旅行・地域

音楽の聞こえない国 ~~サウジアラビア旅行印象記

 2023年2月23日から28日にかけて、クラブツーリズムの3泊6日の弾丸ツアーに参加した。クラブツーリズムのカタログをパラパラめくるうち、サウジアラビアのツアーを見つけて参加を決めたのだった。新型コロナウイルス以後最初の海外旅行。そして、もちろん妻の死後の初めての海外旅行。

 サウジアラビアは長い間、観光客を受け入れていなかったが、2019年に受け入れを開始。ところが、すぐに新型コロナウイルスの感染が広まって、事実上ほとんど日本からの観光客は訪問しなかったという。今年に入ってから本格化しているようだ。

(なぜだか、私の技術ではこのブログに写真を挿入できなくなったので、文章だけの旅行記になる) 

・3月23日

 成田空港に集合。22時30分発の便で、20時集合だったが、早めに手続きを終えて、さて夕食でもとろうかと空港内のレストランを探すと、ほぼすべてがすでに閉まっていた。入国審査をしたら、ゲート付近にレストランがあるのかと思って行ってみたが、そこもなし。お土産物屋でおにぎりを食べてしのいだ。きっとコロナのために採算が合わずに今の状態になっているのだろうが、夜の客も多いのだから、何とかならないものか。

 飛行機に乗り込んでしばらくして、1日目は終わり。

 

・3月24日

 12時間かけてドバイに到着。朝7時発のリヤド行きに乗り継ぎ。1時間半ほどでリヤドに到着した。

 キング・ハーリド国際空港は白い現代的な建物で清潔感にあふれている。ドバイでも見かけたが、さすがにこちらは目だけを出して全身黒づくめの服(アバヤと呼ぶらしい)で歩く女性が多い。だが、もちろん、顔を出している女性もいる。ただ、やはりほとんどの女性がスカーフ(ヒジャブ)をしている。男性は白い服(トーブと呼ぶらしい)に赤みがかった布(シュマッグ)をかぶって、黒い輪っか(イガール)で頭に固定しているというスタイルの人が多い。どうやらこれが男性の正装のようだ。もちろん、日本人の同じようなシャツにズボン姿の男性も多い。頭に布をかぶらずに、白い服だけのカジュアルな服装の人も多くいる。歩いているのは、確かに男性の方が圧倒的に多い。

 外に出て車乗り場に行くと、青空の下にモスクが見える。その横には公園があって緑の木が続いている。とても清潔な雰囲気を感じる。気温は30度くらい。夜は15度前後、昼間は30度前後というのがこの時期の気温らしい。

 ツアーは私を加えて10名。添乗員付き。ツアーのメンバーの平均年齢はおそらく70歳は超えているだろう。80歳を超えている方もいたと思う。ご夫婦で来られた方を含めて女性は3人。あとで知ったが、多くの方がすでに100か国以上を旅している、まさに旅の達人といえるような人たちだった。45か国しか旅したことのない私はまさにひよっこ。

 バスでそのまま観光。きわめて的確に仕事をしてくれる添乗員さん(私たちとそれほど年齢差のない、かなりベテランの方)と現地ガイドさん(サウジの男性らしい服装の中年男性)の案内で行動。

 都市をバスで通りながら感じるのは、ともかく現代的な洒落た建物が多いことだ。遠くには奇抜なデザインの巨大な建物が数多く見える。上海やドバイの雰囲気に似ている。しかも、全体的に清潔さを強く感じる。ゴミが落ちていない。街の汚れがない。ポスターや宣伝のビラなどもない。ただ、緑が圧倒的に少ない。空港周辺には緑が見えたが、それ以外では、木々はほとんど見えない。道路は舗装されているが、空き地にはむき出しの土の場所も多い。ところが、そのような場所の多くは何らかの工事がなされている。重機が見える。

 要するに一言で言うと、まさに超現代的な大都市が、今まさに作られているという感じ。ドバイのような都市になろうとしているようだ。

 道路には車があふれている。ときどき汚れた車、塗装のはがれた車もあるが、全体的には真新しいきれいな車が多い。砂漠地帯ではすぐに土ぼこりがすると思うが、そのわりには車は汚れていない。私が東京で乗っている車(めったに洗車しない!)よりもずっときれいな車たちだ。トヨタなどの日本車も多いが、それと同じほどヒュンダイやKIAの車が目立つ。もちろんヨーロッパ車もかなり見かける。車間距離が短く、ウィンカーを出さないまま車線変更する車も多いが、混乱なくすいすいと進んでいく。何よりも静かさを感じる。こんなにぎりぎりの運転をしているのに、クラクションを鳴らす人はいない。町全体がとても静か。

 

 最初に世界遺産ディライーヤ見学。15世紀にサウード家が建設し、18世紀に都として栄えた地区だ。現在、発掘が進み、宮殿跡などの復興がなされている。土産物屋などがきれいに整備されたところから見学。

 その後、アルファイサリヤ・タワーのショッピングモールにも出かけた。ドバイや上海のショッピングモールと同じような雰囲気。真新しく清潔でセンスの良い建物に高級ブランド店が並んでいる。ただ客はそれほどいない。

 アルラジのグランド・モスクを見学。巨大なモスク。これも、私たちの持っている印象とは異なり、清潔に整えられている。突然、コーランの祈りの音が大音響で聞こえ、人々が清潔な服を着て三々五々、モスクに入っていくのが見えた。車できている信者も多そうだ。ガイドさんもその間、しばらく場所を離れて祈りに行った。

 

 どこをみても人が少ない。金曜日(キリスト救国の日曜日にあたるらしい)のせいかもしれないというが、ともかく人影を見ない。道路には車が走っているが、歩いている人影もめったに見ない。がらんとした雰囲気。超現代的な豪華な建物が並んでいるが、人気がない、という印象を強く受ける。

 その後、キングダム・センターのリヤドで最も高いという302メートルのビルに行って、スカイブリッジの展望台に上った。さすがにここには観光客が大勢いて、列を作ってエレベータに乗って上がった。

 高層ビルから見るリヤドは、全体に薄茶色の世界。建物も道路も薄茶色に見える。やはり何よりも緑の少なさに驚かされる。東京などとはまったく異なる光景だ。空気がかすんでいるのも砂のせいだろう。

 中心部に巨大な地区が建設されており、建設中の状態が見える。その周囲には個人の住宅が広がっているが、建物のほとんどが白茶色。碁盤目状というほどではないが、かなり整然とした街並みに同じような色の低層の建物が立ち並んでいる。そして、その向こうの果てには砂漠が見える。まさに砂漠の中に建てられた巨大な人工的な都市。

 その間にレストランで昼食。男性客と女性を含む家族客は場所が異なるとのこと。日本のマクドナルドのような雰囲気の店で、ケバブの類を中心にした肉料理。なかなかおいしかった。洗練された味。

 その後もリヤド観光をして、夕方、ホテルに到着。夕食はホテルにて。これもなかなかおいしかった。基本は羊と鶏の料理のようだ。

 

 初日のサウジアラビアの印象。

 ともかく清潔。もっと猥雑な街かと思っていた。石油で潤っている国であることは知っていたが、これまで私のみたアラブ人街のような猥雑さを想像していたが、全く予想外だった。

 ショッピングモールのすべてのトイレ、駅などのすべてのトイレに清掃員が常駐しているようだ。客が入るとすぐに掃除をする。ときに紙タオルを渡してくれる。道路にも清掃員を多く見かける。観光地では、道路について食べ物の汚れなどを取る清掃員が何十メートルかごとにいる。公園の草取りをしている人もいる。そして、その清掃員は顔つきが中東の人ではない。アフリカ系だったり、もう少しアジアっぽかったり。外国人労働者がそのような仕事についている。

 なお、こちらのトイレは男性も個室になっている。多くの人がスカート状のトーブを着ているために下半身をはだける必要があるせいだろう。そのため、男性トイレが混んでいてなかなか大変。レストランのトイレなどはさすがに担当者を常駐しているわけにはいかないので、あまりきれいではない。

 私は1995年に北朝鮮旅行をしたことがある。その時、ピョンヤンをみて「なんと人工的な都市だろう。まるで映画の書割だ」と思ったのだったが、今回も同じような印象を受けた。もちろん、1995年北朝鮮と違って、こちらはもっともっと高層ビルが立ち並んでいるが、人工的で生活臭がまったくないのは、北朝鮮とよく似ている。

 人があまり歩いていない。スーパーや小売店が見えない。ワイワイと騒いでいる人がいない。レストランも静か。アルコール類が完全に禁止され(観光客もアルコール類は一切持ち込むことができない)、女性が姿を見られるのを避ける社会では、どうしてもこうなるのだろうか。

 もう一つ気づいたことがある。

 音楽がほとんど聞こえない!

 ふつう、空港やお店、レストランでは音楽がかかっている。ショッピングモールでも小さな音でも音楽が聞こえる。作業員がラジオで音楽を聴きながら働いている姿もあちこちで見る。ヨーロッパでは日本ほどあちこちで音楽は垂れ流されないが、それでも道を歩けば、音楽が耳に入る。ところが、サウジアラビアではまったくの静寂。二度だけ、観光地でアラブ風の音楽が聞こえてきたが、それだけだった。ただ、コーランの声だけは、時間ごとに聞こえる。

 ホテルはセントロ・ワハ・バイ・ロタナ。満足というほどではないが、贅沢は言わない。まずまず快適。

 

 

225日 

 リヤド市内観光。

 まずは、ディラ・スークに出かけた。スークというのは、市場のことで、トルコ語のバザールにあたるらしい。前日にみた新市街のショッピングモールとは異なって、もっと庶民的な店だという。ファッションの店、香料の店、絨毯の店などが並ぶ。間口の狭い店が並んでいる。インドなどの途上国で見られるような作りの店なのだが、しかし、ここも清潔感があふれている。途上国と全く異なる。むしろ日本のアーケードなどのある商店街の雰囲気。しかし、それよりももっと清潔で整理されている雰囲気といってよいだろう。きれいに整理されて商品が並べられている。これらの店の店主はサウジアラビア人だというが、働いている人の多く、とりわけ下働きをしているのは外国人労働者だという。黒づくめの女性も歩いているが、人はそれほど多くなく、ごった返しているという雰囲気はない。音楽はまったくかかっていない。通る客は、もちろん黒い服を着た女性もいるが、男性が圧倒的に多い。日本の市場では女性の方が多いと思うが、やはりアラブ世界では外に出ているのは多くが男性だ。

 

 床に座って食べるサウジアラビア式の昼食(これもなかなかおいしかった)をとってから、マスマク城を見学。オスマン帝国に支配されていたリヤドを現在の王室につながるアブロゥル・アジズが取り返した要塞で歴史博物館を兼ねている。イスラム以前、イスラム以後のそれぞれの文化、歴史を伝える器具が展示されていた。

 

 その後、砂漠ポイントへ。高速を走る。しばらくたつと左右に空き地が見えるようになり、荒涼とした野原が続くようになる。1時間ほど走っただろうか。目的地に到着。本格的な砂漠かと思っていたら、むしろ砂漠体験遊技場という感じの場所だった。テントが並び、遊技場がある。リヤドに暮らす人々は、かつての砂漠生活を体験するため、ここにきて疑似砂漠体験をするのだという。そのような場所が広がっている。砂漠に沈む夕日をみて、ホテルに戻った。

 

2日目の印象

 ともかく静かで清潔。砂漠の中に人工的に作られた大都市。生活臭がない。きっと女性たちは部屋の中に閉じこもって料理をしたり、音楽を楽しんだりしているのだろう。だが、家の外ではそれが現れない。よそよそしくて現代的な街になっている。

 

226

 朝の9時に出発して、空港に向かい、国内線でジェッダへ。ジェッダは紅海沿いの都市でメッカへの入り口になっている。

 ジェッダ行きの飛行機の中に、バスローブのような白のタオル地のような布だけを身にまとった裸に近い男たちが何人もいた。これが巡礼の正式の服装らしい。日本のお遍路さんスタイルのようなものなのだろう。それにしても、日本人の目から見ると、バスローブ姿で街を歩き、飛行機に乗るなんてなんということだろうと思ってしまう。

 ハッジという大巡礼の時期ではないが、それ以外の時期に巡礼を行う信者も多いという。子どもを何人もつれた家族も多い。ほとんどが中東の顔をした人たちだが、ヨーロッパ人としか思えない人、アジア系の人(たぶん、インドネシア、マレーシアの人だろう)も大勢いる。アジア系の人は団体客が多い。さすがにそのような人はバスローブのような恰好はしていない。

 リヤドを出発して、陸地を見下ろすと、まさに荒野が続く。ところどころに山があり、ちょっとした草木が生えているが、全体的には不毛の荒野。砂漠といってよいのかもしれない。

 リヤドはまさに砂漠の真ん中のオアシスにできた都市であり、海水を真水に変える技術によって都市圏を増やしていった人工の街だということがよくわかる。言い換えれば、無尽蔵といってよい砂漠地帯を持ち、これから都市を増やしていけるのがサウジアラビアという国なのだろう。ただ、石油はそのうち枯渇するか、何らかの形で現在ほどの価値を持たなくなると考えられるので、その時どうするのか。それを見越して都市化を進めているのだろうが、果たしてそれは可能なのか。そんなことも考えてしまう。

 

 ジェッダ到着。空港は、リヤドに比べればこじんまりしているが、こちらも清潔で感じがいい。ただ巡礼客にあふれており、バスローブにしか見えない服装の人々があちこちで行列を作り、人並みができている。

 とはいえ、観光バスに乗って外に出ると、やはりこちらも人影はあまり多くなく、静かで落ち着いている。

 バスで空港付近のショッピングモールであるアラビアモールを見物。高級ブランド店や様々ん店の集まるモール。ここもそれほどの客はいない。他人事ながら、これでやっていけるのだろうかと心配になるほど。私たちにもなじみの世界的ブランドも見かけた。映画館もあってアメリカ映画も上映されている。ただ日本のブランドは、ダイソーしかなかったようだ(私はダイソーに気づかなかった。ツアーのメンバーに後で話を聞いた)。100円ではなく、ほぼ300円にあたる均一料金だったという。大きなスーパーがモール内にあった。整然と商品が並べられており、野菜やジュース、肉、魚、香料などが大量に並べられている。ヨーロッパのスーパーと似ているが、魚介類は真空パックで袋詰めにされており、においが漂うことはない。そして、もちろん音楽などまったくかかっていない。

 ほかの市場などと比べて、このような近代的なモールは女性客もかなり歩いているが、このようなモールの客は進歩的というのか、あまり信仰心の強くない人が多いのか、顔を出した人が多い。スカーフもかぶっていない女性もかなりいる。男性に至ってはジーパン姿の人もいる(ジェッダの現地ガイドさんはまさにTシャツにジーンズだった)。

 その後、紅海に海辺に建てられたフローティング・モスクに行った。ここもまたきれいに整備された海辺。ゴミひとつなく、清掃員があちこちに配備されている。セキュリティの担当者も大勢いて、海辺を巡回し、海に近づきすぎている人がいると注意をしている。

 日本の海辺だと、海鳥がいて、ゴミがあって、魚の死骸があって、単なる潮風といえないような臭気がするものだが、ここは海浜公園ともいうべき場所であって、完璧に整備されている。そのそばに白く美しいモスクがある。

 中に入らせてもらった。質素ではあるが、きれいな内部でじゅうたんが敷き詰められ、壁にはアラベスク模様のタイルがはめられている。

 モスクの横から紅海に沈む夕日を鑑賞。美しかった。

 その後、レストランで海鮮料理。エビ、イカ、白身の魚のフライ、蒸したムール貝、それにポテトと味のついた米。とてもおいしかった。一皿に大量に料理がのっているので、三、四人で分けて食べるのかと思ったら、それが一人前。デザートも大きなアイスクリームとチョコレートケーキ。高齢者ばかりのツアーであるためもあって、完食者はなし。おそらくほとんどの人が半分も食べていないと思う。

 ホテルに入った。ほかのメンバーは特に問題がなかったようだが、私の部屋はシャワーは水がほんの少し暖かくなった程度のお湯で、洗面所にタオルもコップも洗面道具もなかった。しかも、冷房が効いており、室温は19℃だった。もちろん、エアコンはすぐに消したが、寒かった。若いころから貧乏旅行ばかりしていたので、このような目にあうのには慣れているし、担当者を呼んで面倒なことをするよりも早く寝たいと思ったので、我慢して長袖を引っ張り出して、着たまま寝た。

 

2月27日

 朝9時に出発して、ジェッダの旧市街へ。

 これまで真新しい都市ばかり見てきて、ちょっと古い街を見たいと思っていた。猥雑な雰囲気を見たいと思っていた。やっと念願がかなったと思った。

 旧市街の建物の特徴として、出窓があるということだった。女性たちが外を見ることができるように、しかし、外からは女性が見えないようにするための出窓だという。美しく細工されていたり、緑色に採食されていたりする出窓が並んでいた。

