映画・テレビ

映画「50年後のボクたちは」「父、帰る」「裁かれるは善人のみ」「エレナ」「華麗なるギャツビー」

 数本の映画をDVDなどで見たので簡単な感想を記す。

 

5081redmmccl_sy445_50年後のボクたちは」 ファティ・アキン監督 2017年 ドイツ映画

 先日見た「女は二度決断する」のアキン監督の前作。原題は「チック」。ドイツのベストセラー小説の映画化とのこと。クラスのはみ出し者のマイクは14歳。父は若い女性と浮気、母はアル中。クラスではほかのほとんどの生徒が憧れの女の子の誕生パーティに呼ばれているのに、一人だけ呼ばれていない。そんな時、東方ロシア(つまり東洋系の容姿)出身のチックが転校してくる。マイクの両親が家を離れた夏の日、意気投合して、チックが無免許運転する車で南に向かって無鉄砲な旅に出かける。そのロードムービー。二人は途中で少し年上の女の子イザと出会う。しばらく行動をともにする。山に登り、三人で50年後にも会おうと約束する。

チックの過去もイザがなぜそのようなところにいるのかもまったく説明がない。二人の食事を振る舞ってくれる子どもたちと女性がどのような人なのかもわからない。その夏だけの不思議な体験。そこが面白い。ブルジョワ階級の愛に恵まれない少年が得体のしれない人間たちに出会って、自分の世界の外に出ていく。

子どもの無軌道な行動に対して、大人としてはあれこれ心配になるが、ともあれすがすがしい。なぜすがすがしいかというと、自分にも覚えがあるからだろう。私も中学生のころ、家出したことがある。すべての社会的束縛をすてて無軌道なエネルギーを発散したかった。チックのような、悪いことを教えてくれる同級生もいたし、仲良くしていたこともある。それを思い出す。3人の主人公はとても魅力的に描けている。

 

「父、帰る」 2004年 ロシア アンドレイ・ズビャギンツェフ監督

 確かに歴史に残る素晴らしい映画だと思った!  ただ何を言いたいのかとなると、よくわからない。

 母や祖母と暮らす兄弟(中学生くらいのアンドレイと小学生くらいのワーニャ)のもとに、12年間家を出ていた父親が突然帰ってくる。兄弟は父に連れられて、泊りがけで釣りに行くが、父は強圧的で子どもたちに理不尽に命令し、それに従わないと暴力をふるうばかり。しかも、計画を変えて、別のところに行き始める。そして、湖に行き、ボートで無人島に行って、何かを探す。兄のアンドレイは従順で父親に従う様子を見せ、弟ワーニャは反抗を繰り返す。父は無人島で事故で死に、二人は父の遺体をボートに乗せて帰ろうとするが、父の遺体はボートともに湖底に沈んでしまう。

 カフカ的世界だと思った。父親の行動(無人島に何かを隠していたのを掘り出したらしい)も、兄弟の行動もすべて無駄になる。理不尽な命令にしたがって、兄弟は必死に行動するが、その行動にどういう意味かわからずにいる。何の結果ももたらさない。ただただ理不尽。

 ロシア人は、大きな革命に巻き込まれ、強大な権力によって多く犠牲を出したが、結局、理不尽な結果しかもたらされなかった。殺伐とした精神の中にいる。ロシアの人々はそのような精神状況にいるのかもしれない。そのような世界をこの映画は鋭く描いている。しかし、もちろんそれはソ連にかぎったことではない。現代人は西側の人間もこの映画のような荒涼とした精神の中にいる。この映画を見ると、改めてそのことに気付かされる。

 それにしても圧倒的な映像美。一つ一つが絵画のよう。最後まで招待が明かされず、不気味で理不尽で、しかもどこか人間的な父親を演じる役者にも、二人の子どもたちの演技にも感服。

 先日、この監督の「ラブレス」を見て、とてもよい映画だと思ったが、私は「父、帰る」のほうに圧倒的な感銘を受けた。

 

812wjbvp8al_sy445_ 「裁かれるは善人のみ」 2014年 ロシア アンドレイ・ズビャギンツェフ監督

 同じズビャギンツェフ監督の映画。

 ロシアの海辺の町に住む中年男コーリャ。権力によって欲望を満たす横暴な市長に家を取り上げられ、頼っていた旧友の弁護士に妻を寝取られ、しかも、その妻は自殺したため、殺した疑いをかけられ、15年の刑を言い渡される。踏んだり蹴ったりの人生。その苦悩を荒涼とした風景とともに描く。弁護士も妻も自分なりに懸命に生きようとしている。だが、どうにもならない。誰もが生きる意味を見出すことができず、真実はどこにもなく、ただ欺瞞だけが横行する。そのような世界を絶望感をもって描く。

 日本語タイトルがよくないと思った。これではまるで権力に打ち負かされる善人の悲劇のようではないか。映画の中で「ヨブ記」について語られる。原題は「リヴァイアサン」。ホッブスの著書で有名だが、もとは「ヨブ記」に出てくる海の怪物を意味する。コーリャが、まさしく踏んだり蹴ったりの人生を歩みながらも神を信じるヨブと重ねあわされている。だが、コーリャは飲んだくれで暴力的であって、決して善良な人間ではない。しかも、神を信じていない。もはや神を信じられなくなったヨブが海の怪獣リヴァイアサンに痛めつけられる物語とでもいうか。リヴァイアサンは単に権力を意味しているわけではないだろう。不条理で理不尽な超越的なものだろう。誰もが必死に生きているのだが、わけのわからない力に翻弄されて打ち負かされてしまう。そんな世界を描いている。

 荒涼たる海、廃船、人の通らないさびれた道路、海岸のうらぶれた景色が圧倒的迫力で迫る。だが、作品の出来としては、「父、帰る」には及ばないと思う。

 

71ylkdf6htl_sy445_ 「エレナ」 2011年 ロシア アンドレイ・ズビャギンツェフ監督

 元看護師のエレナは資産家である現在の夫と再婚。平穏に暮らしている。ところが夫が病に倒れ、死を覚悟することになる。夫は遺言書を書くというが、それはエレナにとって好ましいものではない。放置すると、前の夫のとの間にできた子ども一家、とりわけ孫のサーシャの大学進学のための資金がなくなる。エレナは毒薬を夫に与えて遺言書を書きなおす前に殺害する。それだけの話だ。ある意味できわめて単純。最後、夫と暮らしていた豪華な家に子ども一家を呼び寄せる。自堕落で他者に依存しているばかりの家族。とりわけサーシャは勉強もせず、悪い仲間と暴力事件を起こすばかり。映画の冒頭と最後、ほとんど動きなしに家が映し出される。一体エレナの行動にどのような意味があったのか、大罪を犯して手に入れたものはどれほど愚かなものか。それを冒頭と最後の映像が静かに語りかける。とても単純でわかりやすい映画だが、映像の力に唸ってしまう。

