文化・芸術

文楽鑑賞教室 「国性爺合戦」にも国立劇場閉鎖の影響?

 202512月6日、東京芸術劇場プレイハウスで「国立劇場第57回文楽鑑賞教室・大人のための文楽入門」(Bプロ)を鑑賞した。日本の古典芸能に疎い私だったが、知人の導きでたまに文楽を楽しんでいる(能、歌舞伎はまだ楽しめる段階に達していない)。とはいえ、もちろんまだ入門段階。本来、国立劇場で行われていたこの文楽教室が、今、国立劇場閉鎖のため、あちこちの劇場を借りる形で行われているということらしい。

 この日の演目は、「万才」と「国性爺合戦」の「楼門の段・甘輝館の段・紅流しより獅子が城の段」。それに解説がつく。

「万才」は、太夫と才蔵の二人組が新春のお祝いの言葉を述べて舞を披露する舞踏劇。ストーリーがないので、右も左もわからない私としては、人形の動きの微妙さに感嘆し、音楽(太夫の語りと三味線)がそれに合っていることを楽しむくらいのことしかできない。

「国性爺合戦」はDVDで観たことがあったので、演目自体にはなじみがある。ほかの文楽の演目と違って、あまりにスケールの大きな途方もない話で、ハリウッドの大冒険映画を見るような面白さを感じたので、今回も楽しみにしていた。

 多くのところで大いに感心してみたし、おもしろいと思ったのだったが、実はあまりに途方もない話なので、納得してみることができず、少々退屈して、居眠りしたところがあったと思う。ミステリー好きの私(このブログには書いていないが、私はミステリー小説をかなり読んでいるし、テレビで見るドラマの大半がミステリーもの!)としては、登場人物の行動の動機の曖昧さ、整合性のなさが気になって仕方がない。文楽をリアルに考えるのは野暮とは思いながら、登場人物の行動に納得できないと感情移入できない。

 あとで、文楽に詳しい方と話したところ、虎退治などの場面が省略されて、後半の段だけを取り出したために、この作品の荒唐無稽さがきわだってしまったのではないかという。なるほど。前半で、「これは荒唐無稽な世界を描いているのです!」ということをわからせておいてこそ、観客は違和感なく後半を受け入れることができる。それがないと、やはり観客はさすがについていけない。その通りだと思った。

 そして、また国立劇場が閉館になり、専用の劇場で演じられていないため、舞台が広すぎたり、天井が高すぎたりして、文楽を演じる舞台ではないことも影響があるだろうとのこと。これにも納得できた。

 クラシック音楽の室内楽や歌曲は親密な空間で演奏されてこそ本来の姿で聴くことができる。文楽もそれと同じだろう。そもそも人形が人間を演じるということ自体、舞台と観客が同じ虚構を受け入れるという暗黙の了解がなくては成り立たない。それを作り出すのが、文楽専用の劇場だっただろう。それが失われてしまうと、その了解が成り立たなくなる。微妙なところで成り立っており、そうであるからこそ美しかった世界が、ちょっとした違和感が重なって崩れてしまっているということもあるのだろう。

 とはいえ、豊竹呂勢太夫が語り、鶴澤藤蔵が三味線を弾いた「甘輝館の段」には大いに感動した。人形遣いの方々の見事さにも感嘆するばかりだった。

 それにしても、知れば知るほど、国立劇場の閉館の影響は大きい。新聞などでしばしば取り上げられていることだが、このままで日本芸能が崩壊して恐れがあるのではないか。日本芸能の外の世界にいる私でさえ、今の状況に怒りを覚えてしまう。

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運慶特別展をみた

 東京国立博物館で運慶特別展をみた。興福寺北円堂に安置されている弥勒如来坐像、無著菩薩立像、世親菩薩立像のほか、かつて北円堂に安置されていた可能性の高い四天王立像(持国天・増長天・広目天・多聞天)を合わせた7体の国宝が展示されている。

