旅行・地域

戸隠のこと、喜連川のこと

  20268月と9月、小旅行をした。コンサートの感想などは、その日のうちに書いてブログにアップすることにしているが、それ以外のことだと、後回しになってしまう。そんなわけで、遅くなったが、これらの小旅行についての感想を簡単に記す。

 821日から22日にかけて戸隠を訪れた。長野県立歴史館で「戸隠の至宝-守り継がれた信仰と由緒-」展が行われていることを知り、ついでに戸隠を訪れようと思い立ったのだった。ツアーの仲間が同行してくれた。

 戸隠は、かつて修行僧や参拝者の訪れる霊験所であり、戸隠山顕光寺として栄えたが幕末明治初期の廃仏毀釈によって戸隠神社に改まった。戸隠神社は、奥社、中社、宝光社、九頭竜社、火之御子社の五社から成る。すべて回ると徒歩で2時間半かかるという。

 まず、長野駅に向かい、そこからしなの鉄道に乗り換えて、屋代駅で降りて、県立歴史館へ。展示で戸隠神社の持つ歴史的な書類や長泉寺所蔵の聖観音菩薩坐像、寶界寺所蔵の阿弥陀世来坐像をみることができた。

 その後、長野駅前から路線バスで1時間ほどかけて戸隠に向かい、神社の入口にあたる宝光社付近の宿坊で一泊。夕食は蕎麦尽くしのコースだった。とてもおいしくいただいた。翌朝、宿坊内にある別棟の神殿で朝拝を体験した。厄払いをしてもらった。

 宿坊の車で奥社参道入口まで送ってもらい、奥社まで歩いた。大鳥居を過ぎて、巨大な杉が両側に並ぶ細い道を歩く。そのうち、杉並木はなくなり、山肌になっていく。行列というほどではないが、三々五々、人が歩いていく。熊よけの鈴を鳴らしている人もいたが、次々と歩いていくので、熊も襲ってはこないだろうとともあれ安心して歩いた。

 歩きにくい岩肌の坂道なので、かなり疲れた。往復で1時間近く歩いたと思う。奥社の横にある九頭竜社で参拝。厳かな社だったが、人だかりになっており、列を作って柏手を打った。

 中社まで歩いて、拝殿や宝物館を見物。拝殿の脇から、狩野派の流れをくむ川鍋暁斎に手になる龍の天井画(デジタル復元)をのぞいた。その後、鳥居や神体となっている二本杉などを見物。足の疲れのために、近くの喫茶店で休憩。その後、バスで長野に戻って、新幹線で帰途へ。

 翌朝、筋肉痛に苦しむかと思っていたが、案外、痛みを感じなかった。

 

 9月2日には、喜連川(きつれがわ)地区を訪れた。ツアー仲間のお一人がこの地区の観光ボランティアをなさっているので、ガイドをしてもらって、ほかのツアー仲間と町の観光をさせていただいた。

 喜連川は栃木県のさくら市にあり、宇都宮線の氏家駅が最も近い。昔、この地区を流れている荒川周辺にキツネがたくさん住んでいたので、喜連川と呼ばれるようになったという。奥州街道の宿場町であり、江戸時代には喜連川藩があった。5000石の小さな藩でありながら、治めていた喜連川足利氏は大大名と同格の地位を与えられていたという。

 それというのも、簡単にいえば、喜連川足利氏が源氏の流れをくむ家柄であり、足利尊氏の子孫であるため、徳川の家臣でなく、客としての扱いだったからだということのようだ。

 鎌倉時代からの喜連川の歴史についての説明を受けながら、喜連川神社、璉光院、龍光寺、足利家の墓などをみた。その後、明星漁業生産組合で、鮎づくしのコースをいただいた。これは絶品だった! 刺身も塩焼きも一夜干しも甘露煮も鮎飯もおいしかった!

 その後、車で町のあちこちを見せていただいて、氏家駅から宇都宮経由で帰途についた。

 鮎もおいしかったし、町の雰囲気もとても良かった。わかりやすいガイドをしてもらったが、私の日本史の知識が不十分なためによく理解できないことも多かった。もう一度、きちんと下調べしてから、改めて鮎料理を食べに行きたいものだと思った。

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名古屋観光

 先週のことになるが、20268月8日と9日、所用があって名古屋に出かけた。35℃前後の暑さだったが、ついでに少し観光した。このところ、年齢のせいか、私はかなり宗教に傾いている。まったくの初心者ながら、宗教がらみの観光をしたくなる。それなりに忙しくて、この観光についてブログにアップしないままだった。時間がたってしまったが、備忘録代わりに、ここに簡単に訪れた場所と簡単な感想を記すことにした。

 88日、名古屋駅に到着後、まずはあおなみ線に乗り換えて荒子駅に向かい、歩いて荒子観音に向かった。先月末、吉田志門&碇大知のコンサートで名古屋を訪れた時、翌日、何も調べないまま、荒子観音に行き、1200体以上残されているという円空仏を見ようとしたら、第二土曜日にしか拝観できないとのこと。いつもながらの自分の迂闊さにうんざりし、今回、この日に合わせて名古屋に来たのだった。

 円空は江戸前期の仏師・修行僧であり、歌人であって、各地を歩いて12万体の仏像を彫ったといわれている。美濃に生まれ、現在の名古屋付近が活動に中心だったらしい。

 暑い中、歩いて荒子観音に行き、木端の会というボランティア団体の方々が守っている円空仏をみた。木の段の上に30体近くの円空の彫った木の仏が並べられている。大きいもので1メートル前後、小さいものでは、30センチくらいか。いずれも、ごつごつした感じで、粗削り。一本の鉈で彫る一刀彫りの手法だという。

 段の周囲には、これまた円空の彫った、人間の指と同じくらいの大きさの木の仏像が数百と並べられている。いずれも、目鼻と腕の形が彫られているくらいで、高度に抽象化されているというべきだろう。

 なるほど、丹精を込めて一つの仏像を彫るのも信仰のありかただろうが、このように、一見ザツな仏像も含めてひたすらたくさん彫るというのも深い信仰の現れだろう。常に仏を彫り続ける。心を無にして、具象的なものも抽象的なものも、ともかく様々な形のたくさんの仏像を彫るうちに心の中に、そして体の中に仏が宿るのだろう。

 荒子観音の仁王門の仁王も円空の作だとのこと。これも粗削りで円空らしい。

 高畑(たかばた)駅まで歩いて、そこから地下鉄東山線に乗って伏見で乗り換え、鶴舞線で大須観音駅で降りて、七寺(ななつでら)へ。駅の横に大須観音があり、心惹かれるものがあったが、私に関心のある領域を検索してGeminiに旅行ルートを質問したところ、七寺が出てきたので、ともあれそれに従う。

 小さな寺だった。中に入れてもらって、国重要文化財である聖観音菩薩像や大勢至菩薩像をみた。国宝だった阿弥陀如来像の両脇侍だったものを先の戦争の空襲による焼失の中から2人が何とか持ち出したものだという。この二体の仏像はいずれも心洗われるような表情だった。こんな神々しくも慈悲深いお顔は珍しいと思った。外にある大日如来像は戦争のために破壊されたものをつなぎ合わせたものだったが、風格があった。唐櫃入紙本墨書一切経もあったが、これも重要なものらしい。 

 住職のお話も聞いた。ご住職によると、元はこの寺は清州にあったものが、家康の清洲越しによって名古屋に移り、しばらくはこの地で広大な敷地を持っていたが、区画整理、大空襲、戦後の様々な政策によって、現在のような小さな寺になったとのこと(もう少し詳しい話を伺ったが、よく覚えていない)。この寺院の過酷な歴史を思わざるを得なかった。

 その後、徒歩で10分ほどの栄国寺(えいこくじ)に行った。私は隠れキリシタンにもいくらか関心を持っている。今年の1月に五島列島に行ったのも、そのような関心のためだった。名古屋でそのような跡が見られるとは思っていなかった。尾張藩はキリスト教に寛容だったが、その後、キリシタンは処刑されることになる。寺院内の切支丹遺跡博物館にそのような歴史の展示があった。

 この日の観光はこれで終わり。

 9日は、午前中に名古屋駅からJR中央線で大曽根駅に行き、そこから「ゆとりーとライン」(高架専用軌道を走るバス)で竜泉寺口へ。歩いて、龍泉寺に行った。ここは、宝物館には円空の彫った馬頭観音像、天照皇太神像、熱田大明神像がある。いずれもかなり粗削りで、木目が強く残った像だ。人間味にあふれている。その横には、細かい木端で作られた円空仏が「円空」という文字を描いて並べられている。きっと、煩悩の残った人の祈りの心なのだろう、と素人なりに思う。

 このまま、同じ道を戻って名古屋駅に到着。午前中で観光を終えて、東京に向かった。

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青森旅行

 数年前だったか、高村薫の大部の小説「太陽を曳く馬」を読んだ。仏教談義が主要なテーマなのでわからないところもたくさんあったが、とても興味を惹かれた。その勢いで、「太陽を曳く馬」とともに3部作をなす「晴子情歌」と「新リア王」も読んでみた。「新リア王」は「太陽を曳く馬」に勝る難解さで読みとおすのに難儀したが、「晴子情歌」は素晴らしいと思った。それまでは、「マークスの山」しか読んだことがなかったが、これらを読んで、高村薫は偉大な作家だと認識したのだった。

 ただ、「晴子情歌」を読みながら、なじみのない地名ばかりが次々と出てくるので、土地の関係がよくわからなかった。機会があれば青森に行って、これらの土地を訪れてみたいものだと思っていた。

 そんなとき、八戸の高校から講演依頼が来たので、これを機会に、2026年7月26日から28日にかけて2泊3日の青森旅行をしようと考えたのだった。生成AIGemini3部作のゆかりの地を見るルートを質問したら、みごとな答えが返ってきたので、ほぼそれに沿って行動することにした。

 青森から帰宅してから体調を崩した孫の面倒を見たり、名古屋に出かけたり、東野圭吾氏の死去(私は東野ファンと言ってよいだろう。たぶん80冊くらい読んでいると思う。稀有な才能の持ち主を亡くしてしまった。合掌!)を知って、追悼の意味で未読の作品を立て続けに何冊か読んでいたりしていたため、青森についての記録をアップするのが遅くなった。

 

726日(日)

 はやぶさ号で新青森へ。奥羽本線に乗り換えて青森駅へ。駅前のホテルに荷物を預けて、青い森鉄道で野辺地に向かった。

 東京は連日35℃前後の猛暑だったが、青森はまだ梅雨明けしておらず、昼間も27℃程度の気温だった。ただ、ありがたいことに、雨の予報がなされていたが、程よい曇り空だった。

 野辺地は、北前船の風待ち港として栄えた海辺の町だ。小説の中では、昭和の軍国主義の時代、晴子が女中として福澤家に入り、様々な家庭事情によって、それまで顔をみたことさえ数回しかなかった福澤家の三男の淳三が出征する直前に、その妻になり、夫の出征中に、長男の榮に手籠めにされて彰之を生み、その後の生活の中心にする場所だ。

 福澤家という地域の実力者で、船元であり、代々国会議員などの政治家を輩出した地方の素封家のある土地という設定なので、もう少し大きな町かと思っていたら、ふつうの田舎町だった。「晴子情歌」の時代にはもっと栄えていたのだろうが、今や駅前の広場はがらんとしており、車もほとんど通らず、人影はほとんどない。遅めの昼食をとろうかと思っていたが、開いている店がない。唯一開いている、駅付近でピザを食べた。おいしかった。

 歩いて町巡りをするには、遠いので、駅前からタクシーに乗って、野辺地港の象徴である日本最古級の石造常夜燈を見物。資料を見ているうち、戊辰戦争の一環として、野辺地戦争があったことを初めて知った。

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 タクシーに待ってもらって、その後、町の中心部で下車。常光寺、海中寺、野村治三郎の別邸などをざっと歩いた。草木の雰囲気は異なるが、町の佇まいは、私の故郷である大分県日田市とよく似ている。要するに、日本の多くの地方都市の状況だ。

 小説の中で描かれる場所が現実のどこにあたるのかよくわからなかった。もう少し小説を詳細に読んで下調べしておけばよかったのだが、その時間がなかった。が、まあ、土地の雰囲気を知られただけでも良しとしよう。

 歴史民俗資料館でこの町の歴史を見ているうち、1時間に1本ほどの列車の時刻が迫ったので、あわてて歩くうちにタクシーを見つけて、駅に戻り、そのまま青森へ。

 駅近くの居酒屋で夕食。まだこの地域では禁煙が首都圏ほど徹底していないようで、周り中でタバコを吸っている人がいる。この居酒屋もそうだった。少し息苦しいながら、郷土料理を食べた。

 

727

「晴子情歌」巡りをするからには、日本海側にある筒木坂(どうきざか)周辺を見ないわけにはいかない。筒木坂は、晴子の父・野口康夫の実家のある土地で、晴子は母の死後、しばらくこの土地で大家族の中で、弟や妹の面倒を見ながら暮らす。小説は、筒木坂の夢を見たことについて語る息子・彰之への手紙で始まる。木造町、七里長浜の描写は印象的だ。

 青森駅付近でレンタカーを借りて、車で筒木坂に向かった。首都圏に慣れた人間からすると、青森駅付近には人影が見え、車もかなり動いているものの、少し郊外に行くと、あまりに人が少ないのに驚く。道路沿いの店も、どこの街にもあるチェーン店がほとんどで、その地域特有の街並みは見られない。ただ、さすがに道路はきちんと整備されており、もちろん運転マナーはとてもよい。車が少ないので、運転しやすい。ナビに従って、1時間と少しで到着。

 ただ、筒木坂バス停に到着したが、周囲に何もない。まさにのどかな農村地帯であって、人家はあるが、何らかの施設や店舗もない。錆びたシャッターが閉まっている雑貨店らしい建物があったが、人気がない。人影はたったの一人もこの地域では見かけなかった気がする。

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 空き地に車を停めると、そのすぐ近くに要心寺というお寺があったので、歩いてみた。ここも人影はなかった。

 おそらくこの土地は、晴子が暮らしたとされる時代とそれほどの違いはないだろう。きっと、当時からのこのような雰囲気だったのだと思う。東京からこの地に突然やってきた十代の晴子の途方に暮れる気持ちがよくわかる。私としてはもう少し海岸に近いのかと思っていたが、意外と海岸まで距離があった。

 車で十三湖付近を走った。お昼になったので、湖畔の店で名物のシジミラーメンを食べた。大量にシジミが入っていた。シジミのだしがきいて美味しい。

 お店の店員さんと話すと、高山稲荷神社にぜひ行くようにと勧めてくれた。この神社について、私はまったく何も知らなかったが、京都の伏見神社のような朱色の千本鳥居があるという。ナビをセットして向かった。

 広々とした神社だった。山道を登ると、下のほうが庭園になっており、湿地があり、そこに千本鳥居があった。鳥居をくぐった。「晴子情歌」にはこの神社は登場しなかったと思うが、この地域の観光名所としては欠かせない存在なのだろう。

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 七里長浜を見ようと思ったが、なかなか海岸を通るルートがない。海岸と思われるところを目的地にして進もうとすると、狭い道に入り込んだりする。ナビやらネットやらで調べて、ベンセ湿原にある出來島海水浴場に向かった。

 海岸に宿泊施設のようなものがあり、工事中に作業をしている人が二、三人、昼休み中なのだろう、大きな音でラジオをかけて寝転がっていた。その向こうに海岸が広がっていた。

 海岸に出て歩いてみた。子どもたちが数人、遊泳地区で泳いでいたが、人影はない。砂浜が広がっていた。これが七里長浜なのだろう。「晴子情歌」では、冬の光景であることが多く、もっと厳しさを感じさせるが、夏の日本海は穏やかで心優しい。とはいえ、長く続く砂浜とロシアにまで広がる海は確かに峻厳な雰囲気を持っている。

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 途中、ジェミニのすすめにしたがって、五所川原にある旧津島家住宅太宰治記念館「斜陽館」に寄った。太宰治が育った豪邸であり、太宰ファンにとっては聖地なのだろう(太宰は好きな作家の一人だが、とりわけ大好きというほどではない)が、確かにここは「晴子情歌」で描かれる福澤家本家を思わせる。なるほど、晴子はこのような場所で女中として、そして三男の嫁として働いたのだろうと想像できる。

 その後、青森駅に向かい、レンタカーを返却して、青森駅から奥羽本線で新青森を経由して八戸へ。ここから先は、仕事モード!

