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オペラ映像「ラ・ボエーム」「ナブッコ」「ドン・パスクヮーレ」「ばらの騎士」

 異常なほどに雨が続いている。私の住まいの近くでも大雨になっている。今日は少し晴れ間が見えているが、いつまで晴天が続くか・・・。

 オペラ映像を数本みたので、簡単に感想を記す。

 

プッチーニ 「ラ・ボエーム」 2024年7月 アレーナ・ディ・ヴェローナ

 私はプッチーニ不感症であって、これまでどのオペラも感動して観たことがないのだが、今回、今話題のジュリアナ・グリゴリアンがミミを歌っているというので、関心を持ってみてみた。やはりあまり感銘を受けなかった。

 ジュリアナ・グリゴリアンはもちろんとてもいいのだが、私は同じ姓のアスミク・グリゴリアン(どうも親戚関係ではないらしい)ほどの圧倒的な歌唱力を感じることはできなかった。

 ほかの歌手たちについてはいずれもとても見事な歌唱だと思う。ロドルフォのヴィットリオ・グリゴーロはさすがの歌唱だが、ちょっと声のかすれを感じるところがあった。ムゼッタのエレオノーラ・ベッロッチ、マルチェッロのルカ・ミケレッティ、ショナールのヤン・アンテム、コッリーネのアレクサンダー・ヴィノグラードフ、いずれも好演!

 アルフォンソ・シニョリーニによる演出については、きわめて穏当なもの。第1幕ではじめから、屋根裏部屋にミミが登場して、ロドルフォに関心を寄せていることがはっきりと示される。そこまでやらなくてもいいだろうとは個人的には思うのだが、まあこういうやり方もあるだろう。しかし、第3幕で、ミミとロドルフォの二重唱の後、同じ服を着た男女がバレエを踊るが、その必要性があるとは私には思えない。観客サービスなのだろうか。

 指揮はダニエル・オーレン。私はプッチーニのオーケストレーションに納得できないので、演奏について批評することはできない。

 

ヴェルディ 「ナブッコ」 2025年7月 アレーナ・ディ・ヴェローナ

 とても良い上演だと思う。

 まず何といっても、アビガイッレのアンナ・ネトレプコがやはり素晴らしい。歌い出しのレチタティーヴォ風の部分の低音については、ちょっと無理やりドスの効いた声にしようとしている様子があって不自然だが、高音は本当に美しくて伸びがある。ドスを効かせようとしているときよりも自然に歌う時のほうがずっと迫力がありリアリティがある。

 ナブッコのアマルトゥヴシン・エンクバートも余裕のある安定した低音がとてもいい。モンゴル人だという。この役にふさわしい。

 イズマエーレのゲレアーノ・サラスは不調なのかもしれない。声が出ていないし、音程が崩れる。ザッカリアのクリスティアン・ヴァン・ホーンは立派な声だが低音で音程が怪しくなる。フェローネのフランチェスカ・ディ・サウロはしっかりした声でとてもいいが、華を感じないのが少し残念。

 指揮はピンカス・スタインバーグ。ドラマティックにまとめて、とてもいいのだが、有名な合唱部分の盛り上がりがもう少しあってもいいのではないかと思った。ステファノ・ポーダの演出はわかりやすくてドラマに入り込める。私としてはありがたい。

 

ドニゼッティ 「ドン・パスクァーレ」(ドイツ語歌唱)1977年3月30日 ミュルツツーシュラーク、フォルクスハウス

 ネットを検索しているうちにこのDVDを見つけた。序曲の間に流される映像で示される通り、これはどうやらウィーン国立歌劇場のオーストリア・ツアーでの地方公演のようだ。モノラル録音。

 1977年というから、エディタ・グルベローヴァがベーム指揮のザルツブルク音楽祭の「ナクソス島のアリアドネ」でツェルビネッタを歌って世界を驚かせた(私は、事前知識なしにFM放送を聴いて衝撃を受けた!)翌年だ。

 歌手陣はとてもレベルが高い。ドン・パスクァーレのオスカー・チェルヴェンカもマラテスタのハンス・ヘルムもエルネストのルイージ・アルヴァも堂に入った歌いっぷりで素晴らしい。当時、世界的に活躍していた歌手たちだ。しかし、ノリーナ役のグルベローヴァが登場して歌い出したら、その圧倒的な歌に周囲がかすんでしまう。後年のグルベローヴァほどの技巧はないが、何しろ声が美しい。なんという伸びと躍動感のある美声であることか! グルベローヴァはこのころから凄かった!!

 ただすべてドイツ語で歌われるので、イタリア語に慣れていると、かなりの違和感がある。十分に楽しいし、音楽的に満足するが、これまで観てきたイタリア語の歌唱とはまったく異なる世界が展開する。オペラにとって言語がいかに大事かを痛感する。ただ、早口の部分はドイツ語でも十分にドニゼッティ的だとは思った。

 それにしても、ドイツ語でこのオペラを見ると、リヒャルト・シュトラウスの「無口な女」とストーリーが似ていることを一層強く感じる。「無口な女」の台本を書いたツヴァイクは意識していたのだろうか。

 指揮はエクトル・ウルボン。今回初めて名前を聞いたような気がする。名指揮者ではないのかもしれないが、かなりテンポが速く、生き生きした音楽を作り出しているので、私としてはまったく不満はない。演出はヘルゲ・トーマ。地方巡業ということかもしれないが、簡易な装置による素直な演出で、とてもわかりやすい。

 ともかく、若きグルベローヴァのものすごい歌唱を聴けただけでも大満足の映像だ!

