旅行・地域

日田の祇園祭 見事な祭り しかし観光客は少ない

 2018年7月20日に大分県日田市に入った。21日と22日に行われる祇園祭見物が目的だ。日田祇園祭は、500年ほど前に悪疫鎮護のために始められ、2016年に全国の33の団体とともにユネスコ無形文化遺産に登録されている。昨年は九州豪雨の影響で開催されなかったので、今回、登録後初めての開催だ。

 日田市は私の故郷だ。祖父母はそこに住み続け、一時期日田から離れていた両親も、その後、住むようになったが、私自身は5歳でこの地を離れて以来、時々訪れるだけになっている。そのためもあって、祇園祭の存在は知っていたが、見物した記憶がない。両親が高齢になって日田から離れ、その後、父が亡くなり、母も東京の施設で暮らすようになって、私と日田のつながりは少し残った所有地だけになってしまった。そんなとき、クラブツーリズムの日田の祇園祭を見るツアーを見つけた。「日田祇園祭を見たい」と思った。とはいえ自分の故郷なのにツアーで行くのもしゃくだ。日田には親戚も多い。そんなわけでひとりで祇園祭を見に来たのだった。


7月20日

 午後、福岡空港におりてバスで日田に向かった。空港から出た時の福岡の気温、そしてバスから降りた時の日田の気温はパキスタン並みだと思った。先月、パキスタンで数日過ごしてその暑さに閉口したが、それに匹敵する暑さ。が、バスから降りて、腰痛肩こりを感じたので、ホテルに入る前に目の前にあるマッサージ店でマッサージを受けるうち、一雨あったようで、店を出た時にはかなり涼しくなっていた。それでも34度くらいはあったようだ。日本人も34度で涼しいと感じるようになったことに改めて驚く。

昔ながらの街並みの見える景観地区である豆田までタクシーでいき、有名店でウナギと鮎を食べた。土用の丑の日でもあり、祇園祭の前日でもあるので、ここも大賑わいだと思っていたら、がらがら。テイクアウトのウナギのかば焼きなどを受け取りに来る人は数人いたが、客は56人。祇園祭を前にした熱気のようなものも感じない。

豆田から駅前のホテルまで歩いた。途中、5歳まで私が住んでいた場所(今は別の建物がある)、両親が暮らしていた場所(売却したので、今、新たな家が建設されている)をみた。

それにしても、あまりに閑散としている。祇園祭の前だというので賑わいがあるのかと思ったら、何もない。夕方になると真っ暗。そもそも人を見かけない。駅前ですら午後8時に深夜のように人影をまったく見ない。車も一回の信号の青の時間に2、3台通過する程度。車がまったく通過しないのに、歩道が青に変わるのを長い時間待たなければならない。

日田駅は改修されてきれいになっているが、それにしても人通りが少ないのが心配になってくる。

 

721

 早く目が覚めたので、朝食を済ませて、7時ころに隈地区(三隈川付近に発達した町で、旅館が並んでいる)まで歩いてみた。山鉾会館付近を見た。山鉾が見え、法被姿の町の人たちが準備している様子が見えたが、もちろんまだ山鉾は動いていない。ついでに昔からのなじみの場所である三隈川の川辺を歩き、亀山公園を見た。朝から暑い。汗だくなった。ホテルまで歩いても10分ほどなのだが、タクシーを見つけてホテルに戻った。

 8時半頃、歩いて豆田に向かった。歩く途中、中城地区の山鉾がちょうど動き出すところに遭遇した。飾りつけのされた山鉾の高さは3階建てのビルくらいだろうか。下の階層に人が入って笛を吹いたり、太鼓を鳴らしたりしている。町の衆20人くらいが綱を引き、その後に子供を含む20人から30人が歩いていく。警察官が数名ついて、道に入ってくる車を別の道に誘導している。私もあとをついて歩いた。

85e0f2c4aa7941a6ae0a5770b13b8c1c

近くでも別の山鉾が動いている様子だった。囃子の男が聞こえてきた。そこに移動してみた。同じような山鉾だった。また、別の一つが見えた。狭い豆田地区のいくつかの道で山鉾が鵜鴇田氏、日田の中心部を流れる花月川に向かっていた。

そして、橋の上で4基が合流。川の上で四機が一列に並んだ。なかなかの壮観。

B1169f57a831465b97f059ae349fe2ec

 実は観光客でごった返していると予想していた。が、見る限り、観光客はゼロに近い。ほとんどが関係者。つまり山鉾を弾く町内会の人やその家族。水筒を持ったり、着替えを持ったりして後についている。それに、一つの山鉾に警察官が数人ついているようだ。それ以外はたまたま自宅の前を通る山鉾を見送っている程度。地方のケーブル局のテレビ取材のカメラはあったが、私のような観光を目的としているらしいのは、私以外に4,5人しか見かけなかった。

 しばらくして、隈地区に行ってみた。山鉾会館の近くに行くと、こちらでも山鉾が3基ほど集まっていた。こちらにはツアー客がいた。中国人らしい客(ただ、どうも祇園見物に来たというより、何かの研修のついでに見物しているようだった)もいた。総勢で50人くらいの観光客がいたのではないか。ほかは日田市の人たち、そして関係者だろう。

E6c984cdedda4180bad4fa0b99e45a17

 しばらく見物して、昼食(鉱物の川魚定食)を済ませてホテルに戻った。一休みして、午後、なじみの町を少し歩いた。昨日に比べると、いくらか過ごしやすい。気温33度くらい。

 夕方、いとこたち(二人の従姉と一人の従弟、そして亡き従兄の夫人)と駅付近のビストロで会食。楽しい時間を過ごした。そして、夜8時過ぎに車で豆田に移動。夜の山鉾を見た。

 昼間はちょっと「しょぼく」見えたが、夜は壮観。橋の上には観光客がごった返しており、そこに3基が集まっていた。少し前までもう1基がいたようだ。たくさんの提灯をつけて多くの人に引かれていく。それが橋の上で大きな掛け声とともにすれ違う。交通整理の警察官も数人出ている。これぞ私がイメージしていた祇園祭だ。

17f42601feb844e69a2a5c3cb82b42d6

243b56e073f4418f813b534ad9e45d89

 橋の上から山鉾がすべてなくなってから、車でホテルまで送ってもらった。

 それにしても人が少ない。盛り上がっていない。ホテルにも観光客はいるが、大賑わいしているわけではない。

 日田の祇園祭は地方の祭りとして見事だ。ただ、山鉾が道を練り歩き、時々それが合流するだけなので、盛り上がりがあるわけではない。山鉾の巡航が豆田と隈の二つの地区に分かれているので、一箇所に集まる賑わいがない(祭りの前々日に顔見世が行われたらしいが,本祭の間にはそのような機会がない)。そのために観光客を集めにくいのだと思った。これほどの規模の祭りのわりに観光客が少ないのを大変残念に思った。

 

722

 22日も夕方まで祇園祭を見ようと思っていたが、この様子では昨日と同じような光景になるのは目に見えている。夜までいればいろいろなイベントがあるらしいが、仕事の関係で、それは難しい。私はディスカウントの航空便とホテルのパックチケットでやってきて、福岡空港を2045分に出発する便を予約しているが、もっと早く東京に戻りたい。

 そう思って、朝方、日田市を少し歩いた後、すぐにチェックアウトして、バスで福岡空港に向かった。そして、空港で便の変更ができないかを尋ねてみた。が、やはりだめだった。仕方がないので、コインロッカーに荷物を置いて博多駅に移動。駅の付近だけでも見物したいところだが、なにしろ35度を超す気温だ。観光どころではない。そこで、駅ビルで映画を見ることにした。たまたま待たないで見られるのが「未来のミライ」だった。67歳の男が一人でアニメを見るのもどうかと思ったが、まあ仕方がない(映画の感想は改めて書くことにする)。

 映画を終えた後、マッサージを受け、その後、食事をしようかと思っていたら、映画を見ている間に夕立があったらしい。外は大雨。JR博多駅は雨漏りだそうで大混乱している。あちこち探したが、適当な場所がないので、映画館と同じ階に戻って郷土料理(鯖、イカ)を食べた。

ところが、その間に、家族から「福岡空港が雷で閉鎖されているとニュースで見たけれど、大丈夫か」という連絡があった。そのまま新幹線で東京に戻る手もあるが、荷物を空港に置いているので、ともあれ空港に様子を見に行くことにした。

 空港は大混乱。東京行きの便のほとんどが欠航になっていたが、幸い、私の乗る便は運行された。結局、1時間ほどの遅れで羽田に到着した。

19890917ayuayuayu

| | コメント (0) | トラックバック (0)

瀋陽・大連旅行

 201879日から12日まで、34日の瀋陽・大連の1人旅をした。空港や駅とホテルの間のガイド以外は何もないフリープランのツアーを申し込んだのだった。私の記憶に間違いがなければ、7度目の中国観光。東北地方観光は初めて。私は特に日本近現代史に詳しいわけではないが、「満州」にはそれなりに関心を持っている。表面だけでもかつての満州の跡を見たいと思ったのだった。

現地では持ち込んでいたパソコンの調子が悪く(というか、Microsoftの契約が切れたということなのか、ワードの新しい文書を作れなくなっていた。近いうちになんとかしなければ!)、その場で文章を書かなかった。帰国後、簡単に感想を書く。

 

7月9日

成田を飛び立ってANA機で瀋陽到着。到着は夜だったので、入国手続きはきわめて順調。ガイドさん(6年間日本に住んでいたということで、日本人とまったく変わりのない日本語のガイドさんだった)と顔を合わせてそのままホテルへ。

 高速道路もきれい。ホテルは遼寧寶館。ここは昔の奉天ヤマトホテル。満鉄時代の日本資本のホテルで開業は1927年だという。確かに、かなり古めかしいホテル。いちおうは近代的に改装されているが、年代物だということは厳めしい造りや隅々の汚れからわかる。まさしくレトロな雰囲気。これれはこれでなかなか味わいがある。

835318ec2e0c4a879d5824d6c8743810

遼寧寶館


 

710

 朝起きて、近くを歩いてみた。ホテルは中山広場に面していた。瀋陽の中心部を成す広場で、中心に毛沢東の像がある。周囲には歴史的な建物が並んでいる。今はもちろん中国の企業や役所が使っているが、ほとんどが、日本統治時代に作られたものだという。

08b52d000fd3417aa574e9bf6f4cda81_2

中山公園


 9時に、今回のツアーとは別に、午前中だけの市内観光を予約していたガイドさんがやってきた。昨日のガイドさんに比べるとかなり日本語のぎこちないが、好感は持てた。

まず瀋陽故宮博物館にいった。半世紀ほど前に世界史の授業で習ったヌルハチ、ホンタイジといった清朝の歴代の皇帝たちの名前を久しぶりに思い出した。これらの英雄たちやその夫人たちの建てたり住んだりして建物がある。ガイドさんの話がおもしろく、歴史上の人物を想像できた。

7f72f3448d99403888d50923bbb3e9e4

 張氏帥府博物館では、張作霖、張学良の暮らしや歴史が展示されていた。日本の蛮行についてはそれほど大きな展示はなかった。そのあと、昭陵に行った。ホンタイジの墓があり、現在では広大な公園になっている。晴天で気持ちがいい。

D01c78e7930748dca56291e3ffefe91b  

13時前に市内観光ツアーは終えて、その後は一人で市内を回った。ホテルで東北地方特有の味付けの濃い料理を食べたせいか、食欲がない。昼食は取らないままだった。

 ホテルから駅まで道草しながら往復した。上海や広州よりはずっと落ち着いている。だが、やはり店の前では呼び込みのアナウンスが甲高い声で行われ、色とりどりの店があって、中国の大都市であることに間違いない。車の運転はルールを守っている。ただし、歩行者はまったくルール無視。信号が赤でも平気で車が来ている道を渡る。高齢者だけではない。若い人も壮年の人もそうする。気温は30度くらい。広州や上海では、短パンにサンダル姿の人が多かったが、こちらはきちんとズボンに靴を履いている人が大半。オートバイも少ない。

F2eb73b893ea4188840ab75c9b7e2cb6

B6862a1d42e5471dbbc75866aaf0a57d

この界隈には昔ながらも汚い店はほとんどない。冷房のきいていない店もあるが、それでも猥雑、不潔という感じはしない。開けっ放しのレストラン(というか、食堂というほうが近い)も、パキスタンやミャンマーなどと違って、中に入って食べても健康を害することはないのではないかと思わせる(実際には入らなかったが)。青山や銀座のような、私ごときが足を踏み入れることのないおしゃれなお店もいくつもあった。センスの良い服を着た男女(やはり女性が多い)が買い物をしたり、飲食をしたりしている。