 

 正直言って、コンサートに追われ、仕事に追われて、十分に下調べしないまま出かけてしまったことを後悔した。「晴子情歌」は時間や場所が複雑に入り組んで進んでいく小説なので、十分に整理しきれずにいた。もう少し前もって、実在の場所と虚構の場所を整理して、そこがどのように描かれているのかを確かめるようにしてみるべきだった。

 ところが、ざっと読んだだけでは、その段階にまで達することができなかった。一度、青森を訪れて、やっとこれから整理して読み返せると思った。

 もう一つ思ったのは、「晴子情歌」に始まる高村薫の三部作は大傑作だと思うのだが、舞台となった現地の人にもほとんど知られていないということだった。ベストセラーにはなっていないにせよ、数々の文学賞を受賞しているので、もっと知られている、少なくとも舞台となった地域の人たちは作品の存在を知っていると思っていたのだったが、そんな様子がない。観光案内にもそのような記述がない。

 もう一つ、Geminiはすごいということも感じた。旅行日程についても、少し条件を入れるだけで見事なプランを示してくれた。うーん、恐ろしい時代になったものだ! とてもありがたいことだが、恐ろしい!

 なお、くわしくは書かなかったが、今回は知人たちがちょうど東北旅行を計画しているということだったので、日程を合わせてもらって青森で合流。一部、行動を共にした。おかげで楽しい時間を過ごせた。

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北欧4か国旅行(写真入りヴァージョン)

北欧4か国旅行

 2026517日から24日まで、大手旅行会社のツアーで北欧4か国旅行に出かけていた。

 北欧には、海外旅行をするようになってから、ずっと訪れたいと思っていた。1970年代の私の海外旅行は、行き当たりばったりに行き先を決めて、1か月、2か月、一人でぶらぶらする形のものだったが、フランスで出会った同じような旅をする男性と情報交換をするうち、その人が北欧の物価の高さのために早々の体で逃れてきたと聞いて、私もしばらくは行けそうもないと諦めたのだった。

 それから50年以上たち、後期高齢者になったので、今さらケチっても始まらないと思って、腹を決めてツアーに申し込んだ。今さら広くて人口密度の低い北欧の個人旅行はつらい。北欧に行くなら、少なくとも初回はツアーにしようと思っていた。しかし、99歳の母の健康状態がいくぶん落ち着いたとはいえ、まだそれほど長期間、日本を留守にするのは不安だ。8日間の旅を見つけて、申し込んだ。

 が、結論から言うと、8日間で北欧4か国を回るのは無理があると痛感した。日本との行き帰りに時間を要するので、実質6日間、時差を加えると、実際には5日間。しかも広い北欧! まさに駆け足でほんの表面をかすっただけだった。が、それでも行った価値はあったと思う。

 

5月17

 早朝に自宅を出て羽田空港へ。11:05発のSAS便でコペンハーゲンに17:25着、グリーンランドなど北極圏を通過するルート。揺れもなく、それなりに快適だったが、何しろ長い!

 コペンハーゲン・カストロップ国際空港は、ガラス張りの近代的な空港ビル! 着後、バスが迎えに来て、空港と市街地の中間にあるというホテルに入ったが、その日はそれだけ。気温は10℃程度だった。綺麗に晴れた気持ちの良い夕方だった。21時過ぎまで明るい。

 

5月18

 この日は、午前中にコペンハーゲン市内を観光し、飛行機でベルゲンに移動して、フィヨルド地区をバスで通過することになっている。

 朝の8時に出発して、バスで1時間半のコペンハーゲン市内観光。

 車窓から見える光景は、実に清潔で整然としている。建物も美しく、ビルはきちんと清掃され、個人の家も彩が美しく、デザインもしゃれている。

 自転車に乗る人が多い。自転車専用レーンも整備されている。前輪部分に大きなボックスをつけている自転車が目立つ。小さな子どもや荷物を運ぶのだろう。天気が良く、澄んだ空。車も整然と走る。日本車も見かけるが、それほど多くない。10台に1、2台といったところ。緑が多く、花をつけた木も多く、花壇もあちこちにあり、花が咲き乱れている。

 ローゼンボー城、人魚姫の像、ゲフィオンの泉、アマリエンボー宮殿などを見て回る。アマリエンボー宮殿はこじんまりした王宮で、毛皮の帽子をかぶった衛兵が建っている。その後、小さな船の停泊する運河沿いの色とりどりの建物の並ぶニューハウンを見た。アンデルセンが住んでいた赤い建物の家もあった。明らかに日本と異なる色づかいだと思う。



 コペンハーゲン観光はそれだけで、バスはそのまま再び空港へ。そして、ノルウェーのベルゲンに向かう。

 ベルゲンはノルウェー西部にある第二の都市で、人口は30万人ほど。13世紀のころにはノルウェーの首都だったという。フィヨルド観光の入り口ともいえる。

 私は、小学生のころ、すでにクラシック好きだったが、小学校の音楽鑑賞の時間にグリーグの「ペール・ギュント」を聴いて以来、特に好きな作曲家というわけではないものの、グリーグには関心を持ってきた。高校生のころだったか、地理の時間にベルゲンという都市名を聴いて、「あ、グリーグの生まれたところだ」と思った記憶がある。それ以来、私はこの都市をグリーグの故郷として認識してきた。

 ベルゲン到着前、飛行機の窓から小さな島が連なり、無数の入り江が複雑に入り組んでいる。ベルゲン空港到着。周囲を野原や小高い山に囲まれた静かな空港だった。様々な花が咲いて、季節は春を謳歌している。

 

 そのまま、バスでベルゲン市内散策。雨が降り出した。10℃に満たない気温で少々寒かった。こじんまりした地方都市で、コペンハーゲンほど新しいモダンな建物は少ないが、ここも整備されて清潔。ここも緑が多い。

 ブリッゲン地区が見えた。中世にハンザ同盟の商人たちが使用していた木造の建物が残っている。ユネスコの世界遺産に認定されている。干し鱈で現地の商人が栄えているのにハンザ同盟の商人が目をつけて進出してきたとのこと。バスを降りて、雨の中を歩いた。後ろにフロイエン山があり、ロープウェイで山頂に登れる。



 その後、バスで美術館やグリーグホールなどを巡ってから、ハダンゲルフィヨルド地区に向かった。

 そもそもフィヨルドとは、「内陸に入り組んだ湾」という意味だそうで、100万年ほど前に覆われていた氷河によって徐々に浸食されて海水が侵入した入り江を意味する。ハダンゲルフィヨルドは世界で三番目の規模のフィヨルド。その周辺をバスで移動。周辺には雪の残る山がそびえており、バスの右に左にフィヨルドによる海や湖が見える。

 ノールハイムスンの滝で下車。気温は6℃前後。

 ウルヴィクのホテルに到着。ホテルから見えるフィヨルドは絶景!

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  ホテルで夕食。

 ビジネスクラス・エコノミークラス合わせて30名のメンバーによるツアーだったが、一人参加は私だけで、ほかの人はご夫婦、家族、友人での参加だった。以前、同じようなツアーで、一人参加が私ともう一人の二人きりだったことがある。その時、もう一人の一人参加の客が私とはウマの合わない人物であって、食事のたびに不快な気持ちだったので、一人参加が私だけであることにむしろほっとしたのだったが、食事の際、どこに座って食べるのかには困った。幸い、私より少し年下に見えるご夫婦が親しくしてくれたので、助かった。しかし、席の指定されているテーブルの場合、お友達3人で参加した女性のグループに加わることになり、せっかくの三人の水入らずの席を邪魔する形になって申し訳なかった。

 ところで、食事そのものはツアー料金に含まれているが、飲み物は各自支払うことになる。何気なくビールを注文。500ミリリットルの缶ビールがグラスに注がれて提供されたが、その値段にびっくり! なんと152ノルウェー・クローネ。ネットで調べたら、1クローネが17円と少し。日本円に換算すると2500円ほどになる! ビールの小グラス12500!!

 その後、ノルウェー、スウェーデン、フィンランドを回ることになるわけだが、ずっとこのくらいの物価だった。すなわち、日本の5倍前後。初めのうちは、毎回日本円に改めて計算していたが、しばらくして考えるのはいやになった。いったん日本円に換算すると、あまりの高さに呆れてしまって何も買えなくなってしまう。しかも、こちらはほぼキャッシュレス社会であって、すべてクレジットカードで決算するので、それをいいことに、日本円は考えないことにした。が、後になって、500ミリリットルの水が500円近くしたり、チーズバーガーが4000円以上だったりという途方もない値段なのに改めて驚くことになった! 日本よりも給料が高いとはいえ、現地の人がどうやって暮らしていけるのか不思議に思った。

 

5月19日

 朝、バスでヴォスに行き、そこからベルゲン鉄道とフロム山岳鉄道に乗って、世界最大のフィヨルドであるハダンゲルフィヨルドを回るのがこの日の日程。今回のツアーの最も重要な一日だ。いわゆる「てっちゃん」ほどではないが、子どものころから列車好きで、ヨーロッパやアジアのあちこちを鉄道で回った経験のある私としてはとてもうれしい!

 小高い山のふもとにあるヴォス駅は煉瓦でできた現代的な建物。しばらく待って、ベルゲン鉄道の電車に乗った。意外とヨーロッパでよく見るタイプのふつうの列車だった。






 山のほとんどには雪が積もっている。小さな滝がいくつも見える。このような険しい山では、すべての水の流れが滝になっているわけだ。ところどころで大きな滝も見える。

 ミュルダール駅で下車し、フロム山岳鉄道に乗り換え。こちらもふつうの列車だ。

 途中、ショースの滝で5分停止。その間、突然、大きな音楽がかかって、山中に白い長髪を垂らした赤い服の妖精があらわれて舞いを始めた。余興ということだろう。

 フロムで下車。自由時間を過ごした後、遊覧船に乗り込み、全長204キロのソグネフィヨルドのうち、グドヴァンゲンまでソグネフィヨルドまでの2時間ほどかけてクルーズ。これは壮観だった。数年前に参加した桂林のクルーズを思い出した。桂林も圧倒されたが、フィヨルドも圧倒される。次々と切り立った山が現れ、その中を船で進む。途中、落差600メートルのサーグ滝、幅の狭いナーロイフィヨルドなどを通過。




 

 グドヴァンゲンで下船し、バスに乗り換えて、また山々を通って、ソグネフィヨルド地区のラルダールに到着。童話に出てくる妖精の町のような、こじんまりした美しい街だった。

 

5月20日

 この日は、朝、バスでラルダールのホテルを出発して、昼過ぎにオスロに到着し、市内観光をした後にそのままスウェーデンのストックホルムに向かうというハードな一日。

 バスで5時間かけてオスロに向かう途中、ボルグンドという場所でスターヴ教会に立ち寄った。

 

スターヴ教会とは支柱と梁でできた中世の教会のこと。支柱のことをノルウェー語でスターヴというらしい。スターヴ教会はノルウェーを中心にかなりの数が残されているというが、ボルグンドのものは13世紀に建てられ、保存状態がよいので有名らしい。独特の趣がある。当時の信仰心が伝わってくる。

 その後、雪の残る草原を車で走り続けた。スキー場として有名なヘムセダル付近を通過。バスを降りて、雪山の絶景をみた。

 

  徐々に平地になって、雪が見えなくなり、緑の多い草原になっていく。

 

午後になって、オスロ到着。

 広大な敷地に彫刻が立ち並び、チューリップが花開くフログネル公園、高台にある簡素な王宮を見た後、オペラハウスへ。

 オスロのオペラハウスについては、オペラ好きの私もあまり聞き覚えがなかった。それもそのはず。2008年に建設された、デザイン性で目を引く建物だった。音楽面ではなく、観光面で目を引く存在らしい。ガイドブックを見てちょっとがっかり。

 が、オペラハウスの前の通りをバスで通り過ぎる際、大きな女性の石像が見えた。ブリュンヒルデのような扮装をしている。あれ? もしかして・・・! 

 オペラハウスで自由時間が20分ほどあった。中に入ってみたが、ポスターもなく、チケット販売所もなく、音楽的な情報はまったくなかった。ムンク美術館が近くにあるが、みている時間はない。バスで通り過ぎた女性像が気になったので、一人でその場に戻った。

 やはり、それはキルステン・フラグスタートの像だった! おそらくブリュンヒルデの扮装をしたフラグスタート! 

  フラグスタートは、私の音楽歴の中で特別の存在であるフルトヴェングラー指揮、フィルハーモニア管弦楽団の「トリスタンとイゾルデ」全曲盤でイゾルデを歌っている。この絶唱に圧倒され、その後、私はフラグスタートのレコードやCDをかなり集め、ひどい音質のものも含めて、一時期、ずいぶんと聴きまくったものだ。30歳までの私にとって、シュヴァルツコップとフラグスタートが歌の神様だった。フラグスタートがオスロの歌劇場で歌っていたことは知っていたが、ここに石像があるとは知らなかった! フラグスタートに再会できて感激! ツアーのメンバーを探して、フラスタートの横に並ぶ私の写真を撮ってもらった! 

 オスロの街はコペンハーゲンと同じように、清潔できちんと整備されている。センスの良い色使いの建物が並び、歩道、自転車専用道路も整然として気持ちがいい。この都市も緑が多い。自転車のほか、電動キックボードというのか、その種のものに乗っている人がかなりいる。レンタルらしく、道路のあちこちに並べられている。

 ノルウェーは水力発電に恵まれていて、電気料金が安いとのこと。そのせいで電気自動車が多いらしい。半分程度が電気自動車とのこと。テスラも多く見かける。

 夕方、そのままオスロ空港へ向かい、飛行機でストックホルムへ。ホテルに直行した。

 オスロを十分にみられなかったのが残念。

 

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 この日もハード。ストックホルムを観光した後、クルーズ船でヘルシンキに渡る。

 朝からバスでストックホルム市内観光。海辺にあるノーベル賞授賞式の行われる堂々たる市庁舎などを見た後、ヴァーサ号博物館を見物。

 ヴァーサ号というのは、1628年に処女航海に出たとたん、原因不明のまますぐに沈没し、近年になって引き上げられて展示されているもの。当時の船の状況がよくわかる。現地の小学生らおおぜいが行列を作って見学に来ていた。小学生はさまざまな人種が混じっているのがよくわかる。

 その後、中世からの旧市街地ガムラ・スタンで昼食、その後、自由行動。私は、ノーベル博物館、大聖堂、ドイツ教会を一人で見てまわった。ガムラ・スタン地区から少し離れたオペラハウスまで足を延ばしたが、工事中だった。

 ストックホルムもコペンハーゲンやオスロと雰囲気が似ている。私には区別がつかない。スウェーデンではヴォルヴォがたくさん走っているのかと思っていたが、ほかの国と変わりがない。日本車の率と同じくらいではないかと思う。せいぜい、10~20パーセントではないか。ドイツ車、日本車、韓国車が多く走っている。いたるところに緑があり、公園が見え、草木が見える。気持ちの良い都市だ。

 

 その後、バスで港へ行き、1630分発の⼤型客船シリヤ・シンフォニー号でヘルシンキに向かった。3000人収容の大型船によるバルト海クルーズ。

 私は、神戸・別府間を関西汽船を利用して帰省したことが何度かあり、またギリシャからイタリアにも船で渡ったが、このような豪華客船の個室で移動したのは初めて。このようなクルーズのCMをテレビなどで見たことがあったが、自分が乗船しようと思ったことがなかった。ツアーのありがたみというべきか。






 出港後、しばらく外を見ていたが、数時間、ずっと小さな島々が周囲に見え、そのうち、四方が大海原になった。

 12階建てで、私の個室は10階にあった。8階から11階までが客室だったようだ。6階、7階にレストランや免税店などが並んでいた。私は観なかったが、ショーなどのイベントも行われていたらしい。スパやナイトクラブ、サウナなどの設備があったようだが、もちろん私は使用しない。ただ船内で少し買い物をしたが、そのあまりの値段にあきれた。北欧はどこでも高いが船内は格別。日本円に換算すると、頭が痛くなる。が、せっかくなので、お土産物などいくつか購入。

 時間を決められて夕食会場に行き、様々の国籍の団体やら個人やらと混じって、食事。私たちのグループの場所は割り当てられていたが、ほかのグループの人も入り乱れていた。数時間に分けられてだろうが、数千人の客が食事に訪れるのだから、大混乱! 一度に数百人が会場にやって来ていた。バイキング形式だったが、どのコーナーも長蛇の列。スモーク・サーモンなどの海鮮物もとてもおいしかった。狭いながらも、個室でぐっすり眠った。

 個室で快眠。細かい揺れはあるが、ほとんど気にならない。

 

