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オペラ映像「ランメルモールのルチア」「マリア・ストゥアルダ」「陪審員裁判」「不祥事の一件」

 今日は8月の末日。また暑さがぶり返すようだが、ともあれ、首都圏はここ数日は比較的涼しい。オペラ映像を数本みたので簡単な感想を記す。

 

ドニゼッティ 「ランメルモールのルチア」 2023年4月 ミラノ、スカラ座

 新発売のブルーレイディスクを5枚まとめて買ったら、そのうちの3枚のヒロイン役を歌うのがリセット・オロペサだった。まさに今が旬の歌手だ。もちろん、その実力のほどはよく知っている。NHK/BSでみた2025年のザルツブルク音楽祭の「マリア・スゥアルダ」は凄まじかった。

 オロペサは、確かに期待通り素晴らしい。伸びやかな美声、演技も見事。ただ、実をいうと、もっとすごい演奏を期待していたが、それほどではなかった。オロペサは、ルチアにしてはとても情緒が安定して知的な雰囲気であって、狂乱の場の歌も、正確に素晴らしい歌を聴かせてくれるが、突き抜けた雰囲気があまり感じられない。ただもちろん、最高レベルのルチアであることは間違いない。

 エドガルドはフアン・ディエゴ・フローレス。以前ほどの爆発力はないが、相変わらずの美声に渋みが出てきて音楽が深まった。エンリーコのボリス・ピンハソヴィチも申し分ない。横暴でありながらも人間味のある人物を最高の声で造形している。

 レオナルド・コルテラッツィ(アルトゥーロ)、ヴァレンティーナ・プルジニコワ(アリーサ)、ジョルジョ・ミッセーリ(ノルマンノ)も文句なし。ただ、ライモンドを歌うミケーレ・ペルトゥージは名の知れた大歌手だが、年齢的な問題だろうか、少し声のかすれるところがあった。

 シャイーの指揮については、繊細にしてドラマティック。素晴らしい。演出はヤニス・コッコス。登場人物は現代の服装だが、違和感はなく、人物の動きなどさすがというしかない。ただ、人物が現代の服装で現れると、台本の弱さが露呈される気がする。昔の話だと思っていると、少々話が不自然でも、ルチアの狂乱がわざとらしくても、殺人事件というとんでもないことが起こっているのに    舞台がのんびりしすぎていても、さほど気にならないが、現代の話だと思って観ていると、どうにも気になる。そのあたりをどうにかしてほしかったなあとは思った。

 

ドニゼッティ 「マリア・ストゥアルダ」 2024年12月20,23日 マドリード王立劇場

 期待して観たのだが、どういうわけか、私はまったく惹かれなかった。

 まず、ホセ・ミゲル・ペレス=シエラの指揮が私にはピリッとしているように聴こえない。ドラマとして盛り上がらない。

  題名役のリセット・オロペサも、高音はとてもいいのだが、全体的にあまり本調子ではないようだ。ザルツブルク音楽祭2025でのこの役の歌唱はあんなにすごかったのに、ここでは声が上ずっているような気がする。エリザベッタのアイグル・アクメチーナも安定しない。レスターのイスマエル・ジョルディは、私の好みの問題かもしれないが、不安定で甘ったるい歌い方がどうにも気になる。

 デイヴィッド・マクヴィカーの演出は、彼らしい豪華で存在感あふれる舞台での説得力ある動きがとてもいいのだが、ザルツブルクでのウルリッヒ・ラッシュの演出のような迫力がない。

 ザルツブルク音楽祭のあまりに凄い上演の記憶が残っているせいなのかもしれないが、私には満足できない映像だった。

 

サリヴァン 喜歌劇「陪審員裁判」2025年5月30日、フェスティヴァル・シアター

 ギルバート台本、サリヴァン作曲のイギリスのオペレッタ。私はオペレッタ好きなので、近年、ギルバート&サリヴァンのオペレッタがソフトでリリースされているのはとてもうれしい。

「陪審員裁判」は、40分あるかないかの短いオペレッタ。結婚を前にして、別の女性に心惹かれて逃げ出した男エドウィンを、結婚予定だった女性アンジェリーナが訴え、すったもんだの末、裁判長が原告女性と結婚することで落ち着く、という他愛のないストーリーだが、やり取りがしゃれていてとてもおもしろい。自分の不実な過去をあっけらかんと楽しく告白する裁判長の歌など、とてもおもしろい。音楽も、オッフェンバックやヨハン・シュトラウスほどの凄みはないが、十分に楽しめる。

 指揮はトビー・ヘシオン、スコティッシュ・オペラ管弦楽団&合唱団。演出はジョン・サヴォーニン。廷吏のエドワード・ジョウル、エドウィンのジェイミー・マクドゥガル、裁判長のリチャード・スアート、原告側弁護人のクロエ・ハリスなども芸達者で、声も出ている。とても楽しめた。

 演出は、ジョン・サヴォーニン。なぜか、テレビ収録が行われているという設定で話が進むが、わかりやすくて楽しい。英国式ユーモアがあふれている。

 

ヘシオン 喜歌劇「不祥事の一件!」 2025年6月6日 エジンバラ、フェスティヴァル・シアター

「陪審員裁判」と同じBDに収録されていた。エジンバラのフェスティヴァルでの上演。「陪審員裁判」がテレビの収録中という設定だったが、「不祥事の一件!」を見て、その理由がやっとわかった。こちらは正真正銘、テレビのインタビューが大事な要素になる。別の演出家(こちらはローラ・アトリッジ)だが、相談の上、連続性を出すために、このような演出にしたのだろう。何人かは歌手も重なっている。こちらも40分程度の作品だ。

 こちらは現代曲で、作曲のトビー・ヘシオンは、「陪審員裁判」と「不祥事の一件!」の両方を指揮している。1997年生まれというから、なんとまだ20代ではないか! 脚本はエマ・ジェンキンス。この人もきっと同年代なのだろう。

 最初の音から、いわゆる現代曲だとすぐにわかるが、これまためっぽう楽しい。

 党首選で党首となり、首相になることを狙っている副首相のロジャーは、軽率な妻ともどもいくつもの不祥事が持ち上がって苦境に立たされ、それを打開するために辣腕弁護士の悪辣な手法の提言を受け入れて乗り切ろうとするが、そのすべてがテレビインタビューのために用意していたマイクを通して、すべて録音されていた…という話。

 ロジャーはトランプ大統領のようないでたちで現れ、どうやら現在の英国政権中枢の人を揶揄するセリフも多いようだ(私には何のことやらわからないが、観客席では大うけしている!)。風刺と皮肉にあふれている。音楽も楽しい。

 ロジャーのロス・カミング、報道官のエドワード・ジョウル、特別顧問の特別顧問のジェイミー・マクドゥガル、ロジャーの妻のクロエ・ハリス、弁護士のキラ・カプランのいずれもが歌も演技も容姿も申し分ない。

 こんな新作オペレッタが次々と生まれると、どんなに楽しいことだろう!

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上森の究極の9曲を堪能!!

