文化・芸術

文楽「仮名手本忠臣蔵」を楽しんだ

 2026913日、江東区文化センターホールで、国立劇場文楽鑑賞教室、大人のための文楽入門(Aプログラム)をみた。途中で、「文楽の魅力」(竹本小住太夫、野澤錦吾、桐竹勘次郎)という、初心者にもとてもわかりやすくい解説が入って、上演された演目は、人形浄瑠璃「二人三番叟」と「仮名手本忠臣蔵」より山崎街道出合いの段・二つ玉の段・身売りの段・早野勘平腹切の段。

 私はまったくの初心者だが、これまで数回文楽に触れて、その魅力はだんだんとわかってきた。

「二人三番叟」は祝賀の際に上演される舞と音楽の出し物。私もこれまで何度か味わったことがある。私の席は三味線が真正面に見えるところだったので、ほとんど初めて三人の三味線の「合奏」を目の当たりにした。調弦をしたり、転調をしたりといった所作がとても興味深かった。「文楽の魅力」の時間に説明があったこともあって、人形の動きと三味線の音の関連がよくわかった。

 休憩後の「仮名手本忠臣蔵」は、討ち入りに参加できなかった悲劇の人物である早野勘平を主人公とするいくつかの段だ。有名な場面なので、初心者の私もこれまで映像や実演で何度か観たことがある。リアルな演劇でこのような悲劇を目にするとやりきれない気持ちになりそうだが、太夫の語りと人形の所作なので、抽象化されたエッセンスとして観ることができる。

「山崎街道出合いの段」は豊竹亘太夫と鶴澤清公、「二つ玉の段」は豊竹芳穂太夫と竹澤團吾、「身売りの段」は豊竹希太夫と鶴澤寛太郎、「早野勘平腹切の段」は竹本織大夫と鶴澤藤蔵。早野寛平の人形は吉田玉助、おかるは桐竹紋臣、与一の女房を吉田蓑二郎。

 すべてにおいて感心するばかり! 人形の動きのすべてに感服する。勘平の嘆きの動き、切腹の所作、与一の女房の怒りと無念、悪役・定九郎の動きなどなど。それを描く三味線もぴたりと寄り添う。三味線からは舞台上の人形は見えていない様子なのに心の動きの一つ一つを描いていく。

 そして、やはり私の耳は太夫の語りを追いかける。語りのすべての人のうまさに驚いたが、やはり私は最後の段の竹本織大夫の声の振幅の大きい語りに惹かれた。リアルな人間の会話とはかけ離れた語りなのだが、そうであるだけに様式にのっとって虚構世界を作り上げ、そこに独特のリアリティを付け加える。これを「味」というのだろう。

 おそらく、通と呼ばれる人の1パーセントほどしか味わっていないと思うが、ともあれ文楽の世界に入り込んだ。「うーん、勘平かわいそう!」「早まらなければいいのに!」「主君への思いを立てると、こうせざるを得ないんだろうなあ!」などという、あまりにうぶな気持ちを抱きながら、登場人物たちのそれぞれの義理人情と板挟みを感じつつ、ともあれ文楽を楽しんだ。

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女流義太夫若手演奏会を聴いた

 202691日、上野広小路亭で女流義太夫若手演奏会を聴いた。演目は、「生写朝顔話」大井川の段(浄瑠璃・竹本京之助、三味線・鶴澤弥々)、「伽羅先代萩」御殿の段(浄瑠璃・竹本佳之助、三味線・鶴澤津賀花)、「一谷嫰軍記」須磨浦の段(浄瑠璃・竹本越若、三味線・鶴澤朔弥)、「一谷嫰軍記」組討の段(浄瑠璃・竹本越京、三味線・鶴澤駒治)。

 私は義太夫についてはまったくの初心者であって、右も左もわからない。ただ、誘ってくれる人がいて、一度行ってみたら、これがなかなかおもしろい。そんなわけで、わからないながら聴いて、それなりに楽しんでいる。

