映画・テレビ

ドゥミの映画「ロシュフォールの恋人たち」「王女とロバ」「モン・パリ」「ベルサイユのばら」

 先日みたアニエス・ヴァルダの映画がきっかけになって、ヴァルダ、そしてその伴侶だったジャック・ドゥミのDVDをしばらく見続けた。感想を記す。

 

51dg6eovl_ac_us200_ 「ロシュフォールの恋人たち」 ジャック・ドゥミ監督 1967

 40年以上前、封切されてすぐにみた。が、「シェルブールの雨傘」よりももっと革新的な傑作を期待していた私には少々期待外れに思えた。が、今、改めてみると、いや、なかなかの傑作ではないか。

「シェルブールの雨傘」でアメリカのミュージカル映画とかけ離れたものを作ったジャック・ドゥミとミシェル・ルグランは、今度はアメリカ・ミュージカルのフランス版をめざしたのだろう。アメリカのミュージカル映画の外枠を借りて、フランス・ミュージカルを作り上げようとしたと言い換えてもいいだろう。いや、もっとはっきり言えば、アメリカのミュージカル映画のパロディを作った。そう考えると、すっきりと理解できる。

「シェルブールの雨傘」には、アメリカのミュージカルには不可欠のダンスの場面が皆無だったので、「ロシュフォールの恋人たち」ではそれをふんだんにいれた。そして、「雨に唄えば」のジーン・ケリー、「ウェスト・サイド物語」のジョージ・チャキリスを呼んで、アメリカのミュージカルへのオマージュというべきシーンも加えた。突然踊りだしたり、背後で人々が踊ったりといった、アメリカ・ミュージカルの様式がかなり不自然に、つまり、けれんみたっぷりに映し出される。

 そして、アメリカ・ミュージカル映画様式のフランス・ミュージカルが間違いなく完成している! 繊細で洗練されており、フランス語の美しい響きにあふれ、フランスのエスプリにあふれている。カトリーヌ・ドヌーヴ、フランソワーズ・ドルレアックの実の姉妹、ダニエル・ダリュー、ミシェル・ピコリという大スター、そして若手で売り出し中だったジャック・ペラン。いずれも、フランス・ミュージカルを見事に作り上げている。

 ストーリーは「ローラ」に少し似ている。港町のカフェに常連客が集まり、そこに過去の恋と現在の恋のいくつかが集まり、すれ違い、最後には、ともあれめでたくまとまる(まとまりそうになる)。軽やかな音楽に載せて深刻になりすぎない恋物語がおとぎ話として展開される。美男美女の繰り広げる歌と踊りによるおとぎ話。それにしても、カトリーヌ・ドヌーヴは美しい。実の姉のフランソワーズ・ドルレアックも魅力的。この撮影直後に25歳で事故死したのが実に残念。美人姉妹の映画をもっと見たかった。

 

51lkvvmhtol_ac_us200_ 「ロバと王女」 ジャック・ドゥミ監督 1970

 封切当時は、大ヒット作とのことで期待してみたわりにつまらないと思ったが、今みると、とてもおもしろい。シャルル・ペローの童話「ロバの皮」のミュージカル映画化。作曲はミシェル・ルグラン。

ある国の王様(ジャン・マレー)が妻を亡くし、妻よりも美しい女性としか再婚しないと約束する。ところが、妻よりも美しいのは実の娘である王女(カトリーヌ・ドヌーヴ)だけだった。王は王女と結婚しようとするが、王女は妖精(デルフィーヌ・セイリグ)に相談して、白から逃げ出し、ほかの国に行って、ロバの皮をかぶって醜い人間として生きる。そこに王子(ジャック・ペラン)が現れ、王女の美しさを知って恋をし、最後に結ばれる。

ドゥミがずっと作ろうとしていたのがまさに「おとぎ話」だったことがよくわかる。純粋な心にあふれた美しい夢の物語だ。ドレスや室内、森、動物たちの美しい色彩、おとぎ話を聴いて頭の中で想像する通りの美しい人々。まさにそれが展開される。そして、ルグランの自然な音楽。アメリカのミュージカル映画のような大袈裟なものではなく、自然でやさしくて子どもらしい純粋な童話。

特典映像でも語られるが、確かにコクトーの「美女と野獣」へのオマージュがあることをうかがわせる。

 

71eymatqx2l_sy445_ 「モン・パリ」 1973

 封切時、カトリーヌ・ドヌーヴとマルチェロ・マストロヤンニ共演のドゥミの映画だということで大いに期待してみたのだが、駄作だと思った。今、みなおしても、やはり傑作とはいいがたい。

 男が妊娠しているといわれ、世界で最初の妊娠と騒がれるが、最後に間違いだとわかる・・・というそれだけの話。それを風刺をきかせて辛らつに描くのではなく、ほのぼのとおとぎ話風に描く。「ロバと王女」のようなおとぎ話を現代を舞台にして物語にするには、このような形しかなかったのだろう。非現実的なストーリーによって、男と女の原型を描こうとしたのだと思う。が、やはり現代の話であるなら、もっとリアリティが必要だ。男が妊娠したというのなら、その時点でもっと厳密な検査がなされるだろうし、そもそもどうやって受胎するのか、どうやって産むのかみる者に納得させる必要があるだろう。それがないと、やはり現代の物語としては説得力を持たない。ちょっと老けたけれど圧倒的に美しいドヌーヴと、信じられないことが自分に身に降りかかって右往左往するくたびれた中年男を演じるマストロヤンニの演技と細かい色遣い、そしてミシェル・ルグランの音楽を楽しむだけの映画になっている。

 

71jl7pm8cl_sy445_ 「ベルサイユのばら」 1978

 池田理代子の原作は、40年以上前に一度だけ読んだことがある。「絶対おもしろい」と友人(男性)に薦められたためだったが、私はあまりおもしろいと思わなかった。その少しあとでジャック・ドゥミが監督して映画になると知って、この題材を映画化するにはドゥミが適役だろうと思った。封切されてしばらくしてみたが、これもおもしろいと思わなかった。そんな思いのある映画のDVDを40年ぶりに見てみた。やはり、つまらなかった。

 原作とかなり異なるというが、私は原作にほとんど覚えがないので、それについてはわからない。が、どうにも中途半端な気がする。何を描きたいのかよくわからない。そもそも私にはオスカルの心の機微が伝わらない。民衆の側に身を投じる心の変化も十分に描かれていない。登場人物の誰一人として魅力的ではない。オスカルを演じるカトリオーナ・マッコールはとびっきりの美人だと思うが、女優としての魅力を感じない。駆け足で歴史の表面をなぞっただけで終わっている。ヴェルサイユ宮殿をロケ地として使いながら、あまりにもったいない。

きっとドゥミは気乗りしないまま、あるいは原作の精神を理解できないまま撮ったのだろう。断れなくて、あるいは報酬が魅力的なためについ引き受けてしまって、なんとかなると思って作り始めたが、やはりだめだった・・・というようなことは誰にもあることだ。ドゥミも人の子だったということだろう。

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ジョージア映画祭後半 「あぶない母さん」「告白」「ブラインド・デート」など

 岩波ホールで開かれているジョージア映画祭に通い、少し前にみた「放浪の画家 ピロスマニ」をのぞいて、短編を含む17本をみた。前半にみた映画の感想は数日前にこのブログに書いたので、今回は後半にみた映画の感想を記す。

 

「あぶない母さん」 アニ・ウルシャゼ監督 2017

 私はとてつもない傑作だと思った。アニ・ウルシャゼ監督は、「みかんの丘」のザザ・ウルシャゼ監督の娘でまだ27歳だという。驚異というしかない。世界全体で注目されるべき作品だと思う。

 三人の子どもを持つ主婦マナナ(ナト・ムルヴァニゼ)が憑かれたように小説を書く。ところが、そこに書かれていたのは、夫や子どもを憎んで性的で病的な欲望にまみれる血に飢えた妖女の心の奥だった。知人の文房具店主はその作品を高く評価し、出版の手助けをしようとするが、家族はそれに反対。マナナは小説の結末を書くため、家を出て文房具店に寝泊まりするようになる。そして、そうするうち、マナナの精神はだんだんと常軌を逸してくる。そして、マナナの心の奥にある父との葛藤、過去における母の自殺、絶望的な私生活を送っている文房具店主の状況などが明らかになっていく。

