映画・テレビ

2本の「濹東綺譚」映画と3本のアキン映画のDVD

 急ぎの仕事がないので映画DVDを数本みた。簡単に感想を記す。

51p2vzkrqjl_sy445__2 「濹東綺譚」 豊田四郎監督 1960

 必要があって、永井荷風を数冊読み返していた。その過程で、関心をもってこの映画を見てみた。原作とまったく異なる。原作では、私娼であるお雪(山本富士子)のもとに通うのは永井荷風自身を思わせる初老の作家だが、この映画では妻子を持って、妻(新珠三千代)に責められる中学教師(芥川比呂志)ということになっている。原作では主人公の作家が小説のストーリーを構想しているが、まさにその構想された小説の人物が映画では主人公になっている。しかも、お雪は健気な娼婦で、親戚に騙され、最後には悲惨な中で死んでしまう。そのうえ、ずっと悲しげな音楽がかかっている。

これではまったく荷風の世界ではない! それどころか、荷風が最も嫌った価値観であり、世界観だろう。いや、それ以上に、これはもっとも私の嫌いなタイプの映画だ。私は、この種のウェットで情緒的な映画が大嫌い(ついでに言うと、「熱演」と呼ばれる、泣いたり叫んだりの演技の続出する映画も大嫌いだ)。荷風の文学を、当時、映画や新派などで取り上げられていた安手の不幸な商売女の物語にしてしまっている。

 私が子どもの頃(つまり、まさしくこの映画が作られた1960年前後)、「濹東綺譚」は日本文学を代表する名作として、ふだん文学に関心を持たない人にも語られていた。この映画の作風が日本国民に永井荷風のイメージを広げたとしたら、大いに問題があると思う。

 

91vieynvnl_sy445__2 「濹東綺譚」 新藤兼人監督 1992

 同じ原作に基づくが、こちらの方がずっと原作に近い。新藤監督は好きな監督で、私はかなりの映画を見ているが、本作が公開されたころ、私はもっとも忙しい時期だったので、みる時間が取れなかった。今回、初めてみる。

これは主人公を永井荷風その人とみなし、荷風の日記「断腸亭日乗」やほかの小説作品に記されるエピソードを盛り込んで、荷風の孤独死までを描いている。また、新藤兼人によるオリジナルだと思われる、お雪の女主人(音羽信子)とその出征する息子のエピソード、主人公二人の結婚話が加えられている。

荷風を演じるのは津川雅彦。女好きで放蕩でひょうひょうとして権力を嫌い、腹を決めて自分のスタイルを貫く荷風を見事に演じている。墨田ユキ(この映画が本格デビューのため、この役名から芸名をつけたのだった)も気がよくて素直な私娼お雪を見事に演じている。原作の精神を映像化していると思う。下層の人たちのおおらかな性、それに出会って人間の心の奥にある渇望や悲しみを実感する知識人。そのような原作をうまく描いている。原作の世界観を的確に再現していて、私はとても良い映画だと思った。荷風の世界観を現代に問うことは、戦争に対抗する意識を明確にとらえるために必要なことだと考える。

それにしても、不倫を攻撃し、売春を悪とみなす現代社会からすると、何と寛容で鷹揚な社会であることか。荷風のころまでは、男が女を買いに行くのが当然のことだという前提に立っている社会だったのだと痛感する。現代社会で荷風の世界観を理解するのは徐々に難しくなっているのかもしれないと、この映画を見て考えた。

 

71j9kpkofml_sy445__2 「愛よりも強く」 2004年 ドイツ ファティ・アキン監督

少し前にこのブログで感想を書いた「そして、私たちは愛に帰る」などを監督したトルコ系ドイツ人のファティ・アキン監督の映画。酒とドラッグとタバコに溺れて自暴自棄に生きる中年男ジャイトと、束縛された家族関係から逃れようとして自殺未遂をした若い女性シベル。ジャイトは家族から逃れたいというシベルの願いを聞き入れて偽りの結婚(性的関係をあえて避ける結婚)をするが、互いの異性関係に嫉妬するようになり、ジャイトはシベルと寝た男を殺して、刑務所に入る。その事件によって二人は強い愛を意識し始めるが、ジャイトが刑務所にいる間に、シベルはトルコで自堕落な生活に陥り、その後、そこから立ち直って、別の男と家庭をもって子どもを設け、平和に暮らす。そこに、刑務所から出たジャイトがやってきて、二人は初めて性的関係を持つ。ジャイトは故郷でともに暮らそうと持ち掛けるが、シベルは約束の時間に現れない。

 前半のジャイトの荒れた生活を描く前半は退屈だった。私も30歳くらいまでかなりのロクデナシだったが、ジャイトとは別の種類のロクデナシだったので、あまり共感できなかった。が、殺人事件が起こるあたりから、二人の苦しみを自分のことのように感じられるようになった。ジャイトが一人で故郷に帰る場面はかなり感動してみた。

 川辺のモスクを背景にトルコ音楽を奏でる場面が唐突に何度か映し出される。心の故郷への思い、人生の悲しみを強く感じる。

 

514xvprlprl_sy90__2 「太陽に恋して」 2005年 ドイツ ファティ・アキン監督

 同じファティ・アキン監督の映画。アキンはチョイ役で出演している。真面目な教師がちょっとしたことからトルコ系の女性と出会い、それを太陽のお守りの効力だと感じて、恋に落ちる。その女性に会いにイスタンブールに行こうとして別の女性と行動をともにし、様々な冒険を経て、結局はともに行動した女性との恋を成就するロードムービー。これまでみたアキンの映画はどれも深刻さを抱えていたが、これはあっけらかんとして楽しい。いわば「青い鳥」の物語といってよいだろう。憧れの太陽を求めて旅をするが、結局は太陽はすぐ近くにあった!という物語。そうした枠組みの中に、ドイツの若者の心情、人間のやさしさ、トルコ移民の置かれた状況を描いていく。映像も美しい。

 

814gjhg0w9l_sy445_ 「トラブゾン狂騒曲」 2013年 ドイツ ファティ・アキン監督

 これはアキン監督のとったドキュメンタリー映画。ほかの劇映画とかなり雰囲気が異なる。

トルコのトラブゾン村にごみ集積場が建設され、杜撰な計画のために、村中に臭いが充満し、鳥や犬が集まって農業お邪魔をし、雨のために汚染された水が海に流れ出す。村長を中心に村人たちは抗議をするが、知事や建設会社はそれを受け入れずに苦しい言い訳を繰り返す。

