映画・テレビ

中国映画「胡同の理髪師」「胡同愛歌」「初恋のきた道」「活きる」

 中国とのかかわりが増えてきた。来年10月に開校を予定している日本語学院の学院長を務めることになり、これからますます中国と関わることになるだろう。

 ところが、それなのに考えてみると、中国の小説も、この30年くらい読んでいない(大学生のころ、当時岩波文庫に含まれているものをそこそこ読んだきりだ)し、中国映画もほとんどみたことがない。高名なチャン・イーモウ監督の映画さえもみたことがない。社会主義を国民に強く訴えかけている国の映画はつまらないという偏見を抱いていたため、これまで敬遠してきた。

 そんなわけでDVDを購入して、中国映画をいくつかみた。まずは、先日訪れた北京が扱われている映画、そしてチャン・イーモウ監督の映画。どれも素晴らしかった。簡単な感想を書く。

 

「胡同(フートン)の理髪師」 2006年 中国 ハスチョロー監督

 北京の什刹海(シチャーハイ)の胡同に生きる93歳の老人。訪問理髪をして一人で生活している。中国は急激な近代化に進み、昔ながらの胡同の生活が成り立たなくなり、建物の取り壊しが始まっている。仲間の老人たちが次々と世を去っていく中、静かに自分を守りながら生きていく。まるでフェルメールの絵のような生活用品の質感、その中で生きる主人公の東洋の生そのもののような表情。ドラマを盛り上げるでもなく、観客の感情を高ぶらせるわけでもなく淡々と静かに、時にユーモアを交えて老人の生活を描く。生きるというそのこと自体、そしてそれが壊されて商業主義になっていく社会が淡々と描かれる。これは素晴らしい映画。原題は「剃頭匠」。要するに、「理髪の名人」というような意味だろうか。

 

「胡同愛歌」 アン・ザンジュン監督 2003

「胡同の理髪師」をアマゾンで検索しているうちに出てきたので、これも購入してみてみた。なかなか良い映画だと思う。

 妻と離婚して、駐車場の管理人として北京の胡同で息子とつましく暮らす杜(トウ)は、近くに住む女性と恋仲になり、結婚しようとしている。ところが、離婚に合意したはずの女性の夫が刑務所から出てきて、よりを戻そうとし、女性や杜、その息子に乱暴をふるう。耐えかねて杜は男を襲って重傷を負わせ、自首して服役する。そうした話を、父と息子の心の行き違いや思いやりを含めて描く。

 毎日必死に生きているうだつの上がらない庶民の哀歓、心のつながりが見事に描かれている。ただ、情緒的な音楽などの感情移入を促すためのあれこれの手法が気になって、私は心から感動することはできなかった。

 なお、「胡同愛歌」というのは邦題であって、原題は「看車人的七月」。「駐車場管理者の七月」という意味だろうか。

 

「初恋のきた道」 チャン・イーモウ監督 

 寒村で小学校に赴任した男性教師に恋した娘(チャン・ツィー)の恋の物語。教師は文化大革命のあおりを受けて町に呼び戻されるが、娘は思い続け、ついに結ばれる。そのような恋の物語を、教師の死後、葬儀のために村に戻った息子が母とともに追憶する。現在の状況がモノクロで、過去がカラーで描かれる。

 厳しくも美しい中国寒村の四季、そこで学ぼうとする人々、文化大革命のうねり、そしてその中で繰り広げられる初々しい恋。それだけのことなのだが、本当に素晴らしい。映像の美しさもさることながら、チャン・ツィーのあまりの可愛らしさ、あまりの愛くるしさに心を奪われる。そして、もちろんチャン・イーモウ監督の演出力にも驚嘆。大自然の中で素直な心の動きを感じることができる。

 

「活きる」 チャン・イーモウ監督 1994

 1940年代に博打ですべての財産を失い、親も妻も子どもたちも路頭に迷わすことになった福貴の60年代までの半生を語る。心を入れ替えて影絵芝居の弁士として活動するが、中国内戦がおこり、文化大革命が起こる。まさに時代に翻弄されながら、必死に生きるが、息子も娘も失い、最後、妻と孫とともに平穏に暮らすことになる。

 この時代の中国で映画を作るには、このようにする必要があったのだろう。中国共産軍が伝え聞いているよりはずっと紳士的で、共産党も人民にできるだけ尽くす。文革の描き方も中途半端。しかし、全体的には大きな歴史の中で生きる人々の姿を生き生きと描いて、とても説得力がある。

 福貴の弟分でありながら、区長となって赴任する途中、こともあろうに福貴の息子を車で轢いて死なせてしまう春生、文化大革命で走資派と認定され、逃げ出すときに全財産を福貴に渡そうとする。同じく走資派に認定された医師は、福貴の娘の出産に立ち会いながら、囚われていた間に飢えていたために饅頭を7つも食べてしまって、娘の異常時に救うことができない。そのような人間の機微をつく描写にリアリティがある。

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映画「聖なる泉の少女」 魅力は感じたが、思わせぶりに鼻白んだ