 2026年8月29日、浜離宮朝日ホールで、上森祥平チェロ・ソナタ演奏会 2026〈究極の9曲〉を聴いた。第1部と第2部に別れており、13時からの第1部でバッハの無伴奏チェロ組曲全曲、18時からの第2部でベートーヴェンのチェロ・ソナタ第3・4・5番が演奏された。まさに究極の9曲! ベートーヴェンのソナタのピアノを演奏するのは福富彩子。 素晴らしい演奏だった。

 バッハは、1・4、5・3、2・6の順に、2曲ずつ、途中20分の休憩を入れて演奏された。全体的に、ゆったりとしたテンポによるふくよかで自由な雰囲気の演奏だった。若手のチェリストのようにアグレッシブに演奏するわけではない。もっと余裕があり、潤いがあり、しなやかでスケールが大きい。神経質にならずに、おおらかな印象を与える。これがこの人の持ち味であり、この人の人格でもあるのだろう。ほかの演奏家でしばしば感じるような信仰の深さや崇高さはあまり感じない。いかにも人間的な演奏と言ってよいだろう。それはそれでしみじみといい。

 ただ、連続して演奏されるせいで、やはりどうしても、曲の雰囲気の違いがあまり明確にはわからなかった。そのため、私は少々退屈に感じたところもあった。演奏者は違いを弾き分けていたかもしれないが、私には残念ながら十分に伝わらなかった。

 とはいえ、私は第3番はダイナミックで開放的で素晴らしかった。音楽の愉悦を覚えた。第6番も、大きな高揚と躍動を覚えた。素晴らしかった。

 ベートーヴェンには、私はバッハ以上に感動した。上森はバッハの時よりも強い堂々たる音でアタックを効かせて演奏。ピアノの福富も素晴らしかった。ベートーヴェンらしい芯があってダイナミックな音! 勢いがあり、まさに「ブリオ」にあふれていると思った。小気味よく強い音が出てきてスケール大きく展開していく。しかも、ピアノもチェロも歌心があり、みごとに二つの楽器が絡み合っていく。

 第3番は圧倒的だと思った。旋律が際立ってくっきりしている。第5番の終楽章のフーガも圧巻! 3曲を続けて聴いたことがなかったが、どの曲も名曲だと改めて思った。

 上森は9曲の、しかもきわめて高度なテクニックと精神性を必要とする曲を弾いているのに、少しも疲れを見せない。ほんとうに素晴らしい演奏家だ!!

 アンコールには、上森さんの息子さんが登場して、ベートーヴェンの交響曲第6番の終楽章のピアノ三重奏曲版のさわりの部分が演奏された。ヴァイオリンの音色に特徴があったが、大いに楽しめた。

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アントニオーニの映画「敗者たち」

 テレビで石川・富山の大雨、そしてチベット、ネパールの土石流が盛んに報道されている。チベット、ネパールの土石流はあまりに痛ましい。東日本大震災の津波被害を思い出す。日本人を含めて行方不明者も多い。多くの人の無事を祈りたい。

 そんななか、渋谷のイメージフォーラムでアントニオーニ特集が組まれていることを知った。まだ観ていない!と思って、あわてて初期の作品「敗者たち」(1953年)をみにいった。始まってすぐに、数年前にDVDを購入して観たことを思い出した。帰宅して、自分のPC内を検索してやっとかつて書いた感想(その時は、「敗北者たち」というタイトルを用いている)を見つけ出した。読んでみて、当たり前かもしれないが、今日抱いたのとそっくり同じ感想を記していたのに気付いた! 

 フランス、イタリア、イギリスを舞台にした3つの中篇から成るオムニバス映画だ。フランス篇は、仲間たちで郊外の公園に遊びに行って平気で友達を殺す高校生たち、イタリア篇は、豊かな家庭で育ったのに犯罪に手を染めて、つい人を殺してしまい、自分も高所から転落して死んでしまう若者、イギリス篇は、自分で女性を殺しながら目立ちたいために新聞社に記事を売り込む自称詩人を描く。いずれも欲望や見栄のために自分に敗れた人たち!

 私は、60年近く前からアントニオーニの映画を愛してきた。パゾリーニ、ワイダとともに大好きな映画監督だ。「太陽はひとりぼっち」「情事」「欲望」「赤い砂漠」「夜」「女ともだち」「さすらい」は心が震えるほど感動した。

 今日みた「敗者たち」では、フランス篇、イギリス篇もいいが、やはりイタリア篇に私は心惹かれた。犯罪に手を染めて彷徨する青年の空虚感、寂寞感は、後年のアントニオーニ作品に通じる。何を信じればいいのかわからない、確固とした存在感を得られない、ただすべてが白々とした、不確定で中身のないものに思える・・・そんな心象風景をアントニオーニは見事に再現している。これは1953年に作られた映画だが、1951年生まれの私は、そっくり同じような感覚を、アントニオーニの映画を感動してみていた1970年代も、そして、75歳を過ぎた今も抱き続けている。アントニオーニ映画をみると、しばしば思う。「ああ、ここに描かれているのは俺の心だ!」と。そして、きっと私以外の多くの人も同じように思って、彼の映画をみているのだろう。

 今回、イギリス篇でアイルランド民謡「ロンドンデリーの歌」が、様々な形に変奏されながら、繰り返し流されていることに気づいた。この歌の歌詞は、戦地に赴く若者を思って母親の心を描いている。が、いずれにせよ、故郷を思わせる歌なのだろう。きっと、心の故郷を忘れて虚栄心の中にさまよう犯罪者に欠けている精神をこの音楽は語っているのだろう。

 DVDで観たことのある映画だった。改めて劇場で観られてとてもよかった。

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映画「白パンと独裁者」

 ファティ・アキン監督の映画「白パンと独裁者」をみた。私はこれまでにこの監督の映画を4本ほどみている。いずれもとても良い映画だった(このブログに感想をアップしている)。今回の「白パンと独裁者」も素晴らしかった。

 アキン監督の恩師にあたるドイツの俳優・映画監督・作家であるハーク・ボームの自伝に基づく作品だとのこと。原題はアムルム。舞台となっている島の名前だ。

 第二次世界大戦末期、ナチス幹部の父を持つ12歳の少年ナニングはハンブルクに住んでいたが、今は、母親や弟、妹、そして母の姉(?)とともに母の実家のあるアムルム島に疎開している。母はヒトラー信奉者であり、気位が高く、高圧的で、ナチスに反発する人を軽蔑しながら生きている。ナニングもナチス信奉者たちのネットワークの中にいる。ところが、ヒトラーが自殺した日、母は子どもを出産し、その後、元気をなくす。そして蜂蜜を塗った白パンを食べたいと漏らす。ナニングはそれをきいて、母に白パンを食べさせたいと考えて、地元の人の手伝いをするなどの工夫をして、何とかパンを手に入れる。だが、母は喜ばず、腹をすかせた弟がパンを食べてしまう。

 そんなストーリーだが、戦争末期の状況と少年の成長が重ね合わされている。

 ナニングは白パンを得るために努力するうち、魚や鳥などの生命の息づく島での生活を知り、島の人々となじみ、人々の現実、ナチスの蛮行、これまでヒトラーを崇拝していた人たちの末路を知っていく。母親一辺倒だったナニングは母を相対化し、その非人間性も認識する。おそらくドイツの各地で起こっていたであろう親ファシストと反ファシストの反目、都会からの疎開してきた人々の苦労と地元民との対立、戦後の親ファシストの零落をナニングは見つめる。

