旅行・地域

広州旅行2019

 2019717日から21日まで広州旅行に出ていた。広州を目的に行くのは2度目。一度は桂林に行く途中に立ち寄っているので、今回が三度目の広州ということになる。初回は多摩大学の学生とともに学務として訪れた。二度目はツアーだった。一人でぶらぶらしてみたかった。ついでにちょっと仕事もしようと思った。

 マイレージを使えば航空運賃は無料になる。久しぶりに広州にいる友に会いたい。そんな思いで気楽に出かけた。

 ANA機で2019718915分に羽田出発。13時前に廣州到着。フライトはきわめて順調。機内でイーストウッドの映画「運び屋」をみた。おもしろかった。

 空港の外に出たとたん、猛烈な暑さだった。37度。日本はこのところ低温で22度程度だったので、からだにこたえる。

 タクシーで天河地区にあるホテル(広州陽光ホテル Soluxe Hotel)に向かった。50分ほど自動車専用道路を乗り継いで到着。タクシー代は170元ほどだった。約3000円。40階建てほどの立派なホテル。旅行サイト・エクスペディアで「おすすめ」のホテルを何も考えずに予約した(われながら情けないが、確か、レビューの評価が高く、「今予約すると20オパーセントオフ」というようなうたい文句に心を動かされた)のだったが、部屋に入って地図とにらめっこして場所を確認すると、ここはあまりに交通の便が悪い。少々後悔。

 一休みして、15時になってから、ホテルの隣の天河公園を歩いてみた。ただ、あまりの暑さに公園の良さを味わえない。石畳の地面は熱を発し、おそらくは45度を超す灼熱地獄。木々が植えられ、池があり、森林の涼し気な絵が壁面に描かれているが、燃えるような暑さのために数人しか人影が見えない。

 公園でゆっくりするのをあきらめて、珠江の方向におりてみることにした。10分ほどで到着するかと思ったら、川辺に出るまでに30分くらいかかった。道の両側には、小さな古めの店が並んでいる。古めとはいえ、築30年程度だろう。ところが、地下鉄の工事中のようで、その町並みが壊されているようだ。

 珠江に出た。珠江の向こう岸には巨大な摩天楼がいくつも見える。躍進する中国らしい光景だ。河畔はセーヌ河畔もさもありなんと思われるほどに整備された遊歩道だ。暑い中、子どもたちが自転車に乗ったり、ボールを転がしたりして遊んでいる。が、もちろん、この暑さでは人がいるはずもない。

 河畔を20分ほど歩いて、珠江にかかる大きな橋付近まで行った。そこから北上して、ぐるっと回ってホテルに戻った(地図上で道路の名前を確認したが、文字が読めないのでここに移しようがない)。ゆっくり歩き、遊歩道でも少し休憩したせいもあるが、2時間かかっていた。羽田で買ったお茶を飲みながらだったが、頭がふらふらして汗だく。改めて、交通の不便なホテルに滞在してしまったことを後悔した。

 一休みして食事。外に出る気力は失せていたので、ホテル内で食事をすることにした。5階にレストランがあるとのことで、とりあえず行ってみた。女性店員に導かれるままについていったが、えらく高級そうな中華料理の店だった。メニュを見せてもらったが、なじみの料理がない。見たこともないような料理の写真が並んでいる。よくわからない。またしても、意味なく高級レストランに入ったことを後悔。値段のあまり張らないものを3品選んだ。

 食べてびっくり。私のこれまでの人生でもめったにあじわわなかったほどの美味だった。魚のバターソテーのようなものもエビフライのようなものも、ダックのようなものも絶妙の味付けと焼き具合。しかも、あんがかかっているのだが、それが素晴らしい。3品とビールで321元なので少々高かったが、これほどの絶品料理を食べられれば何の文句もない。交通の便が悪かろうとなんのその。暑い中を1時間くらい歩いても食べる価値のある料理だと思った。

 その日はそのまま就寝。

 夜中に何度も大きな騒音で目が覚めた。明らかに工事の音。窓から外を見たが、どうやらホテルのすぐ下で地下鉄工事が行われているようだ。深夜に工事とはなんとも住民無視。きっと大慌てで後期に間に合わせようとしているのだろう。これも一つの中国の現実なのかもしれない。

 

7月19

 

 午前中は、越秀区のあるいくつかの寺院を見ることにした。まず、ホテルからタクシーで光孝禅寺にいった。30分以上かかった。タクシー代金は1000円ほど。小さな店が立て込んでいる。歩道があるが、かなり汚れているし、でこぼこがある。昔ながらの商店街。途端に上半身裸の男の姿が目立つようになる。ガラガラガラと音を立ててペッと唾を吐く男女もかなりいる。30分歩くだけで、そのような音を何度も聞いた。

 光孝善寺は広州最古の寺院だという。三国時代にできたといわれる。現在でも10世紀の建物が残っている。現地の人々がやってきて参拝している。観光客らしい姿は見かけない。

 迷いながら少し歩いて、六榕寺に行った。537年に創設された寺で1000年ほど前に建てられたという九層の塔が目を引く。菩提樹やガジュマルの木があり、参拝客もちらほらいる。

 それより少し南にある懐聖寺まで行った。人気がなかった。ここは中国で最も古いモスクだとのこと。ただ、あまりモスクらしい様子はなく、建物の奥の方に白い塔があるに過ぎない。ただ、白い帽子をかぶった老人(つまり、イスラム教徒ということなのだろう)が一人で歩いていた。

 この街に着いてから2時間ほどが経っていた。タクシーを呼び止めてホテルに戻った。車線変更を繰り返し、警笛を鳴らしまくり、パッシングを繰り返す運転手だった。道が渋滞して動きようがないのに、この運転手は前の車に向かってパッシングし警笛を鳴らす。鳴らされる方も困ってしまうだろうと思った。だが、ともあれ何事もなくホテル到着。

 一休みして、この日の午後は仕事がらみの行動をとったが、これについてはヒミツ。途中大雨になって、少し涼しくなった。

 夕方、親しくさせていただいている広東財形大学の先生やその卒業生たち(多摩大学に留学していたため、私の教え子に当たる)3人と中心街にある高層ビル、広州国際金融センター内の四川料理の店で楽しく会食。店の前に数十人が待つ人気の店だった。広州化された四川料理とのことで、それほど辛くはなかった。その後、同じビルの高層階に行ってお茶を飲んだ。楽しいひと時だった。

 教師と教え子という以上に、とても良い友を持ったと改めて思った。

 

7月20

 午前中、再びホテルのすぐ近くにある天河公園を散歩。朝の内だったので地面は熱せられていないため、2日前ほどの暑さは感じなかった。が、スマホを見ると35度という気温になっている。地元の人が何人も散歩したり、体操したり、音楽をかけて踊ったりという、中国の公園でよく見かける光景。

 ホテルに戻って荷物をまとめ、チェックアウト。ロビーに教え子たち3人が再び来てくれた。タクシーで移動して、陶陶居というレストランでみんなで昼食。ここも実においしい。豆腐のフライ、酢豚の氷漬け、イセエビのスープなどもとてもおいしかった。教え子たちとの語らいもとても楽しかった。

 お腹いっぱい食べてから南越王旧博物館に行った。この地域の歴史品が陳列されていた。ポンペイ展が特別展として開催されていた。ぐるっと回ってみたが、中国語と英語の解説ではよくわからなかった(イヤフォンガイドがあったが、聞きなれない用語やこなれない日本語のためストレスがたまった)。

 雨が降り出した。雨宿りも兼ねて、博物館の椅子で教え子たちと談笑。日本語が達者な若者たちなので、実に頼もしい。彼らはみんな日本語と英語と北京語と広東語ができるとのこと。

 教え子二人とはここで別れて、地下鉄で空港に向かった。教え子の一人が空港まで送ってくれ、搭乗手続きまで見届けてくれた。これも実にありがたい。

 予定としては、広州を21時発の中国国際航空便で上海浦東空港に2325分に到着、そこで乗り継いで、午前145分出発の羽田行きのANA便で、午前540分に帰国することになっていた。マイレージで安く旅行しようとするとこんな不便な便を使わざるを得なくなるが、それもまた旅行の楽しみだと思っていた。

 羽田まで荷物を預けることができず、いったん上海で荷物を受け取ってから、再びANAのカウンターで手続きをしなければならないらしいのが面倒だったが、ともあれ、これで一安心、上海でちょっとあわただしいかもしれないが、まあたいしたことではないだろうと思っていた。ところが、実はそれからが大変だった。

 いつまでまっても搭乗口に動きがない。しばらくたって表示が出た。約3時間遅れの2250分発に変更になった。乗り継ぎが心配だが、どうにも仕方がない。

 実際に飛行機に乗り込んで離陸したのは23時過ぎ。上海に到着したのは、私が乗るはずだった羽田行きANA便の出発予定時刻を過ぎた130分頃だった。荷物を受け取って、大慌てで出発ロビーのANAのカウンターに行って何とかしてもらおうと考えたが、夜中の2時近くなのでカウンターは閉まっていて、誰もいない。そもそもロビーは警備員や掃除係がいるだけで、あとは椅子で寝ている旅行客ばかり。

 今度は警備員や飛行機から降りたクルーをつかまえて中国国際航空(CA)のオフィスがどこなのかをきいて探し回ったが、それも見つからない。やっと見つかったが、もちろんすでに閉まっている。

 ネットで調べてANAに電話をかけた。事情を話して仮の予約を取った。その日の東京行きの便はすべて席が埋まっており、予約できるのは夜の23時過ぎに成田に到着する便だけだという。朝になってCAのカウンターで交渉するともっと早い便が取れるかもしれないと電話先の女性が教えてくれた。

 あきらめて空港で朝まで待つことにした。椅子はほぼ全部埋まっているので、床に寝転がった。20代のころはこのような海外旅行をしていたが、さすがにこのトシになるとつらい! きれいな空港で、しかも寒くないのが救いだった。が、ともあれ、これも旅の醍醐味と思うことにした。

 まったく眠れないまま、朝を迎えた。5時半ころになって中国国際航空のカウンターが開き始めた。ところかまわず窓口にいって下手な英語とボディランゲージで事情を説明し、なんとかならないかと尋ねた。あちこちたらいまわしにされながらも、やっとのことで、ある窓口で遅延証明書を書いてもらい、夕方の便しか予約できないときには休息のためのホテル代を出してもらうように交渉し、なんとか確約を取り付けた。

 そして、6時半ころになってやっとANAのカウンターが開いた。日本語のできる係員を探して事情を説明し、早い便で帰ることができないかと食い下がった。日本人的な雰囲気の中国女性だった。コンピュータを前にしてあれこれしていたが、しばらくして「一席空いているようです」と教えてくれた。その後もあれこれとコンピュータを操作し、先輩らしいほかの係員を呼んでかなり長い時間をかけていたので、取り消しになるのではないかと心配になった。もしかしたら、通常では販売されない席を用意してくれたのかもしれない。が、ともあれ、予約できた。

 すぐに搭乗手続きをし、中国名物ともいえる長い行列を作って厳しい出国審査を受け、厳しい荷物検査を受けて、無事に搭乗。予定よりも6時間近く遅れて帰国。

 教訓。中国国際航空が絡んでいるときには、乗り継ぎはなるべく避けるべし! 2時間半の乗り継ぎ時間は危険だ。安いチケット(今回はマイレージの無料優待チケット)にはそれなりの理由がある!

 広州は世界遺産もなく、観光の見どころのない大都市だ。しかも蒸し暑い。が、ここでこそ本当の中国がみられる。大躍進を遂げ、その光と影の中の人がいる。私たちがテレビで見る「中国人」とは異なった、今の中国人がいる。日本人が思っているほどマナーが悪いわけではなく、非常識なわけではない。それどころか、礼儀正しく、物静かで知的な人が圧倒的に多い。そんな中国の都会に住む人の日常がみられる。しかも、料理がとびっきりおいしい。脂っこすぎるわけではなく、辛くもない。絶妙の味。とびっきりおいしい。脂っこすぎるわけではなく、辛くもない。絶妙の味。 

 最後にはちょっとだけひどい目にあったが、とても楽しい旅だった。広州に来るごとに、また訪れたいと思う。また広州にいる友に会いたいと思う。

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3回目のホーチミン旅行

 201963日から7日まで、25日の弾丸ツアーで家族の一人(本人が嫌がると思うので、それが誰であるかは明かさない)とホーチミンに行った。6月3日の深夜に羽田で搭乗手続きをし、4日の未明に出発、4日からホーチミンに2泊して、6日をホーチミンですごしたあと、深夜に出発して7日の朝に羽田到着。これで2泊5日ということになる。

 ホーチミンを訪れるのは3度目だ。初回は1992年、ベトナム、カンボジアの旅だった。2度目は2012年、ホーチミン、ハノイ、ハロン湾の旅だった。そして、今回はホーチミンのみ。正月の新聞広告でHISのビジネスクラス格安ツアーを見つけた。最初にベトナムを訪れた時、「ベトナム料理は世界一おいしい!」と思ったので、食いしん坊の家族とともにベトナム料理を堪能したいと思った。

 簡単に旅での出来事を書く。なお、前回のジョージア・アルメニア旅行の際と同様、今回も写真を挿入する技術を持たないので、言葉による記述だけになる。

 

64

 JAL便で快適に予定通り、早朝の515分にホーチミン到着。ベトナム人ガイドさんがホテルまで送ってくれた。が、ホテルに到着したのは朝の7時前。部屋には入れない。夕方以降、市内観光などが予定されているが、それまではツアーには何も予定されていない。荷物を置いて、ともあれ近くを歩き始めた。

 ホテルがハイバーチュン通りにあったので、近くのホーチミン随一の繁華街ドンコイ通り、歩行者天国になっているグエンフエ通りなどを歩き回った。

 1992年に訪れた時には、まだベトナム戦争の傷跡があった。空港からホテルに向かうとき、自転車に乗った人々が次々の現れるのに驚いた。その中にアオザイ姿の女性たちが大勢いた。バイクも多くて、そこに4人乗り、5人乗りをしているのが見えた。2012年には自転車はほとんどみかけなくなり、バイクの大群に変わっていた。そして、今回、バイクは一層増えていた。車も多い。車は日本車が大半。2人乗りは多く、3人乗りも時々見かけるが、以前のような4人乗り、5人乗りはまったく見かけなくなっていた。

 派手な色のヘルメットをかぶり、排ガス予防のための色とりどりのマスクをしたバイクの大群は、まさしくバッタの大群のように見える。ドドドドドドドドドという音を立てながら、バッタの大群が次から次へと湧き出してくるかのようだ。

 信号があまりないので、バイクの群れは途切れることがない。前回も大きな道路を渡るのは命懸けだと思ったが、今回は大きな道路だけでなく、もっと細い道に至るまで、バイクが少しだけ途切れるのを待って、必死の思いで渡らなければならなくなっていた。たまに信号があっても、赤信号なのに平気でバイクが走っていく。

 現地の人はバイクや車がかなり通っているときにも、それをかき分けるように進んでいくが、日本人としてはそんな度胸はない。現地の人であっても高齢者はそれができないだろう。事実、ホーチミン市の中心街で高齢者をほとんど見かけない。高齢者は外に出ないのか? 地下鉄の工事が行われていた。公共交通が整備されれば、バイクの大群は減るだろう。

 ホーチミンの町は、ヤンゴンやコロンボやカラチ、ラホール、カトマンズなどのほかの国の大都市に比べてかなり清潔だ。道路沿いにごみが散らばっていることもない。生ごみのにおいが漂っているわけでもない。東南アジアのどこにも多い野良犬もほとんど見かけない。ただ、道路に座り込んだり、低い椅子に座ったりしてものを売る人、何かを食べている人、おしゃべりしている人が目立つ。道路にものを並べて売っている人も多い。これほどバイクが多くてうるさくてばい煙の多くところ、しかもめっぽう暑いところに座っている人が多いのには不思議だ。

 ホーチミンという文字以上に「サイゴン」という文字が目立つ。ホテル名、レストラン名などのサイゴンという名前が見える。初めて訪れたころ、この土地を「サイゴン」と呼ぶのは親米の証とみなされてはばかられているような雰囲気があった。ところが、現在ではサイゴンが当たり前になっている。

 ホーチミン像を訪れた。かつては誰よりも敬愛され、崇拝された人物だが、その像は特ににぎわってはいない。今も愛されているとは、あとでガイドさんに聞いたが、崇拝されているとは言えない状態だ。ホーチミン人民委員会庁舎を外から見た。統一会堂、ホーチミン市博物館などを見物。

 ペンタイン市場にも行ってみた。市場には肉や魚、果物が売られる生鮮食料品のほか、衣服、時計、バッグなどが売られていた。やっと人がすれ違えるような狭い通路を挟んで、ぎっしりと小さな売り場が並んでいる。これまで見てきた東南アジアの様々な国の市場とさほど変わらないが、ただ、ベトナムの特徴といえそうなのは、売り場の前に必ず売り子が低い椅子に座っていることだ。そのほとんどが若めの女性だ。ずらりと並んで女性たちがおしゃべりしていたり、何かを食べていたりする。不思議な光景だ。

 暑くなってきた。午前中なのに30度を超す。歩くのに疲れたので、ちょっとおしゃれな冷房の効いたカフェに入って休憩。ジュースを飲んだ。やっと昼になって、チャン・フン・ダオ像のある広場の近くのガイドブックなどに出てくるレストランで食事。実においしい。ベトナム料理は本当においしい!

 その後、ホテルに入れる時間になったので、部屋で一休み。ビジネスクラスとはいえ、十分には眠れなかったので、ひと眠りした。

 夕方、ガイドさん(ホテルまで送ってくれたのは別の人)が来て、初めて出会う日本人客数人とともに水上人形劇を見に行った。水上人形劇はハノイで以前見たことがある。とてもおもしろかった記憶があるが、今回は、少々子供だましだと思った。人形の動きもそれほどの工夫が感じられず、あまりリアルではないし、様式美があるわけでもない。しかもワンパターンで退屈になった。客もそれほど面白がっている様子はなかった。

 その後、サイゴン川でのディナー・クルーズ。そこでまた新たに日本人客数人と合流して10名ほどで食事。ベトナム料理はどこで食べてもおいしい。が、増幅された大音響の音楽(民族楽器が使われていたが、曲目は現在の曲がほとんどだったようだ)は私には耐えがたかった。

 どこに行ってもあれほどものすごい人数の中国人観光客をほとんど見ないことに気づいた。たまたまそのような場所に私たちが出入りしているのかもしれないが、日本人によく出あう。中国人よりも日本人のほうが多い外国など、本当に久しぶり。

 ホテルに戻って寝た。

 

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 ツアーに含まれるミトーのメコン川見物。バスで1時間半ほどかけて、メコン河畔の町ミトーへ。今回のツアーは、ずっと同じガイドさんについて歩くのではなく、行動ごとに別のガイドさんが来て、客もその都度変わる。今回は13人の客だった。

 いつまで行っても、バイクの大群が続く。ホーチミン市内から離れて、やっとバイクの数がぐっと減った。

 メコン川到着。決して美しい水ではない。だが、チベットから様々な森の栄養を運んでくる大河だ。船で中州に行き、そこで果物を食べた。

 そのときに、突然、大スコール。雷が鳴り、豪雨になり、座っている椅子にまで雨が吹き込んできた。が、30分ほどで雨はやみ、晴れ間が見えてきた。それはそれで実に爽快。その後、二人が手漕ぎをするボートで狭い川を下った。突然のスコールを除けば、2012年に訪れた時とまったく同じコース、同じ店だった。既視感に襲われた。

 その後、バスでレストランに移動してエレファント・フィッシュなどを食べた。2012年にも同じような料理を食べたが、レストランは異なる。今回のレストランは、池があり、ベトナム風の建物があって、風雅な作りだった。料理はここも実にうまかった。

 その後、ホーチミン市に戻って、市内観光。サイゴン中央郵便局、歴史博物館、英簿マリア教会(ただし、改修中につき中は見物できず)などをみた。

 いったんホテルに戻って、夕方、別のガイドさんに連れられて、今度は家族の二人だけで夕食。そこもおいしかった。本当にすべてのレストランでおいしいものが食べられる!