  • 522

 実質的な最終日。ヘルシンキを見た後、コペンハーゲンに戻って夕方、翌日の帰国に備えて空港近くのホテルに入る予定になっている。

 1030分に船はヘルシンキに到着。すぐにバスでヘルシンキ市内観光。

 これまで3国の首都コペンハーゲン、オスロ、ストックホルムを見てきた。3つの都市はよく似ていた。いずれも現代的でセンスがよく、清潔でおしゃれ。3つの首都について、私はほとんど差異がわからなかった。

 ところが、ヘルシンキは雰囲気が異なる。あまりおしゃれではない。ロシア的というか、まるでソ連時代のロシアのような雰囲気がある。機能美やデザインではなく、がっしりとして無機的な建物が目立ち、色彩も淀んだ感じがある。

 まずはシベリウス公園へ。シベリウスを記念した公園だが、特に由来はないらしい。中心部にシベリウスの顔の像があったので、同時に訪問して大勢で記念写真を撮りあっている中国人のグループに混じって添乗員さんに写真を撮ってもらった。

  そのあと、岩をくりぬいて作られたテンペリアウキオ教会を見学。1968年に建設というから、古い教会ではないが、デザイン性に優れているということで有名らしい。コンテストが近づいているということで、オルガン演奏の練習をしている人がいた。音響は素晴らしい。客席でくしゃみをしたら、ビンビンと響いた。

 その後、港付近のマーケット広場を見て、すぐに空港に向かい、そのままコペンハーゲンへ。到着後、空港直結のホテルへ。

 

 ホテル到着後、添乗員さんにくっついて電車で市街地へ。デパート(マガジン・デュ・ノルド)付近を歩いて、ニューハウンの運河沿いに立ち並ぶレストランの一つの屋外の席で添乗員さんを含む6人で軽食。私はフィッシュアンドチップスとビール。これで6500円を超えた! 周囲に盛り上がって酒を飲み、大量に祝辞をしている現地の若者がたくさんいたが、いったいこの人たちは一晩にどのくらいのお金を使っているんだろう!と気になった。日本で友人との会食の時のような食事をしたら、一人一食、確実に3万円は超すだろうと思った。

 

  • 523

 ホテルから空港に徒歩で移動し、1245分発の便で羽田へ。

 搭乗手続きを済ませ、後は搭乗口に行くだけと甘く考えてゆっくりしていたのだったが、搭乗口がABCDと分かれているところ、Cの方向に行こうとしてく途中で出国審査の長蛇の列があったので焦った。

 出発の30分前に搭乗口の前に行けばよいと考えて、45分くらい前に着こうとしたのだったが、なんと数百人、ことによると千人近くが並んでいる。近くに同じように並んでいるツアーメンバーが数人いたので、みんなで係官に声をかけ、時間が迫っているのでスタッフ専用の窓口に案内してもらって審査を受けた。

 そのおかげで出発時刻よりも少し前に搭乗口に着けたが、そうしたことが原因なのだろうか、出発時間は1時間以上遅れて出発。南に進み、ポーランド、ハンガリー上空を通過し、黒海、トルコを抜けるルートだった。翌朝、羽田に到着したが、2時間ほどの遅れだった。

 

 

まとめ

・ツアーについて

 8日間で4か国を回るというツアーだった。13時間程度の日本から北欧までの飛行時間と時差もあって、実質5日間。ノルウェーについてはベルゲンやフィヨルドを見ることができたが、それ以外の国については駆け足の観光。コペンハーゲン、オスロ、ストックホルム、ヘルシンキのいずれも、市内観光はそれぞれ2時間前後だけで、ほとんどの建物も中に入らずに外から見ただけだった。結局、「行った」というだけで十分に観光したとはいえず、いわんやその国、その都市を理解したというのは程遠い。せめて一つの都市に一日か二日は滞在して、もう少し観光したいと思った。

その点では不満が残るが、この時間で四か国を回るのだから、やむを得ないだろう。全体を見渡して、次にもっと詳しく観たいところを重点的に訪れるヒントにするにはよいだろう。

 このツアーで最も充実していたのは、フィヨルド観光だった。ベルゲン鉄道とフロム鉄道、そしてソグネフィヨルド・クルーズは一生の記憶に残るだろう。北欧旅行のすべてのツアーが同じようなものであるかどうかはわからないが、私が参加したツアーについては、メインはフィヨルドで、ほかの地域は付録という扱いだった。

 

・北欧4か国

 表面だけしか見えることができなかったので、実は、4か国の相違も十分に理解できなかった。ただ、私たちの回ったところだけの印象で言えば、ヘルシンキだけが少しロシアっぽさがあって異質な感じがしたが、ほかの都市はよく似た雰囲気を感じた。きっともっとよく知れば、その違いが見えてくるのだろうが、数時間、外から眺めただけでは、それ以上理解するのは無理だった。

 4か国すべてについて最も強く感じたのは、あまりに卑俗なことで残念だが、物価の高さだった。実感として日本の5倍くらいだと思った。昨年だったか、ロンドンに行き、日本の2倍から3倍の物価だと思ったのだったが、北欧はそのまた2倍くらいだった! やはり北欧旅行の壁は厚いと思った。同時に、なぜ日本は北欧のような豊かな福祉国家にできないのだろうかと、長年の疑問を再び抱いた。

 とはいえ、ストックホルムとヘルシンキはもう一度訪れたいと思った。シベリウスの生まれた土地にも行ってみたい。

 

・個人参加のこと

 よく気の付く感じの良い添乗員さんに恵まれたし、ツアーに参加しておられたのは、とても良い方たちばかりだったので、私はひとりだけ個人参加だったが、それほど不都合なくすごすことができた。が、私が横に座ったために迷惑に思ったメンバーがいたのではないかと気になった。

 これまで私の参加したツアーには個人参加の方が多かったのだが、今回はそうではなかった。一人参加の方が多いツアーのほうがありがたいが、前もって知るのは難しいと思う。致し方ないだろう。

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国宝十一面観音の旅

 20263月、大手旅行会社のツアーに参加して、関西の十一面観音を6体、拝観した。

 私は、昔から仏教や仏像に関心を抱きながら、ずっとクラシック音楽などの西洋文化の中で暮らしてきた。京都や奈良を訪れた折には、寺院などを見ようとしているが、なかなか仏教、仏像に触れる機会がない。そんな折、友人にこのツアーの存在を知らされて、喜んで参加したのだった。

 これまで十一面観音はいくつかみたことがある。観音菩薩なので、如来のようにすでに悟りを開いて仏陀になっているわけではない。いわばまだ修行中の身、だから、人間臭さを残し、煩悩を抑えようと闘っている。しかもそのうえ、観音は中性的であって、しばしば女性的な体型を見せてくれる。そこに様々な表情が宿る。

 そのうえ、観音には千手観音、馬頭観音頭など異形のものがあるが、そのなかでも十一面観音は基本的に頭の上に、衆生に目を向けて救おうとする10の小さな顔を持っており、それぞれに表情がある。

 実際に出かける前にちょっとした予習をして、十一面観音像にとりわけ信仰を持つ人が多いのもよくわかる気がした。

 ただ、何しろ見るためのポイントもわからず、知識もない。今回、6体を見たが、素人の悲しさで、見てすぐから、いくつかがごっちゃになる。そもそも、前に見たものとどこがどう違うのかもよく思い出さない。みているときには、それなりに感動したつもりだが、しばらくたつと、頭の中に像が結ばない。いや、そもそも見ているあいだも、感じたことをどう言葉にしてよいのかもわからない。写真を撮っていれば、それを見て思い出しながら思ったことを再現できるが、撮影禁止なので写真もない。ネット上の写真も少ない。

 よって、曖昧なことしか書けないが、備忘録として簡単なメモを記しておく。

 

向源寺 

 滋賀県、琵琶湖の湖北にある向源寺(こうげんじ)。渡岸寺観音堂(どうがんじかんのんどう)とも呼ぶらしい。736年に天然痘が流行した際、泰澄(たいちょう)が聖武天皇に除病平癒祈願を命じられて建立し、泰澄が十一面観音像を彫刻したとされている。しかし、ヒノキの一木造(いちぼくづくり)で、作風がもっと後のものであることから、泰澄の作とは考えられないとのこと。田園の中にある。195センチの高さ。

 渡岸寺十一面観音は両耳の後ろに大きめの小面があるところに大きな特徴がある。右足を少し前に出して立っている様子であるためか、見る方向によって顔も肢体も雰囲気が変わる。だが、どの方向から見ても、高貴で美しい。

 

大報恩寺 

 京都市上京区にある寺院。1221年義空上人によって開創。真言宗智山派の名刹。本堂(国宝)は1227年(安貞1)創建時のままで、京洛最古の古建築。

 本堂前に「おかめ塚」がある。おかめは寺院を立てた棟梁の妻で、その助言で寺院はうまく建ったが、夫の名誉を守るために自害。おかめ信仰がここから広まったとのこと。

 残念ながら、十一面観音像は展覧会に出品のために見られなかった(この件については前もって旅行会社から連絡があった)。国宝の観音菩薩像をいくつかと快慶作の十大弟子像などがあった。弟子像はすばらしかった。

 

大雲寺 

 京都市の民家の中の坂を上がったところにある寺院。335年ぶりの御開帳とのこと。戦火や災害などで何度も寺院は消失。十一面観音像も頭部が焼けるなどしたが、335年前に封印され、秘仏になった。ただ公開を禁じられていたわけではなく、数年前から公開の予定だったところ、コロナなどで時期が遅れたのだという。聖武天皇をモデルにして行基が作ったとされているという。

 1メートルくらいの大きさ。保存状態がよかったためか、金箔がかなり残っている。かなり男性的なお顔でいかつい感じがする。

 

道明寺 

 藤井寺市にある桜餅に使われる「道明寺粉(道明寺糒)」発祥の寺。菅原道真公が作った国宝十一面観世音菩薩像が御本尊。1メートルくらいの 檀像仏像とのこと。ほかの像ほどのしなやかさは感じないが、落ち着いていて気品にあふれている。かなり男性的な感じがする。本当に道真の作かどうかわからないが、確かにそういわれるだけの知性と品性と信仰心を持った作品だと思った。

 

聖林寺

 昨年だったか、一昨年だったか、足を運んだことがある。JR桜井駅からすこしいった丘の上にある寺院だ。渡り廊下の先にある収蔵館に十一面観音が収められている。これは実に美しい。中性的で気品にあふれ、優雅でもある。

 

室生寺

 この寺も、以前、訪れたことがある。高野山とは違って女性にも開かれた真言道場があったため、女人高野と呼ばれる。寺自体がとても美しい。1998年に台風で損害を受けた五重塔も修復され、今ではかつての風格を取り戻している。

 十一面観音像は寶物殿に収められている。これも実に美しい。かなり女性的で慈しみ深い感じ。

 

法華寺 

 聖武天皇の妃である光明皇后の建てた寺院であり、境内には日本最古の浴室がある(中には入れなかった)。十一面観音菩薩立像は光明皇后をモデルにしているという。

 美しかったという光明皇后をモデルにしているためだろう。女性的で、とても美しくて気高いお顔だと思った。暗くてよく見えないのが残念だったが、唇は赤みが差されている。

 

観音寺 

 京田辺市の道路沿いに菜の花畑があり、その中を歩いて観音寺に到着。天武天皇の勅願によって建立されたというが、消失などのために、今ではかつての威容は残っていない。「かんのんじ」ではなく、「かんおんじ」と呼ぶようだ。

 こちらの十一面観音もとても美しい。私などには、正直言って、室生寺、法華寺のものとどこがどう違うのか、曖昧になってきた。

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東ティモール、バリ旅行

 202637日から11日まで、東ティモールとバリ島を訪れていた。

 東ティモールに行こうと思いたったのは、先日のブルネイと同じ。99歳の母の体調などのために長期間の旅行は難しい。アジア地域でまだ行ったことのない国に東ティモールがあるのを思い出した。2002年に独立した小さな国だ。もちろん、この国が生まれた時の報道はよく覚えている。つい数年前のことと思っていたが、もう20年以上たつ。この新しい国を見てみたいと思った。東ティモールへの直通便はなく、バリ島経由ということになる。

 30代の息子を誘って、二人で、これまでに何度か利用したことのある個人手配の旅行会社に現地ガイドなどを依頼した。

 

37

 37日、成田を11時に出発のガルーダ・インドネシア機でバリのデンパサールに到着。前もってヴィザを取っていたので、すんなりと外に出た。2728℃前後だと思う。清潔できれいで華やかな空港で、お土産物売り場も完備されている。空港の外に出ると、大勢のガイドさんらしい人たち(もしかしたら100人以上いるかも)が手に札をもって降りてくる客を待っている。が、どう探しても、私たちを待つガイドさんが見当たらない! あれこれ電話をするなどして、やっと連絡が取れて、ガイドさんは1時間遅れで到着。不安な時間を過ごした。

 どうやら日本の代理店と現地代理店の連絡不行き届きだったらしい。短いオプショナルツアーを依頼していたが、レストランでの食事だけになってしまった(ただ、ガイドさんがとても恐縮してくれて、その後、あれこれのサービスをしてもらい、とても快適に過ごすことができた)。海辺のレストランでおいしい海鮮料理を食べてから、バリ風のホテルへ。

 2017年以来、二度目のバリだった。以前訪れて、欧米人を含む大勢の観光客の集まる大リゾート地だと思っていたが、今回も印象は変わらない。ただ、以前来た時よりも西洋人が比較的少ない気がしたが、それは動き回った土地のせいかもしれない。

 

38

 850分のシティリンク機で東ティモールのディリへ。バリの旅行代理店に便宜を図ってもらってすんなりと出国できた。2時間ほどの飛行だった。

 200人弱収容程度の飛行機で、三分の二くらい埋まっていた。観光客らしい人はあまり多くなかった。多くの人が仕事や何かの用ででかけている雰囲気を感じた。日本人らしい人は数人いるかいないかだと思う。

 飛行機の窓から見えるディリの町は、まさに海辺の小都市。私は10歳から18歳まで大分市に住んでいたが、当時の(ということはつまり、1960年代の)大分市を思い出すような風景だった。

 

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 東ティモール民主共和国。首都はディリ。国土面積15000㎡(つまり、四国より少し大きい程度)、人口は約135万人(首都ディリの人口は30万人強)。日本と時差なし。16世紀にポルトガルの植民地になり、1975年からはインドネシアの支配を受けていたが、2002年に独立。公用語はテトゥン語とポルトガル語だが、インドネシア語も広く使用されている。通貨は米ドル(つまり、独自通貨はない)。99パーセントがキリスト教徒で、そのほとんどがカトリック。大統領制。入国前の私の知識はそのくらいだった。

 空港到着。タラップを降りて、ヤシの木が何本も立ち、庭木の並ぶ通路に沿って赤茶色の屋根(もしかしたらトタン屋根?)の建物に入る。これが首都の空港とは思えない。村の公民館のような建物だ。気温は30℃前後。薄曇りの天気だった。

034df1faa1274afe87067a3df665ecd4ディリの空港(ただし、これは出国時に撮影したもの)

 窓口に並んでアライヴァル・ヴィザを取得(30米ドル)し、長い行列でパスポート検査。窓口ではかなりの部分が手書きなので、異常に時間がかかる。その後、入国審査申請書を空港内に4台置いてあるパソコンで順番を待って作成。これを前もって作成しておくべきだったが、勝手がわからずにいたため、空港内で作った。それでも何をどう書けばよいかわからない項目もあり、息子とともに悪戦苦闘(息子はロンドン滞在歴もあって、人並みよりはこの種のことには強いはずなのだが!)し、近くにいたお役人の手助けを得なければならなかった。

 飛行機では前方に座っていたので、早く外に出たのだが、結局、審査が終わって空港出口を出たのは、12040人程度の客の最後になってしまった。1時間ほどを要していた。

 私は海外に出ると、docomoの「世界そのままギガ」でWi-Fiにつないでいるが、東ティモールでは接続できなかった。接続できるという情報だったので何とかなると思っていたのだが! 空港のフリーWi-Fiを探したが、これも接続できなかった。IT環境がかなり良くないことを、この後もしばしば感じた。

 ただ、もう一つ、軍人らしい人や警官らしい人も見当たらないことも感じた。どこの空港にもいかめしい人がいるものだが、ここにはいない。空港関係者らしい人物はいるが、権力を持っていそうな人は見えない。このことは、その後、町の中に出てからも感じた。

 ガイドさん(知的な日本人女性。JICA関係の仕事で東ティモールの男性と知り合って結婚してこちらに定住している方だった)と合流して、すぐに車で観光に出かけた。

 この国には観光地などはないに等しいが、ほとんど唯一のディリの名所はクリストレイ。リオの像に次いで大きいというイエス・キリスト像だ。今は雨期だが、幸い、雨は降っていない。いつ雨になるかわからないというので、今のうちに行こうということになった。