 最後、ナニングと反目していた疎開者の女の子が、家族とともに島を離れようとするナニングにプレゼントを差し出す場面がある。戦前、戦中の様々な人の反目、対立が和解へと進むことがここで暗示される。

 まさにナニングは戦後ドイツそのものを象徴するだろう。ナチス一辺倒だったドイツは真実を知り、対立していた人々と和解し、新しい勢力に力をゆずっていく。

 美しい映像、ナニングをはじめとした生き生きとした子どもたち、人生を感じさせる島民。ナニングは、必ずしも品行方正ではなく、可愛らしい子でもなく、いつまでもナチスの側にいて、母の影響下から逃れられないがゆえに、いっそうリアリティがある。

 アキン監督はトルコ系ドイツ人であって、以前にはトルコ系の人々のドイツでの葛藤にあふれる生活を描いていた。そのアキン監督が今になってこの映画を作ったのは、もしかすると、過去のドイツの分断と反目を乗り越えた歴史を描くことによって、現代社会の分断と反目が乗り越えられることへの期待を表明しているのかもしれない。

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オペラ映像「ファウスト」「マクベス」「ジュリオ・チェーザレ」

 あいかわらず暑いが、少なくとも関東は、ひところほどの酷暑の日々ではない。私の家の周りでも、かつては日本の南部にしか生息していなかったクマゼミのワシワシ…という鳴き声が聞こえる。そんな中、オペラ映像を何本か観たので、簡単に感想を記す。

 

グノー 「ファウスト」 2018年 マドリード、テアトロ・レアル

 私がこのオペラになじんでいないせいかもしれないが、演奏も演出もあまり惹かれなかった。そもそも、つまらなくて途中からきちんと見るのをやめたせいもあるが、演出のアレックス・オリエの意図もよくわからなかった。どうやら、人工生命を作る実験室を舞台にした読み替え演出ということらしいが、私には、なぜ中年女性たちが巨大な乳房で登場し、若めの女性たちがマネキン人形のような姿なのか、男たちがラグビー(?)のユニホームを着ているのかさっぱりわからなかった。

 ダン・エッティンガーの指揮についても、私には煮え切れないように聞こえる。エッティンガーはこのオペラを得意にしているようだが、演出のせいか、音の大きなところも私には空疎に聴こえた。

 歌手陣は充実している。もっともよかったのは、ヴァランタンのステファヌ・ドゥグーだった。フランス語が美しくて、グノーっぽさがあってとてもいい。マルグリートのマリーナ・レベカも清楚で、愛に狂う女性を見事に美しく歌う。ファウストのピョートル・ベチャワとメフィストフェレスのルカ・ピサローニは声はよく出ており、その点では見事だと思うのだが、あまりフランス語らしく聞えないのが気になった。

 グノーはワーグナーと同時代のフランスの作曲家だが、ワーグナーと比べてしまうと、やはり作品そのものの魅力が不足するのを感じざるを得ない。

 

ヴェルディ 「マクベス」フランス語版 2024年9月26日、10月6日 パルマ、レッジョ劇場

「マクベス」のフランス語版。初めて聴いた。このオペラにそれほど詳しくない私は、どこがどのようにイタリア語版と異なるのかよくわからない。ただ、バレエの場面がかなり長いと思ったが、これはフランス語版の特徴かもしれない。

 ロベルト・アバドの指揮によるフィラルモニカ・アルトゥーロ・トスカニーニとヴィア・エミーリャ・ユース・オーケストラの演奏だとのことだが、メリハリの利いたドラマティックな演奏で、歌心にもあふれている。それはそれでとてもよい演奏だと思う。

 ただ、2023年のザルツブルク音楽祭のジョルダン指揮による映像で、イタリア・オペラらしい歌の連続を排除したような演奏を聴いて、初めてこのオペラの良さに気づいた私としては、今回のロベルト・アバドの演奏はあまりにイタリア・オペラ的、あまりに伝統的で、「マクベス」の革新性から外れているのではないかと思ってしまう。要するに、ヴェルディはこのような演奏スタイルから脱したくて「マクベス」を作ったのではないのか?という疑問を抱かずにはいられないのだ。とはいえ、ヴェルディについて論じるほどの見識を持たないので、疑問を抱くにとどめておく。

 歌手陣は充実している。マクベスのエルネスト・ペッティは張りのある美声で、複雑なこの役をしっかり歌っている。マクベス夫人のリディア・フリードマンは、声の威力が素晴らしい。他を圧する容姿もこの役にふさわしい。バンクォーのミケーレ・ペルトゥージとマクダフのルチアーノ・ガンチはさすがの歌唱で素晴らしい。マルコムのダヴィド・アストルガも張りのある声がとてもいい。フランス語版ということを意識しているのだろう、みんながしっかりしたフランス語を歌っている。フランス語のほうが心の機微を語る雰囲気が出る。

 その中で、パルマ・レッジョ劇場合唱団がとてもフランス語とは思えない言葉を発する。字幕をフランス語にして聴いてみたが、字幕をみても、どの部分を歌っているのかわからないような発音がかなりたくさんあった。もしかしたら、日本語のカタカナ読みのような感じで歌っているのでは?と思った。

 ピエール・オーディの演出はシンプルで、道具立ても少なく、背景を示しているだけに思えた。ただ、人物の動きは自然で、わかりやすい分ありがたい。

 

ヘンデル 「ジュリオ・チェーザレ」 2023年1月25日、2月2日 オランダ国立オペラ&バレエ ル・コンセール・ダストレ(オーケストラ)

 私はバロック・オペラにはあまり馴染んでいないのだが、これはすごいと思った。出てくる歌手たちがいずれも圧倒的な歌を聴かせてくれる。バロック・オペラに疎い私には未知の名前が並んでいるが、きっと知る人が見れば、これは高名な歌手たちの競演なのだろう。

 題名役のカウンターテナー、クリストフ・デュモーにまずびっくり。ひと昔前まで、世界的に名の知れたカウンターテナーでも音程の怪しい人がたくさんいたのに、この上演で歌うカウンターテナーは全員が音程がまったく狂わない。そのなかでも、デュモーは自在に声を操り、英雄的に、そしてしみじみと歌う。クレオパトラのジュリー・フックスも、クレオパトラにふさわしい美貌と強靭でしなやかな声。コルネリアのテレサ・イエルヴォリーノも色気のある演技と歌唱に惹かれる。セストのチェチーリア・モリナーリは復讐に燃える若者を見事に歌う。トロメーオのキャメロン・シャバジ(カウンターテナー)も見事に悪役を歌う。アキッラのフレデリク・ベルフマン、ニレーノのジェイク・イングバー(カウンターテナー)、クーリオのヘオルヒー・デルバス=リチテも文句なし。

 エマニュエル・アイムの指揮もきびきびして抑揚に富み、最後まで飽きさせない。カリスト・ビエイトの演出も、登場人物は現代の服装で、しかも簡潔。紀元前のエジプトの物語を現代に蘇らせている。