 それまで泊まっていたホテルは、ビジネスクラスのツアーだということで期待していたものとはかなり異なっていた。しかも、あてがわれた部屋は窓がなく、清潔ではない。そのほかにもいくつも問題を感じた。この日の午後、追加料金を支払って、別のホテルに変えてもらうことにした。食事の後、新しいホテルに移った。

 そのホテルはグエンフエ大通り沿いにあった。ところが、この日、ベトナム対タイのサッカーの国際試合が行われており、そのライブビューイング会場がホテルの目の前だった。大画面がいくつか用意され、道は通行止めになり、人があふれ、大騒ぎしている。ホテルの前まで車は入れず、途中から歩いた。全員が大画面のほうを見ている。とはいえ、ベトナム人は礼儀正しいので、大混乱の様子はない。部屋に入っても音が聞こえる。

 22時まで営業しているスーパーが近くにあったので、買い物に行った。お土産物もついでに買った。高級スーパーのようで、高級品がそろっており、日本人客が大勢いた。

 ドンの価値は日本円の200分の1ほどにあたる。1万ドンが50円、10万ドンが500円。物を買おうとするごとに、桁の大きさに頭が混乱し、イチジュウヒャクセン・・・とゼロの数を数え、それを日本円に計算しなおす。

 しかも支払いの段になると、紙幣はすべてホーチミンの図柄で、そこにいくつもの0の並ぶ数字が書かれている。どの紙幣が1000か10000か100000かわかりにくい。わけがわからず、ともあれ店員さんのいうとおりに支払うしかない。

 スーパーからホテルに戻っているときもまだライブビューイングのサッカーが続いていた。大画面を見ながらホテルに入ろうとしていた時、ベトナムがゴールを決めた。大歓声。その後もゴールを決めたシーンが何度か再生される。そのたびに、喜びの声が広まる。

 大騒ぎの中、部屋に戻った。前日までのホテルに比べれば、格段に快適な部屋だった。

 

6月6

 この日は20時半にホテルからガイドさんが空港まで送ってくれることになっているが、基本的に終日自由行動。ただし、午前中にホテルのチェックアウトの時間なので、外で過ごすしかない。おいしいもの巡りをすることにした。

 朝からチェロン地区にあるビンタイ市場まで歩いて、デザートで有名だという店に行った。テイクアウトの弁当なども扱っている店で、大勢の人が列を作っていた。エアコンのついていない店だった。スイーツを食べた。絶品。3品で日本円で200円程度だった。

 いったんホテルに戻ってシャワーを浴び、チェックアウトして、荷物をホテルに預けて、また市内を歩いた。

 チェックアウト後、昼食のためにバインセオのおいしいという店に向かって歩きながら、統一会堂や、お店の近くにあるダンディン教会(ピンク色の教会)などを見物するつもりだったが、スマホのナビに従ったのが間違いだったのか、予想以上に遠かった。

 それにしても暑い。33度くらい。そして、どこに行ってもバイクのドドドドというエンジン音とクラクションのけたたましい音が響く。静かで涼しいところを探してゆっくりしたい気になるが、そんな場所はほとんどない。

 暑い中歩くのに疲れてカフェ(エアコンのないオープンスペースの店だった)で休憩したために、店に到着したのが14時直前で、バインセオで有名な店はすでに閉店だった。意気阻喪。

 疲れ切ったので、いったんホテルのロビーで涼もうと思い、ダンディン教会前に停車中のタクシーに乗ったのが失敗のもとだった。

 今回のホーチミン旅行で乗る初めてのタクシー。40代に見える運転手。警戒をして、メーターを下すように言った。1時間以上歩いた距離なのに、タクシーだと10分ほどだった。メーターに62という数字が見えたが、メーターが曇っていて、よくわからない。ホテルのドアまでおろしてもらえると思っていたら、道路の反対側で停車。

 6万5000ドン(330円くらいにあたる)だと思って、10万ドン札で支払おうとすると、運転手は「ノーノー」といい、私の財布をのぞき込んで、50万ドン札を指さし、「それだ」という。

 例によって、ベトナムのドンは桁数が多いので、紙幣の価値がよくわからない。紙幣はすべてホーチミンの図柄で、ゼロの数字が並んでいるので、さっぱりわからない。ちょっと疑問に思ったが、強く「もう一枚」といわれて、根が善良な私は、言われたまま、もう一枚同じ札を渡してしまった。運転手は釣りの紙幣を数枚くれた。

 で、タクシーを降りて考えてみると、運転手に渡したのは間違いなく50万ドン紙幣2枚だった。100万ドン。つまり5000円ほどに当たるではないか! 返ってきたお釣りは5000ドンほど。これは間違いなくぼられた!! 旅慣れたはずの私がまんまと騙された!

 後で、日本人向けのタクシーの乗る時の注意がガイドブックに書かれているのを見た。そこに「10万ドン以上の紙幣を渡さない」という注意があった。もっと前に読んでいればよかった!

 しばらくショックから立ち直れなかった。5000円でよい経験ができたと思うことにしたが、それにしても悔しい。しかも、余裕をもって一日を過ごせると思っていたのに、ドンの手持ちが少なくなってそれだけでは夜までホーチミンで過ごせない。

 遅めの昼食を終えた(現金が心配なのでカードで支払い)あと、ベトナム戦争証跡博物館まで歩いて行った。敷地内にベトナム内でとらわれたアメリカ軍の戦闘機などが展示されている。かつての2度のホーチミン旅行ではこの博物館が強く印象に残っている。ベトナム戦争の残虐さ、ベトナム人の必死の戦いの跡が示されていた。地下基地などを見たのもこの場所だったような気がする。

 ところが、今回来てみると、ガイドブックにはあまり大きな記載がなく、しかもツアーの市内観光にも含まれていない。客の人数もそれほど多くない。館内の展示も1階はむしろアメリカ兵のベトナム兵の友情、アメリカ人の反省などが目立つ。疲れたので椅子に座ると、その前で映像が流されていた。ベトナム語だったので内容はよくわからなかったが、アメリカ人らしい高齢の西洋人が墓参りをしたり、ベトナム人と握手をして涙を流したりする場面の連続だった。

 かつての「残虐な戦争を戦って、アメリカに勝利したベトナム人」を訴える場から、「ベトナム戦争を経て、国際協調を重視するベトナム」を訴える場にこの博物館も方法転換されていることがよくわかる。

 いったんホテルに戻ることにした。到着した直後に雨が降り出した。しばらく休憩して、近くで軽い夕食(ここでも仕方なしにカードで支払い)を済ませて、ガイドさんに連れられて空港に向かって帰国。

 今回の最大の目的は「ベトナム料理」だったので、ともあれ満足。すべての食事が満足できるものだった。なぜベトナム料理がこれほどおいしいのか、まさに謎。タクシー料金をだまされたのがとても残念だが、このくらいの損害で済んで、まずはよかった。ホーチミン市の中心部はかなり歩き回ることができた。道に迷いつつ、周囲を見て、異国の生活を味わうという旅ができたと思う。

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ジョージア・アルメニア旅行

 昨日までジョージア・アルメニアの3泊6日の弾丸ツアーに出かけていた。ツアーといっても、客は私一人。搭乗手続きが2019518日の深夜で、19日の001分に出発する便に乗ってジョージアの首都トビリシに2泊、アルメニアの首都エレヴァンに1泊し、2泊目はしないまま深夜にホテルを出て23日夜に帰国するというスケジュール。「3泊6日」ということになる。

 日本との時差は5時間なので、早朝に目が覚めたので日記のように旅行中の出来事を書いていた。それをそのままここに記す。

 なお、IT技術未熟につき、写真を挿入できない。一時期、できるようになっていたのだが、ニフティの「ココログ」の仕様が変わってから、またできなくなった。旅行記に写真がないのは読み物としては致命的欠陥だが、まあ仕方がない。

5月20

 昨日(519日)からジョージアのトビリシに来ている。

 岩波ホールでジョージア映画祭をみて、ジョージア出身の音楽家たち(ヴァイオリンのリサ・ヴァティアシュヴィリ、メゾ・ソプラノのアニタ・ラチヴェリシュヴィリ)を聴いて、この旧ソ連の小さな国にとても関心を持った。次の旅行先としてジョージアを選び、小さな旅行会社に申し込んで、ジョージアと、その隣国アルメニアを含むツアー(ただし、参加者は私だけの個人ツアー)に申し込んだ。

 ドーハ経由のカタール航空。ドーハ着陸の少し前、飛行機の翼に雷が落ちた。ほとんどの窓はまだしまっていたので、気づいた人は少なかっただろう。ただ、私の列の窓際の女性(中東系に見える若い女性)は窓を開けていた。通路側の席にいた私は窓の外をのぞきこんでいた。と、その時、まさしく翼に雷が落ち、一瞬、激しく光った。女性が悲鳴を上げた。が、それだけ。機体が揺れることもなく、停電になることもなく、揺れることもなく、何事もなかったかのように進んだ。

 着陸時、ちょっと心配だったが、15分遅れ(しかし、それはたぶん空港の都合)で到着。このような小さな雷が落ちることは日常的なのだろう。

 ドーハで1時間15分の待ち時間でトビリシ行きに乗り換える予定だった。急いで乗り換え手続きをすまして、トビリシ行きの搭乗口に向かって、機体に向かうバスに乗り込んだが、それが最後のバスだったようだ。ともあれ、無事乗り換えられた。

 飛行機の中は、羽田からドーハもドーハからトビリシまでも快適だった。窓の外にカスピ海が見えた。

 

 ドーハ空港は新しい清潔な建物だった。途上国の喧騒はまったくない。静かで落ち着いており、空港の周辺はきれいに整備されている。現れたガイドさんは20代のかわいらしい女性。語彙は少ないが、しっかりした発音で話をする。書いた文章もちょっと見せてくれたが、これが実にこなれた日本語。感じもよく素晴らしい! 運転手さんとホテルまで連れて行ってくれた。

 緑の多い街だ。道路はきれいに整備され、古い由緒ある建物と真新しい建物、そしてモニュメントがあちこちにある。ガイドさんが総務省などの庁舎を教えてくれたが、そのどれもが斬新なデザインの建物だった。市街地に入ると、まさにヨーロッパのこじんまりしたきれいな中都市。ロシア時代の名残などほとんど感じない。いかつさはなく、おしゃれで庶民的。

 ホテルは自由広場のすぐ近くにあった。ちょっと古いがとても便利で、感じもいい。まだ昼を過ぎたばかりだが、空いている部屋に入れてもらえた。

 夕方、ガイドさんが食事に連れて行ってくれることになっていたので、ホテルの室内で一休みしてから一人で散歩に出た。

 まず、スマホの地図と「地球の歩き方」の地図を頼りにムトゥクヴァ川に出てみようと思った。観光客が多く、観光客とみるとツアーやタクシーを呼び掛けてくるが、それはどこにでもあること。勧誘してくる人も、東南アジアのようにしつこくない。

 暑い。30度はありそう。コテ・アブハズィ通りを歩くうち、シオニ聖堂の案内が見えたので、そちらのほうに歩いた。6世紀に建てられた大聖堂だ。あまり飾りのない質素な教会でジョージア正教の中心地とのこと。多くの人が中でお祈りをしていた。こじんまりしていて、信仰心にあふれているが、厳めしい雰囲気はない。聖母の絵があり、十字架があり、そこで何人かがお祈りをささげていた。

 そのまま聖堂の外の階段を下りて川沿いに出た。川沿いのV.ゴルガサリ通りを少し歩いて、平和橋に入った。平和橋は川を横断する真新しい橋だ。おしゃれなデザインで晴れ渡った空の下、薄い青緑色のガラスの英局した屋根が生える。私も平和橋を渡って川の反対側にわたってみた。川を除いてが、決してきれいな川とは言えない。濁っているし、魚もいそうもない。

 その後、一旦ホテルの方向に戻って、ルスタヴェリ大通りを歩いてみることにした。左側にショッピングモールがあり、庭園があり、国家議事堂があった。右側には国立博物館、現代美術館、カシュヴェティ教会、ナショナル。ギャラリーが並んでいた。

 歩いているうち、1970年代、パリのサンジェルマン大通りを歩いた時の記憶がよみがえった。整備されたきれいな並木道。そこをフランス人が歩き(当時は白人がほとんどだった)、古い建物に交じって新しいビルが建っていた。

 道を歩いて感じるのは、お店が少ないこと。観光客向けのレストランはあるが、スーパーやコンビニなどの小売店がなかなか見つからない。横断歩道が少なく、広い道を渡るときには主要地の近く設置されている地下道を渡らなければならないが、そこには必ず物乞いが何人かいる。また、純粋な物乞いではないのだろうか、ほんの数点を地面において、ちょっとした野菜などを売っている人もいる。古本を道路で売っている人も何人か見かけたが、古本屋さんというよりは、自分が読んだ本を売りに出しているような雰囲気だった。地下道には靴や酒や下着や通信道具の商品を売る小さな店が並んでいるが、そこにも食料を扱う店が見当たらない。ただ、ちょっと雑然としているように思えるが、そうした店が静かに並んで、特に客引きをしているわけでもないし、客寄せに音楽がかかっているわけでもない。

 ピロスマニの絵がたくさんあるというナショナル・ギャラリーに最初に行ってみた。キリコ展が行われていた。私は特に絵画に関心があるというわけではないが、ジョージア(グルジア)に関して初めて知ったのは、1970年代に映画「ピロスマニ」をみたときだった。そもそも、ジョージアの画家で名前を知っているのはピロスマニだけだ(ちなみに、ピロスマニも本当の名前はニコ・ピロスマナシヴィリ。この国の人の名前は難しすぎて発音しにくいし、みんなの名前がよく似ていてい覚えられない!)。その後、現代美術館(外からも目を引く建築で、なかも階段がガラス張りで段差が見にくく、足を踏み外しそうになり、なおかつ、階下まで透けて見えるのでちょっとした恐怖を覚えた)をみたが、強く感じたのは、ジョージアの人の独特の感性だ。

 私は美術に関しては人並みの知識さえ持っていないので、偉そうなことは何も言えないのだが、ジョージアの画家たちの絵を見ると、日本の浮世絵と同じような現実を少しデフォルメして自分の独特の目で見る傾向があるのを感じた。

 ピロスマニの作品だけではなく、不思議な雰囲気のものが多い。そして、フランスやイタリアの有名絵画そっくりの構図のものもたくさんあるが、そこには模倣というよりもパロディのような、「おれならこうする」という対抗意識のようなものが感じられる。素人の私から見て「つまらない」と思う絵もたくさんあったが、目を引くものもたくさんあった。(ただ、どの画家も名前が似ていて、しかも長いので、覚えられない! 日本に帰って調べよう)

 ナショナル・ギャラリーの裏に広い公園があった。段差になりながら、川まで続いていた。緑が多く、多くの市民が何人かでおしゃべりしたり、一人で読書したりといった思い思いの時間を過ごしていた。静かな時間が流れている。私もその公園で一休みした。成熟した町だということを強く感じる。

 ナショナル・ギャラリーと現代美術館に囲まれたカシュヴェディ教会は小さな教会だが、何人もの人が訪れていた。周囲には物乞いが5、6人いた。訪れているのは観光客ではなく、現地の人だと思う。祈りをささげていた。男性たちのアカペラの重唱が聞こえた。素晴らしい声! 日本のプロ歌手でもこんなにきれいな男声合唱はできない!

 ところで、この国の人の信仰の深さを感じる場面を何度も見た。教会の前を歩くとき、通り過ぎるだけなのに、教会のほうを見て小さく祈りをささげる。少しアウトローに見えるタイプの男性も同じようにしている。若者もそうしている。通りの向川の歩道からもそのようにしているのを見た。

 ショッピングモールを少し見て、1階のスーパーでちょっとした買い物をしてホテルで休憩。

 

 夕方、ガイドさんがやってきて、夕食。オールドハウスという名前のレストランで、川辺で食事。ハチャプリというチーズピザを中心に、とても素朴な料理を食べた。にんにくの味が聴いて、おいしい。チーズもおいしい。ジョージアはワインの発祥の地なので、もちろんワインを飲まないわけにはいかない。これまたコクのあるとてもおいしいワインだった。

 飲食しながら、ガイドさん、運転手さんと話した。私がワインを飲んでいると、その飲み方が運転手さんには気になったようで、「ワインというのはイエス様の血なので・・・」と言い出した。もちろん日本語はできないが、とても初老の男性なので、もちろん悪気はない。もっと感謝を込めて飲んでほしいということの用だった。その後もガイドさんの通訳であれこれ話したが、ますます打ち解けてくれた。が、同時に、この国の人々の信仰の深さ、ワインへの思いに驚かされたのだった。

 食事中に雷が鳴り始め、大雨になった。が、通り雨だったようで、食事が終わった時にはほぼやんでいた。

 食後、すぐにホテルに戻る予定だったのだが、私の希望を入れて、メイダンを回ってもらった。歴史的に様々な文化が交わり、イスラム教、ユダヤ教などが入り混じる地メイダン。渋谷を思わせるような歓楽街に、シナゴーグがあり、その横をイスラムの姿の人が歩いていた。まさに宗教のるつぼ。地下のかつてのバザールを再現した場所もあった。そこにも立ち寄った。

 疲れ切って、ホテルについてすぐに寝た。

 

 

5月20

 朝の9時にホテルを出発。車でまずムツヘタに行った。先に車で日本のいろは坂のような道を上り、そのあと、200メートルほど坂道を歩いて、丘の上に立つジュヴァリ教会に行った。6世紀に建てられた教会で、世界遺産に指定されている。丘の上にぽつんと立っている。丘からは眼下にムツヘタの赤い屋根の多い町並みと様々な近代的な建物のたつ新しい町並みを見下ろすことができる。古い町の横で色の異なる二つの川が合流している。

 ジュヴァリ教会は、石造りの簡素で小さな教会だ。観光客がかなりいる。先に周囲を見てから、中に入った。十字架やイコンなどの聖なるものがあった。

 ガイドさん(どうやら、大学で日本語を学ぶ学生さんらしい。日本留学が決まっており、アルバイトでガイドの仕事をしているという。日本にこんなにしっかりした学生がどれほどいるだろう!)によれば、外壁のレリーフに太陽の徴があったり、中の絵画に私の知らない聖書由来の物語があったりするなど、西欧のカトリックの教会では聞いたことのないような事柄がたくさんあった。ジョージアの教会に特有のものなのか。あとで調べてみる必要がある。が、ともあれ、信仰が最も素朴に建物になっているのを感じる。

 その後、車で丘を降りてムツヘタの古い町にあるスヴェティ・ツホヴェリ教会に行った。こちらはジョージア最古の教会であり、もとは4世紀に建てられたのだったが、現在残っているものは11世紀に建てられたという。これも世界遺産。かなり大きな教会だ。まさに大聖堂。しかし、造りは丘の上のジュヴァリ教会に似ている。簡素な石造りで外壁に十字架や太陽の徴や貼り付けなどのレリーフが施されている以外は大きな装飾もない。むき出しの石が存在感を高めている。こちらについても、カトリックなどの教会では聞いたことのない話をいくつか聞いた。また、この教会の由来を示す少女と聖ニノのエピソードを示す絵画もあった。

