映画・テレビ

映画「鵞鳥湖の夜」 フィルム・ノワールの形をとって躍進に取り残された人々の生をえぐる

 映画「鵞鳥湖の夜」をみた。とてもおもしろかった。引き込まれてみた。

 監督はディアオ・イーナン。中国の新鋭という。舞台は中国のたぶん南のほう。バイク窃盗団の抗争に巻き込まれて、誤って警官を殺してしまったチョウ(フーゴー)は仲間のつてで鵞鳥湖といううらぶれたリゾート地周辺に逃げ、妻とおちあおうとするが、そこに現れたのは仲介を頼まれた売春婦アイアイ(グイ・ルンメイ)だった。妻は出稼ぎに出たまま帰らぬチョウに愛想をつかしており、警察に密告している。チョウは傷を負いながら逃亡し、自分に身代金がかけられていることを知って、妻に密告させて妻子に金を残したいと考える。が、敵の窃盗団からも、警官からも狙われ、逃げ惑うしかない。結局、アイアイは妻に代わって密告し、その金を妻に渡すことを引き受ける。(ネタバレになるのでストーリーはこのくらいにする)。

 フィルム・ノワールという宣伝文句だが、まさにその通り。主人公たちが躍進を歌い上げる看板を背に歩く場面に象徴的に表現される通り、ここは開発から取り残された薄汚れたリゾート地。場末の汚れたホテルやレストラン、そこでうごめくやくざ者や権力を笠に着る小物や底辺で懸命に生きる人々が描かれるが、その映像はまるで美術作品のように美しい。そうであるだけに、薄汚れた建物や品が良いとは言えない人々が圧倒的な存在感で迫ってくる。そして、けだるそうにしながらも、チョウと妻の間でうろたえつつも力になろうとするアイアイの姿を初々しく描いていく。フィルム・ノワールという形をとりながら、躍進から取り残されて生きる人々の生きざまをえぐっている。

 鵞鳥湖に手を突っ込んで死ぬチョウの場面で、私はアンジェイ・ワイダの世紀の名作「灰とダイヤモンド」の主人公の死を思い出した。それに匹敵する壮絶な死だと思う。

 鵞鳥湖というのは実在するリゾート地なのだろうか。まさに躍進する中国の負の部分を象徴するかのような土地に見える。一度行ってみたいと強く思った。

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映画「ポルトガル、夏の終わり」「オフィシャル・シークレット」

 九州に台風が押し寄せている。九州出身で、その方面に知り合いの多い私としては大いに気になっている。大きな被害にならないことを祈る。

 昨日、京都シネマでみた「ポルトガル、夏の終わり」と「オフィシャル・シークレット」について、簡単な感想を記す。

 

「ポルトガル、夏の終わり」

 アイラ・サックス監督。しみじみとした良い映画。ただ何事かが起こるわけではない。エリック・ロメールの映画を思い出した。

 フランキーというあだ名で呼ばれる初老になった有名女優(イザベル・ユペール)はガンで死期を悟り、バカンスに関係者をポルトガルの名勝地シントラに集める。若い親友アイリーン(マリサ・トメイ)を頼りない息子ポールと結婚させたいと思うなど、自分の死後、残された家族を自分の思い通りに生活させたいと計画している。だが、フランキーの思い通りにはいかない。アイリーンはむしろフランキーの夫ジミーと心を通わせ始めている。フランキーは家族それぞれのそのような様子を、穏やかになって見つめる。ストーリーはそうまとめられるだろう。

 フランキーには最初の夫と現在の夫がおり、最初の夫との間に息子がいて、現在の夫に連れ子がいて、その家族ができている。初めのうち、その関係がつかめず、フランス語のほかに英語やポルトガル語が話される映画そのものが謎に思えるが、フランキーの病の状況とともに家族関係が徐々に明かされていく。そして、それと同時にさりげなく生活している人たちの心の奥が見えてくる。それぞれが不満を抱き、生活を変えようとし、それぞれに一応に解決策を考えているが、果たしてそれが長続きするかどうかはわからない。

