映画・テレビ

映画「アイダよ、何処へ」 宗教と時代を超えた絶望の自問

 1980年代、ユーゴスラビアを訪れたことがある。紙幣に6つの言語が書かれているのに驚いたのを覚えている。対ナチ抵抗の英雄だったチトー大統領が存命の間は、民族同士の平和が保たれていたが、その後、冷戦崩壊とともに、ユーゴスラビアという国も崩壊、いくつもの国に分裂し、果ては虐殺事件が起こるようになった。一度、旅行したことのある人間として、この地域の状況はとても気になっていた。今回、1995年、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争のさなかに起きた「スレブレニツァの虐殺」を描く実話に基づくヤスミラ・ジュバニッチ監督の映画「アイダよ、何処へ」が上映されているとあっては、見ないわけにはいかないと思っていたが、やっと時間を見つけて映画館に出かけた。

 原題は「Quo Vadis, Aida」。ネロ時代のキリスト教徒の殉教を描くシェンキェヴィチの小説「クオ・ヴァディス」と、古代エジプトの民族対立の中で愛をめざす女性の苦しみを描くヴェルディのオペラ「アイーダ」を思い出さざるを得ない。

 かつて、ボスニア・ヘルツェゴビナには、カトリック、ギリシャ正教、イスラム教のそれぞれの住民が隣り合って平和に暮らしていた。ところが、対立が起こり、セルビア人が民族浄化を企てるようになる。スレブレニツァの虐殺は、ムラディッチ将軍の率いるセルビア兵がスレブレニツァを侵攻し、イスラム系男性住民8000人以上を虐殺した事件だ。映画は、この事件がアイダ(イタリア語ではないので、アイーダでなく、アイダと発音される)という女性を通して描かれる。

 女性主人公アイダ(ヤスナ・ジュリチッチ)はスレブレニツァで教師として働いていたが、今は、紛争の解決のために国連軍として駐留するオランダ軍の英語通訳として働いている。はっきりとは語られないが、イスラム系なのだろう。ところが、そこにムラディッチ将軍が侵攻し、多くの市民が国連軍のキャンプに避難場所を求めて押しかける。危険を察知し、夫と二人の子どもを何とか逃がそうと、通訳の特権を利用してあらゆる手を打つが、聞き入れられず、三人とも虐殺されてしまう。そして、しばらくして平和が戻る。家族を失ったアイダは教師の職に復帰し、もと住んでいた家に戻る。そこには、かつて敵対しあっていた人々がまた隣り合って暮らしている。果たしてこの平和は続くのか、かつて殺しあった相手を許せるのか・・・。

 映画は実にリアル。逃げ惑う大衆が描き出されるが、おそらく当時の現実を再現しているのだろう。オランダ軍は、セルビア兵の暴力の前に何もできず、国連も機能していない。イスラム系の男たちは銃を持ったセルビア兵の言いなりになって黙って殺されていくしかない。汚い手を使っても、無理難題を言い出してもなんとか家族を救おうとしながら、なにもできないアイダの焦りが観客に痛いほど伝わる。

 アイダはかつての教え子をセルビア兵の中に見つける。その若者は悪びれることなく、アイダに親しげに話しかけ、アイダの息子の近況を無邪気に尋ねる。しかし、それはアイダにしてみれば、息子の顔を知って告発するセルビア人が存在する脅威を意味する。かつて隣人として生きていた者同士のいかんともしがたい対立と殺戮。

 これはイスラム系住民の悲劇というだけではない。この悲劇は宗教を超えている。たまたまこの地域ではイスラム系住民が虐殺されたが、例えば、かつてトルコではイスラム教徒によってカトリック系のアルメニア人たちが虐殺された。いや、それどころか、セルビアでの対立も、イスラム系住民がセルビア人を攻撃した過去があったために、そのような残虐な行動に移ったという面がある。

「クオ・ヴァディス、アイーダ」は、宗教と時代を超えた宗教対立への自問、「私たちはどうすればいいのか? 私たちの多様な宗教を抱えた人類はどこに向かえばいいのか?」という絶望の自問にほかならない。

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中国映画「大地と白い雲」 モンゴル文化への共感

 岩波ホールで、中国映画「大地と白い雲」をみた。ワン・ルイ監督作品で、原作は内モンゴルの作家・漠月の小説「放羊的女人」だという。

 内モンゴルの大草原の中で暮らす若い夫婦チョクトとサロール。チョクトは草原の中で羊を飼って暮らす生活に嫌気がさし、都会での生活を夢見る。しばしば家を空けて、仲間と連れ立って街に出て飲んだくれ、車を買って行動したがっている。サロールは、それに対して、しばしば怒りをぶつけながらも夫を愛し、いつまでも草原で暮らしたいと考えている。大寒波が訪れた日、車を買う夢を実現しようとしていつまでも帰らぬチョクトに怒りをぶつけるうちにサロールは流産してしまい、その後、チョクトは一旦は草原で暮らそうとする。しかし、サロールが二人目の子どもを懐妊して新たな希望を持ち始めた矢先、またもチョクトは都会に出稼ぎに出てしまう。しばらくしてチョクトが草原の家に帰ると、サロールは赤ん坊を抱えての生活に立ち行かなくなって、それまでの生活を捨て、やむなく都会に出た後だった。

 監督は漢民族の人らしいが、セリフのほとんどがモンゴル語で語られる。大草原の美しい風景。壮大な自然の中で暮らす夫婦。それに満足する妻とそこから出たがる夫。ある意味、ありきたりのテーマなのだが、モンゴル文化を守ろうとする人間と、それに嫌気がさして都会の文化(つまりは漢民族の世界)にあこがれる人間というテーマが見え隠れし、背景に壮大なモンゴルの風景があるので、映画に深みがある。なかなか良い映画だと思った。

 知識がないので、この監督の思想がどのようなものかわからないのだが、この映画をみる限り、監督はモンゴル文化に深く共感しているようだ。チョクトをあえて軽佻でどうしようもない人間として描くことによって、「モンゴル」対「漢民族」という対立軸を避けて、モンゴルの文化への共感を語っているのだろう。中央文化になびくことを拒み、自分たちの文化に誇りを持つモンゴルの人々。しかし、物質文明になびいてしまう人々がふえ、中央政府の力が増して(落下した人工衛星の断片を探す軍隊の車列がそれを象徴している)、モンゴルの人々は生活基盤を失われて、伝統的な文化を守ることができない。そのような状況を淡々と描いている。