 実はよくわからないところがある。もう一度みてみたい気がする。が、カフカ的な雰囲気に圧倒された。この映画では、トビリシの都市がまるでカフカの小説のように不思議な相貌を帯びて迫ってくる。いや、トビリシとは限らない。現実の世界がふだん私たちが考えているのとは異なる真実の姿を現す。マナナの小説の不気味な文体のような雰囲気が映像の中ににじんでいる。そこが凄い。

新作の映画でこの種の衝撃を受けたのは、一昨年の「サウルの息子」以来だと思った。「あぶない母さん」という軽そうなタイトルだが、実はとてつもなく深刻で深いテーマの映画だと思う。

 

「陽の当たる町」 ラティ・オネリ監督  2017

 ソ連時代に鉱山で栄えた町が、今では廃墟のようになっている。そこに残って暮らす人々の様子を描いたドキュメンタリー映画。

私は実はとても退屈だった。最も苦手なタイプの映画だ。苦手な最大の原因は、長回しのカメラだ。始まってすぐ炭坑内のトロッコの動く場面が何も変化がないのに、23分ずっと映し出される。何の変化もなく歩いていく人物をずっとカメラが追いかける場面もある。走っている女の子二人の姿もずっと追いかける。新たな情報があればいい。思想や心情が長回しによって鮮明になるのならいい。だが、何もなく長々と撮影される。せっかちな私はそのような場面ごとにイライラしてきた。ほかの監督がこの映画を撮ったら三分の一の時間で終わるのではないか!と思ったのだった。

要するに、巨大な廃墟があり、そこで暮らす人がいて、それなりに楽しく、町の滅亡とともに生活しているということなのだろう。ただ、繰り返すが、私は大いに退屈に思ったのだった。

 

「ヒブラ村」 ゲオルギ・オヴァシュヴィリ監督 2017

「とうもろこしの島」のオヴァシュヴィリ監督の映画。1991年にジョージアはソ連から独立。圧倒的支持を受けて、ガムサフルディア大統領が誕生する。だが、圧政を行ったためにクーデターが起こり、大統領はいったんチェチェンに亡命し、ジョージアに戻って蜂起するが失敗して、少数の側近とコーカサス山中を逃亡して、ヒブラ村で死亡する。その前大統領の最後の数日間を描く映画だ。きっとジョージアの人にとっては忘れられない過去の歴史なのだろう。そして、「ヒブラ村」という言葉は特定の響きを持つのだろう。

 ジョージア史を知らない私には、どこまでが史実に基づくのかよくわからない。前大統領(フセイン・マシューブ)は山中を逃亡し、広めの家を見つけて無理やり泊まったり、支持者の家、側近の知り合いの家に泊まったりする。家の主は前大統領がやって来たというのでそれなりの歓待はする。そうするうちに、前大統領は徐々に追い詰められ、側近も脱落し、自分の過去に自信をなくしていく。そうした様子が克明に描かれる。なかなかリアリティがあるが、克明に状況を描くだけで内面的、思想的な深まりがあるわけではない。少し克明すぎて、退屈な部分もある。どうもジョージア映画は現実を克明に描こうとする傾向が強いようだ。リアリティが生まれ、存在感が強まるが、しつこさを感じないでもない。

 

「告白」 ザザ・ウルシャゼ監督 2017

「みかんの丘」のウルシャゼ監督の映画。とてもおもしろい。かつて映画監督を目指していたゲオルギ(ディミトリ・タティシュヴィリ)が神父になり、助手ヴァリコとともにある村に赴任する。ところが、そこにマリリン・モンローによく似た未亡人リリ(ソフィア・ムビスクヴェラゼ)がいる。ゲオルギはリリに惹かれつつ理性を守って、リリに絡む村のトラブルを解決しようとするが、リリは実はかなりの悪女であって、神父を陥れる。神父は村を後にする。

 ジョージアの田舎町の閉塞的な状況がよくわかる。教会の手伝いをする女性(「あぶない母さん」の主役ムルヴァニゼが演じている)に典型的に表されるように、みんなそれなりに善良な心を持ってはいるが、狭量で排他的で細かいところで小競り合いをしている。神父はそこで進歩的で開放的な信仰をもたらそうとするが、しっぺ返しにあってしまう。そんな物語といってよいだろう。

 ジョージアの村の自然の美しさ、信仰の状況、人々の生活がわかってとてもおもしろい。リリや軽くて善良な助手ヴァリコなどの人物の描き方もとてもリアル。

 

「映像」 ゲオルギ・ムレヴリシュヴィリ監督 2010

 10分ほどの短編ドキュメンタリー映画。ジョージアの寒村を訪れる映画撮影キャラバン。車で機材が運ばれ、美しい山を背景とする野外で特に子供を対象にした映画会が開かれる。子どもたちは夢中で映画を見る。そして、映画隊が去る。子どものうちの1人は家にあった映写機を持ち出して撮影を始める。映画隊は確かにこの村に映画文化の痕を残したわけだ。

 それだけの映画だが、自然があまりに美しく、子どもたちの姿も生き生きとして、しっかりとしたリアリティと存在感を感じさせる。とてもいい短編だと思った。

 

「ブラインド・デート」 レヴァン・コグアシュヴィリ監督 2013

 40歳になるのに独身で、女性とも付き合いのない学校教師のサンドロ。両親から常に結婚をせっつかれ、ふがいなさに嫌味を言われ続けている。サンドロは友人のイヴァに誘われて出会い系サイト(のようなもの?)を使って女性と会ってみたりもするが、女性に同情するばかりで男女関係に進まない。そんなとき、教え子の母親マナナと恋に落ちるが、その夫は暴力沙汰で刑務所に入っている。夫が刑務所から出る日にマナナを車で送ったために、夫からタクシー運転手と間違われ、手先となって手伝わされ、犯罪者っぽい人たちとも難民一家とも出会う。結局、夫は刑務所に戻るが、マナナとは結婚できそうもなく、夫の愛人だった難民女性の面倒を見ることになる。

 知的で善良でありながら、他人のことを考えてしまい、自己主張できないために損な役回りを演じるしかない男性を狂言回しとしてジョージア社会の模様を描く。ジョージアにもサンドロのような人間が多いのだろう。そして、日本にも多い。もちろん、私も少しそんな傾向を持っている(もちろん、反対の面も持っている)。そうしたジョージア人の暮らす中で犯罪や難民や内戦が起こっているのだろう。

 ブラインド・デートというのは、友だちなどに誘われて、相手がどんな人か知らないままデートすることを言うらしい。出会い系サイトを利用したデートをさしているのだろう。が、この映画では、サンドロのすべての出会いが、まさにブラインド・デート。偶然、今までかかわりのなかった境遇の人と出会って戸惑う物語。イヴァが本当に目の不自由な(ブラインド)女性とブラインド・デートして下心を持ちながらも、目の不自由な女性のしっかりした態度に圧倒されて何もできないというエピソードがある。ブラインド・デートという言葉に対する皮肉だろう。

 

今回の映画祭で13本の長編映画をみた(少し前にみた「放浪の画家 ピロスマニ」はのぞく)。全体として、おもしろい映画が多かった。ジョージア映画のレベルの高さを改めて知った。気づいたのは、特に大きなことが起こるわけではなく、主人公の日常を丁寧に描くタイプの映画が多いことだ。ジョージア映画の傾向なのか、今回映画祭を企画した人々の好みなのかはわからない。その種の映画も、私は嫌いではないが、もう少し事件がほしかったとは個人的には思う。

まとめとして、私の好みによってあえて順位をつけてみる。

 

① 「あぶない母さん」

➁ 「告白」

③ 「デデの愛」

④ 「大いなる緑の谷」

➄ 「微笑んで」

⑥ 「ブラインド・ノート」

⑦ 「少女デドゥナ」

⑧ 「少年スサ」

⑨ 「ヒブラ村」

⑩ 「他人の家」

⑪ 「私のお祖母さん」

⑫ 「ケトとコテ」

⑬ 「陽の当たる町」

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ジャック・ドゥミの映画(初期短編、「ローラ」「天使の入江」「シェルブールの雨傘」)、そして「ジャック・ドゥミの少年期」

 アニエス・ヴァルダの「顔たち、ところどころ」をみたのをきっかけにヴァルダの何本かの映画をみて、今度はその伴侶だったジャック・ドゥミの映画を何本かみた。簡単な感想を書く。

 

