旅行・地域

チベット旅行 ライトアップされたポタラ宮

  2025728日から8月4日にかけて、大手旅行会社のツアーに参加してチベット旅行に出かけていた。

 帰国してかなり時間がたつが、PCの絶不調のため、ブログに旅行記を書く気力がなかった。そして、今度こそは写真入りにしたいと思っていたが、とりあえず今回も断念。PCが落ち着いてから、もし可能なら、写真入りヴァージョンを示す。今回は、ともあれ写真なしヴァージョンということになる。

 チベットにはずっと昔から関心を持っていた。訪れた経験のある人に話を聞いて、行きたい思いは募っていたが、高山病が怖くて踏み切れなかった。が、考えてみると、今のうちに行っておかないと、ますます体力が失われてしまう。そう思って、今回、思い立った。

 もちろん個人旅行をしたいが、今回に関してはチベットという土地にも健康にも自信がない。ツアーで多くの人とご一緒するほうが何かと安心だと判断した。

 

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 添乗員付きのツアーでメンバーは私を含めて12名。87歳の男性が最高齢だと思う。ほかに80歳前後と思われる女性、そのほかは私よりも年下の人々。40歳前後と思われる人もおられるが、平均年齢は60歳を超えているだろう。一人での参加は私を含めて6名、ほかはご夫婦。夫婦でチベット参加だなんて、なんと趣味の合う夫婦なのだろう! のちに話をして知ったが、やはりほとんどの方がシルクロードにかかわる場所など50か国前後行かれている人たちだった! ちなみに私は、バチカン市国やモナコを含めればこれまで52か国を訪れている。

 四川航空で成田から成都天府国際空港へ。大きな新しい空港。空港内のホテルに宿泊(快適なホテルだった!)。

 

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 朝6時に集合して、7時の国内線で西寧へ。直接ラサに乗り込むのではなく、チベットの入り口である青海省で準備体操をし、青蔵鉄道で25時間かけてラサに行くのが今回のチベット旅行のキモだ。チベット高原の風景が見られるし、軽度の「てっちゃん」である私の好奇心も満たせられるし、だんだん体を慣らして高地に向かえる。

 西寧空港内で麺料理の朝食を食べてから、さっそくバスに乗り込んだ。早朝、ホテルで渡してもらった朝食ボックス、機内で出された軽食に続いて、量は少ないとはいえ、3食の朝食を腹に入れたことになり、ちょっと苦しかった。

 バスに乗り込んで、二つの湖(青海湖と天空の湖チャカ塩湖)に向かった。晴れていて日差しが強い。30度近い暑さ。乾燥しているので、日本の暑さよりはずっとしのぎやすいが、日光が刺さるほど強い。

 西寧は青海省の省都。青海省は日本の2倍ほどの広さを持つが、人口は500万人ほどで、その半分近くがこの西寧で暮らすという。漢族、回族、チベット族、モンゴル族などが住む人口200万人ほどの都市だ。チベットへの入り口でもある。町の中心には、漢族とは異なる服装の人が歩いており、漢族とは異なる雰囲気の店があるが、街の雰囲気としてはほかの中国の都市と変わりがない。200万人とは思えないほど、ところどころにタワーマンションが林立している。投資目的のマンション? それとも計画に失敗して空き家になってる?

 都会を出ると、舗装された道路の両側には草原が続く。抜けるような青空の下、さわやかな空気の中に牛や羊の放牧がみられる。ときどき、観光客が集まって、乗馬体験をするようなコーナーもある。私たちは、酸素ボンベを渡され、苦しくなったら使うように指示されていたが、徐々に標高が高くなっていくので、酸素を使うメンバーはまだいなかったと思う。ただ、じわじわと空気が薄くなっていくのは私も感じていた。軽い頭痛も感じ始めていた。

 しばらくして青海湖が見えてきた。真っ青な湖が菜の花畑の向こうに広がっている。青海湖は中国最大の湖で、びわ湖の6倍ほどの面積を持つ塩湖だという。美しい! リゾートマンションのようなものがいくつか建ち、遊び場ができている。湖の見える豪華なレストランで食事。

 バスを乗り継いでチャカ塩湖へ。チャカ塩湖については、私はまったく知らなかった。塩の濃度の濃い湖で、浅い湖底に白い潮が堆積して、湖全体が白く見える。「天空の鏡」とよばれ、宮崎駿のアニメ「千と千尋の神隠し」に出てくるような光景に出会えるという宣伝文句で観光客をひきつけているらしい。チャカとはチベット語で塩の海のことだという。びわ湖と同程度の広さだと聞いた。

 確かに、湖が白く見える。浅い湖なので、そこに車や列車の車両を置くと海の上、あるいは空の上を列車が走っているように見える。夕日が白い湖面に映る。トロッコで周辺をめぐり、大勢の観光客とともに、赤いゴム長を靴の上から履いて、浅い場所を歩き回った。ただ、「千と千尋の神隠し」に特に思い入れのない私としては、確かに神秘的な風景だと思いながらも、さほど感動することはなかった。

 この地は標高3000メートルを超えている。それなりに行動しながらも、やはり息苦しさ、頭痛が続いていた。

 その晩、ホテルの部屋には酸素が供給されていた。ボンベも渡されていた。

 私は旅行前から、実はほんの少し風邪気味だった。ときおり軽い咳をし、喉の違和感があった。とはいえ、もちろんたいしたことはない。特にほかのメンバーにうつすのを心配するほどでもなかった。が、風邪の影響もあったのかもしれない。夜中、息苦しくなった。頭痛が我慢できないほどひどくなった。寒気がした。念のために持参した体温計で測ってみたら、38度を超えていた。いや、それ以上に割れるほど頭が痛い。

 

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 最悪の状態で朝を迎えた。ともかく苦しい。頭が痛い。腹を決めてベッドを出たが、立っているのがやっと。旅を中断して、ここから帰国せざるを得ないかもしれないと思った。

 添乗員さんと話して、午前中の観光(チャカ塩湖再訪)をキャンセルさせてもらって、その間、ホテルで寝ていた。やっと気分がよくなって、昼過ぎにメンバーと合流。その後、近くのレストランで食事だったが、もちろん食欲はゼロ。が、ともあれ、旅を続けられそうなので安堵した。

 ツアーメンバーの中には明らかに私よりも年上の方がおられたが、恥ずかしながら、最も早くダウンし、その後も体調不良をつづけたのは私だった。長年の不摂生(暴飲暴食はしないが、何しろずっと机について仕事をし、最近では、一歩も家から出ない日も多い!)がたたってのこの状況だろう。

 バスで西寧に戻り、夕食をとって(もちろん、まったく食欲なし!)から西寧駅へ。新しいこぎれいな駅で、当然と言えば当然だが、ほかの中国の地方都市の駅の雰囲気と似ている。

 私だけでなく、おそらくツアー参加者のほぼ全員にとって、これまでの2日間は準備体操に等しい。目的はチベット見物、そして西寧からラサまでの青蔵鉄道による25時間のチベット高原の旅だ。

 チベット族出身の日本語ガイドさん(40代のきわめて有能で頼りになりそうな女性!)に合流。先導されて、ホームに降り、青蔵鉄道に乗り込む。濃いグリーンの車両。一等寝台車は4人のコンパートメントで上下の寝台席になっている。私はすでに親しくなっているツアーメンバーの方々と同じコンパートメントで過ごすことになった。この鉄道が開通して20年を超すので、真新しいという雰囲気はないが、コンパートメントはきちんと整備されている(ただ、鍵のかからないトイレなどはあった)。

 音もなく出発! 静かに列車は走っていく。レールの音もほとんどなく、揺れもない。時速50キロから60キロくらいの速度で滑るように走っていく。

 列車の両方の窓から草原が流れる。乾燥地帯だと思っていたら、どうやら湿地帯で、沼や小さな水たまりがあちこちに見える。豊かな草が生えているわけではない。うっすらと草が生えている。そこにときどきヤクや羊が見える。どうやら野生のヤクらしい。こんなに草が少ないところによくぞ暮らしている!と感心する。トラックも時々見える。開発中らしく、あちこちで工事がなされている様子がある。が、人影はほとんど見当たらない。

 消灯。私はじゃんけんをして下段で寝ることになった。

 

 

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 7時過ぎ、食堂車に移動して、ツアーメンバーとともに朝食。表示によって海抜4500メートルを超える地域を走っていることがわかる。あいかわらず食欲なし。

 コンパートメントに戻って、外に風景に目をやる。絶景が広がっている!

 雲が低い! 抜けるような青空の下に、手が届くような錯覚を覚えるように雲が這っている。遠くに山が見える。ときどき、頂に雪が残っている。険しい山、岩山も見える。それらが通り過ぎていく。周囲はずっと草原だが、出発したときに比べてますます草が減っている。だが、裸の山というわけではない。うっすらとした緑の部分が多くなったり、むき出しの土の部分が多くなったりといった具合だ。ただし、きっとこれは今の時期だけで、すぐに秋になると裸の山になり、冬は雪山になるのだろう。

 しばらくして、長江の源流だというトト河の風景をみた。幅が数百メートルある広い河だが、水量は少なく、あちこちで土がむき出しになっている。水の流れているところも、草や水藻はほとんどなく、透明な水を通して底の土が見える。このあたりになると、家もほとんどない。車も通っていない。道路はあり、塀などはあるが、人影もない。

 世界最高海抜の駅であるダングラを通過。海抜5068メートル! 列車の中に酸素ボンベがあり、車掌さんにお願いしてチューブをもらえば、それをコンパートメントの窓の横にある差込口から酸素が吸えるようになっている。なるべく薄い空気に慣れようと思っていたが、やはり苦しくなって、酸素を吸った。

 崑崙山脈が見え、ツォナ湖が見える。薄い青の湖面の向こう岸に山が連なり、こちら側からはあいかわらずうっすらと緑の見える草原だ。

 ようやく車の通りが増え、建物が増えてきて、17時過ぎ、定刻にラサ駅到着。ラサ駅もほかの中国の地方駅と変わりがない。ホームからエスカレータでおり、改札口へ。標高3640メートル。そのままバスでホテルにむかった。

 ラサと言えば、チベット自治区の省都にして、チベット仏教の聖地。五体投地をする巡礼者などがバスからも見えるのかと思って目を凝らしていたが、そのような人は目に入らない。ほかの中国の都市と変わりはない。ただ、高層の建物はなさそうだ。

 街はチベット人が多く住む旧市街と、漢民族が住み始めた新市街に別れるという。確かに、バスで動くだけでその違いがはっきり分かる。新市街の店にはお店の看板はほとんどが漢字だが、その上か下にチベット文字が書かれている。それを除けば、中国のほかの都市と変わりがない。中国的な色遣いの店が並んでいる!

 標高の高い地域なので、すぐに観光に移るのではなく、ホテルでゆっくりする。

 ラサホテル宿泊。老舗の格式高いホテルだと思う。どういうわけか、私にあてがわれたのは、とんでもなく豪華な部屋だった。後で知ったが、私ともう一人だけ、このタイプの部屋だったらしい。

 単なるスイートルームというレベルではない。豪華な客間(ソファ、テーブル、テレビなど高級な調度が備えられている)と寝室(これも立派な調度)のほかに、なんと6脚の椅子が円卓を囲む会議室、そして、デスクと書架のついた執務室まであった。つまり、全部でかなり広めの4室! 浴槽はジャグジー付き、トイレや洗面台は2か所。客間には大きな習近平国家主席と歴代指導者の写真が架けられていた。どうやらVIP用の部屋らしい。

 ラッキー!とは思ったが、使い勝手はよくなかった。様々なスイッチが全部合わせてたぶん20くらいあり、どれがどれやらさっぱりわからない。ドアを入ってベッドにたどり着くまでもかなり歩かなければならない。ポットでお湯を沸かして、ベッドの横のテーブルでコーヒーを飲もうとするにも時間がかかる。ここに3連泊した。

 

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 数日後に、チベット自治区成立60周年記念式典があって、習近平国家主席をはじめとする中国共産党幹部が来訪するということであわててイベント会場が作られていた。立ち入りが制限されているところもあったようだ。

 まずは、世界遺産であるチベット仏教の総本山ボタラ宮見学。裏側の公園のようなところを通って、入口へ進んだ。公園のような場所ではいくつかのグループに分かれて、スピーカーで音楽を鳴らして踊ったり歌ったり。仏教の聖地で何と不純な・・・と思ったのだったが、ガイドさんに尋ねてみると、どうやら巡礼の人たちが地域ごとに別れて踊っているということだった。巡礼の疲れを癒し、交流を深めているということだろう。

 ポタラ宮の屋根の中央に中国国旗がはためいている。

 ポタラ宮は、観音菩薩の住む場所であり、観音菩薩の化身であるダライ・ラマの住まいとして、ダライ・ラマ5世のころ(17世紀中葉)に建てられた。丘の上に建てられており、まずは宮殿の入口まで外の石段を上らなければならない。360の段があるという。

 建物の外で、初めて五体投地をしている人物を見かけた。母親らしい女性と10歳前後の男の子ふたり。母親と上の子どもが五体投地をし、その後、少しサボり気味に小さな子どもがそれを真似ていく。周囲には大勢の観光客がいたが、少なくとも女性は一心不乱の雰囲気がある。この付近で見かけた五体投地はこの一組だけだった。

 ものすごい観光客の数だった。多いのはチベット人だろう。巡礼の人たちだと思う。漢民族の中国人もかなりいる。西洋人も見かける。日本人にはあまり会わなかった。多くの人がひしめきあって階段を上がる。なにしろ、標高約3700mの場所での360段だから、これはかなりきつい。息が切れるし、頭が痛くなる。酸素ボンベを鞄に入れているので、苦しくなったら日陰で休憩して吸引する。

 中に入ったら、これはもうラッシュ時の新宿駅のホーム並みの混雑だった。歴代のダライ・ラマの霊塔があり、釈迦や金剛仏の仏像があり、様々な壁画があった。チベット人ガイドさんのわかりやすい解説を聴きながら移動するが、そのためにますます人混みがひどくなり、大渋滞を巻き起こしていることは間違いない。

 観光客でごった返しているとはいえ、さすがに厳かな雰囲気だった。

 仏像などの前には賽銭というべきか、お布施というべきか、参拝者の残した紙幣が何枚か置かれている。中国の1元、5元札がほとんどだ。言うまでもなく毛沢東の肖像のお札だ。宗教を否定する共産党指導者であり、仏教を破壊した文化大革命の主導者である毛沢東の肖像画が仏像の前にあるのを見ると複雑な気持ちにならざるを得ない。

 

 チベット料理の店で昼食を済ませてから、午後はもう一つのラサの象徴的な存在であるジョカン(大昭寺)見学。ジョカンは、チベットを統一したガムポ王が7世紀に建てた寺院で、歴史的にはラサという町の中心としてポタラ宮以上に大きな役割を果たしてきた。

 こちらには12歳の釈迦像(これこそが実際の釈迦に最も似ているといわれているとのこと)がある。そのほか、仏像や装飾物が収められている。ここも立ち止まって見ることができないほどの観光客だった。

 ジョカン見学後は、バルコル(八廓街)を歩いた。ジョカンを囲む1キロほどの八角形の道で、両脇にはチベット風の白い壁、きれいに整えられた窓とバルコニーのある建物が並んでいる。きっと2階より上には人が住んでいるのだろうが、1階はお土産物屋、タンカ(チベット仏教の仏画)の店などになっている。

 バルコルは巡礼の道であって、五体投地をしている巡礼者が大勢いると聞いていたが、1時間近く散策している間、私が見かけたのはひとりだけだった。ほかは巡礼の前後に観光をする人々、そして純粋な観光客だったようだ。

 観光客は大勢いた。ここも漢民族を中心とする中国人らしい人とチベット系の人、そして稀に西洋人が見える。道路の真ん中で何やら交渉が行われているらしい。装飾品をいくつも身に着けた人が輪の中心にいる。どうやら、身に着けた装飾品は売り物であって、それの値段を交渉しているようだ。私も店に入って、ちょっとしたおみやげ物を買った。

 

 ところで、この国ではどこに行くにも荷物検査を受ける。もちろん、ポタラ宮に入るときもジョカンに入るときも、バルコルに入るときも、機械による荷物検査と公安(?)による身体検査を受けた。

 ツアーのメンバーはほとんどは何も問題なく進んだが、二人が厳しく取り調べられた。一人は後ろポケットに入れていたハンカチを調べられた。もう一人は添乗員さんだったが、どうやらツアーの目印のために用意していた先導のための旗が疑われたようだった。このことがあって、遅まきながらやっと気づいた。

 荷物検査の目的は、一つはもちろん爆発物や引火物、武器なのだろうが、もう一つは旗の発見だったのだ。そういえば、以前、チベットで騒動があったとき、チベットの旗を持った人が先頭に立っていた。旗にくるまれて焼身自殺をしたチベット僧も何人もいたような記憶がある。

 チベット自治区成立60周年ということだが、これはチベット独立主義者にとっては、チベットが中国政府に占領され、名前だけの自治権を与えられてから60年たつということに過ぎない。中国政府は騒動を警戒しているのだろう。

 

 夕食後、ポタラ宮の夜景をみることが予定されていた。本来はポタラ宮広場で観る予定だったが、チベット自治区60周年式典の準備と警戒のために夜の広場への立ち入りが禁止になったので、バスで高台まで行って見物することになった。

 まずチベットの夜景に驚いた。ビルの多くが電飾で覆われている! これまで訪れた広州や上海と同じように、極彩色のネオンで飾られ、ラサ川の水面にも鮮やかな光が映っている。道路の両脇の街頭には朱色の電飾された提灯風の飾りが並んでいる。まさに中華の世界! 

