旅行・地域

ネパールについて気付いたこと

 ネパール旅行といっても、たかだか45日なので、深く知ることはできなかった。表面を見ただけだが、旅の途中で気づいたことを挙げてみる。

・インフラが整備されていないことが何よりも目についた。これまで私が訪れたことのある国の中で最も整備の遅れた国といえそうだ。大都市であるカトマンズ(正確には、カトマンドゥと発音するべきだろう)でもこの状態なのだから、ほかの地域はもっとひどいのだと思う。

・昨日も書いたが、何よりも道路の慢性的な渋滞に驚いた。途上国の多くで渋滞は見られるが、カトマンズは別格。時速20キロ以上のスピードを出せるのはほんの一部の道ではないか。カトマンズ市内では平均時速5キロ前後で車は走っているだろう。

・狭い盆地に多くの人々が押しかけ、急速に人口が増えたためにインフラが追い付かないのだろう。カトマンズ市の人口は140万人程度、周辺地域を加えて200万人程度だという。人の多さの印象からは1000万人都市の雰囲気がある。あちこちに見られる電線の束もインフラが追い付いていない証拠だろう。

・路地が迷路のようにつながっているのがカトマンズだ。そこにバイクや車が入り込んで、警笛を鳴らして、その横を人が歩いている。人々が狭い土地に入り込んで、次々と家を建てていった結果、こうなったのだろう。

・このように書くと、まるで殺気立った街のように思えるだろうが、そうでないのもまたカトマンズの特徴ともいえるだろう。これほどの渋滞なのに、人々は辛抱強く待っている。警笛を鳴らすが、それは「どけどけ!」という警笛というよりも「危ないよ」という警笛のようだ。狭い路地の交差点で車と車がすれ違えなくために何台もの行列ができていても、多くの運転手がおとなしく待っている。

・いろいろな人種を見る。ネパール人といっても様々な顔がある。色の黒さもまちまち、西洋的だったり東洋的だったり。ときに日本人と同じような顔の人もいる。ネパールには100を超す民族・言語があるという。まさに多民族国家。しかも、宗教もヒンドゥー教と仏教、イスラム教などがある。ヒンドゥー教はカーストがあるために、一体感をもちづらい。これでは国家の連帯意識が生まれないのも無理がないと思う。

・ネパール人はおっとりしている。歩くのも遅い。せかせか歩いているのは観光客。

・掃き掃除をしているネパール人をやたら見かける。店の前を小さな箒で履いている。あつらでもこちらでも。だから、ミャンマーやパキスタンのようにあちこちにごみがたまっているといったことがないのだろう。

・物価は安くない。平均月収は2万円程度だというが、日本で1000円程度で食べられそうな食事が600円くらいした。ネパール人の知人と一緒に食事した(昨日、このブログで写真を示した)時に1人分の料金が1500円程度だった。300ミリリットルの現地産のウィスキーが800円なのには驚いた(かなりまずかった!)。大まかに言って日本の三分の二くらいの値段だと思った。観光客相手の地域だということもあるのかもしれないが、それにしても高い。現地の人はどうやって生活しているのだろう!

・女子高校生が男子と同じ制服を着ていた。すなわちシャツにネクタイを締めてズボンをはいている。男装の麗人かと思ったら、そうではなかった。多くの高校がこのような制服らしい。スカートをはく女性はゼロに等しい。3日目に少し意識してスカートを探してみたが、二人を見かけただけだった。その二人はおそらく外国人観光客だと思う。スカート風の民族衣装はまれに見かけるが、いわゆるスカート姿はほぼみない。

・唾を吐く人が多い。女性であっても大きな音を立てて唾を吐く。埃と煤煙の道路を歩いていると、確かに唾を吐きたくなる。

・空港の搭乗手続きの始まりを待って窓口近くの椅子に座っていたら、隣の椅子に掃除係の若い空港職員が座ってスマホでゲームをし始めた。もう一人はその隣に座って電話で話をしていた。搭乗手続きが始まって窓口に行ったら、係員の1人はガムを噛みながら対応していた。まったく悪気がなく、しかもやる気がないわけではないのだと思うが、ふつうにこのような態度をとる。

・男としてはとても残念なことだが、あまり美人を見かけなかったような気がする。インドに行ったときには、美人があまりに多いのにワクワクしたが、ここではあまりそのような思いがしなかった。

・ヒンドゥーの寺院と仏教寺院が並列的に存在する。そもそも、私のような門外漢にはその違いすらよくわからない。仏教寺院にはチベット仏教に特徴的なマニ車があるので、それとわかるが、それを除けば私にはヒンドゥー寺院との区別がつかない。仏教徒ヒンドゥー教が互いに排斥し合っている様子はない。反目や衝突もそれほどないという。現地の人も、日本における神社とお寺くらいの区別しかしていないのではないかという気がする。

・世界遺産はとても美しかった。ただ、私が感じたのは建築物としての美しさだった。レンガ造りの装飾などがとても美しい。ただ、そこにあまり宗教的な厳かさやありがたみはあまり感じなかった。

・またネパールを訪れたい。おそらくカトマンズだけがネパールの中で特殊なのだろう。次回はもっと田舎の静かなところを訪れたい。

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ネパール旅行

 ネパール5日間の旅行に出かけていた。2018910日の午前中、ソウル経由でカトマンズに到着、今日(15日)、帰ってきた。エクスペディアを使って飛行機とホテルを予約し、ネパール人の知人を頼って観光をする予定だったが、知人の事情でそれが不可能になり、現地の旅行会社に空港への送迎と初日の夕食の案内、そして日本語ガイド付きの2日目の市内観光と4日目の郊外観光を依頼した。

 一言で言えば、思った以上に貧しくてインフラの整備されていない都市だった。ともあれ、 日を追って出来事を書く。

 

2018年9月10日カトマンズ

 世界一危険な空港というような話を聞いていたが、それを少しも実感せずにカトマンズのトリブバン国際空港に着陸。危険な空港とは別だったのだろう。

 空港はこじんまりとした少々古めかしい建物。すでにヴィザは取っておいたのですぐに外に出た。紙に名前を書いた出迎え者が並んでいる。途上国の例にもれず、怪しげなタクシー勧誘者もいる。しばらく待たなければならなかったが、ともあれ出迎えの人(日本語は解さない。英語を少々)が現れて、タメル地区にあるホテルまで車で連れて行ってもらった。夕方になっていた。外は雨模様だった。

 そこでまずカトマンズの洗礼を受けた。ものすごい渋滞! 地図を見たらホテルまで4キロ弱。ところが50分かかった! 歩くより遅い! 空港からしばらく片側一車線程度の狭い道を通った。両側に5メートル程度の間口に商品を並べた様々なお店が並んでいる。そこに買い物客でごった返し、その前の道路にぎっしり車が歩く程度の速さで動いている。そこにわき道から車が割込み、バイクが割り込む。信号はほとんどない。交差点では警官が交通整理をしているが。大混乱。雨が降っているので、合羽を着てバイクを運転している人が多い。暗くなったところを次々とバイクが車を追い抜いていく。警笛音があちこちでなっている。

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まだ雨季のようで地面は泥だらけになっている。一応は舗装されているようだが、その上に泥がいっぱいにたまっている。煤煙がひどくて、黒いマスクをしている歩行者も多い。白いマスクだとすぐに汚れてしまいそう。バスも通っているが、信じられないようなおんぼろバス。若い男がバスから体を乗り出して何やら叫んでいる。変な奴がいるものだと思っていたら、ほかのバスでも同じようなことが起こっている。どうやら男は車掌のようで、バスの運行を邪魔するドライバーや歩行者の注意を呼び掛けているようだ。制服を着ているわけではないので、すぐにはわからなかった。

しばらくしてやっと渋滞を抜けたと思ったら、また渋滞。片側二車線の道路や一方通行の道も通ったが、いずれも大混乱。あちこちから割込みがあって収拾がつかない。途上国のどこでも渋滞が発生しているが、このようなまったく秩序のない混乱は初めて。かつてマニラから空港に向かう途中、数キロの区間でこのようなところがあったが、こちらは町を通る間中ずっとこのような調子のようだ。

やっと渋滞を抜け、車が一台が何とか通れるような狭い路地を何度もくねくね曲がってやっとホテルに到着。周囲にはたくさんの小さなホテルがある。外国人向けのレストランも多い。ホテル・マルベリーというのが私が予約しておいたホテルだ。かなり新しいなかなかいいホテル。部屋の設備もいい。それが救いだ。

ロビーでガイドさんが待ってくれていた。ホテル近くのお店で夕食。ただ、私は機内食を次々出されて満腹状態。ほとんど食べられなかった。民族楽器に合わせての踊りが披露されて、大勢の観光客が食事をしていた。西洋人のグループ(英語をしゃべっていた)と中国人のグループがいた。出し物はもちろんかなり素人っぽい踊りと音楽。レストランでの音楽としてはもちろんこれでとても楽しい。食事は悪くなかった。インド料理からインパクトをなくしたような味。

その後、ウィスキーと水をホテル近くで買った。が、なんという迷路! 狭い道が入り組んでおり、しかも地面はあちこちでぬかるみになっている。

今の時期には雨期が終わると聞いていたのだが、まだ雨が続いているようだ。10月になったら心地よくなるというが、私の都合と合わないので、この時期にしたが、ちょっと早まったか!

ともあれ、そのまま寝た。日本との時差は3時間45分とのこと。計算しづらい!

 

・9月11日

 朝の4時半頃だった。突然、ドカンという大きな音がしたので目を覚ました。爆発音だろうか。一度や二度ではない。何度も大きな音がする。もしかすると砲弾の音? テロでも起こったか? 気になって、ホテルの外を見てみたら、500メートルくらい先で黒煙が上がっていた。とりあえず、近くまで見に行ってみようかと思ったが、カトマンズに着いたばかりでまったく勝手がわからず、ほんの少しの距離でも迷子になってしまう恐れがある。それに何やら危険なものが爆発しなかったとも限らない。その一件で眠れなくなった(後でガイドさんに聞いてもらったら、近くの工場で火事があり、ガスが爆発したとのことだった。6名が死亡したとのこと。亡くなった人には申し訳ないが、私としてはテロでなくてほっとした!)。

 9時にガイドさん(おそらく30代の女性。仏教徒だとのこと。日本語はあまりじょうずではない)に来てもらってカトマンズ付近の世界遺産巡り。運転手さんが別にいて、移動は乗用車。ルノー。

 狭い道をくねくね曲がって車が走る。とりわけ、ホテルのあるタメル地区はまさしく迷路。二台の車がやっとすれ違えるような狭い道が縦横に巡らされており、しかも、ときどき行きどまりにぶつかる。よくぞこんなところを車で入れるもんだというような道が多い。しかも、盆地のせいだと思うが、雨が降ると下は泥だらけになり、晴れると埃になる。土埃で大気がどんよりしている。バイクが多くて煤煙もひどい。どこも渋滞している。道に穴が多く、しかも曲がりくねるため、後ろの座席に乗る私は少々乗り物酔い気味になった。

 雨が降ったりやんだり。温度は25度前後だろう。晴れてくると暑くなる。

  道を歩いている時に感じる衝撃の一つはカトマンズの電線だった。まるでもつれた髪のように電線が数十本と束ねられて電柱から垂れ下がっている。不法なのか合法なのか知らないが、次から次へと新たに電線をひいてこのようになっているのだろう。電線ひとつ見ても、いかにインフラが整っていないかがわかろうというものだ。ときどき、中の金属がはみ出しているものもある。道路のぬかるみに電線が浸かっているところもある。危険この上ないと思うのだが、こんな場所がカトマンズじゅうにいくらでもある。それどころか、カトマンズではあたりまえの光景だ。私が電線に驚いているのを見て、ガイドさんは不思議に思っている様子だった。

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 最初にボダナートを訪れた。ネパール最大のストゥーパで知られる仏教の聖地だ。昔からこの地に寺院があったというが、現在の建物は15世紀のものらしい。ネパール人の25パーセントほどが仏教徒だという。白い巨大なストゥーパで、そこには黄色い模様が描かれている。そのストゥーパを中心に門前町のようなものを形成し、周囲にたくさんの祠があり、それをホテルやレストランや土産物屋が囲んでいる。チベット仏教の聖地で、チベット系の顔をした人たちが巡礼に訪れていた。そのほか中国人、ヨーロッパ人の観光客も大勢いる。

 これまでタイやスリランカやミャンマーでストゥーパはたくさん見てきたが、ここのストゥーパが特徴的なのは、ドームの上の尖塔を支える部分にまるで世界を見回すような大きく目が四方の壁のそれぞれに描かれていることだ。目の下の鼻に当たる部分には「?」を思わせるような形が描かれている。日本人には漫画のように見えるが、これが慈悲などを示すありがたいもののようだ。

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 ただ、実はあちこちに現世利益的なものを感じる。なんだか、あまりありがたみを感じない。スリランカのほうがずっと日本人には荘厳な感じがした。

 次にネパール最大のヒンドゥー教の寺院パシュパティナートに行った。ここも世界遺産。ただし、ヒンドゥー教徒以外は寺院に入れないということで周囲を散策。対岸の裏山から寺院とその前にある川を眺めた。あちこちに野生のサルがいる。目にしただけで数十匹がいる。日本のサルよりは小さいようだ。悪さをしているのは見かけなかったが、もちろん、そんなことがあるらしい。

ガンジス川の支流ということで聖なる川とされ、その岸辺には火葬場がある。実際に葬儀が執り行われ、遺体が川に向かって張り出した石の上に置かれた棺で焼かれている。炎が見え煙が立っている。それを親族や友人らしい人が背後で見守っている。それどころか、川の反対側では、散策に来た人たちが、野生の猿に周囲をウロウロされながら、タバコを吸ったり、おしゃべりしたりしてベンチに座って見物している。不思議な光景だ。

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次にパタンに行った。パタンはマッラ王朝の王宮のあった場所で、その中心にあるダルバール広場は王宮と寺院が実に美しい。ただ、2015年の大地震でかなり壊れたとのことで、現在あちこちで修復中。

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たくさんの彫刻があり、建物にも装飾が施され、文化的な高さを感じる。博物館を見学。仏像などを見る。

しかし、妙になまめかしい釈迦像や仏教にそんな神が伝えられていたっけ?と思われるような女神像、そして、女性と交接する仏像もあった! 見れば見るほどヒンドゥー教徒仏教の境がわからなくなる。ユダヤ教とキリスト教のように連続しているのだろう。チベット仏教では、この種の教えがあり、仏像もあるというが、いずれにせよ、もう少し仏教を勉強してみなければ!

