2026年3月7日から11日まで、東ティモールとバリ島を訪れていた。
東ティモールに行こうと思いたったのは、先日のブルネイと同じ。99歳の母の体調などのために長期間の旅行は難しい。アジア地域でまだ行ったことのない国に東ティモールがあるのを思い出した。2002年に独立した小さな国だ。もちろん、この国が生まれた時の報道はよく覚えている。つい数年前のことと思っていたが、もう20年以上たつ。この新しい国を見てみたいと思った。東ティモールへの直通便はなく、バリ島経由ということになる。
30代の息子を誘って、二人で、これまでに何度か利用したことのある個人手配の旅行会社に現地ガイドなどを依頼した。
3月7日
3月7日、成田を11時に出発のガルーダ・インドネシア機でバリのデンパサールに到着。前もってヴィザを取っていたので、すんなりと外に出た。27~28℃前後だと思う。清潔できれいで華やかな空港で、お土産物売り場も完備されている。空港の外に出ると、大勢のガイドさんらしい人たち(もしかしたら100人以上いるかも)が手に札をもって降りてくる客を待っている。が、どう探しても、私たちを待つガイドさんが見当たらない! あれこれ電話をするなどして、やっと連絡が取れて、ガイドさんは1時間遅れで到着。不安な時間を過ごした。
どうやら日本の代理店と現地代理店の連絡不行き届きだったらしい。短いオプショナルツアーを依頼していたが、レストランでの食事だけになってしまった(ただ、ガイドさんがとても恐縮してくれて、その後、あれこれのサービスをしてもらい、とても快適に過ごすことができた)。海辺のレストランでおいしい海鮮料理を食べてから、バリ風のホテルへ。
2017年以来、二度目のバリだった。以前訪れて、欧米人を含む大勢の観光客の集まる大リゾート地だと思っていたが、今回も印象は変わらない。ただ、以前来た時よりも西洋人が比較的少ない気がしたが、それは動き回った土地のせいかもしれない。
3月8日
8時50分のシティリンク機で東ティモールのディリへ。バリの旅行代理店に便宜を図ってもらってすんなりと出国できた。2時間ほどの飛行だった。
200人弱収容程度の飛行機で、三分の二くらい埋まっていた。観光客らしい人はあまり多くなかった。多くの人が仕事や何かの用ででかけている雰囲気を感じた。日本人らしい人は数人いるかいないかだと思う。
飛行機の窓から見えるディリの町は、まさに海辺の小都市。私は10歳から18歳まで大分市に住んでいたが、当時の(ということはつまり、1960年代の)大分市を思い出すような風景だった。
東ティモール民主共和国。首都はディリ。国土面積15000㎡(つまり、四国より少し大きい程度)、人口は約135万人(首都ディリの人口は30万人強)。日本と時差なし。16世紀にポルトガルの植民地になり、1975年からはインドネシアの支配を受けていたが、2002年に独立。公用語はテトゥン語とポルトガル語だが、インドネシア語も広く使用されている。通貨は米ドル(つまり、独自通貨はない)。99パーセントがキリスト教徒で、そのほとんどがカトリック。大統領制。入国前の私の知識はそのくらいだった。
空港到着。タラップを降りて、ヤシの木が何本も立ち、庭木の並ぶ通路に沿って赤茶色の屋根(もしかしたらトタン屋根?)の建物に入る。これが首都の空港とは思えない。村の公民館のような建物だ。気温は30℃前後。薄曇りの天気だった。
ディリの空港(ただし、これは出国時に撮影したもの)
窓口に並んでアライヴァル・ヴィザを取得(30米ドル)し、長い行列でパスポート検査。窓口ではかなりの部分が手書きなので、異常に時間がかかる。その後、入国審査申請書を空港内に4台置いてあるパソコンで順番を待って作成。これを前もって作成しておくべきだったが、勝手がわからずにいたため、空港内で作った。それでも何をどう書けばよいかわからない項目もあり、息子とともに悪戦苦闘(息子はロンドン滞在歴もあって、人並みよりはこの種のことには強いはずなのだが!)し、近くにいたお役人の手助けを得なければならなかった。