 少し歩いて、スタムヴロ教会に行った。小さな教会で、女子修道院が併設されていたらしい。こちらも簡素な石造りで美しい。これは世界遺産ではないとのことだが、こじんまりしていてとても感じがいい。

 

 その後、ジョージア軍用道路に進んだ。1799年に帝政ロシアがコーカサス地方からその先までを軍事的に制圧しようとして軍事用に山を切り開いて建設した道路だという。現在はもちろん片側1車線の道として舗装されているが、まさに断崖絶壁を曲がりくねって走っている。私の乗る60歳前後の運転手さんはかなりスピードを出すタイプのようで、次々と前の車を追い抜いていくので、少々怖かった。

 途中、ダムによってできた人造湖、その近くにあるアナヌリの石造りの城塞と教会をみて、どんどん進んだ。観光名所である理由がよくわかる。風景が素晴らしい。渓谷があり、緑に覆われ、切り立った崖があり、渓流がある。車に乗って外から見ているだけで飽きない。

 雨が降り出してきた。山の気流の具合による一時的な雨かと思っていたが、そうでもない。時々晴れ間も見えるが、徐々に雨が強まる。その中で、遠くに雪山が見えてきた。そして、どんどんとそちらの方に近づいていく。そして、実際に周囲は雪景色になってきた。昨日は30度前後あった。今日も平地は20度を超していただろう。が、軍用道路で北上するうち、季節が23か月さかのぼった感じだった。

 小さなレストランで昼食をとった後、ソ連時代に、ロシアとジョージアの友好200年を記念して作られたモニュメントに寄った。周囲には雪が残っている。冷たい雨が吹き付ける。ありったけの服を着て外に出たが、おそらく摂氏5度くらい。しかも雨のためにかなり濡れた。このモニュメント、デザイン的に面白いが、ジョージアの人はロシアに虐げられた歴史を物語るものであって、面白く思っていないようだ。

 そのあと、14世紀に建てられたゲルゲティノツミンダ・サメバ教会に寄った。これも丘の上にある小さな簡素な教会だった。周囲を5000メートル級の山に囲まれているというが、雨や雲のために見えない。山のふもとに小さな集落が広がっている。

 ただ、もうすでにびしょぬれで寒い! 車に戻った。その後、来た道を戻って、トビリシに向かった。体が濡れていて寒かった。10度くらいに思えるところでも半そでにシャツ一枚だった運転手さんにお願いして暖房をきかせてもらっても寒かった。

 が、無事にトビリシに到着。レトロ・レストランというツアー客の集まるレストランで、オランダ人?とドイツ人とアメリカ人?の大集団(一つの集団が40人程度)に囲まれて夕食。オランダ人?の集団が何度も声を合わせて歌い出すのには参った。話ができなかった。

 まだ寒気が抜けず、しかも食欲がない(曲がりくねった道をかなりのスピードで走ったための車酔い? あるいは、ふだんは朝食を抜く生活なのに、朝食付きのホテル料金を無駄にしたくないという貧乏性でつい朝からたくさん食べるせい?)。とてもおいしい料理だったが、早々に帰った。すぐに風呂に入って寝た。

 

 

5月21

 

 朝9時にガイドさんが迎えに来て、車でトビリシのホテルからアルメニア国境に向かった。南に向かう。右も左も野原が続く。人家はほとんどない。なだらかな山。美しい。それがずっと続く。

 車で1時間以上飛ばしてやっと国境の町バグラタシェンに到着。パスポートを確認されてから、国境の施設の中に入った。有料道路の入り口のような検査所があり、中に駐車場や3階建てくらいの建物がいくつか覆われているが、それほど厳しい雰囲気はない。軍人も武装した警察官も見当たらない。人もあまりいなくて、がらんとした雰囲気だった。

 国境までジョージアのガイドさんが連れてきてくれて、アルメニアのガイドさんに引き継いでくれる予定だった。ところが、相手のガイドさんとどこで会うのか打ち合わせができていないようで、30分近くウロウロ。ガイドさんは何度も携帯に電話をかけるが、返事がないという。

 やっと連絡が取れて、パスポートコントロールの先でアルメニアのガイドさんが待ってくれていることがわかって、これまでのガイドさんと別れて、1人でパスポートコントロールのところに行くことにした。そうこうするうち、私の携帯でもアルメニアのガイドさんと連絡できるようになって安心。

 がらんとしているように見えたのに、そこには人だかり。大学の50人教室程度の部屋に係員が7、8人かいて、その前にきちんとした列もなしにおそらく80人以上の旅行者がコントロールを待っていた。部屋からはみ出して廊下にも20人ほど待っている。

 廊下の外で待って30分ほど並んでやっと部屋の中に入れた。コントロールの仕事をしている係官は3人だけ。ガイドのような通常行き来する人はパスポートを見せ、そこにスタンプを押すだけで済んでいるようだが、それ以外の観光客には1人につき5分以上かかっている。私の前の中国人は10分以上かかった。これではいつになるかわからない。

 たまたま比較的人数の少ない列があった。中国人グループが並んでいた。私はその後に着いた。中国人グループの存在感は大きく、他の列には次々と割り込みがなされるのに、中国人が並んでいる所には割り込みがない。私は中国人のグループの1人のような顔をして、そのままコントロールを受けることができた。それでも1時間ぐらい経っていた。

 

 アルメニアのガイドさんと合流。しっかりした感じの小柄で綺麗な女性。ベンツの乗用車に乗って案内してもらった。ちょっと訛りはあるが、語彙が豊かでしっかりした日本語で的確に説明してくれる。

 ジョージアの道はほとんど舗装がなされていた。きれいとは言えなかったが、トビリシ以外の地方でも普通の舗装道路だった。道路に牛がいたりもしたが、それでも舗装はきちんとなされていた。

 ところが、アルメニアに入った途端に道が悪くなる。山道を進んだせいもあるのかもしれないが、穴だらけの道。雨が降っていたので水たまりがたくさんあってまっすぐ進めない。どの車も大きな穴を避けながら左車線のほうに入り込むなどしてゆっくり進む。行き交う車はベンツが多い。道が狭く穴ぼこだらけなのでベンツは運転しにくいだろう思うのだが、なぜか5台に1台位がベンツ。外は日本車や他のドイツ車。ロシア製のラダの車もある。ソ連時代のラダもとろとろと走っている。

 風景は素晴らしい。両側がまさに森の世界。谷川があり、山が広がり絶壁がある。木々が見え、野の花が見える。

 ツアーの予定では、国境の町からいくつかの修道院や教会を見ながら、首都エレヴァンに向かうことになっている。

 1時間近く走って、切り立った山の上にあるハグパット修道院に到着。世界遺産に登録されている丘の上の大きな静かな、そして厳かな建物だ。10世紀から13世紀にかけて建てられてきたとのこと。地面に長方形の石がいくつも並んでいる。かつてそこで暮らした神父たちの墓だという。みんながその上を平気で歩いている。墓を踏みうつけながら修道院を歩くのがふつうのことらしい。踏まれることによって魂を浄化させることができるのだと言う。

 建物はまさに質素。質実剛健という言葉がふさわしい。飾りはなく、石がむき出しになっている。チャペルにはフレスコ画があったらしいが、それはもう剥がれている。

 大きな建物がいくつかあった。外壁にはほとんど飾りはないが、十字架の印はあちこちにある。これまで見たことのない十字架だ。下のほうに 葉っぱのような模様がある。ガイドさんによると十字架は死の印ではなく、これから生まれる命の象徴だと言う。それがアルメニア正教の考え方らしい。

 ジョージアの修道院や教会ともかなり異なる。ジョージアは質素ですっきりした感じだった。ところがこちらは、がっしりして堅固で厳しい。ガイドさんが強調するのは、アルメニアの人々が迫害にも負けず自分たちの信仰を強く守ってきたこと、修道士たち、そしてアルメニアの人々みんな学ぶのが好きだということだ。修道士は必死に勉強し、自分たちの信仰や歴史を文章にして残し、迫害され、屈辱を受けながらも、それを必死に守ってきたと言う。そのようなエピソードをいくつも聞いた。

 フランス人、ドイツ人のグループの観光客がいた。日本人を見かけなかった。

 次に向かったのは車で30分ぐらいのところにあるサナヒン修道院だった。こちらも切り立った山の上にあり、ハフパッドよりももっと古い修道院だと言う。細かいところではいろいろ違うようだが、まったくの素人でメモを取らずにガイドさんの解説を聞くだけの私にしてみれば、まぁ似たようなものだと思う。同じように質素で厳しい。

 ウィキペディアにも出ているようなので、とりあえず帰ってよく整理してみようと思った。

 ともあれ印象としては、アルメニアの人々の強い信仰の表れが形となったような修道院だった。ジョージアの人々にも強い信仰心を感じられたが、アルメニアの人々の信仰心には、とりわけ強い意志のようなものを感じる。屈辱に満ちた歴史を信仰によって何とか守ろうと言う意地とでもいうか。信仰心に屈辱に対する怨念、1915年のトルコ(当時のオスマン帝国)によるアルメニア人虐殺の記憶が混じっている。

 再び車でエレヴァンに向かう。きれいに整備された舗装道になったかと思うと、またアナらだけの山道になる。風光明媚なところもたくさんある。国境の町バグラタシェンとエレヴァンの間にあるアルメニアの北部はまさに森の世界だと言う。曲がりくねり、道路の穴を避けながら、エレヴァンへと向かった。

 ガイドさんの言う通り、長いトンネルを抜けるとまるで違う世界が広がった。それまでは森林の世界だったのだが、突然草原の世界になる。切り立った山はなくなり、なだらかな草原になる。道路もくねくね曲がるのではなく、直線になる。道路も舗装がしっかりしてくる。山道で道路が穴ぼこなのは寒暖差が大きくアスファルトの中で水分が凍ってアスファルトを破壊するからだと言う。トンネルよりも南ではそのようなことが少なくなるのだろう。

 しばらく進むと左手にセヴァン湖が見えてきた。きれいな湖だ。青々とした水が広がっている。周囲の木立も美しい。海抜2000メートル近くの湖なので、冷たくて、夏でも泳ぐのは無理だという。しかし、それにしても本当に美しい。

湖の縁に小高い山があり、その頂上に9世紀に建てられたという古い修道院後があった。そこは昔、湖の中の島だったと言う。水が減って、今は湖畔の建物になっている。息を切らしながらそこに登った。修道院後は石を石が残っているだけだが、その後建てられた小さな修道院があった。それも雰囲気がある。

 その後まっすぐに車でエレヴァンに向かった。

 エレヴァンに入るころから、遠くにアララト山が見えてきた。アララト山の横には小アララト山といわれる富士山をミニチュアにしたような山もある。

 アララト山はノアの箱舟が到着したとされている山であり、箱舟の跡のようなものが見つかったとのことで一時期、大きな話題になったことがある。富士山が日本人にとってそうであるように、アルメニア人の心の故郷だが、今はトルコ領になっており、アルメニア人は自由に出入りできない。

 アルメニアの人の気持ちはよくわかる。アルメニア人はノアの直接の子孫だと自分たちを信じている。だから、アララト山を信仰の対象にしている。晴れた日には毎日、エレヴァンの町からアララト山がそびえたっているのが大きく見える。それなのに、アルメニア人を15万人虐殺していながら、そのことを認めていないトルコの領地内にその山はあって立ち入ることができない。屈辱と無念を毎日感じ続けている。それがアルメニアの人の気持ちなのだろう。

 19時30分ごろホテル到着。ホテルで予約してもらっていた夕食を1人で食べた。しかし、お腹が空いていないためせっかくおいしいお肉も少ししか食べられなかった。

 

5月22日

 朝9時に出発。ガイドさんに連れられて、リプシメ教会に車で向かった。

 市内にはソ連時代特有の安づくりのアパートがいくつも見える。トビリシとはずいぶんと雰囲気が違う。ソ連時代の車も走っている。あちこちにソ連時代の名残がある。ジョージアとは経済的にも少し差があるのかもしれない。

 リプシメ教会はキリスト教を布教して殉教した女性リプシメを祀る教会で7世紀にたてられた。地下にリプシメの遺骸が残された墓がある。日常的に今も多くの人が訪れている教会だ。赤っぽい色の石でできていて、とても美しい。気のせいかもしれないが、何となく女性的で優美な感じ。だが、装飾もなく、余計なものがない。カトリックの教会とかなり異なる。中はがらんとしており、葉っぱの模様のある十字架と簡素なキリスト像などがあるばかり。

 次にアルメニア使徒教会の総本山エチミアジン大聖堂を訪れた。4世紀に最初に建設され、世界遺産に指定されている。聖堂の近くに修道院、大学などのいくつもの施設がある。トルコの虐殺を逃れた子供たちを収容した施設もある。ただ、残念ながら聖堂は改修中で、中に入ることはできなかった。

 午後もまた世界遺産巡り。まず、ガルニ神殿に行った。ガルニ神殿は、キリスト教以前に信仰されていた太陽神を祀った神殿だ。地震で破壊されていたのが再建されてギリシャ神殿のように丘の上に建てられている。近くに浴場跡も再建されている。しかし、それ以上に、この丘から見える山や谷の美しさに私は驚いた。岩肌の見える切り立った崖があり、そのような丘がいくつも重なって見える。その谷間に緑が広がっており、ところどころに人家がある。さわやかな風が吹き、蝶が舞い、風の音がする。よい季節だ。

 その後、車で10分ほどのゲガルド洞窟修道院に向かった。4世紀に迫害を逃れた修道僧たちが建てたのが始まりだという。その後、アラブ人に破壊された後、現在は13世紀に造られたものが残っている。修道僧たちが岩をくりぬいて作った僧房があり、その下に聖堂が建てられている。

 岩を掘ってこれらの大きさの堂を作る壮絶な信仰心に驚く。中は質実剛健そのもの。僧たちはワインを飲まず、ただ塩とパンと水だけで生きたという。個々もまた装飾はほとんどない。岩肌に十字架などの印があるだけで、飾りのようなものはない。

 その後、いったんホテルに戻って、しばらく一人になって休憩。一人で街を歩こうと思っていたら、突然の大雨になった。散歩はあきらめて、夕食。また、一休みして、夜中の24時ころにガイドさんに迎えに来てもらって空港へ。午前3字の飛行機でドーハに雪、そこから羽田へ。

 23日23時40分過ぎに羽田到着。24日午前1時過ぎに帰宅した。疲れた!

 

旅のまとめ

・ジョージアについては少しだけ映画などで「予習」していたが、アルメニアについてはほとんど何も知らないままの旅行だった。ハチャトゥリアンがジョージア生まれのアルメニア人だという認識くらいしかなかった。サローヤンがアルメニア移民だったことをガイドさんに聞いて思い出した(昔、文庫で短編集を読んだ記憶がある)。

・ジョージアとアルメニア。日本人からするとほとんど区別のつかない二つの国だが、だいぶ雰囲気が違っていた。私の見る限り、ジョージアは芸術的なセンスにあふれた西ヨーロッパ風の国。信仰心は強いが、自然でしなやか。とりわけトビリシにそれを感じる。それに対して、アルメニアはソ連の雰囲気を残し、迫害の歴史をアイデンティティにした意志の強い人々の国。強固な信仰心を持ち、不屈の精神力を持っている。そうした点を除けば、やはりこの二つの国は似ている。風景は美しい。信仰心が篤い。料理も細かいところではかなり異なるのだろうが、大まかには同じような味がする。どちらもなかなかおいしかった。

・アルメニアのガイドさんにいくつもの音楽を紹介してもらった。ガイドさんの好みも入っているのかもしれないが、それらの音楽はいずれも人生の悲哀をかみしめる音楽だった。コミタスという国民的作曲家を初めて知った。彼の作品をいくつかyoutubeで聴いたが、とてもいい。まさに魂を歌い上げる音楽。ただ、ブルックナー的、ワーグナー的な重みは大好きだが、魂に訴える系の重みが苦手な私としては少々うっとうしさを感じるが、なかなかに聴きごたえがある。確かにこれがアルメニアの魂なのだろう。

・道路マナーを私は民度の指標と考えているが、二つの国ともに、ルールをきちんと守っていた。やはりとても民度の高い国だと思う。

・日本の観光客にはほとんど会わなかった。唯一人、ゲガルド洞窟修道院を観光中、日本語で話しているときに日本人の若い女性に話しかけられた。その人は、現地の友人とともに来たという。その方も日本人が珍しいので声をかけてきたのだろう。ほとんどは欧米人だが、中国人旅行客は大勢いる。ホテルでもレストランでも観光地でも中国人の団体としばしば一緒になる。韓国人もちらほら。エレヴァンに大きな中国大使館が建設中だった。ますます中国の存在感が高まる。

・どこに旅行に行っても、その国の歴史を予習していなかったことを後悔する。が、今回、とりわけそうだった。今回訪れた二つの国について、あまりに無知であることを改めて感じた。もう少し勉強してからまた訪れたい。そうでないと、ガイドさんの説明を聴いてもよく理解できない。まあ、今回はこれで良しとしよう。

 

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ドバイ、アブダビの旅 まさにワンダーランド!

