日記・コラム・つぶやき

拙著『バカに見られないための日本語トレーニング』のこと

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 少し紹介が遅くなった。今月初めに書店に並んだはずだ。

 通常の会話やメールで、自分でも気づかないうちに失礼な日本語を使ったり、愚かな言い方をしたりしている人が多いのではないだろうか。本音を言って相手を怒らせたり、セクハラめいたことを言ったり。

『バカに見られないための日本語トレーニング』(草思社)は、ビミョウなことを言うとき、どのように言えばうまく収まるか、相手を立てるとき、どう書けば相手の心に伝わるか、抗議するとき、どう表現すれば相手をグサリとやり込められるか、目上の人に向かって「あなた」を言わざるを得ない時、どうすればそれを避けられるか。そのようなテクニックを満載したトレーニング集だ。

 カラオケで下手な歌を歌った上司にどう声をかける? 女性のバストをほめたくなったらどう言えばいい? スーパーで購入した商品が不良品だったために取り換えを要求するときどうすればすんなりいく? 「吾輩は猫である」を「である・だ・です」を使わないで同じ意味にするにはどうすればいい? 上司に向かって「あなたと一緒に行きたい」といいたい時どう表現する?  そんな表現を練習する。

 今、正しい日本語を使うための本は近年かなり出ている。だが、これは、そのような目的ではなく、もっと実用的でもっと役に立つトレーニング集だ。相手を怒らせず、相手にバカと思われず、それどころか、相手の心を動かして上手に生き抜いていくための表現の練習を主として行っている。

 本書はトレーニング集だが、読んで面白いことを心がけた。問題を解きながら、ニヤリとしてほしいと思っている。興味がある方がおられたら、ご一読をお願いしたい。

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全埼玉私立幼稚園連合会で講演。祖父を思い出した

 2017222日、(公社)全埼玉私立幼稚園連合会の結成30周年記念式典に出席。そこで記念講演を行った。タイトルは「知的な子どもに育てる会話術」。知的な子どもに育てるといっても、学力をつけるというよりも、コミュニケーション力をつけ、自主性をつけ、自己肯定感をつけるために、親や先生はどう子どもに話しかければよいのかについて、私のこれまでの作文教育、小論文教育、話し方についての研究の中から得られた事柄をお話しした。とても気持ちよく話ができた。聞いてくださったのは、埼玉県はもちろん、日本中のあちこちからいらした私立幼稚園の園長、理事長をなさっている人たちだった。あとで多くの方からとても好意的な感想をいただいた。

 実は、埼玉県のNPO法人オペラ彩の理事長である和田タカ子さんを通して講演を依頼され、気軽に引き受けて、浦和ロイヤルパインズホテルを訪れたのだった。ホテルについてビックリ。予想もしなかったほどの盛大な会だった。講演後、祝賀会に出席したが、出席した人数は400名。私と同じテーブルに埼玉県の上田知事、さいたま市の清水市長、宮崎県議会議長がおられた。清水市長とは少しだけお話しできたが、ほかの方は食事のあとすぐに堆積されたので話はできなかった。少々残念。

 私は幼稚園の状況についても、埼玉県についても何も知らず、ただ講演をしただけ。だが、集まられた全国の幼稚園関係の方々の話を聞いて、現状の一端を知ることができ、とても有益だった。そして、幼児教育にかかわる方々の真摯な思いに触れ、とても頼もしく思ったのだった。

 それにしても、この連合会の会長を26年間勤められた前会長の平原隆秀先生の人間としてのスケールの大きさに圧倒された。やさしく、包容力があり、特に多くを語らない方だが人を束ねる力がじわじわと伝わる。これほど多くの人が集まり、口々に平原先生への親しみと尊敬を語られる。祝賀会の後、夜遅くまでホテルの19階の個室で20人ほどが集まって二次会を行ったが、私だけ埼玉県にも幼稚園にも部外者だったのに平原先生の横にいるだけで満たされる思いがした。充実した素晴らしい時間を過ごすことができた。

 そうだ。今、気づいた。私は母方の祖父を思い出していたのだ。生涯にわたって、嘘らしい嘘は一度もつかず、善良にやさしく生きて90歳を超して亡くなった祖父。45歳で公職追放にあって郵便局長を辞め、その後、45年以上を大分県日田市大鶴という山林地域で晴耕雨読の毎日を過ごし、静かに仏教の心を語っていた。祖父はひたすらやさしいだけで、人を動かす力はなく、むしろ人に動かされるだけだったが、あの祖父のやさしさを平原先生に感じた。小柄で坊主頭のところも平原先生は祖父にそっくりだった。