 ホテルに戻って、一休みして、近くのこぎれいなレストランで食事。水餃子と蒸し餃子を2皿注文したら、1皿に20個以上入っており、食べきれなかった。様子を見て、そのほかの魚か肉を注文しようと思っていたが、それで済ませた。夜の街を再びふらふらと散策して、ホテルに戻った。

 

711

 朝の750分にガイドさんに連れられて瀋陽駅に車で行き、大連行きの切符の手配をしてもらった。そこでガイドと別れ、そこから一人でホームに入って高速鉄道で大連に向かった。

 二度目の中国高速鉄道だが、ガイドなし、ツアー仲間なしは少々不安だった。乗ってしまえば何でもないのだが、荷物検査やパスポート検査があり、検札時間が短いなど、西側と異なるシステムなので戸惑う。が、まあ周囲に紛れて乗り込んだ。観光客らしい外国人はまったく見かけない。

 列車の中では、駅で停車して新たな客が入ってくるごとに、「そこは私の席だ」「あんたが間違っている」といった混乱が起こる。西洋でもそのようなことが多いが、こちらは特別。10分くらいごたごたしている。チケットをきちんと見れば間違いようがないと思うのだが。

 携帯で大声で話す人、音を外に流しながらスマホでドラマを見たり、音楽を聴いたりしている人が何人かいる。もちろん大声でしゃべっている人も多い。中国の列車は実に賑やか。

 周囲の誰も私が日本人だと思っていなかったようだ。日本人観光客が一人で列車に乗っていると誰も思っていないのかもしれないし、私の服装が中国になじんでいるのかもしれない。

 外の風景は、都市に入るごとに高層マンションが立ち並び、再び田んぼや畑や草原が続くといったところ。魚の養殖をしているらしい場所も工場地帯も通った。途中で雨模様になった。

 2時間弱で大連に到着。前もって言われていた通り、南口に向かって大連の世話をしてくれる新しいガイドさんと会った。少々訛りはあるが、50代の明るくてとても感じのいいガイドさんだった。

 ガイドさんによれば、到着の15分前まで短い時間ながら豪雨だったという。雨はやんでいた。そのガイドさんにはホテルまで連れて行ってもらうだけの取り決めになっていたが、車の中で交渉して、旅順まで行ってもらうことにした。私はホテル到着後、独力で旅順に行こうと思っていたが、なかなかそれは難しいとのこと。正規の料金を支払ってガイドさんに連れて行ってもらうことにした。

 大連はこれまで訪れた中国の町と少し雰囲気が違っていた。ガイドさんに「ロシア」という言葉を言われて、そういえば少しロシア風だと気づいた。明らかにロシア風の建物もある。

 車で1時間ほど、真新しい海の中の道路やきれいな国道を通って旅順に行った。朝夕は大渋滞になるというが、その時間帯はすいすいと進んだ。周囲には高層マンションが立ち並ぶ新興住宅街になっている。若い人は大連に住み、高齢者が安いマンションを求めて旅順方向に住むという。

ガイドを受けながら、東鶏冠山北堡塁で日露戦争のロシアの塹壕、日本軍の攻撃の跡をみた。

203a1b6537504e0da0b1573dea237b73_2

その後、白玉山塔に行った。ここで亡くなった日本兵の霊を祀る塔がある。旅順港を一望できるとのことだったが、雨上がりのため霧がかかっていて、まったく見えない。そのため、旅順港まで行ってもらった。きれいな静かな港。今も軍港として使われている。なるほど不凍港というのも納得できる。

 ロシア式建物の旅順駅を見て、203高地に行った。途中までカートで行き、そこからは徒歩で歩いた。運動不足の身には少々つらかった。頂上で慰霊碑をみて下山。安重根が死刑になった刑務所の前を通って、旅順博物館で大谷コレクション(中央アジアの収集品)を見て、大連に戻った。


8badd6ac233441d3a32d60c37fbfc336

203a61613d6ab764c6a9f0d4233046bc22c

 私は戦争マニアでもないし、司馬遼太郎ファンでもない。日本の近現代史も実はあまり得意ではない。が、子どものころからそれなりに日露戦争の話は聞いてきたし、映画を見たり本を読んだりしてきた。とりわけ203高地は感慨深い。

 ホテルは大連の中心街にある中山大飯店。到着したのは夕方だった。昼食抜きでの旅順観光だったので、すぐにホテル前に飲食店街で鮮魚料理を食べた。高そうなものを指さして、料理法を適当に指示したら、実に大量に出てきて、しかも300元を超える高額だった! 日本円にしたら5000円を超すので、ものすごい豪華料理だったのだろう。もしかしたら、少しボラれたのかもしれない。半分も食べきれなかったが、味はまずまず。まあ、良しとしよう。

 その後、大連駅まで歩いてみた。勝利広場を歩き、地下街を回った。鮮やかな色の店が並び、超現代的な高層ビルには電飾がなされ、上海や広州でも見かけたまさに中国的光景! 大変ににぎやかだが、それでも上海や広州よりも落ち着いている。

 203高地に登って足が疲れたので、20時ころにはホテルに戻って、早めに眠りについた。

Ee77a6b1021a4918a600b3e7910c3db9

712

 朝、7時ころから朝の散策に出かけた。歩いて中山広場まで行った。通勤中の男女が歩いていた。広場では何人かが踊りの練習をしていた。

 瀋陽でも大連でも感じるのだが、横断歩道が少ない。広場が真ん中にあり、その周囲の道がロータリーになっている。広場につながる横断歩道がほとんどない。いや、ところどころにあるが、まったく機能していない。車がスピードを緩めることなく、横断歩道を無視して走る。腹を決めて、車を止めさせる覚悟で道を歩くしかない。だから、真ん中に広場があっても、簡単にはそこにたどり着けない。

 大連の中山広場には地下鉄の駅を通って地下からたどり着けたが、なかなか大変。足の弱い老人には困難な状況になっている。

 中山広場とホテル近くの広場の間には地下鉄が通っているのに気付いて、帰りは地下鉄を使うことにした。ところが、切符を買おうとすると、朝であるせいか、職員がいない。荷物検査を受けて自動販売機で切符を買おうとしたが、使い方がわからなかった。困って、荷物検査をしていた女性(警察官?)に英語で尋ねたら、日本語で「日本人?」と問われ、「そうです」と答えると、しっかりした日本語で教えてくれた! ありがたい!

 無事、ホテルについて、朝食。荷物の整理をしてガイドさんを待ち、車で旧日本人街などを案内してくれながら、空港へ。

19890917ayuayuayu

| | コメント (0) | トラックバック (0)

パキスタン旅行中に思ったこと

 4日間だけだったが、パキスタンを旅行して気づいたこと、思ったことを箇条書きにする。

 

・夏にパキスタンを旅行するべきではないというのが、今回の私の第一の教訓だ。夏のパキスタンは日本よりも10度高いと考えてよい。最高気温が45度くらい、ちょっと暑い日で40度前後。湿気については、日本よりもやや低いと思うが、乾燥しているわけではない。十分に蒸し暑い。暑さに慣れた現地の人はともかく、日本人は40度前後の中では観光は難しい。しかも、博物館などの施設に基本的に冷房はない。レストランも高級店以外では冷房はない。こう暑いと一人でぶらぶら歩こうという気にもならず、もっと見たいという思いもなくなってしまう。とはいえ、軽率にも6月にパキスタンに行ったからには、暑い中でのパキスタン旅行というよい経験をしたと考えるべきだろう。

 

・パキスタンは典型的な途上国だった。一般労働者の年収は5万円ほどだという。資料で見たら、ミャンマーよりは一人当たりGDPは高いが、印象としてはパキスタンのほうが貧しい。ミャンマーよりも格差が大きくて、貧しい人が多いせいだろう。

 

・パキスタン料理はとてもおいしかった。ただ、どれもスパイスがきいているので、胃の調子が悪い時には困った。現地の人は、そもそもスパイスのきいた料理に、テーブルに出された様々な薬味を混ぜて食べる! しかも大量に食べる! そして、パキスタン人はコーラが大好きだ。あちこちにコーラの看板があり、実際に飲んでいる。そのせいか、貧しい社会であるはずなのに、太めの人が多い。

 

・穏やかで優しそうな人が多い。もちろん、狂信的な人、険しい目つきの人は見かけない。人懐っこくて気のいい人たち。外国人には特に親切だ。もちろん、ほんの一部の人にしかあっていないし、あったほとんどは観光関係の人なのだが、それでも人柄の良さが伝わる。友人同士、とても和気あいあいと笑い合って話している。兵士があちこちにいてものものしいが、それはテロ対策であって、社会そのものはきわめて穏やかだと思った。

 

・イスラム教徒は誰もが時間通りにお祈りをしているのかと思ったら、そうでもない。少なくとも、ガイドさんと運転手さんは、行動をともにした10時間くらいのうち一度もお祈りをしていない。時々、コーランの声が拡声器で聞こえるが、こぞってお祈りしているようには見えない。そんな信仰心の強い国ではなさそうだ。

 

1947年のパキスタン建国の際の民族移動についてガイドさんが話してくれた時、私はふと思い出して、かつて読んだサルマン・ルシュディの小説「真夜中の子どもたち」について話した。ガイドさんは、私が日本語の発音で「ルシュディ」といってもピンとこないようだったので、例のホメイニ師に死刑宣告された「悪魔の詩」の作者だと説明したら、すぐに理解した。そして、突然声を荒げて、「その人はイスラム教徒の敵です。私たちはその作家が嫌いです」といった。

 

・車はほぼ100パーセント日本車といえるだろう。ドイツ車をほとんど見かけないので、日本よりもよほど日本車率が高いのではないか。トヨタとホンダが多い。プリウス、アクアくらいの価格の車が多く、いわゆる高級車は少ない。中古車っぽいもの、廃車寸前と思われるものも走っているが、真新しい車も多い。そのほかはスズキ。これらの工場がパキスタン内にあるらしい。スズキは別枠とみなされている。駐車場に「CAR」と「SUZUKI」の料金が違っていた。どうやら「SUZUKI」というのは「軽」のことらしい。

 

・バイクは8万ルピー(1ルピーはほぼ1円と考えてよさそう)くらいだという。一般労働者の年収が5万円くらいだというから、年収を超す。その割にはたくさんのバイクが走っている。ホンダのものが目立つ。中国製も多いようだ。バイクは大事な財産なのだろう。バイクを買えない家庭が圧倒的に多いということでもある。だから、一台購入すると、二人、三人、四人、五人で乗ろうとするのだろう。

 

・バイクを運転しているのは男性に限られる。4日間パキスタンで過ごして、女性がバイクを運転しているのをたったの一人もみなかった。男性同士で乗っているのが最も多い。ただ、女性の免許取得が禁止されているわけではないという。男女仲良くバイクに乗っている光景は見かけない。

 

・そもそもカップルを見かけない。同年輩の男女で歩いている様子を見ることがほとんどない。夫婦でも一緒に歩くことはあまりないのではないか。夫婦がいると子どももいる。男女でも親子らしいことが多い。私が手をつないで歩くカップルを見たのは2度だけだ。ロータス・フォートの人けないところと、ラホール・フォートの階段のところで、手をつなぐ男女に出会った。きっと観光地でのデートだったのだろう。

 

・どこに行っても、目に入るのは男ばかり。繁華街を歩いても、8割は男性。女性を見かけるとすると、家族連れの場合が多い。女性は家にいるのだろう。そして、女性のほとんどがブルカを着てスカーフをかぶっている。目だけ出して真っ黒のブルカを着ている女性もいるが、それよりは顔はすっぽり出した赤やピンクの柄物の女性が多い。

 

・娯楽がないようだ。映画館もほとんど見かけない。ゲームセンターもない。公園や小さな遊園地で子供や若者が遊んでいる。ガイドさんに、「遊ぶところはないんですか」と尋ねたら、「たくさんありますよ。公園とか動物園とか」と答えられた。私が子どもだった1950年代、60年代と同じような状況のようだ。このようだから、国境セレモニーに大勢押し掛けて楽しむのだろう。

 

