旅行・地域

インドネシア旅行 その2

 2,017年、1120日。インドネシア旅行4日目。

朝のうちに、デンパサール(といっても、レギャン、クタ地区)のホテル付近の海岸を見に行った。昨日は一日中、バリ島ツアーだったので、すぐ近くに海があるのに、見に行かなかった。青空に美しい海、観光客は西洋人が多い。朝なのに泳ぐ人もいるし、サーフボードを持った人もいる。パラソルの下で飲み物でも飲んでゆっくりしようかと思ったが、ともかく近くを歩き回った。無国籍のリゾート地という雰囲気。立派なホテルもある。が、路地を入ると、雑多な小さな店がひしめいており、現地の人が歩いている。

 タクシーでデンパサールの中心街に行った。10キロ強の距離があり、40分ほどかかった。それで料金は7万8000ルピア(日本円で600円程度?)。

 まず、ジャガッナタ寺院に行った。中に入ろうとすると、門のところにいた老人(といっても私よりも年下かもしれない)が近づいてきた。寺院の関係者なのか、それとも部外者なのか、もしかして詐欺師なのか乞食なのかわからない。老人は、中に入るには、それなりの服装が義務だと英語で言った。それについては知っていたし、昨日のツアーの際に準備していた(残念ながら、雨のために寺院には入れなかったので使わなかったが、手元に残していた)ので、それでよいのかと思ったいたら、黄色い帯も必要だという。そういいながら、服を着せてくれた。それで終わりかと思ったら、「私がガイドをする。10万ルピアだ」という。振り切って一人で中に入ることもできると思ったが、まあ10万ルピア(800円くらいかな?)くらいなら、かな法外とはいえ、日本人としてはそれほど懐は痛まないので、頼んでみることにした。あれこれ説明してくれた。写真も撮ってくれた。

 デンパサールで最も大きな寺院で、信仰の中心地だという。満月の夜には影絵芝居やガムランが演奏され、宗教儀式が行われるということだった。とても雰囲気の良い寺院で、建物が美しかった。シヴァ、ヴィシュヌ、ブラーフマの神の彫像もおもしろかった。

 次に隣にあるバリ美術館を訪れた。料金(5万ルピア)を支払っていると、料金所の横に男性が現れたので、それについて歩いて、英語によるその人のガイドを受けた。初めは少し疑ったが、料金を払っている横で、私は支払いをするのを待って私についてくるように促したので、当然、博物館の職員だと思ってついていった。

 ところが、最初の建物の説明が終わると、「ここまでの説明が10万ルピアに当たる。これから先全部の説明だと20万ルピア」といわれた。こちらは当然、この説明は入場料に含まれると思って聞いていたので、そこまでにして、あとは断った。頑張って、「いや、払う義務はない」と突っぱねることもできるが、それも面倒くさい。しかし、それにしてもこれまた法外な値段!

 このようにして、職員と「ガイドまがい」が結託して暮らしているのだろう。あるいは、見て見ぬふりというか。バリ島の誇りを汚すものであるような気がするが、このような目に合うのも旅の楽しみの一つではある。

 しばらく、ププタン広場で休憩。市民の憩いの場のようで、ベンチに市民が座っている。

 その後、周辺をぶらぶら。ところが、にわかに空が暗くなり、強い雨が降り始めた。スコールの始まりだ。私は例によって100均で買ったレインコートを持参していたので、慌てて着た。が、昨日同様、すさまじい雨。しばらく雨宿りしていたが、いつまでもやまない。周囲に靴屋さん、服屋さん、雑貨屋さんなどはあるが、喫茶店のような座って休めるところはない。雨の中、店を探したが、雨脚は強まるばかり。

考えを変えてタクシーでホテルに戻ることにした。が、今度はタクシーが見つからない。ププタン広場に戻ればタクシーが見つかるかと思って、雨の中を歩いて戻ったが、そんな気配もない。広場の中の屋根のある場所に20人くらいが雨宿りをして立ち尽くしていた。私もそこに立っていたが、それでもやまない。待ちきれずに、近くの人に「タクシーはどこで捕まえられますか」と尋ねたところ、すぐ近くにいた別の男性がウーバーのようなシステムでタクシーを呼んでくれた。それに乗ってホテルに戻った。

 到着したとき、ホテル(今日の夕方まで部屋を使える)の近くでは雨が降っていなかったので、濡れた服が乾いたら、朝、歩いた海岸を、今度はゆっくり味わおうと考えていた。ところが、雨が降り出した。やむのを待ちながらブログを書いたのだった。

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インドネシア旅行 その1

1日目

2017年11月17日からインドネシアに来ている。初めてのインドネシア旅行だ。今回も3泊5日の弾丸ツアー。ただし、例によって客は私だけ。ガイドさんと運転手さんがつく。

17日の午前中にガルーダ・インドネシア航空でジャカルタ経由でジョグ・ジャカルタに到着。出発が1時間ほど遅れた。ガイドさんに会って、すぐにボロブドゥール遺跡の近くのボロブドゥール史跡公園の敷地内にあるマノハラ・ホテルに車で向かった。ホテル到着は23時過ぎ。バンガロータイプの感じのいいホテルだった。道中はずっと夜だったので、何も見えなかった。ただ、オートバイが異様に多い。学生が多いので、オートバイに乗っているのはかなりが学生らしい。大学が市内にかなりあるとのこと。寝たのは24時近くだった。

 

2日目

翌2017年11月18日、朝、6時半からボロブドゥール寺院観光。

さすがというしかなかった。アンコール・ワットの仏教版というべきか。アンコール・ワットによく似ている。黒ずんだ石の塔があり、それぞれの石に彫刻が施され、仏像や仏教にまつわる様々な形が描かれている。釈迦の出生、悟りなどが描かれていた。買いが上になるにしたがって、地獄から現世、極楽を描いているらしい。最上階にあるストゥーパに上った。スリランカのジシーギリヤに比べればそれほどの高さではなく、思っていたほど疲れなかった。

観光客がたくさんいた。その中にはインドネシアの人が多かった。子どもたちもたくさんいた。学校単位で来ているらしい。制服姿の超学生や中学生が多い。帰りに、小学生らしい集団に出会った。なんだか声を合わせて何かを叫んでいる。ガイドさんに何を語っているのかを聞いたら、「受験を頑張ろう」と叫んでいるとのこと。どうやら、塾か何かのイベントとしてボロブドゥールのぼりが敢行されているらしい。

それはそれで、ボロブドゥールが国民に根付いていることであって、悪いことではないと思った。何しろ、ボロブドゥール寺院は仏教遺跡であって、インドネシアの大半を占めるイスラム教徒からすれば異郷の遺跡だ。邪魔者扱いされ、アフガニスタンのバーミヤンのような扱いを受けるようになっては大変だと思っていたが、そんなことにはなりそうもない。十分にインドネシアのイスラム教徒はボロブドゥール寺院を誇りに思っているようだ。

その後、一旦ホテルに戻ってシャワーを浴び、朝食をとってからチェックアウト。ガイドさんに連れられてジョグジャカルタの市内観光に出た。パオン寺院、ムンドゥット寺院、クラトン(王宮)を見た。王宮では影絵が行われ、それに合わせてオペラのような楽器淘汰の演奏が行われていた。すぐにその場を立ち去らねばならなかったが、とても楽しい経験だった。もっときちんと見たいと思った。DVDCDを探してみよう。

ジョグジャカルタ市内は古いものが多く、それなりには落ち着いた街だとのことだが、オートバイが多く、その多くが乱暴な運転をするので、どうしてもがさついているように見える。赤信号でも危険がないとみると、どんどん違反してくる。子どもを二人抱えて三人乗り四人乗りをしているオートバイも多い。オートバイ・タクシーもあるらしい。ウーバーのようにネットで予約して、拾ってもらうものもあるという。そのユニフォームを着たライダーをかなり見た。

