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オペラ映像 ノセダ指揮、チューリヒ歌劇場の「ニーベルングの指環」

 ジャナンドレア・ノセダ指揮、アンドレアス・ホモキ演出のチューリヒ歌劇場のワーグナー「ニーベルングの指環」のディスクをみた。簡単な感想を書く。20245月のライブ収録だという。

 

「ラインの黄金」

 どの場もずっと同じコンセプトの舞台。真新しい白い壁に覆われた19世紀風の室内で展開される。少しだけ調度品やピアノなどがあるだけのすっきりとして清潔な室内。つまりはワーグナーが活躍した時代に舞台は設定されているといってよいだろう。いくつかの同じような部屋が回り舞台で移動するが、どの部屋も基本的には白壁の部屋という設定になっている。

 三人のラインの娘たち(ユリアナ・アレクシュク、ニアム・オサリヴァン、シエーナ・リヒト・ミラー)は全身白装束。ヴォータン(トマーシュ・コニェチュニー)はワーグナーの肖像としてよく見られる服装。フリッカ(クラウディア・マーンケ)はコジマ夫人のような服。ドンナー(ジャオメン・チャン)とフロー(オメール・コビリャク)はイギリス紳士のような恰好で、どうも手にしているのはクリケットのバットのようだ。こびと族は薄汚い恰好をし、巨人族は身ぎれいな紳士風。要するに、ワーグナーの時代に、ワーグナーの身近で起こった出来事として「リング」が捉えられている。

 部屋の窓の一つが二―ベルンハイムへの入り口になっており、そこからアルベリヒ(クリストファー・パーヴェス)は出没する。ヴォータンとローゲ(マティアス・クリンク)が二―ベルンハイムに移動するときもそこを使う。ワルハラ城は壁にかかった油絵で表現される。

 歌手陣はきわめてレベルが高い。演奏については、かなりレベルが高い。ノセダにワーグナー指揮者という評判は聴いたことがなかったが、とてもドラマティックな演奏をしているが、巨大さ、神話性は皆無と言ってよいだろう。切れがよく、すっきりとした演奏。ワーグナーらしいうねりや深遠さはない。きわめて現世的。その意味で演出に合致した演奏とは言えるだろう。

 

「ワルキューレ」

「ラインの黄金」と基本的には変わりのない舞台。すべての幕が、同じように白い壁に囲まれた、ほとんど家具のないきれいな部屋で展開される。第一幕のトネリコ、第三幕の岩山なども室内に置かれている。ヴォータンは白シャツに黒のヴェスト、ワルキューレたちは白いスカートに黒いジャケット。ワーグナー時代から少し時間がたっているのだろうか。ワーグナーの時代と20世紀の服装の中間という感じ。全体的に、きわめて現世的な演出で、ヴォータンとフリッカのやり取りはまさに夫婦喧嘩。ワーグナーとコジマの言い争いもこんなものだっただろうと想像される。

 ノセダの指揮は、かなりの快速で、ワーグナー特有のうねりや陶酔を排除している。おそらく意識的に排除しているのだろう。だから、ぞくぞくするような陶酔は得られない。官能に震えることもない。きびきびと展開されていく。まあそれはそれで小気味いいとはいえるかもしれないが、オーケストラの深みのようなものもあまりないので、これではワーグナーの醍醐味がまったくない。私としては大いに不満を覚える。

 歌手陣は充実している。ジークムントのエリック・カトラーとジークリンデのダニエラ・ケーラーはまだかなり若い。二人ともちょっと堅いが、しっかり歌っている。フンディングのクリストフ・フィッシェサーもなかなかの悪役ぶり。フリッカのクラウディア・マーンケは見事な声と演技でちょっと嫌味な女性を演じる。ヴォータンのトマーシュ・コニェチュニーは、神様らしいところは微塵もないが、傲慢でありながらも力を持ち、人間味にあふれる初老の男。ブリュンヒルデのカミラ・ニールンドも素晴らしい。たぶん30年近く前、武蔵野市民ホールでシベリウスなどの北欧歌曲を歌っているのを聴いていっぺんにファンになって、それ以来応援してきたニールンドがここまでの大歌手になったことに、私としてはとてもうれしい。

 

「ジークフリート」

 演出も演奏も「ワルキューレ」と同じスタイル。「ラインの黄金」や「ワルキューレ」と同じような造りの室内だが、これまでは真っ白だった壁が黒ずんでいる。そこに鍛冶仕事に必要な場があり、ミーメとジークフリートがやりとりをする。第2幕では、大蛇も同じ室内に登場、小鳥は白装束、第3幕のブリュンヒルデ登場の場面も、「ワルキューレ」と同じ岩山が室内に現れる。

 音楽的にも、いっそう世俗的で、神々の物語的な要素はない。

 ジークフリートを歌うのはクラウス・フロリアン・フォークト。もちろん名歌手なのだが、この人特有の自然な発声による無理のない歌が、あまりジークフリートらしく聞えない。しかも、顔つきも振舞も真面目な優等生のようで、ジークフリートの粗暴さ、やんちゃさは微塵もない。ミーメのヴォルフガング・アブリンガー=シュペルハッケ、アルベリヒのクリストファー・パーヴェス、ファフナーのデヴィッド・レイはきわめて高いレベルで安定している。森の小鳥のレベカ・オルヴェラについては、指揮者の指示なのかもしれないが、なんだか歌いまわしがかなり個性的な気がする。

