日記・コラム・つぶやき

京都の美濃吉での食事、拙著2冊、そして日大アメフト部のこと

 この数か月、とても忙しかった。もちろん、忙しいのは、コンサートや旅行に行っているからであり、引き受けなくてもよい仕事を引き受けているからでもあるので、人のせいにする気はないのだが、それでも忙しくて嘆きたい気持ちになっていた。が、ようやく5月末締め切りの本の原稿を書き終えつつある。5月、6月は少しのんびりできそう。

 一昨日(2018年5月22日)と昨日は京都にいた。京都産業大学付属中学の小論文教育を私が塾長を務める白藍塾がサポートしているので、その研修のために出かけたのだった。研修はきわめて順調。気持ちよく仕事を進めることができた。

 実際には日帰りでもよかったのだが、前日に京都に入って一泊した。なぜそうしたかというと、京都駅前の新阪急ホテル地下にある京料理の店、美濃吉で夕食を取りたかったからだ。京都に行くとき、この美濃吉での食事を何よりも楽しみにしている。美濃吉の中でも、私はとりわけ新阪急ホテルの店の味が好きだ。

 期待通りのおいしさ。私はいつものように、最も手ごろな値段の鴨川という京懐石をいただいたが、白味噌仕立てはいつも通りの絶品。丸茄子の田楽、茄子の鉢物、ちりめん山椒ご飯も実においしかった。そして、鯛の兜煮を注文したが、味のしっかりしみ込んでいる部分と鯛そのものの味の残っている部分のバランスがとてもよく、これまた絶品。

 私はこの店で食べるたびに、「ああ、幸せだなあ・・・」と感じる。それを感じたくて、この店に来る。

 5月23日、研修を終えて、雨の中、新幹線で東京に戻った。

51fkerxfqjl_ac_us200_351gofyqivcl_ac_us200_  ところで、5月中に拙著2冊が刊行された。『頭のいい人は「答え方」で得をする 』 (だいわ文庫)と、『小3までに伸ばしたい「作文力」』(青春出版社 なおこちらは白藍塾との共著)。

前者は、質問された時、何かを答えなければならない時に、どのような心構えでどのようなことを答えるべきなのかを、下手な答え方の例などを交えながら解説したものだ。

 後者は、白藍塾での小学生作文教室で行っている新たな作文指導の方法を紹介したものだ。空想作文を基軸に据えながら、そこに経験や知識を加えて、2020年の大学入試改革に対応する力をつける方法を説明している。付録に最近増加傾向にある中学入試作文問題の例題を示して、そのた対策も解説しているので、きっと役立つと思う。

数日前から、日大アメフト部の悪質プレー、退場させられた日大選手の会見、それを受けての前監督とコーチの会見がテレビで盛んに報道されている。大学に身を置いた人間として関心を持たずにはいられない。それにしても、ひどいプレーであり、ひどい監督、コーチだとつくづく思う。退場になった日大選手の腹を決めた会見は立派だと思う。私もまた、多くの日本人と同じように日大の対応に怒っている。

 私が最も気になるのは、日大の教員たちはどうしているのかということだ。今、表に出てきているのは、日大職員であり、サークルのコーチだ。アメフト部の学生はあまり学業に身を入れておらず、教員との付き合いがなかったのかもしれないが、それにしても教授陣、その代表である学長の明確な発言が聞こえてこないのは不思議だ。日大での教授陣と職員との関係はどうなっているのだろう。私は大学を代表するはずの教授陣の発言をききたいと思う。

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中日新聞・東京新聞の連載「65歳になったら、○○しなくていい宣言」が無事終了

 昨日、2018年3月31日をもって、1月4日から始まった中日新聞・東京新聞での「65歳になったら、○○しなくていい宣言」の連載が終わった。3か月、60回の連載だった。