 

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空海と真言の名宝

 2026年8月18日、東京国立博物館平成館で「空海と真言の名宝」をみた。

 もちろん、ほんの表面をかすっただけだが、60年近く前から仏教にはそれなりの関心を寄せてきた。とりわけ、空海についてはひところ何冊か本を読んだことがある。今回の展覧会は大規模で、秘仏もたくさん集められているという。ともあれ、足を運んだ。

 が、炎天下、正午頃に会場に到着すると、入口の手前で大きな行列ができていた。私の前に200~300人くらいは並んでいただろう。思ったよりはすんなりと入場できたが、中は猛烈な人込みだった。人気の絵画や仏像の前には人だかりができて、先に進めない。近くにいた高齢女性がお仲間に「パンダと時と同じくらいの行列ね」と言っていたが、きっとその通りだと思う(私は、今まで一度もパンダをみたことはないが)。ラッシュ時の新宿駅の構内並みといえるほどの混雑だった。

 そんなわけでゆっくり見られなかったとはいえ、目を見張るような宝が並べられていた! 冊子や曼荼羅図、空海の手になる文章、屏風、そして、仏画、仏像。あまりに人が多いので、説明書きが見えない。人だかりの後ろについて、少しずつ前の人が減っていくのを待つ。重点を決めて、私に関心のある仏像を中心にみた。

 順路に沿って歩き、最初に目を引いたのは、快慶作の執金剛神立像と深沙大将立像だった。動きがあって荒々しい。次には、聖観音菩薩・梵天・帝釈天立像から成る、いわゆる二間観音。東寺の秘宝だとのこと。ケースに入れられた小さな3体だが、青い髪、穏やかな顔、そして緻密な模様の入ったくすんだ金色の袈裟が美しい。二十人くらいが取り巻く中、しばらくしてやっと前に法に行けて、みることができた。

 奈良の長谷寺の十一面観音、香川の善通寺の吉祥天立像、兵庫の須磨時の十一面観音像、大門寺の如意輪観音像、観菩提寺の十一面観音像にも目を見張った。いずれも神々しさにうっとりしたり、存在感に圧倒されたり、厳かな美に感動したり。

 よくぞこれほどの至宝がここに集まったものだと思った。ただ、繰り返すが、こんなにごった返していると、ゆっくり鑑賞できない。信仰の気持ちを抱くこともできない。もちろん、私も混雑を作り出している一人に違いないのだが、もう少しゆっくりと、静かな環境で見たいものだと強く思う。もう一度、見に行きたいと思っているが、きっと混雑が続くのだろう・・・。

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名古屋観光

 先週のことになるが、2026年8月8日と9日、所用があって名古屋に出かけた。35℃前後の暑さだったが、ついでに少し観光した。このところ、年齢のせいか、私はかなり宗教に傾いている。まったくの初心者ながら、宗教がらみの観光をしたくなる。それなりに忙しくて、この観光についてブログにアップしないままだった。時間がたってしまったが、備忘録代わりに、ここに簡単に訪れた場所と簡単な感想を記すことにした。

 8月8日、名古屋駅に到着後、まずはあおなみ線に乗り換えて荒子駅に向かい、歩いて荒子観音に向かった。先月末、吉田志門&碇大知のコンサートで名古屋を訪れた時、翌日、何も調べないまま、荒子観音に行き、1200体以上残されているという円空仏を見ようとしたら、第二土曜日にしか拝観できないとのこと。いつもながらの自分の迂闊さにうんざりし、今回、この日に合わせて名古屋に来たのだった。

 円空は江戸前期の仏師・修行僧であり、歌人であって、各地を歩いて12万体の仏像を彫ったといわれている。美濃に生まれ、現在の名古屋付近が活動に中心だったらしい。

 暑い中、歩いて荒子観音に行き、木端の会というボランティア団体の方々が守っている円空仏をみた。木の段の上に30体近くの円空の彫った木の仏が並べられている。大きいもので1メートル前後、小さいものでは、30センチくらいか。いずれも、ごつごつした感じで、粗削り。一本の鉈で彫る一刀彫りの手法だという。

 段の周囲には、これまた円空の彫った、人間の指と同じくらいの大きさの木の仏像が数百と並べられている。いずれも、目鼻と腕の形が彫られているくらいで、高度に抽象化されているというべきだろう。

 なるほど、丹精を込めて一つの仏像を彫るのも信仰のありかただろうが、このように、一見ザツな仏像も含めてひたすらたくさん彫るというのも深い信仰の現れだろう。常に仏を彫り続ける。心を無にして、具象的なものも抽象的なものも、ともかく様々な形のたくさんの仏像を彫るうちに心の中に、そして体の中に仏が宿るのだろう。

 荒子観音の仁王門の仁王も円空の作だとのこと。これも粗削りで円空らしい。

 高畑(たかばた)駅まで歩いて、そこから地下鉄東山線に乗って伏見で乗り換え、鶴舞線で大須観音駅で降りて、七寺(ななつでら)へ。駅の横に大須観音があり、心惹かれるものがあったが、私に関心のある領域を検索してGeminiに旅行ルートを質問したところ、七寺が出てきたので、ともあれそれに従う。

 小さな寺だった。中に入れてもらって、国重要文化財である聖観音菩薩像や大勢至菩薩像をみた。国宝だった阿弥陀如来像の両脇侍だったものを先の戦争の空襲による焼失の中から2人が何とか持ち出したものだという。この二体の仏像はいずれも心洗われるような表情だった。こんな神々しくも慈悲深いお顔は珍しいと思った。外にある大日如来像は戦争のために破壊されたものをつなぎ合わせたものだったが、風格があった。唐櫃入紙本墨書一切経もあったが、これも重要なものらしい。 

 住職のお話も聞いた。ご住職によると、元はこの寺は清州にあったものが、家康の清洲越しによって名古屋に移り、しばらくはこの地で広大な敷地を持っていたが、区画整理、大空襲、戦後の様々な政策によって、現在のような小さな寺になったとのこと(もう少し詳しい話を伺ったが、よく覚えていない)。この寺院の過酷な歴史を思わざるを得なかった。

 その後、徒歩で10分ほどの栄国寺(えいこくじ)に行った。私は隠れキリシタンにもいくらか関心を持っている。今年の1月に五島列島に行ったのも、そのような関心のためだった。名古屋でそのような跡が見られるとは思っていなかった。尾張藩はキリスト教に寛容だったが、その後、キリシタンは処刑されることになる。寺院内の切支丹遺跡博物館にそのような歴史の展示があった。

 この日の観光はこれで終わり。

 9日は、午前中に名古屋駅からJR中央線で大曽根駅に行き、そこから「ゆとりーとライン」(高架専用軌道を走るバス)で竜泉寺口へ。歩いて、龍泉寺に行った。ここは、宝物館には円空の彫った馬頭観音像、天照皇太神像、熱田大明神像がある。いずれもかなり粗削りで、木目が強く残った像だ。人間味にあふれている。その横には、細かい木端で作られた円空仏が「円空」という文字を描いて並べられている。きっと、煩悩の残った人の祈りの心なのだろう、と素人なりに思う。