 寺院仏閣や仏像には関心を持ってはいるものの、もちろん私は仏教についても、仏像についてもさほどの知識はない。運慶についても、その凄さについて話には聞いているが、まとめて観たことはなかった。

 7体だけとはいえ、今回、傑作とみなされているものをみられて、とても感銘を受けた。「感動した」と言いたいところだが、基礎知識のない私は、「感動した」というのもおこがましいと感じざるを得ない。

 弥勒如来坐像も厳かでとてもよかったが、私は、おそらくは多くの人と同じように無著菩薩と世親菩薩像に惹かれた。二人の菩薩は4世紀にインドに実在した兄と弟だという。その二人の佇まいの存在感が圧倒的だと思った。きわめて人間的で、その人柄が伝わってくる。

 無著菩薩のほうは、両手で経典の包みを抱え、穏やかで謙虚そうで衆生の悩みを共にしているかのような気配。その包み込む力が周囲にあふれている。まるで生きて静かに動き出しそう。世親菩薩のほうは、眼光鋭く、意志の力にあふれ、衆生を率いていくかのような迫力を持っている。こちらのほうも今にも動き出しそう。ともに袈裟の質感を含めてきわめてリアルでありながらも、まさに仏像の法力(という言葉でよいのかどうかわからないが)のようなものが像を覆っている。どのような手法なのかは私にはまったくわからないが、西洋のリアルな彫像とは異なるような気がする。そのリアルと抽象化の具合が驚異的だと思った。

 四天王立像もよかった。無著、世親の像が「静」だとすると、こちらは「動」だろう。大きな動きの一瞬を切り取ったようなダイナミズムにあふれている。鬼の侵入を食い止めようとして戦っているのだろうか。誇張された顔の表情もとても魅力的だと思った。

 これ以上の言葉を使うことができないのが残念。

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義太夫節演奏会 「東海道四谷怪談」と「夏祭浪花鑑」を楽しんだ

 2025年7月17日、ティアラこうとう小ホールで女流義太夫節演奏会「夏の妖しを楽しむ」を聴いた。演目は、「東海道四谷怪談」伊右衛門住家の段(浄瑠璃:竹本土佐恵、三味線:鶴澤駒清)、落語「死神」三遊亭ぽん太、「夏祭浪花鑑」長町裏の段(浄瑠璃:団七を竹本京之助、義平次を竹本越若 三味線:鶴澤弥々 鉦:竹本綾一 太鼓:鶴澤朔弥)。まさに夏にふさわしい怪しい話ばかり。

 誘ってくれる人がいて、数年前から時々楽しんでいるが、もちろん私は義太夫についてはまったくの初心者。つたない感想しか書くことはできない。

「東海道四谷怪談」は、そもそも話がとても面白いと思った。昔、学生時代に岩波文庫で鶴屋南北の作品を読んで大いに感動したのを思い出した。この場面だけでもとても惹かれる。そして、それを竹本土佐恵が見事に語る。お岩の語りは女流義太夫だからこそ出せる味だと思った。おぞましくなく、あくまでも切ない。男たちの語りについてもうまく使い分けている。三味線もここぞというときにびしりと鳴って、切迫した思いを盛り上げる。

 落語については、十分に楽しんだが、登場人物の語りわけ、雰囲気の作り方にまだ十分に成熟していない部分を感じた。全体を貫く雰囲気が定まらず、主人公と死神のキャラクターもあやふやだった。それが定まれば、もっともっと楽しめたかもしれない。

「夏祭浪花鑑」は、二人の会話の部分の多い場面だったので、わかりやすかった。竹本京之助のあまりの大声の迫力に驚いた。竹本越若もそれに負けじと声を出し、大迫力のやりとりになった。憎しみと敵意に満ちた会話が実にリアル。そして、そこに三味線が時折入って音を刻む。セリフだけだとリアルなだけで凄惨な感じなのだが、三味線が入ることで抽象世界になり、物語の輪郭が深まるのを感じた。三味線の出番は多くないが、重要な役を果たしていることが良くわかる。