 これまで幼児教育についてほとんど考えたことがなかった。が、きわめて大事なことだと気づかされた。

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多摩大学での私の最後の授業日

 多摩大学秋学期最後の授業日。今年度いっぱいで定年退職する私にとっては記念の日だった。通常の授業の後、30分だけ時間をとって「最終講義」という大層な名前のついた話をした。学生のほか教職員の方々も聞いてくれた。

 私は芸術には感動しやすいタチなのだが、行事のたぐいには至って淡白で、とりたてて感慨を抱くこともなかった。ただ、ゼミ生が来てくれて、花束を渡してくれたのはうれしかった。

 最終授業日だとはいえ、まだこれから何度も大学には足を運ぶ。いくつもの学務があり、行事がある。来年度の秋学期に週に1日教えることも決まっている。感慨の抱きようがない。

 多摩大学では9年間働いた。やりがいのあること、楽しいことも多かったが、組織で働いた経験のない私としては戸惑うことが多かった。きっと私は、組織の中にいながら、かなり自由に過ごして、周囲の人の迷惑をかけてきたのだと思うが、それでも、私なりに息苦しかった。こんなことを言うと、多摩大学の同僚やお世話になった人に申し訳ないが、今は、これまでがんじがらめにされてきた組織から解放されることが実にうれしい。自由な時間が増えることも実にうれしい。4月以降、だいぶ収入は減るが、それ以上に充実できそうな気がする。

 ただ、きわめて現実的な悩みがある。研究室にある本をどうするか。すでに自宅の書庫は満杯。研究室の本を自宅に持ち帰るのは難しい。しかし、捨てるわけにもゆかない。おそらく、退職する大学教員全員が同じ悩みを抱えているだろう。

 ・・・というわけで、授業最後の日くらいブログに書きつけておくほうが良かろうと思って、ここに記した。

 

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2017年になった

 2017年になった。

 昨日(つまり、20161231日)、私は東京文化会館で行われる「ベートーヴェンは凄い!」で小林研一郎指揮のベートーヴェンの全交響曲をきいて1年間を締めくくるつもりでいた。が、2週間からの風邪が完治せず、いつまでも微熱が続いていたが、昨日は朝から少し熱が高かった。ベートーヴェンの9つの交響曲を聴くうちにもっと悪化しそうな気がした。大事をとって家で休んだ。これまで何度か大晦日にベートーヴェンの全交響曲を聴き、興奮のうちに年を越しただけに、それができなかったのは残念だった。

 2017年元旦は、ほんの少し平熱よりも高いが、昨日よりはずっと気分がよかった。咳もほとんどでない。お節料理(といっても我が家の場合、妻の手作りのものはそれほど多くないが)による「ブランチ」を済ませた後、母のいる老人ホームで家族みんなで出かけ、しばらく話して帰宅。

 昨年はラ・フォル・ジュルネを含めて74のオペラやコンサートを聴いた。オペラの面でとても充実していた。100以上の公演を聴いた年もあったが、昨年は母の健康状態に不安があったのでコンサートを自粛していた。が、昨年くらいのペースがもっともよい。これ以上になると、音楽を聴くことが「義務」になりそうで怖い。

 今年の3月で多摩大学を定年退職する。仕事が減るので、4月以降はかなり楽になる。毎月のように旅行に行く予定を立てている。これまで訪れた外国は32。死ぬまでには50か国くらいにはいきたいと思っている。ただし、母の体調が心配なので、遠出はできない。56日で戻れる旅をする。アジア中心にひとりでふらふらと歩きまわる質素な旅行をするつもりだ。

 このごろ、このブログもあまり書いていない。退職したら、エッセイ風のことも書きたいと思っている。

 ・・・というわけで、来年に向けて思うところをとりとめなく書いた。

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「ごしてんのう」のこと

4、5年前のことだ。「ごしてんのう」という言葉を50数年ぶりに突然、口にしたのは、母だった。なぜそんな話になったのか、まったく憶えていない。母はまだ元気で、記憶も判断力もしっかりしていた。「あんたはよく、ごしてんのうに遊びに行っていたよね」。そんな話をしたのだった。