 近くに劇場のある高台のはずれの街角からポタラ宮の夜の様子を見た。ポタラ宮がライトアップされていた! さすがにほかの建物のようなきらびやかな電飾ではないが、きらびやかな電飾の建物の先に光に照らされてそびえたっている。

 

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 ポタラ宮広場を散策後、ダライ・ラマの離宮・ノルブリンカを訪れた。18世紀に建てられ、歴代のダライ・ラマが夏に避暑地として利用し離宮だ。ポタラ宮が狭苦しくて息苦しいため、現在インドに亡命中にダライ・ラマ14世を含めて多くのダライ・ラマが離宮を好んだことが、様々な本に記されている。

 広い敷地にいくつもの建物があり、それぞれに由緒ある壁画や仏像があるが、それ以上に庭園に植えられた様々な花が目を引く。きっと歴代ダライ・ラマも、このような開放的な空間を喜んだのだろう。

 その後、サンゲ・ドウングを訪れた。チャクポリ(薬王山)の丘の裏にある巨大な岩に掘り込まれた磨崖仏をそう呼ぶらしい。私は大分県出身なので、何度か訪れたことのある臼杵の磨崖仏のようなものかと思っていたのだが、かなり雰囲気は異なる。

 巨大な岩のあちこちに彩色された仏像や、まるで涅槃図のような仏像群、そしてチベット文字の経文、「オムマニペメフム」という六文字真言などが彫られている。日本人の私たちからすると、ちょっと稚拙な感じのする仏像だが、素人が信仰心を込めて彫り、彩色したのが伝わるような仏の姿だ。全部を合わせると、数百の仏像が描かれているのではないか。

 磨崖仏の下に寺院があった。ある僧侶が中心になってマニ石を積み上げて作った寺院だという。地域の人々の信仰の場であるようで、この寺院の前で五体投地をしている人が大勢いた。そう、ここに来てやっと私が思い描いていたチベットの姿をみることができた。寺院の前に10名ほどの人が並んで、真摯にからだを地面に放り出し、一心に祈りをささげている。別の場所でも、五体投地をしている人が数人いる。

 ガイドさんによると、この周辺の道で多くの人が五体投地をして一周するという。ガイドさんもかつては親に連れられて、今は子どもを連れて五体投地を定期的にしているという。まさに市民の信仰の場として人々が集まっている。

 かつてはラサじゅうがこのような雰囲気だったのだろう。だが、今ではラサの中心街は観光と商売の場になり、片隅でこのような信仰の場が息づいている。 中国人観光客はほとんどいない。ほとんどが近隣住民なのだろう。きっとこのような場がいくつかあって、地域の信仰深い人たちが集まっているのだろう。

 昼食後、セラ寺を訪問。15世紀に建てられ、チベット仏教の研究の場でもあり、一時期は数千人の僧侶が所属した。日本人僧侶、河口慧海と多田等観が学んだ寺院でもある。この寺院での厳しい生活の様子は、私はこの二人の日本人僧侶の回想録で読んでいた。

 広い境内にいくつもの建物がある。日本の大きな寺院と同じような雰囲気で、参道があり、砂利道を参拝者が歩いている。子どもづれが異様に多く、多くの子どもの鼻に墨が塗られている。この寺院の本尊は馬頭観音だということで、安産や子どもの健康を願って人々がやってくるのだという。鼻の上の墨は魔除けらしい。

 ちょうど僧侶たちの問答が行われていた。というか、この時間に合わせて、予定時間を変更して早めにこの寺院を訪れたのだった。

 日本の都市の中にある児童公園のような広場。ただ、一般の児童公園よりはずっと広い。大きな木が何本も植えられて陰になるようになっている。そこにおそらく50人を超す赤い袈裟を着た若い僧侶がちらばっている。

 二人一組になり、一人が座り、一人が立って向かい合い、何やら大声で言い合っている。立っているほうが何か仏教的な問いを座っているほうに投げかけ、そのたびに大きな音で手をたたく。座っているほうがそれにこたえる。それを続けているようだ。内容はさっぱりわからないが、まるで口喧嘩しているように見える。それが広場のすべての組で行われている。周囲を観光客が取り囲んで写真を撮ったり見物したりしているが、きっとこれは真摯な問答なのだろう。観光用のパフォーマンスには見えない。確かにここには信仰が息づいている。

 その後、ツアーのイベントとして、少し離れた場所で、民家での食事を楽しみ、歌舞ショーを鑑賞するということになっていたが、これは「民家」というにはほど遠い、とある社長の大豪邸。そこで全員がマツタケ汁をごちそうになり、民族衣装を身に着けた奏者によって、チベット・ギター(おそらくダムニャンと呼ばれる楽器)伴奏による女性の歌を聴いた。西洋音楽に慣れた耳からすると起伏がなくて退屈だったが、チベットのゆったりした時間と人々の人生を感じさせるような音楽だった。

 

 

83

 実質的なチベット最終日。これまでと違って、曇り空。長袖を着て出かけた。曇ると途端に寒くなる。朝のうちは12~13℃だったと思う。

 バスで2時間ほどかけてヤムドゥク湖に出かけた。しばらく平地を通り、その後は山道を登っていく。ヤムドゥク湖はチベットの聖湖のひとつで、水面の標高は4400メートルを超す。バスは4000メートルを超えたところを走る。雲が眼下に見え、うっすらと緑に覆われているが、岩肌のあらわな山が続く。私を含めてすべてのメンバーは高地に慣れて、酸素ボンベを使う人もいない。

 この湖の湖畔で過ごしたという知人の話を聞いていたので、それを楽しみにしていたのだったが、近づくことはできず、展望台から見るだけだった。海抜4998メートル地点から湖を見下ろした。朝、出かける時には曇り空だったが、やっと晴れてきて、湖の全貌が見えた。水はあまり多くなく、そこの土が見える状態だった。

 そのままラサ空港に向かった。

 ところで、途中の昼食の際、チベット人のガイドさんに、私は「ツァンパを食べる機会がなかったのが残念」と話した。ツァンパはチベットの日常を語る文章の中には必ず出てくる食べ物だ。小説でも旅行記でも必ず登場する。一度食べてみたいと思っていた。前日、民家を訪れた際、ツァンパの話が出て、ガイドさんは「じゃあ、私が作って食べさせてあげる」と話していたのが、時間がなくてそのままになっていたのだった。

 私がそのことを話すとガイドさんは急に黙り込んだ。そして、帰りのバスの中、ガイドさんは途中でバスを降りて、どこぞに行った。しばらくして戻ってきた。そして、「ツァンパを皆さんに食べてもらう機会がなかったので、これからツァンパを食べていただく」と言って、お店で購入したツァンパと紅茶を混ぜて練り始めた。練りあがったものを少量ずつ全員に配った。

 ツァンパとは大麦の一種からとった粉で、チベット人の主食だ。一口食べて、突然、「はったい粉」という言葉を思い出した。まさにはったい粉の味! 「はったい粉」という言葉を久しぶりに思い出した! ネットで調べてみたら、ツァンパはほぼはったい粉と同じものだと書かれていた。70年近く前、私は母だったか祖母だったかにこれを作ってもらって食べていた。少なくとも九州の田舎では、貧しい時代の子どものおやつだった! うーん、チベット人と日本人は顔だけでなく、食べ物も似てる!と思ったのだった。

 そのままラサ空港へ向かい、成都へ。成都の空港内のホテルに宿泊。84日の朝、成都を出発して、15時過ぎに成田到着。

 

 

  • まとめ

・何しろツアーで実質4日間をチベットで過ごしただけなので、内部をきちんと見られたわけではない。チベットの実相を知ることができたかというと、あまり自信はない。。

・高地での旅は、やはりかなりこたえた。頭痛と吐き気と息苦しさに悩まされた。最後の2日間くらいでやっと慣れてきたが、それまではまったく食欲がなかった。帰国後、「チベット料理はどうだった?」と何人もに聞かれたが、「食欲がなくて、ろくに食べていない。薬を飲むためにいくらかでも食べておくべきだろうと思って、口に入れたに過ぎない。だから、味についてはなんともいえない」と答えるばかりだった。12名のツアーメンバーのおそらくは全員がそれなりに高所でのしんどさを感じていたようだが、中で最もひどく高山病に悩まされたのは私だったようだ。私よりも高齢の方がおられたが、それほど悩んでいるようには見えなかった。私がそもそも軟弱だということ、そしてちょっと風邪気味だったことも原因の一つかもしれない。

・列車やバスから見える風景は絶景そのものだった。空と陸が日本とはまったく違っていた。あの青空、あの低い雲。遠くに険しい山、近くに見えるのはなだらかな草原。

・チベット仏教について本を読み、それなりに知識を持って出かけたが、残念ながら、信仰深い光景はあまり見ることができなかった。少なくとも観光地を歩くだけでは、テレビや映画で見たチベット仏教の実相を目の当たりにはできなかった。

・ラサはほかの都市とあまり変わりのない中国の地方都市だった。チベット仏教施設は中国政府が管理する地域の一つの観光資源になっていた。青蔵鉄道の開通に伴って、漢民族がどっと押し寄せるようになったのもその原因だろう。

・とはいえ、地域のあちこちで仏教は生きており、人々は信仰に基づいて生活している。ガイドさんの話を聞いても、どうやら本気で転生を信じているようだ。その是非はともかく、チベット仏教は人々の心の中では生き続けている。

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ウズベキスタン・タジキスタンの旅  サマルカンドに魅了された!

 2025521日から27日にかけて、ウズベキスタン・タジキスタンの旅に出かけた。

 実はウズベキスタンについてほとんど何も知らなかった。元ソ連領内のイスラム教の国で、政治的に安定しているといったくらいの知識しかなかった。このところ、イスラム圏に魅力を覚え、これまでサウジアラビア、パキスタン、バングラデシュ、ブルネイなどを訪れたので、今度はウズベキスタンに行ってみるかと思ったに過ぎない。ついでに、隣の国タジキスタンをみられるツアーがあったので、それに申し込んだ。

 これまで何度か利用している旅行会社のガイドさんのついた個人ツアーだ。頭の中では、これまでに行ったことのあるパキスタンのようなところを思い浮かべていた。実際に足を運んで、驚いた。私の無知を恥じた。まったく予想と違っていた。

 例によって、写真をこのブログにアップさせる技術を持たないので、写真なしで旅の印象を記すことにする。

 

日程

 521日早朝に家を出て、アシアナ航空で成田を出発。仁川を経由して夜にウズベキスタンの首都タシケント到着、22日にタシケントはほとんど見ないまま車で隣の国タジキスタンの国境の街ホジャンドへ。23日、ホジャンドからタシケントに戻って、24日にウズベキスタンの古都サマルカンドに列車で移動、25日もサマルカンドで過ごし、26日タシケントに戻って、夜、空港を出発、仁川経由で、27日夕方成田着という日程。

 

タシケント

 私が到着したときは、夕方だったが、30℃くらい。翌日は最高気温38℃くらいになった。夜は20℃くらいになる。砂漠に近い環境なので乾燥していると聞いていたが、蒸し暑い日もあったし、一度はかなり本格的な雨にあった。ただ1時間もしないうちに青空が広がった。平均的には、毎日30℃前後だった。

 タシケントの街は思っていたよりもずっと西欧風だった。フランスやイタリアの地方都市と雰囲気は変わらない。中央アジアの国、中東に近い国といった感じはしない。歩く女性にスカーフを巻いている人が西欧よりも多いのはすぐに気づくが、スカーフをしていない女性のほうがずっと多い。ざっと見たところ、スカーフをしているのは四分の一くらいではないか。ガイドさんに尋ねると、もちろん国民ほとんどがイスラム教徒だが、スカーフをしない女性も多く、それによって非難されることはないという。

  中央アジアの国だけあって、様々な顔立ちの人がいる。多くの人が、私たちが中東の人としてイメージするような顔の人だが、チベットやモンゴルとして認識しているような顔立ちの人も多い。西洋人のような顔立ちもいる。中に日本の人にみえるような現地の人もいる.そのような人たちが違和感なく、ふつうに同じところを歩き、同じ店で働いている。

 市街地の道路は整備され、建物も近代的で清潔。それほど高い建物はないが、もちろん、10階建て、20階建てのビルはあちこちに見える。中東で見かける露店もほとんどない。通っている車も新しい車が多い。日本の道路とほとんど雰囲気は変わらない。信号が少ないが、歩道や並木や緑地帯など、むしろ日本よりも整備されているのではないか。

 日本車はほとんど見かけない。ざっと見たところ、金色の太い十字のエンブレムの車が圧倒的に多い。8割以上ではないか。知らない車なのでスマホで検索してみたら、シボレーのようだ。ウズベキスタンに工場があるらしい。私の乗っている車もシボレー。きわめて快適。トランプ大統領が日本にアメリカ車が入らないのを不満に思っているというが、少なくとも後部座席に座っている限りでは、なるほどこの車だったら日本でも十分に売れてしかるべきだとは思う。ほかは韓国車、中国車、まれにドイツ車や日本車。

 交通ルールはみんなきちんと守る。私の乗る車の運転手さんは少し強引な運転をするが、横断歩道ではほとんどの車が歩行者を優先する。

 タジキスタンへ行く道はほとんどが片側2車線だったと思う。周囲には麦、サクランボやリンゴなどの畑が広がっている。牧草地もあり、牛や羊も見える。これも、ちょっと生えている木などが違うだけで、ノルマンディーやブルターニュの牧草地と雰囲気は変わらない。

 タシケントは1950年代に大地震があって、市の多くの建物が崩壊したという。そのために歴史的建造物は残されておらず、町全体が新しい。西欧に近い雰囲気があるのもそのせいだろう。1991年、ソ連崩壊によって独立したが、地下資源にも恵まれていることもあり、またカリモフ大統領の経済政策も成功したようで、経済的に安定しているようだ。現在は2代目のミルジヨエフ大統領が民主化を進めているという。

 治安は悪くない。西欧よりも平和で安全だということのようだ。危険そうな地域もなく、危なっかしい人物に出会うこともない。

 最終日には、ナヴォイ劇場を訪れた。太平洋戦争後、この地に抑留されていた日本人が建設にあたったために大地震でも倒れなかったといわれている。しばらく改修のために閉鎖されていたというが、再開されていたようだ。「トスカ」「エフゲニ・オネーギン」「仮面舞踏会」「椿姫」などのオペラ、「シェエラザード」などのコンサートの案内が出ていた(出演者は不明)。

 地下鉄にも乗った。5分間隔くらいで走っている。これもパリのメトロとさほど雰囲気は変わらない。かなり混んでいた。私が乗り込むと、座っていた客が何人も立ち上がって、私に譲ってくれようとした。きっと私は間違いなくその周辺の最高齢者なのだろう。ヨーロッパでも中国でも競って席を譲ろうとしてくれる。知らんぷりされるのは日本だけ! 私よりもずっと年上の高齢者でも日本では席を譲られない。

 モノの値段は日本よりも少し安い程度。チェリーなどの果物は圧倒的に安い。ただ、食事をして20万スム、博物館入場料が5万スムとか言われると、その桁の多さにびっくりする! 紙幣も0が多くついているので、初めのうちは紙幣価値がすぐに頭に入らない。

 

国境

 522日、タシケントの都心から車で2時間ほどかけてタジキスタンとの国境にむかった。村があり、その外れに鉄の門を備えた施設があり、警官らしい人や係官らしい人が数人いた。雰囲気としては、人がめったに訪れない村はずれの広大な公園といった雰囲気。門の前には客待ちのタクシーや乗用車が何台も駐車しているが、運転手はどこかにいるようで姿は見えない。施設の中には、建物がいくつか見える。

 車を降りて、ガイドさんと門を過ぎて、最初の建物に入った。外はがらんとしていたのに、中に入ると、中国人のグループや欧米人の観光客、仕事で行き来しているらしい現地の人が20~30人、私の前で行列を作っていた。そこで出国手続き。その後、手続きの終わった順に建物を出てスーツケースをごろごろ引きながら野外を歩いて次の建物に行く。そこでまた何やらして、次の建物に行く。そのたびにパスポートを見せる。そうこうするうちタジキスタン領内に入り、入国手続き、そして荷物検査。

 初めに旅行会社から提示された予定では、ガイドさんとわかれて一人で国境を越えて、タジキスタンで別のガイドさん(しかも、英語ガイドだということで、私は大いに恐れていた!)と合流することになっていたが、幸い、私についてくれたガイドさんはタジキスタン語もできる人で、ずっと付き添ってくれた。ありがたい。荷物検査が厳しく、ところどころでどこに行けばよいのか迷うことがあったので、ガイドさんがいてくれたのはありがたかった。ひとりだと途方に暮れただろう。

 建物を出て数分歩いたら、そこにはタクシーやバスが待っており、運転手に「タクシー?」などと声をかけられる。それを通り抜けてツアーの運転手さんと合流。国境を超えるのに合計30分ほどかかったと思う。

 

タジキスタンの国境の都市ホジャンド

 ウズベキスタンとタジキスタンでは、外の風景ががらりと変わる。ウズベキスタンでは周囲に畑があり、緑が多かったが、タジキスタンに入ると、ほとんど荒野としか言えないような土地が広がる。はげ山が近くに迫っている。山にもほとんど緑は見えないし、道路わきにも畑は見えない。1時間ほど車で走って、ホジェンド(KHUJANDという綴りで、クジェンド、フジェンド、ホジャンドなどという表記もある)の市内に入った。

 こちらでは、日本車を多く見かけた。だが、いかにも中古車の雰囲気がある。タシケントというウズベキスタンの首都と、ホジェンドというタジキスタンの地方都市という違いもあるのかもしれないが、かなりの経済的な差を感じる。タジキスタンは、私が思い浮かべる旧ソ連のイスラムの国そのもの。看板はキリル文字。スカーフをかぶる女性がこちらの国のほうがずっと多い。

 この都市はシルクロードの要衝として栄えたという。また、かつてアレクサンダー大王の領内になった最果ての地でもあるとのこと。砦の跡、博物館などを見学。太古から近年までの様々な器具が展示されていた。歴史のある都市であることがよくわかる。実際にとても落ち着いた美しい街だと思った。私の知る中ではザルツブルクのような雰囲気がある。

 大きな市場へ行った。屋外に売り子の女性がチェリーや杏、桑の実、キイチゴなどの果物、トマト、スイカなどの野菜を大きなたらいのようなものに入れて大量に並べていた。屋内では、肉や穀類や衣料品が売られていた。これまで見たことのある東南アジアやインド付近と同じような雰囲気だが、それよりも清潔で整然としている。ハエがたかるようなことはないし、盗難にあいそうだというような雰囲気もない。ただ、センスの良い建物の中で整然と市場が備えられているタシケントとはかなり雰囲気が異なる。どうも、ウズベキスタンよりもかなり物価は安いようだ。

 あちこちにラフモン大統領の写真が飾られている。ウズベキスタンでは大統領の写真をみることはなかったが、タジキスタンでは、街の中、建物の中に大統領の大きな写真がある。ガイドさんに尋ねたところ、個人崇拝による独裁というほどのことはなさそうだが、様々な禁止事項があって、あまり自由な国ではないようだ。

 要塞や神学校などをみた。豪華絢爛な要塞や博物館があった。そんなところにも大統領の写真がある。何かしら、大統領の威光を示す意図がありそうな気がしてくる。

 夜のホジャンドはあちこちに電飾が施されている。なかなか立派な建物がある。ただ気のせいか、1990年代に訪れたピョンヤンを思い出した。ピョンヤンも建物に電飾がなされており、外見的には立派、古びていたり貧相だったりする建物を立派に見せているようだった。そこと同じような雰囲気を感じた。