51unapywsl_ac_us200_ ジャック・ドゥミ初期短編映画集(「ロワール渓谷の木靴職人」「冷淡な美男子」「アルス」「淫乱の罪」)

 いずれもドゥミらしい感受性豊かで根底のところで「孤独」を感じさせる映画。物語としての面白さはあまり感じなかったが、映像美と独特の雰囲気に圧倒される。とりわけ、モノクロの映像の力に驚嘆する。画面全体から心優しさを感じさせるが、暖かくはない。余計なものを取り除いた厳しさがある。まさしく静謐な世界。「冷淡な美男子」だけがカラーで赤を基調とした大胆な色遣いで、しかも女性がずっとしゃべり続ける。だが、これは、一人の女性の独白と、女性に話しかけられながらもそこにだれもいないかのように振る舞う男性(あるいは、この男性は女性の見ている幻想なのかもしれない)の「非コミュニケーション」の物語。色遣いと饒舌さはまさに孤独そのものを表現している。

 もし私がこれらの映画を公開時に見て、ドゥミの才能を予感できたかどうか自信がないが、今見ると、明らかに後のドゥミの萌芽がある。いずれも愛すべき珠玉の小品だと思う。

 

51nddgghigl_ac_us200_ 「ローラ」 ジャック・ドゥミ監督 1961

 この作品についてはタイトルだけは以前から知っていたが、今回初めてみた。2012年にハリウッドで修復されたきれいな映像。なかなかの名作だと思った。

後の「シェルブールの雨傘」で副主人公になるローラン・カサール(マルク・ミシェル)が主人公。カサールは少年のころに愛した女性セシル(アヌーク・エーメ)と再会する。セシルは今ではローラという名前で踊り子としてキャバレーに出演している。カサールはよりを戻そうとするが、ローラには初恋の男性ミシェルとの間に子供がいて、行方をくらませたミシェルを忘れられず、カサールに心を許さない。しかも今もアメリカ人水夫と付き合っているように見える。ローランは恋をあきらめ旅に出ようとするとき、ローラは戻ってきたミシェルと新しい一歩を踏み出そうとする。

 そうしたカサールのローラへの思いと失恋を語るのだが、そこに若き日のローラを思い出させる清純な14歳の少女セシルとの出会い、その少女とアメリカ人水夫との交流、カサールの行きつけのカフェの常連客などが絡む。舞台となっているのはナント。ラ・フォル・ジュルネで私も何度か訪れたことのある海辺の静かな地方都市だ。そうしたものが相まって、親密で重層的な空間を作り出す。

 詩的で内省的な映画だ。音楽はミシェル・ルグラン。「シェルブールの雨傘」でなじみのメロディが聞こえてくる。撮影はラウール・クタール。ドゥミの映画、そして1960年代、70年代にはなじみの天才たち。映像も美しい。ずっと感動して観た。

 

619bjwuosml_ac_us200_ 「天使の入江」 ジャック・ドゥミ 1962

 ジャック・ドゥミが「ローラ」と「シェルブールの雨傘」の間に作ったモノクロ映画。銀行員の青年(クロード・マン)は友人に誘われてルーレットにはまり込む。南仏のニースやモンテ・カルロのとばく場に出かける。そこでブロンド女性ジャッキー(ジャンヌ・モロー)と知り合う。ジャッキーは賭博にのめりこんだために夫に見放され、子どもとも会えずにいるが、それでもまだ賭博をやめられず、イカサマにも手を染めて賭博場から追い出される始末。二人は行動をともにし、愛を交わすようになるが、全額をスッてしまう。青年は父親にお金を送金してもらい、やり直そうとする。ジャッキーはそれを拒んで賭博場に出かけるが、青年を失おうとするとき、賭博でなく男性を選んで、新しい人生を歩もうとする。あっという間のラストシーンだが、これはとても感動的。

 現実には、まあきっとジャッキーはまた賭博に戻るだろうな・・とは思うのだが、それはそれでとてもいい映画。映画の中のほとんどの場面を占める二人が不毛な賭博にのめりこむ場面は見ていて辛いが、最後の場面のためには必要だったのだろう。

 それにしても本当に美しいモノクロ映像。コート・ダジュールが白黒の美しい映像として納められている。ドラマティックな展開を描きながら、愛を求める孤独が浮き立つ。

ただ、私には役者としてのジャンヌ・モローの存在感が強烈すぎてヒロインの心情に共感できない。ジャンヌ・モローの出演映画を見ると、いつもそのような気持ちになる。役柄のジャッキーではなく、ジャンヌ・モローを見てしまう。賛同してくれる人は少ないかもしれないが、ジャンヌ・モローではなくアヌーク・エーメだったら、どんなにうれしかったことか。

 

51t2mbc13jl_sx466_ 「シェルブールの雨傘」 ジャック・ドゥミ 1964

 大好きな映画だ。久しぶりにみた。改めて素晴らしい映画だと思った。セリフのすべてが、日常の会話のアクセントに少しだけメロディを加えただけの歌から成るミュージカル映画だ。

 50年近く前、私が早稲田大学第一文学部演劇科映画専攻の学生だった頃、この映画が傑作かどうかで大学の映画論の授業中に、担当の先生と大激論を交わしたことがある。「感情を歌い上げられていない。だから駄作だ」と先生が断言した。生意気な学生だった私はそれに反対して、「この映画のセリフがすべて歌になっているのは、むしろ感情を抑え、過度な感情移入を防ぐためなのだ。すべてのセリフを歌にすることによって、〈この映画は非現実のおとぎ話なんですよ、どこにでもある悲恋をおとぎ話として語っているんですよ〉とわからせている。だからこそ、これは画期的な作品なのだ」と食ってかかった。

 ついでに言うと、先生は私の反論に腹を立てたらしく、「よく言われるだろ、フランス人は音痴なんだよ。ミュージカルなんて作れないんだ」といい捨てた。当時からクラシック音楽好きだった私はカチンときて、「フランスにはドビュッシーやラヴェルやフォーレがいるじゃないですか。ベルリオーズだってサンサーンスだって。音痴と言われるのはイギリス人ですよ、先生は勘違いしてるでしょ」とますます食ってかかった。これが先生の怒りに油を注いでしまったようで、激しい言い合いになった。私の若気の至りの思い出の一つだ(もちろん、高齢者になった今は別人のように丸くなっている!)。いずれにせよ、それやこれやでそのまま早稲田演劇科の大学院に進むのは難しくなったのだった!

今みても、私のほうが絶対に正しいと思う。感情を高らかに歌い上げるのとは異なる、いかにもフランス音楽的なルグランの音楽、人工的な色(上から見た傘の行進、二人の主人公の部屋、人物たちの統一感のある服の色調)、不思議なシーン(自転車が自動的に動いているなど)はそれを示していると思う。

 それにしても、ルグランの音楽、色彩、ストーリー、すべてが素晴らしい。そして、カトリーヌ・ドヌーヴの何という美しさ! 淡々と、しみじみと「人生ってこうなんだよね」と思わせる。まさしく現代の悲しいおとぎ話。それを作るにはすべてのセリフを歌わせる必要があったのだと思う。本当にいい映画だと思う。

 

215vy0etepl_ac_us200_ 「ジャック・ドゥミの少年期」 アニエス・ヴァルダ監督 1990

 ドゥミがエイズにかかって死を覚悟した後、長年連れ添ったヴァルダが記念のために作ったドゥミの伝記映画。小さな自動車修理工場を営む家に生まれ、幼いころから演劇、映画に関心を持ち、初々しく繊細な感性を育てながら映画に傾斜していくドゥミの少年時代が描かれる。大人の世界を知り、戦争がある。技術学校で手に職をつけることを強制されながらそれに反抗して映画を仕事にしていく。ドゥミの映画の場面が挿入され、少年期の様々な経験が映画にいかされていることが示される。

ドゥミの人間思いの人柄、その人生、そしてヴァルダのドゥミに対する愛も伝わる。ドゥミに対する思い入れがある私のような人間にはことのほか訴える力が強いが、そうでない人に対しても、一人の映画人の人生を描く映画として十分に説得力があると思う。3回ほど訪れたことのあるナントの町が出てくるのもうれしかった。