「ごしてんのう」。まるでかすかな色や臭いから前世での出来事を掘り出すように、私はその言葉を自分の昔々の過去の中から取り出した。

 私は大分県日田市で生まれたが、5才から小学校4年生の終わりまで(1957年から1961年までだったか?)同じ大分県の中津市で暮らした。その時代、田舎はどこもそうだったのか、それともその地域だけだったのかはよくわからないが、中津市上宮永四丁目の子どもたちは集団になって遊びまくった。野原や川に入り、木や竹を切ってチャンバラごっこをし、市販のものだけでなく、手製のバットやグローブを使って野球をした。コマ回し、めんこ(私たちはパッチンと呼んでいた)、相撲、プロレスごっこ、缶蹴り、鬼ごっこ、虫取りなどなど。なぜかその地域には男の子が多かったので、荒っぽい遊びばかりしていた。下は幼稚園児、上は中学生までの10人以上の集団で遊んだ。私はおとなしくて泣き虫で、すべての遊びがほかの子どもたちに比べてめっぽう下手だったが、それでも年上の友だちのあとについて、ときに泥だらけ、傷だらけになりながら遊んでいた。

 そんな私たちが、ときどき意を決して遠出し、探検のつもりで出かけたのが、「ごしてんのう」だったのだ。

 が、実は「ごしてんのう」でどんな遊びをしたのか、定かな記憶はない。ただ、うっそうとした木が茂り、薮が広がり、虫がいて、ヘビがいて、ぼやぼやしていると置いてけぼりを食う、いやそれどころか神隠しにあってしまう・・・。そんな恐怖を呼び起こす場所だった記憶がある。臆病者だった私は子どもたちで「ごしてんのう」に行くことになると、心の底で、「とりやめになってほしい」「誰か反対してほしい」と思いながら、だからといって反対を口にするのも恥ずかしくて、みんなに従っていた。ごしてんのうは、子どもの脚ではかなり遠くにあったので、帰りが遅くなった。暗くなることもあった。それもまた怖かった。「ごしてんのう」がどんなところかは覚えていないが、何かしら薄気味悪く怖い気分だけは今もはっきりとよみがえる。

 それにしても、「ごしてんのう」とは何だったのか。なぜ、そんな名前で呼んでいたのか。由緒あり気な言葉の響きではあるが、その正体がわからずにいた。そして、中津を離れ、大分市で暮らすようになった。その後もしばらくは「ごしてんのう」のことを思い出していた。だが、時がたつうちにそのまますっかり忘れ去った。

 そして、つい先ごろ。老人ホームで暮らし、認知症のために時々つじつまの合わないことを口にする母が、また「ごしてんのう」のことを言いだした。「中津にいたころは楽しかったねえ」「あんたが、ごしてんのうに行くと、帰りが遅くなるんで心配することが多かったねえ」。そんな話を始めた。

 4、5年前に母が「ごしてんのう」の話をしたときにも、ネットで調べてみた。だが、確証は得られなかった。「中津 ごしてんのう」と検索しても、何も引っかからなかった。

中津時代にともに子供時代を過ごした久恒啓一・多摩大学副学長(昔、「ケイボちゃん」と呼んでいた。100メートルと離れていない家に住み、行動を共にしていた)に「ごしてんのう」を覚えているのかを尋ねてみた。もちろん、良く覚えていた。が、やはり細かい記憶はなかったようだ。「一体何だったんだろうね。どんな漢字を書くかわかるといいんだけどねえ」などと話しただけだった。

ところが、次に母の老人ホームで話をしたとき、また「ごしてんのう」の話になった。母を前にして老人ホームでスマホを使って調べてみたら、すると、今度はすぐに出てきた。

「牛頭天王(ごずてんのう)」。これが、私たち、当時の子どもが「ごしてんのう」と呼んでいたものの正体だった。

 福岡県上毛(こうげ)町に牛頭天王公園があるという。上毛町は山国川を挟んで中津市の隣の町だ。「牛頭天王」というのは、「神仏習合の神。釈迦の生誕地に因む祇園精舎の守護神」とのこと。ネットに公園の写真が出ていた。きれいに整備された公園。記憶の中の「ごしてんのう」とはあまりに違う(その写真を見た久恒副学長もそのような感想を漏らしていた)。しかし、私たちの記憶の中の「ごしてんのう」は60年近く前のものだ。きっとその後に整備されたのだろう。地図で見ても、私たちが住んでいた中津市上宮永4丁目から、子どもでも行ける距離にある。