 風光明媚なバカンス地でのそのような人々の生活が描かれる。最後、家族は全員が丘の頂に集まり、それをフランキーが見つめる。死にゆく人間が、自分の力で残された人々を動かそうという気持ちをなくして、半ばあきらめの気持ちでそれぞれの生を穏やかに見る。とても美しい場面だと思う。

 ああ、これが人生だよなあ……と思わされる。

 美しい風景、イザベル・ユペールをはじめとした俳優たちの見事な演技、そして徐々に心の奥が明かされていくシナリオ。情感をたたえながらも緻密に作られた映画だと思った。

 

映画「オフィシャル・シークレット」

 グアビン・フッド監督。エンターテインメント映画としてとてもおもしろかった。

 実話に基づく。アメリカのジョージ・ブッシュ大統領は、イラクが2001911日のニューヨーク同時多発テロ引き起こしたテロリストたちを支援し、大量破壊兵器を製造・所有しているとの理由で、国際連合安全保障会議によってイラク攻撃を呼びかけていた。実際にはそのような証拠は一切ないのに、強引に関係各国に呼びかけ、英国のブレア首相もそれに同調する。

 キャサリン(キーラ・ナイトレイ)はイギリス情報局に勤め、中国語関係の翻訳などをしているが、ある時、イラク対策を有利に進めるためにアメリカが違法工作をしていることを知る。ありもしない大量破壊兵器攻撃を目的として戦争が引き起こされ、大勢の人が死傷する恐れがあることに憤りをもって、キャサリンはこの情報をリークし、オブザーバー紙のブライト記者(マット・スミス)がそれを記事にする。キャサリンは国家機密漏洩の罪で逮捕され、夫がトルコ移民であるために政府から嫌がらせを受けるが、有能な弁護士エマーソン(レイフ・ファインズ)の手助けもあって、最終的には英国政府が事を荒立てるのを恐れて早々に幕引きを図り、キャサリンは無罪になる。

 イラク戦争はよく覚えている。私自身を含め、世界中の多くの人が、「イラクがテロリストを支援しているはずがない。大量破壊兵器など持っていないだろう」と思っていた。ところが、ブッシュ大統領が強引に戦争に突き進んだ。米国の最も愚かな行動の一つだ。結果的に戦争を食い止めることはできなかったが、リークすることによってそれをとどめようとした女性の詳細をこの映画によってはじめて知ることができた。小さな新聞記事で読んだ記憶はあったが、確かにこの女性はこのように苦しみ、このように迷い、しかしながらそれでも確固たる意志をもって戦ったのだろう。

 国家の理不尽、国家機密漏洩罪の矛盾、そしてそれを是正しようとしてキャサリンを支援する人々が存在する。そのような状況がリアルに、冷静に描かれる。強圧的で国家の論理を振り回す刑事たちも、それはそれで理性的であって、必ずしもキャサリンを全否定するわけではない。英国の民主主義国としての成熟を感じると同時に、感情的にならずに問題を取り上げようとする作り手たちの意識が見える。だからこそ、リアルで面白い映画に仕上がっている。

 ただちょっと思ったのは、もしこれが現在の日本であれば、キャサリンの名前も明かされ、素性もわかっているのだから、凄まじいマスコミ攻勢と、それ以上のネット攻撃にさらされ、通常の生活を維持することができなくなるだろう。時代が違うのか、それとも英国と日本の違いなのか。あるいは映画の中では詳しく描かれなかったが、キャサリンの個人攻撃に進まないような何らかの配慮が政府や警察などによってなされたのか。または単に、作劇上の都合によってそのような状況は映画から省かれたのか。