飛行機では前方に座っていたので、早く外に出たのだが、結局、審査が終わって空港出口を出たのは、120~40人程度の客の最後になってしまった。1時間ほどを要していた。
私は海外に出ると、docomoの「世界そのままギガ」でWi-Fiにつないでいるが、東ティモールでは接続できなかった。接続できるという情報だったので何とかなると思っていたのだが! 空港のフリーWi-Fiを探したが、これも接続できなかった。IT環境がかなり良くないことを、この後もしばしば感じた。
ただ、もう一つ、軍人らしい人や警官らしい人も見当たらないことも感じた。どこの空港にもいかめしい人がいるものだが、ここにはいない。空港関係者らしい人物はいるが、権力を持っていそうな人は見えない。このことは、その後、町の中に出てからも感じた。
ガイドさん(知的な日本人女性。JICA関係の仕事で東ティモールの男性と知り合って結婚してこちらに定住している方だった)と合流して、すぐに車で観光に出かけた。
この国には観光地などはないに等しいが、ほとんど唯一のディリの名所はクリストレイ。リオの像に次いで大きいというイエス・キリスト像だ。今は雨期だが、幸い、雨は降っていない。いつ雨になるかわからないというので、今のうちに行こうということになった。
車のほとんどが日本車。右ハンドルで左側通行。車が少ないせいもあるが、ドライバーはみんながきわめて穏やかな運転だ。先を争うこともない。バイクも走っているが、それほどの量ではない。ただ、私たちの乗る車の運転手さん(あまり運転は上手ではなかった)の特性なのかもしれないが、ほとんどウィンカーを出さないで車線変更をしていた! ただ、スピードは速くないし、交通量も多くないので、まったく危険を感じることはなかった。
信号はほとんどない。だが、阿吽の呼吸というべきか、交通量の多い交差点でも、トラブルらしいものなしに動いている。この国の人は先を争ったりせず、相手に譲る。
中心地の建物そのものは現代的だが、町の雰囲気は、まさに1960年代の大分市に近い。高い建物はない。高くても5階建てだという。中心街でも2階建てか3階建てがせいぜい。それも隣接して建物が建っているのではなく、広い敷地があり、緑が見える。大統領官邸や省庁の建物の前も通ったが、いかめしい様子はなく、公園やふつうのホテルのような雰囲気だ。
海岸の道路を通った。テトラポットが海辺に置かれている。私は、別府と大分を結ぶ海岸の道路(国道10号線だが、別大道路と大分市民は呼んでいる)を思い出した。ただ、大分市の海辺は当時から岸壁があったが、ディリには岸壁のないまま海につながっているところも多い。道路の横には砂浜が広がっており、その先に海がある。車が海に転落しそうで怖くなる。
ミャンマーなどの東南アジアの道路は、都市部に限らず田舎道でも、道端にゴミが散乱していることがある。散乱どころか、ゴミの連なりが途切れることなく、何十キロにもわたって続いていることがある。だが、この町にはゴミが見えない。きちんと掃除をしているのだろう。清潔な町だ。




クリストレイは、海に張り出した小さな岬になった小山の頂上に立っている。海岸に面した広場で車を降りて、遊歩道と階段を通って、キリスト像まで登る。ときどき日が差す程度の天気で、それほど暑くなかったので助かったが、74歳の私にはかなりきつかった。途中で諦めようかと何度も思った。何度か休憩し、左右を見渡す。風が吹き、右に左に海が見えて美しい。