 長年の謎が解けた気がした。すぐに母に報告した。久恒副学長にもメールした。私の子ども時代、母がまだ30歳前後だったころの出来事が今また蘇った気持ちになった。

 長々と書いたが、たいした話ではない。このところ、ずっとこのブログに音楽、特にオペラの感想ばかり書いてきたので、久しぶりに違うことを書きたくなったのだった。

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伯母の他界、懐かしい人からの電話。

 大分県日田市で暮らしていた伯母が一昨日の夜に亡くなった。96歳だったと思う。昨年他界した父の長姉だ。全員が90歳前後まで元気だった5人きょうだいだが、ついに叔父一人が残されるだけになった。高齢でもあり、かなり前から寝たきりのことが多かったので十分に覚悟はしていたが、やはり寂しい。車を運転中など、ひとりになると涙が出てくる。

 週末の葬儀であれば出席できると思っていたら、一昨日の夜に亡くなって、本日、日田市で葬儀を行うとのこと。突然のことで、大学での仕事などの調整ができず、欠席せざるを得ない。東京から合掌することにする。

 戦後すぐ、伯母は夫が亡くなったため娘二人を連れてしばらく実家に戻っていた。そこには、私の祖父母、伯母の家族三人、もう一人の叔母、そして私の両親と私が暮らしていた。田舎の9人家族だった。そのころ、伯母は私にとっていわばもう一人の母親だった。

 伯母は定年まで小学校の教員を務めた。物わかりのよい、やさしい伯母だった。きっと良い先生だったのだと思う。昔、一緒に歩くと、かつての教え子という人に良く声をかけられた。伯母は日田市の父の家のすぐ近くで暮らしていたので、私はもちろん、妻も子どもたちもずいぶんと面倒を見てもらった。変人の多い父のきょうだいたちの中で、ひとりだけ親身になって母を気遣い、母の相談に乗ってくれてもいた。父と母も、伯母の二人の娘を自分の娘のように思っていた。

 今になって伯母の人生を考えてみると、若くして未亡人になり、仕事をしながら子どもを育てるにはいろいろなことがあっただろう。苦しいこと、迷うことの連続だっただろう。いつも優しくて理性的な伯母だったが、心の中に秘めていた思いもたくさんあっただろう。だが、最後は娘二人に囲まれての穏やかで幸せな日々だったと思う。

 数年前、ザルツブルグ音楽祭にでかけていたとき、伯母が亡くなる夢をみた。あまりにリアルな夢だったので、私は伯母の死を確信した。きっとあの世に旅立つ前にザルツブルグで音楽三昧の私のところにお別れに来てくれたのだと思った。ところが、日本からは連絡がない。家族に電話しても伯母の話は出ない。死んだと告げられるのが怖くて、こちらから伯母の話を向けることもできなかった。きっとみんなが気をつかって私に伯母のことを告げないのだろうと思っていた。

 だが、帰国してみると伯母に変わりはなかった。「夢のお告げ」など信じられるものではないことを思い知った。少なくとも私に霊感など少しもないこともわかった。本当にほっとした。伯母に会ったとき、その話をすると、死ぬ夢を知り合いがみるとむしろ長寿になるのだと喜んでくれた。私の出す本を楽しみにして読んでくれ、たびたびほめてくれた。

 最後に会ったのは、昨年、両親が東京に越した後、私が一人で家の整理に日田に戻った時だった。車椅子を使わなくても少しなら歩ける様子で、話し方もしっかりしているように見えたが、認知症が進んで様々なことを忘れているということで、私のことを十分に認識していたかどうか少し怪しかった。

 この3年ばかりの間に次々に私の親の世代の親族が亡くなった。いまさらながら、人の死、人の生について考えてしまう。

 夜、父の親戚で私の子どものころのなじみの女性から電話をいただいた。私は日田市に暮らしていた後、同じ大分県内の中津市に引っ越し、そこで4年と少しを過ごしたが、その時代にすぐ近所に住んで行き来していた。百合ちゃんと両親は呼んでいた。当時、明るくてきれいな若奥さんで、私は大好きだった。私が東京新聞に書いたエッセイ(「特別な存在でなくなること」というタイトルで、高齢になって居場所を移して亡くなった父のことを記した)が、九州でも読者の多い西日本新聞に掲載され、それを読んで懐かしく思って電話をくれたのだった。父の思い出話に涙を流した。伯母が亡くなったことを知らせた。あの頃、若くてきれいだった「百合ちゃん」も80歳とのこと。相変わらず明るくて元気で、声だけだとまさか80歳とは思えない。