228日から34日(2019年)まで、短期間だが、アラブ首長国連邦(UAE)のドバイ・アブダビ゙の旅行をした。アブダビにはルーヴル・アブダビ美術館が開設されており、ダ・ヴィンチの真作とみなされた「サルバトール・ムンディ」が公開予定だとしばらく前にテレビ番組で知った。これを機会に話題の中東の国を見るのもよかろうと思い立って、クラブツーリズムに申し込んだ。出発の少し前、「サルバトール・ムンディ」の公開が遅れて、見られなくなったという知らせが届いたが、すでに行く気が高まっているので、今さらそういわれても、やめるわけにはいかない。

 228日夕方に出発して香港経由で31日朝8時ごろドバイに到着する便だった。かなり遠回りのビジネスクラスでのツアー。これなら手の届く料金だ。

 空港に降り立つ前、飛行機から下を見ていたら、一面、砂漠だった。そして、突然視界がぼやけてきた。雲かと思ったら、少し茶色っぽい。どうやら砂ほこりのようだ。そうした中を着陸。砂漠地帯には珍しく、雨が降っていた。暑くはない。20度を少し超えた位。飛行機の中で着ていた服をそのまま着ていられる。

ほかのツアー客とはドバイで初めて顔を合わせた。4人だった。最低催行人数はもっと多かったはずなので、もしかしたら何人かがキャンセルしたのかもしれない。幸か不幸かメンバーは全員が高齢者。この時期のビジネスクラスのツアーはこんなものだろう。

ドバイ国際空港は一日平均20万人以上が利用する世界最大の空港だという。が、私たちが降り立ったのは古い建物で、本当に巨大なのは、隣の建物らしい。近日中にもっと巨大な空港ができるとのこと。

ガイドさんは日本語の達者なお腹の出た40前後の男性。こんな体型の人をたくさん見かける。後で聞いたところ、エジプトから8年前にやってきたとのこと。ドバイには外国人が多い。8割以上が外国人という。もともとのドバイ人のほとんどがかなりの高給をもらっている。日本円で1000万を超す人がほとんどらしい。外国人はそれに比べるとかなり安く働いている。ホテルやレストランで出会う人のほぼ百パーセントが外国人ということだろう。この国には所得税はない。法人税もない。だから、様々な企業が進出し、中継地点を作り、多くの人が仕事を求めてやってくる。ただ、外国人参政権はないようだ。割の住人の意見ではなく、割の人間の意見で社会が動いているのに、特に激しい抗議は出されていないというから不思議だ。ガイドさんは、英語やほかの言葉を使って現地の人と交流していた。

 話には聞いていたが、実に清潔で整った近代都市。道路は真新しくて車の乗り心地はよい。片側5車線程度の道が続き、歩道があり、街路樹が植えられている。ゴミはなく、完璧といってよいくらい整備されている。雨はすぐに止んだ。

 すぐに高層ビル群が見えてきた。奇抜なデザインの様々なビルが立ち並んでいる。ねじれたビル、パイナップルを形パイナップルの形をしたビル、T字型のビル、H型のビル、ピラミッド型のビル、先の尖ったビルなどなど。まるで建築家のデザインを競い合っているかのよう。これは気鋭の建築家たちの発表の場だといえるかもしれない。そのどれもが50階建て以上なのだと思う。未来都市といってもいい。しかも、いたるところで建設途中の高層ビルが見える。1000メートルを超すタワーも建設中だという。

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 花壇もあちこちにある。スプリンクラーで水を撒いているようだ。海水を濾過して真水にする工場があって、豊富に水が使われている。だが、飲み水などはほかの地域に比べて高額だという。

 大勢の外国人が建設関係の仕事についているとのこと。ところが、建設中のマンションの部屋を合計すると、ドバイの人口を起こしてしまう。多くの人が、自分で住むためではなく、人に貸して家賃を取るためにマンションを建てている。投資のためのマンション建設ということだろう。

 ドバイは石油成金国家なのだとばかり思っていたら、今ではほとんど石油は出ないと言う。先代の王様が、石油が出なくなる将来を見据えて、砂漠の中に都市を作り始めたらしい。そして次々と世界一のものを作り始めた。世界一高い建物、世界一大きな建物などなど。そして投機を呼び込み、観光客を呼び、労働者を呼んだ。人工的な未来都市。実にドバイは不思議なところだ。まさしくワンダーランド。

ドバイには産業はほとんどないと言う。野菜も機械も国内では作られない。すべて輸入に頼っている。国内には海外からのたくさんの会社が支店を置き、ここ中継点にして販路を広めている。ドバイには税金がないので、企業はこぞってやってくる。このような政策が成功して、世界の注目の的になり、今や世界を代表する大都市になった。

 ドバイの街を見ていると、昔訪れた北朝鮮の平壌思い出した。マンションが立ち並んでいたが、生活の匂いがしなかった。それと同じように、ここも生活の匂いがしない。うす汚れたレストランや果物屋や野菜屋や肉屋が見当たらない。怪しい店も見かけない。高級住宅や超高層ビルが並ぶばかり。きっとこの高級マンションの中にスーパーやおしゃれな店舗がテナントとして入っているのだろう。

強い風が吹き、雨が止むと砂が舞う。砂嵐というほどではないが、茶色の砂が飛んでいるのがよくわかる。車には砂埃がついている。雨が降ると、車に砂がべったりついて、汚れる。ところが雨が降ってから数時間後、車のほとんどがきれいになっている。もちろん中には砂だらけのものがある。しかしかなりの数の車が汚れていない! 屋内のきちんとした駐車場にあったのか、それともすぐに洗車したかのいずれか。いずれにしても、今まで訪れた国では考えられない!

 

早速市内観光に出発。世界最大の面積の人工島パーム・ジュメイラ(ヤシの形の島が形作られている)、世界一大きな金の指輪数国あるゴールドリング、世界最大のねじれた塔カヤンタワー、世界最大の屋内スキー場スキー・ドバイなどなど。どれも物量で圧倒する。

ショッピングモールにほとんど関心なく、ブランド品もよく知らず、スキーを一度もしたことのない私は、これらのものにはまったく興味を持てなかった。よくぞこんなものを作ったものだと呆れながら歩いていただけ。ともかくあらゆるものが巨大でおしゃれ。そこを様々な人種の人たちが行き交っている。やはりアラブ系の人が多い。白人もかなりいる。東アジア人もたくさんいる。しかし、思ったほどイスラム色は強くない。イスラム教徒と思われるのにヒジャブをしていない女性も多い。キリスト教国とさほど変わりがない。ときどき、目だけを出した黒づくめの女性を見かけるが、それはむしろ例外的。ガイドさんによれば、これらの女性はサウジアラビア人だろうとのこと。

観光客らしい人も多い。中国人団体客も時々いる。日本語も時々聞こえてくるが、それは観光客ではなく、日本に住んでいる人たちのようだ。日本人は企業関係者を中心に3000人程度住んでいると言う。

「人工性」が一つのキーワードだと思った。巨大な屋内スキー場は、まさに人工性を象徴している。リフトがあり、ゲレンデがあり、山小屋のある屋内スキー場。そもそも、この都市そのものが砂漠の中に人工的に作られたものだ。

 その後、人間的な雰囲気のある界隈で昼食。高級なところではなく、外国人労働者たちが暮らす場所に近い繁華街のようだった。六本木のような雰囲気がある。インド、中国などのレストランがあった。なんだかよくわからないものを食べた。料理の味は決して良くはなかった。

 

昼食後、ホテル(JWマリオット・マーキス・ドバイ)に入って一休みしてから、砂漠ツアーに出かけた。

4WDの車に乗って40分ほど高速道路を走った。砂漠の中の一本道。右も左も砂漠が広がる。ドバイが砂漠の中に建てられた人工の大都市だということをまさに実感する。かなり強い風が吹いて砂を運んでいる。車がかすかに揺れる。ほとんど砂嵐と言えるほど。路上に砂が溜まっている。いちどタイヤが砂にとられてスリップしかけた。

トイレ休憩でスーパーに停まった。だが、ツアー客4人とも私を含めて車外に出るのを嫌がった。外はまさに砂が流れている。

車のタイヤの空気をかなり抜いてから、舗装された道路を離れて砂漠に進んだ。空気の圧力を減らさなければ砂の上では危険らしい。

舗装された道から外れると、そこはまさに砂漠だった。薄茶色の砂が見渡す限り広がっている。サラサラの細かい粒子の砂だ。砂があちこちで小さな丘陵を作り、谷を作っている。コンクリートの壁が作られて砂のたまっているところもある。砂は風で小さく動いているのがわかる。

Photo_2

20分ほど進んで、ラクダの飼育場所で一旦休憩。少し外に出てみた。

ここも凄い風。1分ほど車の外にいただけで。口の中に砂が混じった。服全体がざらざらしてきた。すぐに車の中に戻った。砂漠地帯の人が着ている服は、何度かぱたぱたと叩けば砂が落ちるようにできていると初めて気づいた。スーツなどを着ていたら、それこそあちこちに砂がたまって落とすのに一苦労するだろう。ポケットのあるシャツなども苦労しそう。

しばらく砂の中を車で走って待機。8台の車が到着するのを待って、隊列を作って、砂漠を出発した。すべてが日本の4WD車。日本車、とりわけトヨタへの信頼が厚い。このようにして、アクロバット走行を行う。これが観光の一つの呼び物になっているようだ。

私たちのツアー・グループは全員高齢者なので、それを配慮してくれてか、しんがりをゆっくりと走ってくれた。それでも、まるでジェットコースターのように砂の山を転がったり、駆け上ったり。頭を車の天井にぶつけそうになる。車が大きく傾いて今にも横転しそうになる。前を行く車は大きな砂塵を上げて走っている。

ガイドさんによると、若いお客さんたちだったらキャーキャーという叫び声が起こるというが、さすがに高齢者ばかりだから、ちょっとした叫び声しか出さない。20分ぐらいだろうか、そのようにして砂漠の中の丘を登ったり降りたりした。しばらくたつと気分が悪くなってきた。車酔いだ。私だけでなく他の女性客も不調を訴えた。おかげで少し加減して走ってくれた。私もあと5分これがついていたら、きっと嘔吐していただろう。

その後少し離れたキャンプ場に行って、バーベキュー・ディナー。

周囲を小さな木立とテントで囲まれた場所に10メートル四方ほどの小さなステージがあり、その前に絨毯が敷かれテーブルが置かれていた。テーブルには100人以上の観光客が集まった。音楽がかかり、アナウンスがあってから、ステージの上できれいな女性のベリーダンスが始まった。とても魅力的な女性が客をあしらいながら、10分ほど踊った。その後、ディナー開始。バイキング方式で、自分で料理を取りに行く。

おそらく気温は15度くらい。長袖の服の上に薄手のジャンパーを着ていたが、かなり寒い。風も吹いている。強い風ではないが、口に含むと、料理に砂が混じっているのがわかる。口の周りにも砂がつく。味も決しておいしいとは言えない。しかも車酔いの後であるだけに、まったく食欲はなかった。

食事をとりながら、男性の火を使った芸などを見て終了。私は男性なので、きれいな女性のベリーダンスには興味を持ったが、それ以外はまずまず。

車でホテルに戻った。ホテルはJWマリオット・マーキス・ドバイ。72階建ての1600室ある超高層ホテル。42階に宿泊。設備もきわめて現代的。すべてが清潔で機能的。外を見るとまさに未来都市。その先に海が見え、反対側には砂漠が見える。これぞドバイ。

 

2日目。この日は午前中にアブダビ観光が含まれる。

ドバイとアブダビ。同じような都市かと思っていたらかなり違う。

アブダビがアラブ首長国連邦の首都。この国は7つの首長国の連邦として成り立っている。ドバイとアブダビはそれぞれがこの連邦をなす国家であり、隣り合っているため車で2時間以内で行くことができ、多くの人が日常的に交流しているようだが、半ば独立しているという。首都はアブダビだが、ドバイのほうが経済的に成功して大きな発展を遂げ、アブダビがそれを追いかける形になっている。アブダビはドバイと異なって石油が大量に出る。いわば石油成金国家だ。

アブダビに向かって小型バスで高速道路を走った。ドバイにいる間は高速道路は砂漠を貫いている。都市部には建物があるが、それを過ぎると右も左も広がっているのは砂漠。ところがアブダビに入った途端に左右に木々が広がる。もちろん、アブダビも砂漠の中に建てられた都市だが、アブダビはドバイのように急速に高層化を進めるのではなく、植林をして、緑を増やし、投資よりも宗教や文化施設を重視していると言う。高層ビルは多いが、ドバイほどではない。

初めに4万人が入って礼拝できる巨大モスク、シェイク・ザイード・モスクを訪れた。UAEの建国の父であるザイード・ビン・スルタン・アル・ナヒヤンが建てたモスクだ。私費を投入したため、どのくらいの費用が掛かったのか不明だという。タージマハルによく似ているがもっと巨大で、もっと真新しく、美しい。

パキスタンのイスラマバードでもシャー・ファイサル・モスクという巨大モスクを見たが、こちらは贅のレベルが異なる。イスラマバードのほうはコンクリートを白塗りにしただけの体育館のようなモスクだったが、アブダビはまさしく芸術品。最高に美しい大理石が敷き詰められ、草花のみごとな彫刻がなされ、主要な礼拝室にはシャンデリアがあり、手作りのペルシャじゅうたんが敷き詰められている。贅を凝らし、芸術のエッセンスを集めて作っている。

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これほどのものを見せつけられると単に石油成金だなどと揶揄していられなくなる。タージマハルなどの歴史的な文化施設もおそらく同じように富と権力を持つ人間がその力を見せようとして、そしてまた自分の信仰心や思いを示そうとしてこのようなものを作ったのだろう。現代の美のすべてを結集させたかのような建築物だと思う。ただ、すでにある文化の模倣であって、新しい文化を築いているのではなさそうだ。

 

その後、ルーヴル・アブダビ美術館を訪れた。2017年に開設されたばかりの真新しい美術館だ。海岸に白い建物がある。シドニーのオペラハウスを思い出す。木漏れ日を再現したという屋根が美しい。美しいだけでなく、このような工夫によって自然光が取り入れられているという。フランスのルーヴル美術館が別館として認めているらしい。きっと莫大な金額がルーヴル美術館に支払われたのだろう。オイルマネーの威力と言うべきか。

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建物そのものも魅力的だが、展示されている絵も素晴らしかった。常設館にも古代から20世紀までの実用品、装飾品、絵画、彫刻が展示されている。ダ・ヴィンチの「ミラノの貴婦人の肖像」のほか、ティツィアーノ、マネ、モネ、セザンヌ、ピカソなどの絵、ジャコメッティの彫刻などもあった。

特設会場ではオランダ絵画展が開かれていた。レンブラントやその工房の絵画がメインだったが、フェルメールの「ヴァージナルの前に座る女」と「レースを編む女」も展示されていた。前者ははじめてみた。贋作か真作かで意見が分かれている絵画らしいが、現代では真作という説が有力のようだ。「レースを編む女」はフランスのルーヴルで必死に探してみた記憶がある。

ヤン・リーフェンスという画家を初めて知った。レンブラントのライヴァルだったという。その「ペルシャ衣装の少年」が今回の展示会で大きく取り上げられていたが、これは素晴らしい絵だと思った。男の子の表情、肌や服の感触、光の表現などに惹かれた。

 

その後、ドバイに戻って、ホテルに入って一休みした後、噴水を使ったプロジェクトショーを見にいった。それなりの人が見物をしている中で、大音響の音楽がかかり、海辺の入江の近くのビル全体にプロジェクターで海賊もののアニメが映し出される。海の入り江に噴水が仕掛けられていて、そこにもアニメのキャラクターや海賊船などが映る。ただ、風が強くて噴水のきれいな映像が投影されなかった。昨年、桂林に行ってビルの屋上から大量の水が滝のように吹き出してきて、そこに大音響の音楽がかかるパフォーマンスを見たが、それを思い出した。

その後、ナイトクルーズ。遊覧船に乗って夕食を取りながら、運河を2時間ほど回るものだが、見えるのは超高層ビルばかり。電飾が施されていたりしているが、さほどおもしろいものではなかった。遊覧船も音楽がかかり、西洋人の団体が陣取っていて、静かに話もできなかった。

この日は22時30分過ぎにホテルに戻った。この日のホテルはシャングリラ・ホテル・ドバイ。心地よいホテルだった。

 

3日目

 早く目が覚めたので、朝の散歩に出かけた。

 高層ホテル街なので、道路はがらんとしている。日曜日だが、この国では金曜日と土曜日が休日で、日曜日からは平日。出勤している車が多い。日本よりももっと整備された道。片側3車線。車はどれもきれいに洗車されている。日本車が多い。4WDの車が目立つ。時々韓国車が通るが、それを除けば日本の道路とほとんど同じではないか。日本車中心で、ドイツ車が時々走る。交通ルールはきちんと守る。歩行者もきちんと赤信号を守っている。

 近くにスーパーがあった。24時間営業の大スーパー。大倉庫のようなところだった。50メートルくらいありそうな陳列台に商品がずらーっと並べられている。すべての製品の寸法が大きい。ポテトチップのなかには日本で売られている製品の5倍くらいの大きさがありそうなものも混じっている。朝の7時過ぎに行ったので、客はほとんどいなかった。

 少し歩くと高級住宅街らしかった。広い敷地。この国の国籍を持つ人はほとんどがこのような邸宅で暮らしているらしい。マンションで暮らす人もいるらしいが、そこは車ごとエレベーターに載せて上の階まで行けるような高級マンションとのこと。外国人労働者はそれほどではない一般のマンションで暮らしている。治安はよく、警察は必要ないほどだという。確かにパトカーも見かけないし、警官の姿も見ない。高級住宅街は静かで落ち着いている。

 10時半から3日目の観光に出発。この日のメインは世界一高い828メートルのビル、バージュ・カリファの展望台でのドバイ展望。

 バージュ・カリファは映画「ミッション・インポシブル」シリーズの一作でトム・クルーズがガラスの側面を走り回るところをスタントなしで撮影したというので有名な場所だ。私のこの映画をテレビで見た記憶がある。大行列を作って1時間ほどかけて展望台に行き、ドバイを一望。

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 砂漠に囲まれた海辺に超高層ビルが建って、現在のドバイが作られていることがよくわかる。全体的にベージュ色なのは、砂埃のせいであり、また砂による汚れが目立たないように建物自体をそのような色にしているせいでもある。それはそれで壮観。

 一体いつまで、この人工の都市は成り立つのだろうか。

 いってみれば、ドバイはバブル国家だ。今は投機が投機を呼んでどんどんと拡大している。世界最先端の先進国と言えるような状況にある。だが、これはねずみ講に近い。次々と仲間を増やし、みんなが投機熱を抱くから、この都市が成り立っている。だが、投資に参加する人がいなくなったとたんに、すべてがストップし、あとはゴーストタウンになってしまう恐れがある。ねずみ講国家、砂上の楼閣国家といいたくなる。

 だが、考えてみると、資本主義社会の都市そのものが、投資によって人を呼び込み、幻想によって成り立っている面がある。ただここは砂漠の中の何も産業のないところに人工的に、ゼロから先端国家を作ったので、それが目立つだけだ。いわばここは資本主義の最先端のいわば実験場のようなところだ。このような手法を続けて、拡大し、成長を続けていくことも考えられなくもない。

 その後、ショッピングモールの横にあるドバイ・ファウンテンで噴水ショー(音楽とともに噴水がバージュ・カリファをバックにして高く吹き上がる)をみた。それから、しばらく車で移動して、世界最長の無人運転鉄道にのった。ファイナンシャル・センターからワールド・トレード・センターまでの2駅。車両は日本製。とても乗り心地が良かった。乗っているのは、外国人労働者ばかりで、国籍を持った人はいないらしい。電車内には立っている人もいて、それなりに混んでいた。

 電車を降りて、車で空港に向かい、そのまま夕方の出発を待って、香港経由で、3月4日午後に帰国。

 成田空港から空港バスで自宅に向かい、高速道路を通り、マンションやお店を見た。いつもは日本に戻って、「訪れた国と違って、日本はなんて快適できれいな先進国だろう」と思うのだが、今回ばかりは、「ドバイやアブダビと違って、日本はなんて汚いところが多くて整備されていない途上国なんだろう」とひょいと思ったのだった。

 これまで訪れた多くの国とあまりに違っていた。そこに暮らす人々の生のありようを間近に見ることもできず、その土地の芸術や文化を味わうこともできなかった。おいしい料理にもであわなかった。ただただ様々なことに疑問を抱いた。まさにワンダーランド。それだけに、あまりに俗っぽく、あまりに無機質ながら、私は今回の旅行をとても楽しく思った。このような都市が世界に存在することを知ってとても有意義だった。この後、この国がどうなるのかとても気になる。

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26年ぶりのカンボジア旅行

2018128日から13日までカンボジア旅行をした。さすがにカンボジアに個人旅行するのは大変なので、クラブツーリズムのツアーに参加した。

1992年に一度カンボジアを訪れたことがある。今回は26年ぶり二度目のカンボジアということになる。

最初のカンボジア旅行については拙著「旅のハプニングから思考力をつける」(角川oneテーマ21)に少し書いた(なお、その少し前に出した拙著「頭がいい人、悪い人の話し方」が250万部のベストセラーになったため、それにあやかって編集部が「思考力をつける」というタイトルをつけたが、私としては旅行記のつもりで書いている)。その時には、内戦が終了してアンコール・ワット旅行が再開されたと聞いてすぐに申し込んだのだったが、プノンペンも目を見張る貧しさであちこちが混乱しており、シェムリアップでは銃声が聞こえ、血だらけの兵士が何人もトラックで運ばれるのをみた。プノンペンにも車はほとんどなく、バイクや自転車がけたたましい警笛やエンジン音をたてながら走っていた。その横をぼろ布を着た男女、素っ裸の子供たちが歩いていた。まさしく昭和20年代初めの日本の状況の南方版だった。

