文化・芸術

文楽教室で「傾城恋飛脚」の新口村の段をみた

 202312月9日、シアター1010(足立区文化芸術劇場)で、文楽鑑賞教室 / 社会人のための文楽鑑賞教室をみた。演目は「団子売」、そして、文楽の魅力についての解説の後「傾城恋飛脚」の新口村の段。

 実はこのところ文楽に親しんでいる。と言っても、まだ入り口を通り越していない状態で、右も左もわからない。今回の教室も、「へえ、そうなの!」と初めて知ることが多い。が、NHKエンタープライズの文楽のシリーズDVDはこれまで17セットみてきた。実演を見るのは、先日に続いて二度目。

 とてもおもしろかった。とくに「傾城恋飛脚」の新口村の段はみごとだった。これは、DVDの「冥途の飛脚」に含まれていたものとあらすじはほぼ同じだった。なかなかに泣かせる話。父親の実の息子への愛情が描かれる。

 前半は語りは豊竹睦太夫、三味線は鶴澤清馗、後半は豊竹藤太夫と鶴澤燕三。私はまだ聞く耳を持っていないので、ただ感心して聴いていただけ。人形遣いも見事だと思ったが、もちろん所作について判断する力はない。

 ともあれおもしろかった。今はDVDをみても、ともあれすべておもしろい。もう少し鑑賞力がついてから、いくらかこのブログにも感想を書こうと思う。

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春風亭昇吉独演会 「芝浜」に引き込まれた

 2023年12月6日、渋谷区総合文化センター大和田・伝承ホールで春風亭庄吉の独演会を聴いた。とてもおもしろかった。いや、それ以上に見事な芸だと思った。

 昇吉さんのYOUTUBEで拙著を紹介していただいて以来、師匠の噺を聴きたいと思ってきた。師匠に対して失礼を承知で言わせてもらうと、ぐんぐんと力をつけているのが素人にもよくわかる。私は見たことがないのだが、今や昇吉さんはテレビ番組「プレバト」で大人気とのこと。今日のお客の中にも、落語にはほとんどなじみがなくテレビで昇吉さんのファンになったという方がかなりいそうな気がした。

 春風亭昇りんさんの前座(「前座」という言葉を使っていいのかちょっと不安だが)もとてもおもしろかったが、やはり昇吉さんは一味違う。3つの演目。ひどい宿に泊まる噺(聴いたことはあるような気がするが、タイトルは知らない)と新作と「芝浜」。席を自分で選択したわけではなかったが、最前列の中心に近い席だった。

 初めの二つの演目では、明るく楽しく、軽いノリで話した。スピード感、明るさ、実に見事。ところが、後半の「芝浜」になると、同じ人と思えないほど雰囲気が異なる。着物の色も変えて、舞台に登場したときから人情噺の世界を作り出す。言い換えれば、滑稽話も人情噺も実に達者ということを示してくれている。そのために、このような三演目を選んだのだろう。

 やはり、私は「芝浜」がおもしろかった。人物造形、情景描写も見事。間の取り方、視線などもさすがとしか言いようがない。顔の表情、視線の置き方、細かい息遣いまで計算されつくしているのがよくわかる。私は特に目の表情に圧倒された。目の表情で人物を使い分ける。ぐいぐいと引き込まれた。

 昇吉さんの人情噺はとくに素晴らしい。9月に池袋演芸場で「お初徳兵衛浮名桟橋」を聴いたが、それもしっとりとして見事だった。もっとこの人の人情噺を聴きたいと思った。

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山本顕一先生の講演 私は言葉の力に感銘を受けた

 2023107日、立教大学にて、山本顕一先生を講師とする公開講演会「極北の収容所ラーゲリより来た遺書を胸に—今を生きる人たちへ伝えたいこと—」を聴いた。コーディネーターは立教大学キリスト教教育研究所(JICE)所員で名誉教授の前田一男氏。

 山本先生は、このブログにも何度か書いてきたが、辺見じゅんの名著であるノンフィクション「収容所から来た遺書」で世に知られ、先日公開された映画「ラーゲリより愛を込めて」に主人公として描かれている山本幡男氏の長男にあたる方。中世文学を研究する立教大学名誉教授だ。私は大学院時代、山本先生に教わり(と言っても、就職できなかったために仕方なしに大学院に行ったにすぎないため、まったくもって劣等生だった!)、その後も共通の趣味である音楽を通して、お世話になってきた。