・・・電話を切って、また生について死について老いについての考えが頭の中を巡った。

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私は猫が大嫌い

 いつも音楽のことばかり書いているので、今回は別のことを書く。

(なお、この文章には残酷な部分が含まれますので、ご注意ください)

 私は大の猫嫌いだ。最近、テレビを見ていると、やたらと猫が出てくる。猫ブームだそうだ。NHK・BSで音楽番組を録画しようとしているときも、しばしば猫番組が映っていて不愉快きわまりない。こんなブームは早く終わってほしい。

 最近はだいぶよくなった。年齢を重ねたせいで感性が鈍くなったのだろう。このごろはテレビに猫が出ていても、落ち着いてチャンネルを変えることができる。10年ほど前までは、猫の映像を見たけで身体がこわばっていた。実物が目の前を通ろうものなら、恐怖で叫びだしたくなっていた。いや、「猫」という言葉を発音することも、文字を見ることも恐怖なしにはできなかった。それに比べれば、今は猫が目の前を通っていても、ちょっと息を止めるだけで、ともあれ我慢できる。我ながらたいした進歩だと思う。

 なぜ猫嫌いになったか。思い当たることがないでもない。

 もともと猫は好きではなかった。我が家には、私が小学生のころから犬がいた。シェパードの大きな犬だった。だから、犬は今も大好きだ。だが、猫はどうも苦手だった。が、苦手というレベルでないほどに猫が怖くなったのは、思いかえすに小学校5、6年のころの出来事が原因だろうと自己分析している。

 私は当時、大分市に住んでいた。私の家の隣には小さな墓地があった。私が寝ていたのはもっとも墓地に近い部屋で、トイレ(といっても、60年近く前のことだから、もちろん水洗ではない)から墓場まで数メートルしかなかった。今から考えると不思議だが、臆病な小学生だったのに、私は特に怖いと思うことなく、ふつうに暮らしていた。

 ところが、あるとき、我が家に私よりも4歳年上の従姉が遊びに来た。夏休みだったような気がする。細かいことは覚えていないが、従姉と二人で近くに買い物に行くことになった。家を出て路地を歩いていると、墓地の入口に子猫がいた。おそらく、生まれて間がない、まだ自力では歩けないような猫だ。猫好きの従姉は「まあ、かわいい」といいながら、その子猫をあやし、墓地の入口の石段の上に置いた。猫が決して好きではない私は横で見ていたような気がする。

 それから1時間ほどして帰ってきた。従姉はさきほど石段の上に置いた猫を目で探している様子だった。だが、そこには猫はいなかった。

が、その石段の下に、猫の死骸らしいものがあった。頭が砕け、血にぬれた肉がむき出しになり、見覚えのある毛が地面にはりついていた。誰かが意図的に殺したのか、あるいは石段から落ちて何らかの事故にあったのか。車の通れるような道ではなかったが、オートバイはたまに通ることがあった。

 小学生の私はその死骸を見て、「ギャッ」と叫んだ。しばらく動けなくなった。そのまま家に駆けこんだことを覚えている。

 その後しばらく、猫を見るごとにその場面を思い出していた。さすがに数年たつと忘れたが、それ以来、猫を見るごとに心の中で「ギャッ」と叫ぶようになった。そして、私の頭の中で猫と墓と死が結びつくようになった。

 もうそろそろこの恐怖から解放されたいものだ。だが、生涯にわたって、私が猫を抱くようなことはないだろうと思っている。

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全国オペラminiフォーラムin TOKYOのことなど

 大学は夏休みに入ったが、入試委員の私は、その後もオープンキャンパス、AO入試、AOセミナーなどの行事のために、毎日のように大学に通っている。今日は休みだが、また明日、大学で仕事がある。

 そんななか、8月6日には上野の東京文化会館の大会議室で全日本オペラネットワーク主催による2016年全国オペラminiフォーラムin TOKYOが開かれ、30人ほどの会員を前に、おこがましくも私が基調講演を行った。今回の議題は「日本のオペラは今だからできることがある 2020年に向けた1歩」。私は、オペラ観客を増やす方法についてお話しした。

