映画・テレビ

映画「ラーゲリより愛を込めて」 遺書を読む場面は涙なしではいられない

 映画「ラーゲリより愛を込めて」をみた。原作は辺見じゅんの「収容所(ラーゲリ)から来た遺書」。終戦と同時にシベリアに抑留された山本幡男が、抑留されながら様々な文芸活動で仲間たちを鼓舞するが、苦難の中で死亡、友人たちが、文書の持ち出しを禁止されたため、山本幡男の書き残した遺書を暗唱して家族に伝えた事実を描くノンフィクションだ。

 映画の主人公、山本幡男は、私の大学院時代の恩師のひとりである山本顕一先生のご尊父。つまり、恩師は、映画の中で幡男の長男としてたびたび登場し、高齢になった姿を寺尾聰が演じているその人だ。そんなわけで、山本先生と親しくさせていただいている私は、以前から、原作も読み、深く感動してきた。今回、映画化されると山本先生に聞いて、ずっと楽しみにしていた。やっと時間ができたので、観てきた。

 とても良い映画だった。最後まで希望を捨てず、愛を貫くというメッセージには説得力がある。高潔で人間愛にあふれた山本(二宮和也)の周囲に、戦友たちを裏切ってしまった原(安田顕)、卑怯者の烙印から逃れようとする松田(松坂桃李)、権威をかさに着ていた自分を反省する相沢(桐谷)、心優しい青年、新谷(中島健人)、そして、クロという犬を配して、戦争、そしてその後の抑留の悲惨、その中で希望を抱き、愛を守ろうとした山本をはじめとする人々を描く。

 最近作られた戦時中の映画をみると、どうしても役者がみんなあまりにあか抜けており、服装も当時ほどみすぼらしくなく、したがって、リアリティが不足しているのを感じる。やはりこの映画でも、同じことを感じた。山本先生のお母様はきっと美しい方だったのだろうとは思うが、それにしても北川景子は美しすぎる。極寒のシベリアを描いているとはいえ、やはりそこは本当の極寒には見えない。現代のジャニーズっぽい美男たちは、戦争に赴いた貧しくみすぼらしい日本男子には見えない。実際の山本が経験したシベリア抑留はもっともっと過酷なものだっただろう。そのような様々な問題点はある。だが、そのようなことを監督は重々承知だろう。

 現代人にもわかりやすく共感しやすい形で描くには、このようにするしかない。しかも、観ているうちに、そうしたことは忘れるだけのドラマの盛り上がりを見せる脚本の手際の良さ、安田や二宮の演技力がある。戦争の理不尽、抑留の理不尽、それに翻弄される男たちや家族が十分に伝わってくる。

 ただ、私がとても残念に思ったのは、アムール句会の話題が映画には描かれなかったことだ。山本幡男はハバロフスクでアムール句会を主宰し、俳句を抑留者たちに広めていく。小さな文芸誌を作り、そこに抑留者たちが小説や詩を発表する。山本幡男は外国の土地に抑留されていながら、日本語を忘れず、日本の土地を思い起こし、日本人である誇りを保つためにこのような活動をする。抑留者たちは、それに共鳴するがゆえに、山本は多くの人の信頼を得る。そして、だからこそ、山本の遺書を友人たちが暗唱して家族に伝えようとする。

 私は、少なくとも、辺見じゅんのノンフィクションのテーマは「言葉の力」だと考えている。山本は語学の天才だった。言葉の力を信頼する人だった。言葉の力で抑留者を力づけようとした。日本語の力で家族に愛を伝えようとした。共鳴した友人たちが言葉の力を信じて、それを家族に伝えた。原作からそのようなテーマが浮かび上がってくる。

 ところが、映画では、言葉=日本語という面が重視されていなかった。むしろ、山本の愛唱歌が「いとしのクレメンタイン」であって、抑留者たちが声を合わせてこの歌を英語で歌うところがある。きっとグローバルな視点で世界平和を描こうという監督の意志の表れなのだろう。だが、これには私は違和感を覚えずにはいられなかった。

 そもそも当時、敵性語である英語の歌を日本人抑留者たちが声を合わせるというのはあまりに非現実的だと思うし、そうすると、「日本語を大事にする」という句会の意味が薄れてしまう。映画では、山本はソ連の軍人にたてつき、罰を受けながらも日本人の言い分を主張し、草野球をひろめたために抑留者たちの間で信頼を得ていったように描かれていた。映像としてわかりやすくするためにそのようにしたのかもしれないが、だがそうすると、やはり山本がリーダー的存在になっていくのが不自然に感じられてしまう。

 とはいえ、友人たちが家族に遺書を届け、それを暗唱する場面は涙なしではいられない。あれこれ気にはなったが、ともあれ遺書を暗唱する場面はさまざまな雑念を吹き飛ばして映画に没入させるだけの力がある。

 それにしても、私のよく知る山本先生の役を寺尾聰が演じているのをみて、不思議な気持ちになった。同時に、当事者である山本先生はこの映画をどうご覧になったのだろうと、大いに気になった。

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映画「象は静かに座っている」「ラヴソング」「八月のクリスマス」「セントラル・ステーション」

 一昨日(2022年11月28日)、5回目のコロナウイルスのワクチンを接種した。これまで毎回、それなりの副反応に襲われた(38度前後の熱だった)が、今回は、ほとんど異状なくすみそう。どれくらい効果があるのかわからないが、ともあれ少し安心。

 ちょこちょこと自宅テレビで映画をみている。数本見たので、簡単な感想を記す。

 

「象は静かに座っている」  2018年 フー・ボー監督

 ベルリン国際映画賞などの数々の賞を獲得した中国映画。監督のフー・ボーは処女作であるこの映画を完成させた後、29歳で自ら命を絶ったという。

 まさに鮮烈な映画だと思う。どこを切ってもそこから血が噴き出すような鮮烈さ。かつて見たパゾリーニの映画を思い出す。作風はと言えば、よく言われているようだが、タル・ベーラに似ている。

 舞台になっているのは石家荘市の郊外のようだ。友をかばっているうちに級友を階段から突き落として死なせてしまう少年ブー、親友の妻と浮気しているところを見つかって、目の前でその親友に身投げ自殺されたやくざ者の青年チェン(彼は、階段から落ちて死んだ少年の兄でもある)、家庭の都合で老人ホームに入れられるのに抵抗している老人ジン、だらしのない母との生活に嫌気がさして学校の副主任を相手に性的な関係をもって、それがネットでさらされてしまう少女リン。

 それぞれに居場所を失った四人。投げやりになりながら、必死にあがくがどうにもならない。その四人が交錯しあい、影響を与え合う。チェンは撃たれ、ブーとリンとジンは、満州里にいるといわれている座ったままの象を見に行こうと旅に出る。

 象のいる遠い都市・満州里というのは、「ここではないどこか」「居場所のある地域」なのだろう。モンゴル自治区の都市なので、中国の人にとっては国内にある異郷と思えるのかもしれない。そこに行っても結局はどこも同じだと思い知らされるだけだと思いつつ、そこに行こうとする。そうするしかない。そのような絶望と閉塞とかすかな希望を描いているといえるだろう。

 だが、それよりなにより、登場人物の上半身を中心に手持ちカメラで撮ったような映像が鮮烈だ。上半身以外は映し出されていないことが多い。そうすると、登場人物が何をしているのかよくわからない。横に誰がいるのかもはっきりしない。登場人物が携帯電話で動画を見る場面があるが、ふつうの映画なら、動画の内容が映し出されるところ、この映画ではそのような説明的な場面はほとんどない。登場人物以外の遠景は焦点がずれて常にぼやけている。観客は画面の外に何があるか、遠くのぼやけている光景は何なのかを推測し、読み取りながら映画をみなければならない。そして、観客にも何が起こっていたのかを発見していくように映画は作られている。

 メネシュ・ラースロ監督のハンガリー映画「サウルの息子」でも同じような手法が用いられていた。ラースロはタル・ベーラの弟子筋の人なので、きっとフー・ボー監督はその影響を受けているのだろう。視野の広くない画面なので、登場人物と同じように観客も激しい閉塞感を覚える。狭苦しく、何もかも理不尽、何もかもゴミ、そんなやりきれなさが伝わる。

