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映画「冬の旅」「蜂の巣の子供たち」「草の乱」「ブレイブハート」「大いなる遺産」

 時間のある時、我が家のテレビでBSで放送されたものやDVDやらprimevideoやらで古い映画をみている。気になったものはメモ代わりに簡単な感想を書いている。しばらく映画の感想をブログにアップしていないのを思い出したので、いくつかの映画の感想を載せる。

 

「冬の旅」 アニェス・ヴァルダ監督 1985年

 ヴァルダ監督の映画はみられる限りすべてみているつもりでいた。大好きな監督だ。「幸福」は、パゾリーニ、アントニオーニ、ワイダの諸作品と並んで最も好きな映画の一つだ。が、このシューベルトの歌曲集のようなタイトルの映画(原題はSans toit ni loi、直訳すれば「屋根もなく、法もなく」)については、存在は知っていたが、みられると思っていなかったので、そのままになっていた。ネットであれこれみているうち、primevideoでみられると知った。素晴らしい映画だった!!

 冬の南フランスで凍死した18歳のモナ(サンドリーヌ・ボネール)の生前の様子を、かかわった人にインタビューしながら再現していくという形で物語は進んでいく。いわばロードムーヴィー。モナはきれいで魅力的な女性だが、ほぼホームレスのような生活をしている。テントで野宿をし、汚い身なりで、時々仕事を得たり、男性に身を任せたりして暮らしている。モナにかかわって親切にする人、面倒をみようとする人もいる。襲おうとする人もいる。だが、モナは自由を求め、束縛を嫌って自由な生活を続ける。しかし、それはきわめて過酷であって、徐々に生活はすさみ、浮浪者グループと行動を共にするようになり、アルコールやドラッグにふけるようになり、モナは衰弱していく。

 人間の最も基本的な姿を描いた映画だと思った。誰もがこのようにして生きている。自由に生きたいと希求し、それを実行すると、様々な障害にあい、手助けしてくれる人はいるものの野垂れ死にするしかない。大きく言えば、これはそんな寓話だと思う。

 モナが出会う人物(環境を重視する植物の教授、自由と束縛の中で折り合いをつけて生きている元哲学教師、真面目に働くアラブ系の労働者、田舎町で地道に生きる家政婦、遺産を期待して叔母の死を待つ夫婦など)はまさに現代人の類型! モナを見ながら、おれもこうやっていろんな人たちとかかわって生きてきたなあ・・・という感慨を抱いた。

 それにしても映像が美しい。「幸福」のような鮮やかな色彩ではなく、いかにも田舎町の冬の寂しい風景だが、寂れた村も廃屋も老朽化したトラックも詩情にあふれている。ジョアンナ・ブルズドヴィチュの音楽もとてもいい。

 

「蜂の巣の子供たち」、1948年 清水宏監督

 この映画について、実はまったく知らなかった。名画だと称賛する人がいると知らされて、ともあれみてみた。

 一見したところ、イタリアの戦後のネオ・レアリスモの映画ととても雰囲気が似ている。ロッセリーニやデ・シーカを思い出す。戦地から多くの兵士が帰国していた戦後すぐの時期、身寄りのない復員兵が、戦争による浮浪児と知り合い行動を共にして、広島、そして、より北へと向かうという、いわば戦後のロードムーヴィー。男は、タバコを吸って犯罪めいたことをしていた子どもたちの生活指導をし、時折出会う女性を手助けする。だが、サイパンから引き上げる途中に両親を亡くした幼い子どもは病で死ぬ。

 ご都合主義的なストーリー展開、子どもたちのセリフの棒読みや硬直した動き、複数の人物の構図の不自然さなどを感じないでもないが、戦後の荒廃した都市や田舎での子どもたちの行動をともあれ生き生きと描く。それにしても、映像美に驚く。海辺や島々、山あいの村などの映像の美しさには息を飲む。子どもが死んだ幼児を負ぶって山に登り、幼児の死を知って駆け降りる場面はとりわけ圧巻。

 これは戦後日本のリアルを描いたものではない。まさしくこうなってほしいと願う理想を描いたものだ。最後の場面で、浮浪児たちと一般の子どもたちや多くの人が和解しあい歓迎しあう。まさにこれは監督がこの映画に託したこれからの理想の日本に向けてのメッセージだっただろう。

 

「ヤンヤン 夏の想い出」 エドワード・ヤン監督 2000年

 劇場で再上映されているということだったが、DVDを探してみたら、あった。

 台湾映画と言えば、ホウ・シャオシェンの作品はかなり観た。このブログにも感想を書いた。エドワード・ヤン監督も台湾を代表する監督らしいが、これまで観たことがなかった。初めて観たが、素晴らしい! ホウ・シャオシェンは小津安二郎のような淡々とした雰囲気があるが、エドワード・ヤンは、少し似た雰囲気がありながらも、もっと強烈。

 ヤンヤンという10歳くらいの男の子とその周辺の物語。ヤンヤンの叔父にあたる人の結婚のころから、家族はおかしな方向に動き出す。母方の祖母は脳卒中で寝たきりになり、母は新興宗教にはまって山にこもり、父は冷静で理性的に処理しようとしながらも会社での仕事、初恋の人との再会に心を揺るがし、姉はマンションの隣に住む友達の恋愛のいざこざに巻き込まれることになる。母の兄弟たちもあれこれの混乱に巻き込まれる。

 ヤンヤンと意識をなくした祖母という二つの核を作ることによって、大勢の人間の悲喜こもごもがうまく整理して語られる。物語は拡散するようでいて、まとまりがある。そして、その全体を覆うのは、生きることの業というべきものだ。一人一人様々な個性を持ち、様々な事情をもち、誰もが苦悩を抱えながらも懸命に生きている。実際に自分の生を生きている者はそれを俯瞰的に見ることはできないが、こうして映画を見ると、それぞれの生のあり方を俯瞰できる。カメラをもらったヤンヤンが周囲の人の背後を撮るように。

 イッセー尾形がヤンヤンの父に人生の一端を教えてくれるビジネス相手として登場する。独特の味を出している。たくさんの見どころのある映画だったが、イッセー尾形の演じる人物が、バーで明るく騒いだ後、一人で静かにベートーヴェンの「月光」を弾く場面に私は最も感動した。

 

「草の乱」 神山征二郎監督 2004年

 1884年に起こった秩父事件にちょっと関心を持って何冊か本を読んだが、たくさんの人物が秩父のいくつもの村であれこれの活動をするので、頭が混乱! とりあえず事件の全体像を知りたいと思ってこの映画の存在を知り、DVDを購入した。本の中に出てきた人物が、なるほどこういう人だったのか!と納得できるような姿かたちで再現されており、おかげで事件の全貌をおおまかに把握できたし、映画を味わうこともできた。

 会計長として秩父事件にかかわる井上伝蔵(緒方直人)を中心に手際よく全貌を伝えている。緒方直人のほか、林隆三、杉本哲太らの名優の演技はさすがだ。よくできた映画だと思う。高利貸しと結託して農民を苦しめる政府、それに抗して立ち上がる貧民、見かねてリーダーになる村の実力者たち、いざとなると機能しなくなる自由党などが描かれる。