 そのような旧市街の中に歴史あるアル・シャフィー・モスクがあり、19世紀から栄えた商家ナシーフ・ハウスがある。近くの由緒あるコーヒーショップで休憩。アラビアコーヒー(コーヒー豆を使っているようだが、ほかの薬草も混じっているようで、コーヒーの味は薄い。おちょこのようなカップで数回に分けて飲むのが礼儀のようだ)などを飲んだ。

 旧市街こそは猥雑なのかと思ったが、やはりここもそうではない。リヤドの店ほどには上品ではなく、狭い間口の店が並んでいる。肉屋があり、靴屋があり、洋服屋がありだが、比較的小ぎれい。日本の商店街よりももっと小ぎれいな印象。外国人労働者と思われる人が重い荷物を運んだりしているが、その人たちもさほど猥雑な感じはない。行きかう人々も白い民族服の人もいたり、ジーパンにティーシャツ姿の人がいたり。しかし、ここも男性の方がずっと多い。女性は男性の三分の一か四分の一以下だろう。

 

 その後、バスでメッカ方向へ。1時間ほど高速を飛ばすと右側に標識が見えた。その標識の下のほうに赤で「FOR NON MUSLIM」とあり、右に曲がるように指示がある。そこから先はイスラム教徒のみが入れる地域だということだ。ただし、少なくとも現在では、イスラム教徒以外の人間が紛れ込んでも厳しく検査されることもなく、ひどい処罰を受けることもないそうだが、もちろん、ほかの宗教を尊重する必要がある。

 そのまま引き返して、ふたたびアラビアモールで休憩して、空港へ。

 空港はごった返していた。リヤド行きの便の搭乗手続きの窓口は長蛇の列。一人が二つも三つものスーツケースを持っている。多くの客がバスケットボールが入る程度の大きさの同じデザインの箱を持っているが、それはメッカ近くのザムザムの泉で取れた聖水だとのこと。この聖水は航空会社によっては、機内持ち込みの制限から除外されるという。子ども連れも多く、しかも窓口がもたもたしていて、なかなか進まず時間もかなりかかった。

 実際に搭乗する際も大混乱。なんだかよくわからないが、チェックポイントでとどめられて何やら手続きをやり直している人も何人もいる。乗り込んでからも混乱は続いた。私の席にすでに別の人が座っていて、どこうとしない。近くの席のツアー・メンバーも同じように、ほかの人がすでに座っていて困っていた。どうやらあちこちでそのようなことが起こっているらしい。しかも、私の隣の席の現地の女性に、英語で、「夫が遠くの席に座っているので席を代わってくれ」といわれた。また、CAさん(西洋人にしか見えない女性。CAは多国籍らしいので、実際にヨーロッパ、もしかしたら東欧の人かもしれない)にも、こちらは別の席に代わってくれないかといわれた。なんだかよくわからなかったが、隣の席の女性の要望に従った。そんなことがあちこちで起こっているらしくてまさに混乱。

 あまり飛行機に乗りなれない人がたくさんいるのかもしれない。そうした中、子どもがあちこちで泣き叫んだり、大人同士が大声で話していたり、歩きまわったり、荷物の出し入れでがたがたやっていたり。阿鼻叫喚というかカオスというか。こんな騒がしい飛行機に初めて乗った。離陸してしばらくして、やっといくぶん静まった。

 この不自然に静かで小ぎれいなサウジアラビアという国の中で初めて生活感にあふれる猥雑さをみた。それもまた極端だった。きっとこれがサウジアラビアの人々の家庭内の状態なのだろう。家庭内ではこのようにふるまっており、きっと生活感にあふれているのだろう。ところが、家の外では静かによそよそしくしている。それがサウジアラビアなのだと思った。

 ドバイで乗り換えて、その後、9時間かけ、28日17時ころに成田到着。その後、コロナ関係のさまざまな登録をして、外に出た。くたびれた。

 

  • 全体のまとめ

 サウジアラビアは途方もなく不自然な社会だったというのが、私の総括だ。

 繰り返し書いたが、都市全体が清潔で近代的で小ぎれいでおしゃれ。ただ、生活感がなく、いかにも不自然。ふつうの国にはあるはずの猥雑さが見られない。しかも、自前の技術ではないのだろうが、石油の力で最先端の快適さを手に入れている。女性が不自由であることは外から出はうかがい知れないが、男性が薄着でいるところを見ると、女性が黒服でおおわれているのは快適であるはずがない。家にいて出窓から外を見ているのが幸せなはずがない。

 ただ、そんな女性も打ちひしがれているのではなく、ショッピングを楽しんでおり、飛行機の中で見たように家庭生活を普通に営んでいる。これがサウジアラビアの現代の姿だと思った。

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関西旅行  ~~ B級グルメ、ロートレック、なんば花月、美濃吉

 大阪で一つ二つのちょっとした用があったので、合間に観光をしようと、20222017日から19日にかけて関西小旅行をしてきた。8月に妻を亡くしてから初めての遠出。精進落としの旅とでもいうか。

 初日(17日)は娘と行動を共にして食べ歩きを敢行。大阪の四ツ橋地区に宿をとったので、ミナミで大阪らしものをたらふく食べようと相談して、昼は、「ゆかり千日前店」でお好み焼き、夜は、「串かつ だるま心斎橋店」で串かつ。18日の昼は鶴橋まで足を伸ばして「牛一」本店で焼肉。実にうまい。お好み焼きと串かつはまさにB級グルメだと思うが、大阪に食の文化の豊かさに改めて驚嘆。二人でたらふく食べても、財布はあまり痛まない。それにも驚く。

 さすがに食べるだけだと旅行としては寂しいので、18日の午前中、国立国際美術館に行ったら、なんと休館。が、すぐ近くにある中之島美術館は空いており、そこでは「ロートレックとミュシャ展」が開かれていた。ラッキーだった。

 私はミュシャにはあまり関心がないが、ロートレックには以前から惹かれていた。ムーラン・ルージュのけだるさと哀歓が大胆な構図からほとばしっているのを感じる。音声案内でもサティの音楽がときどきバックにかかっていたが、まさにサティと同じような雰囲気を感じる。日本で言えば、永井荷風とも同じようなものを感じる。夜の仕事をする人々に寄り添い、その欲望と絶望をじっと見つめている。かなりたくさんの絵画やポスターが展示されていた。とても楽しめた。

 18日に娘は帰ったので、19日は一人で行動。午前中に、前売り券を購入していたなんば花月で吉本のお笑いをみた。こう見えて、私は子どものころから、お笑いが大好き。ひところは新宿の末広亭に通っていたし、テレビで漫才があるとほとんど欠かさずみている。

 アインシュタイン、そいつどいつ、ミルクボーイ、月亭八方、ザ・ぼんち、タカアンドトシ、中川家。どれもおもしろかった。笑い転げた。

 とりわけ、ミルクボーイのラジオ体操ネタは最高だと思った。私は、M1グランプリの「コーンフレーク」と「もなか」に笑い転げて以来のファンで、その後、ユーチューブなどで追いかけてかなりのネタをみた。どれもおもしろかったが、今回のラジオ体操は別格。「コーンフレーク」以上におもしろい。

 アインシュタインもタカアンドトシも中川家も素晴らしかったが、意外にも、それに劣らぬくらい、もしくはそれ以上に面白かったのが、ザ・ぼんちだった。漫才ブームのころも、そして、再結成した後も、私はテレビでこのコンビを見てきたが、ぼんちおさむの「馬鹿さ」がシュールな域にまで達して、そのころよりも今回はおもしろかった。錦鯉の長谷川の馬鹿さもおもしろいが、それを超えていると思った。

 新喜劇にも笑い転げた。この荒唐無稽でハチャメチャで、あちこちつじつまが合わず、ナンセンスなギャグのつぎはぎであるのに、それが笑いを引き起こす。これはこれですごい文化だと思った。テレビで見ていると、「なんで大阪の人はこんなばからしいものが好きなんだろう」と思うが、実際に舞台を見ると、私も一緒になって笑い転げている。いやー、大阪の文化たるやすさまじい!

 午後は大阪の街をぶらぶらと散策。疲れたので、京都に移動。

 関西に来るからには、京都駅前の新阪急ホテル内の美濃吉で食べないわけにはいかない。大阪でB級グルメを堪能したが、やはり京料理はそれとは一味違う。最後は奥の深い京料理を食べたい。私は京都産業大学で仕事をしていたころから、この店のファンだ。

 少し早く着いたので、京産大で仕事をしていたころに寝泊まりしていたマンションを見に行った。当時、京都に腰を落ち着けようかと考えて、妻とともに家具をそろえ、あれこれと計画していた。妻を思い出したので、東本願寺まで足を伸ばして、「南無阿弥陀仏」を唱えた。

 美濃吉は先代の料理長のころからのファンだが、今も実においしい。土瓶蒸しはさすがのおいしさ。そして、私は何よりもこの店の「白みそ仕立て」が絶品だと思う。これが食べたくて、この店に寄る。じつにうまい。松茸ご飯もうまい。これぞ和食の奥深さだと思う。

 B級グルメ、ロートレック、なんば花月、美濃吉、すべてに満足。良い旅だった。

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京都に行って久しぶりにうまいものを食べた

 2022418日、私が塾長を務める白藍塾の仕事で京都・宇治を訪れた。東京は雨だったが、関西は晴れ間も見えて心地よかった。まさに春の一日。このところ、ずっと自宅にこもらざるを得ない日々が続ているが、久しぶりの遠出だった。

 私が塾長を務める白藍塾は、いくつかの中学、高校をサポートして小論文指導を行っている。立命館宇治中学校もその一つで、20年前から白藍塾の指導を取り入れて、大きな成果を上げている。今回は、そのサポートの一環として中学1年生向けにお話をさせていただき、先生方向けの研修を行った。

 毎年行っているイベントなのだが、コロナのために2年ぶりということになる。講演では、活発で優秀な生徒さんたちに質問攻めにあいながら、文章を書くことの意味について楽しく話ができた。中学生と接するのは実に楽しい。この子たちが文章を書くのを好むようになり、達人になってくれたら、こんなうれしいことはない。

 その後、京都駅前の美濃吉・新阪急ホテルで夕食。私のひいきの店だ。美濃吉は日本各地にある京料理の店であり、私は東京の店も時々利用させてもらい、とてもおいしいと思っているが、新阪急ホテルの店は格別。無理にでも仕事を作って、この店に行きたい気持ちになる。

「京御膳」をいただいたが、白味噌仕立ては相変わらずの絶品。私は、この料理がことのほか好きだ。シンプルで素朴で、そうでありながら最高に洗練されている。本当にうまい! 筍の天ぷらも生麩田楽もたけのこご飯もとてもおいしかった。そして、タイのかぶと煮をべつにもらったが、これまた絶品。薄味で、魚そのもののうまみをいかして、最高のおいしさを引き出している。幸せな気持ちになった。

 満足のゆく仕事ができ、おいしいものを食べることができた。満足できる京都訪問だった。

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萩小旅行

 2020911日ちょっとした萩観光ができた。

 10日の昼過ぎから大阪の堺市にある初芝立命館中学校で白藍塾塾長として小論文指導の研修があり、12日は午前中から山口県セミナーパークで開かれる「やまぐちで学ぶ! 高校教育魅力向上事業」における「ニューフロンティアセミナー」で小論文の特別授業をおこなうことになっていた。一度東京の自宅に戻って、翌日また山口に出かけるのもつらいので、大阪での初芝立命館中学校での仕事が終えた後、その日のうちに新山口駅付近のホテルに行き、そこで2泊し、11日は観光に時間を費やすことにしたのだった。

 まず、新山口に到着したが、あまり人気がない。駅の建物はそれなりに立派だが、人がいない。ホテルやレストランもほとんどない。東京の急行の停まらない私鉄駅周辺とさほど変わりのない光景だった。着いたのが21時過ぎだったせいか、あるいはコロナの影響なのか、まばらな人しかいない。

 山口県は何度か訪れたことがある。瀬戸内海側のいくつかの都市はこれまでに見物した。が、萩には行ったことがない。この際、萩に行ってみようと思いたった。ついでに津和野も考えたが、ちょっと遠すぎるので断念。列車があるのかと思っていたら、新山口からでは大変な遠回りになる。まず、そのことに驚いた。いや、そもそも新山口と山口の間もかなりの距離があるのにびっくり。レンタカーを予約しておいた。気ままな一人観光だ。

 そして、翌11日、10時に予約通りレンタカーを借りて、一人で出発。もちろん、ナビ頼り。松陰神社を目的地に設定して出発。高速道路は避けて、のんびり風景を見ながら一般道で行くことにした。1時間程度で到着すると思っていたら、ナビが12時近い到着予定時間を表示したのでびっくり。山口市をかすめて、すぐに車は山中に入った。雨がぱらつく天気。たまに信号はあるが、ほとんどひっかからない。山中ではほとんどノンストップ状態だった。

 ずっと山道。もちろん、きれいに舗装されており、運転するのは快適だが、見えるのは山や田畑ばかり。雨模様なので、雲が山々にかかっている。大分県の山間部、日田市で生まれ、母の実家が日田市のはずれの大鶴地区という山の中にあった私としては慣れた風景だ。大鶴や伏木峠の山道を走っているのと同じ気分。ある意味、とても懐かしい。子どものころは父の運転する車に乗ってこのような風景の中を走っていた。大人になってからは自分で運転して母の実家などを訪れていた。

 目当てのコンサートチケットが、その日の11時にネット発売開始されることになっていた。私は4枚購入予定だった。ポケットWi-Fiを持っているので、11時過ぎたらコンビニにでも車を停めて、ネットにつないで予約しようと甘く考えていた。

 ところが、11時になったが、コンビニなどあろうはずがない。ずっと山道だ。やむなく、側道に停められる場所を探してネットに接続しようとしたら、つながらない! このような山間部にはWi-Fiは通じていないのだろう。その後、2度ほど同じように車を停めて試すが、やはり接続できなかった。

 11時半近くになって平坦な土地になり、人家が増え、やっとコンビニを発見。車を停めてネットにつないだが、接続状態が良くないために苦労した。希望の席はすでに売り切れていたが、かなり時間をかけてともあれ4枚ゲット。安心して、コンビニで購入したコーヒーを飲んで一息いれた。いずれにせよ、山口県の南北をつなぐ交通網の弱さと、そこに横たわる山地の存在を、チケットのおかげではからずも実感した。

 

 そこから10分ほどで松陰神社に到着。雨模様のせいか、観光客はまばらだった。私が訪れている間に目に入った観光客は10人ほどだった。そのうち四人は中国人のようだった。

 吉田松陰を祀る神社が雨の中で落ち着いて見えた。松下村塾はその中にある。小さな掘立小屋としか思えない。日田市の誇る広瀬淡窓の咸宜園のようなものを想像していたが、それよりももっと小さく質素。8畳の間取りの部屋が二部屋あるだけのようだ。しかも、ここで松陰が指導にあたったのは2、3年だとのこと。80年間続いた咸宜園に比べてなんと短期間なのに、これほど知名度に差があるのか!と日田出身の私としては少々嫉妬心を抱かないでもないが、そこは歴史における役割の大きさの差だろうと納得する。

 雨の降る神社内を歩き、多くの人形で松陰の生涯を紹介する歴史館にも入って、時代の雰囲気を多少は感じた。客は私だけ。ただ、幕末の歴史に詳しくない私は、表面的にしか松陰の役割や思想を知らない。この歴史館は私の表面的な知識を確認するくらいのことしかできなかった。

 お昼になっていたので、海や川をのぞみながら車で道の駅・萩しーまーとに行って、ネットで評判の店に入って海鮮丼を食した。絶品だった。

 明倫学舎の横に車を停めて、次に学舎を見学。様々な展示があった。幕末から明治にかけての長州・山口の役割が語られている。いわば、「長州史観」とでもいうべき歴史観が示されている。長州が中心になって日本の産業革命が起こり、文化革命が起こり、その人脈が日本の近代を作ったことが分かる仕組みになっている。なるほど、確かにこのような見方に説得力がある。その方面に詳しくない私としては、そうかもしれないが、ほかの見方もあるだろうなという程度のことしかわからない。ただ、長州が日本の近代化にとても大きな役割を果たしたのは否定のしようのない事実であることは実感した。

 雨が止んだので、近くを散策。江戸屋横町、伊勢屋横町、菊屋横町など、江戸時代の雰囲気の残る道を歩いた。もっと広い道を想像していたら、車がすれ違えないような狭い道だった。暑すぎもせず、人通りもほとんどなく、静かに歩くことができた。白壁や土色の壁が続いていたり、生け垣が続いていたりの道にとても落ち着く。その中に、高杉晋作立志像があり、高杉晋作や田中義一の誕生地がある。子どものころ、高杉晋作のドラマを見た記憶がある。史実とは異なるのだろうが、なじみのある名前ばかりで、故郷を歩くような気持になった。

 もう少しゆっくりしようとも思ったが、何しろ一人旅で、話をする相手もいない。帰りの道も心配になるので、そのくらいにして、萩を後にして、新山口に戻った。

 

 12日のセミナーについても付け加えておく。県内の意欲ある高校12年生50名ほど集まってもらっての小論文講義だった。午前中に小論文の書き方を簡単に解説した後、やさしめの問題に取り組んでもらい、午後には2020年度の慶應文学部の小論文入試問題に挑戦してもらった。こちらは超難問といってよかろう。みんなてこずっていたようだが、少し解説すると、すぐに小論文を書き始めた。

 あまりに優秀な生徒さんたちばかりなので驚いた。みんなが積極的に授業に参加してくれ、鋭い意見が次々と出してくれ、しかも超難問についても、しっかりと取り組んでくれた。きっと生徒さんたちも小論文とは何かがわかり、超難問であってもどうすれば手掛かりがつかめるかをわかってもらえたと思う。

 私自身もとても楽しく充実した時間を過ごすことができた。が、1時間の昼休みを含めて5時間半の講義だったので、私は大いに疲れた。セミナー終了後、新山口までタクシーで出て、広島まで「こだま」号、そこからは「のぞみ」号に乗り継いで、東京に戻った。ますます疲れた!