 もちろんこれらは私の本当にプリミティブな感想でしかない。が、ともあれ、大変楽しむことができた。日本の古典芸能の面白さがやっと少しずつわかってきた気がする。

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二度目の女義太夫 三味線の音に惹かれた

 2025211日、蕨市立文化ホールくるるで、花のように香れ「女流義太夫」を聴いた。

 誘ってくださる方がいて、一昨年あたりから少しずつだが、文楽などの日本の古典芸能に関心を持つようになった。女義太夫を聴くのはこれが二回目。右も左もわからない状態だが、とても楽しめる。

 初めに人間国宝の鶴澤津賀寿とツレの鶴澤朔弥でレクチャー。三味線による表現などについてとても興味深い話だったが、さてきちんと私に理解できたかどうか自信は持てない。

 その後、竹本越若の大夫、鶴澤津賀佳の三味線で「菅原伝授手習鑑」の「車曳の段」。有名な場面なので、私も十分に記憶している(文楽のDVDで見たり、本で読んだり)。初めのうちは三味線に負けるほどの細い声の語りだと思ったが、すぐに迫力ある語りになった。笑いの部分は言葉をなくすすごさ。男性の大夫のこのような笑いは聴いたことがあったが、女性でもこれほどの迫力が出せるのに驚いた。

 休憩後、お三輪を竹本綾一、橘姫を竹本京之助、求馬を竹本越里、三味線を鶴澤弥々、鶴澤津賀榮、鶴澤津賀寿で「妹背山婦女庭訓」の「道行恋苧環」。こちらの演目では三味線の力に聞き惚れた。とりわけ、語りのない三味線だけの部分の迫力が素晴らしいと思った。まったくの素人なので、どう表現すればいいのかさえもまったくわからないのだが、三味線のバシッと決まる低い音がとてもいい。平坦な時間の流れに喝を入れて生きた時間にしているのを感じる。

 ただ、子供のころから西洋音楽になじんできた人間としては、三人の大夫が楽譜もなしに声を合わせて、ユニゾンでもなく、時に不協和音になりながら進んでいく、というシステムに違和感を禁じ得ない。聴いているうちに慣れていくのだろうか。

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田中一村展 最後に到達した澄み渡った境地

 東京上野の東京都美術館で田中一村展をみた。

 美術に強い関心があるわけではない私だが、美術好きの知人に聞いて、奄美で晩年を過ごした画家・田中一村の名前はかなり前から知っていた。20年以上前だっただろうか、仕事がてら奄美大島に出かけた時、田中一村記念美術館に行こうとした記憶がある。が、どのような展示があったかまったく覚えがないところをみると、閉館していたのか、何らかの事情で中は見られなかったようだ。そのころから、一村が奄美で描いたという絵は何枚か見たことがあった。が、今回、かなりたくさんの作品をみて印象が変わった。

 子どものころからの絵がいくつも展示されていた。いやはや神童ぶりに驚く。幼児のころにすでに見事な絵を描き、10代にして大家の趣がある。緻密にして大胆。草木の襞の一つ一つの生命が宿っている! きっと遠近法がほかの画家とは異なるのだろう、じかに迫ってくる凄味がある。

 私は、20歳前後の絵画の中の赤の使い方に惹かれた。草木の中に血の色がある! そんな感じがした。等伯などにみられるような日本画特有の楓や草木の構図があるが、そんな落ち着いた風景の中にも血が迸っている! とてつもないエネルギー、強い自負心!