 ただ、困民党の幹部たち、そして反乱に参加する人たちがかなりこぎれいな格好をしており、貧しさが伝わらない。秩父の村の家も、当時であれば藁ぶき、萱吹きがほとんどだと思うのだが、そのような村が映し出されない。大勢のエキストラが反乱に参加する村民として登場するが、切羽詰まって命がけで行動する人たちの必死さが伝わらない。限られた資金で作られたのでやむを得ないとは思うが、もうすこしなんとかならないか。また、武器の調達をどうしたのか、組織化をどのようにしたのか、幹部たちの意見衝突はなかったのかなど、もう少し納得いく説明がないと、リアリティが感じられない。

 とはいえ、全体的にはきわめてリアルな映像に出来上がっている。

 

「ブレイブハート」 1995年 メル・ギブソン監督

「草の乱」を調べているうちに、反乱を描いた映画として「ブレイブハート」が取り上げられている記事を目にしたのでDVDを購入した。実は私は「マッドマックス」のころから、メル・ギブソンはかなり好き(クリント・イーストウッドとメル・ギブソンが私の贔屓の男優だ)で、主演映画や監督作品もそれなりにみているが、この映画はみていなかった。

 13世紀、イングランドのエドワード1世の残虐な支配に怒ったスコットランドの人々が、家族や妻をイングランド兵に殺されたウィリアム・ウォレス(メル・ギブソン)をリーダーとして反乱を起こす。そこに、政略結婚でフランスから皇太子に嫁いだイザベル王女(ソフィー・マルソー)がからむ。ウォレスは処刑されるが、それを契機に反乱は高まり、スコットランド民衆は独立を勝ち取る。

 エンターテイメント映画なので、どのくらい史実に基づくかわからない。きっとイザベルとの交流にはフィクションが混じるだろう。しかし、実に手際よくイングランドの情勢、スコットランドの貴族たち、ウォレスに同調する庶民の生活や考えを描いて説得力がある。反乱の場面のリアリティはすさまじい。ウォレスの人物像も、もちろんちょっと英雄視しすぎているとは思うが、とても説得力がある。アカデミー賞作品賞、監督賞を獲得したというが、それも当然だと思う。とても良い映画だった。

 

「大いなる遺産」 1946年 デヴィッド・リーン監督

 primevideoを検索しているうち、1946年の「大いなる遺産」を見つけてみてみた。 小学生か中学生のころ、NHKで放送されていた「劇映画」の時間にみた覚えがあった。主人公が古い屋敷のカーテンを開ける場面だけ記憶に残っていた。60年ぶりにみたことになる。ディッケンズの小説は「デヴィッド・カッパーフィールド」だけ読んで、とてもおもしろいと思ったが、何しろ長いので、ほかの作品は読んでいない。「大いなる遺産」も読んでいない。

 ピップを演じるのはジョン・ミルズ。私は老年のジョン・ミルズはかなり見たし、彼の娘さんのヘイリー・ミルズは大好きだったのだが、これがジョン・ミルズだとはかなり後まで気づかなかった。子どもの頃のエステラはジーン・シモンズ、ポケットはアレック・ギネス! ただ、それにしてもジョン・ミルズはこの役をやるには老けすぎている!

 話の進め方は実にうまい。さすがリーン監督。しかし、現在の視点から見ると、あれこれの人物の心情や様々な行動の動機について私などは疑問だらけになる。映画をみている間はそれほど気にならないが、見終わった後、次々と疑問がわいてきた。だが、言ってみれば、そのように作ってしまうところが監督の技術なのだろうと思う。

 

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木村俊光さん訃報 そして、東響&エラス=カサドのブルックナーに感動

 バリトン歌手・木村俊光さんが4月17日、81歳で亡くなったことを新聞で知った。

 1972年、飯守泰次郎さんが東フィルを指揮しての二期会公演「ワルキューレ」で木村さんの歌うヴォータンを聴いた時の感動を今も忘れない。指揮もヴォータンも、これが本格的なワーグナーなのか!と心の底から衝撃を受けた。それ以前からワーグナー好きだったが、私のワーグナー好きを決定づけたのは、あの時の「ワルキューレ」だった。その後、木村さんの歌は、第九のソロをはじめ、かなり追いかけて聴いた。

 その後、演出家の三浦安浩さんとともに2度ほど飲食をご一緒する機会があった。憧れの人にお会いできて天にも昇る心持だった。酒好きのとても気さくな方だった。ヴォータンのような方だとばかり思っていたら、もっとずっと人間的な方だった。ただ、私はあまり酒好きでなく、それほどお付き合いできないのが残念だった。

 飯守先生も亡くなり、木村さんも亡くなった。日本に本格的なワーグナーを導き入れてくれた先人たちが亡くなっていく。とても悲しい。合掌。

  2026年4月26日、サントリーホールで東京交響楽団の定期演奏会を聴いた。指揮はパブロ・エラス=カサド、曲目は前半にシューベルトの交響曲第7番「未完成」、後半にブルックナーの交響曲第6番。

「未完成」については、2つの楽章ともにゆっくりとしたテンポで、かなり激情的な演奏。旋律的な美しさよりも、内にこもった感情の爆発を描こうとする。ただ、二つの楽章のアプローチがそっくり同じなので、私としては少々退屈した。まあ、この曲自体、そのような傾向があり、きっとそのために未完成に終わったのだろうが、それにしても、もう少し違う雰囲気があってもよいような気がした。

 ブルックナーの第6番は素晴らしかった。この指揮者の本領発揮といったところ! スケールが大きく、この複雑な曲が自然に構築されていくのを感じる。私は交響曲第5番と第6番は、聴いているうちにしばしば迷子になっているのを感じるのだが、この指揮者ではまったくそんなことはない。すべての楽器の音が、少しも濁らないまま立体的に重なっていき、強く高揚していく。宗教的な雰囲気はまったく感じないが、振幅が大きく、音そのものが美しく、細かいところまで神経が行き届いているので、ぐいぐいと音楽に引き込まれる。妙にいじくるのではなく、曲そのものの要求に沿い、かなりオーケストラの意思を尊重しながら、指揮によって音楽に形を作っていくといった感じ。

 私のようなオールド・ファンが聴き慣れた、クナッパーツブッシュやオットー・クレンペラーやオイゲン・ヨッフムのような重々しい演奏ではない。しかし、最近よく聴くタイプの現代的でインターナショナルな雰囲気のブルックナーでもない。ゲルマン的な深みが感じられる。第2楽章は深いロマンにあふれ、スケルツォはブルックナーらしいちょっとグロテスクな躍動があり、終楽章で大きく広がっていく。私は何度か感動に震えた。

 東響の音も見事。パブロ・エラス=カサド、素晴らしい指揮者だと思った。

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METライブビューイング「トリスタンとイゾルデ」 確かにセンセーショナル!!