 岩波ホールでジョージア、リトアニア合作映画「聖なる泉の少女」をみた。ザザ・ハルバシ監督作品。

 ジョージアには今年、訪れたばかりで思い入れがある。ジョージア映画であればぜひ見たいと思って出かけた。5分ほど前に岩波ホールに到着したが、整理番号は6番だった。私の後には誰も入場しなかったようなので、客は最後まで6人だけだったのだろう。みおわってから、やはりこれは客が入らなくてもやむを得ないな・・・と思ったのだった。

 一言で言って、詩的な映画。美しい映像。美しい自然。説明がほとんどなく、会話もほとんどないまま物語が続く。映像のちょっとしたことから想像をたくましくして読み取っていかなければならない。だから、何をしているのか、何を訴えたいのかわからない場面が連続する。とても美しい映画だとはいえ、ここまで「芸術的に」、そして「思わせぶり」にする必要はないのでは?と思ってしまう。しっかりと明示しないので、すべてが曖昧。

 きわめて散文的にストーリーをまとめると、こういうことだろう。

 ある老人がジョージアの森の聖なる泉を守っていたが、老いとともに泉を守れなくなってきた。工場ができたため、泉は枯れ、汚染されている。泉の生命を象徴する黄金の魚を生簀に入れて入れているが、その魚は健康でなくなっている。老人には息子が三人いたが、泉を守る役割を継がずに、それぞれキリスト教の神父、イスラム教の聖職者、科学者になっている。跡を継いだのが霊感を持つ少女ナーメだった。ところが、そのようなとき、工場ができて、泉が枯れる。ナーメは俗世の男性に恋をし、泉を継ぐことをためらっている。そして、最後、ナーメは湖にいって命の象徴である魚を生簀から解き放つ。ナーメはイエス・キリストのように湖面を歩いていく。

 つまり、ジョージアの国土の聖性を汚すものに対して、キリスト教もイスラム教も科学も無力である。自然に基づいた聖性のみがそれを解決する可能性を秘めているというメッセージなのだろうか。

 ただ、それだけのことに、これほど持って回って曖昧なことを描き続ける必要はないのではないかといいたくなる。あまりに説明を排し、意味ありげにすると、結局は観客にはありふれた浅いことしか伝わらないと私は思う。

 一言で言って、魅力的な部分はありながらも、不満の残る映画だった。

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ファルハディ監督の「誰もがそれを知っている」 悲劇そのものの原形

 アスガー・ファルハディ監督の映画「誰もがそれを知っている」をみた。

 私は、「ある過去の行方」をみて以来、このイラン出身の監督のファンだ。「彼女が消えた浜辺」や「別離」、「セールスマン」も素晴らしかった。登場人物のそれぞれの行動に説得力がある。自分がそのような状況にあればきっと同じようにするだろうと、どの人物の行動を見ても思ってしまう。宗教にがんじがらめにされている社会の中で、そうした中で深刻な問題が持ち上がり、のっぴきならない状態になっていく。そのようなドラマをリアルに作り上げていく。

 今回の「誰もがそれを知っている」は、イスラム社会から離れて、もっと普遍的に人間の在り方を根本から描く。

 結婚して南米に暮らすラウラ(ペネロペ・クルス)が妹の結婚式に出席するために子どもたちを連れてスペインの故郷に戻ってくる。親や兄弟、かつての恋人パコ(ハビエル・バルデム)とも再会。ところが、結婚式のバカ騒ぎの中で、娘のイレーネが誘拐される。人々は疑心暗鬼になり、隠されていた家族の過去の出来事がふきだしてくる。最後にはイレーネは救われるが、すべての人が傷ついている。

 ほかのファルハディ監督の映画と同様、ある意味で救いのない内容だが、その中に人間のエゴ、そしてエゴを超えた愛情、いかんともしがたい過去の重みといった人間の真実が感じられて、深い感動を覚える。しかも次々と真実があらわになっていく場面ではハラハラドキドキして息詰まる展開になる。まさしくギリシャ悲劇以来の、悲劇そのものの原形のような映画だといえるだろう。そして、何よりも演出力に驚嘆する。すべての人物が人間の業を背負っている。

 ただ、個人的な好みからすると、私は「ある過去の行方」や「彼女が消えた浜辺」や「別離」のほうが好きだ。「セールスマン」と「誰もがそれを知っている」は娯楽サスペンスの色合いが強まって一層おもしろくなり、映画の作りが上手になった分、がんじがらめになった人間の裸の姿の実像を描くだす力は弱まったように思う。その点のみ不満に思った。

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映画「ROMA ローマ」 根付いて生きざるを得ない人々

 アルフォンソ・キュアロン監督の映画「ROMA ローマ」をみた。モノクロ映画。圧倒的な映像美で深刻な世界を淡々と描く。

 舞台は1970年代のメキシコ・シティ(そのローマ地区ということで、このタイトルがついているらしい)の医師の家庭で家政婦として働く原住民出身のクレオは、雇用主の子どもたちに慕われて生活している。同じ出身の男性フェルミンに惹かれて妊娠するが、男はそのまま逃げてしまう。雇用主の理解を得て子供を産もうと決意するが、ちょうどデモが暴発して市街戦が起こった日、フェルミンが市街戦の中で殺人にかかわっていることを目撃して破水、死産してしまう。雇い主の医師一家も主人が愛人を作って家を出たために妻と子供たちが取り残され、途方に暮れる。その一家の中でクレオは懸命に生きようとする。

