映画・テレビ

デュラス原作の映画「あなたはまだ帰ってこない」 声をあげて泣いた!

 映画「あなたはまだ帰ってこない」をみた。

私は18歳のころに、たまたま購入した田中倫郎訳の「モデラート・カンタービレ」を読んで以来、マルグリット・デュラスを愛し、かなりの本を読んできた。フランス語を勉強し始めた時、最初に原書を買って辞書を引きながら読んだのも「モデラート・カンタービレ」だった。私はデュラスを20世紀後半のフランス最大の作家の一人だと思う。ため息交じりのような省略の多い独特の文体、極度に抽象化された愛と生のもがき、徐々に明らかになっていくあまりに壮絶な人生。そうしたものに惹かれてきた。デュラスが監督した映画も何本か見た。読み始めてかなりたってから、若きデュラスがとても美しい容姿を持っていたことを知った。それからはますます感情を移入して読んだ。

そのデュラスの自伝的小説「苦悩」(ただし、残念ながら、この作品は読んでいない)の映画化だ。初めは、デュラスの文体とかなり異なる映像化に少し違和感を覚えた。デュラスはこのように直接的にリアルには語らない。アルコール交じりにため息をつくように切れ切れに抽象的な言葉を用いて恐ろしい真実を語る。だが、映画であるからには、デュラス流を通せない。「アガタ」や「インディア・ソング」のようなデュラス自身が監督した抽象的な愛の形を模索するような映画ではなく、戦争中のレジスタンス活動とその中での愛の葛藤を描く映画となると、外面からデュラスの世界を描くしかない。デュラスの文章が内面から発する言葉によって成っているのに対して、エマニュエル・フィンケル監督の作り出した映画作品では、かつてのジャン・ジャック・アノー監督の「ラマン(愛人)」と同じように外側から見たマルグリット・デュラスから成っている。引き裂かれたマルグリットを象徴するように、しばしば二人のマルグリットが画面上に現れる。

パリがドイツ軍に占領された時代。夫をゲシュタポに逮捕され、自身もレジスタンス活動にかかわっているマルグリット(メラニー・ティエリー)は、夫の情報を引き出そうとしてドイツ軍協力者ラビエ(ブノワ・マジメル)の誘惑に応じる姿勢を見せる。しかも彼女はレジスタンスの仲間であるディオニス(バンジャマン・ビオレ)と関係を持つ。マルグリットは夫の帰りを必死の思いで待ち続けるが、終戦を迎え、ようやく夫が死の危機の中で帰還するとき、マルグリットは夫と会うのを拒絶しようとする。そして、夫が回復した後、夫に離婚を告げる。

その心の苦悩が痛いほどわかる。そこに、障害のある娘の生還を待ちわびながら、収容所に連行された初日にガス室で殺されたことを知るユダヤ女性の苦悩が重なる。戦後を生き抜くにはやむを得なかっただろう裏切り、男女の愛、諦め。そのようなものが交錯する。

私は声をあげて泣きそうになった。いや、実際に声を上げて泣いた。マルグリット・デュラスの苦悩に満ちた生、そして人間という大きな社会に翻弄されざるを得ない存在に対して泣かずにはいられなかった。

デュラスを読み返したくなって、数冊の本をさっそく注文した。

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映画「ビール・ストリートの恋人たち」 地についたリアリティ

 映画「ビール・ストリートの恋人たち」をみた。

ジェイムズ・ボールドウィンの短編小説「ソニーのブルース」を読んだときの感動を鮮明に覚えている。50年近く前、大学受験で東京に来た帰り、渋谷の三省堂(だったと思う)で購入した黒人作家短編集を寝台特急「富士」の中で読んだ。その中の一編がこの作品だった。貧しい黒人少年ソニーがジャズに出会い、音楽に命を懸けようと決意する様子を黒人たちの必死の生活感とともにリアルに描いていた。その後、何冊かのボールドウィンの小説の翻訳を読んだ。いずれもとても感銘を受けた記憶がある。そのボールドウィンの「ビール・ストリートに口あらば」が映画化されたとあってはみないわけにはいかない(ただし、この小説を私は読んでいない)。

1960年代のニューオリンズ。ティッシュ(キキ・レイン)は未婚のまま、恋人ファニー(ステファン・ジェームズ)の子どもを孕む。しかもファニーは警官の機嫌を損ねたために黒人だというだけの理由でレイプ犯として逮捕されてしまう。ティッシュは子どもを産み、冤罪を晴らそうと家族とともに努力する。ティッシュの母親(レジーナ・キング)はレイプ被害者の女性を説得しようとする。だが、かなわない。

そのような状況をバリー・ジェンキンス監督はリアルに克明に描いていく。ボールドウィンの原作がそうであるように、単に黒人差別を告発する作品ではない。理不尽な社会の中で懸命に生き、神に祈ったり、それに疑問を持ったりする被差別者の生き方そのものが示される。

ボールドウィンもそうだった。難しいことは語らない。ただ、神への祈りと愛の大切さ。それを描くだけ。だが、地についたリアリティがあり、生に対する愛があり、人間に対する根本的な信頼があるために、読むものの心を打つ。翻訳を通してさえも、ボールドウィンの小説の文体から世の中に対する怒りや生に対する愛が伝わってきた。この映画に対しても、まったく同じように感じた。美しい映像や役者たちの一つ一つの表情から、生への思いがつたわってくる。差別が当然だった時代の空気も伝わってくる。とてもよい映画だった。

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昔の日本映画「儀式」「乾いた花」「暗殺」「写楽」「はなれ瞽女おりん」「鑓の権三」「エロス+虐殺」「煉獄エロイカ」

  しばらく前から、仕事の合間に時間を見つけては古い日本映画のDVDをみていた。学生のころに一度見た作品も含まれる。簡単な感想を記す。

 

51fd7x1y5rl_ac_us200_ 「儀式」 大島渚監督  1971

 封切当時にみて、深く感動したのを覚えている。当時から大島は大好きな映画監督だったのでかなりの本数を見ていたが、この作品は「絞死刑」に匹敵する傑作だと思った。今回見直して、同じように思った。ただ、改めてみても、大島のメッセージを完全に理解することはできなかった。

 家父長制の権化のような政界の大物(佐藤慶)の複雑な家族の冠婚葬祭を通して、戦後から戦後にかけての思想史を描く。満州生まれの満州男(河原崎健三)が戦後日本の迷える状況を体現させた存在だろう。大和魂を新しい形で戦後に活かそうとする輝道(中村敦夫)の自死を通して方向性を失った戦後日本を描いているといえそうだ。新婦のいない結婚式の場面、満州男が結婚初夜のまねごとを権力者である祖父を相手にしようとする場面など衝撃的だ。

 武満徹の音楽、音羽信子、賀来敦子(私はこの女優さんが大好きだった!「青幻記」は素晴らしかった!)、そして小松方正、戸浦六宏、渡辺文雄の「大島組」の3人のインテリ俳優。実に懐かしい!