 

リヒャルト・シュトラウス 「ばらの騎士」バイエルン国立歌劇場 1979年5、7月

 昔、レザーディスクだったと思うが、この映像は繰り返し観た記憶がある。DVDも持っているつもりでいたが、先日、探してみたが見つからない(いや、それどころか、所有していたつもりの「ばらの騎士」のDVDやBDが何種類も見つからない! 引っ越しの際にどこかに紛れ込んで、そのままになっているのだろう!)。もしかしたら、そのうち出てくるかもしれないとも思ったが、入手できなくなるのが怖くて、あわてて購入した。

 久しぶりに観たが、やはり凄い! 凄いなんてもんじゃない! 第一幕冒頭からクライバーの音にびっくりする。一つ一つの音がまるで生きもののようだ。生命力があり、潤いがあり、切れ味鋭く、しかも躍動的! 第3幕冒頭も言葉をなくす! とんでもない指揮者だったなあ、と改めて思う。

 マルシャリンのギネス・ジョーンズとオクタヴィアンのブリギッテ・ファスベンダー、そしてゾフィーのルチア・ポップ。伝説の3人と言ってもよいと思う。歌はもちろん、演技も容姿も、オペラ歌手としては申し分ない。うっとりする。ただ、少し残念なのは、第3幕の三重唱はほんの少し不発なような気がする。もっと感動的な三重唱をこれまで何度か観たことがあるような気がした。

 オックス男爵のマンフレート・ユングヴィルトは少しだけ声が弱いと思うし、ファニナルのベンノ・クッシェももう少しおかしみがほしいとは思うが、もちろん十分に楽しめる。演出はオットー・シェンクのオーソドックスなもので、本来の台本に忠実で、ウィーンの香りにあふれており、これまた申し分ない。何はともあれ、クライバーすごい!!

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サーナ・テクセレの「メサイア」 加耒徹は指揮者としても素晴らしかった!

 2026年9月22日、ミューザ川崎シンフォニーホールで女声合唱団サーナ・テクセレ第6回演奏会を聴いた。曲目は、女声三声によるヘンデル「メサイア」(編曲 冨岡正男)。指揮とバリトン独唱は加耒徹、ほかの独唱は 山口清子(ソプラノ)、横瀬まりの(アルト)、中嶋克彦(テノール)、管弦楽はプロムジカ・バロック・アカデミー。オーケストラは10数名、合唱は50名程度の小規模な編成による。近年の古楽による演奏スタイルと言ってよいだろう。

 サーナ・テクセレはバリトンの加耒徹が音楽監督を務める女声合唱団だとのこと。加耒徹のバリトン歌手としての実力はよく知っている。日本最高峰の歌手だ。私は何度か感動して聴かせていただいた。が、指揮者としてはどうだろう、女声三声はどうだろうと思いながら聴いてみた。

 が、冒頭から驚いた。素晴らしい演奏だった。感動した。私は実をいうと、これまで大昔に、1度か2度しか「メサイア」の実演を聴いたことがない。録音も数回だけだろう。面白く聴けるのだが、いつも途中で退屈してしまっていた。が、今回は、まったくそんなことはなかった。最後まで集中し、感動して聴くことができた。

 加耒の指揮者としての力量にまず驚いた。ややアグレッシブな演奏と言ってよいのではないかと思う。先日、必要があってビオンディ指揮、エウローパ・ガランテの「四季」を聴き返してみたが、そのようなアプローチに近い。切込みが鋭く、きりりと引き締まって、躍動感があり、ぴしりと音が決まる。しかも、完璧に音をコントロールして、無駄がない。そして、プロムジカ・バロック・アカデミーとサーナ・テクセレの力量によるのだろうが、音が限りなく美しい! そこに、間違いなく信仰心がほとばしっているのがわかる。まさに超一流の指揮ぶりではないか!

 オーケストラも素晴らしい。全員が名人だと思う。トランペットにとりわけ感嘆した。合唱も、おそらくアマチュアだと思うのだが、本当に美しい声! 初めは女声合唱であることに違和感を覚えたが、途中から気にならなくなった。

 独唱陣も素晴らしかった。ソプラノの山口、テノールの中嶋は安定した歌で見事に歌う。アルトの横瀬は少し硬い感じがしたが、大健闘。そして、やはり指揮の加耒が、ひょいと観客席の方に向かっていきなり圧倒的な声で歌うのには驚いた。第三部のアリアは圧倒的だった。ほんのちょっと声が詰まったのが残念だが、本番ではこのくらいのアクシデントは致し方ない。声の安定といい信仰心あふれる歌いまわしと言い申し分ない。感動するばかり!

 アリアも合唱も、そしてあの「ハレルヤ」も本当に良かった! 感動した。興奮した。「メサイア」を聴いてこんなに感動したのは初めてだった。

 これまで歌手出身の指揮者っていたっけと考えた。近年ではプラシド・ドミンゴがタクトをとっている。バーバラ・ハンニガンが歌いながら指揮をしている。そうだ、それからナタリー・シュトゥッツマンがいる(彼女の歌も指揮も聴いたことがある!)。そのくらいしか思いつかない。ミシェル・コルボなど、合唱団を立ちあげて、その後、指揮者として活躍した人は大勢いるが、彼らもきっと歌手として名を成した人ではなかっただろう。加耒徹はきっとこれから指揮者として大成するだろうと思った。

 それにしても、今回も客の8割以上が女性だと思う。加耒徹のファンは女性が多い。稀に見るイケメンなのでそれも仕方がないのだが、この素晴らしい音楽家を女性だけのものにしておくのはあまりにもったいない。もっと多くの男性にこの人の歌を、そして指揮した演奏を聴いてほしいものだ。