 ちょっと図式が単純で、しかも話がなかなか進まないので、退屈しないでもないが、じっくりと人間と風景を描いて、説得力がある。ただ、これを内モンゴルの人が見ると、どう感じるのだろうかと気になった。

 ところで、私がモンゴル旅行に出かけたのは2017年。ウランバートル中心の短い旅行だったが、中国国内の内モンゴルとモンゴル共和国の違いはあるとはいえ、やはり風景は似ている。ただ、その時、ゲルに泊まったが、この映画をみて、ゲルがまったく出てこないのが意外だった。モンゴル共和国では、ゲルは観光客向けの簡易ホテルとしてだけでなく、間違いなく、庶民の住居として機能していた。中国ではそのような文化は廃れたのだろうか。それも気になった。

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ロベール・ブレッソンの映画「ブローニュの森の貴婦人たち」「田舎司祭の日記」「バルタザール、どこへ行く」

 3回目の緊急事態宣言も間違いなく延長されるだろう。先日、私の住む地区でも65歳以上の高齢者(私も含まれる)のワクチン接種予約が開始され、私も参戦した。開始時間と同時にネットにつないだために、アクセスできないということにはならなかったが、指示に従って、かなり面倒な書き込みをしなければならず、しかも、手続きをしている最中に何度も「予期しないエラーが発生しました」という表示が出て少々焦った。無事に予約は取れたようだ。ひとまず安心。だが、これだと80歳過ぎの人は対応が難しいだろう。

 そんななか、先日購入した10枚組DVD2000円以下で売られているフランス映画特集を引っ張り出し、ブレッソンの映画を久しぶりにみようと思いついた。NHKBSでかつて放送された「バルタザール、どこへ行く」を録画したものも探し当てた。簡単な感想を書く。

 

「ブローニュの森の貴婦人たち」1945年 ロベール・ブレッソン

 実はブレッソンは苦手な監督だ。好きな映画もあるので、あえて「嫌い」とは言えないが、この人の監督した映画の多くについていけない。

 この人の映画では、神経質で生真面目そうなやせ細った男たちが黙って何かをもくもくとおこなう様子がしばしば克明に描かれる。私はそのような映像をみていると、こんな生真面目な精神にはついていけない!と強く感じる。きっとブレッソンがそんな生真面目な人なのだろうが、そのような人ばかり登場する映画は息が詰まる。

 幸い、この「ブローニュの森の貴婦人たち」にはそのような場面は少なかった。

 恋人ジャン(ポール・ベルナール)につれなくされたエレーヌ(マリア・カザレス)は、腹いせに昔なじみで、今はキャバレーの踊り子になり、娼婦まがいのこともしているアニエスをジャンに近づけ、二人が結婚するようにしむけ、その後になって、ジャンに真実を告げて傷つけようとする。だが、アニエスを愛するジャンは真実を聴いた後もアニエスを愛そうとする。

 恋にとりつかれるジャン、人の心を操ろうとするエレーヌ、自分の過去を悔い真実をジャンに告げようとして苦しむアニエス。それぞれの心理が丁寧に描かれる。

 もともとマリア・カザレスは鋭い眼光を持つ、意志の強い顔をした女優さんだが、とりわけプライドを傷つけられた腹いせに人の心を操る女性を激しく演じている。だが、カザレスの演技も含めて、私はブレッソンの息苦しいまでの生真面目な演出に辟易する。やはり、ブレッソンは好きな監督ではないなとつくづく思う。

 

「田舎司祭の日記」 1951

 その昔、ベルナノスの原作は恩師である渡辺一民先生の訳で読んだ。引きつけられた記憶があるが、ブレッソンの監督した映画は、私にはかなり退屈だった。いや、それ以前に、これこそ、やせ細った人間が真面目に行動する場面がずっと続く映画だった。

 田舎に赴任することになった若い司祭(クロード・レデュ)。教区の人々の苦悩を自らも受け入れて信仰とともに生きようとするが、教区の人々からは遠ざけられ誤解を受ける。それでも苦しみながら神への愛を全うしようとし、最後には、すべてが神の思し召しだと考えて病死する。そうした様子をブレッソンの映像は克明に追いかける。

 エンターテインメント映画のように、司祭の苦悩が具体的な事件や大きな身振りで示されるわけではない。悩む教区の人や先輩の宗教者との教理問答のような問答や、苦しみを語る言葉、ちょっとしたしぐさでそれを読み取らなければならない。

 それにしても、なんという生真面目な人たちなのだろう。司祭だけではない。教区の人々も必死にあがき、顔をゆがめ、生きることに葛藤している。

 小説であれば、司祭の苦しみを描く言葉に共感できる。信仰への迷い、神の言葉を素直に受け入れられない自分を責める気持ちも理解できる。だが、映像によってそれを見せられると、私はこの司祭に無理解な教区の人々と同じように、息苦しくなって、この映画を拒否したくなる。私の考える「真」とはもっと動的でもっと不条理でもっと人知を超えたものだ。ブレッソンの映画を観ていると、この人は、「真」を静的で知的なものと捉え、まじめに生きることによってそれを得られると考えているのを感じる。私はどうやらそれにいら立つようだ。

 その意味で最もブレッソンらしい映画と言えるかもしれない。私には最も苦手な映画だ。

 

「バルタザール、どこへ行く」 1964

 1970年、日本での封切時にこの映画をみた。初めてみたブレッソンの映画だった。静謐で、説明があまりに少なくて何が起こっているのかよくわからない作風に戸惑いながらも、深く感動したのを覚えている。今回改めて観たが、やはりこれはとても良い映画だと思った。私の好きな唯一のブレッソンの作品だ。

 バルタザールと名付けられたロバの眼を通して、1960年代のフランスの農村の悲しい人々の姿が描かれる。バルタザールの飼い主はプライドを守るために周囲の人々から孤立し、財産を失う。その娘マリー(アンヌ・ヴィアゼムスキー)は村のならず者ジェラールと恋仲になり、自堕落になっていく。バルタザールは、時代遅れの家畜として売られて様々な苦役につき、その時々でマリーやマリーの家族の悲劇に立ち会う。最後、バルタザールはジェラールの闇商売に使われ、流れ弾に当たって死んでゆく。