 東劇でMETライブビューイング「トリスタンとイゾルデ」をみた。気に入るかどうかはともかく、これは確かにセンセーショナルだと思った。メトロポリタン歌劇場としては珍しくかなり思い切った演出だ。演出はユヴァル・シャロン。

 ただし、特に「読み替え演出」というほどのものではない。最後の最後まで、それほどストーリーの変更はない。

 演奏は見事と言って間違いない。ヤニック・ネゼ=セガンの指揮は何かの魔術ではないかと思われるほどに雄弁! 生き生きとして色彩的で躍動し、時にきわめて官能的! 歌手陣もイゾルデのリーゼ・ダヴィドセンを筆頭にみんなが圧倒的! トリスタンのマイケル・スパイアーズもダヴィドセンに負けない声の威力を持っている。そして、クルヴェナールのトマシュ・コニエチュニも文句なしの歌唱。マルケ王のライアン・スピード・グリーンもきっとこれからワーグナーのバスの主要な役を歌う大歌手になるだろうと思わせる。

 ただ、第一幕への前奏曲から、確かに結末への予感があった。なんだか妙に明るい! 暗くて陰鬱な表現が薄い。ネゼ=セガンらしく溌剌として音楽の愉悦にあふれている。エロスとタナトスの間を行き交う幽玄で浮遊して不定形な雰囲気がない。素晴らしい演奏で、第一幕の愛の妙薬を飲むところも、第二幕の愛の二重唱も感動的なのだが、タナトスが現前しない。

 そして、第3幕。イゾルデは妊婦の姿で登場! そして、「愛の死」の前になんとイゾルデは出産し、最後、マルケ王はイゾルデの産んだ子どもに接吻する! つまり、「トリスタンとイゾルデ」は、二人が死んでそれぞれの個体を失い、大自然の中に解消していくのではなく、新しい生命を生み出し、まさに愛が再生するドラマだというわけだ。

 最後まで見て、なるほどそういうことだったのか、だからこんな音楽だったんだ! と納得できたのだった。そうだとすると、これは演出と音楽がぴたりと合った名演といえるだろう。

 ただ、この楽劇の生と死の合一、個の解消、宇宙的な一体感といったものを何よりも好む私としては、やはりこれは「間違っている」と思う。

 いや、そもそも、どういう仕掛けになっているのか私にはまったくわからなかったが、プロジェクトマッピングだか何だかの技術によって舞台上に円形の穴がたびたび作られ、その穴の中で人物たちが演技し、歌うために、「個別」的になっているのを強く感じた。ワーグナーの無限旋律的要素が弱まり、個体性、個別性が際立ってしまう。

 私は、ワーグナーの試みを一言でいえば、「一つであることの希求」だと思っている。すなわち、個体化を否定し、二元論を解消し、すべてを統一し、一つになろうとするのがワーグナーの音楽であり、彼の生涯をかけての試みだと考えている(そうした私の考えは、春秋社刊「ヴァーグナー 西洋近代の黄昏」にまとめている)。今回の上演は、私の考えるワーグナーに反していた。

 そんなわけで、今回の上演は、素晴らしい演奏であり、間違いなく観るべき価値のあるものであるにせよ、私の愛するワーグナーではないと強く思ったのだった。

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映画「そして彼女たちは」

 ダンデンヌ兄弟が監督した映画「そして彼女たちは」(2025年 ベルギー・フランス合作)をみた。原題はJeunes mères。そのままずばり「若い母親たち」!

 母子支援施設で出産、育児のサポートを受ける貧しくて若いシングルマザーたち5人(ジェシカ、ジュリー、アリアンヌ、ペルラ、ナイマ)を描く。5人とも複雑な家庭環境の中で育ち、薬物中毒などに苦しみ、それぞれのパートナーに恵まれているわけでもない。しかも、10代の少女たち(ジュリーはどうやら15歳のようだ)なので、未熟で精神が不安定であって、薬物に手を出したり、母親に甘えようとしたり、懸命に入所者を支えようとするスタッフたちに八つ当たりしたりする。

 私はダンデンヌ兄弟の映画を何本かみているし、とても良い映画を作る兄弟監督だと認識しているが、実をいうと、あまり好きな映画監督ではない。常に現実社会の弱者をリアルに描き、時に弱者を食い物にする人間のクズと呼ばれても仕方のないような人物までも克明に扱うので、見ていてイライラする。しかも、私からすると、すでに知っていること、少なくとも想像のつくことを描いて、社会や人間について新しい発見につながるようなものを描いてはくれない。私は社会の見方、人間の見方、世界の見方を根底から変えてくれるようなものが映画に求めているが、ダンデンヌ兄弟の映画にはそれがあるとは思えない。

 とはいえ、ここまでリアルに、その弱さ、その欠点も含めて、少女たちの実像を描き、それぞれの苦しみ、悩みを見せられると、私もまた彼女たちの人生を共有し、彼女たちに声援を送り、彼女たちとともに泣いたり怒ったりしたくなってくる。家庭環境から逃れられず、自分が育てられたように子供を育てるような境遇に追いやられてしまい、それを断ち切るためには、どんな人間でも信じられないほどの覚悟が必要となることを実感する。

 子どもを産むときになって、自分を捨てた母への思いを強くして、執拗に母を求めるジェシカ、薬物に頼りたくなる気持ちを抑えて、真面目なパートナーに支えられて何とか健気に生きようと努力するジュリー、パートナーに裏切られて姉に頼るしかなくなるペルラ、母の説得を振り切って、自分の子どもを手放すアリアンヌ。どの少女の気持ちも痛いほどわかる。解決しなければならない社会矛盾が山のようにあることに気づかされる。

 最後の場面で、ジュリーは、自らも薬物中毒の過去を持ちながらも真面目に立ち直ろうとしているパートナーとともに、かつての恩師を訪ねて、結婚の証人になってくれるように依頼する。老教師は驚きながらも快く引き受け、ジュリーが授業で感動したというアポリネールの詩「告別(L‘adieu)」を暗唱し、それに曲をつけたシャンソンをピアノ伴奏をつけて歌う。そして、その後、赤ん坊に向けて、元気になる曲としてモーツァルトの「トルコ行進曲」を弾く。調律の甘い、しかもあまりうまくないピアノだが、老教師の思いがこもっている。恵まれない人たちが、自分の境遇を断ち切って未来を築いてほしい気持ちを共有したくなる。さすがにこれは泣けてくる! 

 調べてみたら、マルティヌーがアポリネールのL‘adieuに曲をつけているらしい。最後のクレジットをよく読まなかった(字が小さくて、私のような老人には読むのはかなり難しい!)のだが、あれはマルティヌーの曲だったのだろうか。

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東京二期会「ルル」 猛獣たちの見世物

 2026年4月18日、新国立劇場オペラパレスで、東京二期会オペラ劇場 アルバン・ベルク作曲「ルル」をみた。指揮はオスカー・ヨッケル、演出はカロリーネ・グルーバー、管弦楽は東京フィルハーモニー交響楽団。とてもレベルの高い公演だった。

 多くの人が私と同じようなものだと思うが、私もまた「ヴォツェック」は大好きで、50年以上前からレコードやCDを何種類か聴き、実演や映像もみてきた。だが、それに比べると、「ルル」はもう一つとっつきにくい。そもそも未完であることもあって、話もわかりづらい。登場人物の人間像も把握しにくい。それぞれの人物の行動にどのような動機があるのかもよく理解できない。そんなわけで実演や映像を何度かみているが、それほど感銘を受けたことはなかった。

 今回、東京二期会の「ルル」をみて、やっと少しつかめたような気がした。これまで、「ヴォツェック」と同じように登場人物に感情移入しようとしてきたから、私は「ルル」に違和感を覚えたのではないかと思いあたった。

 これはそもそも感情移入を拒否するオペラではないのか。ブレヒトが「同化」に抗して、「異化効果」を提唱したのは1920年代だった。ベルクはもちろんブレヒトについてはよく知っていたはずだ。このオペラもまた、ブレヒトのドラマと同じように、そもそもどの人物にも同化すること、感情移入することを求めていない。すべての人物が異物として舞台上に挙げられる。

 まさに、冒頭に前口上で語られるように、ここで示されるのは「見世物小屋」なのだ。動物園で猛獣を見入るように、私たちはルルやシェーン博士やアルヴァ、ジゴルヒなどの猛獣を見ていく。そんなオペラなのだ。そうやって全体をみると、私の抱いた違和感はかなり薄れる。