 街の背後に緑のない、「はげ山」というのがふさわしい土色の山並みが見える。日本にも山を背景に持つ都市はたくさんあるが、緑のないはげ山があるのは初めて見た気がする。砂漠気候ということだろうか。そうか、ムソルグスキーの「はげ山の一夜」の「はげ山」とはこういう山のことなのかとひそかに納得した。

 

ガイドさん、運転手さん

 ガイドさんとはとても親しくなった。40歳くらいで真面目で社交的。日本語の発音は日本人とほとんど変わらない。日本に留学してITの勉強をしたとのこと。ただ、ガイドとしてはちゃんと仕事をしていないとは言えるかもしれない。まさに友だちとして案内してくれている感じ。ガイドだったら、街の案内、注意点などを話してくれるはずなのだが、必要不可欠な情報もあまり言ってくれない。時間にも少々ルーズ。しかも、信心深いためにお祈りを欠かさない。ガイドさんがお祈りをしている間、私は運転手さんと二人きり、あるいは一人きりでレストランや公園で待つこともあった。

 だが、私にはそれはむしろありがたかった。暑いので、私としてもハードな観光はつらい。あまりに細かくガイドしてくれるのも鬱陶しい。このガイドさんのように、尋ねたことにはきちんと答えてくれて、様々なことに融通が利き、友だちのように接してくれる方がありがたかった。

 タシケント、ホジャンド、サマルカンドで3人の運転手さんのお世話になった。タシケントとサマルカンドの運転手さんはガイドさんとおなじみらしく、ずっとおしゃべりしていた。40代の気のいい男といった人たち。タジキスタンのホジャンドの運転手さんとは初めて顔を合わせるようだった。

 ホジャンドの運転手さんはおそらく30歳そこそこの若い人。もしかしたら20代かもしれない。こちらの人はみんなが時間にルーズだったが、この人はとりわけひどかった。30分くらい遅れてやってきたこともあった。しかも、自分の好きなポップな音楽をかけて運転。車はBYDの中国製電気自動車(初めて電気自動車に乗った!)。一緒に市場を歩いたが、どうやらほしいと思っていた服があったらしくて、ガイドさんと私を待たせて服選びを始めた。時間がかかるので、別のところで待ち合わせて、ガイドさんにつれられて市場見物をつづけたが、運転手さんは待ち合わせ時間にいつまでも現れない。30分以上待ってやっと現れたが、どうやらいったん自宅に買い物したものを置いてきた様子。ついでにいうと、ガイドさんも数日後に同じようなことをしていた。

 それも含めて、私は国民性なのか、個人のキャラクターなのかわからないが、なかなかおもしろい思ってみていた。私は特に寛大な人間ではないが、友だちのような関係ができているので、お互い、少々のわがままは許容する雰囲気があって、私としては快適だった。

 

ホテル

 タシケント、ホジャンド、サマルカンドの3つのホテルに泊まった。以前、私の利用する旅行会社のツアーでホテルに困ったことがあったので、スタンダードよりも1ランク上のホテルをお願いしたためか、タシケントとサマルカンドについては快適だった。

 ホジャンドのホテルは、机はあるのに、室内に椅子が一つもなかったので困った。チェアもソファもない。冷蔵庫もない。ツインの部屋を一人で使う形だったが、ベッドとベッドの間に台があって、その下に二つの引き出しが備えられていた。ところが、その引き出しが開きっぱなしになっていた。いくら閉めてもすぐにすーっと出てくる。ガイドさんにお願いして椅子と冷蔵庫は入れてもらった。引き出しは直らなかったので、自分で紙きれを詰めて引き出しを固定した。

 

宗教

 モスクをいくつも訪れた。金曜日のお祈りの日、ガイドさんがお祈りをする機会に、すぐ近くから見ることができた。モスク周辺では車は大渋滞。バスでも徒歩でも、男たちがやってくる。数百人がモスク内に入っていく。日本人からするとガタイがよく、怖そうな顔をした男たちが次から次と押しかけてくる。そして、洗い場で手足を洗って、祈りの場向かう。中に入りきれなかった人たちは、建物の外でもスピーカーから響くコーランに合わせて祈りをささげる。決まりがあるのだろうが、何度となくじゅうたんに頭をこすりつけて祈りをささげる。まさに厳粛な時間。

 女性は祈りの場に入れないとのことで、別の場所にいるようだったが、私のいるところからは見えなかった。

 女性がこの宗教をどう思っているのか、男性の私にはわからない。ただ、少なくともこの国では女性もふつうに働いているし、自由に買い物をしている。高い地位に就く女性もいるようだ。内情については、数日間観光をするだけではまったくわからない。

 ただもちろん、信仰あつい人とそうでない人がいるようで、タジキスタンの若い運転手さんは、イスラム教徒には違いなかったが、祈りに参加しなかった。ガイドさんはそれを非難している様子もなかった。

 

料理

 プロフという、肉と野菜入りのピラフのような料理が、このあたりの名物料理のようだった。3回、この料理が出てきた。ガイドさんの好みなのかもしれないが、これとサラダと羊肉や牛肉の串焼きといった料理がほとんど毎回出てきた。いずれもおいしかったが、ほぼ毎回同じようなものが出てくるので、4日目ころから私としては少々つらくなった。

 ボルシチのようなスープも何度か食べた。一度はほとんどボルシチそのもの、もう一度は中にお米が入っていた。

 緑茶を飲む習慣があるようだった。味は日本の緑茶とほとんど変わらない。紅茶もあるようだったが、緑茶の方が一般的のようだ。日本と同じように、食事の時にお茶を注文し、日本人と同じような飲み方をする。

 3回は夕食がツアーに含まれておらず、自分で食べるしかなかった。タシケントのホテルの近くには一人で入りやすい店がなかったので、ホテルのレストランで食事をした。メニュをみて、チェリー・ジュースとサラダと牛肉のチーズ包みとスープを注文した。

 まずジュースが出てきたところで嫌な予感がした。1リットルのパック入りのジュースだった! サラダもスープも肉も大量! 3人前はありそう! なかなかおいしかったので、必死の思いで半分ほど食べたが、どうにも食べきれずに残した。

 きっとこれは一人前ではなく、数人で食べる分量だったのだろうと思っていたのだが、翌朝、朝食のためにレストランに行くと、前日給仕してくれたウェイターがなんだか深刻な表情で近づいてきた。「昨晩、かなり残していたようだけど、料理がまずかったのか」と英語で言っているようだった。「おいしかったけど、大量すぎて食べきれなかった」と答えた(実際には、あまりに恥ずかしい幼稚な語彙を使ったのだったが)。ウェイターはやっと安心したようで、にっこり笑った。どうやら、現地の人はこれを一人で食べるようだ!

 言われてみれば、この土地の多くの人が屈強な体格をしている。身長はそれほど高くないが、体格はプロレスラーかラグビー選手のよう。腹の出ている人も多い。間違いなく、私の2倍か3倍は食べていると思った。

 

列車

 タシケントとサマルカンドの間を列車で移動した。2時間と少しかかった。どういう事情かは尋ねなかったが、サマルカンドに向かう時は自由席、タシケントに向かう時は指定席だったようだ。窓はかなり汚れていて、少々古ぼけているが、日本やヨーロッパの列車とほとんど変わりはない。それほど高速ではないが、途中、3つくらいの駅しか止まらなかった。

 牧草地や畑、そして地方都市、山が窓の外に広がった。馬や牛や羊も見えた。高いところも通るが、思うにトンネルはまったくなかった。なだらかな高原を越していく。

 タシケントに向かう時はほぼ満席だった。日本人観光客も見かけた。帰りは前方に中国人の10人ほどのグループ、そしてスマホで大きな音でドラマや歌やニュースを流す現地の老人、そして何人もの幼児がいて、とても賑やかだった。

 

サマルカンド

 サマルカンドという土地にそれほどのなじみはなかった。なんとなく聞き覚えがある土地という程度だ。日本人のほとんどがそんなものだと思う。だが、行ってみて驚いた。これは素晴らしい都市だった。フィレンツェや京都やチェンマイに匹敵する古都だと思った。

 サマルカンドはティムール朝の祖であるティムールの活躍の場だった。そして、この地に一族とともに葬られている。

 ティムール朝、ティムール帝国! うーん、そういえば高校時代(私にとって暗黒の時代!)、世界史の時間にそのようなことを学んだ記憶があるが、50年以上前のことなのですっかり忘れてしまった! ガイドさんの説明を聞き、ガイドブックを読んで久しぶりに思い出した。このサマルカンドは13世紀の初めにチンギス・ハンによって徹底的に破壊され、その150年ほど後にティムールによって栄えた土地だった。

 最初に案内されたアミール・ティムール廟にまず圧倒された。何はともあれ美しい!青色の目立つ壮大な門、そして青色のドーム。サマルカンド全体が「青の都」と呼ばれているというが、青空の下に見える青を基調にした建物群には圧倒されるしかない。室内にティムールをはじめとする一族の墓が並べられている。

 ティムールの妃であったビビハニムを記念するビヒハニム・モスクも美しかった。今ではモスクとしては使われていないが、かつては巨大モスクだったという。修復されてかつての美しさを取り戻している。これも青を基調にした幾何学模様のタイルが敷き詰められた巨大なアーチがある。

 外だけでなく、内部も壮麗にして気品にあふれている。息をのむ。私はデザインだの美術などについて形容する語彙を持たないので、ただただ圧倒されるばかり。

 そして、それよりももっと圧倒されたのがシャヒジンダ廟群だった。石段を上ると、狭い通路の両側にティムールゆかりの人々の廟がいくつも立ち並んでいる。いずれも青を基調にした幾何学模様のタイルがびっしりと敷き詰められている。それが青空の下に続く。それぞれの建物の中も壮麗。

 ウルグベク天文台跡にも行った。ウルグベクというのはティムールの孫であり、ティムール朝の第四代君主にして天文学者。天文台で観測して1年の長さを割り出したが、なんとそれは現代の精密機械で測った時間と1分の差もないという。

 そして、私が何より気に入ったのは、街の中央にある市民の憩いの場であるレギスタン広場だった。これまた壮麗なアーチと青いドームに囲まれた石畳の広場だ。遠くから見れば薄茶色の建物だが、それもびっしりと青や金色の幾何学模様で覆われている。昼間の青空の下のたたずまいも壮麗だが、ライトアップされた夜も壮麗。広場の周囲には広い公園があって、木々があり、ベンチが置かれ、芝生が敷かれて市民が楽しんでいる。子どもたちが遊び、観光客が家族づれ、カップルが歩いている。ハンバーガーショップなどの店もいくつかある。

 暗くなると大音響の音楽がかかり、ライトショーが始まった。赤い光や青い光が建物を照らす。

 ただ実を言うと、毎晩、19時からForklore Theaterが行われるという表示があったので、1850分頃から広場全体が見渡せるテラスに陣取って何十人もの観光客とともに待っていたのだが、中止になったのか、いつまでたっても始まらず、2010分を過ぎてやっとライトアップショーが始まったのだった。しかも、クラシック音楽好きの私からすると、スピーカーからの割れた轟音は拷問に近い。10分ほどで退散した。

 

帰国

 526日、サマルカンドからタシケントに列車で戻り、タシケント見物をした後、空港に向かって、2140分出発の仁川経由のアシアナ航空便で、待ち時間も入れて合計18時間近くかけて成田に着いた(仁川で8時間ほど過ごした。マッサージを受けたり本を読んだりして、さほど退屈はしなかった)。

 私の中では、サマルカンドの美しさへの感動が大きい。外国から帰ってきたときに「また行きたい」と思うことは多いが、ほとんど数年たつと忘れてしまう。が、サマルカンドにはきっとまた行くだろう、という気がしている。

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GW前の京都の1日

 2025年4月23日、私が塾長を務める白藍塾が立命館宇治中学校の小論文指導をサポートしているので、その仕事(現在、私は執筆活動と白藍塾の仕事のみ続けている)で京都に行った。立命館宇治の先生方、生徒さんたちのおかげでとても良い仕事ができたと思う。その日のうちに東京に戻ってもよかったのだが、1泊して、24日、京都で過ごすことにした。24日は晴天。最高気温が23℃くらい。過ごしやすい気候だった。

 ところどころに修学旅行の生徒たちを見かけたが、まだ今の時期はそれほど多くはない。街には西洋系の観光客が目立った。西洋系の人たちの半分以上がTシャツ姿。中にはTシャツ短パンの人もいる。日本人のように長袖に上着を着ている・・・という人はゼロに近い。

 23日の夜、四条のホテル近くのコンビニに寄ってお茶を買おうとしたら、そこにいた30人近い客の8割が白人で、しかも列を守らないために大混乱に陥っていた。新聞記事で「外国人がマナー違反」という文章を読むと、近年ではつい中国人が批判されているというふうに判断するが、少なくとも現在の京都については、これは西洋人(ドイツ語らしい言語やスペイン語らしい言語がやたらと耳に届く!)のことらしい。新幹線の列車内の予約の必要な荷物置き場でも、それを無視して予約なしに荷物を置く外国人が問題になっているが、それも西洋人がほとんどなのかもしれない。

 中国の人たちは超有名な観光地に集中して団体で行動する傾向があるが、西洋人は個人や家族で行動してマニアックな寺院仏閣などを訪れる傾向にあるので、場合によっては西洋からの観光客のほうが日本人の生活の場に入り込んでいるのだろう。

 が、もちろん私は彼らを非難する気はない。1970年代、80年代、「パリの観光客は日本人ばかり。女性客がブランド店の前に行列をなし、男性客は夜遊びをする」として、日本人の無作法を指摘されているころ、私はヨーロッパを何度か訪れ、かなり長期間の旅行をした。まあそれほど無作法なことはしなかったとは思うものの、ひどい貧乏旅行の中でフランスの人に迷惑をかけ、勝手がわからず顰蹙を買うようなこともしたという自覚がある。オーバーツーリズム対策は必要だとは思うが、「外国人は無作法」と思わずに、「彼らは日本の勝手がわからずに、自国での流儀をそのまま繰り返しているだけ」ということは理解してほしいと思っている。

 

 ところで、今回、京都では長谷川等伯に縁のあるところを回ってみようと思った。

 美術にも、日本史にも疎い私が等伯を知ったのは、20年近く前、京都産業大学客員教授という資格で京都に頻繁に行き来していたころだ。様々なことに忙しい時期でなかなか観光はできなかったが、たまたま訪れた智積院で等伯と息子の久蔵の絵に出合った。息をのむ凄さだと思った。それ以来、京都を訪れ、時間があったら智積院にまで足を延ばして、これらの絵を見る。東京で長谷川等伯展が開かれるときには足を運ぶ。安部龍太郎の小説「等伯」も読んだ。もちろん素人なので、専門的なことはわからない。そんなに熱心に等伯に入れ込んでいるわけではない。ともあれ、京都見物の一つの方法として、今回は等伯ゆかりの地を訪ねてみようと思った。

 24日、四条のホテルに泊まっていたので、まず朝のうちに市バスで本法寺に向かった。等伯がかなり長期間滞在した寺で、確か安部の小説でもかなり細かく描かれていた。こじんまりした寺で、10時過ぎに着いたのでちょうどお寺の展示室を開いているところだった。最後まで観光客は私だけ。

 巨大な涅槃図が壁面にかけられていた。ただし、これは精巧なプリントだとのこと(今回観た中にも、真筆は展覧会のために別のところにあったり、一定期間しか一般公開しないという個所がいくつもあった)だが、情報を十分に仕入れずに、仕事の都合で観光をしている身にしてみれば致し方のないことだ。私の知っている楓図とも晩年の松林とも異なる、まるで若冲のような作風で、日本にいるはずのない動物が多数描かれていた。

 次は、また市バスで3つほど先の停留所にある大徳寺に向かった。大徳寺を訪れるのはたぶん3度目。気持ちよく歩いた。ここでも西洋系の人たちが静かに寺を楽しんでいた。

 ただ、等伯の絵があるという場所は立ち入り禁止で、等伯由来の場所も見つからなかった。関係者に尋ねようとしたが、観光客数人しか周囲にいない。仕方がないのであきらめて別の場所に行くことにした。

 が、広大な大徳寺を歩いているうちに、場所がわからなくなった。スマホで調べると、近くの駅や停留所までかなり歩かなければいけないようだ。寺の外に出たところでタクシーを見つけた(京都ではタクシーはなかなかつかまらないと聞いていたが、観光地では意外と見つけることができた!)。せっかくタクシーに乗ったからには、そのまま高台寺圓徳院に行くことにした。大徳寺で迷ったさいちゅうにスマホを調べて、そこに等伯の襖絵があることを知ったのだった(思ったよりもタクシー料金がかかったのは誤算だった!)。

 高台寺は観光客でごった返していた。西洋人も多いが、日本人、中国人らしい人も大勢いた。さっさと圓徳院に行って、庭園を楽しみ、等伯の襖絵を見つけた。襖に墨絵のように松林を描いたものだった(ただし、これも複製とのこと)。襖の色が濃いので、絵がはっきりと見えない。少々失望。ついでに、高台寺の庭園や方丈も見た。

 すでにかなりの脚の疲れを感じていたので、タクシーでなじみの智積院に向かった。2年前に完成した新しい宝物館で久蔵の「桜図」、等伯の「松に秋草図」「松に黄蜀葵図」「雪松図」をみる。大好きな絵だ。しばらくゆっくりと大好きな絵をみた。

 少し休んでから徒歩で京都国立博物館へ。「日本美のるつぼ」という特別展が行われていた。西洋に日本の美を知らせた作品、西洋の美術を取り入れてに日本人が描いた作品、日本にわたってきた中国や西洋の品など異文化交流を示す美術品が展示されていた。北斎の三十六景のいくつかや俵屋宗達の「風神雷神図」などがあった。面白く見て回った。

 朝、ホテルで欲張って朝食を食べたので、お昼の食欲がわかない。夕食が早めなので昼は抜くことにして観光を継続。

 タクシーで南禅寺に向かった。この寺はこれまで何度か訪れたことがある。案内の人に尋ねて、金地院(こんちいん)に等伯の襖絵があることを確かめて南禅寺の正面門の外にある金地院に入場。徳川家光を迎えるために作られた石を鶴亀の形に並べた部分を中心にした見事な庭園、その裏の東照宮をみて、その後、案内の人の説明を聞きながら方丈に入った。

 その一部屋に等伯の猿の絵があった。先日の東京での展覧会で観たものだったが、こうして襖絵としてみるとなかなか趣がある。池に映る月に手を伸ばしているテナガザル。実体のないものを求める愚かさを描いているという。ふわふわした猿の毛を描いて見事。