 今回、やっと三味線に耳がいくようになり、それぞれの演者の魅力がわかりかけてきたような気がした。まだ人様にそれを口にできるような状態ではないので、ここには書かないが、ともあれ、きわめて知的で、優雅なところとぴしりと決まる見事さ、きりりとしてドラマティックな表現のすばらしさ、おおらかな大胆さ、ドラマティックな表現力に惹かれて聴いた。

 語りについては、竹本京之助は元気な声によるリアルな語りがとても良かった。竹本越若はかなり個性的なのだと思う。ドラマティックでリアルな表現が見事で、ぐいぐいと聞き手をひきつける。地の語りの部分も目に見えるようにリアルで、登場人物のセリフの部分も語りわけられている。竹本越京は、声の不安定なところがあったが、戦いの場面をリアルに再現してくれた。

 もう少し耳が肥えてくればもっと聴き分けられるようになり、もっと楽しめるようになるだろうと思うが、まだだいぶ時間がかかりそうだ。

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空海と真言の名宝

 2026818日、東京国立博物館平成館で「空海と真言の名宝」をみた。

 もちろん、ほんの表面をかすっただけだが、60年近く前から仏教にはそれなりの関心を寄せてきた。とりわけ、空海についてはひところ何冊か本を読んだことがある。今回の展覧会は大規模で、秘仏もたくさん集められているという。ともあれ、足を運んだ。

 が、炎天下、正午頃に会場に到着すると、入口の手前で大きな行列ができていた。私の前に200300人くらいは並んでいただろう。思ったよりはすんなりと入場できたが、中は猛烈な人込みだった。人気の絵画や仏像の前には人だかりができて、先に進めない。近くにいた高齢女性がお仲間に「パンダと時と同じくらいの行列ね」と言っていたが、きっとその通りだと思う(私は、今まで一度もパンダをみたことはないが)。ラッシュ時の新宿駅の構内並みといえるほどの混雑だった。

 そんなわけでゆっくり見られなかったとはいえ、目を見張るような宝が並べられていた! 冊子や曼荼羅図、空海の手になる文章、屏風、そして、仏画、仏像。あまりに人が多いので、説明書きが見えない。人だかりの後ろについて、少しずつ前の人が減っていくのを待つ。重点を決めて、私に関心のある仏像を中心にみた。

 順路に沿って歩き、最初に目を引いたのは、快慶作の執金剛神立像と深沙大将立像だった。動きがあって荒々しい。次には、聖観音菩薩・梵天・帝釈天立像から成る、いわゆる二間観音。東寺の秘宝だとのこと。ケースに入れられた小さな3体だが、青い髪、穏やかな顔、そして緻密な模様の入ったくすんだ金色の袈裟が美しい。二十人くらいが取り巻く中、しばらくしてやっと前に法に行けて、みることができた。

 奈良の長谷寺の十一面観音、香川の善通寺の吉祥天立像、兵庫の須磨時の十一面観音像、大門寺の如意輪観音像、観菩提寺の十一面観音像にも目を見張った。いずれも神々しさにうっとりしたり、存在感に圧倒されたり、厳かな美に感動したり。

 よくぞこれほどの至宝がここに集まったものだと思った。ただ、繰り返すが、こんなにごった返していると、ゆっくり鑑賞できない。信仰の気持ちを抱くこともできない。もちろん、私も混雑を作り出している一人に違いないのだが、もう少しゆっくりと、静かな環境で見たいものだと強く思う。もう一度、見に行きたいと思っているが、きっと混雑が続くのだろう・・・。

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女流義太夫のこと クルドのこと

 202677日、蕨市立文化ホールくるるで女流義太夫を聴いた。初めに、鶴澤津賀佳によるレクチャーがあり、「生写朝顔話(しょううつしあさがおばなし)」の「明石船別れの段」(浄瑠璃:竹本京之助、三味線:鶴澤弥々、琴:鶴澤朔弥)、(こいにょうぼうそめわけたづな)」の「道中双六の段」(浄瑠璃:竹本綾一、竹本越里、三味線:鶴澤津賀寿、鶴澤津賀榮、鶴澤三響)。