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久しぶりの京都 美濃吉での三度の食事、ちょっとの観光

 202094日と5日、仕事で京都を訪れた。出発時、名古屋付近で大雨だということで新幹線のダイヤが乱れ、ひやひやしたが、ともあれ仕事時間に間に合った。

 私は大学を定年退職した後は、年に6~9回の海外旅行をしていた。国内のあちこちにも仕事で出かけていた。ところが、新型コロナウイルスの影響で、2019年の夏から1年以上にわたって海外旅行はしていない。仕事での遠出も静岡がせいぜいだった。久しぶりの関西での仕事。4日の夜が遅くなり、久しぶりの遠出でもあるので、ホテルに一泊して5日は一日、ひとりで観光することにした。あれほどしばしばホテルを利用していたのに、そもそもホテルに泊まるのもまさに1年ぶりだと、フロントに立って思いあたった。

 京都はがらんとしていた。あれほど飛び交っていた中国語はほとんど聞こえない。レストランや喫茶も閉まっているのが目に付いた。地下街などの冷房のきいた場所はそれなりには人気があるが、京都駅付近の戸外では人影はあまり見えなかった。35℃を超す暑さなのに、ヨーロッパと同じようにテラス席で食事を楽しむ客をあちこちで見かけた。密を防ぐために、外での飲食をしているのだろう。そこで聞こえてくるのも日本語、しかも関西弁ばかり。

 4日の夜、5日の朝と夕、京都駅前の新阪急ホテル地下にある美濃吉で食事をとった。京都を訪れるたびに私はこのお店での食事を楽しんでいる。ここの美濃吉は格別においしいと私は思う。久しぶりに満喫したいと思っていたが、思いはかなえられた。私の大好物、「京の白味噌仕立て」はまさに絶品。4日の夜は定食「鴨川」、5日の夜は「花懐石」と土瓶蒸しを食べたが、いずれも最高のうまさだった。「白味噌仕立て」もさることながら、鉢物も木の子の炊き込みご飯も最高。5日の朝のおかゆもおいしかった。これほどの味なのに、新型コロナウイルスのために客が少ない。あまりにもったいない。

 ちょっと心配していたが、美濃吉はもちろん、ほかのお店も新型コロナウイルス感染防止対策は万全のようだ。どこに行っても検温があり、アルコール消毒を行い、給仕する方は二重にマスクをしているようだ。私自身も、感染の多い東京から出向いているので、間違っても京都に人にうつすことのないように気を付けた。

 5日には久しぶりに京都の世界遺産を見たいと思っていたが、朝から30℃を超している。昼間は36℃を超す予報だった。外を歩き回るのはあきらめて、京都シネマで映画をみて過ごすことにした。

 午前中に「ポルトガル、夏の終わり」、午後に「オフィシャル・シークレット」をみた(日を改めて、このブログに感想をアップする)。空き時間にタクシーで智積院に乗り付けて、短時間で長谷川等伯とその息子、久蔵の襖絵をみた。京都に行くたびに智積院の襖絵を見るのが私のこのところの習慣になっている。美術に関しては疎い私だが、この襖絵には感動する。襖絵に囲まれると、心が洗われる。

 その後、京都国立博物館で「聖地をたずねて」が開催されているのをしって、しばらく展示を見て過ごした。この方面の知識のない私には、残念ながらあまりありがたみはわからないが、ともあれ国宝や重要文化財を含む西国の寺院の所蔵する経典や縁起絵巻、曼陀羅図、仏像をみることができた。

 ごった返しているとまでは言えないが、かなりの人が訪れており、ゆっくりとみることができなかった。ふだんなら残念に思うところだが、コロナ禍の中、しっかりと文化活動を行われていることを頼もしく思った。思えば、京都シネマもかなり多くの人が訪れていた。満員ではないが、それなりには席が埋まり、チケット売り場にはしばしば長い行列ができていた。配置する人員を減らしていることも関係しているかもしれないが、文化活動がしっかりと行われているのはとてもうれしい。

「オフィシャル・シークレット」を見終わると、もう日は傾いていた。真昼間ほどの暑さではなくなっていたので、四条付近をぶらぶらと歩いた。だが、まだ35℃近くはあったと思う。意外と多くの人が歩いていた。もちろんほとんどが日本人。10年以上前、私が京都産業大学の客員教授として週に2回通っていたころと大差ない人出だと思った。

 暑いのはつらいが、京都の町をふらふらするのはとても楽しい。昔からあったお店、新しくできたお店を確かめて歩いた。が、やはりあまりの暑さにめげて、阪急河原町から阪急線と地下鉄を経由して京都駅に戻り、イノダコーヒーで一休みしてから、先ほど書いた通り、夕食のために美濃吉に向かい、その後、新幹線で東京に戻ったのだった。

 9月なのでいくらか観光ができるかと思っていたが、甘かった。もう少し涼しくなってから、また京都を訪れる機会があると嬉しい。

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広州旅行2019

 2019717日から21日まで広州旅行に出ていた。広州を目的に行くのは2度目。一度は桂林に行く途中に立ち寄っているので、今回が三度目の広州ということになる。初回は多摩大学の学生とともに学務として訪れた。二度目はツアーだった。一人でぶらぶらしてみたかった。ついでにちょっと仕事もしようと思った。

 マイレージを使えば航空運賃は無料になる。久しぶりに広州にいる友に会いたい。そんな思いで気楽に出かけた。

 ANA機で2019718915分に羽田出発。13時前に廣州到着。フライトはきわめて順調。機内でイーストウッドの映画「運び屋」をみた。おもしろかった。

 空港の外に出たとたん、猛烈な暑さだった。37度。日本はこのところ低温で22度程度だったので、からだにこたえる。

 タクシーで天河地区にあるホテル(広州陽光ホテル Soluxe Hotel)に向かった。50分ほど自動車専用道路を乗り継いで到着。タクシー代は170元ほどだった。約3000円。40階建てほどの立派なホテル。旅行サイト・エクスペディアで「おすすめ」のホテルを何も考えずに予約した(われながら情けないが、確か、レビューの評価が高く、「今予約すると20オパーセントオフ」というようなうたい文句に心を動かされた)のだったが、部屋に入って地図とにらめっこして場所を確認すると、ここはあまりに交通の便が悪い。少々後悔。

 一休みして、15時になってから、ホテルの隣の天河公園を歩いてみた。ただ、あまりの暑さに公園の良さを味わえない。石畳の地面は熱を発し、おそらくは45度を超す灼熱地獄。木々が植えられ、池があり、森林の涼し気な絵が壁面に描かれているが、燃えるような暑さのために数人しか人影が見えない。

 公園でゆっくりするのをあきらめて、珠江の方向におりてみることにした。10分ほどで到着するかと思ったら、川辺に出るまでに30分くらいかかった。道の両側には、小さな古めの店が並んでいる。古めとはいえ、築30年程度だろう。ところが、地下鉄の工事中のようで、その町並みが壊されているようだ。

 珠江に出た。珠江の向こう岸には巨大な摩天楼がいくつも見える。躍進する中国らしい光景だ。河畔はセーヌ河畔もさもありなんと思われるほどに整備された遊歩道だ。暑い中、子どもたちが自転車に乗ったり、ボールを転がしたりして遊んでいる。が、もちろん、この暑さでは人がいるはずもない。

 河畔を20分ほど歩いて、珠江にかかる大きな橋付近まで行った。そこから北上して、ぐるっと回ってホテルに戻った(地図上で道路の名前を確認したが、文字が読めないのでここに移しようがない)。ゆっくり歩き、遊歩道でも少し休憩したせいもあるが、2時間かかっていた。羽田で買ったお茶を飲みながらだったが、頭がふらふらして汗だく。改めて、交通の不便なホテルに滞在してしまったことを後悔した。

 一休みして食事。外に出る気力は失せていたので、ホテル内で食事をすることにした。5階にレストランがあるとのことで、とりあえず行ってみた。女性店員に導かれるままについていったが、えらく高級そうな中華料理の店だった。メニュを見せてもらったが、なじみの料理がない。見たこともないような料理の写真が並んでいる。よくわからない。またしても、意味なく高級レストランに入ったことを後悔。値段のあまり張らないものを3品選んだ。

 食べてびっくり。私のこれまでの人生でもめったにあじわわなかったほどの美味だった。魚のバターソテーのようなものもエビフライのようなものも、ダックのようなものも絶妙の味付けと焼き具合。しかも、あんがかかっているのだが、それが素晴らしい。3品とビールで321元なので少々高かったが、これほどの絶品料理を食べられれば何の文句もない。交通の便が悪かろうとなんのその。暑い中を1時間くらい歩いても食べる価値のある料理だと思った。

 その日はそのまま就寝。

 夜中に何度も大きな騒音で目が覚めた。明らかに工事の音。窓から外を見たが、どうやらホテルのすぐ下で地下鉄工事が行われているようだ。深夜に工事とはなんとも住民無視。きっと大慌てで工期に間に合わせようとしているのだろう。これも一つの中国の現実なのかもしれない。

 

7月19

 

 午前中は、越秀区のあるいくつかの寺院を見ることにした。まず、ホテルからタクシーで光孝禅寺にいった。30分以上かかった。タクシー代金は1000円ほど。小さな店が立て込んでいる。歩道があるが、かなり汚れているし、でこぼこがある。昔ながらの商店街。途端に上半身裸の男の姿が目立つようになる。ガラガラガラと音を立ててペッと唾を吐く男女もかなりいる。30分歩くだけで、そのような音を何度も聞いた。

 光孝善寺は広州最古の寺院だという。三国時代にできたといわれる。現在でも10世紀の建物が残っている。現地の人々がやってきて参拝している。観光客らしい姿は見かけない。

 迷いながら少し歩いて、六榕寺に行った。537年に創設された寺で1000年ほど前に建てられたという九層の塔が目を引く。菩提樹やガジュマルの木があり、参拝客もちらほらいる。

 それより少し南にある懐聖寺まで行った。人気がなかった。ここは中国で最も古いモスクだとのこと。ただ、あまりモスクらしい様子はなく、建物の奥の方に白い塔があるに過ぎない。ただ、白い帽子をかぶった老人(つまり、イスラム教徒ということなのだろう)が一人で歩いていた。

 この街に着いてから2時間ほどが経っていた。タクシーを呼び止めてホテルに戻った。車線変更を繰り返し、警笛を鳴らしまくり、パッシングを繰り返す運転手だった。道が渋滞して動きようがないのに、この運転手は前の車に向かってパッシングし警笛を鳴らす。鳴らされる方も困ってしまうだろうと思った。だが、ともあれ何事もなくホテル到着。

 一休みして、この日の午後は仕事がらみの行動をとったが、これについてはヒミツ。途中大雨になって、少し涼しくなった。

 夕方、親しくさせていただいている広東財形大学の先生やその卒業生たち(多摩大学に留学していたため、私の教え子に当たる)3人と中心街にある高層ビル、広州国際金融センター内の四川料理の店で楽しく会食。店の前に数十人が待つ人気の店だった。広州化された四川料理とのことで、それほど辛くはなかった。その後、同じビルの高層階に行ってお茶を飲んだ。楽しいひと時だった。

 教師と教え子という以上に、とても良い友を持ったと改めて思った。

 

7月20

 午前中、再びホテルのすぐ近くにある天河公園を散歩。朝の内だったので地面は熱せられていないため、2日前ほどの暑さは感じなかった。が、スマホを見ると35度という気温になっている。地元の人が何人も散歩したり、体操したり、音楽をかけて踊ったりという、中国の公園でよく見かける光景。

 ホテルに戻って荷物をまとめ、チェックアウト。ロビーに教え子たち3人が再び来てくれた。タクシーで移動して、陶陶居というレストランでみんなで昼食。ここも実においしい。豆腐のフライ、酢豚の氷漬け、イセエビのスープなどもとてもおいしかった。教え子たちとの語らいもとても楽しかった。

 お腹いっぱい食べてから南越王旧博物館に行った。この地域の歴史品が陳列されていた。ポンペイ展が特別展として開催されていた。ぐるっと回ってみたが、中国語と英語の解説ではよくわからなかった(イヤフォンガイドがあったが、聞きなれない用語やこなれない日本語のためストレスがたまった)。

 雨が降り出した。雨宿りも兼ねて、博物館の椅子で教え子たちと談笑。日本語が達者な若者たちなので、実に頼もしい。彼らはみんな日本語と英語と北京語と広東語ができるとのこと。

 教え子二人とはここで別れて、地下鉄で空港に向かった。教え子の一人が空港まで送ってくれ、搭乗手続きまで見届けてくれた。これも実にありがたい。

 予定としては、広州を21時発の中国国際航空便で上海浦東空港に2325分に到着、そこで乗り継いで、午前145分出発の羽田行きのANA便で、午前540分に帰国することになっていた。マイレージで安く旅行しようとするとこんな不便な便を使わざるを得なくなるが、それもまた旅行の楽しみだと思っていた。

 羽田まで荷物を預けることができず、いったん上海で荷物を受け取ってから、再びANAのカウンターで手続きをしなければならないらしいのが面倒だったが、ともあれ、これで一安心、上海でちょっとあわただしいかもしれないが、まあたいしたことではないだろうと思っていた。ところが、実はそれからが大変だった。

 いつまでまっても搭乗口に動きがない。しばらくたって表示が出た。約3時間遅れの2250分発に変更になった。乗り継ぎが心配だが、どうにも仕方がない。

 実際に飛行機に乗り込んで離陸したのは23時過ぎ。上海に到着したのは、私が乗るはずだった羽田行きANA便の出発予定時刻を過ぎた130分頃だった。荷物を受け取って、大慌てで出発ロビーのANAのカウンターに行って何とかしてもらおうと考えたが、夜中の2時近くなのでカウンターは閉まっていて、誰もいない。そもそもロビーは警備員や掃除係がいるだけで、あとは椅子で寝ている旅行客ばかり。

 今度は警備員や飛行機から降りたクルーをつかまえて中国国際航空(CA)のオフィスがどこなのかをきいて探し回ったが、それも見つからない。やっと見つかったが、もちろんすでに閉まっている。

 ネットで調べてANAに電話をかけた。事情を話して仮の予約を取った。その日の東京行きの便はすべて席が埋まっており、予約できるのは夜の23時過ぎに成田に到着する便だけだという。朝になってCAのカウンターで交渉するともっと早い便が取れるかもしれないと電話先の女性が教えてくれた。

 あきらめて空港で朝まで待つことにした。椅子はほぼ全部埋まっているので、床に寝転がった。20代のころはこのような海外旅行をしていたが、さすがにこのトシになるとつらい! きれいな空港で、しかも寒くないのが救いだった。が、ともあれ、これも旅の醍醐味と思うことにした。

 まったく眠れないまま、朝を迎えた。5時半ころになって中国国際航空のカウンターが開き始めた。ところかまわず窓口にいって下手な英語とボディランゲージで事情を説明し、なんとかならないかと尋ねた。あちこちたらいまわしにされながらも、やっとのことで、ある窓口で遅延証明書を書いてもらい、夕方の便しか予約できないときには休息のためのホテル代を出してもらうように交渉し、なんとか確約を取り付けた。

 そして、6時半ころになってやっとANAのカウンターが開いた。日本語のできる係員を探して事情を説明し、早い便で帰ることができないかと食い下がった。日本人的な雰囲気の中国女性だった。コンピュータを前にしてあれこれしていたが、しばらくして「一席空いているようです」と教えてくれた。その後もあれこれとコンピュータを操作し、先輩らしいほかの係員を呼んでかなり長い時間をかけていたので、取り消しになるのではないかと心配になった。もしかしたら、通常では販売されない席を用意してくれたのかもしれない。が、ともあれ、予約できた。

 すぐに搭乗手続きをし、中国名物ともいえる長い行列を作って厳しい出国審査を受け、厳しい荷物検査を受けて、無事に搭乗。予定よりも6時間近く遅れて帰国。

 教訓。中国国際航空が絡んでいるときには、乗り継ぎはなるべく避けるべし! 2時間半の乗り継ぎ時間は危険だ。安いチケット(今回はマイレージの無料優待チケット)にはそれなりの理由がある!