かつて日本の各地で起こった問題だ。沖縄問題、原発問題とも似ている。それゆえ、きわめて普遍的な問題といってよいだろう。日本と比べて、工事があまりに杜撰であり、責任者の言い分があまりに幼稚であり、つまりは民主主義が定着していないトルコ社会での出来事であるために、むしろ問題の本質が浮き彫りになる。現代社会で社会を築くためには、どこかにごみを捨てなければならない。その場所は大きな犠牲を強いることになり、それは実は社会全体の問題(環境汚染、人口集中、過疎化、人心荒廃)などとつながっていく。

日本でこの種のドキュメンタリーを撮るとなると、必ず汚染の数値を示すと思うが、それが一切出てこないのが私には不思議に思える。映像を見る限り、明らかな数値の変化が示されるはずだが、それを出してこないのは何かの意図があるだろう。あえて感覚に訴えたいということなのだろうか。

おもしろかったけれど、ほかのアキンの映画のほうが好きだ。

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 映画「希望のかなた」と「プラハのモーツァルト」

 新作の映画を2本みた。感想を簡単に記す。

 

映画「希望のかなた」 アキ・カウリスマキ監督

 アキ・カウリスマキ監督のフィンランド映画。シリアのアレッポで暮らしていた青年カリードは内戦で婚約者と家族を失い、妹とともに国を逃れたが、いくつもの国で追放されてさまよううちに妹とも生き別れて、偶然乗った船でフィンランドにやってきた。難民申請をするが、受け入れられず、ここでも国内退去処分になる。警察から逃れて、偶然出会ったレストラン経営者の世話になり、そこの従業員の助けを得て不法に働くようになる。妹と再会できるが、移民排斥の国粋主義者から迫害され、ナイフで刺されてしまい、不安定な状況が続く。

 前作「ル・アーヴルの靴磨き」とよく似た筋立てで、同じく難民とそれを取り巻く人々の人情を描いている。「ル・アーヴル」のほうはフランスを舞台にして、まるで1930年代のジャン・ルノワールやジュリアン・デュヴィヴィエやルネ・クレールのフランス映画のように下町の人々を描いたのだったが、今回は、ノスタルジックな雰囲気はなく、静かにフィンランドの状況を描く。

 無口で表情のない登場人物の説明のほとんどない映像がとても魅力的だ。確かなリアリティがあり、人々の心の奥にある愛情、それにもかかわらず無理解な社会状況がしっかりとつたわってくる。そして、カウリスマキの強い憤りがじわじわと伝わる。

 それにしても、妻と別れ、一か八かの賭けをし、レストランを経営し、試行錯誤でやっていく男の描き方が実にうまい。その人間味が伝わってくる。カウリスマキらしい佳作といえるだろう。

 

「プラハのモーツァルト」 ジョン・スティーブンソン監督

 モーツァルトが主人公で、舞台がプラハというのであれば、みないわけにはいかない。退屈しないで最後までみたが、良い映画とは言えないだろう。モーツァルトの伝記について、それほど正確なことは知らないが、ほとんど史実に基づいてはいないと思うし、モーツァルトについての新しい解釈を示しているわけでもなさそう。

プラハに招かれたモーツァルト(アナイリン・バーナード)は、「フィガロの結婚」のプラハでの上演でケルビーノを演じた貴族の令嬢(モーフィッド・クラーク)と恋に落ち、作曲中の「ドン・ジョヴァンニ」のドンナ・アンナに抜擢する。ところが、オペラ劇場を支配し、権力にものを言わせて次々と女性を毒牙にかけるサロカ男爵(ジェームズ・ピュアフォイ)が令嬢に目をつける。その状況を知ったモーツァルトは、令嬢を救おうとするが、男爵は抵抗する令嬢を襲おうとして殺害してしまう。モーツァルトは、自分の愛と悲しみの体験を「ドン・ジョヴァンニ」に重ね合わせて完成させる。

 かつての「アマデウス」とは違ったモーツァルト像。若くて溌溂として元気にあふれるモーツァルト。「アマデウス」よりはこちらの方が実像に近いだろうが、ただ映画の登場人物としては魅力に欠ける。「ドン・ジョヴァンニ」がプラハで初演されたことはよく知られているが、この映画は、ただドン・ジョヴァンニ的な悪漢が実際に存在したとしたら?・・という思い付きで作っただけに思える。

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映画「一票のラブレター」「卵」「ミルク」「蜂蜜」「シーヴァス」「そして、私たちは愛に帰る」「消えた声が、その名を呼ぶ」

 このところ、ずっとイラン映画をみてきた。ネットで探すうちにトルコやレバノンなどの近隣の映画にも関心が広がった。今年の年末は、急ぎの仕事がないので、本を読んだり、音楽を聴いたり、DVDで映画をみたり。中近東の映画数本の感想を記す。

 

41a1qmzsvyl_2 「一票のラブレター」 ババク・パヤミ監督 2001

 イラン映画。選挙が行われるということで、選挙管理委員会の女性がキシュ島にやってきて、投票箱をもって島民の家を回り、投票させようとする。その女性と護衛の任にあたる兵士のロード・ムービー。意欲にあふれていた女性が島の現実を知り、島民たちの選挙への無関心を知っていく。が、最後には、女性に反発していた兵士は候補者でもないその女性の名前を投票用紙に書く。

「コミカル」「ユーモア」といううたい文句がDVDに並んでいたが、実は私は少しもユーモアを感じなかった。そもそも選管が投票箱をもって民家に押しかけていくこと自体、一つの価値観の押し付けになって、民主主義に反するのではないか。それに、島の人はこの女性のもとでしか投票できないわけだから、この女性が出歩いていたらわざわざ投票に来た人は行き違いになってしまう。このような選挙が本当に行われていたとすると、それこそ不正選挙の温床になりはしないか。そんなことを考えていたら、まったくリアリティを感じることもできなかった。民主主義に対する掘り下げもこの映画には感じない。ただ、キシュ島の自然の美しさばかりが印象に残った。