 そのほか、金地院の茶室などをみて、観光は終わり。その後、ホテルに戻って預けていた荷物を受け取って、京都駅へ。新阪急ホテルの地下にある贔屓の店・美濃吉で早めの夕食。筍の和え物と筍ご飯がとてもおいしかった。京都駅に移動して、新幹線で東京へ。

 ともあれ、欲張って駆け足になったが、満足のできる京都の一日だった。

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長崎ひとり旅

 2025年4月8日から10日、2泊3日の長崎旅行をした。

 九州出身でありながら、長崎県に足を踏み入れたのは、帰省の際に子どもたちをハウステンボスに車で連れて行ったときだけで、長崎市を見物したことがなかった。一度は行きたいと思っていた。今年の3月末日をもって、定年退職後も続けていた多摩大学の非常勤講師と入試顧問の仕事も辞め、MJ日本語教育学院の学院長の職も辞して、定期的に行う仕事から身を引いたのを機会に、長崎に行こうと思い立った。忙しかったり、コロナ禍にひっかかったりで、マイレージがたまりながら消化できず、むざむざと期限切れになるばかりだったが、その消費を兼ねての一人旅だ。

 なお、どうやって画像を入れればよいのかわからないので、このところの私の旅行記は例によって写真なし。ご容赦願いたい。 

4月8日

 昼過ぎのJAL機で長崎空港着。山や海に囲まれた空港。風光明媚! すぐにバスで長崎駅に向かった。

 私の一人旅は基本的に「いきあたりばったり」。ガイドブックは一応は購入して目を通すが、子どものころから「予習」は大の苦手で、勉強の場でも、ほとんど予習した記憶がない。旅行でも、私は予習できない(しようと思っても、頭に入らず、投げ出してしまう。ついでに言うと、自分がそうだったから、教員の仕事をしている間も、生徒や学生に予習を求めたことはない。「予習なんかしないで、予断を持たないで俺の説明を聞いてくれ」とずっと思っていた)。

 長崎駅内の観光案内所でもらった地図をみたら、「出島」という言葉が目に入った。そうか、長崎に来たからには、最初は出島に行くことにしよう!と思った。30年以上前、幕末に日本を訪れたフランス人の手記を訳したことがある。そのころ、出島に関する本もかなり読んだ記憶がある。出島は駅から市電ですぐのところにある。長崎市は市電が発達していて、とても便利。駅前のホテル(アパホテル長崎駅前店。ネットで見て、ロケーションが最高というのでここにしたのだったが、確かに、快適性などについてはそこそこだったが、ロケーションはこれ以上は望めないほどだった!)にチェックインして、荷物を置いてすぐに出発。

 今や周囲に町が広がっているが、出島があったところにそのまま残っているのだろう。川べりの一角にかつての出島を再現し、そこで過ごした人たちの生活がわかるような解説が施されている。こじんまりした施設だが、きれいに整備されている。

 侍の格好をした職員が数人。ボランティアの案内の方もおられるようだったが、私はぶらぶらと部屋をのぞいて歩いた。上映されている短い映画をみた。帝国主義の出先であると同時に、知の最先端でもあった出島がわかりやすい形で示されていた。客はぽつりぽつり。西洋系の観光客がほとんど。高齢のご夫婦に見える人が多い。

 市電を使うと、大浦天主堂とグラバー園も簡単に行けることに気づいた。先に大浦天主堂に向かった。坂を上り、観光客らしい人についていくと、おみやげ物屋やレストランの並ぶ道を歩いて、すぐに丘の上に紺碧の空を背景に白壁の聖堂が見えた。ごくこじんまりした聖堂だが、とても美しい。凛とした姿とでもいうか。1597年に殉教した26人の日本人に捧げられた聖堂で、博物館が併設され、日本におけるキリスト教の歴史、聖堂建設にあたった神父たちの苦労などを知らせる展示物がある。私は、カトリック系の幼稚園に通ったせいか、子どものころからカトリック文化にはなじんでいる。隠れキリシタンに関心をもって調べたこともある。感慨深い。

 大浦天主堂を出た時にはあたりは夕方になりかけていたので、グラバー園には改めて行くことにして、市電で駅を通り過ぎて、平和公園まで行ってみた。やはり長崎に来たからには、原爆関係の場所をみておきたい。

 市民が日常生活の中で利用する広場かと思っていたら、エスカレーターで登って、小高い場所に広がる公園だった。平和公園は特別の地として存在しているようだ。いくつもの彫刻があり、噴水があり、あの有名な右腕を空に向けた青い男性像がある。薄暗くなる時刻であるせいか、訪れていたのは、外国人観光客(ほとんどがアジア系)数名だった。

 しばらく歩いてから、市電で駅付近に戻って、アミュプラザの魚料理の店で食事をした。かぶと煮は絶品だった。

 長崎はこじんまりして清潔な街。もしかしたら原爆で古いものが破壊されたためかもしれない。東京と違って、横断歩道を歩こうとすると、車は必ず停車してくれる。観光客は、西洋系の人が多い。

 

8月9日

 平戸に行こうかとぼんやりと考えていたのだが、調べてみたら、長崎市からかなり遠い。何も考えずに長崎市内に2泊のホテルを取ったので、平戸に行くと、長崎まで戻るのが大変。そこで、佐世保に行くことにした。軍港都市佐世保といったくらいの知識しかないが、ともあれ少し佐世保を歩いてみることにした。

 佐世保までJR快速シーサイドライナーで2時間弱。質素ながらおしゃれな電車。諫早などを経由し、時折、文字通り窓の外に海が広がる。山間部や田園地帯は、私が育った大分県とよく似ている。植物も山の形、家の形も私にはなじみの光景だ。

 ガイドブックをみると、佐世保では九十九島の眺めが絶景だという。島に行くには大変そうだが、佐世保の陸地に展望台があるという。そこに行ってみようと思った。

 佐世保駅について、駅構内の観光案内所で担当の方にその旨を話してみると、「12時10分に駅前を出る九十九島観光公園行きの路線バスがあり、それに50分ほど乗って展海峰で降りれば九十九島がみられる」とのこと。ただし、1日に1往復なので、そこで20分ほど過ごしたら、同じバスに乗って帰らなければ今日中には帰れなくなる。タクシーを呼ぶのもなかなか大変とのこと。すでに12時5分。あわててバス乗り場に向かった。

 5分ほど遅れてバスは到着。乗客は観光客らしい人(日本人と中国人)数名をのぞいて現地の人。それぞれに顔見知りのようで声を掛け合っている。圧倒的に80歳以上、あるいは90歳前後の高齢者が多い。バスは都市部を抜け、すぐに農村地帯に入った。狭い道をぐるぐる回って、丘の上の方に行ったり、また降りたり。降りてくると、海沿いの道を走る。高齢の客は買い物帰りらしい。買い物袋をもって停留所で降りる。かなりの高齢者で歩くのがやっとという人も多い。バスが止まって、よろよろしながら降りるので、かなり時間がかかる。バスの停留所で降りる客の三人に一人くらいがそのような状態。

 ふと思った。このバスは本当に一日に一往復のみらしい。私のような観光客以外の乗客はおそらくこの地域の住民で、街で買い物をしての帰りなのだろう。だが、考えてみると、少なくとも2往復のバスがないと、乗客はどこかに行って、用を済ませて帰ることができない。だとすると、この人たちはいつ佐世保の中心に行ったのだろう。前日のバスに乗って、市街地のどこかで泊まったのか。それとも、今朝、誰かに車に乗せて行ってもらったのか。いずれにせよ、恐ろしく苦労して街に買い物に出かけているのだと思った。

 50分ほどバスに乗って展海峰に到着。そこまで乗っていたの乗客はすべてが観光客だった。合計10名ほど。たぶん半分ほどが外国人(中国系?)。桜が咲き誇り、その横を歩いて高台に行くと、まさに絶景が広がっていた。

 ベトナムのハロン湾や桂林の風景を思い出した。海の中に緑色のたくさんの島が浮かんでいる。九十九は大げさかもしれないが、50や60の島は見て取れる。かすんでいるが、遠くに見えるのは五島列島らしい。

 展望台の横に「美しき天然」の作曲者・田中穂積の像があった。田中はこの景色から着想をして「美しき天然」を作曲したという。私が子どものころ、この曲はクラシックまがいの曲としてよく演奏されていた。傷痍軍人がヴァイオリンやアコーディオンで弾く定番の曲でもあった。久しぶりにこのメロディを思い出した。

 折り返してきたバスに乗って佐世保の中心街に戻り、遅い昼食として、繁華街で佐世保バーガーを食べた。おいしかったが、食べにくかった。客は私一人だけだったので、現地の人がどうやって食べているのか確かめられなかった。大きすぎて口に入らず、ソースや肉がこぼれてしまった。

 駅の反対側の出口を出て、佐世保港で少し時間を過ごしてから、高速バスで長崎に戻った。まだ明るかったので、グラバー園に急いで、グラバー亭やその周辺を散策。市内を一望できた。帝国主義、植民地主義の一つの表れではあるが、これはこれで間違いなく日本の近代化である歴史を知ることができた。

 夜、思案橋付近の雑魚屋という魚料理の店で食事。刺身、かぶと煮、すべて絶品。久しぶりに感動的なほどにうまい刺身を食べた! 

 

4月10日

 雨の予報。荷物をホテルに預けて、雨がひどくならないうちにと思って、市役所前まで市電で行き、そこから歩いて中島川沿いに歩いた。川にかかる橋をみて歩いた。有名な眼鏡橋だけでなく、すべての橋に風情がある。

 中島川と並行に走る寺町通を歩いて、まさに寺の中を歩き、ベルナード観光通り、浜市商店街アーケードを歩いた。特に目的地があるわけではなく、ただ歩くだけ。20代、30代のころ、こうやって海外の街をほっつき歩いたものだ。しばしば道に迷い、途方に暮れ、怪しい場所に入り込み、まあまあ何とかホテルに戻れた。それが私の旅だった。今は、そのころと違ってすぐに疲れて歩けなくなるが、スマホがあるので迷子にはならない。しかも、現在の私は、いざとなればタクシーに乗れるだけの経済力を持っている!

 その後、新地中華街にいった。長崎の中華街は、横浜の中華街に比べると規模が小さく、一つ一つの店も狭い感じがするが、区画の四方に門があり、店先で豚まんなどを売る店もあって、雰囲気はもちろんよく似ている。江山楼でちゃんぽんと豚の角煮を食べた。これも絶品! ちゃんぽんのスープは濃厚。豚の角煮はとろける柔らかさ。客のほとんどは日本人だと思うが、中国人、西洋人もいたようだ。

 雨が降り出したので、原爆資料館と追悼記念館に行った。原爆の悲劇が再現されている。あまりに残酷なものは避けられていると思うが、それでも原爆の悲惨は伝わる。見学者の三分の二が西洋人。残りが日本人とアジア系の外国人。日本人は一、二割に思えた。日本人はここはあまり訪れないのだろうか。

 追悼平和祈念館にはほとんど人はいなかった。犠牲になった人々の写真が飾られ、それぞれの言葉が残され、亡き人の魂を鎮魂するモニュメントがあった。ゆっくり歩いてみて回った。

 カトリック信者が最も多く暮らし、日本における西洋化、近代化の先端にある長崎がよりによって原爆投下の場所にされたことに皮肉を覚えるしかない。

 外に出ると大雨になっていた。市電で駅まで行き、コーヒーを飲みながら雨がやむのを待った。もう少し市内を見て回ろうと思っていたが、雨のせいで動けなくなった。中途半端な時間になって、これからどこかに行ったら、帰りの便に間に合わなくなる。早すぎるが、荷物をホテルで引き取り、そのまま高速バスで空港に向かった。

 この旅行を思い立ったのが遅かったためにすでに満席だったせいか、それともマイレージの特典航空券に制約があったのか忘れたが、20時30分に長崎を出発する便しか取れなかった。遅延したら困るなと思っていたのだったが、天候のせいで飛行機の到着が遅れ、40分遅れで出発。飛行機から降りた時には23時近くになっていた。しかも羽田は土砂降り!

 電車を乗り継いで帰れなくはないが、夜中に電車で最寄り駅まで行っても、その先、我が家までは歩いて20分はかかる。この土砂降りではタクシーを最寄り駅で捕まえるのは無理だろう。土砂降りの中を歩いたら、間違いなく風邪をひいてしまう。ええい、思い切って羽田からタクシーに乗っちゃえ!と腹を決めた。多摩地区の我が家まで1万円以上かかるかも、と思ったのだったが、ほぼ予想の2倍かかってしまった! が、まあ、マイレージを使っての旅ではあったし、ホテルもケチったし、全体的には安上がりで済んだので、まあこれでよしとしよう。ただし教訓として、夜遅い便は避けるべし! ともあれ楽しい一人旅だった。

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ロンドン・ダブリン旅行

 20241014日から23日まで、イギリス、アイルランドに旅行した。イギリスは1986年、2000年につづいて3回目。24年ぶりということになる。アイルランドは初めて。

 この10年ほど、母の容態がよくなく、いつ何が起こっても不思議はない状態なので、海外旅行に行ってもアジア地域、しかも5日前後の日数にしていたが、母の状態も安定。息子がロンドンに滞在しているので、大学が学園祭で休講になるこの時期を狙って出かけたのだった。ただ、出発直前に母の体調が悪くなったのでひやひやしながらの旅行だったが、母も持ち直し、ともあれ無事に帰ってこられた。息子があちこち案内してくれて、楽しい旅行になった。

 すでに10月24日(帰国の翌日だった)に東京文化会館でみた「影のない女」についての感想をアップしたので、時間的に前後するが、旅の簡単な報告をここに記す。これまで同様、私の技術不足のせいで、このブログに写真を載せることができない。残念だが。

 

1014

 130 5分羽田出発。

 ヒースロー空港で、滑走路に別の飛行機が現れたということで、着陸やり直し。しかし、大きな動揺なく着陸。ヴィクトリア駅付近のホテル。雰囲気があって清潔。この値段だったら、日本では豪華ホテルのはずだが、イギリスでは普通のホテル。

 

15

 朝、早く目が覚めたので、ハイドパークを散歩。ぽつりぽつりと散策する人がいる。気温は10℃前後。晴れていて気持ちがいい。

 その後、息子が来てくれてロンドンを案内してくれた。バッキンガム宮殿の前を通って、ナショナルギャラリーへ行き、レンブラントなどの絵を鑑賞。その後、ウォーターストーンという書店見物。書店は、一つの美術館のよう。空間をぜいたくに使って、色彩美しく展示されている。ただ、日本文学も日本史もスペースは少ない。当然のことではあるが、ヨーロッパが知的関心の対象であって、それ以外は旧植民地であった地域がこちらの人の関心であることがよくわかる。ただその中に、村上春樹の数冊があり、柚月麻子の「バター」は平積みになっていた。

 フォートナム&メイソンというデパートでちょっとしたおみやげ物を買って、バスでウェストミンスター寺院へ。入場料が130ポンド。今の価格では6000円。2人分払って、なんと12,000円!

 堂々たる建築物で、その威容はさすがなのだが、フランスやイタリアの寺院と比べてどうも俗っぽく感じる。装飾が簡素で機能的というか。

 

 24年ぶりのロンドンだが、全体的な印象は変わらない。以前もパリよりもずっと整然としているという印象を抱いていたが、今回もそう思った。2階建てのバスが走り、機能的に都市が動いている。

 外国に行って最も気になるのは、公共交通網の切符の買い方、乗り方だが、クレジットカードでバスや地下鉄にそのまま乗れるのもありがたい。グーグルマップで交通経路を調べ、その通りに乗ればどこにでも行くことができる。私は、ドコモを使用しているので、「そのままギガ」を契約。ありがたいことに、海外でも自由にスマホが使える。

 以前来た時も、「アングロサクソンの国と言われるわりには有色人種が多い」と思ったが、今回はそのレベルではない。ロンドンのどこを歩いても、白人は半分以下の比率という感じ。東洋系が多い。昔は東洋系と言えば、定住している中国系らしい人以外は日本人だったが、今は、様々な国の出身者がいるようだ。本当にさまざまな言語が聞こえてくる。まさにグローバル社会! 

 

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 大英博物館を訪れて、アフリカと日本の展示物を中心に見た。英国から見た世界が良くわかる。あえて植民地主義とは言わないが、どうしてもヨーロッパ中心の地理、ヨーロッパ文化がスタンダードであって、アフリカ、アジアは、それなりに魅力的な、しかし未開の文化という扱い。しかももちろんかつて英領であった地域が中心。

 お昼は中華街を歩いて、中華の店で北京ダックなどを食べた。おいしかったが、高い!

