旅行・地域

ブータン旅行 その2

 ブータン旅行の3日目は朝のうちしかパロには滞在していない。朝の8時にホテルを出て、10時35分発のブータン・エアラインズの飛行機でコルコタ(かつてのカルカッタ)経由でバンコクに到着。そこで、7時間ほど待って、22時45分発(ただし、遅れて23時30分ころに離陸)のタイ航空の便で帰国。羽田到着は午前7時少し過ぎたころだった。自宅に帰ったのは9時半過ぎだった。待ち時間を合わせて移動に22時間30分ほどかかったことになる。移動は確かに大変だ。

 ブータン旅行記というほどではないが、昨日に続いて、簡単に感想をまとめておく。ごく短い滞在であり、しかもパロとティンプーしか訪れていないので、ブータンを見たうちには入らないが、ともあれ、短い滞在の中で気づいたことを書く。

 

・私はブータンという国がとても気にいった。大好きな国になった。私はブータンをずっと自分の育った大分県日田市と重ね合わせていた。私は田舎者だ! 親も田舎者だった。10歳で大分市という「都会」に出て、その後、18歳で東京に出た。うーん、俺は本当はブータンみたいなところで、静かに暮らすべき人間だったんだ、無理に都会人になろうとして、ずっと無理して生きてきたんだ! そう思った。

・幸福度ナンバーワンのブータン人。たぶん、本当に彼らは幸せなのだと思う。ガイドさんとも話した。もちろん私はお人よしではないので、すべてを真に受けない。ガイドさんは公務員なので、国王への尊敬も語り、国のよさを語る。もちろん、正直に、国の欠点も話してくれる。彼らの様子、話から、幸せでしかありえないと思った。私の祖父母も両親も、田舎で幸せに過ごしていた。細かい不満はたくさんあっただろうが、都会に出てお金儲けしようとも思わず、身の程知らずに成功しようとも思わず、先祖からの土地でそれなりに毎日生きて、それでよいと思っていた。それと同じことなのだろう。国中の人がそのような感覚なのだろう。大変失礼な言い方をすれば、国中の人が私の故郷の田舎者のような人たちなのだろう。そう考えれば、彼らは本当に幸せなのだというしかない。

・スラムがない。貧しい人々を見かけない。格差が少ないのではないか。目に見える人はみんなが楽しそう。外で遊んだり、学校に行き来している子どもたちも実に楽しそう。

・まるでスイスのよう。美しい山の風景、窓のきれいな建物。それがきちんと整理されている。勝手に建てるわけにはいかず、制限があるらしい。そのため、整然として落ち着いている。独自の生き方をする別天地。そのような意味でスイスを手本にしているのかと思ってガイドさんに聞いてみたが、そんなことはないという。ブータンでスイスが話題になることはないそうだ。山国で独自の道をめざすとこのようになるのが必然なのかもしれない。

・ともかく、ブータンの人々はがつがつしていない。どこにも客引きの音楽がかかっていない。ホテルもレストランも空港も一般の店も音楽がない。呼び込みもない。商業主義の行き過ぎがない。

・墓がないことに気付いた。九州の山道を車で走るとあちこちに墓が見える。どこにも墓がある。だが、ブータンでは一切墓を見ない。尋ねてみたら、祖先を祀ることはないという。葬式と49日の法要はするが、その後、祖先を祀ることはなく、どの家にもある仏壇も祖先供養のものではないという。本来の大乗仏教の教えに基づいた仏壇らしい。

・本当にブータンの人は輪廻を信じ、転生を信じているらしい。仏教の教えが身についている。だから、欲望を抑制することに慣れている。欲望がかなわないこともやむを得ないことと考える。そして、それに基づき、家族を大事にし、自分の生活を大事にするという。仕事のために家族を犠牲にすることはないらしい。

・とはいえ、必ずしも、ブータンの人たちがみんなしっかりしたまじめな人というわけでもなさそうだ。いろいろなところでザツさが見える。ブータン航空のCAさんは、投げるように昼食を渡してくれた。愛想もよくない。とても感じのよいホテルなのだが、客室ではもちろん、ロビーでもWiFiはしばしば切断されるし、私が室内にいる時にスタッフが黙って入ってくるし、シャワー室には前日にあった足ふきがいつの間にかなくなっている。行き届かないところが多い。必ずしも、他人に心配りをする人とは言えないようだ。まあ、要するに、これも「田舎者」ということなのだろう。

・料理はなかなかおいしいものもあった。そば粉で作った餃子は特に美味しかった。中に、たぶんナスとズッキーニと豚肉が入っていた。アスパラを炒めたものも絶品だった。ただ、実はこれらもブータン料理として定着しているものではないらしい。これといったブータンの名物はないとのことだった。確かに、タイ料理、ベトナム料理、インド料理ほどの存在感はないし、驚くべきおいしさは感じない。まあ、要するに田舎料理には違いない。

・近代化の状況がおもしろい。ティンプーやパロの中心地には4、5階建てのマンションはいくつもある。だが、お店はせいぜい3階建てくらいではないか。人口が少ないので、大規模店を作っても利益が出ないのかもしれない。小さなスーパーはあったが、それがせいぜいだった。

・中心街以外は、山のあちこちに家がいくつか見える程度。農業を営んでいるらしい。西岡チョルテンに行く途中、棚田が見えた。ちょうど田植えをしているところもあったが、このようにして山に田畑を作って作物を作っているようだ。

・水力発電と観光が最大の産業ということだが、観光はまだまだ課題が多そうだ。先ほど書いたようにホテルには不備がかなりある。現在、観光については観光局が管理し、客から一日300ドル弱のお金を取ってガイドをつけて国内を案内している。そのような観光のあり方もよいと思うが、もっと自由に見たいと思う。そのような観光が許可されることはないのかもしれないが。

・本当に国王は尊敬されているようだ。ガイドさんは公務員だったので当然だろうが、しばしば国王に対する尊敬の言葉を語った。月に何度か国王を見かける機会があるらしい。国のあり方を作った第三代の王様、先代の王様への尊敬も語っていた。本などで読む限り、確かにこれらの国王は国民優先に考え、自ら民主化を打ち出すなど、優れた王であるとは言えそうだ。

・旅行に行くと、その土地が好きになる。昨年から訪れている中国、韓国、エジプト、タイが好きになった。だが、ブータンは別格だと思った。ちょっと空港の離着陸や崖の道が怖いし、いたるところにウロウロしている野良犬には閉口するが、ここにはまた来たいと強く思った。「心のふるさと」だという気さえした。ゴ服が私に似合うということは、きっとこの地域の人の祖先も私の祖先も同じようなところで同じように暮らしていたのだろうと思った。

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ブータン旅行 その1

 2017年5月17日から19日まで、ブータンを旅行した(ただし、旅行日程としては、、5月16日から20日ということになっている)。2泊5日の弾丸ツアーだ。5日以上家を空けると、高齢の母が心ぼそがるので、短い時間で行けるところに行くことにしている。そうして今回はブータンにした。10年ほど前、一度、ブータン旅行を計画したことがある。が、ヨーロッパの音楽祭を優先して、先延ばしにしてきた。母の調子が悪くなってから長い間日本を留守にする必要のある音楽祭は自粛しているので、これを機会にブータンに行くことにした。いつものように一人旅。ネットで探して、5日で行けるツアーにした。「幸福度ナンバーワン」の秘境がグローバル化によってどう変化しているのかをみたいと思った。

 以下を読んでいただけるとわかるが、夜はすることがなかったので、少しブログを書いた。が、ホテルのネット環境が悪く、メールの確認もろくにできないことが多かった。文章を書いてもブログに載せられなかった。

 本日(20日)、帰国して、これまで書いたものをここに載せる。

 

1日目(2017年5月17日)

 今、ブータンに来ている。

 バンコクまでタイ航空の羽田発0時20分の飛行機。ガラガラかと思っていたら、タイの人たちでほぼ満員。日本人は少数派だった。バンコクでブータン・エアラインズに乗り換えて、コルコタ経由でパロ空港に到着。こちらはかなり空いていた。途中、機内からエヴェレストが見えた。白い山頂が雲に上に出ていた。そうでないかと見ていると、機長からのアナウンスがあったので間違いない。

 パロ空港は世界一危険な空港といわれているらしい。まあ、そういわれる空港が世界にいくつかあるのだろうが。窓から見ていると、状況がよくわかった。パロ空港は険しい山の谷間の盆地にある。まっすぐに着陸すると山に衝突するので、いくつかの山を避けながらカーブして降下しなければならない。実際には数百メートルあるのかもしれないが、素人の目測では尾根まで20メートルか30メートルくらいにしか見えない。風でも吹いたら、木にでも触れて墜落するのではないかとひやひやした。が、ともあれ無事到着。なぜ、よりによってこんなところに空港を作ったのかと思ったのだが、後で理由がわかった。ブータンは山の国なので、必然的に都市はすべて谷間にある。どの都市に空港を作ろうと同じことなのだ。パロはその中ではましな方だったのかもしれない。

 国際空港なのだが、もちろん滑走路は1本。きれいでセンスがよいが、小さな建物があるだけ。飛行機の客も少なかったので、すぐに外に出られた。外もがらんとしている。山に囲まれたど田舎に突然空港があるという雰囲気。パロは人口3万人くらいの町らしい。それでも、九州ほどの広さに人口60万人のこの国では有数の大都市だ。