 イランの映画をかなり見て、多くをとてもおもしろいと思ったのだったが、残念ながら、この映画は私がみたイラン映画の中のワーストワンだった。

 

51a3milmqql_ac_us160__2 「卵」「ミルク」「蜂蜜」(ユスフ三部作) セミフ・カプランオール監督 

 トルコの映画監督セミフ・カプランオールの三部作。全部で300分を超す。イスタンブールで暮らす詩人(しかし、今でもほとんど詩作はできず、古本屋の主人として生きている)ユスフが、母の死をきっかけに故郷に戻って、自分の過去をめぐる。「卵」は、晩年の母の世話をしてくれた若い女性と、母の遺言に従って羊の生贄を捧げに行く様子を中心に描く。「ミルク」は、過去に戻って(とはいえ、映画の舞台そのものは現代のままのようだ)若きユスフを描く。癲癇(てんかん)という病を持ちながら、母の仕事を手伝って牛乳販売を行い、そのかたわら詩を書き、自立していく様子が語られる。「蜂蜜」は、ユスフの幼少期を描く。小学校12年生だろう。山の中で蜂蜜農家に育っているが、てんかんを患う父が事故で亡くなるまでを描く。一般の連作映画と異なって、徐々に過去に戻っていくという構成になっている。

 どの作品も説明がほとんどなされず、自然に囲まれた風景をじっくりと描いていく。劇音楽は流されない。画面そのものが詩情にあふれている。すべての映像がまさしく一幅の絵画を成している。もちろん、私はこのようなタイプの映画は嫌いではない。最後まで特に退屈することなく見た。とりわけ、「蜂蜜」はなかなかの名作だと思う。

だが、実をいうと、私はこの三部作にあまり惹かれなかった。このような映画を作りたいという気持ちは私にもよくわかるが、どうということなく終わってしまった印象。「蜂蜜」だけは父の事故死という大きなドラマがあるが、それ以外には大きな出来事はなく、淡々と日常が描かれるが、それだとドラマとして物足りなく思ってしまう。

 

51owiisxzzl_ac_us160__2 「シーヴァス」 カアン・ミュジデジ監督 2014年トルコ

 学校の学芸会で主役になれずに落ち込んでいる少年アスランは、闘犬で敗北して死にかけた犬をシーヴァスと名付けて自分の犬として育てる。ついにはシーヴァスは強さを取り戻し、闘犬大会でチャンピオンになるが、その痛々しい姿にアスランはもう戦わせたくないと思う。しかし、周囲の大人たちはそれを許そうとしない。

そうした物語を、ドキュメンタリータッチの揺れ動くカメラワークを用いて生き生きと描く。意固地で我が強いが、やさしい心を持つアスラン役の少年ドアン・イズジの演技が素晴らしい。闘犬の場面のリアリティもすさまじい。そして、なによりもトルコの山間部の荒っぽくてかわいい子どもたちの様子を生き生きと描く。少年と犬の交流というありがちな物語なのだが、映像のおかげで実に新鮮に思える。いい映画だと思う。

 

51xl0fx0oql_ac_us160__2 「そして、私たちは愛に帰る」 ファティ・アキン監督 2007

 トルコ系ドイツ人であるファティ・アキン監督の映画を初めてみたが、これは素晴らしい。感動した。正真正銘の名作だと思う。

 妻を亡くして、長い間一人で暮らした男が高齢になって贔屓の売春婦と同棲しようとする。が、大学教授である息子がその女性と関係を持ってしまう。それに怒って殴った途端、女性は死んでしまい、男は刑務所入り。息子は死んだ売春婦の行方不明の娘を探して、教育費を援助しようとする。一方、その行方不明の娘のほうは、トルコで政治活動に加わり、ドイツに逃げて母親を探そうとする。探しあっており、それぞれ顔を合わせたり、すれ違ったりしているのに、最後まで互いに気付かない。

この映画の最大のテーマは「死」だろう。二人の主要人物があっけなく死んでしまう。その「死」をめぐって残された人々が苦しみ、嘆き、その意味を探求しようとする。そうしながら、すべてがすれ違いに終わってしまう。まるで、「死」に操られているように。そうした関係をドイツとトルコの状況の中に描く。なるほど、人生というのはこのようなものかもしれないとつくづく思う。

 

51xdlrdyuul_ac_us160_ 「消えた声が、その名を呼ぶ」 ファティ・アキン監督 2014

「そして、私たちは愛に帰る」と同じアキン監督。オスマン・トルコ帝国によるアルメニア人虐殺を扱っている。トルコ在住のアルメニア人はキリスト教徒であるためにしばしば虐殺にあってきた。とりわけ、第一次世界大戦ではアルメニア本国が連合国側、オスマン帝国が同盟国側で戦ったために、苛烈な虐殺が行われた。そのような状況を舞台にしている。

虐殺の中、喉を切られて声を失ったものの九死を得たナザレット(タハール・ラヒム)が、生き残った娘を探して世界を探し、8年かけてついにアメリカで娘の一人と再会する。「そして、私たちは愛に帰る」に比べると、作りは単純だが、ナザレット(もちろんイエス・キリストが過ごした土地ナザレによる命名だろう。ラヒムはイエスを彷彿とさせる)の苦悶、愛情、神への疑いを実にリアルに描いているので、説得力がある。楽に死ぬことを求める瀕死の義妹を抱き続け、最後に首を絞める場面は壮絶。ファティ・アキンは1973年生まれだという。この映画を作った時、まだ30代。恐るべき才能!