 ブレッソンの映画らしく宗教的な雰囲気が強い。バルタザール、マリーという名前も新約聖書を思い出さないわけにはいかない。実直で誠実な人々が試練を受け、多くの人が悪を行い、愚かで寡黙なバルタザールがそのような人間の性をみている。バルタザールこそはイエス・キリストのイメージなのかもしれない。最後、死んだバルタザールの周囲に羊たちが群がる。十字架の中で死んだイエス・キリストを迷える羊である人間たちが慕ったように。しばしば聞こえてくるシューベルトのピアノ・ソナタ第20番も生きることの悲しみをしみじみと感じさせて効果的だ。

 説明が省かれているためにわかりにくいストーリーも、生真面目な表情の人間たちの静かな営みも、ロバのバルタザールを通してみた世界であるために、私はほかのブレッソンの映画のように違和感を覚えない。バルタザールという存在のゆえに、この映画は名作になっていると思った。

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映画「インディア・ソング」「ヴェネツィア時代の彼女の名前」「キャラバン」

 2021年のゴールデンウィークが始まった。もちろん遠出の予定はない。家でオペラ映像をみたり映画を見たり本を読んだり、仕事をしたり。時々近場に散歩に行く程度だ。

 映画を数本みたので、簡単な感想を記す。

「インディア・ソング」 1974年 マルグリット・デュラス監督

 マルグリット・デュラスは大好きな作家だ。「モデラート・カンタービレ」は私の人生の中でも特別の本だった。1970年代、デュラスが映画を作っていると知って、なんとか観たいと思ったが、当時、観られたのは「ラ・ミュジカ」だけだった。数年前に、「アガタ」をDVDで購入して観た。そして、今回、「インディア・ソング」が発売されているのを知って購入した。

「アガタ」と同じ雰囲気、同じ手法。基本的に二人の女性の淡々とした対話から成る。映像は声とほとんど対応していない。映し出されるのは、豪華な室内や庭園の静的な光景だ。登場人物は映し出されるが、ほとんどの場合、ただ酒を飲んでいたり、歩いていたりするだけ。登場人物が自分の声で話をすることもない。しかも、舞台はカルカッタのはずなのに、映し出される光景はとうていカルカッタとは思えない。対話では「暑い」と繰り返し語られるが、登場人物のほとんどはきちんと礼服を着こなし、むしろ外の風景は寒々としている。ヨーロッパの豪邸とその周辺の庭園に見える(パリ郊外のロスチャイルド邸で撮影されたという)。

 対話の端々から類推して、ようやくストーリーらしいものがうっすらとわかってくる。どうやら、カルカッタの大使夫人アンナ(デルフィーヌ・セイリグ)は多くの男に体を許しているが、生真面目なラホールの副領事がアンナに恋し、一度だけで断られ、その後錯乱した、ちょうどその時、遠くから来た乞食女が叫び声をあげていた・・・ということのようだ。

 小説「ラホールの副領事」に基づいている。昔、この小説は読んだが、雰囲気にはとても共感するものの、わけがわからんと思った。映画としてみても、やはり「わからん」と思った。だが、このように映画にされると、デュラスのつくりたかった世界がよくわかる。いや、それ以上に、まさにこの映画はデュラスの世界そのものだ。

 生についての悲痛な叫びが心の奥底に隠されているが、それを表に出さず、けだるく、淡々としており、自分の体験についての記憶と現実が重なり合わず、世界は不可解なもの、非論理のものにあふれている。説明のほとんどない映像。目の前の映像と対話の不一致のために、観客はしばしば宙に放り出されるような感覚を味わう。

 考えてみると、アンヌとラホールの副領事と異国の乞食女という構図は、「モデラート・カンタービレ」のアンヌとショーヴァンと居酒屋での殺人という構図とぴたりと一致する。

 わけのわからない映画であり、これで2時間近くというのはかなり長いと思う。だが、やはり魅入られてしまう。しみじみとデュラスの世界に共感する。

 

「ヴェネツィア時代の彼女の名前」 1976年 マルグリット・デュラス監督

 同じデュラスの映画。というか、「インディア・ソング」とまったく同じサウンドトラックを使った映画。つまり、聞こえてくる音声は「インディア・ソング」とすべて同じ。ただ映像はまったく異なる。こちらには人物は出てこない。ただ廃墟のような屋敷が映し出される。

「インディア・ソング」と同じロスチャイルド邸とのこと。廃墟になり、取り壊しが決まった邸を映している。「インディア・ソング」と同じストーリーが語られるが、今回はアンヌも副領事もカルカッタで暮らすフランス人たちも登場しない。「インディア・ソング」を観ていてもよくわからないが、観ていないと、まったくストーリーさえも把握できず、最初から最後まで置いてきぼりを食ってしまいそうな映画だ。

 だが、デュラス・ファンであるせいだろうか、やはり引き込まれる。けだるく、退廃的で絶望的で、悲痛に満ちた世界を静的な昇華させた世界に、私は惹かれる。デュラスの世界を究極的に描いた映画だと思う。

 

「キャラバン」 1999年 エリック・ヴァリ監督

 チベット映画について話をしていたら、この映画の存在を知人が教えてくれた。早速、購入して観てみた。原題は「ヒマラヤ」。制作はあのジャック・ペラン。フランス・ネパール・イギリス・スイス合作映画。要するに、ヨーロッパ人がネパールを舞台に描いた映画だ。

 ヒマラヤ山脈を越えてヤクを連れて塩を運ぶ隊商の長老ティンレは息子に長老の座を譲りたかったのに事故で亡くしてしまったために意固地になり、自分で隊商を組んで、占いで示された吉日に出発しようとする。若い世代のリーダーであるカルマはそれに反対し、合理的に活動しようとする。二つの隊は別々に出発する。だが、ヒマラヤの過酷な自然のもとにともに苦難に出会う。最後には互いの力を認め合うが、ティンレは世を去り、カルマは長老の後を継ぐ。