 山本先生は、シベリアに抑留され、その地で亡くなったお父様のこと、そしてお父様へのご自分の気持ちを率直に話された。お父様である山本幡男はハバロフスクに抑留され、そこで文化活動を行い、様々な功績を残しながら喉頭がんに冒されて死去した。遺書を残したが、シベリアでは紙の持ち出しが禁じられていたため、山本を慕う戦友たちが長文の遺書を分担して暗記し、それを帰国後に山本の家族に伝えた。私は辺見じゅんのノンフィクションも読んで感動し、山本先生の書かれた『寒い国のラーゲリで父は死んだ』(バジリコ)も読み、そのあたりの事情はよく知っていたが、誠実な山本先生の生の声で聴くと、改めて感動する。

 辺見じゅんのノンフィクションも映画も戦友たちが暗記して伝えたことによって家族が遺書の内容を知ったことになっているが、実はその前に、シベリアのラーゲリを訪れた社会党の議員が抑留者にこっそりと原本の遺書を渡されて、すでに家族はその内容を読んでいたこと、そして、山本幡男は家庭では怒りっぽくて理不尽に厳しい父親であって、長男である山本顕一先生は父を嫌っていたこと、あまりにりっぱな遺書をもらって、内心、重荷だったこと、しかし、後に届けられた幡男の描いた絵画によって、その初々しい感受性を知って父親の気持ちを理解できるようになったこと。とても感銘を受けた。

 講演の後、98歳のシベリア抑留経験のある西倉さんという方が発言して、当時の苦労を話された。98歳とは思えない元気な声に驚いた。抑留についての語り部をなさっているという。シベリアからの引揚船を受け入れた舞鶴市の引揚記念館に東京から出向いてボランティアの語り部をしている学生さん、舞鶴市在住の語り部の中学生もその活動について語った。舞鶴市の市長さんが市の取り組みを語られた。すべての人の発言に一貫しているテーマは平和の大切さだ。抑留者はまさに理不尽な戦争の犠牲者にほかならない。

 質問者の中に、今年の1月に亡くなった詩人・天澤退二郎氏(通夜には私も列席させていただいた)の夫人である天澤衆子さんがいた。退二郎氏のお父上がシベリア抑留者であること、そして衆子さんのお父様が舞鶴の出身であることが明かされ、そのことが天澤家に大きな力を及ぼしていたことが語られた。私は大学院生のころ、衆子さんとは親しくしていた。どんどんと話題がずれ、いったい何を話しているのかわからなくなる独特の話し方(この方、昔からこんな話し方をしていたが、今は、ますますその傾向が強まっている!)。が、絶妙なところでなんとなく話がまとまる。さすが大詩人の奥様!

 私は、講演を聞きながら、「言葉の大事さ」を改めて感じていた。幡男はロシア語の達人であるためにロシア人との通訳をし、同時にシベリアに抑留されていても日本語を忘れず、日本に誇りを持つために、アムール句会を作り、日本語の壁新聞を書き、文芸活動をする。戦友たちはその幡男の遺書を暗記して、その言葉を家族に伝えようとする。辺見じゅんはそのエピソードを知ってノンフィクションを書き、それを世間に知らせ、多くの人を感動させる。そして、長男の山本先生はフランス文学の権威であり、今講演で感動的な話をしている。多くの人が語り部となって言葉によって抑留の悲惨、戦争の悲惨を語っている。詩人の奥様が独特の言葉によって気持ちを伝える。まさに言葉の力の連鎖! 言葉こそが平和を作り出す!というのが、講演を聞いた私の感想だ。

 天澤夫人と池袋駅までご一緒して帰宅した。

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文楽「曽根崎心中」をみた 初心者の感想

 2023914日、国立劇場小劇場にて、初代国立劇場さよなら公演、文楽「曾根崎心中」、生玉社前の段、天満屋の段、天神森の段をみた。

 文楽を見るのは生まれて初めて。そもそも国立劇場に来たのも、1972年(だったと思う)以来、二度目。だからまったくの初心者。これまで何人もから、「きっとオペラ好きの樋口さんなら文楽が好きになるよ」と言われてきたが、今回、友人に誘われて、国立劇場さよなら公演でやっと重い腰を上げた。

「曽根崎心中」は、昔々、映画で見たことがある程度。そして、数日前、たまたま春風亭昇吉さんの落語で「曽根崎心中」を題材にとった「お初徳兵衛浮名桟橋」をきいたくらい。あらすじだけ予習をして、幕が開く直前に床本に目を通しただけで本番に臨んだ。