 お読みいただいた方、気にかけていただいた方にお礼を申し上げたい。おかげで、とても好意的な便りが寄せられ、私としては大変励みになった。

 東京新聞からお話をいただいたのは昨年の夏ころだった。実はそれよりも前に、まったく別のテーマによる短い連載のお話を東京新聞からいただいていた。が、ちょうどそれは高齢の両親が東京の老人施設で暮らし始め、父が急激に体調を悪化させていた時期だった。連載どころではなかったので、残念ながらお断りするしかなかった。

その後、父が亡くなり、東京新聞に機会を与えていただいて、父の死を契機にして考えた高齢者の生き方の問題をコラムに書いた。そして、その流れで、今回、高齢者の生き方にかかわる60回の連載の話になったのだった。

 私はまだ66歳。高齢者の仲間入りをしたばかりで、高齢者の生き方をまさしく模索している時期だ。だから、高齢者に向かって生き方を説くことはできない。これまで大学受験生や小学生や若い社会人に向けて、文章術を教えたり、ちょっと戦略的な生き方を提唱したりしてきたが、まさか高齢者の戸口にいる私が本物の高齢者に向かって、そのようなことをするわけにはいかない。する能力もなければ、その度胸もない。

 ただ、私は65歳になってからではなく、もっと前から、「できるだけ、しなければならないことを減らそう」「産業社会にどっぷりつからずに、質素でいいので、自分らしい人生を貫こう」「好き勝手に生きよう」と考えて生きてきた。そもそも、この私のブログのサブタイトルにしている「すべての道がローマに通じるなら、ドン・キホーテよ、デタラメに行け!」という新居格というアナキストの言葉は、私のそんな生き方を表わしたものだ。受験勉強もろくにしなかったし、企業で働いた経験もない。ほとんどの時期をフリーランスとして暮らし、56歳になってやっと大学という組織に属した。40歳代のころだったか、小さな会社を設立したが、私は社長なので、気分はフリーランスのままだった。もちろん、必死に働かなくてはならない時期はあったが、ずっと音楽を楽しみ、本を読み、旅行をしてきた。自分を抑えて「・・・しなければならない」とはほとんど考えなかった。したくないことはしなかった。

 私は常々、多くの人が社会的義務に駆られて必死に生きているのを不思議に思っていた。自分の人生や社会の様々なことから距離を取って、余裕をもって生きれば、もっとずっと気楽に楽しく生きていけるだろうにと思っていた。壮年の働き盛りの人は仕方がない。だが、高齢者になってもまだ同じことを続けている人がいる。考え方さえ変えれば、もっとずっと気楽に生きることができるのに、自分を追い込んでいるように見える。

 私は65歳を過ぎ、高齢者になっていくが、今までの生き方を改める気はない。いや、ますます、私のような考えが高齢者にとっては意味を持つはずだ。そのような私の考えを書けば、もしかしたら、高齢の方々への私からのメッセージになるかもしれないと思った。

 こうして連載を引き受けた。私のメッセージがいくらかでも役に立てば、私としてはとてもうれしい。なお、この連載は今年の夏までには書籍化される予定になっている。関心がおありの方には、書籍をぜひ読んでいただきたいと思う。

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東京新聞・中日新聞の夕刊で連載開始 「65歳になったら、○○しなくていい宣言」

 本日、201814日から、東京新聞・中日新聞の夕刊でエッセイ「65歳になったら、○○しなくていい宣言」の連載を開始した。これから3月末まで、60数回にわたって夕刊での連載を続ける予定だ。

 私も66歳になった。高齢者の中では「ひよっこ」だが、高齢者であることには違いがない。大学も定年退職し、年齢を感じることも多い。そんな中、これからどのようなことをして、どう生きていくか。それについての私なりの考えをエッセイとしてまとめたものだ。

 なお、エッセイには、かなざわまこと氏の楽しいイラストが添えられている。とても魅力的なイラストで、これを見るだけで楽しい。イラストには私の似顔絵が描かれているが、たぶん実際の私よりも50パーセント増しくらい(あるいはそれ以上?)の「感じのよさ」だと思う。このイラストで想像した人が本物の私を見て、あまりの感じの悪さに落胆するのではないかと心配になってきた。