 そのようなクレオと医師一家の日常を淡々と描く。産みたくなかった子どもでありながら、実際に死産になって取り乱す場面、雇用主の子どもたちを溺死から救った後、子どもを産みたくなかったことを告白する場面など、圧倒的な迫力を持つ。

 雇用主の中にも差別意識がある。拭い去れないほどに存在する。社会の中に階層がある。政治的事件がある。その中で人々は必死に、しかもしばしばエゴイスティックに生きる。犠牲になる人はやるせなく生きる。その地に根付いて生きる。そうするしかない。それを白黒の映像が静かにえぐり出す。

 画面の中にしばしば空を飛ぶ飛行機が映し出される。雇用主の医師は妻子を捨てて逃げた。飛行機はこの矛盾に満ちた現場から逃げ出す手段なのだろう。逃げる人はいる。だが、クレオはその場にい続けるしかない。飛び立つ飛行機の音がする中で、クレオは雇い主の飼い犬が糞をした床を掃除して日常を生きていく。

 メキシコ出身のキュアロン監督自身の体験に基づくという。過酷な社会に生きる人間への愛情があふれている。それにしても、俳優たち(子どもたちを含めて)の自然な演技にも驚くし、1970年のメキシコのリアルな再現にも驚く。メキシコの歴史について無知なためにわかりにくいところも多いが、それでも見るものを感動させる力を持っている。素晴らしい映画だと思う。

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映画「幸福なラザロ」 ラザロの魂を追い出した社会には音楽も宗教も意味をなさない

 アリーチェ・ロルバケル監督の映画「幸福なラザロ」を見た。圧倒されてみた。

 以下、いわゆるネタバレを書く。

 前半は30年ほど前が舞台だろう。侯爵夫人の領地で暮らす貧しい小作人たちの中でもとびきり貧しく、親がだれなのかもわからず、みんなから下男のように使われながら善意を失わず、懸命に働くラザロ。侯爵の息子タンクレディが純真なラザロを巻き込んで狂言誘拐を企てたことから、小作制度がとっくに廃止されているにもかかわらず、村人をだまして農民を無報酬で過酷に働かせていたことが発覚して、侯爵夫人は逮捕され、小作人たちは解放される。ラザロはその混乱の中、崖から落ちて絶命する。

 後半は、それから30年ほどが経った現代。ラザロは復活して、現代によみがえり、都市にやってくる。現代社会には小作人はいないが、同じように底辺の人がいる。イスラム教徒たち、そしてかつて侯爵夫人の領土で暮らしていた人たち。ラザロはかつての知人と再会する。だが、無垢で善意なものが排除された世界では、ラザロには居場所がない。今は落ちぶれたタンクレディとも再会するが、タンクレディもかつてのタンクレディではない。教会に行くが、そこでも追い払われる。銀行に出向いてかつての領土の復活を懇願しようとするが、強盗と間違われて殺されてしまう。

 ラザロはドストエフスキーのムイシュキンを思わせるような無垢で善良な人物だ。無垢で善良ということは、現代においては「白痴」として扱われるしかないとしてドストエフスキーはムイシュキンという人物を創造したのだったが、ラザロはまさにそのような人物だ。

 ラザロが求めているのは、純粋なる心の統合だろう。階級を超え、そしておそらくは民族も超え、立場も超えて、心と心を結び合わせてつながること。冗談で語ったタンクレディの「もしかしたら、俺たちは兄弟かもしれない」という言葉をおそらく真に受けている。だから、侯爵夫人の「バカ息子」でありながらも純粋さを持っているタンクレディと心を通わせ、最後には領土の復活を銀行で呼びかける。

 ラザロとタンクレディが心を通わせるとき、バッハの音楽が鳴り響く。平均律クラヴィーア曲集 第1巻 第8番。教会の場面で聞こえるのは、ネットで調べたら、BWV 721コラール「おお主なる神、われを憐れみたまえ」のようだ。

 ラザロが教会から追い出されると、教会のパイプオルガンが鳴らなくなる。音楽がラザロを追いかけて教会を去ってしまう。そして、おそらく宗教の心もオルガンの音楽とともに去る。

 音楽も、そして宗教も純粋なる魂の統合なのだ。ラザロの魂を追い出した社会には音楽も宗教も意味をなさない。純粋な魂の統合であるラザロに居場所はない。音楽にも、そして宗教にも。

 私はそのようなメッセージを読み取った。美しい映像。重層性のある物語。感動的な場面。本当にいい映画だった。私は渋谷のル・シネマでみたが、満席にはほど遠かったのが残念。

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デュラス原作の映画「あなたはまだ帰ってこない」 声をあげて泣いた!