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ジョージア映画祭前半

 1013日から岩波ホールでジョージア映画祭が開かれている。1026日まで、短編映画を含めて、全20作が上映される。ジョージアは映画の盛んな国だという。私はずっと昔「放浪の画家ピロスマニ」をみただけだったが、最近になって新たに何本か見てとても大きな感銘を受けた。ジョージアという国にも大いに関心がある(来年にはジョージア旅行をしようと計画している!)。そんなわけで、全部をみられるかどうかはわからないが、時間と体力の許す限り、できるだけたくさんみようと思って、岩波ホールに通い始めた。

 これまでみた映画の感想を簡単に記す。

 

「西暦2015年」 ハトゥナ・フンダゼ監督

 ジョージア・フィルムで働く三人の高齢の職員の日常を描く短編。フィルムや映画で使われた衣装などを手当てする様子が描かれる。ほとんど機能していないこの建物の一部を音楽の練習場として貸し出しているのだろう。そこでドラムの練習をしている若者がいる。映画の初めからずっとドラムの音が聞こえていたが、その正体が最後に明かされる。高齢男性はその音を「うるさい」といいながらも、その音をまねしているようだ。個の音が鳴ることによってこのセンターが過去から現在、未来へと続いていることを象徴している。

 

「デデの愛」 マリアム・ハチヴァニ監督 2017

 とてもおもしろかった。婚約者を愛することができず、その友人を愛してしまったデデ。婚約者が自殺したために、愛する人と結ばれ、子どもをもうけるが、その結果、村人たち、とりわけ婚約者の親族を敵に回して生きることになる。デデは男性中心社会のなかで自分を貫こうとするが、そうすればするほども問題が厄介になり、過酷な状況に追いやられる。男社会に屈服するほかの女性たちもデデに同情を示さない。

これは現代のジョージアの物語。田舎社会ではこのような因習が残っているのだろう。このタイプの物語に類は多いが、登場人物の肉付けが的確で、山間の村の風景、ジョージア社会の因習などがリアルに描かれているため、既視感はない。それにしても自然が美しい。そして子どもたちの表情もとてもいい。

 

「他人の家」ルスダン・グルルジゼ監督 2016

 アブハジア紛争後、ジョージア人が着の身着のまま逃げた村の家々に、戦争で家を失った別のいくつかの家族が入居する。が、他人の家になじむことができず、自分の居場所を失ってアイデンティティを疑い始める。そのような状況を象徴的、幻想的に描いた映画。ある種の哲学映画。二組の家族のそれぞれの人間が自分を失っていくが、私が無知なためか、社会背景がよくわからず、登場人物の一人一人が何を悩んでいるのか、なぜそのような行動をとるのかわからなかった。しかも、これまた私の能力の欠陥だと思うが、登場人物の顔を識別できず、ときどき混乱した。美しい風景の素晴らしい映像だが、この映画を見て「さっぱりわからん」と思うのは私だけではないだろう。

 

「少年スサ」 ルスダン・ピルヴェリ監督 2010

 母親の働く不法のウォッカ工場でウォッカの密売の仕事をして貧しい家計を助ける小学生程度の少年。学校にいっている様子はなく、ガラスを割って自分で万華鏡を作ってほとんど唯一の娯楽にしている。ワインを売りに行っては、警官に追われ、与太者にせっかくの収入を巻き上げられながら必死に生きる。出稼ぎに行っている父親が帰るのを待ち、それを機会に事態が進展すると信じ黙々と働くが、帰宅した父も意気地のない男でしかなく、うだつが上がらず、家族を助けてくれるわけではない。父が帰っても何ら事態は好転しない。けなげに働いた少年も最後には感情をむき出しにする。

それだけの話。それを克明にリアルに描いていく。日本の戦後のような廃墟のような場所や貧困層の住まい、いかがわしいお店、途上国特有の繁華街を的確に描く。ただ、私としては、もう少し事件が起こってくれないと、ものたりない。

 

「ダンサー」 サロメヤ・バウエル監督 2014

 バウエル監督の大学の卒業制作映画との表示が出る。ジョージアの民族舞踊を踊るそれぞれ世代の異なる三人の男性ダンサーの練習、日常の生活の様子などを描く短編映画。未来を目指して踊る少年と、いま世界で活躍しているダンサー(それでも舞踊だけで食べていくのは大変だという発言がある)、後進を指導する高齢のダンサー。ジョージアの人々にとってのダンスの意味、それに精魂を傾ける人々の思いなどが伝わってくる。

 

 

「微笑んで」 ルスダン・チコニア監督 2012

 とてもおもしろい映画だった。最後まで飽きずに見た。初めのうちは、「母親コンテスト」などとは無理な設定だと思ってみていたが、なかなかに重いテーマだった。

 テレビ番組で「ジョージアの母」コンテストが企画され、10人の女性が最終予選に勝ち残る。10人の女性は25000ドルと一軒の家が賞品の優勝をめざすが、このテレビ番組には理不尽な内容がいくつもある。女性たちはそれぞれの事情も抱えている。女の争いもある。それでも女性たちは、「微笑んで」といわれながら、にこやかにコンテストのイベントを行おうとする。だが、最後、女性たちはテレビ番組のあり方、審査員の理不尽に怒ってボイコットする。

 ジョージアの社会について知識がないので何とも言えないが、きっとジョージア社会がこのテレビ番組のようになっているのだろう。すなわち、一獲千金を狙い、競い合い、資本主義的に宣伝をし、すべて売り物にする社会、しかしそうでありながら、国家が母親の理想像、国民の理想像を押し付けてくる。それが実際には貧しくて、それぞれの事情を抱えている国民を苦しめている。

 主人公の一人であるシングルマザーのグワンツァはかつてヴァイオニストだったが、弾けなくなっていた。これを機会に人前でバッハの「シャコンヌ」を弾こうとするが、邪魔され、自尊心をことごとく壊され自殺する。紛争に苦しめられ、やっと芸術に目を向ける余裕ができたはずなのに悪しき資本主義化のためにそれができなくなっている社会状況を象徴しているのだろうと思った。

 

「大いなる緑の谷」 メラブ・ココチェシュヴィリ監督 1967

  モノクロ映画。牛飼いのソサナは人里離れたところで牛を飼って生きている。粗野でわがままな男だが、父を牛に殺されても許し、妻に浮気されても許して、頑固に自分の生活を守ろうとする。だが、周囲は近代化され、油田の開発が進んでいるために、徐々に時代に取り残され、周囲との軋轢も増えていく。妻は愛想をつかせて町に逃げだし、石油交じりの水を逃れて牛も逃げ出してしまう。途方に暮れながらも、牛を探し続ける。

 ソ連の近代化にこうして生きた男性の生き方を描いたといえるだろう。白黒の映像が美しい。ソサナの悲しみと絶望が伝わってくる。とても良い映画だと思った。

 

 

「ケトとコテ」 ヴァフタング・タブリアシュヴィリ+シャルヴァ・ゲデヴァニシュヴィリ監督 1948

 白黒のミュージカル映画。スターリンによる大戦後の国民を元気づけるために楽しくて明るいミュージカルを作るようにとの指示でできたという。舞台は1880年代。レヴィン公爵の甥のケトと大商人マカルの娘コテは愛し合っている。取り持ちの女性の勧めで公爵がコテと結婚しようとすることから混乱が起こるが、機転の利く女性ハヌマの知恵によってケトとコテは結ばれる。

 ストーリーはまるでロッシーニやドニゼッティ。ハヌマという女はロッシーニのフィガロのような存在。音楽はレハールなどのオペレッタを劣化させた感じ。ただオペラ、オペレッタ好きの私からすると、舞台上のオペラでこのような不自然な行動の多いストーリーが展開されても気にならないが、映画でこのように不自然だと、あれこれ突っ込みたくなる。それに、ケトもコトも大勢の仲間や民衆の支持を受け、みんなが二人のためを思って明るい顔で歌うといういかにも社会主義的演出が、私には不快だった。

 社会主義を謳歌するはずのミュージカル映画であっても、楽しいおとぎ話にするには、公爵の甥と大富豪の娘を主人公にするほうが作りやすかったのだろう。そこに社会主義的思想を入れるために、無理やりケトもコテも民衆に支持されており、それを阻もうとする公爵と商人は権威主義的という枠組みになっている。これまたあまりに不自然。