 

91ba0bbjokl_sy445_ 「乾いた花」 篠田正浩監督  1964

 篠田正浩も大好きな監督だが、この作品は、今回、初めてみた。石原慎太郎原作。刑務所から出たばかりのヤクザ(池辺良)が賭場で謎の女(加賀まりこ)に出会い、惹かれていく。乾いたニヒリズムの世界。今みると、妙にかっこよがっているところが鼻につく。しかし、素晴らしい白黒の映像美。ヌーヴェル・ヴァーグっぽさはあるが、あくまでも娯楽映画として作られている。

 

51zcfgwhdil_ac_us200_ 「暗殺」 篠田正浩 1964年

勤王、佐幕の間を行きかった謎の幕末浪人、清河八郎(丹波哲郎)の死までを描いた作品。司馬遼太郎の「幕末」に基づくという。退屈しないで最後まで見たが、とりわけこの人物に思い入れがあるわけでもなく、幕末ものが好きなわけでもない私としては、結局、この人物の思想も心情も理解することができず、もちろん感情移入することもできなかった。ただ、篠田監督らしい映像の美しさにあふれており、白黒の映像美に浸ることができる。静かな日本の風景の中に登場した情熱あふれる奇怪な人物像を描き出すことには成功していると思う。

 

51nbzvj5cel_ac_us200_ 「はなれ瞽女おりん」 1977年

 封切時に見て、とても感動したのを覚えている。まず映像が美しい(カメラは宮川一夫)。山間や海辺、神社仏閣を背景にした大正時代の人々の暮らしが描かれる。水上勉原作。

 盲目に生まれたおりん(岩下志麻)は幼いうちに瞽女(ごぜ。盲目の女性旅芸人)の集団の親方(奈良岡朋子)に引き取られて育てられる。が、娘になって男性客(西田敏行)に手籠めにされたことで集団から追い出されて、一人で行動するようになる。その旅の途中、下駄を売る男(原田康雄)と出会い、行動をともにするようになる。だが、おりんは男がごたごたのために警察にとらわれている間に薬売り(安部徹)に強引に情を交わされてしまう。男はそれを知って薬売りを殺す。男は警察に追われるが、脱走兵であることが発覚。囚われて刑に処される。おりんはふたたび一人で活動を始める。最後、山中で三味線と女性の白骨死体が見つかる。

 おりんは盲目ゆえに理不尽な目にあわされ続ける。阿弥陀の生き方をしようとするが、それを妨げられる。それでも阿弥陀にすがろうとする。日本社会は軍国主義へと進んでいるが、それに反する形で庶民の生活がある。そうした状況を激しく、美しく描く映画だ。

 後半、行動をともにする瞽女が登場する。樹木希林が演じている。ほんの脇役だが、その存在感たるや凄まじい。ほかの瞽女たちは目をつむっているが、樹木希林はかすかに目が見えるという設定のために目を開けて演じている。その目の表情、そして動き! それだけで感動してしまう。樹木希林が前に立ち、岩下志麻が後ろについて瞽女姿の二人が大自然の前をひたひたと歩いていく場面が何度か映されるが、これは映画史に残る名場面だと思う。武満徹の音楽も素晴らしい。

 

514hnuroyjl_ac_us200_ 「写楽」 篠田正浩監督 1995

 ひとことでいって、おもしろくなかった。洒落本や浮世絵を売り出した実在の版元蔦屋重三郎(フランキー堺)を狂言回しにして、写楽(真田広之)、十返舎一九(片岡鶴太郎)、北川歌麿(佐野史郎)、葛飾北斎(永澤俊矢)、山東京伝(河原崎長一郎)、鶴屋南北(六平直政)などを配し、反権力の江戸の色彩的なエネルギーを描こうとしたのだろう。このようなものを描きたかった篠田監督の気持ちはよくわかる。

だが、あまりに多くの人物を描き、写楽と花魁(葉月里緒奈)の恋を中心に据え、そこに大道芸人集団(岩下志麻など)を加えたために、焦点ぼけしてしまった。二人の恋にもリアリティが感じられず、そもそも真田広之演じる写楽も、あのような浮世絵を描く内的必然性が感じられなかった。ただ、赤を中心にしたけばけばしい江戸の色が印象に残るだけの映画になってしまった。

 

51lwmcjlkxl_ac_us200_ 「鑓の権三」 篠田正浩監督 1986年

 近松門左衛門の浄瑠璃「鑓の権三重帷子」に基づく。脚色は富岡多恵子。封切されたころ、私は映画を見る精神的、時間的余裕がなかったので、今回、初めてみた。

 夫の留守中、娘の婿にと考えて特別に茶の秘伝を権三(郷ひろみ)に伝えようとしていたおさゐ(岩下志麻)だったが、ほかの娘と関係を持った不実をなじっているところを不義密通とみなされる。言い逃れができなくなった二人はそのまま逃げて夫に討たれることを願う。が、もとより心惹かれていたおさゐは権三と心身ともに結ばれてから討たれることを望む。そして、ついに最期を迎える。

 日本芸能に疎い私は近松の浄瑠璃をまったく知らない。が、琵琶(だと思う)がかき鳴らされ、義理と人情のはざまを人間らしく生きる姿がまさに近松の世界なのだと思う。主要な登場人物だけでなく、背景となる町や人々、祭りの様子など、とても美しく、しかも生々しい。狂おしく愛を求める男女を色彩豊かに描いて、本当にいい映画だと思う。

 

41xuccop9l_ac_us200_ 「エロス+虐殺」 吉田喜重 1969年

 学生の頃に見て、大いに刺激を受けた作品。私は高校生のころからアナキズムの思想に惹かれて、バクーニンやらクロポトキンやらの何冊かを読んでいたのだが、大学生になってからこの映画をみて大杉栄のかっこよさに痺れた。この映画をみたあと、大杉の著作を何冊か読んだのを覚えている。

封切時は2時間45分にまとめたというが、購入したDVDでは、オリジナルの3時間30分を超すヴァージョンが収録されている。

この作品は、大杉(細川俊之)と伊藤野枝(岡田茉莉子)と神近市子(楠侑子。ただし、作中ではプライバシー問題に配慮して「正岡逸子」と呼ばれる)の三角関係のもつれから実際に起こった日蔭茶屋事件を描く。大杉は所有を否定し、それを人間感情にも広げて解釈して自由恋愛を主張し、生の充足を求めるが、野枝は大杉と夫である辻潤(高橋悦史)との間で揺れ動く。大杉の妻・保子(八木昌子)も市子も大杉の自由恋愛を受け入れられない。葛藤しつつ生を燃焼させる大正時代の政治運動家たちの状況と、現代(1969年)の方向性を見失って、「ごっこ」しかできなくなった若者たち(原田大二郎・伊井利子)を対比させて描いているといってよかろう。無機的な建築物の中で人間性を求めてあえぐ現代人の状況が浮き彫りになる。

フランスのヌーヴェル・ヴァーグの影響なのだろう、かなり前衛的な手法がとられている。鼻白むような、そして赤面するような文学青年風のセリフもたくさん出てくる(確かに、私が大学生だったころ、かっこよがってこんなことをしゃべっていた!)が、白黒の映像の美しさ、カメラショットの見事さ、斬新な構図は格別。