 映画「あなたはまだ帰ってこない」をみた。

私は18歳のころに、たまたま購入した田中倫郎訳の「モデラート・カンタービレ」を読んで以来、マルグリット・デュラスを愛し、かなりの本を読んできた。フランス語を勉強し始めた時、最初に原書を買って辞書を引きながら読んだのも「モデラート・カンタービレ」だった。私はデュラスを20世紀後半のフランス最大の作家の一人だと思う。ため息交じりのような省略の多い独特の文体、極度に抽象化された愛と生のもがき、徐々に明らかになっていくあまりに壮絶な人生。そうしたものに惹かれてきた。デュラスが監督した映画も何本か見た。読み始めてかなりたってから、若きデュラスがとても美しい容姿を持っていたことを知った。それからはますます感情を移入して読んだ。

そのデュラスの自伝的小説「苦悩」(ただし、残念ながら、この作品は読んでいない)の映画化だ。初めは、デュラスの文体とかなり異なる映像化に少し違和感を覚えた。デュラスはこのように直接的にリアルには語らない。アルコール交じりにため息をつくように切れ切れに抽象的な言葉を用いて恐ろしい真実を語る。だが、映画であるからには、デュラス流を通せない。「アガタ」や「インディア・ソング」のようなデュラス自身が監督した抽象的な愛の形を模索するような映画ではなく、戦争中のレジスタンス活動とその中での愛の葛藤を描く映画となると、外面からデュラスの世界を描くしかない。デュラスの文章が内面から発する言葉によって成っているのに対して、エマニュエル・フィンケル監督の作り出した映画作品では、かつてのジャン・ジャック・アノー監督の「ラマン(愛人)」と同じように外側から見たマルグリット・デュラスから成っている。引き裂かれたマルグリットを象徴するように、しばしば二人のマルグリットが画面上に現れる。

パリがドイツ軍に占領された時代。夫をゲシュタポに逮捕され、自身もレジスタンス活動にかかわっているマルグリット(メラニー・ティエリー)は、夫の情報を引き出そうとしてドイツ軍協力者ラビエ(ブノワ・マジメル)の誘惑に応じる姿勢を見せる。しかも彼女はレジスタンスの仲間であるディオニス(バンジャマン・ビオレ)と関係を持つ。マルグリットは夫の帰りを必死の思いで待ち続けるが、終戦を迎え、ようやく夫が死の危機の中で帰還するとき、マルグリットは夫と会うのを拒絶しようとする。そして、夫が回復した後、夫に離婚を告げる。

その心の苦悩が痛いほどわかる。そこに、障害のある娘の生還を待ちわびながら、収容所に連行された初日にガス室で殺されたことを知るユダヤ女性の苦悩が重なる。戦後を生き抜くにはやむを得なかっただろう裏切り、男女の愛、諦め。そのようなものが交錯する。

私は声をあげて泣きそうになった。いや、実際に声を上げて泣いた。マルグリット・デュラスの苦悩に満ちた生、そして人間という大きな社会に翻弄されざるを得ない存在に対して泣かずにはいられなかった。

デュラスを読み返したくなって、数冊の本をさっそく注文した。

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映画「ビール・ストリートの恋人たち」 地についたリアリティ

 映画「ビール・ストリートの恋人たち」をみた。

ジェイムズ・ボールドウィンの短編小説「ソニーのブルース」を読んだときの感動を鮮明に覚えている。50年近く前、大学受験で東京に来た帰り、渋谷の三省堂(だったと思う)で購入した黒人作家短編集を寝台特急「富士」の中で読んだ。その中の一編がこの作品だった。貧しい黒人少年ソニーがジャズに出会い、音楽に命を懸けようと決意する様子を黒人たちの必死の生活感とともにリアルに描いていた。その後、何冊かのボールドウィンの小説の翻訳を読んだ。いずれもとても感銘を受けた記憶がある。そのボールドウィンの「ビール・ストリートに口あらば」が映画化されたとあってはみないわけにはいかない(ただし、この小説を私は読んでいない)。

1960年代のニューオリンズ。ティッシュ(キキ・レイン)は未婚のまま、恋人ファニー(ステファン・ジェームズ)の子どもを孕む。しかもファニーは警官の機嫌を損ねたために黒人だというだけの理由でレイプ犯として逮捕されてしまう。ティッシュは子どもを産み、冤罪を晴らそうと家族とともに努力する。ティッシュの母親(レジーナ・キング)はレイプ被害者の女性を説得しようとする。だが、かなわない。

そのような状況をバリー・ジェンキンス監督はリアルに克明に描いていく。ボールドウィンの原作がそうであるように、単に黒人差別を告発する作品ではない。理不尽な社会の中で懸命に生き、神に祈ったり、それに疑問を持ったりする被差別者の生き方そのものが示される。

ボールドウィンもそうだった。難しいことは語らない。ただ、神への祈りと愛の大切さ。それを描くだけ。だが、地についたリアリティがあり、生に対する愛があり、人間に対する根本的な信頼があるために、読むものの心を打つ。翻訳を通してさえも、ボールドウィンの小説の文体から世の中に対する怒りや生に対する愛が伝わってきた。この映画に対しても、まったく同じように感じた。美しい映像や役者たちの一つ一つの表情から、生への思いがつたわってくる。差別が当然だった時代の空気も伝わってくる。とてもよい映画だった。

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昔の日本映画「儀式」「乾いた花」「暗殺」「写楽」「はなれ瞽女おりん」「鑓の権三」「エロス+虐殺」「煉獄エロイカ」

  しばらく前から、仕事の合間に時間を見つけては古い日本映画のDVDをみていた。学生のころに一度見た作品も含まれる。簡単な感想を記す。

 