 234分の長い映画だが、息もつかせぬ展開なので、だれている暇はなかった。途中、食事などで休憩はいれたが、一気に見た。このような感性を持つ若者であれば、この世の中は生きにくいと思うが、そうであるだけに自死せずに鮮烈な作品を作ってほしかった。今更ながら残念。

 

「ラヴソング」 1997年 ピーター・チャン監督

 香港映画。1986年に大陸から香港に移住してきたシウクワン(レオン・ライ)は、マクドナルドで働く大陸出身の女性レイキウ(マギーチャン)と出会い、テレサ・テンの歌が好きだという共通の趣味もあって意気投合し、恋に落ちる。シウクワンには大陸に残した婚約者がいたが、レイキウとの関係を断ち切れない。婚約者を香港に呼んで結婚するが、レイキウとの関係を続けて、結婚は取りやめ、レイキウもほかの男と結婚して、二人は別れてしまう。だが、テレサ・テンの歌を好む二人は、この歌姫の死が伝えられた日、ともに思い出の場所に行って、再会する。

 それだけの話なのだが、大陸人にとっての香港、自由への憧れなどとともに男女の機微が描かれて、とても味わい深い映画になっている。天真爛漫だったシウクワンが人生を知って大人になっていく過程、レイキウがやくざ者の夫をもって二人男の間で揺れ動く様子などが淡々と、しかしリアルに描かれる。テレサ・テンの存在が大陸人にとっていかに大事であったかもよくわかる。

 とても良い映画だと思うが、残念ながら、テレサ・テンをテレビで見たことはあったものの、特に思い入れのなかった私には、この部分についてはピンとこなかった。

 

「八月のクリスマス」 1998年 ホ・ジノ監督

 別の映画を探しているうちに、間違えてつい注文してしまったDVDだったので、あまり期待してないでみたが、感動して見入った。韓国のラブストーリー。

 小さな写真館を営むジョンウォン(ハン・ソッキュ)は若い女性客キム・タリム(シム・ウナ)と懇意になって心を通わせあう。ともに恋愛感情を抱くが、不治の病に侵され死期の近いジョンウォンは何も告げず、世を去る。

 それだけの物語なのだが、ほのぼのとした日常の中の愛と死に心打たれる。監督の日常の描き方、二人の主人公や周囲の登場人物の心の描き方に感服。さりげない日常の中で人が生き、人が死んでいく。そこに愛が芽生え、それは写真のように心の中に刻印される。「重病もの」というジャンルに入るだろうが、深刻にならず、お涙頂戴でもなく、人間の愛と死をやさしく、しかも鋭く描いてまさに感動的な映画になっている。

 韓国映画にも韓国ドラマにもそれほど強くない私(ただ、「冬のソナタ」「チャングムの誓い」「トンイ」はひょいと見たらやめられなくなって、かなり夢中になった)は、この二人の有名俳優を知らなかったが、ハン・ソッキュのさりげない演技力に脱帽、そしてシム・ウナのあまりに初々しい美しさにうっとりした。うーん、今更ながらだが、韓国映画おそるべし!

 

「セントラル・ステーション」 1998年 ヴァルテル・サレス監督

 NHKBSプレミアムでみた。ブラジル映画。初老の女性ドーラ(フェルナンダ・モンテネグロ)は、リオ・デジャネイロのセントラル・ステーションで、字の書けない人のために代筆屋をしている。そこに中年女性とその息子ジョズエがやってきて、遠くに離れた父親への手紙をドーラに依頼するが、その直後、女性は交通事故死する。一人残された少年ジョズエはほかに知り合いがいないためにドーラを頼る。ドーラは厄介に思いながらも面倒を見ざるを得なくなって、ついには二人で父親を探す旅に出る。そのロード・ムービー。

 ドーラはけっして善人ではないという設定。ジョズエを厄介払いしたいとたびたび考えるし、助けてくれたトラック運転手の男性に恋をしてのぼせ上ったりもする。だが、心を通わせあってゆく。そして、最後、父親には会えないが、異母兄弟に出会うことができ、ドーラはジョズエを兄弟に託して、自分は去っていく。

 アメリカ映画でもよくあるパターンだが、登場する人々の雰囲気、途中で出会う光景がアメリカ映画ではありえない。二人が紛れ込む宗教的な村祭りも驚く。復活祭か何かなのだろうか? 二人を助けるトラック運転手は巡回牧師を兼ねているという。敬虔な、というか、ちょっと狂信的なカトリック社会の状況が描かれる。この映画はまさに群れからはぐれてしまった子羊たちの物語でもある。その意味でとても興味深かった。

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ウォン・カーウェイの映画

 一昨日、両腕に赤い湿疹が30か所以上もできているのを発見。妻を亡くした後、部屋の掃除をろくにしていないので、ダニにでも刺されたのか、それともほかの虫なのかと気になって皮膚科で診てもらった。「虫ではなさそう。何か大きなストレスがあったのではないか。ストレスによって免疫力をなくすと、それが皮膚に現れることがある」と言われて納得。

 妻の死後、一日中落ち込んでいるわけではないが、なかなか元気が出ない。気晴らしをしようと思っても億劫になってしまう。これが、70歳を過ぎて妻に先立たれた夫のかなり普遍的な状況だと思う。こうして、陰鬱な気分が肌に出てきたわけだ。

 湿疹くらいならたいしたことはないが、このままでいると、からだを壊してしまうと思い当たった。免疫力を弱めていたら、コロナにかかって重症化することも考えられる。かくなるうえは、ストレス解消を最優先にするほうがよさそうだ。まあ、これまでもコンサートに出かけていたが、これから少し意識的に明るい方向の向こうと思う。

 先日、プーンピリア監督の「プアン 友だちと呼ばせて」を見て大いに感動。このタイの監督がウォン・カーウェイの影響を受けていると知った。そういえば、香港映画の巨匠ウォン・カーウェイの名前は知っているが、作品をみたことがない。この機会に何本かみることにした。簡単に感想を書く。

 

「欲望の翼」 1990年 ウォン・カーウェイ監督

 1960年の香港の裏町が舞台になっている。生みの親に捨てられ、育ての親に虐待されたという思いを抱いている青年ヨディ(レスリー・チャン)。投げやりな生活を送っているうち、サッカー場の切符売り娘スー(マギー・チャン)を口説き、付き合い始める。だが、ヨディはスーを捨て、踊り子のミミ(カリーナ・ラウ)に乗り換える。ヨディを愛してさまようスーの様子を心配して見守る警官タイド(アンディ・ラウ)、ミミを慕うサブがからんで、物語は進んでいく。最後、実の母を探しにヨディはフィリピンに行き、中国人街の闇社会とかかわりを持って殺されてしまう。

 ヨディがスーに語る「1960年4月16日の3時1分。君は僕といた。この1分を忘れない」という口説き文句は出色だ。そのほか、詩的な言い回しがたくさんあり、映像にも乾いた詩情が漂う。刹那的に生きるしかない若者たち。まさに1960年前後のイタリア映画やポーランド映画を思い出す。いい映画だと思う。

 

「花様年華」 2000年 ウォン・カーウェイ監督

「欲望の翼」と同じように、1960年代の香港を舞台にしている。チャウ(トニー・レオン)とチャン(マギー・チャン)はそれぞれ家庭を持っているが、配偶者とともにアパートの隣に住むようになる。ある時、それぞれの配偶者が行動を共にして不倫しているらしいことに気づく。裏切られていることを感じた二人は、絶望の意識を介して接近してゆく。愛を率直に表現できない二人は、それぞれの配偶者や作家志望のチャウの小説中の出来事に仮託して愛を告げあう。それぞれの配偶者は声だけで映像は出ない。そのために、親密で閉ざされた雰囲気が強調される。

 エロティックと言えるほどの美しいチャイナドレス、赤い色調の部屋、官能的な音楽。セリフは少なく、絵画のように美的で蠱惑的な映像が二人の世界を作り出す。トニー・レオンとマギー・チャンは、私のようなオールド・ファンには佐田啓二と山本富士子に見えてしまう。なんだか往年の日本映画のスターたちに雰囲気がよく似ている。

