映画・テレビ

新作映画「ペイン・アンド・グローリー」 私自身の映画に思えた

 ペドロ・アルモドバル監督の「ペイン・アンド・グローリー」をみた。アルモドバルの映画は10本くらいみたと思うが、これはその中でも出色だと思う。

 自伝的映画といってよいだろう。簡単にまとめてしまうと、老年を迎えた映画監督サルバドール(アントニオ・バンデラス)が体中の不調に苦しんでいるさなかに、痛みに耐えかねてヘロインに手を出し、ますます創作意欲を失っていたところ、子ども時代を思い出し、またかつての愛の対象だった男性と再会して創作活動を再開するまでを描く。

 そのような縦軸のなかに、信心深く、溌剌とした若いころの母親(ペネロペ・クルス)とのやり取り、かつての映画作品の演技をめぐって対立し、その後、30年以上にわたって絶交していた男優との和解、サルバドールに男性の肉体美への欲望を芽生えさせた素人画家との交流などが、初々しく、懐かく、しかも生き生きと描かれる。

 アルモドバルは私とほぼ同年代だと思う。スペインと日本なので、かなり状況は異なるが、私は場面のあちこちに思い当たる情景を見つけ出して、心をゆすぶられた。

 川で洗濯する母親たちの集団のそばで戯れるという、今の子どもでは考えられないような体験を九州の山間部出身の私はしている。母親に手を引かれて新しく住むぼろ家のまえに立った経験が私にもある。左官のお兄さんの仕事を見ていたこともある。そして、私もアルモドバルと同じように、田舎では成績優秀の部類に属し、家族に期待されながら、その実、人に言えないような欲望を抱き、考えてはならないことを考えていた。秘めた恋の思い出ももちろんある。高齢になった母親にあれこれと依頼をされながら、私もごまかしごまかしして、それに答えていない。形は違うが、主人公の行動のあれこれが思い当たる。すぐれた作品の多くがそうであるように、この映画もまた、「この主人公は俺そのものだ!」と思わせる力を持っている。

 それにしても、何と映像の生々しいこと。生きた肢体があり、生命力を持った自然がある。様々な色が不思議な自己主張をして、それが見事に調和している。様々な要素が入り混じり、そして、それが生命力の回復、創作欲の回復につながっていく。俳優たちの演技の見事さにも舌を巻く。

 これが普遍性のある映画かどうか、私にはわからない。ただ私は、この映画が好きだ。他人事とは思えない。私自身の映画に思える。

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「パプーシャの黒い瞳」 白黒の詩的映像で描かれたジプシー女性詩人の生涯

 岩波ホールでポーランド映画「パプーシャの黒い瞳」をみた。監督はヨアンナ・コス=クラウゼとクシシュトフ・クラウゼ監督。

 入場時、チケットの裏に名前と電話番号を書いて係員に渡すというシステムになっていた。新型コロナ関係で何かがあったときの対応ということだろう。1席おきに座れるようになっている。いずれの処置もやむを得ないだろう。

 とてもいい映画だった。モノクロ映画。素晴らしい映像美。

 パプーシャ(人形という意味らしい)というあだ名をつけられた実在のジプシー女性の生涯を描いている。1910年(だったかな?)と1971(だったなか?)の間のいくつもの時代が錯綜して描かれ、だんだんとこの女性の生涯が浮かび上がってくる。

 パプーシャは差別を受けながらジプシーの集団の中で生きている。みずからすすんで読み書きを身に着け、自分の思いを言葉にして書きつけている。いやいやながら年上の叔父と結婚させられ、石女と蔑まれ、暴力を受け、ナチスによる虐殺を逃れ、虐殺を生き延びた赤ん坊を自分の子として育てる。そうした中、罪に問われた外部の青年がジプシー集団にかくまわれて暮らすことになる。パプーシャはこの年下の青年に好意を抱き、自分の書いた文章を見せ、ジプシーの生活の話をする。その後、青年は罪を逃れて都会に戻り、パプーシャの文章が詩として優れていることをうったえ、詩の出版に奔走。自らもジプシーに関する研究書を書く。ところが、そこにジプシーたちが秘密にしたいことが含まれていたことから、パプーシャはジプシー集団からも糾弾され、仲間外れになり、正気を失ってしまう。パプーシャの書いた詩がオーケストラ伴奏で演奏される機会に招かれるが、パプーシャは自分が詩を書いたことを否定する。

 そのような過酷な人生が説明の排除された美しい白黒の映像で淡々と描かれる。白黒にしたのは、カラーにするとあまりに生々しくなるため、生を抽象化して描きたかったためだろう。そのために、しみじみとパプーシャの過酷な人生を見つめることができる。まさにパプーシャの人生が白黒の映像のおかげで「詩」になっている。

 時系列の通りに描くとあまりに淡々としてしまうので、あえて時間軸をバラバラにしたのだと思う。熟慮の上に選択だったと思うし、そのわりに時代の変化をとてもわかりやすく描いているので、成功しているとは思うが、私は少し作為的過ぎると思った。同時に、そうであっても、少々退屈したのも事実だ。

 自然とともに生き、鶏などを盗むことを罪と思わず、自由に生き、哀しみや怒りも陽気な音楽に変えてしまうジプシー。そこでも排除され自己否定せざるを得ないパプーシャ、パプーシャに好意を寄せ、悪気なくパプーシャを傷つけてしまい、必死にかばおうとする外部の青年。いずれの生き方もとても説得力がある。

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弱さを知り、助けを求めること

 2日連続で映画館で映画をみた。ベルギーのダルデンヌ兄弟(ジャン=ピエール・ダルデンヌとリュック・ダルデンヌ)の監督した「その手に触れるまで」。考えさせられる内容の映画だった。(以下、ネタバレが含まれる)。

 ベルギーで暮らす13歳のアラブ系の少年アメッドは突然、イスラム教の導師の影響を受けて過激になり、宗教的な規律を厳格に守って女性に手を触れようとしなくなる。家族に対しても攻撃的になり、同じアラブ系のイネス先生が、従来のように「コーラン」のみを使うのではなく、歌を使ってアラビア語を子どもたちに教えようとするのに反発する。そして、それを導師に悪魔の教えでもあるかのようにそそのかされて、イネス先生を殺害しようとして襲い掛かる。殺害に失敗し、少年院に入って教育プログラムを受け、農家で作業を手伝うようになる。農家の少女ルイーズに恋を打ち明けられキスされる。アメッドも憎からず思っているが、イスラム原理主義にとらわれているアメッドは自分の素直な気持ちを罪だと感じて自分を責める。そして、教育係の眼を盗んで車を抜け出し、イネス先生を殺害に出かける。だが、家に忍び込もうとして屋根から転落。動けなくなって助けを求めたとき、イネス先生に発見される。「ごめんなさい」と謝罪するところで終わる。