 車のほとんどが日本車。右ハンドルで左側通行。車が少ないせいもあるが、ドライバーはみんながきわめて穏やかな運転だ。先を争うこともない。バイクも走っているが、それほどの量ではない。ただ、私たちの乗る車の運転手さん(あまり運転は上手ではなかった)の特性なのかもしれないが、ほとんどウィンカーを出さないで車線変更をしていた! ただ、スピードは速くないし、交通量も多くないので、まったく危険を感じることはなかった。

 信号はほとんどない。だが、阿吽の呼吸というべきか、交通量の多い交差点でも、トラブルらしいものなしに動いている。この国の人は先を争ったりせず、相手に譲る。

 中心地の建物そのものは現代的だが、町の雰囲気は、まさに1960年代の大分市に近い。高い建物はない。高くても5階建てだという。中心街でも2階建てか3階建てがせいぜい。それも隣接して建物が建っているのではなく、広い敷地があり、緑が見える。大統領官邸や省庁の建物の前も通ったが、いかめしい様子はなく、公園やふつうのホテルのような雰囲気だ。

 海岸の道路を通った。テトラポットが海辺に置かれている。私は、別府と大分を結ぶ海岸の道路(国道10号線だが、別大道路と大分市民は呼んでいる)を思い出した。ただ、大分市の海辺は当時から岸壁があったが、ディリには岸壁のないまま海につながっているところも多い。道路の横には砂浜が広がっており、その先に海がある。車が海に転落しそうで怖くなる。

 ミャンマーなどの東南アジアの道路は、都市部に限らず田舎道でも、道端にゴミが散乱していることがある。散乱どころか、ゴミの連なりが途切れることなく、何十キロにもわたって続いていることがある。だが、この町にはゴミが見えない。きちんと掃除をしているのだろう。清潔な町だ。

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 クリストレイは、海に張り出した小さな岬になった小山の頂上に立っている。海岸に面した広場で車を降りて、遊歩道と階段を通って、キリスト像まで登る。ときどき日が差す程度の天気で、それほど暑くなかったので助かったが、74歳の私にはかなりきつかった。途中で諦めようかと何度も思った。何度か休憩し、左右を見渡す。風が吹き、右に左に海が見えて美しい。

 キリスト像は地球の上に乗っていた。キリストはポルトガルの方向を見ているとのことだった。東ティモールはカトリックの国で、ポルトガルの植民地だった。キリストの思いというよりも、ポルトガルからやってきた人たちの思いをこのキリスト像は表しているようだ。ただ、どこをみても、この像の建造年などの情報がみあたらない。

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 その後、モタエル教会(Santo Antonio de Motael)にも行った。白い壁に赤い屋根の美しい教会だ。1800年に建造されたが、現在の建物は1955年建造だという。薄曇りの下に白い教会が静かに立っており、とても美しい。人影はなく、超然とした雰囲気だった。

 その後、タイスマーケットへ。ディリで最も大きいショッピングモールだという。1階にスーパーや様々な小さな商店があり、2階では衣料品、電子機器、日用品などが売られている。東南アジアの市場の雰囲気は微塵もない。まず人が少ない。日本の地方都市のちょっと大型のスーパーのような雰囲気と言ってよいだろう。それこそ、大分市の郊外のちょっと大型のスーパーの雰囲気に近い。

 スーパーは日本や西洋の店と同じように、整然と商品が整列されている。値段は、すべてにおいて日本の商品よりも2、3割安いといったところ。たぶん、このような店は、少し高めなのだろうが、それにしても、初任給が月2万円程度だというから、現地の人は苦しいだろう。ほかの店でもそうだったが、ここではポルトガル製が高級品として売られている。ついでにいうと、優秀な若者の留学先はポルトガルだという。確かに、あちこちにポルトガル語の表示がある。

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 近くのカフェでコーヒーを飲んだ。おしゃれな店で、日本の一等地にあるカフェと雰囲気は変わらない。コーヒーは東ティモールの特産の一つとのこと。とてもおいしかった! コーヒー一杯2ドルだった

 その後、ホテルへ。Excelsior Resort Hotel。かなり広い敷地のホテルで、壁に囲まれた敷地内には門を入ってしばらくまっすぐの道があり、両側に薄い黄色の平屋が数軒並んでいる。バンガロー形式のホテルというべきか。そこには事務所も入っているようだ。木々が植わっていたり、花壇があったりするが、私は刑務所か収容所、あるいは兵舎を思い浮かべた。

 奥のほうに2階建ての母屋があって、そこの1階がフロントだった。かなり古びたホテルで、がらんとした雰囲気。Wi-Fiも含めて、設備はあまり良くなく、備品も完全ではなかったが、必ずしも不快ではなかった。スタッフの感じはよくて親切。日本式のサービスとは対極にある、質素でさっぱりした対応だった。

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 息子と二人で、ガイドさんに教えてもらったホテル近くのレストランに向かった。

 レストランへの道は、まさに貧しい地域の路地だった。

 車がやっとすれ違えるくらいのコンクリートを打っただけの道で片側には用水路があって水がちょろちょろと流れている。廃屋としか見えないような、土の上に、薄汚れたトタン屋根を載せただけの古い材木で組み立てた掘立小屋があり、木の台の上で、ココナツやバナナ、トマトなどの野菜を売っている。そうそう、こういう朽ちかけた小屋をバラックと呼ぶのだったと久しぶりに思い出した。

 ガラス戸の冷蔵庫を3つほど並べて、水や飲み物などを売っているだけの店もいくつかある。ところどころで店の表の出っ張りには洗濯物をひっかけている。魚を皿の上に10匹ほど載せて売っている人もいる。子どもたちが多い。はだしで歩く子どもたちもいる。野良犬なのか飼い犬なのか、犬があちこちでぶらぶらしている。鶏も放し飼いで家の周囲を歩いている。これまた、1960年代の九州の田舎の貧しい地域を思い出す。ただ、そんなところでも、何人かの子たちが固まってタブレットで遊んでいたりする。

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 レストランは、その区域ではお洒落に見えた。ビールを飲みながら、ナシゴレンや牛肉料理、デザートなどを食べた。息子と二人でちょうど50ドル。7500円前後! 日本で食べても同じくらいの料金だろうと思った。なかなかの物価だ!

 食べているうちに暗くなった。疲れていたので、ホテルに帰って、すぐに就寝。

 

 

39

 ディリから車で海岸線を20分ほど西に進んで、マングローブの生える海岸に行った。その後、30分ほど西に進んで、海岸のレストランで昼食。海が美しい。道辺の道路のところどころで、野菜や魚を並べて売っている人がいる。魚を自分たちで釣って、売っている人が多いのだという。確かに、海の中に人がいて、魚を取っているらしい人もいる。ただ、組織的に漁をしている様子は見られない。漁業はあまり企業化されていないのだろうか。

 この国を見て思うのだが、商売の意欲があるのかないのか。その気になれば、もっと漁業を組織化して手広く儲けることができるだろうに、と思う。観光資源もたくさんありそう。ところが、国民はそんな気がなく、競争心もなく、儲けようという気もないようだ。あちこちの小売店にも商売気がなく、たくさん売ろうという工夫が見られない。拡大再生産をめざすのではなく、単純再生産を当然と思っている様子だ。

 ガイドさんによると、教育水準も高くないことが問題になっているという。数学の大学教授の数学の能力に日本からやってきたJICAボランティアが疑問を持った話も聞かせてくれた。小学校、中学校では教員の質が低くて、十分に成り立っていないことが考えられるようだ。だが、それでも特に大きな問題は起こることなく、平和に国家は動いているらしい。民主主義国であり、大統領制は安定しており、表現の自由もあり、国会も民主的に運営されているとのこと。内実はよくわからないが、ともあれ、町の雰囲気はまさに平和でのどかで、アジア的喧騒からかけ離れている。

 ディリに戻ってから、まず大聖堂へ。

 1980年代に作られたという。薄いベージュの壁のシンプルな雰囲気の聖堂で、落ち着いたたたずまいを示している。東ティモールの人々は敬虔なカトリックであって、多くの人が日曜日には教会のミサに出席するという。さすがにミサの際には近くの道路は大渋滞になるとのことだった。

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 次に、東ティモール抵抗運動博物館を見学。ポルトガルの植民地からの独立運動、インドネシアからの独立運動、弾圧と抵抗の歴史がパネルや写真、動画で語られている。ただし、広島原爆記念館や、カンボジアの博物館などに比べると、残虐な状況についての記述があまり多くない気がした。

 その後、サンタクルス墓地へ。

 1991年、東ティモール独立を求めて殺害された若者を弔うために集まった民衆に向けてインドネシア軍が発砲し、大量虐殺につながったのがこのサンタクルス墓地だ。これをきっかけに東ティモール独立運動が活発になったということらしい。

 ただ、東ティモールの様々な項目を見るに、どこにも統計らしいものが見当たらない。日本人としては、このサンタクルス事件で何人が殺されたのか大いに気になるのだが、その記述が抵抗運動博物館でも見つけられなかった(英語の表示が下の方にあるため、英語がけっして得意でない私は見つけられなかった可能性もないではないが)。数字をあまり気にしない国民なのかもしれない。(あとで調べたら、270名が殺害された、という記述をネットで見つけることができた)。

 墓地の手前のほうには、1991年の事件で殺された人々が埋められているという。キリスト教式のしっかりした墓が並んでいた。花が飾られている墓もたくさんある。

 

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 道路を挟んだ反対側に、インドネシア関係者の墓地があるというので、そちらに向かった。そちらは現地の人の墓と違って、もっと質素。しかも、工事中らしく、機材が置きっぱなしになっていた。東ティモールでのインドネシアを含む外国人の名前を記す石のパネルも建設中のようで、そこには数百人の名前が記されていた。その向こうに緑に囲まれて墓が並んでいる。

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B92208572a614019bf12eee9a4c1bc4a サンタクルス墓地の反対側の外国人墓地(工事用具の奥に墓石が並んでいるのが見える)

 一般的に、虐殺のあった墓地に虐殺した側の死者の墓も設けられるものだろうか。東ティモールの人々の墓地と比べて質素だとは言え、粗末にせずにきちんと弔っていることにある種の驚きを覚える。インドネシアから墓参りに来る人たちもたくさんいるという。

 ガイドさんに聞いても、周囲の雰囲気をみても、どうも東ティモールの人々はインドネシアを敵対視している様子はない。虐殺についてもそれほど大々的に扱おうとしない。

 その後、チェガ博物館を訪れた。インドネシア時代に刑務所として使われていた建物で、インドネシアに抵抗した人々の受けた拷問などについて解説するパネルなどがあった。

 ひどいことではあるが、ただアウシュビッツやカンボジアのクメール・ルージュの処刑場などと比べれば、まだしも穏やかだったとは言えるかもしれない。そして、ここでも、確かにインドネシア人による残虐な行為を告発はしているが、私がこれまで見たこの種の博物館の中では、加害者に憎悪をかきたてるような表示が少ない例の一つだと思った(広島や長崎の原爆関係の展示が最も顕著だと思う)。

 その後、夕食。東ティモール料理を食べた。と言ってもインドネシア料理とほぼ同じだろう。ナシゴレン、厚揚げのようなもの(名称をおしえてもらった、忘れた)。とてもおいしかった。

 ホテルで休息。前日にクリストレイを見るために階段を上がったせいだろう、かなり疲労がたまっているのを感じた。

 

310

 1030分頃、ホテルの用意してくれた車で空港へ。すんなりと出国審査を済ませて、アルコールなどを置いているちょっとした免税店の横の待合室で待機。入国するときには三分の二ほどの客がいたが、帰りはガラガラ。4050人くらいの客しかいなかったかもしれない。

 1時間半ほどでバリに到着。前もってネットで入国のための手続きをしていたし、今回もバリの旅行会社の的確なサポートもあって、予定通り、14時ころには入国できた。東ティモールのディリから到着すると、この空港のあまりの大きさ、お店の多さ、その現代的なセンス、派手な広告などに圧倒される。色とりどりの商品が空港の売店を埋め尽くしている。

 今回は、空港を出てすぐにガイドさんに合流。

 成田行きの便は深夜050分。時間はたっぷりあるので、その間に短いバリ・ツアーをお願いしておいた。私の希望は、ケチャをみること。

 車でクタ地区をぐるっと回って車の中から見物。狭い道を車で動き回った。バイクが多い。私は二度目のバリだが、息子は初めて。海岸が見えた。前回、この海岸で波を見て過ごしたのを思い出した。

 東ティモールから来ると、とりわけ人の多さ、リゾート地としての施設の多さに目が行く。確かに東ティモールには、バリほどの文化遺産はないだろうが、十分にリゾート地になる要素を持っている。東ティモールの人の多くは、海外に出る時、このバリを経由するらしい。それに、東ティモールの人は海外に出稼ぎに出ているらしい。東ティモールの人々はこのような状況を見て何を思うのだろうか。気になった。

 渋滞を警戒して、そのままウルワツ寺院に向かった。11世紀に建てられた絶壁にあるヒンドゥー寺院で、現在の建物は16世紀のものだという。この寺院で行われるケチャダンスが世界的に有名らしい。私は、1980年前後だったか、最初はFM放送でケチャの歌を聴いて衝撃を受け、後にCDも購入して繰り返し聴いたものだ。前回、バリを訪れた時、ケチャを観たいと思っていたが、それはかなわなかった。今回、ようやく実現。

 ウルワツ寺院には大勢の観光客がいた。その多くは夕方からのケチャをみるのが目的らしい。それまではゆっくりと寺院内を見物する。

 この寺院にはサルが多い。ガイドさんと息子と三人で歩いているうち、二人がいないのに気付いた。迷子になったかと心配していたら、しばらくして二人がやってきた。聞いたところでは、息子は背後からやってきた猿に眼鏡を奪われ、慌てていたところ、ちょうど近くに餌をやる係の人がいて、餌を使って眼鏡を取り戻したという。私も眼鏡をかけているので、あわててバッグにしまった。

 周囲の断崖はまさに絶景。海が美しい!

 

 ケチャは18時からだったが、17時ころには席とりのために会場に入った。海を背景にして、ギリシャの野外の円形劇場のような造りになっている。席と言っても石段に座るだけで、座席があるわけではない。私たちは真正面の5段目ほどのところに座った。客がどんどんと入ってくる。最終的には通路まで埋まって満席になったので、おそらく2000人くらいの客が来たのではないか。

 東ティモールでは日本人はほとんど見かけなかったが、バリには日本人が多い。西洋人もたくさんいる。ロシア語らしいスラブ系の響きもあちこちで聴かれる。そういえば、バリ島の観光客にはロシア人が多いとのことだった。インドネシアはウクライナに関する制裁に参加していないのだろう。

 炎天下ではなかったが、それでも30℃を超す気温の中、背もたれもない石段の上で1時間近く開始を待つのはかなりつらかった。

 一人の男性が現地語と英語で開始を告げて、50人ほどの上半身裸の男たちが登場。ケチャの合唱が始まった。これはすごい! まさにチャチャチャの掛け声のオーケストラ! 最初に聴いた時に衝撃を受けたが、生で聴くと、これは大迫力。きっと楽譜があるわけではないと思う。音楽の才能のない私には、どういう仕組みになっているのか、合唱団がどのようなパートを受け持って、どう変化させているのかさっぱりわからないが、ともかく声の渦に圧倒される。

「チャチャチャ」の男声合唱に乗って、「ラーマーヤナ」の物語が展開される。衣装を着け、仮面をかぶった人物が登場して、基本的にパントマイムで物語が展開する。合唱団の声によってストーリーの展開がなされているのかどうか、私にはわからなかった。前もって、日本語訳のあらすじの書かれた紙が配布されたが、おそらくOCRを使ったのだろうが、そのあまりの誤字の多さのために読むのが苦痛だった。まあ、私としてはストーリーはあまり気にせずに音楽に耳を傾けた。

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 開始時は明るかったが、徐々に暗くなった。たき火の光のなかでのケチャはまさに壮観! 私は目を奪われ、耳を奪われ、時間を忘れて堪能した。芸術方面にかなり疎い息子もかなり熱心に舞台を見ていたので、きっとケチャは多くの人を引き付ける力を持っていると思う。ほとんどすべての人が圧倒されたのではないか。1時間ほどで終了。

 車でレストランに移動して、外国人のたくさん集まる、ビアホールのような造りのレストランで夕食。ここもおいしかった。その後、早めに空港に着いて休憩。

 予定通りの便で成田に無事に帰国した。

 

  •  東ティモールについてのまとめ

 たかだか正味2日間、日本人のガイドさんと首都のディリとその近郊を見て回っただけなので、正確なことはわからない。が、東ティモールの印象をまとめると、以下のようになる。