 宗教や伝統に基づこうとする古い世代と、もう少し合理的に行動しようとする若い世代の対立と和解をヒマラヤの圧倒的な自然を背景に描いている。ネパールの人々の自然の中での暮らしの描写が素晴らしい。ヤクとともに自然のただなかで生きる。しかし、それは生易しいことではない。ティンレを鳥葬にする場面で、ティンレの遺体を斧で打ち砕いている場面がある。西洋文化から見てあまりに異様なものもリアルに描いている。

 ただ、話があまりに都合よく進んでいく点で、私としては少々不満を覚えた。ティンレの息子の嫁はカルマに思いを寄せており、ティンレの孫もカルマを慕っている。最後、すべてがうまくまとまる。まさしく予定調和の世界。これでは、予測できない世界の中で生きる人々の生きる実感からかけ離れているのではないかと思った。

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古いイタリア映画「噴火山の女」「敗北者たち」「婦人代議士アンジェリーナ」「1860年」「白い船」

 安売りDVD10枚組イタリア映画コレクションの残りをみた。簡単に感想を記す。

 「噴火山の女」 1950年 ウィリアム・ディターレ監督                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                       ヴルカーノというシチリア島の近くにある小さな火山島を舞台にした物語。ナポリで娼婦として働いていたマッダレーナ(アンナ・マニャーニ)が18年ぶりに島に帰り、妹のマリア(ジェラルディン・ブルックス)と暮らし始める。だが、村人たちは二人を邪険に扱い、マリアを追い出そうとする。仕事を失った姉妹はドナートという流れ者(ロッサノ・ブラッツィ)の手伝いをするが、マリアはドナートに恋してしまう。ドナートがマリアをくい物にして売り払おうとしていると気づいたマッダレーナは妹を守るためにドナートを殺し、みずからもちょうどそのときに起こった噴火の中で命を失う。

 ロッセッリーニの「ストロンボリ」とストーリーも雰囲気もよく似ている。意識して作られたのだろう。過酷な自然の中で暮らす島の人々を背景に、閉鎖的な社会、その中で神に救いを求めながら生きる二人の姉妹(二人の名前は、マッダレーナ=マグダラとマリア)が描かれる。まさしく永遠の自然の中での信仰、人間の営み。島人の生活にリアリティがあり、マニャーニの演技に説得力があって、心を動かされる。とてもいい映画だと思った。

 

「敗北者たち」 1953年 ミケランジェロ・アントニオーニ監督

 アントニオーニの初期作品。私はアントニオーニが大好きなのだが、この映画は初めてみる。

 フランスとイタリアとイギリスを舞台にした三つの独立した短い物語から成る。フランス編は、裕福な友人を銃殺して金を奪おうとした若者、イタリア編は裕福な家に育ちながら密輸にかかわって人を殺し、自らも重いけがを負って死んでしまう若者、イギリス編は自ら殺害した娼婦の死体を発見したとして新聞に売り込み、有名になろうとし、結局は自分が殺したことを告白して悦に入る若者が描かれる。いずれも、まさに敗北者たち、つまりは空虚な自分に耐えられず、何かを満たそうとして敗れていく若者たちといえるだろう。

 私はイタリア編にとても感銘を受けた。のちのアントニオーニの映画の空虚感がしっかりと現れている。殺人を犯した後、体の不調を感じながら、閑散とした道を歩き、競技場のベンチに寝転がって、そばにいた少女に心配の声をかけられ、その後、恋人の運転する車の助手席に乗る。その状況を描く映像の雰囲気は1960年代から70年代にかけて、まさに私が感じていた空虚感だ。そして、それは今の私とも無縁ではない。このような映像そのものに私は感動する。

 大戦直後の、食べるための犯罪から、心の空虚も満たすための犯罪へと社会の犯罪が変化していた時期、それを見事に察知した作品と言えるだろう。最初と最後に作成意図を語るようなナレーションが入る。言わずもがなの内容だが、若者の心に寄り添いすぎて、不正義に加担する映画のように思われるのを交わすための方便としてのナレーションに思われる。

 これを見て、自分が心からアントニオーニ好きだということを改めて確認した。

 

「婦人代議士アンジェリーナ」 1947年 ルイジ・ザンパ監督

 痛快でおもしろい映画。ただ、アンナ・マニャーニ演じるアンジェリーナが女性代議士になって活躍する話かと思っていたら、実際には代議士にはならない決意をする話だった。

 貧民街で暮らす5人の子持ちのアンジェリーナは、庶民への配給を渋るパスタ屋の闇商売を告発したのをきっかけに政治に目覚め、警察官の夫の反対にもかかわらず、貧しい人々のリーダーとして生活改革に乗り出す。貧民街が洪水に襲われたのをきっかけに、近くに建設中の団地に入居できるようにという運動を始める。問題がこじれて逮捕されるが、結局は周囲の理解を得て釈放される。貧しい人たちの圧倒的な支持を受けるので、周囲はアンジェリーナが議員になって活躍することを期待するが、本人は権力を持つことを拒み、家族を大事にする市民の一人として政治にかかわりながら生きていくことを選ぶ。

 マニャーニが、お節介で愛情深くておしゃべりで、社会的な不正義には黙っていられないで敵とまっすぐに戦うイタリアの女性を見事に演じている。戦後すぐのイタリア社会の矛盾もさらけ出して社会はドラマ風のところもあるが、ユーモラスでもあり、痛快なサクセスストーリーでもあるので、楽しく気楽にみることができる。みながら、なるほど、これがヨーロッパの民主主義の強さだと、改めて思う。

 

1860年」 1933年 アレッサンドロ・ブラゼッティ監督

 シチリア島に暮らす男性トリネロを中心にして、ガリバルディの千人隊がシチリア島に入り、島民とともに戦ってブルボン軍を撃退し、イタリア統一を進める様子が描かれる。2000人の素人を使って撮影した、ネオ・レアリスモの先駆けといわれる映画だ。

 新婚の妻を置いて使命を成し遂げようとするトリネロの葛藤は描かれるが、情緒にも流されず、心の中に入るこむことはあまりない。リアリズムに徹しており、歴史上の英雄ガリバルディについても、きちんと登場して人間像が描かれるわけでもない。そのため、戦闘場面などとてもリアルなのだが、劇映画としての盛り上がりには欠ける。