その後、食事を済ませてから、パランバナンを見物。ヒンドゥー教の遺跡だ。ボロブドゥール寺院よりも少し後の時代に作られたらしい。これはボロブドゥール寺院よりももっとアンコールワットに似ている。ヒンドゥーの神々やその偶像が描かれている点で、釈迦や仏教にまつわる物語が語られているボロブドゥール寺院と異なる。が、遠くから見ると、少なくとも私のような門外漢には全く見分けがつかない。

パランバラン遺跡を見ているうちにスコールに襲われた。突然の大雨。が、私はそのようなこともあろうと、100均で購入したレインコートを用意していた。みんなが慌てふためく中、私は悠々と歩いた。ただ、そのせいでガイドさんは濡れてしまったが。

ガイドさんは中尾彬をもっと人相を悪くしたような男性だが、とても知的で気が利く。私よりはいくらか年下だろうと思っていたが、父上が私よりも若いと知ってびっくり。インドネシアの人は老けて見える! ガイドさんにいろいろなことを教えてもらったが、それは後程書く。

ジョグジャカルタは一日で観光して、夜の便でバリ島デンパサールにわたった。

時間よりも少し早く到着。とても快適な空の旅だった。晴れていたので、しばしば夜の地上が見えたが、ジャカルタはもちろん、その後もずっと人家の明かりがたくさん見える。改めてインドネシアの人口の多さを感じる。

10分ほど予定より前にデンパサール到着。すぐに出口に行った。ところが、来てくれているはずのガイドさんがいない。焦った。正規の到着時間になれば来るかと思って待っていたが、それでも来なかった。緊急連絡先に電話してみたが、通じなかった。が、正規の時間よりも15分から20分遅れでやっと到着。しかも、遅れたことで焦る様子も詫びる様子もない。私が文句を言ったら、「すみません」と一言言っただけ。しかも、日本語がよく通じない。ガイドさんの運転する車でホテルに行ったが、まさしくあおり運転。無理な追い越しを何度もし、前の車が遅いとぴったりついて、しばしばパッシング。

そのガイドさんに帰りに空港まで送ってもらうことになっていたが、ホテルに到着後、キャンセルした。また遅刻されてもかなわないし、こんな運転の車に乗りたくない。

ホテルもあまりよくない。「スーペリア・ルーム」ということだったのだが、場末の小さな、そしてあまり設備もよくなく、がやがやしてかなりうるさいホテル。スタンダード以下のレベルではないか。今更仕方がないが。

ホテルまでの車で行きながら、ここが大都会だと知った。リゾート地だと思っていたが、それ以上に大都会だ。道は夜中なのにぢ亜渋滞し、人でごったがえし、建物が並んでいる。私のバリ島のイメージは30年以上前のものなのかもしれない。

 

3日目

 この日は、私が参加したツアーでは自由日となっていたので、別の業者のバリ島観光を予約しておいた。ガイドさんと7時45分にホテルのロビーでの待ち合わせだったが、kん回のガイドさんも5分近く遅刻。まあ、5分は許容範囲だろう。遅れるのはお国柄なのかもしれない。

 今回のガイドさんも日本語が達者ではない。質問したことの多くに的外れな答えが返ってくる。時々説明してくれるが、半分くらいしかわからない。善良な人だとは思うが。

 車でタバナンに向かったが、まず、バリ島がとてもきれいだということに気付いた。ジョグジャカルタの裏町のような不潔さがない。貧しい様子も見えない。ほとんどすべての家には必ず木が植えられており、道も整備されている。左側通行でもあり、日本を車で走っている気分に陥る。交通マナーも、オートバイ以外はかなりよい。

 タバナンに行く途中、ガムランの楽器を作る作業所と木の彫刻を作る作業所に寄った。バリの村々はその村ごと職能があるらしい。織物を作る村、石像を作る村、楽器を作る村、彫刻を作る村、銀細工を作る村などがあるという。いくつかを訪れる予定になっていたようだった。

「お土産は買う気はない。作業所見学という名前のお土産物屋には連れて行かないでくれ。音楽が好きなので、それに関するところだったら見たい」と強く言ったら、ガムランの作業所に連れて行ってくれたのだった。打楽器や管楽器、鐘を作っていた。これは楽しかった。彫刻の作業所は、「買わなくていいから」と無理に連れていかれた。確かに、手の込んだ見事な彫刻。芸術性のありそうなものも多い。ヒンドゥー教に基づくのかエロティックな題材も多かった。もちろん、何も買わなかった。

 タバナンの棚田をみた。美しい棚田。景色そのものが美しい。緑が多く、実に落ち着く。そのあと、キンタマーニに行き、バトゥール山とその横のバトゥール湖を見下ろすレストランで昼食。作業所を断ったせいで、11時ころからの昼食。腹がすいていないので困った。

 道中、田舎の家々を見ることができた。ちょっとした家には、敷地内に祠がある。お寺の銅のような建物が一つの敷地にいくつもある。ヒンドゥー寺院かと思っていたら、一般の民家だという。5つも6つも敷地内に建てられている。赤い美しい瓦の屋根、神々などの彫刻された木や石によるお堂だ。特に素封家に限らないらしい。そのようないくつもの堂を持った家が何軒も続く。バリ島の豊かさと信仰心を強く感じる。

 その後、ウブドで散策。ウブドは軽井沢のような街。おしゃれな店が並び、観光客が歩いている。西洋人が多い。何も予備知識なしに、プリ・ルキサン美術館に入ってみた。緑の多い公園内にいくつかの西洋式の建物があって、実に雰囲気がいい。バリ人の画家たちの作品を集めている。素晴らしかった。宗教画風のものが多い。地獄絵のようなものもたくさんあった。ヒンドゥー教に基づくので、官能性が隠されずに真正面から描かれる。人間の業、愛、苦しみを細密に描く作品が多かった。素晴らしいと思った。

その後、タマン・アユン寺院に向かったが、豪雨になった。タマン・アユン寺院に入ろうとしたら、駐車場も、その先の寺院へ行く道も水があふれており、警備員に入場しないように指示された。確かに、奥の方の人たちは、ズボンをまくり上げ、くるぶしの上まで水につかって歩いていた。あきらめて、次の目的地タナロット寺院に向かった。ところが、あちこちで水路や小川が氾濫して、道が水浸しになっている。交通止めになるほどではなかったが、インフラの不備を感じた。

タナロット寺院は、海の神がまつられる海辺の寺院だ。陸地から、満水時には隠れてしまう道を通って寺院に行く。モンサンミシェルや江の島と同じような作りの寺院だ。到着したが、雨がやまない。カッパと傘で進んだ。しばらく待って、少し小降りになったので近くまで行った。

が、それでバリ島巡りのプログラムは終わり。あとは夕食。あれこれパスしたので、16時半頃の夕食になった。そして、ホテルに戻って一休み。

詳しいことは後日、書くことにして、そろそろ本格的に休憩する。

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スリランカについて考えたこと

 スリランカを旅行しながら考えたことをまとめる。もちろん、35日の、しかもガイド付きのツアーなので、ほとんど何もわからなかったに等しい。が、旅行者であるがゆえの視点もあるだろう。ともあれ、素直な感想を記す。

 

・私は、スリランカが大変気に入った。移住しなければならないようなことになったら、ここがいいと思った。ブータンも素晴らしいと思ったが、そこに住むと息苦しくて退屈でたまらなくなるだろうことは目に見えている。スリランカはそんなことはなさそう。気温も思ったほど高くない(少なくとも、私のいる間は20度から30度の間くらいだった)し、治安もいい。食べ物もおいしい(基本的にカレーばかりだけど)。