 今回のカロリーネ・グルーバーの演出は、ルルをマネキンとみなして、ルルに絡む様々な人物が望む幻想を仮託する存在として描いている。ルルはこのようにして与えられた幻想に苦しみ、最後、やっとのことで幻想から抜け出す。この様子は、ルルの分身を示すダンサー(中村容)のパントマイムで表現される。この演出は、まさに感情移入しないオペラにふさわしい。ルルは、一貫した人間性を持つ人物としては描かれておらず、変幻自在なモデルとして描かれている。それぞれの様態のルルが見世物として描かれる。そのような猛獣たちが次々と色彩的で明るい舞台に現れて、むしろ軽やかに猛獣ぶりを発揮していく。

 ルルの宮地江奈はこの演出にふさわしい自然で伸びのある声。素晴らしかった。画家の岸浪愛学、シェーン博士の黒田祐貴、アルヴァの澤原行正、ゲシュヴィッツ伯爵令嬢の豊島ゆき、シゴルヒの山下浩司もとてもいい。そして、特筆するべきは、指揮のヨッケルだろう。しなやかで柔らかみのある音であって、決して神経質にならないが、十分に切れがよく、じわじわとドラマを深めていく。素晴らしい指揮者だと思った。

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能「弱法師」 生まれて初めて「能」に感動した!

 2026年4月17日、4月国立能楽堂ショーケース、狂言「引括」と能「弱法師」をみた。

 日本の古典芸能については、私は右も左もわからない素人だ。誘ってくれる人がいて、現在、第一歩を踏み出しているところ。国立能楽堂で、ショーケースと称して素人向けのプレトークとわかりやすい演目を見せてくれているとのことで、出かけた。

 狂言「引括(ひっくくり)」は、したたかで口うるさい妻に嫌気がさした夫が、妻を実家に帰らせ、そのまま離縁してしまおうと考え、離婚証明代わりに、妻に家にある好きなものを持って行かせようとする・・・という話。なかなか面白い話だった。いろいろな解釈が可能だろうが、ともあれ夫婦の腐れ縁のようなものを私は感じた。演者たちの腰のすわった歩き方、しっかりと間を取ったセリフ回しに感心。女性を演じていても、男性が声を作らず、そのまま男の声で語るのも新鮮。まったく違和感がない。演じている中心は、三宅近成(和泉流)とのこと。

 能「弱法師(よろぼし)」は、讒言を信じた父に追い出されて、盲目になり、弱法師と呼ばれてよろよろと歩いて乞食をする俊徳丸が、天王寺で父と出会い、救われる話。無知な私は、この話をまったく知らなかったが、三島由紀夫が「近代能楽集」でも扱っているので、かなり有名らしい。

 私はヨーロッパの文学、音楽、映画に親しんできたので、どうしてもその方向から考えてしまう。私は、この能の作り出すドラマは「すべてが一致する時空間」から成り立っていると思った。

 俊徳丸は、天王寺で春の彼岸の中日、過去にいきさつのあった父と再会する。そして、盲目になる前に見た光景と現在の雰囲気を重ね合わせ、実際には目には見えない光景をありありと感じる。そして、天王寺の西門、つまりは極楽浄土の東門に向かって歩く。ここでは、過去(目が見えていた幸せな時期)と現在(盲目になった現在)、記憶の中の幻視と現実、現実世界と浄土が重なり合う。しかも、彼岸の日であって、真東から太陽が出て、西に沈む日。いわば、この特別の日に、すべてが一致する時空間の特別の「点」が作り出され、そこで親子の再会という奇跡が起こるわけだ。静的な舞台の中、数少ない人物の動き、セリフ、鼓の音、掛け声などによってドラマがそこに集中して盛り上がっていく。見事だと思った。まさに凝縮された舞台世界! 初めて能に感動した。出演は岡庭祥大(観世流)を中心にした方々だとのこと。

 文楽も能もなかなかおもしろい!

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ピリオド楽器によるメンデルスゾーンの室内楽 裸の魂に触れた!

 2026年4月16日、東京文化会館小ホールで、東京春音楽祭、メンデルスゾーンの室内楽を聴いた。曲目は、前半にピアノ四重奏曲第3番ロ短調、後半にピアノ三重奏曲第1番ニ短調と弦楽五重奏曲第2番変ロ長調。出演は、白井圭、石原悠企(ヴァイオリン)、笠井大暉、山本周(ヴィオラ)、山本徹(チェロ)、小倉貴久子(フォルテピアノ)。ピリオド楽器による演奏! きっとメンデルスゾーンの時代には、このような音で演奏されていたのだろう。

 前半のピアノ四重奏曲はメンデルスゾーンが16歳のころの作品だという。現代楽器ではないので、ロマンティックに豊かには響かない。誇張された美しさがなく、裸の美しさが現れる。そうであるからこそ、若きメンデルスゾーンのなまの魂がむき出しにされた気がする。初々しくも激しい音楽。ただ、まさか16歳とは思えない完成度だが、やはり後半の曲に比べると、魅力に欠けるなとは思った。

 ピアノ三重奏曲第1番は素晴らしかった。曲もいいし、演奏も見事。第1楽章は親しみやすいメロディがベートーヴェンの曲のように論理的に展開していく。第2楽章はとても美しいメロディ、そして、第3楽章のスケルツォは最高にチャーミングだった! 軽やかにして躍動的! 第4楽章の高揚も素晴らしい。フォルテピアノが躍動し、弦楽器の激しい音が魂の震えのように響き渡る。私の好きな曲の一つだが、緻密にして人間味にあふれる演奏に感動した。奏者たちが心を合わせてメンデルスゾーンの魂を目の前に追体験しようという姿勢が強く感じられた。

 弦楽五重奏曲もなかなかの名曲だと思った。ピアノがないので、前の曲に比べて華やかさがない。その分、一層内面的になる。メンデルスゾーンの晩年の曲で、特有の渋みがある。モーツァルトの晩年の音楽のように、そこはかとない悲しみが漂い、深い人生観が音楽の中ににじみ出る。5台の楽器がぴたりと合って、重なり合い、絡み合いながら一つの世界を作っていく。その醍醐味に圧倒された。

 大ホールで「マノン・レスコー」(演奏会形式)が演奏されていたためかもしれない。かなり空席が目立った。が、私にとっては至福の時間だった。

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シュエンのシューベルトの歌曲  まるでワーグナーのようなシューベルト!

 2026年4月14日、東京文化会館小ホールで、東京春音楽祭歌曲シリーズ、アンドレ・シュエン(バリトン)&ダニエル・ハイデ(ピアノ)を聴いた。

 昨年、ウィーン国立歌劇場の来日公演「フィガロの結婚」の伯爵を歌うシュエンを聴いて圧倒された(これは私の勘違いだった。私がシュエンを見たのは、同じウィーン歌劇場によるブルーレイの映像だった。コメントに私の間違いを指摘されて気づいたので、ここに加筆する)。シューベルトの歌曲もいいに違いないと思って期待して出かけた。期待以上というか、圧倒される歌唱だった。格が違うと思った!