キリスト像は地球の上に乗っていた。キリストはポルトガルの方向を見ているとのことだった。東ティモールはカトリックの国で、ポルトガルの植民地だった。キリストの思いというよりも、ポルトガルからやってきた人たちの思いをこのキリスト像は表しているようだ。ただ、どこをみても、この像の建造年などの情報がみあたらない。

その後、モタエル教会(Santo Antonio de Motael)にも行った。白い壁に赤い屋根の美しい教会だ。1800年に建造されたが、現在の建物は1955年建造だという。薄曇りの下に白い教会が静かに立っており、とても美しい。人影はなく、超然とした雰囲気だった。
その後、タイスマーケットへ。ディリで最も大きいショッピングモールだという。1階にスーパーや様々な小さな商店があり、2階では衣料品、電子機器、日用品などが売られている。東南アジアの市場の雰囲気は微塵もない。まず人が少ない。日本の地方都市のちょっと大型のスーパーのような雰囲気と言ってよいだろう。それこそ、大分市の郊外のちょっと大型のスーパーの雰囲気に近い。
スーパーは日本や西洋の店と同じように、整然と商品が整列されている。値段は、すべてにおいて日本の商品よりも2、3割安いといったところ。たぶん、このような店は、少し高めなのだろうが、それにしても、初任給が月2万円程度だというから、現地の人は苦しいだろう。ほかの店でもそうだったが、ここではポルトガル製が高級品として売られている。ついでにいうと、優秀な若者の留学先はポルトガルだという。確かに、あちこちにポルトガル語の表示がある。
近くのカフェでコーヒーを飲んだ。おしゃれな店で、日本の一等地にあるカフェと雰囲気は変わらない。コーヒーは東ティモールの特産の一つとのこと。とてもおいしかった! コーヒー一杯2ドルだった
その後、ホテルへ。Excelsior Resort Hotel。かなり広い敷地のホテルで、壁に囲まれた敷地内には門を入ってしばらくまっすぐの道があり、両側に薄い黄色の平屋が数軒並んでいる。バンガロー形式のホテルというべきか。そこには事務所も入っているようだ。木々が植わっていたり、花壇があったりするが、私は刑務所か収容所、あるいは兵舎を思い浮かべた。
奥のほうに2階建ての母屋があって、そこの1階がフロントだった。かなり古びたホテルで、がらんとした雰囲気。Wi-Fiも含めて、設備はあまり良くなく、備品も完全ではなかったが、必ずしも不快ではなかった。スタッフの感じはよくて親切。日本式のサービスとは対極にある、質素でさっぱりした対応だった。
息子と二人で、ガイドさんに教えてもらったホテル近くのレストランに向かった。
レストランへの道は、まさに貧しい地域の路地だった。
車がやっとすれ違えるくらいのコンクリートを打っただけの道で片側には用水路があって水がちょろちょろと流れている。廃屋としか見えないような、土の上に、薄汚れたトタン屋根を載せただけの古い材木で組み立てた掘立小屋があり、木の台の上で、ココナツやバナナ、トマトなどの野菜を売っている。そうそう、こういう朽ちかけた小屋をバラックと呼ぶのだったと久しぶりに思い出した。
ガラス戸の冷蔵庫を3つほど並べて、水や飲み物などを売っているだけの店もいくつかある。ところどころで店の表の出っ張りには洗濯物をひっかけている。魚を皿の上に10匹ほど載せて売っている人もいる。子どもたちが多い。はだしで歩く子どもたちもいる。野良犬なのか飼い犬なのか、犬があちこちでぶらぶらしている。鶏も放し飼いで家の周囲を歩いている。これまた、1960年代の九州の田舎の貧しい地域を思い出す。ただ、そんなところでも、何人かの子たちが固まってタブレットで遊んでいたりする。
レストランは、その区域ではお洒落に見えた。ビールを飲みながら、ナシゴレンや牛肉料理、デザートなどを食べた。息子と二人でちょうど50ドル。7500円前後! 日本で食べても同じくらいの料金だろうと思った。なかなかの物価だ!