 さすらい人のトマーシュ・コニェチュニーとブリュンヒルデのカミラ・ニールンドはさすがの歌唱。ただ、第3幕の盛り上がりに欠けるので、私としてはワーグナーを聴いた満足感を得られない。

 

「神々の黄昏」

 またしても、同じ室内。ただ、ここでは、かつて白かった壁はうらぶれて、汚れがたまり、老朽化している。ワーグナーの時代からかなり時間がたっているのだろう。そこに、ノルンが現れたり、岩山が現れたり、ラインの娘たちが現れたり。登場する人々の服装も現代に近い。要するに、「リング」をワーグナーの部屋の時代による変遷として描いたということなのだろうか。

 グンタ―のダニエル・シュムッツハルトとグートルーネのローレン・ファーガンも力演。赤い上着を着て、かなり不気味な雰囲気を出している。ハーゲンを歌うデヴィッド・レイの声の威力はすさまじい。これまで見てきたハーゲンと違って、演出家が意識しているかどうかはわからないが、まるでラスプーチンといった雰囲気だ。長いコートを着て黒髪を肩まで伸ばして、不気味な陰謀家然としている。

 それほど大胆な解釈はなく、舞台は進む。死んだはずのジークフリートがよみがえってブリュンヒルデと愛撫する。フォークトとニールンドの歌はさすがというしかない。歴代の大歌手たちと比べると、これまた少し強さ、大きさにおいて不足するところがあるが、これも現代のジークフリートとブリュンヒルデなのだろう。

 最後、すべてが終わった後、燃えさかるヴァルハラの絵をヴォータン(ワーグナーのような服装をしているようだ)が見ているところで幕が下りる。要するに、ワーグナーとヴォータンを重ね合わせ、ワーグナーの野望が今では老朽化し、ワーグナーが夢見た神話世界はすでに崩壊し、現代ではもっと無機質で虚無的な世界になっているということを訴えているのだろうか。

 ノセダの指揮も、これまでと変わりがない。かなり快速で、滔々と流れて深く沈潜する雰囲気は皆無。切れがよく、さらさらと進んでいく、「ジークフリートの葬送」の場面ではさすがに重く激しくなるが、それでもこれまで私が聴いてきた様々な指揮者に比べると、いかにも薄い。まさにワーグナーの求めた神話的な世界はなくなり、表層だけの音楽になっている。

 全体を観終えて、ひとことで言って、私はあまり深い感銘は受けなかった。ずっと同じような室内で展開するホモキの演出も、経費節減のためというわけではなかろうが、あまりに代わり映えがしなくて退屈になる。新たな解釈がありそうでもない。演奏についても、繰り返し書いてきた通り、ワーグナーの醍醐味がなく、音が薄い。意図的に神話性、形而上性を排除しているのだろうが、そうすると、ワーグナーの最大の魅力がなくなってしまうと私は思う。歌手陣はそろっているものの、少々残念なディスクだった。

 きっと同じように思っている人も多いのだろう。「ジークフリート」と「神々の黄昏」のカーテンコールの際、ノセダが登場するとき、大拍手とともにブーイングが混じっているようだ。演出に対するブーイングはお決まりと言ってよいほどだが、指揮者に対するブーイングはかなり珍しいと思う。

 なお、私の使っている機器の不具合ではないと思うのだが、「神々の黄昏」の日本語字幕が乱れている。通常のセリフの後にカタカナでそのセリフの一部が繰り返される。「ならば綱をこちらに投げてツナヲナゲテ」「私の灰から拾い出せハイカラヒロイダセ」といった具合。ほぼすべてのセリフがこのように表記される。これはかなり興ざめ! 何とかならないだろうか。

 

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運慶特別展をみた

 東京国立博物館で運慶特別展をみた。興福寺北円堂に安置されている弥勒如来坐像、無著菩薩立像、世親菩薩立像のほか、かつて北円堂に安置されていた可能性の高い四天王立像(持国天・増長天・広目天・多聞天)を合わせた7体の国宝が展示されている。

 寺院仏閣や仏像には関心を持ってはいるものの、もちろん私は仏教についても、仏像についてもさほどの知識はない。運慶についても、その凄さについて話には聞いているが、まとめて観たことはなかった。

 7体だけとはいえ、今回、傑作とみなされているものをみられて、とても感銘を受けた。「感動した」と言いたいところだが、基礎知識のない私は、「感動した」というのもおこがましいと感じざるを得ない。

 弥勒如来坐像も厳かでとてもよかったが、私は、おそらくは多くの人と同じように無著菩薩と世親菩薩像に惹かれた。二人の菩薩は4世紀にインドに実在した兄と弟だという。その二人の佇まいの存在感が圧倒的だと思った。きわめて人間的で、その人柄が伝わってくる。