51fd7x1y5rl_ac_us200_ 「儀式」 大島渚監督  1971

 封切当時にみて、深く感動したのを覚えている。当時から大島は大好きな映画監督だったのでかなりの本数を見ていたが、この作品は「絞死刑」に匹敵する傑作だと思った。今回見直して、同じように思った。ただ、改めてみても、大島のメッセージを完全に理解することはできなかった。

 家父長制の権化のような政界の大物(佐藤慶)の複雑な家族の冠婚葬祭を通して、戦後から戦後にかけての思想史を描く。満州生まれの満州男(河原崎健三)が戦後日本の迷える状況を体現させた存在だろう。大和魂を新しい形で戦後に活かそうとする輝道(中村敦夫)の自死を通して方向性を失った戦後日本を描いているといえそうだ。新婦のいない結婚式の場面、満州男が結婚初夜のまねごとを権力者である祖父を相手にしようとする場面など衝撃的だ。

 武満徹の音楽、音羽信子、賀来敦子(私はこの女優さんが大好きだった!「青幻記」は素晴らしかった!)、そして小松方正、戸浦六宏、渡辺文雄の「大島組」の3人のインテリ俳優。実に懐かしい!

 

91ba0bbjokl_sy445_ 「乾いた花」 篠田正浩監督  1964

 篠田正浩も大好きな監督だが、この作品は、今回、初めてみた。石原慎太郎原作。刑務所から出たばかりのヤクザ(池辺良)が賭場で謎の女(加賀まりこ)に出会い、惹かれていく。乾いたニヒリズムの世界。今みると、妙にかっこよがっているところが鼻につく。しかし、素晴らしい白黒の映像美。ヌーヴェル・ヴァーグっぽさはあるが、あくまでも娯楽映画として作られている。

 

51zcfgwhdil_ac_us200_ 「暗殺」 篠田正浩 1964年

勤王、佐幕の間を行きかった謎の幕末浪人、清河八郎(丹波哲郎)の死までを描いた作品。司馬遼太郎の「幕末」に基づくという。退屈しないで最後まで見たが、とりわけこの人物に思い入れがあるわけでもなく、幕末ものが好きなわけでもない私としては、結局、この人物の思想も心情も理解することができず、もちろん感情移入することもできなかった。ただ、篠田監督らしい映像の美しさにあふれており、白黒の映像美に浸ることができる。静かな日本の風景の中に登場した情熱あふれる奇怪な人物像を描き出すことには成功していると思う。

 

51nbzvj5cel_ac_us200_ 「はなれ瞽女おりん」 1977年

 封切時に見て、とても感動したのを覚えている。まず映像が美しい(カメラは宮川一夫)。山間や海辺、神社仏閣を背景にした大正時代の人々の暮らしが描かれる。水上勉原作。

 盲目に生まれたおりん(岩下志麻)は幼いうちに瞽女(ごぜ。盲目の女性旅芸人)の集団の親方(奈良岡朋子)に引き取られて育てられる。が、娘になって男性客(西田敏行)に手籠めにされたことで集団から追い出されて、一人で行動するようになる。その旅の途中、下駄を売る男(原田康雄)と出会い、行動をともにするようになる。だが、おりんは男がごたごたのために警察にとらわれている間に薬売り(安部徹)に強引に情を交わされてしまう。男はそれを知って薬売りを殺す。男は警察に追われるが、脱走兵であることが発覚。囚われて刑に処される。おりんはふたたび一人で活動を始める。最後、山中で三味線と女性の白骨死体が見つかる。

 おりんは盲目ゆえに理不尽な目にあわされ続ける。阿弥陀の生き方をしようとするが、それを妨げられる。それでも阿弥陀にすがろうとする。日本社会は軍国主義へと進んでいるが、それに反する形で庶民の生活がある。そうした状況を激しく、美しく描く映画だ。

 後半、行動をともにする瞽女が登場する。樹木希林が演じている。ほんの脇役だが、その存在感たるや凄まじい。ほかの瞽女たちは目をつむっているが、樹木希林はかすかに目が見えるという設定のために目を開けて演じている。その目の表情、そして動き! それだけで感動してしまう。樹木希林が前に立ち、岩下志麻が後ろについて瞽女姿の二人が大自然の前をひたひたと歩いていく場面が何度か映されるが、これは映画史に残る名場面だと思う。武満徹の音楽も素晴らしい。

 

514hnuroyjl_ac_us200_ 「写楽」 篠田正浩監督 1995

 ひとことでいって、おもしろくなかった。洒落本や浮世絵を売り出した実在の版元蔦屋重三郎(フランキー堺)を狂言回しにして、写楽(真田広之)、十返舎一九(片岡鶴太郎)、北川歌麿(佐野史郎)、葛飾北斎(永澤俊矢)、山東京伝(河原崎長一郎)、鶴屋南北(六平直政)などを配し、反権力の江戸の色彩的なエネルギーを描こうとしたのだろう。このようなものを描きたかった篠田監督の気持ちはよくわかる。

だが、あまりに多くの人物を描き、写楽と花魁(葉月里緒奈)の恋を中心に据え、そこに大道芸人集団(岩下志麻など)を加えたために、焦点ぼけしてしまった。二人の恋にもリアリティが感じられず、そもそも真田広之演じる写楽も、あのような浮世絵を描く内的必然性が感じられなかった。ただ、赤を中心にしたけばけばしい江戸の色が印象に残るだけの映画になってしまった。