 さて、最後の謝罪は、果たして自分の過激な信念を本当に悔いたものだったのか。それははっきりしない。だが、農場で動物に接し、ルイーズの初々しい愛に接して、アメッドはだんだんと軟化していた。最後、イネス先生を殺しに行くが、それは迷う自分に決意を促すためでもあっただろう。だが、失敗して、自分が生命の恐怖を覚える。弱さを知り、他人の助けを求める。そこで自分のそれまでの狂信に気づく。女性の手に触れようとする。

 純粋な子どもであるだけに、アメッドは過激になり、思い込み、ほかの考えを一切遮断するようになり、なかなか考えを変えない。子どもをそそのかしておいて、いざとなったら責任逃れをする狡猾な導師を心から尊敬し、異端者を殺して自分が死ぬことを宗教的な意味のある行為だと信じている。アメッド少年の純粋さ、初々しさがそのまま激しい偏見になっていく。そのような様子を映画はとても丁寧に描いている。

 この映画も声高に解決策を示しているわけではない。それを示せるほど安易な状況ではない。だが、アメッドの心を描きながら、この映画は私たちに、アメッドの心に遊びがないこと、それが自分を追い込んでいること、本来の人間の心を罪とみなして苦しんでいることに気づかせてくれる。そして、おそらく狂信から癒えるには、多くの生と接触し、自分の弱みを知り、助け合うことの大事さを知り、動物らしい営みも人間らしい心の動きも決して罪ではなく、自然なものなのだと知ることが必要なのだとわからせてくれる。

 問題の深刻さと解決への糸口を静かに真摯に示してくれている。

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新作映画「コリーニ事件」 ドイツという国の父親捜し?

 コンサートはまだまだ再開しないようだ。待ち遠しい。だが、その代わりということでもないが、みたい映画がいくつも上映中だ。「コリーニ事件」をみた。

 フェルディナント・フォン・シーラッハの世界的ベストセラー小説を映画化だという。マルコ・クロイツパイントナーの監督作品。ベストセラーについては知らなかった。とてもおもしろかった。簡単に感想を書く(以下、いわゆるネタバレが含まれる)。

 トルコ系ドイツ人の新米弁護士カスパー(エリアス・ムバレク)はイタリア人の殺人犯コリーニ(フランコ・ネロ)の国選弁護人を引き受ける。ところが、コリーニが殺したのは、カスパーの親代わりともいうべき大恩人で経済界の大物ハンス・マイヤーだった。しかも、コリーニは完全黙秘。迷いながらも弁護士の仕事に必死にとりくみ、あのやさしく思いやりのあったハンスが実は若いころ、ナチスの親衛隊の将校であり、コリーニの生まれた村での虐殺を指示し、コリーニは目の前で残虐に父親を殺されたことをつきとめる。

 背景に、1968年に戦犯の時効を認める法律が作られ、その後、それが取り消しになったというドイツの法改革があった。コリーニはその当時ハンス・マイヤーを告発し、そのときは時効によって罪を免れたのだったが、それに承服できないコリーニが自ら復讐したことが明らかになる。

 このテーマに父と息子というテーマが重ねあわされている。マイヤーは実の息子と孫を若くして失い、孫の親友だったカスパーを代わりにかわいがった節がある。カスパーのほうも、2歳の時に実の父が家を出て疎遠になり、その代わりにマイヤーを慕っていたようだ。しかも、コリーニは虐殺事件の際、自分のせいで父の素性がばれて殺されたという負い目を負い続けている。この裁判は弁護士カスパーにとって、父親捜しという意味を持っている。裁判の途中で実の父の手助けを受け、父との関係を修復する。

 そして、この映画は、ある意味で、現在ドイツの父親捜しの物語でもあるだろう。現在のドイツの父親はナチス時代のドイツなのか。きっとマイヤーは過去を悔い、罪滅ぼしとして寛大で心優しく振舞ったのだろう。まさにドイツの歴史と一致する。だが、現在の視点ではいかなる残虐行為も許されない。悔い改めて社会に尽くした人には同情の余地はあるが、いかに罪滅ぼしをしようと過去の罪は消えない。親の罪を引き継ぐしかない。

 移民問題も絡んでいる。カスパーの実の父はゲルマン系のドイツ人のようだ。つまり、母親がトルコ人だったということだろう。きっと父は文化的な違いもあって母とうまくいかなかったのだろう。コリーニはドイツに暮らすイタリア人でありながら、イタリアの故郷をいつまでも思い続けている。

 様々な要素をはらんで、物語は展開する。アクションがあるわけではないが、息をつかせない迫力。エンターテインメントとしてとても良くできている。最後、結審を待たずにコリーニは自殺する。戦犯問題に解決を見ないことをこの自殺は案じているのか。

 コリーニを演じるのはフランコ・ネロ。昔の映画を何本かみて、昔からいい役者だと思っていたが、それにしてもなんという風格! 黙ってしかめっ面をしているだけで一つの芸術作品になっている。これが役者という存在なのだと改めて思う。

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新作映画「ルース・エドガー」 ファノンはアメリカでは危険思想家?