 無著菩薩のほうは、両手で経典の包みを抱え、穏やかで謙虚そうで衆生の悩みを共にしているかのような気配。その包み込む力が周囲にあふれている。まるで生きて静かに動き出しそう。世親菩薩のほうは、眼光鋭く、意志の力にあふれ、衆生を率いていくかのような迫力を持っている。こちらのほうも今にも動き出しそう。ともに袈裟の質感を含めてきわめてリアルでありながらも、まさに仏像の法力(という言葉でよいのかどうかわからないが)のようなものが像を覆っている。どのような手法なのかは私にはまったくわからないが、西洋のリアルな彫像とは異なるような気がする。そのリアルと抽象化の具合が驚異的だと思った。

 四天王立像もよかった。無著、世親の像が「静」だとすると、こちらは「動」だろう。大きな動きの一瞬を切り取ったようなダイナミズムにあふれている。鬼の侵入を食い止めようとして戦っているのだろうか。誇張された顔の表情もとても魅力的だと思った。

 これ以上の言葉を使うことができないのが残念。

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チョン・ミョンフン&ミラノ・スカラ座フィル 最高の躍動!

 2025924日、サントリーホールでミラノ・スカラ座フィルハーモニー管弦楽団公演を聴いた。指揮はチョン・ミョンフン。曲目は前半にヴェルディの歌劇「運命の力」序曲、と藤田真央の独奏が加わってベートーヴェンのピアノ協奏曲第4番、後半にブラームスの交響曲第4番。素晴らしい演奏だった。興奮した。

 昨日、京響の演奏を聴いて、とても良い音を出していると思ったのだったが、世界の超一流オーケストラの音を聴いてみると、やはり違いに気づかないわけにはいかない。一つ一つの楽器の輝きやら深みやらが違う。アンサンブルに彩りがある。ひとことでいって、ミラノ・スカラ座の伝統の音がある! この音はほかのオーケストラでは出せない!

 チョンの指揮は、躍動感と静謐さを併せ持っているのを感じる。見た目もそうだが、音楽も背筋がピンと立っている! キリリとして、ドラマティックで一つ一つの音の処理が見事。20年以上前になると思うが、チョンの指揮する東京フィルの演奏を随分と聴いた。そのころに比べて、少々おとなしくなった気はしないでもないが、音楽の気高さを強く感じる。

「運命の力」は、このオーケストラの得意の曲だろう。まさにヴェルディの醍醐味! クラリネットが美しい。

 藤田真央が加わっての協奏曲も素晴らしかった。藤田のピアノはこの協奏曲にぴったりだと思った。第3番や第5番のように英雄的ではなく、もっと内向的で親密。藤田のピアノの一つ一つの音に命があり、まるで生命体を持った音たちが宇宙の中で動き回っているかのよう。第2楽章はことのほか感動的だった。オーケストラとピアノの掛け合いが終わった後、ピアノの独白とでもいうべき部分に移るが、この部分のリリシズムには言葉をなくした。繊細で魂が息づいている! すごい! 私は弦楽器と人の声が好きで、ピアノ演奏に感動することは滅多にないのだが、藤田のピアノには心の底から感動した。

 ピアノのアンコールはシェーンベルクの6つの小さなピアノ曲作品19-4と5とのこと。藤田の音の輝きを聴かせてくれる曲だった。

 ブラームスの第4番も圧倒的な演奏だった。意図的なのか、冒頭はかなり抑え気味だったが、徐々にまとまりができ、盛り上がり第一楽章の最後の高揚に向かっていく。そして、楽章ごとにもっともっと盛り上がり、終楽章パッサカリアでも変奏ごとにぐんぐんと高揚して、最後に爆発する。それを、躍動感と静謐さを併せ持った背筋の伸びた音楽で展開していく。その組み立てにも納得。興奮した! 

 アンコールは「カヴァレリア・ルスティカーナ」の間奏曲と「ウィリアムテル」序曲の行進曲。このオーケストラのお得意の曲。どちらも最高の音楽。「カヴァレリア・ルスティカーナ」は、おだやかながらシチリア島の悲劇をしみじみと感じさせる音楽、「ウィリアムテル」はまさに躍動と歓喜の音楽。華やかで色彩的で生きる力にあふれている。私のかなり老いてしまった心身に生気がよみがえった!

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沖澤のどか&京響の「シェエラザード」 沖澤の手際と石田の美音に惹かれた!

 2025923日、サントリーホール・大ホールで京都市交響楽団東京公演を聴いた。指揮は沖澤のどか、曲目は前半にルイーズ・ファランクの交響曲第3番ト短調、後半にリムスキー・コルサコフの交響組曲「シェエラザード」。

 ファランクはクララシューマンやファニー・メンデルスゾーンと同時代に活動した女性作曲家。一時期、女性作曲家に興味を持ってCDを何枚か購入して聴いたが、ファランクの曲を聴くのは初めてだ。わかりやすい、なかなかいい曲だと思った。シューマンからシューマンらしさを除いたような曲とでもいうか。

 第1、2楽章はありがちというか、あまり創意を感じない曲だと思ったが、第3楽章は躍動感があっておもしろかった。終楽章は大きく盛り上がってとても魅力があった。沖澤の指揮もとても的確だと思う。きびきびと、しかししなやかに、そして歌心を持って音楽を進めて、最後には大きく高揚していく。

「シェエラザード」は、まずソロコンサートマスター石田泰尚の研ぎ澄まされた美音に引き付けられた。まさにこの曲のヴァイオリン・ソロによるシェエラザードのテーマは石田の音にピッタリ! 流麗で官能的で澄み切っている! 予想はしていたが、予想以上の素晴らしさ!