 広州は世界遺産もなく、観光の見どころのない大都市だ。しかも蒸し暑い。が、ここでこそ本当の中国がみられる。大躍進を遂げ、その光と影の中の人がいる。私たちがテレビで見る「中国人」とは異なった、今の中国人がいる。日本人が思っているほどマナーが悪いわけではなく、非常識なわけではない。それどころか、礼儀正しく、物静かで知的な人が圧倒的に多い。そんな中国の都会に住む人の日常がみられる。しかも、料理がとびっきりおいしい。脂っこすぎるわけではなく、辛くもない。絶妙の味。とびっきりおいしい。脂っこすぎるわけではなく、辛くもない。絶妙の味。 

 最後にはちょっとだけひどい目にあったが、とても楽しい旅だった。広州に来るごとに、また訪れたいと思う。また広州にいる友に会いたいと思う。

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3回目のホーチミン旅行

 201963日から7日まで、25日の弾丸ツアーで家族の一人(本人が嫌がると思うので、それが誰であるかは明かさない)とホーチミンに行った。6月3日の深夜に羽田で搭乗手続きをし、4日の未明に出発、4日からホーチミンに2泊して、6日をホーチミンですごしたあと、深夜に出発して7日の朝に羽田到着。これで2泊5日ということになる。

 ホーチミンを訪れるのは3度目だ。初回は1992年、ベトナム、カンボジアの旅だった。2度目は2012年、ホーチミン、ハノイ、ハロン湾の旅だった。そして、今回はホーチミンのみ。正月の新聞広告でHISのビジネスクラス格安ツアーを見つけた。最初にベトナムを訪れた時、「ベトナム料理は世界一おいしい!」と思ったので、食いしん坊の家族とともにベトナム料理を堪能したいと思った。

 簡単に旅での出来事を書く。なお、前回のジョージア・アルメニア旅行の際と同様、今回も写真を挿入する技術を持たないので、言葉による記述だけになる。

 

64

 JAL便で快適に予定通り、早朝の515分にホーチミン到着。ベトナム人ガイドさんがホテルまで送ってくれた。が、ホテルに到着したのは朝の7時前。部屋には入れない。夕方以降、市内観光などが予定されているが、それまではツアーには何も予定されていない。荷物を置いて、ともあれ近くを歩き始めた。

 ホテルがハイバーチュン通りにあったので、近くのホーチミン随一の繁華街ドンコイ通り、歩行者天国になっているグエンフエ通りなどを歩き回った。

 1992年に訪れた時には、まだベトナム戦争の傷跡があった。空港からホテルに向かうとき、自転車に乗った人々が次々の現れるのに驚いた。その中にアオザイ姿の女性たちが大勢いた。バイクも多くて、そこに4人乗り、5人乗りをしているのが見えた。2012年には自転車はほとんどみかけなくなり、バイクの大群に変わっていた。そして、今回、バイクは一層増えていた。車も多い。車は日本車が大半。2人乗りは多く、3人乗りも時々見かけるが、以前のような4人乗り、5人乗りはまったく見かけなくなっていた。

 派手な色のヘルメットをかぶり、排ガス予防のための色とりどりのマスクをしたバイクの大群は、まさしくバッタの大群のように見える。ドドドドドドドドドという音を立てながら、バッタの大群が次から次へと湧き出してくるかのようだ。

 信号があまりないので、バイクの群れは途切れることがない。前回も大きな道路を渡るのは命懸けだと思ったが、今回は大きな道路だけでなく、もっと細い道に至るまで、バイクが少しだけ途切れるのを待って、必死の思いで渡らなければならなくなっていた。たまに信号があっても、赤信号なのに平気でバイクが走っていく。

 現地の人はバイクや車がかなり通っているときにも、それをかき分けるように進んでいくが、日本人としてはそんな度胸はない。現地の人であっても高齢者はそれができないだろう。事実、ホーチミン市の中心街で高齢者をほとんど見かけない。高齢者は外に出ないのか? 地下鉄の工事が行われていた。公共交通が整備されれば、バイクの大群は減るだろう。

 ホーチミンの町は、ヤンゴンやコロンボやカラチ、ラホール、カトマンズなどのほかの国の大都市に比べてかなり清潔だ。道路沿いにごみが散らばっていることもない。生ごみのにおいが漂っているわけでもない。東南アジアのどこにも多い野良犬もほとんど見かけない。ただ、道路に座り込んだり、低い椅子に座ったりしてものを売る人、何かを食べている人、おしゃべりしている人が目立つ。道路にものを並べて売っている人も多い。これほどバイクが多くてうるさくてばい煙の多くところ、しかもめっぽう暑いところに座っている人が多いのには不思議だ。

 ホーチミンという文字以上に「サイゴン」という文字が目立つ。ホテル名、レストラン名などのサイゴンという名前が見える。初めて訪れたころ、この土地を「サイゴン」と呼ぶのは親米の証とみなされてはばかられているような雰囲気があった。ところが、現在ではサイゴンが当たり前になっている。

 ホーチミン像を訪れた。かつては誰よりも敬愛され、崇拝された人物だが、その像は特ににぎわってはいない。今も愛されているとは、あとでガイドさんに聞いたが、崇拝されているとは言えない状態だ。ホーチミン人民委員会庁舎を外から見た。統一会堂、ホーチミン市博物館などを見物。

 ペンタイン市場にも行ってみた。市場には肉や魚、果物が売られる生鮮食料品のほか、衣服、時計、バッグなどが売られていた。やっと人がすれ違えるような狭い通路を挟んで、ぎっしりと小さな売り場が並んでいる。これまで見てきた東南アジアの様々な国の市場とさほど変わらないが、ただ、ベトナムの特徴といえそうなのは、売り場の前に必ず売り子が低い椅子に座っていることだ。そのほとんどが若めの女性だ。ずらりと並んで女性たちがおしゃべりしていたり、何かを食べていたりする。不思議な光景だ。

 暑くなってきた。午前中なのに30度を超す。歩くのに疲れたので、ちょっとおしゃれな冷房の効いたカフェに入って休憩。ジュースを飲んだ。やっと昼になって、チャン・フン・ダオ像のある広場の近くのガイドブックなどに出てくるレストランで食事。実においしい。ベトナム料理は本当においしい!

 その後、ホテルに入れる時間になったので、部屋で一休み。ビジネスクラスとはいえ、十分には眠れなかったので、ひと眠りした。

 夕方、ガイドさん(ホテルまで送ってくれたのは別の人)が来て、初めて出会う日本人客数人とともに水上人形劇を見に行った。水上人形劇はハノイで以前見たことがある。とてもおもしろかった記憶があるが、今回は、少々子供だましだと思った。人形の動きもそれほどの工夫が感じられず、あまりリアルではないし、様式美があるわけでもない。しかもワンパターンで退屈になった。客もそれほど面白がっている様子はなかった。

 その後、サイゴン川でのディナー・クルーズ。そこでまた新たに日本人客数人と合流して10名ほどで食事。ベトナム料理はどこで食べてもおいしい。が、増幅された大音響の音楽(民族楽器が使われていたが、曲目は現在の曲がほとんどだったようだ)は私には耐えがたかった。

 どこに行ってもあれほどものすごい人数の中国人観光客をほとんど見ないことに気づいた。たまたまそのような場所に私たちが出入りしているのかもしれないが、日本人によく出あう。中国人よりも日本人のほうが多い外国など、本当に久しぶり。

 ホテルに戻って寝た。

 

65

 ツアーに含まれるミトーのメコン川見物。バスで1時間半ほどかけて、メコン河畔の町ミトーへ。今回のツアーは、ずっと同じガイドさんについて歩くのではなく、行動ごとに別のガイドさんが来て、客もその都度変わる。今回は13人の客だった。

 いつまで行っても、バイクの大群が続く。ホーチミン市内から離れて、やっとバイクの数がぐっと減った。

 メコン川到着。決して美しい水ではない。だが、チベットから様々な森の栄養を運んでくる大河だ。船で中州に行き、そこで果物を食べた。

 そのときに、突然、大スコール。雷が鳴り、豪雨になり、座っている椅子にまで雨が吹き込んできた。が、30分ほどで雨はやみ、晴れ間が見えてきた。それはそれで実に爽快。その後、二人が手漕ぎをするボートで狭い川を下った。突然のスコールを除けば、2012年に訪れた時とまったく同じコース、同じ店だった。既視感に襲われた。

 その後、バスでレストランに移動してエレファント・フィッシュなどを食べた。2012年にも同じような料理を食べたが、レストランは異なる。今回のレストランは、池があり、ベトナム風の建物があって、風雅な作りだった。料理はここも実にうまかった。

 その後、ホーチミン市に戻って、市内観光。サイゴン中央郵便局、歴史博物館、英簿マリア教会(ただし、改修中につき中は見物できず)などをみた。

 いったんホテルに戻って、夕方、別のガイドさんに連れられて、今度は家族の二人だけで夕食。そこもおいしかった。本当にすべてのレストランでおいしいものが食べられる!

 それまで泊まっていたホテルは、ビジネスクラスのツアーだということで期待していたものとはかなり異なっていた。しかも、あてがわれた部屋は窓がなく、清潔ではない。そのほかにもいくつも問題を感じた。この日の午後、追加料金を支払って、別のホテルに変えてもらうことにした。食事の後、新しいホテルに移った。

 そのホテルはグエンフエ大通り沿いにあった。ところが、この日、ベトナム対タイのサッカーの国際試合が行われており、そのライブビューイング会場がホテルの目の前だった。大画面がいくつか用意され、道は通行止めになり、人があふれ、大騒ぎしている。ホテルの前まで車は入れず、途中から歩いた。全員が大画面のほうを見ている。とはいえ、ベトナム人は礼儀正しいので、大混乱の様子はない。部屋に入っても音が聞こえる。

 22時まで営業しているスーパーが近くにあったので、買い物に行った。お土産物もついでに買った。高級スーパーのようで、高級品がそろっており、日本人客が大勢いた。

 ドンの価値は日本円の200分の1ほどにあたる。1万ドンが50円、10万ドンが500円。物を買おうとするごとに、桁の大きさに頭が混乱し、イチジュウヒャクセン・・・とゼロの数を数え、それを日本円に計算しなおす。

 しかも支払いの段になると、紙幣はすべてホーチミンの図柄で、そこにいくつもの0の並ぶ数字が書かれている。どの紙幣が1000か10000か100000かわかりにくい。わけがわからず、ともあれ店員さんのいうとおりに支払うしかない。

 スーパーからホテルに戻っているときもまだライブビューイングのサッカーが続いていた。大画面を見ながらホテルに入ろうとしていた時、ベトナムがゴールを決めた。大歓声。その後もゴールを決めたシーンが何度か再生される。そのたびに、喜びの声が広まる。

 大騒ぎの中、部屋に戻った。前日までのホテルに比べれば、格段に快適な部屋だった。

 

6月6

 この日は20時半にホテルからガイドさんが空港まで送ってくれることになっているが、基本的に終日自由行動。ただし、午前中にホテルのチェックアウトの時間なので、外で過ごすしかない。おいしいもの巡りをすることにした。

 朝からチェロン地区にあるビンタイ市場まで歩いて、デザートで有名だという店に行った。テイクアウトの弁当なども扱っている店で、大勢の人が列を作っていた。エアコンのついていない店だった。スイーツを食べた。絶品。3品で日本円で200円程度だった。

 いったんホテルに戻ってシャワーを浴び、チェックアウトして、荷物をホテルに預けて、また市内を歩いた。

 チェックアウト後、昼食のためにバインセオのおいしいという店に向かって歩きながら、統一会堂や、お店の近くにあるダンディン教会(ピンク色の教会)などを見物するつもりだったが、スマホのナビに従ったのが間違いだったのか、予想以上に遠かった。

 それにしても暑い。33度くらい。そして、どこに行ってもバイクのドドドドというエンジン音とクラクションのけたたましい音が響く。静かで涼しいところを探してゆっくりしたい気になるが、そんな場所はほとんどない。

 暑い中歩くのに疲れてカフェ(エアコンのないオープンスペースの店だった)で休憩したために、店に到着したのが14時直前で、バインセオで有名な店はすでに閉店だった。意気阻喪。

 疲れ切ったので、いったんホテルのロビーで涼もうと思い、ダンディン教会前に停車中のタクシーに乗ったのが失敗のもとだった。

 今回のホーチミン旅行で乗る初めてのタクシー。40代に見える運転手。警戒をして、メーターを下すように言った。1時間以上歩いた距離なのに、タクシーだと10分ほどだった。メーターに62という数字が見えたが、メーターが曇っていて、よくわからない。ホテルのドアまでおろしてもらえると思っていたら、道路の反対側で停車。

 6万5000ドン(330円くらいにあたる)だと思って、10万ドン札で支払おうとすると、運転手は「ノーノー」といい、私の財布をのぞき込んで、50万ドン札を指さし、「それだ」という。

 例によって、ベトナムのドンは桁数が多いので、紙幣の価値がよくわからない。紙幣はすべてホーチミンの図柄で、ゼロの数字が並んでいるので、さっぱりわからない。ちょっと疑問に思ったが、強く「もう一枚」といわれて、根が善良な私は、言われたまま、もう一枚同じ札を渡してしまった。運転手は釣りの紙幣を数枚くれた。

 で、タクシーを降りて考えてみると、運転手に渡したのは間違いなく50万ドン紙幣2枚だった。100万ドン。つまり5000円ほどに当たるではないか! 返ってきたお釣りは5000ドンほど。これは間違いなくぼられた!! 旅慣れたはずの私がまんまと騙された!

 後で、日本人向けのタクシーの乗る時の注意がガイドブックに書かれているのを見た。そこに「10万ドン以上の紙幣を渡さない」という注意があった。もっと前に読んでいればよかった!

 しばらくショックから立ち直れなかった。5000円でよい経験ができたと思うことにしたが、それにしても悔しい。しかも、余裕をもって一日を過ごせると思っていたのに、ドンの手持ちが少なくなってそれだけでは夜までホーチミンで過ごせない。

 遅めの昼食を終えた(現金が心配なのでカードで支払い)あと、ベトナム戦争証跡博物館まで歩いて行った。敷地内にベトナム内でとらわれたアメリカ軍の戦闘機などが展示されている。かつての2度のホーチミン旅行ではこの博物館が強く印象に残っている。ベトナム戦争の残虐さ、ベトナム人の必死の戦いの跡が示されていた。地下基地などを見たのもこの場所だったような気がする。

 ところが、今回来てみると、ガイドブックにはあまり大きな記載がなく、しかもツアーの市内観光にも含まれていない。客の人数もそれほど多くない。館内の展示も1階はむしろアメリカ兵のベトナム兵の友情、アメリカ人の反省などが目立つ。疲れたので椅子に座ると、その前で映像が流されていた。ベトナム語だったので内容はよくわからなかったが、アメリカ人らしい高齢の西洋人が墓参りをしたり、ベトナム人と握手をして涙を流したりする場面の連続だった。

 かつての「残虐な戦争を戦って、アメリカに勝利したベトナム人」を訴える場から、「ベトナム戦争を経て、国際協調を重視するベトナム」を訴える場にこの博物館も方法転換されていることがよくわかる。

 いったんホテルに戻ることにした。到着した直後に雨が降り出した。しばらく休憩して、近くで軽い夕食(ここでも仕方なしにカードで支払い)を済ませて、ガイドさんに連れられて空港に向かって帰国。

 今回の最大の目的は「ベトナム料理」だったので、ともあれ満足。すべての食事が満足できるものだった。なぜベトナム料理がこれほどおいしいのか、まさに謎。タクシー料金をだまされたのがとても残念だが、このくらいの損害で済んで、まずはよかった。ホーチミン市の中心部はかなり歩き回ることができた。道に迷いつつ、周囲を見て、異国の生活を味わうという旅ができたと思う。

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ジョージア・アルメニア旅行

 昨日までジョージア・アルメニアの3泊6日の弾丸ツアーに出かけていた。ツアーといっても、客は私一人。搭乗手続きが2019518日の深夜で、19日の001分に出発する便に乗ってジョージアの首都トビリシに2泊、アルメニアの首都エレヴァンに1泊し、2泊目はしないまま深夜にホテルを出て23日夜に帰国するというスケジュール。「3泊6日」ということになる。

 日本との時差は5時間なので、早朝に目が覚めたので日記のように旅行中の出来事を書いていた。それをそのままここに記す。

 なお、IT技術未熟につき、写真を挿入できない。一時期、できるようになっていたのだが、ニフティの「ココログ」の仕様が変わってから、またできなくなった。旅行記に写真がないのは読み物としては致命的欠陥だが、まあ仕方がない。

5月20

 昨日(519日)からジョージアのトビリシに来ている。

 岩波ホールでジョージア映画祭をみて、ジョージア出身の音楽家たち(ヴァイオリンのリサ・ヴァティアシュヴィリ、メゾ・ソプラノのアニタ・ラチヴェリシュヴィリ)を聴いて、この旧ソ連の小さな国にとても関心を持った。次の旅行先としてジョージアを選び、小さな旅行会社に申し込んで、ジョージアと、その隣国アルメニアを含むツアー(ただし、参加者は私だけの個人ツアー)に申し込んだ。