信じられないほどカッコイイ細川俊之もさることながら、虚無僧姿で放浪する高橋悦史演じる辻潤の虚無的な姿が印象的だった。今、みなおしてみると「大傑作」とまでは言えないが、それはそれで時代を確かに反映する秀作だと思う。

 

21bx8mmgt2l_ac_us200_ 「煉獄エロイカ」 吉田喜重 1970年

「エロス+虐殺」がとてもおもしろかったので、封切後、大いに期待してみたが、かなり失望したのだった。いや、それ以上にわけがわからなかった。今回みても、まったく同じ印象だった。途中までは何とか整理してみたが、途中からお手上げ。

過去(1950年)と現在(70年)と未来(80年)が錯綜し、様々な登場人物も入り乱れるが、同じ役者がいくつかの年代を同じ扮装で演じ、しかもどうやら別の役も演じているようなので、まったく話がわからない。途中から、理解しようという気もなくした。

どうやら、主人公・庄田(鵜田貝造)は現在では美しい妻(岡田茉莉子)を持つ優秀なレーザー光線の研究者だが、50年代には革命運動に身を投じ、運動の失敗の原因となったスパイの存在について今も疑問を持っている。そうした事柄を基軸に、突然現れた少女や、その父親だと名乗る人物などが現れて3つの時代をまたいで現実と幻影が交叉していく。そうとしかまとめられない。

思い出してみるに、1970年前後、わけのわからない(わざとわからなくした)実験演劇作品がたくさん上演されていた。多くの人がベケットやイヨネスコやアラバールの真似をし、もっとわからなくして悦に入っていた。この種のものを何本か見たし、台本をずいぶん読んだ。この台本もそれに近いと思う。

一体何が起こっているのかさっぱりわからないので、せっかくの美しい映像なのだが途方に暮れてみるしかない。どうやら、「裏切られて誕生した戦後」というテーマのようだが、それも自信を持って語ることはできない。ここまで理解できないと、やはり退屈してしまう。

主人公を演じている鵜田貝造はフランス演劇研究家で、後に立教大学教授になられた塩瀬宏先生の別名だ。吉田喜重の東大時代の友人ということで出演を持ちかけられたそうだ。私は立教の大学院で塩瀬先生には大変お世話になった(考えてみると、お世話になりっぱなしで、お礼も言っていない!)。今、久しぶりに若き日の塩瀬先生の演技を見て、素人っぽい演技だとは思うが、この役には違和感はないし、端正で知的な顔立ちはこの役に申し分ない。

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映画「葡萄畑に帰ろう」 あまりに陳腐だが、ジョージアの風景は見られた

 仕事が思った以上に早く片付いたので、岩波ホールに出向いて、「葡萄畑に帰ろう」をみた。エルダル・シェンゲラヤ監督のジョージア映画。

 さきごろ岩波ホールで開かれたジョージア映画祭のほとんどすべての映画をみたが、そのたびにこの予告編がかかっていた。これだけ予告編を見させられたからには、本編もみないわけにはいかない。

 が、予告編で想像していたのとはかなり異なる映画だった。まず、原題が「椅子」。映画の冒頭からずっと椅子が中心的に語られる。この椅子はCGによっておしゃべりをし、自分の意志で動く。登場人物に語り掛け、観客に向かって解説めいたこともする。

避難民を追い出す担当の大臣になったゲオルギは新しい高価な椅子を購入して悦に入る。が、選挙に負けて大臣の座を追われ、しかも前の首相に贈り物としてもらった家屋からも追い出される。最後にはそれまでの上昇志向の自分を改めて母親の経営する葡萄園に帰る。そうした物語が椅子を中心に語られる。権力に執着する椅子はゲオルギを追いかけるが、最後にはゲオルギはこの椅子を捨てる。それでも、椅子は復活し、ふたたび上昇を求める人間を探そうとする。そこで映画は終わる。

 あまりに陳腐だと思った。「大臣の椅子」を人間化してストーリーを展開すること自体、出来損ないのサラリーマン向けファンタジーのようだし、テーマもあまりにありきたり。ただ、それを臆面もなくやってのけているところにこの映画の価値があるといえるかもしれない。ある種のおとぎ話として、あえて人間描写も表面的にして描こうとしたのだろう。しかし、そうであるとしても、私は残念ながら魅力を感じなかった。

 日本語タイトルをつけた人や予告編を作った人も、「椅子」を出すとあまりに陳腐だと感じて、あえてそれを隠して、「葡萄」「ワイン」を強調したのだろう。が、実際には、葡萄の話はほんの少ししか出てこない。詐欺めいたタイトルと予告編だと思う。

 ただ現在のジョージアの都会と田舎の風景を見ることができた。避難民を抱える政治状況を知ることができた。ジョージアに強い関心を持ち始めている人間には、それはうれしいことだった。

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映画「運命は踊る」「ニーチェの馬」「倫敦から来た男」「パリ20区 僕たちのクラス」「カメラを止めるな」「検察側の罪人」

 映画館でみた映画、DVDでみた映画、飛行機の中でみた映画をとりまぜ、最近みた映画数本の感想を書く。

 

映画「運命は踊る」 2018年 サミュエル・マオズ監督

 渋谷の映画館でみた。サミュエル・マオズ監督のイスラエル映画。

夫婦のもとに兵役中の息子が戦死したという知らせが入る。夫婦は絶望するが、しばらくしてそれが誤報だったとわかる。夫は激怒して息子を戦地から呼び戻すように働きかけるが、せっかくそれまで無事だったのに、息子は命令を受けて帰宅している途中に交通事故で死んでしまう。そうしたことがあったために夫婦中はぎくしゃくして別居するようになるが、最後にはドラッグを使って無理やり心を通わせあう。簡単にまとめるとそんなストーリーだが、そこに描かれるのは戦争に疲弊する社会の病巣だ。

 父親は兵役時代に仲間を死なせてしまったことに深い傷を負って、そこから長い間逃れられず、自分の気持ちを整理できずに、今でもしばしば飼い犬を虐待しているようだ。息子は検問所で兵役の仲間たちとだんだんと泥に埋まって傾いていく兵舎で暮らしながらラクダがのんびり通るのを見守るような戦場とはかけ離れた検問をしていたが、ちょっとした誤解から何の罪もないアラブ系の人々の乗る車に乱射して殺戮してしまう。息子が交通事故で死んだのも、誤って人を殺してしまったことに苦悩しているさなかだった。

 イスラエルの映画でありながら、イスラエル人に人権を蹂躙され、自尊心を奪われて屈辱的な立場にいるアラブ人の状況がしっかりと描かれる。イスラエルの社会も、勝利しているわけではなく、すべてが傾き、ゆがみ、実は大義を失い、人と人の健全なコミュニケーションもなくしている。イスラエル政府に真正面から異議を唱えるわけではないが、映像や登場人物のあれこれの動きによってその矛盾を描いている。見事な映画だと思った。

 

81tgyndlrwl_sy445_ 「ニーチェの馬」 タラ・ベーラ監督 2012

 DVDを購入。とてつもない映画だと思った。言葉に表しようのない映画。これまでこんな映画は一度もみたことがない。「おもしろい」というわけではないが、ただただ圧倒された。