 私は義太夫初心者につき、専門的なことはまったくわからない。初めのレクチャーで三味線の役割について説明を受け、なるほどと納得。ふだんは義太夫の語りのほうに耳が行く私も、三味線を意識することができた。

 「生写朝顔話」は、文楽でも鑑賞したことがあり、DVDでもみたことがあるのでストーリーはしっかりと頭に入った。要するに、宇治川で恋に陥った後、別れ別れになっていた男女が明石の浦で再会しながらも、またも離れ離れになる。三味線が船の動き、河の動き、登場人物の心の動きを音によって描いているらしいことに気づいた。鶴澤弥々の三味線は時に鋭く、時に叙情的。西洋音楽に比べるとあまりに少ない音なのだが、これによってこれだけの情景や感情を作り出しているのだと再認識できた。

「恋女房染分手綱」は、輿入れのために東国に行くのを嫌がっている幼い姫君が双六で気を紛らせて江戸に向かう話。語りも三味線も複数人で、物語の登場人物も大勢いる。周囲の人々の混乱がこの話の面白いところだと思うが、残念ながら竹本綾一の語りでは、人物の語りわけがはっきりしなくて、あまり状況が頭に浮かばなかった。その分、こちらも鶴澤津賀寿、鶴澤津賀榮、鶴澤三響がみごとで、馬方が急ぎ足になり、宿場が次々と過ぎていく部分の描写などとてもおもしろかった。前半のアダージョからアンダンテになり、最後にはアレグロ・ヴィヴァーチェになっていくとでもいうか。鶴澤津賀寿は人間国宝だとのこと。三人とも、三味線がくっきりとした音を出しているのを感じた。

 ただ、まだまだ修行不足。語りも聞き取れないし、三味線を味わう段階には達していない。もっと聴いていくうちに、理解が深まっていくだろう。

 終了後、せっかくクルド問題で名高い蕨市に来たので、トルコ・クルド料理の店で早い夕食をとった。なかなかおいしかった。私はクルド人のよき理解者というわけではないが、バフマン・ゴバディ監督のあまりに詩的な映画をみた人間としては、クルド人の文化に敬意を抱かずにはいられない。そして、川口、蕨が平和な共存を実現できることを願っている。

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ワイエス展2026

 東京都美術館でワイエス展をみた。

 ワイエスは、美術にさほど関心がなく、画集などほとんど持っていない私が、画集を所有している数少ない好きな画家の一人だ。とはいえ、実は恥ずかしながら、実物を見たことがなかった。しばらく前から気になっていたが、時間が取れたので上野まで足を延ばした。

 期待通りの素晴らしい絵たちだった。美術に疎い私は、ただ見て「いいなあ」と思うだけでそれ以上に語る言葉を持たないのだが、みればみるほどに心惹かれる。

 3つの階に別れて展示されていた。とてもわかりやすいわけ方だと思った。階を上ると明らかに雰囲気が変わる。LB階は、まるでフェルメールのような静謐な世界。人物はほとんど登場せず、建物、石、草木、小動物が描かれる。圧倒的なモノの質感に惹かれる。微細で緻密。この上なくリアルだが、リアルを超えて形而上学的に感じる。人間を拒絶した物質の世界だと思った。

 1階にはオルソン・ハウスを描く絵画が展示されていた。今回の展覧会の中心になっている「クリスティーナ・オルソン」があった。ドアの横に座って外を見るクリスティーナが描かれている。髪が風になびいている。ドア、髪の毛、肌、衣服、草木の質感が素晴らしい。そして、何よりも感じるのは、「風」だ。