 私は30年以上前に、ガリバルディの伝記を訳したことがある(『イタリアか、死か 英雄ガリバルディの生涯』米川良夫先生との共訳)ので、当時はかなりイタリア統一運動について詳しかったが、今ではすっかり忘れてしまった。よって、この映画の細部について、よく理解できないところがあった。

 イタリア人ならこの映画に熱狂するかもしれないが、現在の日本人が見ると、あまり面白いとは思えない。

 

「白い船」 1941年 ロベルト・ロッセリーニ監督

 ロッセリーニ監督第一作。海軍省から委託されて、病院船の活躍を描いたものだという。文通相手である兵士慰問の女性と初めて出会うことになっていた兵士は、待ち合わせの場所に行こうとするが、外出が禁止になり、すぐに出港。海戦で負傷する。船内で緊急手術を受けて病院船に移送されるが、そこでボランティアの看護師として偶然、担当になったのが、待ち合わせをすることになっていた女性だった。

 そのようなラブロマンスを交えて描かれるが、さすがロッセリーニというべきか、リアルな戦闘場面の緊迫感が素晴らしい。本物の水兵を使って撮影されたというが、そのせいもあってあまりにリアル。映像のリズム感も見事で、みる者はぐいぐいと引き込まれる。第二次大戦のイタリアの状況は複雑なので、いったいこの船がどの海域でどんな敵と戦っているのかよくわからない。しかも、ドラマ風に登場人物に感情移入させる工夫はほとんどない(そもそも顔の認識の苦手な私は同じ制服を着た兵士たちを識別できない!)。それなのに映像を見ているだけで、ハラハラする。まさに映像のリアリティの力だろう。

 映画として特に面白いとは思わなかったが、ロッセリーニの底力を思い知った映画ではあった。

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古いイタリア映画「越境者」「寄席の脚光」「シーラ山の狼」「ナポリのそよ風」「ポー河の水車小屋」

 大阪周辺は「まん延防止措置」がとられ、首都圏も感染拡大が顕著になってきている。そのせいもあって、自宅で過ごすことが多い。先日紹介した10作のイタリア映画のほかに、またDVD10枚の安売りセットを購入して、半分ほどみたので、簡単に感想を記す。

 

「越境者」 1950年 ピエトロ・ジェルミ監督

 ピエトロ・ジェルミらしい緊迫感にあふれた映像で展開し、最後には人類愛を訴える映画。冒頭の鉱山の様子を不安げに見守る人々の配置だけで、この映画の緊迫感が伝わってくる。

 シチリア島の鉱山が閉鎖されて失職した男たちが、フランスに行けば稼げるという詐欺師の口車に乗って、家財道具などを整理して、家族ともども集団で国を越えようとする。だが、詐欺師は途中で逃げ出し、集団は都会の中に置き去りにされてしまう。大都市の中ではぐれたり、故郷に戻ることを決断したりする者もいる中、三人の子どもを持つサロ(ラフ・ヴァローネ)やそのほかの人々は、それでもフランスを超えようとする。パスポートを持たない彼らは苦難の末に雪のアルプスを渡る。

 移動の途中、生活できなくなってやっと仕事にありつけたと思ったら、それはスト破りの労働であり、スト中の労働者に攻撃される。だが、スト破りに起こる人たちも、サロの娘のけがを心配する。そのような苦難の中で人間らしさを失わない人々の姿がとてもリアルに描かれる。とてもいい映画だと思う。

 

「寄席の脚光」 1950年 アルベルト・ラトゥアーダ、フェデリコ・フェリーニ共同監督

 この作品については知らなかった。ラトゥアーダとの共同監督だとはいえ、フェリーニの最初の監督作品だという。のちにフェリーニは自伝的映画「81/2」を作るが、このタイトルの数字はそれまでに作った映画が8本と半分だったことを示していることは有名だ。その2分の1にあたるのがこの作品というわけだ。

 これはまさに名作! まったくもってフェリーニの世界! ケッコ(ペッピノ・デ・フィリッポ)率いるどさまわりの寄席の一座に女優志願の娘リリアーナ(カルラ・デル・ポッジョ)が自ら加入する。美貌と踊りですぐに人気者になる。ケッコは才能を見抜き、異性としても惹かれて、ともに成功しようとして売り込みに必死になる。そのかいあってリリアーナはとんとん拍子にスターになってゆくが、ケッコは踏み台にされるだけになってしまう。

 フェリーニ特有の猥雑で刹那的で、しかも人間味にあふれた世界が展開される。芝居小屋の楽屋や、リリアーナに下心を持つ弁護士の屋敷での食事シーンなど、がさつで下品で卑猥な芸人たちの仕草や声は、それだけでフェリーニの芸術そのものだといえるだろう。寄席のメンバーである名前も示されない芸人たちや踊り子たちの一人一人が生き生きとしており、全体の動きが複雑な踊りのように見事に完成されている。そうした中に、日々を必死に生きる売れない芸人や落ち目の踊り子、順調にキャリアが進みながらも周囲に裏切り者と思われてしまう人間たちの人間模様が描かれる。

 シナリオの見事さ、映像の動きなどにただただ舌を巻くしかない。役者たちも素晴らしい。ケッコの愛人をジュリエッタ・マシーナが演じて、いい味を出している。凄い映画だ! 