・首都ディリはアジア的喧騒からかけ離れたのどかな町だった。静かで整然としている。治安も悪くないという。泥棒、追剥、かっぱらいなどの心配はないらしい。

・少なくとも、観光客が見る限り、きわめて平和で民主的に見える。貧しそうな地域はあるが、食べるのに困っている様子はない。

・映画館は1軒だけ。テレビも娯楽らしいものはないようだ。ホテルでテレビをつけたが、娯楽らしい番組をやっているのはインドネシアの局らしい。ほかには、BBCの放送と面白みのないニュースのような番組(これがきっと国営放送だろう)しか映らなかった。国民は、友達とおしゃべりしたり、ネットでYouTubeをみたりして楽しんでいるらしい。

・のんびりしている。すべてに時間がかかる。食事もなかなか出てこない。あちこちで待たされる。

・旧宗主国ポルトガルがいまだに大きな力を持っているらしい。留学先などもポルトガル、おしゃれな店の高級品はポルトガル製らしい。この国ではポルトガルが第一級の国として認められている。この国の人は、世界的にはポルトガルはほとんど発言権を持っていないのを的確に把握していないのかもしれない。

・インドネシアにそれほどの敵意を持っていないように思える。寛大で平和的な国民ということなのだろう。

・資本主義的な考えが根付いていないというべきか。ともかく、ほかの東南アジアの国のような、がつがつしたところが見られない。

・それなのに、物価は日本と大差ない。日本よりも2、3割安い程度。もちろん、私たちが入ったのは高級店であって、きっともっと安いお店はたくさんあるのだろうが、それにしても高い。


 

 

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五島列島旅行

 2025118日から21日まで、大手旅行社のツアーで五島列島旅行に出かけた。このところ潜伏キリシタンに関心を持っていた。何冊か本を読み、遠藤周作も何冊か読み返した。一昨年の秋、一度、別の会社のツアーを申し込んでいたが、事情があってキャンセルして、改めて60歳以上限定の今回のツアーに申し込んだ。海外の団体ツアーは何度か利用しているが、国内はこれが初めてだと思う。少なくとも初回は、五島列島旅行はツアーで回る方がよかろうと判断したのだった。

 

118日(初日)

 朝、羽田空港を出発、長崎空港から長崎港に向かい、14時発の九州商船ジェットフォイルで奈良尾港へ。到着は16:15。そのまま新上五島町のホテルへ。天気に恵まれていた。稀なほどの暖かさ。昼間は15度くらいあった。

 ジェットフォイル(時速80キロ前後で走行)の窓から青々とした海の上に濃い緑の島影が見える。右手に中通島を見ながら福江を経由し、その後、左右に小さな島々を見ながら奈良尾へ。その時点で、五島列島が単に5つの島ではなく、岩だけ突き出したような小さなものを加えると数百の島からなっていることを実感する。ベトナムのハロン湾を思い出す。その後、島をめぐって何度となく感じたことだが、まさに絶景! 遠浅の岸はほとんどなく、切り立った崖が多い。晴天の空のもと、透明な海の上にたくさんの緑豊かな島が突き出ている。

 奈良尾港到着、周辺には港の施設以外にはめぼしいものはない。バスで新上五島村のホテルへ向かう。山が迫り、しばしば入り江が見え、美しい自然の傍らに教会や学校、寺院などの施設が見える。美しい自然の中に息づく島だ。

 ツアーのメンバー全員で夕食。最初にどこに座ったかでかなり人間関係に影響が出るのがツアーの特性だろう。私は幸い、この時に近くに座った二人の高齢女性と一人の高齢男性と親しくさせていただき、ずっと楽しく過ごすことができた(私が最年少だった!)。日常生活では出会うことのないタイプの人と出会い、友となることの楽しさを味わった。

 食事については、高齢者ばかりのツアーだとはいえ、ちょっとこれでは量が少なすぎる、とは思ったが、魚も肉もとてもおいしかった。

 旅行初日は、移動と食事だけで終わった。

 

 19日(2日目)。

 朝食の後、近くをひとりで散歩。ホテルから海岸まで歩いて5分ほどだった。穏やかな入り江で、小さなボートが一艘浮かんでいた。

 9時前にバスが出発。海童神社(海難防止を祈願する神社で、鯨の顎骨の鳥居がある)を見物した後、祈りの龍馬像(龍馬が来て、亀山社中の専用船「ワイル・ウエフ号」が水没した場所に向かって祈ったという伝えを記念して10年ほど前に作られた像)へ。龍馬に関心のない私としては、こんな絶景の場所にわざわざ人寄せのために銅像を作って自然美と環境を破壊する必要はなかろうに!と思った。

 その後、頭ヶ島(かしらがしま)天主堂見学。30を超すという五島列島の教会の中でも最も歴史のあり、信徒に親しまれている教会らしい。もとは幕末に弾圧から逃れたキリシタンが作った木の教会だったが、1919年に現在の形になったという。石造りの小さな教会で、こじんまりとして美しい。中は船底をさかさまにした形だという。海に面した丘の中腹にひっそりとたたずんでいる。

 午前中は日が照って暖かかったが、曇り空が広がり、だんだんと寒くなってきた。

 五島地獄うどんと海鮮丼の昼食。海鮮丼はおいしかった。蛤浜ビーチ(夏の間はにぎわうらしい)で飲み物を飲んで、青砂ヶ関(あおさがうら)浦天主堂へ。赤い煉瓦の小さいながらも、凛とした風格のある教会。長崎県の多くの教会を手掛けた鉄川与助の設計になる。その後、矢堅目の駅で塩釜を見物(塩づくりの工程を見た)、その後、旧鯛ノ浦(たいのうら)教会見学。1880年代に建てられたのち、戦後になって、浦上天主堂の被爆した煉瓦を使って増築されたという、赤煉瓦のこじんまりした教会だ。

 ホテルで夕食、その後、暗くなってから、寒い中、有川神社にて「上五島夜神楽」をみた。五島列島では古くから神楽が舞われていたという。地域の有志が神楽を保存しようとし、おそらくそれに大手旅行会社がタイアップして、現在の状況が生まれているのだろう。1時間ほど、「座祓」「折敷舞」「恵比須舞」「獅子舞」「八饌花米舞」の5つの舞をみた。迫力ある太鼓、声もあって、退屈せずに見ることができたが、私に深く理解する能力がないのが残念。それにしても、保存に力を尽くしている有志には頭が下がる。素晴らしいことだと思う。

 

20日(3日目)

 若松港に向かい、五島旅客船で福江港へ。移動中もずっと絶景! もちろん観光客だけでなく、生活の脚として船を使っている人がたくさんおられる。島の移動は本当に大変だと思う。

 港近くのホテルでイタリアンの昼食。これも量は少ないが、なかなかおいしかった。その後、バスで井持浦(いもちうら)教会へ。

 丘の上に立つ赤煉瓦の教会で、こじんまりとして美しい。裏の崖に石で囲まれたマリア像があり、フランスのルルドを模して、「ルルド」と呼ばれて、ここから湧く清水も体に良いとされている。

 ルルドというのは、病を治す奇跡の水で有名な南フランスの村。年間、600万人が聖地めぐりとして訪れるという。40年以上前、南仏モンペリエに一か月ほど滞在したとき、一度、ルルドまで足を延ばそうかと計画したことがある。私は断念したが、実際に行った知人は、ちょうど何かの記念日だったとのことで、奇跡を願って集まった病人や障碍者のどこまでも続く長い長い列に圧倒されたという話をしていた。日本の教会に「ルルド」を作ると企画した人は純粋な信仰心なのかもしれないが、本格的な奇跡の村を真似て「ルルド」と呼んでありがたがるのには少々抵抗を感じる。とはいえ、100円で購入した小さなペットボトルに清水を入れて、食事の前後の薬を飲むのに使いはしたが。

 その後、島の高台に行き、福江島の西端の大瀬崎断崖展望台から海を眺める。突き出した小高いところに灯台があって、海を見守っている。寒かったが、海の美しさ、島の美しさには息をのんだ。

 そのまま、福江港近くのホテルへ。夕食はツアーにはついておらず、個人で食べることになっていた。ツアー仲間4人で魚料理を食べに出た。刺身、寿司など満腹するまで食べた。さすがに絶品だった。

 

121日(4日目

 朝のうち、徒歩で港に行き、フェリーで長崎港へ。到着後、すぐにバスで空港に向かい、昼食の時間もとれないまま、コンビニで買ったサンドイッチとおにぎりを搭乗口の前でほおばった。羽田空港に15時ころに到着。

 

まとめ

・何はともあれ、五島列島の自然の美しさは素晴らしいと思った。ハロン湾を思わせる小さな島々、海そのものの美しさ、入り江の佇まい、山々、海岸。私は文化的なものを目的として旅行することがほとんどで、自然美を求めることは少ないのだが、これまでに日本で見た景色の中で、五島列島に私は最も感動した。

・今回の旅の目的は潜伏キリシタンだった。教会、潜伏キリシタンの生活、遺品などを見たいと思っていた。ガイドさんにそのような話を聞くことを期待していた。が、教会をいくつか見ることはできたし、それはとても感銘を受けたが、ほんの一部の表面を見ただけで終わってしまった。

・大手旅行会社のツアーに参加しての旅行だったので、効率よく観光地をみることができたが、ホテルの質(3泊目のホテルは、大浴場はあったが部屋に浴槽はおろかシャワーもなかった)、料理の質と量にも少々不満を抱いた。物価上昇の現在、会社側ができるだけ料金を上げず、質を下げずにツアーを成り立たせようと最大限の努力をしているのはよくわかるが、観光客に島を満喫してもらうには、もう少し料金を上げるしかないのではないかと思った。

・ガイドさんはとても楽しくおもしろく五島を語ってくれたが、私向きではなかった。映画やテレビドラマのロケ地になったことやタレントさんの話などが長い時間をかけて語られたが、私はそんなことにはあまり関心がない。潜伏キリシタンについてもっと話を聞きたかった。が、まあ、これを言っても私のわがままというべきだろう。ともあれ、初めての五島列島で、列島の様々なことを知ることができ、その魅力を味わうことができただけで、今回のツアーはとてもよかった。

・私の旅の目的をかなえるために、個人でまた五島列島を訪れたいと思った。風光明媚、美しい教会、謎めいたキリシタンの生活、海鮮料理。五島は魅力にあふれている。

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チベット旅行 ライトアップされたポタラ宮

  2025728日から8月4日にかけて、大手旅行会社のツアーに参加してチベット旅行に出かけていた。

 帰国してかなり時間がたつが、PCの絶不調のため、ブログに旅行記を書く気力がなかった。そして、今度こそは写真入りにしたいと思っていたが、とりあえず今回も断念。PCが落ち着いてから、もし可能なら、写真入りヴァージョンを示す。今回は、ともあれ写真なしヴァージョンということになる。

 チベットにはずっと昔から関心を持っていた。訪れた経験のある人に話を聞いて、行きたい思いは募っていたが、高山病が怖くて踏み切れなかった。が、考えてみると、今のうちに行っておかないと、ますます体力が失われてしまう。そう思って、今回、思い立った。

 もちろん個人旅行をしたいが、今回に関してはチベットという土地にも健康にも自信がない。ツアーで多くの人とご一緒するほうが何かと安心だと判断した。

 

728

 添乗員付きのツアーでメンバーは私を含めて12名。87歳の男性が最高齢だと思う。ほかに80歳前後と思われる女性、そのほかは私よりも年下の人々。40歳前後と思われる人もおられるが、平均年齢は60歳を超えているだろう。一人での参加は私を含めて6名、ほかはご夫婦。夫婦でチベット参加だなんて、なんと趣味の合う夫婦なのだろう! のちに話をして知ったが、やはりほとんどの方がシルクロードにかかわる場所など50か国前後行かれている人たちだった! ちなみに私は、バチカン市国やモナコを含めればこれまで52か国を訪れている。

 四川航空で成田から成都天府国際空港へ。大きな新しい空港。空港内のホテルに宿泊(快適なホテルだった!)。

 

729

 朝6時に集合して、7時の国内線で西寧へ。直接ラサに乗り込むのではなく、チベットの入り口である青海省で準備体操をし、青蔵鉄道で25時間かけてラサに行くのが今回のチベット旅行のキモだ。チベット高原の風景が見られるし、軽度の「てっちゃん」である私の好奇心も満たせられるし、だんだん体を慣らして高地に向かえる。

 西寧空港内で麺料理の朝食を食べてから、さっそくバスに乗り込んだ。早朝、ホテルで渡してもらった朝食ボックス、機内で出された軽食に続いて、量は少ないとはいえ、3食の朝食を腹に入れたことになり、ちょっと苦しかった。

 バスに乗り込んで、二つの湖(青海湖と天空の湖チャカ塩湖)に向かった。晴れていて日差しが強い。30度近い暑さ。乾燥しているので、日本の暑さよりはずっとしのぎやすいが、日光が刺さるほど強い。

 西寧は青海省の省都。青海省は日本の2倍ほどの広さを持つが、人口は500万人ほどで、その半分近くがこの西寧で暮らすという。漢族、回族、チベット族、モンゴル族などが住む人口200万人ほどの都市だ。チベットへの入り口でもある。町の中心には、漢族とは異なる服装の人が歩いており、漢族とは異なる雰囲気の店があるが、街の雰囲気としてはほかの中国の都市と変わりがない。200万人とは思えないほど、ところどころにタワーマンションが林立している。投資目的のマンション? それとも計画に失敗して空き家になってる?

 都会を出ると、舗装された道路の両側には草原が続く。抜けるような青空の下、さわやかな空気の中に牛や羊の放牧がみられる。ときどき、観光客が集まって、乗馬体験をするようなコーナーもある。私たちは、酸素ボンベを渡され、苦しくなったら使うように指示されていたが、徐々に標高が高くなっていくので、酸素を使うメンバーはまだいなかったと思う。ただ、じわじわと空気が薄くなっていくのは私も感じていた。軽い頭痛も感じ始めていた。

 しばらくして青海湖が見えてきた。真っ青な湖が菜の花畑の向こうに広がっている。青海湖は中国最大の湖で、びわ湖の6倍ほどの面積を持つ塩湖だという。美しい! リゾートマンションのようなものがいくつか建ち、遊び場ができている。湖の見える豪華なレストランで食事。

 バスを乗り継いでチャカ塩湖へ。チャカ塩湖については、私はまったく知らなかった。塩の濃度の濃い湖で、浅い湖底に白い潮が堆積して、湖全体が白く見える。「天空の鏡」とよばれ、宮崎駿のアニメ「千と千尋の神隠し」に出てくるような光景に出会えるという宣伝文句で観光客をひきつけているらしい。チャカとはチベット語で塩の海のことだという。びわ湖と同程度の広さだと聞いた。

 確かに、湖が白く見える。浅い湖なので、そこに車や列車の車両を置くと海の上、あるいは空の上を列車が走っているように見える。夕日が白い湖面に映る。トロッコで周辺をめぐり、大勢の観光客とともに、赤いゴム長を靴の上から履いて、浅い場所を歩き回った。ただ、「千と千尋の神隠し」に特に思い入れのない私としては、確かに神秘的な風景だと思いながらも、さほど感動することはなかった。

 この地は標高3000メートルを超えている。それなりに行動しながらも、やはり息苦しさ、頭痛が続いていた。

 その晩、ホテルの部屋には酸素が供給されていた。ボンベも渡されていた。

 私は旅行前から、実はほんの少し風邪気味だった。ときおり軽い咳をし、喉の違和感があった。とはいえ、もちろんたいしたことはない。特にほかのメンバーにうつすのを心配するほどでもなかった。が、風邪の影響もあったのかもしれない。夜中、息苦しくなった。頭痛が我慢できないほどひどくなった。寒気がした。念のために持参した体温計で測ってみたら、38度を超えていた。いや、それ以上に割れるほど頭が痛い。

 

730

 最悪の状態で朝を迎えた。ともかく苦しい。頭が痛い。腹を決めてベッドを出たが、立っているのがやっと。旅を中断して、ここから帰国せざるを得ないかもしれないと思った。

 添乗員さんと話して、午前中の観光(チャカ塩湖再訪)をキャンセルさせてもらって、その間、ホテルで寝ていた。やっと気分がよくなって、昼過ぎにメンバーと合流。その後、近くのレストランで食事だったが、もちろん食欲はゼロ。が、ともあれ、旅を続けられそうなので安堵した。

 ツアーメンバーの中には明らかに私よりも年上の方がおられたが、恥ずかしながら、最も早くダウンし、その後も体調不良をつづけたのは私だった。長年の不摂生(暴飲暴食はしないが、何しろずっと机について仕事をし、最近では、一歩も家から出ない日も多い!)がたたってのこの状況だろう。

 バスで西寧に戻り、夕食をとって(もちろん、まったく食欲なし!)から西寧駅へ。新しいこぎれいな駅で、当然と言えば当然だが、ほかの中国の地方都市の駅の雰囲気と似ている。

 私だけでなく、おそらくツアー参加者のほぼ全員にとって、これまでの2日間は準備体操に等しい。目的はチベット見物、そして西寧からラサまでの青蔵鉄道による25時間のチベット高原の旅だ。

 チベット族出身の日本語ガイドさん(40代のきわめて有能で頼りになりそうな女性!)に合流。先導されて、ホームに降り、青蔵鉄道に乗り込む。濃いグリーンの車両。一等寝台車は4人のコンパートメントで上下の寝台席になっている。私はすでに親しくなっているツアーメンバーの方々と同じコンパートメントで過ごすことになった。この鉄道が開通して20年を超すので、真新しいという雰囲気はないが、コンパートメントはきちんと整備されている(ただ、鍵のかからないトイレなどはあった)。

 音もなく出発! 静かに列車は走っていく。レールの音もほとんどなく、揺れもない。時速50キロから60キロくらいの速度で滑るように走っていく。

 列車の両方の窓から草原が流れる。乾燥地帯だと思っていたら、どうやら湿地帯で、沼や小さな水たまりがあちこちに見える。豊かな草が生えているわけではない。うっすらと草が生えている。そこにときどきヤクや羊が見える。どうやら野生のヤクらしい。こんなに草が少ないところによくぞ暮らしている!と感心する。トラックも時々見える。開発中らしく、あちこちで工事がなされている様子がある。が、人影はほとんど見当たらない。

 消灯。私はじゃんけんをして下段で寝ることになった。

 

 

731

 7時過ぎ、食堂車に移動して、ツアーメンバーとともに朝食。表示によって海抜4500メートルを超える地域を走っていることがわかる。あいかわらず食欲なし。

 コンパートメントに戻って、外に風景に目をやる。絶景が広がっている!