 ともあれ、権力側も含めて、現在の日本よりもずっと理性的に動く当時の英国のあり方に感銘を受けた。

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映画「シチリアーノ」 裏切った男の心のうち

 マルコ・ベロッキオ監督の映画「シチリアーノ」をみた。原題は「il Traditore」つまり、裏切り者。マフィアを捜査する検事に協力して、組織を裏切り、300人以上の犯罪者を逮捕に導いた実在の人物ブシェッタ(ピエルフランチェスコ・ファビーノ)を描く。

 ブシェッタはマフィアの一員として犯罪に手を染めながら、妻子を愛して暮らしていたが、内部抗争に巻き込まれ命を狙われる。しかも、ブラジルに逃げていたところ、警察に逮捕されてしまう。自殺を図るなどして逃れようとするが、有能なファルコーネ検事の取り調べを受けるうちに考えを変えて、むしろ現在のマフィアこそが本来のコーザ・ノストラ(マフィアを指す言葉だが、字義どおりには「われらが家」を意味する)を裏切っていると考えて、むしろ犯罪者逮捕の急先鋒に立つ。

 女好きで、家族を愛し、歌を好むブシェッタの人間らしい面、その苦悩と怒りを見事に描いている。初めのうち、たくさんの人物が次々と登場して名前と顔の識別に苦労したが、後半はそんなこともなく、心情を理解できた。

 ブシェッタはかつて殺した男を思い出す。その男は、自分が殺されると悟ってから、自分の子どもを常に幼い連れ歩き、殺人者が実行しないように仕向ける。ブシェッタはそれでも狙い続け、子どもが成長して結婚し、親から離れた日の夜、男を殺害する。殺される男の覚悟、その男を殺したころとその後のブシェッタの心情をうまく描くエピソードだと思う。ベロッキオはその場面をカットバックで挿入し、詩的に描く。

 終わりの部分で、当時の首相であったアンドレオッティの裁判でブシェッタが証人として証言する場面がある。そういえば、アンドレオッティとマフィアの関係が当時大きな話題になった。アンドレオッティを擁護する弁護士の手腕によって追い詰めることができなかった様子が描かれる。

 詩情にあふれる映像、心情の伝わる場面を追いかけながら、2時間半ほど、とてもおもしろくみたが、ただこれが「ポケットの中の拳」や「愛の勝利を」や「肉体の悪魔」ほどの傑作かというと、さほどとも思わなかった。

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映画「シリアにて」 ドキュメンタリー・タッチで緊迫のシリアを描く

 岩波ホールで、映画「シリアにて」をみた。監督はフィリップ・ヴァン・レウ。ベルギー出身の監督だ。

 シリア内戦中の首都ダマスカス。砲弾が飛び交う中、避難しないでマンションにとどまる家族の緊迫した一日を描く。夫が戦地に行っているため、妻のオームが義父と子ども3人の家族を守っている。そこに、上の階に住む若夫婦と赤ん坊も身を寄せている。ところが、朝、若夫婦は外国に逃れようとして夫がその算段に外出したとたん銃撃手に撃たれてしまう。家政婦がその瞬間を目撃し、若妻にそれを伝えようとするが、オームは、若妻がすぐに夫のもとに行くと危険があまりに大きいので知らせることを禁止する。オームの判断は正しかったのか、いつまで秘密を守れるか、オームはいつ打ち明けるのか。そうした緊迫した雰囲気の中で物語は進む。

 オームは家族を守るため責任を引き受け、若夫婦を乱暴な兵士の犠牲にする。きれいごとは許されないぎりぎりの中でオームは必死に身を守ろうとする。そうする以外に家族を守るすべがない。そのような状況を、この映画は過度に感情移入せず、ドキュメンタリータッチで描いていく。戦場のリアルが伝わり、残酷になっていく兵士たち、痛みを分かち合いながら生き抜こうとする人たちの様子がよくわかる。誰も信用できない。親しい人以外はみんな敵という状況。確かに戦場はこのような状況になっているのだろう。