 かのニーチェは鞭うたれている馬に駆け寄ってそのまま意識を失い、発狂したといわれている。この有名なエピソードに基づくニーチェの発狂をもたらした馬のその後を描く物語。

とはいえ、激しい風の中の小さな家で父と娘が馬とともに生活する様子が白黒の映像で描かれるだけの映画だ。父親は右手が不自由らしく、娘の手助けがなければ服を着ることもできない。二人は極貧の中にいて、ジャガイモをゆでただけの食事を続ける。その過酷な生活の繰り返しが描かれる。ほとんど会話はない。一度、近隣の男がやってきて、一方的にニーチェ思想を語る。「曙光」の中に確かこのような文章があったと思う。だが、父親はこの男を追い返す。最後に馬は死ぬ。

ニーチェの思想さえもが浅はかな言葉にしか思えないような人間と馬の圧倒的存在感。あらゆる「意味」を排して、人間が存在する。ニーチェが恐れおののいて狂気に陥らざるを得なかったような存在。この馬は、サルトルの「嘔吐」におけるロカンタンの見たマロニエの木の根のようなものなのかもしれない。ロカンタンがマロニエの木を見て存在そのものを感じて嘔吐したように、ニーチェは馬を見て生命の存在というあまりに単純なものに気付いて発狂したのかもしれない。そう思わせるだけの力のある映画だった。

 

51hamtuetrl_sy445_ 「倫敦から来た男」 タル・ベーラ監督 2007

「ニーチェの馬」があまりに凄いので、タル・ベーラ監督の映画をネットで探して購入。この映画にも圧倒された。「ニーチェの馬」とは違って、こちらはジョルジュ・シムノン原作の犯罪映画。しかし、一般の犯罪映画の次元をはるかに超えている。

殺人を目撃し、殺された男の持っていた大金を拾った中年の男の行動を白黒の長回しの映像で追っていく。セリフがほとんどない。映像で心情をわからせるというレベルを超えて、人間の存在そのもの、生の奥にある本質そのものを描き出しているかのようだ。

私はフェルメールの絵画を思い浮かべた。もちろん、描き出される世界はフェルメールとはまったく異なるが、外観を描くだけでその奥にある存在そのものまでも描き出す技はまさしくフェルメールだと思った。カフェや部屋のものの光と影、俳優の肌の質感、目の動き、背景の人の動き・・・そのようなもののすべてがその奥にある世界を描き出している。凄まじい映画!

 

2081ngiiujiel_sy445_ 「パリ20区 僕たちのクラス」 ローラン・カンテ監督 2008

 パリ20区。移民の多い地区。その公立中学の教師とそのクラスの若者たちの話。まるでドキュメンタリー映画のようにリアルだが、俳優が演じているとのこと。主役を演じるのは自らの体験を描いた原作者本人(フランソワ・ベゴドー)だという。

生徒たちはアフリカ系、アラブ系、中国系が多く、勉強意欲がない。多くの生徒の学力も著しく低い。まさに学級崩壊状態。しかも生徒たちは自己主張をして、教師にたてつく。教師は必死にクラスを立て直そうとする。特に感動的な結末があるわけではない。きれいごとを排し、シリアスに教育とは何かを問いかけ、現代のフランス社会の断片を見せつける。

フランスと日本の学校の在り方の違い(なんと、生徒の退学を決める職員会議にオブザーバーとして生徒代表が出席している!)もわかる。教育に身を置く私自身も大いに身につまされる問題でもある。

それにしても監督の演出の手腕に驚く。本当に生意気な生徒たちとしか思えない。すべてのセリフが本人の心の中から生まれているとしか思えない。

 

「カメラを止めるな」 2017年 上田慎一郎監督

 話題になっているのでみたいと思っていたら、プノンペン行きの飛行機でみられた。

初めの三分の一ほどは、カメラを止めずにワンショットによるゾンビ映画が展開する。わざとらしく大袈裟でときどき不思議な間がある。ワンショットでうまくとれているのは見事だが、言われているほど面白くないと思ってみていたら、三分の一を過ぎてからはいわゆるメイキング映像になった。初めのゾンビ映画がどのような経緯で撮られるようになったのか、どうやって撮ったのか、どんなトラブルやアクシデントがあってそれを乗り越えたのかが描かれる。実におもしろい! 一つ一つに納得する。前半に張り巡らされていた伏線がすべて集束する気分を味わうことができる。しかも、そこにはダメ監督と妻、娘の家族の愛情回復の物語がからんでいる。最後には、ゾンビ映画にかかわった人々と一体化して感動を覚えた。こんな映画、これまでみたことがない!

 スタッフもキャストもまったく無名の人々。それなのに、こんなすごい娯楽映画がうまれるなんて。

 

「検察側の罪人」 2018年 原田眞人監督

 飛行機の中で「日日是好日」を見始めたのだが、茶道を教えるこのタイプの映画は少なくとも飛行機の中でみるべきものではないと思って、「検察側の罪人」に切り替えた。木村拓哉、二宮和也の競演で話題になったのは知っていた。期待しないでみたが、なかなかおもしろかった。

 この種の映画について内容を書くと「ネタバレ」になってしまうので、くわしくは書かないが、主役格の人々はしっかりと演じ、主人公のかなり極端な行動にもそれなりに納得できるようにはできている。過去の殺人を告白する異常な犯人を演じた酒向芳の存在感に圧倒された。最後まで退屈せずにみた。

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映画「ガンジスに還る」 人生に対して素直になってこそ人は本当に死ぬことができる

 岩波ホールでインド映画「ガンジスに還る」をみた。

 先ごろ岩波ホールで開かれたジョージア映画祭で上映された映画を私はほとんどすべてみたのだったが、そのたびにこの「ガンジスに還る」の予告編を見せられたのだった。そこまで見せられると、本編をみないわけにはいかない。

 老人が突然、自分の死を感じ、バラナシの聖地へ行って最期の時を迎えたいと言い出す。それに中年の息子がついていくことになる。老人と息子は最後を迎える人のための安ホテルで過ごす。息子は初めのうちは仕事を気にしながら、父親に付き合っているが、徐々にこれまでの人生を振り返り、ともに相手を誤解していたこと気づき、死を人間に訪れる当然のこととして受け入れるようになる。そうして老人は最期を迎える。

 親は子どもに対してよかれと思ってあれこれ行うが、子どもは必ずしもそれをありがたいと思ってはいない。死という厳粛な、しかしすべての人間にとって当たり前の現象を前にすると、人は素直になれる。いや、人生に対して素直になってこそ人は本当に死ぬことができる。人生に対して素直になることが、すなわち死を迎える時期が来たということなのだ。そうしたことを、この映画は、ユーモアを交え、しかも淡々としみじみと、ガンジスの川や祭りの様子を交えながら語ってくれる。

 この映画のシュバシシュ・ブティヤニ監督は1991年生まれ。20代の若者! 驚くべき才能だ。ただ、私が個人的に少々不満だったのは、バラナシのこの上なく猥雑で混沌としていて貧しく汚く、しかも、いやそうであるからこそ間違いなく聖なるものが息づいている雰囲気を十分に描いていないように思えた。私がバラナシを訪れたのは、1993年だった。あのとき感じた強烈な暑さの中の聖なるものと俗なるものの激しい交錯を映画の中に感じられなかった。もちろん、現在は私が訪れたころと雰囲気が変わったのかもしれない。あるいは監督はそれを描きたくなかったのかもしれない。だが、やはり私としてはバラナシが描かれるのであれば、あの雰囲気を味わいたかった。