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映画「クロワッサンで朝食を」「ノベンバー」「ザ・ライフルマン」

 昨日からシルヴァ―ウィークだという。多くの人が行楽を楽しみにしていただろうに、台風が近づいている。ほとんど毎日が休日であるので、ふだんとさほどの違いを感じない私も、さすがに予定していたことを変更せざるを得ないのではないかと気になっている。いやいやそれ以上に、途方もない大雨の被害が伝えられているので今回はそんなことのないように願うばかりだ。

 DVDなどによって自宅のテレビ受像機で何本か映画をみたので、簡単に感想を記す。

「クロワッサンで朝食を」 2013年 イルマル・ラーグ監督

 原題Une Estonienne à Parisを直訳すると、「パリのエストニア女」。母を亡くしたエストニア人の初老の女性アンヌ(ライネ・マギ)に、パリで暮らすエストニア出身の裕福な老女フリーダ(ジャンヌ・モロー)に仕える家政婦の仕事が舞い込む。かつてフランス語を学んだアンヌはよろこんで誘いに乗るが、フリーダは故郷エストニアの人々と断絶し、ただかつての愛人ステファン(パトリック・ピノー)としか交流しようとしない依怙地で頑固な女性だった。アンヌは何度も心が折れそうになりながら、孤独なフリーダの役に立とうとして、少しずつ心を通わせるようになる。そんな話だ。

 フリーダは、かつての自分と同じようなエストニアの雰囲気を残し、パリジェンヌになれないアンヌを見て苛立つのだろう。また、エストニアから断絶しようとしているフリーダにとって、故郷を引きずるアンヌは不愉快なのだろう。このあたりの気持ちは、エストニアを田舎、パリを都会と捉えれば、18歳で大分市から東京に出てきて、田舎者意識がいつまでも抜けきれなかった私にはとてもよくわかる。

 これは、自分の故郷を拒否して生きてきた老女が、最後になって家政婦によって故郷を再確認した物語だと思う。そして、それは家政婦が自分を再発見し、パリの人(=ステファン)がエストニアという田舎の国を発見する物語でもあったと思う。

 ジャンヌ・モローの最晩年の映画だ。彼女の映画はかなり観てきた。大好きな女優というわけではなかったが、その演技力と存在感には圧倒されてきた。この映画でも存在感に驚く。アンヌ役のライネ・マギの熟女の魅力にも私は強く惹かれる。とても良い映画だと思った。

 

「ノベンバー」 2017年 ライナー・サルネ監督 (ポーランド・オランダ・エストニア合作)

 エストニアの作家アンドルス・キビラークの小説「蛇の言葉を話した男」を読んで大いに感銘を受けた。壮大で形而上学的なとてつもないファンタジーだった。同じ作家の小説「ノベンバー」が映画化されており、primevideoに含まれていると知って観てみた。これは映画としても圧倒的だった。

 タラ・ベーラの映画やヴァーツラフ・マルホウル監督の「異端の鳥」を思わせるような白黒の映画。圧倒的な映像美が迫ってくる。まさに映像詩。エストニアの民間伝承や言い伝えも取り入れられているのだろう。説明を排しているので、よくわからない個所も多々あるが、観ているうちに引き込まれていく。

 描かれるのは、エストニアの寒村だ。この村は男爵(ロシア人?)の領土らしく、農民たちはどうやら農奴のようだ。男爵がピアノでベートーヴェンの「月光」を演奏する場面があるので、おそらく19世紀初頭だろう。この村では、死者が蘇り、人狼や悪魔や動物の形をとった疫病などが存在する。しかも、この地域には、「クラット」と呼ばれる、農機具などの廃材を組み立て、悪魔と契約を結んで、ロボット風の召使を作り出す風習がある。民間伝承なのだろうか。

 そんな世界で、農奴の一人である少女リースは若者ハンスに恋するが、ハンスは男爵令嬢に惹かれている。リースは魔女の助言を得て、男爵令嬢を殺そうとするが、実行できず、男爵夫人の服を盗んでヴェールで顔を隠してハンスと交流する。ハンスは相手を男爵令嬢だと考えて幸せな気持ちになるが、そのハンスの行動はクラットの助言によるものだったため、ハンスは悪魔に命を奪われることになる・・というのが主要なストーリーだ。

 ともあれ、描かれる世界が途方もない! 不思議な世界なのに、不気味で恐ろしく、リアリティがある。人間の心の悪や純粋さが描き出される。

 キビラークの原作を読みたくなった。日本語訳はないが、フランス語訳があるらしい。30年前だったらこのくらいの小説なら苦労せずに読めただろうが、今の私はオペラ映像に日本語字幕ないとき、英語よりはまだしもわかるのでフランス語を選択する程度で、それ以外には、30年間、ほとんどフランス語に触れていない。AIに手伝ってもらっても、きっと読めないだろうなあ・・。

 

「ザ・ライフルマン 地獄の最前線」 ジンタルス・ドレイベルグス監督 2019年 ラトヴィア

 ラトヴィアの映画。第一次大戦中、ドイツ軍に母親を殺された少年アルトゥルスは父とともに軍隊に志願し、兵として戦場に駆り出される。そこで戦争のあまりに悲惨な現実を知りながら、どうにか戦うが、父を失い、兄も失う。だが、ラトヴィア人たちはロシア軍からは一段下の扱いを受ける。そんな折、ロシア革命が起こり、アルトゥルスは赤軍の一員になるが、そこでも理不尽な目にあい続ける。赤軍に反抗したラトヴィア人の知り合いを銃殺するよう命じられて拒否すると、アルトゥルス自身も捕らえられ、場合によっては銃殺の恐れも出てくる。上官に助けられて脱走し、赤軍ではなく、未経験な若い兵ばかりのラトヴィア軍に加わって若者を指導しようと奮闘し、戦場をさまよう。