 そう、LB階は人が不在で、風のない世界だった。静謐な「存在」の世界だった。ところが、1階には人物が登場し、外から風が吹いている! ワイエスの静かなモノの世界に外からの風が吹き出したのだと思った。その風がクリスティーナとその弟のアルヴァロだったのだろう。ワイエスの人生についても、私は深く知っているわけではないが、きっと孤独な世界に、オルソン姉弟という心許せる人物が登場したのだろうと思った。

 1階の絵は、圧倒的な質感を持ちながらも、そこに人物が登場する。人が描かれていなくても、人の気配がある。外からの光や風がある。実をいうと、私の個人的な好みからすると、LB階の人物不在の絵のほうが好きなのだが、この階の絵も凄いと思った。

 2階に上ったとたんに、正直言って、あまり惹かれない絵が続いた。1980年代に描かれたものらしい。ワイエス60歳前後(私よりずっと若い!)。絶頂期は終えたのかもしれない。ただ、その先に1950年代、60年代の「ゼラニウム」「氷塊」「薄氷」の傑作群があった。この氷や表現には息を飲む。光と影と色彩による自然の質感! 

 今回のワイエス展のテーマは「境界」だという。残念ながら、私にはこれらの絵から「境界」というテーマはまったく読み取れなかった。解説に記載されていた「境界」に関する記述も私にはこじつけや拡大解釈に思えて、説得力を感じなかった。私の鑑賞力不足、知識不足なのかもしれないが、もう少し私にも納得いくように「境界」を感じさせてほしかったと思った。

 美術に疎い私の感想なので、まったくの的外れなのかもしれないが、ともあれ私はとても大きなものをワイエスの絵から得た気がしたのだった。

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文楽「生写朝顔話」 桐竹勘十郎の人形の表現が絶妙!

 2026515日、シアター1010で国立劇場文楽公演を見た。国立劇場が建て替え中、ほかの劇場で公演が行われている。いつまでも国立劇場の再開場のめどが立たないとのこと。日本の古典芸能については壊滅的なことだと思われる。早急な対応が必要だと、日本芸能の部外者の私も強く思う。

 みたのは、第二部、通し狂言「生写朝顔話(しょううつしあさがおばなし)」から、「薬売りの段」「浜松小屋の段」「嶋田宿笑い薬の段」「宿屋の段」「大井川の段」。

 私は日本の古典芸能に、ごく最近になって関心を寄せているだけの、まったくの初心者。ただ、「生写朝顔話」については、いくつかの場面をNHK発売のDVDで見たことがあったので、油断していたのだが、やはり字幕なしで太夫の語りを聞いても、セリフの部分はともかく、地の部分は聞き取れない。自分の教養不足を痛感。とはいえ、ともあれ、ストーリーにはついていける。そして、通の方とは比べようもないが、十分に楽しんでみることはできる。

 まだ私は人形遣いや太夫、三味線の巧拙については語れない。ただ、人形遣いについては常に圧倒され、語りについては、素晴らしいと思ってほれぼれすることがある。あまりよろしくないのではないかと思うこともある。特に私は語りの音程の不安定さが気になる。日本芸能の世界ではそのような言葉は使わないようだが。三味線の叙情や見事なタイミングでの音の破裂に心打たれることもある。

「生写朝顔話」のストーリーはきわめて荒唐無稽。「いくらなんでもそんなことはあり得ないだろ!」「こんなストーリー展開は、ご都合主義も甚だしい!」「そんなとんでもないことをしなくても、もっと簡単で害のない解決法がいくらでもあるだろうに!」と思うところがたくさんある。ただし、まあ、オペラ好きの私は荒唐無稽なストーリーには慣れっこなので、ムズムズしながらも許容できる。

 今回、「浜松小屋の段」の最後、深雪と死にゆく浅香のやり取りの部分にはぐっと来た。そして、「宿屋の段」の後半、琴を弾いた後の深雪に寄り添う下女お鍋の表情も素晴らしいと思った。