 このまま、同じ道を戻って名古屋駅に到着。午前中で観光を終えて、東京に向かった。

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ロッシーニ「小荘厳ミサ曲」 12人の独唱者と2台のピアノとハルモニウム

 2026年8月13日、三鷹市芸術文化センター風のホールで、ロッシー二「小荘厳ミサ曲」 (12人の独唱者と2台のピアノとハルモニウムのヴァージョン)を聴いた。

 コンサートは16時開始。三鷹駅に到着する少し前から、猛烈な雨が降り出し、駅に着いても、多くの人が駅構内に避難していて、動きが取れなかった。しばらく待ったが、どうにもならないのでタクシーで会場に向かった。タクシー乗り場に行き、しばらく車を待ち、乗り込み、会場前で降りて中に入っただけで、靴はずぶぬれ、服もズボンも半分くらい濡れた。コンサート中、寒気を感じ、足も不快だった! 同じような状態の人は大勢おられたと思う(ひどい目にあったと思って、足が濡れたまま帰宅し、テレビをつけて千葉県の線状降水帯が発生して大変なことになっているのを知った。それに比べれば、私の雨被害など何ほどでもなかった。千葉県の被害が増えないことを祈る!)

 演奏は素晴らしかった。2台のピアノとハルモニウムはオリジナル・ヴァージョンだが、やはりこの曲は、オーケストラ版よりもこの版がいい。

 ソプラノは、澤江衣里、藤崎美苗、金持亜実、アルトは布施奈緒子、青木洋也、高橋ちはる、テノールは中嶋克彦、板谷俊佑、坂東達也、バリトンは与那城敬、篠部信宏、藤井大輔。ピアノは渡辺治子と丸山麻美、ハルモニウムは西沢央子。指揮は青木洋也。豪華な顔ぶれと言ってよいだろう。名手たちが結集した感がある。

 こんなにきれいにハモる合唱を聴くのは久しぶりだと思った。12人がこれほどの名手たちだとこうなるのだ!と改めて思った。全員の音程が確かなのできれいに響く。ピアノやハルモニウムの音が明確に聴こえ、穏やかでとてもいい。

 ソリスト(澤江衣里、布施奈緒子、中嶋克彦、与那城敬)もみんなが素晴らしかった。とりわけ、私はソプラノの澤江の透明で輝かしい美声と与那城の格調高くも豊かな低音に惹かれた。二人とも、歌唱の声のコントロールと強弱が絶妙だと思った。

 ロッシーニは、快楽主義的で怠惰で俗っぽい人間だと思われている(おそらく、実際にそうだったのは確かだと私も思う)が、確かに深い信仰心を持っていた。彼のミサ曲やスターバト・マーテルを聴くとそう思う。もちろん、厳粛ではない。バッハのような雰囲気はまったくない。だが、特有の信仰がありそうな気がする。ロッシーニの信仰についての研究書を誰か書いてくれないだろうか。あるいはきっともうあるだろう。日本語訳があれば読んでみたいものだ。峻厳な神への祈りというよりも、穏やかな神への祈りにあふれている。

 ともあれ、私はロッシーニの不思議な信仰心を耳で聞いて、大変心地よく思った。

 ただ、私がこれまで聴いたこの曲の2台のピアノとハルモニウム版は、もっと親密で、もっと内向的な演奏だった気がする。私はこの曲をそのように思ってきた。老いたロッシーニによる、こじんまりとして、内輪の人たちだけでお祈りをするようなミサ曲。求心的で内向的。もちろんロッシーニだから、オペラ的になるし、ユーモラスにもなり、ちょっと外向的にはなるが、あくまでも内を向いている。ところが、今回の演奏は、それほど内向きではなく、外に出ていこうとする力を感じた。そのあたりが、私の好みとは少し違っていた。

 とはいえ、とても満足。演奏を聴いている間は、濡れた足の不快も忘れていた!

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コンツ&周防&日フィル  ブラームスに興奮!

 2026年8月9日、ミューザ川崎コンサートホールでフェスタ サマーミューザ KAWASAKI 2026、日本フィルハーモニー交響楽団演奏会を聴いた。指揮はクリストフ・コンツ、曲目は前半にヨハン・シュトラウス2世の喜歌劇「こうもり」序曲と、周防亮介のヴァイオリン・ソロによるブラームスのヴァイオリン協奏曲、後半にブラームスの交響曲第1番。素晴らしい演奏だった。

 コンツは、少し前までヴァイオリストとして知られていたが、今や世界で注目される若手指揮者だ。大いに期待して出かけた。

「こうもり」を聴いた時点では、長い腕を使ってのスケールの大きな演奏に少し違和感を抱いた。きびきびしてまるで軍隊調の音楽になっているような気がした。オペレッタっぽくなくて、なんだかやたらと威勢がいい。切れのよい、とても透明な音なのだが、もう少ししなやかさがほしいと思った。

 だが、ブラームスの協奏曲になってからは、そのような印象はなくなった。素晴らしい演奏だった。コンツの指揮は、音がクリアで、きりりと引き締まって推進力がある。しかも、スケールが大きく、しばしば溜めを作って、高揚を導く。

 第1楽章の高揚も素晴らしかった。第2楽章のアダージョがことのほか美しかった。ブラームスの木管楽器特有の渋くて地味でロマンティックな美しさが静かに広がっていく。そこに周防のヴァイオリンが重なる。第3楽章の高揚にも興奮した。

 周防のヴァイオリンも素晴らしかった。実は、実演で聴くとなぜかヴァイオリンに満足できることが少ない(なぜなのか、私なりに仮説はいくつか考えているが、それにはここでは触れない)。だが、今日はかなり満足した。深みのある美音で流麗。しかも時に狂おしいまでに高まる。ただ表面的に磨かれた美音ではなく、心の中の思いをぐっとかみしめながら表現しているかのような音楽だと思った。第1楽章のカデンツァも実に雄弁。思いがあふれている。しかし、ブラームスらしく、形式をはみ出さない。それを周防は激しく描いていく。心を揺り動かされた! 周防のヴァイオリンはこのところ、聴くごとに深く感動する。素晴らしいヴァイオリニストだと改めて思った。

 後半の交響曲のとてもよかった。こちらはコンツの音楽を存分に味わうことができた。協奏曲と同じように、推進力のあるスケールの大きな演奏で、ぐいぐいと音楽を進めていく。

 小細工のない真正面からの演奏に思えるのだが、第1楽章冒頭はこれまで聴き慣れたティンパニの推進する重厚な雰囲気はあまりなかった。また、終楽章の印象的な金管楽器の重なり(素人なので、第何小節なのかなど語ることができない)が聞こえてこなかった。そんな意味で、個性的な面も備えた演奏だったと思う。だが、それにもまして、高揚感があり、音が研ぎ澄まされており、構築性があるので、聴いているものとしてはぐいぐいと音楽の中に引き込まれる。終楽章では大いに興奮した。

 ただ、日フィルについては、全体的には透明な音を出して、私はとても満足したのだったが、いくつかのミスが気になった。ホルンが音を何度か外した気がした。また、恥ずかしながら、弱い音だったので何の楽器なのかわからなかったのだが、コンツが溜めを作っているとき、金管楽器の一つが待ちきれずに飛び出した(?)ような気がした。もしかしたら私の気のせいかもしれないし、そうでなかったにしてもたいした瑕疵ではないのかもしれないが、少々気になった。そんなところまできちんとそろっていたら、もっとすごい演奏になっただろうと思った。

 繰り返す。少し気になるところはあったが、大変満足だった。大いに興奮して聴いた。

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松島理紗の「マリアの生涯」に圧倒された!