 夕方、コヴェントガーデンの英国ロイヤル・オペラ・ハウスで「フィデリオ」をみた(これについては別に感想を書く予定)。劇場の周辺は市場になっており、オープンスペースのレストランがたくさんあった。映画「マイ・フェア・レディ」でオードリー・ヘプバーンが歌ったうす汚れた市場(他は吹替だったが、ここで歌ったのだけはヘプバーン自身だったといわれている)があるのではないかと思っていたが、さすがにもうきれいに整備されたようだった。

 

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 ひとりでロンドン出発のツアーに参加して、ウィンザー城、ストーンヘンジ、バース観光。

 ヴィクトリア・コーチ・ステーションで7時半に集合、エヴァンエヴァンズ社の観光バスで出発することになっていたが、日本語ガイドツアーのはずなのに、日本人らしい人が数人しか見当たらないので心配になった。結局、日本人は7人、他の国の人が20数名の総勢30人前後のツアーだった。ガイドさんは、おそらく70代のイギリス人女性。英語の発音はとてもきれいで流暢。日本語はたどたどしい。英語で説明した後、その三分一くらいの時間で日本語で話す。ずっと語りが続くので、私としては少々煩わしかった。

 ウィンザー城はウィンザー家の居城。清潔できれいに整備されており、歴史から現在までの王族の生活ぶりがわかる。城からの見晴らしが絶景。ただ、ヴェルサイユ宮殿などに比べると、かなり簡素で、宗教性が薄いのを感じた。衛兵交代式をみることができた。金色や赤色の兜をかぶったトロンボーン中心の楽隊の後、大きな黒い帽子、赤い軍服、黒いズボンの兵隊が行進。道路わきは観光客の人だかり。

 1時間以上バスに乗って、次はストーンヘンジ。

 施設の入り口から行列を作ってシャトルバスに乗り込み、数分して降ろされ、野原を歩いて、ストーンヘンジの石が見えてくる。観光客が取り巻く中、青空の下に十数個の石が見える。日本の神社などにもありそうな石たちなのだ、5000年ほど前からここにあるとすると、これは確かにただごとではない。どうやってこれらの石が運ばれたのか、これにどのような意味があるのか、まだ不明だと言う。ただ、単なる石なので、観光客としては、とりわけ感動するものはなかった。

 再び1時間ほどかけて、今度はバースへ。バースと日本語で呼んでいるが、要するにBath、つまり「お風呂」。温泉が出て、ローマ時代のお風呂が作られ、それによって発展した街。中世の佇まいがあちこちに残っており、歩くだけでも落ち着く。ローマ時代の浴場に入った。日本語の音声ガイドなどがついて建物の中を見て回った。映像などでローマ時代が再現されている。

 ただ、カルカッソンヌやモン・サン・ミシェルなどと比べると、これもいかにも簡素。ごてごてしたフランスやイタリアの建築物よりもずっと機能的なのを強く感じる。

 高速道路を通って、2時間半ほどかけてロンドンに戻った。左右に牧場が広がり、満月が見えた。

 

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 午後、ヴィクトリア駅から列車でカンタベリーへ。1時間半ほどで到着。綺麗で乗り心地の良い郊外電車。カンタベリー・イースト駅で降りて10分ほど歩いてカンタベリー大聖堂に到着。途中から大聖堂の屋根が見えてその方向に歩いた。

 素人なので、建築様式などについてはまったくわからないが、シャルトル大聖堂に行った時のことを思い出した。同じような佇まいの静かな街。威容を誇る大聖堂。

 大聖堂の中を見物。厳かで壮大で静か。

 

19日(ロンドン→ダブリン)

 息子とダブリン一泊旅行を予定していた。

 ヒースロー空港のアイルランドの航空会社Aer lingus の搭乗手続きは大混乱。担当者2人が搭乗手続きをしていたが、モタモタしていてなかなか進まない。

 1泊だけなので荷物は預けずに、手荷物だけにしたが、セキュリティにひっかかって大変だった。アラームが鳴ったということで、別のところに連れて行かれ、バッグの中を荷物の一つ一つ、空のバックの各部分に何度もスキャナーのような機械をあて、それを分析機にかける。私は手動タイプのお尻洗浄機を持ち歩いているが、それを出されて、「これは何か」と聞かれて返事に困った。が、ともあれ、何度やってもアラームが鳴る。なぜアラームが鳴るのか担当者にもわからないとのことで、結局、責任者のような人が来て、私のパスポートを見ながら何かの書類に書きつけていたが、ともあれ通してもらえた。

 

 ダブリン空港に無事到着。ただ、着陸から30分ほど、タラップや移動用のバスが到着せず、飛行機の中に閉じ込められたままだった。アイルランドでは、イギリスに比べてこの種の不手際を感じることが多かった。

 アイルランドを訪れるのは初めて。私にとっては、オスカー・ワイルド、ジェームス・ジョイス、サミュエル・ベケットの祖国。そして、ワーグナーの様々な作品の素材になった国。それ以外にはほとんど知識がない!

 タクシーで市内のホテルに。晴れていて気持ちが良い。緑の多いきれいな道路。ただ道はかなり渋滞していた。

 ホテルでも、予約がうまく伝わっておらず、チェックインにかなりの時間を要した。

 荷物を置いて早速食事。ホテル近くのバルト海料理の店で食べた。たまたまかもしれないが、イギリスでそれまで食べたどこよりもおいしかった。値段もロンドンの3分の2くらい。日本の2倍くらい。安いと思うようになってしまった。

 まずは、ダブリン城をめざすことにした。

 マルボロ・ストリートを歩き、目についたプロ大聖堂を見ながら、先に進んだ。

 ひょいと見ると、不思議な大きな塔があったので、その方向に歩いた。

 それはダブリンの尖塔と呼ばれるもので、2002年に設立された高さ120メートルの金属製の尖塔。そのすぐ横に円形のモニュメントがあり、人だかりができていた。円形のモニュメントがディスプレイ面になっており、そこは映像が映し出されていた。その映像はニューヨークのもので、ニューヨークと映像でつないで友好の象徴にしようとして作られたものだと言う。ところが不適切な使用がなされたためしばらく中止され、今年になって再開されたとのこと。

 それにしてもこの国はイギリスの影響を強く受けながら、英国には強い敵愾心を抱き、アメリカに好意を抱いているのを感じる。アメリカに渡ったアイルランド人が多いこともその理由だろう。空港にもアメリカ国籍の人間を優遇するような標記があった(どんなものだったか忘れた!)。きっとイギリスとアイルランドは、日本と韓国のような関係なのだろう。

 オコンネル通り(もちろん、アイルランド解放の英雄ダニエル・オコンネルにまつわる名称だろう)を歩いた。ダブリンの中心的な通りのようだ。広い通りで左右にはデパートや様々なお店が並んでいる。土曜日だったので、人出も多くごった返している。本当にいろんな人種の人たちがいる。東洋系も多い。インド系アフリカ系も見かける。

 

 ロンドンとはかなり雰囲気が異なる。ちょっとうらぶれた感じがする。ロンドンほど高級な店がなく、ロンドンほど近代的な建築物がない。せいぜい、5階建て、6階建ての建物。むしろ私は、40年以上前に歩いた東ヨーロッパの国や、数年前に旅行したイルクーツクの街並みを思い出した。

 あちこちをトラムが走り、ちょっと古ぼけた建物が左右に並び、普段着の人々が歩いている。なんだか少し街の色が薄い気がする。

 英国国教会とカトリックの違いもあるのかもしれない。英国とは異なる、フランスの裏町を歩いているような気分になる地区もある。もう少し厳密に考えてみなければわからないが、直感的には、やはりイギリスと大陸の中間のような感じがする。

 オコンネル橋を通ってリフィー川を渡って川沿い歩いた。よどんだ川。川辺の道にも商店やレストラン、パブが並んでいる。だが、いずれも年代を帯びた雰囲気。10分ほど歩いたところにダブリン城があった。

 ダブリン城は1204年に初めに建てられ、その後、改修されて現在に至る。イギリスによるアイルランド支配の象徴だと言う。石畳の中庭はとても美しく、どこから見える灰色の石造りの城は、とても赴きがあった。

 その後、私の最も好きなアイルランド作家であるオスカー・ワイルド記念館の方向に行こうとしているうち、トリニティ・カレッジ・ダブリンの構内に入っていることに気づいた。要するにダブリン大学ということらしい。とても雰囲気のある大学。日本の国立大学の雰囲気にとてもよく似ている。芝生が広がり、校舎と校舎を結ぶ静かな道を学生たち、そしてもしかしたら周辺住民や観光客?も歩いている。

 歩いてオスカー、ワイルド記念館に行った。ワイルドの生涯を解説する短い映画を見て何かを見物。ワイルドの生涯、そして同性愛に関するスキャンダルなどを解説した動画だった。

 バスでホテルに戻って休憩。その後、夕方からテンプル・バーに歩いて中に入ろうとしたが、ものすごい人だかり。お店の中も大きな音を立てて、大勢の人が大声で喋りながら飲んでおり、中に入る雰囲気ではない。少し歩いてリーフィ川沿いのパブに入った。ここも大きな音楽がかかり、お客さんが大声で喋っていてゆっくりできない。ギネスをいっぱいだけ飲んで外に出た。

 ホテルに戻って、ホテルのレストランで夕食。フィッシュ・アンド・チップスを頼んだ。おいしかった。イギリスとは段違いにおいしい!

 

20日(ダブリン→ロンドン)

 気温は10℃ほどだったが、かなりの強風。体感的にはかなり寒かった。

 中央郵便局(1916年、アイルランド独立の義勇軍司令部がおかれた場所)、クライストチャーチ(地下礼拝堂のある大聖堂。聖人の心臓、猫とネズミのミイラなどがあった)、

 聖パトリック大聖堂(13世紀建造)をみた。聖パトリック大聖堂の前の広場では市が立てられており、テントの下にパンや雑貨品、絵画などが売られていた。

 歩道を歩いているとき、ショルダーバッグに異変を感じてふと振り向くと、中東系に思われる40歳前後の男女四人がすぐ後ろを歩いており、男の一人が私のバッグの中に手を突っ込んでいた。すぐに払いのけたら、男は笑いながら何かを言って遠ざかっていった。きっと「たまたまぶつかっただけだよ」とでも言っているのだろう。金目のものはすべて身に着けており、バッグには常備薬や筆記用具、ティッシュペーパー、ガイドブックくらいしか入っていない。男もきっとがっかりしただろう。こちらは私と、私と同じくらいに腕力に自信のない息子の二人。衝突しても勝ち目がないので、そのままにした。

 午後には郊外までバスで行って、キルメイナム刑務所(アイルランド独立のための闘士が入獄していた)をみた。館内ツアーに参加したら、ガイドさんの言葉が不思議な節回しの英語でまったくと言っていいほど聞き取れなかった。途中でめげて退出。

 台風並みの強風になったので、欠航になるのではないかと心配して早めに空港に行った。19時のヒースロー行きは1時間ほど遅れたが、ともあれ離陸。無事ヒースロー到着。

 ロンドンの後半の宿は、ファランドン駅付近のビジネスホテル風のホテル。それなりに快適だが、設備はそこそこ。しかし、このくらいの値段を出せば、日本では高級ホテルに泊まれる。

 

21

 昔、ヴァレリー・ラルボーの短編を読んで、チェルシーという地域が気になっていたので、ひとりでスローン・スクエア駅まで地下鉄で行き、周辺を歩き回った。おしゃれな裏通りを歩き回るうち、ハロッズが目に入った。有名なデパートではないか! 中に入ってみたら、高級ブランド品が並んでいて、これは私の立ち入るところではない。が、うろうろしているうち、地下にお土産物コーナーがあることに気づいた。孫たちにお土産を買った。

 その後ホテルに戻ろうとしたが、Google マップでよく似た名前の別のホテルを指定したようで、まったく違う場所に導かれた。しかも悪いことに、「そのままギガ」がこの時に限って「圏外」になってしまい、しばらく動きが取れなかった。

 30分ほどで回復。昼過ぎにようやくホテル到着。

 15時に息子と合流。ベイカー街のシャーロック・ホームズ博物館見物。ロンドン・ブリッジ、タワー・ブリッジ、ロンドン搭など、定番の観光地を歩いた。これまでの二度の旅行でも見たはずだが、覚えがない。

 ロンドン最後の夜、息子と二人で日本料理店・池田で食事。外国でこんなにおいしい寿司が食べられるのか!と驚くほどおいしかった。翌々日には、私は日本に帰るので、行きつけの安くておいしいすし屋に行けば五分の一、あるいはことによると十分の一くらいの料金で同じくらいおいしい寿司を食べられると思ったが、私の旅行に付き合ってくれた息子への感謝の気持ちとしてごちそうすることにした(もっとも、息子のほうは、ホームシック気味だったところに私が訪れたので、これ幸いと日本語で話しまくり、ついでにすっと食べたいと思っていた日本食を食べるのに私の財布を利用したということなのかもしれないが)。

 

22日~23日 

 早朝にヒースロー空港に行き、9時40分の日航機で日本へ。日本時間、23日午前7時過ぎに無事、帰国。

 

 

今回の旅行で感じたこと

・2014年を最後にフランス、ドイツにも行っていないので、今のほかのヨーロッパの国がどのような状況なのかわからないので、ロンドン独特の状況を語ることができない。大した発見をすることはできなかった。

・悲しい話だが、まずは日本人の誰もが最初に驚くのは物価の高さだろう。何もかもが高い! 日本経済の低迷、円安(1ポンドが約200円だった!)などが原因だろうが、それにしても! すべてのものが日本の3倍から4倍。レストランに行って、パスタなどでも1品10ポンド以下のものはほとんどない。飲み物などをつけると、20ポンド、つまり4000円くらいになる。しかもまったくおいしくない!

・グローバル化がはなはだしい。かつてはさまざまな人種の人がいるとはいえ、ロンドンではみんなが英語を話していたような気がする。ところが、今は、観光地でないところを歩いていても外国語が普通に聞こえてくる。隣の人、あるいは携帯電話で母語で話している。ほとんどの人が2か国語を使っているのだろうが、もしかしたら母語しかできない人もいるのかもしれない。

・レストランでのこと。隣の席で若い二人が盛んにしゃべっていた。一人はおそらくネイティブ、もう一人は中東出身。ふつうに流暢にしゃべっているが、中東出身らしい人の英語の発音は、私が聴いてもかなりおかしなものだった。そう思って聞くと、聞こえてくる英語の発音がかなりひどい。もはや、「きれいな英語」である必要はなくなっているのかもしれない。

・以前に比べて掃除が行き届いているように思った。世界中で清潔意識が高まっている。もしかしたら、コロナの影響?

・グローバル化が進んでおり、どこに行っても様々な人種。ただ、ロイヤル・オペラハウスに行くと、もちろん私を含めて有色人種も大勢いるが、圧倒的に白人の比率が高くなる。クラシック音楽は白人文化だということなのだろう。

・以前ロンドンを訪れた時、あちこちで日本人観光客に出会った。時期によるのかもしれないが、今回は、バッキンガム宮殿やホームズ博物館のような定番の箇所で数人見かけるくらいだった。中国人、韓国人観光客には大勢出会った。円安のせいもあるのかもしれないが、日本人は外国旅行を控えている? 両替のお店をのぞいてみたが、円のレートが出ていないお店が多かった。日本の存在感が薄れている。

・個人的なことだが、このトシで英語圏を一人で動き回るのはつらいと思った。英語圏では、英語を話すのが当然という前提で話しかけられる。ほかの国では、外国語として英語で話しかけられるので、いまのところ、まあどうにかなる。私の英語力とフランス語力は20歳代をピークにして、今や底を打っている。

・クレジットカードとスマホがあれば、迷わずに目的地に到着できる。キャッシュレス化しているので、現地の現金に換える必要もない、私は英国ポンドとアイルランドのためのユーロに換金して出かけたが、まったく現金は使わなかった。

・あいかわらずイギリスは食べ物がまずい。よく言われることであるし、私自身、これまでのロンドン滞在で十分に体験していたが、今も変わらないのにショックを受けた。グローバル化のためにいくらか改善されていると思ったのだが、相変わらず味がない。エスニック料理だともっとおいしいのかもしれない。

・ダブリンは、明らかにロンドンと雰囲気が異なる。単に小都市と大都市の違いを超えて、宗教の違い、歴史の違いがあるのだと思う。だが、知識を十分に持たない私にはどう違うのは分析的にとらえることはできない。

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歩行者の見えない国ブルネイ 旅行メモ

 2024年7月1日から5日にかけて、ブルネイ旅行に出かけた。これまで何度か利用した旅行代理店のツアーに参加。と言っても、参加者は私と30代の息子の二人だけの個人ツアー。初めは私一人が計画していたが、ちょうど時間の空いた息子が興味をもって同行することになったのだった。

 ブルネイに行きたいと思ったのは、ただ単にまだ行ったことがなかったから。これまで、北朝鮮やブータンを含むアジア地域のほとんどの国に出かけた。このところ、サウジアラビア、パキスタン、バングラデシュなどのイスラム国になじんでいるので、「アジア地域にあって石油を算出する豊かな小さなイスラム教の王国ブルネイ」をみてもいいなという気になったのだった。

 ガイドさん(日本国籍を持つ60代の女性だが、ご両親は中国系だという。日本語も完璧、ほかの様々な言語に通じて、しかも社会事情にも明るい!)に連れられて、市内を回った。少々疲れて「旅行記」を書く気力がないので、メモを記す。

 

  • 訪れた場所

・トゥトン地区文化保護ツア (ココナッツオイルの精製工場や伝統家屋、サゴヤシの加工工場などを見学)

 伝統家屋はとても興味深かった。高床式で、ボートで近くの川に行き来する。まさにジャングルとの共存。

・カイポン・アイール(水上集落)

 ブルネイ川に浮かぶ集落。コンクリートの杭を打ってその上に家を建てて13千人ほどが暮らしているという。涼しくて虫やネズミが来ないということでこのような生活を行っているらしい。ほとんどの人はボートで陸地に行き、そこから車で職場に通う。国王らが陸地に移住させようとしているらしいが、多くの人がそれを拒否しているという。壮観だった! 

・旧モスク

 第28代の国王のモスク。1958年完成。簡素だが、優美で美しい。

・新モスク 

 現国王が建設した壮大なモスク。

・ロイヤルレガリア/王室資料館

 第二次大戦中、ブルネイ知事に任命された木村強と国王の友情物語をガイドさんに話してもらった。

・イスタナ・ヌルル・イマン/王宮

 

 

・ヤヤサンショッピングモール

地方都市のやや大きめのスーパーという感じ。

・マングローブリバーサファリ

 ボートで水上集落を抜け、海の方に向かってマングローブの林をみた。野生のワニが見え、テングザルの遊ぶ姿が見えた。

・エンパイアホテル

 南シナ海に沈む夕日をみた。美しかった。

 

  • 国についての感想

・空港の規模は日本の地方の空港(私になじみの場所で言えば、大分空港)よりも少し大きいくらいで、清潔に保たれている。

・昼間の気温は30度前後。雨が降った後だったようで湿気が多い。

・申告すればアルコールの持ち込みも許されるとのことだったので、ウィスキーの小さな瓶を息子と二人で飲むために持ち込んだら、空港でかなり面倒な手続きをしなければならなかった。アルコール類を国内に入れたくないようだ。

・豊かな国と言われているが、人々の服装に関してはそれほど豊かには見えない。サウジアラビアは見るからに裕福そうな人が大勢いたが、こちらはみんな安っぽい服を着ているように見える。きわめて庶民的でのどか。

・車の運転マナーは日本よりはよいと思う。きちんと車間距離をあけて整然と運転する。私が横断歩道を渡ろうとすると、みんながとおしてくれる。車は、日本車が8割程度。金持ちの国と聞いていたが、ドイツの高級車などはめったに見かけない。ほとんどが日本の中級車。警笛はほどんど鳴らさない。静かな運転。

・道路などの社会インフラが整備されている。電柱も少ない。道路も清潔で、ほかの東南アジアの国のようにごみが散乱していない。物音もしない。無駄な音楽もかかっていない。どこもとても静か。

・緑が多い。まさにジャングルの中にできた都市。ホテル付近を歩いたら、ホテルから200メートルほどのところはジャングルのようになっており、川が流れており、そこには「ワニに注意」の看板があった!