 気温は今の時期、最高気温が17~18度前後。夜は10度以下になるようだ。沖縄とほぼ同じ緯度なのだが、標高が2000メートルを超えているらしく、日本で言えば、東北地方程度の気温といってよいのかもしれない。

 到着後、ガイドさんが待っていた。30代のしっかりとした顔だちの男性。ブータンは政府主導で観光に力を入れている。個人の自由旅行は基本的に難しいようだ。きっとツアー仲間がいるだろうと思っていたら、客は私だけ。ありがたいことではある。

 ガイドさんも運転手さんも、ゴと呼ばれる民族服を着ている。日本の「どてら」(私の育った地域では「丹前」と呼ばれていた)のようなものだが、よく見ると、それはそれでとても決まっている。ただ、日本人からすると、ゴの下に黒い靴下と革靴という格好は不釣り合いに思えるが、それが決まりのようで、みんながそのような格好をしている。

 パロ見物は明日にして、首都ティンプー見物に向かった。ティンプーまで車で1時間ほど。車から外を見ていたが、どこまで行っても都会にならない。人の姿は見えるが、かなりまばら。ゴを着ている人はかなりいる。もちろん、ほかの国と同じようにシャツやジーンズや綿のズボン、スカート姿の人も多い。ガイドさんに聞いてみると、ゴや女性のキラは正式の服装で、ほかの国でのスーツに当たるという。いわれてみれば、スーツ姿の人は見かけない。小学生、中学生、高校生の制服もゴとキラのようだ。

 まさしくブータンは山の国。切り立つ崖の合間を舗装道路が縫っている。山の間を川が流れており、それに沿って断崖に道路がつくられているということだろう。尾根に沿って道は曲がりくねっている。車は日本の田舎道程度には走っている。のろい車があると追い抜こうとするが、道にカーブが多いせいもあるが、対向車線の車が来るので抜けないことが頻繁に起こる。韓国車が多い。私が乗っているのもヒュンダイ。あとは日本車。トラックはインド車らしい。信号が一切ないし、車の数も多くないので、順調に走る。

 崖は岩がむき出しになっている。いつ落石があってもおかしくない。車で走っている道路のほとんどが崖っぷち。実際、ところどころで岩が落ちているのが見える。崖崩れがあったらしくて、補修工事をしている様子も見られた。日本なら大問題になっているところだろうが、それほど車が多くないブータンではおおらかに考えられているようだ。ガイドさんも運転手さんも心配している様子はない。

 私は私の育った九州の日田地方の風景を思い出していた。山の高さや形は違うが、日田周辺の山道に似ている。舗装道路があり、山間を通っていく。ただ、ブータンの山はもっともっと険しく切り立っており、山と山の間が狭い。日本の山の風景をぐっと圧縮して横幅を縮めるとブータンになる。ほかの途上国の人のように運転は乱暴ではない。みんなきちんと法規を守っている。

 建物はどれも新し目に見える。途上国のようなあばら家は視野に入らない。どの家も窓に特徴がある。仏壇の模様のようなものがあり、見ようによっては日本のおしゃれなラブホテルの窓のように見える。ガイドさんによれば、どの家庭も熱心な仏教徒で仏様への尊敬を込めてこのような窓にしているという。

 野良犬が多い。至るところにいる。空港の周りにも、今私がいるホテルの周りにも中心部にも幹線道路にも。寝そべったり、道を歩いたりしている。今まで、野良犬の多い途上国をいくつか見てきたが、その比ではない。もしかしたら、飼い犬も勝手に外に出ているのかもしれない。牛や馬も道路に出ている。もちろんこれは野生ではなく飼われているらしいが、ガイドさんに聞いたところ、夜になるときちんと自分のいるべき場に戻るとのこと。本当かなあ?

 人家が増えてきて、ティンプーについた。

 ティンプーでは、第三代国王を記念するメモリアル・チョルテン、新しく建設中の丘の上にそびえる大仏のあるクエンセル・フォダンを訪れた。タシチョ・ゾンを訪れる予定だったが、中に入れるのが夕方以降だというので、遠くから見るだけにした。ゾンというのは、現在、県庁として使われている「城」だ。近くに、かなり質素ながら王宮がある。

 ティンプーは人口10万人ほどのこじんまりした町だ。盆地のなかに淡い色のついたきれいな建物が立っている。5、6階建てのマンションがあちこちにある。だが、それ以外は平屋かせいぜい3階建て。日本で言えば、まさしく地方都市。私の故郷の日田市と大差がない。これが首都だというのだから驚く。中心街に行った。ブータンにただ一つという信号のある交差点がある。ただし、以前は機械の信号だったが、使いこなせないというので、今は警官による手信号に変わっている。それが今ではティンプーの観光の売り物の一つになっているという。

 中心街も日本で言えば、小さめの地方都市程度。そして、驚くべきはその静かさ。日本やバンコクのような喧騒はない。音楽もかかっていない。ブータンの人々は静かに、でも楽しそうに歩いている。

 ブータン人と一言で言っても、いろいろの民族がいるようだ。まったくもって日本人とそっくりの人もかなりいる。日本人ではないかと疑いたくなるが、ブータンの言葉(ゾンゲ語というらしい)で仲間たちと話している。もっとインド系に近い顔立ちの人、中国南部っぽい人もいる。インド人もかなり住んでいるようだ。

 今まで、いろいろな国に行ったが、ガイドブックには「街中を歩くときは、泥棒に気をつけるように」と必ず書かれていた。ガイド付きツアーの時には、ガイドさんに、持ち物に気を付けるように必ず念を押された。だが、ブータンはそんなことはない。途上国に行くと、どこも生きるのに必死でがつがつした人が目につく。客引きに困ったり、下品なポスターやチラシに面くらったり。ブータンではそんなことはまったくない。

 確かに平和で穏やかな人たち。車の中にハエが入っても、ぴしゃりと殺せば済むところを必死になって窓から外に出そうとする。お店に行っても、なんとかごまかして儲けようという雰囲気はまったくない。メモリアル・チョルテンでジュースや水を手渡している人がいた。受け取ったらどんな目に合うかと思って無視したが、後でガイドさんに聞くと、真面目にお参りに来た人たちへの感謝として篤志家が無料で配布しているのだとのこと。

 飛行機の中であまり眠れなかったので、早めに観光を切り上げてもらって、パロに戻って、夕方にパロ市内のホテルに到着。幹線道路から車で5分ほど登ったところ。バンガローというのかコテージというのか、いくつもの独立した建物から成っている。木のぬくもりのある広い部屋。窓からの景色もいい。ブータンの町全体に言えることだが、まるでスイスのような風景。美しい山、清潔でおしゃれな建物がポツリポツリと見える。この国は国策としてそういう方向を選択しているのかもしれない。

 夕食はホテルでとった。味は悪くない。ブータン料理もなかなか行ける。カレーもおいしかったし、魚の揚げたものもおいしかった。ただ、WiFiがしばしば切断されるのには困った。メールも十分に確認できない。添付文書のあるものは軒並み開けないようだ。

 疲れていたので、早く寝た。

 

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エベレストらしい山が雲の向こうに見える

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パロ空港

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パロからティンプーの途中にあった露店

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首都ティンプー全景

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ティンプーの中心街

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ティンプー中心街

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タシチョ・ゾン(ティンプーのゾン)

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ティンプーの町なか

 

2日目

 2日目はパロ観光。パロは人口は3万まりだというが、ブータンを代表する歴史ある都市だ。

 最初に行ったのは、キチュ・ラカンという寺院。ブータンで最初に開かれた寺と、新たに作られた寺が並んでいる。その後、タ・ゾン国立博物館。祭りに使う仮面やブータンに暮らす生物のはく製などがあった。しかし、それにしてもパロに限らず、ティンプーもそうだったが、この国ではどこに行くにも断崖の迫る道を走る。右は今にも土砂崩れか落石がありそうな岩の壁、左には少しハンドル操作を間違うと数十メートル下に落下する・・・という道の連続。しかもそれが、日光のいろは坂のような急カーブ。ここにはごく一部の中心部をのぞいて、そんな道しかないといえそう。ともかく国全体がまさしく山からできている。車から降りても、どこでも坂道。

 崖路を車で降りてパロ・ゾンを見物。ゾンというのは、日本語に訳すと城塞ということになるらしい。17世紀に僧侶たちが敵の侵入と戦うために作った城で、地方行政の意味も持ち、現代では県庁としても機能している。中に入った。ベルトルッチ監督の「リトル・ブッダ」の撮影に使われたという中庭をみた。赤く塗られた木の柱や装飾された窓の建物に囲まれた石畳の雰囲気のある場所だ。中に入ると、若い僧侶たちが楽器の練習をしていた。オーボエのような笛。その後、徒歩で屋根のある橋パロ・チェを渡った。静かで落ち着いていて、実にいい。

 その後、またまた断崖の道を何度も何度も急カーブしながら、農業実験場(正式の名前は忘れた。AMCと呼ばれていた)に行った。1960年代にブータンに入り、その後28年にわたってブータンの生活に溶け込んで、亡くなるまで農業指導を行った西岡京治(にしおかけいじ)氏の創設した場所だ。その後、西岡氏を祀る西岡チョルテンに行った。チョルテンというのは仏塔のこと。ブータンでは西岡氏は有名な存在で、「ダショー」の称号を持つ唯一の日本人であり、没後、まさに神様扱いされている。西岡氏が指導する以前、ブータンの農業は穀物を作るだけで野菜を作る技術を持っていなかったという。街で見かけた大根も人参も、昨日から食べている料理に入っていたキャベツやナスやズッキーニやジャガイモも名前を知らない野菜も、西岡氏の指導にたまものということらしい。ブータンでは西岡さんはよく知られているらしい。特にパロでは知らない人はいないという。