 喜劇でよく用いられる二者が対になった対称形の物語という点は面白く思った。二人の主人公の名前がケトとコテ(ketokote)。わかりやすいアナグラムをなして、二人は対称関係を成している。公爵と商人はともに太めの初老の男で対を成し、取り持ちの女とハヌマはよく似た衣装の中年女性で対を成している。商人の道化の召使2人も対になっている。ただ、人間の識別能力に難のある私は、ケトとコテを除いて対になった人物がとてもよく似ているので、人物を取り違えてしまって困った。

 大きな笑い声を上げてみている人が何人かいたので、おもしろいと思う人が多かったのだと思うが、私はあまり面白いと思わなかった。

 

「少女デドゥナ」 ダヴィド・シャネリゼ監督 1985

 元のフィルムがジョージアにはないため、監督自身が保存していた状態の悪いDVDをDCP化したものが上映された。

 山の中の小さな村で健気に生きる少女デドゥナ(小学校高学年くらい?)。学校の勉強もしっかりして、母のいない家で父の面倒をみ、近くに暮らす親戚に心配りをし、父がつれてきた少年の世話もする。そのような少女の日常を丁寧に描く。元のフィルムがないために画質はよくないとはいえ、実に美しい自然の風景。その中で生きる少女の自然な、そして懸命な姿が浮かび上がる。首都からヘリコプターで弦楽四重奏団がやってきて、シューベルトの「死と乙女」を演奏してまた首都に帰っていく。少年が夕食のお礼に鳥(みみずく?)をかごに入れて持ってくるが、デドゥナは鳥かごの扉を開けっぱなしにする。デドゥナは自然の中に閉じ込められた自分の状況を重ねて考えているのだろう。

 文明から閉ざされた中で暮らし、そこから解放されたいとひそかに願いながら自分の生活を守る人。それをデドゥナという少女に託して描いている。見事な抒情詩だと思う。

 

「メイダン 世界のへそ」 ダヴィド・シャネリゼ監督 2004

「少女デドゥナ」と同じシャネリゼ監督のドキュメンタリー映画。メイダンというのはジョージアの首都トビリシの旧市街地の土地名らしい。まさに世界のへそというべき場所で、ジョージア人のほか、アルメニア人、アゼルバイジャン人、ロシア人、ユダヤ人、クルド人が暮らし、キリスト教のほかユダヤ教、イスラム教が隣り合っている。ゾロアスター教の遺跡もある。人種、言語、宗教が入り混じって暮らす人々の日常を描いていく。インタビューされる人々の人生を経た顔や表情がおもしろい。ごたまぜの様々な人生を歩んできた人たちに寛容な土地であることがよくわかる。

 

「私のお祖母さん」 1929年 コンスタンティネ・ミカベリゼ監督

 サイレント映画。音楽のつかない完全に沈黙の映画。私がこれまで見たことのあるサイレント映画でいえば、キートンの喜劇とブニュエルの「黄金週間」を合わせた雰囲気。テーマとしては、ブルガーコフの小説「悪魔物語」を思い出す。

すでに革命の中心であるべき労働者のことも忘れて自分の出世のことしか考えず、他者には無関心。そんな官僚主義の人々をグロテスクに、時にブラックユーモアを交えて描く。「お祖母さん」というのは「後ろ盾」を意味する隠語らしい。職を失った官僚が新たな後ろ盾を得ようとしてあちこち駆け回る話が中心になり、そこ多くのギャグが加えられていく作りになっている。時にシュールになり、アニメが使用され、大袈裟に戯画化される。大声で笑っている人がいたので、おもしろいと思う人もいたのだろうが、私には笑いとしては不発だった。表現が大袈裟すぎて、笑うよりも、むしろ「引いて」しまった。

 この時代にこのような内容の映画を作れた(すぐに公開禁止になったということだが)ことに驚いたし、ブルガーコフやメイエルホリドの時代にジョージアでこのような映画が作られていたことは実に興味深いことだと思った。ただ、映画として心から楽しむことはできなかった。

 

「スヴァネティの塩」 ミヘイル・カラトジシュヴィリ監督 1930

 サイレントのドキュメンタリー映画。コーカサスのスヴァネティ地方ウシュグリ村を舞台にしている。冬が厳しく、孤立した貧しい村で、長い間、石の塔を築いて外敵から守ってきたらしい。その村に住む人々の貧しく厳しい生活を描く。塩がないために外から運ばなければならないが、孤立しているためにそれが難しい。人も動物も塩に飢えている。

苦難の中で生きる人に共感を寄せつつ文化人類学的に描いていると思ってみていたところ、後半、突然雰囲気が変わる。この村は悪しき宗教(キリスト教の一派だろう)に支配されており、ここでは出産を穢れたものとみなされ、妊婦は外に追い出され、しばしば生まれた子どもは死んでいくという(本当か? とかなり疑問に思った)。そして、革命政府が道路を作り、貧しく迷信にとらわれた人々を近代化していることを高らかに告げる形で映画は終わった。最終的にこのような形にしないとソヴィエト政府に批判されたのだろう。

美しい風景、閉ざされた辺鄙な村の生活、時代の抱える問題。あれこれ考えさせられる映画だった。

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ヴァルダの映画「百一夜」「アニエスの浜辺」「幸福」、デュラスの映画「アガタ」

先日、ヴァルダのシネ・エッセイというべき「顔たち、ところどころ」をみてとてもおもしろいと思った。まだみていないヴァルダ映画のDVDを購入。ついでに、マルグリット・デュラスが監督した映画も見た。ヴァルダとデュラス。私の大好きなフランスの女流映画監督だ。簡単に感想を記す。

 

81415uldzll_sy445_ 「アニエス・ヴァルダの百一夜」 アニエス・ヴァルダ 1994

 映画の権化といえるような100歳になる老人ムシュー・シネマ(ミシェル・ピコリ)を中心に、この老人のもとに通って映画の話を百一日続けるというバイトをする女性(ジュリー・ガイエ)や、老人のもとを訪れる映画人との間の様々なエピソードから成る。特に脈絡はないが、往年の映画のパロディがあり、大スターたちも次々登場する。ありものの映像ではなく、この映画のためにセリフを得て登場するスターだけでも、マルチェロ・マストロヤンニ、カトリーヌ・ドヌーヴ、アラン・ドロン、ロバート・デ・ニーロ、ジャン・ポール・ベルモンド、ジェラール・ドパルデュー、アヌーク・エーメ、ジーナ・ロロブリジーダなどがいる。何という豪華さ! このような人々が過去の様々な映画を再現し、友人である大スターたちと映画の思い出話をする。この映画の中で元気な姿を見せてくれたスターたちの多くが今ではこの世にはいないのは残念だ。

私が盛んに映画を見ていた時期のスターたちなので、とても懐かしい。今の若い人にはわからないであろう「ひねり」も私にはかなり理解できる。ニヤリとするところもたくさんある。映画好きたちの他愛のない映画談義として、実におもしろい。自由に飛躍し、想像をはばたかせ、映画の中の様々な人生を追体験できる。私にはとても楽しい映画だった。

 

81zdkjbnnl_sy445_ 「アニエスの浜辺」 アニエス・ヴァルダ 2008

 80歳に近づいたアニエス・ヴァルダのシネ・エッセイ。南フランスの港町セート(フランス文学を学んだことのある人間にはヴァレリーの故郷としてなじみがある!)で子供時代を過ごしたヴァルダが、人生の中で大きな意味をもった浜辺にカメラを据えて、子どものころからのヴァルダ自身の人生を語る。

過去と現在、再現場面と現実の場面、そして映画の中の場面が自由に交錯する。ヴァルダの「5時から7時のクレオ」や「幸福」、ヴァルダと長年連れ添ったジャック・ドゥミの「シェルブールの雨傘」が映し出され、それらが作られた当時の状況が説明される。画面の一つ一つにヴァルダの自由で初々しい精神があふれている。写真を撮ったり映画を作ったりして出会った映画人や文化人、市井の人々へのヴァルダの愛情と関心に共感する。映像の美しさも格別。とびっきりの美的センスを持っていることがよくわかる。当時の映画を見ていない人にも、その楽しさが伝わると思うが、ヴァルダやドゥミの映画が大好きだった私にはことのほかうれしい映画だ。ワクワクしながら見終わった。

 

51a6tgmvwel 「幸福(しあわせ)」 アニエス・ヴァルダ 1964

 今から50年以上前、日本封切時にみて心の底から感動した大好きな映画。自宅にあるDVDを探したが見つからなかったので、新たに購入して、久しぶりにみた。やはり本当にすごい映画。わめくわけでも大騒ぎするわけでもない。美しい色彩で淡々とさりげなく男女の日常を描く。それでいて、この上なく残酷な人間の真実を描き出す。