 緊急事態宣言も解除されて、映画館でも上映されるようになった。再開後の最初の映画として、アメリカ映画「ルース・エドガー」(ジュリアス・オナー監督)をみることにした。やはり、映画は映画館でみるのが一番。

 とても良い映画だった。サスペンスにあふれ、最後まで展開がわからず、しかもアメリカの黒人として生きることについて鋭く切り込み、政治や社会について重いテーマを投げかけている。

 黒人高校生のルース(ケルヴィン・ハリソン・ジュニア)は高校を代表する優等生だが、学校のレポートでフランツ・ファノンの立場に立ってて暴力革命を肯定する内容を書いてしまう。社会科の黒人女性教師ウィルソン(オクタヴィア・スペンサー)がルースの養母(ナオミ・ワッツ)を呼び、注意する。そのことから怒りを覚えたルースは策略を使ってウィルソンを追い込み学校を免職にさせる。

 ルースは7歳までエリトリアで暴力的な社会で暮らし、その後、アメリカの白人の両親の里子に引き取られたのだった。本当の名前は発音できないような音だったので、ルースと名前を変えられ、アフリカの暴力的な要素を両親に押し殺されて育つ。両親はできる限りの愛情を注ぐが、そうすればするほど、ルースは親の期待通りの人間になることにストレスを感じている。白人に対する怒りや社会の矛盾へのわだかまりを押さえつけ、両親を愛そうとしてきたが、乗り越えられない壁に気づいて、それが爆発する。ウィルソンを追い詰めるが、ウィルソンもまた同じように黒人として白人社会に適応しようとして生きてきたことをルースは知る。最後、ルースは母に縋り付いて、家族愛を認識するが、果たしてそれが本心なのかどうかはわからない。

 どうにも埋めようのない黒人と白人の壁。白人社会で迎合して生きていくのか、それともアフリカの血にアイデンティを見出すのか。アメリカの黒人の持つ生まれながらのジレンマが示される。

 この映画では、ルースはイスラム教原理主義ではなく、ファノンの思想に惹かれたことになっている。だが、実はこのファノンの思想はイスラム教原理主義の置き換えだろう。そう考えると、イスラム過激派に惹かれていくアフリカ系の人々の気持ちはこのようなものなのだろうと納得がゆく。

 とはいえ、ファノンの思想でさえもこのようにとらえられるのかと、私は少々意外だった。

 むかし、アフリカ文学に関心を持ってあれこれ読み漁っていたころ、ファノンの文章はいくつか読んだ記憶がある。むしろとても納得のゆく内容で、それほど危険視されているとは思わなかった。だが、確かにアメリカ社会では、(そして、おそらく西欧社会でも)、この映画のようにとらえられて当然だろう。アフリカの黒人は黒人の独立を主張し、1960年代に黒人国家を次々と誕生させていった。その背景にあるのはファノンの思想だった。まさにファノンの思想はアフリカの独立国家の基盤の思想ともいえるものだろう。ところが、アメリカや西欧は違った。アメリカや西欧でアフリカの国々の国民と同じ思想を持つことは過激分子ということになってしまう。

 最後になっても、ルースの心の底はわからない。解決を見ないままこの映画は終わる。観客としてはもう少し明確に示してほしいところが、そうすると映画のリアリティは失われたことだろう。これからも続く黒人の葛藤をこの映画の幕切れは暗示している。

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イタリア映画「鞄を持った女」「国境は燃えている」「高校教師」「女ともだち」

 我が家にも「アベノマスク」がようやく届き、10万円の給付金の申請書も届いた。それにしても、遅い! コロナ禍が浮き彫りにしたことの一つは、日本がすでに世界の先端を行く先進国ではなくなっており、とりわけITの面でアジアでも数番目の国になってしまったということだと思う。そして、その原因は、政府にあり、社会にあり、もちろん第一に私たち国民にある。それを強く感じている。

 ただ、ありがたいこともあった。先日、コロナ禍による面会禁止のために、施設に入っている母に3か月以上会えずにいることをこのブログに書いたが、ようやく制限付き解禁になって、母を生まれて40日ほどの曾孫と対面させることができた。耳が遠く、目もよくなく、認知についても完璧ではない母が正確に物事を把握したかどうかはわからないが、ともあれ母は私の娘とも昔のように話をし、赤ん坊を前にして微笑み、喜び、声をかけた。幸せな様子を見せた。

 そうした中、イタリア映画を数本見たので、簡単な感想を記す。

 

「鞄を持った女」 1961年 ヴァレリオ・ズルリーニ監督

 「激しい季節」が素晴らしかったので、同じズルリーニ監督の「鞄を持った女」をみてみた。

 クラブ歌手のアイーダ(カラウディア・カルディナーレ)は、スカウトだと称する男に騙され、そのまま置き去りにされる。男の弟で16歳のロレンツォ(ジャック・ペラン)はアイーダに同情するうちに強い恋心を寄せるようになる。だが、上流社会で暮らす純真で気真面目なロレンツォの真っすぐの愛に、日々の稼ぎのために男たちと渡り合って生きているアイーダはこたえることができない。ロレンツォはアイーダのために戦い、二人の心が通いかけるが、あまりに立場の異なる二人は別れるしかない。

 それだけの話だが、二人の立場、考え方が痛いほどにわかる。初々しい心のぶつかり合いがとてもリアルで、映像の一つ一つが抒情的。ちょっと蓮っ葉だが、根は純真で、小さな子どもを預けて必死で生き抜こうとしているアイーダを若々しいカルディナーレが演じる。

 カルディナーレは私の青春期の大スターで、私の周囲には胸を焦がす人が多かったが、私の美意識とは異なるようで、長い間、その美しさがわからなかった。今見ると、やはり素晴らしく魅力的。一途にアイーダを思うロレンツォを演じるペランもいい。とてもいい映画だと思った。

 

「国境は燃えている」 1965年 ヴァレリオ・ズルリーニ監督

 傑作だと思う。

 第二次大戦中のドイツとイタリアに占領されていた時代のギリシャ。イタリア人中尉(トーマス・ミリアン)が従軍慰安婦12名をトラックに載せて、女性を求める舞台まで運ぶ任務を命じられる。同行するのは人の好い軍曹と黒シャツ隊の少佐。パルチザンに攻撃され、数人を失いながら、古トラックで山岳地帯を走る。軍曹は娼婦の一人とねんごろになり、黒シャツ隊の少佐は娼婦たちをモノ扱いする。その中で中尉は、飢えから逃れるために娼婦になった女性たちに敬意を払い、村を焼き払うイタリア軍に憤りを覚えている。娼婦に身を落としてもプライドを保とうとする無口な女エフティキア(マリー・ラフォレ)に惹かれ、心を通わせる。最後、女性は認知に到着するが、そのまま逃亡。中尉は一夜を共にしたのちに、それを見逃す。

 黒シャツ隊の少佐を含めて、全員が弱さとプライドを持った生身の人間として描かれる。食べるために仕方なく従軍慰安婦になった女性たちの悲しい生、男たちの欲望、ファシストたちの蛮行、ギリシャの村人の怒りと悲しみ、そこでも失われない他者への愛。戦場のすべてがトラックに集約されている。素晴らしい映画だと思った。