そのあと、カトマンズの街を見下ろす丘の上にあるスワナンブナートを訪れた。かつてカトマンズ盆地は巨大な湖だったという。そのころからこの寺院はあったとされる。ただし、建物はそれほど古くはない。ボダナートに似た感じのストゥーパ(ここにも目が四方に描かれている)があり、その周囲にいくつものお堂がある。たくさんの人が詣でており、お祭りが近づいているらしくて行列を作ってお囃子の練習をしている。日本の祭りとよく似た笛と太鼓とシンバルによるメロディ。そのほかトランペットとクラリネットを中心にした行列にも出会った。

ただ、ここもあまりに現世利益。金色の仏像がいくつもあるが、そのいくつかは手に紙幣を握らされている。一つの仏像は丸めた紙幣をつなぎ合わせたネックレスを垂らしていた!

最後の観光は、カトマンズ市街地のダルバール広場。パタンにもダルバール広場があったが、要するに「ダルバール」というのは王宮ということらしい。12世紀ころの建築から17世紀の建築までいくつもの寺院がある。だが、地震で多くが崩壊し、現在、あちこちで修復が行われている。日本のジャイカもかかわっているようだが、中国の存在感が大きい。中国人観光客も多いが、ダルバール広場のあちこちに「中国 援助CHINA AID」の文字が見られる。多くの観光客、現地の人に交じって見物した。クマリの館ではクマリ(生き神様)が顔を出すのを見た。クマリというのは女神クワリの化身として選ばれた少女であり、ある特定の日に生まれた少女のうち最も美しい子どもが選ばれ、初潮を迎えるまで生き神として人々の信仰の対象になるという。生理が始まると普通の人間に戻るというが、その子の人生を考えると難儀なことだと思う。

そのままホテルに戻った。昼にサンドイッチを食べたが、食欲がない。パンを少し食べただけで早く寝た。

 

912

 この日は、一日中ガイドさんには来てもらわずに一人で自由に歩き回った。この頃、初めての、しかも勝手のわからない都市を訪れる時にはこのようなスタイルの旅をすることにしている。つまり、初日にはガイドさんに来てもらって大まかな名所を巡り、その後、自分で自由に歩く。時間があって言語がもっと達者ならずっと自由な旅をしたいが、残念ながらそうはいかない。

 9時過ぎにホテルを出て、近くにある「夢の庭園」を目指した。路地を曲がりくねって車でにぎわう道に出た。道端に座り込んでビニールシートを敷いて、エプロンにのるくらいのほんの少しの雑貨や果物、お菓子類を売っている人がいる。その横を歩き、車の隙間を割って入って道路を渡る。もちろん横断歩道はない。信号もないので、道路に車が途切れることもあまりない。ただ、幸い、道はいつも渋滞気味なので、車にスピードが出ていないため、人が道を渡ろうとすると、車のほうでよけてくれる。

「夢の庭園」の入場料は200ルピー(200円程度)。結構高い。静かな庭園だと聞いていたが、残念ながらまったく静かではなかった。確かに壁に囲まれ多庭園の中は芝生や石畳があり、あずまやがあり、ベンチが据えられていて落ち着いた雰囲気なのだが、車やバイクの騒音は響いている。ベンチに座って少しだけくつろいだが、30分もしないうちにダルバール広場まで歩くことにした。広い道を歩くと、ずっと煤煙と土埃にまみれることになる。歩行者にはなかなか過酷だ。

 信号はほとんどない。大きな交差点では警官が交通整理をしている。信号はあっても電気が通っていないようで、そこでも警官が手信号を行っている。警官の技術がよくないのか、それとも道路に比べて車が多すぎるのか、そんなところも大混乱している。

 途中、砂埃と煤煙と騒音に耐えられなくなって、またラトナ公園で一休み。池があり、きれいな橋があり、緑豊かな場所だ。こちらは入場料500ルピー取られたのでびっくり。外国人料金なのだろう。

 ここでも30分くらいゆっくりしたが、ここも静かなわけではない。車の音が鳴り響いている。気を取り直してまた歩いた。昼前にダルバール広場に到着。今日は「ティージ」と呼ばれるヒンドゥー教の女性の祭りだという。奥まった広場には着飾った女性が大勢集まっていた。ほとんどの女性が朱色のサリーを着ている。老いも若きも、女性たちが集い、スピーカーから大音量の歌が流され、それに合わせて踊ったり、買い物をしたり、長い行列を作って神聖な場でお祈りをしたり。お腹を出している女性も多いが、そのほとんどが中年以上の女性。若い女性の腹を見たいというわけではないが、なぜ中年の女性ばかりがお腹を出しているのか、実に不思議。

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 しばらく見物していたが、そこからまたホテルまで歩くことにした。どうもホテルの自分の部屋以外には、この都市には静かな場所がなさそう。静かなところで一休みしたくなった。

 いったんホテルで休憩。しばらく休憩して、再び散策。ナラヤンヒティ王宮博物館まで歩いたが、今日は休館だった。そのままホテルのあるタメル地区をぶらぶらした。昼食にはモモスープを頼んだ。モモというのはネパール式餃子だ。水餃子のようなものを思い浮かべていたら、出されたのはカレースープに入った餃子だった! 味は悪くないのだが、胃の調子があまりよくない私としてはカレーは避けたかった。

 タメル地区はまさしく迷路。細い路地が入り組んでいる。同じような店(お土産物、食料品、レストラン、カシミア、アパレル、履物、鞄)が並んでいるので、歩いていると迷子になる。その狭い道に車やバイクが入り込み、あちこちで苦労しながら離合している。スマホの地図に案内してもらって、やっとホテルに帰り着く。ヴェネツィアでも道に迷いっぱなしだったが、カトマンズはそれ以上。

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 マッサージを受けたいと思って店を探した。が、どうにも入る勇気が出ない。何となく店構えを見て怪しい感じがする。つまり、コリや疲れをいやすためというよりも、別のサービスをする店のような雰囲気がある。ネットで調べてみると、案の定、そのようなことが書かれている。安全なところを探してみたが、確信が持てないので、やめた。

 夕方、また散歩に出た。暗くなってからのタメル地区を見たかった。ちょっと怪しい雰囲気の区画がある。歩いていると、若い男に声をかけられた。「マッサージ?」といわれたような気がした。おそらく、その種のお誘いだろう。さすがに振り切ってホテルに戻った。

 どこもかしこも大混乱だが、不思議と殺伐としていない。車やバイクがごった返しており、あちこちで警笛が鳴っているが、荒っぽい運転ではない。歩き方も、みんなおっとりしている。人が多いので混乱しているだけであって、一人一人はいたって穏やかで物静か。ただ、きちんと規則を守る人たちではなさそう。悪気はないのだが、ちょっといい加減。そのために、あちこちで混乱が起こっている。

 ミャンマーやパキスタンのようにごみの散乱はない。店の前を掃除している人を多く見かける。もちろん、ところどころにごみは見えるが、ほかのアジア地域とは雲泥の差だ。ただ、インフラが追い付いていないので、あちこちが薄汚く、埃だらけになっている。

 野良犬が多い。ブータンやスリランカでも野良犬の多さに驚いたが、それと大差ないかもしれない。観光地でも商店街でも野良犬を見かける。

 

913

 朝の4時にガイドさんがやってきて、ホテルを出発することになっていたので、早めに寝た。

 ところが、真夜中、突然、ドアが開いた。私が目を覚ますと、女性の声。日本語ではない言葉で何かを叫んでいたが、慌てて何かを言って出ていった。「エクスキューズ・ミー」という言葉だけ聞き取れた。どうやら、ほかの客が私の部屋に間違えて入ってきたらしい。

そのまま寝たが、翌朝、気になってフロントに状況を話して、どういうことなのかを聞いてみた。だが、要領を得ない。ガイドさんが来たので、改めて聞いてもらったが、「603号室の客が間違って入ったようだ」との返事。私の部屋は503号室。だが、ほかの部屋のキーで私の部屋に入れるはずがないと思うのだが、いったいどういうことだろう? きっとホテル側が誤って別の人にも私と同じ部屋を当てたのだと思う。どうもこの国の人はすべてが緻密ではないようだ。

 ともあれ、4時にガイドさんがやってきて、無事出発。ヤンゴンから車で1時間ほどのナガルコットに出かけた。標高2100メートルあり、天気が良ければエヴェレストを見ることができる。エヴェレストは無理でもヒマラヤの美しい山々を背景に日の出を見ることのできる日は多いとのこと。大いに期待して出かけた。

 道中が大変だった。車に乗っているだけなのだが、ものすごいガタガタ道。舗装されていないところも多い。簡易舗装されただけで補修されていないため、穴だらけになっているところがほとんど。しかも曲がりくねっている。いわゆるヘアピンカーブの連続。右や左が崖になっているところもある。それがでこぼこ道なのだからかなわない。車が揺れて、頭が天井にぶつかり、体がドアにぶつかる。吐き気もしてきた。

 夜明けよりもかなり前に到着。車の中で待って鉄パイプで編んだ矢倉に上った。雲の向こうに山々が見え、空が明るくなっていた。あと五分くらいで日の出が見られると思った瞬間、急に霧が立ち込めてきた。あっという間に太陽も遠くの山も見えなくなった。残念!

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 クラブヒマラヤというホテルで朝食をとった。テラスから日の出が見られるようになっていた。雲の向こうに太陽が見えた。鳥のさえずりが聞こえて、まさに静寂。ちょっと不便だけど、次に来る時にはここに泊まってゆっくりしたいと思った。

 その後、車でネパール最古のヒンドゥー寺院チャング・ナラヤンに向かった。ナガルコットから遠くないらしいが、道路の関係で遠回りするので、またまた揺れの激しいカーブだらけの道を走った。チャング・ナラヤンには観光客はほとんどいなかった。丘の上にある古びた寺院はとても趣がある。ただ、地震のためにかなり破壊されたようで、ここでもあちこちが修復中だった。

 その後、バクタプルに向かった。昔の面影がそのまま残るような古い町だった。ベルトルッチ監督の「リトル・ブッダ」の撮影地として知られているらしい(ブータンのパロにも撮影地があった!)。多くの建物がレンガで作られており、時代を経て黒ずんだレンガに風格がある。ヒンドゥー寺院がいくつもあり、王宮がある。ここもあちこちで修復中だ。昔の建築物だけでなく、ふつうの民家もほとんどすべてがレンガ造り。どうやらこの辺りはレンガの産地らしい。趣のあるレンガではあるが、それだけに地震の被害が大きかったということだろう。寺院も修復中のところが多く、一般の家屋も破壊跡や修理中のところが多かった。地面もレンガ造りのため、少々歩きにくい。そのため、腰が痛みだした。

 もう少し寺院を見たかったが、少し休みたくなってホテルに直行した。部屋に戻ったのは15時前だった。疲れ切って、その後は夕食に近くのレストランに出かけた以外はずっと部屋でごろごろしていた。

 

914

 最終日。チェックアウトは13時とのことなので、ゆっくりできる。午前中は近くを歩き回った。このような旅が私は大好きだ。別に何を見るわけでもない。ほっつき歩くだけ。

 タメル地区以外のところにも足を延ばした。広い通りを歩くと、車の騒音と煤煙、そして土埃のために息苦しくなる。車はどこでも渋滞している。カトマンズの車は時速40キロ以上で走ることはほとんどないのではないか。歩くのと同じくらいの速度で車が走る。路地に入り込むと、どこもかしこも迷路のようになっている。迷路なのはタメル地区だけではない。

観光客とみられると、土産物屋やタクシー運転手に声を掛けられるが、しつこくない。人懐こそうに寄ってきて、断るとすぐに諦める。

 乞食が多い。あちこちに座っている。小さな子どもを連れた女性や老人もいる。しつこく寄ってくる乞食もいる。

 午前中にホテルに戻ってシャワーを浴びて、昼過ぎに知人のネパール人と食事。ネパールの状況についてあれこれと尋ねた。ネパール料理の店に連れて行ってもらった。ご飯ではなく、大麦を練ったという団子のようなものにカレーを混ぜて食べた。とてもおいしかった。

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 午後、旅行会社のガイドさん(初日に来てくれた日本語を解さない男性)がやってきて、車で空港まで行った。カトマンズに到着してホテルに向かった時とは別の道のようなので別の空港に連れていかれるのではないかと心配になったが、着いてみると同じ空港だった。またノロノロ運転を繰り返して1時間近くかけての到着だった。

 空港でチケットを眺めているうちに、カトマンズからの飛行機がソウルのインチョン行き、羽田行きの飛行機の出発地がキンポになっていることに気付いた。つまり、ソウル到着後、仁川から金浦まで移動しなければならない! チケットをネットで購入した時、不覚にも気にかけかった。搭乗手続きをした時、「空港がチェンジするけれども、わかっているか」と聞かれて、私は出発は成田なのに到着は羽田だということを指していると考えて「アイ・シー」と答えたのだったが、どうも係官はソウルのことを言っていたようだ。そりゃそうだ。私が成田で飛行機で乗ったことなんて知っているわけがない。

 あわててネットで仁川から金浦への行き方を調べた。時間的に余裕はありそうだったが、移動するには現金がないと不安だ。到着は朝の5時半ころなので、両替できるかどうか大いに不安だった。不安に思いながら、機内で夜を過ごした。

 時間通りに仁川に到着。幸い、両替所が一箇所開いていた。難なくリムジンバスに乗って40分ほどで無事金浦空港に到着。当たり前のことだが、ネパールと違って高速道路が整備され、高性能の乗り心地のよいバスはすいすいと動く。時間的な余裕をもって羽田行きの飛行機に乗って、無事に午後に自宅に帰れたのだった。

 そのほか、ネパールについて気づいたことは明日以降に書く。

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イルクーツク旅行

 201889日から12日までイルクーツクを旅行した。34日の短い旅行だ。ある代理店による一人参加の、かなり自由行動の多いツアー。

 89日の夕方に出発し、5時間半ほどで、シベリア航空の直行便でイルクーツクに到着。午前中まで関東地方には台風の影響があったので心配していたが、無事、飛行。ただ、機内食は責任者の神経を疑いたくなるようなまずさだった。

到着したときには、日付が変わって10日になっていた。運転手さん(日本語は通じない。英語もほとんど通じなかった)がやってきてホテルまで運んでくれた。到着したのが、前もって聞いていたホテルではなかったのであわてたが、ともあれ予定通りのホテルまで行って無事泊まることができた。