 こんな圧倒的な絵を描いていながら、いや、こんな圧倒的な絵を描いていたからこそ、画壇に認められなかったという。苦しかっただろう。だからなのか、南画風の絵を描いたり、観音像を描いたりする。自我の叫びに押しつぶされそうになりながら救いを求めているように見える。

 そうして、50代で奄美大島に移住。ゴーギャンにおけるタヒチと同じように、一村は奄美に自分の居場所を見つけ出したのだろう。蘇鉄や枇榔樹、アダンなどの南方の植物が大胆な構図で描かれるようになる。南方の植物の特性というべきなのか、おおらかで、形がそれ自体、かなり抽象的な印象を与える。しかも、アンリ・ルソーを思わせるようなプリミティブな要素がある。有名な「アダンの海辺」は、まるでダリの抽象画のようなアダンの花と緻密に描かれた具象的で静謐な波が一枚の絵の中に同居している。

 ベートーヴェンの最後の弦楽四重奏曲(第16番)のようなシンプルな高みを、私はこれらの絵の中に感じる。最後に到達した澄み渡った境地。様々な苦悩や怒りや憎しみや喜びなどが抽象的な風景の中の昇華している。

 ここに書いたのは、もちろん私の勝手な思い込みにすぎない。が、大いに感動した。

 ただ、展覧会はあまりの人気のために、人が多くてゆっくりみられなかったのが残念。私のようなにわかファンが駆け付けたせいだろうが、もっとゆっくりと見たいと思った。そのような機会がまた訪れると嬉しい。

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文楽「艶容女舞衣」、そして小澤征爾さんの訃報!

 2024年2月9日、日本青年館ホールで文楽公演をみた。

 第一部は、「二人三番叟」と「仮名手本忠臣蔵」の山崎街道出合いの段、二つ玉の段、 身売りの段、早野勘平腹切の段。第二部は、「艶容女舞衣(はですがたおんなまいぎぬ)」の酒屋の段と「戻駕色相肩(もどりかごいろにあいかた)」の廓噺の段。

 まったくの初心者なので、文楽について何かを語る資格はない。やっと太夫の語りを聞き分けられるようになり、好きな太夫とそうでもない太夫ができてきた。三味線については、ちょっとだけ違いがわかるようになってきたが、それだけ。人形遣いについては、すべての動きのあまりの巧みさに驚嘆しているだけで、その巧拙についてはまったくわからない。

「仮名手本忠臣蔵」のお軽と勘平の話はとてもよくできていて、とても感動的だと思うのだが、私はそれよりも「艶容女舞衣」のほうがずっと好きだ。恋に溺れた一人の男のために、周り中が不幸になっていくが、すべての登場人物が善人で、他人への思いやりを持っているためにあえて冷たく当たったり、意地を張ったりしながら、何とか不幸を受け止めようとする。その健気さに感動する。竹本三輪太郎と鶴澤清友、竹本錣太夫と竹澤宗助、豊竹呂勢太夫と鶴澤清治のそれぞれ語りと三味線はいずれも素晴らしかった。なお、「仮名手本忠臣蔵」の早野勘平腹きりの段の太夫は豊竹呂太夫だった。4月に豊竹若太夫を襲名することになっている。これが最後の呂太夫としての出演だろうと思う。さすがの語りだと思った。身売りの段の竹本織太夫もとても良かった。

 初心者ながら、文楽はとてもおもしろいと思う。もう少し見続けてみたい。

 なお、自宅に帰ってから、小澤征爾さんの死去のニュースを知った。新日フィルの演奏で昔何度か演奏を聴いた。松本まで出かけてサイトウキネンも聴いた。ブラームスの交響曲やベートーヴェンの第九、演奏会形式の「エレクトラ」などにとても感動したのを覚えている。もちろん、CDもかなり持っている。ただ実を言うと、後年の表面をきれいに磨き上げるような演奏はあまり好きではなかった。勢いがあって、少しの破綻があっても突き進むような、若いころの音楽づくりのほうが好きだった。とはいえ、日本のクラシック音楽のレベルの高さを世界に知らせ、多くの人の感動を与えてきた稀代の大指揮者だったのは間違いない。近年、タクトを触れない状況を伝え聞いていたので、からだがよくないのだとは思っていたが。合掌。

