作品に感じる感想をまたも抱いたということになるだろう。

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