・物価は意外に高い。観光客向けの店が多かったせいもあるかもしれないが、何度か入ったスーパーでも日本の8割くらいの感じ。小さなバナナ3本とイチゴ10粒、板チョコ、円筒形の筒に入ったポテトチップ(どう呼べばいいのかわからない)を買って1400スリランカルピーだった。日本円で1000円を超す。日本より高いのではないか。ヤシ酒の360ミリリットルが1000ルピー(800円くらい?)、現地のものらしいペットボトル入りのジュースが120ルピー程度(100円くらい?)。ガソリン代がレギュラーで117ルピーだった。税金が含まれているとはいえ、かなり高額。マッサージ40分で4000ルピー(3000円以上!)。

・スリランカは日本人が思っているほど「遅れた国」ではない。少なくとも、今、猛烈な高度成長の時期にあるようだ。あちこちで工事が行われている。物価はインフレ状態にあるという。道には日本車があふれている。バスやトラックにはインド製のTATAのものが多いが、乗用車はほとんどが日本製。時々、韓国製や西洋の車がある。

・私がその国の「民度」を計るのに、一つには交通マナーを意識しているが、全体的には決して悪くない。信号が少ないために割り込みなどが起こるし、トゥクトゥクがとりわけマナーのよくない運転をしているようだが、それを除けば、かなりマナーはよい。

・私がもう一つ「民度」を図るために考えているのは、熱帯地域における上半身裸の男の存在だ。もちろん、スリランカでも農業地域で上半身裸で作業をしている人は見た。だが、都市部にはほとんど見かけない。

・宗教対立に根深さについては感じないでもなかった。表面的には、驚くほど多宗教が併存している。仏教徒、ヒンドゥー教徒、イスラム教徒を見かける。違和感なく歩いている。が、ガイドさん(穏やかで社交的なシンハラ人の30代男性)の様子を見ていると、他民族、他宗教の人と交流しているようには見えない。「ここはタミール人の多い地域だから・・・」「ここにはイスラムの人が多いので・・・」などと、自分の立ち入るべき地域ではないことをほのめかす。2009年まで、スリランカでは、スリランカ政府と一部のイスラム教徒の間で内戦が起こっていた。スリランカ政府にも行き過ぎがあり、罪のないイスラム教徒も被害に遭ったが、政府が勝利して集結した。だが、火種はあちこちにありそう。

・植民地風の建物が多い。つまり、かなり西洋風。小さくて汚い家ではなく、しっかりした作りの家が多い。小さくても西洋の田舎の家のようなしゃれた雰囲気がある。

・かなりの日本びいきの国のようだ。ガイドさんとドライブインのような店(ただし、屋台をきれいにしたような店。国営だという話だった)に行った。紅茶とおいしいパンをお食べていると、社交的なガイドさんが売り子の女性に話しかけた。二人のうち一人は、「姉の夫は日本人」といい、もう一人は「弟が日本に仕事に行っている」と語っていた。

・信心深い仏教国であり、あちこちに寺院があり、ストゥーパがある。寺院にお参りに行くときには白い服を着るのが習わしらしく、寺院の近くには白い服の集団が見える。寺院ではなんだか歌が歌われている。ちょっと不思議な流行歌化、もしかしたら「コーラン」なのかと思っていたら、仏様への感謝を歌っているという。

・念仏を聴いた。尼僧の念仏だった。流麗な歌のようだった。日本の念仏のような厳かさはあまりない。念仏はシンハラ語のほか、元通りのパーリ語で唱えられることもあるという。

・仏教国とはいえ、ブータンとはかなり雰囲気が異なる。スリランカでは仏教が息づいているのだろうが、ブータンのように仏教のただなかで生きているようには見えない。しかも、仏教はかなり現世利益的な雰囲気がある。生命の原初に仏を考えるというよりは、お釈迦様に自分の無事や成功をお願いしているようだ。

・アジア地域に行くと、これまで、しばしば夜のツアーに誘われた。ナイトクラブやもっといかがわしい看板などもよく見かけた。だが、スリランカではそのようなことはなかった。せいぜい、ちょっと怪しさのあるマッサージ店があったくらいだ。何らかの規制が行われているのだろう。そのため、猥雑さがなく、困った客引きもいない。行くところに行けば、それなりに不健全なところはあるのかもしれないが、日常の中にそれが見えないのはとても慶全なことだ。それだけ安心して暮らせる国だということだろう。

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ホテルから見たコロンボの街 工事中の建物、インド洋

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リワンウェリ・サーヤ大塔の前で行列を作る村人

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スリランカ最終日

 今日は20171018日。16日にスリランカから帰国して2日たつが、スリランカの最終日についてまだ書いていなかったので、ここに記す。疲労と仕事のために、これまで書く時間を見つけることができなかった。

 

 20171015日、朝、ホテル・シーギリヤを出て、シーギリヤの岩山に向かった。

5世紀。カーシャパは王の長男だったが、母は平民だった。王族の血を受け継ぐ腹違いの弟がいた。父を殺し、王位を奪って、シーギリヤの平地に突き出した一枚岩の山に王宮を建てて、そこで暮らした。しかし、11年後、インドに逃れていた腹違いの弟の攻撃を受けて自害した。そのような歴史物語の展開された岩山だ。

 いかにも狂気の王にふさわしい不気味な岩山だ。ホテルのテラスからはっきり見えていた。車でふもとまで行って、そこから山に向かった。

 1000段を超す階段が作られ、頂上まで登れるようになっている。大学の授業のために3階まで階段で上がっただけで息切れがしている運動不足の私には、頂上踏破は無理だろうと思ってガイドさんに途中棄権をほのめかしたが、ガイドさんは取り合ってくれなかった。仕方がないので、腹を決めて歩き出した。ガイドさんとはいったん分かれて、途中で合流することにして、一人で登り始めた。

上りと下りが一人ずつ行き違えるくらいの狭い階段を観光客が行列を作って上る。観光客の半分以上が中国人。ほかはスリランカ人、インド人、西洋人。日本人はほとんどいないようだ。近年になって鉄の手すりがついているので、それほどの危険はないが、すぐ下は岩の崖なので、体力に自信のない私はかなり不安を覚える。ところどころに休憩できる踊り場のようなものもあったので、休み休み進んだ。高齢者もかなりいる。そのためもあって、全体的にかなりゆっくりの歩みになる。私は、自分のせいで列が停滞するのを恐れて、明らかに85歳は過ぎたであろう西洋人を見つけて、その後を歩いた。が、驚いたことに、その御老人は、むしろ私よりも健脚のようで、長く休むことなく歩き続けていた。

岩山の中腹にらせん階段が作られている。それは洞窟に続いていた。そこには色彩豊かな壁画が残されている。シーギリヤ・レディと呼ばれる美人画で、妙になまめかしい5、6人の半裸の女性が描かれている。5世紀に描かれたことは間違いないようだが、この絵の意味は謎のままだという。

洞窟からいったんおりて、ガイドさんと合流し、中腹で一休み。

 シーギリヤとは、「ライオンの喉」という意味で、かつては大きなライオン像があったとされているらしい。ライオンの左右の爪痕の像が残されており、その間を通って頂上に向かった。ここからは踊り場はなく、ずっと上り続けるしかない。またしても、高齢者を見つけて、その後を歩いた。ゆっくりゆっくりだが、ともあれ頂上に到着。かつて王宮があり、カーシャパが自害した場所だ。周囲には平原があり、山がある。風が吹いて心地いい。