 

「高校教師」 1972年 ヴァレリオ・ズルリーニ監督

 今となってはまったく覚えがないのだが、どうやら私は若いころ、ズルリーニに偏見を抱いていたらしい。当時、私はイタリア映画が大好きでかなりの数の映画を見たはずなのだが、ズルリーニ作品はほとんどみていないようだ。アラン・ドロン主演の「高校教師」はさすがにみたはずだと思っていたが、どうやら、今回が初めて。アラン・ドロン(嫌いというわけではなかったが、そのもてはやされぶりにはうんざりしていた)主演の「高校教師」というタイトルなので、先入見を抱き、それが尾を引いて、ほかの作品もみなかったのではないかと思う。原題は「静寂の最初の夜」。

 しかし、今回みると、これは大傑作! 社会の片隅でうだつ上がらずに生きる臨時雇いの高校教師にしてはアラン・ドロンはかっこよすぎるし、華がありすぎるのだが、それに余りあるほどの魅力がある。

 ダニエレ(ドロン)は、臨時講師としてリミニの高校に赴任する。刑に服した過去があるらしく、かつての悲しい純愛を詩に残す詩人だったが、今は浮気を繰り返す妻(レア・マッセリ)とともに投げやりの生活をし、周囲を呆れさせる放任の授業をしては、夜になると盛り場で怪しい人間とつるんでカードをして遊んでいる。ダニエレは、最初の授業の日から、生徒の中でひときわ大人びたヴァニナ(ソニア・ペトローヴァ)に強く惹かれ、恋に落ちる。ところが、ヴァニナは町の有力者の愛人だった。金と暴力に屈していたヴァニラはダニエレに心を寄せるようになり、二人は一夜を過ごすが、それがみんなに知られ、町にいられなくなる。ヴァニラとともに暮らすために町から離れようとするとき、捨ててきた妻が気にしながら車で走るうち、ダニエレは交通事故にあって命を落とす。

 男に捨てられたために、今になって夫ダニエレにしがみつこうとする妻、ダニエレにやや同性愛的な好意を寄せる知的なトランプ仲間(ジャンカルロ・ジャンニーニ)、街の札付きの娼婦だったヴァニラの母親(アリダ・ヴァリ)など、田舎町の人々をとてもリアルに、そして魅力的に描く。

 息をのむような美しい場面がいくつもある。ダンスホールでヴァニナが男と楽しげに踊るところをじっとダニエレが見つめる場面、雨の夜の廃屋での二人のセックスの場面がとりわけ、静かな情念が映像全体にこもっているのを感じる。

 

「女ともだち」  1956年  ミケランジェロ・アントニオーニ監督

 かなり昔、VHSの時代にみた記憶がある。久しぶりに自宅でみた。やはり、感動する。ズルリーニも素晴らしいと思ったが、やはりアントニオーニは一味違う。原作はパヴェーゼ。しばらく読んでいないが、大好きな作家だ。

 トリノでの洋品店の開店を任されたクレリア(エレオノーラ・ロッシ=ドラゴ)はホテルの隣の部屋でロゼッタという若い女性が自殺未遂をはかったのをきっかけに、ロゼッタの属する上流社会の男女のグループと交流するようになる。そこで三角関係やら恋のとりもちやらさや当てやらを目にする。クレリア自身も庶民階級出身のカルロに恋をする。一旦は生きる希望を取り戻せたように見えたロゼッタだが、愛するロレンツォ(ガブリエレ・フェルゼッティ)に拒まれて自殺する。クレリアはカルロに救いを求めるが、最終的に仕事を選んでローマに戻る。

 映像全体からひしひしと愛することのむなしさ、悲しさ、生きることのむなしさが伝わってくる。一人一人が懸命に生きる。だが、だれもが自分のことで精いっぱいで愛を紡ぐことができない。愛するがゆえに、それを続けられない。海岸の男女の戯れ、夜のうらぶれた街角など、それだけで一つの美術作品ともいえるような美しさ。ロッシ=ドラゴも本当に美しいし、ネネ役のヴァレンティナ・コルテーゼも魅力的。名作だと思う。

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映画「チャタレイ夫人の恋人」「パリジェンヌ」「激しい季節」「憂国」

 39県で緊急事態宣言の解除がなされたが、もちろん私の暮らす東京都はまだ自粛が続いている。典型的な室内型人間であって、部屋にこもることにさほどの苦痛を感じない私も、さすがにストレスを感じ始めている。が、あと少しの我慢。

 DVDを購入して数本の映画をみたので、簡単な感想を書く。

 

「チャタレイ夫人の恋人」 1995年 ケン・ラッセル監督

 高校生のころ、サド裁判が話題になったとき、「美徳の不幸」(澁澤龍彦訳)を読んで、衝撃を受け、「確かにこれは凄まじい!」と思った。大学生になってからだったと思うが、チャタレイ裁判が話題になったので、同じような衝撃を味わえるかと思ってドキドキしながら、D.H.ロレンスの「チャタレイ夫人の恋人」(伊藤整訳)を読んでみた。これが何で裁判になるのかよくわからなかった。原作については、そんなことくらいしか覚えていない。

 BBCのテレビドラマを劇場公開用にまとめたものだという。とてもきれいな映画。ケン・ラッセル監督の映画は何本か見ているので、もっと過激かと思ったら、意外とおとなしい。チャタレイ夫人役のジョエリー・リチャードソンがあまりに美しい。メラーズ役のショーン・ビーンも野性的な門番を見事に演じている。美しい森の中でのおおらかなセックス、がんじがらめの上流社会の対比もとても分かりやすい。

 原作についてはまったくといってよいほど覚えていないので、何とも言えないが、映画としてとてもおもしろかった。途中、チャタレイ夫妻がプルーストについて語り合う場面がある。文体に凝り、人間性を分析し、知的に世界を見つめるプルーストをチャタレイ夫人は批判する。チャタレイ夫人はまさしくプルースト的な書斎的で知的な世界へのアンチだったのだろう。その意味では、私も素直に感動することができた。

 