 ラトヴィアは第一次大戦前にはロシア領だったが、大戦によってドイツに占領される。その後、ロシア革命後のソ連軍に攻められるが、かろうじて独立を果たす(ただし、第二次大戦前後に再びソ連に併合される)。そのような歴史の中で、独立のために戦った一人の男を描いているわけだ。

 映画作品としてはとりわけすぐれているわけではないだろうが、この映画のおかげで、ラトヴィアの歴史を知り、ラトヴィアの人々のアイデンティティを知ることができた。

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映画「ちいかわ 人魚の島のひみつ」

 映画「ちいかわ」が、私の周囲で話題になっている。絶賛する方もおられる。そのうち、6歳の孫にかこつけて観に行こうかと思っていたが、今朝の朝日新聞でも大きく取り上げられていたので、思い立って出かけた。

 私にはほとんど基礎知識はない。実際みはじめて、「ちいさくかわいい」から「ちいかわ」と呼ばれる人(動物?)が主人公だとは知っていたが、どの人(動物)が「ちいかわ」なのかいつまでもわからず、仲間たちの顔の区別がつかなかった。はじめの20分くらいは何が何やらさっぱりわからなかった。

 その後、話が動き出した。要するに、「ちいかわ」たちが、怪しい釣り文句に誘われて、ある島に行った。その島は、島民の誰かが人魚の子どもを食べてしまったために、セイレーンに襲われており、その討伐をしてほしいために人集めをしているのだった。ちいかわたちはたまたまセイレーンや人魚たちに出会い、ともあれ物事を解決する・・・。

 誰一人として闘いを望む人や悪人はいない。誰もが平和を望み、誰もが善人だ。だが、ちょっとしたことで他者を傷つけ、その報復をし、それがエスカレートしていく。最後、物事の発端になった二人の島民(顔は示されない)は居づらくなって無人島に移り住もうとするが、どうやらそれをセイレーンに察知されたようで、二人が襲われるであろうことが暗示される。しかも、どうやら、セイレーンが二人の存在を察知したのは、おそらくちいかわの手から離れて海に落ちた人魚の鱗のせいなのだ。

 ほのぼのとした雰囲気、可愛らしい表情、平和な日常、良かれと思ってしたことが裏目に出ていく。そして、それが激しい憎みあいに発展し、戦闘に、そして戦争になっていく。

 まさに現代の様々な争いの様相を示している。各地で起こる小競り合い、ウクライナ、ガザ、中東、アフリカ、旧ソ連内の各地がこのような状況だろう。

 そうした状況を徹底的に明るく善人たちを通して描いたところが、とても的確であり、鋭いと思った。

 ただ、私としては、とても良い映画だとは思ったが、素晴らしい映画とまでは思わなかった。

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ハチャトゥリアン、ヴァルチュハ&読響 興奮した!

 2026年9月15日、サントリーホールで読売日本交響楽団定期演奏会を聴いた。指揮はユライ・ヴァルチュハ。曲目は前半にセルゲイ・ハチャトゥリアンを独奏者に迎えてのシベリウスのヴァイオリン協奏曲、後半にショスタコーヴィチの交響曲第10番。

 シベリウスの協奏曲の冒頭の音にまず驚いた。なんという精妙にしてしなやかな音であることか! そして、ハチャトゥリアンのヴァイオリンの音の何と美しいことか! 弱音の美とでも言うか。研ぎ澄まされ、澄み切った、心の奥底を震わせるような音! しかも、フォルテの躍動も素晴らしい。ヴァルチュハもそれに合わせて、ハチャトゥリアンの世界を作り上げる。・・・ただ、もしかすると私がとらえきれなかっただけかもしれないが、第2楽章で、ちょっと独奏者と指揮者の間でちぐはぐなところがあったような気がした。

 とはいえ、全体的には本当に素晴らしかった。読響もソリストに負けずに美しい音を出した。第3楽章で私は感動のあまりしばらく震えた! 興奮した。

 ソリストのアンコールはナレカツィ作曲の「アルメニア聖歌」だとのこと。しみじみとした民俗音楽風の楽曲だった。素晴らしい美音! 曲のタイトルを知らないまま聴いたが、私はアルメニアを訪れたことがある山中の教会を思い出していた。

 ショスタコーヴィチも素晴らしかった。まさにヴァルチュハの本領発揮といったところだろう。ショスタコーヴィチ特有の音が出ている! 鬱積し、内にこもり、怒りや絶望をかみしめ、それを爆発させて昇華させていく。

 第2楽章の疾風怒濤のスケルツォがとりわけ凄まじかった。まさに狂舞! 読響もまったく乱れず、この複雑な音楽をみごとに躍動させる。第3楽章の鬱積した部分と明るさを取り戻す部分の違いにも息を飲んだ。最終楽章の高揚な言葉をなくす凄さ! 

