映画・テレビ

感動的だった美濃吉の鯉濃汁、そして映画「人生タクシー」「娘よ!」

 昨日、2017523日、日帰りで京都。私が塾長を務めている白藍塾は京都産業大学付属中学校の小論文教育をサポートしている。その研修講師として訪れた。京都産業大学には、多摩大学に赴任する前の数年間、専任タイプの客員教授として籍を置いていた。マンションも用意して、週に2日、授業を担当していた。その関係で付属中学でも小論文指導を行うことになり、現在に至っている。先生方はとても優秀なのでスムーズに研修が終わった。

 夕食は新阪急ホテルの地下にある美濃吉でとった。私の贔屓の店。京都に行く機会があったら、よほどのことがない限り、一度はここで食事をとる。大好きなのは、「鴨川」という懐石料理。手ごろな値段ながら、実に充実している。私はとりわけ「京の白味噌仕立て」が最高においしいと思う。美濃吉は東京にもいくつか支店があるが、私は京都で食べるとまったく味が違うのを感じる。とりわけ、私は京都駅前の新阪急店が最もおいしいと思っている。

久しぶりだったせいか、いつも以上のおいしさを味わえた。白味噌仕立ても絶品だったし、「芋 玉ねぎ 湯葉あんかけ」もおいしかった。そして、昨日は、「鴨川」のほかに特別に「鯉濃汁」を注文した。今の時期にしか食べられないメニュだという。しかも、大分県日田市という山の中の育ちの私は子どものころから鯉は日常的に食べてきて、大の鯉好き。ただ、東京に住んでいると、鯉こくを食べる機会がほとんどない。この機会を逃すまいかと思って食した。白味噌味のまさしく絶品。京都の一流料理人が鯉を料理すると、これほど洗練されるのかと驚いた。臭みがなくなっているが、確かに鯉のうまみがしっかり出ている。

 あまりにおいしいので、もう一皿か二皿、何かを注文したくなったが、さすがに満腹になった。その後、すぐに新幹線で東京に戻った。

 ところで、美濃吉に行く前、京都シネマで映画を見た。研修が早めに終わったので、夕食までに時間があった。30度近い中を観光する元気がなかったので、京都シネマで時間の合う映画を見ることにした。イラン映画「人生タクシー」。監督はジャファル・パナヒ。

 予備知識がなかったので、初めはドキュメンタリー映画かと思った。監督がタクシー運転手になりすまして、客の様子を取っている映画だとばかり思った。実に自然な庶民のやりとり。演技しているとは思えない話しぶり。カメラは一切外に出ず、ずっとタクシー内に取り付けられたカメラで車内外を撮り続ける。そうこうするうち、イラン社会の抑圧的な状況、抑圧されながらそれなりに生きていくイランの人々の姿、その人間模様、そして人々の善意とエゴイズムと不思議なエネルギーが垣間見えてくる。

 徐々に疑いを抱き始めたが、中間くらいで、やっとこれは綿密に計算したうえでの映画だと気づいた。しかし、それにしても演出がすごい。とりわけ、運転手=パナヒ監督の姪の女の子の表情としゃべりには感服。実際のパナヒ監督の姪だというが、それにしても自然すぎる。この子だけは自由にしゃべっているのだろうか。

 パナヒ監督は反体制映画を作ったために映画製作を禁止されているという。この映画はその禁止をかいくぐって作られたらしい。そのため、イラン国内では上映されていない。その精神、才能、努力に感服。この監督のほかの映画も見たくなった。

 ところで、半月ほど前、岩波ホールで「娘よ」というパキスタン映画を見た。ブログに感想を書こうと思っていたが、仕事の忙しさ、そして私のスマホに起こった奇怪な現象に時間と気持ちを取られて、書くのを忘れていた。ここに簡単に感想を記す。

 とてもおもしろい映画だった。エンターテイメントとしてよくできている。部族抗争に巻き込まれたため10歳の少女ゼナブ(サーレハ・アーレフ)が敵の部族長である老人の妻にされることが決まる。娘の母親アッララキ(サミア・ムムターズ)は娘の運命に過去の自分を重ね合わせて、娘を連れて脱走を図る。その結果、敵の部族からも自分の家族からも追われて命を狙われることになってしまう。そこに過去のあるトラック運転手が通りかかって、混乱に巻き込まれるうちに、アッララキに恋心を抱くようになり、二人を助け始める。アッララキが殺され、夢想の中で自由に生きようとするところで映画は終わる。