・親族で一緒に行動することが多いという。リキシャにたくさんの客が乗っているのは、家族でどこかに行こうとすると、兄弟の家族などを誘って一緒に出かけるかららしい。公園などでも10人前後の集団を何組も見たが、どうやら親族が一緒にやってきて遊んでいるようだ。大家族で行動し、交通費を節約しながら交流を楽しむのだろう。

 

・やたらじろじろ見られる。「写真を撮らせてくれ」「一緒に写真を撮らせてくれ」といってくる人が何人もいる。どうも東アジアの人間が珍しいらしい。そして、どうも私は中国人と思われているらしい。しばしばにこやかに「ニイハオ」と声を掛けられる。親しみを覚えてもらえているようだ。まるでスターになった気分。東アジア人を見ると中国人と思うらしい。中国との関係がよいせいだろう。それで、珍しくて声をかけてくるのだろう。なお、ガイドさんが横にいて、そのような申し出をすべて断ってくれた。承知するときりがなくなってしまうとことだった。若い女性二人に写真を一緒にとってもいいかときかれたので、そのときだけ鼻の下を伸ばして応じた。

 

・どこに行ってもあれほどたくさん見かける中国人観光客をパキスタンではまったくといっていいほど見かけない。観光地にもホテルにも中国人の影がない。空港に行って、数人見た程度。日本人観光客もたった一人に会っただけ。同じホテルにいた高齢男性(私よりもほんの少し年上だろう)だった。パキスタンはまだ観光の受け入れが十分に整っていないということだろう。また、さすがに夏に来る客は少ないということだろう。

 

・バスをほとんど見かけない。長距離バスはあるようだが、市内バスは数台しか見なかった。乗り合いタクシーが済ませているらしい。乗り合いタクシーが安いということもあるのだろう。なお、窓を開けて走る長距離バスを何台か見かけた。39度ある中で窓を開けて走るということは、冷房が効いていないということだろう。この暑さの中を長距離乗るのは過酷だろうと思う。観光バスらしいものもほとんど見なかった。

 

・観光についての設備が整っていない様子なのに、意外にアルファベットの表示が多い。店にもアルファベットが多く出されている。だから、ハングルのあふれる韓国などよりもよほど日本人にも街並みは動きやすい。

 

・道端にごみが散らかっている。私はミャンマーに行ったとき、都会から田舎に行っても道の両側に買い物袋、包装紙、ビニールなどなど大量に散乱し、土に半ば埋まっているのを見てあきれたのだが、パキスタンでも同じような傾向がある。ミャンマーほどではないが、かなりごみが続く。ところどころ、ごみ山のようになっているところもある。

 

・物乞いがかなりいる。有料道路の料金所の前後に障害のある人や女性がいて、手を差し出す。時々、恵んでいる人がいる。確かにこの世界では障害があると生活が大変だろう。女性は五体満足に見えるが、未亡人になって身寄りがないと暮らしていけないのだろう。

 

・レストランのトイレに行き、個室で用を足そうと思ったら、大量のハエがいた。一つの個室内に少なくとも50匹はいたのではないか! もしかしたら、100匹くらいいたのかもしれない。現実とは思えないハエの数だった。恐れをなして、用を足すのをあきらめた。ガイドさんが案内したレストランというのは、おそらく中級以上の店なのだろうから、そこでもこのような状態では、もっと大衆的な店のトイレがどのような状態が想像がつく。ただ、すべてのトイレがこれほど汚かったわけではない。同じくらいハエの多いところを一箇所見たが、清潔なところもいくつもあった。ホテルなどは清潔だった。

 

・途上国では、野良犬をたくさん見かけるが、パキスタンでは犬が少ない。野良犬をほとんど見かけない。ペットとしての犬も見かけない。ブータンやスリランカでは一日車で走っていたら、それこそ100匹近い野良犬を見かけるのではないかと思うほどだが、パキスタンでは4日間で10匹も見ていない。

 

・まとめとして、パキスタンととても貧しくて、立ち遅れた国だった。そして、やはり女性差別が前提となった社会だった。だが、平和で穏やかな、遺跡に恵まれた国だった。そして、とてつもなく暑い国だった!

| | コメント (2) | トラックバック (0)

過酷な夏のパキスタン旅行

 2018年6月20日から25日まで(ただし、20日の夜にイスラマバードに到着し、24日の深夜にラホールの空港を出発した)、パキスタン旅行をした。

今となっては、なぜ6月にパキスタンに行こうと思ったのか忘れてしまった。今年の初め、仕事が空いた時期に海外に出かけたいと思い、いくつかの旅行を手配した。その一つがパキスタンだった。旅行会社の広告を見るうち、最低催行人数1名のハラッパなどの遺跡見物のツアーを見つけて申し込んだのだった。

 ただ、結論から言うと、この時期にパキスタンに行ったのは、私の思慮不足だった! 6月はもっとも暑い時期だった。毎日、気温40度近くあった。最終日は、41度を経験した。こんな暑い時期にパキスタンに行くと観光どころではない。無知というべきか、私はパキスタンがこんなに暑いところだとは知らず、しかも、6月がもっとも暑い時期だとは知らなかった。それに、少々暑くても、冷房の効いたホテルやレストランや車に逃げ込めば、なんとかなると思っていた。が、パキスタンではそれが通用しなかった。

 ともあれ、外には発信できなかったが、早く目が覚めた時など、その日の出来事をパソコンに書いていた。日記風に旅行の印象を記すことにする。

 

620

 イスラマバードに到着。

 到着したのが22時過ぎで、そのままガイドさんに連れられてホテルに来ただけだから、まだ街の様子はまったくわからない。かなり暑いが、覚悟していたほどではない。30度くらいだろう。先月だったが、パキスタンはどんな天候なのだろうかとふと思ってネットで調べてみたら、1週間ほど毎日が最高気温46度、最低気温32度前後になっていて恐れをなしたが、今はそのようなことはなさそう。この1週間では最高気温が40度程度の予報が何度かなされている。

 バンコクのイスラマバード行きの便に並んでいた時から、乗り込む人たちはバンコクの人々とまったく雰囲気が違っていた。顔つきが西洋風だし、服装もイスラム風。とはいえ、スカーフをしていない女性もいる。みんなゆったりしている。通路を歩くときも急ぐ様子がない。ほかのどの国でも、飛行機が着陸し、シートベルト着用のサインが消えると、少なくとも通路側の客はほぼ全員が立ち上がるものだが、立ち上がるのは少数派。

 もうひとつ、飛行機の中で思ったのは、子どもが多いこと! 子ども連れの客が多い。必然的に、あちこちで泣き声が上がる。音に少し神経質な私としてはつらいが、こちらの人は気にしている様子もない。きっとこれが日常なのだろう。そして、きっとこちらのほうが当たり前の社会なのだと思う。

 新しいきれいな空港。パスポートコントロールに並んだが、これも恐ろしく時間がかかる。日本以外のいろいろの国でそれを感じるが、ここは特別。ビザが必要で、検査が厳しいということなのだろうが、それにしても。何人か、パスポートの不備があるらしくて、別のところに連れられていかれたが、そんなこんなで一人につき、短くて2,3分、長いと5分以上かかる計算だった。外に出られたのは23時くらいになっていたかもしれない。

 空港の出口はほかの都市と大差がない。ガイドさんと会って、日本車でホテルへ。高速道路を通る。車のマナーは悪くない。そんなに急がないせいだろう。途上国でこれほど交通マナーがいい国は珍しい。銃を持った警官が空港や道路のあちこちで目に入る。

 30分ほどでホテル。あまりよいホテルではないのだが、入口に銃を持った軍人がいて、荷物検査、身体検査を受けて中に入る。ホテルはそれなりの設備が整っているが、あまり清潔ではない。あちこちにごみがたまっている。これからの旅行が少し不安になってくる。

 そのまま就寝。

 

621

 朝、5時ころに目が覚めた。ちょっと周囲を散歩することも考えたが、いちいち検査を受けて出入りするのも面倒くさい。

 ホテルで朝食をとった。バイキング式だが、日本や西洋のものと異なる。カレーが中心で、フレンチトーストやら、穀物を固めたものやらがある。カレーはおいしいが、67歳の人間には、朝からカレーはつらい! ハム、ソーセージ、サラダ、パン、ジャムなどはない。コーヒーはインスタントのみ。久しぶりにインスタントコーヒーを飲んだが、意外においしかった。

 9時にロビーで待ち合わせて、ガイドさん(50代男性)と運転手さん(50代後半の男性)に連れられて、イスラマバード観光に向かった。ツアー客は私一人。このところの私の代理店を使ってのツアー旅行はこのタイプだ。

 暑さに備えて、生まれた初めて日焼け止めクリームを塗り、サングラスをかけ、帽子をかぶって出かけた。

イスラマバードの人口は70~80万人程度だが、近郊を加えると数百万になるという。1960年代に、カラチに代わって首都に指定し、人工的に発達してきた都市だ。

 最初に訪れたのはシャー・ファイサル・モスク。現代的なデザインの真っ白な大きなモスクで、10万人が礼拝できるという。作られてまがないが、イスラマバードの人の信仰の中心になっている。

Jpg  私が訪れたのは9時過ぎであって、朝の礼拝が終わって静まった後だった。すでに33度か34度はあろうという暑さ。はだしになってモスク内に入ったが、ところどころ足の裏が焼けそうなところがある! 手すりの鉄は熱くて触れない! 礼拝所なのに、ごみがあちこちに落ちており、汚れが目立つ。モスクの外にはお菓子の袋や食べ終えて捨てたトウモロコシなどがあった。礼拝所に入ると、さすがに大きなごみはないし、暑さからは解放されたが、それでも床には細かいものが落ちているし、砂のようなものでざらついている。礼拝を終えた人や観光にやってきた人が、そのあたりに寝転んだり、話し込んだりしている。そこには、1000人以上が礼拝できる女性専用の部屋があるとのことで、女性もちらほら見かけた。男性はふつうに1万人以上が入ることを想定しているらしいので、基本的に礼拝所は男性のもののようだ。

 見物を終えてダマネコー展望台に行った。子どもの遊園地にもなっている。子ども連れもいたが、一番多いのは男性数人のグループで、女性数人のグループも時々いた。男女のカップルはまったく見かけない。そういう社会のようだ。ガイドさんに聞くと、「いえ、よく男女で出かけますよ」というのだが、一日あちこちを歩いて、気づいた限りでは一組も見かけなかった。

 35度前後だが、高台には風があって心地よかった。イスラマバードの町は、緑が多く道路も広く、住み心地がよさそう(暑さを除けば!)。

Photo

 その後、タキシラに向かった。途中、テレビや映画などで見たことのある派手な彩色のなされたトラックをたくさん見かけた。中国、インドの間を行きかっているらしい。重い荷物を載せているらしくて、のろのろと走るトラックも多い。そもそも、インド製のあまり性能のよくないトラックなのかもしれない。馬やロバが荷車を弾いているのもしばしば見かける。ここでは、動物が現役で働いている。草むらには牛や羊もいる。

 タキシラは郊外にある遺跡のある町だ。紀元前から紀元後にかけての仏教遺跡が見られる。初めにタキシラ博物館で全体像を見てから、世界遺産になっているジョーリヤーン遺跡とシルカップ遺跡を歩いた。

ジョーリヤーン遺跡は小高い山の上にあり、階段がついている。その時、スマホで見ると気温は37度。ものすごい日差し。石の照り返しもすさまじい。もちろんこれまで経験したことのない暑さというわけではないが、私は元来、怠惰で根性なしなので、こんな暑さの中で何かの活動をしたことはない。が、ここまで来て上まで行かないわけにはいかない。

 上に登るまでに二度ほど休憩した。熱中症寸前だという気がした。頭がふらふらしてきた。私だけでなく、私よりも若く、しかも職業上、このような運動に離れているはずのガイドさん(ちょっと腹は出ている!)も、私以上にハーハーヒーヒ―いいながら自分から「ちょっと休みましょうよ」と言い出した。時間は計らなかったが、かなりの時間をかけて遺跡まで登った。紀元2世紀にたてられたストゥーパの後と僧院の跡がある。あちこちに土の仏像が残されているが、首が取れているものも多い。石だけになり風雨にさらされているが、そこで暮らした信仰心あつい人の思いはわからないでもない。ここは撮影禁止のため、写真を撮れなかった。