 

51lwmcjlkxl_ac_us200_ 「鑓の権三」 篠田正浩監督 1986年

 近松門左衛門の浄瑠璃「鑓の権三重帷子」に基づく。脚色は富岡多恵子。封切されたころ、私は映画を見る精神的、時間的余裕がなかったので、今回、初めてみた。

 夫の留守中、娘の婿にと考えて特別に茶の秘伝を権三(郷ひろみ)に伝えようとしていたおさゐ(岩下志麻)だったが、ほかの娘と関係を持った不実をなじっているところを不義密通とみなされる。言い逃れができなくなった二人はそのまま逃げて夫に討たれることを願う。が、もとより心惹かれていたおさゐは権三と心身ともに結ばれてから討たれることを望む。そして、ついに最期を迎える。

 日本芸能に疎い私は近松の浄瑠璃をまったく知らない。が、琵琶(だと思う)がかき鳴らされ、義理と人情のはざまを人間らしく生きる姿がまさに近松の世界なのだと思う。主要な登場人物だけでなく、背景となる町や人々、祭りの様子など、とても美しく、しかも生々しい。狂おしく愛を求める男女を色彩豊かに描いて、本当にいい映画だと思う。

 

41xuccop9l_ac_us200_ 「エロス+虐殺」 吉田喜重 1969年

 学生の頃に見て、大いに刺激を受けた作品。私は高校生のころからアナキズムの思想に惹かれて、バクーニンやらクロポトキンやらの何冊かを読んでいたのだが、大学生になってからこの映画をみて大杉栄のかっこよさに痺れた。この映画をみたあと、大杉の著作を何冊か読んだのを覚えている。

封切時は2時間45分にまとめたというが、購入したDVDでは、オリジナルの3時間30分を超すヴァージョンが収録されている。

この作品は、大杉(細川俊之)と伊藤野枝(岡田茉莉子)と神近市子(楠侑子。ただし、作中ではプライバシー問題に配慮して「正岡逸子」と呼ばれる)の三角関係のもつれから実際に起こった日蔭茶屋事件を描く。大杉は所有を否定し、それを人間感情にも広げて解釈して自由恋愛を主張し、生の充足を求めるが、野枝は大杉と夫である辻潤(高橋悦史)との間で揺れ動く。大杉の妻・保子(八木昌子)も市子も大杉の自由恋愛を受け入れられない。葛藤しつつ生を燃焼させる大正時代の政治運動家たちの状況と、現代(1969年)の方向性を見失って、「ごっこ」しかできなくなった若者たち(原田大二郎・伊井利子)を対比させて描いているといってよかろう。無機的な建築物の中で人間性を求めてあえぐ現代人の状況が浮き彫りになる。

フランスのヌーヴェル・ヴァーグの影響なのだろう、かなり前衛的な手法がとられている。鼻白むような、そして赤面するような文学青年風のセリフもたくさん出てくる(確かに、私が大学生だったころ、かっこよがってこんなことをしゃべっていた!)が、白黒の映像の美しさ、カメラショットの見事さ、斬新な構図は格別。

信じられないほどカッコイイ細川俊之もさることながら、虚無僧姿で放浪する高橋悦史演じる辻潤の虚無的な姿が印象的だった。今、みなおしてみると「大傑作」とまでは言えないが、それはそれで時代を確かに反映する秀作だと思う。

 

21bx8mmgt2l_ac_us200_ 「煉獄エロイカ」 吉田喜重 1970年

「エロス+虐殺」がとてもおもしろかったので、封切後、大いに期待してみたが、かなり失望したのだった。いや、それ以上にわけがわからなかった。今回みても、まったく同じ印象だった。途中までは何とか整理してみたが、途中からお手上げ。

過去(1950年)と現在(70年)と未来(80年)が錯綜し、様々な登場人物も入り乱れるが、同じ役者がいくつかの年代を同じ扮装で演じ、しかもどうやら別の役も演じているようなので、まったく話がわからない。途中から、理解しようという気もなくした。

どうやら、主人公・庄田(鵜田貝造)は現在では美しい妻(岡田茉莉子)を持つ優秀なレーザー光線の研究者だが、50年代には革命運動に身を投じ、運動の失敗の原因となったスパイの存在について今も疑問を持っている。そうした事柄を基軸に、突然現れた少女や、その父親だと名乗る人物などが現れて3つの時代をまたいで現実と幻影が交叉していく。そうとしかまとめられない。

思い出してみるに、1970年前後、わけのわからない(わざとわからなくした)実験演劇作品がたくさん上演されていた。多くの人がベケットやイヨネスコやアラバールの真似をし、もっとわからなくして悦に入っていた。この種のものを何本か見たし、台本をずいぶん読んだ。この台本もそれに近いと思う。

一体何が起こっているのかさっぱりわからないので、せっかくの美しい映像なのだが途方に暮れてみるしかない。どうやら、「裏切られて誕生した戦後」というテーマのようだが、それも自信を持って語ることはできない。ここまで理解できないと、やはり退屈してしまう。