 わけある女性の逃避に、ちょっとお調子者でありながらどこか影のある男性がかかわって助けていくうちに恋が芽生え・・・というよくあるタイプの映画。ただ、そこにパキスタンののっぴきならない家族関係、部族関係がからみ、美しい自然の風景が加わっているために、そこに強いリアリティが生じる。しかも、これは実話に基づくという。監督は女性のアフィア・ナサニエルだという。これだけのスケールで娯楽作としながらも、これだけパキスタン社会に肉薄できるのは素晴らしい。

 

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オリヴェイラ監督の映画3本「夜顔」「コロンブス 永遠の航海」「ブロンド少女は過激に美しく」

 先日来、少し時間的余裕がある。大学での残りの仕事もあるし、原稿も書いているが、昨日から映画DVDを何本か見た。100歳を過ぎても意欲的な新作を発表していたポルトガルの映画監督マノエル・ド・オリヴェイラの名前は知っていたが、映画はこれまで見たことがなかった。3本立て続けにみたので感想を書く。

 

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「夜顔」  
2006

 オリヴェイラが9798歳のころの作品。ルイス・ブニュエル監督の1967年の映画「昼顔」の続編として作られている。もちろん、封切から少したった頃に、私は「昼顔」(Belle de jour)をみた。ただ、実はブニュエルは好きな監督ではなく、「昼顔」についても特に強い感銘は受けなかった。「夜顔」(原題はBelle toujours 「いつも美しい」とでも訳すのか?)は「昼顔」の主人公二人が30年以上後に再会したという設定。男のほうは同じミシェル・ピコリ(大好きな役者だった。昔、かなりの数の出演作をみた)、女のほうは「昼顔」のカトリーヌ・ドヌーヴ(もちろん、大好きな女優だった。今でも世界一魅力的な美人女優だと思っている)ではなく、ビュル・オジエ(ブニュエルの「ブルジョワジーの秘かな愉しみ」に出演していたらしいが、覚えがない)が演じている。

 特に何かが起こるわけではない。そもそも、なぜ「昼顔」の続編にしたのかもよくわからない。美しい映像、意味ありげな、しかもおかしみのある雰囲気。ドヴォルザークの交響曲第8番のコンサートで始まり、その後もこの曲が何度も聞こえてくる。そのせいもあって、親しみやすく、懐かしみのある独特の雰囲気が漂う。

飽きずに最後まで見てしまうが、結局たいしたことは起こらず、何か起こりそう・・・という予感の雰囲気だけで終わってしまう。もしかしたら、そもそもそういう映画なのかもしれない。70分ほどの映画なのでおもしろく見たが、90分もあったら、途中で退屈しただろう。

 

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「コロンブス 永遠の航海」 
2007

 1940年代、第二次大戦後にポルトガルからアメリカに移住した青年マヌエルが高齢になるまで、コロンブスの出生地を探し求める物語。地理的ではなく歴史的なロードムービーといった雰囲気。コロンブスはポルトガル人だったという説をマヌエルは追い求める。ただ、それだけの話。映像は美しいし、とても芸術的ではあるが、私としてはあまりおもしろいと思わない。熱烈なファンがいるのは承知しているが、私はあまり惹かれない。「ポルトガルは偉大な国だった」と語っているだけの、やはり100歳近い老人の時代離れした映画に思える。

 たびたび赤と緑にコロンブス時代らしい服を着た人物が幻想として現れるが、誰なんだろう。これは男性? それとも女性? それすらわからない。着ている服はポルトガルの国旗の色ということなのだろう。これはコロンブスということなのか? それとも守護天使? 私は小説や映画の謎については、解くのを得意としている人間なのだが、この映画については謎が謎のまま終わった。・・・というか、まったくおもしろいと思わず、しばしば映画から意識が離れたことを告白しておく。

 

 