 この第10番は、はっきり言ってわけのわからない曲だと思う。ショスタコーヴィチは何を語ろうとしているのか。繰り返し出てくる特徴的な音型はいったい何を意味しているのか。意味ありげだが、さっぱりわからない。ヴァルチュハは何らかのはっきりした解釈に基づいて演奏しているのだろうか。それもわからない。

 だが、謎めいた音楽を聴き続けるうちに、ショスタコーヴィチのヒステリックでありながらも高貴で深い世界に入り込み、高揚していくうちに何はともあれ感動させられる。わけがわからんと思いながら、聴き終わると何だか納得し、感動し、興奮している。

 独奏のハチャトゥリアン、指揮のヴァルチュハ、そして読響(弦も木管も金管も素晴らしかった。ホルンはちょっと音がずれたところがあったが、このくらいの瑕疵はなんでもない!)、いずれも最高度の演奏だった。

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文楽「仮名手本忠臣蔵」を楽しんだ

 2026年9月13日、江東区文化センターホールで、国立劇場文楽鑑賞教室、大人のための文楽入門(Aプログラム)をみた。途中で、「文楽の魅力」(竹本小住太夫、野澤錦吾、桐竹勘次郎)という、初心者にもとてもわかりやすくい解説が入って、上演された演目は、人形浄瑠璃「二人三番叟」と「仮名手本忠臣蔵」より山崎街道出合いの段・二つ玉の段・身売りの段・早野勘平腹切の段。

 私はまったくの初心者だが、これまで数回文楽に触れて、その魅力はだんだんとわかってきた。

「二人三番叟」は祝賀の際に上演される舞と音楽の出し物。私もこれまで何度か味わったことがある。私の席は三味線が真正面に見えるところだったので、ほとんど初めて三人の三味線の「合奏」を目の当たりにした。調弦をしたり、転調をしたりといった所作がとても興味深かった。「文楽の魅力」の時間に説明があったこともあって、人形の動きと三味線の音の関連がよくわかった。

 休憩後の「仮名手本忠臣蔵」は、討ち入りに参加できなかった悲劇の人物である早野勘平を主人公とするいくつかの段だ。有名な場面なので、初心者の私もこれまで映像や実演で何度か観たことがある。リアルな演劇でこのような悲劇を目にするとやりきれない気持ちになりそうだが、太夫の語りと人形の所作なので、抽象化されたエッセンスとして観ることができる。

「山崎街道出合いの段」は豊竹亘太夫と鶴澤清公、「二つ玉の段」は豊竹芳穂太夫と竹澤團吾、「身売りの段」は豊竹希太夫と鶴澤寛太郎、「早野勘平腹切の段」は竹本織大夫と鶴澤藤蔵。早野寛平の人形は吉田玉助、おかるは桐竹紋臣、与一の女房を吉田蓑二郎。

 すべてにおいて感心するばかり! 人形の動きのすべてに感服する。勘平の嘆きの動き、切腹の所作、与一の女房の怒りと無念、悪役・定九郎の動きなどなど。それを描く三味線もぴたりと寄り添う。三味線からは舞台上の人形は見えていない様子なのに心の動きの一つ一つを描いていく。

 そして、やはり私の耳は太夫の語りを追いかける。語りのすべての人のうまさに驚いたが、やはり私は最後の段の竹本織大夫の声の振幅の大きい語りに惹かれた。リアルな人間の会話とはかけ離れた語りなのだが、そうであるだけに様式にのっとって虚構世界を作り上げ、そこに独特のリアリティを付け加える。これを「味」というのだろう。

 おそらく、通と呼ばれる人の1パーセントほどしか味わっていないと思うが、ともあれ文楽の世界に入り込んだ。「うーん、勘平かわいそう!」「早まらなければいいのに!」「主君への思いを立てると、こうせざるを得ないんだろうなあ!」などという、あまりにうぶな気持ちを抱きながら、登場人物たちのそれぞれの義理人情と板挟みを感じつつ、ともあれ文楽を楽しんだ。

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ピノック&紀尾井室内管のドイツ・レクイエム よい演奏だが感動しなかった

 2026年9月12日、東京オペラシティコンサートホールで紀尾井ホール室内管弦楽団 第147回定期演奏会を聴いた。指揮はトレヴァー・ピノック。曲目はバッハのモテット「来たれ、イエスよ、来たれ」とブラームスの「ドイツ・レクイエム」。

 このところの紀尾井ホール室内管弦楽団の演奏は実に充実している。とりわけ、ピノックの演奏は毎回、きわめてレベルの高い演奏を聴かせてくれる。

 今回も見事な演奏だと思った。ピノックらしく、速めのテンポでシャープで切れの良い演奏。ブラームスについては、いつもよりはじっくりと演奏していたようだが、それでも重くなることなくクリア。紀尾井ホール室内管弦楽団も健闘、東京オペラシンガーズも大健闘。そして、大西宇宙と松井亜希の二人のソリストも見事。とりわけバリトンの大西は圧倒的な美声と存在感を示す。

 ただ、ピノックの指揮する演奏に本当に感動したかと言われると、ちょっとためらってしまう。魂の奥深くのところで私を揺り動かすものがほんの少し欠ける。そのためだろう、ちょっと退屈に感じてしまう。私は素人なので、なぜそうなのはうまく説明できないが、どうしてもそう感じてしまう。

 たとえば第2曲「人はみな草のごとく」。私はこのゆっくりとした行進曲風の音楽、そしてティンパニの悲劇的な畳みかける音にしばしば魂をつかまれる。私の大好きな部分だ。いつも深く揺り動かされる。愛する人の死を思い、自分の死を思う。人生の不条理に絶望と悲しみを抱く。私はもちろんキリスト教徒ではなく、それどころかいかなる信仰心も持たないのだが、この音楽を聴いているときには心の奥底に信仰心のようなものが広がっていく。ところが、ピノックの演奏は、とても良いのだが、そのような深い感動を覚えない。

 手際よく進んでいく。構築的であり、知的であり、メリハリがあり、てきぱきしている。だが、ドシンと来ない。大西の声も松井の声も素晴らしいのだが、独唱とともに私の心が音楽を奏でたくなることはなかった。

 ピノックの演奏は、少なくとも「ドイツ・レクイエム」に関しては、私は少し期待外れだと思ったのだった。

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飯田みち代のバロックの歌を堪能した!