・近代的な建物が並んでいる。すべてが清潔で、公園なども整備されている。サウジアラビアでも同じように感じたが、こちらはもっと自然で庶民的な感じ。建物もサウジアラビアのように巨大だったり、斬新なデザインだったりせず、きわめてオーソドックスな建物で、高さも5、6階建てが多い。

・イスラム国であり、住人の7割以上がイスラム教徒のはずなのに、それほどモスクが見えない。サウジアラビアやバングラデシュやパキスタンでは、少し歩くとモスクが目に入ったが、めったに見かけない。人口が少ないせいか。コーランの声が聞こえたのは数回だけだった。

・厳格なイスラム国家かと思ったら、そうでもない。ヒジャブをつけていないイスラム教徒らしい女性も多く見かける。家族に見えるのに、つけている女性とそうでない女性が混じっている。

・道路だけではない。お店もとても清潔。市場や屋台にも行ったが、そこも異様なほど清潔。ほかの東南アジアの国のようにハエがたかることもない。においが充満していることもない。残飯なども見当たらない。きっとゴミ掃除の仕事をしている人がいるのだろう。

・歩行者が見当たらない。道路がある。街並みがある。たくさんの車が日本の都市と同じように行きかっている。停車している車も多い。ところが、人が歩いていない! たまに人影をみるのは、車とお店の間を歩いている人だけ。道路に人がいない! 歩道も整備されていない。ガイドさんに尋ねてみると、どの家にも車が何台かあって、どこに行くにも車を使うとのこと。電車はなく、バスもめったにない。バスに乗っているのは限られた貧しい人だけとのこと。こんなに歩行者のいない国は初めて! 

・テレビはチャンネルが2つで、一つが国営放送。もう一つが宗教放送。エンタメと言えるようなものは皆無とのこと。

・食事は、日本国籍のガイドさんが上手に選んでくれているためかもしれないが、とても日本人の口に合っていて、おいしい。辛すぎない。

・すべての施設には国王と皇后の写真が飾られている。それは義務とのこと。ただ、国民は心から国王夫妻を尊敬しているようだ。

・観光産業がまだ整備されていないようで、観光客にもあまり出会わない。モスクなどの観光地に行っても、数人の客しかいない。

・総人口からして当然かもしれないが、人が少ない。どこもガラガラ。お店にも、一部の人気レストランを除いて、客はほどんどいない。これで成り立つのだろうかと心配になる。

 

  • 不思議の国の状況

・ブルネイの人口は40数万人、国土は日本の三重県と同じくらい。

・この国に税金がないことはよく知られている。そして、教育費ゼロ、医療費ゼロ。一人当たりGDPは日本を超えている。ただし、少しそこに誤解があるようだ。

・この国で暮らしている人は、①黄色のカードを持つブルネイ国民(基本的にマレー系)でイスラム教徒、②赤色のカードを持つ永住権を持つ人々(華人など)でイスラム教徒とは限らない、③緑色のカードを持つ外国人労働者の3種類の分けられるという。明らかに一級、二級、三級に国民を分けていることになる。すべて税金は無料らしいが、つける仕事や福祉の内容、教育費、医療費については、カードの色によって異なる。したがって、国籍を持つ人は経済的な心配なしに生きていくことができる。

・ガイドさんによると、国籍を持つ人々は将来が安定しているので、仕事の意欲を持たないという。永住権を持つ人たちが努力してのし上がろうとし、経済を握っているという。東南アジアのいくつかの国の華僑や欧米のユダヤ人のような状況なのだろう。

・このような差別の中にいるので、第二級・第三級の市民が不満を持ちそうだが、とりあえず生活は十分に成り立っており、第一級の人たちも穏やかなので、争いは起こらず、ほとんどが満足して生きているという。

・イスラム教徒以外は豚を食べてよいのだが、この国ではほかの人々も豚を食べるのを遠慮しているという。だから、この国ではほとんど豚は食べられないようだ。多くの人が、イスラム教に合わせることにそれほど不満を持っていないという。

・治安はよく、まず物が盗まれることはないらしい。犯罪も少ないという。

・ただし、楽しみがあまりに少ないので、多くの人々が国境を越えてマレーシアに行って酒を買ったり、カラオケを楽しんだりしているらしい。

・外国人労働者は、様々な国からくるが、同じイスラム圏のバングラデシュ、インドネシア、マレーシアからくる人が多いという。その人たちが単純労働を行っている。

・絶対王政の国なので、国王についての批判は許されないのかと思ったら、かなり自由に批判をしているらしい。王室のスキャンダルなどもふつうに話題にされているようだ。

 

  • まとめ

 とても良い国だと思った。ちらっと、「これから先、こんなところに移住するのもいいな」とも思った。楽しみがないのはちょっと辛いが、日本から音楽や映画のソフトや機器を持ち込めば、寿命が尽きるまで十分楽しんで生きていけるだろうと思った。穏やかで暮らしやすそう。若いうちは、こんな国では我慢できないと思うだろうが、老後はいいかもしれない。

 それにしても、石油や天然ガスによる経済的な裏付けがあるとはいえ、なぜ、このような王政が成り立っているのか、なぜ対立が起こらず平和でいられるのか謎だと思った。もう少し内情を知ってみないと納得できない。

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バングラデシュ旅行

 2024年3月5日から9日まで旅行代理店のツアーを利用して、バングラデシュ旅行に出かけた。ツアーと言っても、参加者は私一人。現地ガイドが案内してくれる。

 まだ母の体調がすぐれないので長い旅行には行けない。そのため、毎回、弾丸旅行になるがやむを得ない。バングラデシュには以前から興味を持っていた。40年以上前だっただろうか、報道カメラマンだった叔父が仕事でバングラデシュに出かけたことがある。帰ってすぐに印象を聞くと、「この世の地獄だった」と一言しゃべっただけだった。何があったのか、何を見たのかくわしく聞かなかったが、強烈な印象を受けたようだった。そのころから、私も観光してみたいとずっと思っていた。これまで何度か計画しつつ、ちょっと恐れをなして先に延ばしていたが、いよいよ思い立った。

 写真をアップする技術を持たないので、文字だけの印象記をここに書く。弾丸ツアーの印象なので、表面しか見ていないのは承知だが、それでも一応は書くことに意味があると思う。

 

3月5日

 キャセイパシフィック航空で成田空港を午後に出発し、香港経由でダッカへ。ダッカに到着したときには、深夜の24時を過ぎて、6日になっていた。

 ちょっと古ぼけた空港。最近、イスラム圏にも旅行に行っているので慣れてきたが、女性たちはほぼ全員がヒジャブを着用。男たちのほとんどが髭を生やしているが、ここでは、ヒジャブはピンクだったり、花模様だったり。真っ黒で目だけ出している女性もいるが、決して多くない。それが先日訪れたサウジアラビアとの大きな違いだ。

 深夜なので閑散とした空港かと思っていたら、荷物引き取り所あたりは多くの人が行き来している。いくつものスーツケースをカートに積んでいく現地の人たちがたくさんいる。その中に、私の名前を紙に書いている男性がいた。ガイドさんかと思ったら、どうやらその特定のいくつかの旅行会社を通じてやってきた日本人を空港の外まで案内する係の人ということらしい。ともあれ、ガイドさんに無事あえそうなので安心。荷物を受け取り、ほんの少しだけ両替。貧しい国にもたびたび出かけているので、慣れているとはいえ、紙幣のあまりの汚さに呆れた。決して潔癖症ではない私も手に持つのをためらうような汚さ!空港内だというのに、蚊がたくさん飛んでいる。

 

 荷物を受け取った後、男性について空港の外に出て現地ガイドさんと運転手さんと顔を合わせた。空港の外に出てびっくり。空港内にも人が多かったが、空港の建物の外は深夜なのに、車はぎっしり、人もごった返している。旅行業者の人というより、家族を出迎えに来た人たちなのだろう。空港の建物の周囲は繁華街の雑踏のようになっていた。どうやら、ラマダン(断食)が近づいているために、多くの移動があるとのこと。

 それほど暑くはない。20℃くらいだろう。昼間は30℃くらいになるようだった。

 ガイドさんは、日本語は完璧ではないが、誠実そうなので安心した。さすがに深夜なので、車は少なく、そのまま30分ほどでホテル到着。あまり良いホテルではなかったが、やむを得ないだろう。

 

3月6日

 朝8時半に車(トヨタ・プレミオ)でホテルを出発。前夜ホテルに到着したのは2時くらいになっていたので、結構つらかった。

 ダッカからまずはバハルプールに向かい、その日のうちに、ガンジス川を国境にしてインドの対岸にあるバングラデシュ第4の都市ラジシャヒに向かうという日程。

 まず、朝のダッカの街の様子に驚いた。これから先、どこに行っても驚くことになるが、なんという人の多さ! 路地を抜けて大通りに出ても、また路地に入っても、どこもかしこも人がいる。すいすいと車の進める道路は、ダッカ市内にはめったにない。

 大通りでは歩道を通勤・通学の人たちだろう。大勢が歩いている。道路にはサイクルリキシャ(要するに自転車の人力車)、三輪タクシー(オートバイの後ろに客席をつけたもの)があふれ、歩道脇にそれらの待合場所などがある。歩道上には小さな屋台もあって、そこに人が集まって何かを食べたり飲んだりもしている。道路わきはお菓子の袋やポリ袋や紙類が散乱。日本で海岸に打ち付けられたゴミの山がよく報道されるが、すべての道がそのような状態にある。

 

 道路は大渋滞。ただ、ガイドさんによると、今日は人が少ないとのこと。

 バスが通る。真新しいバスもないではないが、日本だったら10年前から廃車になっていただろうと思えるような老朽化し朽ち果てたようなバスが大半。しかも、それらのバスの壁面は傷だらけ。傷なんてものではない。もとの塗装が見えないくらい傷でおおわれているものもある。バスはインド製のようだ。トラックもインド製らしい。乗用車は9割が日本製。圧倒的にトヨタが多い。乗用車は比較的きれいだが、トラックなどはすべてが、よくこれで動いているなと思うほどのものがほとんど。

 信号がない! 車線そのものはあるようだが、それを誰も守っていない。3車線のはずなのに5列くらいになって走っている。乗用車のほか、リキシャや三輪タクシーも割り込んでくる。だから交差点ごとに大混乱が起きる。渋滞している車の間を人が通り抜けて横断する。しかし、これもガイドさんによれば、今日はまだとても空いているという。

 ダッカを出て国道をひた走る。やっと渋滞から解放される。いたるところで工事中。道路の拡張工事のようだ。国道はもちろん舗装はされているが、りっぱな舗装とは言い難い。道路の両端は水がたまったりゴミがたまったり。周囲は水田が広がっているところも多い。手作業で田植えをしている様子も見えた。

 基本的に広めの片側1車線の道がほとんどだが、いったい交通法規はどうなっているのか? 平気で逆走してくる車がかなりあるが、どうもそれが許容されている雰囲気がある。ともあれ、田舎道ではトラクターや自転車、三輪タクシー、トラック、バス、乗用車が行きかう。さすがに渋滞はしていないが、いたるところ工事中。国道の横に、線路があり、列車が通っている。

 私の車の運転手さんは、猛スピードで運転。次々と追い抜いていく。ずっとクラクションを鳴らし続けている。クラクションは存在確認のようだ。「これから追い抜くぞ」「ここに車がいるんだぞ、気を付けろ」「おいおい、危険だぞ」というようなニュアンスでクラクションを鳴らす。無謀とも思える運転だが、周囲をしっかり見きわめたうえでの運転なので安心していられる。

 

 バハルプールの仏教遺跡に到着。野原の中に赤茶けたレンガ色の仏教遺跡がある。ソーマプラ僧院といい、十字型の建物になっており、中央に塔がある。インドネシアのボロブドゥール寺院を少し小さくした感じ。周囲に滞在していた仏僧の宿舎跡がある。僧院の表面には様々な動物の塑像がある。8世紀から9世紀、この地域はこの時期、仏教が栄えたという。ただ、その後、イスラム教徒によって塑像の多くが破壊されたという。

 赤茶けた朽ちた建物が雲一つない青空の下に広がり、この喧騒の国の中で静かにたたずむのは、とても美しいと思った。

 

 その後、クスンバモスクを経て、ラジシャヒ到着。ホテルは静かなところにあった。さすがにこの都市の郊外はそれほど渋滞していない。

 ホテル内でガイドさんとともに夕食。昼もカレー、夜もカレー。ここにはカレー以外の選択肢はほとんどない。すでに一日にして、私の胃は悲鳴を上げ始めた。カレーは大好きだった。今も好きでたまに食べる。そして、バングラデシュのカレーもとてもおいしい。しかし、私はカレーを食べると数時間、胃がもたれる。2回続いたら、途端に食欲がなくなった。おいしいのはわかっているが、食べられない!

 

37

 早朝、6時20分にガイドさんと待ち合わせをして、ホテルから5分ほど歩いてポッダ川(インドで、ガンジス河と呼ばれている河)の日の出を見に行った。日の出そのものを見るのかと思っていたら、すでには夜は明けていたので、正確には夜明け後の川をみたことになる。

 

 河の道沿いにはみすぼらしい住居が並んでいる。廃材のような木と錆びたトタン板を打ちつけて家の形にしている。廃墟に見えるが、立派に人が住んでいる。土間で人は料理をしたり、作業をしたりしている。牛を飼っている家もあった。女性がミルクを絞っていた。

 ここにはヒンドゥー教徒が多く暮らしているらしいが、イスラム教徒もいるという。バングラデシュでは人口の八割を占めるイスラム教徒も少数派のヒンドゥー教徒、キリスト教徒、仏教徒と衝突を起こさずに平和に共存していると、ガイドさんは強調した。

 確かにガイドさんはイスラム教徒だが、ヒンドゥー教徒にも親しく声をかけ、相手も楽しそうに話に乗ってくる。少なくとも、ガイドさんにはまったく差別意識はなさそうだった。

 ポッダ河は海のような広大な河だった。向こう岸が見えるが、そこはインド領土。そこに朝日が美しく出ている。散歩している人が何人かいる。日本と同じようにジョギングしている人もいる。川岸は海岸のように砂や石が広がっており、そこにところどころ低木が生えている。ここにもあちこちにゴミがたまっている。小さな舟が数隻あったが、どうやらこれは漁のための舟というよりは、たまに観光客が楽しむためのものらしい。

 河畔には早朝から店も出ていた。バナナや野菜、果物を売っている。不潔なテーブルに汚れ切ったバケツや皿があり、そこに果物や野菜が並べられている。ハエがたかっている。地元の老人が数人でしゃべりながらチャイを飲んだり、タバコを吸ったりしている。見るからにみすぼらしい恰好をしている。ガイドさんにチャイを勧められたが、さすがにここで何かを食べたり飲んだりしようという気にはなれない。

 ダッカの下町の店も多かれ少なかれこのように不潔でみすぼらしい店がほとんどだったが、この川べりの店は今回の旅の中でも最も不潔な店だった。

 

 8時半に車で出発。ラジシャヒの街もダッカと同じようなすさまじい人込み。ホテルの周囲は静かだが、少し行くと、リキシャと三輪タクシーでごった返している。あいかわらず、道路の脇はゴミだらけ。

 ラジシャヒから出る前に郊外でガススタンドに寄った。私が移動する車はトヨタだったが、ガス仕様とのことで、この都市にはスタンドは一箇所しかないという。4つのホースで注入するが、それぞれの前に10台以上が列を作っている。注入時には車に乗っている人は、安全のためか全員が外に出てワイワイガヤガヤ。注入までに1時間以上かかった。

 

 その後、また国道を通って、ボグラ県にあるプティアに到着。四角い池の周囲をヒンドゥー教の寺院が林立している。12世紀に広まり、いったんイスラム勢力に押された後、16世紀に再びベンガル地方ではヒンドゥー教の勢力が増した。その時期にこれらの寺院が作られた。この村は本当に素晴らしかった! まるでおとぎの国。

 まず白い屋根に赤いレンガの小さな寺院に惹かれた。その横に、屋根が三つ連なる赤いレンガの繊細なアニク寺院が並んでいる。それぞれの壁面はテラコッタの装飾がなされており、本当に美しい。そのほか、北のほうに白い大きなシヴァ寺院が建っている。

 日本語が完璧とは言えないガイドさんの話を聞いても、その内容が頭に入らないので、帰ってから本を調べようと思っていたが、日本では本は出ていないようだ。こんな美しい村の、こんな美しい寺院群なのに、ほとんど知られていないようだ。残念。

 

 その後、サリー機織り工場によって見学。きっと見学というのは名前だけで、サリーを買わされるのだろうと思っていたら、まったくそんなことはなく、ひたすらに暑い工場の中、機織りの機械を使って働く男たちを見ただけだった。どの店でも男性店員ばかりだったが、この工場も働いているのは男性ばかり。

 その後、ダッカのホテルへ向かった。18時ころに到着するという話だったが、大渋滞。ダッカに入ってしばらくしてから、ぱったりと車は動かくなって、1時間に2キロくらいのスピードになった。

 

 それにしても、私の乗る車の運転手さんの技術にびっくり! こんなに運転の上手な人にこれまで出会ったことがない! ひっきりなしにリキシャや三輪タクシーが割り込んでくるし、歩行者が渋滞を縫って道路を渡っていくが、運転手さんは見事にかわし、しかも自分もバスや車の列にほんのちょっとしたすきを見て割り込む。さすがにここは曲がれないだろうと思われるような場所も数センチの余裕で曲がり切る。しかも、うしろからの割り込みも含めてすべて予測しているようで、あらゆる動きに余裕がある。凄い! ただ、ほとんどずっとクラクションを鳴らしっぱなし。

 ホテルに戻ってからだと遅くなるので、途中のホテル近くのレストランに20時前に着いて食事をした。私がずっと食欲をなくし、昼間もほとんど何も食べなかったのを気にして、ガイドさんが中華の店に連れて行ってくれた。ほんの少しでいいという私の願いを聴いてくれて、五目焼きそばを注文してくれた。おいしかった。やっと少し食欲が出た。本当にカレーの連続はつらい!