 2026年8月7日、代官山教会で、松島理紗(ソプラノ)、ジョー・ハウソン(ピアノ)のデュオリサイタルを聴いた。曲目は、ヒンデミットの歌曲集「マリアの生涯」。

「マリアの生涯」はリルケの詩に基づく歌曲集で、70分ほどかかる難曲! 私はこれまで実演を聴いたことがなかった。録音も、グレン・グールドがピアノ伴奏をし、ロクソラーナ・ロスラックが歌ったものを数回聴いたことがあるだけだった。しかも、ヒンデミットはこの曲を何度も改訂したので、グールドのものは1922年・23年版、今回のものは1948年版だった。要するに、私はほとんど初めて聴いたに等しい。

 私は、松島の学生時代から知っている。多摩大学のゼミでクラシック音楽のコンサート企画を行っているときに、演奏をお願いしたことがある。たまたま紹介されて歌ってもらったのだったが、その声の完成度、表現力に圧倒された。当時から、プロにまったく引けを取らなかった。

 そして、ドイツに留学し、ドイツと日本で舞台を積んで、今や、押しも押されもしない現代音楽を演奏するソプラノの最高峰の一人といってよいのではないかと思った。この無調(だと思う)のとんでもなく難しい、しかも70分ほどかかる歌を、完璧な音程、完璧な声のコントロールで、マリアの波乱に満ちた生涯をみごとに再現しながら、途中、水も飲まずに歌いきる。

 ピアノも素晴らしかった。私の知らない、若いイギリス出身のピアニストだが、きわめて現代的でクリアだが、深みがあって、ぴたりと歌に寄り添っている。

 この曲は本来の私の守備範囲ではない。だから、もちろん批評めいたことは語れない。だが、まったく退屈しなかった。それどころか、マリアの誕生、受胎告知、イエスの誕生、イエスの死と復活、マリア自身の死という奇跡に満ちた波乱万丈の人生をたどり、マリアの生涯に圧倒され、松島の歌の力に圧倒され、息をのんで聴き続けたのだった。受難の場面、そして、最後のマリアの死を歌う3つの曲では、私も涙を流しそうになった。

 3回連続で声楽を聴いた。いずれも素晴らしかった。若い才能が次々と花を開き始めている。多くの人にこれらの才能を知ってほしいものだ。

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工藤和真とゆかいな仲間たち

 2026年8月5日、町田市民フォーラムで、町田イタリア歌劇団主催の「第5回工藤和真とゆかいな仲間たち!!」を聴いた。

 昨日、吉田志門と碇大知の演奏をこのホールで聴いたのだったが、翌日も工藤和真の演奏があることを知って、あわててチケットを購入したのだった。出演は、工藤和真のほか、東京藝大出身の後輩歌手たち、ソプラノの北見エリナ、メゾソプラノの後藤真奈美、バリトンの須田龍乃。かなり若い歌手たちだ。ピアノは小林美穂。とてもレベルの高い演奏だった。

 中田喜直の「木兎」を歌った須田の声に驚いた。張りのある豊かな声で、声のコントロールも見事。工藤との「ラ・ボエーム」の二重唱は圧巻だった。すでに完成された歌手であって、すぐにオペラ公演に出演してもまったく一流歌手たちに引けを取らないと思った。

 北見と後藤もきれいな声で、歌唱も見事。北見によるシュトラウスの歌曲「悪いお天気」は難しい曲をうまく歌っている。レオンカヴァッロの「道化師」の北見と須田によるネッダとシルヴィオの二重唱もなかなかの迫力。後藤のグノーの「サッフォー」もしなやかでとてもいい。二人とも声量も豊か。ただ、やはり工藤と比べると、声のコントロールが少し甘く、ちょっと平板な印象を受けてしまうのは仕方がないだろう。大きな声で強く歌う部分だけでなく、もっと柔らかい表現などが多様になると、もっとすごい歌手になりだろうと思った。小林美穂のピアノ伴奏も、これほど様々な作曲家の曲を、しかもそれぞれ持ち味の異なる歌手たちにふさわしく演奏しているのに驚いた。

 後輩たちもとても良かったが、工藤はやはり圧倒的に素晴らしい。ピンカートンやグノーのファウスト、そして、アンコールの「トゥーランドット」の「誰も寝てはならぬ」はとりわけ素晴らしかった。これほどの精度、これほどの美しい声、これほどの声量でこの歌を歌える人は、日本にはほかにいないのではないかと思えるほどだった。

 町田市民フォーラムの会場は昨日よりはずっと客も多く、今回は盛り上がるごとにあちこちから、ブラヴォ、ブラヴァの声がかかった。なるほどこれが町田イタリア歌劇団の出し物なのだなあと納得。私の主観によれば、昨日の吉田志門と碇大知の演奏は今日以上に素晴らしく、私は何度となく感動に震えたのだったが、このホールの常連の人たちの好むプログラムではなかったのだろう。改めて、昨日のお客さんが少なかったことをもったいなく思った。

 優秀な若手歌手が次々と現れる。実に頼もしいことだ。

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吉田志門&碇大知 町田での演奏も名古屋に輪をかけて凄かった!

 2026年8月4日、町田市民フォーラムで、町田イタリア歌劇団主催による、吉田志門と碇大知の結成10周年記念コンサート「永遠の愛について」を聴いた。

 今年3月の霞町音楽堂とほぼ同じプラグラム、7月30日に名古屋の電気文化会館ザ・コンサートホールで聴いたのとまったく同じプログラムだが、いずれもあまりに素晴らしかったので、また別の会場で聴いてみたいと思ったのだった。

 こちらは200名ほど入る会場。音楽専用のホールではないので、響きはよいとは言えないし、ピアノの音が少々硬い気がしたが、今回もまた素晴らしい演奏だった! 名古屋も素晴らしいと思ったが、ますます完成度が高まっていた。十分に告知されなかった(私もこのコンサートを知ったのは、ほんの少し前だった!)ためもあって、空席が目立ったのが残念だ。

 定員80名のホールだった霞町音楽堂、400名弱だった電気文化会館、そして、200名程度の今回の町田市民フォーラム。吉田は見事にそれぞれホールに合わせた歌唱をしていたと思う。その意味で、今回が最も自然な声だったと思う。遠慮せずに声を出すことができ、無理に声を張り上げる必要もない、歌曲に最もふさわしい大きさだといえるだろう。そのためもあるのかもしれない、最初から、力むこともなく、自然な声。しかし、もちろん初めのブラームスの2つの歌曲でロマンティックな情熱にあふれた世界を作り出す。