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イラン映画「風の吹くまま」「サイクリスト」「ギャベ」「キッシュ島の物語」「少年と砂漠のカフェ」

イラン映画のDVDを数本みた。感想を記す。

215vc6nappl_3 「風が吹くまま」アッバス・キアロスタミ監督 1999年

 イランの片田舎(クルド人地区のようだ)に、高齢女性が死んで珍しい葬儀が行われるのを期待して取材に来たテレビディレクターが主人公。女性の死を待つが、元気を回復してしまう。砂漠地帯での死と生。人の死を待ち、赤ん坊が生まれ、土の中から人骨が掘り返され、人が九死に一生を得る。高台で井戸を掘る青年やテレビ取材のスタッフが重要な役を成すはずだが、声が聞こえ、遠くからの映像が示されるだけで、その姿かたちは鮮明ではない。ディレクター1人に絞って、その行動を追って、人の生と死を描く。映像も素晴らしいし、とてもおもしろい。ただ、実をいうと、私はキアロスタミ監督の映画にはあまり共感しない。今回も同じような感想を持った。

 

A1m9czeescl_sy500_ 「サイクリスト」 モフセン・マフマルバフ監督 1989年

 アフガンから出稼ぎにきた男がイランで重病になった妻の治療費を捻出するため、1週間、休みなく自転車をこぎ続けるという賭けに参加する。雨が降ったり、妨害が行われたり、アクシデントがあったり、ちょっとしたズルをしたりしながらも、ともあれ妻を想って必死に成功させる。それだけの話なのだが、単純な枠組みの中に、イランの状況、アフガン人の置かれた状況、人間の生きる苦しみ、喜びを織り交ぜた見事な語り口のために、ぐいぐいと引き付けられてみてしまう。ストーリーを前もって読んで予想したハリウッド映画風の感動物語ではなく、もっと社会派。とてもおもしろかった。

 

316evl9abl 「ギャベ」モフセン・マフマルバフ監督 1996年

 ギャベ(絨毯)を擬人化してギャベという名前の若い女性を登場させ、自然の風物を織りなしていく絨毯の美しさを、じゅうたんに描かれるイランの自然とそこに生きる人々の原風景を描いた作品とでもいうのだろうか。「世界は色から成っている」という劇中に何度か語られるとおりの美しい色彩。絨毯は自然の花を用いて染められ、美しい水で色を定着される。そして、自然の中で生きる人々の暮らしを絵柄として描く。そこには男女の恋があり、誕生があり、悲しい死がある。それが一つのおとぎ話であるかのように美しく語られる。素晴らしい映画。まさしく一編の叙景詩。モフセン・マフマルバフの傑作の一つだと思う。

 

81tnnb30cl_sy500_ 「キッシュ島の物語」 1999年 イラン

 ナセール・タグヴァイ監督による「ギリシャ船」、アボルファズル・ジャリリ監督の「指環」、マフセン・マフマルバフ監督の「ドア」の三篇から成るオムニバス映画。キッシュ島の観光映画として依頼されてできた映画ということだが、驚くべき世界を描く特異な映画になっている。「ギリシャ船」は、キッシュ島に流れ着く段ボール箱を集めて家を飾る男と、それを嫌う妻の物語。つきものに着いたかのようになる妻の厄払いをする儀式が衝撃的に興味深いが、損場面が長すぎて少々退屈した。「指環」は妹の結婚相手への指環を送ろうとキッシュ島で必死に働く若者の姿を描く。「ドア」は、すべてを売り払い、最後に残った家のドアまでも売り払おうとして書いてに運ぶ老人と、その娘、唯一の財産らしい山羊を描く。映画全体が何を象徴しているのか実はよくわからないが、映像があまりに美しい。青い空、砂漠、海、踊る人々。いや、この「ドア」に限らず、3篇すべての映像があまりに美しい。描かれる世界は観光向けではないが、風景、人々の生きる姿はキッシュ島の魅力を存分に伝えている。いずれも映像詩として傑作だと思う。

 

51hfa9xqgdl 「少年と砂漠のカフェ」 アボルファズル・ジャリリ監督 2001年

 イラン国内のアフガニスタンとの国境付近。砂漠地帯にカフェがある。カフェといっても、石造りの小屋といった方が近い。宿泊施設もあるらしい。車で移動する人々がそこで飲み物を取り、食事をとり、時に宿泊する。アフガニスタンの戦争孤児で不法に入国している少年キャインはそのカフェで下働きをして何とか生き延びている。

学校では「美しい自然の国イラン」と教えているが、キャインの住む世界は過酷で、死と隣り合わせで、すべてが汚れており、薄汚く、不潔。もちろん、キャインは学校にも行けない。キャインの仕事の多くが動かなくなったエンジン、壊れた車の修理の手伝い。そのような状況を克明に描く。不法入国者を取り締まる刑事などが登場し、それなりのドラマはあるが、むしろ重点はキャインの過酷な生活の状況を描くことに置かれている。その意味では見事な作品だと思うが、ドラマとしては少々退屈だった。

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映画「わたしは、幸福(フェリシテ)」 人間の生命の俗と聖

 映画「わたしは、幸福(フェリシテ)」をみた。アフリカ系のフランス人であるアラ・ゴミスがコンゴのキンシャサを舞台に作った映画だ。

私は一時期アフリカ文学に傾倒し、しかも大好きだったソニー・ラブ・タンシという作家がコンゴ出身だったので、25年ほど前、2か月間ほどのアフリカ旅行を計画したことがある。その主たる目的地がコンゴ、とりわけキンシャサだった。が、コンゴの政情が悪化、そのうえ、コンゴだけでなく、そのほかの地域でも危険になったので中止した。アフリカ文学好きだった私としてはこの映画をみないわけにはいかない。

 幼児のころ、一度死んで棺に入れられたのに生き返ったために幸福(フェリシテ)と改名されたコンゴの女性の生き方を描く。簡単にまとめてしまうと、強く生きると称して酒場で歌を歌いながら突っ張って生きていたが、不良になった息子がバイク事故を起こして片足切断するうち、人の助けの大事さを知り、世話を焼いてくれる男性タブーと愛を交わし合うようになる・・・とまとめられるだろう。

が、まずキンシャサの状況に驚いた。25年前に行かなくてよかったとつくづく思った。現在でもこうだったら、25年前はもっと凄まじかっただろう。現代社会の体をなしていない。いたるところにごみが散乱し、治安も悪く、薄汚れた建物があり、病院もきちんと機能しているようには見えない。治療費がないと重症でも放置される状況らしい。そのようなコンゴ社会を実にリアルに描いている。

 決してわかりやすいリアリズムの映画ではない。よくあるタイプのアフリカの貧困を訴える映画でもない。まるで地獄のような社会で、他者に救いを求めることなく一人で生きていけると考えていた人間が、子どもの入院のために、なりふり構わず戦いを挑み、それに敗れ、それまでの生き方を変えざるを得なくなり、絶望し、自殺を考え、ついには、他者の救いを求め、神の救いを求める。そして、柔和になって、苦しむ人同士で肩を寄せ合って生きていくことを選ぶ。そのように生きていくのが人間社会のあり方なのだというメッセージが込められている。私はそう思った。