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札幌で映画「ジョニー・イングリッシュ アナログの逆襲」をみた

 このところかなり忙しかった。締め切りの近づいている原稿はないが、私生活的に何かとあちこちに出かけざるを得ないし、大学での授業も週に一日続けている。しかも、この2週間ほど遠くに出かけての講演が続いた。

 1110日には山梨県総合教育センターで小中高の先生方への講演、12日に鹿児島に移動して、13日には鹿児島県立錦江湾高等学校の生徒さん500名余りと教員の方々30名くらいに対して小論文についての講演、そして20日には札幌の札幌市教育文化会館で私が問題作成主幹としてかかわっている学研+白藍塾のクリティカルシンキング指導に関するセミナーでの講演。

 札幌のセミナーは20日に終え、市内のホテルに宿泊。20日のうちも窓から雪が見えていたが、21日の朝、かなり強い雪が舞っていた。ホテルから外を見るとうっすらと雪が積もっている! この日は札幌付近を観光しようと思って、夜の東京行きの飛行機を予約していたのだが、この寒さと雪では観光する気分になれない。

 そんなわけで、朝のうちから札幌駅に行って、駅ビルの映画館で映画のはしごをした。最初はMETライブビューイングの「サムソンとでリラ」、あわてて昼食をとってその後、「ジョニー・イングリッシュ アナログの逆襲」をみた。映画が終わってもまだ時間があったので、駅近くのマッサージ店で1時間身体をほぐしてもらって、新千歳空港に向かった。札幌は雪がほとんど見えなくなっていたが、快速列車から見ると雪が積もっていた。

「サムソンとでリラ」については回を改めて感想を書くとして、ここでは簡単に「ジョニー・イングリッシュ アナログの逆襲」の感想を記す。

 デヴィッド・カー監督、主演はMr.ビーンをかつて演じたローワン・アトキンソン。ヒロインはオルガ・キュリレンコ。Mr.ビーンは大好きだった。今回もおもしろそうなので機会があったら見ようと思っていた。期待通りのおもしろさだった。

 ジョニー・イングリッシュを主人公とするシリーズはこれが3本目らしい。英国の政府関係のコンピュータがハッキングされ、すべての情報が筒抜けになってしまう。そこで情報のないかつての英国諜報局の退役スパイの1人イングリッシュがアナログの武器で敵に挑んで、失敗に次ぐ失敗ののち、ともあれ敵を捕らえる。007シリーズの大ヒットの後にそのパロディがかなり作られたが、その趣向を継ぐもの。とてもよくできている。まさしく抱腹絶倒。客は20人程度しかいなかったが、私を含めて笑い転げている人がかなりいた。満員だったら大爆笑の渦になっていただろう。

 デジタル社会にアナログで立ち向かうところがおもしろい。デジタル社会の危険性を笑いの中でシリアスに示してくれる。イングリッシュがVRのマスクをかぶったまま街に出て行って大混乱を起こす場面は現実と仮想世界の見分けがつかなくなり、本人は何も気づかないまま危険な行為をしてしまう・・・という現象を実におもしろく描く。チャップリンの「モダン・タイムス」の中の目隠しをしたままローラースケートでデパートの見回りをする場面を思い出した。アトキンソンの演技も素晴らしいし、オルガ・キュリレンコも最高に魅力的。満足のスパイ・アクション喜劇だった。

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ドゥミの映画「ロシュフォールの恋人たち」「王女とロバ」「モン・パリ」「ベルサイユのばら」

 先日みたアニエス・ヴァルダの映画がきっかけになって、ヴァルダ、そしてその伴侶だったジャック・ドゥミのDVDをしばらく見続けた。感想を記す。

 

51dg6eovl_ac_us200_ 「ロシュフォールの恋人たち」 ジャック・ドゥミ監督 1967

 40年以上前、封切されてすぐにみた。が、「シェルブールの雨傘」よりももっと革新的な傑作を期待していた私には少々期待外れに思えた。が、今、改めてみると、いや、なかなかの傑作ではないか。

「シェルブールの雨傘」でアメリカのミュージカル映画とかけ離れたものを作ったジャック・ドゥミとミシェル・ルグランは、今度はアメリカ・ミュージカルのフランス版をめざしたのだろう。アメリカのミュージカル映画の外枠を借りて、フランス・ミュージカルを作り上げようとしたと言い換えてもいいだろう。いや、もっとはっきり言えば、アメリカのミュージカル映画のパロディを作った。そう考えると、すっきりと理解できる。

「シェルブールの雨傘」には、アメリカのミュージカルには不可欠のダンスの場面が皆無だったので、「ロシュフォールの恋人たち」ではそれをふんだんにいれた。そして、「雨に唄えば」のジーン・ケリー、「ウェスト・サイド物語」のジョージ・チャキリスを呼んで、アメリカのミュージカルへのオマージュというべきシーンも加えた。突然踊りだしたり、背後で人々が踊ったりといった、アメリカ・ミュージカルの様式がかなり不自然に、つまり、けれんみたっぷりに映し出される。

 そして、アメリカ・ミュージカル映画様式のフランス・ミュージカルが間違いなく完成している! 繊細で洗練されており、フランス語の美しい響きにあふれ、フランスのエスプリにあふれている。カトリーヌ・ドヌーヴ、フランソワーズ・ドルレアックの実の姉妹、ダニエル・ダリュー、ミシェル・ピコリという大スター、そして若手で売り出し中だったジャック・ペラン。いずれも、フランス・ミュージカルを見事に作り上げている。

 ストーリーは「ローラ」に少し似ている。港町のカフェに常連客が集まり、そこに過去の恋と現在の恋のいくつかが集まり、すれ違い、最後には、ともあれめでたくまとまる(まとまりそうになる)。軽やかな音楽に載せて深刻になりすぎない恋物語がおとぎ話として展開される。美男美女の繰り広げる歌と踊りによるおとぎ話。それにしても、カトリーヌ・ドヌーヴは美しい。実の姉のフランソワーズ・ドルレアックも魅力的。この撮影直後に25歳で事故死したのが実に残念。美人姉妹の映画をもっと見たかった。

 

51lkvvmhtol_ac_us200_ 「ロバと王女」 ジャック・ドゥミ監督 1970

 封切当時は、大ヒット作とのことで期待してみたわりにつまらないと思ったが、今みると、とてもおもしろい。シャルル・ペローの童話「ロバの皮」のミュージカル映画化。作曲はミシェル・ルグラン。

ある国の王様(ジャン・マレー)が妻を亡くし、妻よりも美しい女性としか再婚しないと約束する。ところが、妻よりも美しいのは実の娘である王女(カトリーヌ・ドヌーヴ)だけだった。王は王女と結婚しようとするが、王女は妖精(デルフィーヌ・セイリグ)に相談して、白から逃げ出し、ほかの国に行って、ロバの皮をかぶって醜い人間として生きる。そこに王子(ジャック・ペラン)が現れ、王女の美しさを知って恋をし、最後に結ばれる。

