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オペラ映像 ノセダ指揮、チューリヒ歌劇場の「ニーベルングの指環」

 ジャナンドレア・ノセダ指揮、アンドレアス・ホモキ演出のチューリヒ歌劇場のワーグナー「ニーベルングの指環」のディスクをみた。簡単な感想を書く。20245月のライブ収録だという。

 

「ラインの黄金」

 どの場もずっと同じコンセプトの舞台。真新しい白い壁に覆われた19世紀風の室内で展開される。少しだけ調度品やピアノなどがあるだけのすっきりとして清潔な室内。つまりはワーグナーが活躍した時代に舞台は設定されているといってよいだろう。いくつかの同じような部屋が回り舞台で移動するが、どの部屋も基本的には白壁の部屋という設定になっている。

 三人のラインの娘たち(ユリアナ・アレクシュク、ニアム・オサリヴァン、シエーナ・リヒト・ミラー)は全身白装束。ヴォータン(トマーシュ・コニェチュニー)はワーグナーの肖像としてよく見られる服装。フリッカ(クラウディア・マーンケ)はコジマ夫人のような服。ドンナー(ジャオメン・チャン)とフロー(オメール・コビリャク)はイギリス紳士のような恰好で、どうも手にしているのはクリケットのバットのようだ。こびと族は薄汚い恰好をし、巨人族は身ぎれいな紳士風。要するに、ワーグナーの時代に、ワーグナーの身近で起こった出来事として「リング」が捉えられている。

 部屋の窓の一つが二―ベルンハイムへの入り口になっており、そこからアルベリヒ(クリストファー・パーヴェス)は出没する。ヴォータンとローゲ(マティアス・クリンク)が二―ベルンハイムに移動するときもそこを使う。ワルハラ城は壁にかかった油絵で表現される。

 歌手陣はきわめてレベルが高い。演奏については、かなりレベルが高い。ノセダにワーグナー指揮者という評判は聴いたことがなかったが、とてもドラマティックな演奏をしているが、巨大さ、神話性は皆無と言ってよいだろう。切れがよく、すっきりとした演奏。ワーグナーらしいうねりや深遠さはない。きわめて現世的。その意味で演出に合致した演奏とは言えるだろう。

 

「ワルキューレ」

「ラインの黄金」と基本的には変わりのない舞台。すべての幕が、同じように白い壁に囲まれた、ほとんど家具のないきれいな部屋で展開される。第一幕のトネリコ、第三幕の岩山なども室内に置かれている。ヴォータンは白シャツに黒のヴェスト、ワルキューレたちは白いスカートに黒いジャケット。ワーグナー時代から少し時間がたっているのだろうか。ワーグナーの時代と20世紀の服装の中間という感じ。全体的に、きわめて現世的な演出で、ヴォータンとフリッカのやり取りはまさに夫婦喧嘩。ワーグナーとコジマの言い争いもこんなものだっただろうと想像される。

 ノセダの指揮は、かなりの快速で、ワーグナー特有のうねりや陶酔を排除している。おそらく意識的に排除しているのだろう。だから、ぞくぞくするような陶酔は得られない。官能に震えることもない。きびきびと展開されていく。まあそれはそれで小気味いいとはいえるかもしれないが、オーケストラの深みのようなものもあまりないので、これではワーグナーの醍醐味がまったくない。私としては大いに不満を覚える。

 歌手陣は充実している。ジークムントのエリック・カトラーとジークリンデのダニエラ・ケーラーはまだかなり若い。二人ともちょっと堅いが、しっかり歌っている。フンディングのクリストフ・フィッシェサーもなかなかの悪役ぶり。フリッカのクラウディア・マーンケは見事な声と演技でちょっと嫌味な女性を演じる。ヴォータンのトマーシュ・コニェチュニーは、神様らしいところは微塵もないが、傲慢でありながらも力を持ち、人間味にあふれる初老の男。ブリュンヒルデのカミラ・ニールンドも素晴らしい。たぶん30年近く前、武蔵野市民ホールでシベリウスなどの北欧歌曲を歌っているのを聴いていっぺんにファンになって、それ以来応援してきたニールンドがここまでの大歌手になったことに、私としてはとてもうれしい。

 

「ジークフリート」

 演出も演奏も「ワルキューレ」と同じスタイル。「ラインの黄金」や「ワルキューレ」と同じような造りの室内だが、これまでは真っ白だった壁が黒ずんでいる。そこに鍛冶仕事に必要な場があり、ミーメとジークフリートがやりとりをする。第2幕では、大蛇も同じ室内に登場、小鳥は白装束、第3幕のブリュンヒルデ登場の場面も、「ワルキューレ」と同じ岩山が室内に現れる。