 前半のメインである「美しきマゲローネのロマンス」からの8曲は、名古屋での演奏よりもいっそう二人の息がぴったり! 若きブラームスの世界が現前した! 私は大学生のころだったか、フィッシャー=ディスカウとリヒテルの録音でこの名曲を知り、その後、かなりの種類のレコード、CD、そして数回の実演を聴いてきたが、その中でも最も感動的な演奏だと思った。高貴で多感な精神を持つ若い情熱が迸る。涙が出てきた。

 後半の木下牧子の「ほんとにきれい」「 足おと」「竹とんぼ」「ロマンチストの豚」「さびしいカシの木」「海と涙と私と」「犬が自分のしっぽをみてうたう歌」「いっしょに」、そして最後に歌曲集「いちばんすきなひとに」。これらもまた、名古屋での演奏よりももっと二人の息が合っているのを感じた。吉田の鮮明で美しい日本語の発音、詩情にあふれた歌、それに寄り添う叙情的でしなやかなピアノ。よりいっそう一つ一つの歌曲のニュアンスを明確にする。「いちばんすきなひとに」の5曲は本当に美しい。5つの歌曲が折り重なり、つながり、最後に静かに、そして感動的に幕を閉じる。

 歌曲集「いちばんすきなひとに」はひとつながりの曲なので、ふだんは一つの歌ごとに拍手が入らないのだが、今日の町田では、多くの人が曲ごとに拍手を送った。あまりに素晴らしい歌なので、一つ一つ拍手を入れたくなる気持ちはとてもよくわかるし、私も思わず拍手をしたくなったが、やはり拍手で感興を断たない方がよいと思った。

 それにしても、素晴らしい演奏だった。これ以上は考えられないほどの完成度だと思う。まさに世界的レベルの演奏!

 アンコールは、木下牧子の「おんがく」。この曲の良さをしみじみと味わう。この二人が演奏すると、確かに音楽が「見える」!

 神奈川県に囲まれて存在する東京都のはずれにある町田市の小さなホールで世界最高レベルの演奏が聴くことができた。至福の時間だった。

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下野&N響 ハイドンとシュトラウスとメンデルスゾーンを堪能!

 2026年8月3日、ミューザ川崎で、フェスタ サマーミューザ KAWASAKI 2026、NHK交響楽団「角笛に誘われる夏の宵」を聴いた。指揮は下野竜也、曲目は、前半にハイドンの交響曲第73番「狩り」と、ホルンのアレッシオ・アレグリーニが加わって、リヒャルト・ シュトラウスのホルン協奏曲第2番、後半にメンデルスゾーンの劇付随音楽「夏の夜の夢」から、序曲 ― スケルツォ ― 間奏曲 ― 夜想曲 ― 結婚行進曲。

 とてもよい演奏だった。

 まずは、下野のハイドンの音楽の運びに感心した。なんという手際の良さ、そして音楽の心にあふれている! 私は一時期(たぶん、30年近く前)、ハイドンの交響曲のCDを好んで聴いていたが、いつの間にか飽きて、この頃、ほとんど聴かなくなっていた。が、こうして聴くと、しみじみと良い音楽だ。理路整然と音楽が進み、遊び心もあり、深みもあり、音楽の運びそのものにほれぼれする。それを下野は誇張せず、しっかりと聴かせてくれる。名人技だと思った。とりわけ、この交響曲が「狩り」と呼ばれるようになった第4楽章のホルンの快活な響きはとても楽しかった。

 シュトラウスのホルン協奏曲も、とても良かった。第2番は、シュトラウスの晩年の曲で、オペラ「カプリッツォ」などと同じような雰囲気がある。若いころの作品である第1番のような華やかで活気にあふれた音楽ではなく、滋味にあふれ、精緻である種の諦観に満ちているが、最後にはエネルギッシュな生きる力が広まっていく。そのような音楽の美しさをアレグリーニが聴かせてくれた。ちょっと古めかしい渋い音ながら、動きが活発で音色が美しい。

 ソリスト・アンコールとして、ほかに3人のホルン奏者が加わってのロッシーニの「狩りのファンファーレ」と、アレグリーニのソロで「鳥の歌」。ロッシーニのほうは、ユーモラスで躍動的。「鳥の歌」は、カザルスのチェロ以上に、まるで鳥が飛んでいる空に向かって一人静かに歌うような演奏だった。かつて、カザルスの国連での演奏をリアルタイムのテレビ実況放送で聴いて私は涙を流したが、その時と同じくらいに感動した。

 後半のメンデルスゾーンもとてもよかった。実をいうと、序曲の前半はなぜかちょっと不発な気がしたのだが、後半になって精妙な弦の音(コンサートマスターは郷古廉)が美しく重なって素晴らしいと思った。木管も本当に美しい。トランペットも勢いがあってとても楽しかった。

 アンコールはヨハン・シュトラウス2世の「狩り」。このような楽しい小曲も下野は実にうまい。楽しくて、わくわくして、躍動に身を任せたくなる。N響の名人技が集約されて素晴らしい演奏になった。

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青森旅行

 数年前だったか、高村薫の大部の小説「太陽を曳く馬」を読んだ。仏教談義が主要なテーマなのでわからないところもたくさんあったが、とても興味を惹かれた。その勢いで、「太陽を曳く馬」とともに3部作をなす「晴子情歌」と「新リア王」も読んでみた。「新リア王」は「太陽を曳く馬」に勝る難解さで読みとおすのに難儀したが、「晴子情歌」は素晴らしいと思った。それまでは、「マークスの山」しか読んだことがなかったが、これらを読んで、高村薫は偉大な作家だと認識したのだった。

 ただ、「晴子情歌」を読みながら、なじみのない地名ばかりが次々と出てくるので、土地の関係がよくわからなかった。機会があれば青森に行って、これらの土地を訪れてみたいものだと思っていた。

 そんなとき、八戸の高校から講演依頼が来たので、これを機会に、2026年7月26日から28日にかけて2泊3日の青森旅行をしようと考えたのだった。生成AI、Geminiに3部作のゆかりの地を見るルートを質問したら、みごとな答えが返ってきたので、ほぼそれに沿って行動することにした。

 青森から帰宅してから体調を崩した孫の面倒を見たり、名古屋に出かけたり、東野圭吾氏の死去(私は東野ファンと言ってよいだろう。たぶん80冊くらい読んでいると思う。稀有な才能の持ち主を亡くしてしまった。合掌!)を知って、追悼の意味で未読の作品を立て続けに何冊か読んでいたりしていたため、青森についての記録をアップするのが遅くなった。

 

7月26日(日)

 はやぶさ号で新青森へ。奥羽本線に乗り換えて青森駅へ。駅前のホテルに荷物を預けて、青い森鉄道で野辺地に向かった。

 東京は連日35℃前後の猛暑だったが、青森はまだ梅雨明けしておらず、昼間も27℃程度の気温だった。ただ、ありがたいことに、雨の予報がなされていたが、程よい曇り空だった。

 野辺地は、北前船の風待ち港として栄えた海辺の町だ。小説の中では、昭和の軍国主義の時代、晴子が女中として福澤家に入り、様々な家庭事情によって、それまで顔をみたことさえ数回しかなかった福澤家の三男の淳三が出征する直前に、その妻になり、夫の出征中に、長男の榮に手籠めにされて彰之を生み、その後の生活の中心にする場所だ。