 パリ近郊の町で妻子とともに幸せに暮らすフランソワ。近くの森(たぶんヴァンセンヌの森)で家族とのピクニックを楽しんでいる。ところが、仕事で家を離れた時、郵便局に勤める女性エミリと知り合い、愛し合うようになる。フランソワは素直に二人の女性を愛し、それを妻に認めてもらおうとする。だが、告白した直後に妻は溺死(おそらく自殺)する。それからしばらくして、エミリがフランソワの妻になり、以前とそっくり同じように幸せな家族のピクニックが続けられる。

 男のわがままが描かれるが、女性問題を扱っているわけではないだろう。人間の心は移り行く。男でも女でも。そのような普遍的な真実を描いているのだと思う。人々は幸せだと考えて日々を生きている。だが、その幸せはすぐに暗転するかもしれない。そして、かけがえのない人間であっても、別の人と交代して何の支障もなく「幸せ」は続いていくかもしれない。そのようなごく当たり前の真実を見せてくれる。

 幸せな場面で金管楽器に編曲されたモーツァルトのクラリネット五重奏曲が流される。そして、悲劇的な場面では「アダージョとフーガ ハ短調」が流される。その効果も素晴らしい。これほど雄弁にモーツァルトの曲が映画に用いられた例を私はほかに知らない。

 

519nafprul_sy445_ 「アガタ」 マルグリット・デュラス 1981

 デュラスは私の大好きな作家だった。大学1年生の時、「モデラート・カンタービレ」を読んで衝撃を受けた。フランス語の勉強を始めた時、原書を買って辞書を引き引き最初に読んだのも、この本だった(ついでにいうと、2冊目が「異邦人」だった)。当時の私の心の中では、デュラスとアニエス・ヴァルダは結びついていた。同じような作風の二人の女流だと思っていた。

デュラスが映画を作り始めたと知って、見たいと思ったが、当時「ラ・ミュジカ」しか見られなかった。その後、デュラスの小説はほとんど読んだが、デュラスが監督した映画のことは忘れていた。最近になって「アガタ」のDVDが発売されていると知って購入した。小説の「アガタ」を読んだ記憶はあるが、内容はまったく覚えていなかった。デュラスの小説を盛んに読んでいたのも、もう30年以上前のことだ。

 映し出されるのは人気のない海辺とがらんとしたホテルの内部。そこに男女の会話の声が重ねられる。過去を共有していそうな、しかし妙に他人行儀な口ぶりが混じる話。まさにデュラス特有の世界! この雰囲気が私は大好きだった。10分くらいしてやっとアガタらしい女性(ビュル・オジエ)が登場する。切れ切れの省略の多い会話によって、男女が実は兄と妹であって、その二人が浜辺のヴィラで男と女として交わった過去があらわになる。そして、永遠の愛、死、人と人のつながりがきれぎれに語られる。避けられない生と死、必死にまさぐり合う愛、人間を包み込む非情な自然、絶対的に静謐な空間、生身のリアリティが消されて音楽の楽譜のように抽象化された登場人物。久しぶりにデュラスの世界を味わった。そして、これは20代から30代にかけての私が夢想していた世界でもあった。

 きっとこの映画を好きだという人は世界中にそれほど多くないだろう。が、私はため息が出るほど、今もこの世界が好きだ。

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映画「バッド・ジーニアス」 カンニングを切り口におもしろく社会矛盾を描く

 タイの映画「バッド・ジーニアス 危険な天才たち」(ナタウット・プーンピリヤ監督)をみた。タイは大好きな国。タイの映画が大ヒットして話題になっているとあっては、みないわけにはいかない。とてもおもしろかった。

 良家の子女の通うタイのエリート校につましく暮らす教師の娘のリンが入学してくる。リンは成績抜群。勉強のできない友人の手助けをするうち、お金持ちの子女たち相手にお金を取ってカンニングの手助けを始めるようになる。そして、ついには、もう一人の成績抜群の貧しい男子生徒バンクも巻き込んで国際的な大学入試資格試験(STIC)での大掛かりな不正を行う。

「ネタバレ」になるので、ストーリーについてはこれ以上書かない。が、手に汗握る展開。大袈裟な音響によってカンニングを大サスペンスとして描き、娯楽作品として面白く見せながら、しっかりとタイ社会の矛盾も突く監督の手腕に驚く。お金持ちが社会を牛耳り、子どもに地位を継がせようとするが、良家の子どもたちは遊び惚けるばかり。貧しい家の子どもたちは学歴を積むしか上層に浮かび上がる道はないが、良家の子女たちにお金で誘惑される仕組みができている。そんな社会矛盾が浮かび上がる。サスペンスを高める手法も、ちょっと笑わせてくれるところが、実にいい。

しかも、観客は真面目で素朴な父親の愛情にもほろりとし、リンの心情にも感情移入して、いつの間にか深く感動している。そして、もちろん最後には、カンニングを肯定するわけではなく、落ち着くべきところに落ち着く。そのあたりの着地の仕方も実に見事。

 リンを演じる女の子(チュティモン・ジョンジャルーンスックジンという長い名前! 黒木華にとてもよく似ている!)の演技力にもびっくり。お父さん役の役者さんも、バカっぽい同級生を演じる俳優さんたちも好演。

 少し前までタイの小説や映画は生真面目なものばかりだった。こんなに楽しませてくれる映画が現れたのは実に嬉しい。ただ、個人的に少し残念だったのは、舞台が学校内や室内ばかりで、タイの町の様子がほとんど見られなかったこと。市街地の場面などがあるともっと嬉しかった。

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映画「とうもろこしの島」「みかんの丘」「あの日の声を探して」「シビラの悪戯」「禁じられた歌声」「きっと、うまくいく」

 ジョージアやアフリカやインドの映画を数本みた。簡単な感想を書く。

 

51mycs6pl_sy90_ 「とうもろこしの島」 ゲオルギ・オヴァシュヴィリ監督 2014

 とても美しい感動的な映画。昔の新藤兼人監督の「裸の島」を思い出した。新藤の映画は夫婦(殿山泰司と音羽信子)が島で働く様子をほとんど会話のない映像でとらえていたが、「とうもろこしの島」は老人と孫娘の働く様子を、これまたほとんど会話のない映像で綴る。

 ジョージアの紛争地帯にあるエングリ川には、雨期の後に肥沃な中州ができる。ある老人が孫娘とともにそこにやってきて小屋を作り、とうもろこし畑を作る。そこに敵に追われたジョージア軍の兵士が重傷を負って逃げてくる。二人はそれを助け、孫娘は兵士に惹かれ始める。だが、敵軍に追われて兵士は去る。何事もなかったようにかつての生活が始まり、収穫が近づく。ところが、急激に大雨になったため、とうもろこしを小舟に載せて去ろうとするとき、老人は足を取られて舟に乗り込めず、川に流されていく。そして、数か月後、今度は別の老人が新たにできた中洲にやってきて、同じようにとうもろこしを作ろうとする。

 四季があり、自然の過酷な営みがあり、人間同士の争いがある。だが、そこで農民は土地を耕し生きていく。セリフのほとんどない映画であるだけに、むき出しの「生」を感じる。男と女が惹かれ合い、戦い、懸命に生きる。それだけの映画なのだが、美しい映像とともに心の奥にしみる。

 

518xpifj1sl_sy90_ 「みかんの丘」 ザザ・ウルシャゼ監督 2013

日本では「とうもろこしの島」と同時上映された。2本の予告編を見たのを覚えている。ジョージアのアブハジア自治区で独立戦争が起こっている頃、みかんを栽培するエストニア人の集落に高齢の二人のエストニア人が残っている。そこに戦いが起こり、同じ家にともに重傷を負ったキリスト教徒のジョージア人とイスラム教徒でアブハジア自治共和国を支援するチェチェンの傭兵の二人が介抱されることになる。二人の世話をする老人イヴォ(レムビット・ウルフサク)の仲立ちで敵同士の二人は心を通わせ始めるが、不寛容な兵隊たちが現れて撃ち合いが起こり、ジョージア人は殺される。