食べているうちに暗くなった。疲れていたので、ホテルに帰って、すぐに就寝。
3月9日
ディリから車で海岸線を20分ほど西に進んで、マングローブの生える海岸に行った。その後、30分ほど西に進んで、海岸のレストランで昼食。海が美しい。道辺の道路のところどころで、野菜や魚を並べて売っている人がいる。魚を自分たちで釣って、売っている人が多いのだという。確かに、海の中に人がいて、魚を取っているらしい人もいる。ただ、組織的に漁をしている様子は見られない。漁業はあまり企業化されていないのだろうか。
この国を見て思うのだが、商売の意欲があるのかないのか。その気になれば、もっと漁業を組織化して手広く儲けることができるだろうに、と思う。観光資源もたくさんありそう。ところが、国民はそんな気がなく、競争心もなく、儲けようという気もないようだ。あちこちの小売店にも商売気がなく、たくさん売ろうという工夫が見られない。拡大再生産をめざすのではなく、単純再生産を当然と思っている様子だ。
ガイドさんによると、教育水準も高くないことが問題になっているという。数学の大学教授の数学の能力に日本からやってきたJICAボランティアが疑問を持った話も聞かせてくれた。小学校、中学校では教員の質が低くて、十分に成り立っていないことが考えられるようだ。だが、それでも特に大きな問題は起こることなく、平和に国家は動いているらしい。民主主義国であり、大統領制は安定しており、表現の自由もあり、国会も民主的に運営されているとのこと。内実はよくわからないが、ともあれ、町の雰囲気はまさに平和でのどかで、アジア的喧騒からかけ離れている。
ディリに戻ってから、まず大聖堂へ。
1980年代に作られたという。薄いベージュの壁のシンプルな雰囲気の聖堂で、落ち着いたたたずまいを示している。東ティモールの人々は敬虔なカトリックであって、多くの人が日曜日には教会のミサに出席するという。さすがにミサの際には近くの道路は大渋滞になるとのことだった。
次に、東ティモール抵抗運動博物館を見学。ポルトガルの植民地からの独立運動、インドネシアからの独立運動、弾圧と抵抗の歴史がパネルや写真、動画で語られている。ただし、広島原爆記念館や、カンボジアの博物館などに比べると、残虐な状況についての記述があまり多くない気がした。
その後、サンタクルス墓地へ。
1991年、東ティモール独立を求めて殺害された若者を弔うために集まった民衆に向けてインドネシア軍が発砲し、大量虐殺につながったのがこのサンタクルス墓地だ。これをきっかけに東ティモール独立運動が活発になったということらしい。
ただ、東ティモールの様々な項目を見るに、どこにも統計らしいものが見当たらない。日本人としては、このサンタクルス事件で何人が殺されたのか大いに気になるのだが、その記述が抵抗運動博物館でも見つけられなかった(英語の表示が下の方にあるため、英語がけっして得意でない私は見つけられなかった可能性もないではないが)。数字をあまり気にしない国民なのかもしれない。(あとで調べたら、270名が殺害された、という記述をネットで見つけることができた)。
墓地の手前のほうには、1991年の事件で殺された人々が埋められているという。キリスト教式のしっかりした墓が並んでいた。花が飾られている墓もたくさんある。
道路を挟んだ反対側に、インドネシア関係者の墓地があるというので、そちらに向かった。そちらは現地の人の墓と違って、もっと質素。しかも、工事中らしく、機材が置きっぱなしになっていた。東ティモールでのインドネシアを含む外国人の名前を記す石のパネルも建設中のようで、そこには数百人の名前が記されていた。その向こうに緑に囲まれて墓が並んでいる。
サンタクルス墓地の反対側の外国人墓地(工事用具の奥に墓石が並んでいるのが見える)