ドゥミがずっと作ろうとしていたのがまさに「おとぎ話」だったことがよくわかる。純粋な心にあふれた美しい夢の物語だ。ドレスや室内、森、動物たちの美しい色彩、おとぎ話を聴いて頭の中で想像する通りの美しい人々。まさにそれが展開される。そして、ルグランの自然な音楽。アメリカのミュージカル映画のような大袈裟なものではなく、自然でやさしくて子どもらしい純粋な童話。

特典映像でも語られるが、確かにコクトーの「美女と野獣」へのオマージュがあることをうかがわせる。

 

71eymatqx2l_sy445_ 「モン・パリ」 1973

 封切時、カトリーヌ・ドヌーヴとマルチェロ・マストロヤンニ共演のドゥミの映画だということで大いに期待してみたのだが、駄作だと思った。今、みなおしても、やはり傑作とはいいがたい。

 男が妊娠しているといわれ、世界で最初の妊娠と騒がれるが、最後に間違いだとわかる・・・というそれだけの話。それを風刺をきかせて辛らつに描くのではなく、ほのぼのとおとぎ話風に描く。「ロバと王女」のようなおとぎ話を現代を舞台にして物語にするには、このような形しかなかったのだろう。非現実的なストーリーによって、男と女の原型を描こうとしたのだと思う。が、やはり現代の話であるなら、もっとリアリティが必要だ。男が妊娠したというのなら、その時点でもっと厳密な検査がなされるだろうし、そもそもどうやって受胎するのか、どうやって産むのかみる者に納得させる必要があるだろう。それがないと、やはり現代の物語としては説得力を持たない。ちょっと老けたけれど圧倒的に美しいドヌーヴと、信じられないことが自分に身に降りかかって右往左往するくたびれた中年男を演じるマストロヤンニの演技と細かい色遣い、そしてミシェル・ルグランの音楽を楽しむだけの映画になっている。

 

71jl7pm8cl_sy445_ 「ベルサイユのばら」 1978

 池田理代子の原作は、40年以上前に一度だけ読んだことがある。「絶対おもしろい」と友人(男性)に薦められたためだったが、私はあまりおもしろいと思わなかった。その少しあとでジャック・ドゥミが監督して映画になると知って、この題材を映画化するにはドゥミが適役だろうと思った。封切されてしばらくしてみたが、これもおもしろいと思わなかった。そんな思いのある映画のDVDを40年ぶりに見てみた。やはり、つまらなかった。

 原作とかなり異なるというが、私は原作にほとんど覚えがないので、それについてはわからない。が、どうにも中途半端な気がする。何を描きたいのかよくわからない。そもそも私にはオスカルの心の機微が伝わらない。民衆の側に身を投じる心の変化も十分に描かれていない。登場人物の誰一人として魅力的ではない。オスカルを演じるカトリオーナ・マッコールはとびっきりの美人だと思うが、女優としての魅力を感じない。駆け足で歴史の表面をなぞっただけで終わっている。ヴェルサイユ宮殿をロケ地として使いながら、あまりにもったいない。

きっとドゥミは気乗りしないまま、あるいは原作の精神を理解できないまま撮ったのだろう。断れなくて、あるいは報酬が魅力的なためについ引き受けてしまって、なんとかなると思って作り始めたが、やはりだめだった・・・というようなことは誰にもあることだ。ドゥミも人の子だったということだろう。

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ジョージア映画祭後半 「あぶない母さん」「告白」「ブラインド・デート」など

 岩波ホールで開かれているジョージア映画祭に通い、少し前にみた「放浪の画家 ピロスマニ」をのぞいて、短編を含む17本をみた。前半にみた映画の感想は数日前にこのブログに書いたので、今回は後半にみた映画の感想を記す。

 

「あぶない母さん」 アニ・ウルシャゼ監督 2017

 私はとてつもない傑作だと思った。アニ・ウルシャゼ監督は、「みかんの丘」のザザ・ウルシャゼ監督の娘でまだ27歳だという。驚異というしかない。世界全体で注目されるべき作品だと思う。

 三人の子どもを持つ主婦マナナ(ナト・ムルヴァニゼ)が憑かれたように小説を書く。ところが、そこに書かれていたのは、夫や子どもを憎んで性的で病的な欲望にまみれる血に飢えた妖女の心の奥だった。知人の文房具店主はその作品を高く評価し、出版の手助けをしようとするが、家族はそれに反対。マナナは小説の結末を書くため、家を出て文房具店に寝泊まりするようになる。そして、そうするうち、マナナの精神はだんだんと常軌を逸してくる。そして、マナナの心の奥にある父との葛藤、過去における母の自殺、絶望的な私生活を送っている文房具店主の状況などが明らかになっていく。

 実はよくわからないところがある。もう一度みてみたい気がする。が、カフカ的な雰囲気に圧倒された。この映画では、トビリシの都市がまるでカフカの小説のように不思議な相貌を帯びて迫ってくる。いや、トビリシとは限らない。現実の世界がふだん私たちが考えているのとは異なる真実の姿を現す。マナナの小説の不気味な文体のような雰囲気が映像の中ににじんでいる。そこが凄い。

新作の映画でこの種の衝撃を受けたのは、一昨年の「サウルの息子」以来だと思った。「あぶない母さん」という軽そうなタイトルだが、実はとてつもなく深刻で深いテーマの映画だと思う。

 

「陽の当たる町」 ラティ・オネリ監督  2017

 ソ連時代に鉱山で栄えた町が、今では廃墟のようになっている。そこに残って暮らす人々の様子を描いたドキュメンタリー映画。

私は実はとても退屈だった。最も苦手なタイプの映画だ。苦手な最大の原因は、長回しのカメラだ。始まってすぐ炭坑内のトロッコの動く場面が何も変化がないのに、23分ずっと映し出される。何の変化もなく歩いていく人物をずっとカメラが追いかける場面もある。走っている女の子二人の姿もずっと追いかける。新たな情報があればいい。思想や心情が長回しによって鮮明になるのならいい。だが、何もなく長々と撮影される。せっかちな私はそのような場面ごとにイライラしてきた。ほかの監督がこの映画を撮ったら三分の一の時間で終わるのではないか!と思ったのだった。

要するに、巨大な廃墟があり、そこで暮らす人がいて、それなりに楽しく、町の滅亡とともに生活しているということなのだろう。ただ、繰り返すが、私は大いに退屈に思ったのだった。

 

「ヒブラ村」 ゲオルギ・オヴァシュヴィリ監督 2017

「とうもろこしの島」のオヴァシュヴィリ監督の映画。1991年にジョージアはソ連から独立。圧倒的支持を受けて、ガムサフルディア大統領が誕生する。だが、圧政を行ったためにクーデターが起こり、大統領はいったんチェチェンに亡命し、ジョージアに戻って蜂起するが失敗して、少数の側近とコーカサス山中を逃亡して、ヒブラ村で死亡する。その前大統領の最後の数日間を描く映画だ。きっとジョージアの人にとっては忘れられない過去の歴史なのだろう。そして、「ヒブラ村」という言葉は特定の響きを持つのだろう。