 二つの音楽が映画の中で大きな意味を持つ。一つは、フェリシテが歌うバーで演奏されるエネルギッシュで猥雑な雰囲気のアフリカ音楽(カサイ・オールスターズという有名なグループによるらしい)。もう一つはストーリーとは何も関係なしに場面が挿入されるオーケストラと合唱によるミサっぽい曲(アルヴォ・ペルト作曲らしい!)。キンシャサのアマチュア・オーケストラが演奏する(正直言って、かなり下手なオケ)。下層の人々が酔っ払って聴く音楽と、内省的で宗教的なオーケストラの音楽。それが重なり合うかのように響く。最も俗なるものの中に、人間の生命という聖なるものがある・・・そのように私は感じた。

 とても良い映画だった。文明人のある種の憧れをアフリカを舞台にして描いたようなアフリカ映画ではなく、真実のアフリカを描いた映画だった。もっとこんな映画をみたい。

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ジャームッシュの映画「デッドマン」「ゴースト・ドッグ」「コーヒー&シガレッツ」「ブロークン・フラワーズ」

 小さな仕事は次々と押し寄せるが、大きな原稿はほぼ書き終わったので、あと2か月ほどは少し余裕がある。小さな仕事をしながら、時々映画DVDをみたり、本を読んだりしている。

 先日に引き続いて、ジム・ジャームッシュの映画を何本か見た。短い感想を書く。

 

51rvpwxlt0l__ac_us160_ 「デッドマン」 1995

 ジョニー・デップ主演、ロバート・ミッチャムも出演するモノクロの西部劇。デップが演じるのはウィリアム・ブレイクという名の都会派の会計士。クリーヴランドから仕事を求めて西部の町にやってくるが、仕事にありつけず、しかも女性がらみで男に殺されそうになって、逆に男を殺してしまう。森に逃げ込んでノーボディという名のインディアンに助けられ、追っ手と戦ううちにお尋ね者の銃使いになっていく。最後、瀕死の重傷を負い、ノーボディの計らいで海と空が一つになる場所へとボートで向かう。

 ノーバディはインディアンでありながら西洋社会育ちという設定で、ウィリアム・ブレイクの詩を愛しており、同じ名前の会計士の中に詩人を見る。会計士=お尋ね者と詩人が重なり合っていく。モノクロの森の風景があまりに美しい。まさしく心証世界を描く詩的世界。

 ただ残念ながら、英米詩に強くない私としては、ブレイクの詩について無知なので、この映画の中のブレイクへの仄めかしについてはほとんど理解できない。素晴らしい映画だと思うが、私の理解力が届かない思いが残る。

 

5175lcwe9l__ac_us160_ 「ゴースト・ドッグ」 1999

「葉隠」に影響された黒人の殺し屋(フォレスト・ウィテカー)。マフィアに助けられたために、その手下として働いていたが、ちょっとした行き違いから、マフィアに狙われることになり、結局、敵を皆殺しにするが、かつての恩人に対しては自ら撃たれることを選ぶ。動物を愛し、伝書鳩を通信手段に使い、フランス語しか話さないアイスクリーム売りとコミュニケーションをとる。アクション映画の外観を装いながら、人間の孤独をさりげなく描く。

芥川の「羅生門」の英訳が示されたり、「藪の中」について語られたりして、ジャームッシュの日本への関心がよくわかる。それを体現しようとするのが、かなり肥満気味の黒人の大男という設定もおもしろい。禁欲的になりすぎず、日常的な味わいが出ている。日常の中の孤独がひしひしと伝わってくる。素晴らしい映画だと思った。 

 

51gydmqhrsl__ac_us160_ 「コーヒー&シガレッツ」 2003

 コーヒーを飲み、タバコをふかしながらも二人、または三人の会話から成る11の短いエピソードから成る。日常のちょっとした行き違い、ディスコミュニケーションというべきものを描いて見せる。アンジャッシュや東京03のコントを思わせる。ただ、もっとさりげなく、もっと静か。とてもセンスがいいし、会話が面白いし、人間の機微を描いている。

ただ私としては、この映画にはそれほどの魅力を感じなかった。なかなかの佳作、ということで済んでしまう。短くてさりげなくて、ちょっと面白いエピソードということなのだと思うが、やはりこれだと私の好みからは短すぎて、一つ一つのエピソードを深く理解できない。

 とはいえ、ちょっとしたしぐさやセリフで登場人物の心をわからせ、日常の中のちょっとした行き違いを描く手腕に驚いてしまう。

 出演しているのは超大物たちらしいが、アメリカ映画、アメリカ音楽に詳しくない私は、知っているのはほんの数人しかいない。この人たちになじんでいたら、もっと感動できたのかもしれない。

 

41sqbqnkmfl__ac_us160_ 「ブロークン・フラワーズ」 2005

かつてドン・ファンとして鳴らした男(ビル・マーレイ)のもとに、匿名のピンク色の手紙が届く。「あなたと別れてから、あなたの息子を産んだ。19歳になる息子があなたを訪ねようとしている」と書かれている。男は覚えのある女性(シャロン・ストーン、フランセス・コンロイ、ジェシカ・ラング、ティルダ・スウィントン)を次々と訪ねて、手紙の主を確かめようとするうち、それぞれの人生を垣間見る。

昔のジュリアン・デュヴィヴィエ監督のフランス映画「舞踏会の手帖」を思い出す構成だが、雰囲気はまったく異なる。ビル・マーレイのとぼけた味のために、ウェットなところがなくなり、コメディになる。しかも、それぞれの再会、それぞれの女性の現在の生活がかなり突飛。結局、わけもわからず暴力を受けただけで、結局、手紙の主はわからない。ついには、男の家に近づく若者もみんなが息子に見えてしまう…。

何も解決しないまま終わるが、見終わると、「確かに、人生ってこんなもんだよなあ」「自分も日常生活をこんな気持ちで過ごしているよなあ」という気持ちになる。

 それにしても、ビル・マーレイを主役にし、このような設定にしているからこそ成り立つ物語だと思う。ちょっと設定を変えたら、まったく不自然で荒唐無稽でリアリティのない話になってしまう。微妙な線を狙って成功させている手腕にも驚く。