 ドーハ経由のカタール航空。ドーハ着陸の少し前、飛行機の翼に雷が落ちた。ほとんどの窓はまだしまっていたので、気づいた人は少なかっただろう。ただ、私の列の窓際の女性(中東系に見える若い女性)は窓を開けていた。通路側の席にいた私は窓の外をのぞきこんでいた。と、その時、まさしく翼に雷が落ち、一瞬、激しく光った。女性が悲鳴を上げた。が、それだけ。機体が揺れることもなく、停電になることもなく、揺れることもなく、何事もなかったかのように進んだ。

 着陸時、ちょっと心配だったが、15分遅れ(しかし、それはたぶん空港の都合)で到着。このような小さな雷が落ちることは日常的なのだろう。

 ドーハで1時間15分の待ち時間でトビリシ行きに乗り換える予定だった。急いで乗り換え手続きをすまして、トビリシ行きの搭乗口に向かって、機体に向かうバスに乗り込んだが、それが最後のバスだったようだ。ともあれ、無事乗り換えられた。

 飛行機の中は、羽田からドーハもドーハからトビリシまでも快適だった。窓の外にカスピ海が見えた。

 

 トビリシの空港は新しい清潔な建物だった。途上国の喧騒はまったくない。静かで落ち着いており、空港の周辺はきれいに整備されている。現れたガイドさんは20代のかわいらしい女性。語彙は少ないが、しっかりした発音で話をする。書いた文章もちょっと見せてくれたが、これが実にこなれた日本語。感じもよく素晴らしい! 運転手さんとホテルまで連れて行ってくれた。

 緑の多い街だ。道路はきれいに整備され、古い由緒ある建物と真新しい建物、そしてモニュメントがあちこちにある。ガイドさんが総務省などの庁舎を教えてくれたが、そのどれもが斬新なデザインの建物だった。市街地に入ると、まさにヨーロッパのこじんまりしたきれいな中都市。ロシア時代の名残などほとんど感じない。いかつさはなく、おしゃれで庶民的。

 ホテルは自由広場のすぐ近くにあった。ちょっと古いがとても便利で、感じもいい。まだ昼を過ぎたばかりだが、空いている部屋に入れてもらえた。

 夕方、ガイドさんが食事に連れて行ってくれることになっていたので、ホテルの室内で一休みしてから一人で散歩に出た。

 まず、スマホの地図と「地球の歩き方」の地図を頼りにムトゥクヴァ川に出てみようと思った。観光客が多く、観光客とみるとツアーやタクシーを呼び掛けてくるが、それはどこにでもあること。勧誘してくる人も、東南アジアのようにしつこくない。

 暑い。30度はありそう。コテ・アブハズィ通りを歩くうち、シオニ聖堂の案内が見えたので、そちらのほうに歩いた。6世紀に建てられた大聖堂だ。あまり飾りのない質素な教会でジョージア正教の中心地とのこと。多くの人が中でお祈りをしていた。こじんまりしていて、信仰心にあふれているが、厳めしい雰囲気はない。聖母の絵があり、十字架があり、そこで何人かがお祈りをささげていた。

 そのまま聖堂の外の階段を下りて川沿いに出た。川沿いのV.ゴルガサリ通りを少し歩いて、平和橋に入った。平和橋は川を横断する真新しい橋だ。おしゃれなデザインで晴れ渡った空の下、薄い青緑色のガラスの英局した屋根が生える。私も平和橋を渡って川の反対側にわたってみた。川を除いてが、決してきれいな川とは言えない。濁っているし、魚もいそうもない。

 その後、一旦ホテルの方向に戻って、ルスタヴェリ大通りを歩いてみることにした。左側にショッピングモールがあり、庭園があり、国家議事堂があった。右側には国立博物館、現代美術館、カシュヴェティ教会、ナショナル。ギャラリーが並んでいた。

 歩いているうち、1970年代、パリのサンジェルマン大通りを歩いた時の記憶がよみがえった。整備されたきれいな並木道。そこをフランス人が歩き(当時は白人がほとんどだった)、古い建物に交じって新しいビルが建っていた。

 道を歩いて感じるのは、お店が少ないこと。観光客向けのレストランはあるが、スーパーやコンビニなどの小売店がなかなか見つからない。横断歩道が少なく、広い道を渡るときには主要地の近く設置されている地下道を渡らなければならないが、そこには必ず物乞いが何人かいる。また、純粋な物乞いではないのだろうか、ほんの数点を地面において、ちょっとした野菜などを売っている人もいる。古本を道路で売っている人も何人か見かけたが、古本屋さんというよりは、自分が読んだ本を売りに出しているような雰囲気だった。地下道には靴や酒や下着や通信道具の商品を売る小さな店が並んでいるが、そこにも食料を扱う店が見当たらない。ただ、ちょっと雑然としているように思えるが、そうした店が静かに並んで、特に客引きをしているわけでもないし、客寄せに音楽がかかっているわけでもない。

 ピロスマニの絵がたくさんあるというナショナル・ギャラリーに最初に行ってみた。キリコ展が行われていた。私は特に絵画に関心があるというわけではないが、ジョージア(グルジア)に関して初めて知ったのは、1970年代に映画「ピロスマニ」をみたときだった。そもそも、ジョージアの画家で名前を知っているのはピロスマニだけだ(ちなみに、ピロスマニも本当の名前はニコ・ピロスマナシヴィリ。この国の人の名前は難しすぎて発音しにくいし、みんなの名前がよく似ていてい覚えられない!)。その後、現代美術館(外からも目を引く建築で、なかも階段がガラス張りで段差が見にくく、足を踏み外しそうになり、なおかつ、階下まで透けて見えるのでちょっとした恐怖を覚えた)をみたが、強く感じたのは、ジョージアの人の独特の感性だ。

 私は美術に関しては人並みの知識さえ持っていないので、偉そうなことは何も言えないのだが、ジョージアの画家たちの絵を見ると、日本の浮世絵と同じような現実を少しデフォルメして自分の独特の目で見る傾向があるのを感じた。

 ピロスマニの作品だけではなく、不思議な雰囲気のものが多い。そして、フランスやイタリアの有名絵画そっくりの構図のものもたくさんあるが、そこには模倣というよりもパロディのような、「おれならこうする」という対抗意識のようなものが感じられる。素人の私から見て「つまらない」と思う絵もたくさんあったが、目を引くものもたくさんあった。(ただ、どの画家も名前が似ていて、しかも長いので、覚えられない! 日本に帰って調べよう)

 ナショナル・ギャラリーの裏に広い公園があった。段差になりながら、川まで続いていた。緑が多く、多くの市民が何人かでおしゃべりしたり、一人で読書したりといった思い思いの時間を過ごしていた。静かな時間が流れている。私もその公園で一休みした。成熟した町だということを強く感じる。

 ナショナル・ギャラリーと現代美術館に囲まれたカシュヴェディ教会は小さな教会だが、何人もの人が訪れていた。周囲には物乞いが5、6人いた。訪れているのは観光客ではなく、現地の人だと思う。祈りをささげていた。男性たちのアカペラの重唱が聞こえた。素晴らしい声! 日本のプロ歌手でもこんなにきれいな男声合唱はできない!

 ところで、この国の人の信仰の深さを感じる場面を何度も見た。教会の前を歩くとき、通り過ぎるだけなのに、教会のほうを見て小さく祈りをささげる。少しアウトローに見えるタイプの男性も同じようにしている。若者もそうしている。通りの向川の歩道からもそのようにしているのを見た。

 ショッピングモールを少し見て、1階のスーパーでちょっとした買い物をしてホテルで休憩。

 

 夕方、ガイドさんがやってきて、夕食。オールドハウスという名前のレストランで、川辺で食事。ハチャプリというチーズピザを中心に、とても素朴な料理を食べた。にんにくの味が聴いて、おいしい。チーズもおいしい。ジョージアはワインの発祥の地なので、もちろんワインを飲まないわけにはいかない。これまたコクのあるとてもおいしいワインだった。

 飲食しながら、ガイドさん、運転手さんと話した。私がワインを飲んでいると、その飲み方が運転手さんには気になったようで、「ワインというのはイエス様の血なので・・・」と言い出した。もちろん日本語はできないが、とても初老の男性なので、もちろん悪気はない。もっと感謝を込めて飲んでほしいということの用だった。その後もガイドさんの通訳であれこれ話したが、ますます打ち解けてくれた。が、同時に、この国の人々の信仰の深さ、ワインへの思いに驚かされたのだった。

 食事中に雷が鳴り始め、大雨になった。が、通り雨だったようで、食事が終わった時にはほぼやんでいた。

 食後、すぐにホテルに戻る予定だったのだが、私の希望を入れて、メイダンを回ってもらった。歴史的に様々な文化が交わり、イスラム教、ユダヤ教などが入り混じる地メイダン。渋谷を思わせるような歓楽街に、シナゴーグがあり、その横をイスラムの姿の人が歩いていた。まさに宗教のるつぼ。地下のかつてのバザールを再現した場所もあった。そこにも立ち寄った。

 疲れ切って、ホテルについてすぐに寝た。

 

 

5月20

 朝の9時にホテルを出発。車でまずムツヘタに行った。先に車で日本のいろは坂のような道を上り、そのあと、200メートルほど坂道を歩いて、丘の上に立つジュヴァリ教会に行った。6世紀に建てられた教会で、世界遺産に指定されている。丘の上にぽつんと立っている。丘からは眼下にムツヘタの赤い屋根の多い町並みと様々な近代的な建物のたつ新しい町並みを見下ろすことができる。古い町の横で色の異なる二つの川が合流している。

 ジュヴァリ教会は、石造りの簡素で小さな教会だ。観光客がかなりいる。先に周囲を見てから、中に入った。十字架やイコンなどの聖なるものがあった。

 ガイドさん(どうやら、大学で日本語を学ぶ学生さんらしい。日本留学が決まっており、アルバイトでガイドの仕事をしているという。日本にこんなにしっかりした学生がどれほどいるだろう!)によれば、外壁のレリーフに太陽の徴があったり、中の絵画に私の知らない聖書由来の物語があったりするなど、西欧のカトリックの教会では聞いたことのないような事柄がたくさんあった。ジョージアの教会に特有のものなのか。あとで調べてみる必要がある。が、ともあれ、信仰が最も素朴に建物になっているのを感じる。

 その後、車で丘を降りてムツヘタの古い町にあるスヴェティ・ツホヴェリ教会に行った。こちらはジョージア最古の教会であり、もとは4世紀に建てられたのだったが、現在残っているものは11世紀に建てられたという。これも世界遺産。かなり大きな教会だ。まさに大聖堂。しかし、造りは丘の上のジュヴァリ教会に似ている。簡素な石造りで外壁に十字架や太陽の徴や貼り付けなどのレリーフが施されている以外は大きな装飾もない。むき出しの石が存在感を高めている。こちらについても、カトリックなどの教会では聞いたことのない話をいくつか聞いた。また、この教会の由来を示す少女と聖ニノのエピソードを示す絵画もあった。

 少し歩いて、スタムヴロ教会に行った。小さな教会で、女子修道院が併設されていたらしい。こちらも簡素な石造りで美しい。これは世界遺産ではないとのことだが、こじんまりしていてとても感じがいい。

 

 その後、ジョージア軍用道路に進んだ。1799年に帝政ロシアがコーカサス地方からその先までを軍事的に制圧しようとして軍事用に山を切り開いて建設した道路だという。現在はもちろん片側1車線の道として舗装されているが、まさに断崖絶壁を曲がりくねって走っている。私の乗る60歳前後の運転手さんはかなりスピードを出すタイプのようで、次々と前の車を追い抜いていくので、少々怖かった。

 途中、ダムによってできた人造湖、その近くにあるアナヌリの石造りの城塞と教会をみて、どんどん進んだ。観光名所である理由がよくわかる。風景が素晴らしい。渓谷があり、緑に覆われ、切り立った崖があり、渓流がある。車に乗って外から見ているだけで飽きない。

 雨が降り出してきた。山の気流の具合による一時的な雨かと思っていたが、そうでもない。時々晴れ間も見えるが、徐々に雨が強まる。その中で、遠くに雪山が見えてきた。そして、どんどんとそちらの方に近づいていく。そして、実際に周囲は雪景色になってきた。昨日は30度前後あった。今日も平地は20度を超していただろう。が、軍用道路で北上するうち、季節が23か月さかのぼった感じだった。

 小さなレストランで昼食をとった後、ソ連時代に、ロシアとジョージアの友好200年を記念して作られたモニュメントに寄った。周囲には雪が残っている。冷たい雨が吹き付ける。ありったけの服を着て外に出たが、おそらく摂氏5度くらい。しかも雨のためにかなり濡れた。このモニュメント、デザイン的に面白いが、ジョージアの人はロシアに虐げられた歴史を物語るものであって、面白く思っていないようだ。

 そのあと、14世紀に建てられたゲルゲティノツミンダ・サメバ教会に寄った。これも丘の上にある小さな簡素な教会だった。周囲を5000メートル級の山に囲まれているというが、雨や雲のために見えない。山のふもとに小さな集落が広がっている。

 ただ、もうすでにびしょぬれで寒い! 車に戻った。その後、来た道を戻って、トビリシに向かった。体が濡れていて寒かった。10度くらいに思えるところでも半そでにシャツ一枚だった運転手さんにお願いして暖房をきかせてもらっても寒かった。

 が、無事にトビリシに到着。レトロ・レストランというツアー客の集まるレストランで、オランダ人?とドイツ人とアメリカ人?の大集団(一つの集団が40人程度)に囲まれて夕食。オランダ人?の集団が何度も声を合わせて歌い出すのには参った。話ができなかった。

 まだ寒気が抜けず、しかも食欲がない(曲がりくねった道をかなりのスピードで走ったための車酔い? あるいは、ふだんは朝食を抜く生活なのに、朝食付きのホテル料金を無駄にしたくないという貧乏性でつい朝からたくさん食べるせい?)。とてもおいしい料理だったが、早々に帰った。すぐに風呂に入って寝た。

 

 

5月21

 

 朝9時にガイドさんが迎えに来て、車でトビリシのホテルからアルメニア国境に向かった。南に向かう。右も左も野原が続く。人家はほとんどない。なだらかな山。美しい。それがずっと続く。

 車で1時間以上飛ばしてやっと国境の町バグラタシェンに到着。パスポートを確認されてから、国境の施設の中に入った。有料道路の入り口のような検査所があり、中に駐車場や3階建てくらいの建物がいくつか覆われているが、それほど厳しい雰囲気はない。軍人も武装した警察官も見当たらない。人もあまりいなくて、がらんとした雰囲気だった。

 国境までジョージアのガイドさんが連れてきてくれて、アルメニアのガイドさんに引き継いでくれる予定だった。ところが、相手のガイドさんとどこで会うのか打ち合わせができていないようで、30分近くウロウロ。ガイドさんは何度も携帯に電話をかけるが、返事がないという。

 やっと連絡が取れて、パスポートコントロールの先でアルメニアのガイドさんが待ってくれていることがわかって、これまでのガイドさんと別れて、1人でパスポートコントロールのところに行くことにした。そうこうするうち、私の携帯でもアルメニアのガイドさんと連絡できるようになって安心。

 がらんとしているように見えたのに、そこには人だかり。大学の50人教室程度の部屋に係員が7、8人かいて、その前にきちんとした列もなしにおそらく80人以上の旅行者がコントロールを待っていた。部屋からはみ出して廊下にも20人ほど待っている。

 廊下の外で待って30分ほど並んでやっと部屋の中に入れた。コントロールの仕事をしている係官は3人だけ。ガイドのような通常行き来する人はパスポートを見せ、そこにスタンプを押すだけで済んでいるようだが、それ以外の観光客には1人につき5分以上かかっている。私の前の中国人は10分以上かかった。これではいつになるかわからない。

 たまたま比較的人数の少ない列があった。中国人グループが並んでいた。私はその後に着いた。中国人グループの存在感は大きく、他の列には次々と割り込みがなされるのに、中国人が並んでいる所には割り込みがない。私は中国人のグループの1人のような顔をして、そのままコントロールを受けることができた。それでも1時間ぐらい経っていた。

 

 アルメニアのガイドさんと合流。しっかりした感じの小柄で綺麗な女性。ベンツの乗用車に乗って案内してもらった。ちょっと訛りはあるが、語彙が豊かでしっかりした日本語で的確に説明してくれる。

 ジョージアの道はほとんど舗装がなされていた。きれいとは言えなかったが、トビリシ以外の地方でも普通の舗装道路だった。道路に牛がいたりもしたが、それでも舗装はきちんとなされていた。

 ところが、アルメニアに入った途端に道が悪くなる。山道を進んだせいもあるのかもしれないが、穴だらけの道。雨が降っていたので水たまりがたくさんあってまっすぐ進めない。どの車も大きな穴を避けながら左車線のほうに入り込むなどしてゆっくり進む。行き交う車はベンツが多い。道が狭く穴ぼこだらけなのでベンツは運転しにくいだろう思うのだが、なぜか5台に1台位がベンツ。外は日本車や他のドイツ車。ロシア製のラダの車もある。ソ連時代のラダもとろとろと走っている。