 

「華麗なるギャツビー」 1974年 ジャック・クレイト監督

 40年以上前、予告編を見た覚えがある。本編も見たいと思ったが、原作を読む前に映画を見るのに抵抗があった。そして、映画も音楽も文学もヨーロッパびいきで、英米ものに惹かれることの少ない私は、フィッツフェラルドの原作になかなか手が出なかった。最近、やっと野崎孝訳を読んだので、NHKのBS放送を録画していた1974年の映画を見てみた。

 原作を読んだ直後に映画を見ると、あれこれと不満が出てしまう。これでは、語り手のニックがあまりに木偶の坊。トムもあまりに粗暴。デイジー(ミア・ファーロー)、マートル(カレン・ブラック)ら登場人物たちがあまりに大袈裟に演技し、あまりにわかりやすく、原作にある繊細さが感じ取れない。ギャツビー(ロバート・レッドフォード)の純情も魅力も十分に伝わらない。ただ、映画の中の桁外れに裕福で豪華な世界にびっくり。九州出身の田舎者で、しかもそれほどお金に余裕のない階層出身の私は小説を読んでもこれほどの豊かさを想像できなかったが、確かにフィッツジェラルドが描いたのもこのようなスケールの出来事だったのかもしれない。登場人物たちの行動に納得できないところがあったが、なるほどこれほどの金持ちだったら、そういう行動をとるのかもしれないと思えるところはいくつかあった。

 とはいえ、映画を見て、原作での語り手ニックの位置づけなどが見えてくる。収穫はたくさんあった。

 

201391s7xbdz9l_sy445_ 「華麗なるギャツビー」2013年 バズ・ラーマン監督

 1974年の映画を見て、不満を感じたので、2013年に作られた「華麗なるギャツビー」もみてみた。ほとんど漫画的といえるほどに豪華さ、贅沢さを描く。このほうがむしろ不自然さを感じない。語り手ニック(トビー・マグワイア)の役割も納得できる。ギャツビー(レオナルド・ディカプリオ)もいい味を出している。あれこれ付け足して説明過剰ではあるが、原作(村上春樹訳を購入して読んでみた。少なくとも私の世代には野崎訳よりも村上訳のほうがずっと読みやすい。自然にこなれていて、細かいところまで神経が行き届いた訳だと思う)のエッセンスはこちらの映画のほうが伝えているように思った。

 ただ、この映画を見ても、原作の味わいを映像で出すのは難しい・・というこれまで何十回となく感じてきたことを改めて思った。

 

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大分のナイヤガラの滝と呼ばれる原尻の滝、そして映画「馬を放つ」のこと

 一昨日(2018年4月21日)から大分市に来ている。市内にある岩田学園を、私が塾長を務める白藍塾がサポートして小論文指導をしているので、その業務の一環として学園を訪れるため。岩田学園を訪れるのは今日(23日)だけだが、大分市は私が10歳から18歳まで過ごした土地なので、少し前に大分入りして、少し近くを回ることにした。一昨日の夜は大分付近に暮らす旧友二人と飲食をともにし、昨日はそのうちの一人の車で、快晴の初夏の陽気の中、原尻の滝にいった。ナイヤガラの滝とよく似た滝だ。今、かなり有名なようだが、私が大分にいるころには知られていなかった。友人も初めてだというので、出かけたのだった。

 友人は仕事と観光で134か国を訪れ、ナイヤガラの滝の近くに住んだこともあるというが、その彼もナイヤガラの滝に似ていると感嘆。その後、佐賀関にあるよしだ会館というレストランで昼食。関アジ、関サバを堪能した。その後、大分のホテルまで送ってもらった。

 夕方にはひとりで大分市内の映画館で「馬を放つ」を見た。岩波ホールで見たいと思いながら、時間が合わずにいた。大分で見られるのはラッキーだった。アクタン・アリム・クバト監督のキルギス映画だ。素晴らしかった。感動してみた。

 ケンタウロスと呼ばれる初老の男。かつては映画技師として働いていたが、現在では建設現場で働き、聾唖の障害を持つ妻との間に言葉を発しない息子と幸せに暮らしている。ところが、夢を見たことから、馬は人間の翼であり、神に近づくことのできるものだというキルギスの伝説を実践したいと考えるようになる。そして、競走馬として飼われた馬たちを野に解き放つ。そこに、遠縁の権力者やケンタウロスに好意を持つ未亡人シェラパット、そのシェラパットに片思いを寄せる泥棒のサルディが絡んで物語は展開する。

 最後、ケンタウロスは村を追放され、サルディに撃たれて死ぬ。が、それと王子に、それまで言葉を発しなかった息子が「倒産」という声を発する。

 ケンタウルスはどこまでも優しい男だ。人間に対しても馬に対しても。馬とはケンタウロスにとって神に最も近い自然そのものなのだろう。人間は自分の都合で自然を破壊する。人間は自分の都合で馬をこき使い、虐待する。ケンタウロスは宗教的な教義には無関心だ。ただ馬を通して神に近づこうとしている。

 キルギスでは中東ほどイスラム教の戒律が厳しくなさそうだ。キルギスの伝説が神の教えと融合しているらしいケンタウロスの考えは異端に属すだろうが、それほど厳しくとがめられない。アクタン・アリム・クバト監督はケンタウロスを肯定的に描く。

 私はドストエフスキーの「白痴」を思い出した。現代に現れたキリストのような他者を愛し、聖なる部分を持つ男性。現代社会に、イスラム社会におけるキリストのような人物が再現し、周囲と折り合うことができずに追放されてしまう。監督はドストエフスキーの徴を映画の中に残しておきたかったのではないだろうか。遠縁の横暴な警察署長、少し頭の足りない宗教勧誘者などドストエフスキー的人物といえるだろう。

 かつて映画館として使われていた場所で村人たち祈りをささげている時、ケンタウロスはふと思い立って、映画技師にもどって馬が走る昔の映画を映し出す。感動的な場面だった。

 何か所か私はかなり深く感動した。

 ただ、大分ではよくあることかもしれないが、この映画を見ていた観客は私を含めて3人だけだった。しかも、私ともう一人は間違いなくシニア料金。いつまでこの映画館が成り立つか少々心配。