 

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 9時にガイドさん(日本語のとても達者な中年男性)が来て、市内見物。あいにくの雨。20度くらいの涼しさ。イルクーツクはシベリアの森の中、バイカル湖から流れるアンガラ川周辺に広がる人口は60万人程度の落ち着いた都市。流刑になったデカブリストたちが作った都市なので、文化レベルが高い。

雨の中、アンガラ川沿いを歩き、キーロフ広場を歩いてスバスカヤ教会とバガヤヴレーニエ教会に行った。たしかバガヤヴレーニエ教会だったと思うが、中に入ると美しい女性合唱が聞こえた。ア・カペラの清澄な声。ギリシャ正教の教会ではこのような合唱による祈りがなされるようだ。これまでにも何度か耳にした。教会の中はイコンが飾られ、祈る人の姿が見える。ガイドさんによると歌っているのは専門の合唱団だとのこと。一般の信徒はそれに合わせて祈るだけのようだ。それにしても、見事な合唱。ロシアの合唱団のレベルの高さのすそ野がこんなところにあるのだろう。

その後、ぐるりと車でイルクーツク市内を回って、バイカル湖に向かった。白樺やカラマツの森がずっと続く。ほとんどが原生林らしい。その森の中を高速道路が走っている。新しい道路は片側三車線だが、ソ連時代の古い道路は片側一車線。交通ルールは全員がきちんと守っている。無理な追い越しやあおり運転はない。

途中でタルツィ木造建築博物館に寄った。そのころには、雨が上がったが、まだ曇天。

かつてコサックがシベリアに入り、それに続いて領地から逃れた農奴が開墾し、厳しい中を生きた状況が、アンガラ川近くの深い森の中に一つの村のように再現されている。中国人の団体のほかにも観光客がかなりいた。

農民の家、役所、倉庫、学校などが展示されているが、これらは実際にあったものをこの場所に移築したものらしい。厳しい寒さがわかる建物群だった。ペチカのある家屋があり、備蓄倉庫があり、そのそばに橇などの用具が置かれている。寒さをしのぐためにペチカを最大限に利用する工夫、凍った土地の上に家を建てるための堅い木を使う工夫などが知れた。

流刑になる人間の留置所もあった。20キロ以上ありそうな丸太に鎖が打ち付けられ、その先に足輪がついている。流刑者は足をつけられ、その丸太を持って移動したらしい。確かにそのような風景を映画などで見た覚えがある。

ガイドさんの説明を受けながら、1時間以上歩いた。なかなかおもしろかった。ただ、ガイドさんが「これは何だと思いますか? 最初のヒントは・・・」などとクイズを出し、私が何か答えると、「それがファイナル・アンサーですか」と言わるのは困った。私の答えのほとんどが間違っていた。それほど、想像を超える極寒の地での生活の状況だった。

その後、バイカル湖に向かった。アンガラ川とバイカル湖の境目に「シャーマンの岩」と呼ばれる岩が水面に突き出している。ただ、残念ながら曇り空。晴れた日は青々と見えるはずの水面は暗くよどんでいる。

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バイカル湖付近で昼食を済ませて、リフトを使って展望台へ行った。そこからバイカル湖を見た。ここでも中国人観光客が目立つ。日本人も韓国人もロシア人もほかの国の西洋人もいる。なかなかの絶景。シャーマンの岩が見えた。

 シャーマンの岩には様々な伝説があるらしい。ガイドさんが話してくれたのは、不貞を働いた女性を岩に置き去りにし、翌日に岩から消えていたら、「バイカルの神が女性を許して受け取った」とみなし、翌日まで生きていたら、「この女性は不浄だからバイカルの神は受け取りを拒否した」とみなして殺害したという話だった。逆に、男性の場合には、生き残っていたら許されたらしい。事実かもしれない。

 次に、ガイドさんに連れられて、シベリア抑留されて命をなくした日本人の墓を訪れた。ロシア人の墓地の傍らにこぎれいに整理されて60のカタカナの名前入りの石柱が並んでいる。最近になって整備されたものだという。

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 私は、辺見じゅんの「収容所から来た遺書」でも描かれている山本幡男のあまりに悲劇的であまりに気高い人生、そしてその友人たちの感動的な行為を知って以来、シベリア抑留に関心を持ってきた。イルクーツクに来たいと思ったのも、シベリア抑留の地を見てみたいという思いがあったからでもある。実は、もっと大規模な古い墓地を予想していたので、新しい墓碑を見て、ちょっと拍子抜けした。が、そんなことを言っては、亡くなった方々、墓を整備した人に申し訳ない。お盆の少し前だが、墓にお参りした。

 その後、バイカル湖博物館を訪れ、様々な魚のいる水族館を見た。丸々と太ったアザラシが泳いでいた。

 船着き場になっていて遊覧船やモーターボート、様々な国の観光客などでにぎわうバイカル湖の岸辺を通過して、人気のいない岸辺を歩いた。海のように波があり、向こう岸がかすかに見える程度の広さ。地球上の淡水の20パーセントを占め、最大幅が80キロ。透明度でも世界で類を見ないほどの大淡水湖。広さがわかる。地面が褶曲してバイカル湖ができたというが、岸辺の岩はまさに曲がりくねっている。太古の時代の大地のねじれ具合がよくわかる。

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水に触ってみた。冷たい。水温は3度くらいだとガイドさんは言ったが、それほどでもなさそう。それでも、10度以下ではあるだろう。

 その後、魚や果物、野菜、土産物を売る、市場をみて、バイカル湖の近くの村リストヴャンカにあるホテル(リストヴャンカ・シャーレ)に到着。海岸から15分くらい坂を上ったところにあるこじんまりしたコテージ風の木造のホテルでなかなかに感じがいい。ガイドさんと別れて、一人になって部屋に入って一休みした。今回のツアーでのガイドさんとの付き合いはこれで終わり。

 その後、一人でバイカル湖畔を歩いた。船着きの近くに行った。土産物屋があり、お菓子などを売る店もある。観光客でにぎわっている。箱根の芦ノ湖の船着き場の雰囲気に近い。ただ、湖の大きさには大きな差がある。ロシアの人だろう、水着姿で、この冷たい水の中を及んでいる男女がいるのには驚いた。そのほか、モーターボートに家族やカップルが乗っている。サービスということだろう、モーターボートはカーブを描き、水しぶきをたてている。乗っている子供は叫び声をあげ、船の柱にしがみついている。

 しばらくしてホテルに戻り、ホテル内で食事。夜を過ごしたが、私は寒さに弱い。昼間は14度くらいだったが、夜はもっと気温が下がっている。オイルヒーターが備えられていたので、さっそく利用したが、ちょっと遅かったらしい。お腹が冷えたせいか、腹痛を覚え始めた。翌日が心配になって、早めに寝た。

 

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 9時からホテルで朝食をとったが、食欲がなかった。まだ体調がよくないのでしばらく部屋で休息。数時間して、やっと回復してきた。

 12時に運転手さんが迎えに来て(ガイドさんはいない)、イルクーツクへ出発。前日の道を戻ったが、青空が広がっており、バイカル湖が美しい。

1時間ほどで前日と同じホテルに到着。ホテルに荷物を置いて、イルクーツクの町の見物に出た。体調が心配だったが、ともあれ歩くには支障がない。

 前日の寒さに比べると、かなり暑い。日差しが強く、30度近くある。

 市内の確実な移動手段はトラムのようだ。タクシーはほとんど走っていない。ゆっくり歩いて、街を見物した。人通りはほとんどない。森に囲まれた自然の中で息づいている都市だと強く感じる。きれいな空気の下でロシア人がゆっくり歩いている。

しばらく歩いて停留所を見つけ、トラムに乗った。トラムには車掌さんが乗っているので、料金(15ルーブル均一)を支払うのに苦労しない。10分ほどトラムに乗って、クレストヴォズドヴィジェンスカヤ教会に行った。こじんまりした教会でイコンが美しく、木立に囲まれた休息所があり、草花の植えられた庭がある。

 周囲にはロシア風の建物が静かに立っている。

 交差点を挟んだ向かい側には小さな広場があって、そこにはイルクーツクの象徴である貂(テン)をくわえた虎の像があった。そこから南に若者好みのこぎれいな道があって、おしゃれな店が並び、カップルが歩いていた。原宿のような雰囲気。それでも、人の数は少なく、数人が静かに歩いている。

すぐに引き返して、トラムの通っている道路をホテルの方向に向かって歩いた。フィルハーモニーの建物があった。オーケストラ・コンサートのポスターがあったが、キリル文字なので、オーケストラの名前も演奏者の名前も、作曲者の名前もわからない。

 そのまま歩くと、レーニン広場があった。イルクーツクでは社会主義を建設した人々は今も否定されていない。中央にレーニン像がある。

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 そこを右折すると、カール・マルクス通り。これがイルクーツクの中心街だ。ただ、「地球の歩き方」を見て、銀座のようなところかと想像していたら、それほどでなかった。人通りはほとんどなく、建物も低く、華やかさはまったく感じない。繁華街という雰囲気でもなく、ふつうの静かな街並みだ。カール・マルクス通りを東に歩いていった。

ふつうのスーパーが通りに面してあったので入ってみた。特におしゃれな店というわけではない。観光客らしい中国人や現地の人らしい客が数人いる程度。品ぞろえは一般のスーパーと変わらない。バイカル湖でとれたと思われる魚類が多く、ほかは肉類、チーズ類が目立つ。お菓子の類は甘そうなものばかり。塩辛い系、チップス系のものはまったくない。

少々疲れたので、いったん、ホテルに戻ることにした。トラムにのろうと思って、先ほどの道に戻った。レーニン広場の停留所がきっとあると思っていたが停留所が見つからない。そもそも停留所のしるしがどこにあるのかもわからない。トラムの路線に沿って歩いてやっと停留所らしいものを見つけて乗ろうとして、これが最初に乗り込んだ停留所だと気づいた。つまりは、ホテルのすぐ近くまで歩いたわけだ。そのまま歩いてホテルに戻った。

一休みして英気を養い、再び外出。今度はホテルのスタッフにタクシーを呼んでもらって、イルクーツク駅に行った。

シベリア鉄道に初めて乗ったのは、2013年、ハバロフスクからウラジオストクまでだった。昨年はウランバートル駅から近郊まで乗った。本当はイルクーツクでも列車を利用したかったが、一人で乗るのは怖い(何しろ、文字が読めないのでどうにもならない!)のでやめた。駅の中を見物し、列車が入って、多くの客が乗り込むのを見送って、駅前からトラムに乗って再びイルクーツクの中心街へ向かった。

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夕方になっていたので、どこかで食事をしようと思っていた。ついでに百貨店をのぞき、その横の中央市場を歩いてみた。百貨店はブランド店などが並んでいたが、客はガラガラ。2階まで上がってみたが、エスカレーターが故障していたので、そこでやめて下に降りた。中央市場には百貨店よりも多くの人がいた。それでもにぎわっているという感じではない。野外に野菜や果物の商店が立ち並んでいる。建物の中には魚や肉が並んでいる。原形をとどめたような大きな肉の塊も売られていた。

10分ほど歩いてカール・マルクス通りまで行き、ガイドブックに紹介されているロシア料理の店に入ろうとしたが、見つからない。レストランらしい店はほかにないでもないが、ロシア料理ではなさそう。わざわざイルクーツクまで来てイタリア料理や中華料理や寿司を食べても仕方がない。少し歩いてみたが、入りたくなりそうな店はなかった。そもそもキリル文字なので、何の店なのかもよくわからない。

最も安全なのはホテルのレストランで食べることだと思いなおして、タクシーを捕まえようとしたが、これがなかなかつかまらない。一台、やっと信号停止しているのを見つけて、ホテルカードを見せてそこに行ってもらおうとしたが、なぜか乗車拒否された。近すぎるせいだったのか。しかも、例によってトラムの停留所も見つからない。仕方がないので、ホテルまで歩いた。

アンガラ川沿いの道を選んだ。岸辺を歩くのは気持ちがいい。夕方になって、気温も下がり、心地よい。青空が広がり、風も出てきた。疲れていたので、ゆっくり歩いた。北国なので日暮れが遅い。もう、20時くらいになっていた。

再びホテルに戻って一休みしてから、ホテル内のカフェ・レストランで食事。大レストランも併設されていたが、そこではなんだか大音響でイベントが行われている。大音響を耳にしながら魚のスープやキノコの水餃子のような料理を中心に食べた。カフェのすぐ横では、中国人の小さな団体が食事をしていた。

ウェイトレスさんは、アラン・ドロンに似た顔のとてもきれいな女性だが、信じられないほど不愛想。ロシアの店員さんのほとんどは不愛想だが、ことのほかその傾向が強かった。注文を受ける時も、食事を持ってくるときも、しかめ面をしたまま。食事を終えてから、代金が910ルーブルだったので、1000ルーブル(日本円で2000円ほど)出して、残りをチップとして渡すと、突然とてもきれいでチャーミングな笑顔が現れた。「なんだ、不愛想でない顔もできるんじゃないの。たった180円くらいのチップで、そんな嬉しそうな君の笑顔が見られてうれしいよ」と皮肉を言いたくなった。

少量だったが、ウォッカも飲んだので、しばらくして寝た。疲れ切っていた。

翌日、8月12日、9時に運転手さんが来て、そのままイルクーツク空港に向かい、成田へ。無事、帰国。

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日田の祇園祭 見事な祭り しかし観光客は少ない

 2018年7月20日に大分県日田市に入った。21日と22日に行われる祇園祭見物が目的だ。日田祇園祭は、500年ほど前に悪疫鎮護のために始められ、2016年に全国の33の団体とともにユネスコ無形文化遺産に登録されている。昨年は九州豪雨の影響で開催されなかったので、今回、登録後初めての開催だ。

 日田市は私の故郷だ。祖父母はそこに住み続け、一時期日田から離れていた両親も、その後、住むようになったが、私自身は5歳でこの地を離れて以来、時々訪れるだけになっている。そのためもあって、祇園祭の存在は知っていたが、見物した記憶がない。両親が高齢になって日田から離れ、その後、父が亡くなり、母も東京の施設で暮らすようになって、私と日田のつながりは少し残った所有地だけになってしまった。そんなとき、クラブツーリズムの日田の祇園祭を見るツアーを見つけた。「日田祇園祭を見たい」と思った。とはいえ自分の故郷なのにツアーで行くのもしゃくだ。日田には親戚も多い。そんなわけでひとりで祇園祭を見に来たのだった。