主人公を演じている鵜田貝造はフランス演劇研究家で、後に立教大学教授になられた塩瀬宏先生の別名だ。吉田喜重の東大時代の友人ということで出演を持ちかけられたそうだ。私は立教の大学院で塩瀬先生には大変お世話になった(考えてみると、お世話になりっぱなしで、お礼も言っていない!)。今、久しぶりに若き日の塩瀬先生の演技を見て、素人っぽい演技だとは思うが、この役には違和感はないし、端正で知的な顔立ちはこの役に申し分ない。

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映画「葡萄畑に帰ろう」 あまりに陳腐だが、ジョージアの風景は見られた

 仕事が思った以上に早く片付いたので、岩波ホールに出向いて、「葡萄畑に帰ろう」をみた。エルダル・シェンゲラヤ監督のジョージア映画。

 さきごろ岩波ホールで開かれたジョージア映画祭のほとんどすべての映画をみたが、そのたびにこの予告編がかかっていた。これだけ予告編を見させられたからには、本編もみないわけにはいかない。

 が、予告編で想像していたのとはかなり異なる映画だった。まず、原題が「椅子」。映画の冒頭からずっと椅子が中心的に語られる。この椅子はCGによっておしゃべりをし、自分の意志で動く。登場人物に語り掛け、観客に向かって解説めいたこともする。

避難民を追い出す担当の大臣になったゲオルギは新しい高価な椅子を購入して悦に入る。が、選挙に負けて大臣の座を追われ、しかも前の首相に贈り物としてもらった家屋からも追い出される。最後にはそれまでの上昇志向の自分を改めて母親の経営する葡萄園に帰る。そうした物語が椅子を中心に語られる。権力に執着する椅子はゲオルギを追いかけるが、最後にはゲオルギはこの椅子を捨てる。それでも、椅子は復活し、ふたたび上昇を求める人間を探そうとする。そこで映画は終わる。

 あまりに陳腐だと思った。「大臣の椅子」を人間化してストーリーを展開すること自体、出来損ないのサラリーマン向けファンタジーのようだし、テーマもあまりにありきたり。ただ、それを臆面もなくやってのけているところにこの映画の価値があるといえるかもしれない。ある種のおとぎ話として、あえて人間描写も表面的にして描こうとしたのだろう。しかし、そうであるとしても、私は残念ながら魅力を感じなかった。

 日本語タイトルをつけた人や予告編を作った人も、「椅子」を出すとあまりに陳腐だと感じて、あえてそれを隠して、「葡萄」「ワイン」を強調したのだろう。が、実際には、葡萄の話はほんの少ししか出てこない。詐欺めいたタイトルと予告編だと思う。

 ただ現在のジョージアの都会と田舎の風景を見ることができた。避難民を抱える政治状況を知ることができた。ジョージアに強い関心を持ち始めている人間には、それはうれしいことだった。

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映画「運命は踊る」「ニーチェの馬」「倫敦から来た男」「パリ20区 僕たちのクラス」「カメラを止めるな」「検察側の罪人」

 映画館でみた映画、DVDでみた映画、飛行機の中でみた映画をとりまぜ、最近みた映画数本の感想を書く。

 

映画「運命は踊る」 2018年 サミュエル・マオズ監督

 渋谷の映画館でみた。サミュエル・マオズ監督のイスラエル映画。

夫婦のもとに兵役中の息子が戦死したという知らせが入る。夫婦は絶望するが、しばらくしてそれが誤報だったとわかる。夫は激怒して息子を戦地から呼び戻すように働きかけるが、せっかくそれまで無事だったのに、息子は命令を受けて帰宅している途中に交通事故で死んでしまう。そうしたことがあったために夫婦中はぎくしゃくして別居するようになるが、最後にはドラッグを使って無理やり心を通わせあう。簡単にまとめるとそんなストーリーだが、そこに描かれるのは戦争に疲弊する社会の病巣だ。

 父親は兵役時代に仲間を死なせてしまったことに深い傷を負って、そこから長い間逃れられず、自分の気持ちを整理できずに、今でもしばしば飼い犬を虐待しているようだ。息子は検問所で兵役の仲間たちとだんだんと泥に埋まって傾いていく兵舎で暮らしながらラクダがのんびり通るのを見守るような戦場とはかけ離れた検問をしていたが、ちょっとした誤解から何の罪もないアラブ系の人々の乗る車に乱射して殺戮してしまう。息子が交通事故で死んだのも、誤って人を殺してしまったことに苦悩しているさなかだった。

 イスラエルの映画でありながら、イスラエル人に人権を蹂躙され、自尊心を奪われて屈辱的な立場にいるアラブ人の状況がしっかりと描かれる。イスラエルの社会も、勝利しているわけではなく、すべてが傾き、ゆがみ、実は大義を失い、人と人の健全なコミュニケーションもなくしている。イスラエル政府に真正面から異議を唱えるわけではないが、映像や登場人物のあれこれの動きによってその矛盾を描いている。見事な映画だと思った。

 

81tgyndlrwl_sy445_ 「ニーチェの馬」 タラ・ベーラ監督 2012

 DVDを購入。とてつもない映画だと思った。言葉に表しようのない映画。これまでこんな映画は一度もみたことがない。「おもしろい」というわけではないが、ただただ圧倒された。

 かのニーチェは鞭うたれている馬に駆け寄ってそのまま意識を失い、発狂したといわれている。この有名なエピソードに基づくニーチェの発狂をもたらした馬のその後を描く物語。