 風景は素晴らしい。両側がまさに森の世界。谷川があり、山が広がり絶壁がある。木々が見え、野の花が見える。

 ツアーの予定では、国境の町からいくつかの修道院や教会を見ながら、首都エレヴァンに向かうことになっている。

 1時間近く走って、切り立った山の上にあるハグパット修道院に到着。世界遺産に登録されている丘の上の大きな静かな、そして厳かな建物だ。10世紀から13世紀にかけて建てられてきたとのこと。地面に長方形の石がいくつも並んでいる。かつてそこで暮らした神父たちの墓だという。みんながその上を平気で歩いている。墓を踏みうつけながら修道院を歩くのがふつうのことらしい。踏まれることによって魂を浄化させることができるのだと言う。

 建物はまさに質素。質実剛健という言葉がふさわしい。飾りはなく、石がむき出しになっている。チャペルにはフレスコ画があったらしいが、それはもう剥がれている。

 大きな建物がいくつかあった。外壁にはほとんど飾りはないが、十字架の印はあちこちにある。これまで見たことのない十字架だ。下のほうに 葉っぱのような模様がある。ガイドさんによると十字架は死の印ではなく、これから生まれる命の象徴だと言う。それがアルメニア正教の考え方らしい。

 ジョージアの修道院や教会ともかなり異なる。ジョージアは質素ですっきりした感じだった。ところがこちらは、がっしりして堅固で厳しい。ガイドさんが強調するのは、アルメニアの人々が迫害にも負けず自分たちの信仰を強く守ってきたこと、修道士たち、そしてアルメニアの人々みんな学ぶのが好きだということだ。修道士は必死に勉強し、自分たちの信仰や歴史を文章にして残し、迫害され、屈辱を受けながらも、それを必死に守ってきたと言う。そのようなエピソードをいくつも聞いた。

 フランス人、ドイツ人のグループの観光客がいた。日本人を見かけなかった。

 次に向かったのは車で30分ぐらいのところにあるサナヒン修道院だった。こちらも切り立った山の上にあり、ハフパッドよりももっと古い修道院だと言う。細かいところではいろいろ違うようだが、まったくの素人でメモを取らずにガイドさんの解説を聞くだけの私にしてみれば、まぁ似たようなものだと思う。同じように質素で厳しい。

 ウィキペディアにも出ているようなので、とりあえず帰ってよく整理してみようと思った。

 ともあれ印象としては、アルメニアの人々の強い信仰の表れが形となったような修道院だった。ジョージアの人々にも強い信仰心を感じられたが、アルメニアの人々の信仰心には、とりわけ強い意志のようなものを感じる。屈辱に満ちた歴史を信仰によって何とか守ろうと言う意地とでもいうか。信仰心に屈辱に対する怨念、1915年のトルコ(当時のオスマン帝国)によるアルメニア人虐殺の記憶が混じっている。

 再び車でエレヴァンに向かう。きれいに整備された舗装道になったかと思うと、またアナらだけの山道になる。風光明媚なところもたくさんある。国境の町バグラタシェンとエレヴァンの間にあるアルメニアの北部はまさに森の世界だと言う。曲がりくねり、道路の穴を避けながら、エレヴァンへと向かった。

 ガイドさんの言う通り、長いトンネルを抜けるとまるで違う世界が広がった。それまでは森林の世界だったのだが、突然草原の世界になる。切り立った山はなくなり、なだらかな草原になる。道路もくねくね曲がるのではなく、直線になる。道路も舗装がしっかりしてくる。山道で道路が穴ぼこなのは寒暖差が大きくアスファルトの中で水分が凍ってアスファルトを破壊するからだと言う。トンネルよりも南ではそのようなことが少なくなるのだろう。

 しばらく進むと左手にセヴァン湖が見えてきた。きれいな湖だ。青々とした水が広がっている。周囲の木立も美しい。海抜2000メートル近くの湖なので、冷たくて、夏でも泳ぐのは無理だという。しかし、それにしても本当に美しい。

湖の縁に小高い山があり、その頂上に9世紀に建てられたという古い修道院後があった。そこは昔、湖の中の島だったと言う。水が減って、今は湖畔の建物になっている。息を切らしながらそこに登った。修道院後は石を石が残っているだけだが、その後建てられた小さな修道院があった。それも雰囲気がある。

 その後まっすぐに車でエレヴァンに向かった。

 エレヴァンに入るころから、遠くにアララト山が見えてきた。アララト山の横には小アララト山といわれる富士山をミニチュアにしたような山もある。

 アララト山はノアの箱舟が到着したとされている山であり、箱舟の跡のようなものが見つかったとのことで一時期、大きな話題になったことがある。富士山が日本人にとってそうであるように、アルメニア人の心の故郷だが、今はトルコ領になっており、アルメニア人は自由に出入りできない。

 アルメニアの人の気持ちはよくわかる。アルメニア人はノアの直接の子孫だと自分たちを信じている。だから、アララト山を信仰の対象にしている。晴れた日には毎日、エレヴァンの町からアララト山がそびえたっているのが大きく見える。それなのに、アルメニア人を15万人虐殺していながら、そのことを認めていないトルコの領地内にその山はあって立ち入ることができない。屈辱と無念を毎日感じ続けている。それがアルメニアの人の気持ちなのだろう。

 19時30分ごろホテル到着。ホテルで予約してもらっていた夕食を1人で食べた。しかし、お腹が空いていないためせっかくおいしいお肉も少ししか食べられなかった。

 

5月22日

 朝9時に出発。ガイドさんに連れられて、リプシメ教会に車で向かった。

 市内にはソ連時代特有の安づくりのアパートがいくつも見える。トビリシとはずいぶんと雰囲気が違う。ソ連時代の車も走っている。あちこちにソ連時代の名残がある。ジョージアとは経済的にも少し差があるのかもしれない。

 リプシメ教会はキリスト教を布教して殉教した女性リプシメを祀る教会で7世紀にたてられた。地下にリプシメの遺骸が残された墓がある。日常的に今も多くの人が訪れている教会だ。赤っぽい色の石でできていて、とても美しい。気のせいかもしれないが、何となく女性的で優美な感じ。だが、装飾もなく、余計なものがない。カトリックの教会とかなり異なる。中はがらんとしており、葉っぱの模様のある十字架と簡素なキリスト像などがあるばかり。

 次にアルメニア使徒教会の総本山エチミアジン大聖堂を訪れた。4世紀に最初に建設され、世界遺産に指定されている。聖堂の近くに修道院、大学などのいくつもの施設がある。トルコの虐殺を逃れた子供たちを収容した施設もある。ただ、残念ながら聖堂は改修中で、中に入ることはできなかった。

 午後もまた世界遺産巡り。まず、ガルニ神殿に行った。ガルニ神殿は、キリスト教以前に信仰されていた太陽神を祀った神殿だ。地震で破壊されていたのが再建されてギリシャ神殿のように丘の上に建てられている。近くに浴場跡も再建されている。しかし、それ以上に、この丘から見える山や谷の美しさに私は驚いた。岩肌の見える切り立った崖があり、そのような丘がいくつも重なって見える。その谷間に緑が広がっており、ところどころに人家がある。さわやかな風が吹き、蝶が舞い、風の音がする。よい季節だ。

 その後、車で10分ほどのゲガルド洞窟修道院に向かった。4世紀に迫害を逃れた修道僧たちが建てたのが始まりだという。その後、アラブ人に破壊された後、現在は13世紀に造られたものが残っている。修道僧たちが岩をくりぬいて作った僧房があり、その下に聖堂が建てられている。

 岩を掘ってこれらの大きさの堂を作る壮絶な信仰心に驚く。中は質実剛健そのもの。僧たちはワインを飲まず、ただ塩とパンと水だけで生きたという。個々もまた装飾はほとんどない。岩肌に十字架などの印があるだけで、飾りのようなものはない。

 その後、いったんホテルに戻って、しばらく一人になって休憩。一人で街を歩こうと思っていたら、突然の大雨になった。散歩はあきらめて、夕食。また、一休みして、夜中の24時ころにガイドさんに迎えに来てもらって空港へ。午前3字の飛行機でドーハに雪、そこから羽田へ。

 23日23時40分過ぎに羽田到着。24日午前1時過ぎに帰宅した。疲れた!

 

旅のまとめ

・ジョージアについては少しだけ映画などで「予習」していたが、アルメニアについてはほとんど何も知らないままの旅行だった。ハチャトゥリアンがジョージア生まれのアルメニア人だという認識くらいしかなかった。サローヤンがアルメニア移民だったことをガイドさんに聞いて思い出した(昔、文庫で短編集を読んだ記憶がある)。

・ジョージアとアルメニア。日本人からするとほとんど区別のつかない二つの国だが、だいぶ雰囲気が違っていた。私の見る限り、ジョージアは芸術的なセンスにあふれた西ヨーロッパ風の国。信仰心は強いが、自然でしなやか。とりわけトビリシにそれを感じる。それに対して、アルメニアはソ連の雰囲気を残し、迫害の歴史をアイデンティティにした意志の強い人々の国。強固な信仰心を持ち、不屈の精神力を持っている。そうした点を除けば、やはりこの二つの国は似ている。風景は美しい。信仰心が篤い。料理も細かいところではかなり異なるのだろうが、大まかには同じような味がする。どちらもなかなかおいしかった。

・アルメニアのガイドさんにいくつもの音楽を紹介してもらった。ガイドさんの好みも入っているのかもしれないが、それらの音楽はいずれも人生の悲哀をかみしめる音楽だった。コミタスという国民的作曲家を初めて知った。彼の作品をいくつかyoutubeで聴いたが、とてもいい。まさに魂を歌い上げる音楽。ただ、ブルックナー的、ワーグナー的な重みは大好きだが、魂に訴える系の重みが苦手な私としては少々うっとうしさを感じるが、なかなかに聴きごたえがある。確かにこれがアルメニアの魂なのだろう。

・道路マナーを私は民度の指標と考えているが、二つの国ともに、ルールをきちんと守っていた。やはりとても民度の高い国だと思う。

・日本の観光客にはほとんど会わなかった。唯一人、ゲガルド洞窟修道院を観光中、日本語で話しているときに日本人の若い女性に話しかけられた。その人は、現地の友人とともに来たという。その方も日本人が珍しいので声をかけてきたのだろう。ほとんどは欧米人だが、中国人旅行客は大勢いる。ホテルでもレストランでも観光地でも中国人の団体としばしば一緒になる。韓国人もちらほら。エレヴァンに大きな中国大使館が建設中だった。ますます中国の存在感が高まる。

・どこに旅行に行っても、その国の歴史を予習していなかったことを後悔する。が、今回、とりわけそうだった。今回訪れた二つの国について、あまりに無知であることを改めて感じた。もう少し勉強してからまた訪れたい。そうでないと、ガイドさんの説明を聴いてもよく理解できない。まあ、今回はこれで良しとしよう。

 

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ドバイ、アブダビの旅 まさにワンダーランド!

228日から34日(2019年)まで、短期間だが、アラブ首長国連邦(UAE)のドバイ・アブダビ゙の旅行をした。アブダビにはルーヴル・アブダビ美術館が開設されており、ダ・ヴィンチの真作とみなされた「サルバトール・ムンディ」が公開予定だとしばらく前にテレビ番組で知った。これを機会に話題の中東の国を見るのもよかろうと思い立って、クラブツーリズムに申し込んだ。出発の少し前、「サルバトール・ムンディ」の公開が遅れて、見られなくなったという知らせが届いたが、すでに行く気が高まっているので、今さらそういわれても、やめるわけにはいかない。

 228日夕方に出発して香港経由で31日朝8時ごろドバイに到着する便だった。かなり遠回りのビジネスクラスでのツアー。これなら手の届く料金だ。

 空港に降り立つ前、飛行機から下を見ていたら、一面、砂漠だった。そして、突然視界がぼやけてきた。雲かと思ったら、少し茶色っぽい。どうやら砂ほこりのようだ。そうした中を着陸。砂漠地帯には珍しく、雨が降っていた。暑くはない。20度を少し超えた位。飛行機の中で着ていた服をそのまま着ていられる。

ほかのツアー客とはドバイで初めて顔を合わせた。4人だった。最低催行人数はもっと多かったはずなので、もしかしたら何人かがキャンセルしたのかもしれない。幸か不幸かメンバーは全員が高齢者。この時期のビジネスクラスのツアーはこんなものだろう。

ドバイ国際空港は一日平均20万人以上が利用する世界最大の空港だという。が、私たちが降り立ったのは古い建物で、本当に巨大なのは、隣の建物らしい。近日中にもっと巨大な空港ができるとのこと。

ガイドさんは日本語の達者なお腹の出た40前後の男性。こんな体型の人をたくさん見かける。後で聞いたところ、エジプトから8年前にやってきたとのこと。ドバイには外国人が多い。8割以上が外国人という。もともとのドバイ人のほとんどがかなりの高給をもらっている。日本円で1000万を超す人がほとんどらしい。外国人はそれに比べるとかなり安く働いている。ホテルやレストランで出会う人のほぼ百パーセントが外国人ということだろう。この国には所得税はない。法人税もない。だから、様々な企業が進出し、中継地点を作り、多くの人が仕事を求めてやってくる。ただ、外国人参政権はないようだ。割の住人の意見ではなく、割の人間の意見で社会が動いているのに、特に激しい抗議は出されていないというから不思議だ。ガイドさんは、英語やほかの言葉を使って現地の人と交流していた。

 話には聞いていたが、実に清潔で整った近代都市。道路は真新しくて車の乗り心地はよい。片側5車線程度の道が続き、歩道があり、街路樹が植えられている。ゴミはなく、完璧といってよいくらい整備されている。雨はすぐに止んだ。

 すぐに高層ビル群が見えてきた。奇抜なデザインの様々なビルが立ち並んでいる。ねじれたビル、パイナップルを形パイナップルの形をしたビル、T字型のビル、H型のビル、ピラミッド型のビル、先の尖ったビルなどなど。まるで建築家のデザインを競い合っているかのよう。これは気鋭の建築家たちの発表の場だといえるかもしれない。そのどれもが50階建て以上なのだと思う。未来都市といってもいい。しかも、いたるところで建設途中の高層ビルが見える。1000メートルを超すタワーも建設中だという。

Photo

 花壇もあちこちにある。スプリンクラーで水を撒いているようだ。海水を濾過して真水にする工場があって、豊富に水が使われている。だが、飲み水などはほかの地域に比べて高額だという。

 大勢の外国人が建設関係の仕事についているとのこと。ところが、建設中のマンションの部屋を合計すると、ドバイの人口を起こしてしまう。多くの人が、自分で住むためではなく、人に貸して家賃を取るためにマンションを建てている。投資のためのマンション建設ということだろう。

 ドバイは石油成金国家なのだとばかり思っていたら、今ではほとんど石油は出ないと言う。先代の王様が、石油が出なくなる将来を見据えて、砂漠の中に都市を作り始めたらしい。そして次々と世界一のものを作り始めた。世界一高い建物、世界一大きな建物などなど。そして投機を呼び込み、観光客を呼び、労働者を呼んだ。人工的な未来都市。実にドバイは不思議なところだ。まさしくワンダーランド。

ドバイには産業はほとんどないと言う。野菜も機械も国内では作られない。すべて輸入に頼っている。国内には海外からのたくさんの会社が支店を置き、ここ中継点にして販路を広めている。ドバイには税金がないので、企業はこぞってやってくる。このような政策が成功して、世界の注目の的になり、今や世界を代表する大都市になった。

 ドバイの街を見ていると、昔訪れた北朝鮮の平壌思い出した。マンションが立ち並んでいたが、生活の匂いがしなかった。それと同じように、ここも生活の匂いがしない。うす汚れたレストランや果物屋や野菜屋や肉屋が見当たらない。怪しい店も見かけない。高級住宅や超高層ビルが並ぶばかり。きっとこの高級マンションの中にスーパーやおしゃれな店舗がテナントとして入っているのだろう。

強い風が吹き、雨が止むと砂が舞う。砂嵐というほどではないが、茶色の砂が飛んでいるのがよくわかる。車には砂埃がついている。雨が降ると、車に砂がべったりついて、汚れる。ところが雨が降ってから数時間後、車のほとんどがきれいになっている。もちろん中には砂だらけのものがある。しかしかなりの数の車が汚れていない! 屋内のきちんとした駐車場にあったのか、それともすぐに洗車したかのいずれか。いずれにしても、今まで訪れた国では考えられない!