 本日、このあと岩田学園で研修を行い、特別授業を行うが、早く目が覚めたので、この文章を書いた。

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映画「女は二度決断する」 衝撃的なラストだが・・・

「そして、私たちは愛に帰る」や「消えた声が、その名を呼ぶ」を監督したトルコ系ドイツ人ファティ・アキンの新作映画「女は二度決断する」をみた。前の2作が衝撃的だったので、今回も期待してみた。期待を裏切らない衝撃作だった。

新作のストーリーを書くと、「ネタバレ」ということになるだろうからくわしくは書かない。トルコ系の男性と結婚したドイツ女性カティヤ(ダイアン・クルーガー)。ところが、夫と息子がネオナチによるテロで殺されてしまう。カティヤは爆弾を仕掛けた女性を目撃していたこともあって容疑者はしばらくして特定される。だが、・・・・。

アキン監督はこれまでもトルコ系ドイツ人の置かれた状況をたびたび描いてきた。今回はまさしく真正面からその問題を取り上げている。小細工もせず、複雑な状況を絡めることもなく、シンプルに怒りと悲しみ、そして復讐心を描く。観客はカティヤとともに被告夫婦に憤慨し、その弁護人や偽の証言をするギリシャ人に憤慨する。カティヤの復讐心、最後の決断も十分に理解できる。私は夢中になって最後まで見た。そして、最後、カティヤの行動に衝撃を受けた。

ただ、やはりアキン監督にしてはシンプルすぎる。深刻な問題であるだけに、アキン監督は余計なものを描きたくなかったのだと思うが、もう少し社会情勢を描くなり、トルコ系住民の心の奥を描くなりしてほしい。私はこの作品は、「そして、私たちは愛に帰る」や「消えた声が、その名を呼ぶ」には及ばないと思った。

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映画「ラブレス」「15時17分パリ行き」

 映画館で2本、最近封切られた映画を見たので、簡単な感想を書く。

 

「ラブレス」 アンドレイ・ズビャギンツェフ監督 ロシア映画

 歴史に残るような名画であるという評を読んだので、映画館に足を運んだ。とても良い映画だった。ただ、歴史に残る名画かというと、それほどとは思わなかった。

 愛情の冷めてしまった夫婦。ともに別の愛人をもって、そこで愛の枯渇を癒そうとしている。夫婦とも愛のない家庭で育ったことがほのめかされる。そのため夫は子どもにどう接してよいかわからず、妻は子どもを産んだことを後悔し、自分がされたと同じように子どもに冷酷な言葉を投げつけ、ほとんど「ネグレクト」の状態。夫婦は子どもの親権を相手に押し付けようとするが、その話を聞いてしまった12歳の少年が失踪する。夫婦は愛人との時間ばかりに気を取られて子どもの失踪に気付かない。2日後に気付いて捜索を開始するが、夫婦の溝は深まるばかり。捜索もボランティア(それにしても、ボランティア団体が真剣に捜索しているのに驚いた)が中心で、その間も夫婦はそれぞれの愛人との性愛の時間をなくそうとはしない。結局子どもは見つからずに、夫婦はそれぞれ別の家庭を持つようになる。子どもは何らかの事情で池に入ったらしいことが仄めかされるが、子どもの状況はわからない。

「ラブレス」という言葉を聞いただけで、私は「愛の不毛」を描いたアントニオーニ監督(パゾリーニ、ワイダとともに私の大好きなヨーロッパの映画監督だ!)を連想する。映画をみながら、とりわけアントニオーニの名作「情事」を思い出した。ある無人島で女性が行方不明になる。女性を探す男と女が探索を進めるうちに心を通い合わせるようになるが、行方不明の女性の「不在」が空虚な重しとなって心から愛し合うことができない。「情事」はそんな映画だった。

「ラブレス」でも、息子の失踪の後、夫婦の間に息子の不在がのしかかって、別の家庭を持ちながらも愛ある家庭を作ることができない。妻はとりわけ、以前と同じようにずっとスマホをいじり、横にいる夫と心を交わそうとしない。そして、アントニオーニが空疎で不毛な現代社会を映像にして見せたように、ズビャギンツェフも荒廃した無機質なロシアの社会を映像化する。

 映画の中でしばしばテレビやラジオのニュースが流れる。社会の荒廃ともいえる様々な出来事が報道され、ある宗教団体の語る世界の終わりが話題になっている。映画全体から、人々が愛を失い、他人に対する関心を失い、世界は無機質になってついに終末に向かっている、というメッセージが読み取れた。

 ピアノの連打の悲痛な音楽(アルヴォ・ペルト作曲らしい)が印象的だった。現代人の心の叫びに思える。

 

「15時17分 パリ行き」 クリント・イーストウッド監督

 アムステルダムを15時17分の出発したTGVにテロリストが乗り込み、大量虐殺を企てるが、アメリカ出身の三人の若者がそれを食い止め、銃で撃たれた人も助ける。世界で大きく報道された大事件を87歳のイーストウッドが映画化した。しかも、三人の青年を実際の人物が演じている。本人が演じるだけに、まさしく等身大の英雄たちが映画に現れる。

 問題児だった三人が自分の生き方を探りながら成長していく。しかも、それまたきわめて等身大。ごく普通の青年たち。ナンパっぽいことをし、飲んだくれ、当たり前の日常を過ごす。ただ、運命に操られるように、アムステルダム発の列車へと導かれる。人を助けたいと思って軍隊に入り、それまで経験していたことが、まるでそれを実現するために準備されており、あらかじめ定められていたかのように。三人に演技力があるわけでもないので、いっそう日常のことであるかのように感じられる。三人以外にも、何人か実際にテロにあった人たちが本人として登場しているという。

 考えようによっては、たまたま血気盛んな休暇中の兵士が友だちとともに乗った列車でテロリストに遭遇して退治したというだけのことなのだが、それをイーストウッドは若者たちの自己実現として描く。その手際がいい。そもそも、本人に出演させて、これだけの映画に仕上げる手腕にも驚嘆する。

 英雄を描くとどうしても超人になってしまう。イーストウッドが演じたダーティ・ハリーもそうだった。が、今回の映画は、本人が演じ、しかも、それが普通の若者だったこともあって、まさしく等身大で真実の英雄物語ができ上がった。その意味ではまさしく画期的な映画だと思った。

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アルモドバル監督の映画

 スペインの映画監督ペドロ・アルモドバルの作品をこれまでみたことがなかった。DVDを何本か見たら、これがなかなかおもしろい。感想を書く。

 

21f0zkq7ejl_ac_us160_ 「バチ当たり修道院の最期」 1983年

 なんだかよくわからない映画だった。ヘロイン中毒の歌手ヨランダは、恋人がヘロイン接種で中毒死したために修道院に逃げ込む。ところが、その修道院は資金切れで閉鎖間近。しかも、尼さんたちはヘロインを平気で吸ったり、神父と恋に落ちていたり、官能小説の作家だったり。しかも、ここでは虎が飼育されている。厳しい修道院長がやってきてついに閉鎖になり、ヨランダも去っていく。はて、アルモドバルは何をしたかったのか。謎だ。