 福澤家という地域の実力者で、船元であり、代々国会議員などの政治家を輩出した地方の素封家のある土地という設定なので、もう少し大きな町かと思っていたら、ふつうの田舎町だった。「晴子情歌」の時代にはもっと栄えていたのだろうが、今や駅前の広場はがらんとしており、車もほとんど通らず、人影はほとんどない。遅めの昼食をとろうかと思っていたが、開いている店がない。唯一開いている、駅付近でピザを食べた。おいしかった。

 歩いて町巡りをするには、遠いので、駅前からタクシーに乗って、野辺地港の象徴である日本最古級の石造常夜燈を見物。資料を見ているうち、戊辰戦争の一環として、野辺地戦争があったことを初めて知った。

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 タクシーに待ってもらって、その後、町の中心部で下車。常光寺、海中寺、野村治三郎の別邸などをざっと歩いた。草木の雰囲気は異なるが、町の佇まいは、私の故郷である大分県日田市とよく似ている。要するに、日本の多くの地方都市の状況だ。

 小説の中で描かれる場所が現実のどこにあたるのかよくわからなかった。もう少し小説を詳細に読んで下調べしておけばよかったのだが、その時間がなかった。が、まあ、土地の雰囲気を知られただけでも良しとしよう。

 歴史民俗資料館でこの町の歴史を見ているうち、1時間に1本ほどの列車の時刻が迫ったので、あわてて歩くうちにタクシーを見つけて、駅に戻り、そのまま青森へ。

 駅近くの居酒屋で夕食。まだこの地域では禁煙が首都圏ほど徹底していないようで、周り中でタバコを吸っている人がいる。この居酒屋もそうだった。少し息苦しいながら、郷土料理を食べた。

 

7月27日

「晴子情歌」巡りをするからには、日本海側にある筒木坂(どうきざか)周辺を見ないわけにはいかない。筒木坂は、晴子の父・野口康夫の実家のある土地で、晴子は母の死後、しばらくこの土地で大家族の中で、弟や妹の面倒を見ながら暮らす。小説は、筒木坂の夢を見たことについて語る息子・彰之への手紙で始まる。木造町、七里長浜の描写は印象的だ。

 青森駅付近でレンタカーを借りて、車で筒木坂に向かった。首都圏に慣れた人間からすると、青森駅付近には人影が見え、車もかなり動いているものの、少し郊外に行くと、あまりに人が少ないのに驚く。道路沿いの店も、どこの街にもあるチェーン店がほとんどで、その地域特有の街並みは見られない。ただ、さすがに道路はきちんと整備されており、もちろん運転マナーはとてもよい。車が少ないので、運転しやすい。ナビに従って、1時間と少しで到着。

 ただ、筒木坂バス停に到着したが、周囲に何もない。まさにのどかな農村地帯であって、人家はあるが、何らかの施設や店舗もない。錆びたシャッターが閉まっている雑貨店らしい建物があったが、人気がない。人影はたったの一人もこの地域では見かけなかった気がする。

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 空き地に車を停めると、そのすぐ近くに要心寺というお寺があったので、歩いてみた。ここも人影はなかった。

 おそらくこの土地は、晴子が暮らしたとされる時代とそれほどの違いはないだろう。きっと、当時からのこのような雰囲気だったのだと思う。東京からこの地に突然やってきた十代の晴子の途方に暮れる気持ちがよくわかる。私としてはもう少し海岸に近いのかと思っていたが、意外と海岸まで距離があった。

 車で十三湖付近を走った。お昼になったので、湖畔の店で名物のシジミラーメンを食べた。大量にシジミが入っていた。シジミのだしがきいて美味しい。

 お店の店員さんと話すと、高山稲荷神社にぜひ行くようにと勧めてくれた。この神社について、私はまったく何も知らなかったが、京都の伏見神社のような朱色の千本鳥居があるという。ナビをセットして向かった。

 広々とした神社だった。山道を登ると、下のほうが庭園になっており、湿地があり、そこに千本鳥居があった。鳥居をくぐった。「晴子情歌」にはこの神社は登場しなかったと思うが、この地域の観光名所としては欠かせない存在なのだろう。

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 七里長浜を見ようと思ったが、なかなか海岸を通るルートがない。海岸と思われるところを目的地にして進もうとすると、狭い道に入り込んだりする。ナビやらネットやらで調べて、ベンセ湿原にある出來島海水浴場に向かった。

 海岸に宿泊施設のようなものがあり、工事中に作業をしている人が二、三人、昼休み中なのだろう、大きな音でラジオをかけて寝転がっていた。その向こうに海岸が広がっていた。

 海岸に出て歩いてみた。子どもたちが数人、遊泳地区で泳いでいたが、人影はない。砂浜が広がっていた。これが七里長浜なのだろう。「晴子情歌」では、冬の光景であることが多く、もっと厳しさを感じさせるが、夏の日本海は穏やかで心優しい。とはいえ、長く続く砂浜とロシアにまで広がる海は確かに峻厳な雰囲気を持っている。

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 途中、ジェミニのすすめにしたがって、五所川原にある旧津島家住宅太宰治記念館「斜陽館」に寄った。太宰治が育った豪邸であり、太宰ファンにとっては聖地なのだろう(太宰は好きな作家の一人だが、とりわけ大好きというほどではない)が、確かにここは「晴子情歌」で描かれる福澤家本家を思わせる。なるほど、晴子はこのような場所で女中として、そして三男の嫁として働いたのだろうと想像できる。

 その後、青森駅に向かい、レンタカーを返却して、青森駅から奥羽本線で新青森を経由して八戸へ。ここから先は、仕事モード!

 

 正直言って、コンサートに追われ、仕事に追われて、十分に下調べしないまま出かけてしまったことを後悔した。「晴子情歌」は時間や場所が複雑に入り組んで進んでいく小説なので、十分に整理しきれずにいた。もう少し前もって、実在の場所と虚構の場所を整理して、そこがどのように描かれているのかを確かめるようにしてみるべきだった。

 ところが、ざっと読んだだけでは、その段階にまで達することができなかった。一度、青森を訪れて、やっとこれから整理して読み返せると思った。

 もう一つ思ったのは、「晴子情歌」に始まる高村薫の三部作は大傑作だと思うのだが、舞台となった現地の人にもほとんど知られていないということだった。ベストセラーにはなっていないにせよ、数々の文学賞を受賞しているので、もっと知られている、少なくとも舞台となった地域の人たちは作品の存在を知っていると思っていたのだったが、そんな様子がない。観光案内にもそのような記述がない。

 もう一つ、Geminiはすごいということも感じた。旅行日程についても、少し条件を入れるだけで見事なプランを示してくれた。うーん、恐ろしい時代になったものだ! とてもありがたいことだが、恐ろしい!

 なお、くわしくは書かなかったが、今回は知人たちがちょうど東北旅行を計画しているということだったので、日程を合わせてもらって青森で合流。一部、行動を共にした。おかげで楽しい時間を過ごせた。

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