一般的に、虐殺のあった墓地に虐殺した側の死者の墓も設けられるものだろうか。東ティモールの人々の墓地と比べて質素だとは言え、粗末にせずにきちんと弔っていることにある種の驚きを覚える。インドネシアから墓参りに来る人たちもたくさんいるという。
ガイドさんに聞いても、周囲の雰囲気をみても、どうも東ティモールの人々はインドネシアを敵対視している様子はない。虐殺についてもそれほど大々的に扱おうとしない。
その後、チェガ博物館を訪れた。インドネシア時代に刑務所として使われていた建物で、インドネシアに抵抗した人々の受けた拷問などについて解説するパネルなどがあった。
ひどいことではあるが、ただアウシュビッツやカンボジアのクメール・ルージュの処刑場などと比べれば、まだしも穏やかだったとは言えるかもしれない。そして、ここでも、確かにインドネシア人による残虐な行為を告発はしているが、私がこれまで見たこの種の博物館の中では、加害者に憎悪をかきたてるような表示が少ない例の一つだと思った(広島や長崎の原爆関係の展示が最も顕著だと思う)。
その後、夕食。東ティモール料理を食べた。と言ってもインドネシア料理とほぼ同じだろう。ナシゴレン、厚揚げのようなもの(名称をおしえてもらった、忘れた)。とてもおいしかった。
ホテルで休息。前日にクリストレイを見るために階段を上がったせいだろう、かなり疲労がたまっているのを感じた。
3月10日
10時30分頃、ホテルの用意してくれた車で空港へ。すんなりと出国審査を済ませて、アルコールなどを置いているちょっとした免税店の横の待合室で待機。入国するときには三分の二ほどの客がいたが、帰りはガラガラ。40~50人くらいの客しかいなかったかもしれない。
1時間半ほどでバリに到着。前もってネットで入国のための手続きをしていたし、今回もバリの旅行会社の的確なサポートもあって、予定通り、14時ころには入国できた。東ティモールのディリから到着すると、この空港のあまりの大きさ、お店の多さ、その現代的なセンス、派手な広告などに圧倒される。色とりどりの商品が空港の売店を埋め尽くしている。
今回は、空港を出てすぐにガイドさんに合流。
成田行きの便は深夜0時50分。時間はたっぷりあるので、その間に短いバリ・ツアーをお願いしておいた。私の希望は、ケチャをみること。
車でクタ地区をぐるっと回って車の中から見物。狭い道を車で動き回った。バイクが多い。私は二度目のバリだが、息子は初めて。海岸が見えた。前回、この海岸で波を見て過ごしたのを思い出した。
東ティモールから来ると、とりわけ人の多さ、リゾート地としての施設の多さに目が行く。確かに東ティモールには、バリほどの文化遺産はないだろうが、十分にリゾート地になる要素を持っている。東ティモールの人の多くは、海外に出る時、このバリを経由するらしい。それに、東ティモールの人は海外に出稼ぎに出ているらしい。東ティモールの人々はこのような状況を見て何を思うのだろうか。気になった。
渋滞を警戒して、そのままウルワツ寺院に向かった。11世紀に建てられた絶壁にあるヒンドゥー寺院で、現在の建物は16世紀のものだという。この寺院で行われるケチャダンスが世界的に有名らしい。私は、1980年前後だったか、最初はFM放送でケチャの歌を聴いて衝撃を受け、後にCDも購入して繰り返し聴いたものだ。前回、バリを訪れた時、ケチャを観たいと思っていたが、それはかなわなかった。今回、ようやく実現。
ウルワツ寺院には大勢の観光客がいた。その多くは夕方からのケチャをみるのが目的らしい。それまではゆっくりと寺院内を見物する。
この寺院にはサルが多い。ガイドさんと息子と三人で歩いているうち、二人がいないのに気付いた。迷子になったかと心配していたら、しばらくして二人がやってきた。聞いたところでは、息子は背後からやってきた猿に眼鏡を奪われ、慌てていたところ、ちょうど近くに餌をやる係の人がいて、餌を使って眼鏡を取り戻したという。私も眼鏡をかけているので、あわててバッグにしまった。
周囲の断崖はまさに絶景。海が美しい!