 第1曲では、オーケストラは少しもたつき気味で、「抜け」が足りないと思ったが、第2曲以降、ぐんぐんと精度が高まった。第2曲ではそれぞれの管楽器が感情豊かに歌い、それとともにオーケストラ全体も色彩感を高めていった。沖澤のコントロールも素晴らしく、楽器群が見事に重なり合って音楽が高まっていく。その手際がとてもいい。終楽章の盛り上がりも見事だった。ただ、世界の一流オーケストラに比べると、ちょっとまだ音の「抜け」が不足する気がしないでもないが、これだけの音を聴かせてくれるのたいしたものだ。

「シェエラザード」の実演を聴くのは2度目か3度目だと思う。中学生のころレコードを購入した(25センチ盤だった記憶がある)が、あまり好きな曲ではなかったので、それほど頻繁には聴かなかった。誰の演奏だったかも覚えていない。が、今、改めて聴いてみると、これはなかなかの名曲だと思う。オーケストラの色彩感は見事だし、曲の展開も自然で美しい。リムスキー=コルサコフのオペラの真価を最近発見したばかりだが、「シェエラザード」もそれに劣らぬ稀有な名曲だと思う。そして、沖澤のどか指揮の京響はこの曲の魅力を十分に聴かせてくれた。

 アンコールはドビュッシーの「月の光」のオーケストラ版。ここでも石田のヴァイオリンが美しい音を聴かせてくれた。

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紀尾井室内管弦楽団メンデルスゾーン「夏の夜の夢」

 2025915日、東京オペラシティコンサートホールで紀尾井室内管弦楽団の定期演奏会を聴いた。指揮は阪哲朗。曲目は、前半にヴェーバーの「オベロン」序曲と阪田知樹のピアノが加わってコルンゴルトの左手のためのピアノ協奏曲嬰ハ調、後半にメンデルスゾーンの劇付随音楽「夏の夜の夢」。三宅理恵(ソプラノI)、山下裕賀(ソプラノII)、TOKYO FM 少年合唱団の合唱。

「オベロン」序曲は明晰で組み立てのしっかりした演奏で、とてもよかった。紀尾井室内管弦楽団の力量が十分に発揮され、音色もとても美しい。ただ、金管群の音がかなり大きく響いて、少しバランスの悪さを感じたが、それはきっと私の席が右手前方だったせいだろう。

 コルンゴルトの協奏曲は、おそらく初めて聴いたと思う。ラヴェルの左手のための協奏曲と同じヴィトゲンシュタインのために書かれた曲で、実はコルンゴルトの曲の方がラヴェルより先に作曲されたという。

 私の席からはピアノの鍵盤は見えなかったが、確かに音の数は少ないものの、これが左手だけで演奏されているとはなかなかに信じられないような多様な音が響いた。3つの楽章が続けて演奏されるので、私の不勉強のせいで、途中で音楽の流れについていけなくなり、迷子になってしまったが、終楽章で再び道を見つけ出した。コルンゴルトらしく、官能的で絢爛で、しかも内向的な感受性の豊かさを感じさせる音楽だった。阪田のピアノも素晴らしい。阪もオーケストラの力を存分に引き出して、しなやかで美しい音を出して見事。

 ピアノのアンコールはシューベルトの「君がわが憩い」(リスト&ヴィトゲンシュタイン編曲)とのこと。シューベルトの歌曲を左手のために編曲したものだろう。左手だけで演奏されるので、華麗ではなく、あくまでもしんみりと。よい演奏だった。

 後半の「夏の夜の夢」には少し不満が残った。もちろん、これもとてもよい演奏だと思った。二人のソプラノもとても素晴らしい。二人とも、音程がよく、ヴィブラートの少ない伸びのある澄んだ美声。少年合唱もとてもいい。ただ、この曲の演奏は難しいと思った。素晴らしい部分がいくつもあるが、とおして演奏されると、やはりちょっと退屈。

 その昔(たぶん1980年代)、先ごろ亡くなったドホナーニ指揮の来日公演でこの曲を聴いた記憶がある。歌の入らない版で、クリーヴランド管弦楽団だったと思う(ただ、ネットで少し調べたが、出てこない。もしかしたら別のオーケストラだったかも)。40年ほど前のことなので、正確には覚えていないが、クールで緻密で隅々まで神経の行き届いた繊細な演奏だった記憶がある。その時、この曲はこのように演奏するとこんなに魅力的になるのだ!と思ったのを覚えている。それに比べると、阪&紀尾井の演奏は、細かなところで少し雑さがあって、少し大味になっているのを感じた。

 アンコールに「こうもり」序曲。私はちょっと勢いまかせなところを感じたが、もちろんこの曲はそれでいい。親しみやすいメロディが炸裂し、躍動感にあふれ、ちょっと下品なところもあって、とても楽しかった。

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東京二期会「さまよえるオランダ人」 斬新な舞台ではあった!