 2026年9月11日、名古屋の瑞穂文化小劇場で飯田みち代リサイタルを聴いた。今回のテーマはBaroque。出演は、ソプラノの飯田みち代のほか、チェンバロは百瀬愛莉、ナヴィゲーターは指揮者の伊崎正浩。

 飯田みち代さんとは20年来のお付き合いがある。帝国ホテルなどで何度か飯田さんのコンサートを企画・運営させていただいたことがある。そのたびに、多彩な表現力、観客席を自分の世界に引き込むプリマドンナとしての力に圧倒されるばかりだった。名古屋でのリサイタルに何度かお誘いを受けながら、家庭の事情があったり、プログラムに私の大嫌いなマーラーが含まれていたりで、残念ながら、名古屋に足を運ぶことができなかった。飯田さんの名唱をぜひとも聴きたいと思っていたところ、バロックのコンサートが行われることを知って、名古屋まで行きたい気持ちが強まったのだった。

 三人がバロック時代の扮装で登場したのには驚いた。チラシは確かにバロック時代の扮装の三人の写真だったが、きっとそれは合成だろうと思っていたら、そうではなかったようだ! しかも、さすがに三人とも板についている! 伊崎さんがヘンデルに扮して絶妙の語りで曲を紹介。

 演奏されたのは、パーセルやリュリ、ラモー、チェスティ、カッチーニ、バッハ、ヘンデルの曲。初めのうちは、チェンバロも歌も少し不安定だったが、すぐに本調子になってきた。パーセルの3曲目「もし音楽が愛の食べ物なら」あたりから凄味が出てきた。

 実は大変失礼ながら、飯田さんのバロック音楽には多少、不安を抱いていた。飯田さんのロマンティックで濃厚な表現がバロック音楽に合わないのではないか、バロック音楽には、もっと率直で薄味の歌のほうがふさわしいのではないか、飯田さんのあまりに凄い歌唱力がバロックを超えてしまうのではないかと思っていたからだ。だが、聴いていくうちに、自分の思慮不足を恥じた。いやいやむしろこれがバロックの歌い方だというべき歌唱を聴かせてくれた。

 強い声だと思う。小声で歌っても強い感情が聞こえてくる。ロマン派の歌を歌う時のように微妙なニュアンスをすべて表現しようというのではなく、ニュアンスに関しては少し抑制していると思った。その分、一つの感情を一層強く表現しようとしているのではないか。声がまっすぐに伸びたり、あるいはホール中に広がったりしたが、きっとそれが偶然ではなく、何らかの特有のテクニックによるものなのだろう。小さな声からホール中を響かせる大きな声まで見事に歌をコントロールする。まさに飯田マジックだと思った。こうして聴くと、まさにバロック音楽にぴったりの、素朴な表現でありながらも強い思いのこもる人間の心がしっかりと聞こえてくる。

 ほんの少しだが、声のかすれるところがあった。ほかの歌手なら、音楽が崩れそうになるところだ。だが、飯田さんの場合は、声のかすれなど何でもない。それすらも声の迫力にしてしまう! いやいやそれどころか、これこそが人間の心のリアリティに聞こえる。

 リュリの「愛が闘いを挑むとき」、初めて聴いたが、素晴らしいと思った。カッチーニの「私の美しいアマリッリ」はよく知られた名曲だが、飯田さんが歌うと真摯な激しい愛がぐいぐいと伝わる! けっして激しい歌い方をしているわけではないのに、抑制された強い思いがあることが伝わる。バッハの「マタイ受難曲」の「愛ゆえに」も絶唱! そして、それにもまして、ヘンデルの「オンブラ・マイ・フ」も素晴らしかった。

 少し前まで、私はバッハのほかには、バロック音楽はほとんど聴かなかった。が、こうして聴くと、パーセルもリュリもラモーもヘンデルも素晴らしい。バロック音楽をもっと聴きたい気持ちが強まった。

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カルテット・エーレン 精妙なラヴェルに感動!

 2026年9月7日、浜離宮朝日ホールでカルテット・エーレン第2回定期演奏会を聴いた。昨年だったか、旗揚げ公演を聴いて大いに感銘を受けた。今回のプログラムはラヴェルの弦楽四重奏曲とベートーヴェンの弦楽四重奏曲第13番! 聴かないわけにはいかない。

 カルテット・エーレンは、ソリストとしても活躍している若手4人のメンバー(戸澤采紀、島方瞭、戸原直、佐藤晴真)から成る。いずれも名手たちだ。

 まずはラヴェル。精妙にして緻密で繊細。軽やかだが、緊張感にあふれている。戸澤のヴァイオリンの音があまりに研ぎ澄まされていて美しい。シャープな音だが、音そのものが美しいので、刺激的になりすぎない。ほかのメンバーも完璧なアンサンブルで音を組み立てていく。

 フランス的とは言えない気がする。この四人はドイツで活躍中だとのことで、そのせいかもしれない。むしろ、シェーンベルクなどの音を感じさせる。そして、時にフランスの演奏家たちがラヴェル演奏で強調するような諧謔性やユーモアもない。徹底的に真面目で、徹底的に透明。その中に魂の躍動があり、精神世界への肉薄がある。すべての楽章が同じような雰囲気で演奏されたが、循環形式で同じテーマが楽章をまたいで登場するので、これでよいのだと思う。4つの楽章によって精密な音の世界が完結する! 凄い!と思った。こんなラヴェルの弦楽四重奏曲を初めて聴いた。