とはいえ、激しい風の中の小さな家で父と娘が馬とともに生活する様子が白黒の映像で描かれるだけの映画だ。父親は右手が不自由らしく、娘の手助けがなければ服を着ることもできない。二人は極貧の中にいて、ジャガイモをゆでただけの食事を続ける。その過酷な生活の繰り返しが描かれる。ほとんど会話はない。一度、近隣の男がやってきて、一方的にニーチェ思想を語る。「曙光」の中に確かこのような文章があったと思う。だが、父親はこの男を追い返す。最後に馬は死ぬ。

ニーチェの思想さえもが浅はかな言葉にしか思えないような人間と馬の圧倒的存在感。あらゆる「意味」を排して、人間が存在する。ニーチェが恐れおののいて狂気に陥らざるを得なかったような存在。この馬は、サルトルの「嘔吐」におけるロカンタンの見たマロニエの木の根のようなものなのかもしれない。ロカンタンがマロニエの木を見て存在そのものを感じて嘔吐したように、ニーチェは馬を見て生命の存在というあまりに単純なものに気付いて発狂したのかもしれない。そう思わせるだけの力のある映画だった。

 

51hamtuetrl_sy445_ 「倫敦から来た男」 タル・ベーラ監督 2007

「ニーチェの馬」があまりに凄いので、タル・ベーラ監督の映画をネットで探して購入。この映画にも圧倒された。「ニーチェの馬」とは違って、こちらはジョルジュ・シムノン原作の犯罪映画。しかし、一般の犯罪映画の次元をはるかに超えている。

殺人を目撃し、殺された男の持っていた大金を拾った中年の男の行動を白黒の長回しの映像で追っていく。セリフがほとんどない。映像で心情をわからせるというレベルを超えて、人間の存在そのもの、生の奥にある本質そのものを描き出しているかのようだ。

私はフェルメールの絵画を思い浮かべた。もちろん、描き出される世界はフェルメールとはまったく異なるが、外観を描くだけでその奥にある存在そのものまでも描き出す技はまさしくフェルメールだと思った。カフェや部屋のものの光と影、俳優の肌の質感、目の動き、背景の人の動き・・・そのようなもののすべてがその奥にある世界を描き出している。凄まじい映画!

 

2081ngiiujiel_sy445_ 「パリ20区 僕たちのクラス」 ローラン・カンテ監督 2008

 パリ20区。移民の多い地区。その公立中学の教師とそのクラスの若者たちの話。まるでドキュメンタリー映画のようにリアルだが、俳優が演じているとのこと。主役を演じるのは自らの体験を描いた原作者本人(フランソワ・ベゴドー)だという。

生徒たちはアフリカ系、アラブ系、中国系が多く、勉強意欲がない。多くの生徒の学力も著しく低い。まさに学級崩壊状態。しかも生徒たちは自己主張をして、教師にたてつく。教師は必死にクラスを立て直そうとする。特に感動的な結末があるわけではない。きれいごとを排し、シリアスに教育とは何かを問いかけ、現代のフランス社会の断片を見せつける。

フランスと日本の学校の在り方の違い(なんと、生徒の退学を決める職員会議にオブザーバーとして生徒代表が出席している!)もわかる。教育に身を置く私自身も大いに身につまされる問題でもある。

それにしても監督の演出の手腕に驚く。本当に生意気な生徒たちとしか思えない。すべてのセリフが本人の心の中から生まれているとしか思えない。

 

「カメラを止めるな」 2017年 上田慎一郎監督

 話題になっているのでみたいと思っていたら、プノンペン行きの飛行機でみられた。

初めの三分の一ほどは、カメラを止めずにワンショットによるゾンビ映画が展開する。わざとらしく大袈裟でときどき不思議な間がある。ワンショットでうまくとれているのは見事だが、言われているほど面白くないと思ってみていたら、三分の一を過ぎてからはいわゆるメイキング映像になった。初めのゾンビ映画がどのような経緯で撮られるようになったのか、どうやって撮ったのか、どんなトラブルやアクシデントがあってそれを乗り越えたのかが描かれる。実におもしろい! 一つ一つに納得する。前半に張り巡らされていた伏線がすべて集束する気分を味わうことができる。しかも、そこにはダメ監督と妻、娘の家族の愛情回復の物語がからんでいる。最後には、ゾンビ映画にかかわった人々と一体化して感動を覚えた。こんな映画、これまでみたことがない!

 スタッフもキャストもまったく無名の人々。それなのに、こんなすごい娯楽映画がうまれるなんて。

 

「検察側の罪人」 2018年 原田眞人監督

 飛行機の中で「日日是好日」を見始めたのだが、茶道を教えるこのタイプの映画は少なくとも飛行機の中でみるべきものではないと思って、「検察側の罪人」に切り替えた。木村拓哉、二宮和也の競演で話題になったのは知っていた。期待しないでみたが、なかなかおもしろかった。

 この種の映画について内容を書くと「ネタバレ」になってしまうので、くわしくは書かないが、主役格の人々はしっかりと演じ、主人公のかなり極端な行動にもそれなりに納得できるようにはできている。過去の殺人を告白する異常な犯人を演じた酒向芳の存在感に圧倒された。最後まで退屈せずにみた。

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