 2025913日、東京文化会館で東京二期会公演「さまよえるオランダ人」をみた。指揮は上岡敏之、演出は深作健太、管弦楽は読売日本交響楽団。

 歌手陣は大健闘だと思う。中でも、ゼンタの鈴木麻里子は声が伸び、音程も確かで表現力も豊か。第三幕幕切れの絶唱は大迫力だった。オランダ人の斉木健詞も初めのうちこそ、少し不安定だったが、すぐに立て直して、見事な歌唱を聴かせてくれた。ダーラントの志村文彦も安定した声、マリーの川合ひとみもしっかりした声。舵手の与儀巧はきれいな声でよく伸びたのだが、初めのうち少し声が詰まるところがあった。エリックの樋口達哉はいかにもイタリアオペラ風の歌いまわしだったのだが、これは指揮者の指示だったのだろうか。三澤洋史に合唱指揮による二期会合唱団は、いつも最高度の合唱を聴かせてくれる三澤洋史の指揮にしては、あまり迫力を感じなかった。

 私が問題を感じたのは、上岡敏之の指揮だった。まるで煽り運転のような演奏だと思った。テンポが一定せず、激しく煽ったり、テンポをぐっと落としたり、一部の楽器を強調したりを繰り返す。序曲でもあっと驚く箇所がいくつもある。おそらく指揮者の指示だと思うのだが、ゼンタのバラードでも特異な歌いまわしがある。そして、第2幕や3幕など、かなり大胆なカットがある。きっと私にはわからない独自の解釈があり、楽譜に基づいたしっかりとした根拠があるのだと思うが、私にはこれらは恣意的で不安定に聞こえる。少なくともワーグナーでは、テンポを動かさないほうがドラマが深まると思うのだが。

 深作の演出は、カスパー・ダーヴィト・フリードリヒという画家の「氷海」という絵画をモティーフにしている。プログラムに記載された「演出ノート」によると、ロマン主義とは北に向かう思想であると捉え、オランダ人をメアリー・シェリーの「フランケンシュタイン」の主人公と重ね合わせているらしい。つまり、オランダ人は北極探検隊が出くわしたフランケンシュタインということになるのだろう。そして、最後、救済のテーマとともに、オランダ人とゼンタが愛を成就するシーンが示される。つまりは、この演出は、世間に打ち捨てられた孤独な魂が愛を成就するというロマン主義精神のエッセンスがこのオペラを作っていることを示してくれたということだろう。

 ちょっとやりすぎだと思うし、セリフとの整合性があまりに不足するが、意図としてはおもしろい。演出ノートを読まないことには何のことやらさっぱりわからないので、私としては演出を手放しで称える気にはならないが、ワーグナーの精神を出汁にして自説を唱えようとしているわけではなく、しっかりとオペラを描こうとしているのはありがたい。

 ともあれワーグナーは素晴らしい。問題点を感じる演奏や演出であっても、そのような斬新な試みをしてくれること自体はとてもうれしいことだ。

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ドホナーニ死去のニュースをみた

 クリストフ・フォン・ドホナーニ死去のニュースを昨晩、ネットで見た。95歳とのことなので、天寿を全うしたというべきだろう。大好きな指揮者だった。

 私が初めてドホナーニを聴いたのは、1977年、パリ旅行の最中だった。あまり音響の良くない会場だった。名称は忘れたが、きっとパレ・デ・コングレだったと思う。オーケストラはパリ管弦楽団、曲目はアニア・シーリアのソプラノが加わってシェーンベルクの「期待」と確かシュトラウスの「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」とシューベルトの「未完成」だったような気がする。シーリアとドホナーニがご夫婦であることを後に知った。

 席はガラガラ、たぶん百人もいなかったのではないか。あまり知られていない指揮者、そして現代曲がプログラムに含まれているとこうなるらしい。当時、フランス文学を学ぶ貧乏な大学院生だった私は2階の最も安い席を予約していたが、あまりに客が少ないので、ホール担当者の呼びかけで全員が1階の好きな席に移っていいということになった。フランスではこんなことがあるんだ!と驚いたのを覚えている。

 で、演奏はどうだったかというと、実はまったくよくなかった! 指揮者もオーケストラ団員もやる気のなさが見え見え。ひどい指揮者だと思った。

 ところが、その翌日だったか、翌々日だったかオペラ座(もちろん、まだバスティーユはないので、ガルニエ宮)でこのドホナーニの指揮で「フィガロの結婚」が上演された。期待せずに出かけた。貧乏だったので、アンヴィジーブルの席(直訳すると「見えない席」!)。2階のバルコニー席の後ろのほうで、確かに舞台の半分くらいしか見えなかった。