 ただ、それにしても暑い。ガイドさんの説明も少々投げやり、聞くほうも投げやり。汗が吹き出してどうにもならない。客は私たち以外に誰もない。丘の下の川で子どもたちが水浴びをする声だけが聞こえている。

 その後、車でシルカップ遺跡に移動。紀元前2世紀の都市の遺跡で、広い土地に屋敷や家の土台などが残されている。入って左側に店の跡が並び、右側に一般住居の跡が残っているという。ところどころにストゥーパ跡があり、寺院跡がある。2~300メートルの距離だと思うのだが、ところどころ遺跡をのぞきながら、メインの通りを行って帰ってくるだけで疲労した。ここにも客は私たち以外にいなかった。係の人が数人とお土産物売りが一人いただけ。鳥が数匹、鳴き声を立てて、舞っていた。

Photo_2  その後、イスラマバードの隣の市に当たるラーワルピンディに行き、マーケットを見物し、私の欲しいもの(アルコール、民族音楽のCD)を探した。口に出しては言えないことかもしれないが、アルコールは何とか手に入れた。この国でアルコールを入手するのはなかなか難しいようだ。私は寝酒がないとどうしても眠れず、酒好きというよりは、眠るための必需品としてアルコールを求めたのだった。

 ラーワルピンディの繁華街にもいった。小さな商店が立ち並び、人でごった返している。秋葉原のような電化製品を売る店が並ぶところもあり、洋品店が並ぶところもある。露店のような店も多い。そこにたくさんの車やバイクが駐車され、その横を人が歩く。道路を横切ろうにも横断歩道がないので、行きかう車の隙間を縫って向こう側にわたる。

Photo_3  繁華街を歩いて気付いたことがある。女性用の洋品店がいくつもある。ところが、売り子は100パーセント男性、客も男性の方が多い。そもそも女性をあまり見かけない。食料品店が集まっている区画になって女性を多く見るようになった。

Photo_4

 その後、ツアーのプログラムに含まれているパキスタンの一般家庭に招かれての食事をごちそうになった。一般家庭といっても大豪邸だった。とても上品な家庭に招かれ、上品な食事をごちそうになった(プライバシーにかかわるので詳しくは書かない)。とてもおいしかったし、感じよく対応してくれたが、果たしてこれが一般家庭といえるかどうか。

 ここでも、食事を作ってくれるのは奥様らしいが、私に対応してくれたのはその家の二人の息子さんだった。奥様やお嬢さんは顔を出さなかった。そういう社会なのだろう。

 その後、同じイスラマバード市内のホテルに戻って寝た。

 

2018年6月22日

8時にロビーでガイドさんと待ち合わせして、すぐに車でラホールに向かった。幹線道路を進む。

バイクがたくさん通っている。2人乗り、3人乗りは当たり前。4人乗っているバイクも多い。ときどき、5人が乗っていることもある。小さい子どもが抱かれていることも多い。ほかの東南アジアでもかつて見かけた光景だが、それにしても、これほどたくさんの3人乗り、4人乗りを見かけるのは初めてだ。運転しているのは男性。女性は一人もみなかった。男同士か家族(つまり、夫婦と子ども)が多い。

Photo_5 もう一つ気づいたことがある。幹線道路が日本の鉄道のように街を寸断しているようだ。幹線道路に基本的に交差点はない。したがって、信号もない。道路の中心には中央分離帯があるが、ところどころにUターンのために分離帯の途切れた個所があり、そこでUターンして戻る仕組みになっている。しかも中央分離帯が途切れるのはごくまれであって、ほとんどずっと分離帯があり、そこは1メートルほどのコンクリートの壁になっている。人々はその1メートル程度のコンクリートの塀を乗り越えて道路を渡っている(おそらく法律違反なのだろう)。ときには、おそらく後になって住民が無理やりハンマーを使ってコンクリートを壊して、通り抜けられるようにしたらしいところもある。かなり非人間的な道路だと思った。

ともあれ、そのような道路を通って、時速80キロから100キロくらい出しながら、ロータス・フォートに行った。16世紀にできた要塞だ。城壁が残されている。フランスのカルカッソンヌを思い出すような城壁。観光客はほとんどいない。そのせいか、入り口でパスポート検査を受けただけならともかく、その後、銃を持った兵士が私とガイドにずっとついてきた。ガイドさんに私が質問すると答えられずに、ガイドさんがその兵士に尋ねたら答えてくれた。そのあと、その兵士がガイド役をしてくれた。1時間ほど、城壁内を歩いた。

Photo_6 その後、車でラホール方向に向かった。

ラホールはカラチに次ぐパキスタン第二の都市で、人口は1000万程度とのこと。

ラホールに入った途端に車が増え、バイクもますます増える。ほとんど道をぎっしりと車やバイクが埋めることになる。乱暴な運転も増える。無理な割込み、ぎりぎりの場所でのすり抜けなど、数限りなく見かける。

リキシャ(バイクにリヤカーのようなものをつけたタクシー)やクンキー(リキシャのようなもの。ただ、中国製のバイクを使ったものを特にこう呼ぶらしい)が行きかっている。どれも一様に薄汚く、ぼろぼろのほろがついている。一人か二人で乗っている客は少ない。子どもを抱いて、6人か7人、場合によってはそれ以上の人がぎっしり乗っている。バイクの後ろに小さな子供を抱いて乗っている女性も多い。ちょっと急ブレーキがかかったら、子どもを落とすのではないかと心配になってくる。

道の両側には、店が並んでいるが、おしゃれな店はほとんどない。よくて、薄汚いレンガ造りの1階建てが2階建ての小さな家に店を開いて、そこに食料品やバイク用品などが並んでいる。ひどいところになると、店の前に水たまりがあったり、ごみためのようなものがあったりして、日本人にはボロ家としか見えないような建物が立っているような店だ。

Photo_7 ホテルに入る前に、インドとの国境であるワガでパキスタンとインドの両方の国旗降納式を見に行った。国旗を降ろすセレモニーだというので、ロンドンのバッキンガム宮殿のような儀式だろうと思っていったら大違い。

到着したのは16時少し前。開始が17時と聞いていたので、ゆっくりと会場に向かった。気温は39度。曇り空。曇っていてこの気温なのだから、快晴だったらどんな恐ろしいことになるんだろう!

大勢の人がやってきていた。厳重な荷物検査(3か所で機械を通され、パスポートもチェックされた)を受けて、10分ほど歩いて国境に行くと、まるでスタジアムのようになっていた。1万人かそれ以上収容できるようなスタンドがあり、そこに人が埋まっている。

すでに数千人の客がサッカー場のような椅子に座っていた。ここでも女性だけで来た客のために女性専用のコーナーがある。続々と客がやってくる。その間、大音響でノリのよい音楽がかかっていた。

私がガイドさんとともに席についてすぐ、中心部分でアイドルっぽい男の子があらわれて踊り始めた。姿かたちはよいが、踊りは見ていられないレベル。すぐに片足の不自由な男性が踊りはじめた。こちらの男性は驚くべき身体能力を見せて、くるくる回ったり飛びはねたりしている。観客は大拍手。

その間、多くの観客が儀式用の制服を着た兵士と並んで写真を撮ってもらっているひともいる。記念撮影をする人々も多い。客の多くが子供連れで、まさに子供連れでサッカー観戦に訪れている雰囲気。物売りもやってくる。お菓子や水類が売られている。

大音響の曲によっては一万人を超す観客が強く反応する。大声を出す人がいる。一度はみんなが立ち上がって歌い出した。パキスタン国歌だとのこと。アイドルっぽい少年や初老の男性が観客席に向かってあおって、拍手を促すなどの指示をする。まるでサッカー応援の雰囲気。音楽が途切れている時には、「パキスタン万歳」などの叫び声が上がる。

17時開始と聞かされていたのに、セレモニーが始まったのは18時だった。つまり、2時間、39度の気温の中で音の割れた音楽と下手な踊り(2時間近く、この暑さの中で踊るのは恐るべきことだと思うが)と観客の叫びの中で過ごした。私としては少々閉口した。ただ、面白いのは、国境に向こう側のインド領でもそっくり同じようになされているらしいことだ。やはり大勢の人が集まり、音楽をかけ、中心部分で人が踊り、それをリードしている人物がいる。

セレモニーは次々と儀式用の軍服を着た兵士が行進するだけ。背の高い兵士たちが頭の上に扇子のような飾りをつけているので一層長身に見える。その兵士たちが足を自分の身長ほどの高さに挙げて歩く。背が高くて足が高く上がる兵士がここではスターだ。兵士が現れるごとに大喝采が起こる。私には何が面白いのかさっぱりわからないのだが。国境の向こうでかろうじて見えるインドの側でも、服装は違うものの、そっくり同じようにしている。同じような扮装、同じような歩き方。

次々と兵士が現れ、国境の門が開き、それぞれの旗がおろされた。その間、太鼓が鳴り、門の上で兵士がマイクで大声で何かをしゃべる、シュプレヒコールのようなものだ。そして、大声でワーという声を長く続けた。何事かと思っていたら、パキスタンとインドでどれほど声が長く続くかを競い合っているらしい。それを何度も繰り返す。パキスタンの兵士のほうが声が長く続くようで、1回を除いてそれ以外はすべて(5、6回だったと思う)パキスタン側の価値だった。インドの兵士の声が途切れたとたんに観客席から大喝采が起こる。

Photo_8 要するに、パキスタンとインドがそれぞれ全く同じことをして競い合っているわけだ。セレモニーが一つの大イベントになり、スペクタクルになっている。

パキスタンとインドはカシミール地方の領有権などの問題で長く扮装を続けてきた。今も決して関係がよいわけではない。そんな中、このような同じルールに基づいて競い合っているのは、それはそれで平和なことで、好ましいことだと思う。それにしても、このようなイベントが毎日行われ、毎日大勢の客を集めていることに驚いてしまう。

セレモニーが終わって、ラホールのホテルに入った。またしても、銃を持った軍人が警備をする。車のボンネットとトランクも開けて調べられる。もちろん荷物検査と身体検査を受けて中に入る。部屋はとても快適。

 

 

2018年6月23日

 朝8時に出発して、ハラッパに向かった。ハラッパ、モヘンジョ・ダロという言葉は、昔々、高校生の頃、世界史で習ったが、どんな所かイメージできなかった。今回、モヘンジョ・ダロは遠いので行けないが、ハラッパには行ける。というか、ハラッパに行ってみたくて、パキスタン旅行を決めたのだった。

 車で3時間。私の乗る車の運転手さんは決して乱暴な運転ではないし、この国の車がひどい運転をするわけではないのだが、日本人からすると、やはりあまりに無謀な運転。時速100キロくらいで走っている時も、前の車の1、2メートルのところまで近づいて、その車が別車線に移動するように仕向ける。先頭の車がなかなかどかないと、そのようにして何台もの車が縦列駐車のようにして時速80キロから100キロくらいで走っていたりする。そうやって、自動車専用道路やら一般道(ほとんど信号はないので、一般道でも100キロくらい出せる)やらを進んだ。

 途中、ハプニングがあった。ヤギが道路に出てきたために前の車が急停車した。私の乗る車もすぐに急ブレーキをかけ、左のハンドルを切った。ところが、目の前にヤギが現れ、ぶつかった。ただ、軽くぶつかっただけだったようで、車の損害はなく、ヤギも逃げ去っただけだったようだ。道路わきにはラクダや牛や羊やヤギがいて、時々道路上に出てくる。

 そうした運転上のスリルを別にすれば、木々が連なり、麦やトウモロコシの畑が続く平和な風景だ。朝方雨が降ったおかげで、午前中はそれほど熱くなかったが、天気は回復して、ハラッパに着いた時には37度になっていた(ちなみに、帰りに運転手さんの休憩のために寄った場所は、ネットで見ると39度とのことだった!)。

 ハラッパの博物館を見て、遺跡に向かった。紀元前3000年以前から成り立っていた都市遺跡で、1920年代から発掘されているとのこと。数か所にわたって、富裕層の住居跡、労働者の住居跡、倉庫跡などがあり、それらが当時のレンガ(復元のために新しいものも加えられているらしい)が見られる。ただ、赤茶けた土の上にレンガが並んでいるだけなので、専門家ではない人間には、これまで見たことのあるギリシャのミケーナイ遺跡などとどこが違うのかさっぱりわからない。まあ、ともあれ「見た!」ということで良しとしよう。