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国立文楽劇場で令和6年初春文楽公演をみた

 2024年1月3日と4日、大阪の国立文楽劇場で「令和6年初春文楽公演」をみた。私は文楽初心者だが、浄瑠璃の本場である大阪に国立劇場があり、毎年、最高の人たちの出演する新春公演が行われていると、恥ずかしながらつい最近知って、友人にチケットの手配をしてもらって出かけることにしたのだった。

 3日の午後、大阪に到着、そのまま「伽羅先代萩」の竹の間の段、御殿の段、政岡忠義の段、床下の段。夕方から、「平家女護島」の鬼界が島の段、「伊達娘恋緋鹿子」の八百屋内の段、火の見櫓の段。4日の午前中、「七福神宝の入舩」、「近頃河原の達引」の四条河原の段、堀川猿廻しの段。堪能した。

 本来、それぞれの段を語った太夫や三味線弾き、人形遣いの方々のお名前を書くべきなのだろうが、私は圧倒的な初心者で、今はまだ文楽のストーリーを追いかけているだけの状態なので、ここには書かない。ただ、豊竹呂太夫をはじめとする太夫、鶴澤清治、鶴澤燕三をはじめとする三味線のほとんどが圧倒的だった。人形の動きにも圧倒されるばかり。

 政岡忠義の段は、腹をすかせていることを語る部分が長くてそこは少々退屈したが、その後の忠義の場面は凄い。鬼界が島の段の島に取り残された俊寛の人形の動きと場面転換の巧みさには感動。火の見櫓の段の活劇スペクタクルは楽しめた。そして、堀川猿廻しの段では、老いた母の心情に涙し、猿回しの場面に深く感動した。

 初心者につき、このくらいしか書けることがないのが残念。

 ところで、このところNHKから出ている文楽DVDをみている。先ごろ「妹背山婦女庭訓」と「菅原伝授手習鑑」のDVD通してみて、文楽という芸術の凄さを痛感した(「義経千本桜」と「仮名手本忠臣蔵」は購入したまままだ観ていない。現在、いくらか理解を深められるように予習中)。本当にすごい芸術だとつくづく思う。

 なぜこれほどの芸術があまり日の目を見ない状態にあるのだろう。そして、通しですべての段を上演すれば、これほどすごいのに、なぜ一つ、あるいはいくつかの段に分けて上演されるのだろう。

 バイロイト祝祭劇場での「ニーベルングの指環」の上演のように数日かけて上演してもいいではないか。それこそ、日本のどこかの劇場で通し狂言をずっと上演してもいいではないか。世界の人を呼んで上演したら、きっとバイロイト祝祭劇場のように、世界中から人が集まってくるのではないか。適切なガイドがあれば、西洋の人もきっと心から感動すると思う。そして、多くのワーグナー好きがバイロイトにはるばる行きたいと思うように、世界のファンが集まるだろう。

 これほどレベルの高い芸能を持っていながら、日本人もほとんど知らず(かく言う私も70歳を超して数人の友人に勧められて知ったばかり!!)、外国からもあまり知られずにいるのは、あまりにもったいない。

 今、国立劇場が建て替えのために休館になっている。そして、建て替え計画が頓挫しつつあり、このままでは東京の古典芸能の殿堂が失われてしまう可能性が高いという。バイロイト祝祭劇場は建築されてから150年以上たっている。それに比べれば、バイロイト祝祭劇場よりも100年近く後に建てられた東京の国立劇場などまだ十分に新しい! 耐震工事などをして、そのままそれを世界に向けての会場に使えないか。日本を観光立国にするというなら、観光地だけでなく、日本の古典芸能を世界に理解してもらうことを考えるべきではないか。古典芸能に造詣の深い文化人、経済人が中心になって、もっと活動してくれないだろうか。

 能登半島で大きな地震があり、羽田で大きな事故があって波乱含みの新春だが、このようなことを考えたのだった。

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文楽教室で「傾城恋飛脚」の新口村の段をみた

 202312月9日、シアター1010(足立区文化芸術劇場)で、文楽鑑賞教室 / 社会人のための文楽鑑賞教室をみた。演目は「団子売」、そして、文楽の魅力についての解説の後「傾城恋飛脚」の新口村の段。