 その後、西岡さんの成果でいっぱいの昼食を取ってホテルに戻り、一休みしてから、民族衣装「ゴ」を着せてもらった。先日、花見の時期に京都で見かけた着物を着た中国人を思い出した。これはこれでおもしろい経験だと思って、着せてもらうことにした。そして、その格好でパロ市内の民家訪問をした。

私の「ゴ」姿は一般の日本人にもまして似合っていたらしい。もしかすると、私はブータン人にとりわけ近い顔をしているのかもしれない。単にお世辞というよりも、あまりに似合うのでびっくりされたというのが近い。まったく違和感がないようで、ガイドさんやその仲間たちとすれ違っては、みんなが驚いていた。知らない人は私をブータン人だと思ったようだ。私が日本人だと知って驚き、何人かが「まったくブータン人と変わりがない」「まるで、ブータンの大臣のようだ」とほめて(?)くれた。「西岡さんにそっくりだ」と私を偉大なダショー西岡と比べてガイドさんを含めて何人かが話していた。

 訪れたのは、大きな農業を営む民家だった。祖父母と息子夫婦、孫の8人が暮らす農家だが、観光客のために内部を開放してくれているらしい。牛がいて、農地がある。とりわけ豊かな家ではなく、中程度の農家だというが、豪華な仏間があった。仏壇があり、6畳程度の一部屋全体がお経や仏教関係、王室関係の写真などでおおわれている。ブータンの仏教は祖祖先崇拝は含まず、純粋に仏の教えを尊ぶものだという。

 民家にはインド人やイタリア人の観光客、合わせて10名ほどが来ていたが、祖母に当たる女性(もしかしたら、私よりも年下なのかもしれない)がゴ服姿の私をとても気に入ってくれて、バター茶をご馳走してくれ、自家製の酒(そば焼酎らしい)も出してくれた。とてもおいしかった。

 その後、そのままの格好で昼間と同じレストランに行き、ブータン料理を食べたが、バター茶と焼酎の直後だったので、食が進まなかったのが残念。

 すでに暗くなっていたので、ホテルに戻った。

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「リトル・ブッダ」に使われたパロ・ゾンの中庭

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楽器を練習する若い僧侶たち

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私と泊まっていたパロのホテルから見える風景

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私の泊まっていたホテルのコテージ

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民家の仏壇

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民家の仏間

 

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多摩大学退職、そして2泊3日のバンコク旅行

 私は昨日(2017年3月末日)をもって正式に多摩大学を定年退職した。本日からは、多摩大学教授ではない。名誉教授という称号をいただき、客員教授としても多摩大学にかかわり、また多摩大学の入試業務のお手伝いもするが、ともあれ大学組織の専任の教授ではなくなる。多摩大学はとても居心地がよく、職場としては最高の大学だったのだが、それでも、それまで組織に属したことのなかった私としてはかなり窮屈だったという思いがある。それから解放されて自由に生きていけるのは実にうれしい。これからは、私が塾長を務める小論文作文の通信添削塾・白藍塾の仕事をし、東進ハイスクールで小論文指導をし、原稿を書いて過ごすことになる。

 

 ところで、退職後は思い切り羽を伸ばして、昔のような自由で楽しい一人旅を楽しみたいと思っている。母の健康状態がよくないので旅行期間はあまり長くとれないが、毎月のように海外に行きたい。その一環として2月にはカイロに行ったが、3月28日から2泊3日でバンコクに行った。

 バンコクは大好きな都市だった。最初に訪れたのは1984年。1週間ほどバンコクで過ごした記憶がある。まだ途上国の貧しさを強く残し、貧困と不潔と犯罪と人のやさしさと信仰心と聖なる建物や人々が入り混じる場所だった。その都市の魅力を味わいたいと思って、それからも何度か旅行した。最後にバンコクを訪れたのは1997年、ラオスを主目的にした旅行の中継地として前後1泊ずつしたように覚えている。それからしばらくするうちに、バンコクへの愛を忘れかけていた。今回は20年ぶり6回目のバンコクになる。昔歩いたところを歩き、昔みたものをもう一度確認したかった。

 ただ、初日に計画の無謀さを痛感。気軽に考えていたが、なんとバンコクまで飛行時間は7時間を超す! 到着までに疲れた。17時半ころに到着したので、さっさとタクシーでホテルに行って、少し夕方の散歩を楽しもうと思ったら、道路が大渋滞していて、ホテルに着いたのは19時半ころだった。ただ、1時間半くらいタクシーに乗っても350バーツ(1000円ほど)しかかからないのはありがたい。結局、1日目は移動に費やしただけ。3日目も同じ。朝の9時半にホテルを出て、日本到着は20時半ころだった。バンコクを見るのに使えたのは2日目だけだったが、その日も列車は1時間近く遅れるし、車は渋滞するしで、満足な観光もできなかった。少なくとも、バンコク旅行には3泊4日、できれば4泊5日以上は必要だと実感。感想を簡単にまとめる。

 

・暑いには暑かったが、猛暑というほどではなかった。数日前まで最高気温が36度くらいあったようだが、暑いときでもせいぜい31、2度でなかったかと思う。熱くて耐えられないほどではなかった。ホテル内やレストランなどでは冷房が完備されていて、ホテルのレストランで朝食をとっている間は寒いほどだった。きっと、冷房を効かせるのが高級である証なのだろう。

・街のあちこちに昨年10月に崩御されたプミポン国王の遺影が飾られていた。大きな駅などには、記帳し、お祈りする場が設けられている。ふだんの生活を見ていないのでよくわからないが、黒い服を着ている人が多いのは間違いないと思う。電車に乗った時、乗客を見たら、明らかな外国人を除くほとんどの人が黒いシャツを着ていた。とはいえ、もちろんスーツなどの暑苦しい喪服を着ているわけではない。

・空港からホテルに向かう間、見違えるような発展ぶりを実感した。巨大なビルがあちこちに立ち、工事中の場所も多く、東京と変わらないような現代的な建物が見える。高速道路も整備され、通っている車も日本製が多い。30数年前のバンコクのような、あるいは2月に訪れたカイロのような、ポンコツばかり走っているという状況ではない。日本とほとんど変わりがない道路の光景。

・ホテルもスクムウィット通り近くのおしゃれな界隈にあった。ブランドの店が入った商業施設、高級ホテル、オフィスなどが立ち並ぶ。日本と変わらないどころか、日本よりもおしゃれかもしれない。通っている人もファッショナブルな人や外国人が多い。コンビニ(セブンイレブンばかりが目についた)もたくさんある。

・ただ、しばらくいるうちに、途上国的な要素はだんだんと見えてきた。ともかくどこも渋滞! 公共交通システムの整備によって渋滞が減ったと聞いていたが、相変わらずの渋滞。有名な場所に行こうとしているのにタクシーの運転手が道を知らない! 列車が1時間遅れる! 発車時刻を紙に書いて切符を買ったのに、指定したのとは異なるチケットが渡される! 地下鉄の切符購入、ホテルのフロント手続きなどに長い時間がかかる、係の人に質問しても無責任な答えが返ってくる、などなど。ハードは現代の最先端に近いものがたくさんあるが、ソフトはそれに追いつかないということだろう。

・2日目、国鉄フアラムボーン駅に行った(昔、クルンテープ駅と呼んでいた)。いわばバンコク中央駅だ。多くの建物や施設が新しい現代的なものに建て替えられているのに、ここは少しも変わっていなかった。33年前もここをウロウロした。20年前、ここからラオスのビエンチャン行きの列車に乗った。薄暗くて、昔ながらのベンチがあり、木で作られた切符売り場の窓口がある。駅周辺もトゥクトゥクが集まり、行商の人が小さな店を出してお菓子や飲み物、野菜などを売っている。昔ながらの猥雑さがある。ただ、どうやら駅の再開発が進んでいるようで、列車から鉄道整備をしているらしい工事があちこちに見えた。

・列車はいずれもかなり古い。清潔ではない。日本ではもう走っていないと思われるような旧式のポンコツといってよいような車両ばかりだ。12番線まであるターミナル形式の駅で、ホームには人が待っており、列車が入ると次々と人が乗り込む。言葉がわからないせいでもあるが、表示らしいものがないので、どこで列車を待てばよいのかよくわからない。駅では橙色の袈裟を着たお坊さんをみかけた。

・アユタヤに向かうのにエアコン付きの2等車(1等車はそもそもこの線にはなさそうだった)を予約しようとしたら、窓口の女性に「ない」と言われた。満席かと思っていたら、どうもその列車には2等車がついていないようだった。3等車でアユタヤに向かった。それほどの暑さではないし、風があるので不快ではない。帰りは2等車が取れた。エアコンは効いていたが、窓ガラスが汚くて外が見えなかった。なお、3等車は20バーツ。2等車は245バーツ。快速で1時間半ほど乗って20バーツ(約60円)という安さにも驚きだが、3等車と2等車の値段の差にも驚く。低所得者に乗りやすいようにしているということなのだろう。なお、アユタヤ行きの列車は1時間以上遅れて出発したので、その日の予定がかなり狂った。