 ジョージア史を知らない私には、どこまでが史実に基づくのかよくわからない。前大統領(フセイン・マシューブ)は山中を逃亡し、広めの家を見つけて無理やり泊まったり、支持者の家、側近の知り合いの家に泊まったりする。家の主は前大統領がやって来たというのでそれなりの歓待はする。そうするうちに、前大統領は徐々に追い詰められ、側近も脱落し、自分の過去に自信をなくしていく。そうした様子が克明に描かれる。なかなかリアリティがあるが、克明に状況を描くだけで内面的、思想的な深まりがあるわけではない。少し克明すぎて、退屈な部分もある。どうもジョージア映画は現実を克明に描こうとする傾向が強いようだ。リアリティが生まれ、存在感が強まるが、しつこさを感じないでもない。

 

「告白」 ザザ・ウルシャゼ監督 2017

「みかんの丘」のウルシャゼ監督の映画。とてもおもしろい。かつて映画監督を目指していたゲオルギ(ディミトリ・タティシュヴィリ)が神父になり、助手ヴァリコとともにある村に赴任する。ところが、そこにマリリン・モンローによく似た未亡人リリ(ソフィア・ムビスクヴェラゼ)がいる。ゲオルギはリリに惹かれつつ理性を守って、リリに絡む村のトラブルを解決しようとするが、リリは実はかなりの悪女であって、神父を陥れる。神父は村を後にする。

 ジョージアの田舎町の閉塞的な状況がよくわかる。教会の手伝いをする女性(「あぶない母さん」の主役ムルヴァニゼが演じている)に典型的に表されるように、みんなそれなりに善良な心を持ってはいるが、狭量で排他的で細かいところで小競り合いをしている。神父はそこで進歩的で開放的な信仰をもたらそうとするが、しっぺ返しにあってしまう。そんな物語といってよいだろう。

 ジョージアの村の自然の美しさ、信仰の状況、人々の生活がわかってとてもおもしろい。リリや軽くて善良な助手ヴァリコなどの人物の描き方もとてもリアル。

 

「映像」 ゲオルギ・ムレヴリシュヴィリ監督 2010

 10分ほどの短編ドキュメンタリー映画。ジョージアの寒村を訪れる映画撮影キャラバン。車で機材が運ばれ、美しい山を背景とする野外で特に子供を対象にした映画会が開かれる。子どもたちは夢中で映画を見る。そして、映画隊が去る。子どものうちの1人は家にあった映写機を持ち出して撮影を始める。映画隊は確かにこの村に映画文化の痕を残したわけだ。

 それだけの映画だが、自然があまりに美しく、子どもたちの姿も生き生きとして、しっかりとしたリアリティと存在感を感じさせる。とてもいい短編だと思った。

 

「ブラインド・デート」 レヴァン・コグアシュヴィリ監督 2013

 40歳になるのに独身で、女性とも付き合いのない学校教師のサンドロ。両親から常に結婚をせっつかれ、ふがいなさに嫌味を言われ続けている。サンドロは友人のイヴァに誘われて出会い系サイト(のようなもの?)を使って女性と会ってみたりもするが、女性に同情するばかりで男女関係に進まない。そんなとき、教え子の母親マナナと恋に落ちるが、その夫は暴力沙汰で刑務所に入っている。夫が刑務所から出る日にマナナを車で送ったために、夫からタクシー運転手と間違われ、手先となって手伝わされ、犯罪者っぽい人たちとも難民一家とも出会う。結局、夫は刑務所に戻るが、マナナとは結婚できそうもなく、夫の愛人だった難民女性の面倒を見ることになる。

 知的で善良でありながら、他人のことを考えてしまい、自己主張できないために損な役回りを演じるしかない男性を狂言回しとしてジョージア社会の模様を描く。ジョージアにもサンドロのような人間が多いのだろう。そして、日本にも多い。もちろん、私も少しそんな傾向を持っている(もちろん、反対の面も持っている)。そうしたジョージア人の暮らす中で犯罪や難民や内戦が起こっているのだろう。

 ブラインド・デートというのは、友だちなどに誘われて、相手がどんな人か知らないままデートすることを言うらしい。出会い系サイトを利用したデートをさしているのだろう。が、この映画では、サンドロのすべての出会いが、まさにブラインド・デート。偶然、今までかかわりのなかった境遇の人と出会って戸惑う物語。イヴァが本当に目の不自由な(ブラインド)女性とブラインド・デートして下心を持ちながらも、目の不自由な女性のしっかりした態度に圧倒されて何もできないというエピソードがある。ブラインド・デートという言葉に対する皮肉だろう。

 

今回の映画祭で13本の長編映画をみた(少し前にみた「放浪の画家 ピロスマニ」はのぞく)。全体として、おもしろい映画が多かった。ジョージア映画のレベルの高さを改めて知った。気づいたのは、特に大きなことが起こるわけではなく、主人公の日常を丁寧に描くタイプの映画が多いことだ。ジョージア映画の傾向なのか、今回映画祭を企画した人々の好みなのかはわからない。その種の映画も、私は嫌いではないが、もう少し事件がほしかったとは個人的には思う。

まとめとして、私の好みによってあえて順位をつけてみる。

 

① 「あぶない母さん」

➁ 「告白」

③ 「デデの愛」

④ 「大いなる緑の谷」

➄ 「微笑んで」

⑥ 「ブラインド・ノート」

⑦ 「少女デドゥナ」

⑧ 「少年スサ」

⑨ 「ヒブラ村」

⑩ 「他人の家」

⑪ 「私のお祖母さん」

⑫ 「ケトとコテ」

⑬ 「陽の当たる町」

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ジャック・ドゥミの映画(初期短編、「ローラ」「天使の入江」「シェルブールの雨傘」)、そして「ジャック・ドゥミの少年期」

 アニエス・ヴァルダの「顔たち、ところどころ」をみたのをきっかけにヴァルダの何本かの映画をみて、今度はその伴侶だったジャック・ドゥミの映画を何本かみた。簡単な感想を書く。

 

51unapywsl_ac_us200_ ジャック・ドゥミ初期短編映画集(「ロワール渓谷の木靴職人」「冷淡な美男子」「アルス」「淫乱の罪」)

 いずれもドゥミらしい感受性豊かで根底のところで「孤独」を感じさせる映画。物語としての面白さはあまり感じなかったが、映像美と独特の雰囲気に圧倒される。とりわけ、モノクロの映像の力に驚嘆する。画面全体から心優しさを感じさせるが、暖かくはない。余計なものを取り除いた厳しさがある。まさしく静謐な世界。「冷淡な美男子」だけがカラーで赤を基調とした大胆な色遣いで、しかも女性がずっとしゃべり続ける。だが、これは、一人の女性の独白と、女性に話しかけられながらもそこにだれもいないかのように振る舞う男性(あるいは、この男性は女性の見ている幻想なのかもしれない)の「非コミュニケーション」の物語。色遣いと饒舌さはまさに孤独そのものを表現している。