 ただ、いったい、このアパートはどんなシステムになっているのだろう? バルザックの小説や往年のフランス映画(「ミモザ館」など)に出てくるようなパンションのようなものなのだろうか。このようなシステムは今もあるのだろうか。そのあたりはよくわからなかった。

 とてもいい映画だと思う。ストーリー的に大きな展開があるわけではないが、この官能的で親密な雰囲気はとても魅力的だ。

 

「2046」  2004年 ウォン・カーウェイ監督

「欲望の翼」「花様年華」とともに三部作をなすとみなされる作品。とても良い雰囲気で、つい引き込まれるが、なんだか話はよくわからない。

 チャウ(トニー・レオン)は官能小説家となって退嬰的な生活をしている。かつて、ホテルの2046号室で女性と愛を交わしたことが忘れられずにいる。過去にこだわり、そこから抜け出して、新たな2046を求めて女性遍歴を重ねているが、SF小説「2046」を書き始める。2046に向かって進む列車にはアンドロイドの女性たちが客室乗務員として勤務しており、その女性たちの自分の遍歴してきた女性たちを投影させる。ざっとまあこんなふうにストーリーはまとめられるだろう。

 失われた愛を求めての渇望の物語といえるだろう。ミケランジェロ・アントニオーニの映画を思わせる。愛し合うことが不可能なので、不毛なセックスを求める。しかし、それでも満たされず、過去から抜け出せない。ベッリーニのオペラ「ノルマ」の有名なアリアが何度か流される(ゲオルギューが歌っているようだ)。一途に恋に生きるノルマの生きざまが浮かび上がってくる。

 チャウを愛し、チャウと同じように素直に愛を交わせない娼婦役のチャン・ツィイーが本当に魅力的。そのほか、フェイ・ウォン、コン・リー、カリーナ・ラウ、マギー・チャンらの中国人の女優たちが存在感にあふれていて、素晴らしい。日本人タクの役に木村拓哉が出演している。トニー・レオンらの中国人俳優たちの圧倒的な存在感に比べて、いかにも頼りなげだが、きっとこれが監督の意図なのだろう。一人異世界に紛れ込んだ感じが、それはそれでおもしろい。

 

「恋する惑星」 1994

 香港ヌーヴェル・ヴァーグというべき作品だと思う。失業した刑事(金城武)と勤務中の警官(トニー・レオン)の二人を基軸に、その恋の相手(ブリジット・リンやフェイ・ウォン)との突拍子もない行動を独特の映像で追いかける。説明が少なく、主人公や女性たちの行動の意味がよくわからない。だが、ポップな音楽、流れる映像が実に心地よい。そうした中、秩序からはみ出して生きるしかない若者の生の衝動が伝わってくる。金城武やトニー・レオンがとても魅力的に描かれている。

 

「天使の涙」 1995

「恋する惑星」と同じような雰囲気の作品だ。殺し屋(レオン・ライ)とそのエージェント(ミシェル・リー)、殺し屋がたまたま出会う金髪娘(カレン・モク)、口のきけない青年(金城武)などがそれぞれの行動をモノローグの形で語り、これらの人物が交錯していく。ゴダールらのヌーヴェル・ヴァーグ作品をもっと先鋭化させた感じ。それぞれの人物がマンガ的に行動し、詩的だが、意味を確定しがたいセリフが続く。ただ、映像が美しく、映像の動きも見事なので、まったく退屈することはない。とても良い映画だと思う。

 

「愛の神、エロス」 2004年 オムニバス映画

 ウォン・カーウァイ「若き仕立屋の恋(The Hand)」、スティーブン・ソダーバーグの「ペンローズの悩み」、ミケランジェロ・アントニオーニの「危険な道筋」の3編からなる。

 カーウェイの作品が最もおもしろかった。仕立て屋(チャン・チェン)は囲われ者の女性(コン・リー)の身体を手で探って寸法を取り、その虜になる。女性は仕立て屋をいたぶるばかりだったが、最後には零落し、娼婦に成り下がって難病にかかる。女性も仕立て屋を憎からず思っているが、すでにセックスはできず、手を使って満足させようとする。手を使っての性的関係であるだけに、一層フェティシズムを掻き立てる。映像も実に淫靡。

 ソダーバーグの作品は精神分析医(アラン・アーキン)と患者(ロバート・ダウニーjr)のやり取り。夢と精神科医とのやり取りと現実の交錯がおもしろいといえばおもしろいが、どこがエロスなのかよくわからなかった。アントニオーニの作品は、愛し合おうとしながら愛し合えずにいる夫婦の物語。海辺の映像と二人の女性の全裸は目を見張るほど美しいが、アントニオーニの映画としては物足りない。

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イタリア映画「田舎女」「修道院のガリバルディ部隊兵」「十字架の男」など

 かなり前に10枚組DVD1980円のイタリア映画コレクションを購入。1本目からみていったが、1本目をみたころ、妻はまだ家にいた。妻の入院中、そして、葬儀の後も、家にいる時には、音楽を聴いたり、このDVDをみたりしていた。10枚みおわったので、簡単な感想を記す。

 

「外套」アルベルト・ラトゥアーダ監督 1952

 ゴーゴリの「外套」に基づいているが、ゴーゴリ特有のロシア的な得体のしれない不気味なユーモアではなく、イタリア的なユーモアになっている。ゴーゴリの場合、マスとしての貧しい人々はあまり強く描かれないが、この映画ではいかにもイタリア的なエネルギッシュで騒がしくて集団的な庶民が描かれる。まあそれなりにはおもしろいが、とてもおもしろいわけではなかった。

 

「ローマの太陽の下で」 レナート・カステラーニ監督 1948

 戦後すぐのネオレアリズモ映画。ローマの育ちのよくない若者たちの戦中戦後の無軌道な行動を描く。自分のしでかしたことが原因で母と父を失ってしまい、やっと自分の行動の愚かさに気づく。ただ私としては、ロッセリーニやデ・シーカのような貧しい子どもたちのやむにやまれぬ行動ではなく、パゾリーニの初期の小説や映画のような不良たちのむき出しの激しい生でもなく、中途半端な不良たちの軽率な行動なので、あまり共感できずあまりおもしろいとも思わない。つまらないことを騒がしくしているだけに思えた。

 

「百万あげよう」マリオ・カメリーニ監督 1935

 大富豪の青年(ヴィットリオ・デ・シーカ)が、周囲の人々が本心で接してくれないのを苦にした青年が貧しい浮浪者になりすましてサーカス団に紛れ込み、心から心配してくれる女性(アッシア・ノリス)と恋に陥る。他愛のない話をコメディタッチで描いている。

 デ・シーカの軽妙な演技はとても魅力的だが、あまりに都合よく話が進むので、現代人としてはリアリティを感じられない。

 

「永遠のガビー」 1934年 マックス・オフュルス監督

「みんなの恋人」として人気絶頂の女優ガビー(イザ・ミランダ)が自殺を図った。手術台でのガビーの回想で映画が始まる。ガビーは女学校で教師に一方的に愛されたために退学になり、親の厳しい管理下に置かれる。そんなとき、近所の大富豪の息子ロベルトに憧れるが、ついに愛し合うようになる。ロベルトの母親にも信頼されるが、大富豪の父親にも愛されるようになり、それが発覚。母親を自殺に追い込んでしまう。ロベルトの父親と結婚するが、良心の呵責から、ともに暮らすことに耐えられずに別れ、女優になって成功。その後、ロベルトと再会するが、ロベルトはガビーの妹と結婚していた。

 男に愛され、そのために不幸になって、いつまでも精神的に満たされないガビー。見ていて辛いが、名誉と富を得ても愛の渇望に苦しむ様子がリアルに描かれており、よくできた映画だといえるだろう。ただ、今となってはありふれていると感じてしまう。

 

「スペイン広場の娘たち」 1952年 ルチアーノ・エンメル監督

 昼になるとローマのスペイン広場に集まる仲良しの美しい三人娘(ルチア・ボゼー、コゼッタ・グレコ、リリアナ・ボンファッティ)の恋模様をコメディタッチで描いている。ローマの庶民の生活の状況を含めてとても興味深く見ることができる。近所の人たちとわいわいがやがやと騒ぎ、自分の感情を表に出しながらも他人を思って生きているローマっ子たち。三人はそれぞれに恋をし、失恋したり、修復したり。リアリティがあり、共感してみることができる。

 最後の方に気のいいタクシー運転手の役で若きマルチェッロ・マストロヤンニが登場。三人の一人と恋に陥る。いやあ、このころからマストロヤンニにはオーラがある!