そして、今回の2度目のカンボジア旅行。12月8日午後、プノンペン到着。ガイドさんと空港で合流してバスでホテルに向かった。ツアーメンバーは15名。ほとんどが高齢(ツアーグループ内での交流もあったが、個人情報をさらしたくないので、メンバーについてはここでは触れない)。

空港からバスでホテルに行く間に、窓の外を見て驚いた。話には聞いていたが、想像以上の発展ぶり!一度破壊されて人工的に作られたせいだろう、むしろカトマンズやラホールやジャグ・ジャカルタなどよりずっと近代的で西洋的だ。高層建築もたくさん見える。街を歩いている人たちも、他のアジア諸国よりもむしろきちんとした服装しているように見える。交通標識も整備されているし、道も広い。遊歩道もあり、公園もあちこちにある。フランス風の建物も見える。

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 車の運転も他のいくつもの都市よりも穏やか。もちろん、南の国の例にもれず、大量のバイクが道を走っており、無理な割込みも多く、三人乗りのバイクもしばしば見かける。野良犬なのか放し飼いの犬なのか、街の中に犬の姿も多く見かける。初めて東南アジアを訪れたツアーのメンバーはバイクの数や乱暴な運転や町中の犬に驚いたようだが、このところ東南アジアにしばしば旅している私からすると、運転も穏やか、野良犬の数もそれほどでない。四人乗り、五人乗りのバイクをほとんど見かけない。

もっと驚いたのは中国の影だ。中華料理の店、中国語の看板のホテルや店が並んでいる。町のいたるところに中国語が氾濫している。ホテルに入って気づいたことだが。観光客も圧倒的に中国人が多い。ホテル内も中国人が圧倒的な大多数を占める。ホテル内で大声で響き渡るのはほとんどが中国語。もちろん、日本国内でも東南アジアの各国でも中国人観光客が多いが、カンボジアはその比ではないように思える。

129日はホテル(グリーンパレスホテル)に到着しただけでその後の予定はない。ホテル近くには屋台があり、レストランがあった。中華の店もいくつもある。だが、入る勇気が出なかったので、近くのコンビニ(KIWIというチェーン店)でカップラーメンとお菓子類を買って食べた。値段は決して安くなかった。輸入品が多いせいか。日本の三分の二くらいの値段だと思った。

この国では米ドルがふつうに通用する。ドル表示とリエル表示があるが、カンボジア人を含めて全員が基本的にドルを使っている。1ドルが4000リエルにあたる。リエル紙幣はコイン代わりの端数として使われている。2ドル50セントのものを買って5ドル紙幣を出すと、2ドル札と2000リエルがお釣りに返ってくる。それがふつうに定着している。

 

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 まだカンボジアの時間に慣れていないので、朝早く目が覚めた。近くを散歩した。

 掃除夫が出て道路を清掃していた。ミャンマーなどと違って、確かに道路が汚れていない。屋台など、前日の夜には屋台が並んでいたところもきれいにされている。あとでガイドさんに、最近になって清掃に力を入れていると聞いた。

グリーンパレスホテルはあまりよいホテルでなかった。お湯が突然冷たくなったし、エレベータも老朽化していた。散歩からの帰り、エレベータに乗って14階の私の部屋に戻ろうとしたら、3階で停まってしまって、動かなくなった。ドアも開かない。客は私だけ。焦った! 緊急ボタンを慌てて押し続けたら、やっと係員がドアをこじ開けてくれた。閉じ込められていたのはほんの5分間くらいだったと思うが、長く感じられた。朝食レストランのある3階で停まったのでよかった。別の階だったらもっと長時間、閉じ込められていただろう。

この日、王宮(1866年、プノンペンに遷都された際に建てられた)とその横にあるシルバー・パゴダ(仏教儀式の行われる寺院で、銀のタイルが敷き詰められている)をみた。タイの寺院ほど屋根の曲線が反り返っていない。南の陣に特有の建築だと思うが、素人の私には区別がつかない。ただ、あまり古いものではないので、個人的にはそれほど魅力を感じなかった。その後、国立博物館を見た。ヒンドゥ教と仏教の歴史的な推移というより、その混交でカンボジアの文化が成り立っているといえそうだ。

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温は30度を少し超すくらい。日本の夏と同じ感じ。青空で気持ちがいい。その後、セントラルマーケット(巨大な平屋のデパートのような建物)を見物。装飾品の店が中央に光鮮やかに並んでおり、その周囲に衣料品、電化製品、カバン、靴などの店が並んでいる。そのほうに肉や魚や野菜、果物などの生鮮食料品もある。ほかのツアー客の中には買い物を楽しまれた人もいたようだが、もちろん私は何も買わない。

昼と夜、ツアーグループで食事をとった。全体的にインパクトのない味。タイ料理からインパクトを除いたような味。しかも、すべて妙に甘い。スープも甘いし、春巻きにたれも甘い。デザートのほうはむしろ甘みが少ない。

夕方、国内線でアンコール遺跡群から近いカンボジア第二の都市シェムリアップへ。空港でシェムリアップのガイドさん(若めの女性)と合流してバスでホテルへ。

まず、空港でびっくり。

26年前のシェルリアップ空港は、確か滑走路は整備されていたが、小さな建物があっただけのように思う。待機している飛行機なども見えなかった。ところが、羽田空港とは言わないまでも、日本の大都市の空港とさほど変わらない光景だった。大きな建物があり、搭乗口もいくつもある。飛行機も少なくとも10機くらいは見える。

そして、ホテルまでの道路の周辺にびっくり。26年前のシェムリアップの夜は真っ暗だった! そもそも夜の10時に町全体の電気が止まっていた。いや、電気が通っているときも、あかりはほとんどなかった。高い建物はせいぜい4階建て。あちこちに砲弾の跡があり、田舎風の汚い家があり、その前をプノンペン以上に貧しい人々が歩いていたのだった。

ところが、空港から出てすぐから明かりがあふれている。市内に近づくにつれ、ますます明るくなる。たくさんのホテルやレストランがイリュミネーションで飾られている。クリスマスが近づいているせいもあるのだろう。MERRY CHRISTMASやサンタクロースをかたどったものも多い。日本と同じように、いやそれ以上にきれいにセンスよく飾られている。いかにも中国風の派手な看板ももちろんたくさんある。ここにも漢字がたくさん見られる。真っ暗だった1992年となんという違い! 

とてもセンスのよいタラ・ホテルに到着。ただ、翌日に備えて、近くにコンビニ(ミニマート)でアルコールを買っただけですぐに寝た。

 

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 いよいよシェムリアップ付近での世界遺産の観光が始まる。

アンコール王朝(9世紀から15世紀までカンボジア全土だけでなく、現在のベトナム、ラオスなどの地域を支配していた強大な王国)の時代に作られた遺跡群だ。シェムリアップ付近に数百と残っている。その代表的なものが12世紀に作られた王の寺院であるアンコール・ワット、その半世紀後に建造された巨大な王都アンコール・トムだ。

晴天で、朝から暑い。ホテルを出発して、まずバスで観光オフィスに行って写真を撮ってもらい、その場で写真入りの「アンコール・パス」を作った。私たちが取得したのは3日間有効のパスで、バスの中や遺跡の前などで提示を求められる。すでに旅行代金に含まれているが、60ドルとのこと。26年前には遺跡は自由に見られたが、今ではこのようなパスが必要になっている。タイ人の僧侶や中国人が列を作っていた。このお金がカンボジアの国家によって使われ、遺跡の保護などにも使われればとても良いことだ。

ただし、最初に訪れるのは、いわゆるアンコール遺跡群ではなく、その前の時代に王都が置かれていたロリュオスの遺跡群だった。これも世界遺産に登録されている。初めに、ロレイ遺跡。8世紀以降に作られたとのこと。古いレンガで形作られ、風化されているがヒンドゥ教の彫刻があちこちに見える。雨ごいに使われたというリンガ(つまりは男根像!)も見られた。

 その後、再び10分ほどバスに乗ってプリアコー遺跡に行った。プリアコーとは「聖なる牛」という意味で寺院の前に牛の像がある。ロレイ遺跡とよく似た(つまり、素人にはあまり区別のつかない)レンガ造りの建物がある。次に最も規模の大きいバコン遺跡に行った。アンコール・ワットと同じように松かさのような塔のあるヒンドゥ寺院で石によって三層に作られている。

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 よく覚えていないが、26年前にも訪れた記憶がある。その時も、アンコール遺跡を見る前に周辺の遺跡を見て、「早くアンコール・ワットを見たい!」と焦れたのを覚えている。

食事をしてホテルでいったん休憩して、次にバンテアイ・スレイ遺跡を訪れた。

26年前には訪れた覚えがない。そこに向かう途中、バスの中で「地球の歩き方」を読んで、ハッと思いあたった。30年以上前、フランス文学を学んでいたころ、アンドレ・マルローが東南アジアの彫刻の盗掘がらみで大問題になったことは知っていた(ただ、「西欧の誘惑」や「征服者」は読んだが、「王道」は読んだことはなかった!)。バンテアイ・スレイにある「東洋のモナ・リザ」と呼ばれる彫像がまさにマルローが盗もうとし、「王道」にことの成り行きを記したものだという!

バンテアイ・スレイはとても魅力的な寺院だった。東門から入ると、両側にリンガと思われる石柱が並び、土も石も染められたかのように赤みを帯びている。緑の森に囲まれた境内があり、いくつも並んだ堂のあちこちにヒンドゥ教の神々の彫像があり、壁面にはレリーフが施されている。

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東側から入ると、裏側にあたる小さな堂の壁面に「東洋のモナ・リザ」がった。これは本当に美しい。腰を少しひねった形の優美な女性像だ。マルローが盗みたくなる気持ちはよくわかる。宗主国の人間が植民地のこのような素晴らしい彫像を見たら、自分のものにしたくなるだろう。もちろんとんでもない横暴であり、あまりに傲慢であるが。ともあれ、この事件の顛末をマルロー自身が描いた「王道」を読んでみることにする。

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その後、夕陽を見るために、プレループ遺跡に出向いて、日没を待った。上部からの眺めがよいために夕日鑑賞の名所になっているらしい。が、残念ながら、午後には雲が広がって夕日を鑑賞できる状態ではなくなった。日没を待たずにバスに戻った。

その日は、市内のレストランで民族ダンス付きの食事をとった。トタンのような屋根をつけただけの吹きさらしの巨大な会場だった。アジア料理がバイキング形式で並び、数百人の客席が備え付けられ、大量のアジア料理が並べられ、各国の観光客が命名それらを選んで食事をとっている。その前方に舞台があって、そこで民族舞踊が披露される。

ところが、舞踊が始まる前に大雨が降り出した。30分くらいだったと思うが、たぶん雨量50ミリにもなろうという大雨だった。轟音が響いた。舞踏が始まってからもしばらく雨が続いて、音楽が聞こえなくなった。

それにしても学芸会的な素人の踊りだった。観光地での民族ダンスにはがっかりすることが多いが、その最たるものだった。アプサラダンスと呼ばれる伝統舞踊のはずだが、動きが様になっていない。これでは観光客を侮辱したことになると思った。それどころか、伝統文化に対する冒涜でもあると思った。

食事を済ませて、雨上がりの中をバスでホテルに帰った。

 

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 朝5時にホテル集合。バスでホテルを出て、駐車場から暗い中を歩いてアンコール・ワットに向かった。アンコール・ワットの建物に昇る日の出見物が目的だ。暗い中を大勢の観光客が歩く。まるで初詣に向かう大晦日の客の雰囲気。中国人が最も多そうだが、英語、フランス語などの西洋語やアジアの言葉もあちこちから聞こえる。私たちはクラブツーリズムの旗を先頭に一列になって、迷子にならないように必死に歩いた。

本来の橋は補修中なので、水に浮かぶブイのようなものをぎっしりと敷き詰めて作った仮の橋を渡ってアンコール・ワットに入った。参道や池の前で立ち止まり、見物する場所を探して、だんだんと白んでくる中で日の出を待った。徐々にアンコール・ワットの姿が暗がりの中から浮き立つようになり、太陽の下に照らされていく様はまさに壮観。私は水面に逆アンコール・ワットが映りだされるという池の近くの石に座ってその様子をみた。明るくなってしばらくして、近くを歩いた。

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 26年ぶりのアンコール・ワット。残念ながら私は建築にあまり興味を持てない。が、アンコール・ワットの厳粛さに圧倒される。黒く不気味で厳粛。アンコール・ワットは西向きに作られた死の壮麗な大寺院だと聞いたことがある。まさにそうだと思う。人間の死、魂の行く先である天界を表現する一つの宇宙が建築に反映されている。ヒンドゥ寺院として建てられ、仏教寺院として用いられたというが、まさに宗教を越えた存在に感じる。日本の鎌倉時代の遺跡だが、松かさのような形の塔はまさしく歴史を越えようとする間の魂の結晶のように思える。

池のほとりでしばらくアンコール・ワットを見て、参道に移動。そこで朝日を浴びる姿をみた。

いったんホテルに戻って朝食を取り、その後、その日の午前に予定されているのはアンコール・ワットの近くにあるアンコール時代の大城塞都市アンコール・トム観光。ますます暑くなる中、アンコール・ワットと同じような石造りの巨大な建築物を見て歩いた。

石が見事にかみ合わさった南大門、壮大なレリーフが施された回廊や石に掘られた微笑みの菩薩像のあるバイヨン寺院、象の彫刻が施されたテラス、三島由紀夫の戯曲の舞台になったらライ王のテラスなどをみた。



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グループの方たちが話していたが、まさに石を組み上げてそれを一つの建築物として、そして一つの都市として構築した時代の技術力と人間の知恵を感じざるを得ない。これは権力の象徴であり、栄華の確認であり、民族の誇りだったのだろう。そして、そこには、おそらく奴隷として重労働を強いられた人間たちもいたのだろう。

 バスでタ・プロム寺院へ。あえて修復されていない遺跡だ。巨大な木々が石の建造物に絡みつき、建造物を破壊している。タコやイカや妖怪の手足のように見える木の根が石と石の間に入り込み、時に不思議な形で均衡を保っている。巨大な石が地震の後のように散乱しているが、カンボジアでは過去数千年、地震は起こっておらず、これはすべて植物の仕業だという。こうしてみると、ここに巨大な意識を運んだ人間の力と、それを破壊する植物の力を思い知る。

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 昼食をとって、ホテルで小休憩。

午後はふたたびアンコール・ワット見物。朝は中には入らずに外観を見ただけだったが、午後はガイドさんの説明を聞きながら回廊のレリーフを見て回った。プリミティブな表現だが手が込んでいてとても魅力的。回廊によって描かれている内容は異なるらしいが、ざっと見てもどのような内容が描かれているのかよくわからない。ただ、私は壁面いっぱいに神々や人や猿や馬や牛などの動物、そして空想の動物たちを細かく明確な形で描き尽くしたこと自体に感動する。

 アンコール・ワットに沈む夕日を見て、バスで移動してカンボジアの鍋料理を食べた。

 朝から暑い中を歩き続けている。疲労困憊。ふだんの運動不足がたたって、足が重い。

ガイドさんに勧められたマッサージ店でマッサージを受けた。10人ほどの女性(若い人もいるが、だいたい40歳代が中心だろう)が制服を着て入り口近くで待機していた。代金(90分で22ドル。チップなどを含めて合計25ドルだった)を支払い、2階の個室に通されて施療を受けた。薄暗い中でのマッサージだったので少し警戒したが、怪しいことは起こらず、とても快適なマッサージだった。

 

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 往路はプノンペンからシェムリアップまで飛行機で移動したが、帰りは途中、遺跡を巡りながらバスでプノンペンまで移動。まず、11世紀末から12世紀初めに作られたベンメリア寺院。ナーガ(ヒンドゥ教のヘビの形をした神)の像がきれいに残った密林の中の寺院だ。石切り場が残されており、苔むした彫刻が見られる。とても雰囲気がいい。が、けたたましい声で騒ぐ中国人グループがいくつもあり、しかも狭い通路を多くの観光客が通っているのに、何人もの中国人が観光客を通せんぼする形で写真撮影をする。自分が被写体になり、女優さんのようにポーズをとって一人が何枚も撮影する。それを何人かが行う。

 またバスに乗ってアンコール時代の古代橋に寄り、コンポントム(ベトナム戦争時代だったか、ポルポト派の残虐が知られるようになった後だったか、この名前を盛んに耳にしたような気がする)の感じのいい、植民地風のホテル(新しいきれいな建物でプール付き)で昼食を取り、またバスで移動。夕方、プノンペン到着。速めの夕食を取って空港へ。

 そして、2250分出発の便で成田へ。そして、早朝630分ころ無事到着。

 

 今回はツアーに参加し、単独行動はほとんどしていない。朝から夜まで遺跡などを歩くハードなツアーだったので、一人で散歩に行く体力的余裕もなかった。だから、ガイドさんに連れられて歩いただけ。特に都市について気付いたことはないが、気になったことをいくつか列挙する。

・ともあれ、26年前とは別の世界だった。驚くべき繁栄。もちろん、舗装が十分でなかったり、メンテナンスがよくなかったりといった面はあちこちにある。だが、たった26年でここまで成長したことを驚異に思った。

・中国の影をあらゆる面で感じた。日本は戦後25年で対米従属することによって世界を代表する先進国になった。カンボジアは中国に従属することで現在の繁栄を築いている。そう言ってよいのではないか。現在、カンボジアは親中国路線をとるフンセン首相の独裁に近い形にあって、国内の中国資本を積極的に入れている。仕事でも観光でも中国人が我が物顔でカンボジアで活動している。それを苦々しく思うカンボジア人も多いようだ。現在も繁栄も必ずしもめでたいことではないのかもしれない。

・逆に日本の影の薄さを感じた。車はトヨタなどの日本車が多い。スズキのバイクもよく見かける。が、日本企業の看板や広告、建物はほとんど見ない。観光地での日本語表示も少ない。日本人観光客も以前に比べるとずいぶん少ない。

26年前にも感じたことだが、カンボジア人はゆったりのんびりしている! 東南アジアのどの国でもガサガサした面を感じるが、カンボジアではそのようなことはない。おっとりしている。歩くのも、話をするのもゆっくり。まじめでおとなしく、ものしずかにしている。そんなんじゃ中国人にいいようにこき使われちゃうぞ!と声をかけたくなる。このような人の中からなぜポルポトのような人が出てきたのか、なぜクメール・ルージュは残虐なことを繰り返したのか理解に苦しむ。

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ネパールについて気付いたこと

 ネパール旅行といっても、たかだか45日なので、深く知ることはできなかった。表面を見ただけだが、旅の途中で気づいたことを挙げてみる。

・インフラが整備されていないことが何よりも目についた。これまで私が訪れたことのある国の中で最も整備の遅れた国といえそうだ。大都市であるカトマンズ(正確には、カトマンドゥと発音するべきだろう)でもこの状態なのだから、ほかの地域はもっとひどいのだと思う。

・昨日も書いたが、何よりも道路の慢性的な渋滞に驚いた。途上国の多くで渋滞は見られるが、カトマンズは別格。時速20キロ以上のスピードを出せるのはほんの一部の道ではないか。カトマンズ市内では平均時速5キロ前後で車は走っているだろう。

・狭い盆地に多くの人々が押しかけ、急速に人口が増えたためにインフラが追い付かないのだろう。カトマンズ市の人口は140万人程度、周辺地域を加えて200万人程度だという。人の多さの印象からは1000万人都市の雰囲気がある。あちこちに見られる電線の束もインフラが追い付いていない証拠だろう。

・路地が迷路のようにつながっているのがカトマンズだ。そこにバイクや車が入り込んで、警笛を鳴らして、その横を人が歩いている。人々が狭い土地に入り込んで、次々と家を建てていった結果、こうなったのだろう。

・このように書くと、まるで殺気立った街のように思えるだろうが、そうでないのもまたカトマンズの特徴ともいえるだろう。これほどの渋滞なのに、人々は辛抱強く待っている。警笛を鳴らすが、それは「どけどけ!」という警笛というよりも「危ないよ」という警笛のようだ。狭い路地の交差点で車と車がすれ違えなくために何台もの行列ができていても、多くの運転手がおとなしく待っている。

・いろいろな人種を見る。ネパール人といっても様々な顔がある。色の黒さもまちまち、西洋的だったり東洋的だったり。ときに日本人と同じような顔の人もいる。ネパールには100を超す民族・言語があるという。まさに多民族国家。しかも、宗教もヒンドゥー教と仏教、イスラム教などがある。ヒンドゥー教はカーストがあるために、一体感をもちづらい。これでは国家の連帯意識が生まれないのも無理がないと思う。

・ネパール人はおっとりしている。歩くのも遅い。せかせか歩いているのは観光客。

・掃き掃除をしているネパール人をやたら見かける。店の前を小さな箒で履いている。あつらでもこちらでも。だから、ミャンマーやパキスタンのようにあちこちにごみがたまっているといったことがないのだろう。

・物価は安くない。平均月収は2万円程度だというが、日本で1000円程度で食べられそうな食事が600円くらいした。ネパール人の知人と一緒に食事した(昨日、このブログで写真を示した)時に1人分の料金が1500円程度だった。300ミリリットルの現地産のウィスキーが800円なのには驚いた(かなりまずかった!)。大まかに言って日本の三分の二くらいの値段だと思った。観光客相手の地域だということもあるのかもしれないが、それにしても高い。現地の人はどうやって生活しているのだろう!