 私に鑑賞する能力があるかどうかひやひやしていたが、まあまあ太夫の語りも聞き取ることができ、わかりにくいところは字幕で補って、とてもおもしろく観ることができた。

 あまりに初心者の感想で恥ずかしい限りだが、まずはほんのちょっとした動きで人形が感情を持った人間になるのにびっくり! 首のちょっとした動き、手の動きで、感情が伝わる。それが様式美になっている! しかも、手ぬぐいを持ったり、喧嘩をしたりといった所作が実にうまくできている! せりふを持たない脇役までもが生き生きとした動きをして舞台を活気づけている。

 太夫の語りと三味線も、確かにオペラほどには精緻ではないが、見事にドラマを盛り上げる。お初の足もとで徳兵衛がお初の気持ちを理解する場面、下女の火打石に合わせて心中を決意した二人が天満屋を出る場面の音楽的高まりは素晴らしい。道行の場面もなかなかに泣かせる。

 台本は基本的に近松のものだろうが、やはりとてもよくできている。下女の登場など、まさに出色! ただ、現代の法治国家に生きる人間としては、後で考えれば、「心中しなくても、ほかに解決手段はいくらでもあるだろうに」とか、「死んでしまうくらいだったら、けしからん九平次をやっつけに行けばよかろう」などと思うのだが、人形の所作を見て、江戸の世界に入り込んでいる間はそのような疑問は起こらない。いやそもそも、お初の心の中には死への憧れがあるのだろう。死によって自らの生を浄化しようという意識なのだろう。

 まったくの初心者なので、もしかしたらまったくの的外れかもしれないが、そのようなことを考えながら文楽をみた。というか、初心者であるから、このくらいのことしか考えることができなかった。が、ともあれ、とても楽しかったから、これで満足。

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鈴本演芸場で笑い転げた!

 2023815日、鈴本演芸場で寄席をみた。納涼名選会鈴本夏祭り。久しぶりの寄席。とてもおもしろかった。楽しめた。特に印象に残ったものについて感想を書く。

 柳家やなぎは若い噺家で、私は初めて名前を知った。新作落語。とてもおもしろい。間の取り方がとてもいい。北海道に久しぶりに帰郷して友人と出会う話。笑わせながら、しんみりさせる。

 古今亭菊之丞は「短命」。美人の婿養子に入って短命に終わった三人の男性の話。軽妙で流れるような語り口で、喚起力が素晴らしい。いや、語り口だけでなく、身のこなしも実に洗練されている。

 柳家喬太郎は新作。夫婦の会話を題材に、まさに自由に語る。知的で余裕のある語り口がまさに絶妙。素晴らしい!

 春風亭一之輔の評判は聞いていたが、落語は今回、初めて聴いた。「天狗裁き」。50年ほど前に聞いた小三治の「小言念仏」を思い出した。あの頃の小三治は、めっぽううまかったが、落語的なデフォルメがちょっと鋭角的というか、リアルすぎるというか、とぼけた雰囲気が多少不足して、それがまた一つの魅力でもあった。一之輔についても、ちょっと語気の強さがあって同じような雰囲気を感じた。が、評判通り凄いと思った。鮮明に状況が見えてくる。

 江戸家猫八のものまねは先々代、先代と寄席で聞いたが、初めて鶯の声を聴いた先々代(つまり、「お笑い三人組」でテレビの人気者になったあの江戸家猫八)の衝撃を今も忘れない。グルベローヴァのツェルビネッタを初めて文化会館で聴いた時と同じくらいの衝撃だった! 1970年の末広亭だったが、会場中に澄み切った音が響き渡った。それに比べると、ちょっと劣るかなと思ったが、さすがの芸!

 柳家さん喬は「船徳」。さん喬については、10年以上前の映像を何本か見たことがあるが、年齢とともに魅力を増したのを感じた。静かに語り始めて徐々に観客を世界に引き込む力はさすが。船頭の動き、客たちの様子もうまく描き分けていると思った。

 トリは柳家権太楼の「へっつい幽霊」。この人についても、私は昔は、空騒ぎが気になったが、今はそれも魅力になっている。大笑いした。ただ、私が話についていけなかったのかもしれないが、途中、だれが語っているのかあいまいになって状況が見えなくなるところがあった。

 全体的には、一線にいる噺家たちを聴くことができて、とても満足。私は、1970年代、新宿の末広亭に通っていたが、これほどのレベルのものを見ると、また再開したくなる。

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劇団四季の「ハムレット」のこと

 610日、浜松町の自由劇場で、わけあって、浅利慶太演出、劇団四季の「ハムレット」をみてきた。劇団四季というと今では誰もがミュージカルと思うようだが、これはいわゆる「新劇」。オフィーリアの歌やちょっとした舞台音楽はつくが、基本的には音楽はない。