Photo_9

Photo_10  なにしろ気温37度。立っているだけでもつらいのに、1時間近くかけて回ったので、汗だくで、大げさに言うと「ふらふら」の状態。車に乗って冷房をガンガンにかけてもらって、しばらくしてやっと回復した。

 その後、途中で現代的な建物のレストランで食事。パキスタン料理はなかなかおいしい。が、気温37度の炎天下、1時間ほど歩いて、へとへとになり、頭がくらくらし、胃もむかむかしていた直後に食欲が出ようはずがない。しかも、実は私は21日の夜から胃をこわしていた。夜中に嘔吐した。それ以来、刺激の強い食事は避けようとしてきた。が、パキスタンに胃にやさしい料理はないようだ。

ガイドさんにお願いして、刺激の少ないものにしてもらうが、食べてみると、辛くて油濃くて胃に負担が大きそう。22日の昼には、メニュに「チャイニーズ」の料理もあると記されていたので、中華麺なら胃にもたれないだろうと思って「ヌードル」を頼んだたら、運ばれてきたのは焼きそばで、しかもパキスタン味だった! 今回も半ばあきらめ気味に、「魚」と頼んだら、出てきたのは、これまたカレー味の魚フライだった。食べてみたら大変おいしかったし、食べるうちに食欲がいくらか回復しているのを感じたが、それにしても、こんなに暑い時には日本人なら、そうめんかざるそばにしたいと思うところなのだが、なぜこちらの人はこんなものばかり食べるのか。パキスタンにだって胃の弱い人がいるだろうに!と思ったのだった。

 ともあれ、夕方、無事にラホールのホテルに到着。一休みして、今度はガイドさんに連れられて、ラクシュミ・チョークという繁華街に夕食に行った。多くの人でごった返し、料理店が立ち並ぶ界隈。たくさんの人が車やバイクでやってきて、狭いところに無理やり駐車して大混乱しているが、こちらの人にとっては当たり前の光景のようだ。「胃は回復した」とガイドさんに言ったせいではあるのだが、これまた刺激の強いマトンとチキン。とてもおいしかったのだが、私はガイドさんと運転手さんの三分の一も食べられなかった。ラホールの同じホテルに宿泊。

 

 

624

 

 朝から暑い。それまでの2日間は、朝方は曇り空だったり、雨だったりで、朝の9時には30度を少し超えたくらいだったが、今日は快晴で、9時にホテルを出る時にはすでに36度。そのままラホール市内のラホール・フォートに向かった。まずはフォートの横にあるバードシャーヒー・モスクに行った。ムガール時代のモスクで、赤い石でできているが、形はインドにあるタージマハールにちょっとだけ似ている。日曜日なので各地からの観光客が来ていた。裸足で歩く。太陽に照り付けられた石が焼けているために人の通る道に絨毯が敷かれていたが、そのうえでもかなり足が暑い。絨毯の途切れるところは仕方なしに石を上を歩いたが、やけどしそう。

Photo_11  その後、すぐ近くにあるラホール・フォートをみた。ムガール帝国の歴代の皇帝が築いてきた城跡で、石の下の部分は紀元前のものもあるという。噴水の庭園や鏡の間、皇帝の謁見室などを見て歩いた。が、このとき、すでに38度、39度。歩いていられない。汗が吹き出し、頭がくらくらする。とても良い光景なのだが、味わう余裕がない。

 ガイドさんが入場料を払おうとしている時、料金表を見てびっくり。一般の市民は20ルピー、子どもや高齢者は無料。外国人は500ルピー! なんという差だ! 「不当だ!」と言いたくなるが、市民に安く提供しているのはよいことだと思うことにしよう。

 その後、ラホール博物館を見物。パキスタンでいくつかの博物館を見たが、ここが最も充実している。ただ、どこもエアコンがない。外よりは暑くないのだと思うが、間違いなく室内の温度は35度以上ある! 有名な「断食するシッダールタ」の像があった。これはさすがに素晴らしい。まさしく別格。1階にヒンドゥー教、シーク教、イスラム教の様々な時代の美術品や器具があった。2階にはパキスタン国誕生後の歴史的な写真などが展示されていた。

 そのあと食事の時間になった。が、暑い中を後では、またしても食欲はなく、小さなバナナ3本でいいとガイドさんに行って、果物屋に連れて行ってもらって、チェックアウトを延長してもらっていたホテルに戻って一休みした。

 午後、また観光開始。

シャリマール庭園に行った。ムガール帝国最盛期の皇帝が保養地として作った庭園だという。ヴェルサイユ宮殿を思わせるような幾何学的な庭園で、とても美しい。ただ、気温はますます上がって、41度。しかも、日が照っているので、太陽に照らされているところは50度を超えているに違いない。歩いていられない。庭園を歩くようにガイドさんに促されたが、体力に自信がないので拒否。

 日曜日なので多くの客がいる。少し遠くから遊びに来ているのだという。ほとんどが子ども連れ。10人程度の集団が多い。親族や友達が家族でやってくるのだという。木陰にシートを敷いて、語り合ったり、笑いあったり、何かを食べたり。クリケットのバットとボールで遊んでいる子ども、駆け回っている子どももいる。よくもまあ、この暑い中に遊びに来ようとする家族がいて、この炎天下で駆け回る子どもがいるものだと、日本人としては感心するやあきれるやら。

 その後、アナルカリ・バザールにいった。多くの人でごったがえしている。アメ横の雰囲気。衣服、靴、革製品などの店が立ち並び、狭い道をバイクが行きかい、人が歩いている。ただ、私は食料品店の並ぶところは通らなかった。たまたまその区画を歩かなかっただけかもしれない。あるいはこのバザールでは食料品は扱っていないのか。夕方近くになっていたが、まだ39度くらいあるので、「もっと見たい」とガイドさんに注文する気になれない。むしろ、「早く冷房の効いた車に戻ろうよ」と言いたい気持ちをぐっと抑えている。

 その後、ガイドさんにお願いして、冷房の効いた車の中で、サンドイッチやチキン(タンドリーチキン風のものだったが、もっときついカレー味だった)、春巻き風のもの(中華風を期待したのだったが、これも中はかなりスパイシーだった)を食べて、空港に向かった。

 空港に行くのは早すぎるので、もっとどこかに行こうかとガイドさんは言ってくれたが、さすがに空港は冷房が効いていると思うので、そこで出発までぼんやりと過ごすほうがいいと思ったのだった。すくなくとも、そのほうが健康を害せずに済む。

 こうして、空港に行き、これまで経験のないほどの厳しいチェックを受けて空港に入り、飛行機に乗り、バンコクを経由し、成田へと帰ったのだった。

 

 明日、今回の旅行で気づいたことを箇条書きふうに記すことにする。

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

桂林旅行中に考えたこと

 今回は、桂林の言葉をなくすような絶景を嘆賞し、世界有数の観光地を回っただけなので、中国について、その社会についてあまり見たり考えたりしなかった。ありふれたことしか考えなかったが、ともあれ、桂林旅行中に考えたことのいくつかを書く。

 

騒音社会・中国

 日本社会の音に対する鈍感さについては中島義道氏がしばしば書いている。私も全面的に賛成する。私も、日本の街の雑踏の騒音、不必要な音楽、不必要なアナウンスに辟易する。映画館やパチンコ屋の前や渋谷などの繁華街の大音響に悩まされている。そのため、カバンの中に耳栓を持ち歩いている。

 が、中国の騒音たるや、日本の比ではないと今回強く思った。もちろんずっと前から中国人同士の会話の声が凄まじく大きいことはよく知っている。知り合いの日本在住の中国人夫婦は、中国語で話すと疲れるので家庭では日本語を使っていると聞いたことがある。中国語で話をするのにエネルギーを要することは、中国人自身が気づいていることのようだ。同じレストラン、同じ船に中国人の集団がいると、日本人同士の会話が聞こえなくなるほど騒音がひどくなる。

 そして、今回、大音量の音楽、大音量のアナウンスを何度か経験した。観光船の中と雑技団公演の際、司会者が大音量のスピーカーを通して、元気いっぱいの声でしゃべりまくっていた。よどみなく、ジェスチャーを交え、息つく暇もないほどに語っていた。そして、雑技団公演では、そのあと大音量の音楽が続いた。大瀑布ホテルの屋上から大量の水が流れ落ちる時にも大音響の音楽。

 中国の人は日本人以上に騒音に無神経だと思う。彼らの喋り自体が大きいために、大音響に慣れっこになっているのが、その大きな原因なのかもしれない。そして、音に関してあまり敏感ではないので、スピーカーの音が割れていても、それほど気にならないのだと思う。

 

「大きいことはいいことだ」主義

 「大きいことはいいことだ」主義を感じた。大規模な資本を集中的に投入して、巨大なものを作る国家資本主義。あらゆるものを大規模化し、大勢の人を呼び、それが好ましいこと、正しいことになっていく。それが都市の形にも表れている。大音響にするのも、その表れだろう。きっと大音響にすることは、彼らにとって良い音楽にすることなのだと思う。必要以上の大きな音にして、大勢の人間を集め、良い音楽、みんなで楽しめる音楽にしようとしているのだろう。

 

「なんでも商売」主義

 観光船に乗る。雑技団の公演を見る。美術館のようなところに行く。日中友好協会のようなところに行く。初めは案内がついて観光や芸術や日中友好の説明がなされる。私たち観光客は商売気のない公的な機関かと思って、話を聞いている。ところが、どこもすぐにそれが「商売」に移っていく。観光船で土産物や香水の販売が始まる。美術館だとばかり思って案内を聞いていると、工芸品やお酒やお茶の販売会になってしまう。

 もちろん、観光ツアーに参加しているからそのような仕組みになっているといえば、それまでだが、それがあまりに露骨だ。どこに国でもツアーに参加すると、確かに「工場見学」などと称して作業場を見学して、その後、その品物の販売会になることがよくある。それでツアーは成り立っている面がある。が、これまで私がツアーで訪れたところでは、それらはあまり公的な臭いのしない小さな「作業場」だった。が、中国では立派な建物を構え、それなりにきちんと公的な仕事もしているような組織がそうしたことをする。そのような「商売」が堂々と成り立っている。

 そのせいか、社会主義と拝金主義によって、現代中国人の芸術意識はかなり薄れているように思った。美術館らしい場所に飾られている絵画があまりにお粗末に見えた。私は美術についての鑑定眼はまったくないが、さすがにこれほど凡庸だと私にもわかる。これらは、日本人を中心とした観光客だけを相手にした建物なのかもしれないが、それにしても、このような「美術品」を飾るセンスに私は疑問を持つ。また、雑技団の演技にしても、それに盛大な拍手を送っている中国人がたくさんいることに驚いた。

 ただし、誤解しないでいただきたい。ここに書いたことは、中国批判に見えるかもしれないが、私は反中国ではない。むしろ、中国びいき。ここに書いたことこそが、中国の原動力であり、その強みだろうと思う。このように組織的に大量に大規模な事業をされると、小規模なところは勝てない。電気自動車の部門でも、AIの部門でも、近いうちに中国が世界をリードするようになるだろう。そして、そのうち、中国も成熟していくだろう。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

桂林旅行

 2018315日から18日まで、ツアーに参加して桂林旅行をした。桂林に1人で行くのはつらい。ツアーに参加するほうが確実だと思った。そこで、昨年、ツアーに申し込んでいたが、最低催行人数に達しなかった。今回は、二度目の申し込みで、めでたく行けた。14名のツアーで、私は一人参加。ただ、ツアーの場合、早朝にモーニングコールで起こされ、7時台や8時台、早い時には6時台に観光に出発する。そんなわけで、ブログの文章を書く時間がなかった。帰国後、落ち着いた今、簡単に記す。

 

1日目(3月15日)

 午前中に羽田を出発して、全日空便で広州に到着。広州は一昨年、当時の勤務先だった多摩大学と提携している広東財経大学での特別授業のために、1週間ほど滞在したので、なじみのある土地。空港からバスに乗って南駅に到着。そこから高速鉄道に乗って桂林に向かった。

 高速鉄道は日本の新幹線に似ている。乗り心地もいい。1時間ほどたって、賀州駅に到着したころから、周囲の景色が変わってくる。山がまさに水墨画のような形になる。切り立った山が連なっている。しかも、周囲の雰囲気が異なる。ここは中国の広西チワン族自治区。漢民族中心の社会ではない。外は暗い。列車から人家はあまり見えないし、人家が見えても、光がついていない。1時間40分ほどで桂林に到着。駅は薄暗かった。駅のエスカレーターが、私が乗ろうとする直前、故障して急停車。まだまだインフラは未整備のようだ。