・女子高校生が男子と同じ制服を着ていた。すなわちシャツにネクタイを締めてズボンをはいている。男装の麗人かと思ったら、そうではなかった。多くの高校がこのような制服らしい。スカートをはく女性はゼロに等しい。3日目に少し意識してスカートを探してみたが、二人を見かけただけだった。その二人はおそらく外国人観光客だと思う。スカート風の民族衣装はまれに見かけるが、いわゆるスカート姿はほぼみない。

・唾を吐く人が多い。女性であっても大きな音を立てて唾を吐く。埃と煤煙の道路を歩いていると、確かに唾を吐きたくなる。

・空港の搭乗手続きの始まりを待って窓口近くの椅子に座っていたら、隣の椅子に掃除係の若い空港職員が座ってスマホでゲームをし始めた。もう一人はその隣に座って電話で話をしていた。搭乗手続きが始まって窓口に行ったら、係員の1人はガムを噛みながら対応していた。まったく悪気がなく、しかもやる気がないわけではないのだと思うが、ふつうにこのような態度をとる。

・男としてはとても残念なことだが、あまり美人を見かけなかったような気がする。インドに行ったときには、美人があまりに多いのにワクワクしたが、ここではあまりそのような思いがしなかった。

・ヒンドゥーの寺院と仏教寺院が並列的に存在する。そもそも、私のような門外漢にはその違いすらよくわからない。仏教寺院にはチベット仏教に特徴的なマニ車があるので、それとわかるが、それを除けば私にはヒンドゥー寺院との区別がつかない。仏教徒ヒンドゥー教が互いに排斥し合っている様子はない。反目や衝突もそれほどないという。現地の人も、日本における神社とお寺くらいの区別しかしていないのではないかという気がする。

・世界遺産はとても美しかった。ただ、私が感じたのは建築物としての美しさだった。レンガ造りの装飾などがとても美しい。ただ、そこにあまり宗教的な厳かさやありがたみはあまり感じなかった。

・またネパールを訪れたい。おそらくカトマンズだけがネパールの中で特殊なのだろう。次回はもっと田舎の静かなところを訪れたい。

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ネパール旅行

 ネパール5日間の旅行に出かけていた。2018910日の午前中、ソウル経由でカトマンズに到着、今日(15日)、帰ってきた。エクスペディアを使って飛行機とホテルを予約し、ネパール人の知人を頼って観光をする予定だったが、知人の事情でそれが不可能になり、現地の旅行会社に空港への送迎と初日の夕食の案内、そして日本語ガイド付きの2日目の市内観光と4日目の郊外観光を依頼した。

 一言で言えば、思った以上に貧しくてインフラの整備されていない都市だった。ともあれ、 日を追って出来事を書く。

 

2018年9月10日カトマンズ

 世界一危険な空港というような話を聞いていたが、それを少しも実感せずにカトマンズのトリブバン国際空港に着陸。危険な空港とは別だったのだろう。

 空港はこじんまりとした少々古めかしい建物。すでにヴィザは取っておいたのですぐに外に出た。紙に名前を書いた出迎え者が並んでいる。途上国の例にもれず、怪しげなタクシー勧誘者もいる。しばらく待たなければならなかったが、ともあれ出迎えの人(日本語は解さない。英語を少々)が現れて、タメル地区にあるホテルまで車で連れて行ってもらった。夕方になっていた。外は雨模様だった。

 そこでまずカトマンズの洗礼を受けた。ものすごい渋滞! 地図を見たらホテルまで4キロ弱。ところが50分かかった! 歩くより遅い! 空港からしばらく片側一車線程度の狭い道を通った。両側に5メートル程度の間口に商品を並べた様々なお店が並んでいる。そこに買い物客でごった返し、その前の道路にぎっしり車が歩く程度の速さで動いている。そこにわき道から車が割込み、バイクが割り込む。信号はほとんどない。交差点では警官が交通整理をしているが。大混乱。雨が降っているので、合羽を着てバイクを運転している人が多い。暗くなったところを次々とバイクが車を追い抜いていく。警笛音があちこちでなっている。

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まだ雨季のようで地面は泥だらけになっている。一応は舗装されているようだが、その上に泥がいっぱいにたまっている。煤煙がひどくて、黒いマスクをしている歩行者も多い。白いマスクだとすぐに汚れてしまいそう。バスも通っているが、信じられないようなおんぼろバス。若い男がバスから体を乗り出して何やら叫んでいる。変な奴がいるものだと思っていたら、ほかのバスでも同じようなことが起こっている。どうやら男は車掌のようで、バスの運行を邪魔するドライバーや歩行者の注意を呼び掛けているようだ。制服を着ているわけではないので、すぐにはわからなかった。

しばらくしてやっと渋滞を抜けたと思ったら、また渋滞。片側二車線の道路や一方通行の道も通ったが、いずれも大混乱。あちこちから割込みがあって収拾がつかない。途上国のどこでも渋滞が発生しているが、このようなまったく秩序のない混乱は初めて。かつてマニラから空港に向かう途中、数キロの区間でこのようなところがあったが、こちらは町を通る間中ずっとこのような調子のようだ。

やっと渋滞を抜け、車が一台が何とか通れるような狭い路地を何度もくねくね曲がってやっとホテルに到着。周囲にはたくさんの小さなホテルがある。外国人向けのレストランも多い。ホテル・マルベリーというのが私が予約しておいたホテルだ。かなり新しいなかなかいいホテル。部屋の設備もいい。それが救いだ。

ロビーでガイドさんが待ってくれていた。ホテル近くのお店で夕食。ただ、私は機内食を次々出されて満腹状態。ほとんど食べられなかった。民族楽器に合わせての踊りが披露されて、大勢の観光客が食事をしていた。西洋人のグループ(英語をしゃべっていた)と中国人のグループがいた。出し物はもちろんかなり素人っぽい踊りと音楽。レストランでの音楽としてはもちろんこれでとても楽しい。食事は悪くなかった。インド料理からインパクトをなくしたような味。

その後、ウィスキーと水をホテル近くで買った。が、なんという迷路! 狭い道が入り組んでおり、しかも地面はあちこちでぬかるみになっている。

今の時期には雨期が終わると聞いていたのだが、まだ雨が続いているようだ。10月になったら心地よくなるというが、私の都合と合わないので、この時期にしたが、ちょっと早まったか!

ともあれ、そのまま寝た。日本との時差は3時間45分とのこと。計算しづらい!

 

・9月11日

 朝の4時半頃だった。突然、ドカンという大きな音がしたので目を覚ました。爆発音だろうか。一度や二度ではない。何度も大きな音がする。もしかすると砲弾の音? テロでも起こったか? 気になって、ホテルの外を見てみたら、500メートルくらい先で黒煙が上がっていた。とりあえず、近くまで見に行ってみようかと思ったが、カトマンズに着いたばかりでまったく勝手がわからず、ほんの少しの距離でも迷子になってしまう恐れがある。それに何やら危険なものが爆発しなかったとも限らない。その一件で眠れなくなった(後でガイドさんに聞いてもらったら、近くの工場で火事があり、ガスが爆発したとのことだった。6名が死亡したとのこと。亡くなった人には申し訳ないが、私としてはテロでなくてほっとした!)。

 9時にガイドさん(おそらく30代の女性。仏教徒だとのこと。日本語はあまりじょうずではない)に来てもらってカトマンズ付近の世界遺産巡り。運転手さんが別にいて、移動は乗用車。ルノー。

 狭い道をくねくね曲がって車が走る。とりわけ、ホテルのあるタメル地区はまさしく迷路。二台の車がやっとすれ違えるような狭い道が縦横に巡らされており、しかも、ときどき行きどまりにぶつかる。よくぞこんなところを車で入れるもんだというような道が多い。しかも、盆地のせいだと思うが、雨が降ると下は泥だらけになり、晴れると埃になる。土埃で大気がどんよりしている。バイクが多くて煤煙もひどい。どこも渋滞している。道に穴が多く、しかも曲がりくねるため、後ろの座席に乗る私は少々乗り物酔い気味になった。

 雨が降ったりやんだり。温度は25度前後だろう。晴れてくると暑くなる。

  道を歩いている時に感じる衝撃の一つはカトマンズの電線だった。まるでもつれた髪のように電線が数十本と束ねられて電柱から垂れ下がっている。不法なのか合法なのか知らないが、次から次へと新たに電線をひいてこのようになっているのだろう。電線ひとつ見ても、いかにインフラが整っていないかがわかろうというものだ。ときどき、中の金属がはみ出しているものもある。道路のぬかるみに電線が浸かっているところもある。危険この上ないと思うのだが、こんな場所がカトマンズじゅうにいくらでもある。それどころか、カトマンズではあたりまえの光景だ。私が電線に驚いているのを見て、ガイドさんは不思議に思っている様子だった。

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 最初にボダナートを訪れた。ネパール最大のストゥーパで知られる仏教の聖地だ。昔からこの地に寺院があったというが、現在の建物は15世紀のものらしい。ネパール人の25パーセントほどが仏教徒だという。白い巨大なストゥーパで、そこには黄色い模様が描かれている。そのストゥーパを中心に門前町のようなものを形成し、周囲にたくさんの祠があり、それをホテルやレストランや土産物屋が囲んでいる。チベット仏教の聖地で、チベット系の顔をした人たちが巡礼に訪れていた。そのほか中国人、ヨーロッパ人の観光客も大勢いる。

 これまでタイやスリランカやミャンマーでストゥーパはたくさん見てきたが、ここのストゥーパが特徴的なのは、ドームの上の尖塔を支える部分にまるで世界を見回すような大きく目が四方の壁のそれぞれに描かれていることだ。目の下の鼻に当たる部分には「?」を思わせるような形が描かれている。日本人には漫画のように見えるが、これが慈悲などを示すありがたいもののようだ。

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 ただ、実はあちこちに現世利益的なものを感じる。なんだか、あまりありがたみを感じない。スリランカのほうがずっと日本人には荘厳な感じがした。

 次にネパール最大のヒンドゥー教の寺院パシュパティナートに行った。ここも世界遺産。ただし、ヒンドゥー教徒以外は寺院に入れないということで周囲を散策。対岸の裏山から寺院とその前にある川を眺めた。あちこちに野生のサルがいる。目にしただけで数十匹がいる。日本のサルよりは小さいようだ。悪さをしているのは見かけなかったが、もちろん、そんなことがあるらしい。

ガンジス川の支流ということで聖なる川とされ、その岸辺には火葬場がある。実際に葬儀が執り行われ、遺体が川に向かって張り出した石の上に置かれた棺で焼かれている。炎が見え煙が立っている。それを親族や友人らしい人が背後で見守っている。それどころか、川の反対側では、散策に来た人たちが、野生の猿に周囲をウロウロされながら、タバコを吸ったり、おしゃべりしたりしてベンチに座って見物している。不思議な光景だ。

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次にパタンに行った。パタンはマッラ王朝の王宮のあった場所で、その中心にあるダルバール広場は王宮と寺院が実に美しい。ただ、2015年の大地震でかなり壊れたとのことで、現在あちこちで修復中。

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たくさんの彫刻があり、建物にも装飾が施され、文化的な高さを感じる。博物館を見学。仏像などを見る。

しかし、妙になまめかしい釈迦像や仏教にそんな神が伝えられていたっけ?と思われるような女神像、そして、女性と交接する仏像もあった! 見れば見るほどヒンドゥー教徒仏教の境がわからなくなる。ユダヤ教とキリスト教のように連続しているのだろう。チベット仏教では、この種の教えがあり、仏像もあるというが、いずれにせよ、もう少し仏教を勉強してみなければ!

そのあと、カトマンズの街を見下ろす丘の上にあるスワナンブナートを訪れた。かつてカトマンズ盆地は巨大な湖だったという。そのころからこの寺院はあったとされる。ただし、建物はそれほど古くはない。ボダナートに似た感じのストゥーパ(ここにも目が四方に描かれている)があり、その周囲にいくつものお堂がある。たくさんの人が詣でており、お祭りが近づいているらしくて行列を作ってお囃子の練習をしている。日本の祭りとよく似た笛と太鼓とシンバルによるメロディ。そのほかトランペットとクラリネットを中心にした行列にも出会った。

ただ、ここもあまりに現世利益。金色の仏像がいくつもあるが、そのいくつかは手に紙幣を握らされている。一つの仏像は丸めた紙幣をつなぎ合わせたネックレスを垂らしていた!

最後の観光は、カトマンズ市街地のダルバール広場。パタンにもダルバール広場があったが、要するに「ダルバール」というのは王宮ということらしい。12世紀ころの建築から17世紀の建築までいくつもの寺院がある。だが、地震で多くが崩壊し、現在、あちこちで修復が行われている。日本のジャイカもかかわっているようだが、中国の存在感が大きい。中国人観光客も多いが、ダルバール広場のあちこちに「中国 援助CHINA AID」の文字が見られる。多くの観光客、現地の人に交じって見物した。クマリの館ではクマリ(生き神様)が顔を出すのを見た。クマリというのは女神クワリの化身として選ばれた少女であり、ある特定の日に生まれた少女のうち最も美しい子どもが選ばれ、初潮を迎えるまで生き神として人々の信仰の対象になるという。生理が始まると普通の人間に戻るというが、その子の人生を考えると難儀なことだと思う。

そのままホテルに戻った。昼にサンドイッチを食べたが、食欲がない。パンを少し食べただけで早く寝た。

 

912

 この日は、一日中ガイドさんには来てもらわずに一人で自由に歩き回った。この頃、初めての、しかも勝手のわからない都市を訪れる時にはこのようなスタイルの旅をすることにしている。つまり、初日にはガイドさんに来てもらって大まかな名所を巡り、その後、自分で自由に歩く。時間があって言語がもっと達者ならずっと自由な旅をしたいが、残念ながらそうはいかない。

 9時過ぎにホテルを出て、近くにある「夢の庭園」を目指した。路地を曲がりくねって車でにぎわう道に出た。道端に座り込んでビニールシートを敷いて、エプロンにのるくらいのほんの少しの雑貨や果物、お菓子類を売っている人がいる。その横を歩き、車の隙間を割って入って道路を渡る。もちろん横断歩道はない。信号もないので、道路に車が途切れることもあまりない。ただ、幸い、道はいつも渋滞気味なので、車にスピードが出ていないため、人が道を渡ろうとすると、車のほうでよけてくれる。

「夢の庭園」の入場料は200ルピー(200円程度)。結構高い。静かな庭園だと聞いていたが、残念ながらまったく静かではなかった。確かに壁に囲まれ多庭園の中は芝生や石畳があり、あずまやがあり、ベンチが据えられていて落ち着いた雰囲気なのだが、車やバイクの騒音は響いている。ベンチに座って少しだけくつろいだが、30分もしないうちにダルバール広場まで歩くことにした。広い道を歩くと、ずっと煤煙と土埃にまみれることになる。歩行者にはなかなか過酷だ。

 信号はほとんどない。大きな交差点では警官が交通整理をしている。信号はあっても電気が通っていないようで、そこでも警官が手信号を行っている。警官の技術がよくないのか、それとも道路に比べて車が多すぎるのか、そんなところも大混乱している。

 途中、砂埃と煤煙と騒音に耐えられなくなって、またラトナ公園で一休み。池があり、きれいな橋があり、緑豊かな場所だ。こちらは入場料500ルピー取られたのでびっくり。外国人料金なのだろう。

 ここでも30分くらいゆっくりしたが、ここも静かなわけではない。車の音が鳴り響いている。気を取り直してまた歩いた。昼前にダルバール広場に到着。今日は「ティージ」と呼ばれるヒンドゥー教の女性の祭りだという。奥まった広場には着飾った女性が大勢集まっていた。ほとんどの女性が朱色のサリーを着ている。老いも若きも、女性たちが集い、スピーカーから大音量の歌が流され、それに合わせて踊ったり、買い物をしたり、長い行列を作って神聖な場でお祈りをしたり。お腹を出している女性も多いが、そのほとんどが中年以上の女性。若い女性の腹を見たいというわけではないが、なぜ中年の女性ばかりがお腹を出しているのか、実に不思議。

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 しばらく見物していたが、そこからまたホテルまで歩くことにした。どうもホテルの自分の部屋以外には、この都市には静かな場所がなさそう。静かなところで一休みしたくなった。

 いったんホテルで休憩。しばらく休憩して、再び散策。ナラヤンヒティ王宮博物館まで歩いたが、今日は休館だった。そのままホテルのあるタメル地区をぶらぶらした。昼食にはモモスープを頼んだ。モモというのはネパール式餃子だ。水餃子のようなものを思い浮かべていたら、出されたのはカレースープに入った餃子だった! 味は悪くないのだが、胃の調子があまりよくない私としてはカレーは避けたかった。

 タメル地区はまさしく迷路。細い路地が入り組んでいる。同じような店(お土産物、食料品、レストラン、カシミア、アパレル、履物、鞄)が並んでいるので、歩いていると迷子になる。その狭い道に車やバイクが入り込み、あちこちで苦労しながら離合している。スマホの地図に案内してもらって、やっとホテルに帰り着く。ヴェネツィアでも道に迷いっぱなしだったが、カトマンズはそれ以上。

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 マッサージを受けたいと思って店を探した。が、どうにも入る勇気が出ない。何となく店構えを見て怪しい感じがする。つまり、コリや疲れをいやすためというよりも、別のサービスをする店のような雰囲気がある。ネットで調べてみると、案の定、そのようなことが書かれている。安全なところを探してみたが、確信が持てないので、やめた。

 夕方、また散歩に出た。暗くなってからのタメル地区を見たかった。ちょっと怪しい雰囲気の区画がある。歩いていると、若い男に声をかけられた。「マッサージ?」といわれたような気がした。おそらく、その種のお誘いだろう。さすがに振り切ってホテルに戻った。

 どこもかしこも大混乱だが、不思議と殺伐としていない。車やバイクがごった返しており、あちこちで警笛が鳴っているが、荒っぽい運転ではない。歩き方も、みんなおっとりしている。人が多いので混乱しているだけであって、一人一人はいたって穏やかで物静か。ただ、きちんと規則を守る人たちではなさそう。悪気はないのだが、ちょっといい加減。そのために、あちこちで混乱が起こっている。

 ミャンマーやパキスタンのようにごみの散乱はない。店の前を掃除している人を多く見かける。もちろん、ところどころにごみは見えるが、ほかのアジア地域とは雲泥の差だ。ただ、インフラが追い付いていないので、あちこちが薄汚く、埃だらけになっている。

 野良犬が多い。ブータンやスリランカでも野良犬の多さに驚いたが、それと大差ないかもしれない。観光地でも商店街でも野良犬を見かける。

 

913

 朝の4時にガイドさんがやってきて、ホテルを出発することになっていたので、早めに寝た。

 ところが、真夜中、突然、ドアが開いた。私が目を覚ますと、女性の声。日本語ではない言葉で何かを叫んでいたが、慌てて何かを言って出ていった。「エクスキューズ・ミー」という言葉だけ聞き取れた。どうやら、ほかの客が私の部屋に間違えて入ってきたらしい。

そのまま寝たが、翌朝、気になってフロントに状況を話して、どういうことなのかを聞いてみた。だが、要領を得ない。ガイドさんが来たので、改めて聞いてもらったが、「603号室の客が間違って入ったようだ」との返事。私の部屋は503号室。だが、ほかの部屋のキーで私の部屋に入れるはずがないと思うのだが、いったいどういうことだろう? きっとホテル側が誤って別の人にも私と同じ部屋を当てたのだと思う。どうもこの国の人はすべてが緻密ではないようだ。

 ともあれ、4時にガイドさんがやってきて、無事出発。ヤンゴンから車で1時間ほどのナガルコットに出かけた。標高2100メートルあり、天気が良ければエヴェレストを見ることができる。エヴェレストは無理でもヒマラヤの美しい山々を背景に日の出を見ることのできる日は多いとのこと。大いに期待して出かけた。

 道中が大変だった。車に乗っているだけなのだが、ものすごいガタガタ道。舗装されていないところも多い。簡易舗装されただけで補修されていないため、穴だらけになっているところがほとんど。しかも曲がりくねっている。いわゆるヘアピンカーブの連続。右や左が崖になっているところもある。それがでこぼこ道なのだからかなわない。車が揺れて、頭が天井にぶつかり、体がドアにぶつかる。吐き気もしてきた。

 夜明けよりもかなり前に到着。車の中で待って鉄パイプで編んだ矢倉に上った。雲の向こうに山々が見え、空が明るくなっていた。あと五分くらいで日の出が見られると思った瞬間、急に霧が立ち込めてきた。あっという間に太陽も遠くの山も見えなくなった。残念!