 今日の第一回の文章にも書いた通り、これから連載するつもりのことを簡単にまとめると、「しなければならない」という意識をできるだけ棄てて、タイで言われる「マイペンライ」、つまり「なんとかなるさ」「気楽にいこう」という気持ちで生きようということに尽きる。そのためにはどんなことをすればよいのか、どういう心構えが必要なのかをまとめた。

 できるだけおもしろく、できるだけ役に立つようにまとめたつもりだ。東京新聞と中日新聞を読まれる機会があったら、お読みいただけると、私としてはとてもうれしい。

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私の故郷・日田の豪雨

 201776日。私が子どものころから見慣れた光景が、豪雨の被災地としてテレビに繰り返し映されている。しばしば使っていた久大線の鉄橋が流されている。日田市大鶴地区(私の母の実家があったところであり、私が生まれたところでもある)も特に被害の大きい地域として報道されている。緑の多い穏やかな土地が泥だらけの姿になっている。鮎の住む清流が泥川になり、流木やごみがたまっている。福岡空港から日田までバスで移動する地域が今回の豪雨の中心的な被災地だ。

 両親は一昨年、高齢のために東京に越してきた。父はその年に亡くなった。両親はそれまで日田市内に住んでいた。両親の暮らしていた地域もどうやら避難指示地域に指定されていたようだ。両親が日田に住んでいなくてよかったと心から思う。いとこたちが何人か日田市内に住んでいるが、彼らはまだ若い(といっても私とほぼ同年代だから結構な老人だが)ので、濁流にのまれる前に対応できるだろう。

 日田に住んだのは5歳までで、それ以降は父の仕事の関係で中津市、大分市で暮らした。父の実家は日田市内にあったので、帰省先は日田だったが、私自身は日田についてもそれほど強い故郷意識は持っていない。持っていないつもりだった。だが、日田の惨状をみると、私の中の郷愁が刺激される。故郷が失われていくような気分に陥る。両親とともに日田の風景をみていたころを思い出す。

 母は老人ホームでテレビを見て日田の状況は知っているようだ。今日、老人ホームに母を見舞った息子によると、母はそれほど大きな落胆や心配の様子は示していなかったという。私自身で確かめたいが、実は私は札幌で風邪を引いたらしく、咳が出て、一昨日からはほとんど声が出ない。老人ホームに風邪を蔓延させるわけにはいかないので、しばらく母のところには行っていない。

 これ以上、被害が拡大しないことを祈りたい。

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拙著『大人の教養力』発売、花見のこと、京都の美濃吉での食事のこと

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 青春出版社より拙著『この一冊で芸術通になる 大人の教養力』が発売された。かつては職人になるのに何年も要した。だが、今では適切な教育を受ければすぐに職人としての技を身につけることができる。教養も同じであって、一通りのことはすぐに身に着けられる。だから、今すぐ芸術に親しもう。そんな理念に従って書いたものだ。クラシック音楽、文学、美術、日本芸能について、この1冊で「芸術通」になるための手ほどきをしている。しかも、「ツウ」だと思われるうまい話し方なども解説している。

 ともあれ芸術の入門書として多くの人に読んでほしいと思っている。

 

 この数日間、あちこちで花見をしていた。おいしいものも食べた。その報告を簡単に書く。

 201745日、日本ペンクラブ理事の小中陽太郎さんのグループに加わって神田で食事会。その前に靖国神社、北の丸公園、千鳥ヶ淵を一人で回って花見をした。満開だった。千鳥ヶ淵はまさしく壮観。食事もおいしかったり、小中さんのお仲間と話して楽しかった。