 

51cgml2xxnl_ac_us160_ 「グロリアの憂鬱」 1984年

 不思議な映画。マドリッドの剣道教室(ちゃんと、日本式にきちんと練習しているようだ!)の掃除婦をする中年女性グロリア(カルメン・マウラ)。うだつの上がらないタクシー運転手の夫、口うるさい義母、ドラッグ売人の長男、年上の男性の性の相手をしているらしい次男、隣に暮らす売春婦、そこに出入りするいかがわしい客たち、同じアパートに暮らす母娘(その娘は超能力者!)との救いのない生活が深刻にならないタッチで描かれる。グロリアも気軽にいきずりのセックスをし、ドラッグ漬けになり、夫を死なしてしまう(あえて、「殺して」とは言わない)が、家族全員がそれほど大きなこととはとらえていない。

現実的とは言えないことばかり起こるが、不思議なリアリティがある。「バチ当たり修道院の最期」と似たタッチだが、私はこの映画には魅力を感じた。ありそうもない話の展開の中に人間の本質的な部分を描いているといえるだろう。あえて言葉にすれば、「孤独感」ということになるだろう。

 

51xlbprr0l_ac_us160_ 「私の秘密の花」 1995年

 覆面ベストセラー女流作家レオは、自分の才能と激しい感情を持て余している。愛する夫に親友との長年の裏切りを告白される。才能を認める編集者に愛され、レオも徐々に愛を取り戻していく。そんなストーリーにまとめられるだろう。が、ストーリーそのものよりも、鮮やかな色遣い、ドタバタした中での深い孤独感の表現が見事だと思う。レオのどうにもならないやるせない気持ちが伝わってくる。とても良い映画だと思う。

 

51vkl4eirl_ac_us160_ 「トーク・トゥ・ハー」 2002

 とてもおもしろかった。

 牛との戦いで植物状態になった女闘牛士の恋人であるノンフィクション作家と、同じように植物状態になった若きバレリーナを介護する介護士の若い男性。以前、オペラ観劇(パーセルのオペラのようだ)中に出会い、その後、病院で言葉を交わすようになった二人の男性が友情を深めていく。女闘牛士は死に、バレリーナは奇跡的に意識を取り戻す。だが、介護士は植物状態のバレリーナを妊娠させた疑いをかけられ逮捕され、自殺する。二人の男性の孤独でやるせない愛が痛いほどわかる。

 愛する人が物言わぬ状態にいる。一方的な愛になってしまう。互いに愛し合っているという錯覚を抱くが、それは自己満足でしかない。考えてみれば、愛というのは実は植物状態の相手に一方的に愛を確かめようとしているだけなのかもしれない。そんなことを考えてしまう。

 アルモドバル監督の映像も美しい。深刻な状態を、あまり深刻にならずに描いていくのも実にいい。バレー教師の役でジェラルディン・チャップリンが出演しているのでびっくり。スペイン映画にも多数出演しているとは知らなかった!

 

51jajuvoubl_ac_us160_ 「ライブ・フレッシュ」 1997年

 素晴らしい映画。バスの中で売春婦が産み落とした男の子ビクトル。長じて、たまたまであった女性エレナに一目ぼれして、その自宅を訪れるうち、エレナの持ちだしたピストルで、駆けつけた刑事を傷つけてしまう。ビクトルは服役中、テレビで刑事が半身不随になりながらパラスポーツを楽しみ、エレナを妻にしていることを知って、憎しみを募らせる。刑務所から出ると、すぐにエレナに会いに行こうとする。

ストーリーはこのくらいにするが、一方的に憎しみを募らせる歪んだストーカーと思われたビクトルが実は純情であり、最後にはエレナと結ばれる。ビクトルもエレナも二人の刑事も、もうひとりの重要人物クララも、それなりに懸命に生き、自分の愛を守ろうとするが、それが思わぬ方向に進んでしまう。人生の重み、人と人のつながりについて考えこみたくなる。それを色彩鮮やかに描く。エネルギーと猥雑さと生きる悲しみにあふれた名作だと思う。

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映画DVD「過去のない男」「街のあかり」「パラダイス・ナウ」「歌声にのった少年」「クーリエ」

 カウリスマキ監督とハニ・アブ・アサド監督の映画をDVDでみた。感想を書く。

51infxnwunl_sy445_ 「過去のない男」 フィンランド映画 アキ・カウリスマキ監督 2002

 カウリスマキ監督らしい、ちょっととぼけた、心温まる映画。しかし、そうでありながら、真摯に世界を見つめているので、決しておめでたくはない。静かな映像も魅力的だ。

 男(マルック・ペルトラ)がおやじ狩りにあって、重傷を負い、ショックで記憶をなくしてしまう。途方に暮れているところを貧しい地域の人々に助けられて、浮浪者として生活するようになる。救世軍に援助を受けているうち、そこで働く女性イルマ(カティ・オウティネン)と恋に落ち、様々な能力を発揮して働くようになる。銀行で口座を作ろうとしているときに銀行強盗にまきこまれて警察に知られることになり、身元が発覚するが、元の妻とは離婚が成立していた。イルマの元に戻ることになる。

 それだけの話だが、少ないセリフ、善良な人たち、善良ではない人たちがそれぞれの形でかかわってきて、実に面白い。深刻に悩んでいるところなどほとんど描写せず、すべてをさりげなく描きながら、ちょっとしたしぐさで登場人物の置かれている状況や心情をわからせる手腕におそれいる。

 

510lzhl1hcl_sy445_ 「街のあかり」 フィンランド映画 アキ・カウリスマキ監督 2006

 犯罪組織に目を付けられ、女性を差し向けられ、宝石泥棒に利用されながら、愛した女性のために口をつぐんで罪を引き受けてしまう孤独な警備員(ヤンネ・フーティアイネン)。刑務所に入り、ひどい目に遭い続けるが、最後、手を差し伸べるなじみのソーセージ屋の女性の愛を受け入れる。

 孤独に、そして誠実に生きながら恵まれない人を描いて、心温まる。静かなタッチ。あえて古い映画の手法を用い、時代に取り残された人への共感を描いている。チャップリンやルネ・クレールの時代から繰り返し描かれてきたテーマなのだが、現代社会に忘れられた人情が示されていて、とても感動的。

 