7月20日

 午後、福岡空港におりてバスで日田に向かった。空港から出た時の福岡の気温、そしてバスから降りた時の日田の気温はパキスタン並みだと思った。先月、パキスタンで数日過ごしてその暑さに閉口したが、それに匹敵する暑さ。が、バスから降りて、腰痛肩こりを感じたので、ホテルに入る前に目の前にあるマッサージ店でマッサージを受けるうち、一雨あったようで、店を出た時にはかなり涼しくなっていた。それでも34度くらいはあったようだ。日本人も34度で涼しいと感じるようになったことに改めて驚く。

昔ながらの街並みの見える景観地区である豆田までタクシーでいき、有名店でウナギと鮎を食べた。土用の丑の日でもあり、祇園祭の前日でもあるので、ここも大賑わいだと思っていたら、がらがら。テイクアウトのウナギのかば焼きなどを受け取りに来る人は数人いたが、客は5、6人。祇園祭を前にした熱気のようなものも感じない。

豆田から駅前のホテルまで歩いた。途中、5歳まで私が住んでいた場所(今は別の建物がある)、両親が暮らしていた場所(売却したので、今、新たな家が建設されている)をみた。

それにしても、あまりに閑散としている。祇園祭の前だというので賑わいがあるのかと思ったら、何もない。夕方になると真っ暗。そもそも人を見かけない。駅前ですら午後8時に深夜のように人影をまったく見ない。車も一回の信号の青の時間に2、3台通過する程度。車がまったく通過しないのに、歩道が青に変わるのを長い時間待たなければならない。

日田駅は改修されてきれいになっているが、それにしても人通りが少ないのが心配になってくる。

 

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 早く目が覚めたので、朝食を済ませて、7時ころに隈地区(三隈川付近に発達した町で、旅館が並んでいる)まで歩いてみた。山鉾会館付近を見た。山鉾が見え、法被姿の町の人たちが準備している様子が見えたが、もちろんまだ山鉾は動いていない。ついでに昔からのなじみの場所である三隈川の川辺を歩き、亀山公園を見た。朝から暑い。汗だくなった。ホテルまで歩いても10分ほどなのだが、タクシーを見つけてホテルに戻った。

 8時半頃、歩いて豆田に向かった。歩く途中、中城地区の山鉾がちょうど動き出すところに遭遇した。飾りつけのされた山鉾の高さは3階建てのビルくらいだろうか。下の階層に人が入って笛を吹いたり、太鼓を鳴らしたりしている。町の衆20人くらいが綱を引き、その後に子供を含む20人から30人が歩いていく。警察官が数名ついて、道に入ってくる車を別の道に誘導している。私もあとをついて歩いた。

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近くでも別の山鉾が動いている様子だった。囃子の音が聞こえてきた。そこに移動してみた。同じような山鉾だった。また、別の一つが見えた。狭い豆田地区のいくつかの道で山鉾が動き出し、日田の中心部を流れる花月川に向かっていた。

そして、橋の上で4基が合流。川の上で四基が一列に並んだ。なかなかの壮観。

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 実は観光客でごった返していると予想していた。が、見る限り、観光客はゼロに近い。ほとんどが関係者。つまり山鉾を引く町内会の人やその家族。水筒を持ったり、着替えを持ったりして後についている。それに、一つの山鉾に警察官が数人ついているようだ。それ以外はたまたま自宅の前を通る山鉾を見送っている程度。地方のケーブル局のテレビ取材のカメラはあったが、私のような観光を目的としているらしいのは、私以外に4、5人しか見かけなかった。

 しばらくして、隈地区に行ってみた。山鉾会館の近くに行くと、こちらでも山鉾が3基ほど集まっていた。こちらにはツアー客がいた。中国人らしい客(ただ、どうも祇園見物に来たというより、何かの研修のついでに見物しているようだった)もいた。総勢で50人くらいの観光客がいたのではないか。ほかは日田市の人たち、そして関係者だろう。

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 しばらく見物して、昼食(好物の川魚定食)を済ませてホテルに戻った。一休みして、午後、なじみの町を少し歩いた。昨日に比べると、いくらか過ごしやすい。気温33度くらい。

 夕方、いとこたち(二人の従姉と一人の従弟、そして亡き従兄の夫人)と駅付近のビストロで会食。楽しい時間を過ごした。そして、夜8時過ぎに車で豆田に移動。夜の山鉾を見た。

 昼間はちょっと「しょぼく」見えたが、夜は壮観。橋の上には観光客がごった返しており、そこに3基が集まっていた。少し前までもう1基がいたようだ。たくさんの提灯をつけて多くの人に引かれていく。それが橋の上で大きな掛け声とともにすれ違う。交通整理の警察官も数人出ている。これぞ私がイメージしていた祇園祭だ。

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 橋の上から山鉾がすべてなくなってから、車でホテルまで送ってもらった。

 それにしても人が少ない。盛り上がっていない。ホテルにも観光客はいるが、大賑わいしているわけではない。

 日田の祇園祭は地方の祭りとして見事だ。ただ、山鉾が道を練り歩き、時々それが合流するだけなので、盛り上がりがあるわけではない。山鉾の巡航が豆田と隈の二つの地区に分かれているので、一箇所に集まる賑わいがない(祭りの前々日に顔見世が行われたらしいが,本祭の間にはそのような機会がない)。そのために観光客を集めにくいのだと思った。これほどの規模の祭りのわりに観光客が少ないのを大変残念に思った。

 

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 22日も夕方まで祇園祭を見ようと思っていたが、この様子では昨日と同じような光景になるのは目に見えている。夜までいればいろいろなイベントがあるらしいが、仕事の関係で、それは難しい。私はディスカウントの航空便とホテルのパックチケットでやってきて、福岡空港を2045分に出発する便を予約しているが、もっと早く東京に戻りたい。

 そう思って、朝方、日田市を少し歩いた後、すぐにチェックアウトして、バスで福岡空港に向かった。そして、空港で便の変更ができないかを尋ねてみた。が、やはりだめだった。仕方がないので、コインロッカーに荷物を置いて博多駅に移動。駅の付近だけでも見物したいところだが、なにしろ35度を超す気温だ。観光どころではない。そこで、駅ビルで映画を見ることにした。たまたま待たないで見られるのが「未来のミライ」だった。67歳の男が一人でアニメを見るのもどうかと思ったが、まあ仕方がない(映画の感想は改めて書くことにする)。

 映画を終えた後、マッサージを受け、その後、食事をしようかと思っていたら、映画を見ている間に夕立があったらしい。外は大雨。JR博多駅は雨漏りだそうで大混乱している。あちこち探したが、適当な場所がないので、映画館と同じ階に戻って郷土料理(鯖、イカ)を食べた。

ところが、その間に、家族から「福岡空港が雷で閉鎖されているとニュースで見たけれど、大丈夫か」という連絡があった。そのまま新幹線で東京に戻る手もあるが、荷物を空港に置いているので、ともあれ空港に様子を見に行くことにした。

 空港は大混乱。東京行きの便のほとんどが欠航になっていた。だが、幸い、私の乗る便は運行された。結局、1時間ほどの遅れで羽田に到着した。

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瀋陽・大連旅行

 201879日から12日まで、34日の瀋陽・大連の1人旅をした。空港や駅とホテルの間のガイド以外は何もないフリープランのツアーを申し込んだのだった。私の記憶に間違いがなければ、7度目の中国観光。東北地方観光は初めて。私は特に日本近現代史に詳しいわけではないが、「満州」にはそれなりに関心を持っている。表面だけでもかつての満州の跡を見たいと思ったのだった。

現地では持ち込んでいたパソコンの調子が悪く(というか、Microsoftの契約が切れたということなのか、ワードの新しい文書を作れなくなっていた。近いうちになんとかしなければ!)、その場で文章を書かなかった。帰国後、簡単に感想を書く。

 

7月9日

成田を飛び立ってANA機で瀋陽到着。到着は夜だったので、入国手続きはきわめて順調。ガイドさん(6年間日本に住んでいたということで、日本人とまったく変わりのない日本語のガイドさんだった)と顔を合わせてそのままホテルへ。

 高速道路もきれい。ホテルは遼寧寶館。ここは昔の奉天ヤマトホテル。満鉄時代の日本資本のホテルで開業は1927年だという。確かに、かなり古めかしいホテル。いちおうは近代的に改装されているが、年代物だということは厳めしい造りや隅々の汚れからわかる。まさしくレトロな雰囲気。これれはこれでなかなか味わいがある。

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遼寧寶館


 

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 朝起きて、近くを歩いてみた。ホテルは中山広場に面していた。瀋陽の中心部を成す広場で、中心に毛沢東の像がある。周囲には歴史的な建物が並んでいる。今はもちろん中国の企業や役所が使っているが、ほとんどが、日本統治時代に作られたものだという。

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中山公園


 9時に、今回のツアーとは別に、午前中だけの市内観光を予約していたガイドさんがやってきた。昨日のガイドさんに比べるとかなり日本語のぎこちないが、好感は持てた。

まず瀋陽故宮博物館にいった。半世紀ほど前に世界史の授業で習ったヌルハチ、ホンタイジといった清朝の歴代の皇帝たちの名前を久しぶりに思い出した。これらの英雄たちやその夫人たちの建てたり住んだりして建物がある。ガイドさんの話がおもしろく、歴史上の人物を想像できた。

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 張氏帥府博物館では、張作霖、張学良の暮らしや歴史が展示されていた。日本の蛮行についてはそれほど大きな展示はなかった。そのあと、昭陵に行った。ホンタイジの墓があり、現在では広大な公園になっている。晴天で気持ちがいい。

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13時前に市内観光ツアーは終えて、その後は一人で市内を回った。ホテルで東北地方特有の味付けの濃い料理を食べたせいか、食欲がない。昼食は取らないままだった。

 ホテルから駅まで道草しながら往復した。上海や広州よりはずっと落ち着いている。だが、やはり店の前では呼び込みのアナウンスが甲高い声で行われ、色とりどりの店があって、中国の大都市であることに間違いない。車の運転はルールを守っている。ただし、歩行者はまったくルール無視。信号が赤でも平気で車が来ている道を渡る。高齢者だけではない。若い人も壮年の人もそうする。気温は30度くらい。広州や上海では、短パンにサンダル姿の人が多かったが、こちらはきちんとズボンに靴を履いている人が大半。オートバイも少ない。

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この界隈には昔ながらも汚い店はほとんどない。冷房のきいていない店もあるが、それでも猥雑、不潔という感じはしない。開けっ放しのレストラン(というか、食堂というほうが近い)も、パキスタンやミャンマーなどと違って、中に入って食べても健康を害することはないのではないかと思わせる(実際には入らなかったが)。青山や銀座のような、私ごときが足を踏み入れることのないおしゃれなお店もいくつもあった。センスの良い服を着た男女(やはり女性が多い)が買い物をしたり、飲食をしたりしている。

 ホテルに戻って、一休みして、近くのこぎれいなレストランで食事。水餃子と蒸し餃子を2皿注文したら、1皿に20個以上入っており、食べきれなかった。様子を見て、そのほかの魚か肉を注文しようと思っていたが、それで済ませた。夜の街を再びふらふらと散策して、ホテルに戻った。

 

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 朝の750分にガイドさんに連れられて瀋陽駅に車で行き、大連行きの切符の手配をしてもらった。そこでガイドと別れ、そこから一人でホームに入って高速鉄道で大連に向かった。

 二度目の中国高速鉄道だが、ガイドなし、ツアー仲間なしは少々不安だった。乗ってしまえば何でもないのだが、荷物検査やパスポート検査があり、検札時間が短いなど、西側と異なるシステムなので戸惑う。が、まあ周囲に紛れて乗り込んだ。観光客らしい外国人はまったく見かけない。

 列車の中では、駅で停車して新たな客が入ってくるごとに、「そこは私の席だ」「あんたが間違っている」といった混乱が起こる。西洋でもそのようなことが多いが、こちらは特別。10分くらいごたごたしている。チケットをきちんと見れば間違いようがないと思うのだが。

 携帯で大声で話す人、音を外に流しながらスマホでドラマを見たり、音楽を聴いたりしている人が何人かいる。もちろん大声でしゃべっている人も多い。中国の列車は実に賑やか。

 周囲の誰も私が日本人だと思っていなかったようだ。日本人観光客が一人で列車に乗っていると誰も思っていないのかもしれないし、私の服装が中国になじんでいるのかもしれない。

 外の風景は、都市に入るごとに高層マンションが立ち並び、再び田んぼや畑や草原が続くといったところ。魚の養殖をしているらしい場所も工場地帯も通った。途中で雨模様になった。

 2時間弱で大連に到着。前もって言われていた通り、南口に向かって大連の世話をしてくれる新しいガイドさんと会った。少々訛りはあるが、50代の明るくてとても感じのいいガイドさんだった。

 ガイドさんによれば、到着の15分前まで短い時間ながら豪雨だったという。雨はやんでいた。そのガイドさんにはホテルまで連れて行ってもらうだけの取り決めになっていたが、車の中で交渉して、旅順まで行ってもらうことにした。私はホテル到着後、独力で旅順に行こうと思っていたが、なかなかそれは難しいとのこと。正規の料金を支払ってガイドさんに連れて行ってもらうことにした。

 大連はこれまで訪れた中国の町と少し雰囲気が違っていた。ガイドさんに「ロシア」という言葉を言われて、そういえば少しロシア風だと気づいた。明らかにロシア風の建物もある。

 車で1時間ほど、真新しい海の中の道路やきれいな国道を通って旅順に行った。朝夕は大渋滞になるというが、その時間帯はすいすいと進んだ。周囲には高層マンションが立ち並ぶ新興住宅街になっている。若い人は大連に住み、高齢者が安いマンションを求めて旅順方向に住むという。

ガイドを受けながら、東鶏冠山北堡塁で日露戦争のロシアの塹壕、日本軍の攻撃の跡をみた。

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その後、白玉山塔に行った。ここで亡くなった日本兵の霊を祀る塔がある。旅順港を一望できるとのことだったが、雨上がりのため霧がかかっていて、まったく見えない。そのため、旅順港まで行ってもらった。きれいな静かな港。今も軍港として使われている。なるほど不凍港というのも納得できる。