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映画「三度目の殺人」 三度目の正直としての嘘

「三度目の殺人」(是枝裕和監督)を見た。評判にたがわず、とてもおもしろかった。

強盗殺人の被告(役所広司)と弁護を引き受けた敏腕弁護士(福山雅治)を中心にした法廷劇。被告の証言は二転三転し、初めは犯行を認めていたのに、途中から否認し始める。そこには、殺された男の娘(広瀬すず)が関係していたらしい・・・。ストーリーについてこれ以上書くと「ネタバレ」になるので、くわしくは書かない。いずれにしても、見ているうちに、何が真実なのか、真実があるのかどうか、わからなくなっていく。まるで、ピランデッロの戯曲のよう。ピランデッロ好きの私は、こんな映画が大好き。

被告は「器」のような人間で、相手の考えに合わせて自分を変えていく。二転三転する証言も、相手に合わせて、答えてほしいことを語っているようだ。最後のほうで明らかになる「真相」らしいことも、もしかしたら敏腕弁護士が想像したことを語っているだけかもしれない。被告と弁護士のふたりの映像が重なり合うが、まさにそのことを意味しているだろう。

殺された男の娘が語るように、裁判所というところはだれも真実を語らないところだ。検事、弁護士、裁判官が、それぞれが自分の役割と自分の都合にしたがって、真実とは異なることを求め、語る。真実の究明ではなく、真実を求めるふりをしての、ある種の「ごっこ」が行われる。そして、真実を知らないのだから裁く権利など誰にもないのに、被告を裁く行為がなされる。

しかし、それは裁判所だけのことなのか。現実社会全体も同じような仕組みになっている。多くのことが、真実によって動くのではなく、真実らしいことを手玉に取っているだけのことだ。真実は、映画の中で語られる象(目の不自由な人は、象の鼻を触った人としっぽを触った人とによってまったく異なる姿を思い描く)のように、見る人によって異なる。しかも人は自分の都合の良いようにうそをつく。何が真実なのかわかりようがない。次第に、真実らしいことを手玉に取るだけになり、しかも、それによって他者を判断し、時に断罪する。

映画を見ながら、そのようなことを考えた。

ところで、タイトルの「三度目の殺人」にどのような意味があるのだろう。映画を見る前には、被告は三度、殺人事件を起こすのだろうと思っていた。が、見終えて思いかえすに、二度しか事件を起こしていない。そうすると、「二度目の殺人」のはずではないか。

で、ふと思いついた。これは「三度目の正直」という言葉とかけているのではないか。被告は、最初は「強盗殺人の単独犯」を自白する。二度目は「依頼殺人」を語る。そして、三度目、被告は「三度目の正直」として、どうやら真相と思われてきた事実を否定し、自分の殺人を否認する。しかも、どうやらこれは嘘らしい。まさしく、「三度目の正直としての嘘」ということになる。だから、このタイトルがついているのではないか。もちろん、これは私のちょっとした思い付きでしかないが。

シナリオも無駄がなく、ストーリーを追いかけるだけでなく、複雑なテーマを織りなしていく。映画の中には、タイトルのほかにも、考えたくなるテーマ(カナリアは何を意味する? 十字架は何を意味する?)がある。もう少し考えると、それらの謎についても自分なりに答えが出そう。そのような解釈を深めていきたくなる映画だ。

役者たちがみんなとても素晴らしい。役所もいいし、福山もいい。橋爪功はもちろん、吉田鋼太郎、満島真之介、市川実日子、斉藤由貴(もし、この人が不倫問題で芸能界から離れるとなると、とても残念だ)もみごと。映画の力を堪能した。

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映画「沈黙」「1911」「イラクの煙」「バビロンの陽光」

 9月の最終週から非常勤講師としての大学の授業が始まるが、それまでは夏休み。コンサートに行く以外は、自宅で原稿を書いている。そして、疲れたら休憩して、DVDで映画やオペラを見る。何本か映画DVDをみたので感想を書く。

 

「沈黙」 篠田正浩監督 1971

 先日、スコセッシ監督の「沈黙」をDVDでみた。久しぶりに、封切当時にみて大いに感動した篠田正浩監督の「沈黙」をみたくなって、DVDを入手した。

篠田監督は私の大好きな映画監督だった。「心中天網島」「はなれ瞽女おりん」「瀬戸内少年野球団」「少年時代」は日本映画史に残る名作だと思う。

 あらためてみて「沈黙」も素晴らしいと思った。私はスコセッシ監督作よりもこちらのほうが好きだ。神の沈黙と人間の性(さが)の相克をこちらのほうが強く抉り出していると思う。そして、マコ石松の演じる下品で一癖もふた癖もありそうなキチジローの描き方がみごと。奉行役の知的な岡田英二もいい。岩下志麻の存在も大きい。あまりに美しく、あまりに無残。最後の場面は衝撃的だ。それに、スコセッシ監督の映像と異なって、背景がしっかりと日本の江戸時代になっている。

 フェレイラを演じるのが丹波哲郎。今回みて、封切時に違和感を覚えたのを思いだした。封切時ほどではなかったが、今回みても、やはり少々無理があると思った。丹波哲郎は好きな役者だし、「第七の暁」という映画(私は中学生のころにこの映画を見て、いっぺんに丹波ファンになったのだった!)や「007は二度死ぬ」で見事な英語を耳にした。しかも、確かに日本人離れした容貌ではある(「第七の暁」では、確かベトナム人青年を演じていた)。当時の日本の低予算映画では、これほどの演技のできる外国人俳優に出演させることは資金的に難しかったのだろう。

 

「1911」 チャン・リー監督 ジャッキー・チェン総監督

 辛亥革命を描く「アクション・スペクタクル巨編」。昨年、広州に行った際、孫文を記念する博物館に行ったが、辛亥革命について知識がないことに思い当たってネットをみているうちにこの映画DVDを見つけた。広州から帰ってすぐに購入したのだったが、ようやく見た。孫文の片腕となって戦闘を率いた黄興(ジャッキー・チェン)の活動を描く。

 とはいえ、歴史と人物をくっきりと描けているとは言い難い気がする。特に孫文にも黄興にも感情移入することなく、ただ歴史の表面を知っただけで終わってしまった。

 