 会員は全国でオペラを主催している方や音楽を実際に演奏している方、そして音楽評論家。私はというと、一人だけまったくの素人。そのような方々を前に私ごときが話すことがあるのかとひやひやしながら会場に出向き、おそるおそるお話しした。

 私は2005年以来、ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポンにかかわってきた。しばらく、アンバサダーという地位?もいただいた。その経験から、ラ・フォル・ジュルネのようなオペラの祭典を行うこと、そしてそのための様々な仕掛けについてお話させていただいた。ちなみに、「ラ・フォル・ジュルネ」というのは、ボーマルシェ原作、モーツァルト作曲の「フィガロの結婚」の副題なのだから、本来、オペラこそが「本家」であるべきなのだ!

 私の講演は大変好評を得たようで、とてもうれしく思っている。私の提案が少しでも役に立てれば、こんなうれしいことはない。これから、実現に向けて私自身もできるだけのことはして行きたい。

 オペラ週間を開催し、全国各地でオペラの祭典を開く・・・というのは、まさに私の夢だ。思えば、私はオペラに育てられてきた。小学校5年生の時、最初に聞いてクラシック音楽の世界に引きずり込まれるきっかけになったのは「ウィリアム・テル」序曲。中学2年生でフルトヴェングラー指揮の「フィデリオ」全曲レコードでますますオペラの魅力に取りつかれ、中学3年生でカラヤン、シュヴァルツコップの「ばらの騎士」、クレメンス・クラウス指揮の「サロメ」、高校1年生でフルトヴェングラーの「ワルキューレ」をきいて天地がひっくり返るような衝撃を受けた。

高校2年生の時に大分県民オペラの「フィガロの結婚」で初めてオペラの実演を聴き(主演は立川澄人)、大学生になって東京に出て、飯守泰次郎指揮、木村俊光がヴォータンを歌う「ワルキューレ」の実演を見て大感激。

 作曲家が主人公の小説やオペラの原作になった文学作品をきっかけに文学になじむようになり、受験勉強そっちのけで音楽、文学に耽溺するようになった。その後、ふと気づくと、もうサラリーマンとして堅気の生活ができない人間になっており、ほかに道がなくなって大学院に進み、今の仕事を得た。

 まさしくオペラとともに生き、食うに困っていてもオペラには出かけ、オペラについて語り、オペラについて考えた。もしかしたら、最も才能のない領域を好きになってしまって人生を無駄にしたのではないかと思わないでもないが、ともあれオペラを見ているときが一番幸せ。今からは、私を育ててくれたオペラに恩返ししたいと思っている。今回がその第一歩になってくれれば、私としてはこんなうれしいことはない。

 本日は2016年8月8日。リオデジャネイロ・オリンピックでの日本選手の活躍やイチロー選手の大リーグ通算3000本安打達成が話題になっている。イチロー選手は私の大好きな選手。私も、原稿に追われながら、オリンピックやイチロー選手の試合の中継をテレビをちょこちょこ見て興奮している。しかも、今、チャンネルをひょいと変えたら、甲子園球場で大分高校の試合が始まるではないか! 大分は私が小学校5年生から高校3年生まで過ごした土地。大分高校は私とは縁のない高校だが、応援しよう。

 そんなわけで、どうも今日も原稿が捗りそうもない・・・。

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拙著2冊刊行『本物の学力は12歳までの「作文量」で決まる』『小論文これだけ!教育超基礎編』

 拙著が立て続けに2冊刊行された。紹介させていただく。なお、あと1週間ほどでもう一冊『「伝わる文章力」がつく本 ~文型を使えば、短くわかりやすく迷わず書ける!』(大和書房)が刊行される予定だ。一昨年末に九州の両親の体調が悪くなって東京に移転することになり、その後、父が亡くなり、母は老人ホームに入所した。そんなこんなで本を書く時間が取れなくなって、久しぶりの新刊ということになる。

 

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 『本物の学力は
12歳までの「作文量」で決まる』(すばる舎)

 小学生のお子さんを持つ保護者向けの本。私が塾長を務める白藍塾では、受験生向けの小論文指導だけでなく、20年近く前から小学生の作文指導をしている。そうして実感していることは、作文力をつけ、言葉を操る力をつけることによって社会にも目が開かれ、徐々に学力が伸びてくることだ。