 一言でいって、とてもおもしろかった。もちろん、「ハムレット」の戯曲は何度も読んだ。映画も、ローレンス・オリヴィエのものや、スモクトウノフスキーのソ連映画を、これも何度か見た記憶がある。が、舞台は初めてだった。

 こんなことをいうのは恥ずかしいが、改めてシェークスピアの言葉の見事さ、福田恒存の日本語の格調高さに圧倒された。俳優一人一人の声がはっきりと聞き取れることにも驚いた。簡素な装置ながら、しっかりとハムレットの時代を映し出していた。

 芝居を基本的に見ない私が、最後に見たシェークスピア劇は、四十年ほど前、それこそ劇団四季の「アントニーとクレオパトラ」だったと記憶する。忘れもしない、大分文化会館での公演だった。そのときも、日下武史さんが主要な役を演じていたように思う。日下さんは、テレビ創成期の「アンタッチャブル」のエリオット・ネスの吹き替えでも、あるいは味のある脇役でも、若かった私の憧れの存在だった。今回、墓守り役に日下さんが出てきたので、びっくり。さすがに昔のようなきれのよい演技ではなかったが、あいかわらずの軽妙な味がおもしろかった。

 そのほか、クローディアスの志村要、ホレイショーの深水隆司(ダブルキャストだったが、きっとこの人だったと思う)にとりわけ感銘を受けた。ハムレットの田邊真也もよかった。ちょっとオフィーリア(野村玲子)の「かまとと」っぽさには、やりすぎの思いを抱いた。が、もちろん、これらは芝居初心者の勝手な思いなので、それが芝居通と一致するかどうかは、かなり怪しい。

 そのほか、考えるところはたくさんあった。もしかしたら、あまりに初歩的な感想かもしれないが・・・

 私は、オペラの類の上演は、年間、20本くらいは見るだろう。映画も、これまで間違いなく数千本見ているだろう。私は文学部の演劇学科出身だ。専門は映画学だった。

 そんな私が芝居を見ないのは、そのあり方そのものに違和感を覚えるためだ。オペラは音楽がつき、登場人物が歌を歌うのだから、初めから「現実」ではない。映画は、基本的にはスクリーンの中の「現実」を覗き見るものだ。だから、ともにそれほどの違和感はない。

 ところが、舞台は、生身の人間が目の前にいて、しかも、現実ではありえないような発声で言葉を発する。しかも、シェークスピア劇などでは、台詞の中には、しばしば西洋人の名前や西洋的な考え方が続出する。そうなると、目の前の世界が「現実」なのかどうか、どのようなつもりでこれを見ればよいのか、私としてはわからなくなる。居心地が悪くなってしまう。今回も、このような違和感を拭いさることができなかった。

 そして、もう一つ強く感じたこと。それは日本語の問題だ。

 芝居においては、役者は観客に声が通るように大声で話をする必要がある。劇団四季の役者さんたちの発声の見事さにはまさしく驚嘆した。だが、日本語では、強弱のアクセントではなく、高低の抑揚によって言葉が成り立っている。そうなると、すべての登場人物がずっと同じ声の大きさ、同じ発声で話すことになる。

 数十年間、舞台といえばオペラばかりを見てきた人間には、これがどうしても気になる。ピアニシモでつぶやくところがない。すべてがフォルテで語られる。一つ一つの台詞ものっぺりしてしまう。すべての人物が同じ口調で同じフォルテで語る。人物によって言葉の雰囲気の違いがない。オペラであれば、登場人物によって持っている音楽が異なるのだが、それが一様だ。

 

 そのせいもあるのかもしれないが、ハムレットとホレイショーとレイアーティーズが、ほとんど同じ台詞を同じ調子で語っているように思われてしまう。「一人一人もっと異なった音楽がほしい」と思ってしまう。とりわけ、ポローニアスはもっと道化じみた音楽が必要なのではないか。そんな思いをずっと抱いていた。

 もちろん、これは劇団四季の問題ではなく、日本語で「新劇」を上演する場合の、一つの宿命なのかもしれない。

 が、もちろん、いうまでもなく、これは、ふだんオペラしか見ない人間の勝手な違和感でしかない。むしろオペラに激しい違和感を覚える人のほうが多いのだろう。そして、芝居を見るうちに、慣れてきて、そのような違和感を覚えなくなるのだろう。私自身、オペラを見始めたころ、しばしば歌で台詞を語ることの違和感、日本人が西洋人を演じることの違和感を覚えたものだった。み続けているうち、それがほとんどなくなった(今でも、たまにそれを感じる上演はあるが)。それと同じことだと思う。

 そうしたことを承知の上で、私の感じたままを書いてみた。

 

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