 

「シーラ山の狼」 1949年 ドゥイリオ・コレッティ監督

 76分の短い映画だが、速い展開でドラマティックなことが次々と起こる。普通に考えると、それほど盛り込むとリアリティが薄れるのだが、南イタリア山間部の農林業の生活を見せて、とても説得力がある。雰囲気的に「カヴァレリア・ルスティカーナ」を思い出す。とてもおもしろかった。

 かつて、目の前で母と兄(ヴィットリオ・ガスマン)を殺された少女が美しい娘(シルヴァーナ・マンガーノ)となって、悲劇の原因を作ったロッコ(アメディオ・ナザーリ)のもとで働き始める。ロッコとその息子サルヴァトーレ(ジャック・セルナス)の気を引いて悲劇を起こさせようとする。最後には、サルヴァトーレを心から愛すようになって、復讐をやめようとするが、ロッコはその強圧的な態度の犠牲になって生きてきた妹オルソラ(ルイザ・ロッシ)によって殺される。

 家名を何よりも重視して、強圧的に家族や人々を支配する男の悲劇の物語といえるだろう。イタリアの文学や映画などでしばしば扱われるテーマだ。「狼ルーポ」というタイトルは、ロッコの飼う犬の名前であるが、娘を救うと同時に窮地にも追いやる南イタリアの風土を象徴するものでもあるだろう。

 

「ナポリのそよ風」 1937年 マリオ・カメリーニ監督

 新聞売りの青年(ヴィットリオ・デ・シーカ)はヴァカンスに出かけ、上流階級の一団にまぎれこんで貴婦人パオラ(ルービ・ダルマ)に恋をする。そこで自分も上流社会の人間にしばらくなりすまして行動するが、徐々に上級社会の人々の空虚さや身勝手さを感じ始め、心優しいメイドのラウレッタ(アッシア・ノリス)に惹かれていく。

 バレそうになりながら何とかごまかすところにこの映画の面白さがあるが、デ・シーカの軽妙な演技なしにはこの映画はリアリティを持たなかっただろう。その意味で、とても良くできた映画だと思う。

 

「ポー河の水車小屋」 1949年 アルベルト・ラトゥアーダ監督

 脚本の一人がフェリーニ。そのおかげもあるのかもしれない。とても良くできた物語だ。

 19世紀末が舞台のようだ。水車小屋の娘ベルタ(カルラ・デル・ポッジョ)は富農の息子オルビーノ(ジャック・セルナス)と愛し合って結婚しようと思っている。ところが、水車小屋の一家は税逃れの小細工に失敗して小屋を焼失してしまう。結婚は先に延び、ベルタはオルビーノの家で働き始めるが、そこで地主と小作人の間でトラブルが起き、ストが始まる。組合に対立する水車小屋の一家は孤立し、ベルタは嫌がらせに会う。それに怒ったベルタの兄は仕返しにゆき、悪意ある年寄りの言葉を真に受けてオルビーノと争いになり、誤って殺してしまう。

 階級間の戦い、ストライキとスト破り、社会主義者、キリスト教などの社会的テーマが示され、そこで生きる男女の生きざまが示される。もりだくさんなストーリーだが、それぞれの人物像は類型的ながら、俳優たちの演技力やポー河の風景、そこで生きる人々の生活が描かれてリアリティがあり、人々の歴史の一コマが真に迫って見えてくる。なかなかの名作だと思った。

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映画「不幸な街角」「カプリの皇帝」「懐かしの日々」「ギリシャからの帰還」

 イタリア映画の安売りDVDセットの残りをみたので、簡単に感想を記す。

 

「不幸な街角」 1948年 マリオ・カメリーニ

 失業して家族に食べさせることもできなくなった男(マッシモ・ジロッティ)が、妻(アンナ・マニャーニ)に責めたてられ、困り抜いた挙句、高級車を盗んで売ろうとする。ところが、車に乗った夫をみた妻は仕事中と勘違いして、子どもとともに車に乗り込み、行動を共にしようとする。事情を知らないで天真爛漫に振る舞う妻と、何とかごまかす夫の間であれこれのことが起こったのち、結局は妻は真相を知り、夫は後悔して車を元の場所に返し、無事、何事もなかったことになる。

 せっかちで人の良い妻をマニャーニが見事に演じ、とてもおもしろい。子供に食事を与えられなくなった夫婦の悲しみがよくわかる。根は善良だったり、気弱だったりする小悪党たちもとてもリアル。戦後のイタリアの状況も手に取るようにわかる。ただ、マッシモ・ジロッティは好きな役者だが、今回の役にはちょっとカッコよすぎる。もう少しうらぶれた雰囲気が欲しい。

 だが、ともあれ人間の善意を信じる気になり、未来に希望を抱く気になる佳作だと思う。

 

「カプリの皇帝」 1949年 ルイジ・コメンチーニ監督

 イタリアの喜劇王トト主演の喜劇。ホテルの給仕を務めるトトはインドの大富豪と間違われて歓楽の島カプリを訪れ、何人もの女性に言い寄られる。最後には正体がばれるが、大富豪の命を助けることになって、感謝される。

 とはいえ、現代の日本人の私には少しもおもしろくなく、最初から最後までクスリともしなかった。せめてもう少しセンスの良い笑いがほしい。先日、BSで放送されていたチャップリンの喜劇(もちろん、私はどの作品も数回、数十回とみている!)と大違い。トトの映画は何本かみているが、まだ本当におもしろい映画にあたっていない。

 

「懐かしの日々」 1952年 アレッサンドロ・ブラゼッティ 

 野外古書店の主人が売り物の本やら身近にあった本について語る。それらの本の内容を描く9篇から成るオムニバス映画。少年鼓手の活躍の物語や少年少女の淡い恋、不義を暴かれて自殺する人妻など様々な短い物語が描かれる。デ・シーカが弁護士の役をして、ロロブリジーダ演じる被告人を「美を閉じ込めるべきではない」という論理で弁護をする最後の話が最も充実している。

 しかし、私はどのエピソードもあまりおもしろいとは思わなかった。それぞれのエピソードが短すぎて、十分に登場人物の内面を描き切れていないのを感じる。すべてが中途半端に思える。演出やカメラワークには感心する。とりわけ最後のエピソードはデ・シーカのあまりの演技力(「チャップリンの独裁者」の最後のあの演説場面に匹敵するほどだと思う)とロロブリジーダのあまりの美しさに圧倒されるが、話自体はたいしておもしろくなかった。

 

「ギリシャからの帰還」 1942年 ロベルト・ロッセリーニ監督

 やはりロッセリーニが監督すると、ほかの映画とはまったくレベルが異なる。単に主人公(マッシモ・ジロッティ)が爆撃機に乗り込んで飛行しているだけの場面もリアリティにあふれ、緊迫感がみなぎる。一つ一つの映像に無駄がなく、登場人物に動きも理にかなっている。だから、つい食い入るように映像を見てしまう。