 しばらくたって岩山から降りた。足が棒のようになった。つまずきそうで怖かった。

 ガイドさんの車でコロンボに向かった。

足が疲れたことを話すと、「近くにいいマッサージの店がある」とのこと。もちろん、外国人向けの高いマッサージ店なのだろうが、一人で危険なところに行くよりは安心だと思って、誘いに乗った。ホテルの敷地内にマッサージ専用のコテージのようなものが10軒ほどあり、それぞれにベッドがあってマッサージを受けられるようになっている。妙齢の女性によるオイルを使った全身マッサージを勧められたが、私は屈強の男性による足だけのマッサージを選んだ。が、まったく屈強ではないなよなよとした感じの男性がふくらはぎを中心にやさしくマッサージしてくれた。あまり効き目のないやわなマッサージだと思ったが、効果があったのだろう、その後、太腿にかなり強烈な筋肉痛を覚えるが、ふくらはぎは痛くない。

 途中、タンブッラで仏像を見たり、食事をしたり、休憩のお茶を飲んだりしながら、コロンボに到着。コロンボの市内観光。

 夕方、いったんガイドさんと別れて、知人の知人であるコロンボ在住の日本人二人とインディペンデント・スクエア付近にある有名なスリランカ料理の店カーマ・スートラで食事をとった。カレー料理だったが、きわめて洗練された上品な味。驚嘆するべきおいしさだった。とても楽しいスリランカの話を聞いた。

 再びガイドさんと合流。空港にいって、キャセイパシフィックの深夜の便にて香港経由で帰国。日本到着は16日の15時半過ぎだった。

 スリランカについて考えたことについては、そのうちにまた書こうと思う。

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スリランカ3日目 キャンディ・アヌラーダプラ・シーギリヤ

 昨日書いた文章を読んで、あまりに推敲されていないことを反省。が、生のままに書くのもいいだろうと思って、そのままにする(明らかな間違いだけを後でただすことにする)。

 キャンディアン・ダンスについての感想をほとんど書かなかったので、少し付け加える。ドラムを使った音楽とダンスだった。ドラムにはいろいろにリズムがある。が、トンツクテンテン・トンツクテンテンというパターンが最も多かった。踊りは色気ある女性と躍動感のある男性が中心で、腰のひねり、首の回し方がおもしろい。ただ、芸術的に高レベルというものではなかったし、宗教的な儀式という雰囲気もなかった。軽いショーということだろう。その後、屋外で火のショーが行われた。燃え盛るたいまつを体に近づけたり、燃えている木炭(?)の上を5メートルほど歩いたり。確かに恐るべき力だとは思ったが、この種のものに対する感受性は、私はあまり強くない。感心してみただけだった。

 

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 朝、起きてみたら、キャンディの私が泊まったホテルは高台にあり、実に良い見晴らしだった。素晴らしい風景。

8時半にキャンディのホテルを出て、マータレー、ダンブッラを車から見物して、アヌラーダプラに向かった。

ガイドさんの運転はかなり丁寧。安全運転といっていいだろう。ほかの人も、渋滞時には割り込みがあるが、それを除けば無謀なことはしない。道もかなり整備されている。幹線道路ということもあるのだろうが、周囲の建物もきれいに整えられたものが多い。植民地風というのか、西洋風な建物も多い。緑が多く、その中に家がある。

途中、食事をしたりして、13時ころにアヌラーダプラに到着。2500年前にスリランカの都があった場所だ。

まず岩肌を掘って作った寺院(イスルムニヤ精舎)に行った。ここもはだしになって、岩に上った。もちろん、ほとんどがその後修復されたものだというが、紀元前から残っている部分もあるらしい。中には、寝釈迦像もあった。

次に、そのすぐ近くにあるスリー・マハー菩提樹に足を運んだ。釈迦はブッダガヤにある菩提樹の木の下で悟りを開いたが、その木からとった若木をアショーカ王の娘がこの地に持ち運んだという。現在のその木を中心に小さな寺ができており、今も多くの人を集めている。大勢の現地の人が菩提樹を取り囲んで念仏を唱えていた。

その後、歩いてルワンウェリ・サーヤ大塔に行った。白い巨大なストゥーパ。仏舎利が収められているとされており、世界で最も信仰を集めている施設だという(スリランカの人は少なくともそう信じている)。到着したときは観光客だけでがらんとしていたのだが、白い服を着たスリランカ人が次から次へと長い旗を持って現れた。先頭に、キャンディで見たダンスショーと同じような紛争をした人がドラムをたたいて先導し、その後に村人が続く。私は三組見たが、最も多い列は2、3百人いたのではないか。その人たちは念仏を唱和して歩いてストゥーパに向かい、敷地内の座って講話を聴くようだ。あちこちの村人たちがこのようにして人を集めて参拝に来ているのだという。とりわけ、満月の日は大勢の参拝客であふれるらしい。年寄りから子供までたくさんいる。子供はあまり信仰心が強いようには見えない。遊び半分といったところ。

参拝客の中には、足腰が弱くて二人ほどに支えられている高齢の女性がいた。車いすは禁止されているという。きっと子供たちが支えて、母の願いをかなえようとしているのだろう。かなりの距離をこうして歩いて参拝に来たのだろう。

アヌラーダプラを出て、シーギリヤに向かった。幹線道路から周囲を緑に囲まれた整備された細い道路に入って30分ほどで、私の泊まるシーギリヤ・ホテルに到着。シーギリヤ(かつて王宮のあった岩山)がホテルから見えた。みるからの異様。夜になっていたので、そのまま宿泊。ホテルはバンガロー形式で、これもまたとても瀟洒で雰囲気がいい。

今は20171015日のスリランカ時間の午前7時前。そろそろ朝食を取りに行く。写真を載せようと思ったが、接続の関係か、私の技術不足なのか、うまくいかない。ともあれこのままブログにアップする。

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スリランカに来ている

   一昨日、つまり2017年10月12日からスリランカに来ている。今年6回目の海外旅行。今回はスリランカにした。もちろん個人旅行は無理そうなので、前回のモンゴルと同じようにガイド付きツアー。3泊5日の弾丸ツアー。
  とはいえ、今回もメンバーは私だけ。日本語のできるガイドさんが運転して、ガイドしてくれる。
 今、14日のスリランカ時間の早朝。早く寝て、早く目が覚めたので、これまでのことをブログに書く。
 