 それにしても三人ともとても美しい! ボゼーはとびっきり魅力的。いや、それだけでなく、その恋敵役をする女性もものすごい美人だと思う。今の私から見ると、その母親の世代の人たちも美しい。

 ただ、スペイン広場で見かけて三人と親しくしている大学教授の語りで物語が展開するが、この人が知るはずもない内容なので、その点、現代のナレーションの常識からすると、少し違和感を覚える。

 

「田舎女」 1953年 マリオ・ソルダーティ監督

 モラヴィア原作。大学教授夫人ジェンマ(ジーナ・ロロブリジーダ)が自宅で食事中、客の女性をナイフで刺そうとして錯乱するところから映画が始まる。呼ばれた医師パオロ、母親、夫の大学教授、ジェンマ本人の回想によって映画が進んでいく。最初に恋したパオロは実は腹違いの兄だった。自暴自棄になって教授と結婚するが、田舎暮らしに退屈し、ある女性人と知り合いになって、うまく丸め込まれて売春まがいのことをさせられそうになる。そこでその女性を刺したのだった。ジェンマは夫にそのことを告白し、許しを得る。

 ちょっとできすぎの感がある(モラヴィアの小説の多くにそのような傾向があると思う)が、リアルな映像、俳優たちの見事な演技によって、とても良い映画になっている。

 私は映画を見始めたころからジーナ・ロロブリジーダのファン(知ったときには、すでにかなりの年齢だったが!)。本当に魅力的だと思う。

 

「タッカ・デル・ルーポの山賊」 1952年 ピエトロ・ジェルミ監督

 19世紀後半、ガリバルディによるイタリア統一後、国民の生活は必ずしも好転したわけではなかった。南イタリアの貧しい人たちの一部は山賊となってブルボン朝の残党と結びついて新政府を攻撃していた。そのような時代に、新政府の兵士たちが国民の無理解に直面しながら山賊を鎮圧する姿を描いている。社会矛盾を諸見の側から描く映画の多いジェルミ監督としては珍しいのではないかと思うが、兵を率いる厳しい大尉(アメデオ・ナザーリ)が主人公として描かれる。

 イタリア史に関心を持っている人には面白いかもしれないが、そうでない現代の日本人にはあまり面白さがわからない作品だといって間違いなさそうだ。

 

「道化師の晩餐」 1942年 アレッサンドロ・ブラゼッティ監督

 15世紀のフィレンツェ。義理の兄たちにいじめられ、恋人を奪われ、辱めを受けた男が復讐をして、兄たちを滅ぼす物語。1942年には目新しかったのかもしれないが、今から見ると、どうということのない物語。復讐の方法も現在から考えるとリアリティを感じない。まったく感銘を受けなかった。

 

「修道院のガリバルディ部隊兵」 1942年 ヴィットリオ・デ・シーカ

 さすが、デ・シーカの映画というべきか、これはおもしろい! 娯楽作品としての常套手段をうまく取り入れ、センス良く話を進める。ユーモアあり、ほろりとさせるところあり、サスペンスありで飽きさせない。

 二人の孫を連れて、老婦人カテリネッタが侯爵夫人マリエッラの館を訪れ、昔話を始める。若かったころ、台頭するブルジョワ家庭に生まれたカテリネッタと没落貴族の家に生まれたマリエッラは、隣同士でありながらも家庭が敵対していたので、初めはぎくしゃくするが、同じ女子修道院の寄宿舎に入り、仲良くなる。そこにガリバルディ部隊の将校が負傷して修道院に逃げ込み、二人で助けようとする。ところが、実は、その将校はマリエッラの恋人だった。

 ガリバルディの独立戦争の時代背景に女性二人の友情をうまく描いている。ブルボン側からガリバルディ側に移ろうとする市民の状況もよくわかる。高貴なマリエッラと、活発で自然児のカテリネッタの対比もとてもおもしろい。ガリバルディ軍の隊長役にデ・シーカ本人が登場。それだけで画面がしまる。

 

「十字架の男」 1943年 ロベルト・ロッセリーニ監督

 ロッセリーニの戦争三部作の一つ。イタリア軍のソ連戦線。ウクライナが舞台だろう。イタリア軍に加わる従軍司祭の活動を描く。負傷した兵士とともに戦場になる村に残り、砲撃を受けながら現地の農民と合流し、ソ連軍の兵士に対しても分け隔てなく接する。そして、最後、個人的感情から仲間を撃ったソ連兵を助けようとして自分の命もなくす。

 1943年というから、まだ戦争中。しかも、イタリア軍はファシスト政権下にある。そのさなかにこれほど迫真力のある戦争場面を作り上げたこと自体に驚く。しかも、そこで人道主義を訴える。さすがロッセリーニ!

 恋人を殺されたソ連軍の女性兵士が自分の過去を話して従軍司祭がそれを慰める場面。ソ連兵がイタリア語で話をしていることに違和感を覚えるし、突然、改心したように共産党を批判的な立場から自分の人生を語り始める女性の態度も説得力不足だが、そこで語られる司祭の「神は見捨てない。イエスはすべての死者が生きるために死んだ」という慰めの言葉はなかなかに説得力がある。これが当時のカトリックの従軍司祭の理念だったのだろう。

 

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映画「プアン/友だちと呼ばせて」 死の視点から見た慈しみ!

 バズ・プーンピリヤ監督のタイ映画「プアン/友だちと呼ばせて」をみた。バズ・プーンピリヤ監督は「バッド・ジーニアス」(かつて見たが、とてもおもしろい映画だった!)で脚光を浴びたタイ出身の監督。

 30歳前後なのに白血病にかかって余命宣告を受けたウード(アイス・ナッタラット)は、しばらくニューヨークで働いていたが、今はタイに戻っている。バーを経営しているニューヨーク在住の友人ボス(トー・タナポップ)をタイに呼び、ボスの運転する車に乗って、ウードは「元カノ」への謝罪の旅に出る。そんなロードムービーと思ってみはじめた。三人の「元カノ」それぞれにウードとの交流があり、それぞれに人生があって、みんなの心情がよくわかる。人生に対して、人に対して慈愛のようなものを感じ始めているウードの心情もよく理解できる。

 ところが、後半になってにわかに様子が変わってくる。徐々にウードとボスとの関係、ボスの初恋、ウードのボスへの不義理と謝罪の意思が明かされる。二人の抱える苦しみ、わだかまりが見えてくる。ボスは真実を知ってウードをいったんは退けるが、ウードの謝罪を受け入れ、かつての恋人と再会し、人生をやり直すことを考え始める。

 説明過多にならない語り口で、過去と現在、空想などが交錯させながら映画は進むが、以上のように要約できるだろう。

 それにしても、色彩的でスピーディーな画面、アメリカの懐メロ?(ポップスには詳しくないので、どのような曲なのかまったくわからない)、そして主人公たちの見事な演技!が素晴らしい。映画に引き込まれる。前半をみて疑問に感じたところが後半に回収されていく手際も見事。それでいて、死の淵から社会を見たような深い人生観が示される。すごい!