 ただ、この映画がおもしろいかといわれると、それほどでもなかった。主人公は爆撃機でギリシャを攻撃しているうちに、迎撃されて捕虜になり、捕虜仲間と交流し、最後には脱走して敵機を奪って祖国に戻る。私の教養不足のために、第二次大戦期のギリシャの状況があまり頭に入っておらず、人々の行動がぴんとこないせいもあるが、あまり主人公に感情移入ができない。結局、単に主人公の行動を追いかけただけで終わっただけの映画に思えた。

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古いイタリア映画「2ペンスの希望」「明日では遅すぎる」「街は自衛する」「アンナ」「椿なきシニョーラ」

 10枚組1800円の古いイタリア映画のセットが新たに販売されているのを知った。私は、学生時代、パゾリーニ、アントニオーニ、フェリーニ、ヴィスコンティに夢中だった。少し前の時代のロッセリーニ、デ・シーカ、ジェルミの映画も好きだった。今回購入したセットには、これまでみたことのない映画が収録されている。1950年前後の作品を数本みたので感想を記す。

 

2ペンスの希望」 1952年 レナート・カステラーニ監督

 復員してきたものの仕事がなく、母や妹たちを抱えて苦労する青年と、その青年と恋に落ちた花火師の娘の物語。二人して軽率な行為ばかりをして、すぐに青年の仕事はクビになり、少女は親の厄介者扱いされる。最後まで、二人の結婚は娘の頑固な父親に認められないが、町中の人々の後押しによって二人はしっかりと生きていこうとする。ストーリーはそうまとめられるだろう。

 戦後イタリアの田舎町の貧しい庶民の生活をにぎやかに、活気を持って描いている。登場人物のほとんど、特にヒロインの少女が常にがなり立て、がさがさと動き回っているので、私のような「静謐好き」の人間にはうるさく感じられるが、そうであるがゆえにガサツな人々の必死に生きる姿がリアルに感じられる。軽率な二人を呆れてみながらも応援したい気になる。貧しく、したたかで、根は善良な脇役たちもとても魅力的だ。

 とても良い映画だと思う。カンヌ映画祭のグランプリ作品だというが、納得できる。ただ、邦題はなぜ「2ペンス」なのか。「小銭」という意味で「2ペンス」なのだと思うが、イタリアなのだから、「リラ」だろうに。日本人にわかりやすく「ペンス」にしたのだろうか。

 

「明日では遅すぎる」 1950年 レオニード・モギー

「青い山脈」のイタリア版とでもいうべき映画。旧弊な学校に通うフランコ(ジーノ・レウリー二)とミレッラ(ピア・アンジェリ)は同じマンションに住み、淡い恋心を互いに抱いている。性に目覚め、互いを意識し始める。ところが、古い道徳の持ち主である校長は二人を理解せず抑圧する。若い女性教師アンナ(ロイス・マクスウェル)が校長にたてつきながら、二人を支える。ランディ先生(ヴィットリオ・デ・シーカ)もアンナを支持し、少年少女は抑圧から一歩踏み出す。

 この映画には大勢の生徒たちが登場するが、この映画でも「2ペンスの希望」と同じように大きな声でしゃべり、しじゅう走り回っている。ネオ・レアリスモの一つの表現法でもあり、猥雑な活気にあふれていた時代の反映でもあるだろう。それにしても、大勢の人間がワイワイと一緒に行動するイタリア映画をよく見るが、きっと現実世界でもイタリアはこうなのであろう。

 1950年代には鮮烈だっただろうが、今みると、少々薄っぺらさを感じざるをえない。

 

「街は自衛する」 1951年 ピエトロ・ジェルミ監督

 サッカー場を襲って売上金を奪った四人組の強盗が警察に追われて逃げ惑う。全員が自殺したり、つかまったりするまでを描く。

 ジェルミの監督作品だけあって、緊迫感に富み、人間観察も鋭い。脚本にフェリーニも加わっているらしい。とてもおもしろかった。

 見覚えのある俳優さんが何人か登場するが、名前と顔が一致するのは、ちょい役のジーナ・ロロブリジーダだけだった。中学生の私が彼女を知ったとき、すでに40歳くらいになっていたが、本当に美しかった。西洋女性というのはこんなに魅力的なのかと幻惑された。今見ても本当に美しい。身を転落させてこんな女性に捨てられたら、強盗してでもまた取り戻そうという気持ちになるのもわからないではない。強盗に至った四人の絶望感が簡潔な描写の中にひしひしと伝わる。

 強盗の中で最も若かったアルベルトは、刑事の張り込みを知って、4階?くらいのアパルトマンの壁伝いに外に逃げようとするが、母親の説得に応じて捕らわれる。説得する母の表情、そしてその横で黙ったままでいる父親の眼の演技に圧倒される。残酷な結末を迎える映画だが、この場面が救いになっている。そうした構成もまた見事。

 

「アンナ」 1951年 アルベルト・ラトゥアーダ監督

 高校生のころだったと思う。テレビの深夜枠で一度この映画をみた記憶がある。シルヴァーナ・マンガーノの尼僧姿が強く印象に残っている。今回みなおして、なかなかの佳作だと思った。ただ、感動するほどではない。

 当時、危険な男・ヴィットリオ・ガスマン、まじめな男・ラフ・ヴァローネというイメージがあったのだろうか。この二人がシルヴァーナ・マンガーノを奪い合うという、「にがい米」とそっくり同じような構図の映画だった。

 アンナ(マンガーノ)は病院の看護師として尼僧姿で働いている。ところがそこに、かつての婚約者アンドレア(ラフ・ヴァローネ)が交通事故を起こして運び込まれる。アンナは過去を思い出す。かつて、アンドレアと結婚しようとしたが、結婚式の当日、アンドレアはアンナと腐れ縁の切れないヴィットリオ(ヴィットリオ・ガスマン)ともみ合ううちに殺してしまったのだった。それを契機に、アンナは尼僧になることを決意し、そのまま病院で有能な看護師として働いていたのだった。

 アンドレアは無事退院を果たし、アンナとやり直そうと説得する。アンドレアの元に戻ろうと考えたちょうどその時、列車事故が起こり、アンナは看護師としての仕事に戻って、アンドレアのもとに走ることを断念する。尼僧姿の中のアンナの心の葛藤がよくわかる。