日本を朝に出てキャセイパシフィックに乗って香港を経由、スリランカには夜中に着いた。   到着時、夜中なので空港は閑散としているかと思っていたら、かなり大きな空港なのにごった返していた。免税店がまるでアメ横のように広い通路の真ん中に列を作って電化製品や化粧品や日曜人の小さな店が並んでいた。サリーを着た女性が売り子に何人もたっていた。
  ガイドさんと顔を合わせてそのままホテルに入った。 ガイドさんは30代の元気な男性。感じがよく、日本語もうまい。ただ、正式に日本語を勉強したことはないとのことで、字はほとんど読めないとのことだった。字を読めないのに、これほど流ちょうに話すことに、外国語会話の苦手な日本人としては信じられない。
    外は夜中だけに車も少なく、すんなりとホテルに到着。暑いといえば暑いが、26~27度といったところだろう。残念ながら、観光にふさわしくない雨季だということで、コロンボに向かう間も時々雨がぱらついた、真新しいホテルだった。シャワーを浴びてすぐに寝た。
10月13日、
 朝の8時40分にガイドさんと待ち合わせて、ホテルを出発して、フォート駅に向かった。道路は大渋滞。日本車が多い。車の割り込みも多い。ただ、このところ途上国を旅行している身からしてみれば、それほど驚くほどではない。マニラ、カイロ、ウランバートルはこんなものではなかった。
  駅付近は屋台が出て、人々が歩き、タクシーやトゥクトゥク(ただ、こちらでは別の名前で呼ぶようだ)が並んで、バンコクの駅などと同じような雰囲気。 駅に到着するころになって、突然大雨になった。しばらく待って、小降りになったところで、ガイドさんの運転する車を降りた。雨はすぐに上がった。 大きな駅で、通勤客でごった返していた。通勤客とはいっても、スーツを着ているわけではないので、私たち日本人は異様に思える。普段着と思える服を着たスリランカ人が列車から降りて出口に向かう。
  列車には一人で乗り込み、ガイドさんはこれから車で目的地に向かうという。目的地で合流してまた行動を共にすることになる。
  私は「てっちゃん」というほどではないが、海外に行くとできれば列車に乗ることにしている。今回も列車に乗れるツアーを選んだのだった。エクスプレスで3時間ほどかけてペラデニアに向かうことになっていた。
 30分ほど待ってやってきた列車に乗り込んだ。1等の指定席のようだが、列車は薄汚れた茶色出し、中に入ってもエアコンはない。椅子はガタピシし、えんじ色のカーテンは汚れが目立つ。窓も汚い。すぐに窓を開けた。私の周囲の客はほぼ全員が観光客のようだった。5,6人の家族でやってきているグループもいた。西洋人が数人いる以外は、インド人か、スリランカ人なのではないか。日本人や中国人は見かけなかった。
 列車で素晴らしい時間を過ごすことができた。
 沿線には低層のさびたトタン屋根の貧し気な家が並んでいる。洗濯物があり、子供の遊び道具があり、生活の道具がある。その周囲にはヤシやバナナなどの熱帯の植物が生い茂っている。バナナがなっており、ヤシが実をつけている。大自然の中に人間が暮らしているのがよくわかる。経済的には貧しいだろうが、自然に恵まれ、大自然の中で生きている。時々、小さなお寺やストゥーパが見える。また、森になる。こんなに緑の多い首都は初めて訪れた。
 しばらく行くと泥色に流れる川があった。周囲は木々でおおわれている。田んぼもあった。畑もあった。手作業で畑を耕す人も時々見える。農作業をする牛もときどき見かけた。トラクターは一台見ただけだった。そのような田や畑も野原に囲まれ、周囲には南洋植物の生い茂るジャングルがある。  時々、駅に近づくと家が増えてくる。だが、緑は相変わらず多い。自然を壊して都会を作ったという印象がない。駅で降りる人もゆっくりしている。50年ほど前の大分県の久大線での光景を思い出す。大きな荷物を持っている人も多い。
 列車に乗って2時間くらいしたころだろうか。列車が坂を上り始めた。それがずっと続いた。1時間以上、ずっと上り坂だった。周囲はそれまで以上に緑が深くなり、まさしく山になった。トンネルをいくつか通った。まれに人家が見える以外は高原が広がるようになった。絶景だった。
 3時間ほどでペラデニア到着。そこでガイドさんと待ち合わせることになっていた。それほど大きな駅ではないのですぐにわかると聞いていた。確かに、小さな駅だったが、乗換駅らしく客がごった返していた。探してみたが、ガイドさんはいなかった。渋滞していると車のほうが遅くなるかもしれないので、待ってくれと言われていたので、ベンチに座って待った。
 乗り換えホームが決まっていないらしく、駅員さんが何かを大声で言うと、人々の群れがどっと移動してホームに行き、しばらくして大きな音を立てて列車がやってきて、混乱が起こりながら客が乗り込む。そこで降りてきた客が今度はここで別の方面に乗り換えるらしくて、人があふれる。ホームには大きなテレビ画面があって何かを放送していたが、もちろんデジタル放送ではなく、しかも写りが悪くて、見るに堪えなかった。もちろん、どうせ見ても何が話されているかは全く分からないわけだが。
 駅のホームに2,3匹の野良犬がいた。客たちは何も注意を払わないが、それなりに居場所になっているようだ。ブータンほどではないが、あちこちに野良犬がいる。おとなしくて危険はなさそうだ。  駅で待つうちにまた雨が降り出した。かなりの大雨になった。 しばらくしてガイドさんがやって来て、合流。車でキャンディーに向かった。途中で遅めの昼食をとった。川の見える店で、外国人の集まるレストランになっているようだった。ガイドさんはあちこちに顔が利く。多くの人と親しげに話しをかわし、よい席を用意してもらえる。
 その後、キャンディに到着。落ち着いた古都と聴いていたので、京都のようなたたずまいを想像していたら、大渋滞が起こっており、割り込みがあり、日本人からするとガサガサした様子が見える。ただ、コロンボのようなごった返した様子はない。
  キャンディ湖(王宮があったころに作られた人口湖)付近は王宮の跡があり、高台に趣のある家が並んでいて、とても美しい。  すぐ近くに仏歯寺がある。仏歯寺というのは、釈迦が火葬にされた時に拾われた釈迦の歯が祀られた世界で唯一の寺だとのこと。インドにあったものがスリランカに移され、その後、敵からもイギリスからも守って現在に至るという。 雨が続いていた。
  公園のようになった境内を歩いて、本殿に入った。はだしでなければならないというので、雨が降っているのにはだしになって、濡れた廊下を渡って中に入り、仏歯が収納されている祠をみた。観光客がたくさんいた。インド系の人々(スリランカ人かインド人か区別がつないので、このように書かせてもらう)が多いが、そのほかは中国人、西洋人(英語、ドイツ語、スペイン語、フランス語が聞こえた)。日本人には一人も会わなかったかもしれない。今の時期、日本人観光客は少ないのか。 その後、キャンディ・マーケットを見物し、キャンディアン・ダンスを見に行った。マーケットは果物、野菜、肉、衣類を売る小さな店が軒を連ねていた。ダンスは私としては、あまり面白いとは思わなかった。
 朝食の時間になったので、ここでいったんブログを書くのをやめる。 時間があったら、また書く。

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ウランバートル(モンゴル)旅行のまとめ

たかだか34日のモンゴル旅行なので、たいしたことはわからなかったが、今回の旅についての印象をまとめておく

・ウランバートルはかなり近代的な大都市だ。きれいな建物があり、20階建て程度のビルもたくさんある。ロシアの雰囲気。ソ連時代ふうの無味乾燥な監獄のような建物も目に入る。おしゃれな建物もロシア風。ただし、売られているものは多くが中国製のようだ。チンギス・ハーン広場に市が立っていたが、文房具、服、機械類のほとんどは中国製のようだった。モンゴル製らしいものは、農業製品以外にはなさそうだった。

 

・ホテルのすぐ隣にスーパーがあったのでのぞいてみた。ヨーロッパでよく見かけるタイプのスーパーだった。果物や野菜は自分で袋に詰めてレジに持っていくようになっている。倉庫のように品物がざっと並んでいる。中国製が多い。ラーメンやうどん、調味料など日本製もある。スコッチなどもある。品ぞろいはとても良かった。夕方、ほんの短い時間だったが、ホテルの周囲を歩いてみた。コンビニを見つけた。小さめの日本のコンビニと同じような雰囲気で、セブンイレブンと似たマークだった。品ぞろえも日本に似ていた。英国製ウィスキーなどは日本と大差ないが、一般の商品については、日本よりもかなり安かった(半額か三分の一くらい?)。

 

・正直言って、3日間食べた料理は、あまり私の口には合わなかった。ただ、私の食べたものが、モンゴル料理かどうか怪しい。西洋風にかなりアレンジされたものだったように思う。とはいえ、きっと、日本人にも抵抗のないように気をつかってくれているのだろうから、実際には、本格的なモンゴル料理はもっと日本人には食べづらいものなのかもしれない。一言で言えば、どれも大味で胃にもたれる。

 