 

早速市内観光に出発。世界最大の面積の人工島パーム・ジュメイラ(ヤシの形の島が形作られている)、世界一大きな金の指輪数国あるゴールドリング、世界最大のねじれた塔カヤンタワー、世界最大の屋内スキー場スキー・ドバイなどなど。どれも物量で圧倒する。

ショッピングモールにほとんど関心なく、ブランド品もよく知らず、スキーを一度もしたことのない私は、これらのものにはまったく興味を持てなかった。よくぞこんなものを作ったものだと呆れながら歩いていただけ。ともかくあらゆるものが巨大でおしゃれ。そこを様々な人種の人たちが行き交っている。やはりアラブ系の人が多い。白人もかなりいる。東アジア人もたくさんいる。しかし、思ったほどイスラム色は強くない。イスラム教徒と思われるのにヒジャブをしていない女性も多い。キリスト教国とさほど変わりがない。ときどき、目だけを出した黒づくめの女性を見かけるが、それはむしろ例外的。ガイドさんによれば、これらの女性はサウジアラビア人だろうとのこと。

観光客らしい人も多い。中国人団体客も時々いる。日本語も時々聞こえてくるが、それは観光客ではなく、日本に住んでいる人たちのようだ。日本人は企業関係者を中心に3000人程度住んでいると言う。

「人工性」が一つのキーワードだと思った。巨大な屋内スキー場は、まさに人工性を象徴している。リフトがあり、ゲレンデがあり、山小屋のある屋内スキー場。そもそも、この都市そのものが砂漠の中に人工的に作られたものだ。

 その後、人間的な雰囲気のある界隈で昼食。高級なところではなく、外国人労働者たちが暮らす場所に近い繁華街のようだった。六本木のような雰囲気がある。インド、中国などのレストランがあった。なんだかよくわからないものを食べた。料理の味は決して良くはなかった。

 

昼食後、ホテル(JWマリオット・マーキス・ドバイ)に入って一休みしてから、砂漠ツアーに出かけた。

4WDの車に乗って40分ほど高速道路を走った。砂漠の中の一本道。右も左も砂漠が広がる。ドバイが砂漠の中に建てられた人工の大都市だということをまさに実感する。かなり強い風が吹いて砂を運んでいる。車がかすかに揺れる。ほとんど砂嵐と言えるほど。路上に砂が溜まっている。いちどタイヤが砂にとられてスリップしかけた。

トイレ休憩でスーパーに停まった。だが、ツアー客4人とも私を含めて車外に出るのを嫌がった。外はまさに砂が流れている。

車のタイヤの空気をかなり抜いてから、舗装された道路を離れて砂漠に進んだ。空気の圧力を減らさなければ砂の上では危険らしい。

舗装された道から外れると、そこはまさに砂漠だった。薄茶色の砂が見渡す限り広がっている。サラサラの細かい粒子の砂だ。砂があちこちで小さな丘陵を作り、谷を作っている。コンクリートの壁が作られて砂のたまっているところもある。砂は風で小さく動いているのがわかる。

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20分ほど進んで、ラクダの飼育場所で一旦休憩。少し外に出てみた。

ここも凄い風。1分ほど車の外にいただけで。口の中に砂が混じった。服全体がざらざらしてきた。すぐに車の中に戻った。砂漠地帯の人が着ている服は、何度かぱたぱたと叩けば砂が落ちるようにできていると初めて気づいた。スーツなどを着ていたら、それこそあちこちに砂がたまって落とすのに一苦労するだろう。ポケットのあるシャツなども苦労しそう。

しばらく砂の中を車で走って待機。8台の車が到着するのを待って、隊列を作って、砂漠を出発した。すべてが日本の4WD車。日本車、とりわけトヨタへの信頼が厚い。このようにして、アクロバット走行を行う。これが観光の一つの呼び物になっているようだ。

私たちのツアー・グループは全員高齢者なので、それを配慮してくれてか、しんがりをゆっくりと走ってくれた。それでも、まるでジェットコースターのように砂の山を転がったり、駆け上ったり。頭を車の天井にぶつけそうになる。車が大きく傾いて今にも横転しそうになる。前を行く車は大きな砂塵を上げて走っている。

ガイドさんによると、若いお客さんたちだったらキャーキャーという叫び声が起こるというが、さすがに高齢者ばかりだから、ちょっとした叫び声しか出さない。20分ぐらいだろうか、そのようにして砂漠の中の丘を登ったり降りたりした。しばらくたつと気分が悪くなってきた。車酔いだ。私だけでなく他の女性客も不調を訴えた。おかげで少し加減して走ってくれた。私もあと5分これがついていたら、きっと嘔吐していただろう。

その後少し離れたキャンプ場に行って、バーベキュー・ディナー。

周囲を小さな木立とテントで囲まれた場所に10メートル四方ほどの小さなステージがあり、その前に絨毯が敷かれテーブルが置かれていた。テーブルには100人以上の観光客が集まった。音楽がかかり、アナウンスがあってから、ステージの上できれいな女性のベリーダンスが始まった。とても魅力的な女性が客をあしらいながら、10分ほど踊った。その後、ディナー開始。バイキング方式で、自分で料理を取りに行く。

おそらく気温は15度くらい。長袖の服の上に薄手のジャンパーを着ていたが、かなり寒い。風も吹いている。強い風ではないが、口に含むと、料理に砂が混じっているのがわかる。口の周りにも砂がつく。味も決しておいしいとは言えない。しかも車酔いの後であるだけに、まったく食欲はなかった。

食事をとりながら、男性の火を使った芸などを見て終了。私は男性なので、きれいな女性のベリーダンスには興味を持ったが、それ以外はまずまず。

車でホテルに戻った。ホテルはJWマリオット・マーキス・ドバイ。72階建ての1600室ある超高層ホテル。42階に宿泊。設備もきわめて現代的。すべてが清潔で機能的。外を見るとまさに未来都市。その先に海が見え、反対側には砂漠が見える。これぞドバイ。

 

2日目。この日は午前中にアブダビ観光が含まれる。

ドバイとアブダビ。同じような都市かと思っていたらかなり違う。

アブダビがアラブ首長国連邦の首都。この国は7つの首長国の連邦として成り立っている。ドバイとアブダビはそれぞれがこの連邦をなす国家であり、隣り合っているため車で2時間以内で行くことができ、多くの人が日常的に交流しているようだが、半ば独立しているという。首都はアブダビだが、ドバイのほうが経済的に成功して大きな発展を遂げ、アブダビがそれを追いかける形になっている。アブダビはドバイと異なって石油が大量に出る。いわば石油成金国家だ。

アブダビに向かって小型バスで高速道路を走った。ドバイにいる間は高速道路は砂漠を貫いている。都市部には建物があるが、それを過ぎると右も左も広がっているのは砂漠。ところがアブダビに入った途端に左右に木々が広がる。もちろん、アブダビも砂漠の中に建てられた都市だが、アブダビはドバイのように急速に高層化を進めるのではなく、植林をして、緑を増やし、投資よりも宗教や文化施設を重視していると言う。高層ビルは多いが、ドバイほどではない。

初めに4万人が入って礼拝できる巨大モスク、シェイク・ザイード・モスクを訪れた。UAEの建国の父であるザイード・ビン・スルタン・アル・ナヒヤンが建てたモスクだ。私費を投入したため、どのくらいの費用が掛かったのか不明だという。タージマハルによく似ているがもっと巨大で、もっと真新しく、美しい。

パキスタンのイスラマバードでもシャー・ファイサル・モスクという巨大モスクを見たが、こちらは贅のレベルが異なる。イスラマバードのほうはコンクリートを白塗りにしただけの体育館のようなモスクだったが、アブダビはまさしく芸術品。最高に美しい大理石が敷き詰められ、草花のみごとな彫刻がなされ、主要な礼拝室にはシャンデリアがあり、手作りのペルシャじゅうたんが敷き詰められている。贅を凝らし、芸術のエッセンスを集めて作っている。

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これほどのものを見せつけられると単に石油成金だなどと揶揄していられなくなる。タージマハルなどの歴史的な文化施設もおそらく同じように富と権力を持つ人間がその力を見せようとして、そしてまた自分の信仰心や思いを示そうとしてこのようなものを作ったのだろう。現代の美のすべてを結集させたかのような建築物だと思う。ただ、すでにある文化の模倣であって、新しい文化を築いているのではなさそうだ。

 

その後、ルーヴル・アブダビ美術館を訪れた。2017年に開設されたばかりの真新しい美術館だ。海岸に白い建物がある。シドニーのオペラハウスを思い出す。木漏れ日を再現したという屋根が美しい。美しいだけでなく、このような工夫によって自然光が取り入れられているという。フランスのルーヴル美術館が別館として認めているらしい。きっと莫大な金額がルーヴル美術館に支払われたのだろう。オイルマネーの威力と言うべきか。

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建物そのものも魅力的だが、展示されている絵も素晴らしかった。常設館にも古代から20世紀までの実用品、装飾品、絵画、彫刻が展示されている。ダ・ヴィンチの「ミラノの貴婦人の肖像」のほか、ティツィアーノ、マネ、モネ、セザンヌ、ピカソなどの絵、ジャコメッティの彫刻などもあった。

特設会場ではオランダ絵画展が開かれていた。レンブラントやその工房の絵画がメインだったが、フェルメールの「ヴァージナルの前に座る女」と「レースを編む女」も展示されていた。前者ははじめてみた。贋作か真作かで意見が分かれている絵画らしいが、現代では真作という説が有力のようだ。「レースを編む女」はフランスのルーヴルで必死に探してみた記憶がある。

ヤン・リーフェンスという画家を初めて知った。レンブラントのライヴァルだったという。その「ペルシャ衣装の少年」が今回の展示会で大きく取り上げられていたが、これは素晴らしい絵だと思った。男の子の表情、肌や服の感触、光の表現などに惹かれた。

 

その後、ドバイに戻って、ホテルに入って一休みした後、噴水を使ったプロジェクトショーを見にいった。それなりの人が見物をしている中で、大音響の音楽がかかり、海辺の入江の近くのビル全体にプロジェクターで海賊もののアニメが映し出される。海の入り江に噴水が仕掛けられていて、そこにもアニメのキャラクターや海賊船などが映る。ただ、風が強くて噴水のきれいな映像が投影されなかった。昨年、桂林に行ってビルの屋上から大量の水が滝のように吹き出してきて、そこに大音響の音楽がかかるパフォーマンスを見たが、それを思い出した。

その後、ナイトクルーズ。遊覧船に乗って夕食を取りながら、運河を2時間ほど回るものだが、見えるのは超高層ビルばかり。電飾が施されていたりしているが、さほどおもしろいものではなかった。遊覧船も音楽がかかり、西洋人の団体が陣取っていて、静かに話もできなかった。

この日は22時30分過ぎにホテルに戻った。この日のホテルはシャングリラ・ホテル・ドバイ。心地よいホテルだった。

 

3日目

 早く目が覚めたので、朝の散歩に出かけた。

 高層ホテル街なので、道路はがらんとしている。日曜日だが、この国では金曜日と土曜日が休日で、日曜日からは平日。出勤している車が多い。日本よりももっと整備された道。片側3車線。車はどれもきれいに洗車されている。日本車が多い。4WDの車が目立つ。時々韓国車が通るが、それを除けば日本の道路とほとんど同じではないか。日本車中心で、ドイツ車が時々走る。交通ルールはきちんと守る。歩行者もきちんと赤信号を守っている。

 近くにスーパーがあった。24時間営業の大スーパー。大倉庫のようなところだった。50メートルくらいありそうな陳列台に商品がずらーっと並べられている。すべての製品の寸法が大きい。ポテトチップのなかには日本で売られている製品の5倍くらいの大きさがありそうなものも混じっている。朝の7時過ぎに行ったので、客はほとんどいなかった。

 少し歩くと高級住宅街らしかった。広い敷地。この国の国籍を持つ人はほとんどがこのような邸宅で暮らしているらしい。マンションで暮らす人もいるらしいが、そこは車ごとエレベーターに載せて上の階まで行けるような高級マンションとのこと。外国人労働者はそれほどではない一般のマンションで暮らしている。治安はよく、警察は必要ないほどだという。確かにパトカーも見かけないし、警官の姿も見ない。高級住宅街は静かで落ち着いている。

 10時半から3日目の観光に出発。この日のメインは世界一高い828メートルのビル、バージュ・カリファの展望台でのドバイ展望。

 バージュ・カリファは映画「ミッション・インポシブル」シリーズの一作でトム・クルーズがガラスの側面を走り回るところをスタントなしで撮影したというので有名な場所だ。私のこの映画をテレビで見た記憶がある。大行列を作って1時間ほどかけて展望台に行き、ドバイを一望。

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 砂漠に囲まれた海辺に超高層ビルが建って、現在のドバイが作られていることがよくわかる。全体的にベージュ色なのは、砂埃のせいであり、また砂による汚れが目立たないように建物自体をそのような色にしているせいでもある。それはそれで壮観。

 一体いつまで、この人工の都市は成り立つのだろうか。

 いってみれば、ドバイはバブル国家だ。今は投機が投機を呼んでどんどんと拡大している。世界最先端の先進国と言えるような状況にある。だが、これはねずみ講に近い。次々と仲間を増やし、みんなが投機熱を抱くから、この都市が成り立っている。だが、投資に参加する人がいなくなったとたんに、すべてがストップし、あとはゴーストタウンになってしまう恐れがある。ねずみ講国家、砂上の楼閣国家といいたくなる。

 だが、考えてみると、資本主義社会の都市そのものが、投資によって人を呼び込み、幻想によって成り立っている面がある。ただここは砂漠の中の何も産業のないところに人工的に、ゼロから先端国家を作ったので、それが目立つだけだ。いわばここは資本主義の最先端のいわば実験場のようなところだ。このような手法を続けて、拡大し、成長を続けていくことも考えられなくもない。

 その後、ショッピングモールの横にあるドバイ・ファウンテンで噴水ショー(音楽とともに噴水がバージュ・カリファをバックにして高く吹き上がる)をみた。それから、しばらく車で移動して、世界最長の無人運転鉄道にのった。ファイナンシャル・センターからワールド・トレード・センターまでの2駅。車両は日本製。とても乗り心地が良かった。乗っているのは、外国人労働者ばかりで、国籍を持った人はいないらしい。電車内には立っている人もいて、それなりに混んでいた。

 電車を降りて、車で空港に向かい、そのまま夕方の出発を待って、香港経由で、3月4日午後に帰国。

 成田空港から空港バスで自宅に向かい、高速道路を通り、マンションやお店を見た。いつもは日本に戻って、「訪れた国と違って、日本はなんて快適できれいな先進国だろう」と思うのだが、今回ばかりは、「ドバイやアブダビと違って、日本はなんて汚いところが多くて整備されていない途上国なんだろう」とひょいと思ったのだった。

 これまで訪れた多くの国とあまりに違っていた。そこに暮らす人々の生のありようを間近に見ることもできず、その土地の芸術や文化を味わうこともできなかった。おいしい料理にもであわなかった。ただただ様々なことに疑問を抱いた。まさにワンダーランド。それだけに、あまりに俗っぽく、あまりに無機質ながら、私は今回の旅行をとても楽しく思った。このような都市が世界に存在することを知ってとても有意義だった。この後、この国がどうなるのかとても気になる。

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26年ぶりのカンボジア旅行

2018128日から13日までカンボジア旅行をした。さすがにカンボジアに個人旅行するのは大変なので、クラブツーリズムのツアーに参加した。

1992年に一度カンボジアを訪れたことがある。今回は26年ぶり二度目のカンボジアということになる。

最初のカンボジア旅行については拙著「旅のハプニングから思考力をつける」(角川oneテーマ21)に少し書いた(なお、その少し前に出した拙著「頭がいい人、悪い人の話し方」が250万部のベストセラーになったため、それにあやかって編集部が「思考力をつける」というタイトルをつけたが、私としては旅行記のつもりで書いている)。その時には、内戦が終了してアンコール・ワット旅行が再開されたと聞いてすぐに申し込んだのだったが、プノンペンも目を見張る貧しさであちこちが混乱しており、シェムリアップでは銃声が聞こえ、血だらけの兵士が何人もトラックで運ばれるのをみた。プノンペンにも車はほとんどなく、バイクや自転車がけたたましい警笛やエンジン音をたてながら走っていた。その横をぼろ布を着た男女、素っ裸の子供たちが歩いていた。まさしく昭和20年代初めの日本の状況の南方版だった。

そして、今回の2度目のカンボジア旅行。12月8日午後、プノンペン到着。ガイドさんと空港で合流してバスでホテルに向かった。ツアーメンバーは15名。ほとんどが高齢(ツアーグループ内での交流もあったが、個人情報をさらしたくないので、メンバーについてはここでは触れない)。

空港からバスでホテルに行く間に、窓の外を見て驚いた。話には聞いていたが、想像以上の発展ぶり!一度破壊されて人工的に作られたせいだろう、むしろカトマンズやラホールやジャグ・ジャカルタなどよりずっと近代的で西洋的だ。高層建築もたくさん見える。街を歩いている人たちも、他のアジア諸国よりもむしろきちんとした服装しているように見える。交通標識も整備されているし、道も広い。遊歩道もあり、公園もあちこちにある。フランス風の建物も見える。

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 車の運転も他のいくつもの都市よりも穏やか。もちろん、南の国の例にもれず、大量のバイクが道を走っており、無理な割込みも多く、三人乗りのバイクもしばしば見かける。野良犬なのか放し飼いの犬なのか、街の中に犬の姿も多く見かける。初めて東南アジアを訪れたツアーのメンバーはバイクの数や乱暴な運転や町中の犬に驚いたようだが、このところ東南アジアにしばしば旅している私からすると、運転も穏やか、野良犬の数もそれほどでない。四人乗り、五人乗りのバイクをほとんど見かけない。