 実はこのところ文楽に親しんでいる。と言っても、まだ入り口を通り越していない状態で、右も左もわからない。今回の教室も、「へえ、そうなの!」と初めて知ることが多い。が、NHKエンタープライズの文楽のシリーズDVDはこれまで17セットみてきた。実演を見るのは、先日に続いて二度目。

 とてもおもしろかった。とくに「傾城恋飛脚」の新口村の段はみごとだった。これは、DVDの「冥途の飛脚」に含まれていたものとあらすじはほぼ同じだった。なかなかに泣かせる話。父親の実の息子への愛情が描かれる。

 前半は語りは豊竹睦太夫、三味線は鶴澤清馗、後半は豊竹藤太夫と鶴澤燕三。私はまだ聞く耳を持っていないので、ただ感心して聴いていただけ。人形遣いも見事だと思ったが、もちろん所作について判断する力はない。

 ともあれおもしろかった。今はDVDをみても、ともあれすべておもしろい。もう少し鑑賞力がついてから、いくらかこのブログにも感想を書こうと思う。

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春風亭昇吉独演会 「芝浜」に引き込まれた

 2023年12月6日、渋谷区総合文化センター大和田・伝承ホールで春風亭庄吉の独演会を聴いた。とてもおもしろかった。いや、それ以上に見事な芸だと思った。

 昇吉さんのYOUTUBEで拙著を紹介していただいて以来、師匠の噺を聴きたいと思ってきた。師匠に対して失礼を承知で言わせてもらうと、ぐんぐんと力をつけているのが素人にもよくわかる。私は見たことがないのだが、今や昇吉さんはテレビ番組「プレバト」で大人気とのこと。今日のお客の中にも、落語にはほとんどなじみがなくテレビで昇吉さんのファンになったという方がかなりいそうな気がした。

 春風亭昇りんさんの前座(「前座」という言葉を使っていいのかちょっと不安だが)もとてもおもしろかったが、やはり昇吉さんは一味違う。3つの演目。ひどい宿に泊まる噺(聴いたことはあるような気がするが、タイトルは知らない)と新作と「芝浜」。席を自分で選択したわけではなかったが、最前列の中心に近い席だった。

 初めの二つの演目では、明るく楽しく、軽いノリで話した。スピード感、明るさ、実に見事。ところが、後半の「芝浜」になると、同じ人と思えないほど雰囲気が異なる。着物の色も変えて、舞台に登場したときから人情噺の世界を作り出す。言い換えれば、滑稽話も人情噺も実に達者ということを示してくれている。そのために、このような三演目を選んだのだろう。

 やはり、私は「芝浜」がおもしろかった。人物造形、情景描写も見事。間の取り方、視線などもさすがとしか言いようがない。顔の表情、視線の置き方、細かい息遣いまで計算されつくしているのがよくわかる。私は特に目の表情に圧倒された。目の表情で人物を使い分ける。ぐいぐいと引き込まれた。

 昇吉さんの人情噺はとくに素晴らしい。9月に池袋演芸場で「お初徳兵衛浮名桟橋」を聴いたが、それもしっとりとして見事だった。もっとこの人の人情噺を聴きたいと思った。

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山本顕一先生の講演 私は言葉の力に感銘を受けた

 2023107日、立教大学にて、山本顕一先生を講師とする公開講演会「極北の収容所ラーゲリより来た遺書を胸に—今を生きる人たちへ伝えたいこと—」を聴いた。コーディネーターは立教大学キリスト教教育研究所(JICE)所員で名誉教授の前田一男氏。