 雲が低い! 抜けるような青空の下に、手が届くような錯覚を覚えるように雲が這っている。遠くに山が見える。ときどき、頂に雪が残っている。険しい山、岩山も見える。それらが通り過ぎていく。周囲はずっと草原だが、出発したときに比べてますます草が減っている。だが、裸の山というわけではない。うっすらとした緑の部分が多くなったり、むき出しの土の部分が多くなったりといった具合だ。ただし、きっとこれは今の時期だけで、すぐに秋になると裸の山になり、冬は雪山になるのだろう。

 しばらくして、長江の源流だというトト河の風景をみた。幅が数百メートルある広い河だが、水量は少なく、あちこちで土がむき出しになっている。水の流れているところも、草や水藻はほとんどなく、透明な水を通して底の土が見える。このあたりになると、家もほとんどない。車も通っていない。道路はあり、塀などはあるが、人影もない。

 世界最高海抜の駅であるダングラを通過。海抜5068メートル! 列車の中に酸素ボンベがあり、車掌さんにお願いしてチューブをもらえば、それをコンパートメントの窓の横にある差込口から酸素が吸えるようになっている。なるべく薄い空気に慣れようと思っていたが、やはり苦しくなって、酸素を吸った。

 崑崙山脈が見え、ツォナ湖が見える。薄い青の湖面の向こう岸に山が連なり、こちら側からはあいかわらずうっすらと緑の見える草原だ。

 ようやく車の通りが増え、建物が増えてきて、17時過ぎ、定刻にラサ駅到着。ラサ駅もほかの中国の地方駅と変わりがない。ホームからエスカレータでおり、改札口へ。標高3640メートル。そのままバスでホテルにむかった。

 ラサと言えば、チベット自治区の省都にして、チベット仏教の聖地。五体投地をする巡礼者などがバスからも見えるのかと思って目を凝らしていたが、そのような人は目に入らない。ほかの中国の都市と変わりはない。ただ、高層の建物はなさそうだ。

 街はチベット人が多く住む旧市街と、漢民族が住み始めた新市街に別れるという。確かに、バスで動くだけでその違いがはっきり分かる。新市街の店にはお店の看板はほとんどが漢字だが、その上か下にチベット文字が書かれている。それを除けば、中国のほかの都市と変わりがない。中国的な色遣いの店が並んでいる!

 標高の高い地域なので、すぐに観光に移るのではなく、ホテルでゆっくりする。

 ラサホテル宿泊。老舗の格式高いホテルだと思う。どういうわけか、私にあてがわれたのは、とんでもなく豪華な部屋だった。後で知ったが、私ともう一人だけ、このタイプの部屋だったらしい。

 単なるスイートルームというレベルではない。豪華な客間(ソファ、テーブル、テレビなど高級な調度が備えられている)と寝室(これも立派な調度)のほかに、なんと6脚の椅子が円卓を囲む会議室、そして、デスクと書架のついた執務室まであった。つまり、全部でかなり広めの4室! 浴槽はジャグジー付き、トイレや洗面台は2か所。客間には大きな習近平国家主席と歴代指導者の写真が架けられていた。どうやらVIP用の部屋らしい。

 ラッキー!とは思ったが、使い勝手はよくなかった。様々なスイッチが全部合わせてたぶん20くらいあり、どれがどれやらさっぱりわからない。ドアを入ってベッドにたどり着くまでもかなり歩かなければならない。ポットでお湯を沸かして、ベッドの横のテーブルでコーヒーを飲もうとするにも時間がかかる。ここに3連泊した。

 

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 数日後に、チベット自治区成立60周年記念式典があって、習近平国家主席をはじめとする中国共産党幹部が来訪するということであわててイベント会場が作られていた。立ち入りが制限されているところもあったようだ。

 まずは、世界遺産であるチベット仏教の総本山ボタラ宮見学。裏側の公園のようなところを通って、入口へ進んだ。公園のような場所ではいくつかのグループに分かれて、スピーカーで音楽を鳴らして踊ったり歌ったり。仏教の聖地で何と不純な・・・と思ったのだったが、ガイドさんに尋ねてみると、どうやら巡礼の人たちが地域ごとに別れて踊っているということだった。巡礼の疲れを癒し、交流を深めているということだろう。

 ポタラ宮の屋根の中央に中国国旗がはためいている。

 ポタラ宮は、観音菩薩の住む場所であり、観音菩薩の化身であるダライ・ラマの住まいとして、ダライ・ラマ5世のころ(17世紀中葉)に建てられた。丘の上に建てられており、まずは宮殿の入口まで外の石段を上らなければならない。360の段があるという。

 建物の外で、初めて五体投地をしている人物を見かけた。母親らしい女性と10歳前後の男の子ふたり。母親と上の子どもが五体投地をし、その後、少しサボり気味に小さな子どもがそれを真似ていく。周囲には大勢の観光客がいたが、少なくとも女性は一心不乱の雰囲気がある。この付近で見かけた五体投地はこの一組だけだった。

 ものすごい観光客の数だった。多いのはチベット人だろう。巡礼の人たちだと思う。漢民族の中国人もかなりいる。西洋人も見かける。日本人にはあまり会わなかった。多くの人がひしめきあって階段を上がる。なにしろ、標高約3700mの場所での360段だから、これはかなりきつい。息が切れるし、頭が痛くなる。酸素ボンベを鞄に入れているので、苦しくなったら日陰で休憩して吸引する。

 中に入ったら、これはもうラッシュ時の新宿駅のホーム並みの混雑だった。歴代のダライ・ラマの霊塔があり、釈迦や金剛仏の仏像があり、様々な壁画があった。チベット人ガイドさんのわかりやすい解説を聴きながら移動するが、そのためにますます人混みがひどくなり、大渋滞を巻き起こしていることは間違いない。

 観光客でごった返しているとはいえ、さすがに厳かな雰囲気だった。

 仏像などの前には賽銭というべきか、お布施というべきか、参拝者の残した紙幣が何枚か置かれている。中国の1元、5元札がほとんどだ。言うまでもなく毛沢東の肖像のお札だ。宗教を否定する共産党指導者であり、仏教を破壊した文化大革命の主導者である毛沢東の肖像画が仏像の前にあるのを見ると複雑な気持ちにならざるを得ない。

 

 チベット料理の店で昼食を済ませてから、午後はもう一つのラサの象徴的な存在であるジョカン(大昭寺)見学。ジョカンは、チベットを統一したガムポ王が7世紀に建てた寺院で、歴史的にはラサという町の中心としてポタラ宮以上に大きな役割を果たしてきた。

 こちらには12歳の釈迦像(これこそが実際の釈迦に最も似ているといわれているとのこと)がある。そのほか、仏像や装飾物が収められている。ここも立ち止まって見ることができないほどの観光客だった。

 ジョカン見学後は、バルコル(八廓街)を歩いた。ジョカンを囲む1キロほどの八角形の道で、両脇にはチベット風の白い壁、きれいに整えられた窓とバルコニーのある建物が並んでいる。きっと2階より上には人が住んでいるのだろうが、1階はお土産物屋、タンカ(チベット仏教の仏画)の店などになっている。

 バルコルは巡礼の道であって、五体投地をしている巡礼者が大勢いると聞いていたが、1時間近く散策している間、私が見かけたのはひとりだけだった。ほかは巡礼の前後に観光をする人々、そして純粋な観光客だったようだ。

 観光客は大勢いた。ここも漢民族を中心とする中国人らしい人とチベット系の人、そして稀に西洋人が見える。道路の真ん中で何やら交渉が行われているらしい。装飾品をいくつも身に着けた人が輪の中心にいる。どうやら、身に着けた装飾品は売り物であって、それの値段を交渉しているようだ。私も店に入って、ちょっとしたおみやげ物を買った。

 

 ところで、この国ではどこに行くにも荷物検査を受ける。もちろん、ポタラ宮に入るときもジョカンに入るときも、バルコルに入るときも、機械による荷物検査と公安(?)による身体検査を受けた。

 ツアーのメンバーはほとんどは何も問題なく進んだが、二人が厳しく取り調べられた。一人は後ろポケットに入れていたハンカチを調べられた。もう一人は添乗員さんだったが、どうやらツアーの目印のために用意していた先導のための旗が疑われたようだった。このことがあって、遅まきながらやっと気づいた。

 荷物検査の目的は、一つはもちろん爆発物や引火物、武器なのだろうが、もう一つは旗の発見だったのだ。そういえば、以前、チベットで騒動があったとき、チベットの旗を持った人が先頭に立っていた。旗にくるまれて焼身自殺をしたチベット僧も何人もいたような記憶がある。

 チベット自治区成立60周年ということだが、これはチベット独立主義者にとっては、チベットが中国政府に占領され、名前だけの自治権を与えられてから60年たつということに過ぎない。中国政府は騒動を警戒しているのだろう。

 

 夕食後、ポタラ宮の夜景をみることが予定されていた。本来はポタラ宮広場で観る予定だったが、チベット自治区60周年式典の準備と警戒のために夜の広場への立ち入りが禁止になったので、バスで高台まで行って見物することになった。

 まずチベットの夜景に驚いた。ビルの多くが電飾で覆われている! これまで訪れた広州や上海と同じように、極彩色のネオンで飾られ、ラサ川の水面にも鮮やかな光が映っている。道路の両脇の街頭には朱色の電飾された提灯風の飾りが並んでいる。まさに中華の世界! 

 近くに劇場のある高台のはずれの街角からポタラ宮の夜の様子を見た。ポタラ宮がライトアップされていた! さすがにほかの建物のようなきらびやかな電飾ではないが、きらびやかな電飾の建物の先に光に照らされてそびえたっている。

 

82

 ポタラ宮広場を散策後、ダライ・ラマの離宮・ノルブリンカを訪れた。18世紀に建てられ、歴代のダライ・ラマが夏に避暑地として利用し離宮だ。ポタラ宮が狭苦しくて息苦しいため、現在インドに亡命中にダライ・ラマ14世を含めて多くのダライ・ラマが離宮を好んだことが、様々な本に記されている。

 広い敷地にいくつもの建物があり、それぞれに由緒ある壁画や仏像があるが、それ以上に庭園に植えられた様々な花が目を引く。きっと歴代ダライ・ラマも、このような開放的な空間を喜んだのだろう。

 その後、サンゲ・ドウングを訪れた。チャクポリ(薬王山)の丘の裏にある巨大な岩に掘り込まれた磨崖仏をそう呼ぶらしい。私は大分県出身なので、何度か訪れたことのある臼杵の磨崖仏のようなものかと思っていたのだが、かなり雰囲気は異なる。

 巨大な岩のあちこちに彩色された仏像や、まるで涅槃図のような仏像群、そしてチベット文字の経文、「オムマニペメフム」という六文字真言などが彫られている。日本人の私たちからすると、ちょっと稚拙な感じのする仏像だが、素人が信仰心を込めて彫り、彩色したのが伝わるような仏の姿だ。全部を合わせると、数百の仏像が描かれているのではないか。

 磨崖仏の下に寺院があった。ある僧侶が中心になってマニ石を積み上げて作った寺院だという。地域の人々の信仰の場であるようで、この寺院の前で五体投地をしている人が大勢いた。そう、ここに来てやっと私が思い描いていたチベットの姿をみることができた。寺院の前に10名ほどの人が並んで、真摯にからだを地面に放り出し、一心に祈りをささげている。別の場所でも、五体投地をしている人が数人いる。

 ガイドさんによると、この周辺の道で多くの人が五体投地をして一周するという。ガイドさんもかつては親に連れられて、今は子どもを連れて五体投地を定期的にしているという。まさに市民の信仰の場として人々が集まっている。

 かつてはラサじゅうがこのような雰囲気だったのだろう。だが、今ではラサの中心街は観光と商売の場になり、片隅でこのような信仰の場が息づいている。 中国人観光客はほとんどいない。ほとんどが近隣住民なのだろう。きっとこのような場がいくつかあって、地域の信仰深い人たちが集まっているのだろう。

 昼食後、セラ寺を訪問。15世紀に建てられ、チベット仏教の研究の場でもあり、一時期は数千人の僧侶が所属した。日本人僧侶、河口慧海と多田等観が学んだ寺院でもある。この寺院での厳しい生活の様子は、私はこの二人の日本人僧侶の回想録で読んでいた。

 広い境内にいくつもの建物がある。日本の大きな寺院と同じような雰囲気で、参道があり、砂利道を参拝者が歩いている。子どもづれが異様に多く、多くの子どもの鼻に墨が塗られている。この寺院の本尊は馬頭観音だということで、安産や子どもの健康を願って人々がやってくるのだという。鼻の上の墨は魔除けらしい。

 ちょうど僧侶たちの問答が行われていた。というか、この時間に合わせて、予定時間を変更して早めにこの寺院を訪れたのだった。

 日本の都市の中にある児童公園のような広場。ただ、一般の児童公園よりはずっと広い。大きな木が何本も植えられて陰になるようになっている。そこにおそらく50人を超す赤い袈裟を着た若い僧侶がちらばっている。

 二人一組になり、一人が座り、一人が立って向かい合い、何やら大声で言い合っている。立っているほうが何か仏教的な問いを座っているほうに投げかけ、そのたびに大きな音で手をたたく。座っているほうがそれにこたえる。それを続けているようだ。内容はさっぱりわからないが、まるで口喧嘩しているように見える。それが広場のすべての組で行われている。周囲を観光客が取り囲んで写真を撮ったり見物したりしているが、きっとこれは真摯な問答なのだろう。観光用のパフォーマンスには見えない。確かにここには信仰が息づいている。

 その後、ツアーのイベントとして、少し離れた場所で、民家での食事を楽しみ、歌舞ショーを鑑賞するということになっていたが、これは「民家」というにはほど遠い、とある社長の大豪邸。そこで全員がマツタケ汁をごちそうになり、民族衣装を身に着けた奏者によって、チベット・ギター(おそらくダムニャンと呼ばれる楽器)伴奏による女性の歌を聴いた。西洋音楽に慣れた耳からすると起伏がなくて退屈だったが、チベットのゆったりした時間と人々の人生を感じさせるような音楽だった。

 

 

83

 実質的なチベット最終日。これまでと違って、曇り空。長袖を着て出かけた。曇ると途端に寒くなる。朝のうちは12~13℃だったと思う。

 バスで2時間ほどかけてヤムドゥク湖に出かけた。しばらく平地を通り、その後は山道を登っていく。ヤムドゥク湖はチベットの聖湖のひとつで、水面の標高は4400メートルを超す。バスは4000メートルを超えたところを走る。雲が眼下に見え、うっすらと緑に覆われているが、岩肌のあらわな山が続く。私を含めてすべてのメンバーは高地に慣れて、酸素ボンベを使う人もいない。