 禿げ上がってやせ細った病身のウードを演じるアイス・ナッタラットに穏やかな凄みを感じる。まるで仏像のような雰囲気。人間の罪を背負って、人々に謝罪し、衆生を慈しみ、慈愛を与えているかのようだ。自信ありげでありながら、生い立ちと女性関係に苦しみを抱えて必死に生きているボスを死の視点から見ている。ボスを演じるナッタラットも母と恋人に捨てられたという痛みを持ちながら生きていく様を見事に演じる。

 良い映画を見た時に私はよく「そうそう、人生ってこうだよなあ」と思う。今回もそう思った。「もう一度みたい」と思う映画はめったにないが、これについては、何度かみたいと思った。

 それにしても、なぜ「プアン/友だちと呼ばせて」という邦題にしたのだろう。原題は「one for the road」(「帰るまでにもう一杯飲もう」というような意味らしい)。私は「プアン」というのを人の名前だと思ってみはじめ、プアンという人物が登場しないのを不思議に思っていたのだったが、あとで調べたら、「プアン」というのは、タイ語で「友達」の意味だという。わざわざタイ語を使って、このようなわけのわからない邦題にするとは! それとも、邦題をつけた人は、この映画を単に仲たがいした二人の友情を取り戻す話とでも思ったのだろうか。バーテンダーが重要な意味を持ち、死を前にした行為を描くこの映画には、原題の方がずっとふさわしい。もっと原題をいかすタイトルにするべきだったと思う。

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映画「LION/ライオン 25年目のただいま」「奥さまは魔女」「山猫」

 猛烈に暑い日が続いている。できるだけエアコンの効いた部屋にこもって、仕事をしたり、本を読んだり、テレビを見たりして過ごしている。NHKで放送された映画を録画していたものを数本みたので簡単に感想を書く。

 

LION/ライオン 25年目のただいま」2016年 ガース・デイヴィス監督 

 実話に基づく。幼児のころにインドの小さな村で迷子になり、カルカッタにまでたどり着いてしまった少年サルー。何とか孤児院に逃れるが、身元は判明しない。そうするうち、里子を求めるオーストラリア人夫妻によって息子として育てられる。幸せに生きて25年。サルーは自分のかすかな記憶からグーグルアースを用いて故郷を見つけ出し、実の母と25年ぶりに再会する。

 それだけなら、単なる親との感動的な再会話なのだが、オーストラリアの母(ニコール・キッドマン)は自分で子供が産めるのに、平和のためにアジアの子供を育てようと心に決めている女性。そして、サルーのほかにもう一人のインド人、マントッシュを育てるが、こちらは優等生のサルーと違って、問題児。マントッシュの存在によって、映画にリアリティが生まれ、これが一つの社会への問題提起になる。インドの過去を引きずり、新しい西洋世界に適応できない存在も浮き彫りになる。西洋人の善意はすべての人間を幸せにするわけではない。それほどすべてが幸せであるわけではない。だが、愛情を注ぎ続けなければならない。そうすることで、確かに幸せな人間が増えていく。

 実母との再会の場面は感動的だ。物語が終わった後、実在の人物たちの実際の映像が流れる。そこには、実母と養母とサルーの三人が抱き合う場面がある。これも感動的。

 ライオンというタイトルなので、そのうちライオンが出てきて何かが起こるのかと思ってひやひやしていたら、最後になって種明かしがなされた。サルーの名前の由来がライオンという意味だとのこと。なるほど、ライオンのようにたくましく生きたということか。しかし、サルーはきわめて幸運な例外であって、マントッシュら、それを得られない人々の姿もたくさん映画の中では描かれている。それがこの映画を成功させていると思う。

 

「奥さまは魔女」 2005年 ノーラ・エフロン監督

 もちろん、中学・高校生のころテレビドラマ「奥さまは魔女」をみていた。サマンサ役のエリザベス・モンゴメリも大好きだった。再放送も何度かみた。だからもちろん、ニコール・キッドマンを使っての映画化の話については撮影時から知っていた。とても気になっていた。だが、モンゴメリとキッドマンでは雰囲気があまりに違う。オールド・ファンとしては、エリザベス・モンゴメリを心の中で守りたい気分だった。機会はいくらもあったのに、これまでみないでいた。が、「ライオン」でキッドマンの名演技をみたので、その勢いでこの映画をみることにした。

 昔のドラマの再現そのままではない。さすがに、監督も昔のドラマを壊したくなかったのだろう。俳優ジャック(ウィル・フェレル)がダーリン役になってテレビドラマ「奥さまは魔女」のリメイクが作られることになり、サマンサ役として、本物の魔女であるイザベル(ニコール・キッドマン)が選ばれる。撮影は進み、二人の間で愛が芽生えるが、ジャックはイザベルを利用して自分が目立つことばかりを考えているため、イザベルはおもしろくない。すったもんだの末、愛は深まるが、そこでイザベルは自分がホンモノの魔女であることを告白する…。というストーリー。まあ、とてもよくできたストーリーで、オールド・ファンも怒ることなく楽しめる。

 キッドマンはモンゴメリと違って、かなり鋭角的で知的な感じがするが、ほんとうに美しい。父親役がマイケル・ケインなのはとても適役として、劇中でおばさんの役を演じている女性(本当に魔女だという設定)はなんとシャーリー・マクレーンではないか! 

「奥さまは魔女」が放送されていたころ、そして、まさにシャーリー・マクレーンの映画が次々とヒットを飛ばしていたころ(1960年代)の古き良き雰囲気を持つほのぼのとした娯楽映画として楽しめた。

 

「山猫」 1963年 ルキノ・ヴィスコンティ監督

 私はイタリア映画好きで、1970年代には可能な限りのイタリア映画をみていた。ヴィスコンティの映画はすべてみているはずだ。だからもちろん、この映画も何度かみた記憶がある。何を言おうとしているのかよくわからなかったが、ともあれすごいと思ったのを覚えている。今みても、同じような感想を抱く。ランペドゥーサの原作を読もうとずっと前から思いながら、まだ読んでいない・・。

 19世紀半ば、ガリバルディによるイタリア統一戦争期のシチリア。時代は、貴族の支配からブルジョワジーの支配に移りつつある。老いを感じ始めた貴族ファブリツィオ(バート・ランカスター)は、時代は変化しなければならないことを見通しているが、そこにかかわろうとはしない。時代の流れに乗って活動する甥のタンクレディ(アラン・ドロン)とその婚約者アンジェリカ(クラウディア・カルディナーレ)、そして、アンジェリカの父親の俗物の市長に未来を託して、静かに去ろうとする。

 しかし、そんなことよりも、すべての場面が美術作品としての完成度を持つ映像美に圧倒される。シチリアの風景、貴族の豪華な館、絢爛たる舞踏会。そして、人物の所作の一つ一つがあまりに見事に決まっている。最後の舞踏会の場面では、着飾った人々のおしゃべりと踊りが長々と続くが、主人公の心情が痛いほど伝わってくる。この場面だけでもすごいとしか言いようがない。

 ファブリツィオは最後、自らの死を考え、教会の前にひざまずいて、星に向かって「星よ、いつ、つかの間でない時をもたらす? すべてを離れ、お前の永遠の確かさの地で」と語る。つかの間の生の時間を終えて、死に向かい、永遠の時に入ることを示唆する言葉だろうが、それと同時に、ここには「確かなもの」への思いが込められているのを感じる。これこそがヴィスコンティの思いなのではないかと思う。すべては消え去るが、その前に、確かなものを自分の手で作って、そのゆるぎない存在を示したい。それに尽きるのではないかと思う。そして、確かに映画の中に、「確かなもの」を定着するのに、ヴィスコンティは成功していると思う。すべてが圧倒的な存在感なのだから。

 弱々しい貴族ではなく、山猫と呼ばれる風格ある貴族を演じるバート・ランカスターが本当に素晴らしい。生命にあふれるアラン・ドロンも魅力的。そして、カルディナーレのなんという初々しさ。やはり、ヴィスコンティの映画はハリウッド映画と違った歴史の重みがあり、教養の厚みがある。これは別格。

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映画「帰らざる河」「麗しのサブリナ」「アラベスク」「オールウェイズ」

 ウクライナ戦争はますます悲惨になり、新型コロナウイルスの第七波がどうやら始まったようであり、しかも安部元総理の暗殺がおこった。暗澹たる気持ちになる。世も末だといいたくなる。