517jttnfasl_sy445_ 「パラダイス ナウ」 2005年 ハニ・アブ・アサド監督

「オマールの壁」の監督作品。これは「オマールの壁」以上に衝撃的。イスラエルに占領されたヨルダン川西岸で暮らす親友の二人の青年サイードとハーレドが自爆して殉教者となる道を選ぶ。ところが、アクシデントがあって、二人は腹に爆弾を巻いたまま離れ離れになる。しかも、密告者の息子であるサイードは裏切りを疑われる状況に追いやられる。サイードは仲間と連絡を取ろうとするうち、英雄の娘に惹かれ、自爆以外の方法があることに考えが及ぶ。しかし、もう取り返しがつかない。イスラエルは占領地に密告者を作るシステムを作り上げており、それに打撃を与えるには自爆も有効だと考える。そして、最後、自爆を実行する。

 自爆の論理がとてもよくわかる。イスラエル占領地の人々の気持ちもとてもよくわかる。密告者になるか自爆するかの道しかなくなったサイードの状況もよくわかる。ただ、あまりの深刻な内容のため、見ているのが辛くなって、DVDを何度も止めた。

 

51npjtj5pl_ac_us160_ 「歌声にのった少年」 2015年 ハニ・アブ・アサド監督

 同じハニ・アブ・アサド監督の映画だが、実話に基づく映画。ガザ地区に住みながら、子どものころから黄金の声で周囲を楽しませていた少年ムハンマド・アッサーフが「アラブ・アイドル」というテレビのオーディション番組に出演して勝ち抜き、大スターになっていく。私はまったく知らなかったが、このムハンマド・アッサーフという歌手は誰もが知る大スターらしい。映画も本当によくできている。少年時代の子どもたちの描き方が素晴らしい。とりわけ若くして病死するムハンマドの姉の溌溂とした描き方が秀逸。ガザ地区の置かれた状況、その不自由な日常も描かれ、その苦しみを人々に伝えようというムハンマドの気持ちもよくわかる。私はこの種の映画を見て涙を流すことはあまりないのだが、最後、涙を流しながらみた。

 

51ln9tcu8l_ac_us160_ 「クーリエ 過去を運ぶ男」2011年 ハニ・アブ・アサド監督

 ハニ・アブ・アサドのアクション娯楽映画。舞台はアメリカ。突然、60時間以内に人を探せと命令される運び屋(ジェフリー・ディーン・モーガン)が、自分の過去の事件と関わっていく話らしい。「らしい」というのは、わけがわからなかったから。初めは、ジェイソン・ステイサム主演の「トランスポーター」シリーズのような映画かと思っていたら、そうでもない。主人公は何をしようとしているのか、次々出てきて殺される人たちは、なぜ殺されるのか。陰の悪漢(ミッキー・ローク)は何が目的だったのか、そもそも様々な謎は何を意味していたのか。HBIがなぜ関わっているのか。私が何か見落としたのかと思って、映画サイトのレビューを見たら、やはり、わけがわからんという感想がほとんど。これがあれほどたくさんの傑作を作ったハニ・アブ・アサド監督の作品とは思えない。私もたくさんの本を書いているからわかる。あれこれの事情があって駄作になってしまうことがあるものだ。

 

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映画DVD「少女ヘジャル」「もうひとりの息子」「オマールの壁」「キャラメル」「過去のない男」「街のあかり」

 中東の映画のDVDを何本かみた。感想を書く。

 

51tyddb9jjl_sy90_ 「少女ヘジャル」 2001年 トルコ  ハンダン・イペクチ監督

 トルコ映画。元判事ルファトは、退職後悠々自適の生活を送っている。ある時、隣の部屋が警官に襲撃され、そこに住む住民(クルド人の過激派らしい)が殺害され、たまたま預けられていた小さな女の子ヘジャルだけが残される。ヘジャルはルファトの部屋に紛れ込む。ルファトはそのままにしておけずに一日だけあずかろうとするが、ヘジャルの行き先がないのでしかたなしにとどめることになる。初めはクルド人への違和感などから冷淡にしていたが、しばらく少女と暮らすうち、身寄りを失ったヘジャルの境遇に深く同情し、養子にすることを決意する。だが、ヘジャルはクルド人の実の祖父と暮らすことを選び、二人は別れることになる。

 老人と幼い少女の心の交流の物語という、かなりありきたりの物語だが、知的で誠実なインテリの中にもクルド人に対する差別意識があり、それが少女との交流によって解けていく様子が描かれて、とてもリアルであり、感動的でもある。トルコ国内で差別されるクルド人の状況がよくわかる。

 

51apzy4uc6l_ac_us160_ 「もうひとりの息子」 2012年 ロレーヌ・レヴィ監督 

 病院で取り違えられた息子。ところが、それが一人はパレスチナ人、もう一人はテルアビブに住むユダヤ人だった。取り違えは、是枝監督の「そして父になる」と同じ設定だが、家族が敵・味方であり、民族、宗教が異なるだけにいっそう複雑だ。しかも、この映画では息子は17歳になっている。

設定を聞いて予想した通りの結果になるし、ある意味で考えられがちなテーマではあるが、演出が繊細で、テルアビブとパレスチナの状況がリアルなので、二人の息子、その両親、きょうだいの気持ちが理解できて、ひきこまれる。テルアビブで育った息子が、パレスチナの両親の家を訪れ、打ち解けない中、歌を歌い始める場面は感動的だった。

ヘブライ語かアラブ語だろうと思って見始めたら、フランス語だったのでびっくり。フランス系ユダヤ人夫婦(パスカル・エルベ、エマニュエル・デュヴォス)が中心になる物語だった。パレスチナの母親を演じたアリーン・オマリという女優さん、間違いなく何かの映画で見た記憶があるのだが、ネットで調べても出てこない。何の映画だったか?