・草原の風景は素晴らしい。ほんの少し郊外に行くと草原が広がり、そこで放牧がなされている。モンゴルの人は見慣れた風景だろうが、まさに絶景。もう少し郊外に出ると、見渡す限りの草原になる。これを見ただけで幸せを感じる。そして、星空。私は本来、天体にほとんど関心のない人間だが、ゲルからトイレに行こうとして、空を見上げてびっくり。もっと暗いところに行ったら、もっと美しかった。ガイドさんと顔を合わせたので、そのことを言うと、ガイドさんは、このくらいの星空できれいだということが不思議らしく、「本当に晴れていたらこんなもんじゃありませんよ」といっていた。よほどすごいのだろう。

 

・ともかく渋滞がすごい。ウランバートル市内は、どこもかしこも大渋滞。電車、地下鉄はない。新学年直前だからいつもよりもひどいというが、それにしても、凄まじい。幹線道路はまったく動かないといってよいほど。朝夕のラッシュ時でなくても、中心道路のどこもが大渋滞だった。左折する場合など、一回の信号で1台か2台しか進めないことも多い。大通りごとに左折車線に長い列ができている。ところが、その列の後方にいた車が、列から抜けるので、左折をあきらめて直進でもするのかと思っていたら、左折車線の前のほうに行って割り込もうとする。そんな車が何台もある。そのためによけいに渋滞する。

 

・交通マナーは、割り込みを除けば、それほど乱暴ではない。まあ、乱暴に運転しようにも渋滞なので、しようがないとも言えるだろ。ただ、割り込みと車線の奪い合いは凄い。少しでも先に行こうとする。気持ちはわからないでもない。少しでも先に行けば、先に大状態から抜け出せる。

 

・チンギス・ハーンの騎馬像付近もホテル付近も、階段の破損や道路の陥没などが気になった。また、道路の破損もあちこちにあった。昔、東ヨーロッパに行ったとき、建物そのものは立派に見えるものの、中に入るとあちこち故障していたり、機能していなかったりするのを経験したことがあるが、それに似たものを感じた。外見はそれなりに整っているが、手抜き工事なのかメンテナンス不足なのか、その両方なのか、きちんと機能していない。これでは、地下鉄などの公共交通システムが完成させ、メンテナンスを続けるのは難しそうだ。

 

・とても有能なガイドさん(日本人とまったく変わらない日本語だった。ただ、現在の日本の言葉などについてはよくわからない様子だった)だったが、約束の時間に少し遅れてきたり、モノを紛失したりということがあった。また、ホテルにバスタブ付きの部屋を申し込んだはずなのに、シャワーしかなかったり、フロントにモーニングコールを頼んだのに何の連絡もなかったりというホテルの不手際もあった。多くの面でザツさを感じた。これだけで決めつけることはできないが、街の雰囲気などから考えて、緻密にきちんと行うことが苦手な人が多いという印象を受けざるを得ない。

 

・人の顔を識別するのが苦手な私は、モンゴルの人の顔を見分けるのに苦労した。モンゴル人はみんな似ている! これほどみんなが似ている国民は少ないのではないか。男性は、8割くらいの人が、白鵬か朝青龍か旭鷲山にそっくり。とりわけ、朝青竜に似ている人が多いと思った。さっきの人と今の人が同一人物なのかどうか、たびたびわからなくなった。私についていたガイドさんは白鵬に似ていたが、(たぶん目印として)ニューヨークヤンキースの野球帽をかぶっていたので識別できたものの、帽子を脱いだとたん、どの人がガイドさんなのかわからなくなっていた(ガイドさん、ごめんなさい!)。モンゴル人はみんな兄弟のようだと思った。

 

・ゲルというのはモンゴルの誇るべき伝統文化なのだと思っていたら、現実にはそうでもなさそうだった。ガイドさんの話をつなぎ合わせて考えると、モンゴルの市民はゲル地域の人とマンション地域の人の二つの階層に分かれているようだ。ゲル地域の人は貧しくて、暖房に石炭を使うために、その周辺は空気が悪い。マンション地域では水蒸気を使ったセントラルヒーティングになっており、空気を汚さない。そのため、経済的余裕のある人は空気の汚れていないマンション地域に移り住んでいるようだ。

 

・韓国人観光客が異様に多かった。テレルジのゲルの私の周辺は韓国人の若い男女や中年男女でいっぱいだった。そのほかは中国人が多かった。西洋人(フランス人が意外と多かった)、日本人もしばしば見かけた。韓国人が多いのは、北朝鮮のミサイルへのサード配備の問題で韓国人は中国に行けなくなったため、その周辺地域への旅行客が増えているのだろう。

 

・都市全体が世俗的だと思った。寺院もあまりに現世利益的。厳かさや精神的な深さが感じられない。ブータンとはかなり異なる。社会主義の時代のために、過去のモンゴルの文化は失われてしまったのだろうか。それとも、私の選んだツアーがそのような傾向だったのだろうか。

 

・帰りの飛行機のエコノミー席には180人近くの客が乗っていたと思うが、トイレが二つしかなかった。5時間ほどの飛行時間で、しかも、朝の出発(つまり、家やホテルを朝の6時くらいに出て、朝食を機内でとっている)のだから、一人一回程度はトイレに行くし、かなりの人が短時間で済まない。トイレの前にはずっと長い列ができていた。この飛行機を海外の長距離に用いるのは無理があると思った。

 

・ガイドさんがつきっきりのツアーだった。ホテルでの朝食以外は、朝、昼、晩とガイドさんととった。とても優秀なガイドさんだったが、ひとりで散歩したり、自由に食事したりする時間がなくて少々きつかった。ガイドさんから離れた時には、私の体力ではかなり疲れきっていて、もう外に出る気力を失っていた。私のようなわがままな人間は好き勝手に街の中をふらふら見たいと思う。言葉も文字もまったくわからず、一人で観光地を回る自信がないので、ガイドさんにはいてもらいたいが、もう少し余裕がほしかった。もしかしたら、大渋滞のために予定通りの時間が取れずに、このような過密スケジュールになったのかもしれないが。

 

・ウランバートルがどんなところを知っただけで、とても有意義だった。ゴビ砂漠ツアーがあるとガイドさんに聞いた。そのうち行ってみたい。ただ、私のような体力も根性もない人間には少々つらいのかもしれない。

 

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ウランバートル(モンゴル旅行)3日目

 一昨日(2017822日)、ウランバートルから帰国した。昨日は、体調もよくなかったため、ゆっくり休養。本日(824日)、活動開始。ウランバートル3日目(821日)かkらの行動について記しておく。

 

ウランバートル3日目(2017821日)

 

 テレルジの国立公園内のキャンプ場にあるゲルで宿泊。

テレルジを朝のうちに出発し、ガイドさんに連れられて車でエルデネ村に行き、チンギス・ハーン像テーマパークをみた。高さ12メートルのステンレス製のチンギス・ハーンの騎馬像。展望台があり、お土産物がある。周囲に様々な施設を建設予定だという。ただ、正直なところ、私には少しも魅力的には見えない。像そのものも何の変哲もない、芸術性など全く感じられないものだし、娯楽施設も何もない。先ごろ大統領になったバトトルガ氏の会社が行った事業だというが、観光客もそれほど訪れているように見えない。しかも、できてから10年しかたたないというのに、階段があちこち壊れ、道路にもへこみや水たまりが多い。

 その後、ウランバートルに戻って、まずザイサン・トルゴイという丘に行った。ソ連とモンゴルの友好を記念するためものらしい。頂上に行くとウランバートルを一望できるとのことで、ここがウランバートル市内観光の出発点として選ばれたのだろうが、残念ながら、頂上まで階段を歩く体力の不足を感じて、中ほどでめげた。ただ、あまり芸術性も歴史性も感じられそうもないと思った。