 シューベルト好きには評価が分かれるかもしれない。シューベルトというよりも、ベートーヴェンのような、というか、いやいやまるでワーグナーのようなシューベルトだった。アルベリヒかハーゲンかヴォータンが歌っているかのような錯覚を覚えた。凄味があり、強烈な思いがこもっている。

 曲目はすべてシューベルト。「マイアホーファーの詩による5つの歌」、「ハイネの詩による6つの歌(《白鳥の歌》D957より)、「鳩の便り」「窓辺で」「君こそわが憩い」「それらがここにいたことは」「ミューズの息子」「春に」「ブルックの丘にて」「星」「さすらい人」「夕映えの中で」。

 まさにワーグナーを思わせるような深い美声。とんでもなく大きな声で、とんでもなく美しい声なのだが、鋭さがあり、激しさがある。そしてスケールが大きい。嘆き、呪い、怒り、喜びが個を超えて大きく広がる。前半の歌曲は、観客を震撼させるかのよう。しかし、決して大味ではない。きわめて繊細でニュアンス豊かに歌い上げる。これまで聴いたことのある歌手の中では、ハンス・ホッターやミヒャエル・フォッレに似た感じがするが、もっと強烈で凄味がある。

 後半は、有名な親しまれているシューベルト歌曲だが、シュエンが歌うと、チャーミングで親しみやすい歌曲ではなく、心の奥に激しい思いのこもった音楽になる。これもまたものすごい説得力。私の心にびりびりと響く。

 シューベルト好きは、きっとこれをシューベルトらしくないというだろう。シューベルトの心の奥にこのような孤独な叫びがあり、憎しみや怒りや絶望があるにせよ、それをもっと孤独に、もっと内面的に表現する、とシューベルト愛好者は主張しそうだ。だが、ここまであからさまにシューベルトの生の思いを歌い上げるのは、これはこれですごい。私は大いに感激した。とんでもない歌手が現れたものだと思った。

 アンコールは、「セレナーデ」「月に寄す」「菩提樹」。これも素晴らしかった。「菩提樹」もまた魂を震撼させるような心の叫びの音楽だった。

 あ、言い忘れていた。ハイデのピアノもとてもよかった。こんなに歌の世界を見事に作り出すピアノ伴奏はめったにないと思った。

 ともかく、シュエンの歌う強烈なシューベルトに酔った!

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山下、小堀、池内 まさにベルカントの饗宴 

 2026年4月11日、浜離宮朝日ホールで、浜離宮ベルカント・シリーズ第3弾、山下裕賀&小堀勇介&池内響 with 矢野雄太を聴いた。

 曲目は、ロッシーニの「ブルスキーノ氏」「アルジェのイタリア女」「アルミーダ」、ドニゼッティの「ラ・ファヴォリータ」、ベッリーニの「清教徒」から、アリアや二重唱、三重唱。前回に引き続き、今回も素晴らしかった!

 冒頭の、「ブルスキーノ氏」の「お金はきっと払います」(小堀・池内)から全開、「アルジェのイタリア女」の山下の歌う「ひどい運命よ!」でいっぺんに最高潮にまで高まるテンション! ロッシーニの世界が展開する。5年ほど前まで、日本人がこれほどまでにロッシーニを歌えるようになるとは思ってもみなかった! 山下の張りのある美声によるダイナミックな歌、小堀の輝かしい高音、池内の余裕のある美声。いずれもホール中にビンビンと響き、まさにベルカント(美しい歌)の饗宴! 

 ドニゼッティの「ラ・ファヴォリータ」も、ロッシーニとは一味違う華やかな歌を聴かせてくれた。池内の歌う「来たれ、レオノーラ」に感服。深い美声により適度に感情移入されて歌われるのを私はとても心地よく聴くことができた。

 ベッリーニの「清教徒」も、この作曲家特有の、凛として高貴な歌。私はベッリーニのオペラを聴くと、オーケストレーションの単調さに不満を覚えるのだが、ピアノ伴奏では、それを感じずに済むのはありがたい。

 三人とも素晴らしく、ピアノの矢野雄太も見事に音楽をリードしていたが、私はとりわけ山下裕賀に感銘を受けた。「アルジェのイタリア女」もさることながら、最後の「アルミーダ」の「私は一体...あの人は逃げたのね!」も素晴らしかった。日本にもすごいメゾソプラノ歌手が誕生したものだと改めて思った。ちょっとバルトーリを思わせるような躍動感がある。私はこの人の歌を4回ほど聴いたことがあると思うが、ロッシーニのオペラ上演は観たことがない。ぜひ、みたいと思う。間違いなく、近いうちに機会があると思う。

 実は、昨日、昼間は城宏憲&碇大知のデュオコンサート、夜は東京春音楽祭のバット・フィリップ&ジェイムズ・ベイリューのコンサートを聴く予定だったが、朝から胃痛と腹痛に襲われ、夕方まで寝込んでいた。ほぼ平常に戻ったものの、今日もまだ本調子ではないまま出かけたのだったが、ベルカントの饗宴を聴いて身体の細胞が元気になってきた。

 アンコールはモーツァルトの6曲の三重奏曲より第6曲「ああ、なんと辛い瞬間が」とのこと。ベルカントの歌ではないが、しみじみと歌われ、これはこれでとてもよかった。

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クリストフ・プレガルディエン 知的で格調高く心の内を聴かせてくれる歌!

 2026年4月7日、東京文化会館小ホールで、東京春音楽祭歌曲シリーズ、クリストフ・プレガルディエン(テノール)&渡邊順生(フォルテピアノ)を聴いた。

 プレガルディエンはこれまで実演でも録音でも何度か聴いたことがある。いずれもとてもよい演奏だった記憶はあるが、実はそれほど好きな歌手ではなかった。高貴な声で知的に歌うのだが、あと少し心に残らない、そんな感じがしていた。

 そんなわけで、音楽業界に身を置いているわけではないのにこのところ毎日コンサート通いをし、なんだかんだで気力も薄れてきて、もう今日はコンサートはやめておこうかとも思いながらも、ともあれチケットを購入しているので、聴くだけは聴いてみようと自分に言い聞かせて出かけたのだった。

 曲目はすべてシューベルト。「白鳥の歌」の中の歌曲を中心に、それ以外の曲も織り交ぜたプログラムだった。シューベルトの歌曲についてとりわけ造詣が深いわけではない私は、これがどういう意図によって織り交ぜられているのかはわからない。ただ、前半から後半へ、シューベルトの思いが強まっていくように配置されているのを感じた。

 ナマで歌曲を聴くと、さすがにプレガルディエンの歌は素晴らしい! 誇張せず、大声で叫ばず、さほどロマンティックに歌うわけではないので、確かに地味ではある。だが、声を完全にコントロールし、知的に、格調高く曲を構築していく。

 1956年生まれというから、今年、70歳。まったく声の衰えはなく、言葉を明確に発音し、詩情を明確に伝えていく。そして、プログラム後半の「まち」や「影法師」では、知的に抑制しながらも絶望を歌い上げ、「アトラス」では、より深い心の奥を表現する。

 フォルテピアノの伴奏によるシューベルトの歌曲を聴いたのは初めてかもしれない。初めのうちは、ピアノのような強弱によるロマンティックな感情の表現のない音に違和感を覚えたが、これはプレガルディアンの表現にとても合致していた。濃い味付けではない。しかし、親密で知的な雰囲気が広がり、心の内を聴かせてくれるような音楽が奏でられる。とてもよい演奏だった。

 6日連続のコンサートだった。今日もめげずに聴いてよかった!