「イラクの煙」 アウレリアーノ・アマディ監督 2010

 2003年、イラク戦争の現場でイタリア軍が攻撃され、多数の死傷者が出る事件があったという。ノンフィクション映画撮影のために訪れていたイタリアの監督や助手も巻き込まれた。奇跡的に生き延びた映画助手アウレリアーノ・アマディが後日、実際の自分の体験を映画化したのがこの作品だ。愛煙家であるアマディがイランで20本しかタバコを吸わないうちに被害に遭ったことから、原題は「20本のタバコ」となっている。

 実体験に基づいているだけあって、被害に遭った後の場面は驚異的なリアリティだ。突然爆撃された人間はきっとこのような意識を持ち、このように感じるだろうと納得する。とぎれとぎれの映像に迫力がある。ただ、私はどうもこの主人公に感情移入できないし、イラクの状況、世界の状況をえぐっているとは思えない。いくつもの映画祭で高い評価を得たとのことだったが、私はあまり面白いとは思わなかった。

 

「バビロンの陽光」 モハメド・アアルダラジー監督 2010

 イラク人監督による映画。サダム・フセイン政権崩壊の3週間後、クルド人の老女が孫とともに行方不明になった息子(つまり、孫の父親)を探しまわるロードムービー。トラック運転手、タバコ売りの少年、クルドの村の破壊に加わった元兵士たちと出会いながら息子を探すが、刑務所にも墓場にも結局見つからない。最後、トラックの中で老婆は死に、孫が一人残される。

 フセイン政権崩壊後のイラクの状況はこの通りだったのだろう。町は崩壊し、フセイン政権によって殺害された人々の遺体が掘り起こされている。人々は刑務所や墓場に息子や夫を探しまどう。孫と男の子を中心に据えて、このようなイランの状況を描いている。当時のイランの人たちの苦しさが伝わってくる。

 子どもが中心の一人であることから、お涙頂戴の映画なのかと思っていたが、そうではなく、かなり客観的に子供たちの置かれた状況を描いている。ただ、これまで見てきた戦後映画と大差ないような気もしないではない。

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ジャームッシュの映画「パーマネント・バケーション」「ストレンジャー・ザン・パラダイス」「ダウン・バイ・ロー」「ミステリー・トレイン」「ナイト・オン・プラネット」

 原稿の締め切りの谷間にあたる。来週からまた気合を入れて原稿を書かなければならないが、今は少しゆっくりしたい。そんなわけで、数日前から、仕事の合間合間にDVDで映画を見ていた。邪道かもしれないが、20分か30分映画を見て、仕事にかかり、仕事に疲れたら、続きを見る・・・というふうにしている。

先日、「パターソン」を映画館で見て、ジム・ジャームッシュに強く惹かれたので、初期の5本を見てみた。簡単な感想を書く。

 

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「パーマネント・バケーション」 
1980

 大学院での卒業制作映画とのこと。ゴダールの影響を強く感じる。主人公二人がアパルトマンで話すところなど、「勝手にしやがれ」のベルモンドとジーン・セバーグを思い出す。「マルドロールの歌」が読まれたり、サックス吹きのエピソードが唐突に現れたり。ベトナム戦争の傷跡というテーマまでもがゴダール風。しかし、風景も感性もアメリカらしい。「永遠の休暇(バケーション=空っぽ)」を強く感じさせる。

 

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「ストレンジャー・ザン・パラダイス」 
1984

 モノクロ映画だが、今見ても実に斬新。ニューヨークに住むハンガリー出身の青年ウィリー。狭いアパートにハンガリーから来たばかりの従妹エヴァを10日間預かることになる。初めはぎくしゃくするが、じょじょに親しむようになる。10日が過ぎてエヴァは去った後、ウィリーはぽっかりと心に空虚を感じるようになる。1年後、いかさまポーカーで儲けた金をもって友人エディーとエヴァの住むクリーブランドを訪ねるが、寒さに耐えかねて三人でフロリダをめざす。が、二人の男はドッグレース金をすってしまい、エヴァはふとしたことで犯罪がらみのお金を手に入れて、ブダペストへの飛行機に乗ろうとするが、結局、三人がバラバラになってすれ違いになりそうなところで終わる。

 ストレンジャー、すなわち「よそ者」、フランス語で言えばエトランジェ(異邦人とも訳せる)。心の空虚、心のすれ違い。場面が終わるごとに画面全体が暗くなって暗転。音楽で言えば、ブルックナー終止のような雰囲気。ぶつ切れの唐突さを感じる。そこがまたいい。

 

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「ダウン・バイ・ロー」 
1986

 もとDJザック(トム・ウェイツ)とチンピラのジャック(ジョン・ルーリー)、イタリア男ボブ(ロベルト・ベニーニ)の三人が、ひょんなことから罪を犯し、同じ刑務所に入り、脱獄に成功する話。軽妙でユーモアにあふれているが、人生の寂しさ、生きる悲しさ、孤独を映像や役者たちの仕草、カメラワークにひしひしと感じる。モノクロの映像はとても美しい。フェリーニの初期の映画を思い出す。が、もっと静謐で静かなユーモアがある。内向的で洗練された独特の世界。大傑作だと思う。

 ベニーニがいい味を出している。ザックとジャックというよく似た二人の対称性を際立たせ、道化の役割を果たして、物語を推進している。

 

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「ミステリー・トレイン」 
1989

 テネシー州メンフィスでの出来事。エリヴィス・プレスリーのゆかりの街であるメンフィスを列車で訪れた日本人カップル(永瀬正敏と工藤夕貴)と、夫を亡くしたばかりのイタリア人女性、メンフィスに住む男達のグループの三つのエピソードから成るオムニバス映画。それぞれがエルヴィス・プレスリーとかかわりを持ち、それぞれすれ違いながら同じ晩に同じホテルに泊まる。

三つのエピソードの重なり具体が実におもしろい。そこに人生の絡みを感じ、やるせない人生を感じ、人間の孤独を感じる。しかし、それが少しも重くならず、深刻にもならない。当たり前のことのように孤独があり空虚がある。考えてみれば、それこそが人生なのだろう。これもまた傑作だと思った。

 

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「ナイト・オン・ザ・プラネット(原題 ナイト・オン・アース)」 
1991年 