 ただ、私の認識不足のせいだと思うが、マンションが正確にはどのような状況にあるのか、よくわからなかった。シリアは政府派と反政府派とISが入り乱れて戦っているということだが、若妻を犯す男たちは政府派なのかISなのか。この家族の宗教は何なのか。イスラム教の祈りの音楽が聞こえるのにこの家族は祈っている様子はないので、もしかするとイスラム教徒ではないのか。では、どのような状況にいるのだろう。そうしたことについて疑問が残った。

 若い夫は銃撃では殺されていなかった。病院に運ばれた。そこに救いはある。だが、安易な解決は示されないまま、映画は終わる。現実も同じように、解決の糸口はつかめないまま、まだしばらくこのような状況が続くのだろう。映画はそのような現実を教えてくれる。

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「17歳のウィーン」 時代に翻弄された人々

17歳のウィーン フロイト教授人生のレッスン」をみた。

 ローベルト・ゼーターラーのベストセラー小説「キオスク」をニコラウス・ライトナーが監督した作品。フロイトは一時期、かなり熱心に読んだ。フロイトが主人公として登場するのなら、見ないわけにはいかないと思ったのだった。とてもおもしろかった。

 17歳のフランツ(ジーモン・モルツェ)は、シングルマザーの母が土地の男たちの世話を受けて、湖のある山間部で育てられてきたが、生活が成り立たなくなり、母の知人であるオットー(多分、かつて母の面倒を見た男性)を頼ってウィーンのタバコ屋(正確には、Tabak Trafik)で働き始める。フランツはうぶで誠実で一本気。ボヘミア出身の少女と知り合い、恋に落ちる。常連の一人が精神分析学者のフロイト(ブルーノ・ガンツ)だったことから、フランツはフロイトの好む葉巻をプレゼントする代わりに恋愛相談に乗ってもらうようになる。

 時代はナチス侵攻期。ヒトラーはドイツで政権を握りオーストリアを併合する。ウィーンにもカギ十字が氾濫するようになり、ユダヤ人に好意的なオットーは嫌がらせを受け、ついには逮捕され、ゲシュタポ本部で殺される。ユダヤ人であるフロイトはだんだんと暮らしにくくなり、最後にはロンドンに亡命する。アネシュカはフランツの母と同じように、生活のためにやむなくナチス将校の愛人になる。そうした息苦しさ、ナチズムの浸透、生きるための必死の努力など、まさにナチスが勢力を拡大した時期、つまりはフロイトがウィーンで暮らした晩年の様子がリアルに描かれる。

 フランツはフロイトの「夢判断」に出てきそうな夢をたびたび見る。映画の中で夢の謎解きが行われるのかと思っていたら、そんなことはなかった。母が生活を愛人たちから得ていたことにわだかまりを持ち、性的な欲求に何らかのコンプレックスを持っていることがこれらの夢からうかがい知れるだけだった。

 フロイト理論が映画とどう関係するのかなど、疑問に思うところは多々あったが、ともあれ、時代に翻弄されながら自分らしく生きた青年と老精神分析学者、そして、男の性的な満足に身をゆだねるしか生きるすべがなかった二人の女性の生きざまを描く映画として、とてもおもしろかった。

 

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映画「剣の舞」 ハチャトゥリアンの人生を知ることができたが、特に感銘は受けなかった

 ユスプ・ラジコフ監督の映画「剣の舞 我が心の旋律」をみた。アラム・ハチャトゥリアンが「剣の舞」を作曲するまでの物語。

 ジョージア生まれのアルメニア人であるハチャトゥリアンは、ソ連の作曲家として活躍している。レニングラードの劇場でバレエ音楽「ガイーヌ」を初演準備中。ショスタコーヴィチやオイストラフも友人として駆けつける。ところが、ハチャトゥリアンを苦々しく思っている共産党の指導員が作曲を邪魔し、権力をかさに着て、ひそかに心を通わせているバレリーナを卑劣な手口で横取りしようとする。だが、ハチャトゥリアンは、アルメニアの魂を忘れず、虐げられている人々の心を描くべく、最後に「剣の舞」を仕上げる。