 その後、レストランで食事をとった後、ホテルへ。なかなかの大都市。桂林市内に暮らすのは70万人程度、周辺を合わせると500万人程度だという。大観光地で、中国国内のほか、各地から観光客が押し寄せている。大型観光バスが連なっている。圧倒的に中国人観光客が多い。

私の部屋は西洋のホテル以上に暗い以外には特に問題はなかったが、ほかのメンバーの部屋ではブレーカーが落ちたりトイレの水が詰まったりといったアクシデントがあったらしい。

 

2日目(316日)

客船に乗って念願の漓江下り。

漓江は桂林を南北に流れる川幅50メートルから100メートルくらいの川だ。私たちの乗り込んだ船の客は私たち日本人の一団のほかはほとんどが中国人(北の方の人たちがかなりいるらしい)と西洋人が数人。全部で7080人ほどの乗客がいたと思う。同じような観光船が次々と川を下っていく。

船に乗ってすぐから、中国人男性が先頭に立ってマイクをもって大音量でしゃべり始めた。観光案内かと思ったら、土産物の売り込み。これが20分以上続いた。これまで日本の映画館やカイロのナイトクルーズなどで大音量に悩まされているので耳栓を持ち歩いている。すぐに耳栓をした。しばらくしてデッキに出た。

外はあまりの絶景。あいにくの曇天だと思ったが、これがなかなかよかった。雲が山の中腹にかかって、まさしく幻想的な風景。墨絵の世界が見渡す限り続いている。右も左も切り立ったいびつな形の山があり、それが折り重なっている。本の数か所が墨絵の世界というのではない。桂林全体、それどころか、広西チワン族自治区のかなりの部分がこのような土地なのだと思う。行けども行けども絶景。船で4時間くらい、川下りをするが、その間、目に見える風景はすべてが絶景。さすが、世界的な観光地だけのことはある。

見どころとされているところがあって、ガイドさんが何か所か説明してくれたが、それらは山が何かの形に似ているとのことで名所とみなされているのだった。タケノコ、こうもり、観音様、羊の蹄、りんごなどなど。が、私にとって、山が何かに似ていることはあまり説得力を持たない。すべての山がいびつな形をしているのだから、こじつければなんにでも見えるだろう。そういえばそう見えないでもないが、そんなことよりも、いびつな形そのものが圧倒的な存在感で迫ってくる。何かの形に例えるよりは、その形そのものを味わうほうが面白い。

こうして、4時間ほどかけて陽朔にて下船。船から降りた客と客引き、道の両側の土産物売りでごった返す中を歩いて、陽朔の古い町並みや新しくできた繁華街(陽朔西街)を歩いた。

その後、バスで移動。途中、バスを降りて、道路から、月亮山という、満月のような穴がぽっかりあいた山を見物。そのまま桂林に戻った。桂林市内で穿山岩という鍾乳洞を見物。

夜は、桂林市内の両江四湖ナイトクルーズのオプショナル・ツアーに参加。ひとつながりになった四つの湖を遊覧船でめぐるもの。いくつかのツアーの日本人客が集まって、日本語の解説(私たちのツアーのガイドさんが担当。日本語の達者な、そしてユーモアのある50代の男性だった)。次々と遊覧船が走り、客に向けて、外で音楽が演奏され、踊りがなされている。船内でも二胡の演奏が披露された。

ただ、演奏、踊りはいずれもかなりお粗末。外で踊りがあり、銅鑼や太鼓の演奏がなされていることになっていたが、明らかに音源に合わせてそのふりをしていただけ。スピーカーから聞こえてくる音と目の前の楽器の動きがあっていない! 二胡の演奏はかわいらしい10代の女性。日本の歌謡曲や季節外れの「ジングル・ベル」を交えての演奏だったが、しばしば音程がくるっていた。

その後、船着き場の近くにある第瀑布ホテルで20時に始まる滝のショーを見た。交差点にある10階建てくらい屋上から水が吹き出し、滝のように水が落ちてくる。その間、大音響でラフマニノフのピアノ協奏曲風の音楽が鳴り続けている。水と電気の料金が一日日本円で100万円ほどかかるという。10分間そのショーが続いたが、道路で百人程度が見物していたようだ。これで100万円かかっているとすると、コストパフォーマンス的にはあまりよくないといえそうだ。

Img_3663

Img_3664

Img_3666

Img_3667

Img_3668

3日目 (3月17日)

雨の中、七星公園を見学。そのほか、ツアーなので、いくつかのお土産物屋、工芸品展などに連れていかれた。その後、桂林の繁華街・正陽の歩行街を歩いた。食べ物屋さんが多く、そのほかは土産物やファッションの店などが続いていた。

その後、オプショナル・ツアーに申し込んで、桂林民族雑技ショーをみた。ショーが始まる前、観客を相手に競りのようなものが行われているのにびっくり。ここでも男性が前に出て、大音響で司会をして掛け軸のようなものを競りで売っている。少なくとも私にはまったく価値のなさそうなつまらない字や絵に見えるのだが、買い手がいるらしいのにも驚いた。

その後、ショーが始まった。少数民族の歌や踊りが披露されるのかと思って申し込んだのだったが、レベルの低いサーカスのようなものだった。中学生のような子供たちが出て、日本の中学の体操部の生徒でもできそうなバク転やら前転やら、ひもにぶら下がっての回転やらを披露。歌芝居があったが、これも明らかな口パク。大音響の音楽が鳴り、しかもスピーカーの音が割れているので、不愉快極まりない。背景にダイナミックなCGが映し出されて、自然と人間の一体性のようなものが描かれているが、歌と演技のレベルの低さのせいで私は見るに堪えなかった。

最後にオートバイショー。輪の中にオートバイが入って回転する。2台、3台と入って、最後には5台入った。これは凄い。ほかのパフォーマンスはすべて子どもだましだが、これは圧倒された。

その後、ホテルで食事。

4日目は、朝の6時半にホテルを出て、高速鉄道を使って広州経由で日本に戻った。

そのほか、桂林について、中国について考えたことがある。できれば、明日、ブログに書く。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

京都と姫路 「美濃吉」、映画「幸せな人生の選択」、智積院、姫路城

 京都駅前の新阪急ホテル地下にある京料理の店、美濃吉。ここの料理が私は大好きだ。美濃吉は東京を含め、各地にあるが、私は新阪急ホテルの味がもっとも好きだ。時々感動的なほどおいしいと思う。しばらく行く機会がなかったので、機会を探していた。たまたま姫路に住む友人T君が手術をして自宅療養中だというので、それを口実に(T君、ごめん!)、20182月7日、京都を訪れることにした。ついでにちょっと観光もするが、目的は美濃吉での食事。京都に泊まって、姫路まで足を延ばす。

 

27

 京都についてすぐに、新阪急ホテルに直行して、美濃吉で昼食。いつものように手ごろな京懐石「鴨川」を食した。うまい! 白味噌仕立てが相変わらず最高にうまい。鰆のみそ焼きもくみ湯葉あんかけご飯もすばらしい。食べに来た甲斐があったと思った。

私は料理についての語彙を持たないし、料理法もろくに知らず、素材についても無知だ。だから、うまく説明できない。ただ、うまいかどうかしか言えない。ともあれ、ここの料理は、ただ単に「おいしい」の先に絶妙のものがある。毎回、私はそれを感じる。「ああ、本当においしい…」とつくづく思う。ミシュランの星付きのお店にも時々行く機会があるが、私はこの美濃吉の料理のほうをおいしいと思うことが多い。

 四条付近のホテルにいったん寄って、荷物を置き、京都シネマで映画を見た。

 東京では私好みのミニシアター系の映画館は新宿、渋谷、銀座などあちこちに点在している。が、京都では京都シネマでそのほとんどが見られる。そんなわけで、時間があったら、京都シネマで映画を見るつもりでいた。「幸せな人生の選択」とモーパッサン原作の「女の一生」のどちらにするか悩んだが、今さらモーパッサンでもなかろうと思って、「幸せな人生の選択」にした。

カナダから、中年の男のトマスが故郷であるマドリッドにがんによって死を間近にしたかつての親友フリアンをはるばる訪ねる。最期の時間を共に過ごすためだ。トマスは4日間、フリアンと行動を共にしている。フリアンは延命治療をしないことを選び、安楽死をしたいと考えていることが明かされる。フリアンの心配事の一つは老犬トルーマン(この「トルーマン」が映画の原題)を自分の死後、だれに託すかなので、それにもトマスは付き合う。アムステルダムに留学している息子を突然訪れる。そのような交流を描く。死を前にした人間のあきらめ、悲しみ、親子の情、そうしたものを情に溺れることなく、淡々と、しかししみじみと描いていく。かつての舞台のスターで、今もわがままを通すフリアン、友情をもってそれを支える寛大で常識人のトマスという組み合わせ、そして二人と微妙な関係を持ってきた女性たちの存在によって、そうした状況を描く設定ができ上がっている。

フリアンに無理やりおしつけられて、トマスはトルーマンをカナダに連れ帰ることになる。親友だったフリアンの身代わりとして、トマスはトルーマンを死までかわいがるのだろう。生と死、友情、社会における市の意味。そうしたものがすべて描かれる。

人生の最期を垣間見るためにとても良い映画だと思う。私は今、東京新聞・中日新聞で「65歳になったら〇〇しなくていい宣言」を連載している。高齢者についてあれこれと考える状況にある。そのための参考にもなる映画だった。

ただ実は、私は翌日、がんの手術をした友人を見舞うのだった。そもそも私は東京からはるばるかつての親友を見舞うために姫路に向かう途中なのだった。「しまった。縁起でもないものを見てしまった。明日、これと同じようなことにならなければいいが!」と心から思った。

映画をもう一本みようかと思ったが、映画館内が寒くて気力を失った。京都の夜の街を散歩しようとも思っていたが、寒さのために、これも諦めた。さっさとホテルに戻って風呂に入って温まってすぐに寝た。

 

2月8日

 京都まで来てどこも観光しないのはあまりに残念。かといって、寒いのであちこちウロウロしたくない。そんなわけで、私の大好きな場所、智積院に行くことにした。

 私は2006年から数年間、京都産業大宅で客員教授を務めていた。京都市内に寝泊まりする場所も確保し、週に2日間通っていた。その間、京都のあちこちを回った。その中でもっとも好きだったのが、智積院だ。そこでみた長谷川等伯の襖絵に驚嘆した。その後、折に触れて智積院を訪れている。今回もそこにだけは顔を出すことにした。

 ちょうど本堂で何事かの儀式が行われていた。念仏が唱えられ、20名ほどのお坊さんが集まっていた。どのような儀式なのかわからなかった。堂内に入ってしばらく見ていたが、携帯に仕事の電話が入ったために堂を出た。その後、等伯とその息子・久蔵の描いた襖絵を見た。見るごとに感動する。生命、ほとばしり、死、美。そうしたものの奥深くにあるものを鮮やかに描き出して見せていると思う。

 京都駅まで歩いて、その後、新快速で姫路へ。姫路に到着してからは、まずは姫路城を見物に行った。姫路在住の友人T君に連れられてかつて内部も見たが、大修理が行われてからは、新幹線から眺めるだけで、訪れる機会がなかった。駅から歩いて、周囲を見物。

 その後、タクシーでT君宅を訪れ、楽しく歓談。手遅れになるところをいくつかの幸運が重なって早期発見につながったとのことで、もちろん前日見た映画のようなことにはならない(ただ、映画の話はしなかった)。高校時代からの友人だが、彼は理系、私は完璧な文系なので、進む方向は違ったが、50年近くにわたって交流を続けている。孫が何人かいて、家族にも恵まれ、定年退職後も自分なりの研究を続けて静かに生活している。素晴らしい人生だ。あと少し療養が必要だということだが、元気になったら、また昔のように一緒に遊びたいと思った。

その後、新幹線で京都に戻り、ちょっと時間があったので、駅の周辺(東寺付近)を歩き回った。寒くなったので、駅に引き上げ、夕方からまた新阪急ホテル地下の美濃吉で食事。

またも鴨川。白味噌仕立てを再び食べずに東京に戻るわけにはいかない。お店の人が、二日連続の同メニュと知って少しアレンジしてくれたのはうれしい。でも、同じものでも、これほどおいしいと何度も食べたくなる。海老芋も最高においしかった。そして、別に注文した一品料理「鯛の兜煮」も絶品だった。骨にしゃぶりついて食べつくした。