 

 

38

 3泊5日の弾丸旅行の最終日。

 ホテルをチェックアウトしてオールド・ダッカ市内観光。まずは18世紀に造られたというスターモスク(タラ・モスジッド)を見た。星のしるしがあちこちにある。風格のある美しいモスクで、お祈りの時間をさけて見物したので、人がちらほらいる程度。壁面は花やアラベスク模様のタイルが敷き詰められていたが、中には明治時代の日本から輸入された富士山を描いたものも含まれていた。

 その後、ヒンドゥのダケッシュリ寺院。シヴァ神の男性のシンボル(でかい!)など飾られていたが、基本的にはヒンドゥ教徒たちの生活の場のようだった。おなかを出したサリー姿の中年女性たちが何人もいて、結婚式のような儀式が行われていた。イスラム教徒も見物に来ている人がいるようだった。

 その後、市民の憩いの場である広大な公園、ラールバーグフォートでのんびりした。ムガル帝国の第6代皇帝アウラングゼーブの子アザム=シャーにより、1678年に建立されたという。愛嬢ビビパリの霊廟があり、周辺が公園になっている。日本の日比谷公園や駒込の六義園などを思わせる。イスラム教徒に限らず、ほかの宗教の人もやって来て子どもづれで楽しんでいた。様々な花が咲き、とても美しい。入場料は、外国人は400タカ、現地人は5タカとのこと。一日中ゆっくりできる様子だった。

 ラールバーグフォートを出て、少しだけリキシャに乗った。40年ほど前、マレーシアで乗って以来のリキシャ。路地を行き来しただけだった。女性や老人が一人で道端に座り込んで野菜や果物を売っている。その前に人がいて買い物をしている。向こうからリキシャがやってくる。そうした人たちを避けて走る。路地でも危険を感じた。広い道に出るのはあまりに怖い。よくもまあ、あの大渋滞の中をリキシャが走っているものだと感心した。

 

 その後、ニューマーケットへ。市民が日常的に買い物を行う市場で、敷地の奥の方に広い大きな建物があり、その周囲には回廊状に衣料品、食べ物、日常器具などのたくさんの小さな店が軒を並べている。広い建物の中も同じように小さな店が並んでおり、そこにも大勢の買い物客が押し寄せている。それにしても人の多さよ! イスラム社会の金曜日は、私たちの社会の日曜日にあたる。人気の店の前など、身動きが取れないほどの人込みのところもある。通勤ラッシュの時間帯に新宿駅のホームを歩いている感じ。店の店員はほぼ全員が男。客のほうは8割がたが女性。時間になると、お祈りの時間を知らせるアナウンスがあり、大勢の男たちが併設されたモスクに向かう。コーランの言葉が流れる。それでも客はひっきりなしに歩いている。

 いったん外に出て、歩道橋から下をみた。いやはや、ニューマーケットの外の大通りも車と人でごった返していた。見渡す限り、人や車が目に入る。「デモの参加人数10万人」などという報道が海外でなされ、おびただしい数に人が広場に集まっている写真を見ることがあるが、そんな感じで、見渡す限り人や車で覆われている。そして、絶え間なくクラクションが鳴り、人声が聴こえ、時にコーランの放送が聴こえる。

 なんという混沌、なんという喧噪。これがバングラデシュだと思った。

 

 帰りの飛行機は深夜に出発予定で、午後は自由行動の時間になっており、夜の9時半に車が迎えに来てくれることになっていたが、やはり私のような老人が、まったく言葉も文字も地理もわからない都市を一人でうろうろするのはかなり危険。どうしようかと迷っていたら、ガイドさんから自宅に招かれた。言葉に甘えて訪れた。

 ガイドさんは10数年前に日本に来て日本語学校で学んだ後、レストランで働いていたという。写真を見せてもらったが、とんでもなく美しい奥様と中学生くらいのお子さん二人、そしてお母様と暮らしているとのこと。残念ながら、ほかの家族の方は出かけていてお会いできないとのことだった。

 ガイドさんの住まいは、閑静な(といっても、バングラデシュにおいての話ではあって、日本と比べると十分に騒々しいが)住宅街のマンションだった。閑静な住宅街だというのに、子どもたちがサッカーをしたり、クリケットをしたりして騒いでいる。こんなに道路で子供が遊んでいるのを久しぶりに見た。

 ガイドさんの部屋は異様にきれいに片付いていた、そしてとても趣味の良い部屋だった。客間でしばらく休憩させてもらったが、大理石を思わせるような白のスレートの床、いくつものソファを備えたとてもいい部屋だった。

 9時ころに近くにおみやげ物を買いに出た。夜だというのに、まだ人がいっぱい。魚も売っている。鯉などの大きな魚がそのまま台に載せられている。ダッカの生ものの店はどこもそうだが、もちろんハエがたかっている。子どもたちがまだサッカーをしていた。

 予定通りに車が来て、空港に向かい、香港経由で帰国した。

 

 

・交通

 私は、訪れた国の民度を測る指標として、渋滞の状況、交通ルール順守、クラクションの状況などの交通事情を考えている。バングラデシュは、これまで私が訪れた国の中でも最下位に属するといってよいだろう。40年ほど前のバンコクもすさまじいと思ったが、それ以上のひどさ。インフラが整備されていないために大渋滞が起こり、だれも交通法規を守っていない状況。車間距離もごく短い。大渋滞の場合が多いので車間距離どころではない(場合によっては数センチの間隔で時速2キロくらいで走っているところも多い)。

 バンコクはその後、公共交通網ができて渋滞は解消され、見違えるようになった。今、ダッカは電車ができ、地下鉄も工事中。きっとダッカもバンコクのようになるだろう。

 

・女性

 店の店員のほとんどは男性。ホテルなどでも圧倒的に男性が多い。現在の首相は女性なのだが、まだまだ女性の社会進出は十分ではなさそうだ。女性は消費者としてマーケットを訪れているが、働いている様子を見ることは難しい。きっとどこか女性の仕事とされているものがあってそこに女性が集まっているのだろうが、観光客にはそれは見えない。

 ただし、顔を黒い服ですっぽりかぶった人は少数で、スカーフをかぶっただけの人が多い。しかも、それは色とりどりでかなり派手。

 ところで、ダッカ市内で渋滞のため、車が止まっていると、着飾った女性がいくつもの車の窓をたたいて何やら話している。これまでも何度か物乞いがそのようにしてやってきたが、様子が違う。ガイドさんに聞いてみたら、それはトランスジェンダーの人で女性の格好で物乞いをしているとのこと。ガイドさんによれば、この国ではトランスジェンダー(ガイドさんは「おかま」と呼んでいた)はそのようにして生きていくのだという。ちょっとこれについては帰って調べてみようと思った。

 

・祈り

 イスラム社会では一日に5回、定められた時間にお祈りをすることが求められているようだが、バングラデシュではそれほど厳格ではないようだ。ガイドさんは、移動中は時間になっても仕事をつづけ、食事などの前に祈りに行くことにしていた。ほとんどの人がそのようにしているようだった。なお、祈りについても女性はモスクの奥には入れず、一部の制限された地域で祈るしかないとのことだった。

 金曜日はイスラム教の聖なる日だとのことで、大きなモスクの前では、中に入り切れない人々が道路で祈りをささげていた。それもまた大渋滞の原因になっていた。

 

・人懐こいガイドさん

 ガイドさんによれば、バングラデシュには宗教対立はないとのこと。もちろん、ガイドさんは多数派のイスラム教徒なので、ヒンドゥー教徒の差別の実態などを知らないのだろうと思う。ネットで調べても、宗教対立があることがすぐにわかる。そして、どうやらヒンドゥー教徒は貧しい地域に大勢住んでいる様子がわかる。

 とはいえ、私がこれまで見てきたインドネシアやスリランカほどには宗教対立は根深くないのではないかという印象を得た。

 ガイドさんは異様なまでにコミュニケーション力のある人だった。誰にでも話しかけ、だれともすぐに打ち解ける。明らかなヒンドゥー教徒にもふつうに話しかけ、相手も愛想よく対応していた。同じ建物に二つの宗教が同居しているのも見かけた。

 

・日本びいき

 かつてトルコに行って、「日本人だ」というと大歓迎された。バングラデシュはそれ以上だった。

 どうやら外国人そのものが珍しいようで、観光で寄った田舎町では、通りかかる人から握手を求められた。7、8人に「一緒に写真を撮ってくれ」と言われた。そんなとき、「ジャパニーズ?」と聞かれる。ときどき、「チャイニーズ? ジャパニーズ?」と聞かれる。「ジャパニーズ」と答えると、にっこりとして嬉しそうにする。「こんにちは」「ありがとう」などと日本語を口にされる。日本人というだけで人気者になる。

 日本はバングラデシュにかなりの援助をしている。そのためにあって日本びいきなのだろう。

 

・物価

 物価は日本人にとってはかなり安い。水のポットボトルやチャイなどは10タカか20タカ(1タカは1.2円くらい)で買えるが、バングラデシュの世帯当たりの平均月収が4万円強ということらしいから、実はいろいろなものが高い。ナツメヤシ500グラムを買おうとしたら、高級なもので600タカだった。輸入品なのかもしれないが、収入からすると異様に高い。

 

・観光客

 観光客は少なかった。大きな団体には一つも出会わなかった。日本人には家族連れらしい小グループ二つと顔を合わせただけだった。欧米人もときどき見かける。どこにも大勢で押しかけている中国人の姿がまったく見えない。ホテルも少なく、しかも設備はあまり良くない。まだまだ観光は産業として成り立っていない。

 

・総まとめ

 叔父は「この世の地獄」と語っていた。何か大きな出来事を目撃したのだと思うが、今、私が見ると、この国はもちろん地獄ではない。最貧国であることは間違いない。ものすごい数の人が集まって大混乱しており、混沌としてエネルギーにあふれている。そして、ガイドさんやガイドさんと話をする人々の様子を見ていると、本当に明るくて善良な人ばかり。私が育った1950年代の田舎の人々の人情と重なるところがあった。

 そして、何よりもプティアのヒンドゥー寺院の美しさに打たれた。ぜひまた、あの寺院群を見に行きたいと思う。

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音楽の聞こえない国 ~~サウジアラビア旅行印象記

 2023年2月23日から28日にかけて、クラブツーリズムの3泊6日の弾丸ツアーに参加した。クラブツーリズムのカタログをパラパラめくるうち、サウジアラビアのツアーを見つけて参加を決めたのだった。新型コロナウイルス以後最初の海外旅行。そして、もちろん妻の死後の初めての海外旅行。

 サウジアラビアは長い間、観光客を受け入れていなかったが、2019年に受け入れを開始。ところが、すぐに新型コロナウイルスの感染が広まって、事実上ほとんど日本からの観光客は訪問しなかったという。今年に入ってから本格化しているようだ。

(なぜだか、私の技術ではこのブログに写真を挿入できなくなったので、文章だけの旅行記になる) 

・3月23日

 成田空港に集合。22時30分発の便で、20時集合だったが、早めに手続きを終えて、さて夕食でもとろうかと空港内のレストランを探すと、ほぼすべてがすでに閉まっていた。入国審査をしたら、ゲート付近にレストランがあるのかと思って行ってみたが、そこもなし。お土産物屋でおにぎりを食べてしのいだ。きっとコロナのために採算が合わずに今の状態になっているのだろうが、夜の客も多いのだから、何とかならないものか。

 飛行機に乗り込んでしばらくして、1日目は終わり。

 

・3月24日

 12時間かけてドバイに到着。朝7時発のリヤド行きに乗り継ぎ。1時間半ほどでリヤドに到着した。

 キング・ハーリド国際空港は白い現代的な建物で清潔感にあふれている。ドバイでも見かけたが、さすがにこちらは目だけを出して全身黒づくめの服(アバヤと呼ぶらしい)で歩く女性が多い。だが、もちろん、顔を出している女性もいる。ただ、やはりほとんどの女性がスカーフ(ヒジャブ)をしている。男性は白い服(トーブと呼ぶらしい)に赤みがかった布(シュマッグ)をかぶって、黒い輪っか(イガール)で頭に固定しているというスタイルの人が多い。どうやらこれが男性の正装のようだ。もちろん、日本人の同じようなシャツにズボン姿の男性も多い。頭に布をかぶらずに、白い服だけのカジュアルな服装の人も多くいる。歩いているのは、確かに男性の方が圧倒的に多い。

 外に出て車乗り場に行くと、青空の下にモスクが見える。その横には公園があって緑の木が続いている。とても清潔な雰囲気を感じる。気温は30度くらい。夜は15度前後、昼間は30度前後というのがこの時期の気温らしい。

 ツアーは私を加えて10名。添乗員付き。ツアーのメンバーの平均年齢はおそらく70歳は超えているだろう。80歳を超えている方もいたと思う。ご夫婦で来られた方を含めて女性は3人。あとで知ったが、多くの方がすでに100か国以上を旅している、まさに旅の達人といえるような人たちだった。45か国しか旅したことのない私はまさにひよっこ。

 バスでそのまま観光。きわめて的確に仕事をしてくれる添乗員さん(私たちとそれほど年齢差のない、かなりベテランの方)と現地ガイドさん(サウジの男性らしい服装の中年男性)の案内で行動。

 都市をバスで通りながら感じるのは、ともかく現代的な洒落た建物が多いことだ。遠くには奇抜なデザインの巨大な建物が数多く見える。上海やドバイの雰囲気に似ている。しかも、全体的に清潔さを強く感じる。ゴミが落ちていない。街の汚れがない。ポスターや宣伝のビラなどもない。ただ、緑が圧倒的に少ない。空港周辺には緑が見えたが、それ以外では、木々はほとんど見えない。道路は舗装されているが、空き地にはむき出しの土の場所も多い。ところが、そのような場所の多くは何らかの工事がなされている。重機が見える。

 要するに一言で言うと、まさに超現代的な大都市が、今まさに作られているという感じ。ドバイのような都市になろうとしているようだ。

 道路には車があふれている。ときどき汚れた車、塗装のはがれた車もあるが、全体的には真新しいきれいな車が多い。砂漠地帯ではすぐに土ぼこりがすると思うが、そのわりには車は汚れていない。私が東京で乗っている車(めったに洗車しない!)よりもずっときれいな車たちだ。トヨタなどの日本車も多いが、それと同じほどヒュンダイやKIAの車が目立つ。もちろんヨーロッパ車もかなり見かける。車間距離が短く、ウィンカーを出さないまま車線変更する車も多いが、混乱なくすいすいと進んでいく。何よりも静かさを感じる。こんなにぎりぎりの運転をしているのに、クラクションを鳴らす人はいない。町全体がとても静か。

 

 最初に世界遺産ディライーヤ見学。15世紀にサウード家が建設し、18世紀に都として栄えた地区だ。現在、発掘が進み、宮殿跡などの復興がなされている。土産物屋などがきれいに整備されたところから見学。

 その後、アルファイサリヤ・タワーのショッピングモールにも出かけた。ドバイや上海のショッピングモールと同じような雰囲気。真新しく清潔でセンスの良い建物に高級ブランド店が並んでいる。ただ客はそれほどいない。

 アルラジのグランド・モスクを見学。巨大なモスク。これも、私たちの持っている印象とは異なり、清潔に整えられている。突然、コーランの祈りの音が大音響で聞こえ、人々が清潔な服を着て三々五々、モスクに入っていくのが見えた。車できている信者も多そうだ。ガイドさんもその間、しばらく場所を離れて祈りに行った。

 

 どこをみても人が少ない。金曜日(キリスト救国の日曜日にあたるらしい)のせいかもしれないというが、ともかく人影を見ない。道路には車が走っているが、歩いている人影もめったに見ない。がらんとした雰囲気。超現代的な豪華な建物が並んでいるが、人気がない、という印象を強く受ける。

 その後、キングダム・センターのリヤドで最も高いという302メートルのビルに行って、スカイブリッジの展望台に上った。さすがにここには観光客が大勢いて、列を作ってエレベータに乗って上がった。

 高層ビルから見るリヤドは、全体に薄茶色の世界。建物も道路も薄茶色に見える。やはり何よりも緑の少なさに驚かされる。東京などとはまったく異なる光景だ。空気がかすんでいるのも砂のせいだろう。

 中心部に巨大な地区が建設されており、建設中の状態が見える。その周囲には個人の住宅が広がっているが、建物のほとんどが白茶色。碁盤目状というほどではないが、かなり整然とした街並みに同じような色の低層の建物が立ち並んでいる。そして、その向こうの果てには砂漠が見える。まさに砂漠の中に建てられた巨大な人工的な都市。

 その間にレストランで昼食。男性客と女性を含む家族客は場所が異なるとのこと。日本のマクドナルドのような雰囲気の店で、ケバブの類を中心にした肉料理。なかなかおいしかった。洗練された味。

 その後もリヤド観光をして、夕方、ホテルに到着。夕食はホテルにて。これもなかなかおいしかった。基本は羊と鶏の料理のようだ。

 

 初日のサウジアラビアの印象。

 ともかく清潔。もっと猥雑な街かと思っていた。石油で潤っている国であることは知っていたが、これまで私のみたアラブ人街のような猥雑さを想像していたが、全く予想外だった。

 ショッピングモールのすべてのトイレ、駅などのすべてのトイレに清掃員が常駐しているようだ。客が入るとすぐに掃除をする。ときに紙タオルを渡してくれる。道路にも清掃員を多く見かける。観光地では、道路について食べ物の汚れなどを取る清掃員が何十メートルかごとにいる。公園の草取りをしている人もいる。そして、その清掃員は顔つきが中東の人ではない。アフリカ系だったり、もう少しアジアっぽかったり。外国人労働者がそのような仕事についている。

 なお、こちらのトイレは男性も個室になっている。多くの人がスカート状のトーブを着ているために下半身をはだける必要があるせいだろう。そのため、男性トイレが混んでいてなかなか大変。レストランのトイレなどはさすがに担当者を常駐しているわけにはいかないので、あまりきれいではない。

 私は1995年に北朝鮮旅行をしたことがある。その時、ピョンヤンをみて「なんと人工的な都市だろう。まるで映画の書割だ」と思ったのだったが、今回も同じような印象を受けた。もちろん、1995年北朝鮮と違って、こちらはもっともっと高層ビルが立ち並んでいるが、人工的で生活臭がまったくないのは、北朝鮮とよく似ている。

 人があまり歩いていない。スーパーや小売店が見えない。ワイワイと騒いでいる人がいない。レストランも静か。アルコール類が完全に禁止され(観光客もアルコール類は一切持ち込むことができない)、女性が姿を見られるのを避ける社会では、どうしてもこうなるのだろうか。

 もう一つ気づいたことがある。

 音楽がほとんど聞こえない!