 が、やはり圧巻だったのは「嶋田宿笑い薬の段」の茶をたてる時と笑い薬を飲んでしまって笑い転げる場面。竹本千歳太夫の笑いもすごいと思ったが、なんといっても桐竹勘十郎の人形の表現が絶妙! 真面目腐って茶をたてるが、実は粋人でもなく、しびれ薬を入れようとする悪意が見え透いてぎくしゃくするさま、そして、すり替えられた笑い薬を飲んで、笑い転げるさま。多くの人の笑いを誘っていたが、まさに絶妙。リアルと抽象化のバランスなのだろう。文楽というのはものすごい芸能だと思った。

 そのほか、深雪が琴を弾く場面も、人形がちゃんと琴を弾いている! これも驚きだった。ちゃんとほとんど正しい音が出ているように思えた。

 まだ初心者だが、このようなものを見ると、文楽にひきつけられていく。

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能「弱法師」 生まれて初めて「能」に感動した!

 2026417日、4月国立能楽堂ショーケース、狂言「引括」と能「弱法師」をみた。

 日本の古典芸能については、私は右も左もわからない素人だ。誘ってくれる人がいて、現在、第一歩を踏み出しているところ。国立能楽堂で、ショーケースと称して素人向けのプレトークとわかりやすい演目を見せてくれているとのことで、出かけた。

 狂言「引括(ひっくくり)」は、したたかで口うるさい妻に嫌気がさした夫が、妻を実家に帰らせ、そのまま離縁してしまおうと考え、離婚証明代わりに、妻に家にある好きなものを持って行かせようとする・・・という話。なかなか面白い話だった。いろいろな解釈が可能だろうが、ともあれ夫婦の腐れ縁のようなものを私は感じた。演者たちの腰のすわった歩き方、しっかりと間を取ったセリフ回しに感心。女性を演じていても、男性が声を作らず、そのまま男の声で語るのも新鮮。まったく違和感がない。演じている中心は、三宅近成(和泉流)とのこと。

 能「弱法師(よろぼし)」は、讒言を信じた父に追い出されて、盲目になり、弱法師と呼ばれてよろよろと歩いて乞食をする俊徳丸が、天王寺で父と出会い、救われる話。無知な私は、この話をまったく知らなかったが、三島由紀夫が「近代能楽集」でも扱っているので、かなり有名らしい。

 私はヨーロッパの文学、音楽、映画に親しんできたので、どうしてもその方向から考えてしまう。私は、この能の作り出すドラマは「すべてが一致する時空間」から成り立っていると思った。

 俊徳丸は、天王寺で春の彼岸の中日、過去にいきさつのあった父と再会する。そして、盲目になる前に見た光景と現在の雰囲気を重ね合わせ、実際には目には見えない光景をありありと感じる。そして、天王寺の西門、つまりは極楽浄土の東門に向かって歩く。ここでは、過去(目が見えていた幸せな時期)と現在(盲目になった現在)、記憶の中の幻視と現実、現実世界と浄土が重なり合う。しかも、彼岸の日であって、真東から太陽が出て、西に沈む日。いわば、この特別の日に、すべてが一致する時空間の特別の「点」が作り出され、そこで親子の再会という奇跡が起こるわけだ。静的な舞台の中、数少ない人物の動き、セリフ、鼓の音、掛け声などによってドラマがそこに集中して盛り上がっていく。見事だと思った。まさに凝縮された舞台世界! 初めて能に感動した。出演は岡庭祥大(観世流)を中心にした方々だとのこと。

 文楽も能もなかなかおもしろい!