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ブッフビンダーの弾き振り 「皇帝」の第3楽章で全身の震えが続いた

 2026年4月6日、東京文化会館大ホールで、ルドルフ・ブッフビンダーのピアノ・指揮によるベートーヴェンのピアノ協奏曲全曲演奏の2日目を聴いた。管弦楽は東京春祭オーケストラ(コンサートマスターは豊嶋泰嗣)。曲目は、前半にベートーヴェンのピアノ協奏曲第1番、後半に第5番「皇帝」。初日に続いて、素晴らしかった。

 第1番は、曲そのもののせいもあるかもしれないし、私の修行不足もあるのかもしれないが、とてもよい演奏だなと思いながらも、少々退屈だった。きちんとまとまりながらも、そこに自由の境地というのか、自在の精神が宿っている。粒立ちの良い美しい音で、自在に弾きまくるが、まったく形が崩れず、自然に音楽が展開する。とてもよい演奏には違いない。

 後半の「皇帝」は、曲に応じてスケール感が圧倒的に増して、ものすごい世界になった!

 実をいうと、私は、ベートーヴェンのピアノ協奏曲の中では、3番と4番が好きで、5番はちょっと遠慮したい気持ちがある。もちろん、とんでもない名曲だと思うのだが、壮麗過ぎてついていけない気がする。あまりに巨大な世界に振り回され、打ちのめされ、ただただ目を回しているうちに曲が終わってしまう感がある。

 ところが、ブッフビンダーの演奏は、間違いなく壮麗なのだが、どういうわけか、私を打ちのめさない。巨大な宇宙を駆け巡り、ちょっとアニメ的になってしまうが、まるで虹に乗って宇宙を駆け巡っている感じになる。壮麗なのだが、決して華美ではない。ともかく一つ一つの音が美しい。しかも、本当に自由を感じる。自由に宇宙を駆け巡っている! そして、それが一つの巨大な統一を作り出していく!

 第3楽章後半では、私の身体は感動で震えが起こった。ベートーヴェンの交響曲では、録音でも実演でも、このような感動の震えはしばしば起こるのだが、この曲でこのような震えをおぼえたのは、生まれて初めてでないかと思う。感動した。1分以上、全身の震えが続いた。恍惚となった。

 昨日の「さまよえるオランダ人」に続いて、大きな感動を味わうことができた。

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東京春音楽祭「さまよえるオランダ人」 感動・感激・興奮!

 2026年4月5日、東京文化会館で、東京春祭ワーグナー・シリーズ vol. 17 「さまよえるオランダ人」(演奏会形式)を聴いた。指揮はアレクサンダー・ソディ、管弦楽はNHK交響楽団(コンサートマスターは長原幸太)。素晴らしい演奏だった。感動し、感激し、興奮した。

 序曲からエネルギーにあふれるドラマティックで、まさに疾風怒濤の演奏! これほどのハイテンションが最後まで続くのかと心配したが、本当に最後の最後まで力にあふれる演奏だった。ソディという指揮者、私は一昨年、コヴェントガーデンで「フィデリオ」を聴いて、とてもいい指揮者だと思ったのだったが、その時は初めから猛烈な熱気で飛ばすのではなく、じっくりと音楽を進めていった。だが、今回は快速で猛烈な熱気。15時10分頃に始まって、休憩なしで17時10分くらいで終了した。第3幕にカットがあったと思うが、それにしても、かなりの快速だと思う。しかし、少しも形が崩れない。N響もまったく乱れず、強い音で、緊迫感にあふれた激しくおどろおどろしいドラマを作り出した。「救済のテーマ」なしのヴァージョンだった。

 歌手陣も最高度に充実していた。特筆するべきは、まずはゼンタのカミラ・ニールンドだろう。繊細な声からホール中にビンビンと響く劇的な声まで、完璧にコントロールされた声で歌い上げる。バラードの歌声には魂が震えた。エリックのデーヴィッド・バット・フィリップも驚くべき美声による強い声。この人の歌は映像ではいくつも聴いて圧倒的な歌手だと思っていたが、初めて実演を聴いて、その凄さを味わうことができた。エリックという役はこのオペラの中で存在感が薄いのだが、今回のような歌唱で聴くと、これが重要な役だとつくづく思う。

 ダーラントのタレク・ナズミも、ワーグナー作品の「王さま」系にふさわしい深い声が魅力的だ。マリーのオッカ・フォン・デア・ダメラウ、舵手のトーマス・エベンシュタインも、これだけの役で出演してもらうにはもったいない歌声。ただ肝心のオランダ人役のミヒャエル・クプファー・ラデツキーは少し声量がなくて、オランダ人としての魅力に乏しかった。もう少しデモーニッシュな声がほしい。とはいえ、ニールンドとの第2幕の二重唱は緊迫感にあふれていて、十分に感動できた。

 エベルハルト・フリードリヒの合唱指揮による東京オペラシンガーズはさすがの迫力。このオペラでは合唱の質が大事になるが、見事にドラマの中心を作り出していた。

 ニールンドによるバラードやニールンドとラデツキーの二重唱のほか、ニールンドとバット・フィリップの二重唱、ダーラントのアリア、エリックのアリアも聴きごたえがあった。私は第2幕以降、息をつくのも忘れて音楽に浸った。

 ワーグナーは演奏会形式に限る!と言いたくなる。音楽への集中を妨げる余計な演出がなく、ワーグナーが意図したままの世界を耳にすることができる。音楽だけでこんなに雄弁で、こんなにドラマがあるんだ、と改めて思う。初期の、まだワーグナーらしさが十分に発揮されていない「さまよえるオランダ人」でさえも、これほどまでに素晴らしい! 

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ブッフビンダーの弾き振りのベートーヴェン協奏曲 第4番、第3番に興奮

 2026年4月4日、東京文化会館大ホールで、ルドルフ・ブッフビンダーのピアノ・指揮によるベートーヴェンのピアノ協奏曲全曲演奏の初日を聴いた。管弦楽は東京春祭オーケストラ(コンサートマスターは豊嶋泰嗣)。曲目は、前半にベートーヴェンのピアノ協奏曲 第2番と第4番、後半に第3番。

 ピアノ曲をあまり聴かない私でも、もちろんブッフビンダーの演奏はCDやテレビ放送で聴いたことがある。実演を聴きたいものだと思っていたが、東京春音楽祭でベートーヴェンの協奏曲を聴くことができて、とてもうれしい。

 第2番を聴いている間は、もちろんとても良い演奏ではあるものの、さほどの感動は覚えなかった。恐ろしく粒立ちの良い美音! 表面的に美しいというよりも、質感があり、深みのある輝きがある。小手先の技は使わず真正面からの正攻法の音楽。形式感がしっかりしていて、力感があり、抒情がある。ただ、曲の魅力のせいかもしれないが、いいなあ…という印象で終わっていた。

 が、第4番の第1楽章の途中から、私は突然、音楽にぐいぐいと引き込まれていった。ブッフビンダーは、少なくとも私の席からは、あまり手を振っているようには見えず、指揮をしている雰囲気は感じられない。が、オーケストラがぐんぐんと盛り上がっていった。そして、オーケストラとピアノがぴたりと一致して、華やかになりすぎず、知的な抑制のきいたエネルギーにあふれる音楽が広がり始めた。精鋭のオーケストラが素晴らしい! いや、もちろんピアノもすごい!