 ふつう、空港やお店、レストランでは音楽がかかっている。ショッピングモールでも小さな音でも音楽が聞こえる。作業員がラジオで音楽を聴きながら働いている姿もあちこちで見る。ヨーロッパでは日本ほどあちこちで音楽は垂れ流されないが、それでも道を歩けば、音楽が耳に入る。ところが、サウジアラビアではまったくの静寂。二度だけ、観光地でアラブ風の音楽が聞こえてきたが、それだけだった。ただ、コーランの声だけは、時間ごとに聞こえる。

 ホテルはセントロ・ワハ・バイ・ロタナ。満足というほどではないが、贅沢は言わない。まずまず快適。

 

 

225日 

 リヤド市内観光。

 まずは、ディラ・スークに出かけた。スークというのは、市場のことで、トルコ語のバザールにあたるらしい。前日にみた新市街のショッピングモールとは異なって、もっと庶民的な店だという。ファッションの店、香料の店、絨毯の店などが並ぶ。間口の狭い店が並んでいる。インドなどの途上国で見られるような作りの店なのだが、しかし、ここも清潔感があふれている。途上国と全く異なる。むしろ日本のアーケードなどのある商店街の雰囲気。しかし、それよりももっと清潔で整理されている雰囲気といってよいだろう。きれいに整理されて商品が並べられている。これらの店の店主はサウジアラビア人だというが、働いている人の多く、とりわけ下働きをしているのは外国人労働者だという。黒づくめの女性も歩いているが、人はそれほど多くなく、ごった返しているという雰囲気はない。音楽はまったくかかっていない。通る客は、もちろん黒い服を着た女性もいるが、男性が圧倒的に多い。日本の市場では女性の方が多いと思うが、やはりアラブ世界では外に出ているのは多くが男性だ。

 

 床に座って食べるサウジアラビア式の昼食(これもなかなかおいしかった)をとってから、マスマク城を見学。オスマン帝国に支配されていたリヤドを現在の王室につながるアブロゥル・アジズが取り返した要塞で歴史博物館を兼ねている。イスラム以前、イスラム以後のそれぞれの文化、歴史を伝える器具が展示されていた。

 

 その後、砂漠ポイントへ。高速を走る。しばらくたつと左右に空き地が見えるようになり、荒涼とした野原が続くようになる。1時間ほど走っただろうか。目的地に到着。本格的な砂漠かと思っていたら、むしろ砂漠体験遊技場という感じの場所だった。テントが並び、遊技場がある。リヤドに暮らす人々は、かつての砂漠生活を体験するため、ここにきて疑似砂漠体験をするのだという。そのような場所が広がっている。砂漠に沈む夕日をみて、ホテルに戻った。

 

2日目の印象

 ともかく静かで清潔。砂漠の中に人工的に作られた大都市。生活臭がない。きっと女性たちは部屋の中に閉じこもって料理をしたり、音楽を楽しんだりしているのだろう。だが、家の外ではそれが現れない。よそよそしくて現代的な街になっている。

 

226

 朝の9時に出発して、空港に向かい、国内線でジェッダへ。ジェッダは紅海沿いの都市でメッカへの入り口になっている。

 ジェッダ行きの飛行機の中に、バスローブのような白のタオル地のような布だけを身にまとった裸に近い男たちが何人もいた。これが巡礼の正式の服装らしい。日本のお遍路さんスタイルのようなものなのだろう。それにしても、日本人の目から見ると、バスローブ姿で街を歩き、飛行機に乗るなんてなんということだろうと思ってしまう。

 ハッジという大巡礼の時期ではないが、それ以外の時期に巡礼を行う信者も多いという。子どもを何人もつれた家族も多い。ほとんどが中東の顔をした人たちだが、ヨーロッパ人としか思えない人、アジア系の人(たぶん、インドネシア、マレーシアの人だろう)も大勢いる。アジア系の人は団体客が多い。さすがにそのような人はバスローブのような恰好はしていない。

 リヤドを出発して、陸地を見下ろすと、まさに荒野が続く。ところどころに山があり、ちょっとした草木が生えているが、全体的には不毛の荒野。砂漠といってよいのかもしれない。

 リヤドはまさに砂漠の真ん中のオアシスにできた都市であり、海水を真水に変える技術によって都市圏を増やしていった人工の街だということがよくわかる。言い換えれば、無尽蔵といってよい砂漠地帯を持ち、これから都市を増やしていけるのがサウジアラビアという国なのだろう。ただ、石油はそのうち枯渇するか、何らかの形で現在ほどの価値を持たなくなると考えられるので、その時どうするのか。それを見越して都市化を進めているのだろうが、果たしてそれは可能なのか。そんなことも考えてしまう。

 

 ジェッダ到着。空港は、リヤドに比べればこじんまりしているが、こちらも清潔で感じがいい。ただ巡礼客にあふれており、バスローブにしか見えない服装の人々があちこちで行列を作り、人並みができている。

 とはいえ、観光バスに乗って外に出ると、やはりこちらも人影はあまり多くなく、静かで落ち着いている。

 バスで空港付近のショッピングモールであるアラビアモールを見物。高級ブランド店や様々ん店の集まるモール。ここもそれほどの客はいない。他人事ながら、これでやっていけるのだろうかと心配になるほど。私たちにもなじみの世界的ブランドも見かけた。映画館もあってアメリカ映画も上映されている。ただ日本のブランドは、ダイソーしかなかったようだ(私はダイソーに気づかなかった。ツアーのメンバーに後で話を聞いた)。100円ではなく、ほぼ300円にあたる均一料金だったという。大きなスーパーがモール内にあった。整然と商品が並べられており、野菜やジュース、肉、魚、香料などが大量に並べられている。ヨーロッパのスーパーと似ているが、魚介類は真空パックで袋詰めにされており、においが漂うことはない。そして、もちろん音楽などまったくかかっていない。

 ほかの市場などと比べて、このような近代的なモールは女性客もかなり歩いているが、このようなモールの客は進歩的というのか、あまり信仰心の強くない人が多いのか、顔を出した人が多い。スカーフもかぶっていない女性もかなりいる。男性に至ってはジーパン姿の人もいる(ジェッダの現地ガイドさんはまさにTシャツにジーンズだった)。

 その後、紅海に海辺に建てられたフローティング・モスクに行った。ここもまたきれいに整備された海辺。ゴミひとつなく、清掃員があちこちに配備されている。セキュリティの担当者も大勢いて、海辺を巡回し、海に近づきすぎている人がいると注意をしている。

 日本の海辺だと、海鳥がいて、ゴミがあって、魚の死骸があって、単なる潮風といえないような臭気がするものだが、ここは海浜公園ともいうべき場所であって、完璧に整備されている。そのそばに白く美しいモスクがある。

 中に入らせてもらった。質素ではあるが、きれいな内部でじゅうたんが敷き詰められ、壁にはアラベスク模様のタイルがはめられている。

 モスクの横から紅海に沈む夕日を鑑賞。美しかった。

 その後、レストランで海鮮料理。エビ、イカ、白身の魚のフライ、蒸したムール貝、それにポテトと味のついた米。とてもおいしかった。一皿に大量に料理がのっているので、三、四人で分けて食べるのかと思ったら、それが一人前。デザートも大きなアイスクリームとチョコレートケーキ。高齢者ばかりのツアーであるためもあって、完食者はなし。おそらくほとんどの人が半分も食べていないと思う。

 ホテルに入った。ほかのメンバーは特に問題がなかったようだが、私の部屋はシャワーは水がほんの少し暖かくなった程度のお湯で、洗面所にタオルもコップも洗面道具もなかった。しかも、冷房が効いており、室温は19℃だった。もちろん、エアコンはすぐに消したが、寒かった。若いころから貧乏旅行ばかりしていたので、このような目にあうのには慣れているし、担当者を呼んで面倒なことをするよりも早く寝たいと思ったので、我慢して長袖を引っ張り出して、着たまま寝た。

 

2月27日

 朝9時に出発して、ジェッダの旧市街へ。

 これまで真新しい都市ばかり見てきて、ちょっと古い街を見たいと思っていた。猥雑な雰囲気を見たいと思っていた。やっと念願がかなったと思った。

 旧市街の建物の特徴として、出窓があるということだった。女性たちが外を見ることができるように、しかし、外からは女性が見えないようにするための出窓だという。美しく細工されていたり、緑色に採食されていたりする出窓が並んでいた。

 そのような旧市街の中に歴史あるアル・シャフィー・モスクがあり、19世紀から栄えた商家ナシーフ・ハウスがある。近くの由緒あるコーヒーショップで休憩。アラビアコーヒー(コーヒー豆を使っているようだが、ほかの薬草も混じっているようで、コーヒーの味は薄い。おちょこのようなカップで数回に分けて飲むのが礼儀のようだ)などを飲んだ。

 旧市街こそは猥雑なのかと思ったが、やはりここもそうではない。リヤドの店ほどには上品ではなく、狭い間口の店が並んでいる。肉屋があり、靴屋があり、洋服屋がありだが、比較的小ぎれい。日本の商店街よりももっと小ぎれいな印象。外国人労働者と思われる人が重い荷物を運んだりしているが、その人たちもさほど猥雑な感じはない。行きかう人々も白い民族服の人もいたり、ジーパンにティーシャツ姿の人がいたり。しかし、ここも男性の方がずっと多い。女性は男性の三分の一か四分の一以下だろう。

 

 その後、バスでメッカ方向へ。1時間ほど高速を飛ばすと右側に標識が見えた。その標識の下のほうに赤で「FOR NON MUSLIM」とあり、右に曲がるように指示がある。そこから先はイスラム教徒のみが入れる地域だということだ。ただし、少なくとも現在では、イスラム教徒以外の人間が紛れ込んでも厳しく検査されることもなく、ひどい処罰を受けることもないそうだが、もちろん、ほかの宗教を尊重する必要がある。

 そのまま引き返して、ふたたびアラビアモールで休憩して、空港へ。

 空港はごった返していた。リヤド行きの便の搭乗手続きの窓口は長蛇の列。一人が二つも三つものスーツケースを持っている。多くの客がバスケットボールが入る程度の大きさの同じデザインの箱を持っているが、それはメッカ近くのザムザムの泉で取れた聖水だとのこと。この聖水は航空会社によっては、機内持ち込みの制限から除外されるという。子ども連れも多く、しかも窓口がもたもたしていて、なかなか進まず時間もかなりかかった。

 実際に搭乗する際も大混乱。なんだかよくわからないが、チェックポイントでとどめられて何やら手続きをやり直している人も何人もいる。乗り込んでからも混乱は続いた。私の席にすでに別の人が座っていて、どこうとしない。近くの席のツアー・メンバーも同じように、ほかの人がすでに座っていて困っていた。どうやらあちこちでそのようなことが起こっているらしい。しかも、私の隣の席の現地の女性に、英語で、「夫が遠くの席に座っているので席を代わってくれ」といわれた。また、CAさん(西洋人にしか見えない女性。CAは多国籍らしいので、実際にヨーロッパ、もしかしたら東欧の人かもしれない)にも、こちらは別の席に代わってくれないかといわれた。なんだかよくわからなかったが、隣の席の女性の要望に従った。そんなことがあちこちで起こっているらしくてまさに混乱。

 あまり飛行機に乗りなれない人がたくさんいるのかもしれない。そうした中、子どもがあちこちで泣き叫んだり、大人同士が大声で話していたり、歩きまわったり、荷物の出し入れでがたがたやっていたり。阿鼻叫喚というかカオスというか。こんな騒がしい飛行機に初めて乗った。離陸してしばらくして、やっといくぶん静まった。

 この不自然に静かで小ぎれいなサウジアラビアという国の中で初めて生活感にあふれる猥雑さをみた。それもまた極端だった。きっとこれがサウジアラビアの人々の家庭内の状態なのだろう。家庭内ではこのようにふるまっており、きっと生活感にあふれているのだろう。ところが、家の外では静かによそよそしくしている。それがサウジアラビアなのだと思った。

 ドバイで乗り換えて、その後、9時間かけ、28日17時ころに成田到着。その後、コロナ関係のさまざまな登録をして、外に出た。くたびれた。

 

  • 全体のまとめ

 サウジアラビアは途方もなく不自然な社会だったというのが、私の総括だ。

 繰り返し書いたが、都市全体が清潔で近代的で小ぎれいでおしゃれ。ただ、生活感がなく、いかにも不自然。ふつうの国にはあるはずの猥雑さが見られない。しかも、自前の技術ではないのだろうが、石油の力で最先端の快適さを手に入れている。女性が不自由であることは外から出はうかがい知れないが、男性が薄着でいるところを見ると、女性が黒服でおおわれているのは快適であるはずがない。家にいて出窓から外を見ているのが幸せなはずがない。

 ただ、そんな女性も打ちひしがれているのではなく、ショッピングを楽しんでおり、飛行機の中で見たように家庭生活を普通に営んでいる。これがサウジアラビアの現代の姿だと思った。

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関西旅行  ~~ B級グルメ、ロートレック、なんば花月、美濃吉

 大阪で一つ二つのちょっとした用があったので、合間に観光をしようと、20222017日から19日にかけて関西小旅行をしてきた。8月に妻を亡くしてから初めての遠出。精進落としの旅とでもいうか。

 初日(17日)は娘と行動を共にして食べ歩きを敢行。大阪の四ツ橋地区に宿をとったので、ミナミで大阪らしものをたらふく食べようと相談して、昼は、「ゆかり千日前店」でお好み焼き、夜は、「串かつ だるま心斎橋店」で串かつ。18日の昼は鶴橋まで足を伸ばして「牛一」本店で焼肉。実にうまい。お好み焼きと串かつはまさにB級グルメだと思うが、大阪に食の文化の豊かさに改めて驚嘆。二人でたらふく食べても、財布はあまり痛まない。それにも驚く。

 さすがに食べるだけだと旅行としては寂しいので、18日の午前中、国立国際美術館に行ったら、なんと休館。が、すぐ近くにある中之島美術館は空いており、そこでは「ロートレックとミュシャ展」が開かれていた。ラッキーだった。

 私はミュシャにはあまり関心がないが、ロートレックには以前から惹かれていた。ムーラン・ルージュのけだるさと哀歓が大胆な構図からほとばしっているのを感じる。音声案内でもサティの音楽がときどきバックにかかっていたが、まさにサティと同じような雰囲気を感じる。日本で言えば、永井荷風とも同じようなものを感じる。夜の仕事をする人々に寄り添い、その欲望と絶望をじっと見つめている。かなりたくさんの絵画やポスターが展示されていた。とても楽しめた。

 18日に娘は帰ったので、19日は一人で行動。午前中に、前売り券を購入していたなんば花月で吉本のお笑いをみた。こう見えて、私は子どものころから、お笑いが大好き。ひところは新宿の末広亭に通っていたし、テレビで漫才があるとほとんど欠かさずみている。

 アインシュタイン、そいつどいつ、ミルクボーイ、月亭八方、ザ・ぼんち、タカアンドトシ、中川家。どれもおもしろかった。笑い転げた。

 とりわけ、ミルクボーイのラジオ体操ネタは最高だと思った。私は、M1グランプリの「コーンフレーク」と「もなか」に笑い転げて以来のファンで、その後、ユーチューブなどで追いかけてかなりのネタをみた。どれもおもしろかったが、今回のラジオ体操は別格。「コーンフレーク」以上におもしろい。

 アインシュタインもタカアンドトシも中川家も素晴らしかったが、意外にも、それに劣らぬくらい、もしくはそれ以上に面白かったのが、ザ・ぼんちだった。漫才ブームのころも、そして、再結成した後も、私はテレビでこのコンビを見てきたが、ぼんちおさむの「馬鹿さ」がシュールな域にまで達して、そのころよりも今回はおもしろかった。錦鯉の長谷川の馬鹿さもおもしろいが、それを超えていると思った。

 新喜劇にも笑い転げた。この荒唐無稽でハチャメチャで、あちこちつじつまが合わず、ナンセンスなギャグのつぎはぎであるのに、それが笑いを引き起こす。これはこれですごい文化だと思った。テレビで見ていると、「なんで大阪の人はこんなばからしいものが好きなんだろう」と思うが、実際に舞台を見ると、私も一緒になって笑い転げている。いやー、大阪の文化たるやすさまじい!

 午後は大阪の街をぶらぶらと散策。疲れたので、京都に移動。

 関西に来るからには、京都駅前の新阪急ホテル内の美濃吉で食べないわけにはいかない。大阪でB級グルメを堪能したが、やはり京料理はそれとは一味違う。最後は奥の深い京料理を食べたい。私は京都産業大学で仕事をしていたころから、この店のファンだ。

 少し早く着いたので、京産大で仕事をしていたころに寝泊まりしていたマンションを見に行った。当時、京都に腰を落ち着けようかと考えて、妻とともに家具をそろえ、あれこれと計画していた。妻を思い出したので、東本願寺まで足を伸ばして、「南無阿弥陀仏」を唱えた。

 美濃吉は先代の料理長のころからのファンだが、今も実においしい。土瓶蒸しはさすがのおいしさ。そして、私は何よりもこの店の「白みそ仕立て」が絶品だと思う。これが食べたくて、この店に寄る。じつにうまい。松茸ご飯もうまい。これぞ和食の奥深さだと思う。

 B級グルメ、ロートレック、なんば花月、美濃吉、すべてに満足。良い旅だった。

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京都に行って久しぶりにうまいものを食べた

 2022418日、私が塾長を務める白藍塾の仕事で京都・宇治を訪れた。東京は雨だったが、関西は晴れ間も見えて心地よかった。まさに春の一日。このところ、ずっと自宅にこもらざるを得ない日々が続ているが、久しぶりの遠出だった。

 私が塾長を務める白藍塾は、いくつかの中学、高校をサポートして小論文指導を行っている。立命館宇治中学校もその一つで、20年前から白藍塾の指導を取り入れて、大きな成果を上げている。今回は、そのサポートの一環として中学1年生向けにお話をさせていただき、先生方向けの研修を行った。

 毎年行っているイベントなのだが、コロナのために2年ぶりということになる。講演では、活発で優秀な生徒さんたちに質問攻めにあいながら、文章を書くことの意味について楽しく話ができた。中学生と接するのは実に楽しい。この子たちが文章を書くのを好むようになり、達人になってくれたら、こんなうれしいことはない。

 その後、京都駅前の美濃吉・新阪急ホテルで夕食。私のひいきの店だ。美濃吉は日本各地にある京料理の店であり、私は東京の店も時々利用させてもらい、とてもおいしいと思っているが、新阪急ホテルの店は格別。無理にでも仕事を作って、この店に行きたい気持ちになる。

「京御膳」をいただいたが、白味噌仕立ては相変わらずの絶品。私は、この料理がことのほか好きだ。シンプルで素朴で、そうでありながら最高に洗練されている。本当にうまい! 筍の天ぷらも生麩田楽もたけのこご飯もとてもおいしかった。そして、タイのかぶと煮をべつにもらったが、これまた絶品。薄味で、魚そのもののうまみをいかして、最高のおいしさを引き出している。幸せな気持ちになった。

 満足のゆく仕事ができ、おいしいものを食べることができた。満足できる京都訪問だった。

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