土地に壁を作り、検問所を作って自由に行き来できないようにし、それぞれが対立しあう愚かさを痛切に感じる。

 

C88ab668c2c551b68d4fcaf474a6fa01 「オマールの壁」 パレスチナ映画 ハニ・アブ=アサド監督 2013

衝撃的な映画。壁に囲まれたパレスチナ自治区で屈辱的な目にあわされながら生きている若者たちの物語。オマールはテロに加わり、捕らえられ、拷問にかけられ、スパイになるのを条件に釈放される。それでもオマールは何とか誠実を尽くそうとするが、スパイ網はもっと複雑に仕掛けられており、オマールら幼馴染三人は深みにはまっていく。オマールは愛するナディアを救うために真のスパイであったアムジャドも救おうとするが、アムジャドは卑劣な嘘をついていた。最後、オマールは自分たちをそのようなスパイに仕立てて手玉に取ろうとするイスラエルの担当官ラミを殺す。

これがそのままパレスチナの現実だというわけではないだろう。だが、いたるところに壁があり、同じパレスチナ地区に行くのにも壁を超える必要があり、それらを占領者であるイスラエル兵が我が物顔に支配している状況は現実なのだろう。そして、そこに生きるアラブ人がアムジャドのように卑屈になっているのも事実だろう。人間を裏切り者にしてしまう分断の壁に対する抗議をひしひしと感じる。

なお、ラミを殺す前にオマールの言う「サルの捕り方を知っているか」という言葉の意味がわからなかった。ネットで調べてやっと納得できた。

 

51nzxetookl_ac_us160_ 「キャラメル」 レバノン映画 2007年 ナディーン・ラバキー監督

 ベイルートにあるエステサロンが舞台。その店の女性店員さんたちと顧客、近所の人々の恋の物語。監督しているのは、主演女優でもあるラバキー。あまりの女性的視点の映画なので、初めは戸惑ったが、いやはや実に素晴らしい。いくつもの恋が同時並行的にさりげなく描かれるが、そのどれもが身につまされる。男である私(しかも、これまで何人もの女性にはもちろん男たちにも、女心を理解しないヤツだと評されてきた!)も、これらの女性たちに感情移入してしまう。とりわけ、認知症を患った姉を放っておけずに恋をあきらめる初老の女性の姿には涙が出そうになった。

 これを見ると、これまで私がベイルートという都市を大きく誤解していたような気がしてきた。少々雑然としたところはあるが、フランス語が飛び交う洗練された都市のようだ。しかも、どうやらキリスト教が広く信仰されているらしい。私のこれまでの知識では、イスラム教徒のほうが多いと思っていたのだが。自分の無知を思い知った。

 ただ困ったのは、多くの美女たちが登場するが、その何人かがとても良く似ていて、すぐには区別がつかないこと。それにしても、この主演の若い美女が脚本も書いて監督もしているということにびっくり。まさに才色兼備!

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2本の「濹東綺譚」映画と3本のアキン映画のDVD

 急ぎの仕事がないので映画DVDを数本みた。簡単に感想を記す。

51p2vzkrqjl_sy445__2 「濹東綺譚」 豊田四郎監督 1960

 必要があって、永井荷風を数冊読み返していた。その過程で、関心をもってこの映画を見てみた。原作とまったく異なる。原作では、私娼であるお雪(山本富士子)のもとに通うのは永井荷風自身を思わせる初老の作家だが、この映画では妻子を持って、妻(新珠三千代)に責められる中学教師(芥川比呂志)ということになっている。原作では主人公の作家が小説のストーリーを構想しているが、まさにその構想された小説の人物が映画では主人公になっている。しかも、お雪は健気な娼婦で、親戚に騙され、最後には悲惨な中で死んでしまう。そのうえ、ずっと悲しげな音楽がかかっている。

これではまったく荷風の世界ではない! それどころか、荷風が最も嫌った価値観であり、世界観だろう。いや、それ以上に、これはもっとも私の嫌いなタイプの映画だ。私は、この種のウェットで情緒的な映画が大嫌い(ついでに言うと、「熱演」と呼ばれる、泣いたり叫んだりの演技の続出する映画も大嫌いだ)。荷風の文学を、当時、映画や新派などで取り上げられていた安手の不幸な商売女の物語にしてしまっている。

 私が子どもの頃(つまり、まさしくこの映画が作られた1960年前後)、「濹東綺譚」は日本文学を代表する名作として、ふだん文学に関心を持たない人にも語られていた。この映画の作風が日本国民に永井荷風のイメージを広げたとしたら、大いに問題があると思う。

 

91vieynvnl_sy445__2 「濹東綺譚」 新藤兼人監督 1992

 同じ原作に基づくが、こちらの方がずっと原作に近い。新藤監督は好きな監督で、私はかなりの映画を見ているが、本作が公開されたころ、私はもっとも忙しい時期だったので、みる時間が取れなかった。今回、初めてみる。

これは主人公を永井荷風その人とみなし、荷風の日記「断腸亭日乗」やほかの小説作品に記されるエピソードを盛り込んで、荷風の孤独死までを描いている。また、新藤兼人によるオリジナルだと思われる、お雪の女主人(音羽信子)とその出征する息子のエピソード、主人公二人の結婚話が加えられている。

荷風を演じるのは津川雅彦。女好きで放蕩でひょうひょうとして権力を嫌い、腹を決めて自分のスタイルを貫く荷風を見事に演じている。墨田ユキ(この映画が本格デビューのため、この役名から芸名をつけたのだった)も気がよくて素直な私娼お雪を見事に演じている。原作の精神を映像化していると思う。下層の人たちのおおらかな性、それに出会って人間の心の奥にある渇望や悲しみを実感する知識人。そのような原作をうまく描いている。原作の世界観を的確に再現していて、私はとても良い映画だと思った。荷風の世界観を現代に問うことは、戦争に対抗する意識を明確にとらえるために必要なことだと考える。

それにしても、不倫を攻撃し、売春を悪とみなす現代社会からすると、何と寛容で鷹揚な社会であることか。荷風のころまでは、男が女を買いに行くのが当然のことだという前提に立っている社会だったのだと痛感する。現代社会で荷風の世界観を理解するのは徐々に難しくなっているのかもしれないと、この映画を見て考えた。

 

71j9kpkofml_sy445__2 「愛よりも強く」 2004年 ドイツ ファティ・アキン監督

少し前にこのブログで感想を書いた「そして、私たちは愛に帰る」などを監督したトルコ系ドイツ人のファティ・アキン監督の映画。酒とドラッグとタバコに溺れて自暴自棄に生きる中年男ジャイトと、束縛された家族関係から逃れようとして自殺未遂をした若い女性シベル。ジャイトは家族から逃れたいというシベルの願いを聞き入れて偽りの結婚(性的関係をあえて避ける結婚)をするが、互いの異性関係に嫉妬するようになり、ジャイトはシベルと寝た男を殺して、刑務所に入る。その事件によって二人は強い愛を意識し始めるが、ジャイトが刑務所にいる間に、シベルはトルコで自堕落な生活に陥り、その後、そこから立ち直って、別の男と家庭をもって子どもを設け、平和に暮らす。そこに、刑務所から出たジャイトがやってきて、二人は初めて性的関係を持つ。ジャイトは故郷でともに暮らそうと持ち掛けるが、シベルは約束の時間に現れない。