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「ブロンド少女は過激に美しく」 
2009

 100歳の監督の作った映画とは思えない。青年がブロンドの女性に恋をし、苦労の末に結婚しようとするが、その女性は結婚指輪を買おうとしている時に万引きをしたために青年は結婚を取りやめる。それだけの話を芸術作品としか思えないような美しい長回しの映像によって描いていく。それなりにはおもしろいが、私としてはやはり物足りない。1時間ほどの映画なので、これ以上のことを描くのは難しいとは思うが、それにしても肩透かしにあった気がする。

 オリヴェイラの映画を3本みたが、私の好きなタイプの映画監督ではなさそうだ。あと数本見てみようかと思っていたが、これから先、惹かれる映画に出会いそうな気がしない。

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最後の卒業式、そしてジョルダーナ監督の映画4本「輝ける青春」「ペッピーノの百歩」「13歳の夏に僕は生まれた」「狂った血の女」

 2017320日、多摩大学経営情報学部の卒業式(正確には、「卒業のつどい」と呼ばれている)が行われた。私が指導したゼミ生5名(そして、かつてのゼミ生1名)がめでたく卒業した。今回の卒業生は新居由佳梨ピアノリサイタル、海治陽一フルートリサイタル、戸田弥生・野原みどりデュオコンサート、石田泰尚・山本裕康・諸田由里子コンサートなどいくつものコンサートを企画運営し、成功に導いてくれた。3月で退職する私には最後の卒業式であるだけにいっそう感慨深い。ゼミ卒業生に花束をもらった。ありがたいことだ。

式の後のパーティで、私たちのゼミは今年度顕著な成果を上げたということで学部長賞をいただいた。これもありがたい。

1週間ほど前から少し時間的余裕ができて、DVDで映画を見ていた。ジョルダーナ監督の映画4本の感想を記す。

 

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「輝ける青春」 マルコ・トゥリオ・ジョルダーナ監督 2003

 オペラ演出家の三浦安浩さんに薦められてみた。6時間を超すイタリア映画。ストーリーとしては、マルタン・デュ・ガールの「チボー家の人々」を思い出す。下敷きにしているのかもしれない。

中産階級の兄弟を中心にした物語。精神障害の女性と触れ合った経験を契機に二人は別の道を歩み始める。兄は真面目な優等生で医者になる。社会の理不尽に怒りつつも現実社会と折り合いをつけながら生きていく。弟は人生に疑問を持ち、社会の理不尽への怒りをうまくコントロールできずに苦しむ。映像があまりに美しい。そして、監督の演出力によるのだろうが、すべての役者の演技が素晴らしい。泣く表情、笑う表情、感情をコントロールできなくなる仕草がリアルで心に刺さる。とりわけ、弟(マッテオ)の自殺したあたりから、私は胸を打たれ、涙を流し、息をのみ、登場人物とともに人生を感じながら見入った。

いろいろなことが起こる。世代にまたがって時代は動く。人はそれに翻弄されながら時代を作っていく。そして、世代が変わり季節が変わる。人生は悲しいことだらけ。しかし、人生のすべてが美しい。それをしみじみと感じる。

 

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「ペッピーノの百歩」 マルコ・トゥリオ・ジョルダーナ監督 2000

「輝ける青春」があまりに素晴らしかったので、同じジョルダーナ監督の映画を見てみた。これもとてもいい。シチリアのマフィアの一家に生まれたジュゼッペ(愛称がペッピーノ)が、マフィアの抗争で殺されたのを機会に反マフィアの共産党員になって活動し殺されるまでの物語。1970年代の実話だというが、イタリア国内でも有名な人物ではないらしい。「輝ける青春」の兄を演じたルイジ・ロ・カーショの主演。英雄視するのでなく、悩み、傷つき、青春の行き過ぎもあった青年を等身大に描く。演出も大げさではなく、抑制的。映像がとても美しい。マフィアを単に悪者として描くのでなく、それなりの言い分のある人間的存在として描いているところも素晴らしい。

 

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13歳の夏に僕は生まれた」 マルコ・トゥリオ・ジョルダーナ監督 2005