・列車から見える線路沿いの光景は、高速道路やホテルから見える光景とはまったく異なり、33年前と重なった。壊れかけた家、コンクリートを打った上に汚いテーブルとガタピシしていそうな丸椅子を数脚置いただけの食堂。そこで半裸だったり、下着姿だったりの庶民が食事をしたり話をしたりしている。高床式のあばら家もあちこちに見える。列車が出発して30分ほどたつと、あたりは田園風景になった。

・ここでも経済格差は広がっているようだ。一部の富裕層と、現代的な生活をして日本と大差のない生活を享受している中間層、そして、昔ながらの熱帯の人々の生活をしている低所得層。ただ、今にも朽ちそうなごみのような家にも衛星テレビの丸いアンテナが見える。

・アユタヤでは、レンタル自転車で遺跡を回った。ただ、もらった地図がわかりにくく、しかも遺跡はすぐ近くだとばかり思っていたら、川が横切っているために遠回りをし、坂を通らなければならなかった。迷子になったうえ、運動不足の身には少々こたえた。ワット・マハータート、ワット・ラチャブーラナなどをみた。かなり暑かったが、途方もない酷暑というほどではなかった。ワット・ラチャブーラナの裏の野原では、綿のようなものが風に飛ばされて、雪のように降っていた。幻想的な風景だった。なんという植物か知らないが、枝豆くらいの形状の黒っぽい木の実が割れて、綿のようなものが飛び出しているのだった。

・1日目、2日目ともに夜はホテル近くの「イータイ」という施設で夕食をとった。現代的なおしゃれな商業施設の地下にある大きなレストランだが、屋台のようなブースがいくつもあり、そこで自由にオーダーして、入場の際にもらったカードに記録された料金を支払うシステム。清潔でおしゃれな屋台の集合体だ。味もとても良かった。値段は日本円で1000円もあれば、ビールを飲み、主食とつまみを取ってお腹がいっぱいになる。客の中には観光客らしい人も多かった。きっとここは、タイの中ではかなり高級でおしゃれな店なのだろう。衛生面を考えて屋台で食べるのは少しためらうという観光客にはもってこいの施設だと思った。

・結局、2泊3日では十分に観光できなかった。30年ほど前に歩いたバンコクを歩き、あの時の気分を思い出し、バンコクがどのように変わったのか、30数年前にみた、あの貧しい人たち、猥雑な人たちが今どうしているのかをみたいと思っていたが、そんな時間を作れなかった。たいして下調べしないままあちこちを行き当たりばったりに歩き、何かが起こったら、その都度、対応を考えるといいうのが私の旅の流儀なのだが、短い時間ではそのような旅ができない。バンコクの中間層の人たちの生活は見られた気がするが、それ以下の人たちと十分に接することができなかった。ただ、20年ほど前には確かに持っていたバンコクへの愛情を再び持つことができた。間違いなく、またタイにはいくだろう。チェンマイにもいきたい。33年前、バンコクからシンガポールまで、途中、ペナン島やクアラルンプールに泊まりながら、列車で行った。もう一度同じ旅をしたい。そんな思いがよみがえった。

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エジプトで感じたこと まとめ

 25日というごく短い期間の旅行でしかなかったので、エジプトを知ったうちには入らないが、ともあれ、旅行中に感じたことを記す。

 

 空港はもちろん、ホテル、博物館、観光施設などほとんどのところで荷物検査を受けた。私の泊まっているホテルでは犬を連れた警備員が車の周りを回って確認が取れてから中に入れた。多分、爆薬検知犬なのだろう。ただ、だから安心・・・といえるかどうか。それほどきちんと機能しているようには見えない。顔見知りは検査を受けないで入っているようだ。私が参加したツアーでは、スタッフが空港の入国検査の前で私を待ち構えてくれてあれこれと便宜を図ってくれ、とてもありがたかったが、その人は空港職員ではなく、きっと業者の人間。セキュリティチェックはすべてフリーパスだった。そんな人がたくさんいるようだった。

 

 ホテルはもちろんレストランでも米ドルでの支払いが求められた。もちろん、私はちょっと高額なツアーに参加し、それなりに一流のところで飲食したのだろうが、それにしてもふつうにドルが通用しているのにびっくり。ピラミッドの前に絵葉書やガイドブックや石で作ったピラミッドの置物を売る店や人がいるが、そこでも、「全部で一ドル」と話しかけてくる。

 1万円を入国の際にエジプト・ポンドに両替していた。ほとんどがツアー料金に含まれていたので、かなり余った。そこで、帰りのカイロ空港でエジプト・ポンドをできれば円に、無理なら米ドルに両替するつもりでいた。両替所が見つからないのでインフォメーションの男性に聞いてみたら、「ここにはバンクはない」という返事。国際空港に両替できるところがないはずがない、そもそも入国するときポンドに替えたのだからと思って食い下がっていたら、その係官は英語のたどたどしい私をバカにしたように呆れた様子で「ユー・ドント・アンダスタンド・ミー?」といった。空港などあるわけがないとでも言いたげ。その後も探してみたが、やはり両替できそうなところはなかった。

 結局、カタールの空港で両替した。

 

 最後の日には多くの日本人客に出会った。私の泊まるホテルでも、日本語があちこちで聴かれた。昼間いったレストランでも日本人の団体が二ついた。グループの多くが高齢者。それに対して、中国人客はもっとずっと若い。小学生、中学生に見える中国人客もいた。西洋人は数人できている客が多い。全体的には中国人の数が圧倒的だろう。

 

 エジプトの経済はかなり深刻そう。エジプト革命の後、政治的にも混乱し、経済的にもうまくいっていないと伝えられているが、それは十分に感じられた。

 もちろん、行くところに行けば繁栄は見られたのだろうが、ピラミッドが観光の中心なので、どうしても経済的に恵まれていない地区を回ることになる。だからこそ、真実が見えてくるともいえるだろう。寂れた町、活気のない店が目に入った。

 女性はふつうに働いている。働かなければ生活できないというが、女性の労働が制限されている様子はなく、男女はほとんど平等に口をきいているのがよくわかる。

 ガイドさんによると、公務員は12時までの仕事だという。多くの人を雇用としているが、給料が安いために、公務員の多くがアルバイトをしているという。まあ、言ってみればワークシェアリングを実施しているということだろう。

 拡声器によるコーランの声がしばしば聞こえたが、特にお祈りをしているところは見られなかった。エジプト人はそれほど信仰心は強くないようだ。アルコールも手に入るし、アルコールを飲むイスラム教徒もいるという。

 

 客が一人きりのツアーはそれなりにきつい。カイロ大学を出たというとても知的で配慮の行き届いた女性のガイドさんだったので、ガイドさんに不満はない。ただお土産物屋に連れていかれる。一人だから間が持たない。ひどい音楽を聴かされる。一人だから、ちょっと紛れてどこかで時間をつぶすことができない。数人が参加しているツアーであれば、一人くらい変な人間がいても許されるが、一人きりだとそうもいかない。もちろん、客が一人だからといって、ツアーとして計画されている場所を変えるわけにもいかないのだろう。

 当たり前のことだが、ツアーは一長一短だと思った。

 

 カタール航空を使ったので、ドーハ空港には行きと帰りのかなりの長時間滞在した。帰りはとりわけ、カイロから到着したのが23時、日本への出発が翌日の320分なので、長かった。深夜の中東の空港なので閑散としているかと思ったら、とんでもない。ずっと昼間と変わらない賑わい。飛行機も5分、10分おきくらいに出発している。飛行機もいいし、CAもみんな感じがいいし、機内食もとてもおいしかった。またカタール航空を使いたくなった。

 

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エジプトから帰った

 2017216日、エジプトより無事帰国した。

 214日の行動からざっと振り返る。

 午前9時にギザにあるホテルを出て、ツアーの車(客は私一人、ワゴン車で回る)で南に向かい、ダハシュール、サッカラ、メンフィスを観光した。道の途中の車から見える光景にまず驚いた。

 馬やロバがふつうに仕事として使われている。ギザ市内の馬やロバは観光用のようだが、もう少し田舎に行くと、これは観光用とは言えない。後ろに野菜などの荷物を引いて馬やロバが道を行きかっている。もちろん、車やバイクのほうが多いが、馬やロバの荷車も一台や二台ではない。車の運転や馬車、ロバ車を引くのはほとんどが男性だが、時にはスカーフを巻いた女性であることもある。田舎に行くと、黒ずくめの女性を見かける確率が高くなる。黒ずくめの女性が何人かで歩く姿があちこちで見られる。子どもが多いのも感じる。女性が子どもずれで歩いている。

 もう一つ感じたのは、おそろしく汚いということだ。カイロやギザの大都市も埃だらけで汚いと思っていたが、田舎がきれいというわけではない。草木も埃だらけで決して美しくないが、それ以上に、道にごみが散乱したままになっている。人通りのある道のあちこちにゴミがたまっている。そこに鳥が来てごみをつついている。

 車は幅が10メートルくらいの運河沿いに走ったが、運河の汚さにも呆れた。両岸にごみ袋やお菓子の紙やタイヤの端切れがずっと続いている。ごみの散乱が絶えることがない。運河の水も濁っており、水面に持ごみがたまっている。

 ともかく、エジプトという国は砂漠の国であって、土埃にまみれている。建物も道路も車も草木も埃だらけ。それがこの人たちの通常になっており、きれいにしようという意識がないのではないかという気がする。

 そして、その汚い町から外に出ると、これは私たちの想像を超えた砂漠の世界になる。どうも、この国は砂漠の国のごく一部に川が通っており、その周囲だけに集中して人が住み、その周囲に砂漠が広がっているということのようだ。そして、いくつかの都市の砂漠の中に数千年前のピラミッドがそびえている!