 前半のジャイトの荒れた生活を描く前半は退屈だった。私も30歳くらいまでかなりのロクデナシだったが、ジャイトとは別の種類のロクデナシだったので、あまり共感できなかった。が、殺人事件が起こるあたりから、二人の苦しみを自分のことのように感じられるようになった。ジャイトが一人で故郷に帰る場面はかなり感動してみた。

 川辺のモスクを背景にトルコ音楽を奏でる場面が唐突に何度か映し出される。心の故郷への思い、人生の悲しみを強く感じる。

 

514xvprlprl_sy90__2 「太陽に恋して」 2005年 ドイツ ファティ・アキン監督

 同じファティ・アキン監督の映画。アキンはチョイ役で出演している。真面目な教師がちょっとしたことからトルコ系の女性と出会い、それを太陽のお守りの効力だと感じて、恋に落ちる。その女性に会いにイスタンブールに行こうとして別の女性と行動をともにし、様々な冒険を経て、結局はともに行動した女性との恋を成就するロードムービー。これまでみたアキンの映画はどれも深刻さを抱えていたが、これはあっけらかんとして楽しい。いわば「青い鳥」の物語といってよいだろう。憧れの太陽を求めて旅をするが、結局は太陽はすぐ近くにあった!という物語。そうした枠組みの中に、ドイツの若者の心情、人間のやさしさ、トルコ移民の置かれた状況を描いていく。映像も美しい。

 

814gjhg0w9l_sy445_ 「トラブゾン狂騒曲」 2013年 ドイツ ファティ・アキン監督

 これはアキン監督のとったドキュメンタリー映画。ほかの劇映画とかなり雰囲気が異なる。

トルコのトラブゾン村にごみ集積場が建設され、杜撰な計画のために、村中に臭いが充満し、鳥や犬が集まって農業お邪魔をし、雨のために汚染された水が海に流れ出す。村長を中心に村人たちは抗議をするが、知事や建設会社はそれを受け入れずに苦しい言い訳を繰り返す。

かつて日本の各地で起こった問題だ。沖縄問題、原発問題とも似ている。それゆえ、きわめて普遍的な問題といってよいだろう。日本と比べて、工事があまりに杜撰であり、責任者の言い分があまりに幼稚であり、つまりは民主主義が定着していないトルコ社会での出来事であるために、むしろ問題の本質が浮き彫りになる。現代社会で社会を築くためには、どこかにごみを捨てなければならない。その場所は大きな犠牲を強いることになり、それは実は社会全体の問題(環境汚染、人口集中、過疎化、人心荒廃)などとつながっていく。

日本でこの種のドキュメンタリーを撮るとなると、必ず汚染の数値を示すと思うが、それが一切出てこないのが私には不思議に思える。映像を見る限り、明らかな数値の変化が示されるはずだが、それを出してこないのは何かの意図があるだろう。あえて感覚に訴えたいということなのだろうか。

おもしろかったけれど、ほかのアキンの映画のほうが好きだ。

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 映画「希望のかなた」と「プラハのモーツァルト」

 新作の映画を2本みた。感想を簡単に記す。

 

映画「希望のかなた」 アキ・カウリスマキ監督

 アキ・カウリスマキ監督のフィンランド映画。シリアのアレッポで暮らしていた青年カリードは内戦で婚約者と家族を失い、妹とともに国を逃れたが、いくつもの国で追放されてさまよううちに妹とも生き別れて、偶然乗った船でフィンランドにやってきた。難民申請をするが、受け入れられず、ここでも国内退去処分になる。警察から逃れて、偶然出会ったレストラン経営者の世話になり、そこの従業員の助けを得て不法に働くようになる。妹と再会できるが、移民排斥の国粋主義者から迫害され、ナイフで刺されてしまい、不安定な状況が続く。

 前作「ル・アーヴルの靴磨き」とよく似た筋立てで、同じく難民とそれを取り巻く人々の人情を描いている。「ル・アーヴル」のほうはフランスを舞台にして、まるで1930年代のジャン・ルノワールやジュリアン・デュヴィヴィエやルネ・クレールのフランス映画のように下町の人々を描いたのだったが、今回は、ノスタルジックな雰囲気はなく、静かにフィンランドの状況を描く。

 無口で表情のない登場人物の説明のほとんどない映像がとても魅力的だ。確かなリアリティがあり、人々の心の奥にある愛情、それにもかかわらず無理解な社会状況がしっかりとつたわってくる。そして、カウリスマキの強い憤りがじわじわと伝わる。

 それにしても、妻と別れ、一か八かの賭けをし、レストランを経営し、試行錯誤でやっていく男の描き方が実にうまい。その人間味が伝わってくる。カウリスマキらしい佳作といえるだろう。

 

「プラハのモーツァルト」 ジョン・スティーブンソン監督

 モーツァルトが主人公で、舞台がプラハというのであれば、みないわけにはいかない。退屈しないで最後までみたが、良い映画とは言えないだろう。モーツァルトの伝記について、それほど正確なことは知らないが、ほとんど史実に基づいてはいないと思うし、モーツァルトについての新しい解釈を示しているわけでもなさそう。

プラハに招かれたモーツァルト(アナイリン・バーナード)は、「フィガロの結婚」のプラハでの上演でケルビーノを演じた貴族の令嬢(モーフィッド・クラーク)と恋に落ち、作曲中の「ドン・ジョヴァンニ」のドンナ・アンナに抜擢する。ところが、オペラ劇場を支配し、権力にものを言わせて次々と女性を毒牙にかけるサロカ男爵(ジェームズ・ピュアフォイ)が令嬢に目をつける。その状況を知ったモーツァルトは、令嬢を救おうとするが、男爵は抵抗する令嬢を襲おうとして殺害してしまう。モーツァルトは、自分の愛と悲しみの体験を「ドン・ジョヴァンニ」に重ね合わせて完成させる。

 かつての「アマデウス」とは違ったモーツァルト像。若くて溌溂として元気にあふれるモーツァルト。「アマデウス」よりはこちらの方が実像に近いだろうが、ただ映画の登場人物としては魅力に欠ける。「ドン・ジョヴァンニ」がプラハで初演されたことはよく知られているが、この映画は、ただドン・ジョヴァンニ的な悪漢が実際に存在したとしたら?・・という思い付きで作っただけに思える。

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映画「一票のラブレター」「卵」「ミルク」「蜂蜜」「シーヴァス」「そして、私たちは愛に帰る」「消えた声が、その名を呼ぶ」

 このところ、ずっとイラン映画をみてきた。ネットで探すうちにトルコやレバノンなどの近隣の映画にも関心が広がった。今年の年末は、急ぎの仕事がないので、本を読んだり、音楽を聴いたり、DVDで映画をみたり。中近東の映画数本の感想を記す。

 