 音楽的にも、いっそう世俗的で、神々の物語的な要素はない。

 ジークフリートを歌うのはクラウス・フロリアン・フォークト。もちろん名歌手なのだが、この人特有の自然な発声による無理のない歌が、あまりジークフリートらしく聞えない。しかも、顔つきも振舞も真面目な優等生のようで、ジークフリートの粗暴さ、やんちゃさは微塵もない。ミーメのヴォルフガング・アブリンガー=シュペルハッケ、アルベリヒのクリストファー・パーヴェス、ファフナーのデヴィッド・レイはきわめて高いレベルで安定している。森の小鳥のレベカ・オルヴェラについては、指揮者の指示なのかもしれないが、なんだか歌いまわしがかなり個性的な気がする。

 さすらい人のトマーシュ・コニェチュニーとブリュンヒルデのカミラ・ニールンドはさすがの歌唱。ただ、第3幕の盛り上がりに欠けるので、私としてはワーグナーを聴いた満足感を得られない。

 

「神々の黄昏」

 またしても、同じ室内。ただ、ここでは、かつて白かった壁はうらぶれて、汚れがたまり、老朽化している。ワーグナーの時代からかなり時間がたっているのだろう。そこに、ノルンが現れたり、岩山が現れたり、ラインの娘たちが現れたり。登場する人々の服装も現代に近い。要するに、「リング」をワーグナーの部屋の時代による変遷として描いたということなのだろうか。

 グンタ―のダニエル・シュムッツハルトとグートルーネのローレン・ファーガンも力演。赤い上着を着て、かなり不気味な雰囲気を出している。ハーゲンを歌うデヴィッド・レイの声の威力はすさまじい。これまで見てきたハーゲンと違って、演出家が意識しているかどうかはわからないが、まるでラスプーチンといった雰囲気だ。長いコートを着て黒髪を肩まで伸ばして、不気味な陰謀家然としている。

 それほど大胆な解釈はなく、舞台は進む。死んだはずのジークフリートがよみがえってブリュンヒルデと愛撫する。フォークトとニールンドの歌はさすがというしかない。歴代の大歌手たちと比べると、これまた少し強さ、大きさにおいて不足するところがあるが、これも現代のジークフリートとブリュンヒルデなのだろう。

 最後、すべてが終わった後、燃えさかるヴァルハラの絵をヴォータン(ワーグナーのような服装をしているようだ)が見ているところで幕が下りる。要するに、ワーグナーとヴォータンを重ね合わせ、ワーグナーの野望が今では老朽化し、ワーグナーが夢見た神話世界はすでに崩壊し、現代ではもっと無機質で虚無的な世界になっているということを訴えているのだろうか。

 ノセダの指揮も、これまでと変わりがない。かなり快速で、滔々と流れて深く沈潜する雰囲気は皆無。切れがよく、さらさらと進んでいく、「ジークフリートの葬送」の場面ではさすがに重く激しくなるが、それでもこれまで私が聴いてきた様々な指揮者に比べると、いかにも薄い。まさにワーグナーの求めた神話的な世界はなくなり、表層だけの音楽になっている。

 全体を観終えて、ひとことで言って、私はあまり深い感銘は受けなかった。ずっと同じような室内で展開するホモキの演出も、経費節減のためというわけではなかろうが、あまりに代わり映えがしなくて退屈になる。新たな解釈がありそうでもない。演奏についても、繰り返し書いてきた通り、ワーグナーの醍醐味がなく、音が薄い。意図的に神話性、形而上性を排除しているのだろうが、そうすると、ワーグナーの最大の魅力がなくなってしまうと私は思う。歌手陣はそろっているものの、少々残念なディスクだった。

 きっと同じように思っている人も多いのだろう。「ジークフリート」と「神々の黄昏」のカーテンコールの際、ノセダが登場するとき、大拍手とともにブーイングが混じっているようだ。演出に対するブーイングはお決まりと言ってよいほどだが、指揮者に対するブーイングはかなり珍しいと思う。

 なお、私の使っている機器の不具合ではないと思うのだが、「神々の黄昏」の日本語字幕が乱れている。通常のセリフの後にカタカナでそのセリフの一部が繰り返される。「ならば綱をこちらに投げてツナヲナゲテ」「私の灰から拾い出せハイカラヒロイダセ」といった具合。ほぼすべてのセリフがこのように表記される。これはかなり興ざめ! 何とかならないだろうか。

 

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