 安部総理暗殺は、テロというよりは、秋葉原の事件や登戸の事件、あるいは電車の中での襲撃事件と同じような自暴自棄になった人間のしでかした暴挙なのだろう。だが、そのような人物が出現したこと、しかもそれを防ぐはずの警備がまったく機能していなかったことに対しても、日本社会の劣化を嘆きたくなる。今回の事件で浮き彫りになりつつある宗教の自由の問題も、改めて考えるべき課題だろう。オウム真理教を筆頭に、間違いなく宗教は人心を惑わし、社会に攻撃を加え、人間の知性をむしばむものになっている。ネット社会になった今、従来の信仰の自由、宗教団体への税制優遇をかつてのままにしておくのは好ましくないだろうと思う。

 そんな中、NHKプレミアムで放送された映画を何本かみたので、簡単に感想を記す。

 

「帰らざる河」 1954年 オットー・プレミンジャー監督

 以前、一度みた覚えがある。マリリン・モンローが亡くなったとき、私はまだ子どもだったので、その魅力を知ったのはずっと後になってからだったが、この映画こそ、「確かにマリリン・モンローはすごくいい女だ!」と最初に思った作品だった。今、再びみると、映画としては突っ込みどころ満載。だが、モンローは圧倒的な魅力を発散する。

 いわゆる西部劇。原住民(いわゆるインディアン)が無前提の悪として描かれ、男は力づくで女性に迫り、子どもが銃を撃つのも当たり前・・・という世界観は現在では信じられないが、確かに私たちの世代はこのようなアメリカ映画を見て育った。

 友人を救うために人を殺して服役していたマット(ロバート・ミッチャム)は子どもとともに畑を作っている。いかだで漂流しているハリー(ローリ・カルホーン)とその愛人ケイ(マリリン・モンロー)を助けるが、ハリーは逆にマットの銃と馬を奪って、ケイを残したまま逃げてしまう。先住民に追われて家に住めなくなったマットは息子やケイとともに、激流や先住民からの攻撃、ならず者からの横やりなどを交わしながら、いかだで下って町に向かう。そうするうちに、マットとケイの間に恋が芽生え、最後には、かつて酒場の歌手だったケイもマットや息子とともに暮らすことを選ぶ。そんなストーリー。

 要するに、金に目がくらんで豪華な生活を夢見るゴールドラッシュの西部を題材にして、堅実に家族を愛して、自分で自分の身を守って生きよう、というテーマの映画。とてもよくできている。それにしても、モンローは歌もうまく、本当に色気のある女優さん。しかも、とても上品な色気。伝説の女優であることが納得できる。

 

「麗しのサブリナ」 1954年 ビリー・ワイルダー監督

 昔みたことがあるような気がしていたが、もしかしたら勘違いだったかも。まったく覚えがなかった。巨大企業を経営する富豪の車の運転手の娘サブリナ(オードリー・ヘプバーン)は富豪の次男デヴィッド(ウィリアム・ホールデン)をひそかに愛している。料理の勉強のために、パリで二年間過ごして、エレガントな女性として帰国。たくさんの女性と浮名を流し、それまで見向きもしなかったデヴィッドはサブリナに恋をする。デヴィッドをほかの女性と結婚させて会社拡大に利用しようとしていたデヴィッドの兄のライナス(ハンフリー・ボガート)は弟とサブリナを別れさせようとするが、自分がサブリナに恋をしてしまう。仕事人間で実直なライナスをサブリナも愛するようになる。すったもんだの末、サブリナとライナスが結ばれる。

 ワイルダー監督らしい気のきいたセリフ、軽妙な展開。ラブロマンスとしてとてもおもしろい。ヘプバーンも実に魅力的。ただ、ホールデンもボガートも若々しいヘプバーンにふさわしくないかなりのおじさんに見える。調べてみたら、この年、ホールデンは30代後半(今の日本人の感覚では50歳くらいに見える!)、ボガートは55歳(今の感覚からすると65歳くらいに見える)。二人が大スターだったのは分かるが、もう少し若い俳優はいなかったのだろうか。

 

「アラベスク」 1966年 スタンリー・ドーネン監督

 1963年の「シャレード」と同じドーネン監督の作品。雰囲気がとてもよく似ている。いったい誰が味方で誰が敵なのか二転三転し、本物と偽物が入り混じる。ユーモアにあふれたセリフ、センスのいい展開。今どきの映画のような激しいアクションはないが、まさに大人のサスペンスドラマ。楽しんでみることができた。

 古代の暗号と思われる絵文字の解読を大学教授(グレゴリー・ペック)が依頼されたために中東の国の陰謀に巻き込まれる。ストーリーはまあ特にどうということはない。グレゴリー・ペックは余裕のある演技。ユーモラスでとても魅力的。ただ私は、昔から現在に至るまで、謎の女を演じるソフィア・ローレンをきれいだと思ったことは一度もない。いや、それどころか、どちらかというと不美人の方だと感じる。それに対して、オードリー・ヘプバーンは飛び切りの美人だと思うので、必然的にこの「アラベスク」を「シャレード」と比べると、感銘度は天と地ほど差がある。

 

「オールウェイズ」 1989年 スティーヴン・スピルバーグ監督

 事故で亡くなった消防飛行隊の腕利きのパイロット、ピート(リチャード・ドレイファス)は、ゴーストになって愛する恋人ドリンダ(ホリー・ハンター)や消防飛行隊の訓練生を守るが、ドリンダは若き訓練生に恋するようになる。ピートは苦しむが、あきらめてドリンダの幸せを祝福しようとする。

 あちこちの場面にスピルバーグの力量が現れ、もちろんとてもよくできているのだが、映画としてはあまりおもしろいと思わなかった。この数年後に作られて日本でも話題になった「ゴースト/ニューヨークの幻」のほうが感動的でおもしろかった。「ゴースト」の後で見たせいもあってか、ややありきたりの気がするほど。

 ピートにゴーストの心得を教える先輩ゴーストというべき女性の役をオードリー・ヘプバーンが演じている。ヘプバーン最後の映画となった。世俗の欲を捨てた天使のような女性に見える。素晴らしい。

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映画「武器よさらば」「レインマン」「レナードの朝」「グッドウィル・ハンティング」「ペンタゴン・ペーパーズ」

 これまで、テレビでみた映画についてあまり感想を書かなかった。だが、もちろん、テレビ東京の昼間に放送される映画番組はかなりみているし、BSプレミアムの字幕による映画もかなりみる。

 そんなわけで、NHKBSプレミアムで放送された数本の映画の感想を簡単に記す。

 

「武器よさらば」 1957年 チャールズ・ヴィダー監督

 みはじめてしばらくしてから、昔々、一度みて、つまらないと思ったのを思い出した。50年ぶりくらいに改めてみて、やはりつまらないと思った。異様なほどにつまらない。

 戦争の場面が時折挟まれるが、戦争が描かれているわけではない。兵士の状況などが深く描かれているわけでもない。原作はヘミングウェイだが、独特の世界観が現れているわけでもない。信仰の問題にも触れられるが、あまりに表面的でリアリティがない。戦争を背景に、美男美女の浮世離れしたメロドラマが展開されるだけ。「いい男というのは、こんなに簡単にモテて、こんなに好き勝手なことをして許されるのか!」といった俗っぽい感想しか持つことができない。ロック・ハドソンもジェニファー・ジョーンズもあまり魅力的に描かれない。スパイとみなされて銃殺されるイタリア人軍医役のデ・シーカだけがいい味を出している。アメリカのメロドラマの悪しき典型のような作品だと思った。

 

「レインマン」 1988年 バリー・レヴィンソン監督 

 疎遠だった父の死後、自閉症の兄(ダスティン・ホフマン)がいて、その兄が父の遺産の大半を継ぐと初めて知った弟(トム・クルーズ)。遺産を奪い取ろうと画策するうちに兄の能力、人間性を知り、兄に共感していくという物語。世間で言われているほどおもしろいとは思わなかった。あまりにありがちなテーマも少し安易だと思った。それに、私は身勝手な弟にも共感できず、ここに描かれる自閉症の兄の行動を許容することもできないと思った。アメリカ映画は、どのくらい共感できたかが大事なポイントになると思うが、その点で私はこの映画には入り込めなかった。ただ、ダスティン・ホフマンの演技力には感服。

 