 ハチャトゥリアンは特に好きな作曲家というわけではない。だが、昨年だったか、ジョージアとアルメニアを旅行し、それを機会にハチャトゥリアンのCDも数枚聴いた。日本語ガイドさんとハチャトゥリアンの話もした。

 アルメニア人のトルコ人による虐殺に対する怨念、魂の故郷でありながら、今トルコ領となっているアララト山への思いはよく理解できた。ハチャトゥリアンの同胞への思い、ソ連でも悲哀を感じながら生きるしかないアルメニア人の思いも伝わってくる。

 ただ、ハチャトゥリアンの人生について知ることができたとはいえ、映画としては、共産党員の横暴、若い女性とのふれあいなどに既視感を覚えた。これまで何度も同じような映画をみてきたような気がする。それに、「剣の舞」そのものの作曲については特に描かれることなくすんなりと通り過ぎていった印象がある。機関車の音にインスピレーションを受けて「剣の舞」のリズムが生まれたように描かれていたが、それは実話に基づくのだろうか。もう少し民族的な意識の盛り上がりを描いてほしかった気がする。

 退屈せずに最後までみたが、特に感銘を受けることはなかった。

 

 

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ヴァルダの映画「ポワント・クールト」、クレマンの映画「生きる歓び」

「ポワント・クールト」 1954年 アニェス・ヴァルダ監督 

 ヴァルダの映画を数本立て続けに岩波ホールでみたが、「ポワント・クールト」がDVDで発売されたので、早速購入した。素晴らしい映画だと思った。ポワント・クールトとは狭い岬のこと。舞台となっている南仏の町セット(ポール・ヴァレリーの故郷。40年近く前、私はこの土地を通り過ぎた記憶がある)の海辺を指す。

 ヌーヴェル・ヴァーグはここから始まったといわれるだけあって、ゴダールやアラン・レネをほうふつとさせる作風。

 夫の故郷であるセットの浜辺にやってきた夫婦(フィリップ・ノワレとシルヴィア・モンフォール)を縦軸に、海辺の人々の生活が描かれる。夫婦は、レネの「去年、マリエンバードで」の中の男女のように観念的な言葉をぼそぼそと話しながら海辺を歩き回る。妻は夫の浮気をきっかけに離婚を考えている。夫は静かに引き留める。最後には妻は復縁を決意する。海辺では、漁師たちが役人を出し抜いて禁漁地域で漁をし、若い男女が恋をし、小さな子どもが病死し、祭りが開かれている。まさに生と死が静かに渦巻いている。モノクロの詩的な映像が激しい怒りと悲しみと愛憎を抽象化し、純化する。きわめて抽象的だが、同時にきわめてリアル。そのような奇跡をこの映画はなしている。

 ヴァルダの猫好きは知っていたが、この映画には執拗なほどに猫が出てくる。ほとんどの場面に何らかの形で猫が姿を現しているのではないか。海の中に浮かぶ猫の死体も映る。猫。これほど生と死を強く感じさせる動物はいない。私は猫が大嫌いで、猫を見るだけ不快になる(私はヴァルダ・ファンなのだが、ヴァルダの映画を見るとしばしば猫が登場するので閉口している!)のだが、私が猫嫌いなのは、おそらく生と死を目の前に突き付けられるような気がするからだ。この映画は、静かに、しかし強烈に生と死を突き付けてくる。

 フィリップ・ノワレは好きな俳優だが、これがデビュー作だという。若い! 女優さんもとても魅力的な顔つき。そのほかの人々は本職の役者ではなく、土地の人だろう。どの顔もその人の生きてきた姿をしっかりと描き出している。一つ一つの映像、一人一人の顔がそれだけで芸術だと感じる。

 久しぶりの心の奥から感動する映画をみた。

 