 46日は私が塾長を務めている白藍塾の仕事で大阪府堺市にある初芝立命館中学校・高等学校に行って、先生方の小論文研修の講師を務めた。とても充実した研修だった。その後、大阪駅に戻り、駅付近のe-maというビルにある華中華という中華料理店で夕食。とてもおいしかった。その日は、大阪駅付近に宿泊。

 47日、午前中に桜ノ宮駅まで行き、大川の河畔を歩いた。両岸の遊歩道の桜は今が満開。雨上がりで人も少なく、濡れた桜がきれいだった。30分ほど歩いて大阪駅に戻り、その後、京都に移動。

京都では駅からタクシーに乗り、八坂神社に行き、その後、円山公園、高台寺と歩いて、桜をみた。ここも満開。京都も天気がよくなかったせいか、それほどの人出ではなかったが、それでも大勢の観光客。色鮮やかなレンタル着物を着た男女が目立った。ほとんどが中国人観光客らしい。とても似合うきれいな中国人女性が多くて、私としてはうれしくなった。

ただ、西洋人観光客はどうやらそれを日本人と思っているようでカメラを向けていたので、誤解を正したくなった。また、かなりお年を召した女性(50歳代だと思う)が艶やかな振袖を着ているのも見かけた。私くらいの年齢になると、それはそれで色っぽくて魅力的だと思わないでもないのだが、やはり違和感は残る。レンタル着物屋さんが貸し出すときに客に教えるべきだと思った。

昼過ぎに京都駅前にある新阪急ホテルの地下の京料理の店、美濃吉で昼食。私の贔屓の店だ。京都産業大学に通っていたころ、毎週通っていた。久しぶりに「鴨川」を食べた。とりわけ京の白味噌仕立ては絶品。たけのこご飯も感動的においしかった。実は、この食事が食べたくて、大阪での仕事の後に京都まで来たのだったが、その甲斐があったと思った。

夕方に帰宅。結局、この1週間に、上野、靖国神社、北の丸公園、千鳥ヶ淵、大阪の大川、京都の八坂神社、円山公園、高台寺で桜を見たことになる。

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拙著『バカに見られないための日本語トレーニング』のこと

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 少し紹介が遅くなった。今月初めに書店に並んだはずだ。

 通常の会話やメールで、自分でも気づかないうちに失礼な日本語を使ったり、愚かな言い方をしたりしている人が多いのではないだろうか。本音を言って相手を怒らせたり、セクハラめいたことを言ったり。

『バカに見られないための日本語トレーニング』(草思社)は、ビミョウなことを言うとき、どのように言えばうまく収まるか、相手を立てるとき、どう書けば相手の心に伝わるか、抗議するとき、どう表現すれば相手をグサリとやり込められるか、目上の人に向かって「あなた」を言わざるを得ない時、どうすればそれを避けられるか。そのようなテクニックを満載したトレーニング集だ。

 カラオケで下手な歌を歌った上司にどう声をかける? 女性のバストをほめたくなったらどう言えばいい? スーパーで購入した商品が不良品だったために取り換えを要求するときどうすればすんなりいく? 「吾輩は猫である」を「である・だ・です」を使わないで同じ意味にするにはどうすればいい? 上司に向かって「あなたと一緒に行きたい」といいたい時どう表現する?  そんな表現を練習する。

 今、正しい日本語を使うための本は近年かなり出ている。だが、これは、そのような目的ではなく、もっと実用的でもっと役に立つトレーニング集だ。相手を怒らせず、相手にバカと思われず、それどころか、相手の心を動かして上手に生き抜いていくための表現の練習を主として行っている。