「レナードの朝」 1990年 ペニー・マーシャル監督

 実話に基づくという。セイヤー医師(ロビン・ウィリアムズ)が病院に赴任して、ほとんど人間活動をできない特有の病状を示す精神科の患者の治療にあたる。画期的な治療法を編み出して、一時的に患者のほとんどが回復するが、全員が元に戻る。

 最初の治療を施したレナード(ロバート・デ・ニーロ)と医師との交流、その心の動きを描く。生きることの意味を問いかける。佳作だと思う。ウィリアムズとデ・ニーロの演技は見ごたえがある。ただ、それ以上の感動はあまり覚えない。

 

「アンダーグラウンド」 1995年 エミール・クストリッツァ監督

 カンヌ映画祭のパルム・ドール受賞作品ということだが、私にはまったくおもしろくなかった。フェリーニ張りの狂騒的な演出によって飲んだくれの夢想のような雰囲気の映画だが、フェリーニとの才能の違いはいかんともしがたいと思った。

 第二次大戦中のユーゴスラヴィアの暗黒世界で活躍するマルコとその友人クロ。そして、二人の間で揺れ動く女優ナタリア。ドイツ軍の侵攻に対してマルコとクロは抵抗し、マルコはユーゴの英雄となるが、恋敵のクロをだまして、戦争は終わっていないと信じ込ませ仲間たちとともに巨大な地下室に閉じ込める。クロたちは、地下室でドイツ軍への抵抗の準備を進めながら、一つの社会を形作っている。そして、ユーゴ紛争が起こった1990年代に、クロたちはふとしたことから地上に出て、セルビア、クロアチア戦争を目の当たりにして大混乱を起こす。

 まあ要するに、第二次大戦の意識がユーゴ内戦にまで残り、ついには兄弟までが殺しあう状況を描くことで、ユーゴ内戦を戯画化した映画ということができるだろう。かつてのユーゴスラヴィアが陥ったあまりに絶望的な状況を描くには、このようなしっちゃかめっちゃかなブラックユーモアにするしかなかったといえるのかもしれない。ただ、私がユーゴスラヴィアの状況をよく知らないせいかもしれない(1980年代にユーゴスラヴィアを旅したことはある!)が、悪ふざけをリアルに感じることができず、あまりに空疎に思えた。

 

「グッドウィル・ハンティング」 1997年 ガス・ヴァン・サント監督

 恵まれない育ちながら、数学の天才であり、ほかの領域でもずば抜けた能力を持つ青年(マット・デイモン)。自分の能力を持て余し、社会に反抗しながら生きている。ところが、その才能に気づいた数学教師が手助けし、心理学教師(ロビン・ウィリアムズ)が生身の人間どうしのコミュニケーションを深める。そうしてやっと青年は心を開き、自分の能力を社会に役立てようとするようになる。当時無名だったマット・デイモンの脚本だという。

 よくできた映画だが、世をすねた主人公の思考回路を十分に理解できなかった。私は、アメリカの若者と似た青春時代(車で出かけ、ロックっぽい音楽を聴いてパーティやダンスや酒場で楽しむ・・・)を送っていないせいか、どうもこのような若者に共感できずにいる。ロビン・ウィリアムズの演技には圧倒されたし、ともあれおもしろく見たが、それ以上ではなかった。

 

「ペンタゴン・ペーパーズ」 2017年 スティーヴン・スピルバーグ監督

 ベトナム戦争はアメリカの敗北に次ぐ敗北であり、この戦争に勝算はないことを政府は知っていたのに、若者を絶望的な戦場に送り込んでいた。それに気づいたペンタゴン職員が文書を新聞に極秘に流し、ニューヨーク・タイムズ紙とワシントン・ポスト紙がニクソン政権から激しい圧力を受け、新聞の存亡の危機を意識しながらその文書を掲載する。その様子を、ワシントン・ポストのオーナー(メリル・ストリープ)と編集長(トム・ハンクス)に焦点を当てて描く。

 それだけなのだが、さすがスピルバーグ。政府関係の友人や経営面の心配、法的な問題で葛藤するオーナー、新聞の役割を追いかける編集長をリアルに描いて、見るものは手に汗握ることになる。語り口のうまさに圧倒されつつ、そしてそこに込められた社会的メッセージに共感する。報道の自由の大切さ、新聞の役割・・・。同時に、メリル・ストリープやトム・ハンクスをはじめとする役者たちの力量にも圧倒される。

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映画「寝ても覚めても」「ハナレイ・ベイ」

 村上春樹がらみで、日本映画を2本みた。感想を記す。

「寝ても覚めても」 2019年 濱口竜介監督

「ドライブ・マイ・カー」がとてもよかったので、同じ監督の前作をみてみた。これもとてもいい映画だった。

 朝子(唐田えりか)は、麦(東出昌大)と運命的な出会いをして、交際していたが、放浪癖のある麦は突然、行方をくらます。その数年後、朝子の前に麦とそっくりの亮平(東出の二役)が現れる。ためらいながら、心優しく、コミュニケーション力のある亮平との愛を深めて結婚にまでこぎつけるが、そこに芸能界にデビューして注目され始めた麦が朝子のもとにもどってくる。一旦、朝子は麦を選ぶが、亮平の元に戻る。

 それだけの話だが、友人たちとの交流、東日本大震災の余波、かつての友の難病といった日常の様々な出来事を絡めて、若者の心情が共感を持って描かれていて、社会と個人のかかわり、個人の生きる道についてじっくり考えたい気持ちを促される。

 ただ、どのくらい監督の意図に基づいているのかわからないが、非日常の放浪者である麦と日常的な良き市民である亮平の対比が、ぼやけている。それがもっと鮮明でないと、映画全体の構図が曖昧になると思うのだが。東出の演技力不足のせいでそうなっているのだろうか。友人役の伊藤沙莉がとても魅力的。

 芸能ゴシップに疎い私は、この映画を見終わったあとで、この映画で主役を務めた二人が不倫問題を引き起こしたことを知った。あまり演技力のある二人というわけではなさそうだが、もし、そのようなことでこの二人がこれから先、芸能界で活動できなくなるとすれば、もったいないと思った。

 

「ハナレイ・ベイ」 松永大司監督

 村上春樹の短編に基づく映画。それなりには楽しめたが、濱口監督の「ドライブ・マイ・カー」の深みからは程遠い。しかも、かつて原作を読んでいたが、記憶にない場面があるので読み返してみたら、私には改悪ではないかと思われるところがたくさんあった。

 原作と映画の最も大きな違いは、ハワイのハナレイ・ベイにやってきた二人の日本人サーファーの役割だ。原作では、二人の名前は明かされず、サチの亡くなった息子と同じようにかなり軽薄で、しかもサチの息子がこのハナレイ・ベイでサメの襲われて死んだことを最後まで知らないことになっている。

 ところが映画では、少なくとも二人のうちの一人(村上虹郎)は実は英語を話すことができ、それなりにしっかりしており、サチ(吉田羊。ちょっと美人すぎるなあ!)の息子(佐野玲於)の事故死を人に聞いて知り、サチに絡んだアメリカ人を懲らしめることになっている。しかも、原作では、サチの息子の名前は、ハワイのホテル従業員からテカシという日本人としてはかなり珍しい名前で示されているだけなのだが、映画では「タカシ」となっており、日本人サーファーの名前は「高橋」(タカシとタカハシは、もちろん1文字増えているだけの違い)とされている。

 二つ目の違いは、息子の手形が映画では重要な意味を持っていることだ。ハワイの警察官の女性が、息子の手形をとっており、それをサチに繰り返し渡そうとする。サチは拒否するが、最後には受け取って、改めて息子の手形をみて悲しみにふける場面がある。

 もう一つ。映画の中で、マルティーニ作曲のシャンソン「愛の喜び」がピアノ独奏や歌入りで、拍子を変えるなどして繰り返し流される。原作では、サチはジャズピアニストであって、楽譜を読めないまま自由にピアノを操ることになっているが、映画では、ピアノ演奏は自由というにはほど遠く、かなりぎこちない。「愛の喜び」の歌詞は、「愛の喜びはつかの間だが、愛の悲しみは永遠に続く」。愛の苦しみ特に失恋を歌う曲だ。