もっと驚いたのは中国の影だ。中華料理の店、中国語の看板のホテルや店が並んでいる。町のいたるところに中国語が氾濫している。ホテルに入って気づいたことだが。観光客も圧倒的に中国人が多い。ホテル内も中国人が圧倒的な大多数を占める。ホテル内で大声で響き渡るのはほとんどが中国語。もちろん、日本国内でも東南アジアの各国でも中国人観光客が多いが、カンボジアはその比ではないように思える。

129日はホテル(グリーンパレスホテル)に到着しただけでその後の予定はない。ホテル近くには屋台があり、レストランがあった。中華の店もいくつもある。だが、入る勇気が出なかったので、近くのコンビニ(KIWIというチェーン店)でカップラーメンとお菓子類を買って食べた。値段は決して安くなかった。輸入品が多いせいか。日本の三分の二くらいの値段だと思った。

この国では米ドルがふつうに通用する。ドル表示とリエル表示があるが、カンボジア人を含めて全員が基本的にドルを使っている。1ドルが4000リエルにあたる。リエル紙幣はコイン代わりの端数として使われている。2ドル50セントのものを買って5ドル紙幣を出すと、2ドル札と2000リエルがお釣りに返ってくる。それがふつうに定着している。

 

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 まだカンボジアの時間に慣れていないので、朝早く目が覚めた。近くを散歩した。

 掃除夫が出て道路を清掃していた。ミャンマーなどと違って、確かに道路が汚れていない。屋台など、前日の夜には屋台が並んでいたところもきれいにされている。あとでガイドさんに、最近になって清掃に力を入れていると聞いた。

グリーンパレスホテルはあまりよいホテルでなかった。お湯が突然冷たくなったし、エレベータも老朽化していた。散歩からの帰り、エレベータに乗って14階の私の部屋に戻ろうとしたら、3階で停まってしまって、動かなくなった。ドアも開かない。客は私だけ。焦った! 緊急ボタンを慌てて押し続けたら、やっと係員がドアをこじ開けてくれた。閉じ込められていたのはほんの5分間くらいだったと思うが、長く感じられた。朝食レストランのある3階で停まったのでよかった。別の階だったらもっと長時間、閉じ込められていただろう。

この日、王宮(1866年、プノンペンに遷都された際に建てられた)とその横にあるシルバー・パゴダ(仏教儀式の行われる寺院で、銀のタイルが敷き詰められている)をみた。タイの寺院ほど屋根の曲線が反り返っていない。南の陣に特有の建築だと思うが、素人の私には区別がつかない。ただ、あまり古いものではないので、個人的にはそれほど魅力を感じなかった。その後、国立博物館を見た。ヒンドゥ教と仏教の歴史的な推移というより、その混交でカンボジアの文化が成り立っているといえそうだ。

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温は30度を少し超すくらい。日本の夏と同じ感じ。青空で気持ちがいい。その後、セントラルマーケット(巨大な平屋のデパートのような建物)を見物。装飾品の店が中央に光鮮やかに並んでおり、その周囲に衣料品、電化製品、カバン、靴などの店が並んでいる。そのほうに肉や魚や野菜、果物などの生鮮食料品もある。ほかのツアー客の中には買い物を楽しまれた人もいたようだが、もちろん私は何も買わない。

昼と夜、ツアーグループで食事をとった。全体的にインパクトのない味。タイ料理からインパクトを除いたような味。しかも、すべて妙に甘い。スープも甘いし、春巻きにたれも甘い。デザートのほうはむしろ甘みが少ない。

夕方、国内線でアンコール遺跡群から近いカンボジア第二の都市シェムリアップへ。空港でシェムリアップのガイドさん(若めの女性)と合流してバスでホテルへ。

まず、空港でびっくり。

26年前のシェルリアップ空港は、確か滑走路は整備されていたが、小さな建物があっただけのように思う。待機している飛行機なども見えなかった。ところが、羽田空港とは言わないまでも、日本の大都市の空港とさほど変わらない光景だった。大きな建物があり、搭乗口もいくつもある。飛行機も少なくとも10機くらいは見える。

そして、ホテルまでの道路の周辺にびっくり。26年前のシェムリアップの夜は真っ暗だった! そもそも夜の10時に町全体の電気が止まっていた。いや、電気が通っているときも、あかりはほとんどなかった。高い建物はせいぜい4階建て。あちこちに砲弾の跡があり、田舎風の汚い家があり、その前をプノンペン以上に貧しい人々が歩いていたのだった。

ところが、空港から出てすぐから明かりがあふれている。市内に近づくにつれ、ますます明るくなる。たくさんのホテルやレストランがイリュミネーションで飾られている。クリスマスが近づいているせいもあるのだろう。MERRY CHRISTMASやサンタクロースをかたどったものも多い。日本と同じように、いやそれ以上にきれいにセンスよく飾られている。いかにも中国風の派手な看板ももちろんたくさんある。ここにも漢字がたくさん見られる。真っ暗だった1992年となんという違い! 

とてもセンスのよいタラ・ホテルに到着。ただ、翌日に備えて、近くにコンビニ(ミニマート)でアルコールを買っただけですぐに寝た。

 

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 いよいよシェムリアップ付近での世界遺産の観光が始まる。

アンコール王朝(9世紀から15世紀までカンボジア全土だけでなく、現在のベトナム、ラオスなどの地域を支配していた強大な王国)の時代に作られた遺跡群だ。シェムリアップ付近に数百と残っている。その代表的なものが12世紀に作られた王の寺院であるアンコール・ワット、その半世紀後に建造された巨大な王都アンコール・トムだ。

晴天で、朝から暑い。ホテルを出発して、まずバスで観光オフィスに行って写真を撮ってもらい、その場で写真入りの「アンコール・パス」を作った。私たちが取得したのは3日間有効のパスで、バスの中や遺跡の前などで提示を求められる。すでに旅行代金に含まれているが、60ドルとのこと。26年前には遺跡は自由に見られたが、今ではこのようなパスが必要になっている。タイ人の僧侶や中国人が列を作っていた。このお金がカンボジアの国家によって使われ、遺跡の保護などにも使われればとても良いことだ。

ただし、最初に訪れるのは、いわゆるアンコール遺跡群ではなく、その前の時代に王都が置かれていたロリュオスの遺跡群だった。これも世界遺産に登録されている。初めに、ロレイ遺跡。8世紀以降に作られたとのこと。古いレンガで形作られ、風化されているがヒンドゥ教の彫刻があちこちに見える。雨ごいに使われたというリンガ(つまりは男根像!)も見られた。

 その後、再び10分ほどバスに乗ってプリアコー遺跡に行った。プリアコーとは「聖なる牛」という意味で寺院の前に牛の像がある。ロレイ遺跡とよく似た(つまり、素人にはあまり区別のつかない)レンガ造りの建物がある。次に最も規模の大きいバコン遺跡に行った。アンコール・ワットと同じように松かさのような塔のあるヒンドゥ寺院で石によって三層に作られている。

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 よく覚えていないが、26年前にも訪れた記憶がある。その時も、アンコール遺跡を見る前に周辺の遺跡を見て、「早くアンコール・ワットを見たい!」と焦れたのを覚えている。

食事をしてホテルでいったん休憩して、次にバンテアイ・スレイ遺跡を訪れた。

26年前には訪れた覚えがない。そこに向かう途中、バスの中で「地球の歩き方」を読んで、ハッと思いあたった。30年以上前、フランス文学を学んでいたころ、アンドレ・マルローが東南アジアの彫刻の盗掘がらみで大問題になったことは知っていた(ただ、「西欧の誘惑」や「征服者」は読んだが、「王道」は読んだことはなかった!)。バンテアイ・スレイにある「東洋のモナ・リザ」と呼ばれる彫像がまさにマルローが盗もうとし、「王道」にことの成り行きを記したものだという!

バンテアイ・スレイはとても魅力的な寺院だった。東門から入ると、両側にリンガと思われる石柱が並び、土も石も染められたかのように赤みを帯びている。緑の森に囲まれた境内があり、いくつも並んだ堂のあちこちにヒンドゥ教の神々の彫像があり、壁面にはレリーフが施されている。

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東側から入ると、裏側にあたる小さな堂の壁面に「東洋のモナ・リザ」がった。これは本当に美しい。腰を少しひねった形の優美な女性像だ。マルローが盗みたくなる気持ちはよくわかる。宗主国の人間が植民地のこのような素晴らしい彫像を見たら、自分のものにしたくなるだろう。もちろんとんでもない横暴であり、あまりに傲慢であるが。ともあれ、この事件の顛末をマルロー自身が描いた「王道」を読んでみることにする。

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その後、夕陽を見るために、プレループ遺跡に出向いて、日没を待った。上部からの眺めがよいために夕日鑑賞の名所になっているらしい。が、残念ながら、午後には雲が広がって夕日を鑑賞できる状態ではなくなった。日没を待たずにバスに戻った。

その日は、市内のレストランで民族ダンス付きの食事をとった。トタンのような屋根をつけただけの吹きさらしの巨大な会場だった。アジア料理がバイキング形式で並び、数百人の客席が備え付けられ、大量のアジア料理が並べられ、各国の観光客が命名それらを選んで食事をとっている。その前方に舞台があって、そこで民族舞踊が披露される。

ところが、舞踊が始まる前に大雨が降り出した。30分くらいだったと思うが、たぶん雨量50ミリにもなろうという大雨だった。轟音が響いた。舞踏が始まってからもしばらく雨が続いて、音楽が聞こえなくなった。

それにしても学芸会的な素人の踊りだった。観光地での民族ダンスにはがっかりすることが多いが、その最たるものだった。アプサラダンスと呼ばれる伝統舞踊のはずだが、動きが様になっていない。これでは観光客を侮辱したことになると思った。それどころか、伝統文化に対する冒涜でもあると思った。

食事を済ませて、雨上がりの中をバスでホテルに帰った。

 

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 朝5時にホテル集合。バスでホテルを出て、駐車場から暗い中を歩いてアンコール・ワットに向かった。アンコール・ワットの建物に昇る日の出見物が目的だ。暗い中を大勢の観光客が歩く。まるで初詣に向かう大晦日の客の雰囲気。中国人が最も多そうだが、英語、フランス語などの西洋語やアジアの言葉もあちこちから聞こえる。私たちはクラブツーリズムの旗を先頭に一列になって、迷子にならないように必死に歩いた。

本来の橋は補修中なので、水に浮かぶブイのようなものをぎっしりと敷き詰めて作った仮の橋を渡ってアンコール・ワットに入った。参道や池の前で立ち止まり、見物する場所を探して、だんだんと白んでくる中で日の出を待った。徐々にアンコール・ワットの姿が暗がりの中から浮き立つようになり、太陽の下に照らされていく様はまさに壮観。私は水面に逆アンコール・ワットが映りだされるという池の近くの石に座ってその様子をみた。明るくなってしばらくして、近くを歩いた。

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 26年ぶりのアンコール・ワット。残念ながら私は建築にあまり興味を持てない。が、アンコール・ワットの厳粛さに圧倒される。黒く不気味で厳粛。アンコール・ワットは西向きに作られた死の壮麗な大寺院だと聞いたことがある。まさにそうだと思う。人間の死、魂の行く先である天界を表現する一つの宇宙が建築に反映されている。ヒンドゥ寺院として建てられ、仏教寺院として用いられたというが、まさに宗教を越えた存在に感じる。日本の鎌倉時代の遺跡だが、松かさのような形の塔はまさしく歴史を越えようとする間の魂の結晶のように思える。

池のほとりでしばらくアンコール・ワットを見て、参道に移動。そこで朝日を浴びる姿をみた。

いったんホテルに戻って朝食を取り、その後、その日の午前に予定されているのはアンコール・ワットの近くにあるアンコール時代の大城塞都市アンコール・トム観光。ますます暑くなる中、アンコール・ワットと同じような石造りの巨大な建築物を見て歩いた。

石が見事にかみ合わさった南大門、壮大なレリーフが施された回廊や石に掘られた微笑みの菩薩像のあるバイヨン寺院、象の彫刻が施されたテラス、三島由紀夫の戯曲の舞台になったらライ王のテラスなどをみた。



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グループの方たちが話していたが、まさに石を組み上げてそれを一つの建築物として、そして一つの都市として構築した時代の技術力と人間の知恵を感じざるを得ない。これは権力の象徴であり、栄華の確認であり、民族の誇りだったのだろう。そして、そこには、おそらく奴隷として重労働を強いられた人間たちもいたのだろう。

 バスでタ・プロム寺院へ。あえて修復されていない遺跡だ。巨大な木々が石の建造物に絡みつき、建造物を破壊している。タコやイカや妖怪の手足のように見える木の根が石と石の間に入り込み、時に不思議な形で均衡を保っている。巨大な石が地震の後のように散乱しているが、カンボジアでは過去数千年、地震は起こっておらず、これはすべて植物の仕業だという。こうしてみると、ここに巨大な意識を運んだ人間の力と、それを破壊する植物の力を思い知る。

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 昼食をとって、ホテルで小休憩。

午後はふたたびアンコール・ワット見物。朝は中には入らずに外観を見ただけだったが、午後はガイドさんの説明を聞きながら回廊のレリーフを見て回った。プリミティブな表現だが手が込んでいてとても魅力的。回廊によって描かれている内容は異なるらしいが、ざっと見てもどのような内容が描かれているのかよくわからない。ただ、私は壁面いっぱいに神々や人や猿や馬や牛などの動物、そして空想の動物たちを細かく明確な形で描き尽くしたこと自体に感動する。

 アンコール・ワットに沈む夕日を見て、バスで移動してカンボジアの鍋料理を食べた。

 朝から暑い中を歩き続けている。疲労困憊。ふだんの運動不足がたたって、足が重い。

ガイドさんに勧められたマッサージ店でマッサージを受けた。10人ほどの女性(若い人もいるが、だいたい40歳代が中心だろう)が制服を着て入り口近くで待機していた。代金(90分で22ドル。チップなどを含めて合計25ドルだった)を支払い、2階の個室に通されて施療を受けた。薄暗い中でのマッサージだったので少し警戒したが、怪しいことは起こらず、とても快適なマッサージだった。

 

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 往路はプノンペンからシェムリアップまで飛行機で移動したが、帰りは途中、遺跡を巡りながらバスでプノンペンまで移動。まず、11世紀末から12世紀初めに作られたベンメリア寺院。ナーガ(ヒンドゥ教のヘビの形をした神)の像がきれいに残った密林の中の寺院だ。石切り場が残されており、苔むした彫刻が見られる。とても雰囲気がいい。が、けたたましい声で騒ぐ中国人グループがいくつもあり、しかも狭い通路を多くの観光客が通っているのに、何人もの中国人が観光客を通せんぼする形で写真撮影をする。自分が被写体になり、女優さんのようにポーズをとって一人が何枚も撮影する。それを何人かが行う。

 またバスに乗ってアンコール時代の古代橋に寄り、コンポントム(ベトナム戦争時代だったか、ポルポト派の残虐が知られるようになった後だったか、この名前を盛んに耳にしたような気がする)の感じのいい、植民地風のホテル(新しいきれいな建物でプール付き)で昼食を取り、またバスで移動。夕方、プノンペン到着。速めの夕食を取って空港へ。

 そして、2250分出発の便で成田へ。そして、早朝630分ころ無事到着。

 

 今回はツアーに参加し、単独行動はほとんどしていない。朝から夜まで遺跡などを歩くハードなツアーだったので、一人で散歩に行く体力的余裕もなかった。だから、ガイドさんに連れられて歩いただけ。特に都市について気付いたことはないが、気になったことをいくつか列挙する。

・ともあれ、26年前とは別の世界だった。驚くべき繁栄。もちろん、舗装が十分でなかったり、メンテナンスがよくなかったりといった面はあちこちにある。だが、たった26年でここまで成長したことを驚異に思った。

・中国の影をあらゆる面で感じた。日本は戦後25年で対米従属することによって世界を代表する先進国になった。カンボジアは中国に従属することで現在の繁栄を築いている。そう言ってよいのではないか。現在、カンボジアは親中国路線をとるフンセン首相の独裁に近い形にあって、国内の中国資本を積極的に入れている。仕事でも観光でも中国人が我が物顔でカンボジアで活動している。それを苦々しく思うカンボジア人も多いようだ。現在も繁栄も必ずしもめでたいことではないのかもしれない。

・逆に日本の影の薄さを感じた。車はトヨタなどの日本車が多い。スズキのバイクもよく見かける。が、日本企業の看板や広告、建物はほとんど見ない。観光地での日本語表示も少ない。日本人観光客も以前に比べるとずいぶん少ない。

26年前にも感じたことだが、カンボジア人はゆったりのんびりしている! 東南アジアのどの国でもガサガサした面を感じるが、カンボジアではそのようなことはない。おっとりしている。歩くのも、話をするのもゆっくり。まじめでおとなしく、ものしずかにしている。そんなんじゃ中国人にいいようにこき使われちゃうぞ!と声をかけたくなる。このような人の中からなぜポルポトのような人が出てきたのか、なぜクメール・ルージュは残虐なことを繰り返したのか理解に苦しむ。

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