 ダハシュールにある赤いピラミッド、屈折ピラミッドをみた。赤のピラミッドには途中まで登ってみた(クフ王のピラミッドの内部に入ったときの筋肉痛のため、すぐに根を上げた!)。メンフィスではメンフィス博物館でラメネス2世の巨像をみた。サッカーラでは、イムホテプ博物館と最古のピラミッドだと言われるジョセル王のピラミッド・コンププレックスをみた。エジプトの歴史について知識がないので、ガイドさんの説明を聞いても、断片断片を理解するだけで全体がつながらない。だが、それは別として、4000年前、5000年前に発掘された実物がしっかりとした存在感で目の前に現存していることに感動する。しかも、どれも本当に美しい。

  ジョセル王のピラミッド・コンププレックスのすぐ近くにある展望ポイントに連れて行ってもらった。これはまさしく絶景。遠くに町が見えるが八方が砂漠。青空の下にずっと砂が広がっている。そして、そのあちこちにピラミッドが見える。遠くにはギザの町が見え、クフ王のピラミッド、カフラー王のピラミッドも小さく見える。

 その後、昼食をとって空港へ。経由地ドーハで4時間ほどをすごし、成田に1519時にもどった。ビジネスクラスを使ったので、疲労はそれほどない。ただ、筋肉痛にはまだ悩まされている。

 旅の中で気づいたことについては、明日、また少し書こう。

 

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カイロ・ギザの2日目

 まず、昨日書いたことをいくつか訂正する。大きな勘違いがいくつかあった。

 重大なカン違い、その1。私がいるのは何とカイロではなかった! カイロ市の中のギザ地区にいるのだとばかり思って、昨日のブログのタイトルを「今、カイロにいる」としたが、ギザは別の市だという。私はカイロにいるのではなくギザにいる!

 重大なカン違い、その2。昨日、街の中に突然ピラミッドが現れたように書いたが、気をつけていればギザのあちこちからピラミッドは見える。昨日は気づかなかったが、なんと、ホテルの私の部屋のベランダに出ると、真正面にピラミッドが見える。街の道からも、高い建物がないところに行くと見える。

 ちょっとしたカン違いについても修正する。昨日、「車線などお構いなし」と書いたが、カイロやギザの道には、車線は基本的にない。そもそも白線が引かれていない。

日本だと3車線程度の広さの道が4車線になったり、時に5車線、6車線になったりする。そして、警笛を鳴らしながら、先を争って進む。車線がそもそもないのだから、割りこんでいるわけでもない。

しかも、こちらの道にはほとんど信号がない! よくぞ信号なしに車が動いていると感心する。交差点ごとに大混乱になっているが、ともあれ不思議なことに車はそこそこ先に進んでいる。いや、交差点もあまりない。むしろ合流地点といった作りになっている。まっすぐ方向に行きたい時も、とりあえず右か左にいって、中央分離帯の切れ目のようなところでUターンしてもとにところに戻って、今度また左か右に曲がるというシステムのようだ。

信号がないので、歩行者は車が走っている間を縫ってわたることになる。大渋滞で車はスピードを出していないので、まあそれなりには無理なく渡れる。それにしても、みんなものすごい運転技術。私だったら、乗り始めて30分くらいで運転をあきらめるか、事故を起こすかだろう。

車はほとんどすべてが埃だらけで汚れている。ポンコツ同然の車も多い。韓国車が多い。ヒュンダイとKIAが目立つ。 

 

今は、2917214日の早朝。昨日同様、早く目を覚ましたので、昨日の行動を書きつける。

 昨日、つまり2017213日。朝の9時から、ガイドさんに連れられて、ギザのピラミッド群を見に行った。

まずは代表的なクフ王のピラミッド。近くで見るピラミッドは凄い。その存在感たるや、まさしく圧倒的。下からみると、言葉をなくす。ピラミッドについてこれまでテレビなどで聞いて多少は知っている(もちろん、きちんと理解しているわけではない)が、そのようなものを超えて、ともあれ人間の歴史の重み、人間の文明の存在感を覚える。石そのもの、大きさそのものに打ちひしがれる。

小さな穴があって、そこから中に入れるようになっている。ともあれ一人で入ってみた。

中に入っても何もあるわけではない。木の階段が作られており、それに沿って登っていって、狭い石室に入れるようになっている。中国人などの観光客に続いて歩いた。たいした距離ではないが、急こう配で、足元が悪かったり、中腰になって歩かなければ頭のつかえるところなどがあるため、息が切れ、足に負担がかかる。帰りは降りる形になるので、いっそうつらかった。

実は一晩寝た今、私の足のあちこちが筋肉痛を起こしている。ピラミッドから出てきた時には、足が自分のものではないかのようで、立っていられないほどだった。しばらく休めば回復するかと思っていたが、ピラミッドから出てからも、歩くのがきつかった。車に乗るのにも、足が上がらないほど。2、3度、車に乗ろうとして後期高齢者のようによろけた。夜までそんな調子だった。ただ、その割には、今朝起きてみたら、かなり回復している。

その後、車で展望所にいった。クフ王のピラミッド、カフラー王のピラミッド、女王のピラミッドの三つがきれいに見える場所だ。砂漠の中に三つのピラミッドが並び、その向こうにギザの都市が広がっている。ギザの都市のすぐ横にこれほどの砂漠が広がっていることにも驚く。その後、スフィンクスのもとに訪れた。ピラミッドに比べればかなり小さいが、かなりの存在感ではある。

それにしても、クフ王のピラミッドといい展望所といいスフィンクスといい、観光客の半分くらいが中国人といえるのではないか。大きな声でしゃべってるせいかもしれないが、すさまじい存在感。日本人らしい観光客にはめったに会わない。少し前までは、アジア人観光客のほとんどは日本人だったのだろうが、今や様変わり。昔、海外に行くと、土産物の売り子や入国の係官などに「コンニチワ」と声をかけられたが、今は「ニーハオ」と声をかけられる。あ、もしかしたら、私は日本人というよりも中国人に見えるのかもしれないか・・・。

その後、一休みして、エジプト考古学博物館見学。私は本来博物館好きではないのだが、ここは圧倒されるものばかり。5000年前のエジプト人の日用品、ピラミッドから発掘されたもの、ツタンカーメンの遺品、王たちのミイラ。それらがたった今作られたかのような姿で展示されている。しかも、王たちの装備品の装飾の美しさには目を見張る。たった一つだけ所蔵していても世界の自慢になるようなものが数百、数千と展示されている。目を見張るものばかりだった。

 ホテルで一休みして、足の疲れは癒えないまま、これもガイドさんに伴われてナイル川ディナークルーズに出かけた。バイキング形式の食事をとりながら、ベリーダンスが見られるというので楽しみにしていた。客は30人程度か。テーブルについて小さな隙間に作られた空間で音楽や踊りが披露されることになっていた。

 ベリーダンスは悪くなかった。若くて豊満な女性が踊り、とても魅力的ではあった。ただ、ガイドさんによるとウクライナの女性であって、エジプト女性ではないとのこと。

ひどかったのは音楽だ。ダンスの前に一時間ほど、前座というのか、男女の歌手が出て日本でも聞き覚えのあるアメリカのポピュラーソングや、エジプトで流行している歌などを歌ったのだが、アンプですさまじい音響にしてのカラオケだった。もちろん声もずっと口をマイクに近づけて最大限の音量。次に別の人たちが演奏に加わってベリーダンスが始まったので、期待したが、これまた大音響の歌付き。

 ヴォリュームを半分か三分の一にすれば私でも我慢できると思うが、耳をつんざく音がずっと続くので我慢できない。大人げないかもしれないが、私の我慢の限界を超えたうるささなので、私は2時間ほどのクルーズのうち、1時間45分くらいは席を離れてデッキに行ったり、通路にいたりした。「沈黙と音の間」を聴きとるのが音楽だと思っている私には、このタイプの演奏は我慢ならない。ナイル川の川岸はネオンがあり、建物が並んでいた。夜は殺風景な建物が闇に包まれるので、美しく見える。満月に近い月がずっと見えていた。

 ベリーダンスの踊り子さんは客の周りを回って客と写真を撮っていたが、もちろん私は席からすぐに離れたので、写真を撮ってもらうことはなかった。

 ナイトクルーズは最悪だった(食事もおいしくなかったし、食後に別料金で注文したコーヒーは間違いなくインスタントだった!)が、ともあれ、私にとって昨日はギザのピラミッドを見て、考古学博物館をみた素晴らしい一日ではあった。