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女流義太夫を楽しんだ

 2026125日、なかの芸能小劇場で、女流の義太夫節演奏会を聴いた。誘ってくれる方がおられて、近年、文楽や義太夫に関心を持ち始めている。まったくの初心者だが、それはそれで楽しんでいる。

 演目は「恋娘昔八丈」鈴ヶ森の段(浄瑠璃:竹本越里、三味線:鶴澤弥々)、「由良湊千軒長者」山別れの段 (浄瑠璃:竹本佳之助、三味線:鶴澤賀寿)、「傾城恋飛脚」新口村の段(浄瑠璃:竹本京之助、三味線:鶴澤津賀花)、「新版歌祭文」野崎村の段(浄瑠璃:竹本土佐子、三味線:鶴澤三寿々、ツレ:鶴澤三響)。

 義太夫を聴くのは3回目だったと思うが、やっと三味線に耳が行き始めた。これまでは太夫の語りにしか耳が届かなかった。専門的なことはまったくわからないので、どう語っていいかわからないのだが、三味線が、まさにオペラにおけるオーケストラのように、太夫の語りを彩り、そこにアクセントや陰影をつけ、言葉では表現し得ない心を描くのをいくぶん理解できるようになった。三味線に西洋音楽で言われるようなメロディがあるわけではなく、むしろワーグナーの楽劇(歌劇ではなく、楽劇)のオーケストラと同じように、音による意味空間を作り上げる。それをたった3本の弦で、しかも和音もなく、西洋的な意味での楽譜がないのにやってのける。驚くべきことだ。「新版歌祭文」の最後のほうで、三味線が2本になっていっそう重層的になり、西洋音楽で言われるような転調がたびたびなされて、圧巻だった。

 高校卒業以来(つまり、半世紀以上前から!)、いわゆる「古文」にまったく触れていない私に語りを聴きとれるわけではなく、たびたび配布された床本に目を落として確認しなければならないが、4つの演目のストーリーもおもしろかった。竹本京之助の張りのある声による人物のキャラクターの語り分けもよかったし、竹本土佐子の味のある語りも見事だった。

 ただ、日本芸能に対する教養がないので、しっかりと理解してみることができないのが悔しい・・・。

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2006年新春 鈴本演芸場で寄席を楽しんだ

 2026年になった。

 このトシになると、大それた夢を持つこともなく、今年の目標を掲げることもない。まあ、ともあれ私の周りに不幸がなく、不快ができるだけ少なく生きていければよいと思う。そして、できればよい音楽、良い芸術に出会い、旅を楽しみたい。そして、このご時世を考えるに、世界平和、日本の平和が続くことを切に祈りたくなる(このブログには書かないことにしているが、私は民主主義の未来に大いなる危惧を抱いている!)。

 そんな中、今日、13日、上野に出かけて、鈴本演芸場で新春爆笑特別興行をみた。とても楽しめた。次々と芸人さんが現れ、次々と笑いをまき散らしていく。ちょっと芸の不足を感じる若手もいないではないが、それも含めてとても楽しい。帰宅後、プログラムで確認したところ、伊藤夢葉のマジック、岡大介のカンカラ三線、米粒写経の漫才、林家八楽の紙切り、カンジヤマ・マイムのパントマイム、柳家花飛、三遊亭鬼丸、三遊亭律歌、柳亭左龍、林家たけ平、柳家小里ん、柳家喬太郎、春風亭一之輔の落語をみたようだ。トリを務めるはずだった柳家さん喬が急病のため、春風亭一之輔がトリにまわり、代わりに喬太郎が出演したのだった。

 圧倒的に柳家喬太郎と春風亭一之輔がおもしろかった。喬太郎は「ウルトラマン落語」というべきもの。ウルトラマンについての薀蓄を落語のパターンに混ぜて語る。これが最高におかしい。私は、もちろんウルトラマンのテレビ番組はそこそこみていたが、ウルトラマン・ファンではなく、ウルトラマンに対してまったく思い入れはない。が、ナンセンスな喋りに笑いまくった! スピードに乗って畳みかける笑いの渦に飲まれた。

 一之輔の演目は「加賀千代」。女房に尻を叩かれて、ご隠居さんに20円を借りにいった間抜けな男の話。映像が浮かび、登場人物のキャラクターが明確で、しかも、毒気があり、しゃれっ気がありながら、きびきびと話を運ぶ。すごい! 涙が出るほど笑った。

 学生時代の一時期(つまり1970年代)、月に一、二度は新宿の末廣亭で寄席を楽しんだ。ホール落語にも通った。円生、小さん、小三治、志ん朝、馬生、談志、三平ら、今から考えると綺羅星のような名人たちの噺を聴いた。当時に比べると、今はかなり地味な時期ではあるが、やはり寄席は楽しい。充実した正月の3日だった。

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文楽鑑賞教室 「国性爺合戦」にも国立劇場閉鎖の影響?