 ロシア式建物の旅順駅を見て、203高地に行った。途中までカートで行き、そこからは徒歩で歩いた。運動不足の身には少々つらかった。頂上で慰霊碑をみて下山。安重根が死刑になった刑務所の前を通って、旅順博物館で大谷コレクション(中央アジアの収集品)を見て、大連に戻った。


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 私は戦争マニアでもないし、司馬遼太郎ファンでもない。日本の近現代史も実はあまり得意ではない。が、子どものころからそれなりに日露戦争の話は聞いてきたし、映画を見たり本を読んだりしてきた。とりわけ203高地は感慨深い。

 ホテルは大連の中心街にある中山大飯店。到着したのは夕方だった。昼食抜きでの旅順観光だったので、すぐにホテル前に飲食店街で鮮魚料理を食べた。高そうなものを指さして、料理法を適当に指示したら、実に大量に出てきて、しかも300元を超える高額だった! 日本円にしたら5000円を超すので、ものすごい豪華料理だったのだろう。もしかしたら、少しボラれたのかもしれない。半分も食べきれなかったが、味はまずまず。まあ、良しとしよう。

 その後、大連駅まで歩いてみた。勝利広場を歩き、地下街を回った。鮮やかな色の店が並び、超現代的な高層ビルには電飾がなされ、上海や広州でも見かけたまさに中国的光景! 大変ににぎやかだが、それでも上海や広州よりも落ち着いている。

 203高地に登って足が疲れたので、20時ころにはホテルに戻って、早めに眠りについた。

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 朝、7時ころから朝の散策に出かけた。歩いて中山広場まで行った。通勤中の男女が歩いていた。広場では何人かが踊りの練習をしていた。

 瀋陽でも大連でも感じるのだが、横断歩道が少ない。広場が真ん中にあり、その周囲の道がロータリーになっている。広場につながる横断歩道がほとんどない。いや、ところどころにあるが、まったく機能していない。車がスピードを緩めることなく、横断歩道を無視して走る。腹を決めて、車を止めさせる覚悟で道を歩くしかない。だから、真ん中に広場があっても、簡単にはそこにたどり着けない。

 大連の中山広場には地下鉄の駅を通って地下からたどり着けたが、なかなか大変。足の弱い老人には困難な状況になっている。

 中山広場とホテル近くの広場の間には地下鉄が通っているのに気付いて、帰りは地下鉄を使うことにした。ところが、切符を買おうとすると、朝であるせいか、職員がいない。荷物検査を受けて自動販売機で切符を買おうとしたが、使い方がわからなかった。困って、荷物検査をしていた女性(警察官?)に英語で尋ねたら、日本語で「日本人?」と問われ、「そうです」と答えると、しっかりした日本語で教えてくれた! ありがたい!

 無事、ホテルについて、朝食。荷物の整理をしてガイドさんを待ち、車で旧日本人街などを案内してくれながら、空港へ。

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パキスタン旅行中に思ったこと

 4日間だけだったが、パキスタンを旅行して気づいたこと、思ったことを箇条書きにする。

 

・夏にパキスタンを旅行するべきではないというのが、今回の私の第一の教訓だ。夏のパキスタンは日本よりも10度高いと考えてよい。最高気温が45度くらい、ちょっと暑い日で40度前後。湿気については、日本よりもやや低いと思うが、乾燥しているわけではない。十分に蒸し暑い。暑さに慣れた現地の人はともかく、日本人は40度前後の中では観光は難しい。しかも、博物館などの施設に基本的に冷房はない。レストランも高級店以外では冷房はない。こう暑いと一人でぶらぶら歩こうという気にもならず、もっと見たいという思いもなくなってしまう。とはいえ、軽率にも6月にパキスタンに行ったからには、暑い中でのパキスタン旅行というよい経験をしたと考えるべきだろう。

 

・パキスタンは典型的な途上国だった。一般労働者の年収は5万円ほどだという。資料で見たら、ミャンマーよりは一人当たりGDPは高いが、印象としてはパキスタンのほうが貧しい。ミャンマーよりも格差が大きくて、貧しい人が多いせいだろう。

 

・パキスタン料理はとてもおいしかった。ただ、どれもスパイスがきいているので、胃の調子が悪い時には困った。現地の人は、そもそもスパイスのきいた料理に、テーブルに出された様々な薬味を混ぜて食べる! しかも大量に食べる! そして、パキスタン人はコーラが大好きだ。あちこちにコーラの看板があり、実際に飲んでいる。そのせいか、貧しい社会であるはずなのに、太めの人が多い。

 

・穏やかで優しそうな人が多い。もちろん、狂信的な人、険しい目つきの人は見かけない。人懐っこくて気のいい人たち。外国人には特に親切だ。もちろん、ほんの一部の人にしかあっていないし、あったほとんどは観光関係の人なのだが、それでも人柄の良さが伝わる。友人同士、とても和気あいあいと笑い合って話している。兵士があちこちにいてものものしいが、それはテロ対策であって、社会そのものはきわめて穏やかだと思った。

 

・イスラム教徒は誰もが時間通りにお祈りをしているのかと思ったら、そうでもない。少なくとも、ガイドさんと運転手さんは、行動をともにした10時間くらいのうち一度もお祈りをしていない。時々、コーランの声が拡声器で聞こえるが、こぞってお祈りしているようには見えない。そんな信仰心の強い国ではなさそうだ。

 

1947年のパキスタン建国の際の民族移動についてガイドさんが話してくれた時、私はふと思い出して、かつて読んだサルマン・ルシュディの小説「真夜中の子どもたち」について話した。ガイドさんは、私が日本語の発音で「ルシュディ」といってもピンとこないようだったので、例のホメイニ師に死刑宣告された「悪魔の詩」の作者だと説明したら、すぐに理解した。そして、突然声を荒げて、「その人はイスラム教徒の敵です。私たちはその作家が嫌いです」といった。

 

・車はほぼ100パーセント日本車といえるだろう。ドイツ車をほとんど見かけないので、日本よりもよほど日本車率が高いのではないか。トヨタとホンダが多い。プリウス、アクアくらいの価格の車が多く、いわゆる高級車は少ない。中古車っぽいもの、廃車寸前と思われるものも走っているが、真新しい車も多い。そのほかはスズキ。これらの工場がパキスタン内にあるらしい。スズキは別枠とみなされている。駐車場に「CAR」と「SUZUKI」の料金が違っていた。どうやら「SUZUKI」というのは「軽」のことらしい。

 

・バイクは8万ルピー(1ルピーはほぼ1円と考えてよさそう)くらいだという。一般労働者の年収が5万円くらいだというから、年収を超す。その割にはたくさんのバイクが走っている。ホンダのものが目立つ。中国製も多いようだ。バイクは大事な財産なのだろう。バイクを買えない家庭が圧倒的に多いということでもある。だから、一台購入すると、二人、三人、四人、五人で乗ろうとするのだろう。

 

・バイクを運転しているのは男性に限られる。4日間パキスタンで過ごして、女性がバイクを運転しているのをたったの一人もみなかった。男性同士で乗っているのが最も多い。ただ、女性の免許取得が禁止されているわけではないという。男女仲良くバイクに乗っている光景は見かけない。

 

・そもそもカップルを見かけない。同年輩の男女で歩いている様子を見ることがほとんどない。夫婦でも一緒に歩くことはあまりないのではないか。夫婦がいると子どももいる。男女でも親子らしいことが多い。私が手をつないで歩くカップルを見たのは2度だけだ。ロータス・フォートの人けないところと、ラホール・フォートの階段のところで、手をつなぐ男女に出会った。きっと観光地でのデートだったのだろう。

 

・どこに行っても、目に入るのは男ばかり。繁華街を歩いても、8割は男性。女性を見かけるとすると、家族連れの場合が多い。女性は家にいるのだろう。そして、女性のほとんどがブルカを着てスカーフをかぶっている。目だけ出して真っ黒のブルカを着ている女性もいるが、それよりは顔はすっぽり出した赤やピンクの柄物の女性が多い。

 

・娯楽がないようだ。映画館もほとんど見かけない。ゲームセンターもない。公園や小さな遊園地で子供や若者が遊んでいる。ガイドさんに、「遊ぶところはないんですか」と尋ねたら、「たくさんありますよ。公園とか動物園とか」と答えられた。私が子どもだった1950年代、60年代と同じような状況のようだ。このようだから、国境セレモニーに大勢押し掛けて楽しむのだろう。

 

・親族で一緒に行動することが多いという。リキシャにたくさんの客が乗っているのは、家族でどこかに行こうとすると、兄弟の家族などを誘って一緒に出かけるかららしい。公園などでも10人前後の集団を何組も見たが、どうやら親族が一緒にやってきて遊んでいるようだ。大家族で行動し、交通費を節約しながら交流を楽しむのだろう。

 

・やたらじろじろ見られる。「写真を撮らせてくれ」「一緒に写真を撮らせてくれ」といってくる人が何人もいる。どうも東アジアの人間が珍しいらしい。そして、どうも私は中国人と思われているらしい。しばしばにこやかに「ニイハオ」と声を掛けられる。親しみを覚えてもらえているようだ。まるでスターになった気分。東アジア人を見ると中国人と思うらしい。中国との関係がよいせいだろう。それで、珍しくて声をかけてくるのだろう。なお、ガイドさんが横にいて、そのような申し出をすべて断ってくれた。承知するときりがなくなってしまうとことだった。若い女性二人に写真を一緒にとってもいいかときかれたので、そのときだけ鼻の下を伸ばして応じた。

 

・どこに行ってもあれほどたくさん見かける中国人観光客をパキスタンではまったくといっていいほど見かけない。観光地にもホテルにも中国人の影がない。空港に行って、数人見た程度。日本人観光客もたった一人に会っただけ。同じホテルにいた高齢男性(私よりもほんの少し年上だろう)だった。パキスタンはまだ観光の受け入れが十分に整っていないということだろう。また、さすがに夏に来る客は少ないということだろう。

 

・バスをほとんど見かけない。長距離バスはあるようだが、市内バスは数台しか見なかった。乗り合いタクシーが済ませているらしい。乗り合いタクシーが安いということもあるのだろう。なお、窓を開けて走る長距離バスを何台か見かけた。39度ある中で窓を開けて走るということは、冷房が効いていないということだろう。この暑さの中を長距離乗るのは過酷だろうと思う。観光バスらしいものもほとんど見なかった。

 

・観光についての設備が整っていない様子なのに、意外にアルファベットの表示が多い。店にもアルファベットが多く出されている。だから、ハングルのあふれる韓国などよりもよほど日本人にも街並みは動きやすい。

 

・道端にごみが散らかっている。私はミャンマーに行ったとき、都会から田舎に行っても道の両側に買い物袋、包装紙、ビニールなどなど大量に散乱し、土に半ば埋まっているのを見てあきれたのだが、パキスタンでも同じような傾向がある。ミャンマーほどではないが、かなりごみが続く。ところどころ、ごみ山のようになっているところもある。

 

・物乞いがかなりいる。有料道路の料金所の前後に障害のある人や女性がいて、手を差し出す。時々、恵んでいる人がいる。確かにこの世界では障害があると生活が大変だろう。女性は五体満足に見えるが、未亡人になって身寄りがないと暮らしていけないのだろう。

 

・レストランのトイレに行き、個室で用を足そうと思ったら、大量のハエがいた。一つの個室内に少なくとも50匹はいたのではないか! もしかしたら、100匹くらいいたのかもしれない。現実とは思えないハエの数だった。恐れをなして、用を足すのをあきらめた。ガイドさんが案内したレストランというのは、おそらく中級以上の店なのだろうから、そこでもこのような状態では、もっと大衆的な店のトイレがどのような状態が想像がつく。ただ、すべてのトイレがこれほど汚かったわけではない。同じくらいハエの多いところを一箇所見たが、清潔なところもいくつもあった。ホテルなどは清潔だった。

 

・途上国では、野良犬をたくさん見かけるが、パキスタンでは犬が少ない。野良犬をほとんど見かけない。ペットとしての犬も見かけない。ブータンやスリランカでは一日車で走っていたら、それこそ100匹近い野良犬を見かけるのではないかと思うほどだが、パキスタンでは4日間で10匹も見ていない。

 

・まとめとして、パキスタンととても貧しくて、立ち遅れた国だった。そして、やはり女性差別が前提となった社会だった。だが、平和で穏やかな、遺跡に恵まれた国だった。そして、とてつもなく暑い国だった!