 第2楽章のオーケストラとピアノの緊張感にあふれる対話、そのあと、抒情がほとばしる。その部分もまるで音のドラマのように展開していく。そして、第3楽章。生きることの喜びが湧き出すかのよう! ブッフビンダーの指揮の名人技なのか、それともコンサートマスターの豊島さんが仕切っているのか。

 後半の第3番はもっとすごかった。第1楽章は緊張感にあふれているが、ピアノの音がとても美しくて豊かなので、すんなりと音楽のダイナミックな流れに乗ることができる。この曲についても、私はオーケストラの掌握に驚いた。ブッフビンダーは指揮しているように見えないのに、この一体感は何事だ! 躍動して高揚していく。

 第2楽章は静かな叙情に浸る。しかし、弛緩せずに音楽が深まっていく。そして、終楽章。大きく飛躍していく。交響曲第5番と似た生への讃歌のようなエネルギー溢れた音楽になっていく。しかし、ブッフビンダーの音はあくまでもクリアで、形が崩れない。そうであるだけにいっそう格調高く喜びが爆発する。素晴らしいと思った。興奮した。

 ベートーヴェンは交響曲もいいが、ピアノ協奏曲もいいなあ!とあらためて思った。

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BCJ「マタイ受難曲」 とてもよい演奏だったが、少し物足りなかった

 2026年4月3日、サントリーホールでバッハ・コレギウム・ジャパンの演奏会を聴いた。曲目は、J.S.バッハの「マタイ受難曲」。指揮は鈴木優人。

 きわめて安定した演奏だと思う。完成度が高く、すべての楽器、独唱、合唱が見事。鈴木優人の指揮もあわてず騒がず、無意味に盛り上げるでなく、真摯にしっかりと展開していく。さすがの演奏。

 エヴァンゲリストの櫻田亮も美しい声でしなやかに、しかししっかりと歌う。素晴らしい。ソプラノの松井亜希、櫻井愛子、アルトのテリー・ウェイ、久保法之、テノールの鏡 貴之、バスのクリストフ・フィラー、ドミニク・ヴェルナー、いずれもきわめて安定している。

 ただ、すごく感動したかというと、そうでもなかった。みんな安定しているし、もちろん見事な演奏なのだが、ちょっと物足りなさを感じた。今、鈴木雅明をはじめ、近年のBCJの常連になっている独唱者の安川みく、加耒徹、吉田志門がオランダバッハ協会(NBS)のヨーロッパ公演に出演しているために、BCJに出演していない。そのせいかもしれない。独唱陣がぴしりと決まらない。独唱陣の声の質や歌い方がばらばらでまとまりを欠くのを感じた。オーケストラも内的な力が弱く、深い信仰心のようなものが聞き取れなかった。

 いや、もしかすると、先日、配信された、鈴木雅明の指揮によるオランダバッハ協会の「マタイ」があまりに感動的だったので、ついそれと比べてしまったのかもしれない。

 とてもよい演奏だけど、ほんの少し物足りない・・・。前日に聴いたドゥエニャスの演奏と同じような感想を抱いたのだった。

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「飯守泰次郎 ワーグナーと人生を語る」を読んだ

 音楽之友社から刊行された「飯守泰次郎 ワーグナーと人生を語る」を読んだ。私は、そこそこの読書家なのだが、いろいろ事情があって、原則としてブログには本の感想は書かないことにしている。が、本書は例外!

 私のワーグナー体験の最初が、1972年の東京文化会館での飯守指揮の二期会公演だった。レコードですでに主要な歌劇・楽劇のすべてを聴いてワーグナーかぶれではあったが、大分市で暮らしていた私は、1970年に東京に出てきたばかりで、まだワーグナーの歌劇・楽劇の実演をみたことがなかった。部分的には演奏会やテレビ放送で日本人の歌うワーグナーを聞いたことがあったと思うが、海外の演奏との大きな差に愕然とするほどだった。

 そんな時に、飯守泰次郎という若い指揮者が登場し、ヴォータンを木村俊光が歌って、まさに本格的なワーグナーを聴かせてくれた。世界の水準がきっとこうだろうと思わせるだけの素晴らしい上演だった。本書の中にその時の様子が語られているが、私はその公演で涙を流して大喝采した一人だった(当時、私は21歳だった!)。

 数年後の「タンホイザー」にも同じように感動した。その後、しばらく消息を聞かなかったのでどうしたのかと思っていたが、1990年ころから再び日本で活躍を始めた。90年代以降の東京シティフィルによるワーグナー、ブルックナーの演奏、二期会、新国立劇場の上演のほとんどを追いかけた。名古屋や京都でも聴いた。その多くの演奏に私は深く感動した。

 何度かお会いしてお話したことがある。私がブログに感想を書くと、読んでくださったようで、その後お会いしたとき、マエストロの方から「おや。樋口さん」と言って私を呼び止めて話をしてくださったこともあった。

 マエストロが亡くなって2年が過ぎた今、この本が刊行されたことは本当にうれしい。

 マエストロの少年時代、音楽修行、しばらく日本で活躍していなかった時の状況、その後の活躍の状況などがくわしく書かれている。「うーん、おれなんかとはまったく違うすごい家系だなあ」「やっぱりすごい才能があったんだなあ」などという月並みな感想を抱きながら、私がこれまで聴いてきた数多くの名演奏家たちとの間でのマエストロの音楽体験を読んでいった。ベームやカラヤンが活躍した時代のヨーロッパの音楽状況がとてもよくわかる。知った名前が次々出てきて、生身の行動をとるので、私のようなオールドファンはわくわくする。バイロイトの内側についても追体験できる気がする。

 ワーグナー作品についての演奏する側からの解説も出色。また、調性についての解説がおもしろい。音楽家にとっては常識的なことなのかもしれないが、素人にもとてもよくわかる。そんな楽曲解説、音楽解説にも、誠実で正統派で、しかし人間臭く、ワーグナーを心から愛し、ワーグナーの世界を私たちに聴かせてくれたマエストロの姿が見えてくる。ワーグナー理解が進み、マエストロのワーグナー解釈の一端が見えてくる。

 そうだった、私のワーグナー体験の基本を作ってくれたのは間違いなく飯守泰次郎だった!と、改めて思った。

 それにしても、飯守泰次郎の指揮をバイロイトで聴きたかった! 「飯守さんがバイロイトで振るときには、何が何でもみんなでバイロイトに行こうね!」と仲間内で何度も話していた。飯守さんも亡くなり、一緒に語っていた仲間たちの多くも亡くなって、もちろんそれはかなわぬ夢になってしまった。かえすがえすも残念!

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ドゥエニャス&マロフェーエフ 良くも悪くも若々しい演奏!

 2026年4月2日、東京文化会館小ホールで、東京春音楽祭、マリア・ドゥエニャス(ヴァイオリン)&ピアノ:アレクサンダー・マロフェーエフ(ピアノ)の演奏会を聴いた。

 曲目は前半にシューベルトのヴァイオリン・ソナタ イ長調 D574とドビュッシーのヴァイオリン・ソナタ、後半にフランクのヴァイオリン・ソナタ。

 ドゥエニャスという若き天才の目覚ましい活躍は耳にしたことがあった。2002年生まれというから、まだ23歳くらい。ピアノのマロフェーエフも同年代で、この人も注目を浴びているらしい。大いに期待して出かけた。

 前半を聴いた時点では、話に聞いていたほどではないなあという印象だった。ドゥエニャスは音程のいいクリアな音で物おじしないでぐいぐいと音楽を進めていく。マロフェーエフは、まるでグレン・グールドのように低い椅子に座ってピアノに向かい、これまたクリアな音で音楽を引っ張っていく。ただ、シューベルトの孤独な心が伝わらない。ドビュッシーの質感が伝わらない。もちろん悪くはないのだが、なんだかやっぱり超優等生の演奏を聴いている感じがする。いやいや、私のシューベルト観、ドビュッシー観を押し付けるつもりはない。何かしらほかの雰囲気でもいい。それがほしいのだが、ちょっと無機的に聞こえる。