「オペラ・ムッフ」 1958年 アニェス・ヴァルダ監督

 17分の短編映画。ムッフというのは、パリのムフタール通りのことらしい。男女のヌードやムフタール通りの市場や商店などが映し出される。脈絡のない映像詩とでも呼ぶべきもの。音楽と字幕だけでつづられる。「ダゲール街の人々」と同じように、町に対する、そしてそこを行きかう人々に対するオマージュと呼べるような映画だ。ここでも人々の顔がとても魅力的だ。もちろん、美男美女ばかりではない。老若男女の様々な顔が映し出される。17分を超すと、これだけでは退屈するが、この時間であれば、一つ一つの顔の中に人生を感じて過ごすことができる。顔はそれだけで芸術である、と強く思う。

 

「生きる歓び」 1960年 ルネ・クレマン監督

 これまでこのブログで、古い映画の感想を書く際、しばしば「以前みたつもりだったが、どうやら今回初めて」といった文を加えてきた気がする。今、それについて自信がなくなっている。

 というのは、「生きる歓び」は絶対に間違いなく、1970年代にみた。かなり期待してみたが、まったくおもしろくないと思ったのをよく覚えている。で、今みたらどうだろうと思って、50年ぶりくらいにみた。ところが、まったく覚えていなかった! 1秒たりと記憶のある場面がなかった。してみると、私はこれまで、「みたつもりだったが、今回初めて」というのは、実は私が単に映画の内容を完璧に忘れているだけなのかもしれない。

 で、今回みたが、やはりつまらなかった。1920年代が舞台になっている。ユリウス(アラン・ドロン)は孤児として育ち、兵役を終えて仕事がなく、食べるために黒シャツ隊に入隊する。反体制的なビラを作った印刷所に調べに行くが、そこの娘に恋をして、そのまま印刷所で勤め始める。印刷所は経営者一家や従業員がみんなアナキストで、ユリウスはなりゆきから正体を偽って潜入しているアナキストの大物を装う。あれこれあって、ともあれ平和にすべてが収まる。コメディだとのこと。ただ、別に笑うところはなかった。

 警官とアナキストたちが和気あいあいとやっていたり、国家的な行事のたびにアナキストたちはお決まりで牢獄に入り、しかも抜け道があって、何人もがそこから一時的に脱獄したり・・・といった牧歌的なストーリー。ただ、そこにあまりリアリティを感じないし、おかしみも感じない。

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「アニエスによるヴァルダ」 日常の奥の心の襞を見つける

 アニエス・ヴァルダの映画「アニエスによるヴァルダ」をみた。90歳になったアニエス・ヴァルダが聴衆を前に自分の人生を語っている場面を中心に、過去のヴァルダ自身の映像作品が挿入される。初めて見る映像もかなりあった。

 自在な語り口。大きな枠に沿って話は進むが、自由に脇道にそれ、そうでありながら、またいつの間にか元に戻っている。「ダゲール街の人々」や「落穂拾い」や「アニエスの浜辺」や「顔たち、ところどころ」でも存分に発揮された語り口だ。しかも、今回は、90歳になったヴァルダ自身が直接に自分を語る。「5時から7時までのクレオ」や「幸福」の撮影秘話も語られる。

 興味をひかれることが多い。とりわけ、「幸福」が大好きな私としては、うれしい場面がいくつもあった。色に対する気遣い、音楽への関心が聴かれたことも収穫だった。

 人に対して尽きせぬ興味を抱き、人の行動に対して愛情を注ぎ、日常のさりげないものに新しい側面を見つけ出し、そこに人間の心の襞を見つける。これがヴァルダの精神だと思った。

 ただ、実を言うと、少々退屈したのだった。よく知らない作品も言及されるが、説明なしに語られるので、その意味するところをすぐに理解できない箇所もあった。2時間ほどの映画だったが、少々長すぎた気がする。