 これらの原作と映画の違いから導き出されるこの映画のテーマは、「ハワイで息子を亡くして途方に暮れていたサチは、日本からやってきたサーファー高橋の中に、息子の姿を見る。そうするうちに、ろくでもないと思っていた息子も実はしっかりしていたことに気づき、悲しみを新たにする。息子の父親、そして息子に対しての愛はつかの間であったが、それを亡くした悲しみは永遠に続く」ということになりそうだ。

 やはり、この捉え方はかなり一面的だと思う。息子を理解できないまま亡くしてしまった無念、死後になって息子を理解しようする足搔き、ほかのサーファーには死んだ息子の亡霊が見えているらしいのに自分には見えないという絶望。その絶望の中で日々生きていくという人間の営み。それがハワイの海辺で展開されるのがこの原作だと私は思うのだが、そのような雰囲気が一面的なテーマによって薄れていると思う。

 このような映画の雰囲気のまま、ストーリーを妙にいじらずに、原作通りにしていれば、もっとずっと深い映画になったのに・・・と思った。

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映画「花咲くころ」「ノマドランド」「友だちのうちはどこ?」「異端の鳥」

 DVDを購入して映画を4本みた。いずれもとても良い映画だった。感想を記す。

 

「花咲くころ」 2013年 ナナ・エフクティミシュヴィリ、ジモン・グロス監督

 ジョージア映画。1992年、ソ連崩壊後の内戦時代を舞台にして、14歳の少女エカとその親友ナティアの暮らしを描く。かなり衝撃的な秀作だと思う。

 内戦の影響だろう、トビリシの少年少女の世界にも暴力がはびこっている。銃が日常的に手に入り、人々がナイフを振り回す。人々の生活は貧しく、パンの配給を求める市民は殺気立っている。そんな中、エカは父親が刑務所に入っているために屈折した日々を送っている。ナティアは飲んだくれの父親と心の離れた家族に苦しんでいる。ある時、二人はピストルを手に入れる。ナティアはほぼ暴力的に乱暴な男に連れ去られてその男と結婚することになるが、すぐに夫の本性が明らかになり、別れたいと思い始める。しかも、夫はナティアがかつて心を寄せていた青年ラドを嫉妬のあまりナイフで殺してしまう。ナティアはピストルで夫を殺そうとするが、エカはピストルを奪って池に捨てる。

 前半、実をいうと、顔の認識能力に難のある私は、そもそもエカとナティアの区別がつかずに困った。しかも、二人に家族や友人がいるものだから、ますますわけがわからない。二つの家族がごっちゃになって、途中でDVDをはじめから見直した。が、後半はぐいぐいとドラマに引き込まれた。

 内戦間の少女たちの心を通して、まさしく時代のあり方、人間のあり方を鋭く描いている。殺伐とし、様々なところで分断の起こる社会。その中でも、人と人の信頼を求め、家族愛や友情を得ようとする人々。初々しい心を持ちながら、時代に翻弄されていく若者たち。

 新郎と幸せに結ばれたとは言えないナティアの結婚式で、エカは納得できない気持ちを抱えたまま無表情なまま踊りを披露する場面は素晴らしかった。

 

「ノマドランド」 2021年 クロエ・ジャオ監督

 昨年のアカデミー賞受賞作品。封切当時から見たいと思っていたが、DVDを購入して視聴。よい映画だと思った。

 企業の倒産のために家を追われ、夫を失った中年女性ファーン(フランシス・マクドーマンド)が車上生活をし、季節労働者として働きながら旅をする様子を描くロードムービー。何らかの暗い過去を持ち、家を捨てて車で生活をするノマドが描かれる。それだけの話だが、悲しい気持ちを抱き、様々な苦難に合いながらもできるだけ自由に生きていこうとする人たちへの共感、そしてまさに弱い人間への共感が映像全体に現れていて、静かに感動できる。

 旅の先々の自然の風景も美しい。出会う人たちの漏れてくる人生の断片も身につまされる。そして、主役のマクドーマンドをはじめとする俳優たちの自然な演技にも脱帽。

 

「友だちのうちはどこ?」 1987年 アッバス・キアロスタミ監督

 アッバス・キアロスタミ監督の傑作として知られている映画だ。

 イラン北部の小さな村。小学生のアハマッドは同級生のノートを間違えて持って帰ってしまう。先生は厳しくて、ノートに宿題を書いてこなかったら同級生は退学になると宣告している。アハマッドは自宅に帰って、間違えたノートに気づき、友だちの家を探してノートを渡そうとするが、家族はアハマッドに次々と仕事を言い渡し、探しに行ってからも大人たちはアハマッドの話をきちんと聞いてくれない。あちこちを訪ね歩くが、夜になっても結局、友だちの家は見つからず、仕方なしに友だちのノートにアハマッドが宿題を書いて、翌日、友だちに渡す。

 それだけの話なのだが、確かにとてもよくできている。子どもの純粋な気持ち、親たちの理不尽な指示、一方的に他者に厳しさを教え、言いつけに従わせようとする社会が浮き彫りになり、それでも貧しく真面目に生きていこうとする人々の姿が浮き彫りになる。映像も美しく、子どもたちの演技もけなげでかわいくて、素晴らしい。

 ただ、「桜桃の味」「オリーブの林をぬけて」「トスカーナの贋作」「ライク・サムワン・イン・ラブ」「風が吹くまま」などのこの監督の映画をみたが、どうも私はあまりおもしろいと思わない。この「友だちのうちはどこ?」も、意図はわかるものの、少々退屈に思ってしまう。そもそも私はこう見えてかなりせっかちなので、次々と邪魔が入って子どものしたいことができずにいる様子を丹念に描かれると、それだけでイライラする。一言でいえば、とてもよくできた映画だが、私の好きな映画ではなかった。

 

「異端の鳥」 2018年 ヴァーツラフ・マルホウル監督

 封切時、ぜひみたいと思いながら時間が合わなかった。DVDを購入して鑑賞。これは凄い映画!

 まず何をおいても最初に言わなければならないのは、この圧倒的な白黒の映像美。最初から最後まで、完璧にコントロールされた映像美の世界が展開される。日常的な意味で、どれほど不潔で薄汚れた場面を描いても、詩的世界になっている。そうすることによって、第二次世界大戦の舞台となった東欧の田舎町の現実が一つの神話世界になる。

 それにしても、あまりに残酷で理不尽な社会だ。主人公の少年は、どうやらユダヤ人らしい。ホロコーストを逃れるために、家族から離れて一人、知り合いの女性の家にかくまわれていたが、その女性が突然、病死。一人であちこちをさまようことになる。見るからにユダヤ人らしい風貌なのだろう。どこに行っても除け者にされ、差別され、迫害され、奴隷のように扱われる。少年自身も残酷な目に合わされるが、先々で出会う人々の多くが理不尽な目に合っている。それをほとんど説明のない映像で、台詞もなく、ただ静かに克明に描かれる。

 ドイツ軍、ソ連軍、コサック兵らが互いに戦い、また村人を痛めつけ、村人同士もいがみ合い、最終的に主人公の少年がすべてに痛めつけられる。中には、少年を助ける大人もいるが、それは長続きしない。最期には父親と再会して引き取られるが、暗い表情のままでハッピーエンドの雰囲気はない。

 

 原題は「ペインテッド・バード」。色を塗られた鳥。つまり、色が違うために同種の鳥からも攻撃されてしまう除け者の鳥。映画では、複数のスラヴ系の言語を抽出して作った人工言語が用いられているという。そうすることで、東欧のどの国が舞台なのかわからなくしたということだが、そのために、いっそう神話的になっている。

 現在、ウクライナでのロシアの兵士による残虐な行為が報道されている。この映画で語られているのは、70数年前に終わったことではない。現在なお、このような残虐な行為が兵士によって、そして一部の市民によって行われているだろう。まさにこの映画は、人間の持つ残虐性、暴力性を神話として真正面から描いているといえるだろう。

 原作はコシンスキという作家の小説だという。まったく知らない作家だが、読んでみたいと思って注文した。

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