 それに比べて後半のフランクはずっと良かった。冒頭、あっというような繊細な音! ひそやかに心の奥を明かしていくかのように始まる。第2楽章以降、スケール大きく情熱的に音楽が広がっていく。ただ、クリアで、どちらかというと怜悧な雰囲気がある。音楽の形が崩れないまま、若々しくて研ぎ澄まされた音楽が作られていく。二人の音楽性がぴたりと合っている。

 ほぼ満員の会場で大喝采が起こったが、私としてはあまり感動できなかった。やはり、フランクのソナタは、熟年の人間の音楽だと私は思っている。もっと屈折し、酸いも甘いも知って、異性への愛に燃えたり絶望したりを繰り返し、人生への諦めや絶望を抱きつつもなお情熱を燃やしてしまう人間の思いをぶつけたような曲。今日の演奏は、それにしてはあまりに若々しく、あまりに直接的だと思う。もっと屈折や逡巡やためらいや割り切れなさがほしい。

 アンコールはフェレンツ・ヴェチェイの悲しみのワルツ ハ短調、A.コープランドのウクレレ・セレナーデ、リヒャルト.シュトラウスの「あした!」のヴァイオリン版。ヴェチェイやコープランドの曲はいわゆる「現代音楽」だが、これはまさに切れが良くてクリアで見事! この人たちはこのような曲の方があっているのではないかと思った。

 そんなわけで、とてもよい演奏だとは思ったが、「まだまだ若いなあ」と思ったのだった。

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NBS「マタイ受難曲」配信、そしてオペラ映像「クリスマス・イブ」「ムツェンスクのマクベス夫人」

 4月1日! 以前はこの日は、「エープリル・フール」だということで、学校でもテレビなどでも大いに話題になったものだが、このごろ、そんな様子がない。私としては、今日から自転車の乗り方について厳罰化されたことの方が気になる。

 車道を自転車が通るのは絶対に危険だと思う。左側通行についても、道路状況によってはきわめて危険なことになる。私自身はあまり自転車に乗らないが、娘が子どもたちの送り迎えに使っているので、心配でならない。全国的に大事故が起こってしまうのではないか。そうならなければいいが!

 そんななか、音楽映像をいくつか見たので、感想を簡単に記す。

 

J.S.バッハ 「マタイ受難曲」 オランダバッハ協会配信

 鈴木雅明がオランダバッハ協会のオーケストラを振り、ソリストに何人かの日本人が参加する「マタイ受難曲」。生配信され、その後、YouTubeでも見られるようだ。

 バッハコレギウムジャパンBCJのこのところの完成度の高さも圧倒されるほどだが、オランダバッハ協会NBSの演奏も素晴らしい!

 BCJの音に慣れていると、ちょっと音の雰囲気が違うので、初めのうち違和感があったが、いやいやこちらも名手ぞろい。すぐにぐいぐいと引き込まれていった。楽器奏者たちも圧倒的だが、歌手陣もそろっている。

 エヴァンゲリストはニコラス・マルロイ。しなやかでとてもいい。イエスなどのバスを歌うのは、ステファン・マクラウド。格調高く気品あるバスの声。日本人では、ソプラノの安川みく、テノールの吉田志門、バスの加耒徹。これ以上考えられないような独唱陣だと思う。安川の澄んだ声はこの曲に本当にふさわしい。吉田の35番のアリア「耐え忍べ」はまさに絶品。こんなに感情がこもりながらも、「マタイ」を逸脱しない歌を初めて聴いた。加耒の「己を清めよ、わが心よ」も躍動感ある歌に心をわしづかみにされた。まさに世界最高レベルの歌唱だった。最後の合唱もこの上なく敬虔に、そして美しく静まった。

 大いに感動した。同時に、バッハ演奏における日本人の力に大きな誇りを抱いた。

 

リムスキー=コルサコフ 「クリスマス・イブ」 バイエルン国立歌劇場 2025年12月10・13日

 NHK BSKで放送された。日本では、というか、むしろロシア以外では、というべきなのだろう。リムスキー=コルサコフの真価はあまり知られていない。私自身、数年前にようやく気付いたばかり。だが、オペラ作曲家としてのリムスキー=コルサコフはシュトラウスに引けを取らないと思う。「金鶏」「皇帝の花嫁」「見えざる町キーテジと聖女フェヴローニャの物語」「サトコ」などは大傑作だと思う。「クリスマス・イブ」もなかなかの傑作!

 今回のバリー・コスキー演出、ウラディーミル・ユロフスキ指揮によるバイエルン国立歌劇場の公演は、このオペラの魅力を存分に見せつけるものになったといえるだろう。

 まず、演出が楽しい。派手な色彩と大袈裟な化粧と演技によって喜劇性を高めている。そして、ゴーゴリ原作の滑稽で不気味な魔女の世界が展開する。明るくてドタバタのゴーゴリ! そして、色彩的で美しい音楽! ユロフスキの指揮もメリハリをつけて面白く音楽を展開する。歌手陣も全員がそろっている。女帝(ヴィオレッタ・ウルマナ)、村長(セルゲイ・レイフェルクス)、チュブ(ドミトリー・ウリアノフ)、オクサナ(エレナ・ツァラゴヴァ)、ソロハ(エカテリーナ・セメンチュク)、いずれも愉快で不気味でおもしろい。特に新しい解釈はないと思うが、ともあれ、このオペラをこんなに楽しいものにしてくれた上演に感謝!

 

ショスタコーヴィチ 「ムツェンスクのマクベス夫人」 ミラノ・スカラ座 2025年12月7日 

 NHK BSで放送された。指揮はリッカルド・シャイー。実は、シャイーはショスタコーヴィチの、とりわけ劇音楽を得意にしている。聴いてみると、確かにきっとロシア的ではないのだろうが、切れがよく、活気にあふれて、前衛時代のショスタコーヴィチにぴったりの演奏だ。セルゲイの死体が発見された後の警察署に舞台が移ったときの音楽など本当に猥雑感にあふれていて素晴らしい。

 カテリーナを歌うのはサラ・ヤクビアク。きっとカテリーナはこんな容姿でこんな雰囲気の女性だったのだろうと思わせる歌唱と演技だ。見事だと思った。舅ボリスを歌うアレクサンドル・ロスラヴェッツはまさに暴君の味を出している。見事な声! セルゲイはナジミディン・マヴリャーノフ。声はしっかりしているが、この人は顔で損をしていると思う。どう見ても、セルゲイのような利己的で支配欲の強い女たらしには見えない。純朴で善良な人間に見えてしまう。演技力不足という面もあるのかもしれないが、映像で見ると、その点に違和感を覚える。

 ワシリー・バルハトフの演出では、カテリーナとセルゲイが、逮捕後、警察の取り調べを受けて、過去を再現するという形で場面が展開する。舞台の放送が始まる前にNHKが付した注釈によると、「生々しいショスタコーヴィチの音楽はそのまま演じると滑稽になりかねない」という理由からだという。まあ、それはその通りだし、確かにうまく舞台を転換して自然な流れにしているので、うまい方法だと思うが、私は生々しいショスタコーヴィチの舞台を観たかったなあ、と思わないでもない。

 とはいえ、2017年のザルツブルク音楽祭でのヤンソンス指揮の鮮烈な映像に匹敵する上演をみられて、とても満足だ。

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