 映画はできれば映画館でみたいとしばしば思う。自宅でみると、雑用や気がかりのために集中できない。が、今回のこの映画に関しては、むしろDVDなどのソフトを家でみるほうがよかったと思った。家にいながら、映像を止めたり、前に戻したりしながら、過去のヴァルダの映画のDVDを引っ張り出したり、ネットで調べたりしてみるほうが楽しかっただろうと思った。続けてみると、ヴァルダの生涯の映画をうまく整理できないまま終わりそうな気がした。

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ヴァルダ監督の「ダゲール街の人々」「落穂拾い」 しなやかな知性と豊かな感性

 岩波ホールでアニエス・ヴァルダのドキュメンタリー映画を2本「ダゲール街の人々」と「落穂拾い」をみた。私は、50年以上前に「幸福(しあわせ)」をみて以来、ヴァルダの映画を愛してきた。この2本は見たことがないので、ぜひみたいと思っていた。

 

「ダゲール街の人々」 1975

 ヴァルダが住んでいたダゲール通りという庶民的な小さな通りの人々を描いたドキュメンタリー。老夫婦の営む香水・薬品などを扱ううらぶれた化粧品店や、ある店で行われたマジックショーを中心に、床屋、肉屋、パン屋、自動車教習所などの日常が淡々と描かれる。特にドラマがあるわけではない。はっきりした主張があるわけでもない。

 中年以上の人、とりわけ夫婦が描かれる。華やかなところのない、言ってみれば、少しくたびれた、美男美女でもない、ふだんは映画の画面に出てこない人々。決して清潔ではなく、おしゃれでもない、むしろ不潔で薄汚れたお店で客に接待し、おかしな客が来たり、なじみの客が来たりして対応する。

 今は失われてしまった下町の光景。店で肉を切り分け、客に目の前で肉を切って渡す。口にくわえたナイフでパンに筋目を入れて焼く。スーパーでは見られない光景だ。長年寄り添った男女がヴァルダのインタビューに答えて、そこに住む人たちの出身地や夫婦のなれそめを語る。

 多くの人が地の自分を見せる、ヴァルダはなんらかの思想に基づいて何かを断罪したり支持したりすることなく、すべてに愛情をこめて描く。ヴァルダの好奇心は行きつ戻りつする。好奇心の赴くままにカメラが動く。何という自由な感性、何というしなやかな知性!

 この映画は1975年に撮られたらしい。私が初めてパリを訪れたのは、1977年。私が初めてパリを訪れたころの光景が描かれていた! 私はモンパルナスの安ホテルでひと月以上を過ごし、まさしくこの映画に出てくるようなお店でパンやチーズを買っていた。モンパルナスの場末の店も、ダゲール街と似ていた。ダゲール街と私がうろついていた界隈は距離的にもすぐ近くのようだ。華やかな世界を予想してパリを訪れた私はこのようなパリの姿に驚き、同時に大きな魅力を感じた。それがそのまま描かれている。ああ、当時、こんな服装だった! こんな店構えだった! フランス人はこんな態度だった! そう思いながら懐かしさがこみあげてきた。

 それにしても、登場するのがほとんど白人。そこが現在と異なる。現在、同じ場所を撮影したら、半分近くが有色人種だろう。その面でも時代の変化を感じる。

 映画の最初から何度も登場する化粧品店の老いた女性が、どうやら認知症らしいことが徐々に観客にも見えてくる。初めから顔に表情がなく、挙動がおかしいのに気付いていたが、いよいよ不思議な行動をとる様子が示される。そうした様子をもヴァルダ愛情をこめて描く。失われゆくパリの世界。失われゆく人間の世界。ああ人間。

 懐かしいパリを見ることができ、ヴァルダの初々しい感性に触れることができて、とても感動。

 