しかも、その学力は、これまでの受信型の学力だけではなく、2020年以降の大学入試改革で求められている発信型の学力でもある。とりわけ空想作文によって、子どもたちは楽しんで作文に取り組むようになり、自ら力をつけるようになる。

 白藍塾での指導を紹介し、受講生の書いた実際の作文を見ていただきながら、いかに空想作文が楽しいか、いかに力を伸ばすかをわかっていただきたいと思う。また、どのように促せば子供が自分から文章を書こうとするかについても説明している。

 

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『小論文これだけ!教育超基礎編』(東洋経済新報社・共著)

 白藍塾講師である大原理志との共著による『小論文これだけ!』シリーズの新刊。教育系の学部を受験する人はどのような心構えで受験すればよいのか、どのような人がこの学部を受けるべきなのか、どのような勉強、どのような知識が必要なのかを、徹底的にわかりやすく解説している。教育学部、教育福祉学部などを受験する人必読だと思う。

 

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暗澹たる気持ちになった 相模原障碍者施設大量殺人事件

 一昨日(2016年7月26日)、相模原の知的障害者施設で起こった19人が殺害され、26人が重軽傷を負った事件について、だんだんと犯人の生い立ちが明らかになってきた。事件現場は多摩地区にある私の家からそれほど遠くない。他人事とは思えない。私は暗澹たる気持ちになった。

 現実世界に不満を持つ人間が、自分よりも弱い人間をターゲットにして、憎悪と差別の意識をつのらせ、浅はかなで幼稚な価値観によって、そのような人々を一方的に攻撃することを正義とみなし、そうすることによって自分の価値を見出そうとする。これはISなどのテロリストとまったく同じ心理だ。人を人間と思わず、平気で殺していく。高齢者施設でヘルパーが数人の高齢者を殺したという事件もまったく同じ構図だ。

明らかな犯罪だけではない。「在特会」という団体、クレーマー、そして炎上をあおる人々もまったく同じ心理だ。わかりやすい子どもっぽい狭い正義だけを信じて、それに反する人間を見つけると、相手をゼロとみなして攻撃する。相手の落ち度を見つけると、それがすべてにように考えて、相手を全否定する。過激な行為であればあるほど、小さな仲間たちはそれを喝采する。喝采されると、またそれを実行する人が出てくる。このような人々が増殖しているのだろう。

 いつの間にこのような不寛容な社会になってしまったのだろう。近代文明が長い時間をかけて作り上げてきた多様な価値観を許容し、寛容を何よりも重視する社会が今壊れつつあるのだろうか。

 今回の事件で殺害された人々の痛ましさについては言葉もない。だが、今回の事件が植松聖という一人の狂った人物の狂った行為であるなら、まだ救いがある。だが、多くの同じタイプの人間がいるのではないか。障害者だけでなく、これから次々とターゲットをふやすのではないか。格差が拡大し、満たされない思いをする人々が増え、ネットによって愚かな考えをばらまいて仲間を増殖させることのできる社会においては、ますます不寛容が幅をきかせるのではないか。そして、狂った世界でヒーローになって喝采を浴びることを求める人間が出てくるのではないか。今回の事件や海外でのテロ事件が引き金になって、また同じような愚かな正義を振りかざす犯罪が起こってしまうのではないか。

 だが、言うまでもなく、他者をごみ扱いし、人間として尊重できないということは、自分自身をも尊重できないことだと思う。自分という存在に自信があれば、他者の存在も尊重できる。おそらく他者の存在を全否定している人は、自分の存在を全否定されるかもしれないという恐怖を抱いている人なのだろう。まず人間がするのは、他者の存在を否定することではなく、自分の存在を肯定することなのだ。そのためにしっかりと考え、行動することなのだ。

 植松聖容疑者は教員を目指していたという。本気で思っていたとは思えないが、言うまでもなく、彼はもっとも教員には向かない。教員こそが子どもたちに自分を肯定する力を教える存在なのだ。同時に、教師こそが自ら寛容の精神を抱き、寛容の精神を教える存在なのだ。

 教育に携わるはしくれとして、ここに書いたことを忘れずに若者に接したいと思う。それだけが、今回の事件のようなことが二度と起こらないために、私のできるたった一つのことだと思う。

 

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