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 クラブヒマラヤというホテルで朝食をとった。テラスから日の出が見られるようになっていた。雲の向こうに太陽が見えた。鳥のさえずりが聞こえて、まさに静寂。ちょっと不便だけど、次に来る時にはここに泊まってゆっくりしたいと思った。

 その後、車でネパール最古のヒンドゥー寺院チャング・ナラヤンに向かった。ナガルコットから遠くないらしいが、道路の関係で遠回りするので、またまた揺れの激しいカーブだらけの道を走った。チャング・ナラヤンには観光客はほとんどいなかった。丘の上にある古びた寺院はとても趣がある。ただ、地震のためにかなり破壊されたようで、ここでもあちこちが修復中だった。

 その後、バクタプルに向かった。昔の面影がそのまま残るような古い町だった。ベルトルッチ監督の「リトル・ブッダ」の撮影地として知られているらしい(ブータンのパロにも撮影地があった!)。多くの建物がレンガで作られており、時代を経て黒ずんだレンガに風格がある。ヒンドゥー寺院がいくつもあり、王宮がある。ここもあちこちで修復中だ。昔の建築物だけでなく、ふつうの民家もほとんどすべてがレンガ造り。どうやらこの辺りはレンガの産地らしい。趣のあるレンガではあるが、それだけに地震の被害が大きかったということだろう。寺院も修復中のところが多く、一般の家屋も破壊跡や修理中のところが多かった。地面もレンガ造りのため、少々歩きにくい。そのため、腰が痛みだした。

 もう少し寺院を見たかったが、少し休みたくなってホテルに直行した。部屋に戻ったのは15時前だった。疲れ切って、その後は夕食に近くのレストランに出かけた以外はずっと部屋でごろごろしていた。

 

914

 最終日。チェックアウトは13時とのことなので、ゆっくりできる。午前中は近くを歩き回った。このような旅が私は大好きだ。別に何を見るわけでもない。ほっつき歩くだけ。

 タメル地区以外のところにも足を延ばした。広い通りを歩くと、車の騒音と煤煙、そして土埃のために息苦しくなる。車はどこでも渋滞している。カトマンズの車は時速40キロ以上で走ることはほとんどないのではないか。歩くのと同じくらいの速度で車が走る。路地に入り込むと、どこもかしこも迷路のようになっている。迷路なのはタメル地区だけではない。

観光客とみられると、土産物屋やタクシー運転手に声を掛けられるが、しつこくない。人懐こそうに寄ってきて、断るとすぐに諦める。

 乞食が多い。あちこちに座っている。小さな子どもを連れた女性や老人もいる。しつこく寄ってくる乞食もいる。

 午前中にホテルに戻ってシャワーを浴びて、昼過ぎに知人のネパール人と食事。ネパールの状況についてあれこれと尋ねた。ネパール料理の店に連れて行ってもらった。ご飯ではなく、大麦を練ったという団子のようなものにカレーを混ぜて食べた。とてもおいしかった。

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 午後、旅行会社のガイドさん(初日に来てくれた日本語を解さない男性)がやってきて、車で空港まで行った。カトマンズに到着してホテルに向かった時とは別の道のようなので別の空港に連れていかれるのではないかと心配になったが、着いてみると同じ空港だった。またノロノロ運転を繰り返して1時間近くかけての到着だった。

 空港でチケットを眺めているうちに、カトマンズからの飛行機がソウルのインチョン行き、羽田行きの飛行機の出発地がキンポになっていることに気付いた。つまり、ソウル到着後、仁川から金浦まで移動しなければならない! チケットをネットで購入した時、不覚にも気にかけかった。搭乗手続きをした時、「空港がチェンジするけれども、わかっているか」と聞かれて、私は出発は成田なのに到着は羽田だということを指していると考えて「アイ・シー」と答えたのだったが、どうも係官はソウルのことを言っていたようだ。そりゃそうだ。私が成田で飛行機で乗ったことなんて知っているわけがない。

 あわててネットで仁川から金浦への行き方を調べた。時間的に余裕はありそうだったが、移動するには現金がないと不安だ。到着は朝の5時半ころなので、両替できるかどうか大いに不安だった。不安に思いながら、機内で夜を過ごした。

 時間通りに仁川に到着。幸い、両替所が一箇所開いていた。難なくリムジンバスに乗って40分ほどで無事金浦空港に到着。当たり前のことだが、ネパールと違って高速道路が整備され、高性能の乗り心地のよいバスはすいすいと動く。時間的な余裕をもって羽田行きの飛行機に乗って、無事に午後に自宅に帰れたのだった。

 そのほか、ネパールについて気づいたことは明日以降に書く。

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イルクーツク旅行

 201889日から12日までイルクーツクを旅行した。34日の短い旅行だ。ある代理店による一人参加の、かなり自由行動の多いツアー。

 89日の夕方に出発し、5時間半ほどで、シベリア航空の直行便でイルクーツクに到着。午前中まで関東地方には台風の影響があったので心配していたが、無事、飛行。ただ、機内食は責任者の神経を疑いたくなるようなまずさだった。

到着したときには、日付が変わって10日になっていた。運転手さん(日本語は通じない。英語もほとんど通じなかった)がやってきてホテルまで運んでくれた。到着したのが、前もって聞いていたホテルではなかったのであわてたが、ともあれ予定通りのホテルまで行って無事泊まることができた。

 

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 9時にガイドさん(日本語のとても達者な中年男性)が来て、市内見物。あいにくの雨。20度くらいの涼しさ。イルクーツクはシベリアの森の中、バイカル湖から流れるアンガラ川周辺に広がる人口は60万人程度の落ち着いた都市。流刑になったデカブリストたちが作った都市なので、文化レベルが高い。

雨の中、アンガラ川沿いを歩き、キーロフ広場を歩いてスバスカヤ教会とバガヤヴレーニエ教会に行った。たしかバガヤヴレーニエ教会だったと思うが、中に入ると美しい女性合唱が聞こえた。ア・カペラの清澄な声。ギリシャ正教の教会ではこのような合唱による祈りがなされるようだ。これまでにも何度か耳にした。教会の中はイコンが飾られ、祈る人の姿が見える。ガイドさんによると歌っているのは専門の合唱団だとのこと。一般の信徒はそれに合わせて祈るだけのようだ。それにしても、見事な合唱。ロシアの合唱団のレベルの高さのすそ野がこんなところにあるのだろう。

その後、ぐるりと車でイルクーツク市内を回って、バイカル湖に向かった。白樺やカラマツの森がずっと続く。ほとんどが原生林らしい。その森の中を高速道路が走っている。新しい道路は片側三車線だが、ソ連時代の古い道路は片側一車線。交通ルールは全員がきちんと守っている。無理な追い越しやあおり運転はない。

途中でタルツィ木造建築博物館に寄った。そのころには、雨が上がったが、まだ曇天。

かつてコサックがシベリアに入り、それに続いて領地から逃れた農奴が開墾し、厳しい中を生きた状況が、アンガラ川近くの深い森の中に一つの村のように再現されている。中国人の団体のほかにも観光客がかなりいた。

農民の家、役所、倉庫、学校などが展示されているが、これらは実際にあったものをこの場所に移築したものらしい。厳しい寒さがわかる建物群だった。ペチカのある家屋があり、備蓄倉庫があり、そのそばに橇などの用具が置かれている。寒さをしのぐためにペチカを最大限に利用する工夫、凍った土地の上に家を建てるための堅い木を使う工夫などが知れた。

流刑になる人間の留置所もあった。20キロ以上ありそうな丸太に鎖が打ち付けられ、その先に足輪がついている。流刑者は足をつけられ、その丸太を持って移動したらしい。確かにそのような風景を映画などで見た覚えがある。

ガイドさんの説明を受けながら、1時間以上歩いた。なかなかおもしろかった。ただ、ガイドさんが「これは何だと思いますか? 最初のヒントは・・・」などとクイズを出し、私が何か答えると、「それがファイナル・アンサーですか」と言わるのは困った。私の答えのほとんどが間違っていた。それほど、想像を超える極寒の地での生活の状況だった。

その後、バイカル湖に向かった。アンガラ川とバイカル湖の境目に「シャーマンの岩」と呼ばれる岩が水面に突き出している。ただ、残念ながら曇り空。晴れた日は青々と見えるはずの水面は暗くよどんでいる。

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バイカル湖付近で昼食を済ませて、リフトを使って展望台へ行った。そこからバイカル湖を見た。ここでも中国人観光客が目立つ。日本人も韓国人もロシア人もほかの国の西洋人もいる。なかなかの絶景。シャーマンの岩が見えた。

 シャーマンの岩には様々な伝説があるらしい。ガイドさんが話してくれたのは、不貞を働いた女性を岩に置き去りにし、翌日に岩から消えていたら、「バイカルの神が女性を許して受け取った」とみなし、翌日まで生きていたら、「この女性は不浄だからバイカルの神は受け取りを拒否した」とみなして殺害したという話だった。逆に、男性の場合には、生き残っていたら許されたらしい。事実かもしれない。

 次に、ガイドさんに連れられて、シベリア抑留されて命をなくした日本人の墓を訪れた。ロシア人の墓地の傍らにこぎれいに整理されて60のカタカナの名前入りの石柱が並んでいる。最近になって整備されたものだという。

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 私は、辺見じゅんの「収容所から来た遺書」でも描かれている山本幡男のあまりに悲劇的であまりに気高い人生、そしてその友人たちの感動的な行為を知って以来、シベリア抑留に関心を持ってきた。イルクーツクに来たいと思ったのも、シベリア抑留の地を見てみたいという思いがあったからでもある。実は、もっと大規模な古い墓地を予想していたので、新しい墓碑を見て、ちょっと拍子抜けした。が、そんなことを言っては、亡くなった方々、墓を整備した人に申し訳ない。お盆の少し前だが、墓にお参りした。

 その後、バイカル湖博物館を訪れ、様々な魚のいる水族館を見た。丸々と太ったアザラシが泳いでいた。

 船着き場になっていて遊覧船やモーターボート、様々な国の観光客などでにぎわうバイカル湖の岸辺を通過して、人気のいない岸辺を歩いた。海のように波があり、向こう岸がかすかに見える程度の広さ。地球上の淡水の20パーセントを占め、最大幅が80キロ。透明度でも世界で類を見ないほどの大淡水湖。広さがわかる。地面が褶曲してバイカル湖ができたというが、岸辺の岩はまさに曲がりくねっている。太古の時代の大地のねじれ具合がよくわかる。

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水に触ってみた。冷たい。水温は3度くらいだとガイドさんは言ったが、それほどでもなさそう。それでも、10度以下ではあるだろう。

 その後、魚や果物、野菜、土産物を売る、市場をみて、バイカル湖の近くの村リストヴャンカにあるホテル(リストヴャンカ・シャーレ)に到着。海岸から15分くらい坂を上ったところにあるこじんまりしたコテージ風の木造のホテルでなかなかに感じがいい。ガイドさんと別れて、一人になって部屋に入って一休みした。今回のツアーでのガイドさんとの付き合いはこれで終わり。

 その後、一人でバイカル湖畔を歩いた。船着きの近くに行った。土産物屋があり、お菓子などを売る店もある。観光客でにぎわっている。箱根の芦ノ湖の船着き場の雰囲気に近い。ただ、湖の大きさには大きな差がある。ロシアの人だろう、水着姿で、この冷たい水の中を及んでいる男女がいるのには驚いた。そのほか、モーターボートに家族やカップルが乗っている。サービスということだろう、モーターボートはカーブを描き、水しぶきをたてている。乗っている子供は叫び声をあげ、船の柱にしがみついている。

 しばらくしてホテルに戻り、ホテル内で食事。夜を過ごしたが、私は寒さに弱い。昼間は14度くらいだったが、夜はもっと気温が下がっている。オイルヒーターが備えられていたので、さっそく利用したが、ちょっと遅かったらしい。お腹が冷えたせいか、腹痛を覚え始めた。翌日が心配になって、早めに寝た。

 

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 9時からホテルで朝食をとったが、食欲がなかった。まだ体調がよくないのでしばらく部屋で休息。数時間して、やっと回復してきた。

 12時に運転手さんが迎えに来て(ガイドさんはいない)、イルクーツクへ出発。前日の道を戻ったが、青空が広がっており、バイカル湖が美しい。

1時間ほどで前日と同じホテルに到着。ホテルに荷物を置いて、イルクーツクの町の見物に出た。体調が心配だったが、ともあれ歩くには支障がない。

 前日の寒さに比べると、かなり暑い。日差しが強く、30度近くある。

 市内の確実な移動手段はトラムのようだ。タクシーはほとんど走っていない。ゆっくり歩いて、街を見物した。人通りはほとんどない。森に囲まれた自然の中で息づいている都市だと強く感じる。きれいな空気の下でロシア人がゆっくり歩いている。

しばらく歩いて停留所を見つけ、トラムに乗った。トラムには車掌さんが乗っているので、料金(15ルーブル均一)を支払うのに苦労しない。10分ほどトラムに乗って、クレストヴォズドヴィジェンスカヤ教会に行った。こじんまりした教会でイコンが美しく、木立に囲まれた休息所があり、草花の植えられた庭がある。

 周囲にはロシア風の建物が静かに立っている。

 交差点を挟んだ向かい側には小さな広場があって、そこにはイルクーツクの象徴である貂(テン)をくわえた虎の像があった。そこから南に若者好みのこぎれいな道があって、おしゃれな店が並び、カップルが歩いていた。原宿のような雰囲気。それでも、人の数は少なく、数人が静かに歩いている。

すぐに引き返して、トラムの通っている道路をホテルの方向に向かって歩いた。フィルハーモニーの建物があった。オーケストラ・コンサートのポスターがあったが、キリル文字なので、オーケストラの名前も演奏者の名前も、作曲者の名前もわからない。

 そのまま歩くと、レーニン広場があった。イルクーツクでは社会主義を建設した人々は今も否定されていない。中央にレーニン像がある。

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 そこを右折すると、カール・マルクス通り。これがイルクーツクの中心街だ。ただ、「地球の歩き方」を見て、銀座のようなところかと想像していたら、それほどでなかった。人通りはほとんどなく、建物も低く、華やかさはまったく感じない。繁華街という雰囲気でもなく、ふつうの静かな街並みだ。カール・マルクス通りを東に歩いていった。

ふつうのスーパーが通りに面してあったので入ってみた。特におしゃれな店というわけではない。観光客らしい中国人や現地の人らしい客が数人いる程度。品ぞろえは一般のスーパーと変わらない。バイカル湖でとれたと思われる魚類が多く、ほかは肉類、チーズ類が目立つ。お菓子の類は甘そうなものばかり。塩辛い系、チップス系のものはまったくない。

少々疲れたので、いったん、ホテルに戻ることにした。トラムにのろうと思って、先ほどの道に戻った。レーニン広場の停留所がきっとあると思っていたが停留所が見つからない。そもそも停留所のしるしがどこにあるのかもわからない。トラムの路線に沿って歩いてやっと停留所らしいものを見つけて乗ろうとして、これが最初に乗り込んだ停留所だと気づいた。つまりは、ホテルのすぐ近くまで歩いたわけだ。そのまま歩いてホテルに戻った。

一休みして英気を養い、再び外出。今度はホテルのスタッフにタクシーを呼んでもらって、イルクーツク駅に行った。

シベリア鉄道に初めて乗ったのは、2013年、ハバロフスクからウラジオストクまでだった。昨年はウランバートル駅から近郊まで乗った。本当はイルクーツクでも列車を利用したかったが、一人で乗るのは怖い(何しろ、文字が読めないのでどうにもならない!)のでやめた。駅の中を見物し、列車が入って、多くの客が乗り込むのを見送って、駅前からトラムに乗って再びイルクーツクの中心街へ向かった。

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夕方になっていたので、どこかで食事をしようと思っていた。ついでに百貨店をのぞき、その横の中央市場を歩いてみた。百貨店はブランド店などが並んでいたが、客はガラガラ。2階まで上がってみたが、エスカレーターが故障していたので、そこでやめて下に降りた。中央市場には百貨店よりも多くの人がいた。それでもにぎわっているという感じではない。野外に野菜や果物の商店が立ち並んでいる。建物の中には魚や肉が並んでいる。原形をとどめたような大きな肉の塊も売られていた。

10分ほど歩いてカール・マルクス通りまで行き、ガイドブックに紹介されているロシア料理の店に入ろうとしたが、見つからない。レストランらしい店はほかにないでもないが、ロシア料理ではなさそう。わざわざイルクーツクまで来てイタリア料理や中華料理や寿司を食べても仕方がない。少し歩いてみたが、入りたくなりそうな店はなかった。そもそもキリル文字なので、何の店なのかもよくわからない。

最も安全なのはホテルのレストランで食べることだと思いなおして、タクシーを捕まえようとしたが、これがなかなかつかまらない。一台、やっと信号停止しているのを見つけて、ホテルカードを見せてそこに行ってもらおうとしたが、なぜか乗車拒否された。近すぎるせいだったのか。しかも、例によってトラムの停留所も見つからない。仕方がないので、ホテルまで歩いた。