 山本先生は、このブログにも何度か書いてきたが、辺見じゅんの名著であるノンフィクション「収容所から来た遺書」で世に知られ、先日公開された映画「ラーゲリより愛を込めて」に主人公として描かれている山本幡男氏の長男にあたる方。中世文学を研究する立教大学名誉教授だ。私は大学院時代、山本先生に教わり(と言っても、就職できなかったために仕方なしに大学院に行ったにすぎないため、まったくもって劣等生だった!)、その後も共通の趣味である音楽を通して、お世話になってきた。

 山本先生は、シベリアに抑留され、その地で亡くなったお父様のこと、そしてお父様へのご自分の気持ちを率直に話された。お父様である山本幡男はハバロフスクに抑留され、そこで文化活動を行い、様々な功績を残しながら喉頭がんに冒されて死去した。遺書を残したが、シベリアでは紙の持ち出しが禁じられていたため、山本を慕う戦友たちが長文の遺書を分担して暗記し、それを帰国後に山本の家族に伝えた。私は辺見じゅんのノンフィクションも読んで感動し、山本先生の書かれた『寒い国のラーゲリで父は死んだ』(バジリコ)も読み、そのあたりの事情はよく知っていたが、誠実な山本先生の生の声で聴くと、改めて感動する。

 辺見じゅんのノンフィクションも映画も戦友たちが暗記して伝えたことによって家族が遺書の内容を知ったことになっているが、実はその前に、シベリアのラーゲリを訪れた社会党の議員が抑留者にこっそりと原本の遺書を渡されて、すでに家族はその内容を読んでいたこと、そして、山本幡男は家庭では怒りっぽくて理不尽に厳しい父親であって、長男である山本顕一先生は父を嫌っていたこと、あまりにりっぱな遺書をもらって、内心、重荷だったこと、しかし、後に届けられた幡男の描いた絵画によって、その初々しい感受性を知って父親の気持ちを理解できるようになったこと。とても感銘を受けた。

 講演の後、98歳のシベリア抑留経験のある西倉さんという方が発言して、当時の苦労を話された。98歳とは思えない元気な声に驚いた。抑留についての語り部をなさっているという。シベリアからの引揚船を受け入れた舞鶴市の引揚記念館に東京から出向いてボランティアの語り部をしている学生さん、舞鶴市在住の語り部の中学生もその活動について語った。舞鶴市の市長さんが市の取り組みを語られた。すべての人の発言に一貫しているテーマは平和の大切さだ。抑留者はまさに理不尽な戦争の犠牲者にほかならない。

 質問者の中に、今年の1月に亡くなった詩人・天澤退二郎氏(通夜には私も列席させていただいた)の夫人である天澤衆子さんがいた。退二郎氏のお父上がシベリア抑留者であること、そして衆子さんのお父様が舞鶴の出身であることが明かされ、そのことが天澤家に大きな力を及ぼしていたことが語られた。私は大学院生のころ、衆子さんとは親しくしていた。どんどんと話題がずれ、いったい何を話しているのかわからなくなる独特の話し方(この方、昔からこんな話し方をしていたが、今は、ますますその傾向が強まっている!)。が、絶妙なところでなんとなく話がまとまる。さすが大詩人の奥様!

 私は、講演を聞きながら、「言葉の大事さ」を改めて感じていた。幡男はロシア語の達人であるためにロシア人との通訳をし、同時にシベリアに抑留されていても日本語を忘れず、日本に誇りを持つために、アムール句会を作り、日本語の壁新聞を書き、文芸活動をする。戦友たちはその幡男の遺書を暗記して、その言葉を家族に伝えようとする。辺見じゅんはそのエピソードを知ってノンフィクションを書き、それを世間に知らせ、多くの人を感動させる。そして、長男の山本先生はフランス文学の権威であり、今講演で感動的な話をしている。多くの人が語り部となって言葉によって抑留の悲惨、戦争の悲惨を語っている。詩人の奥様が独特の言葉によって気持ちを伝える。まさに言葉の力の連鎖! 言葉こそが平和を作り出す!というのが、講演を聞いた私の感想だ。

 天澤夫人と池袋駅までご一緒して帰宅した。

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