「パリジェンヌ」 1961年 オムニバス映画

 4人の監督によるモノクロのオムニバス映画。パリの女性をヒロインにした軽いタッチのストーリー。今でいう「ラノベ」のようなものだ。みたことがあるような気がしていたが、たぶん初めて。ただ、もちろん、1970年代前半には私は年に300本以上映画をみていたので、忘れているのかもしれない。

 陽気で気のいい踊り子(ダニー・サヴァル)がたまたま男性と交流をもって大きな役を射止めるポワトルノー監督による第一話、きれいな人妻(ダニー・ロバン)が、かつての恋人に出会い、床下手だったといわれて腹を立てて誘惑し、男の心を惑わすミシェル・ボワロン監督の第二話、ニューヨークに住んでいた女性(フランソワーズ・アルヌール)が友人の恋人を誘惑するクロード・バルマ監督の第三話、少女(カトリーヌ・ドヌーヴ)が母の受け取った濃厚な愛の手紙を自分宛と偽って友達を騙そうとするうちに本当の恋に出会うマルク・アレグレ監督による第四話。いずれも肩の力を抜いて、パリに住む女性の生活や心理を軽いタッチで描いた作品に仕上がっていて、なかなか楽しい。

 フランソワーズ・アルヌールは好きな女優さんだった。懐かしい。が、なんといってもカトリーヌ・ドヌーヴのあまりの美しさ、あまりの初々しさにアッと驚く。大好きだった「シェルブールの雨傘」と同じような表情、同じような仕草。このブログでは軽い感想ばかり書いてはいるが本気になればかなりレベルの高い映画評論も書けると自負している私なのだが、この若いドヌーヴを前にすると、単に鼻の下を伸ばしたジイさんになってうっとりするしかない。

 

「激しい季節」 1959年 ヴァレリオ・ズルリーニ監督

 学生時代にイタリア映画はかなりみたが、ズルリーニの映画はあまりみていない。「激しい季節」は初めてみた。感動した。凄い映画だと思った。

 ファシストの大物を父に持つ青年(ジャン=ルイ・トランティニャン)には恋人(ジャクリーヌ・ササール)がいるが、海岸で小さな子供を手助けしたことから戦争未亡人であるロベルタ(エレオノラ・ロッシ=ドラゴ)と知り合い、激しい恋にのめりこんでいく。ロベルタは何度も青年から身を離そうとするが、それができない。ファシスト政権が崩壊し、バドリオ政権が成立。青年は特権をはく奪され、新たな身分証をもらいに行く途中、空襲に出会って二人は別れ別れになる。

 激しく恋する二人の気持ちが痛いほどに伝わってくる。トランティニャンの冷めた目で父親を見ながらも特権に甘んじている真面目な青年ぶりもとてもいい。が、やはりロッシ=ドラゴの気品ある女性の魅力が素晴らしい。家族からも若者グループからも冷たい目で見られながら惹かれあい、愛を深めあう二人が濃密に描かれる。白黒の画面の細部に至るまで激しい情念があふれているかのよう。第二次世界大戦下の曲折する状況の中で真実の愛を見つけてのめりこみ、別れざるを得なかった二人がとても悲しい。名作だと思う。

 

「憂国」 1966年 三島由紀夫 原作・監督・脚本・主演

 三島由紀夫は私の最も好きな日本人作家だ。好きな小説はたくさんあるが、実はその中でも最も好きなのが「憂国」だ。私はいわゆる「右翼」ではないのだが、政治的立場は別にして、これはとびぬけた傑作だと思っている。三島自身が監督・主演した映画「憂国」については、封切時は大分に住んでいたのでみられなかった。1970年代、三島自決事件ののちに、どこかの大学の上映会で初めてみた。映画としても大傑作だと思った。そして、それから50年近くがたって、ふたたびみた。やはり奇跡的な名作だと思った。

 新婚であるがゆえに、226事件の蜂起に誘われなかった陸軍中尉が同志を罰する立場になって自決を決意する。30分に満たない白黒の、しかも一切セリフなしの短編映画。全体にわたってオーケストラによる「トリスタンとイゾルデ」の音楽が鳴らされる。

 息をのむような、まさに「愛の死」の世界。能舞台を意識した簡素な舞台になっており、「至誠」と書かれた掛け軸の前の白で統一された世界で夫婦が愛を交わし、その後、夫は切腹、妻は喉を刃でついて自害する。白の中に黒い血が流れていく。純粋なる生と死と愛と聖なるものが交合する様がもっとも純粋に抽象化された形で描かれる。一部の隙も無く、完璧に構成され、純粋な世界に到達する。「トリスタンとイゾルデ」に酔うように、私はこの映画に酔った。これは「トリスタンとイゾルデ」の精神そのものだと思った。

 特典ディスクには、この映画の撮影にかかわった人々の座談会が収められている。三島が周到に準備し、細かいコマ割り、その秒数まで考え、「至誠」の文字はもちろん、配役表やストーリーの説明文(英語・仏語版も含めて)を三島が自分で書いたことが語られる。

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映画「エマ」「プライドと偏見」「嵐が丘」「ジェーン・エア」

 緊急事態宣言は期限をひと月ほど延長するという。予想されたことだが、日本の文化は取り返しのつかない痛手をこうむることになりそうだ。ともあれ、私にできることは、引き続き、なるべく外に出ないで、家で本を読んだり、BDDVDでオペラや映画をみたりすることしかない。

 ただ、先日まで私の家にいた妊婦が、幸い、妊婦でなくなり、その代わりに親族が一人増えた。我が家では数日前から幼い泣き声が聞こえている。それもあって、家にいても、それほどつらい思いはしないで済んでいる。

 そんな中、自宅で古い映画を数本みた。いずれも英国の女流作家の小説が映画化されたものだ。私は英米の女流文学は苦手で、数えるほどしか読んでいない。高校生のころ、「嵐が丘」を読んで、これをおもしろいと思う人間がいるなんて信じられん!と思ったし、大学に入ってから、「自負と偏見」を読み始めて、あまりにつまらないので、途中で放棄した。

 たぶんこれからもイギリスの女流作家の小説を読むことはなさそうなので、せめてそれらを原作とする映画だけでもみようと思った。

 