 が、序曲からして、コンサートとはまったく違う音が聞こえてきた。冒頭から気合の入った名演だった。繊細で軽やかで細かいところまで完璧で、要所要所でぴしりと音が決まる。しかもきわめて高貴な音する! 「フォン」のつく貴族なのも伊達ではないと思った(のちに、ハンガリーの作曲家エルンスト・フォン・ドホナーニの孫であることを知った)。こんな「フィガロの結婚」はこれまで聴いたことがない!と思った。マーガレット・プライスの伯爵夫人、テレサ・ベルガンサのケルビーノも素晴らしかった。全身が震えるような感動を覚えた。いっぺんでドホナーニのファンになった。

 その後、CDをかなり聴いた。実演もシュトラウスの「影のない女」やベートーヴェンやブラームスなどの来日公演を聴いた。組み立てのしっかりした知的な演奏にしびれた。それ以前、フルトヴェングラーやチェリビダッケなどの、楽譜とかけ離れた演奏をする指揮者が大好きだった私の好みを変えてくれたのはドホナーニだったといえるかもしれない。ドホナーニを聴くうちに、激しい思い入れをしないで、速めのテンポで音楽の本質をえぐり出すような演奏のほうが好きになった。ウィーン・フィルとのメンデルスゾーンの交響曲全集、クリーヴランド管弦楽団とのベートーヴェンやブラームスは今でも愛聴盤だ(ただ、彼のワーグナーは、ちょっと淡白すぎて私の好みではなかった)。

 大好きだった若手指揮者がいつのまにか高齢になり、重鎮になり、そして亡くなっていく。当然のことだが、とても悲しい。合掌。

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金川真弓無伴奏ヴァイオリン・リサイタル 鮮明でスケールの大きなシャコンヌに感動

 202597日、浜離宮朝日ホールで金川真弓無伴奏ヴァイオリン・リサイタルを聴いた。曲目は前半に、エネスクの「幼き頃の印象」第1曲「吟遊詩人」、バツェヴィチの「4つのカプリース」より第2番、バルトークの無伴奏ヴァイオリン・ソナタ、後半にイザイの無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第5番とバッハの無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ第2番。素晴らしい演奏だった。

 研ぎ澄まされた、思い切りのよい美音、冴えわたったテクニック、完璧な音程。淀みなく、かなり快速のテンポで音楽を進めていくが、強弱の取り方やアーティキュレーションによってしっかりした構成が出来上がっていく。思い入れのようなものは感じられない。精神性を音楽に加えるのではなく、音そのもので世界を作っていくのを感じる。だが、そうであるがゆえに、むしろ精神の高貴さが感じられる。

 前半の曲では、やはりバルトークが圧倒的だった。この曲は精神的苦悩のにじむ曲であって、そのように深刻に演奏することもできる。そのような名演奏も多い。だが、金川の演奏は精神性を付与しない。のびのびと鋭い音を重ねていく。だが、その中から言葉にできない精神世界が広がっていく。

 後半も素晴らしかった。イザイには、私は音による色彩の実験のようなものを感じた。様々な技法によって音色が微妙に変化しながら、緻密で繊細な小宇宙を作り上げていく。この曲でもぴたりと音が決まってシャープに展開されていく。

 バッハのパルティータは言葉をなくす凄さだと思った。抑制的に始まって、ジーグに至って快速で躍動。そしてシャコンヌに入る。鮮明でスケールの大きなシャコンヌだった。くっきりとどこまでも広がっていく。冒頭のモティーフが繰り返されるごとに、世界が広がっていく。感動のあまり涙がにじんできた。

 金川真弓。素晴らしいヴァイオリニストだとは前々から思っていたが、期待以上の感動を与えてくれた!

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カルテット・エーレン旗揚げ公演 素晴らしい弦楽四重奏団!!

 202595日、東京文化会館小ホールでシャイニング・シリーズVol.18 カルテット・エーレン演奏会を聴いた。ドイツを中心に活躍する4人(ヴァイオリンの戸澤采紀、島方瞭、ヴィオラの戸原直、チェロの佐藤晴真)が結成した団体の旗揚げ公演ということになる。曲目は前半にハイドンの弦楽四重奏曲ハ長調Op.74-1 Hob.III:72とヤナーチェクの弦楽四重奏曲第2番「ないしょの手紙」、後半にベートーヴェンの弦楽四重奏曲第9番「ラズモフスキー第3番」。素晴らしい演奏だった!

 まさに堂々たる演奏! 奇をてらうことなく、テンポを動かすこともなく、無理やりどこかを強調するのでもなく、ベルチャ弦楽四重奏団やエベーヌ弦楽四重奏団のようにものすごいシャープさを表に出すわけでもない。正統派の演奏でありながら、絶妙のアンサンブルとそれぞれの音の美しさとヴィヴィッドな反応、納得のいく構成感で観客の耳をひきつける。

 ハイドンの曲では、前半、いかにもハイドンらしい均整のとれた演奏。研ぎ澄まされ、きびきびしているが、戸澤のヴァイオリンの美しさのために歌心がある。最終楽章のエネルギー溢れる、ちょっとジプシー的な響きも素晴らしかった。