 もし私がこれらの映画を公開時に見て、ドゥミの才能を予感できたかどうか自信がないが、今見ると、明らかに後のドゥミの萌芽がある。いずれも愛すべき珠玉の小品だと思う。

 

51nddgghigl_ac_us200_ 「ローラ」 ジャック・ドゥミ監督 1961

 この作品についてはタイトルだけは以前から知っていたが、今回初めてみた。2012年にハリウッドで修復されたきれいな映像。なかなかの名作だと思った。

後の「シェルブールの雨傘」で副主人公になるローラン・カサール(マルク・ミシェル)が主人公。カサールは少年のころに愛した女性セシル(アヌーク・エーメ)と再会する。セシルは今ではローラという名前で踊り子としてキャバレーに出演している。カサールはよりを戻そうとするが、ローラには初恋の男性ミシェルとの間に子供がいて、行方をくらませたミシェルを忘れられず、カサールに心を許さない。しかも今もアメリカ人水夫と付き合っているように見える。ローランは恋をあきらめ旅に出ようとするとき、ローラは戻ってきたミシェルと新しい一歩を踏み出そうとする。

 そうしたカサールのローラへの思いと失恋を語るのだが、そこに若き日のローラを思い出させる清純な14歳の少女セシルとの出会い、その少女とアメリカ人水夫との交流、カサールの行きつけのカフェの常連客などが絡む。舞台となっているのはナント。ラ・フォル・ジュルネで私も何度か訪れたことのある海辺の静かな地方都市だ。そうしたものが相まって、親密で重層的な空間を作り出す。

 詩的で内省的な映画だ。音楽はミシェル・ルグラン。「シェルブールの雨傘」でなじみのメロディが聞こえてくる。撮影はラウール・クタール。ドゥミの映画、そして1960年代、70年代にはなじみの天才たち。映像も美しい。ずっと感動して観た。

 

619bjwuosml_ac_us200_ 「天使の入江」 ジャック・ドゥミ 1962

 ジャック・ドゥミが「ローラ」と「シェルブールの雨傘」の間に作ったモノクロ映画。銀行員の青年(クロード・マン)は友人に誘われてルーレットにはまり込む。南仏のニースやモンテ・カルロのとばく場に出かける。そこでブロンド女性ジャッキー(ジャンヌ・モロー)と知り合う。ジャッキーは賭博にのめりこんだために夫に見放され、子どもとも会えずにいるが、それでもまだ賭博をやめられず、イカサマにも手を染めて賭博場から追い出される始末。二人は行動をともにし、愛を交わすようになるが、全額をスッてしまう。青年は父親にお金を送金してもらい、やり直そうとする。ジャッキーはそれを拒んで賭博場に出かけるが、青年を失おうとするとき、賭博でなく男性を選んで、新しい人生を歩もうとする。あっという間のラストシーンだが、これはとても感動的。

 現実には、まあきっとジャッキーはまた賭博に戻るだろうな・・とは思うのだが、それはそれでとてもいい映画。映画の中のほとんどの場面を占める二人が不毛な賭博にのめりこむ場面は見ていて辛いが、最後の場面のためには必要だったのだろう。

 それにしても本当に美しいモノクロ映像。コート・ダジュールが白黒の美しい映像として納められている。ドラマティックな展開を描きながら、愛を求める孤独が浮き立つ。

ただ、私には役者としてのジャンヌ・モローの存在感が強烈すぎてヒロインの心情に共感できない。ジャンヌ・モローの出演映画を見ると、いつもそのような気持ちになる。役柄のジャッキーではなく、ジャンヌ・モローを見てしまう。賛同してくれる人は少ないかもしれないが、ジャンヌ・モローではなくアヌーク・エーメだったら、どんなにうれしかったことか。

 

51t2mbc13jl_sx466_ 「シェルブールの雨傘」 ジャック・ドゥミ 1964

 大好きな映画だ。久しぶりにみた。改めて素晴らしい映画だと思った。セリフのすべてが、日常の会話のアクセントに少しだけメロディを加えただけの歌から成るミュージカル映画だ。

 50年近く前、私が早稲田大学第一文学部演劇科映画専攻の学生だった頃、この映画が傑作かどうかで大学の映画論の授業中に、担当の先生と大激論を交わしたことがある。「感情を歌い上げられていない。だから駄作だ」と先生が断言した。生意気な学生だった私はそれに反対して、「この映画のセリフがすべて歌になっているのは、むしろ感情を抑え、過度な感情移入を防ぐためなのだ。すべてのセリフを歌にすることによって、〈この映画は非現実のおとぎ話なんですよ、どこにでもある悲恋をおとぎ話として語っているんですよ〉とわからせている。だからこそ、これは画期的な作品なのだ」と食ってかかった。

 ついでに言うと、先生は私の反論に腹を立てたらしく、「よく言われるだろ、フランス人は音痴なんだよ。ミュージカルなんて作れないんだ」といい捨てた。当時からクラシック音楽好きだった私はカチンときて、「フランスにはドビュッシーやラヴェルやフォーレがいるじゃないですか。ベルリオーズだってサンサーンスだって。音痴と言われるのはイギリス人ですよ、先生は勘違いしてるでしょ」とますます食ってかかった。これが先生の怒りに油を注いでしまったようで、激しい言い合いになった。私の若気の至りの思い出の一つだ(もちろん、高齢者になった今は別人のように丸くなっている!)。いずれにせよ、それやこれやでそのまま早稲田演劇科の大学院に進むのは難しくなったのだった!

今みても、私のほうが絶対に正しいと思う。感情を高らかに歌い上げるのとは異なる、いかにもフランス音楽的なルグランの音楽、人工的な色(上から見た傘の行進、二人の主人公の部屋、人物たちの統一感のある服の色調)、不思議なシーン(自転車が自動的に動いているなど)はそれを示していると思う。

 それにしても、ルグランの音楽、色彩、ストーリー、すべてが素晴らしい。そして、カトリーヌ・ドヌーヴの何という美しさ! 淡々と、しみじみと「人生ってこうなんだよね」と思わせる。まさしく現代の悲しいおとぎ話。それを作るにはすべてのセリフを歌わせる必要があったのだと思う。本当にいい映画だと思う。

 

215vy0etepl_ac_us200_ 「ジャック・ドゥミの少年期」 アニエス・ヴァルダ監督 1990

 ドゥミがエイズにかかって死を覚悟した後、長年連れ添ったヴァルダが記念のために作ったドゥミの伝記映画。小さな自動車修理工場を営む家に生まれ、幼いころから演劇、映画に関心を持ち、初々しく繊細な感性を育てながら映画に傾斜していくドゥミの少年時代が描かれる。大人の世界を知り、戦争がある。技術学校で手に職をつけることを強制されながらそれに反抗して映画を仕事にしていく。ドゥミの映画の場面が挿入され、少年期の様々な経験が映画にいかされていることが示される。

ドゥミの人間思いの人柄、その人生、そしてヴァルダのドゥミに対する愛も伝わる。ドゥミに対する思い入れがある私のような人間にはことのほか訴える力が強いが、そうでない人に対しても、一人の映画人の人生を描く映画として十分に説得力があると思う。3回ほど訪れたことのあるナントの町が出てくるのもうれしかった。

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