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カイロに来ている  カイロ旅行初日

 2017211日の夜中に成田を出発して、カタール航空にてドーハ経由で、212日正午少し過ぎにカイロに到着。もちろん、純然たる観光。正月にもこのブログに書いたが、3月に定年退職する私としては、これからできるだけ世界中を一人旅したいと思っている。かなり前から一度ピラミッドを見たいと思っていた。高齢の母がいるので、5日以上自宅を留守にするのは自粛している。よって、大学での仕事の合間を縫って、旅行会社による弾丸ツアーを選択した。なんと25日。つまりホテルに泊まるのは2日だけ。エコノミークラスではさすがにつらいので奮発してビジネスクラスにした。おかげで、ドーハからカイロまでは、ビジネスクラスがないために生まれて初めてファーストクラスを体験。ただ実質的にビジネスクラスと大差なかった。ちょっと残念。

 カタール航空の飛行機、機内サービスはとても良かった。新作映画「ドクター・ストレンジ」を見た後すぐ寝た。よく眠れた。

ドーハ空港は真新しい国際的な空港だった。シャルル・ド・ゴール空港よりももっと現代的。4時間くらい待ち時間があったが、そこはビジネスクラス・ツアーの特権で、ゆったりしたラウンジでくつろげた。WiFiも整備されておりなかなか快適。ただ、日本からかなり深刻な私の企画している活動にかかわるメッセージが入って、ずっとそのやり取りをしていた。おかげで退屈しなくてすんだとはいえるが。

 窓から外を見たが、カタールもエジプトもまさしく砂漠の国だ。砂漠の中に都市がある。都市全体が砂というか泥というか、赤茶けた色でおおわれており、都市の外には砂漠の世界が広がっている。緑が広がるアジアと大違いだ。ドーハからカイロまでは4時間くらいかかった。

 

 カイロ空港はドーハとは対照的に、少々古めかしい。WiFi設備もない。わいわいがやがや長い行列を作って・・・という昔ながらの入国審査。出口には、観光ガイドや怪しげなタクシーの客引きが客に声をかけるという途上国でよく見かける光景。

 ツアーとはいえ、今の時期のビジネスクラスのツアーとあって、客は私だけ。男性の運転手と女性のガイドさんの二人につきっきりでワゴン車に乗って一人だけで観光。ありがたいとはいえ、少々気づまり。

 

 空港についた直後から観光開始。25日なのだから、なかなか忙しい。まずはオールドカイロに向かった。

途上国特有の、車線などお構いなしの、これで事故がないのが奇跡としか思えないような曲芸的運転によって大渋滞の中を進む。安っぽいレンガ造りの殺風景ビルが並ぶ。すべてが赤茶色。すべてがほこりっぽい。工事中の建物が多いが、ガイドさんによると外側は汚いが、中はキレイにしており、金がたまったら、建て増していくのだという。マンションについても、お金がたまったらだんだんと上に継ぎ足して、階を重ねていく工法なのだという。イスラムの女性は身体を覆っているが、下着などはおしゃれしているし、自分の家の中ではかなりモダンな格好をしていると聞いていたが、部屋についても同じ感覚なのかもしれない。地震はほとんどないという。

女性の多くがスカーフをしている。時々目だけ出した黒ずくめの女性がいるが、それぞれの信仰心や判断によるという。スカーフをしていないイスラム女性、酒を飲むイスラム教徒も少なからずいるようだ。だからといってガイドさんは特に非難している様子はない。

 墓場に人が住み着いたという死者の町を横に見て、いくつかのモスクや聖家族(要するに、イエス。キリストとその両親)が一時期滞在したという場所にある聖セルギリウス教会を見た。キリスト教施設なのに、イスラム教徒がおおぜい観光に来ている。ある意味で当然の光景だと思うが、宗教対立の多い現在、少しホッとした。

エジプト最古のモスクだというアムル・モスクで宗教家らしい二人に声をかけられた。英語でイスラム教に関心があるか、何を知っているか、神を信じるかなどについて尋ねられ、猛烈に下手な英語で答えた。簡単に言うと、「私は仏教徒である。神は信じない。しかし、イスラム教徒は尊敬している。昔、日本語訳のコーランも読んだことがあるし、ハンパテ・バーの本を読んでイスラム教の素晴らしさも知っている」というようなことを語って、乏しい知識と下手な英語で仏教の説明をした。残念ながら、二人はバーの名前を知らなかった。フランス語圏のマリの作家はエジプトでは知られていないのだろう。

 お土産物屋(パピルスで作った絵画など)に連れていかれた後にホテルに入って一休み。ギザ地区のピラミッドの近くにあるホテル。プールがあり、いくつものバンガローがあってなかなかのホテル。部屋もきれいで設備も充実している。久しぶりにこういう格式高いホテルに泊まった!

 夕方から、ピラミッドでの音と光のショーに行った。

 まず、人が大勢いて、渋滞が続き、ガサガサしているように見える大都市の一角にあの有名なスフィンクスとギザのピラミッド群が現れたことにびっくり。ギザのピラミッドは都市部にあるという話は聞いていたが、それにしても、鎌倉の一角に突然長谷寺の大仏が現れるかのようにピラミッドが現れるとは思っていなかった。

ショーというのは、このピラミッドの前に千人以上?が入る野外席が設けられており、大音響で音楽をかけ、芝居がかった大声での英語による劇やナレーションが入り、ピラミッドに映像を重ねて、ピラミッドの歴史などをドラマ風に再現するもの。これはひどかった。客はかなりまばらだったが、それでも200人くらいはいたかもしれない。ピラミッドをこのようにショー化すると、むしろそれ自体の存在感が薄れる。ピラミッドともあろうものが、ショーのための書き割のようになってしまっている。

 日本語版の音声ガイドを耳に着けたが、その日本語と大音響の英語が重なってよく聴きとれない。そして、1950年代、60年代のハリウッド映画(「十戒」「ベン・ハー」など)を思わせるような大掛かりな音楽が安っぽいし、スピーカーで大音響にしているために音が割れている。音楽好きの人間には拷問に等しい。しかも、寒い。カイロは熱帯ではない! 今の時期は最高気温は20度くらい、最低気温は10度以下になる。この時は、たぶん間違いなく10度以下。毛布を借りてくるまっていたが、それでも寒かった。次回、カイロに来ることがあっても、このショーには二度と足を運ばないだろう。

 ホテルに戻って、ホテル内のレストランで夕食。バイキング形式で、何種類かを選んで食べたが、今のところおいしいものに出会っていない。

 夜、疲れていたのですぐに寝て、13日の朝の4時半ころに目を覚ました。日本時間で言えば、昼の12時半に当たるので、旅行2日目としては致し方ないところだろう。

 客が一人だけのツアーというのは、それはそれありがたいが、お土産物屋が困る。この種のツアーにはしばらく参加しなかったので、お土産物屋のことは忘れていた。集団でいれば誰か買う人がいるので、私はじっと時間が終わるのを待っていればよいが、一人だとそうはいかない。「お土産を買う気はありませんからね」とガイドさんにはいっておいたが、さてどうなるか。今日はショー化されたピラミッドではなく、本当のピラミッド巡りからスタートする。

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広州で気づいたこと

まだ頭の中で、中国・広州の6日間が渦巻いている。滞在して気づいたことを書く。

・よく言われるが、中国のもてなしの文化に圧倒された。多くの方が最大限の歓迎の意を表してくれる。ご馳走してくれ、酒を注いでくれ、お土産を持たしてくれ、細かいところまで世話を焼いてくれる。まさしく徹底的なおもてなし文化だと思った。客人として招かれているほうとしては大変気分がよい。が、逆の立場の場合、これに応じた返礼ができるかどうか、大いに心配だ。

・広州市は北京、上海につぐ中国第3の大都市だ。人口は1200万人。実際には地方から流入した人を加えて2000万人くらいではないかといわれているらしい。観光名所がないせいか、外国人らしい姿を見かけない。6日間、しかもかなりの時間、外を移動して、西洋人はほんの2、3人しか見かけなかった。大学構内でも西洋人を見たのは1人だけだった。空港でもほぼ全員が東洋系。まだ十分にグローバル化されていないということだろうか。

・交通マナーについてもいろいろと考えるところがあった。広州市ではオートバイが基本的に禁止されているとのこと。幹線道路は車であふれている。車は車線変更を頻繁に繰り返し、次々とすり抜けていく。車間距離も短い。中国での高速道路での車間距離は10メートル程度がふつうのようだ。私は一般道でもそれ以上空けている。日本では今でも「高速では100メートルあける」と自動車学校で教えているのだと思う。中国の高速道路には少々恐怖を覚える。

 交通マナーはその国の民度を表わすと思う。日本や欧米のマナーを守った運転とはだいぶ異なるので、やはりその点では民度が低いといえそうだ。とはいえ、オートバイがないためか、ベトナムやフィリピンよりはずっと整然としている。広州では自分で運転したいとは思わないが、命の危険を覚えてタクシーに乗ったり、横断歩道を渡ったりするほどではない。アジア全体としてはよいほうだろうとは思う。

・前に書いたが、オートバイが禁止されている。不思議なことだ。オートバイが増えればこの日常的な大渋滞を解消できるのではないかと思うのだが。煤煙対策なのだろうか。それよりも電気二輪車をふやすべきではないのか。電気自動車については日本よりも普及しているのかもしれない。私たちが使用していた観光バスは電気自動車だった。

・高層マンションが林立している。まさしく林立している。30階建て、もしかしたら40階建てくらいに見えるマンションが3棟、4棟並んでいるのは当たり前。10棟近くがひしめき合って建っているところもある。しかも、マンションとマンションの間は数メートルしかないように見える(実際にはもっと広いのだろうか??)。地震が来たら将棋倒しになりそうなのだが、地震は基本的にないという。しかし、日照権が問題にならないのか。日の当たらないマンションがたくさんありそう。