 本書はトレーニング集だが、読んで面白いことを心がけた。問題を解きながら、ニヤリとしてほしいと思っている。興味がある方がおられたら、ご一読をお願いしたい。

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全埼玉私立幼稚園連合会で講演。祖父を思い出した

 2017222日、(公社)全埼玉私立幼稚園連合会の結成30周年記念式典に出席。そこで記念講演を行った。タイトルは「知的な子どもに育てる会話術」。知的な子どもに育てるといっても、学力をつけるというよりも、コミュニケーション力をつけ、自主性をつけ、自己肯定感をつけるために、親や先生はどう子どもに話しかければよいのかについて、私のこれまでの作文教育、小論文教育、話し方についての研究の中から得られた事柄をお話しした。とても気持ちよく話ができた。聞いてくださったのは、埼玉県はもちろん、日本中のあちこちからいらした私立幼稚園の園長、理事長をなさっている人たちだった。あとで多くの方からとても好意的な感想をいただいた。

 実は、埼玉県のNPO法人オペラ彩の理事長である和田タカ子さんを通して講演を依頼され、気軽に引き受けて、浦和ロイヤルパインズホテルを訪れたのだった。ホテルについてビックリ。予想もしなかったほどの盛大な会だった。講演後、祝賀会に出席したが、出席した人数は400名。私と同じテーブルに埼玉県の上田知事、さいたま市の清水市長、宮崎県議会議長がおられた。清水市長とは少しだけお話しできたが、ほかの方は食事のあとすぐに堆積されたので話はできなかった。少々残念。

 私は幼稚園の状況についても、埼玉県についても何も知らず、ただ講演をしただけ。だが、集まられた全国の幼稚園関係の方々の話を聞いて、現状の一端を知ることができ、とても有益だった。そして、幼児教育にかかわる方々の真摯な思いに触れ、とても頼もしく思ったのだった。

 それにしても、この連合会の会長を26年間勤められた前会長の平原隆秀先生の人間としてのスケールの大きさに圧倒された。やさしく、包容力があり、特に多くを語らない方だが人を束ねる力がじわじわと伝わる。これほど多くの人が集まり、口々に平原先生への親しみと尊敬を語られる。祝賀会の後、夜遅くまでホテルの19階の個室で20人ほどが集まって二次会を行ったが、私だけ埼玉県にも幼稚園にも部外者だったのに平原先生の横にいるだけで満たされる思いがした。充実した素晴らしい時間を過ごすことができた。

 そうだ。今、気づいた。私は母方の祖父を思い出していたのだ。生涯にわたって、嘘らしい嘘は一度もつかず、善良にやさしく生きて90歳を超して亡くなった祖父。45歳で公職追放にあって郵便局長を辞め、その後、45年以上を大分県日田市大鶴という山林地域で晴耕雨読の毎日を過ごし、静かに仏教の心を語っていた。祖父はひたすらやさしいだけで、人を動かす力はなく、むしろ人に動かされるだけだったが、あの祖父のやさしさを平原先生に感じた。小柄で坊主頭のところも平原先生は祖父にそっくりだった。

 これまで幼児教育についてほとんど考えたことがなかった。が、きわめて大事なことだと気づかされた。

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多摩大学での私の最後の授業日

 多摩大学秋学期最後の授業日。今年度いっぱいで定年退職する私にとっては記念の日だった。通常の授業の後、30分だけ時間をとって「最終講義」という大層な名前のついた話をした。学生のほか教職員の方々も聞いてくれた。

 私は芸術には感動しやすいタチなのだが、行事のたぐいには至って淡白で、とりたてて感慨を抱くこともなかった。ただ、ゼミ生が来てくれて、花束を渡してくれたのはうれしかった。

 最終授業日だとはいえ、まだこれから何度も大学には足を運ぶ。いくつもの学務があり、行事がある。来年度の秋学期に週に1日教えることも決まっている。感慨の抱きようがない。

 多摩大学では9年間働いた。やりがいのあること、楽しいことも多かったが、組織で働いた経験のない私としては戸惑うことが多かった。きっと私は、組織の中にいながら、かなり自由に過ごして、周囲の人の迷惑をかけてきたのだと思うが、それでも、私なりに息苦しかった。こんなことを言うと、多摩大学の同僚やお世話になった人に申し訳ないが、今は、これまでがんじがらめにされてきた組織から解放されることが実にうれしい。自由な時間が増えることも実にうれしい。4月以降、だいぶ収入は減るが、それ以上に充実できそうな気がする。