 202512月6日、東京芸術劇場プレイハウスで「国立劇場第57回文楽鑑賞教室・大人のための文楽入門」(Bプロ)を鑑賞した。日本の古典芸能に疎い私だったが、知人の導きでたまに文楽を楽しんでいる(能、歌舞伎はまだ楽しめる段階に達していない)。とはいえ、もちろんまだ入門段階。本来、国立劇場で行われていたこの文楽教室が、今、国立劇場閉鎖のため、あちこちの劇場を借りる形で行われているということらしい。

 この日の演目は、「万才」と「国性爺合戦」の「楼門の段・甘輝館の段・紅流しより獅子が城の段」。それに解説がつく。

「万才」は、太夫と才蔵の二人組が新春のお祝いの言葉を述べて舞を披露する舞踏劇。ストーリーがないので、右も左もわからない私としては、人形の動きの微妙さに感嘆し、音楽(太夫の語りと三味線)がそれに合っていることを楽しむくらいのことしかできない。

「国性爺合戦」はDVDで観たことがあったので、演目自体にはなじみがある。ほかの文楽の演目と違って、あまりにスケールの大きな途方もない話で、ハリウッドの大冒険映画を見るような面白さを感じたので、今回も楽しみにしていた。

 多くのところで大いに感心してみたし、おもしろいと思ったのだったが、実はあまりに途方もない話なので、納得してみることができず、少々退屈して、居眠りしたところがあったと思う。ミステリー好きの私(このブログには書いていないが、私はミステリー小説をかなり読んでいるし、テレビで見るドラマの大半がミステリーもの!)としては、登場人物の行動の動機の曖昧さ、整合性のなさが気になって仕方がない。文楽をリアルに考えるのは野暮とは思いながら、登場人物の行動に納得できないと感情移入できない。

 あとで、文楽に詳しい方と話したところ、虎退治などの場面が省略されて、後半の段だけを取り出したために、この作品の荒唐無稽さがきわだってしまったのではないかという。なるほど。前半で、「これは荒唐無稽な世界を描いているのです!」ということをわからせておいてこそ、観客は違和感なく後半を受け入れることができる。それがないと、やはり観客はさすがについていけない。その通りだと思った。

 そして、また国立劇場が閉館になり、専用の劇場で演じられていないため、舞台が広すぎたり、天井が高すぎたりして、文楽を演じる舞台ではないことも影響があるだろうとのこと。これにも納得できた。

 クラシック音楽の室内楽や歌曲は親密な空間で演奏されてこそ本来の姿で聴くことができる。文楽もそれと同じだろう。そもそも人形が人間を演じるということ自体、舞台と観客が同じ虚構を受け入れるという暗黙の了解がなくては成り立たない。それを作り出すのが、文楽専用の劇場だっただろう。それが失われてしまうと、その了解が成り立たなくなる。微妙なところで成り立っており、そうであるからこそ美しかった世界が、ちょっとした違和感が重なって崩れてしまっているということもあるのだろう。

 とはいえ、豊竹呂勢太夫が語り、鶴澤藤蔵が三味線を弾いた「甘輝館の段」には大いに感動した。人形遣いの方々の見事さにも感嘆するばかりだった。

 それにしても、知れば知るほど、国立劇場の閉館の影響は大きい。新聞などでしばしば取り上げられていることだが、このままで日本芸能が崩壊して恐れがあるのではないか。日本芸能の外の世界にいる私でさえ、今の状況に怒りを覚えてしまう。

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