 その後、一般家庭での昼食がツアーに含まれていた。スープとチャーハンをお年を召した女性が出してくれた。これはおいしかった。1LDKのこぎれいなマンションで、とても趣味のよい清潔な部屋だった。ただ、これが本当の一般家庭かどうか少々疑わしい。生活感があまりにないし、この年配の女性はツアー・スタッフの関係者らしい。もしかしたら、このような場所にビジネスとして使っているのかもしれないと思った。ま、もちろん、それでも一般家庭の雰囲気を味わえるのはありがたい。

 その後、ガンダン寺にいった。19世紀にたてられたチベット仏教の寺院。社会主義政権の初期には弾圧されたらしいが、その後、復権されて、現在に至っているという。市民の信仰の場になっているようで、多くの市民が参拝に来ていた。堂内ではたくさんの僧侶が一堂に会して読経をし、若い見習い層のような人たちが読経の練習をしているようだった。

 ただこれも、ブータンで実際に見たり、チベットの映像を見たりしたのと比べると、あまり信仰心が強いようには見えない。塀が壊れていたり、草がぼうぼうに生えていたり、コンクリートで簡易的にあちこちを修復したような跡があったりで、威厳がない。念仏を唱えている僧侶たちも、あまり熱心に見えなかった。居眠りしている年配の僧侶やおしゃべりしている少年僧もいる。

 その後、デパートを見た後、大渋滞を縫って、民族舞踊コンサート(たぶん、トゥメン・エフ民族アンサンブル)鑑賞。これは、とてもおもしろかった。ホーミーを初めて聴いた。確かに一人の男性が重音を出し、それが不思議な和音を作っている。そのほか、馬頭琴もいくつかの金管楽器も大変おもしろかった。歌も見事。モンゴル人のオペラ歌手が注目されてきているが、なるほど、オペラが盛んなのが納得できる。オペラの歌唱とはかなり異なるが、力強くよく響く声。中心地域にオペラ劇場があって、オペラ好きが多いというのも頷ける。

 その後、またまた大渋滞の中、チンギス・ハーン広場に行った。ウランバートルの中心をなす広場。スフバートル広場と呼ばれる時代も長かったようだ。私の泊まるホテルがこの広場のすぐ近くなので、初日にホテルの部屋から見えていた風景だが、この時初めて足を踏み入れた。広い広場の周りを政府関係の建物、オペラ座などがある。モンゴルの威信をかけているかのようなきれいで威容のある広場と建物だ。

 ざっと周囲を散歩して、そのまま大渋滞の中、レストランに行き、食事をしてホテルに戻った。

 翌日、朝6時にホテルを出て、空港に向かって帰国。

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ホテルの部屋から見たチンギス・ハーン広場

 

 

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ウランバートル駅

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駅付近で馬乳酒などを売る人

 

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草原

 

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テレルジの山とゲル

 

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チンギス・ハーンの騎馬像

 

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ガンダン寺

 

 

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ウランバートル

以下の文章を書いたのは、今朝(2017821日)だった。が、ネット環境が悪く、アップできなかった。ウランバートルのホテルに到着して、やっとアップできそう。この続きは、日本に帰ってからにする。

 

今、私はウランバートル近郊の国立公園テレルジ内のキャンプ場のゲルの中にいる。

ウランバートルに到着したのは昨日、2017819日。モンゴル観光を専門にする旅行代理店のツアーを申し込んだ。何人かのツアーかと思っていたら、カイロ、ブータンに続いて客は私1人だった。今年、10回計画している海外旅行の6回目。

 チンギス・ハーン空港でガイドさんに会ってそのまま車でホテルに向かった。ホテル近くのガイドさん(20代のとても日本語の上手な男性。子どもの頃、日本に住んでいたとのこと)とレストランで食事を終えたらもう夜だった。治安が悪いので夜は外に出歩かないようにガイドさんに厳しく言われていたので、急ぎの雑用を済ませただけでそのまま寝た。ウランバートルの何も見ていない。

 歩いているのは日本人とほとんど顔の区別のつかないモンゴル人だが、建物はロシア風。あちこちが広々としている。看板の文字もキリル文字が多い。車は圧倒的に日本車が多い。しかもプリウスが目立つ。

 

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朝ガイドさんに連れられて車で駅まで行った。途中、小さな朝市が開かれている場所に寄った。馬乳酒、果物、野菜が並んでいる。酸っぱいものが苦手な私は馬乳酒は一口で懲りた。

 ウランバートル駅は新しいが、駅舎は小さい。東京の私鉄の駅と大差がない。だが敷地は広大。駅の中は人でごった返していた。9月からの新入学の前の時期だということで、若い人やその親に見える人たちがたくさんいた。ウランバートル駅の列車を使うのはほとんどが遠距離客らしい。通勤に列車を使う人はごくわずかだと言う。

ロシア製の列車に乗って出発。シベリア鉄道の一部だとのこと。1970年代にフランスやイタリアンで乗っていたコンパートメント式の列車によく似ている。懐かしい! そのコンパートメントのひとつにガイドさんと乗り込んだ。2段式の寝台車になっていた 実は私は、この列車に乗るというスケジュールがあるために、このツアーを選んだのだった。列車好きの人間には、ほんの少しでも列車に乗るのはうれしい。数年前、ハバロフスクからウラジオストクまで乗っていらいのシベリア鉄道。

 

 ウランバートル駅を出ると、すぐにゲルがたくさん見えるようになる。マンションで暮らすことのできない人がゲルで暮らしていると言う。そのうちに草原が見えてきた。牛や馬や羊が草を食んでいる。ウランバートル駅から数キロのまだ道で車がたくさん通っているところに草原があり牛や羊や馬が放牧されていることにびっくり。徐々に草原が多くなり、動物の数が多くなった。そして見渡す限りの草原になった。

 ウランバートルから50分ほど乗ってホンホル駅で降車。ウランバートル駅まで送ってくれた車に乗ってテレルジ国立公園に向かった。車はガイドさんと私をウランバートル駅でおろしてホンホル駅で待っていた。

 しばらくなだらかな草原を走った。放牧されており、牛や馬や羊やヤクがあちこちにいる。しばらく行くと、それまでの草原と雰囲気の異なる風景が遠くに見えてきた。岩山が多く、切り立った山も見える。それがテレルジ国立公園だった。道は舗装されていないところもある。しかも雨たまりや雨でできた溝が出ている。車は、それらの溝を避けながら、ゆっくり走る。

 キャンプ場に到着して、ゲルに入った。要するにキャンプ場のテントの代わりにゲルが並んでいる。ゲルは個室になっていて、私にも一室が与えられた。その時点で、快適な一日が過ごせることはあきらめた。ストーブとベッドと椅子があるだけ。洗面台はあるが、水道が通っていない。自分でバケツでくんでくるしかない。共同シャワーはあるが、そこまで寒い中を100メートルほど歩かなければならない。夕方、すでに15度くらい。夜は5度前後になるらしい。

 その後、すぐにゲルを出て、牧場を経営している農家に行き、乳製品(馬乳酒やお菓子)を少し食して、次は乗馬体験。列車に乗るということばかり考えてこのツアーに申し込んだのだったが、後で乗馬体験が含まれていることに気付いた。断ることもできたようだが、まあこれも経験だと思って、馬に乗ることにした。

少女の乗る別の馬に先導してもらって、ゆっくりと進む。初めはバランスを取るのが難しかったが、すぐに慣れて、そこそこ乗れた。見る風景が素晴らしい。岩がせり出してた山々。人が乗せたとしか思えないような石が山頂や尾根に見える。亀石と呼ばれている、まるで亀のような形をした岩山まで行って馬を降りた。

 その後、寺などを見て、ゲルに戻った。

 寒い。乗馬には持ってきたすべての服を着こんで臨んだが、それでも寒かった。たぶん。温度は10度そこそこだと思う。しかも、天気が不安定で、しばしば小雨が降る。ズボンがしっとりとぬれている。ゲルのベッドにもぐりこんだ。ストーブがあり、薪があるが、ストーブに火を入れるのは夕食後だという。なんとか寒さをしのいで、キャンプ場のレストランでガイドさんと食事。その後、ゲルのストーブに火を入れてもらった、なんとか寒さをしのいだ。