 この湖の湖畔で過ごしたという知人の話を聞いていたので、それを楽しみにしていたのだったが、近づくことはできず、展望台から見るだけだった。海抜4998メートル地点から湖を見下ろした。朝、出かける時には曇り空だったが、やっと晴れてきて、湖の全貌が見えた。水はあまり多くなく、そこの土が見える状態だった。

 そのままラサ空港に向かった。

 ところで、途中の昼食の際、チベット人のガイドさんに、私は「ツァンパを食べる機会がなかったのが残念」と話した。ツァンパはチベットの日常を語る文章の中には必ず出てくる食べ物だ。小説でも旅行記でも必ず登場する。一度食べてみたいと思っていた。前日、民家を訪れた際、ツァンパの話が出て、ガイドさんは「じゃあ、私が作って食べさせてあげる」と話していたのが、時間がなくてそのままになっていたのだった。

 私がそのことを話すとガイドさんは急に黙り込んだ。そして、帰りのバスの中、ガイドさんは途中でバスを降りて、どこぞに行った。しばらくして戻ってきた。そして、「ツァンパを皆さんに食べてもらう機会がなかったので、これからツァンパを食べていただく」と言って、お店で購入したツァンパと紅茶を混ぜて練り始めた。練りあがったものを少量ずつ全員に配った。

 ツァンパとは大麦の一種からとった粉で、チベット人の主食だ。一口食べて、突然、「はったい粉」という言葉を思い出した。まさにはったい粉の味! 「はったい粉」という言葉を久しぶりに思い出した! ネットで調べてみたら、ツァンパはほぼはったい粉と同じものだと書かれていた。70年近く前、私は母だったか祖母だったかにこれを作ってもらって食べていた。少なくとも九州の田舎では、貧しい時代の子どものおやつだった! うーん、チベット人と日本人は顔だけでなく、食べ物も似てる!と思ったのだった。

 そのままラサ空港へ向かい、成都へ。成都の空港内のホテルに宿泊。84日の朝、成都を出発して、15時過ぎに成田到着。

 

 

  • まとめ

・何しろツアーで実質4日間をチベットで過ごしただけなので、内部をきちんと見られたわけではない。チベットの実相を知ることができたかというと、あまり自信はない。。

・高地での旅は、やはりかなりこたえた。頭痛と吐き気と息苦しさに悩まされた。最後の2日間くらいでやっと慣れてきたが、それまではまったく食欲がなかった。帰国後、「チベット料理はどうだった?」と何人もに聞かれたが、「食欲がなくて、ろくに食べていない。薬を飲むためにいくらかでも食べておくべきだろうと思って、口に入れたに過ぎない。だから、味についてはなんともいえない」と答えるばかりだった。12名のツアーメンバーのおそらくは全員がそれなりに高所でのしんどさを感じていたようだが、中で最もひどく高山病に悩まされたのは私だったようだ。私よりも高齢の方がおられたが、それほど悩んでいるようには見えなかった。私がそもそも軟弱だということ、そしてちょっと風邪気味だったことも原因の一つかもしれない。

・列車やバスから見える風景は絶景そのものだった。空と陸が日本とはまったく違っていた。あの青空、あの低い雲。遠くに険しい山、近くに見えるのはなだらかな草原。

・チベット仏教について本を読み、それなりに知識を持って出かけたが、残念ながら、信仰深い光景はあまり見ることができなかった。少なくとも観光地を歩くだけでは、テレビや映画で見たチベット仏教の実相を目の当たりにはできなかった。

・ラサはほかの都市とあまり変わりのない中国の地方都市だった。チベット仏教施設は中国政府が管理する地域の一つの観光資源になっていた。青蔵鉄道の開通に伴って、漢民族がどっと押し寄せるようになったのもその原因だろう。

・とはいえ、地域のあちこちで仏教は生きており、人々は信仰に基づいて生活している。ガイドさんの話を聞いても、どうやら本気で転生を信じているようだ。その是非はともかく、チベット仏教は人々の心の中では生き続けている。

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ウズベキスタン・タジキスタンの旅  サマルカンドに魅了された!

 2025521日から27日にかけて、ウズベキスタン・タジキスタンの旅に出かけた。

 実はウズベキスタンについてほとんど何も知らなかった。元ソ連領内のイスラム教の国で、政治的に安定しているといったくらいの知識しかなかった。このところ、イスラム圏に魅力を覚え、これまでサウジアラビア、パキスタン、バングラデシュ、ブルネイなどを訪れたので、今度はウズベキスタンに行ってみるかと思ったに過ぎない。ついでに、隣の国タジキスタンをみられるツアーがあったので、それに申し込んだ。

 これまで何度か利用している旅行会社のガイドさんのついた個人ツアーだ。頭の中では、これまでに行ったことのあるパキスタンのようなところを思い浮かべていた。実際に足を運んで、驚いた。私の無知を恥じた。まったく予想と違っていた。

 例によって、写真をこのブログにアップさせる技術を持たないので、写真なしで旅の印象を記すことにする。

 

日程

 521日早朝に家を出て、アシアナ航空で成田を出発。仁川を経由して夜にウズベキスタンの首都タシケント到着、22日にタシケントはほとんど見ないまま車で隣の国タジキスタンの国境の街ホジャンドへ。23日、ホジャンドからタシケントに戻って、24日にウズベキスタンの古都サマルカンドに列車で移動、25日もサマルカンドで過ごし、26日タシケントに戻って、夜、空港を出発、仁川経由で、27日夕方成田着という日程。

 

タシケント

 私が到着したときは、夕方だったが、30℃くらい。翌日は最高気温38℃くらいになった。夜は20℃くらいになる。砂漠に近い環境なので乾燥していると聞いていたが、蒸し暑い日もあったし、一度はかなり本格的な雨にあった。ただ1時間もしないうちに青空が広がった。平均的には、毎日30℃前後だった。

 タシケントの街は思っていたよりもずっと西欧風だった。フランスやイタリアの地方都市と雰囲気は変わらない。中央アジアの国、中東に近い国といった感じはしない。歩く女性にスカーフを巻いている人が西欧よりも多いのはすぐに気づくが、スカーフをしていない女性のほうがずっと多い。ざっと見たところ、スカーフをしているのは四分の一くらいではないか。ガイドさんに尋ねると、もちろん国民ほとんどがイスラム教徒だが、スカーフをしない女性も多く、それによって非難されることはないという。

  中央アジアの国だけあって、様々な顔立ちの人がいる。多くの人が、私たちが中東の人としてイメージするような顔の人だが、チベットやモンゴルとして認識しているような顔立ちの人も多い。西洋人のような顔立ちもいる。中に日本の人にみえるような現地の人もいる.そのような人たちが違和感なく、ふつうに同じところを歩き、同じ店で働いている。

 市街地の道路は整備され、建物も近代的で清潔。それほど高い建物はないが、もちろん、10階建て、20階建てのビルはあちこちに見える。中東で見かける露店もほとんどない。通っている車も新しい車が多い。日本の道路とほとんど雰囲気は変わらない。信号が少ないが、歩道や並木や緑地帯など、むしろ日本よりも整備されているのではないか。

 日本車はほとんど見かけない。ざっと見たところ、金色の太い十字のエンブレムの車が圧倒的に多い。8割以上ではないか。知らない車なのでスマホで検索してみたら、シボレーのようだ。ウズベキスタンに工場があるらしい。私の乗っている車もシボレー。きわめて快適。トランプ大統領が日本にアメリカ車が入らないのを不満に思っているというが、少なくとも後部座席に座っている限りでは、なるほどこの車だったら日本でも十分に売れてしかるべきだとは思う。ほかは韓国車、中国車、まれにドイツ車や日本車。

 交通ルールはみんなきちんと守る。私の乗る車の運転手さんは少し強引な運転をするが、横断歩道ではほとんどの車が歩行者を優先する。

 タジキスタンへ行く道はほとんどが片側2車線だったと思う。周囲には麦、サクランボやリンゴなどの畑が広がっている。牧草地もあり、牛や羊も見える。これも、ちょっと生えている木などが違うだけで、ノルマンディーやブルターニュの牧草地と雰囲気は変わらない。

 タシケントは1950年代に大地震があって、市の多くの建物が崩壊したという。そのために歴史的建造物は残されておらず、町全体が新しい。西欧に近い雰囲気があるのもそのせいだろう。1991年、ソ連崩壊によって独立したが、地下資源にも恵まれていることもあり、またカリモフ大統領の経済政策も成功したようで、経済的に安定しているようだ。現在は2代目のミルジヨエフ大統領が民主化を進めているという。

 治安は悪くない。西欧よりも平和で安全だということのようだ。危険そうな地域もなく、危なっかしい人物に出会うこともない。

 最終日には、ナヴォイ劇場を訪れた。太平洋戦争後、この地に抑留されていた日本人が建設にあたったために大地震でも倒れなかったといわれている。しばらく改修のために閉鎖されていたというが、再開されていたようだ。「トスカ」「エフゲニ・オネーギン」「仮面舞踏会」「椿姫」などのオペラ、「シェエラザード」などのコンサートの案内が出ていた(出演者は不明)。

 地下鉄にも乗った。5分間隔くらいで走っている。これもパリのメトロとさほど雰囲気は変わらない。かなり混んでいた。私が乗り込むと、座っていた客が何人も立ち上がって、私に譲ってくれようとした。きっと私は間違いなくその周辺の最高齢者なのだろう。ヨーロッパでも中国でも競って席を譲ろうとしてくれる。知らんぷりされるのは日本だけ! 私よりもずっと年上の高齢者でも日本では席を譲られない。

 モノの値段は日本よりも少し安い程度。チェリーなどの果物は圧倒的に安い。ただ、食事をして20万スム、博物館入場料が5万スムとか言われると、その桁の多さにびっくりする! 紙幣も0が多くついているので、初めのうちは紙幣価値がすぐに頭に入らない。

 

国境

 522日、タシケントの都心から車で2時間ほどかけてタジキスタンとの国境にむかった。村があり、その外れに鉄の門を備えた施設があり、警官らしい人や係官らしい人が数人いた。雰囲気としては、人がめったに訪れない村はずれの広大な公園といった雰囲気。門の前には客待ちのタクシーや乗用車が何台も駐車しているが、運転手はどこかにいるようで姿は見えない。施設の中には、建物がいくつか見える。

 車を降りて、ガイドさんと門を過ぎて、最初の建物に入った。外はがらんとしていたのに、中に入ると、中国人のグループや欧米人の観光客、仕事で行き来しているらしい現地の人が20~30人、私の前で行列を作っていた。そこで出国手続き。その後、手続きの終わった順に建物を出てスーツケースをごろごろ引きながら野外を歩いて次の建物に行く。そこでまた何やらして、次の建物に行く。そのたびにパスポートを見せる。そうこうするうちタジキスタン領内に入り、入国手続き、そして荷物検査。

 初めに旅行会社から提示された予定では、ガイドさんとわかれて一人で国境を越えて、タジキスタンで別のガイドさん(しかも、英語ガイドだということで、私は大いに恐れていた!)と合流することになっていたが、幸い、私についてくれたガイドさんはタジキスタン語もできる人で、ずっと付き添ってくれた。ありがたい。荷物検査が厳しく、ところどころでどこに行けばよいのか迷うことがあったので、ガイドさんがいてくれたのはありがたかった。ひとりだと途方に暮れただろう。

 建物を出て数分歩いたら、そこにはタクシーやバスが待っており、運転手に「タクシー?」などと声をかけられる。それを通り抜けてツアーの運転手さんと合流。国境を超えるのに合計30分ほどかかったと思う。

 

タジキスタンの国境の都市ホジャンド

 ウズベキスタンとタジキスタンでは、外の風景ががらりと変わる。ウズベキスタンでは周囲に畑があり、緑が多かったが、タジキスタンに入ると、ほとんど荒野としか言えないような土地が広がる。はげ山が近くに迫っている。山にもほとんど緑は見えないし、道路わきにも畑は見えない。1時間ほど車で走って、ホジェンド(KHUJANDという綴りで、クジェンド、フジェンド、ホジャンドなどという表記もある)の市内に入った。

 こちらでは、日本車を多く見かけた。だが、いかにも中古車の雰囲気がある。タシケントというウズベキスタンの首都と、ホジェンドというタジキスタンの地方都市という違いもあるのかもしれないが、かなりの経済的な差を感じる。タジキスタンは、私が思い浮かべる旧ソ連のイスラムの国そのもの。看板はキリル文字。スカーフをかぶる女性がこちらの国のほうがずっと多い。

 この都市はシルクロードの要衝として栄えたという。また、かつてアレクサンダー大王の領内になった最果ての地でもあるとのこと。砦の跡、博物館などを見学。太古から近年までの様々な器具が展示されていた。歴史のある都市であることがよくわかる。実際にとても落ち着いた美しい街だと思った。私の知る中ではザルツブルクのような雰囲気がある。

 大きな市場へ行った。屋外に売り子の女性がチェリーや杏、桑の実、キイチゴなどの果物、トマト、スイカなどの野菜を大きなたらいのようなものに入れて大量に並べていた。屋内では、肉や穀類や衣料品が売られていた。これまで見たことのある東南アジアやインド付近と同じような雰囲気だが、それよりも清潔で整然としている。ハエがたかるようなことはないし、盗難にあいそうだというような雰囲気もない。ただ、センスの良い建物の中で整然と市場が備えられているタシケントとはかなり雰囲気が異なる。どうも、ウズベキスタンよりもかなり物価は安いようだ。

 あちこちにラフモン大統領の写真が飾られている。ウズベキスタンでは大統領の写真をみることはなかったが、タジキスタンでは、街の中、建物の中に大統領の大きな写真がある。ガイドさんに尋ねたところ、個人崇拝による独裁というほどのことはなさそうだが、様々な禁止事項があって、あまり自由な国ではないようだ。

 要塞や神学校などをみた。豪華絢爛な要塞や博物館があった。そんなところにも大統領の写真がある。何かしら、大統領の威光を示す意図がありそうな気がしてくる。

 夜のホジャンドはあちこちに電飾が施されている。なかなか立派な建物がある。ただ気のせいか、1990年代に訪れたピョンヤンを思い出した。ピョンヤンも建物に電飾がなされており、外見的には立派、古びていたり貧相だったりする建物を立派に見せているようだった。そこと同じような雰囲気を感じた。

 街の背後に緑のない、「はげ山」というのがふさわしい土色の山並みが見える。日本にも山を背景に持つ都市はたくさんあるが、緑のないはげ山があるのは初めて見た気がする。砂漠気候ということだろうか。そうか、ムソルグスキーの「はげ山の一夜」の「はげ山」とはこういう山のことなのかとひそかに納得した。

 

ガイドさん、運転手さん

 ガイドさんとはとても親しくなった。40歳くらいで真面目で社交的。日本語の発音は日本人とほとんど変わらない。日本に留学してITの勉強をしたとのこと。ただ、ガイドとしてはちゃんと仕事をしていないとは言えるかもしれない。まさに友だちとして案内してくれている感じ。ガイドだったら、街の案内、注意点などを話してくれるはずなのだが、必要不可欠な情報もあまり言ってくれない。時間にも少々ルーズ。しかも、信心深いためにお祈りを欠かさない。ガイドさんがお祈りをしている間、私は運転手さんと二人きり、あるいは一人きりでレストランや公園で待つこともあった。

 だが、私にはそれはむしろありがたかった。暑いので、私としてもハードな観光はつらい。あまりに細かくガイドしてくれるのも鬱陶しい。このガイドさんのように、尋ねたことにはきちんと答えてくれて、様々なことに融通が利き、友だちのように接してくれる方がありがたかった。

 タシケント、ホジャンド、サマルカンドで3人の運転手さんのお世話になった。タシケントとサマルカンドの運転手さんはガイドさんとおなじみらしく、ずっとおしゃべりしていた。40代の気のいい男といった人たち。タジキスタンのホジャンドの運転手さんとは初めて顔を合わせるようだった。

 ホジャンドの運転手さんはおそらく30歳そこそこの若い人。もしかしたら20代かもしれない。こちらの人はみんなが時間にルーズだったが、この人はとりわけひどかった。30分くらい遅れてやってきたこともあった。しかも、自分の好きなポップな音楽をかけて運転。車はBYDの中国製電気自動車(初めて電気自動車に乗った!)。一緒に市場を歩いたが、どうやらほしいと思っていた服があったらしくて、ガイドさんと私を待たせて服選びを始めた。時間がかかるので、別のところで待ち合わせて、ガイドさんにつれられて市場見物をつづけたが、運転手さんは待ち合わせ時間にいつまでも現れない。30分以上待ってやっと現れたが、どうやらいったん自宅に買い物したものを置いてきた様子。ついでにいうと、ガイドさんも数日後に同じようなことをしていた。