 妹役の女性がシルヴァーナ・マンガーノにとても良く似ていて、とても美しい。シルヴァーナ以上に美しい。実妹が出演しているというので、この少女なのだろう。ソフィア・ローレンが脇役で出ているという。それらしい女性がいたが、それがローレンだと断言する自信がない。

 

「椿なきシニョーラ」 1953年 ミケランジェロ・アントニオーニ監督

 ミケランジェロ・アントニオーニの初期の作品。私はアントニオーニ・ファンなのだが、この作品は初めて観た。少々だれるところはあるものの、さすがアントニオーニというべきか、深みがあり、女性の心の渇きを描いて、とてもいい。最後にはおおいに感動した。

 ミラノで店員だった娘クララ(ルチア・ボゼー)が、大物監督に見出されて映画女優になり、監督の妻になる。だが、容姿だけでちやほやされて言いなりになって人形のように生きるのに嫌気がさして、監督と別れて、言い寄る男と生きなおそうとするが、男は遊びを目的としていた。失意の後、演技派女優を目指そうとするが、周囲が求めているのはそれではない。使い捨てにされるとわかりながら、心ならずも笑顔を振りまくしかない。

「愛の不毛」を描いた後年のアントニオーニに通じるものがある。映像も実に美しい。人であふれる映画の撮影現場が殺伐として見える。

 ボゼーはとても美しく魅力的だが、私としては、つい、「こんなにウェストが細くて、人間、生きていられるんだろうか」というきわめて卑近で生物学的な心配をしてしまった。

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チベット映画「羊飼いと風船」 空に舞い上がる赤い風船

「羊飼いと風船」をみた。ペマ・ツェテン監督のチベット映画。評判通り、とてもいい映画だと思った。

 1980年代。中国の人口抑制策に基づいて、チベット地区でも各家庭にコンドームが無料配布されている。ところが、羊飼いタルギェの家では、幼い子どもたちが風船だと勘違いしてふくらませて遊んだために、コンドームが不足し、妻のドルカルは妊娠してしまう。すでに三人の子どものいるこの家庭でこれ以上子どもを作ると罰金を取られ、生活も苦しくなるので、ドリカルは堕ろそうとする。ところが、死んだばかりの父の生まれ変わりがこの家に生まれるという高僧によるお告げを信じるタルギェや尼になっているドリカルの妹シャンチュはドリカルが子どもを産むことを願う。

 そのようなストーリーを大枠にして、ゆったりとしたテンポで、チベット族の日常の生活、自然の中での人間の生と死、羊たちの性のありようを描いていく。そこから浮かび上がってくるのは、国家推進の合理的で強圧的な精神とチベット族の自然に基づいた土俗の信仰。それらが日常の中に入り混じり、対立し、混乱と愛憎を生み出している。シャンチュは男との恋に破れて尼になることを選んだようだが、そこにも二つの考え方の理解不足があっただろうことがほのめかされる。

 どちらの側に立つのか、監督は立場を明確にしない。一方的にチベット族の生きざまをたたえるわけではない。矛盾の中で生きるチベットの人間たちをそのまま描く。

 最後、堕胎ののち、ドリカルは夫と離れて暮らすようになったようだ。タルギェは妻なしの厳しい生活を営むが、街に出かけたときに、子どもたちに本物の風船をねだられていたことをふと思い出して、赤い風船を買う。大草原の中を赤い二つの風船を揺らしながらバイクで走る場面は実に美しい。

 二つの風船のうちの一つは、子どもたちに渡したとたんにすぐに割れ、もう一つは子供の手を離れて天高く舞い上がる。主要登場人物のみんながその風船が舞い上がっていくのを見上げる。いつの日か、分裂し、引き裂かれる民族の心が一つになって上昇するのを希求するかのように。風船は私にはそのようなチベットの人々の願いに思えた。

 チベットには一度は行ってみたいと思いながら、高山病が怖くて計画段階で常に断念してきた。このような映画をみると、無性にチベットを見たくなる。

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映画「鵞鳥湖の夜」 フィルム・ノワールの形をとって躍進に取り残された人々の生をえぐる

 映画「鵞鳥湖の夜」をみた。とてもおもしろかった。引き込まれてみた。

 監督はディアオ・イーナン。中国の新鋭という。舞台は中国のたぶん南のほう。バイク窃盗団の抗争に巻き込まれて、誤って警官を殺してしまったチョウ(フーゴー)は仲間のつてで鵞鳥湖といううらぶれたリゾート地周辺に逃げ、妻とおちあおうとするが、そこに現れたのは仲介を頼まれた売春婦アイアイ(グイ・ルンメイ)だった。妻は出稼ぎに出たまま帰らぬチョウに愛想をつかしており、警察に密告している。チョウは傷を負いながら逃亡し、自分に身代金がかけられていることを知って、妻に密告させて妻子に金を残したいと考える。が、敵の窃盗団からも、警官からも狙われ、逃げ惑うしかない。結局、アイアイは妻に代わって密告し、その金を妻に渡すことを引き受ける。(ネタバレになるのでストーリーはこのくらいにする)。

 フィルム・ノワールという宣伝文句だが、まさにその通り。主人公たちが躍進を歌い上げる看板を背に歩く場面に象徴的に表現される通り、ここは開発から取り残された薄汚れたリゾート地。場末の汚れたホテルやレストラン、そこでうごめくやくざ者や権力を笠に着る小物や底辺で懸命に生きる人々が描かれるが、その映像はまるで美術作品のように美しい。そうであるだけに、薄汚れた建物や品が良いとは言えない人々が圧倒的な存在感で迫ってくる。そして、けだるそうにしながらも、チョウと妻の間でうろたえつつも力になろうとするアイアイの姿を初々しく描いていく。フィルム・ノワールという形をとりながら、躍進から取り残されて生きる人々の生きざまをえぐっている。

 鵞鳥湖に手を突っ込んで死ぬチョウの場面で、私はアンジェイ・ワイダの世紀の名作「灰とダイヤモンド」の主人公の死を思い出した。それに匹敵する壮絶な死だと思う。

 鵞鳥湖というのは実在するリゾート地なのだろうか。まさに躍進する中国の負の部分を象徴するかのような土地に見える。一度行ってみたいと強く思った。

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