 ただ、きわめて現実的な悩みがある。研究室にある本をどうするか。すでに自宅の書庫は満杯。研究室の本を自宅に持ち帰るのは難しい。しかし、捨てるわけにもゆかない。おそらく、退職する大学教員全員が同じ悩みを抱えているだろう。

 ・・・というわけで、授業最後の日くらいブログに書きつけておくほうが良かろうと思って、ここに記した。

 

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2017年になった

 2017年になった。

 昨日(つまり、20161231日)、私は東京文化会館で行われる「ベートーヴェンは凄い!」で小林研一郎指揮のベートーヴェンの全交響曲をきいて1年間を締めくくるつもりでいた。が、2週間からの風邪が完治せず、いつまでも微熱が続いていたが、昨日は朝から少し熱が高かった。ベートーヴェンの9つの交響曲を聴くうちにもっと悪化しそうな気がした。大事をとって家で休んだ。これまで何度か大晦日にベートーヴェンの全交響曲を聴き、興奮のうちに年を越しただけに、それができなかったのは残念だった。

 2017年元旦は、ほんの少し平熱よりも高いが、昨日よりはずっと気分がよかった。咳もほとんどでない。お節料理(といっても我が家の場合、妻の手作りのものはそれほど多くないが)による「ブランチ」を済ませた後、母のいる老人ホームで家族みんなで出かけ、しばらく話して帰宅。

 昨年はラ・フォル・ジュルネを含めて74のオペラやコンサートを聴いた。オペラの面でとても充実していた。100以上の公演を聴いた年もあったが、昨年は母の健康状態に不安があったのでコンサートを自粛していた。が、昨年くらいのペースがもっともよい。これ以上になると、音楽を聴くことが「義務」になりそうで怖い。

 今年の3月で多摩大学を定年退職する。仕事が減るので、4月以降はかなり楽になる。毎月のように旅行に行く予定を立てている。これまで訪れた外国は32。死ぬまでには50か国くらいにはいきたいと思っている。ただし、母の体調が心配なので、遠出はできない。56日で戻れる旅をする。アジア中心にひとりでふらふらと歩きまわる質素な旅行をするつもりだ。

 このごろ、このブログもあまり書いていない。退職したら、エッセイ風のことも書きたいと思っている。

 ・・・というわけで、来年に向けて思うところをとりとめなく書いた。

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「ごしてんのう」のこと

4、5年前のことだ。「ごしてんのう」という言葉を50数年ぶりに突然、口にしたのは、母だった。なぜそんな話になったのか、まったく憶えていない。母はまだ元気で、記憶も判断力もしっかりしていた。「あんたはよく、ごしてんのうに遊びに行っていたよね」。そんな話をしたのだった。

「ごしてんのう」。まるでかすかな色や臭いから前世での出来事を掘り出すように、私はその言葉を自分の昔々の過去の中から取り出した。

 私は大分県日田市で生まれたが、5才から小学校4年生の終わりまで(1957年から1961年までだったか?)同じ大分県の中津市で暮らした。その時代、田舎はどこもそうだったのか、それともその地域だけだったのかはよくわからないが、中津市上宮永四丁目の子どもたちは集団になって遊びまくった。野原や川に入り、木や竹を切ってチャンバラごっこをし、市販のものだけでなく、手製のバットやグローブを使って野球をした。コマ回し、めんこ(私たちはパッチンと呼んでいた)、相撲、プロレスごっこ、缶蹴り、鬼ごっこ、虫取りなどなど。なぜかその地域には男の子が多かったので、荒っぽい遊びばかりしていた。下は幼稚園児、上は中学生までの10人以上の集団で遊んだ。私はおとなしくて泣き虫で、すべての遊びがほかの子どもたちに比べてめっぽう下手だったが、それでも年上の友だちのあとについて、ときに泥だらけ、傷だらけになりながら遊んでいた。