悲劇的な結末に終わるが、うまくすればそうならなかったのではないか。ちょっと唐突で安易な気がしないでもない。中立的なエストニア人のところに敵対する二人が運ばれるという設定自体、寓話として描いているにしても、あまりに図式的すぎる。そのような点で私としては素直に感動できない部分があった。とはいえ、映像は美しく、主役の老人も魅力的(ただ、役柄のわりにちょっとカッコよすぎる!)であって、なかなかの佳作ではある。

 

51nqgjxokll_sy90_ 「あの日の声を探して」 ミシェル・アザナヴィシウス監督 2015

 チェチェン紛争を舞台にしている。テロ組織壊滅という名目でロシア兵がチェチェンに進攻するが、実際には略奪、暴行、無差別殺戮が行われる。ロシア兵に両親を殺された9歳の少年ハジは小さな弟を連れて逃げ出し、手に負えなくなって弟を放置、自分も声を失って放浪する。EU職員でチェチェンに派遣されているフランス女性キャロル(ベレニス・ベジョ)に救われ、ともに暮らすようになる。最後にはハジは姉と再会して家族に戻る。そうしたストーリーと、ロシア軍に入り、理不尽が通用する軍の中で生き抜くうちに人間らしい感覚をなくし暴力的になっていく若者が並行して描かれる。

 とてもよくできた映画だと思う。一般の国民が犠牲になる戦争の悲惨をわかりやすく描いているし、声を失った少年の気持ちもよくわかる。略奪や殺戮を受け入れる人間になっていく若者のすさんだ気持ちもよく描けている。キャロルを演じるベジョも同僚女性を演じるアネット・ベニングも魅力的。ただ、これと同じような映画はこれまで何度も見てきた気がする。それ以上の映画には思えない。

 

21qh21yvcml_sy90_ 「シビラの悪戯」 ナナ・ジョルジャーゼ監督

 ジョージア出身の女性監督ナナ・ジョルジャーゼの映画。14歳の美少女シビラ(ナッサ・クヒアニチェ)が学校の夏休みに親戚のいるジョージアの田舎町にやってくる。少年はすぐにシビラに恋に落ちるが、シビラはその少年の父親に恋し、誘惑しようとする。父親のほうは村のきれいどころ何人かとすでに不倫関係にある。そのような村の人々の様子を描く。

トルナトーレ監督の「マレーナ」によく似た雰囲気。フェリーニの「アマルコルド」も思い出せてくれる。それらの影響を受けているのかもしれない。イタリア的な人間模様があり、ファンタジックな映像(海底に沈んだ船を陸にあげるフランス人の船長のエピソードなど)がある。最後、シビラが父親を誘惑しようとするが、誤解した息子に撃たれる。

 村で「エマヌエル夫人」が上映されるというので騒ぎになっていたり、何度もシビラの裸身が映し出さたり、浮気性の人妻のセックス話が出てきたりして異様なまでにエロティック。ただ、女性監督であるだけに、とても美しい。とはいえ、やはりフェリーニやトルナトーレなどの巨匠の映画ほどの躍動感も人生の機微もなく、ただ14歳の少女の魅力を見せつけるだけの映画で終わっている。確かに目を見張るような魅力的な少女ではあるが、特に美少女趣味のあるわけではない私としては、この映画にあまり惹かれなかった。

 

51mnsaiz21l_sy90_ 「禁じられた歌声」 アブデラマン・シサコ監督 

 マリ共和国の都市ティンブウクトゥを舞台に、イスラム過激派が街を支配していく恐怖を描く。原題は「ティンブクトゥ」。この映画の中心は歌を歌うのを好む男とその妻、そしてその娘。男が牛について諍いから猟師を死なしてしまい、死刑になる物語を中心にティンブウクトゥの町の人々を描く。街では歌もサッカーも禁じられ、何もかもが支配者たちの思うようになっていく。なかなかリアル。

 ただハリウッド映画ふうに政治的恐怖を強烈に描くのではなく、西アフリカの人々の自然の中で生きる人々の生活を淡々と描く。むしろ、平和で淡々とした日常の中に独善的な人々が現れて静かに支配していく様子を描いるといえるだろう。ただ、焦点がどこにあるのかわからず、多くの登場人物のキャラクターも描かれないので、特に感情移入することもなく、共感するわけでもなく、そもそも監督が何を言いたいのかもよくわからない。散漫な印象を受けた。ティンブクトゥの魅力的な景色に惹かれただけの映画だった。

 

81ldjduigbl_sy445_ 「きっと、うまくいく」 ラージクマール・ヒラニ監督 2010

 インド映画。面白さという点では最高だと思う。久しぶりにこんな愉快で痛快で笑えて感動できる映画をみた。インド映画はこれまであまり見ていないが、こんなに面白いのだったら、これから病みつきになりそう!

 エリート大学が舞台。そこに合格したが、やる気のない二人の劣等生(R.マーダヴァン、シャルマン・ジョーシー)と、ずば抜けた能力を持ちながらも競争重視の学長の方針に歯向かって二人の劣等生と行動をともにするランチョー(アーミル・カーン)。いわばこの三人(この映画の英語タイトルは「3 idiots」要するに「三バカ」)が大学に混乱を巻き起こし痛快に解決して、ともあれ最後には三人とも自分の生き方を見つけ出す物語だ。そこには、「勉強は成功のためにするものではない。学識を積めば成功はおのずとついてくる」「ひとつの方向に向かっての競争はやめて、自分らしい道を探そう」「とりあえずやってみよう。きっとうまくいく」というメッセージがとても説得力を持って語られる。

そして、なによりも映画の作りが実に見事。ミュージカル風になるところも実に自然で、本家のハリウッド製のミュージカルよりもずっと洗練されている。娯楽大傑作だと思う。

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映画「判決、ふたつの希望」 何度か涙を流した!

レバノン出身のジアド・ドゥエイリ監督の映画「判決、ふたつの希望」をみた。とても良い映画だった。深く感動した。

 舞台はベイルート。パレスチナ難民排斥を訴える党(日本の「在特会」のようなものだろうか?)の支持者でキリスト教徒のレバノン人であるトニーは、パレスチナ難民のヤーセルとちょっとしたことでいざこざを起こす。しぶしぶヤーセルが謝罪にやってくるが、トニーはパレスチナ難民を侮辱する言葉を口にして、ヤーセルにひどく殴られる。そして、それが遠因で妻が流産しそうになる。トニーはヤーセルを訴え、裁判が始まるが、トニーの差別的な言動のためにレバノン全体で大きな問題になり、キリスト教徒とイスラム教徒の衝突が起こる。だが、トニーはかつてのイスラム教徒による大量虐殺の生き残りであることがわかり、被告と原告の間に相互理解が成り立ち始める。

「ネタバレ」になるので、これ以上は書かないが、そうした状況がとてもわかりやすく、しかもリアルに描かれている。原告と被告の二人の言い分はそれなりよくわかり、それぞれに自分たちの正義を貫こうとしていることもよく理解できる。本人たちも、すぐに片付くつもりだったことが自分の手を離れてあれよあれよという間にことが大きくなっていく様子、そして、それぞれについた弁護士が当人たちの意思からはずれて法廷闘争を繰り広げ、それぞれの側についたやり手弁護士(のちに、実は対立する親と娘であることがわかる)の代理戦争のようになっていく様子も実にリアル。弁護士たちが親と娘であるのも、実はレバノンのキリスト教徒もイスラム教徒も同じような痛手を受けた「似た者同士」であることを象徴するだろう。

 いずれの人物もそれぞれ癖があり、根っからの善人ではなく、だからといってもちろん悪人であるわけでもなく、みんなが傷を抱えながら懸命に生きている。そのような様子が一人一人の人物から伝わってくる。すべての役者さんたちが素晴らしい。私は何度か涙を流した。きっと多くの人が同じような思いをしただろう。

 息をつかせないほどの迫力で最後までぐいぐいと引っ張る監督の手腕はみごと。レバノンの過酷な状況をみて、行ってみたくなった。でも、ちょっと危険かな・・・。

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映画「顔たち、ところどころ」 生き方が刻まれた顔!