 満足して京都を後にして、その日のうちの都内多摩地区の自宅に帰った。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

ミャンマー旅行 その2

 昨日に引き続き、ミャンマー旅行の感想を書く。

 なお、「ミャンマー旅行 その1」に写真を挿入しようとしたのだが、先日、スマホを買いなおしたせいか、それができなかった。技術を身に着けたら、後ほど写真を加えることにする。

 

4日目 130

 朝、6時過ぎに起きて、チャイティーヨの頂上付近にあるホテル付属のレストランで647分の日の出を待った。そのテラスは絶壁に建てられており、眼下に山や平原が広がるのを見ることができる。そこは、日の出を見る絶好の場所とのことだった。

620分ころからだんだんと明るくなり、35分ころに日の出。なぜか、ネットなどで予告されていた時刻よりも10分以上早かった。どういうわけか。まさか、ここは物理法則が当てはまらない聖地であるため、岩は落ちそうで落ちず、時間もゆがみが生じているというわけでもあるまい。

それにしても絶景。朝焼けになって、だんだんと光が広がっていく。はるか遠くの山並みから太陽が顔を出す。そして、朝になる。

その後、トラックバスで下山。下り坂のほうが上り坂よりもスピードが緩く、それほどのスリルはなかった。その後、バスに乗り換えて、途中、食事をマジながら、またまた5時間以上かけてヤンゴンへ。

ヤンゴンでは、まずボージョーアウンサン・マーケットへ。要するに、大きな外国人向けのお土産物屋さんだ。宝石、特産品などの店が並び、外国人(西洋人、中国人、日本人)やそれぞれの言葉を話す客引きが大勢いた。が、私はそのようなお土産物には関心がないので、ガイドさんに近くのデパートに連れて行ってもらって、そこに入っているスーパーをのぞき、民族音楽のCDを購入した。私はアジア地域に行くと、必ず、少なくとも一枚は民族音楽のCDを購入することにしている(ただし、帰国後聴いてみたら、あまりおもしろくなかった。選択失敗だった!)。

日本企業などが入っている商業ビル、サクラ・タワーの上層階にあるレストランでコーヒータイムを過ごし、高みからヤンゴンを見た後、シュエダゴン・パゴダを訪れた。ヤンゴンの最大の寺院であり、聖地ということらしい。大きな仏塔があり、その周囲に小さな仏塔や建物が林立している。仏塔は大小すべて金箔に包まれており、金色に輝いている。

ここでも私は既視感に襲われた。いくつも同じような寺院を見たような気がするが、とりわけ、タイのチェンマイのワット・プラシンに似ている。いや、似ていること自体は構わない。お寺なんてそんなものだろう。私が気になったのは、ワット・プラシンでは私はかなり感動したのに、ここではそれを感じないことあd。すでに似たようなものを見たことがあるがゆえに、新鮮さの欠如というだけではなさそうだ。タイの寺院には仏塔だけでなく、急な角度の反った屋根と赤茶色の瓦を特徴的なお堂がある。そこで静かにお参りしている人がいる。ところが、こちらにはそれがない。金ぴかの仏像、時にはディズニーの人物のような神々や釈迦の弟子たちの像がある。そして、ここでもいくつもの仏像の背後にネオンが取り付けられており、後光がピカピカと光るような仕掛けがある。少々白けてしまった。峻厳さ、生と死のかなたに肉薄しようとする厳しさ、現世の生きる苦悩から逃れて救いを求めようとする真摯さ・・・そのようなものが感じられない。

これでヤンゴン見物は終わり、夕食をとって、空港に向かった。

 これでは、銀座にちょっと寄って、そのあと浅草寺をみただけで東京観物を終えるに等しい。もう少しヤンゴンの深みを見てみたかった。

 

旅のまとめ

・ツアーであるから仕方がない。が、やはり見たいところを見られなかったという思いは残る。表面だけほんの少し見たに過ぎない。ツアーのよいところもたくさんあるが、限界があることを改めて痛感。

・ツアーというのは、ガイドさんやツアー客によって、よくなったり悪くなったりする。今回のガイドさんは大変良かった。あれこれと気を使い、何かが起こったらすぐに的確な対応をし、客の一人一人を気遣っていた。お客さんもよい方ばかりだった。そのおかげで楽しく過ごせた。

・自分でミャンマーを歩き、じかに人に接したわけではないので、これまでの旅行以上に曖昧なことしか言えないが、ミャンマーの人々の穏やかさをしばしば感じた。殺気立ったところや険しいところがない。物売りが近づいてくるが、しつこくない。

・聖地チャイティーヨに行くとき、トラック・バスに大きな物は入らないのでスーツケースはふもとに残して、頂上のホテルで一泊するだけの分を持っていくように言われていた。が、私はもともと荷物をかなり小さくまとめているので、そのまま持ち込んだ。トラックバスでは問題なかったが、それを降りてホテルまで行くときに、少々重さを感じたので、ポーターに運ぶよう頼んだ。ポーターの存在はガイドさんに聞いていたが、実際に見てびっくり。トラックバスの終点の近くに何人もポーターが待ち受けていた。屈強の男性だとばかり思っていたら、ポーターのほとんどが若い女性だった。高校生くらいの年齢の子もいる。中年女性もいる。籠のようなものを背負って、その中に荷物を入れて運ぶ。数百メートルだったが、6ドル取られた。ガイドさんによると、ほかの何人かに声をかければ、もっとずっと安く済んだだろうという。

・あちこちで中学生くらいにしか見えない子どもがレストランのボーイなどをして働いているのを見た。小さな子どもが物売りをしているのも当然の風景として溶け込んでいる。

・ミャンマーの道の最大の印象、それは「汚い」ということだ。中心街から外れると、途端に歩道や道の両端には、ごみが続く。バスで数十分、それどころか、数時間進んで郊外に行ってもごみが途絶えることがない。ほとんど人の通らない田舎道まで来て、やっとごみが見えなくなる。ごみのほとんどは買い物のポリ袋、ペットボトル、商品の包装、紙切れだ。人家の前にも、ごみがある。人家の庭にもごみが散乱している。ごみが土の上にあるだけでなく、土に埋まって、あちこちからポリ袋などが顔を出している。ちょっとした空き地があると、その多くがごみ溜めになっている。川にもごみが流れ、時にごみが停滞している。カイロに行ったときも同じような光景を見たが、さほど差がない。おそらくミャンマーの人はごみを汚いと思わず、平気でいるのだろう。だが、これは間違いなく汚染だ。この国が途上国から脱するには、まず道端のごみをなくすことから始めるべきだと思った。つまり、衛生観念、公共意識、自分の周りをきれいにしておこうという自尊心の醸成が必要だと思う。

・ミャンマー料理はとてもおいしかった。私は東京でも何度かミャンマー料理を食べたことがあるが、ずっと不満に思っていた。インパクトがなく、雑駁な味だと思っていた。が、今回のツアーでの食事はすべておいしかった。ただ、ごみためのようになった川のすぐそばで、魚を取ったり、農作業をしたりしている人を見た。出てくる食事があんなごみのようなところでとれた食材だと、少々健康が心配になる。

・結論として、私はミャンマーを、ブータンやスリランカやタイのチェンマイほど大好きにはならなかった。バガンには大いに惹かれたが、十分に見ることができなかった。ツアーでミャンマー旅行をしたおかげで少しw事情がわかったので、次にはバガンを中心に個人旅行をしたいと思った。

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

ミャンマー旅行 その1

 2018127日から31日まで、ミャンマー旅行に出かけていた。ミャンマーを個人で動くのは難しそうなので、クラブツーリズムのツアーを選んだ。個人的な制約から、今回も35日の弾丸ツアー。とても良い旅だったが、私には少々ハードすぎた。あまりにハードなため、ブログを書く時間を持てなかった。遅くホテルに到着し、一休みしてすぐに寝て、翌朝早朝に出発するというパターンだった。ただ、入門者にとっては最高の旅だと言えるかもしれない。

 

1日目 2018127

 27日の午前中に成田を出て、ANAの直行便で、夕方、ヤンゴン国際空港着。空港は真新しい。日本車が送迎に並んでいる。車の85パーセントが日本車だという。ただし、もちろん中古車。

 その後、日本の温泉地のホテルの名前が車体にそのまま残っているかつての温泉客送迎バスの中古車でネピドーに向かった。ミャンマーでは、車に日本語などの表示が残っているほうが、性能がよいとのことで喜ばれるという。ネピドーは2006年からミャンマーの首都となっている。

 8時間飛行機に乗った後なので、すぐにホテルに入りたいところなのだが、ネピドーまでバスで5時間かかる。バスから見た感じ、マニラなどと大きな違いを感じない。小さな店があり、屋台があり、車やバイクが行きかっている(ただ、バイクはヤンゴンの中心街には乗り入れ禁止だという)。違うのは、男女ともにロンジーという腰巻をしている人が圧倒的に多い。そして、多くの女性が顔にタナカと呼ばれる木の粉を塗っている。男性にも塗っている人がかなりいる。頬っぺたや額、時には鼻の頭まで白いペンキ状の跡がある。ガイドさんももちろんタナカを塗っている。日焼け止めであり、化粧の一種だというが、正直言って、日本人としてはこの美意識は信じられない。

 温泉客の送迎バスなので、数十分の移動を前提にしたものなのだろう。椅子の感覚が狭くて窮屈。20年くらいたっている車だろう。乗り心地も悪い。しかも、途中でタイヤがパンクして1時間半のロス。ネピドーのホテルに着いたのはなんと夜中の12時過ぎだった。

 夕食はバスの中で弁当が配られた。唐揚げ2つ、アジの塩焼き一切れなどの入った、日本式の弁当。日本人が経営する弁当屋さんのものらしい。うーん、ヤンゴンまで来て、ぼろバスの中で日本式の弁当を食べるなんて! ツアーは八人。高齢者が多い。そのうちの四人は高齢のご夫婦。

 1日目は移動しただけで終わった。高速道路を通ったが、かなり暗かった。道はかなり凸凹がある。途中、サービスエリアに二回寄った。ネオンがあちこちにあり、大きな音で音楽がかかり、現地の人が焼き鳥などを楽しそうに飲み食いしていた。大型バスが何台もやってきていた。ガイドさんの説明によると、列車はバスの1.5倍くらいの時間がかかるので、バスを使う人が多いという。

 ガイドさんは30代?の女性。日本語もかなり上手。熱心で、きわめて有能。この人がいなかったら、トラブルに多かった今回のツアーはひどいものになっただろう。ツアーコンダクターの重要性を改めて認識した。

 寒い。ミャンマーは暑いのだと思っていたら、それほどではない。昼間は30度を超すようだが、ネピドーは15度くらい。厳寒の日本から出かけてきたので、冬用の服はたくさん持っているので問題はないが、意外だった。

 軍事政府の影、ロヒンギャ問題など、少なくとも私にはほとんど感じられない。

 

2日目 128

 朝の515分モーニングコール、6時朝食、7時出発。朝が苦手で、スケジュールに追われるのが大嫌いな私には大いにつらい。

まずネピドー見物。ただ、首都といってもまるでゴーストタウン。政治的な中心として建設されたようだが、少なくとも今のところ、機能しているようには見えない。真新しいビルや立派な建物、整備された道路はあるが、人影が見えない。車もめったに通らない。ここには300を超すかなり高級なホテルがあり、もっとカジュアルな宿泊所もたくさんあるとのことだが、客がいるようには見えない。政治的な何かのイベントが行われるときには人が集まるのかもしれないが、ふだんは人気がないようだ。

 国会議事堂を外から見学。その前に、片側10車線の道路もみた。車もほとんど通らない(1分に1台も通らないのではないかと思う)ので、まるで滑走路。実際、有事の時には滑走路として活用できるように考えられているらしい。

 その後、ウッパタタンティ・パゴダをみた。ヤンゴンにあるシュエダゴン・パゴダのレプリカだという。金ぴかの仏塔。周囲に八曜にまつわる仏像がある。生まれた曜日(西洋暦による曜日)をミャンマーの人は大事にするということで、自分が生まれた曜日の守り仏を信仰しているらしい。ガイドさんが渡してくれた早見表によると私は月曜日に生まれたようなので、月曜日の人を守ってくれて、健康と幸運をもたらしてくれる仏様にとりあえずお参りした。が、キリスト教起源の曜日が、なぜ仏教と結びつくのか納得いかない。

