文楽鑑賞教室 「国性爺合戦」にも国立劇場閉鎖の影響?
2025年12月6日、東京芸術劇場プレイハウスで「国立劇場第57回文楽鑑賞教室・大人のための文楽入門」(Bプロ)を鑑賞した。日本の古典芸能に疎い私だったが、知人の導きでたまに文楽を楽しんでいる(能、歌舞伎はまだ楽しめる段階に達していない)。とはいえ、もちろんまだ入門段階。本来、国立劇場で行われていたこの文楽教室が、今、国立劇場閉鎖のため、あちこちの劇場を借りる形で行われているということらしい。
この日の演目は、「万才」と「国性爺合戦」の「楼門の段・甘輝館の段・紅流しより獅子が城の段」。それに解説がつく。
「万才」は、太夫と才蔵の二人組が新春のお祝いの言葉を述べて舞を披露する舞踏劇。ストーリーがないので、右も左もわからない私としては、人形の動きの微妙さに感嘆し、音楽(太夫の語りと三味線)がそれに合っていることを楽しむくらいのことしかできない。
「国性爺合戦」はDVDで観たことがあったので、演目自体にはなじみがある。ほかの文楽の演目と違って、あまりにスケールの大きな途方もない話で、ハリウッドの大冒険映画を見るような面白さを感じたので、今回も楽しみにしていた。
多くのところで大いに感心してみたし、おもしろいと思ったのだったが、実はあまりに途方もない話なので、納得してみることができず、少々退屈して、居眠りしたところがあったと思う。ミステリー好きの私(このブログには書いていないが、私はミステリー小説をかなり読んでいるし、テレビで見るドラマの大半がミステリーもの!)としては、登場人物の行動の動機の曖昧さ、整合性のなさが気になって仕方がない。文楽をリアルに考えるのは野暮とは思いながら、登場人物の行動に納得できないと感情移入できない。
あとで、文楽に詳しい方と話したところ、虎退治などの場面が省略されて、後半の段だけを取り出したために、この作品の荒唐無稽さがきわだってしまったのではないかという。なるほど。前半で、「これは荒唐無稽な世界を描いているのです!」ということをわからせておいてこそ、観客は違和感なく後半を受け入れることができる。それがないと、やはり観客はさすがについていけない。その通りだと思った。
そして、また国立劇場が閉館になり、専用の劇場で演じられていないため、舞台が広すぎたり、天井が高すぎたりして、文楽を演じる舞台ではないことも影響があるだろうとのこと。これにも納得できた。
クラシック音楽の室内楽や歌曲は親密な空間で演奏されてこそ本来の姿で聴くことができる。文楽もそれと同じだろう。そもそも人形が人間を演じるということ自体、舞台と観客が同じ虚構を受け入れるという暗黙の了解がなくては成り立たない。それを作り出すのが、文楽専用の劇場だっただろう。それが失われてしまうと、その了解が成り立たなくなる。微妙なところで成り立っており、そうであるからこそ美しかった世界が、ちょっとした違和感が重なって崩れてしまっているということもあるのだろう。
とはいえ、豊竹呂勢太夫が語り、鶴澤藤蔵が三味線を弾いた「甘輝館の段」には大いに感動した。人形遣いの方々の見事さにも感嘆するばかりだった。
それにしても、知れば知るほど、国立劇場の閉館の影響は大きい。新聞などでしばしば取り上げられていることだが、このままで日本芸能が崩壊して恐れがあるのではないか。日本芸能の外の世界にいる私でさえ、今の状況に怒りを覚えてしまう。

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