6月10日、浜松町の自由劇場で、わけあって、浅利慶太演出、劇団四季の「ハムレット」をみてきた。劇団四季というと今では誰もがミュージカルと思うようだが、これはいわゆる「新劇」。オフィーリアの歌やちょっとした舞台音楽はつくが、基本的には音楽はない。
一言でいって、とてもおもしろかった。もちろん、「ハムレット」の戯曲は何度も読んだ。映画も、ローレンス・オリヴィエのものや、スモクトウノフスキーのソ連映画を、これも何度か見た記憶がある。が、舞台は初めてだった。
こんなことをいうのは恥ずかしいが、改めてシェークスピアの言葉の見事さ、福田恒存の日本語の格調高さに圧倒された。俳優一人一人の声がはっきりと聞き取れることにも驚いた。簡素な装置ながら、しっかりとハムレットの時代を映し出していた。
芝居を基本的に見ない私が、最後に見たシェークスピア劇は、四十年ほど前、それこそ劇団四季の「アントニーとクレオパトラ」だったと記憶する。忘れもしない、大分文化会館での公演だった。そのときも、日下武史さんが主要な役を演じていたように思う。日下さんは、テレビ創成期の「アンタッチャブル」のエリオット・ネスの吹き替えでも、あるいは味のある脇役でも、若かった私の憧れの存在だった。今回、墓守り役に日下さんが出てきたので、びっくり。さすがに昔のようなきれのよい演技ではなかったが、あいかわらずの軽妙な味がおもしろかった。
そのほか、クローディアスの志村要、ホレイショーの深水隆司(ダブルキャストだったが、きっとこの人だったと思う)にとりわけ感銘を受けた。ハムレットの田邊真也もよかった。ちょっとオフィーリア(野村玲子)の「かまとと」っぽさには、やりすぎの思いを抱いた。が、もちろん、これらは芝居初心者の勝手な思いなので、それが芝居通と一致するかどうかは、かなり怪しい。
そのほか、考えるところはたくさんあった。もしかしたら、あまりに初歩的な感想かもしれないが・・・
私は、オペラの類の上演は、年間、20本くらいは見るだろう。映画も、これまで間違いなく数千本見ているだろう。私は文学部の演劇学科出身だ。専門は映画学だった。
そんな私が芝居を見ないのは、そのあり方そのものに違和感を覚えるためだ。オペラは音楽がつき、登場人物が歌を歌うのだから、初めから「現実」ではない。映画は、基本的にはスクリーンの中の「現実」を覗き見るものだ。だから、ともにそれほどの違和感はない。
ところが、舞台は、生身の人間が目の前にいて、しかも、現実ではありえないような発声で言葉を発する。しかも、シェークスピア劇などでは、台詞の中には、しばしば西洋人の名前や西洋的な考え方が続出する。そうなると、目の前の世界が「現実」なのかどうか、どのようなつもりでこれを見ればよいのか、私としてはわからなくなる。居心地が悪くなってしまう。今回も、このような違和感を拭いさることができなかった。
そして、もう一つ強く感じたこと。それは日本語の問題だ。
芝居においては、役者は観客に声が通るように大声で話をする必要がある。劇団四季の役者さんたちの発声の見事さにはまさしく驚嘆した。だが、日本語では、強弱のアクセントではなく、高低の抑揚によって言葉が成り立っている。そうなると、すべての登場人物がずっと同じ声の大きさ、同じ発声で話すことになる。
数十年間、舞台といえばオペラばかりを見てきた人間には、これがどうしても気になる。ピアニシモでつぶやくところがない。すべてがフォルテで語られる。一つ一つの台詞ものっぺりしてしまう。すべての人物が同じ口調で同じフォルテで語る。人物によって言葉の雰囲気の違いがない。オペラであれば、登場人物によって持っている音楽が異なるのだが、それが一様だ。
そのせいもあるのかもしれないが、ハムレットとホレイショーとレイアーティーズが、ほとんど同じ台詞を同じ調子で語っているように思われてしまう。「一人一人もっと異なった音楽がほしい」と思ってしまう。とりわけ、ポローニアスはもっと道化じみた音楽が必要なのではないか。そんな思いをずっと抱いていた。
もちろん、これは劇団四季の問題ではなく、日本語で「新劇」を上演する場合の、一つの宿命なのかもしれない。
が、もちろん、いうまでもなく、これは、ふだんオペラしか見ない人間の勝手な違和感でしかない。むしろオペラに激しい違和感を覚える人のほうが多いのだろう。そして、芝居を見るうちに、慣れてきて、そのような違和感を覚えなくなるのだろう。私自身、オペラを見始めたころ、しばしば歌で台詞を語ることの違和感、日本人が西洋人を演じることの違和感を覚えたものだった。み続けているうち、それがほとんどなくなった(今でも、たまにそれを感じる上演はあるが)。それと同じことだと思う。
そうしたことを承知の上で、私の感じたままを書いてみた。
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