「エマ」 1996年 ダグラス・マクグラス監督

 ジェーン・オースティン原作。田舎の上流階級の娘エマが周囲の男女を取り持とうとするが、人の心の機微もわからず、人の品格を見抜く力もないエマは善意が空回りするばかりで、むしろ人を傷つけ、邪魔してしまう。が、エマも失敗するごとに、人々の繊細な心を理解するようになり、ともあれ、エマの活躍によって最後には丸く収まってエマ自身も恋を成就する。

 エマを演じているのはグィネス・バルトロー。明るくて美しくてとてもチャーミング。嫌味なく人々の心を描き、社会を描く。私は原作を読んでいないので、原作と比べることはできないが、とても魅力的なヒロインだと思う。そのほかの俳優たちも存在感がある。楽しい映画だった。ただ、それ以上のことを、この映画からくみ取ることはできなかった。

 

「プライドと偏見」 2005年 ジョー・ライト監督

 かつて、「自負と偏見」というタイトルで読み始めて、途中で挫折したオースティンの小説の映画化。恋愛映画としてはとてもよくできていると思った。

 農村のベネット家の美人五人姉妹。次女のエリザベス(キーラ・ナイトレイ)は上流階級のダーシー(マシュー・マクファディン)に強い印象を受ける。二人ともプライドが強く、自分とは別の階級への偏見があってなかなか素直になれないが、二人は惹かれあい愛し合うようになる。そのようなありがちな恋の物語が生き生きと描かれる。

 娘を金持ちと結婚したがっている善良だが、計算高い母親(ブレンダ・ブレッシン)、物静かにエリザベスを愛す父親(ドナルド・サザーランド)、恋に悩む長女ジェーン(ロザムンド・パイク)などとても魅力的に人物が描かれる。18世紀末の階級社会に生きる男女の気持ち、社会のありかたがリアルに描かれていて説得力がある。

 シューベルのソナタのようなピアノ曲が流れる。ジャン・イヴ・ティボーデのピアノだという。彼のオリジナルの曲だろうか。きれいな映像にマッチしている。

 とても楽しめたが、大学生の私がこの原作を途中で放棄したのも当然だと思った。当時私は、ドストエフスキーやらカフカやらサルトルやらに夢中だった。そんななまいきな大学生は、こんなもの読むにたえんと思うに違いない。

 

「嵐が丘」 1992年 ピーター・コズミンスキー監督

 50年以上前にエミリー・ブロンテの原作を読んで、確かにこのような光景を思い描いていたのを思い出した。ヒースクリフもこんな雰囲気だったし、キャシーもイメージ通り。ストーリーもわかりやすく、とてもよくできた映画だと思う。キャシーを演じるジュリエット・ビノシュはとても魅力的で、芯の強い女性を見事に演じていると思う。ヒースクリフのレイフ・ファインズもぴったりだと思う。

 ただ、映画としてあまり説得力を感じない。原作がどうだったかよく覚えていないのだが、これではヒースクリフは単なるストーカー気質のDV男でしかない。粗野な魅力が描かれていない。映像も少しきれいすぎる気がする。

 原作によるのかこの映画化によるのかよくわからないが、やはり私は、この生真面目で深刻な激情の物語にはついていけない。鬱陶しくて仕方がない。後半、神という言葉は現れるが、そこに深い形而上学が示されるわけでもない。一言で言って、私の好みの映画ではなかった。

 

「ジェイン・エア」 1995年 フランコ・ゼフィレッリ監督

 いわずと知れたシャーロット・ブロンテ原作の小説に基づく映画。高校生の頃、「嵐が丘」を読んで、ブロンテ姉妹に対する偏見を抱いたために、この原作は読んでいない。ストーリーさえもこれまでまったく知らなかった。

 原作も映画と同じような雰囲気だとすれば、「嵐が丘」に比べてずっと鬱陶しくない。ただ、徹底的に恋愛物語であって、私はそれ以上のものをここからくみ取ることはできない。

 さすがゼフィレッリというべきか、わかりやすく、しかも素直に感情移入でき、登場人物のみんながとても生き生きとしてリアリティがある。シャルロット・ゲンズブール(彼女の衝撃の初主演作「なまいきシャルロット」を封切時にみた記憶がある)がとても魅力的。ウィリアム・ハートのロチェスターもいい。不幸な過去を持つ二人の心の絆が見事に描かれている。

 ただ、少女時代の親戚からのいじめ体験や、理不尽な寄宿舎での仕打ちは、あまりにありきたりでリアリティを感じなかった。もう少し、時代性と絡めて、偽善的なキリスト教社会をえぐってくれれば、もっとリアリティが増したのではないかと思った。

 英国女流文学作品の映画化を4本みたことになるが、やはり私の好みではないと改めて思った。60年近く前から私はこれらとは異なる教養を求めてきたのだと痛感した。

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映画「イーダ」「雪の轍」「狂った夜」「グラディーヴァ マラケシュの裸婦」

 岡江久美子さんが亡くなって、とても残念な気持ちでいっぱいだ。好きな女優さんだった。合掌。いよいよ新型コロナウイルスの恐怖が近づいてきた気がする。

 そんな中で、なるべく外に出ず、自宅で何本か映画をみた。簡単な感想を記す。

 

「イーダ」 2013年 パヴェウ・パヴリコフスキ監督

 1962年のポーランドを舞台にしたモノクロ映画。しっとりとした美術品のような映像。説明のほとんどない映像によって静謐な中に悲劇が浮かび上がる。アカデミー賞外国語映画賞受賞作品。

 修道院で育てられた孤児の少女アンナは修道女になる前、唯一の肉親である叔母に会うことを勧められる。会ってみると、叔母はアンナが実はユダヤ人であり、ナチスの時代に虐殺された家族の生き残りだと伝える。二人はアンナの両親の住んでいた家や墓、虐殺の場所をめぐり始める。男あさりをし、酒やたばこに溺れる叔母に対してアンナは嫌悪を覚えているが、叔母の息子もアンナの両親らとともに殺されていたことを知る。そして、二人は家族を殺した男の証言をきく。耐えきれなくなった叔母は自殺をする。アンナは叔母の服を着て、いきずりの誠実な青年と体を重ね、酒とたばこをたしなむが、最後、修道女に戻るために確固として修道院に戻る。

 キリスト教の神を信じて育ってしまったユダヤの少女が、神なき残虐な行為と、その残虐行為の犠牲になって苦しむ人間の状況を知るが、信仰の中に踏みとどまる。そんな風にまとめられるだろう。揺らぎながら神を信じようとするがゆえに、強い信仰を持つことができる。現代に生きるまだ若い監督パヴリコフスキのメッセージなのだろう。