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過酷な夏のパキスタン旅行

 2018年6月20日から25日まで(ただし、20日の夜にイスラマバードに到着し、24日の深夜にラホールの空港を出発した)、パキスタン旅行をした。

今となっては、なぜ6月にパキスタンに行こうと思ったのか忘れてしまった。今年の初め、仕事が空いた時期に海外に出かけたいと思い、いくつかの旅行を手配した。その一つがパキスタンだった。旅行会社の広告を見るうち、最低催行人数1名のハラッパなどの遺跡見物のツアーを見つけて申し込んだのだった。

 ただ、結論から言うと、この時期にパキスタンに行ったのは、私の思慮不足だった! 6月はもっとも暑い時期だった。毎日、気温40度近くあった。最終日は、41度を経験した。こんな暑い時期にパキスタンに行くと観光どころではない。無知というべきか、私はパキスタンがこんなに暑いところだとは知らず、しかも、6月がもっとも暑い時期だとは知らなかった。それに、少々暑くても、冷房の効いたホテルやレストランや車に逃げ込めば、なんとかなると思っていた。が、パキスタンではそれが通用しなかった。

 ともあれ、外には発信できなかったが、早く目が覚めた時など、その日の出来事をパソコンに書いていた。日記風に旅行の印象を記すことにする。

 

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 イスラマバードに到着。

 到着したのが22時過ぎで、そのままガイドさんに連れられてホテルに来ただけだから、まだ街の様子はまったくわからない。かなり暑いが、覚悟していたほどではない。30度くらいだろう。先月だったが、パキスタンはどんな天候なのだろうかとふと思ってネットで調べてみたら、1週間ほど毎日が最高気温46度、最低気温32度前後になっていて恐れをなしたが、今はそのようなことはなさそう。この1週間では最高気温が40度程度の予報が何度かなされている。

 バンコクのイスラマバード行きの便に並んでいた時から、乗り込む人たちはバンコクの人々とまったく雰囲気が違っていた。顔つきが西洋風だし、服装もイスラム風。とはいえ、スカーフをしていない女性もいる。みんなゆったりしている。通路を歩くときも急ぐ様子がない。ほかのどの国でも、飛行機が着陸し、シートベルト着用のサインが消えると、少なくとも通路側の客はほぼ全員が立ち上がるものだが、立ち上がるのは少数派。

 もうひとつ、飛行機の中で思ったのは、子どもが多いこと! 子ども連れの客が多い。必然的に、あちこちで泣き声が上がる。音に少し神経質な私としてはつらいが、こちらの人は気にしている様子もない。きっとこれが日常なのだろう。そして、きっとこちらのほうが当たり前の社会なのだと思う。

 新しいきれいな空港。パスポートコントロールに並んだが、これも恐ろしく時間がかかる。日本以外のいろいろの国でそれを感じるが、ここは特別。ビザが必要で、検査が厳しいということなのだろうが、それにしても。何人か、パスポートの不備があるらしくて、別のところに連れられていかれたが、そんなこんなで一人につき、短くて2,3分、長いと5分以上かかる計算だった。外に出られたのは23時くらいになっていたかもしれない。

 空港の出口はほかの都市と大差がない。ガイドさんと会って、日本車でホテルへ。高速道路を通る。車のマナーは悪くない。そんなに急がないせいだろう。途上国でこれほど交通マナーがいい国は珍しい。銃を持った警官が空港や道路のあちこちで目に入る。

 30分ほどでホテル。あまりよいホテルではないのだが、入口に銃を持った軍人がいて、荷物検査、身体検査を受けて中に入る。ホテルはそれなりの設備が整っているが、あまり清潔ではない。あちこちにごみがたまっている。これからの旅行が少し不安になってくる。

 そのまま就寝。

 

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 朝、5時ころに目が覚めた。ちょっと周囲を散歩することも考えたが、いちいち検査を受けて出入りするのも面倒くさい。

 ホテルで朝食をとった。バイキング式だが、日本や西洋のものと異なる。カレーが中心で、フレンチトーストやら、穀物を固めたものやらがある。カレーはおいしいが、67歳の人間には、朝からカレーはつらい! ハム、ソーセージ、サラダ、パン、ジャムなどはない。コーヒーはインスタントのみ。久しぶりにインスタントコーヒーを飲んだが、意外においしかった。

 9時にロビーで待ち合わせて、ガイドさん(50代男性)と運転手さん(50代後半の男性)に連れられて、イスラマバード観光に向かった。ツアー客は私一人。このところの私の代理店を使ってのツアー旅行はこのタイプだ。

 暑さに備えて、生まれた初めて日焼け止めクリームを塗り、サングラスをかけ、帽子をかぶって出かけた。

イスラマバードの人口は70~80万人程度だが、近郊を加えると数百万になるという。1960年代に、カラチに代わって首都に指定し、人工的に発達してきた都市だ。

 最初に訪れたのはシャー・ファイサル・モスク。現代的なデザインの真っ白な大きなモスクで、10万人が礼拝できるという。作られてまがないが、イスラマバードの人の信仰の中心になっている。

Jpg  私が訪れたのは9時過ぎであって、朝の礼拝が終わって静まった後だった。すでに33度か34度はあろうという暑さ。はだしになってモスク内に入ったが、ところどころ足の裏が焼けそうなところがある! 手すりの鉄は熱くて触れない! 礼拝所なのに、ごみがあちこちに落ちており、汚れが目立つ。モスクの外にはお菓子の袋や食べ終えて捨てたトウモロコシなどがあった。礼拝所に入ると、さすがに大きなごみはないし、暑さからは解放されたが、それでも床には細かいものが落ちているし、砂のようなものでざらついている。礼拝を終えた人や観光にやってきた人が、そのあたりに寝転んだり、話し込んだりしている。そこには、1000人以上が礼拝できる女性専用の部屋があるとのことで、女性もちらほら見かけた。男性はふつうに1万人以上が入ることを想定しているらしいので、基本的に礼拝所は男性のもののようだ。

 見物を終えてダマネコー展望台に行った。子どもの遊園地にもなっている。子ども連れもいたが、一番多いのは男性数人のグループで、女性数人のグループも時々いた。男女のカップルはまったく見かけない。そういう社会のようだ。ガイドさんに聞くと、「いえ、よく男女で出かけますよ」というのだが、一日あちこちを歩いて、気づいた限りでは一組も見かけなかった。

 35度前後だが、高台には風があって心地よかった。イスラマバードの町は、緑が多く道路も広く、住み心地がよさそう(暑さを除けば!)。

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 その後、タキシラに向かった。途中、テレビや映画などで見たことのある派手な彩色のなされたトラックをたくさん見かけた。中国、インドの間を行きかっているらしい。重い荷物を載せているらしくて、のろのろと走るトラックも多い。そもそも、インド製のあまり性能のよくないトラックなのかもしれない。馬やロバが荷車を弾いているのもしばしば見かける。ここでは、動物が現役で働いている。草むらには牛や羊もいる。

 タキシラは郊外にある遺跡のある町だ。紀元前から紀元後にかけての仏教遺跡が見られる。初めにタキシラ博物館で全体像を見てから、世界遺産になっているジョーリヤーン遺跡とシルカップ遺跡を歩いた。

ジョーリヤーン遺跡は小高い山の上にあり、階段がついている。その時、スマホで見ると気温は37度。ものすごい日差し。石の照り返しもすさまじい。もちろんこれまで経験したことのない暑さというわけではないが、私は元来、怠惰で根性なしなので、こんな暑さの中で何かの活動をしたことはない。が、ここまで来て上まで行かないわけにはいかない。

 上に登るまでに二度ほど休憩した。熱中症寸前だという気がした。頭がふらふらしてきた。私だけでなく、私よりも若く、しかも職業上、このような運動に離れているはずのガイドさん(ちょっと腹は出ている!)も、私以上にハーハーヒーヒ―いいながら自分から「ちょっと休みましょうよ」と言い出した。時間は計らなかったが、かなりの時間をかけて遺跡まで登った。紀元2世紀にたてられたストゥーパの後と僧院の跡がある。あちこちに土の仏像が残されているが、首が取れているものも多い。石だけになり風雨にさらされているが、そこで暮らした信仰心あつい人の思いはわからないでもない。ここは撮影禁止のため、写真を撮れなかった。

 ただ、それにしても暑い。ガイドさんの説明も少々投げやり、聞くほうも投げやり。汗が吹き出してどうにもならない。客は私たち以外に誰もない。丘の下の川で子どもたちが水浴びをする声だけが聞こえている。

 その後、車でシルカップ遺跡に移動。紀元前2世紀の都市の遺跡で、広い土地に屋敷や家の土台などが残されている。入って左側に店の跡が並び、右側に一般住居の跡が残っているという。ところどころにストゥーパ跡があり、寺院跡がある。2~300メートルの距離だと思うのだが、ところどころ遺跡をのぞきながら、メインの通りを行って帰ってくるだけで疲労した。ここにも客は私たち以外にいなかった。係の人が数人とお土産物売りが一人いただけ。鳥が数匹、鳴き声を立てて、舞っていた。

Photo_2  その後、イスラマバードの隣の市に当たるラーワルピンディに行き、マーケットを見物し、私の欲しいもの(アルコール、民族音楽のCD)を探した。口に出しては言えないことかもしれないが、アルコールは何とか手に入れた。この国でアルコールを入手するのはなかなか難しいようだ。私は寝酒がないとどうしても眠れず、酒好きというよりは、眠るための必需品としてアルコールを求めたのだった。

 ラーワルピンディの繁華街にもいった。小さな商店が立ち並び、人でごった返している。秋葉原のような電化製品を売る店が並ぶところもあり、洋品店が並ぶところもある。露店のような店も多い。そこにたくさんの車やバイクが駐車され、その横を人が歩く。道路を横切ろうにも横断歩道がないので、行きかう車の隙間を縫って向こう側にわたる。

Photo_3  繁華街を歩いて気付いたことがある。女性用の洋品店がいくつもある。ところが、売り子は100パーセント男性、客も男性の方が多い。そもそも女性をあまり見かけない。食料品店が集まっている区画になって女性を多く見るようになった。

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 その後、ツアーのプログラムに含まれているパキスタンの一般家庭に招かれての食事をごちそうになった。一般家庭といっても大豪邸だった。とても上品な家庭に招かれ、上品な食事をごちそうになった(プライバシーにかかわるので詳しくは書かない)。とてもおいしかったし、感じよく対応してくれたが、果たしてこれが一般家庭といえるかどうか。

 ここでも、食事を作ってくれるのは奥様らしいが、私に対応してくれたのはその家の二人の息子さんだった。奥様やお嬢さんは顔を出さなかった。そういう社会なのだろう。

 その後、同じイスラマバード市内のホテルに戻って寝た。

 

2018年6月22日

8時にロビーでガイドさんと待ち合わせして、すぐに車でラホールに向かった。幹線道路を進む。

バイクがたくさん通っている。2人乗り、3人乗りは当たり前。4人乗っているバイクも多い。ときどき、5人が乗っていることもある。小さい子どもが抱かれていることも多い。ほかの東南アジアでもかつて見かけた光景だが、それにしても、これほどたくさんの3人乗り、4人乗りを見かけるのは初めてだ。運転しているのは男性。女性は一人もみなかった。男同士か家族(つまり、夫婦と子ども)が多い。

Photo_5 もう一つ気づいたことがある。幹線道路が日本の鉄道のように街を寸断しているようだ。幹線道路に基本的に交差点はない。したがって、信号もない。道路の中心には中央分離帯があるが、ところどころにUターンのために分離帯の途切れた個所があり、そこでUターンして戻る仕組みになっている。しかも中央分離帯が途切れるのはごくまれであって、ほとんどずっと分離帯があり、そこは1メートルほどのコンクリートの壁になっている。人々はその1メートル程度のコンクリートの塀を乗り越えて道路を渡っている(おそらく法律違反なのだろう)。ときには、おそらく後になって住民が無理やりハンマーを使ってコンクリートを壊して、通り抜けられるようにしたらしいところもある。かなり非人間的な道路だと思った。

ともあれ、そのような道路を通って、時速80キロから100キロくらい出しながら、ロータス・フォートに行った。16世紀にできた要塞だ。城壁が残されている。フランスのカルカッソンヌを思い出すような城壁。観光客はほとんどいない。そのせいか、入り口でパスポート検査を受けただけならともかく、その後、銃を持った兵士が私とガイドにずっとついてきた。ガイドさんに私が質問すると答えられずに、ガイドさんがその兵士に尋ねたら答えてくれた。そのあと、その兵士がガイド役をしてくれた。1時間ほど、城壁内を歩いた。

Photo_6 その後、車でラホール方向に向かった。

ラホールはカラチに次ぐパキスタン第二の都市で、人口は1000万程度とのこと。

ラホールに入った途端に車が増え、バイクもますます増える。ほとんど道をぎっしりと車やバイクが埋めることになる。乱暴な運転も増える。無理な割込み、ぎりぎりの場所でのすり抜けなど、数限りなく見かける。

リキシャ(バイクにリヤカーのようなものをつけたタクシー)やクンキー(リキシャのようなもの。ただ、中国製のバイクを使ったものを特にこう呼ぶらしい)が行きかっている。どれも一様に薄汚く、ぼろぼろのほろがついている。一人か二人で乗っている客は少ない。子どもを抱いて、6人か7人、場合によってはそれ以上の人がぎっしり乗っている。バイクの後ろに小さな子供を抱いて乗っている女性も多い。ちょっと急ブレーキがかかったら、子どもを落とすのではないかと心配になってくる。

道の両側には、店が並んでいるが、おしゃれな店はほとんどない。よくて、薄汚いレンガ造りの1階建てが2階建ての小さな家に店を開いて、そこに食料品やバイク用品などが並んでいる。ひどいところになると、店の前に水たまりがあったり、ごみためのようなものがあったりして、日本人にはボロ家としか見えないような建物が立っているような店だ。

Photo_7 ホテルに入る前に、インドとの国境であるワガでパキスタンとインドの両方の国旗降納式を見に行った。国旗を降ろすセレモニーだというので、ロンドンのバッキンガム宮殿のような儀式だろうと思っていったら大違い。

到着したのは16時少し前。開始が17時と聞いていたので、ゆっくりと会場に向かった。気温は39度。曇り空。曇っていてこの気温なのだから、快晴だったらどんな恐ろしいことになるんだろう!

大勢の人がやってきていた。厳重な荷物検査(3か所で機械を通され、パスポートもチェックされた)を受けて、10分ほど歩いて国境に行くと、まるでスタジアムのようになっていた。1万人かそれ以上収容できるようなスタンドがあり、そこに人が埋まっている。

すでに数千人の客がサッカー場のような椅子に座っていた。ここでも女性だけで来た客のために女性専用のコーナーがある。続々と客がやってくる。その間、大音響でノリのよい音楽がかかっていた。

私がガイドさんとともに席についてすぐ、中心部分でアイドルっぽい男の子があらわれて踊り始めた。姿かたちはよいが、踊りは見ていられないレベル。すぐに片足の不自由な男性が踊りはじめた。こちらの男性は驚くべき身体能力を見せて、くるくる回ったり飛びはねたりしている。観客は大拍手。

その間、多くの観客が儀式用の制服を着た兵士と並んで写真を撮ってもらっているひともいる。記念撮影をする人々も多い。客の多くが子供連れで、まさに子供連れでサッカー観戦に訪れている雰囲気。物売りもやってくる。お菓子や水類が売られている。

大音響の曲によっては一万人を超す観客が強く反応する。大声を出す人がいる。一度はみんなが立ち上がって歌い出した。パキスタン国歌だとのこと。アイドルっぽい少年や初老の男性が観客席に向かってあおって、拍手を促すなどの指示をする。まるでサッカー応援の雰囲気。音楽が途切れている時には、「パキスタン万歳」などの叫び声が上がる。

17時開始と聞かされていたのに、セレモニーが始まったのは18時だった。つまり、2時間、39度の気温の中で音の割れた音楽と下手な踊り(2時間近く、この暑さの中で踊るのは恐るべきことだと思うが)と観客の叫びの中で過ごした。私としては少々閉口した。ただ、面白いのは、国境に向こう側のインド領でもそっくり同じようになされているらしいことだ。やはり大勢の人が集まり、音楽をかけ、中心部分で人が踊り、それをリードしている人物がいる。