 その後、4時間ほどかけて、大観光地バガンに行った。

 しかし、それにしても・・・。わざわざ長い時間をかけて、ネピドーにまで来る意味があったのだろうか。たいして見どころはなく、ただ疲れただけ。ヤンゴン到着後、すぐに飛行機でバガンに向かっていれば、もっと楽でもっと楽しかっただろう。おそらく、国策として、ミャンマー政府が今はガラガラのネピドーのホテルに客を呼び込んでいるのだろう。ネピドーの存在を世界に紹介したい意味もあるのだろう。仕方がないと思うことにした。

 

 バガンは素晴らしかった。バガンは仏教建築群のある町だ。11世紀にこの地を都として王朝が栄え、多くの寺院が建てられた。数千の大小の仏塔があり、オールド・バガンでは至る所に宗教遺跡が見える。灌木がはえただけの乾いた茶色の土地に、古い石造りの仏塔が次々と現れて、まさに壮観。京都の伏見稲荷には朱色の鳥居がずっと続くが、それを散らばらせたな感じで、古い石造りの仏塔が数キロ平方メートルの間に点在している。聖なる空間を感じる。

11世紀に建てられたアーナンダー寺院見学。東西南北に金箔を施された仏の立像があり、周囲に古い壁画がある。南北の二体の仏像は王族が近くから見ると厳しい顔に見え、庶民が遠くから見ると温和な顔に見えるという。シュエジゴン・パゴダもみた。

ただ、これらを見ているうち、既視感に襲われた。スリランカやチェンマイでみた仏塔ととても良く似ている。仏塔も似ているし、様々なデザイン、寺院のいわれなどもそっくりだったりする。そして、後に少し詳しく書くが、スリランカやチェンマイの寺院よりも厳かさに欠ける気がする。

各地に仏教遺跡があり、それぞれに釈迦の髪やら歯やら骨やらを祀り、その地に寺院を建てた由来を示す伝説がある。建物の様式、素材も少しずつ違うが、素人目には区別がつかない。仏教がインターナショナルに広まっていったということだが、おそらくそれぞれの土地の特質があるのだろう。もう少し、しっかりと勉強してしっかりと見なければ、私にはもったいない気がした。

夕方、高台に行って、バガンの日没を見た。近くの空き地に合計数十台の観光バスやミニバスや乗用車が停車しており、丘の上にはたくさん人(200人程度?)の人が集まっている。意外と英語は聞こえてこない。中国語も多くない。フランス語が多く聞こえる。日本人も多い。

日没は壮観だった。灌木がぽつぽつと立ち、草が生える乾燥地帯に数十、数百の仏塔が立ち並び、その向こうに太陽が沈んでいく。神聖にして壮大。太陽と仏塔と平原。日没後の夕焼けも美しかった。

その後、ライトアップされた遺跡を見てホテルに戻った。

素晴らしかった。とはいえ、これでは京都に行って、清水寺と西本願寺だけを見たに等しい。バガンは数日かけてゆっくり見るべき場だと思った。近いうち、また来たいと強く思った。

この日も朝からほとんどずっと長袖を着ている。昼間は半袖でもよいが、夜になると、上着が必要。

 

3日目

 バスでバガン・ニャウンウー空港から飛行機でヤンゴンに向かった。FMI AIRの飛行機。小さな空港で、時刻表示もなく、出発便の表示もない。時計もない。客は、現地語と英語のアナウンスをきいて行動しなければならない。が、ともあれ、無事にヤンゴン到着。

 そして、すぐにまたバス(パンクしたのとは別のバス)で聖地チャイティーヨに向かった。

 ところが、途中でトラブル。また、バスが故障。今度はブレーキがきかなくなったとのこと。有料道路の路肩にバスを停めて1時間半以上、待った。トラックなどにぶつけられたら大変なことになると思って、少々怖かった。ガイドさんが携帯電話であれこれ手配してくれたおかげで、昼食を食べたレストランが特別に日本製のハイエースを出してくれることになった。このハイエースも新車ではないらしいが、まだ新しい車なので、なかなか快適。

 5時間ほどで、麓の町キンプンに到着。そこでトラックバスに乗り換えた。聖地チャイティーヨに行くには、このトラックバスしか方法がない。トラックの荷台に席が設けられている。一列5人から6人の席がベンチ状になっており、それが7列ほどぎっしりと前後に作られている。客は前の手すりをもって席に座る。スーツケースなどは持ち込まないように前もって注意を受けている。席が埋まったら出発。次々とトラックバスが待っており、次々と人が埋まっていって、出発する。客のほとんどはミャンマーの人だ。

 トラックバスが出発。海抜1000メートルを超す山頂までトラックバスが細い曲がりくねった道を全速力で走る。まるでジェットコースターのよう。身体が左右に動くので、手すりを持っていなければならない。シートベルトがついているが、ほとんどが壊れているようだ。そうした状況で、離合による待ち時間を入れて45分くらいで頂上近くに着いた。この日はこの近くのホテルで宿泊することになっていた。

 はたして事故はなかったのか、少々心配になる。こんな急な坂道をこのようなスピード(時速80キロくらい出ているのではないか)で、しかも10分おきぐらいに走っていると、絶対に事故が起こると思うのだが、事故が起こったことはないという。にわかには信じられない。

 

 チャティーヨーはゴールデン・ロックで有名な場所だ。

 山頂にある巨大な岩の上に小さな仏塔が建てられている。そこには釈迦の髪が収められているという。そのために、岩は今にも山から転げ落ちそうでありながら、均衡を保って、落ちないでいると言われる。確かに、なぜこれで落ちないのか不思議だ。大きな地震などがあったが、それでも落ちなかったという。そうしたことから、ここは聖地としてミャンマーの人々の信仰の地になっている。事実、ゴールデン・ロックを中心に大きな寺院になっており、岩の前で大勢人が線香をたいたり、お祈りをしたりしている。小さな子供たち、若者、大人、お年寄りも大勢いる。

 ただ、日本人からすると、あれこれと信じられない場面が多い。

 まず、岩が金粉で黄金色に塗られていることに違和感を覚える。これでは岩とは思えない。リアルに感じられない。まるでおもちゃのような気がしてしまう。バチ当たりな精神を持つ私としては、大きな棒を持ってきててこの原理を応用して、この岩を落としてみたくなる。それでも落ちなかったら、奇跡を信じてもいいような気がする。私以外にも、同じようなことを考える人はこれまでいなかったのだろうか。

 来ている人たちも、信仰心にあふれている感じではない。まるで日本の初詣か花見の雰囲気。大きな音でポップ調の音楽がかかり、寺院内のあちこちにネオンが取り付けられ、人々が楽しそうに笑っている。祈っている人もいるが、賽銭箱にお札がたくさん入っており、仏像やら伝説の出来事を紹介する人形のあちこちにもお札が挟まっている。しかも、人形や仏像は、肌色に黒で顔を書いたまるで子供の人形のようなものが多い。

 それ以上にびっくりなのは、多くの仏像の頭にネオンが取り付けられていること。後光だということだが、ネオンが頭から発してチカチカしている。

 ガイドさんは、「ミャンマーの人たちは信仰心が篤いので、ここにきて、熱心に自分に福が舞い込むように、お金持ちになるように、受験などが成功するように祈る」と、疑問を感じることもなさそうに力説していた。いうまでもなく、そのような煩悩をこそ、仏教は否定したと思うのだが、ミャンマーの人はそうは思わないようだ。

 厳かさのほとんどない、現世利益の仏教。宗教が庶民に根付くということはこういうことだとは思うのだが、それにしても、ここまで現世利益だとあきれるというしかない。

 夜の間、ずっと歌声が聞こえていた。お経のような歌。どうやら、24時間かかっていたようだ。翌朝、5時過ぎに目が覚めたが、まだなり続けていた。どうやら、お寺の前のカフェでこの音楽を鳴らしていたらしい。

 

 続きは明日、または明後日書くことにする。今朝、日本に帰ったばかりで、少々疲れた。

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

チェンマイ旅行 簡単なまとめ

 2泊しただけ(ただし、最初の日は午前中に到着、最終日は夜中の出発だったので、3日間まるまる使えた)だが、私はチェンマイがとても気に入った。

35年ほど前に訪れて以来、タイは大好きな国だ。近年のバンコクは近代化しすぎて、少々寂しかった。チェンマイに来てみると。昔のバンコクの雰囲気が残っている。しかも、チェンマイはもっと穏やかでもっと落ち着いている。「ここなら、運転できる」と日本人が感じる、アジアでかなり少ない都市なのではないか。静かで壮麗な寺があり、落ち着いた住宅街がある。歴史が残り、タイの歴史の中に世界の人が集まっている都市。

ただなんといっても観光地、保養地だ。大勢の外国人がいる。短期の旅行者だったり、少し長期の滞在者だったり。リタイア後、チェンマイで暮らす西洋人が多いようだ。日本人にもそのような人がいると聞いた。たしかに、私もここで暮らしたくなる。おいしい食事、穏やかな人、安くて上手なマッサージ。言葉が通じ、何らかのコミュニティがあれば、私もここで暮らしたい気持ちになってくる。

このところ、アジアのあちこちを回ったが、ブータンとスリランカとここチェンマイがとても気に入った。住んでみたい候補地になった。いずれも仏教国。やはり、私は仏教国が性に合うようだ。

ただ、観光地であるため、ここでは現地の人のなまの生活はあまり見えない。その点、ほっつき歩いてその都市の生活をぼんやりと眺める旅行が好きな人間としては、十分にその土地を見られなかったという不満は残る。

繰り返しになることも多いが、チェンマイについて気づいたことをいくつか挙げる。

 

・私は車の運転をその都市の民度の基準にしているが、チェンマイはかなり整然としており、みんな交通ルールを守っている。信号も横断歩道も少ないので、車の切れ目がなく、歩行者が道路を渡るのは大変だが、それでも無理にわたろうとすると、車は停止してくれる。

・旧市街を囲む道路はほとんど一日中、多くの車が走っている。堀の両側にそれぞれ一方通行で、車が音を立てながらぐるぐる回っている。だが、その内部の旧市街では車はごく少ない。制限があるようには見えないが、多摩に車が入ってくるくらい。堀の周りをまるでサーキットのように回る車はいったい何のようでどこに行っているんだろうと不思議になってくる。

・私が出会った人のほとんどが何らかの形で観光にかかわっている人たちだ。少なくとも、旧市街地は観光で成り立っている。路地にも観光客、外国人滞在客向けの店が並んでいる。

・言われることだが、まさしくタイの京都という雰囲気。ともかく寺が多い。ふつうの都市だったら観光の目玉になりそうな寺院なのに、人影がないことも多い。

・「チェンマイ美人」という言葉をよく聞く。が、実感はなかった。ガイドさんに聞いてみたら、「その言葉は知ってるけど、僕の友だち、ブスばっかり」と話していた(現代社会にふさわしくない表現はあるが、ガイドさんのニュアンスを伝えるため、あえてオリジナルのままに書き記す)。

・新しい王様の写真があちこちに飾られている。幹線に横断幕があり、寺院の仏像の横に写真がある、いずれも新しい王様をたたえている。ただ、その軍人気質の厳しさを多くの人が警戒しているようだ。ガイドさんによると、新しい国王はタイでの生活経験が少なく、基本的にヨーロッパで育った人だという。それも心配の種らしい。

・寺院に僧侶の写真があった。その寺の昔の住職か何かと思ったら、先日亡くなった国王が剃髪した時の写真だった。

・チェンマイでは久しぶりに物価の安さを感じた。まるまる3日間をチェンマイで過ごしたが、昼と夜の食事をし、毎日マッサージを受け、飲み物を飲み、時にタクシーやトゥクトゥクに乗って、日本円で合計7000円くらいしか使っていないと思う。

・日本人観光客にほとんどで会わなかった。ナイトマーケットで3回ほど日本語を耳にした程度。それ以外では一切、日本語は聞こえてこなかった。日本人らしく思えても、近づくと中国語を話していた。チェンマイを訪れる若い日本人はほとんどいないとガイドさんも語っていた。

・実はチェンマイの歴史について、良く知らない。大まかには理解したが、王様の名前も王朝もよくわからない。今度訪れるときには、しっかりと勉強したい。また訪れたいと思った。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

より以前の記事一覧