 ロサンゼルス、ニューヨーク、パリ、ローマ、ヘルシンキのそれぞれ同じ時間にそれぞれの地域のタクシー運転手の体験を描いている。5つのエピソードによるオムニバス映画。

いずれも皮肉な視点から人生の機微を描いている。映画スターへのスカウトを断るロサンゼルスの女性運転手のエピソードとサーカスの道化をしていたドイツ人のニューヨークの新米運転手のエピソード、そして、ヘルシンキの不幸な運転手のエピソードが私はとてもおもしろかった。

 ヘルシンキのエピソードが特徴的だが、子どもの死という不幸な話でも、ジャームッシュは登場人物に密着しすぎない。クールに人間を描く。だからこそ、いっそう登場人物の心の中の空虚がリアルに感じられる。淡々とドライに抒情を描くとでもいうか。

 有名俳優が次々と出演する。とはいえ、封切り当時はそれほど有名ではなかったのかもしれない。ハリウッド映画と異なって、等身大の人物を俳優たちは演じている。そのような演出に圧倒される。

 

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映画「エル Elle」と「ダンケルク」

 2本の新作映画をみたので、感想を書く。

 

「エル Elle」 ポール・バーホーベン監督

 最後まで面白く見たが、実をいうとしっくりいかなかった。もうひとひねりあるのかと思っていた。私の主観的な印象から言えば、中途半端で終わった気がした。結局何が言いたかったんだろうと思った。

 ゲーム会社を経営しているかなり年配のきれいな女性ミシェル(イザベル・ユペール)が覆面をした男にレイプされる。女性はかつて大量殺人をした男性の娘なので警察不信であるため、警察に届けずに自分で犯人探しをする。そうする間に、会社内部や近隣住民の人間関係が浮き彫りになってくる。「ネタバレ」を避けて語るとこういうことになるだろう。

 登場人物の全員がフィクションとしての愛を生きている。金だけでつながっていたり、誤解でつながっていたり、思い込みでつながっていたり。そこに宗教が大きな意味を持つ。ミシェルの父親が大量殺人を犯したのも宗教的な思い込みが原因だったらしい(ただ、映画を一度見ただけでは、そのあたりのことはよくわからなかった)し、レイプ犯が暴力的な形でしか愛をかわせなくなっているのも宗教に原因がありそうなことがほのめかされる(レイプ犯は割礼されているらしいが、レイプ犯の妻は間違いなくその宗教ではない)。

ミシェルがレイプされたのをきっかけに嘘をつくのをやめて本音で生きようとしたことによってあれこれの真実があぶりだされる。そのような状況を監督は描きたかったのだろうか。

 離婚をし、次々と愛人を変え、元夫婦が二人の間の子どもとかかわるときに顔を合わせてそれなりに付き合っていく。自分の子どもと思っているのが別の男との間の子供であることも珍しくない。友人のパートナーとも性的な関係を結ぶ・・・。映画の中で描かれるそのような状況は、必ずしも非現実的なことではなく、フランスでは日常的なことなのかもしれない。この映画は、そうした社会での愛のあり方をえぐり、愛が脆弱なフィクションから成っていることをあからさまにしている。

 

「ダンケルク」 クリストファー・ノーラン監督

 第二次大戦初期、ドイツ軍の攻撃によってフランスとイギリスの軍隊はダンケルクの海岸に追い詰められてイギリスへ逃走するしかなくなる。ところが、軍に使える船では40万人の兵士のうち3~4万人ほどしか運べない。その時、イギリスの漁民が危険を顧みずに立ち上がり、自分たちの漁船を使って兵士を運んで、多くの兵士を救出する。有名な実話だ。

ダンケルクを題材にした映画を以前見たことがある。今回もそんなものかと思ってみにいったらこれは素晴らしい映画だった。

 映画が始まってすぐ、「陸1週間  海1日  空1時間」というクレジットが出る。初めは何のことかわからないがフランスでドイツ軍に攻撃されて逃げ惑う陸軍の兵士たちを扱う「陸」のエピソードと、漁船を出してイギリス・フランスの兵士を助けようとする海の男たちを扱う「海」のエピソード、そして、空軍の3人のパイロットを扱う「空」のエピソードが交互に描かれていることがわかってくる。この映画は一つの時間軸で描かれているのではなく、「陸・海・空」がそれぞれ別の時間軸で描かれている。「陸」編はドイツ軍に追われて敗走し、イギリス本土に逃げようとした船を待ちながらも爆撃を受ける絶望的な1週間の陸軍の動きを追いかける。「海」編は、英仏軍の窮地を知って船を出す漁民の一日を追う。「空」編はダンケルクに軍を助けに行く空軍の1時間を追う。

クライマックスの部分で三つのエピソードが重なり合う。そこで高揚を味わうように作られている。以前に起こっていたことが、別の視点から描かれることも何度かある。こんな時間軸の映画をこれまで見たことがなかった! 感服!

 登場人物の描き方にも恐れ入った。「陸」編では、逃げることに必死の若い兵士、「海」編は英雄的に立ち上がる民間人、「空」編は英雄的な軍人が中心的に描かれる。しかし、いずれもが突出した人間ではなく、その場にいた全員が同じように行動しただろうことを納得させられる。それぞれの編で一人の人物に焦点を当て、一人一人の心の中まで描かれるが、その場にいた多くの人がおそらく同じようない気持ちを抱いていただろう。

 すべての場面で必死感が伝わり、観客もまたいつ爆撃されるかわからないという危機感を共有し、しかも端役に至るまでの人物の行動(とりわけ、海編)に説得力がある。

 ドイツ軍の姿が一切描かれないのも見事。彼方から爆撃され、戦闘機がやってきて攻撃される。わけもわからず、理不尽に攻撃される兵士の置かれた状況がよくわかる。また、音、そして音楽の使い方のうまさにも驚いた。少々いきすぎな気がしないでもないが、恐怖や脅威を感じさせる音楽や音が充満する。CGは一切使っていないという。

 兵士たちは、敗走したために世論にひどく非難されていると覚悟していたのに、むしろ生きて帰ったことを国民は大歓迎する。人命を大事にし、そうであるがゆえに故国を守ろうと多くの人が立ち上がる国の偉大さ(当時のドイツや日本との違い)を印象付ける。

 私はミニシアターで上映される「芸術映画」のたぐいを見ることが多いのだが、娯楽超大作の質の高さも改めて実感したのだった。

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