セレモニーは次々と儀式用の軍服を着た兵士が行進するだけ。背の高い兵士たちが頭の上に扇子のような飾りをつけているので一層長身に見える。その兵士たちが足を自分の身長ほどの高さに挙げて歩く。背が高くて足が高く上がる兵士がここではスターだ。兵士が現れるごとに大喝采が起こる。私には何が面白いのかさっぱりわからないのだが。国境の向こうでかろうじて見えるインドの側でも、服装は違うものの、そっくり同じようにしている。同じような扮装、同じような歩き方。

次々と兵士が現れ、国境の門が開き、それぞれの旗がおろされた。その間、太鼓が鳴り、門の上で兵士がマイクで大声で何かをしゃべる、シュプレヒコールのようなものだ。そして、大声でワーという声を長く続けた。何事かと思っていたら、パキスタンとインドでどれほど声が長く続くかを競い合っているらしい。それを何度も繰り返す。パキスタンの兵士のほうが声が長く続くようで、1回を除いてそれ以外はすべて(5、6回だったと思う)パキスタン側の価値だった。インドの兵士の声が途切れたとたんに観客席から大喝采が起こる。

Photo_8 要するに、パキスタンとインドがそれぞれ全く同じことをして競い合っているわけだ。セレモニーが一つの大イベントになり、スペクタクルになっている。

パキスタンとインドはカシミール地方の領有権などの問題で長く扮装を続けてきた。今も決して関係がよいわけではない。そんな中、このような同じルールに基づいて競い合っているのは、それはそれで平和なことで、好ましいことだと思う。それにしても、このようなイベントが毎日行われ、毎日大勢の客を集めていることに驚いてしまう。

セレモニーが終わって、ラホールのホテルに入った。またしても、銃を持った軍人が警備をする。車のボンネットとトランクも開けて調べられる。もちろん荷物検査と身体検査を受けて中に入る。部屋はとても快適。

 

 

2018年6月23日

 朝8時に出発して、ハラッパに向かった。ハラッパ、モヘンジョ・ダロという言葉は、昔々、高校生の頃、世界史で習ったが、どんな所かイメージできなかった。今回、モヘンジョ・ダロは遠いので行けないが、ハラッパには行ける。というか、ハラッパに行ってみたくて、パキスタン旅行を決めたのだった。

 車で3時間。私の乗る車の運転手さんは決して乱暴な運転ではないし、この国の車がひどい運転をするわけではないのだが、日本人からすると、やはりあまりに無謀な運転。時速100キロくらいで走っている時も、前の車の1、2メートルのところまで近づいて、その車が別車線に移動するように仕向ける。先頭の車がなかなかどかないと、そのようにして何台もの車が縦列駐車のようにして時速80キロから100キロくらいで走っていたりする。そうやって、自動車専用道路やら一般道(ほとんど信号はないので、一般道でも100キロくらい出せる)やらを進んだ。

 途中、ハプニングがあった。ヤギが道路に出てきたために前の車が急停車した。私の乗る車もすぐに急ブレーキをかけ、左のハンドルを切った。ところが、目の前にヤギが現れ、ぶつかった。ただ、軽くぶつかっただけだったようで、車の損害はなく、ヤギも逃げ去っただけだったようだ。道路わきにはラクダや牛や羊やヤギがいて、時々道路上に出てくる。

 そうした運転上のスリルを別にすれば、木々が連なり、麦やトウモロコシの畑が続く平和な風景だ。朝方雨が降ったおかげで、午前中はそれほど熱くなかったが、天気は回復して、ハラッパに着いた時には37度になっていた(ちなみに、帰りに運転手さんの休憩のために寄った場所は、ネットで見ると39度とのことだった!)。

 ハラッパの博物館を見て、遺跡に向かった。紀元前3000年以前から成り立っていた都市遺跡で、1920年代から発掘されているとのこと。数か所にわたって、富裕層の住居跡、労働者の住居跡、倉庫跡などがあり、それらが当時のレンガ(復元のために新しいものも加えられているらしい)が見られる。ただ、赤茶けた土の上にレンガが並んでいるだけなので、専門家ではない人間には、これまで見たことのあるギリシャのミケーナイ遺跡などとどこが違うのかさっぱりわからない。まあ、ともあれ「見た!」ということで良しとしよう。

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Photo_10  なにしろ気温37度。立っているだけでもつらいのに、1時間近くかけて回ったので、汗だくで、大げさに言うと「ふらふら」の状態。車に乗って冷房をガンガンにかけてもらって、しばらくしてやっと回復した。

 その後、途中で現代的な建物のレストランで食事。パキスタン料理はなかなかおいしい。が、気温37度の炎天下、1時間ほど歩いて、へとへとになり、頭がくらくらし、胃もむかむかしていた直後に食欲が出ようはずがない。しかも、実は私は21日の夜から胃をこわしていた。夜中に嘔吐した。それ以来、刺激の強い食事は避けようとしてきた。が、パキスタンに胃にやさしい料理はないようだ。

ガイドさんにお願いして、刺激の少ないものにしてもらうが、食べてみると、辛くて油濃くて胃に負担が大きそう。22日の昼には、メニュに「チャイニーズ」の料理もあると記されていたので、中華麺なら胃にもたれないだろうと思って「ヌードル」を頼んだたら、運ばれてきたのは焼きそばで、しかもパキスタン味だった! 今回も半ばあきらめ気味に、「魚」と頼んだら、出てきたのは、これまたカレー味の魚フライだった。食べてみたら大変おいしかったし、食べるうちに食欲がいくらか回復しているのを感じたが、それにしても、こんなに暑い時には日本人なら、そうめんかざるそばにしたいと思うところなのだが、なぜこちらの人はこんなものばかり食べるのか。パキスタンにだって胃の弱い人がいるだろうに!と思ったのだった。

 ともあれ、夕方、無事にラホールのホテルに到着。一休みして、今度はガイドさんに連れられて、ラクシュミ・チョークという繁華街に夕食に行った。多くの人でごった返し、料理店が立ち並ぶ界隈。たくさんの人が車やバイクでやってきて、狭いところに無理やり駐車して大混乱しているが、こちらの人にとっては当たり前の光景のようだ。「胃は回復した」とガイドさんに言ったせいではあるのだが、これまた刺激の強いマトンとチキン。とてもおいしかったのだが、私はガイドさんと運転手さんの三分の一も食べられなかった。ラホールの同じホテルに宿泊。

 

 

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 朝から暑い。それまでの2日間は、朝方は曇り空だったり、雨だったりで、朝の9時には30度を少し超えたくらいだったが、今日は快晴で、9時にホテルを出る時にはすでに36度。そのままラホール市内のラホール・フォートに向かった。まずはフォートの横にあるバードシャーヒー・モスクに行った。ムガール時代のモスクで、赤い石でできているが、形はインドにあるタージマハールにちょっとだけ似ている。日曜日なので各地からの観光客が来ていた。裸足で歩く。太陽に照り付けられた石が焼けているために人の通る道に絨毯が敷かれていたが、そのうえでもかなり足が暑い。絨毯の途切れるところは仕方なしに石を上を歩いたが、やけどしそう。

Photo_11  その後、すぐ近くにあるラホール・フォートをみた。ムガール帝国の歴代の皇帝が築いてきた城跡で、石の下の部分は紀元前のものもあるという。噴水の庭園や鏡の間、皇帝の謁見室などを見て歩いた。が、このとき、すでに38度、39度。歩いていられない。汗が吹き出し、頭がくらくらする。とても良い光景なのだが、味わう余裕がない。

 ガイドさんが入場料を払おうとしている時、料金表を見てびっくり。一般の市民は20ルピー、子どもや高齢者は無料。外国人は500ルピー! なんという差だ! 「不当だ!」と言いたくなるが、市民に安く提供しているのはよいことだと思うことにしよう。

 その後、ラホール博物館を見物。パキスタンでいくつかの博物館を見たが、ここが最も充実している。ただ、どこもエアコンがない。外よりは暑くないのだと思うが、間違いなく室内の温度は35度以上ある! 有名な「断食するシッダールタ」の像があった。これはさすがに素晴らしい。まさしく別格。1階にヒンドゥー教、シーク教、イスラム教の様々な時代の美術品や器具があった。2階にはパキスタン国誕生後の歴史的な写真などが展示されていた。

 そのあと食事の時間になった。が、暑い中を後では、またしても食欲はなく、小さなバナナ3本でいいとガイドさんに行って、果物屋に連れて行ってもらって、チェックアウトを延長してもらっていたホテルに戻って一休みした。

 午後、また観光開始。

シャリマール庭園に行った。ムガール帝国最盛期の皇帝が保養地として作った庭園だという。ヴェルサイユ宮殿を思わせるような幾何学的な庭園で、とても美しい。ただ、気温はますます上がって、41度。しかも、日が照っているので、太陽に照らされているところは50度を超えているに違いない。歩いていられない。庭園を歩くようにガイドさんに促されたが、体力に自信がないので拒否。

 日曜日なので多くの客がいる。少し遠くから遊びに来ているのだという。ほとんどが子ども連れ。10人程度の集団が多い。親族や友達が家族でやってくるのだという。木陰にシートを敷いて、語り合ったり、笑いあったり、何かを食べたり。クリケットのバットとボールで遊んでいる子ども、駆け回っている子どももいる。よくもまあ、この暑い中に遊びに来ようとする家族がいて、この炎天下で駆け回る子どもがいるものだと、日本人としては感心するやあきれるやら。

 その後、アナルカリ・バザールにいった。多くの人でごったがえしている。アメ横の雰囲気。衣服、靴、革製品などの店が立ち並び、狭い道をバイクが行きかい、人が歩いている。ただ、私は食料品店の並ぶところは通らなかった。たまたまその区画を歩かなかっただけかもしれない。あるいはこのバザールでは食料品は扱っていないのか。夕方近くになっていたが、まだ39度くらいあるので、「もっと見たい」とガイドさんに注文する気になれない。むしろ、「早く冷房の効いた車に戻ろうよ」と言いたい気持ちをぐっと抑えている。

 その後、ガイドさんにお願いして、冷房の効いた車の中で、サンドイッチやチキン(タンドリーチキン風のものだったが、もっときついカレー味だった)、春巻き風のもの(中華風を期待したのだったが、これも中はかなりスパイシーだった)を食べて、空港に向かった。

 空港に行くのは早すぎるので、もっとどこかに行こうかとガイドさんは言ってくれたが、さすがに空港は冷房が効いていると思うので、そこで出発までぼんやりと過ごすほうがいいと思ったのだった。すくなくとも、そのほうが健康を害せずに済む。

 こうして、空港に行き、これまで経験のないほどの厳しいチェックを受けて空港に入り、飛行機に乗り、バンコクを経由し、成田へと帰ったのだった。

 

 明日、今回の旅行で気づいたことを箇条書きふうに記すことにする。

 

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桂林旅行中に考えたこと

 今回は、桂林の言葉をなくすような絶景を嘆賞し、世界有数の観光地を回っただけなので、中国について、その社会についてあまり見たり考えたりしなかった。ありふれたことしか考えなかったが、ともあれ、桂林旅行中に考えたことのいくつかを書く。

 

騒音社会・中国

 日本社会の音に対する鈍感さについては中島義道氏がしばしば書いている。私も全面的に賛成する。私も、日本の街の雑踏の騒音、不必要な音楽、不必要なアナウンスに辟易する。映画館やパチンコ屋の前や渋谷などの繁華街の大音響に悩まされている。そのため、カバンの中に耳栓を持ち歩いている。

 が、中国の騒音たるや、日本の比ではないと今回強く思った。もちろんずっと前から中国人同士の会話の声が凄まじく大きいことはよく知っている。知り合いの日本在住の中国人夫婦は、中国語で話すと疲れるので家庭では日本語を使っていると聞いたことがある。中国語で話をするのにエネルギーを要することは、中国人自身が気づいていることのようだ。同じレストラン、同じ船に中国人の集団がいると、日本人同士の会話が聞こえなくなるほど騒音がひどくなる。

 そして、今回、大音量の音楽、大音量のアナウンスを何度か経験した。観光船の中と雑技団公演の際、司会者が大音量のスピーカーを通して、元気いっぱいの声でしゃべりまくっていた。よどみなく、ジェスチャーを交え、息つく暇もないほどに語っていた。そして、雑技団公演では、そのあと大音量の音楽が続いた。大瀑布ホテルの屋上から大量の水が流れ落ちる時にも大音響の音楽。

 中国の人は日本人以上に騒音に無神経だと思う。彼らの喋り自体が大きいために、大音響に慣れっこになっているのが、その大きな原因なのかもしれない。そして、音に関してあまり敏感ではないので、スピーカーの音が割れていても、それほど気にならないのだと思う。

 

「大きいことはいいことだ」主義

 「大きいことはいいことだ」主義を感じた。大規模な資本を集中的に投入して、巨大なものを作る国家資本主義。あらゆるものを大規模化し、大勢の人を呼び、それが好ましいこと、正しいことになっていく。それが都市の形にも表れている。大音響にするのも、その表れだろう。きっと大音響にすることは、彼らにとって良い音楽にすることなのだと思う。必要以上の大きな音にして、大勢の人間を集め、良い音楽、みんなで楽しめる音楽にしようとしているのだろう。

 

「なんでも商売」主義

 観光船に乗る。雑技団の公演を見る。美術館のようなところに行く。日中友好協会のようなところに行く。初めは案内がついて観光や芸術や日中友好の説明がなされる。私たち観光客は商売気のない公的な機関かと思って、話を聞いている。ところが、どこもすぐにそれが「商売」に移っていく。観光船で土産物や香水の販売が始まる。美術館だとばかり思って案内を聞いていると、工芸品やお酒やお茶の販売会になってしまう。

 もちろん、観光ツアーに参加しているからそのような仕組みになっているといえば、それまでだが、それがあまりに露骨だ。どこに国でもツアーに参加すると、確かに「工場見学」などと称して作業場を見学して、その後、その品物の販売会になることがよくある。それでツアーは成り立っている面がある。が、これまで私がツアーで訪れたところでは、それらはあまり公的な臭いのしない小さな「作業場」だった。が、中国では立派な建物を構え、それなりにきちんと公的な仕事もしているような組織がそうしたことをする。そのような「商売」が堂々と成り立っている。

 そのせいか、社会主義と拝金主義によって、現代中国人の芸術意識はかなり薄れているように思った。美術館らしい場所に飾られている絵画があまりにお粗末に見えた。私は美術についての鑑定眼はまったくないが、さすがにこれほど凡庸だと私にもわかる。これらは、日本人を中心とした観光客だけを相手にした建物なのかもしれないが、それにしても、このような「美術品」を飾るセンスに私は疑問を持つ。また、雑技団の演技にしても、それに盛大な拍手を送っている中国人がたくさんいることに驚いた。