 第4楽章の途中でチェロの弦が切れた。佐藤が楽屋に引っ込んで、しばらくして第四楽章の初めから再び演奏。緊張感が途切れなかった。

 後半のベートーヴェンも素晴らしかった。美しくて精妙な演奏だと思う。ベートーヴェン的な力任せのところはあまり感じない。実をいうと、私の個人的な趣味からすると、もう少しスケールが大きくて、もう少しアグレッシブであってほしいのだが、もちろん、これはこれで素晴らしい。ラヴェルと同じように、精妙で鮮烈で緊張感にあふれ、透明な美にあふれたベートーヴェンだった。こちらの曲では、楽章ごとの性格を描き分けているように思った。第2楽章プレストも見事。そして、第5楽章カヴァティーナの美しさは圧倒的だった。このような美しさはこの団体にぴったりだと思う。まさに精妙なカンタービレ!

 そして、いよいよ「大フーガ」。私は暴力的なまでに生々しいこの楽章が大好きなのだが、この団体が演奏すると、もちろん暴力的にはならない。精緻にして強い美音がくんずほぐれつ圧倒的な異界を作り上げていく。生命の華というでも表現するような音楽のエッセンスを作り出す。

 ラヴェルとベートーヴェン、どちらも素晴らしかったが、今日の演奏に限って言えば、ラヴェルの方に私はいっそう感激したのだった。

 各メンバーがソリストとして活躍するのだと思うが、ぜひ弦楽四重奏団としての活動をこれから先も意欲的に続けてくれることを心から願う。

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戸隠のこと、喜連川のこと

  2026年8月と9月、小旅行をした。コンサートの感想などは、その日のうちに書いてブログにアップすることにしているが、それ以外のことだと、後回しになってしまう。そんなわけで、遅くなったが、これらの小旅行についての感想を簡単に記す。

 8月21日から22日にかけて戸隠を訪れた。長野県立歴史館で「戸隠の至宝-守り継がれた信仰と由緒-」展が行われていることを知り、ついでに戸隠を訪れようと思い立ったのだった。ツアーの仲間が同行してくれた。

 戸隠は、かつて修行僧や参拝者の訪れる霊験所であり、戸隠山顕光寺として栄えたが幕末明治初期の廃仏毀釈によって戸隠神社に改まった。戸隠神社は、奥社、中社、宝光社、九頭竜社、火之御子社の五社から成る。すべて回ると徒歩で2時間半かかるという。

 まず、長野駅に向かい、そこからしなの鉄道に乗り換えて、屋代駅で降りて、県立歴史館へ。展示で戸隠神社の持つ歴史的な書類や長泉寺所蔵の聖観音菩薩坐像、寶界寺所蔵の阿弥陀世来坐像をみることができた。

 その後、長野駅前から路線バスで1時間ほどかけて戸隠に向かい、神社の入口にあたる宝光社付近の宿坊で一泊。夕食は蕎麦尽くしのコースだった。とてもおいしくいただいた。翌朝、宿坊内にある別棟の神殿で朝拝を体験した。厄払いをしてもらった。

 宿坊の車で奥社参道入口まで送ってもらい、奥社まで歩いた。大鳥居を過ぎて、巨大な杉が両側に並ぶ細い道を歩く。そのうち、杉並木はなくなり、山肌になっていく。行列というほどではないが、三々五々、人が歩いていく。熊よけの鈴を鳴らしている人もいたが、次々と歩いていくので、熊も襲ってはこないだろうとともあれ安心して歩いた。

 歩きにくい岩肌の坂道なので、かなり疲れた。往復で1時間近く歩いたと思う。奥社の横にある九頭竜社で参拝。厳かな社だったが、人だかりになっており、列を作って柏手を打った。

 中社まで歩いて、拝殿や宝物館を見物。拝殿の脇から、狩野派の流れをくむ川鍋暁斎に手になる龍の天井画(デジタル復元)をのぞいた。その後、鳥居や神体となっている二本杉などを見物。足の疲れのために、近くの喫茶店で休憩。その後、バスで長野に戻って、新幹線で帰途へ。

 翌朝、筋肉痛に苦しむかと思っていたが、案外、痛みを感じなかった。

 

 9月2日には、喜連川(きつれがわ)地区を訪れた。ツアー仲間のお一人がこの地区の観光ボランティアをなさっているので、ガイドをしてもらって、ほかのツアー仲間と町の観光をさせていただいた。

 喜連川は栃木県のさくら市にあり、宇都宮線の氏家駅が最も近い。昔、この地区を流れている荒川周辺にキツネがたくさん住んでいたので、喜連川と呼ばれるようになったという。奥州街道の宿場町であり、江戸時代には喜連川藩があった。5000石の小さな藩でありながら、治めていた喜連川足利氏は大大名と同格の地位を与えられていたという。

 それというのも、簡単にいえば、喜連川足利氏が源氏の流れをくむ家柄であり、足利尊氏の子孫であるため、徳川の家臣でなく、客としての扱いだったからだということのようだ。

 鎌倉時代からの喜連川の歴史についての説明を受けながら、喜連川神社、璉光院、龍光寺、足利家の墓などをみた。その後、明星漁業生産組合で、鮎づくしのコースをいただいた。これは絶品だった! 刺身も塩焼きも一夜干しも甘露煮も鮎飯もおいしかった!