 ヤナーチェクの「内緒の手紙」は久しぶりに聴いた。これも正統派の演奏。ドイツ的な演奏と言ってよいかもしれない。民族色は薄れている。その点では、少しヤナーチェクらしさが不足している気がしないでもない。ヤナーチェク特有の「ざわつく音」(と私は密かに呼んでいる)に田舎っぽさはない。都会的に洗練されている。しかし、鋭くも美しい音でざわつくので、聴く者の心の奥底にまっすぐ届く。ヤナーチェクの生命、うずく恋心、魂の奥底から発する性欲(=生命力)が奏でられる。これまた最終楽章は圧巻。

 ベートーヴェンの第9番は前半やや抑え気味に聞こえた。第2楽章はちょっともたついた気がしたが、意図的にそのような演奏にしたのだろうか。第3楽章以降はぐんぐんと緊張感が増し、最終楽章は繊細でありながらもスケールの大きな演奏。4台の楽器が見事に絡み合う。これぞ弦楽四重奏の醍醐味だと思う。感動した。

 アンコールはラヴェルの弦楽四重奏曲第2楽章。これまたきわめてドイツ的と言ってよいだろう。フランス的な柔らかさやラヴェルらしい諧謔はどこかに行って、ドイツ的に真正面からエッセンスに迫るような演奏。ドビュッシーと違って、確かにラヴェルをこのように演奏してもラヴェルの魅力は伝わる。研ぎ澄まされ、びしりと決まった演奏。これはこれですごい!

 カルテット・エーレン! 素晴らしい弦楽四重奏団だと思う。ソリストとしても活躍する奏者たちなので、さて、どのくらい弦楽四重奏団として活動できるのだろう。常設の団体として次々と演奏してくれると、こんなうれしいことはない。

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大野&イブラギモヴァ&都響のショスタコーヴィチ第2番 イブラギモヴァに感動!

 202593日、東京文化会館で東京と交響楽団の定期演奏会を聴いた。指揮は大野和士、曲目は前半にアリーナ・イブラギモヴァが加わってショスタコーヴィチのヴァイオリン協奏曲第2番、後半に交響曲第15番。

 私は特にショスタコーヴィチ愛好者というわけではないのだが、なぜか気になって、時間の余裕があるとショスタコーヴィチの交響曲や協奏曲を聴きに行きたくなる。聴くたびに、どう解釈してよいかわからずに途方に暮れるが、また聴きたくなる。今回も同じだった。

 ヴァイオリン協奏曲はとりわけイブラギモヴァの演奏に心惹かれた。少し前まで少女のような雰囲気だったが、かなり風格が出てきた。音楽的にも、かつてのしなやかで繊細な雰囲気は保ちながら、音の質感が増し、精神的深みのようなものを感じさせる。そのような音でショスタコーヴィチの晩年の境地を描いていく。

 第1、第2楽章は抑制気味といっていいだろう。第3楽章になって爆発する。しかし、中期までのようなヒステリックといった雰囲気はなく、抑制され、内面化されている。超絶技巧の長大なカデンツァは華麗とさえいえそうだが、むしろ大宇宙に音の線による色彩的な落書きを書いているかのような雰囲気がある。それをイブラギモヴァは、熱を込めるでもなく、やすやすと知的に弾きまくる。それが素晴らしい。圧倒された。大野指揮による都響の音もさすがというしかない。アンサンブルが安定しており、独特の知的な雰囲気がある。

 交響曲15番については、私は実はよく理解できなかった。これまでこの曲は何度か聴いたことがあるが、聴くたびに狐につままされたような気になる。第1楽章に何度も出てくる「ウィリアム・テル」序曲の断片は何を意味するのだろう、第4楽章の「ニーベルングの指環」の「運命の動機」はいったいなぜ出てくるのだろう。大野指揮で聴いたら何かしら納得できるのかと思ったのだったが、やはりわけがわからなかった。わからないなりに、心躍るということもなかった。

 きっと私の修行が足りないということなのだろうが、マエストロが何をしたいのか、そもそもこの曲をどう聴けばよいのかわからず、退屈に思ったのだった。

 が、ヴァイオリン協奏曲第2番については、私は大いに心躍り、イブラギモヴァの演奏を久しぶりに聴いてとてもうれしかった。それで十分!

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METライブビューイング アンコール「フィデリオ」

 METライブビューイング・アンコール「フィデリオ」をみた。2025315日の公演。

 このところ、メトロポリタン・オペラにはほとんど常に満足してきた、いやそれどころかしばしば深く感動してきたが、今回は残念ながら、とても退屈だった。はっきり言って常軌を逸したつまらない演奏だと思った。最後まで鑑賞するのがつらかった。

 歌手陣は充実している。

 圧倒的に素晴らしいのはレオノーレを歌ったリーゼ・ダーヴィドセン。妊娠中だというが、見事な声。伸びがあって、ぴしりと音が決まる。フロレスタンのデイヴィッド・バット・フィリップも美声が際立つ。伸びがあってとてもいい。ピツァロのトマシュ・コニエチュニはさすがの悪役ぶり。マルツェリーネを歌うイン・ファンも澄んだ声でチャーミング。ロッコのルネ・パーペは、第一幕のアリアではどうもかなり不調のようで声が伸びなかったが、第2幕では持ち直した。ジャキーノのマグヌス・ディートリヒ、フェルナンドのスティーヴン・ミリングもさすが。