アンガラ川沿いの道を選んだ。岸辺を歩くのは気持ちがいい。夕方になって、気温も下がり、心地よい。青空が広がり、風も出てきた。疲れていたので、ゆっくり歩いた。北国なので日暮れが遅い。もう、20時くらいになっていた。

再びホテルに戻って一休みしてから、ホテル内のカフェ・レストランで食事。大レストランも併設されていたが、そこではなんだか大音響でイベントが行われている。大音響を耳にしながら魚のスープやキノコの水餃子のような料理を中心に食べた。カフェのすぐ横では、中国人の小さな団体が食事をしていた。

ウェイトレスさんは、アラン・ドロンに似た顔のとてもきれいな女性だが、信じられないほど不愛想。ロシアの店員さんのほとんどは不愛想だが、ことのほかその傾向が強かった。注文を受ける時も、食事を持ってくるときも、しかめ面をしたまま。食事を終えてから、代金が910ルーブルだったので、1000ルーブル(日本円で2000円ほど)出して、残りをチップとして渡すと、突然とてもきれいでチャーミングな笑顔が現れた。「なんだ、不愛想でない顔もできるんじゃないの。たった180円くらいのチップで、そんな嬉しそうな君の笑顔が見られてうれしいよ」と皮肉を言いたくなった。

少量だったが、ウォッカも飲んだので、しばらくして寝た。疲れ切っていた。

翌日、8月12日、9時に運転手さんが来て、そのままイルクーツク空港に向かい、成田へ。無事、帰国。

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日田の祇園祭 見事な祭り しかし観光客は少ない

 2018年7月20日に大分県日田市に入った。21日と22日に行われる祇園祭見物が目的だ。日田祇園祭は、500年ほど前に悪疫鎮護のために始められ、2016年に全国の33の団体とともにユネスコ無形文化遺産に登録されている。昨年は九州豪雨の影響で開催されなかったので、今回、登録後初めての開催だ。

 日田市は私の故郷だ。祖父母はそこに住み続け、一時期日田から離れていた両親も、その後、住むようになったが、私自身は5歳でこの地を離れて以来、時々訪れるだけになっている。そのためもあって、祇園祭の存在は知っていたが、見物した記憶がない。両親が高齢になって日田から離れ、その後、父が亡くなり、母も東京の施設で暮らすようになって、私と日田のつながりは少し残った所有地だけになってしまった。そんなとき、クラブツーリズムの日田の祇園祭を見るツアーを見つけた。「日田祇園祭を見たい」と思った。とはいえ自分の故郷なのにツアーで行くのもしゃくだ。日田には親戚も多い。そんなわけでひとりで祇園祭を見に来たのだった。


7月20日

 午後、福岡空港におりてバスで日田に向かった。空港から出た時の福岡の気温、そしてバスから降りた時の日田の気温はパキスタン並みだと思った。先月、パキスタンで数日過ごしてその暑さに閉口したが、それに匹敵する暑さ。が、バスから降りて、腰痛肩こりを感じたので、ホテルに入る前に目の前にあるマッサージ店でマッサージを受けるうち、一雨あったようで、店を出た時にはかなり涼しくなっていた。それでも34度くらいはあったようだ。日本人も34度で涼しいと感じるようになったことに改めて驚く。

昔ながらの街並みの見える景観地区である豆田までタクシーでいき、有名店でウナギと鮎を食べた。土用の丑の日でもあり、祇園祭の前日でもあるので、ここも大賑わいだと思っていたら、がらがら。テイクアウトのウナギのかば焼きなどを受け取りに来る人は数人いたが、客は5、6人。祇園祭を前にした熱気のようなものも感じない。

豆田から駅前のホテルまで歩いた。途中、5歳まで私が住んでいた場所(今は別の建物がある)、両親が暮らしていた場所(売却したので、今、新たな家が建設されている)をみた。

それにしても、あまりに閑散としている。祇園祭の前だというので賑わいがあるのかと思ったら、何もない。夕方になると真っ暗。そもそも人を見かけない。駅前ですら午後8時に深夜のように人影をまったく見ない。車も一回の信号の青の時間に2、3台通過する程度。車がまったく通過しないのに、歩道が青に変わるのを長い時間待たなければならない。

日田駅は改修されてきれいになっているが、それにしても人通りが少ないのが心配になってくる。

 

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 早く目が覚めたので、朝食を済ませて、7時ころに隈地区(三隈川付近に発達した町で、旅館が並んでいる)まで歩いてみた。山鉾会館付近を見た。山鉾が見え、法被姿の町の人たちが準備している様子が見えたが、もちろんまだ山鉾は動いていない。ついでに昔からのなじみの場所である三隈川の川辺を歩き、亀山公園を見た。朝から暑い。汗だくなった。ホテルまで歩いても10分ほどなのだが、タクシーを見つけてホテルに戻った。

 8時半頃、歩いて豆田に向かった。歩く途中、中城地区の山鉾がちょうど動き出すところに遭遇した。飾りつけのされた山鉾の高さは3階建てのビルくらいだろうか。下の階層に人が入って笛を吹いたり、太鼓を鳴らしたりしている。町の衆20人くらいが綱を引き、その後に子供を含む20人から30人が歩いていく。警察官が数名ついて、道に入ってくる車を別の道に誘導している。私もあとをついて歩いた。

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近くでも別の山鉾が動いている様子だった。囃子の音が聞こえてきた。そこに移動してみた。同じような山鉾だった。また、別の一つが見えた。狭い豆田地区のいくつかの道で山鉾が動き出し、日田の中心部を流れる花月川に向かっていた。

そして、橋の上で4基が合流。川の上で四基が一列に並んだ。なかなかの壮観。

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 実は観光客でごった返していると予想していた。が、見る限り、観光客はゼロに近い。ほとんどが関係者。つまり山鉾を引く町内会の人やその家族。水筒を持ったり、着替えを持ったりして後についている。それに、一つの山鉾に警察官が数人ついているようだ。それ以外はたまたま自宅の前を通る山鉾を見送っている程度。地方のケーブル局のテレビ取材のカメラはあったが、私のような観光を目的としているらしいのは、私以外に4、5人しか見かけなかった。

 しばらくして、隈地区に行ってみた。山鉾会館の近くに行くと、こちらでも山鉾が3基ほど集まっていた。こちらにはツアー客がいた。中国人らしい客(ただ、どうも祇園見物に来たというより、何かの研修のついでに見物しているようだった)もいた。総勢で50人くらいの観光客がいたのではないか。ほかは日田市の人たち、そして関係者だろう。

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 しばらく見物して、昼食(好物の川魚定食)を済ませてホテルに戻った。一休みして、午後、なじみの町を少し歩いた。昨日に比べると、いくらか過ごしやすい。気温33度くらい。

 夕方、いとこたち(二人の従姉と一人の従弟、そして亡き従兄の夫人)と駅付近のビストロで会食。楽しい時間を過ごした。そして、夜8時過ぎに車で豆田に移動。夜の山鉾を見た。

 昼間はちょっと「しょぼく」見えたが、夜は壮観。橋の上には観光客がごった返しており、そこに3基が集まっていた。少し前までもう1基がいたようだ。たくさんの提灯をつけて多くの人に引かれていく。それが橋の上で大きな掛け声とともにすれ違う。交通整理の警察官も数人出ている。これぞ私がイメージしていた祇園祭だ。

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 橋の上から山鉾がすべてなくなってから、車でホテルまで送ってもらった。

 それにしても人が少ない。盛り上がっていない。ホテルにも観光客はいるが、大賑わいしているわけではない。

 日田の祇園祭は地方の祭りとして見事だ。ただ、山鉾が道を練り歩き、時々それが合流するだけなので、盛り上がりがあるわけではない。山鉾の巡航が豆田と隈の二つの地区に分かれているので、一箇所に集まる賑わいがない(祭りの前々日に顔見世が行われたらしいが,本祭の間にはそのような機会がない)。そのために観光客を集めにくいのだと思った。これほどの規模の祭りのわりに観光客が少ないのを大変残念に思った。

 

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 22日も夕方まで祇園祭を見ようと思っていたが、この様子では昨日と同じような光景になるのは目に見えている。夜までいればいろいろなイベントがあるらしいが、仕事の関係で、それは難しい。私はディスカウントの航空便とホテルのパックチケットでやってきて、福岡空港を2045分に出発する便を予約しているが、もっと早く東京に戻りたい。

 そう思って、朝方、日田市を少し歩いた後、すぐにチェックアウトして、バスで福岡空港に向かった。そして、空港で便の変更ができないかを尋ねてみた。が、やはりだめだった。仕方がないので、コインロッカーに荷物を置いて博多駅に移動。駅の付近だけでも見物したいところだが、なにしろ35度を超す気温だ。観光どころではない。そこで、駅ビルで映画を見ることにした。たまたま待たないで見られるのが「未来のミライ」だった。67歳の男が一人でアニメを見るのもどうかと思ったが、まあ仕方がない(映画の感想は改めて書くことにする)。

 映画を終えた後、マッサージを受け、その後、食事をしようかと思っていたら、映画を見ている間に夕立があったらしい。外は大雨。JR博多駅は雨漏りだそうで大混乱している。あちこち探したが、適当な場所がないので、映画館と同じ階に戻って郷土料理(鯖、イカ)を食べた。

ところが、その間に、家族から「福岡空港が雷で閉鎖されているとニュースで見たけれど、大丈夫か」という連絡があった。そのまま新幹線で東京に戻る手もあるが、荷物を空港に置いているので、ともあれ空港に様子を見に行くことにした。

 空港は大混乱。東京行きの便のほとんどが欠航になっていた。だが、幸い、私の乗る便は運行された。結局、1時間ほどの遅れで羽田に到着した。

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瀋陽・大連旅行

 201879日から12日まで、34日の瀋陽・大連の1人旅をした。空港や駅とホテルの間のガイド以外は何もないフリープランのツアーを申し込んだのだった。私の記憶に間違いがなければ、7度目の中国観光。東北地方観光は初めて。私は特に日本近現代史に詳しいわけではないが、「満州」にはそれなりに関心を持っている。表面だけでもかつての満州の跡を見たいと思ったのだった。

現地では持ち込んでいたパソコンの調子が悪く(というか、Microsoftの契約が切れたということなのか、ワードの新しい文書を作れなくなっていた。近いうちになんとかしなければ!)、その場で文章を書かなかった。帰国後、簡単に感想を書く。

 

7月9日

成田を飛び立ってANA機で瀋陽到着。到着は夜だったので、入国手続きはきわめて順調。ガイドさん(6年間日本に住んでいたということで、日本人とまったく変わりのない日本語のガイドさんだった)と顔を合わせてそのままホテルへ。

 高速道路もきれい。ホテルは遼寧寶館。ここは昔の奉天ヤマトホテル。満鉄時代の日本資本のホテルで開業は1927年だという。確かに、かなり古めかしいホテル。いちおうは近代的に改装されているが、年代物だということは厳めしい造りや隅々の汚れからわかる。まさしくレトロな雰囲気。これれはこれでなかなか味わいがある。

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遼寧寶館


 

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 朝起きて、近くを歩いてみた。ホテルは中山広場に面していた。瀋陽の中心部を成す広場で、中心に毛沢東の像がある。周囲には歴史的な建物が並んでいる。今はもちろん中国の企業や役所が使っているが、ほとんどが、日本統治時代に作られたものだという。

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中山公園


 9時に、今回のツアーとは別に、午前中だけの市内観光を予約していたガイドさんがやってきた。昨日のガイドさんに比べるとかなり日本語のぎこちないが、好感は持てた。

まず瀋陽故宮博物館にいった。半世紀ほど前に世界史の授業で習ったヌルハチ、ホンタイジといった清朝の歴代の皇帝たちの名前を久しぶりに思い出した。これらの英雄たちやその夫人たちの建てたり住んだりして建物がある。ガイドさんの話がおもしろく、歴史上の人物を想像できた。

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 張氏帥府博物館では、張作霖、張学良の暮らしや歴史が展示されていた。日本の蛮行についてはそれほど大きな展示はなかった。そのあと、昭陵に行った。ホンタイジの墓があり、現在では広大な公園になっている。晴天で気持ちがいい。

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13時前に市内観光ツアーは終えて、その後は一人で市内を回った。ホテルで東北地方特有の味付けの濃い料理を食べたせいか、食欲がない。昼食は取らないままだった。

 ホテルから駅まで道草しながら往復した。上海や広州よりはずっと落ち着いている。だが、やはり店の前では呼び込みのアナウンスが甲高い声で行われ、色とりどりの店があって、中国の大都市であることに間違いない。車の運転はルールを守っている。ただし、歩行者はまったくルール無視。信号が赤でも平気で車が来ている道を渡る。高齢者だけではない。若い人も壮年の人もそうする。気温は30度くらい。広州や上海では、短パンにサンダル姿の人が多かったが、こちらはきちんとズボンに靴を履いている人が大半。オートバイも少ない。

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この界隈には昔ながらも汚い店はほとんどない。冷房のきいていない店もあるが、それでも猥雑、不潔という感じはしない。開けっ放しのレストラン(というか、食堂というほうが近い)も、パキスタンやミャンマーなどと違って、中に入って食べても健康を害することはないのではないかと思わせる(実際には入らなかったが)。青山や銀座のような、私ごときが足を踏み入れることのないおしゃれなお店もいくつもあった。センスの良い服を着た男女(やはり女性が多い)が買い物をしたり、飲食をしたりしている。

 ホテルに戻って、一休みして、近くのこぎれいなレストランで食事。水餃子と蒸し餃子を2皿注文したら、1皿に20個以上入っており、食べきれなかった。様子を見て、そのほかの魚か肉を注文しようと思っていたが、それで済ませた。夜の街を再びふらふらと散策して、ホテルに戻った。

 

711

 朝の750分にガイドさんに連れられて瀋陽駅に車で行き、大連行きの切符の手配をしてもらった。そこでガイドと別れ、そこから一人でホームに入って高速鉄道で大連に向かった。

 二度目の中国高速鉄道だが、ガイドなし、ツアー仲間なしは少々不安だった。乗ってしまえば何でもないのだが、荷物検査やパスポート検査があり、検札時間が短いなど、西側と異なるシステムなので戸惑う。が、まあ周囲に紛れて乗り込んだ。観光客らしい外国人はまったく見かけない。

 列車の中では、駅で停車して新たな客が入ってくるごとに、「そこは私の席だ」「あんたが間違っている」といった混乱が起こる。西洋でもそのようなことが多いが、こちらは特別。10分くらいごたごたしている。チケットをきちんと見れば間違いようがないと思うのだが。

 携帯で大声で話す人、音を外に流しながらスマホでドラマを見たり、音楽を聴いたりしている人が何人かいる。もちろん大声でしゃべっている人も多い。中国の列車は実に賑やか。

 周囲の誰も私が日本人だと思っていなかったようだ。日本人観光客が一人で列車に乗っていると誰も思っていないのかもしれないし、私の服装が中国になじんでいるのかもしれない。

 外の風景は、都市に入るごとに高層マンションが立ち並び、再び田んぼや畑や草原が続くといったところ。魚の養殖をしているらしい場所も工場地帯も通った。途中で雨模様になった。

 2時間弱で大連に到着。前もって言われていた通り、南口に向かって大連の世話をしてくれる新しいガイドさんと会った。少々訛りはあるが、50代の明るくてとても感じのいいガイドさんだった。

 ガイドさんによれば、到着の15分前まで短い時間ながら豪雨だったという。雨はやんでいた。そのガイドさんにはホテルまで連れて行ってもらうだけの取り決めになっていたが、車の中で交渉して、旅順まで行ってもらうことにした。私はホテル到着後、独力で旅順に行こうと思っていたが、なかなかそれは難しいとのこと。正規の料金を支払ってガイドさんに連れて行ってもらうことにした。

 大連はこれまで訪れた中国の町と少し雰囲気が違っていた。ガイドさんに「ロシア」という言葉を言われて、そういえば少しロシア風だと気づいた。明らかにロシア風の建物もある。

 車で1時間ほど、真新しい海の中の道路やきれいな国道を通って旅順に行った。朝夕は大渋滞になるというが、その時間帯はすいすいと進んだ。周囲には高層マンションが立ち並ぶ新興住宅街になっている。若い人は大連に住み、高齢者が安いマンションを求めて旅順方向に住むという。

ガイドを受けながら、東鶏冠山北堡塁で日露戦争のロシアの塹壕、日本軍の攻撃の跡をみた。

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その後、白玉山塔に行った。ここで亡くなった日本兵の霊を祀る塔がある。旅順港を一望できるとのことだったが、雨上がりのため霧がかかっていて、まったく見えない。そのため、旅順港まで行ってもらった。きれいな静かな港。今も軍港として使われている。なるほど不凍港というのも納得できる。

 ロシア式建物の旅順駅を見て、203高地に行った。途中までカートで行き、そこからは徒歩で歩いた。運動不足の身には少々つらかった。頂上で慰霊碑をみて下山。安重根が死刑になった刑務所の前を通って、旅順博物館で大谷コレクション(中央アジアの収集品)を見て、大連に戻った。


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 私は戦争マニアでもないし、司馬遼太郎ファンでもない。日本の近現代史も実はあまり得意ではない。が、子どものころからそれなりに日露戦争の話は聞いてきたし、映画を見たり本を読んだりしてきた。とりわけ203高地は感慨深い。

 ホテルは大連の中心街にある中山大飯店。到着したのは夕方だった。昼食抜きでの旅順観光だったので、すぐにホテル前に飲食店街で鮮魚料理を食べた。高そうなものを指さして、料理法を適当に指示したら、実に大量に出てきて、しかも300元を超える高額だった! 日本円にしたら5000円を超すので、ものすごい豪華料理だったのだろう。もしかしたら、少しボラれたのかもしれない。半分も食べきれなかったが、味はまずまず。まあ、良しとしよう。

 その後、大連駅まで歩いてみた。勝利広場を歩き、地下街を回った。鮮やかな色の店が並び、超現代的な高層ビルには電飾がなされ、上海や広州でも見かけたまさに中国的光景! 大変ににぎやかだが、それでも上海や広州よりも落ち着いている。

 203高地に登って足が疲れたので、20時ころにはホテルに戻って、早めに眠りについた。

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 朝、7時ころから朝の散策に出かけた。歩いて中山広場まで行った。通勤中の男女が歩いていた。広場では何人かが踊りの練習をしていた。

 瀋陽でも大連でも感じるのだが、横断歩道が少ない。広場が真ん中にあり、その周囲の道がロータリーになっている。広場につながる横断歩道がほとんどない。いや、ところどころにあるが、まったく機能していない。車がスピードを緩めることなく、横断歩道を無視して走る。腹を決めて、車を止めさせる覚悟で道を歩くしかない。だから、真ん中に広場があっても、簡単にはそこにたどり着けない。

 大連の中山広場には地下鉄の駅を通って地下からたどり着けたが、なかなか大変。足の弱い老人には困難な状況になっている。

 中山広場とホテル近くの広場の間には地下鉄が通っているのに気付いて、帰りは地下鉄を使うことにした。ところが、切符を買おうとすると、朝であるせいか、職員がいない。荷物検査を受けて自動販売機で切符を買おうとしたが、使い方がわからなかった。困って、荷物検査をしていた女性(警察官?)に英語で尋ねたら、日本語で「日本人?」と問われ、「そうです」と答えると、しっかりした日本語で教えてくれた! ありがたい!

 無事、ホテルについて、朝食。荷物の整理をしてガイドさんを待ち、車で旧日本人街などを案内してくれながら、空港へ。

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