 ただし、誤解しないでいただきたい。ここに書いたことは、中国批判に見えるかもしれないが、私は反中国ではない。むしろ、中国びいき。ここに書いたことこそが、中国の原動力であり、その強みだろうと思う。このように組織的に大量に大規模な事業をされると、小規模なところは勝てない。電気自動車の部門でも、AIの部門でも、近いうちに中国が世界をリードするようになるだろう。そして、そのうち、中国も成熟していくだろう。

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桂林旅行

 2018315日から18日まで、ツアーに参加して桂林旅行をした。桂林に1人で行くのはつらい。ツアーに参加するほうが確実だと思った。そこで、昨年、ツアーに申し込んでいたが、最低催行人数に達しなかった。今回は、二度目の申し込みで、めでたく行けた。14名のツアーで、私は一人参加。ただ、ツアーの場合、早朝にモーニングコールで起こされ、7時台や8時台、早い時には6時台に観光に出発する。そんなわけで、ブログの文章を書く時間がなかった。帰国後、落ち着いた今、簡単に記す。

 

1日目(3月15日)

 午前中に羽田を出発して、全日空便で広州に到着。広州は一昨年、当時の勤務先だった多摩大学と提携している広東財経大学での特別授業のために、1週間ほど滞在したので、なじみのある土地。空港からバスに乗って南駅に到着。そこから高速鉄道に乗って桂林に向かった。

 高速鉄道は日本の新幹線に似ている。乗り心地もいい。1時間ほどたって、賀州駅に到着したころから、周囲の景色が変わってくる。山がまさに水墨画のような形になる。切り立った山が連なっている。しかも、周囲の雰囲気が異なる。ここは中国の広西チワン族自治区。漢民族中心の社会ではない。外は暗い。列車から人家はあまり見えないし、人家が見えても、光がついていない。1時間40分ほどで桂林に到着。駅は薄暗かった。駅のエスカレーターが、私が乗ろうとする直前、故障して急停車。まだまだインフラは未整備のようだ。

 その後、レストランで食事をとった後、ホテルへ。なかなかの大都市。桂林市内に暮らすのは70万人程度、周辺を合わせると500万人程度だという。大観光地で、中国国内のほか、各地から観光客が押し寄せている。大型観光バスが連なっている。圧倒的に中国人観光客が多い。

私の部屋は西洋のホテル以上に暗い以外には特に問題はなかったが、ほかのメンバーの部屋ではブレーカーが落ちたりトイレの水が詰まったりといったアクシデントがあったらしい。

 

2日目(316日)

客船に乗って念願の漓江下り。

漓江は桂林を南北に流れる川幅50メートルから100メートルくらいの川だ。私たちの乗り込んだ船の客は私たち日本人の一団のほかはほとんどが中国人(北の方の人たちがかなりいるらしい)と西洋人が数人。全部で7080人ほどの乗客がいたと思う。同じような観光船が次々と川を下っていく。

船に乗ってすぐから、中国人男性が先頭に立ってマイクをもって大音量でしゃべり始めた。観光案内かと思ったら、土産物の売り込み。これが20分以上続いた。これまで日本の映画館やカイロのナイトクルーズなどで大音量に悩まされているので耳栓を持ち歩いている。すぐに耳栓をした。しばらくしてデッキに出た。

外はあまりの絶景。あいにくの曇天だと思ったが、これがなかなかよかった。雲が山の中腹にかかって、まさしく幻想的な風景。墨絵の世界が見渡す限り続いている。右も左も切り立ったいびつな形の山があり、それが折り重なっている。本の数か所が墨絵の世界というのではない。桂林全体、それどころか、広西チワン族自治区のかなりの部分がこのような土地なのだと思う。行けども行けども絶景。船で4時間くらい、川下りをするが、その間、目に見える風景はすべてが絶景。さすが、世界的な観光地だけのことはある。

見どころとされているところがあって、ガイドさんが何か所か説明してくれたが、それらは山が何かの形に似ているとのことで名所とみなされているのだった。タケノコ、こうもり、観音様、羊の蹄、りんごなどなど。が、私にとって、山が何かに似ていることはあまり説得力を持たない。すべての山がいびつな形をしているのだから、こじつければなんにでも見えるだろう。そういえばそう見えないでもないが、そんなことよりも、いびつな形そのものが圧倒的な存在感で迫ってくる。何かの形に例えるよりは、その形そのものを味わうほうが面白い。

こうして、4時間ほどかけて陽朔にて下船。船から降りた客と客引き、道の両側の土産物売りでごった返す中を歩いて、陽朔の古い町並みや新しくできた繁華街(陽朔西街)を歩いた。

その後、バスで移動。途中、バスを降りて、道路から、月亮山という、満月のような穴がぽっかりあいた山を見物。そのまま桂林に戻った。桂林市内で穿山岩という鍾乳洞を見物。

夜は、桂林市内の両江四湖ナイトクルーズのオプショナル・ツアーに参加。ひとつながりになった四つの湖を遊覧船でめぐるもの。いくつかのツアーの日本人客が集まって、日本語の解説(私たちのツアーのガイドさんが担当。日本語の達者な、そしてユーモアのある50代の男性だった)。次々と遊覧船が走り、客に向けて、外で音楽が演奏され、踊りがなされている。船内でも二胡の演奏が披露された。

ただ、演奏、踊りはいずれもかなりお粗末。外で踊りがあり、銅鑼や太鼓の演奏がなされていることになっていたが、明らかに音源に合わせてそのふりをしていただけ。スピーカーから聞こえてくる音と目の前の楽器の動きがあっていない! 二胡の演奏はかわいらしい10代の女性。日本の歌謡曲や季節外れの「ジングル・ベル」を交えての演奏だったが、しばしば音程がくるっていた。

その後、船着き場の近くにある第瀑布ホテルで20時に始まる滝のショーを見た。交差点にある10階建てくらい屋上から水が吹き出し、滝のように水が落ちてくる。その間、大音響でラフマニノフのピアノ協奏曲風の音楽が鳴り続けている。水と電気の料金が一日日本円で100万円ほどかかるという。10分間そのショーが続いたが、道路で百人程度が見物していたようだ。これで100万円かかっているとすると、コストパフォーマンス的にはあまりよくないといえそうだ。

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3日目 (3月17日)

雨の中、七星公園を見学。そのほか、ツアーなので、いくつかのお土産物屋、工芸品展などに連れていかれた。その後、桂林の繁華街・正陽の歩行街を歩いた。食べ物屋さんが多く、そのほかは土産物やファッションの店などが続いていた。

その後、オプショナル・ツアーに申し込んで、桂林民族雑技ショーをみた。ショーが始まる前、観客を相手に競りのようなものが行われているのにびっくり。ここでも男性が前に出て、大音響で司会をして掛け軸のようなものを競りで売っている。少なくとも私にはまったく価値のなさそうなつまらない字や絵に見えるのだが、買い手がいるらしいのにも驚いた。

その後、ショーが始まった。少数民族の歌や踊りが披露されるのかと思って申し込んだのだったが、レベルの低いサーカスのようなものだった。中学生のような子供たちが出て、日本の中学の体操部の生徒でもできそうなバク転やら前転やら、ひもにぶら下がっての回転やらを披露。歌芝居があったが、これも明らかな口パク。大音響の音楽が鳴り、しかもスピーカーの音が割れているので、不愉快極まりない。背景にダイナミックなCGが映し出されて、自然と人間の一体性のようなものが描かれているが、歌と演技のレベルの低さのせいで私は見るに堪えなかった。

最後にオートバイショー。輪の中にオートバイが入って回転する。2台、3台と入って、最後には5台入った。これは凄い。ほかのパフォーマンスはすべて子どもだましだが、これは圧倒された。

その後、ホテルで食事。

4日目は、朝の6時半にホテルを出て、高速鉄道を使って広州経由で日本に戻った。

そのほか、桂林について、中国について考えたことがある。できれば、明日、ブログに書く。

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京都と姫路 「美濃吉」、映画「幸せな人生の選択」、智積院、姫路城

 京都駅前の新阪急ホテル地下にある京料理の店、美濃吉。ここの料理が私は大好きだ。美濃吉は東京を含め、各地にあるが、私は新阪急ホテルの味がもっとも好きだ。時々感動的なほどおいしいと思う。しばらく行く機会がなかったので、機会を探していた。たまたま姫路に住む友人T君が手術をして自宅療養中だというので、それを口実に(T君、ごめん!)、20182月7日、京都を訪れることにした。ついでにちょっと観光もするが、目的は美濃吉での食事。京都に泊まって、姫路まで足を延ばす。

 

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 京都についてすぐに、新阪急ホテルに直行して、美濃吉で昼食。いつものように手ごろな京懐石「鴨川」を食した。うまい! 白味噌仕立てが相変わらず最高にうまい。鰆のみそ焼きもくみ湯葉あんかけご飯もすばらしい。食べに来た甲斐があったと思った。

私は料理についての語彙を持たないし、料理法もろくに知らず、素材についても無知だ。だから、うまく説明できない。ただ、うまいかどうかしか言えない。ともあれ、ここの料理は、ただ単に「おいしい」の先に絶妙のものがある。毎回、私はそれを感じる。「ああ、本当においしい…」とつくづく思う。ミシュランの星付きのお店にも時々行く機会があるが、私はこの美濃吉の料理のほうをおいしいと思うことが多い。

 四条付近のホテルにいったん寄って、荷物を置き、京都シネマで映画を見た。

 東京では私好みのミニシアター系の映画館は新宿、渋谷、銀座などあちこちに点在している。が、京都では京都シネマでそのほとんどが見られる。そんなわけで、時間があったら、京都シネマで映画を見るつもりでいた。「幸せな人生の選択」とモーパッサン原作の「女の一生」のどちらにするか悩んだが、今さらモーパッサンでもなかろうと思って、「幸せな人生の選択」にした。

カナダから、中年の男のトマスが故郷であるマドリッドにがんによって死を間近にしたかつての親友フリアンをはるばる訪ねる。最期の時間を共に過ごすためだ。トマスは4日間、フリアンと行動を共にしている。フリアンは延命治療をしないことを選び、安楽死をしたいと考えていることが明かされる。フリアンの心配事の一つは老犬トルーマン(この「トルーマン」が映画の原題)を自分の死後、だれに託すかなので、それにもトマスは付き合う。アムステルダムに留学している息子を突然訪れる。そのような交流を描く。死を前にした人間のあきらめ、悲しみ、親子の情、そうしたものを情に溺れることなく、淡々と、しかししみじみと描いていく。かつての舞台のスターで、今もわがままを通すフリアン、友情をもってそれを支える寛大で常識人のトマスという組み合わせ、そして二人と微妙な関係を持ってきた女性たちの存在によって、そうした状況を描く設定ができ上がっている。

フリアンに無理やりおしつけられて、トマスはトルーマンをカナダに連れ帰ることになる。親友だったフリアンの身代わりとして、トマスはトルーマンを死までかわいがるのだろう。生と死、友情、社会における市の意味。そうしたものがすべて描かれる。

人生の最期を垣間見るためにとても良い映画だと思う。私は今、東京新聞・中日新聞で「65歳になったら〇〇しなくていい宣言」を連載している。高齢者についてあれこれと考える状況にある。そのための参考にもなる映画だった。

ただ実は、私は翌日、がんの手術をした友人を見舞うのだった。そもそも私は東京からはるばるかつての親友を見舞うために姫路に向かう途中なのだった。「しまった。縁起でもないものを見てしまった。明日、これと同じようなことにならなければいいが!」と心から思った。

映画をもう一本みようかと思ったが、映画館内が寒くて気力を失った。京都の夜の街を散歩しようとも思っていたが、寒さのために、これも諦めた。さっさとホテルに戻って風呂に入って温まってすぐに寝た。

 

2月8日

 京都まで来てどこも観光しないのはあまりに残念。かといって、寒いのであちこちウロウロしたくない。そんなわけで、私の大好きな場所、智積院に行くことにした。

 私は2006年から数年間、京都産業大宅で客員教授を務めていた。京都市内に寝泊まりする場所も確保し、週に2日間通っていた。その間、京都のあちこちを回った。その中でもっとも好きだったのが、智積院だ。そこでみた長谷川等伯の襖絵に驚嘆した。その後、折に触れて智積院を訪れている。今回もそこにだけは顔を出すことにした。

 ちょうど本堂で何事かの儀式が行われていた。念仏が唱えられ、20名ほどのお坊さんが集まっていた。どのような儀式なのかわからなかった。堂内に入ってしばらく見ていたが、携帯に仕事の電話が入ったために堂を出た。その後、等伯とその息子・久蔵の描いた襖絵を見た。見るごとに感動する。生命、ほとばしり、死、美。そうしたものの奥深くにあるものを鮮やかに描き出して見せていると思う。

 京都駅まで歩いて、その後、新快速で姫路へ。姫路に到着してからは、まずは姫路城を見物に行った。姫路在住の友人T君に連れられてかつて内部も見たが、大修理が行われてからは、新幹線から眺めるだけで、訪れる機会がなかった。駅から歩いて、周囲を見物。

 その後、タクシーでT君宅を訪れ、楽しく歓談。手遅れになるところをいくつかの幸運が重なって早期発見につながったとのことで、もちろん前日見た映画のようなことにはならない(ただ、映画の話はしなかった)。高校時代からの友人だが、彼は理系、私は完璧な文系なので、進む方向は違ったが、50年近くにわたって交流を続けている。孫が何人かいて、家族にも恵まれ、定年退職後も自分なりの研究を続けて静かに生活している。素晴らしい人生だ。あと少し療養が必要だということだが、元気になったら、また昔のように一緒に遊びたいと思った。

その後、新幹線で京都に戻り、ちょっと時間があったので、駅の周辺(東寺付近)を歩き回った。寒くなったので、駅に引き上げ、夕方からまた新阪急ホテル地下の美濃吉で食事。

またも鴨川。白味噌仕立てを再び食べずに東京に戻るわけにはいかない。お店の人が、二日連続の同メニュと知って少しアレンジしてくれたのはうれしい。でも、同じものでも、これほどおいしいと何度も食べたくなる。海老芋も最高においしかった。そして、別に注文した一品料理「鯛の兜煮」も絶品だった。骨にしゃぶりついて食べつくした。

 満足して京都を後にして、その日のうちの都内多摩地区の自宅に帰った。

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