 ただ、これほど名歌手が美声で歌っているが、何しろスザンナ・マルッキの指揮があまりに平板でドラマがないので、歌も生き生きとしてこない。オーケストラはずっとスローテンポで、ただきれいな音を出すことを心掛けているようだ。ずっと同じ表情で、いつまでもドラマが盛り上がらず、スリリングさがまったくなく、緊迫感もなく、弛緩してだらだらと、ただ美しい音が続く。これではオペラにならない。少なくともベートーヴェンのオペラにならない。第1幕のレオノーレのアリアも、せっかくのダーヴィドセンの歌であるにもかかわらず、レオノーレの怒りが伝わらず、囚人たちの合唱も何の感情もこもらず、フロレスタンの第二幕冒頭の歌も少しも絶望が伝わらない。ドラマが盛り上がるはずの、レオノーレが正体を明かす場面もまったく感動的ではない。最終場も解放の喜びが伝わらない。

 演出はユルゲン・フリムの伝統的なもので、新しさはまったくない。これも退屈を誘う大きな要因だろう。

 とても残念だった。が、まあ名歌手たちの声を聴けたのでまあよかったと思おう。

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映画「国宝」 主人公二人がよく似ている!

 映画「国宝」をみた。話に聞いていた通り、歴史に残る名作映画だと思った。

 映画は吉田修一の原作とはかなり異なる。原作の主要な人物が何人か登場しない。小説の主人公・喜久雄(黒川想矢・吉沢亮)も、そして花井半二郎(渡辺謙)も映画の世界で活躍するはずだが、それもすべてカットされている。喜久雄と俊介(越山敬達・横浜流星)そして、駿介の父親である半二郎の関係に絞ってストーリーが展開していく。しかも、後半、原作にない場面も挿入され、別のエピソードが添えられる。原作の精神が映画の観客に伝わるように、きわめて巧妙に作り変えられている。原作に忠実にして全体が薄まるよりも、このような方法を選んだ台本は大成功していると思う。

 芸を磨こうとする二人の青年の努力、そして、歌舞伎の血を受け継ぐ者とそうでない者の友情と葛藤。もうそれだけですべての場面が緊張感にあふれる。そこに女形の芸が加わり、華やかさが加わると、観客は夢中になって画面をみるしかなくなる。

 これはまさに裏と表の物語だ。それがひっくり返ったり、元に戻ったり。

 私は人間の顔の識別が苦手だ。映画をみてもしばしば混乱するし、日常生活でも困っている。そんなわけで、吉沢亮と横浜流星も見分けがつかずに困った。いや、それどころか、実を言うと、私はしばらく前、テレビ・ドラマで横浜流星をみて、その人物こそが大河ドラマで主役に抜擢され、CMでも見かける吉沢亮その人だとばかり思っていた。しばらくたって、二人が別人だと気づいて驚いたのだった。その後、ずっと私は二人の見分けがつかなかった。この「国宝」も、中盤になってやっと二人の区別がつくようになった。

(アメリカのアカデミー賞の候補作になっていると聞くが、日本人の私でも識別に苦労しているのに、外国人に識別できるのだろうか。ちょっと心配。もしかしたら、私の識別能力が特別に劣っているだけなのかもしれないが)。

 この二人のキャスティングは、きっと二人がとてもよく似ているためになされたのだと思う。二人が似ているために、この二人が裏と表の関係であることが明確になる。そして、映画が進んでいくにつれて、それが裏表の関係ではなく、一体の関係に変化していく。そして二人が一体化することで歌舞伎の伝統が一つの国宝という生命になっていく。これはすべての人格を喰らい、一つの抽象的な国宝という芸術美が結晶することを描く残酷な物語なのだと思う。

 残念ながら日本の古典芸能についての素養のない私には、映画に出てくる歌舞伎の内容を深く理解できない。その演目、その場が小説で、あるいは映画で選ばれり、変更されたりした理由もよくわからない(「曽根崎心中」については、足!にポイントがあるのは理解できるが)。もちろん登場人物たちの歌舞伎の仕草の巧拙を判断することもできない。それらを理解できたら、もっと楽しめただろうと思う。

 それにしても李相日監督の演出力に感嘆した。冒頭の殴り込みの場面からして、リアルであるとともに様式美にもあふれている! 少年時代の二人の演技も見事。そして、もちろん、二人の芝居、踊り、舞台上で動けなくなった俊介を喜久雄がかばう場面など、息をのむ。いや、その二つの場面だけではない。そのような場面にあふれている。しかも、映像は洗練され、動きにあふれている。芸ということでいえば、小野川万菊を演じる田中泯、幸子の寺島しのぶの演技力にも圧倒される。

 小説を先に読んでいたので、映画化には落胆するのではないかと危惧していたが、むしろ私は映画の力を再確認できた。私が小説を読んで少し違和感を覚えたところが上手にカットされ、同じような意味を持つ別の構成、別のエピソードに変えられ、それが違和感なく感動的な映像として展開していった。これは小説の映画化の見事な例だと思った。

 このような良い映画が大ヒットするのはうれしいことだ。

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