パナヒ監督の映画「シンプル・アクシデント」 最後の場面は和解への希望か?
イランの映画監督・ジャファル・パナヒの新作映画「シンプル・アクシデント」をみた。
パナヒ監督は、「チャドルと生きる」「これは映画ではない」「人生タクシー」をみたことがある。いずれも刺激的で、とてもおもしろい映画だった。イラン社会の矛盾を真正面から描き、いくつかの映画では、ノンフィクションとフィクションを織り交ぜて、イラン政府から映画を撮ることを禁止されながらも映画を撮ろうとすることの苦労を描いていた。さて今回はどうだろうと思って観に出かけた。今回は完全なフィクションだった。
自動車整備工のワヒドは、かつて反政府とみなされて投獄され、拷問を受けた過去があった。ある時、故障をして持ち込まれた車を運転する義足の人物をみて、それが、自分を残虐に拷問した「エグバル」だと確信する。目隠しをされていたのでエグバルの顔はよくわからないが義足の音から間違いないと思う。男を拉致して殺そうとするが、男は人違いだと訴える。ワヒドの確信は揺らぎ、義足の男を閉じ込め、引き回しながらも、同じようにエグバルにひどい拷問を受けた仲間たち四人に判断してもらおうとする。そうして、反政府とみなされて投獄された人々の苦しみがあらわになっていく。
かつて拷問された五人の反応がとても興味深い。ワヒドは義足男を見つけた時には興奮して一方的な行動をとるが、いったん疑い始めてからは冷静になっていく。一人の暴力的な男(現在、ネットで排斥的なことを声高に主張している人々の典型的な考えを代表していそう!)だけが、間違いないと決めつけて、強硬に殺してしまえと激しく主張するが、ほかの人々は拷問に深く傷つき、復讐したいと強く願いながらも、無実の人間をあやまって傷つけることを恐れる。
ワヒドは、義足の男の妊娠中の妻が倒れて、幼い娘が助けを呼んでいるのに気づいて病院に連れていき、妻は赤ん坊を出産。ワヒドらはあわてて妻を救助しているうちに、徐々に気持ちを軟化させていく。だが、もちろん拷問者を許すことはできない。
終盤になって、義足男はワヒドらになぶり者にされつつも、妻と赤ん坊が助けられたことを知らされ、それに対して感謝の意を示す。そして、拷問を受けた者たちの苦痛の激しさを知って、自分が拷問者であったことを告白する。ワヒドは義足男に無理やり謝らせるだけにして、それ以上の復讐はしないで、郊外に置き去りにして去る。
最後の場面、ワヒドが仕事をしているとき、背後で義足の音。ワヒドは振り返らずに怯えて立ち止まる。もしかしたら、義足男がワヒドを見つけて復讐に来たのか、それとも和解の言葉をかけに来たのか。だが、足音はそのまま去っていく。
イランの体制派と反体制派の憎みあいや、イランの社会の現状が映される。それほど宗教の縛りが強そうに見えず、どこの国でもありそうな結婚前の写真撮影、ご祝儀のお金の取り立てなどが描かれる。まさにイラン社会のリアル!
タイトルは、「シンプル・アクシデント/偶然」。もっと俗に言い換えれば、「ほんのちょっとしたこと」というような意味だろう。
映画の冒頭、ちょっとした事故で犬が車に轢かれて死ぬ場面がある。ちょっとしたことで車が故障し、たまたま車はワヒドのいる修理工場に運ばれる。そして、終盤で語られる通り、そもそも義足男が政府側の立場になったのも、まさにちょっとしたことによる。ちょっとしたことで、運命が分かれ、人生が狂わされて、敵対し、憎みあっていく。
最後の場面、ワヒドの背後を義足の音が通り過ぎていく。様々に解釈できるだろう。私は、これを監督の和解への希望だと思う。きっと、義足の男は和解を申し出に来たのだと思う。そして、何も口にしないまま去った。
「イランの人々は、ちょっとしたことで立場が分かれてしまい、憎みあうようになってしまった。だが、実は、誰もが家庭を大事にし、他者を思いやる人間だ。その差はちょっとしたことでしかない。だったら、和解しあえるのではないか」。
この映画はそんなメッセージを伝えていると思った。
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