41a1qmzsvyl_2 「一票のラブレター」 ババク・パヤミ監督 2001

 イラン映画。選挙が行われるということで、選挙管理委員会の女性がキシュ島にやってきて、投票箱をもって島民の家を回り、投票させようとする。その女性と護衛の任にあたる兵士のロード・ムービー。意欲にあふれていた女性が島の現実を知り、島民たちの選挙への無関心を知っていく。が、最後には、女性に反発していた兵士は候補者でもないその女性の名前を投票用紙に書く。

「コミカル」「ユーモア」といううたい文句がDVDに並んでいたが、実は私は少しもユーモアを感じなかった。そもそも選管が投票箱をもって民家に押しかけていくこと自体、一つの価値観の押し付けになって、民主主義に反するのではないか。それに、島の人はこの女性のもとでしか投票できないわけだから、この女性が出歩いていたらわざわざ投票に来た人は行き違いになってしまう。このような選挙が本当に行われていたとすると、それこそ不正選挙の温床になりはしないか。そんなことを考えていたら、まったくリアリティを感じることもできなかった。民主主義に対する掘り下げもこの映画には感じない。ただ、キシュ島の自然の美しさばかりが印象に残った。

 イランの映画をかなり見て、多くをとてもおもしろいと思ったのだったが、残念ながら、この映画は私がみたイラン映画の中のワーストワンだった。

 

51a3milmqql_ac_us160__2 「卵」「ミルク」「蜂蜜」(ユスフ三部作) セミフ・カプランオール監督 

 トルコの映画監督セミフ・カプランオールの三部作。全部で300分を超す。イスタンブールで暮らす詩人(しかし、今でもほとんど詩作はできず、古本屋の主人として生きている)ユスフが、母の死をきっかけに故郷に戻って、自分の過去をめぐる。「卵」は、晩年の母の世話をしてくれた若い女性と、母の遺言に従って羊の生贄を捧げに行く様子を中心に描く。「ミルク」は、過去に戻って(とはいえ、映画の舞台そのものは現代のままのようだ)若きユスフを描く。癲癇(てんかん)という病を持ちながら、母の仕事を手伝って牛乳販売を行い、そのかたわら詩を書き、自立していく様子が語られる。「蜂蜜」は、ユスフの幼少期を描く。小学校12年生だろう。山の中で蜂蜜農家に育っているが、てんかんを患う父が事故で亡くなるまでを描く。一般の連作映画と異なって、徐々に過去に戻っていくという構成になっている。

 どの作品も説明がほとんどなされず、自然に囲まれた風景をじっくりと描いていく。劇音楽は流されない。画面そのものが詩情にあふれている。すべての映像がまさしく一幅の絵画を成している。もちろん、私はこのようなタイプの映画は嫌いではない。最後まで特に退屈することなく見た。とりわけ、「蜂蜜」はなかなかの名作だと思う。

だが、実をいうと、私はこの三部作にあまり惹かれなかった。このような映画を作りたいという気持ちは私にもよくわかるが、どうということなく終わってしまった印象。「蜂蜜」だけは父の事故死という大きなドラマがあるが、それ以外には大きな出来事はなく、淡々と日常が描かれるが、それだとドラマとして物足りなく思ってしまう。

 

51owiisxzzl_ac_us160__2 「シーヴァス」 カアン・ミュジデジ監督 2014年トルコ

 学校の学芸会で主役になれずに落ち込んでいる少年アスランは、闘犬で敗北して死にかけた犬をシーヴァスと名付けて自分の犬として育てる。ついにはシーヴァスは強さを取り戻し、闘犬大会でチャンピオンになるが、その痛々しい姿にアスランはもう戦わせたくないと思う。しかし、周囲の大人たちはそれを許そうとしない。

そうした物語を、ドキュメンタリータッチの揺れ動くカメラワークを用いて生き生きと描く。意固地で我が強いが、やさしい心を持つアスラン役の少年ドアン・イズジの演技が素晴らしい。闘犬の場面のリアリティもすさまじい。そして、なによりもトルコの山間部の荒っぽくてかわいい子どもたちの様子を生き生きと描く。少年と犬の交流というありがちな物語なのだが、映像のおかげで実に新鮮に思える。いい映画だと思う。

 

51xl0fx0oql_ac_us160__2 「そして、私たちは愛に帰る」 ファティ・アキン監督 2007

 トルコ系ドイツ人であるファティ・アキン監督の映画を初めてみたが、これは素晴らしい。感動した。正真正銘の名作だと思う。

 妻を亡くして、長い間一人で暮らした男が高齢になって贔屓の売春婦と同棲しようとする。が、大学教授である息子がその女性と関係を持ってしまう。それに怒って殴った途端、女性は死んでしまい、男は刑務所入り。息子は死んだ売春婦の行方不明の娘を探して、教育費を援助しようとする。一方、その行方不明の娘のほうは、トルコで政治活動に加わり、ドイツに逃げて母親を探そうとする。探しあっており、それぞれ顔を合わせたり、すれ違ったりしているのに、最後まで互いに気付かない。

この映画の最大のテーマは「死」だろう。二人の主要人物があっけなく死んでしまう。その「死」をめぐって残された人々が苦しみ、嘆き、その意味を探求しようとする。そうしながら、すべてがすれ違いに終わってしまう。まるで、「死」に操られているように。そうした関係をドイツとトルコの状況の中に描く。なるほど、人生というのはこのようなものかもしれないとつくづく思う。

 

51xdlrdyuul_ac_us160_ 「消えた声が、その名を呼ぶ」 ファティ・アキン監督 2014

「そして、私たちは愛に帰る」と同じアキン監督。オスマン・トルコ帝国によるアルメニア人虐殺を扱っている。トルコ在住のアルメニア人はキリスト教徒であるためにしばしば虐殺にあってきた。とりわけ、第一次世界大戦ではアルメニア本国が連合国側、オスマン帝国が同盟国側で戦ったために、苛烈な虐殺が行われた。そのような状況を舞台にしている。

虐殺の中、喉を切られて声を失ったものの九死を得たナザレット(タハール・ラヒム)が、生き残った娘を探して世界を探し、8年かけてついにアメリカで娘の一人と再会する。「そして、私たちは愛に帰る」に比べると、作りは単純だが、ナザレット(もちろんイエス・キリストが過ごした土地ナザレによる命名だろう。ラヒムはイエスを彷彿とさせる)の苦悶、愛情、神への疑いを実にリアルに描いているので、説得力がある。楽に死ぬことを求める瀕死の義妹を抱き続け、最後に首を絞める場面は壮絶。ファティ・アキンは1973年生まれだという。この映画を作った時、まだ30代。恐るべき才能!

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