 これも傑作。中産階級の何不自由なく育った13歳の少年サンドロは父やその友人とギリシャの海でヨット・クルーズをしているとき、海に投げ出され、九死に一生を得る。その時、助けてくれたのが不法移民の乗る密航船であり、その船で力を貸してくれたのがルーマニア人の若者ラドゥと少女アリーナだった。それを機会にサンドロは別の世界を知り、きれいごとではいかない社会を垣間見る。サンドロの両親は息子を助けてもらったお礼に二人を手助けしようとするが、裏切られる。サンドロはアリーナから電話をもらって愛に行くが、そこでみたのは娼婦として暮らしているらしいアリーナだった。・・・・

 恵まれた少年が理不尽な社会に痛めつけられる人間を知って目覚めていく・・・というのは「輝ける青春」とも「ペッピーノの百歩」とも共通する。純粋な少年の目から見た社会のゆがみが鮮烈に描かれる。映像が実に美しい。誰も必死に生きようとするし、誰もがそれなりに誠実なのだが、社会のゆがみの中ではどうにもならない。

 

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「狂った血の女」 マルコ・トゥリオ・ジョルダーナ監督 2008

 1930年代に活躍した実在のスター俳優オズワルド・ヴァレンティ(ルカ・ジンガレッティ)とその愛人であり人気女優でもあるルイザ・フェリーダ(モニカ・ベルッチ)がファシスト政権に協力し、パルチザンに処刑されるまでを描く。第二次大戦前後のイタリアの混乱の中、権力に巻き込まれながら、愛とエロスとドラッグにまみれながらも、必死に生きるが、ファシスト政権下のねじれた状況の中ではどうにもならない。「輝ける青春」のマッテオ役のアレッシオ・ポーニ演じる映画監督ゴルフィエロ(ルキノ・ヴィスコンティをモデルにしているが、架空の人物らしい)がとても魅力的。

 B級映画風のタイトルだが、むしろ本格的な現代史映画だ。時代に翻弄される人間の生きざまとしてとても刺激的でおもしろい。ルイザを演じるモニカ・ベルッチは肉体派女優として有名だが、確かに魅力的。ただ、主役のヴァレンティを演じるルカ・ジンガレッティは演技は見事ながらスター俳優らしいオーラを感じない。演出上の意図があるのか、それとも実在のヴァレンティがこのような雰囲気の人物だったのか。これについては納得できなかった。

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映画DVD「シェルタリング・スカイ」「無常」「曼荼羅」、ちょっとオリンピックのこと

 2016822日。午前中出かけて夜かなり遅くまで都心ですごすつもりでいたら、台風のために自宅を出られなくなった。腹を決めて、DVDをみたり、テレビをみたりして、久しぶりにゆっくり過ごした。

ところで、昨日BSで放送された「ペレアスとメリザンド」の録画をみようとしたら、「予約を中断しました」という表示が出て、第一幕の途中までしか録画されていなかった。残念。一体、何が起こったんだろう。

数日前から見ていた映画DVDの感想をまとめる。

 

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「シェルタリング・スカイ」 ベルナルド・ベルトルッチ監督 1990年

 前半、少し退屈だった。映像は素晴らしい。北アフリカの風景、そこで暮らす人々。パゾリーニの「奇跡の丘」や「アポロンの地獄」を思い出すような現地の人々の動き。それらは心惹かれる。ただ、北アフリカを訪れたデブラ・ウィンガーとジョン・マルコヴィッチの演じるアメリカの夫婦の心情、行動を共にする男性(キャンベル・スコット)の関係が

わかりにくく、途方に暮れた。

だが、夫の死んだのちの展開はさすがベルトルッチ。一人で北アフリカをさまよい、現地の男の身を任せ、激しく愛されるが、現地の人々の拒否にあう。その空虚感、虚脱感の描き方が素晴らしい。最後の場面で、北アフリカに到着したばかりに立ち寄ったカフェに戻る。北アフリカの持つ呪術、生きることの不思議を感じさせる。

 

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「無常」 実相寺昭雄 監督  
1970

 実相寺昭雄の映画がDVDで発売されているのを知って購入。封切時に新宿のATGでみて衝撃を受けた映画だ。私は学生時代、仏教に興味を持ち、仏典を読み、京都・奈良に仏像を見に行き、仏教的なことを人にしゃべったり書いたりしていたが、それがこの映画の影響だったことを久しぶりに思い出した。