 それも含めて、私は国民性なのか、個人のキャラクターなのかわからないが、なかなかおもしろい思ってみていた。私は特に寛大な人間ではないが、友だちのような関係ができているので、お互い、少々のわがままは許容する雰囲気があって、私としては快適だった。

 

ホテル

 タシケント、ホジャンド、サマルカンドの3つのホテルに泊まった。以前、私の利用する旅行会社のツアーでホテルに困ったことがあったので、スタンダードよりも1ランク上のホテルをお願いしたためか、タシケントとサマルカンドについては快適だった。

 ホジャンドのホテルは、机はあるのに、室内に椅子が一つもなかったので困った。チェアもソファもない。冷蔵庫もない。ツインの部屋を一人で使う形だったが、ベッドとベッドの間に台があって、その下に二つの引き出しが備えられていた。ところが、その引き出しが開きっぱなしになっていた。いくら閉めてもすぐにすーっと出てくる。ガイドさんにお願いして椅子と冷蔵庫は入れてもらった。引き出しは直らなかったので、自分で紙きれを詰めて引き出しを固定した。

 

宗教

 モスクをいくつも訪れた。金曜日のお祈りの日、ガイドさんがお祈りをする機会に、すぐ近くから見ることができた。モスク周辺では車は大渋滞。バスでも徒歩でも、男たちがやってくる。数百人がモスク内に入っていく。日本人からするとガタイがよく、怖そうな顔をした男たちが次から次と押しかけてくる。そして、洗い場で手足を洗って、祈りの場向かう。中に入りきれなかった人たちは、建物の外でもスピーカーから響くコーランに合わせて祈りをささげる。決まりがあるのだろうが、何度となくじゅうたんに頭をこすりつけて祈りをささげる。まさに厳粛な時間。

 女性は祈りの場に入れないとのことで、別の場所にいるようだったが、私のいるところからは見えなかった。

 女性がこの宗教をどう思っているのか、男性の私にはわからない。ただ、少なくともこの国では女性もふつうに働いているし、自由に買い物をしている。高い地位に就く女性もいるようだ。内情については、数日間観光をするだけではまったくわからない。

 ただもちろん、信仰あつい人とそうでない人がいるようで、タジキスタンの若い運転手さんは、イスラム教徒には違いなかったが、祈りに参加しなかった。ガイドさんはそれを非難している様子もなかった。

 

料理

 プロフという、肉と野菜入りのピラフのような料理が、このあたりの名物料理のようだった。3回、この料理が出てきた。ガイドさんの好みなのかもしれないが、これとサラダと羊肉や牛肉の串焼きといった料理がほとんど毎回出てきた。いずれもおいしかったが、ほぼ毎回同じようなものが出てくるので、4日目ころから私としては少々つらくなった。

 ボルシチのようなスープも何度か食べた。一度はほとんどボルシチそのもの、もう一度は中にお米が入っていた。

 緑茶を飲む習慣があるようだった。味は日本の緑茶とほとんど変わらない。紅茶もあるようだったが、緑茶の方が一般的のようだ。日本と同じように、食事の時にお茶を注文し、日本人と同じような飲み方をする。

 3回は夕食がツアーに含まれておらず、自分で食べるしかなかった。タシケントのホテルの近くには一人で入りやすい店がなかったので、ホテルのレストランで食事をした。メニュをみて、チェリー・ジュースとサラダと牛肉のチーズ包みとスープを注文した。

 まずジュースが出てきたところで嫌な予感がした。1リットルのパック入りのジュースだった! サラダもスープも肉も大量! 3人前はありそう! なかなかおいしかったので、必死の思いで半分ほど食べたが、どうにも食べきれずに残した。

 きっとこれは一人前ではなく、数人で食べる分量だったのだろうと思っていたのだが、翌朝、朝食のためにレストランに行くと、前日給仕してくれたウェイターがなんだか深刻な表情で近づいてきた。「昨晩、かなり残していたようだけど、料理がまずかったのか」と英語で言っているようだった。「おいしかったけど、大量すぎて食べきれなかった」と答えた(実際には、あまりに恥ずかしい幼稚な語彙を使ったのだったが)。ウェイターはやっと安心したようで、にっこり笑った。どうやら、現地の人はこれを一人で食べるようだ!

 言われてみれば、この土地の多くの人が屈強な体格をしている。身長はそれほど高くないが、体格はプロレスラーかラグビー選手のよう。腹の出ている人も多い。間違いなく、私の2倍か3倍は食べていると思った。

 

列車

 タシケントとサマルカンドの間を列車で移動した。2時間と少しかかった。どういう事情かは尋ねなかったが、サマルカンドに向かう時は自由席、タシケントに向かう時は指定席だったようだ。窓はかなり汚れていて、少々古ぼけているが、日本やヨーロッパの列車とほとんど変わりはない。それほど高速ではないが、途中、3つくらいの駅しか止まらなかった。

 牧草地や畑、そして地方都市、山が窓の外に広がった。馬や牛や羊も見えた。高いところも通るが、思うにトンネルはまったくなかった。なだらかな高原を越していく。

 タシケントに向かう時はほぼ満席だった。日本人観光客も見かけた。帰りは前方に中国人の10人ほどのグループ、そしてスマホで大きな音でドラマや歌やニュースを流す現地の老人、そして何人もの幼児がいて、とても賑やかだった。

 

サマルカンド

 サマルカンドという土地にそれほどのなじみはなかった。なんとなく聞き覚えがある土地という程度だ。日本人のほとんどがそんなものだと思う。だが、行ってみて驚いた。これは素晴らしい都市だった。フィレンツェや京都やチェンマイに匹敵する古都だと思った。

 サマルカンドはティムール朝の祖であるティムールの活躍の場だった。そして、この地に一族とともに葬られている。

 ティムール朝、ティムール帝国! うーん、そういえば高校時代(私にとって暗黒の時代!)、世界史の時間にそのようなことを学んだ記憶があるが、50年以上前のことなのですっかり忘れてしまった! ガイドさんの説明を聞き、ガイドブックを読んで久しぶりに思い出した。このサマルカンドは13世紀の初めにチンギス・ハンによって徹底的に破壊され、その150年ほど後にティムールによって栄えた土地だった。

 最初に案内されたアミール・ティムール廟にまず圧倒された。何はともあれ美しい!青色の目立つ壮大な門、そして青色のドーム。サマルカンド全体が「青の都」と呼ばれているというが、青空の下に見える青を基調にした建物群には圧倒されるしかない。室内にティムールをはじめとする一族の墓が並べられている。

 ティムールの妃であったビビハニムを記念するビヒハニム・モスクも美しかった。今ではモスクとしては使われていないが、かつては巨大モスクだったという。修復されてかつての美しさを取り戻している。これも青を基調にした幾何学模様のタイルが敷き詰められた巨大なアーチがある。

 外だけでなく、内部も壮麗にして気品にあふれている。息をのむ。私はデザインだの美術などについて形容する語彙を持たないので、ただただ圧倒されるばかり。

 そして、それよりももっと圧倒されたのがシャヒジンダ廟群だった。石段を上ると、狭い通路の両側にティムールゆかりの人々の廟がいくつも立ち並んでいる。いずれも青を基調にした幾何学模様のタイルがびっしりと敷き詰められている。それが青空の下に続く。それぞれの建物の中も壮麗。

 ウルグベク天文台跡にも行った。ウルグベクというのはティムールの孫であり、ティムール朝の第四代君主にして天文学者。天文台で観測して1年の長さを割り出したが、なんとそれは現代の精密機械で測った時間と1分の差もないという。

 そして、私が何より気に入ったのは、街の中央にある市民の憩いの場であるレギスタン広場だった。これまた壮麗なアーチと青いドームに囲まれた石畳の広場だ。遠くから見れば薄茶色の建物だが、それもびっしりと青や金色の幾何学模様で覆われている。昼間の青空の下のたたずまいも壮麗だが、ライトアップされた夜も壮麗。広場の周囲には広い公園があって、木々があり、ベンチが置かれ、芝生が敷かれて市民が楽しんでいる。子どもたちが遊び、観光客が家族づれ、カップルが歩いている。ハンバーガーショップなどの店もいくつかある。

 暗くなると大音響の音楽がかかり、ライトショーが始まった。赤い光や青い光が建物を照らす。

 ただ実を言うと、毎晩、19時からForklore Theaterが行われるという表示があったので、1850分頃から広場全体が見渡せるテラスに陣取って何十人もの観光客とともに待っていたのだが、中止になったのか、いつまでたっても始まらず、2010分を過ぎてやっとライトアップショーが始まったのだった。しかも、クラシック音楽好きの私からすると、スピーカーからの割れた轟音は拷問に近い。10分ほどで退散した。

 

帰国

 526日、サマルカンドからタシケントに列車で戻り、タシケント見物をした後、空港に向かって、2140分出発の仁川経由のアシアナ航空便で、待ち時間も入れて合計18時間近くかけて成田に着いた(仁川で8時間ほど過ごした。マッサージを受けたり本を読んだりして、さほど退屈はしなかった)。

 私の中では、サマルカンドの美しさへの感動が大きい。外国から帰ってきたときに「また行きたい」と思うことは多いが、ほとんど数年たつと忘れてしまう。が、サマルカンドにはきっとまた行くだろう、という気がしている。

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GW前の京都の1日

 2025年4月23日、私が塾長を務める白藍塾が立命館宇治中学校の小論文指導をサポートしているので、その仕事(現在、私は執筆活動と白藍塾の仕事のみ続けている)で京都に行った。立命館宇治の先生方、生徒さんたちのおかげでとても良い仕事ができたと思う。その日のうちに東京に戻ってもよかったのだが、1泊して、24日、京都で過ごすことにした。24日は晴天。最高気温が23℃くらい。過ごしやすい気候だった。

 ところどころに修学旅行の生徒たちを見かけたが、まだ今の時期はそれほど多くはない。街には西洋系の観光客が目立った。西洋系の人たちの半分以上がTシャツ姿。中にはTシャツ短パンの人もいる。日本人のように長袖に上着を着ている・・・という人はゼロに近い。

 23日の夜、四条のホテル近くのコンビニに寄ってお茶を買おうとしたら、そこにいた30人近い客の8割が白人で、しかも列を守らないために大混乱に陥っていた。新聞記事で「外国人がマナー違反」という文章を読むと、近年ではつい中国人が批判されているというふうに判断するが、少なくとも現在の京都については、これは西洋人(ドイツ語らしい言語やスペイン語らしい言語がやたらと耳に届く!)のことらしい。新幹線の列車内の予約の必要な荷物置き場でも、それを無視して予約なしに荷物を置く外国人が問題になっているが、それも西洋人がほとんどなのかもしれない。

 中国の人たちは超有名な観光地に集中して団体で行動する傾向があるが、西洋人は個人や家族で行動してマニアックな寺院仏閣などを訪れる傾向にあるので、場合によっては西洋からの観光客のほうが日本人の生活の場に入り込んでいるのだろう。

 が、もちろん私は彼らを非難する気はない。1970年代、80年代、「パリの観光客は日本人ばかり。女性客がブランド店の前に行列をなし、男性客は夜遊びをする」として、日本人の無作法を指摘されているころ、私はヨーロッパを何度か訪れ、かなり長期間の旅行をした。まあそれほど無作法なことはしなかったとは思うものの、ひどい貧乏旅行の中でフランスの人に迷惑をかけ、勝手がわからず顰蹙を買うようなこともしたという自覚がある。オーバーツーリズム対策は必要だとは思うが、「外国人は無作法」と思わずに、「彼らは日本の勝手がわからずに、自国での流儀をそのまま繰り返しているだけ」ということは理解してほしいと思っている。

 

 ところで、今回、京都では長谷川等伯に縁のあるところを回ってみようと思った。

 美術にも、日本史にも疎い私が等伯を知ったのは、20年近く前、京都産業大学客員教授という資格で京都に頻繁に行き来していたころだ。様々なことに忙しい時期でなかなか観光はできなかったが、たまたま訪れた智積院で等伯と息子の久蔵の絵に出合った。息をのむ凄さだと思った。それ以来、京都を訪れ、時間があったら智積院にまで足を延ばして、これらの絵を見る。東京で長谷川等伯展が開かれるときには足を運ぶ。安部龍太郎の小説「等伯」も読んだ。もちろん素人なので、専門的なことはわからない。そんなに熱心に等伯に入れ込んでいるわけではない。ともあれ、京都見物の一つの方法として、今回は等伯ゆかりの地を訪ねてみようと思った。

 24日、四条のホテルに泊まっていたので、まず朝のうちに市バスで本法寺に向かった。等伯がかなり長期間滞在した寺で、確か安部の小説でもかなり細かく描かれていた。こじんまりした寺で、10時過ぎに着いたのでちょうどお寺の展示室を開いているところだった。最後まで観光客は私だけ。

 巨大な涅槃図が壁面にかけられていた。ただし、これは精巧なプリントだとのこと(今回観た中にも、真筆は展覧会のために別のところにあったり、一定期間しか一般公開しないという個所がいくつもあった)だが、情報を十分に仕入れずに、仕事の都合で観光をしている身にしてみれば致し方のないことだ。私の知っている楓図とも晩年の松林とも異なる、まるで若冲のような作風で、日本にいるはずのない動物が多数描かれていた。

 次は、また市バスで3つほど先の停留所にある大徳寺に向かった。大徳寺を訪れるのはたぶん3度目。気持ちよく歩いた。ここでも西洋系の人たちが静かに寺を楽しんでいた。

 ただ、等伯の絵があるという場所は立ち入り禁止で、等伯由来の場所も見つからなかった。関係者に尋ねようとしたが、観光客数人しか周囲にいない。仕方がないのであきらめて別の場所に行くことにした。

 が、広大な大徳寺を歩いているうちに、場所がわからなくなった。スマホで調べると、近くの駅や停留所までかなり歩かなければいけないようだ。寺の外に出たところでタクシーを見つけた(京都ではタクシーはなかなかつかまらないと聞いていたが、観光地では意外と見つけることができた!)。せっかくタクシーに乗ったからには、そのまま高台寺圓徳院に行くことにした。大徳寺で迷ったさいちゅうにスマホを調べて、そこに等伯の襖絵があることを知ったのだった(思ったよりもタクシー料金がかかったのは誤算だった!)。

 高台寺は観光客でごった返していた。西洋人も多いが、日本人、中国人らしい人も大勢いた。さっさと圓徳院に行って、庭園を楽しみ、等伯の襖絵を見つけた。襖に墨絵のように松林を描いたものだった(ただし、これも複製とのこと)。襖の色が濃いので、絵がはっきりと見えない。少々失望。ついでに、高台寺の庭園や方丈も見た。

 すでにかなりの脚の疲れを感じていたので、タクシーでなじみの智積院に向かった。2年前に完成した新しい宝物館で久蔵の「桜図」、等伯の「松に秋草図」「松に黄蜀葵図」「雪松図」をみる。大好きな絵だ。しばらくゆっくりと大好きな絵をみた。

 少し休んでから徒歩で京都国立博物館へ。「日本美のるつぼ」という特別展が行われていた。西洋に日本の美を知らせた作品、西洋の美術を取り入れてに日本人が描いた作品、日本にわたってきた中国や西洋の品など異文化交流を示す美術品が展示されていた。北斎の三十六景のいくつかや俵屋宗達の「風神雷神図」などがあった。面白く見て回った。

 朝、ホテルで欲張って朝食を食べたので、お昼の食欲がわかない。夕食が早めなので昼は抜くことにして観光を継続。

 タクシーで南禅寺に向かった。この寺はこれまで何度か訪れたことがある。案内の人に尋ねて、金地院(こんちいん)に等伯の襖絵があることを確かめて南禅寺の正面門の外にある金地院に入場。徳川家光を迎えるために作られた石を鶴亀の形に並べた部分を中心にした見事な庭園、その裏の東照宮をみて、その後、案内の人の説明を聞きながら方丈に入った。

 その一部屋に等伯の猿の絵があった。先日の東京での展覧会で観たものだったが、こうして襖絵としてみるとなかなか趣がある。池に映る月に手を伸ばしているテナガザル。実体のないものを求める愚かさを描いているという。ふわふわした猿の毛を描いて見事。

 そのほか、金地院の茶室などをみて、観光は終わり。その後、ホテルに戻って預けていた荷物を受け取って、京都駅へ。新阪急ホテルの地下にある贔屓の店・美濃吉で早めの夕食。筍の和え物と筍ご飯がとてもおいしかった。京都駅に移動して、新幹線で東京へ。

 ともあれ、欲張って駆け足になったが、満足のできる京都の一日だった。

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