「落穂拾い」 2000

 ミレーなどの画家の落穂拾いの様子はしばしば描かれている。そこに着想を得て、現代社会における落穂拾いをする人、ものを拾う人、そして、情景の落穂拾いをするヴァルダ自身(原題はLes Glaneurs et la Glaneuse「落穂拾いをする人々と落穂拾いをする女性」 女性単数形の定冠詞のついた拾う人というのは、もちろんヴァルダを指す)を描く。

 ものを拾う人を肯定的に描く。収穫後、農場に取り残された野菜や果物を貧しい人々がやってきて拾って貴重な食べ物にする。職をなくした人、移民として生活苦の中にいる人、半ば趣味として拾っている人、そこから芸術作品を作っている人、都会の中でホームレスとして生きている人。

 そんな人たちがヴァルダの前では自然な姿を見せる。飽食社会、ものを無駄にする社会、そのために食べるものがなく苦しんでいる社会、そうした社会を人々が語る。ヴァルダ自身は声高に何かを主張するわけではない。それに反対の立場の人がいても素直に耳を傾ける。

 登場する人物が皆とても魅力的だ。パリの市場の近くで捨てられた野菜をその場で食べて生活している男性が、ボランティアで移民にフランス語を教えている。そのような人々の営みが、「拾う」という行為を追いかけるうちに見えてくる。

 素直に見たいものを見て、それを率直に表現し、論理にも縛られず、自由自在に撮影し、自在にそれを編集する。まさに、社会の中で落っこちているものを自由に拾って映画にする。そこにヴァルダの知性と感性が魅力的に現れる。しなやかな知性と豊かな感性があってこそできる映画なのだと思った。

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新作映画「ペイン・アンド・グローリー」 私自身の映画に思えた

 ペドロ・アルモドバル監督の「ペイン・アンド・グローリー」をみた。アルモドバルの映画は10本くらいみたと思うが、これはその中でも出色だと思う。

 自伝的映画といってよいだろう。簡単にまとめてしまうと、老年を迎えた映画監督サルバドール(アントニオ・バンデラス)が体中の不調に苦しんでいるさなかに、痛みに耐えかねてヘロインに手を出し、ますます創作意欲を失っていたところ、子ども時代を思い出し、またかつての愛の対象だった男性と再会して創作活動を再開するまでを描く。

 そのような縦軸のなかに、信心深く、溌剌とした若いころの母親(ペネロペ・クルス)とのやり取り、かつての映画作品の演技をめぐって対立し、その後、30年以上にわたって絶交していた男優との和解、サルバドールに男性の肉体美への欲望を芽生えさせた素人画家との交流などが、初々しく、懐かく、しかも生き生きと描かれる。

 アルモドバルは私とほぼ同年代だと思う。スペインと日本なので、かなり状況は異なるが、私は場面のあちこちに思い当たる情景を見つけ出して、心をゆすぶられた。

 川で洗濯する母親たちの集団のそばで戯れるという、今の子どもでは考えられないような体験を九州の山間部出身の私はしている。母親に手を引かれて新しく住むぼろ家のまえに立った経験が私にもある。左官のお兄さんの仕事を見ていたこともある。そして、私もアルモドバルと同じように、田舎では成績優秀の部類に属し、家族に期待されながら、その実、人に言えないような欲望を抱き、考えてはならないことを考えていた。秘めた恋の思い出ももちろんある。高齢になった母親にあれこれと依頼をされながら、私もごまかしごまかしして、それに答えていない。形は違うが、主人公の行動のあれこれが思い当たる。すぐれた作品の多くがそうであるように、この映画もまた、「この主人公は俺そのものだ!」と思わせる力を持っている。

 それにしても、何と映像の生々しいこと。生きた肢体があり、生命力を持った自然がある。様々な色が不思議な自己主張をして、それが見事に調和している。様々な要素が入り混じり、そして、それが生命力の回復、創作欲の回復につながっていく。俳優たちの演技の見事さにも舌を巻く。

 これが普遍性のある映画かどうか、私にはわからない。ただ私は、この映画が好きだ。他人事とは思えない。私自身の映画に思える。

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