 そんな私たちが、ときどき意を決して遠出し、探検のつもりで出かけたのが、「ごしてんのう」だったのだ。

 が、実は「ごしてんのう」でどんな遊びをしたのか、定かな記憶はない。ただ、うっそうとした木が茂り、薮が広がり、虫がいて、ヘビがいて、ぼやぼやしていると置いてけぼりを食う、いやそれどころか神隠しにあってしまう・・・。そんな恐怖を呼び起こす場所だった記憶がある。臆病者だった私は子どもたちで「ごしてんのう」に行くことになると、心の底で、「とりやめになってほしい」「誰か反対してほしい」と思いながら、だからといって反対を口にするのも恥ずかしくて、みんなに従っていた。ごしてんのうは、子どもの脚ではかなり遠くにあったので、帰りが遅くなった。暗くなることもあった。それもまた怖かった。「ごしてんのう」がどんなところかは覚えていないが、何かしら薄気味悪く怖い気分だけは今もはっきりとよみがえる。

 それにしても、「ごしてんのう」とは何だったのか。なぜ、そんな名前で呼んでいたのか。由緒あり気な言葉の響きではあるが、その正体がわからずにいた。そして、中津を離れ、大分市で暮らすようになった。その後もしばらくは「ごしてんのう」のことを思い出していた。だが、時がたつうちにそのまますっかり忘れ去った。

 そして、つい先ごろ。老人ホームで暮らし、認知症のために時々つじつまの合わないことを口にする母が、また「ごしてんのう」のことを言いだした。「中津にいたころは楽しかったねえ」「あんたが、ごしてんのうに行くと、帰りが遅くなるんで心配することが多かったねえ」。そんな話を始めた。

 4、5年前に母が「ごしてんのう」の話をしたときにも、ネットで調べてみた。だが、確証は得られなかった。「中津 ごしてんのう」と検索しても、何も引っかからなかった。

中津時代にともに子供時代を過ごした久恒啓一・多摩大学副学長(昔、「ケイボちゃん」と呼んでいた。100メートルと離れていない家に住み、行動を共にしていた)に「ごしてんのう」を覚えているのかを尋ねてみた。もちろん、良く覚えていた。が、やはり細かい記憶はなかったようだ。「一体何だったんだろうね。どんな漢字を書くかわかるといいんだけどねえ」などと話しただけだった。

ところが、次に母の老人ホームで話をしたとき、また「ごしてんのう」の話になった。母を前にして老人ホームでスマホを使って調べてみたら、すると、今度はすぐに出てきた。

「牛頭天王(ごずてんのう)」。これが、私たち、当時の子どもが「ごしてんのう」と呼んでいたものの正体だった。

 福岡県上毛(こうげ)町に牛頭天王公園があるという。上毛町は山国川を挟んで中津市の隣の町だ。「牛頭天王」というのは、「神仏習合の神。釈迦の生誕地に因む祇園精舎の守護神」とのこと。ネットに公園の写真が出ていた。きれいに整備された公園。記憶の中の「ごしてんのう」とはあまりに違う(その写真を見た久恒副学長もそのような感想を漏らしていた)。しかし、私たちの記憶の中の「ごしてんのう」は60年近く前のものだ。きっとその後に整備されたのだろう。地図で見ても、私たちが住んでいた中津市上宮永4丁目から、子どもでも行ける距離にある。

 長年の謎が解けた気がした。すぐに母に報告した。久恒副学長にもメールした。私の子ども時代、母がまだ30歳前後だったころの出来事が今また蘇った気持ちになった。

 長々と書いたが、たいした話ではない。このところ、ずっとこのブログに音楽、特にオペラの感想ばかり書いてきたので、久しぶりに違うことを書きたくなったのだった。

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