心外なことがあった。過去の心外だったこともいくつか思い出した。
第一話
電車の中でのこと。向かいの席にミニスカートをはいた女性がいた。何度か目があった。私のほうを気にしている様子だった。私は300冊近い数の本を出しており、その中には写真を載せているものもある。映像授業も行っている。有名人というほどではないが、ごく稀に店に入ったときなどに「樋口先生ですか」と声を掛けられることもある。もしかしたら私のことを知っているのかな?と思いながら本を読み始めた。しばらくしてふと目を上げると、向かいの女性は着ていたコートを脱いでミニスカートの脚に巻いていた。・・・どうやらその女性、私がスカートの下をのぞき込みそうだと警戒したようだ。・・・心外!!
第二話
バンクシーの作品と思われる「落書き」が見つかったとのことで話題になっている。それで思い出したことがある。
数年前のことだ。東京の都立高校で「人間と社会」という科目が始まるにあたって、多くの高校の先生方がどのように授業を展開するか困っておられるようなので、そのヒントになるようにと、ある教育企業の企画で研修会が開かれ、私が高校の先生方の前で話をすることになった(ご存じない方も多いと思うが、私の専門は文章教育・小論文指導であって、私は一部の方からは「小論文の神様」と呼ばれ、しばしば講演などを行っている)。
要するに、この科目は、高校生に「よい社会にすることをまじめに考え、社会活動に参加しましょう」と訴えかけるかなり道徳的な目的をもっている。ふつうに授業をすると、道徳的な押し付けになってしまって生徒は自分で考えなくなると思い、私はおもしろくて活発な授業にするための方法、生徒に考えさせる課題などを提案した。
そのような課題の一つとして「あなたの知り合いに、商店街のシャッターや公園にスプレーで落書きをする人がいます。その人を説得して、やめるように言い聞かせてください」という問題を取り上げた。そして、高校の先生方にワークショップとしてこの課題を考えてもらうことにした。
私としては、まず落書きをしている人の言い分(「誰にも迷惑をかけていない」「アートとして行っている」「喜んでいる人もいる」「もっとおおらかな社会のほうが楽しい」などが考えられるだろう)を推測し、それを一つ一つつぶして、一部の人の行動が社会にどのような影響を及ぼすか、社会と人間のあり方はどうあるべきか、人間は社会にどうかかわるべきなのかについて根本的に考えるきっかけにしたいと思った。そのことを研修に参加している先生方に説明した。
ところが、高校の先生のおひとりが、この課題に異議を唱え、ワークショップを拒否なさった。その先生の言われることをまとめると、「落書きをするなんて悪いに決まっている。悪いに決まっていることを説得する必要などない。落書きをする人の言い分なんていうふざけたことを考えるなんてばかげている。そんな不届きなことは考えたくもない。問題はどうやって落書き犯を捕まえて、どうやってやめさせるかだ」ということらしい。しかも、このような不届きなことを考えるように促す私に怒っておられるようだった。しかも、その先生はそれをかなり強く主張なさるので、私の意図しているワークショップがスムーズに進まなくなってしまった。
私に言わせれば、「悪いに決まっている」と決めつけたのでは何も説得できない。どんな問題であれ、たとえどんなに不届きな考えであれ、相手の言い分を考え、それがいかに間違っているのかを根拠を示して説得する必要がある。それをしないことには、誰も説得できないし、思考することもできない。考えを深めることもできない。論拠を示して説得しなければ、相手を力で屈服させることしかできなくなってしまう。理性的に思考するということは、とりもなおさず、相手の論拠が間違っていることを理解させることだ。「人間と社会」という科目は、そのような問題を取り上げて、社会はどうあるべきかを考える科目のはずだ。
いや、それ以前に「悪いに決まっている」といってしまったら、すべての学が成り立たないのではないか。文学や哲学は、「人は生きる必要があるのか」「自殺してはいけないのか」「なぜ人を殺してはいけないのか」などの根本的な問題を考える領域だ。さすがに高校生にこれらのことを考えさせるのは少し無理があるにせよ、そのようなことを考えるための基礎力をつけるのが教育であるはずだ。私には、「悪いに決まっているので説得する必要はない」という考えは教育の放棄、思考の放棄、学の放棄に思える。いや、もっと言えば、頭から決めつけて相手の言い分を考えないことは誠実に生きることの放棄にさえ思える。
グループワークが終わった後で私の考えを示し、異を唱えた先生にわかってもらいたいと思っていた。いや、それ以前に、その先生のお考えによれば、そもそも反対意見の根拠を考える必要がないと思われる根拠は何か、相手を説得する必要はないと考える根拠は何か、その先生は教育とは、学問とはどのようなものと考えておられるのかくわしくうかがってみたいと思っていた。が、その先生は怒って途中で帰られたようだった。
あれからかなりの時間がたつが、今でも、大変心外に思っている。
第三話
大学での出来事。狭い階段を歩いていたら、後ろから速足が聞こえた。50歳前後の後輩教授だった。私はその教授を先に行かせようと思って、「年齢相応にゆっくり行きますから、お先にどうぞ」と謙遜していった。ところが、その教授、「気を付けてくださいね」と大真面目に言いおいて、すたすたと追い抜いていった。うーん、私は半ば冗談で言ったつもりだったのに・・・
同じ教授と話した。「トシのせいか、車の運転が怖くなって、このごろ、あまり運転をしないんですよ」と話したら、その教授は、「今までできてたことができなくなりますから、お気を付けくださいね」と真顔で言った。
これからこの教授の前では、年齢で自虐的なことは言わないことにしよう!
第四話
数年前のこと。以前から少しだけ付き合いのある講演仲介の会社から講演依頼のメールが届いた。ある地方の団体の会合で講演をしてほしいとのことで、先方の希望する候補日、演題、講演時間、講演料などが書かれている。そして、「ご質問がありましたら、以下に連絡をください」とのことでその会社の担当者の携帯番号が書かれていた。私がメールをみたのは土曜日の昼過ぎ。その1、2時間前に送信されたものだった。疑問点があったので、すぐに指定された番号に電話をした。
すると、明らかに不愉快そうな声。声からして、おそらく20代か30歳そこそこの若い男。電話の向こうでは確かに店内だか繁華街だかの音がしている。仕事が終えて私的に行動しているのだろう。が、ともあれ、私は名前を名乗って講演についての疑問点を質問しようとした。すると、相手がそれを遮って、つっけんどんに「月曜日にご連絡いただけますか」と返してきた。おいおい、質問があったらここに電話するようにとあんたがこの番号をしらせたんだろうに!
仕方がないので、私はメールでかなり皮肉を交えて、「先ほどは、お休みのところ、お電話を差し上げまして、大変失礼いたしました」などと必要以上にお詫びを前置きにして質問をした。講演を依頼している「先生」にそのようなメールをもらったら、その社員はきっと恐縮するだろう、きっと自分の非礼に気付いてあわてて詫びの電話かメールをくれるだろうと思っていた。
が、まったくそんなことはなく、そのことには何も触れない返事が来た。
結局、その社員とは顔を合わせる機会はなかったが、いったいどんな社員なんだろう。今でも心外に思っている。
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