 とても良い映画だったが、ちょっと気真面目過ぎて、私としては息苦しかった。

 

「雪の轍」 2014年 ヌリ・ビルゲ・ジェイラン監督

「読まれなかった小説」などで知られるトルコの巨匠ジェイランの3時間を超す大作。カッパドキアでホテルを営むアイドゥンは元俳優で地元新聞にコラムを書いている。本人はまっとうに正しく生きているつもりだが、妻とも妹とも地域の人々ともうまくいかない。傲慢で押しつけがましいとみなされている。逃げるようにして家を出て近くの村の友人の家で夜を過ごす。そこで本音で語り合い、翌日、雪の中で狩りをしてウサギを撃つ。新たな考えを見つけて家に帰る。

 大きな出来事はない。アイドゥンと妹、妻、友人たちとの間で長い議論がなされる。リアルで、いかにもありそうな議論。少し前まで、私もこんな議論を友人や家族としていた気がする。アイドゥンの語るのは正論だが、人の痛み、弱さを十分に考慮していない。だからといって、妹や妻が正しいかというと、この人たちもまたあまりに無邪気だったり、自分で気づかずに他人を傷つけていたり。誰もが悪くない。誰もがそれなりに正しい。しかし、みんなが少しずつ他人への理解を欠いているために不調和が生じる。なるほど、これが人生。

 カッパドキアの圧倒的な風景の中で等身大の人間ドラマがリアルにさらされる。映像の存在感、役者たちの存在感によって、まったく退屈せずにみることができた。シューベルトのピアノ・ソナタ第20番の第2楽章がしばしば聞こえてくる。アイドゥンの寂寞が伝わってくる。カンヌ映画祭のパルム・ドール受賞作。とても良い映画だと思うが、とびきりの名作かというと、それほどとは思わなかった。

 

「狂った夜」 1959年 マウロ・ボロニーニ監督

 パゾリーニ原作の中編小説をボロニーニが映画化したもの。パゾリーニがシナリオを書いている。こののち、パゾリーニは映画の世界に本格的に入っていく。学生時代、大のパゾリーニ・ファンだった私は米川良夫先生の訳された原作を読んでいたく感動した覚えがある。ただ、この映画をみたことがあるつもりでいたが、どうも初めてのような気がする。原作を読んで、勝手に映画もみたと思い込んでいたようだ。

 ローマの下町に暮らす二人のチンピラ、ルッジェーロ(ローラン・テルズィエフ)とシンチローネ(ジャン・クロード・ブリアリ)は盗んだライフルを売りさばいた後、金持ちの家に流れ込むが、そこで仲間の一人が大金を盗んでしまう。金持ちの家の娘(ミレーヌ・ドモンジョ)と親しくなったルッジェーロは金を返そうとするが、シンチローネがその金を奪って勝手に使ってしまう。ルッジェーロはそれを追いかけ、取り戻すが、もはや金を返す気はなくして、別の女性とともに意味のない食事や酒に浪費して、一日で使い切ってしまう。

 まさしく初期パゾリーニの世界。純情なところがあるが、平気で人を裏切り、暴力をふるい、他人をくいものにする若者たち。それを感傷もなく、荒々しくクールに描く。空回りする生。無軌道で目的がなく、刹那的に暴力的に生きる若者の性の爆発。だが、そこに生きるものへの賛歌があり、貧しくも底辺で生きる人たちへの愛情がある。この映画はそれを見事に描いている。

 ただ、のちにパゾリーニ自身が映画化した「アッカットーネ」などと違って、俳優のすべてが美男美女。こんな美男美女なら、貧しい生活から抜け出す方法はいくらでもあるだろうと、やはり思ってしまう。リアリティを感じない。きっと、そんなことがあって、パゾリーニも自分で映画を作り始めたのだろう。

 とはいえ、とてもいい映画だと思った。

 

「グラディーヴァ マラケシュの裸婦」 2006年 アラン・ロブ=グリエ監督

 学生のころ、ロブ=グリエの小説をたくさん読んだ。1970年代後半だったと思うが、日仏会館だったかアテネ・フランセだったかで特集が組まれて、ロブ=グリエの監督した映画を数本みた記憶がある(もしかしたら、字幕なしだったかもしれない)。面白い映画も含まれていた。

 ただ、実はロブ=グリエの小説や映画が好きというわけではなかった。小説では、「消しゴム」と「覗く人」と「迷路の中で」はおもしろいと思ったが。「快楽の館」以降の作品はそうは思わなかった。

 そして、そのまま45年ほどが過ぎ、ロブ=グリエにはほとんど触れずに現在になった。今回、この映画を見て、なるほどこれが「快楽の館」の世界だったのか!と45年ぶりに腑に落ちる気がした。いや、「消しゴム」や「覗く人」や「迷路の中で」も、実はこのような世界を描いていたのかもしれないと思った。

 ドラクロワ研究者ジョン・ロック(ジェームス・ウィルビー)はモロッコのマラケシュで現地の女性(ダニーヴェリッシモ)を性奴隷のようにして暮らしているが、ある日、ブロンドの美女(アリエル・ドンバール)を見かけ、あとを追って不思議な館に入り込み、現実と虚構、現在と過去の入り混じった世界を体験する。その美女はドラクロワの愛人だったとされるグラディーヴァの幻影のようでもあり、それを演じる女優のようでもあり、その双子のようでもある。想像が想像を呼び、エロスと拷問の世界に入り込む。最後、「蝶々夫人」のオペラをかけて現地女性はピストル自殺をする。現地妻でいることへの悲しみということか。

 ストーリーを追うことに意味があるとは思えない。様々な仕掛けがあるにせよ、基本的には世界が不確定になり、脳内のエロティックなイメージが展開していくことそのものを味わえばよいのだと思う。確かに、私の頭の中もこのようなエロティックで残虐で意味不明のイメージがうごめいている。このような世界を小説で読むと、意味を追うことができないので、退屈し、先に進むのがつらくなるが、映画だと退屈せずに見てしまう。男の私としては、たくさんの女性の裸身はとても魅力的でもある。

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再びロッセリーニの映画「イタリア旅行」「不安」「火刑台上のジャンヌ・ダルク」「インディア」