・広州の平均月収は日本の半分から3分の1程度だという。大卒の初任給が6万円程度らしい。それなのに、マンションは次々売れる。マンションは日本円にして数千万円するという。財経大学の先生や留学生たちみんなが「一体、だれが買えるんでしょう。不思議だけど、どんどん売れている」と語っていた。車もそれなりの高額なものが多い。中国者などは日本よりも安いらしいが、それでも大差ないとのこと。一部に儲けている人がいて、その人たちが牽引して広州が豊かになっている。良くも悪くも、そういうことらしい。

・多摩大生14人とともに広州を訪れたわけだが、一人が盗難にあった。リュックの中に財布を入れて背負っていたら、後ろのカバーを開かれて財布を取られたとのこと。幸いクレジットカードは盗まれなかったようだが、文無しになって困った様子(家に帰るまでの3000円は私が貸した)だった。もっと用心するように口を酸っぱくして注意しておくべきだった! もう一人は財布を店に置き忘れてすぐに戻ったところ、盗まれていなかったという。財布とは思えない形とデザインだったせいかもしれないが、中国ではすぐに盗まれるというのは事実ではなさそう。もちろん、私は被害なし。

治安は特に悪いわけではない。日本の外に出ればこんなものと思ったほうがよい。イタリアやフランスはもっとスリが多い。日本人に対する悪感情も感じなかった。街中で日本人だとわかっても、むしろ親切にされることはあっても、邪険にされることはなかった。

・今回はずっと中国語のできる人(多摩大の同僚、財経大の先生方、財経大の日本語学科の学生)がついていてくれたので特に問題がなかったが、個人で広州を旅できるかとなると少々不安がある。が、案内される場所でなく、自分で歩き、自分で物を買い、自分で料理を注文したい気持ちがある。機会があったら挑戦してみたい。少しずつ慣らしていきたい。ただし、これから中国語を多少なりと使えるようになるのは難しそう・・・。

 

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中国・広州への研修旅行に同行

2016911日から16日まで中国の広州にいた。私のブログはニフティを使っているためなのか、中国では書き込みができなかった。メールはつながっていたが、Facebookもラインも使えない。もちろん、ニフティのページも出てこない。そんなわけで、私としては日々驚く状況を目にし、ともあれ文章にはしていながら、それをブログには公開できなかった。ここにまとめて記す。

 

911日。

4時半に起きて、羽田に向かい、915分のANA機で広州に来た。広東財経大学と私の勤務する多摩大学が提携を結んでいる関係で、今回は学生14名とともにやってきた。

はじめは、私が広東財経大学に招かれて講義をするという趣旨だったと理解している。ついでに旅行をしようと思って快諾したら、話が大きくなって副学長、国際交流委員会委員長や学生とともにやってきて大学と大学の公式の研修を行うことになった。56日、朝の7時ころから夜の8時過ぎまで毎日予定がぎっしり。体力が持つかどうか不安に思いながら出発。

ANAの飛行機はリクライニングできなくされていた。「これからリクライニングできます」というアナウンスがあるが、それはエコノミーのことではなさそうだ。腰痛持ちの私としてはかなりつらかった。眠れなかった。仕方がないので「ロクヨン」の映画を見た。とてもおもしろかった。前編、後編で4時間ほどかかった。5時間で広州到着。

雨模様のなか、広東財経大学の梁先生が迎えてきてくれて、用意してくれた小型バスで大学へ移動。道の広さ、建物の高さ、密集度に驚く。中心部は広州タワーなどの高いタワー、高層建築が見える。びっしりと連なってマンションが立っている。まるで未来都市のよう。パリの西部のラ・デファンス地区に未来都市ができた時、驚いたが、それが広大な土地で実施されている。話には聞いていたが、実際にこのような大規模な建物群を見ると、現在の中国の躍進を強く感じる。私が中国を訪れたのは3度目だが、2度目から20年近くがたつ。当時はまだ道は自転車の大群だった。今は自動車に変わっている。しかも、走っている車のかなりが、少なくとも私が使っているプリウスよりもずっと高額なものに見える。かつては小さなお店があり、そこに下着姿だったり、上半身裸だったりの男が店の前で働いていたが、そんな姿は表の道からは見えない。

1時間ほどで大学に到着。私たちが泊まるのは、大学内のホテル「麗楓ホテル」。大学内のホテルと聞いていたので、少々心配していたが、なかなか立派なホテル。チェーンを持つホテルらしい。ちょっとあちこちに古さがあるが、設備はしっかりしている。

ただ、大学の南門に入る前、昔の中国を思い浮かべる地域を通った。まさしく小さな古めかしい店が並び、半裸の男たちが力仕事をしている。自転車やバイクで荷物を運び、女たちが店番をしている。現代とそれの取り残されたものが同居している。

 

ホテルはしっかりした立派なものだった。広い部屋、ちょっと古めかしいが、広くて立派なダブルベッド(もちろん一人で使用)。湯沸し、冷蔵庫を含めて様々な設備も完備されている。文句なし。学生も同じホテルだが、彼らは二人一部屋。教員3名は一人一部屋。

一休みして大学構内見学。とてつもなく広い。私の勤務する多摩大学の10倍以上の敷地。私が通った早稲田大学の数倍はある。一つ一つの建物の大きさが尋常ではない。学生数2万5千人ほどだという。7階建ての巨大な図書館などなど、途方もないスケール。1年生は全員が軍事訓練を受けるということで、私たちが見学した時も広場で行われていた。迷彩服の男女が行進の練習をしていた。ただ、失礼ながら、あまり真剣にやっているようには見えなかった。いずこも同じで、若者は少々たるんではいるとみなされているようだ。まあ、私はきっと今の若者以上に、当時、たるんでいたと思うが・・・。

日本語学科(中国語で日本語学院と呼ぶようだ)の階にもいった。廊下に古今の日本人の写真と言葉が書かれていた。存命の人物は大江健三郎と宮崎駿だった。中国での評価がわかる。

夕方からはホテルのレストランで広東財経大学の先生方を交えての歓迎パーティ。双方の大学の幹部の挨拶の後、会食。

9時ころに解散して、ホテルで寝た。前日、早朝に起きたので疲れていた。

 

9月12日

午前中、関東財経大学の副学長ら幹部の方々と私たち多摩大学の教員の間で会議。私は幹部ではないので場違いなのだが、とりあえずこの大学の日本語学科の学生を指導するにふさわしい教員として参加。きわめて有意義な会議で両校の提携が加速度的に進んだ。

その後、日本語学科3年生の授業を見学した。日本語での日本経済についての講義。日本滞在体験のある中国人の先生の講義だが、日本人と変わりのない日本語、計算されつくし、しかも面白く楽しい授業に驚いた。学生たちは全員が4年生で60人ほどだったが、ほぼ全員がかなり早口の、日本人の日本語とまったく変わりのない、しかも経済用語、歴史用語が頻出し、ときに関西弁も出てくる先生の話を理解している模様。笑うべきところで笑いが起こり、先生の質問に即座に答える。

ずっと金本位制、固定相場制、日本の円の力の話などの話をしているときに、「田中角栄という人が、なぜ1ドルが360円になったのかと聞かれて、円の内角の和は360度だからだと答えた」というエピソードが紹介されたが、かなりの人がその話を理解できているようなのにびっくり。私がもっともフランス語ができていた時でも、そのレベルの話をされると頭の切り替えができずにまったく理解できなかっただろうと思う。

その後、多摩大の教員3名と広東財経大学の日本語学部の梁先生の4名で食事。前日の夜と同じ場所だったが、この日のほうがおいしかった。ごてごてしていなくて、あっさりめの野菜など。学食の2階にある学生でも入れるレストランでこれだけの味を出せるのは、さすが「食は広州にあり」だと思った。

夜、テレビをつけた。もちろんすべて中国語なので、まったく理解できない。韓国などのテレビとは違ってアメリカ映画、アメリカドラマ、日本ドラマもない。中国語で話しているのに中国語の字幕がついているのは、おそらく話されているのが広東語だということだろう。

途中からドラマをみた。抗日ドラマだった。よくはわからないが、ともあれ日本が中国を支配している昭和の前半の物語らしい。対日工作をしている男性と日本人有力者の娘が恋をする。娘の名前は池田櫻子ということになっていた。抗日グループが池田家を襲う。主人公はそのメンバーに加わりながら櫻子を救おうとする。そこに知らせを受けた日本軍がやってきて、テログループのいる屋敷を取り囲む。櫻子は自ら人質になり、中国人の抵抗運動を積極的に助けようとする。・・・中国の日本に対するスタンスがよくわかるドラマだと思った。まあ、要するに一昔前のような徹底的な抗日ドラマではなく、「日本人の中にも人によってはよい人もいる」というタイプの抗日ドラマだ。

 

9月13日

 多摩大グループはバスで出かけて、広門トヨタ自動車を訪問し、見学したようだ。大変有意義な企業見学ができたとのこと。ただし、私は、夜の講座に備えて欠席した。疲労すると腰痛が悪化する。講座ができなくなると元も子もない。午前中はホテル内で原稿を書いたり、ごろごろしたり。