 ところが、夜になって、ストーブの火が消えそうになっていた。薪は1時間程度で燃え尽きてしまうことを知らなかった。消えかかった火に手持ちの紙(旅行の日程表の既に不要な部分)や、地球の歩き方の今回使用しない部分をストーブに入れて、なんとか火を元気づけようとしたが、無駄だった。仕方なしに、22時過ぎにガイドさんを呼んで、スタッフに再び火を起こしてもらった。その日は5、6度くらいの温度になりそうだということで、石炭を入れてもらった。

 ただ、それで安心かと思っていたら、朝の4時ころ、寒くなって目が覚めた。石炭の火力が弱くなっていた。あわてて薪をくべた。薪をどうくべるかで、火が強まったり、そのまま消えたりする。当たり前のことだが、まきを使った経験がないと実に困る。

 トイレに行きたいが、そこに行くには5度の寒さの中を歩かなければならない。できるだけ我慢するしかない。8月中旬だから、まだ温かいと思っていたが、ちょっと時期が遅すぎた。

 今、朝の7時前。6時ころ、薪の火力が弱まってきたので、目を覚まして、ゲルの中でこれを書いていた。今日はこのくらいにする。

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天津旅行まとめ

 一昨日、2泊3日の短い天津旅行を終えて帰国した。天津で特に何をしたわけでもないのに、かなり疲労を感じて、昨日は一日ぐったりしていた。天津の3日間をまとめてみる。

 

天津3日目(2017721日)

 とても涼しい。最高気温が26度という予報だった。前日は38度だったので、10度以上の差。実際、朝食のために外に出てみたら、むしろ肌寒いほど。冷たい風が吹いている。雨の予報だが、いつ雨が降り出してもおかしくない状況。あれこれ店を探すのは面倒なので、昨日と同じ「李先生」で朝食をとることにした。このチェーン店、あちこちで見かけた。ネットで調べたら牛肉麺が売り物らしい。それを食べることにした。これはなかなかうまかった。

 セブンイレブンで買い物をしてホテルに戻り、日本のテレビ番組をみたり、出発の準備をしたりして過ごした。

 出発は一時間遅れたが、JAL機で中部空港到着。その後、夜の飛行機で羽田へ。帰宅は2330分ころだった。

 

天津旅行のまとめ

・私は民度の目安の一つとして交通マナー、タクシー料金の公正さを考えている。上海よりは少しよくない気がした。最終日にホテルから空港まで乗ったタクシーの運転手さんはかなり乱暴な運転だった。ぎりぎりまで接近し、追い越し、割り込み、あおって運転する。後部座席にはシートベルトがないので、少々こわかった。

ただ、料金はメーター通りに52元だった。考えてみると、空港とホテルを結ぶ道は迷いようのないわかりやすい道。東京で言えば、おそらく羽田から表参道の交差点に行くようなものだ。それなのに、初日、空港からホテルに向かうタクシーは何度も細い道を通り、ぐるぐる回り、料金も70元ほどした。きっとごまかそうとしたんだろう! 私はmaps.meでフォローしながらタクシーに乗っていたので、時々、ナビの指示とは異なる道に入りこむのには気づいていた。あまりにひどいようなら抗議しようと思っていた。許容範囲内なので黙っていたが、帰りのタクシーに乗った後になって、行きのタクシーが明らかに意図的に遠回りしたことに確信を持った。

天津はまだまだ交通マナー、タクシーマナーについては先進国レベルではない。

 

・暑い地域での民度の目安として私が考えているのは、上半身裸の男だ。途上国に行くと必ず見かける。本当の途上国では、子どもが素っ裸でいたりする。上海では見かけなかった気がするが、天津では上半身裸の男は何人か見かけた。上半身裸とまではいかないまでも、シャツをたくし上げて胸近くまで上げて歩いている男は何人も見かけた。まだ、そのような文化が残っている。

 ただ、私はこのような姿を見るとホッとする。近代化されずに残っている人間身を感じる。昭和のころ、私も私の父も友人たちもそのような格好で外を歩いていたのだから。

 

・あちこちでプロ意識の不足を感じた。市内観光のガイドさんもその典型。それ以外に、タクシーの運転手にも感じた。空港とホテルの間以外にも何度かタクシーを使ったが、道を知らずにスマホのナビをセットする運転手が何人かいた。日本人観光客に行こうとするところなど、指折りの観光地に決まっているのに、その場所を知らなかった。ホテルのフロント、お店の店員も、まるで今日始めたばかりのアルバイトのような雰囲気の人が混じっている。あちこちで、「これで大丈夫なのだろか?」と思った。今回たまたまそんな場面に出会っただけなのか? 伝統的な職業がなくなって、多くの人が新しい時代に適応して新しい仕事を始めたということなのだろうか。そして、今、それに誇りを持てずにいるということだろうか。日本でもしばしば「研修中」という人を見かけるが、そんな人ももう少しまともな気がする。

 

・ホテルのすぐ近くに日本語で「成人の店」と書かれた小さな店があった。興味をもってのぞいてみたら、いわゆる「大人のおもちゃ屋」だった。自動販売機に怪しげな道具がぎっしりと並ぶ無人の店だった。日本人向けなのだろうか。こんな店があちこちにあるのだろうか。中国政府はこのようなものを許しているのだろうか。もちろん私には用のない品物ばかりなので、何も購入しなかった。だいぶ前に、私は夜の街の探索を卒業したが、そのあたりの状況がどうなっているのか気になった。

 

・文化的に見るべきものがないという印象も抱いた。市内観光をお願いしたガイドさん特有のキャラクターによるのかもしれないが、連れていかれた場所のいずれも美術的、芸術的にかなりレベルの劣るものに思えた。日本人なら、どんなに芸術についての素養のない人でも一目で、それが芸術と呼ぶものに値しないとわかるような絵画や陶器を中国の人は人だかりを作ってみている。中国人は、長い間、お金儲けにばかり気を取られて、芸術に目を向けることを怠ってきたのだろうか。それとも、行くべきところに行けば優れた芸術に出会えるのだろうか。それともたまたま天津があまり文化的な土地ではないのだろうか。

 

・上海ほど国家資本主義によって無理やりに大躍進を遂げた大都市という雰囲気はなかった。古いものと新しいものがそれなりに折り合いをつけながら発展しているのを感じた。路地に昔ながらの、ちょっと不潔そうな店があり、そこに庶民がやってきて総菜を買ったり、おしゃべりしたりしているのは、とても健全なことに見えた。上海はそれが見られなかった(もちろん、たまたま私がそのようなところに行かなかっただけかもしれないが)。

 

・制限した内部での無秩序をあちこちに感じる。国家自体がそのようなシステムなのだろう。空港から出るにも、地下鉄に乗るにも、時には大きな店に入るにも荷物検査を受ける。どこにも大勢の制服を着た管理側の人間がいて管理している。だが、そのわりに内部は無秩序で、混乱している。国が枠組みを作り、それに違反する人は厳しく罰し、強権で一部の市民を排除するが、一般社会では人々が思い思いに金儲けに邁進し、時には汚いことをしても他人を出し抜こうとし、それほど規律だって生活しているわけではない。これが中国の原動力なのだろう。もう少し成熟すると、もっともっと文化的に世界をリードするものが生まれてくるのだろう。しかし、そうなると、制限そのものを否定するようにもなるだろう。

 

とりたてて大観光地があるわけではなかったが、私個人としては天津旅行を十分に楽しんだ。あといくつか中国の都市に行ってみたいと思った。

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