 その後、車で町のあちこちを見せていただいて、氏家駅から宇都宮経由で帰途についた。

 鮎もおいしかったし、町の雰囲気もとても良かった。わかりやすいガイドをしてもらったが、私の日本史の知識が不十分なためによく理解できないことも多かった。もう一度、きちんと下調べしてから、改めて鮎料理を食べに行きたいものだと思った。

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小堀勇介のロッシーニを堪能した!

 2026年9月4日、浜離宮朝日ホールで、小堀勇介テノール・リサイタルを聴いた。ピアノ伴奏は久保山菜摘。

 曲目は、かなりマイナーなものばかり。前半は歌曲で、ドニゼッティの「スルタンの女」。ベッリーニの「6つのアリエッタ」より6曲(「マリンコニーア」「行け、幸運のバラよ」「愛する美しきニーチェ」「たとえ私にできなくても」「許してくれ、愛しい人」「喜ばせてあげて」、ブリテンの「ミケランジェロの7つのソネット」より「ペンやインクと同じように」「貴女の瞳を通して見れば」「善良な魂」、ロッシーニの「別離」「ボレロ」。

 後半はオペラのアリアで、モーツァルトの「羊飼いの王様」より「太陽に向かって広がる雲は」、「ポントの王ミトリダーテ」より「あの薄情な裏切り者を」、ヘンデルの「タメルラーノ」より「力強く喜んで私は死のう」「邪悪な者よ、お前に戦いを」、ロッシーニの「セミラーミデ」より「 ああ、どこに試練などあろうか」、「オテッロ」より「どうして聞き入れてくれないのですか」

 輝かしくて明るい強い美声による歌曲と歌劇の世界が繰り広げられた。よく通る声で。ホール中にびんびんと響く。高音が何とも素晴らしい。この声だから、もちろん内省的にはならない。ブリテンの歌曲は、以前、吉田志門の歌、碇大知のピアノで聴いたことがあったが、本当に同じ曲か?と疑いたくなるくらい、雰囲気が違っていた。吉田の歌が緊張感にあふれる内省的な歌だったのに対して、小堀は自己主張の強い外に向かう歌とでもいうか。もちろん、いずれも素晴らしい。ロッシーニは特に躍動感があり、爆発力があり、ここぞというところで声を輝かしく響かせる。観客席からブラヴォー、ブラヴィーの声が上がる。

 ピアノの久保山もしっかりしたテクニックで歌を支える。ただ、私は、ちょっと遠慮しすぎではないかと思った。もっと自分を前に出して自己主張してもいいのではないか。伴奏に甘んじようとしすぎているような気がした。私は、学生時代の久保山の演奏を何度か聴いて、その実力のほどはよく知っている。遠慮せずにもっとぶつかっていたら、もっと面白くなっただろうと思った。

 やはり、小堀の歌はロッシーニが素晴らしいと思った。アジリータも見事。ロッシーニの歌の愉悦を堪能できる。ここまでロッシーニを歌える日本人歌手がいることを誇りに思う。

 アンコールは、ドニゼッティの「愛の妙薬」の「人知れぬ涙」。とてもよかったが、しっとり歌うか、盛り上げるかで少し中途半端になった気がした。もう一曲のアンコール曲、ロッシーの歌曲「ラ・ダンツァ」は本当に素晴らしかった。楽しくて、躍動感があって、ユーモラスで、躁状態になる! 私はチェチーリア・バルトーリの録音でこの曲をよく聴いているが、それに匹敵する素晴らしさだと思った。

 マイナーな曲が多かったせいかもしれないが、小堀勇介という大人気歌手のリサイタルのわりには客が少なかったのが残念。この上なく楽しい素晴らしいコンサートだった!

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女流義太夫若手演奏会を聴いた

 2026年9月1日、上野広小路亭で女流義太夫若手演奏会を聴いた。演目は、「生写朝顔話」大井川の段(浄瑠璃・竹本京之助、三味線・鶴澤弥々)、「伽羅先代萩」御殿の段(浄瑠璃・竹本佳之助、三味線・鶴澤津賀花)、「一谷嫰軍記」須磨浦の段(浄瑠璃・竹本越若、三味線・鶴澤朔弥)、「一谷嫰軍記」組討の段(浄瑠璃・竹本越京、三味線・鶴澤駒治)。

 私は義太夫についてはまったくの初心者であって、右も左もわからない。ただ、誘ってくれる人がいて、一度行ってみたら、これがなかなかおもしろい。そんなわけで、わからないながら聴いて、それなりに楽しんでいる。

 今回、やっと三味線に耳がいくようになり、それぞれの演者の魅力がわかりかけてきたような気がした。まだ人様にそれを口にできるような状態ではないので、ここには書かないが、ともあれ、きわめて知的で、優雅なところとぴしりと決まる見事さ、きりりとしてドラマティックな表現のすばらしさ、おおらかな大胆さ、ドラマティックな表現力に惹かれて聴いた。

 語りについては、竹本京之助は元気な声によるリアルな語りがとても良かった。竹本越若はかなり個性的なのだと思う。ドラマティックでリアルな表現が見事で、ぐいぐいと聞き手をひきつける。地の語りの部分も目に見えるようにリアルで、登場人物のセリフの部分も語りわけられている。竹本越京は、声の不安定なところがあったが、戦いの場面をリアルに再現してくれた。

 もう少し耳が肥えてくればもっと聴き分けられるようになり、もっと楽しめるようになるだろうと思うが、まだだいぶ時間がかかりそうだ。

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