 昼食は、1年間、多摩大学で教えた広東財経大学の留学生に招かれて市内で食事。點都徳という飲茶専門店。有名な店らしい。広い店内は客でごった返していた。最高においしかった。慕ってくれる教え子、しかも中国人留学生に招かれておいしい料理をごちそうしてもらうなんて教師冥利に尽きる。とても幸せな気持ちだった。御馳走してくれると彼らは話していたはいえ、私のほうで支払いをしようと思っていたが、教え子がどうしてもと払ってくれた。感謝。

午後2時半から6時まで、日中大学による発表会に参加。多摩大学から4グループ、広東財経大学から6グループが日本語でプレゼン。財経大の学生のテーマは「花火 (日本と中国の違い)「日本語中国の流行語」「飲茶とは」「広州に伝わる粤劇(えつげき)紹介」「着物と漢服」「中国アニメの歴史」。いずれもとてもレベルの高い内容。しかも、日本語もしっかりしている。もちろんわかりにくい発音や助詞の間違いなどはあるし、大人から見れば踏み込み不足もあるが、きちんと中国と日本の影響関係も理解し、それを日本語で語っている。見事だと思った。

7時半から私の講座。予定より少し遅れたためか、前もって聞いていた人数よりも少なかったが、日本語を理解できる学生たちが集まってくれた、50人くらいだったか。言葉の力、発信の大事さについて語った。とてもしっかりと反応してくれて、満足。

その後、財経大学の先生に誘われて市内のレストランで会食。おいしい料理、おいしいお酒、そして楽しい話。とても楽しい時間を過ごすことができた。ホテルに戻ったのは夜中の12時ころ。少々疲れた。

 

9月14日

 午前中にバスで深圳に向かった。中秋節の3連休の前日に当たるため、道は大渋滞。深圳はもっと近代的な都市化と思っていたが、それほどではない。経済特区としてしばしば報道されていたのが20年ほど前なので、今では少し古い雰囲気の都市になって、十分に生活感が根付いている。

 かなり遅れて、目的地フォックスコン(富士康科技集団)に到着。シャープを買収したことで知られる鴻海(ホンハイ)の英語名。iphone,ipadの大半を作っているという。広州に本社を置き、従業員20万人とのこと。工場の中に商店街があり、消防署や病院もあって一つの都市を成している。副社長に説明いただき、学生も一緒に会社の幹部の方々と豪華な食事をご一緒した。その後、工場見学。

 IT機器の下請け会社だったところが、技術を持ち資本力をもって世界の超一流企業になったという例だろう。従業員を大事にし、一家で面倒を見ようという日本式経営に見える。社長、副社長ともに16時間働くという。ただ、もちろん、上がそうだということは、一般の従業員も同じことが求められるわけなので、それはそれでつらそうではある。しかし、強烈なエネルギーでIT産業をリードしていることは間違いない。

 バスで広州に戻り、広東財経大学の学生主催のパーティに出席。最初に共産党書記から挨拶があって、パーティが開始。会場に入った時、いかにも有能そうで知的な50歳前後の男性がいるのに気付いていたが、それが書記だった。学生のパーティにも共産党書記が来られてスピーチをするのに驚いた。大学の先生とは異なる、まさしく政治家のような見事なスピーチだった。

 日本語科学生による中国古来の笛の演奏、粤劇の歌と舞は実に素晴らしい。舞いの手の動き、歌声の安定に驚いた。「裸の王様」の日本語劇、ゲームなどあったが、日中の学生、学生と教員の距離を縮めるのに有効な手段だと思った。日本語劇も実にセンスがいい。財経大学の生徒たちのレベルの高さ、モティベーションの高さに改めて驚嘆した。

 学生たちはパーティの終わった後も街に繰り出して飲んだり食べたりして友好を深めたらしい。教員もまた飲み会に誘われた。私は、体力温存を考えてお断りして、ホテルで疲れをとることを優先させていただいた。

 

9月15日

 連日33度を超えている。この日も暑かった。

 観光バスによって市内観光に一日を費やした。孫中山大元帥府(要するに、孫文記念館)、租界地だった沙面地区、陳家祠などをまわった。広東財経大学の日本語かの学生さんが同行して、それぞれの場所でガイドを務めてくれた。

 中国は中秋節の連休にあたるため、道路は大渋滞、繁華街は大賑わい。上下九歩行街は信じられないほどの賑わい。歩行者天国は人の連なり。派手な色遣いの店が並び、場所によっては、それぞれの店の店員が表に出てマイクを使って大声で客の呼び込みをするため、大騒音。良くも悪くも中国社会の活気を見ることができた。

 老舗の飲茶のレストランで昼食。ここも実においしい。その後も観光。

 夕方、大学に戻り、学内のホテルレストランで食事。これも実においしい。広州の店で外れたことがない。

 食事の後、多摩大学の中国人の同僚と学生一人とともにタクシーでマッサージを受けに行った。前にも書いたが、私は旅行するごとに可能な限りマッサージを受ける。三人の客がベッドに並んで、三人の女性がほぼ同じ行為を行う。超ミニスカートの三人の魅力的な女性がマッサージ室に入って来た時には驚いたが、まともな、そしてかなり上手なマッサージだった。三人とも満足。タクシーでホテルに帰った。タクシーの運転手さんが携帯電話で話しを始め、しかも話しながら大きな声であくびを始めたのにはびっくり。

 

 総括。

 広東財経大学との提携に基づく日中交流の大学の活動だったが、財経大学の先生方、学生さんたちのおかげで非常に快適に過ごすことができた。大学の実情もわかり、私たちに求められていることもわかった。

 そして、中国の状況も知ることができた。とてつもない躍動! 20年ほど前に訪れた時からは考えらえない飛躍的な発展だ。ネット環境など日本よりも進んでいる面もたくさんある。ちょっとした店ではWiFiが通じ、ネットでタクシーを呼び、ネットでレストランの支払いをする。もちろん、一歩、路地に入ると貧しい状況、「遅れた」状況を目にすることができるが、良くも悪くもそのような場所は政府の手によって排除されていくのだろう。そして、日本人が思っているよりも多くはないにせよ、下品なふるまいの人、ルールを守らない人を目にするが、その人たちも減っていくだろう。ものすごいスピードで中国は変化している。トップダウンであるだけにスピードは半端ではない。フォックスコンがまさしく中国全体を象徴している。

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大坂滞在中 いずみホール・オペラHP

 一昨日(2016831日)から大阪に来ている。大阪府にある初芝立命館中学校・高等学校で私が塾長を務める白藍塾の小論文プログラムに基づいて小論文指導が行われている。31日に小論文を指導する中学校・高等学校の先生たちの研修会が開かれ、そこに私が講師として参加した。大変有益だった。私自身も勉強になった。

 本日(92日)もまた初芝立命館高等学校で講義を行うためにまだ大阪にいるが、昨日は基本的にフリーだった。それを利用して、少し前から連絡を取りあっていた関西二期会の事務局を訪れ、オペラのあれこれについて話をした。その後、ご厚意で、93日に本番を迎える「いずみホール・オペラ2016」の「ドン・ジョヴァンニ」のハウプト・プローベ(ゲネプロの前に段階に当たるリハーサル)を見せてもらった。

 素晴らしかった。まず指揮の河原忠之のてきぱきと進めながらも実に雄弁でドラマティックな音楽にびっくり。ザ・カレッジ・オペラハウス管弦楽団もしっかりと演奏している。序曲からして見事。ハウプト・プローベとは思えない完成度だった。

 歌手陣のレベルの高さにも改めて驚嘆した。ドン・ジョヴァンニの黒田博、ドンナ・エルヴィラの澤畑恵美が核になっている。ふたりとも声も伸びているし、音程ももちろんいいし、歌の演技も素晴らしい。まさしくドン・ジョヴァンニとドンナ・エルヴィラになり切っていると思った。そして、ドンナ・アンナを歌う石橋栄実の輝かしい美声にも感嘆した。私はこの歌手を初めて聴いたと思う。素晴らしい歌手だ。そのほか、騎士長役のジョン・ハオの張りのあるバスの声、レポレッロの西尾岳史の軽妙でありながらも安定した声、マゼットの東平聞の張りのある美声、ゼルリーナの老田裕子の可憐で張りのある声。いずれも見事。ドン・オッターヴィオの清水徹太郎は軽い体調不良とのことでこの日のみ欠席だった(ゲネプロ、本番ではもちろん清水さんが歌う)が、代役の方も素晴らしかった。ゲネプロ、本番になるにしたがってもっと完成度が上がるのだろう。

 演出は粟國淳。いずみホールという舞台のない場所でのオペラ上演という制約の中、見事にドラマを作っていた。最後の地獄落ちの場面はとりわけ圧巻。感動で鳥肌が立った。

 こんなレベルの高いオペラを収容人数800人前後のいずみホールで行うなど、なんと贅沢なんだろう。本番をぜひ見たいが、残念ながら東京の大学で仕事がある。

 ところで、昨日の昼間、黒門市場を訪れた。韓国ソウルの南大門を歩いたのを思い出した。聞こえてくるのも韓国語や中国語が多い。こんな雑踏を歩くとワクワクしてくる。ただし、何も買わずに、時間があったので近くのマッサージ店(もちろん肩こり腰痛向けの健全なマッサージ店)に入った。このごろ、道を歩きながらマッサージ店をチェックし、誘惑に負けて入ってしまう。料金のわりにはとても良いマッサージだった。

 

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