 アニエス・ヴァルダとJR(33歳の若いフランスの写真家。本名を明かしていないらしい)の共作によるドキュメンタリー映画「顔たち、ところどころ」をみた。

 ゴダール、レネ、トリュフォー、ヴァルダ、そしてその当時ヴァルダの夫だったジャック・ドゥミは私が学生時代に夢中で追いかけたフランスの映画監督だった。ヴァルダの1964年の映画「幸福(しあわせ)」は、ドゥミの「シェルブールの雨傘」とともに大好きな映画だった。この映画を見るために、何度映画館に足を運んだことか。美しい色彩とモーツァルトのクラリネット五重奏曲が効果的に用いられ、心をかき乱されずにはいられなかった。そのヴァルダも88歳。若き写真家とドキュメンタリー映画を作ったという。みないわけにはいかない。

 ヴァルダも元々は写真家だった。ヴァルダとJRが出会う。JRは町の人々の写真を撮ったり、村の人の所有している昔の写真を手に入れたりして、それを巨大に引き伸ばして町の壁面全体に張りつけるパフォーマンスを行う写真家らしい。二人は車であちこちの村(この映画の原題は「VISAGES VILLAGES」(韻を踏んでいるが、意味的には「顔たち、村たち」)に出かけ、そこで生きる人の写真を建物に貼り付けていく。その様子がロードムービー風に、軽快な音楽に乗って描かれる。

いってみればそれだけの映画だ。だが、年の差54歳の道中が面白い。リスペクトしあい、時に反発し合う二人が自由に語り、楽しみ、村の人々と交流し、自分たちの芸術観をさりげなく披露する。被写体になる町の人々もその様々な価値観、様々な生き方を見せてくれる。多種多様というか、人様々というか。様々な生き方、その生き方が刻まれた顔。この映画の中には様々に生きる人への限りない愛情が注がれていて、それだけでも感動する。

そして、建物に貼り付けた写真の見事なこと。被写体のポーズ、写真の選び方、貼り付け方によるのかもしれないが、町全体が見事な芸術になる。そこで生きている人々を巻き込み、その人たちの生きる顔を描き出す芸術になる。なんでもないことに見えて、実はすごいパフォーマンスだと思った。

JRはかつてのゴダールと同じように常にサングラスをかけ、素顔を見せようとしない。かつてゴダールは友人であるヴァルダには素顔をさらしたことがあった。ヴァルダはJRにもサングラスを取るように促す。だが、JRはかたくなに拒否する。そこで、ヴァルダはJRをノルマンディに住むゴダールに紹介しようと考え、二人でゴダールの家に出かける。だが、ゴダールは約束をたがえて書置きを残して家を出ていた。ヴァルダは怒り、心を痛める。そんなヴァルダに対して、JRはサングラスを取って素顔を見せる。生き方が刻まれた顔がヴァルダにだけ明かされる。

人々の生きる姿、自分の生を肯定する姿、自由に生きる姿に何度も涙が出そうになった。

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映画「ここに幸あり」「汽車はふたたび故郷へ」「皆さま、ごきげんよう」「放浪の画家ピロスマニ」

 ジョージア出身の映画監督イオセリアーニの映画をDVDで3本みた。先日このブログに2本取り上げたので、合計5本見たことになる。簡単に感想を記す。また、「放浪の画家ピロスマニ」を久しぶりにみた。感想を記す。

 

51v34jrkdwl_sy90_ 「ここに幸あり」 オタール・イオセリアーニ監督 2007

 ジョージア出身のイオセリアーニ監督のフランス映画。大臣を罷免されたヴァンサンは、初めのうちは途方に暮れるが、やがて自由気ままに生きるようになる。それだけの話なのだが、様々な動物が登場して、何かというと友人たちで集まってタバコを吸い、酒を飲み、歌を歌い、楽器を演奏するというほのぼのした雰囲気がしみじみと素晴らしい。金や権力に執着してあくせくすることの愚かさをさりげなく描く。

 1930年代のフランス映画を思い出す。ルネ・クレールやジャン・ルノワールやジュリアン・デュヴィヴィエの描いた古き良きパリの香りがする。ジョージアで育ったことで、田舎の人間関係を今も心の奥に持っているということだろう。

 なんとヴァンサンの老いた母親を演じているのはミシェル・ピコリ! 日本映画で言えば、仲代達也がおばあさんを演じているようなものだ。そこにまったく違和感がないのも、まさに名優! 

 現代はJardins en Automne「秋の庭」。多くの動物、民族、様々な階層の人が共生すること心のふるさとを描こうとする。現実にはあり得ない社会なのだが、このように描かれると、つかの間の自由な世界が広がる思いがする。

 

51pmsr9omyl_sy90_ 「汽車はふたたび故郷へ」 2010

 これまで見てきたイオセリアーニ監督の映画と少し趣きが異なる。これは自伝的な映画らしい。ジョージアで育った少年が映画監督になるが、ソ連時代の検閲のために自由に作品を発表できない。自由を求めてフランスに亡命するが、そこでもプロデューサーの干渉によってうまくいかない。

苦悩が描かれるが、そこはイオセリアーニ監督。タバコを吸ったり酒を飲んだり楽器を演奏したりしてくつろぐ場面、様々な動物の場面がでてきて、独特の余裕、独特の生命賛歌がある。声高に語るのではなく、しみじみと家族愛、故郷愛、生命への愛が画面から漏れてくる。

 主人公は川の中で人魚の幻影を見る。最後、久しぶりに故郷に帰り、家族と川辺にピクニックに行って、人魚に誘われて川の中に入り込む。そこで映画は終わる。人間社会から一歩離れて、ある種の理想郷を描くことの決意表明だと私は思う。このような苦しい時代の後、イオセリアーニ監督は人間界から少し身を離して、人魚の世界、すなわち独特の理想郷を描くという作風で自分の道を見つけ出したのだから。

 

61pyirjbgl_sy90_ 「皆さま、ごきげんよう」 オタール・イオセリアーニ監督 2015年 

 81歳になったイオセリアーニが監督したフランス映画。これまでのイオセニアーニ監督の映画は同時代の人々の軽いタッチの群衆ドラマだったわけだが、今回はフランス革命期のパリでのギロチンで斬首される貴族の話に始まって、近代的な戦闘(おそらくソ連内、あるいは東欧での衝突)の場面が入り、そのあとで現代のフランスの話になる。つまり、歴史的にも縦断する群集劇と言えそうだ。

大勢の人物が登場し、その人たちがすれ違うだけだったり、かかわりを持ったりしながら、いくつものエピソードが語られるというイオセニアーニ監督特有の作風。そして、イオセリアーニ映画でよく見荒れる通り、タバコを吸い、酒を飲む場面が頻出する。

主役格は二人の老人。衝突したり、仲直りしたり、政府に歯向かったり、酒を飲み交わしたりして過ごす。かつて命を奪い合う出来事が起こり、今は平和になっているが、あれこれの小さな衝突がある。そのような世界を描く。時空間をつなぐ小道具としてギロチンできられた首・頭蓋骨があり、塀の中に突如として現れては消える時間を行き来する扉がある。

原題はCHANT D’HIVER、つまり「冬の歌」。人生の黄昏を迎えた二人の最後の人生の哀歓を描いているといえそうだ。ただ、残念ながら、私には全体を通すテーマがよく理解できなかった。おもしろいとも思わなかった。あれこれ盛り込みすぎて収集できなくなっているのを感じた。

 

51fqwqbcmvl_sy90_ 「放浪の画家ピロスマニ」 ゲオルギ・シェンゲラヤ監督 1969

 ジョージア(もちろん、当時はグルジアと呼ばれていた)映画の古典的傑作。40年以上前、封切時にみた。が、まるで絵画のような美しい映像の連続だったこと以外、内容についてはまったく覚えがない。アブラゼ監督のジョージア映画を3本、岩波ホールで見たのを機会に、久しぶりに見直した。封切時に見た時の感覚を思い出した。

 説明を排した寡黙な映画だ。すべての場面がそのまま絵画になるほどに美しく味わいがある。ピロスマニの絵画を模した構図。ジョージア(の自然や街並みを背景に放浪の画家ピロスマニの生涯が描かれる。まさしくピロスマニ自身の絵画による絵巻物。セリフが少なく、ほとんど説明がないがゆえに、ピロスマニの孤独な人生がそのまま伝わる。初めて見た時には、あまりに不思議な感覚に途方に暮れた記憶があるが、今見ると、その美しさに酔う。

 野原や畑を走る少年とピロスマニが重なる場面がある。ピロスマニが少年の心を大人になっても持ち続けて、ナイーブ(フランス語の本来の意味での)な絵画を描き続けたことを示す。この映画手法もまたとてもナイーブだが、この素朴な映画の中でこのように描かれると、素直に納得する。

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