ケチャは18時からだったが、17時ころには席とりのために会場に入った。海を背景にして、ギリシャの野外の円形劇場のような造りになっている。席と言っても石段に座るだけで、座席があるわけではない。私たちは真正面の5段目ほどのところに座った。客がどんどんと入ってくる。最終的には通路まで埋まって満席になったので、おそらく2000人くらいの客が来たのではないか。
東ティモールでは日本人はほとんど見かけなかったが、バリには日本人が多い。西洋人もたくさんいる。ロシア語らしいスラブ系の響きもあちこちで聴かれる。そういえば、バリ島の観光客にはロシア人が多いとのことだった。インドネシアはウクライナに関する制裁に参加していないのだろう。
炎天下ではなかったが、それでも30℃を超す気温の中、背もたれもない石段の上で1時間近く開始を待つのはかなりつらかった。
一人の男性が現地語と英語で開始を告げて、50人ほどの上半身裸の男たちが登場。ケチャの合唱が始まった。これはすごい! まさにチャチャチャの掛け声のオーケストラ! 最初に聴いた時に衝撃を受けたが、生で聴くと、これは大迫力。きっと楽譜があるわけではないと思う。音楽の才能のない私には、どういう仕組みになっているのか、合唱団がどのようなパートを受け持って、どう変化させているのかさっぱりわからないが、ともかく声の渦に圧倒される。
「チャチャチャ」の男声合唱に乗って、「ラーマーヤナ」の物語が展開される。衣装を着け、仮面をかぶった人物が登場して、基本的にパントマイムで物語が展開する。合唱団の声によってストーリーの展開がなされているのかどうか、私にはわからなかった。前もって、日本語訳のあらすじの書かれた紙が配布されたが、おそらくOCRを使ったのだろうが、そのあまりの誤字の多さのために読むのが苦痛だった。まあ、私としてはストーリーはあまり気にせずに音楽に耳を傾けた。

開始時は明るかったが、徐々に暗くなった。たき火の光のなかでのケチャはまさに壮観! 私は目を奪われ、耳を奪われ、時間を忘れて堪能した。芸術方面にかなり疎い息子もかなり熱心に舞台を見ていたので、きっとケチャは多くの人を引き付ける力を持っていると思う。ほとんどすべての人が圧倒されたのではないか。1時間ほどで終了。
車でレストランに移動して、外国人のたくさん集まる、ビアホールのような造りのレストランで夕食。ここもおいしかった。その後、早めに空港に着いて休憩。
予定通りの便で成田に無事に帰国した。
たかだか正味2日間、日本人のガイドさんと首都のディリとその近郊を見て回っただけなので、正確なことはわからない。が、東ティモールの印象をまとめると、以下のようになる。
・首都ディリはアジア的喧騒からかけ離れたのどかな町だった。静かで整然としている。治安も悪くないという。泥棒、追剥、かっぱらいなどの心配はないらしい。
・少なくとも、観光客が見る限り、きわめて平和で民主的に見える。貧しそうな地域はあるが、食べるのに困っている様子はない。
・映画館は1軒だけ。テレビも娯楽らしいものはないようだ。ホテルでテレビをつけたが、娯楽らしい番組をやっているのはインドネシアの局らしい。ほかには、BBCの放送と面白みのないニュースのような番組(これがきっと国営放送だろう)しか映らなかった。国民は、友達とおしゃべりしたり、ネットでYouTubeをみたりして楽しんでいるらしい。
・のんびりしている。すべてに時間がかかる。食事もなかなか出てこない。あちこちで待たされる。
・旧宗主国ポルトガルがいまだに大きな力を持っているらしい。留学先などもポルトガル、おしゃれな店の高級品はポルトガル製らしい。この国ではポルトガルが第一級の国として認められている。この国の人は、世界的にはポルトガルはほとんど発言権を持っていないのを的確に把握していないのかもしれない。
・インドネシアにそれほどの敵意を持っていないように思える。寛大で平和的な国民ということなのだろう。
・資本主義的な考えが根付いていないというべきか。ともかく、ほかの東南アジアの国のような、がつがつしたところが見られない。
・それなのに、物価は日本と大差ない。日本よりも2、3割安い程度。もちろん、私たちが入ったのは高級店であって、きっともっと安いお店はたくさんあるのだろうが、それにしても高い。
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