 緊急事態宣言が全国に発出された。いよいよ正念場。何とか医療崩壊を起こさず、日本がニューヨークのようにならずに無事に収束してほしい。やっと全国民一律10万給付が決定。アベノマスク問題といい、安倍総理の動画問題といい、10万円給付のごたごたといい、いったい安倍政権はどうなっているんだ!と声を荒げたくなるが、ともあれ感染拡大の防止に成功することを願うしかない。

 ともかく私としては、なるべく家から出ないで粛々と仕事をすること、疲れたら、芸術を楽しむことを心掛けている。先日、ロッセリーニの映画を数本見て、とてもおもしろいと思った。もっと見たくなって、同じロッセリーニ監督のほかの数本を購入。簡単な感想を書く。

 

「イタリア旅行」1953

 叔父から受け継いだ別荘を売るためにイタリアにやってきたロンドンの上流の中年夫婦(ジョージ・サンダースとイングリッド・バーグマン)。恵まれた社会の二人だが、心は離れ離れになって、それぞれ別行動をとっている。ある時、妻はカタコンブに行き、積み重ねられた大量の人骨を見る。翌日、無理やり夫婦二人でポンペイに連れていかれ、抱き合った夫婦が掘り起こされる現場を目撃する。妻は気分が悪くなって、そのまま車で帰ろうとするが、そこで街の中を練り歩く復活祭(?)の大行列に巻き込まれる。二人は切り離され、そこで二人は愛し合っていることに気づき、愛を確かめる。

 ハリウッド映画的な大きな起伏はなく、まさしくネオレアリスモの手法で即物的に夫婦の行動が描かれる。そこから、二人の心情が見えてくる。古代ローマ時代の様々な遺物が妻の心に生と死を感じさせていくのがよく理解できる。イタリアの雑踏、そこを歩くイタリアの庶民の姿がとても魅力的だ。

 ロッセリーニとバーグマンの心が離れ離れになったころに、よりを戻したいという願望を反映した映画だといわれる。だが、そうしたことを抜きにしても、なかなかの名作だと思った。

 

「不安」 1954

 ツヴァイクの原作だという。

 イレーネ(バーグマン)は、科学者である夫とともに製薬会社を経営しているが、若い男エンリケとの不倫を断ち切れずにいる。そんな時、エンリケの元恋人という若い女性が現れて、夫にばらされたくなかったら金を出せと脅してくる。そして、それ以来、執拗につきまとう。切羽詰まったイレーネは直談判しようとする。そして、実はその女は、すでにエンリケの存在を知ったイレーネの夫の指示で彼女を脅していたことを知る。イレーネは自殺を決意するが、結局は子供のために生きることを選ぶ。

 サスペンスにあふれ、意外な展開を示す。よくできたサスペンス映画であり、人間の暗い面を覗き見る思いがする。が、これまでみてきたロッセリーニの雰囲気とはかなり異なる。街(ミュンヘンで撮影されたという)の様子も、これまでの映画と異なって、寒々として人気がないし、人間のエネルギーのようなものを感じない。あえてそうしたのかもしれないが、私としては少々残念に思う。バーグマンとの関係が危機を迎えていた時期の映画だから、このように暗い雰囲気なのか。

 

「火刑台上のジャンヌ・ダルク」 1954

 クローデル台本、オネゲル作曲のオラトリオの映画化(ただし、かなりカットがあるようだ)。これまで、何度かこのオラトリオの映像をみたことがある(先日もバルセロナ、サラ・パウ・カザルスでの上演をみた)が、ロッセリーニ映像をみると、なるほどクローデルとオネゲルの頭にあったのはこのような情景なのかと納得する。

 ジャンヌ(バーグマン)の肉体は火刑台上にいながら、その魂は肉体から離れてドミニク司祭と超歴史的な会話を行っている。ジャンヌを裁こうとする俗人たちや懐かしい人々を回想しつつ、神への思いを再認識し、ついには覚悟を決めて神の定めに従う様子が描かれる。当時の人々を二人が高みから見下ろすように描かれているので、状況がわかりやすい。初めて、このオラトリオの仕組みを理解できた気になった。

 これはなかなかの傑作だと思う。このオラトリオをこれほどまで明確に映像化できたのには驚くしかない。ロッセリーニがこの音楽をきわめて深く理解していたことがよくわかる。

 バーグマンはハリウッド映画のジャンヌ・ダルクの役に嫌気がさして、よりリアリティのある映画を求めてロッセリーニのもとに走り、ついに念願のジャンヌ・ダルクの役を演じることができたのだという。そのせいかもしれない。バーグマンの演技も素晴らしい。これまで、バーグマンの演技には、私はさほど惹かれなかったが、少女を演じるこのジャンヌの役は、美しくも悲劇的で素晴らしいと思う。

 私のみたDVDはあまりに音質が悪く、音楽を鑑賞しようという気になれないのが残念だ。カラー映画だが、色彩も貧弱。だが、それにしてもバーグマンはフランス語で語り、時には歌っている。吹き替えではないのだろうか。そうだとすると、これも見事としか言いようがない。

 

「インディア」 1958

 ドキュメンタリーっぽく始まって、ナレーターがインド社会を紹介しているが、いつのまにか登場人物が現れて、ナレーターがその人物としてエピソードを語り始める。

 そこに描かれるのは、村の娘と恋に落ちた象使いの青年、妻の反発を受けながら、新たなダム建造地へと向かう技師、トラを助けようとする老人、猿回しのサルなどのエピソードだ。いずれも、ドキュメンタリー風に、内面に立ち入ることなく描かれる。西洋のように自然を屈服させるのではなく、自然と折り合いをつけて調和の中に生きようとするインドの人々の心のありようが浮かび上がってくる。

 登場人物に感情移入するのでなく、心の葛藤をドラマティックに描くのでもない。淡々と、まさしく自然の営みの中で起こる自然な出来事のようにインドの人々の生きる姿が描かれる。その意味ではとても魅力的ない映画だ。

 ただ、現在の目から見ると、中途半端な気がしてしまう。あっさりしすぎていて、あまり強い印象を持てなかった。カラー映画だが、少なくとも私のみたDVDの色彩はかろうじて色がついている程度で、まったく美しくない。もし、もう少し鮮やかな色彩だったら、かなり印象が異なるかもしれない。

 

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