 今見ても衝撃的な映画だ。もちろん、あまりに全共闘的、あまりに文学的で、ある意味であまりに「ベタ」だが、それでも改めてみてまた感動した。

実の姉と交わり、仏像つくりの恩師の妻と交わり、何人もの人間を死に追いやり、煩悩の限りを尽くし、そうでありながら仏像を愛し、仏師に弟子入りして自分の煩悩のすべてを観音様の中に昇華しようとする青年(田村亮)の生きざまを描く。

きっと当時の私はこの青年のような目つきをしていたのだろうと思う。社会を敵視し、その俗物性を憎みながらも、煩悩に身を焦がし、その衝動に身動きが取れずにいた。この映画は当時の若者の意識そのものを反映していた。実相寺監督は私よりは20歳ほど年上だと思うが、その鋭い目に感服。お寺のお子さんだけあって仏教に対する理解も深そう。

 モノクロの映像も美しい。大胆な性描写。そして新鮮な構図によって仏像、寺院、石段が描かれる。バッハの無伴奏パルティータ第1番が効果的に、衝撃的に使われる。

 たぶん、パゾリーニの「奇跡の丘」「アポロンの地獄」「王女メディア」とともに私の人生にもっとも大きな影響を与えた映画がこれだったのだと思い当たった。・・・ただ、今となっては私もかつての牙を失ってしまったことを改めて思う。間違いなく、当時軽蔑していた俗物の大人になっている!

 

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「曼荼羅」  実相寺昭雄 監督 1971年

「無常」に感動した私は、封切られてすぐにこの映画を見た。「無常」ほどの感動を覚えずに失望した記憶がある。今見ても、映画の出来としてはよくないと思う。まるで学生の作った映画のような雰囲気。学生運動から脱落した若者(まさしく私と同世代)が宗教や哲学、歴史についての生硬な議論を交わす。確かに、当時、私もこのようなことを考え、話し、書いた記憶がある。オンナの子とのデートでも喫茶店でこんな話をしていた。そんな時代だった!

 ただし、当時、あまりに荒唐無稽と思ってみたのだったが、オウム真理教事件が起こった後で見ると、予言的といえるかもしれない。単純再生産=農業=生殖信仰(エロチシズム)=死姦・神との性交への憧れ=無時間の渇望を唱える小さなカルト集団。「立川流」がヒントになっているのかもしれない。主人公の若者二人がたまたまその集団とかかわり、そのうちの一人(清水紘治)はその集団にのめりこむ。もう一人(田村亮)はそこから距離を置く。

 おそらくマルクス主義を奉じた全共闘運動が、実は無時間に憧れるユートピア主義でしかなかったこと、このカルト集団のように自滅するしかなかったことを語っているのだろう。同時に、実相寺は、現代社会の進歩主義への強い抵抗(最後の場面の時計の音と新幹線に象徴される)も訴えかけている。

 全共闘運動は、マルクス主義運動などではなく、実は当時の俗物の大人たち(つまりはブロジョワを理想とする社会人)、そしてそれを支える進歩主義への反抗にほかならなかったと改めて思う。

 

 ついでにオリンピックについてほんの少し。

 ニュースや特集番組を中心にリオ・オリンピックの放送をテレビで見ている。時々涙を流している。前から水泳や柔道は好きだが、レスリング、バドミントン、卓球がなかなか面白いことを知った。400メートルリレーの銀メダルもよかった。

 ただ、シンクロナイズド・スイミングは私にはどうもよくわからない。演技者が登場するときの腕を大きく上げ、みんな同じような明るい表情の顔を上に向けて歩く姿勢、水の上でのカクカクした動きに大きな違和感を覚える。新体操もさっぱりわからない。リボンを投げたり輪っかを投げたりして何が楽しいんだろう、ふつうの踊りのほうがずっと楽しいのに・・・という感想を抱いてしまう。そして、競歩。いくらなんでもあの歩き方は不自然だろう。・・・でもまあ、これはすべて偏屈な老人の独りよがりの感想なんだろうが。

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「シアター・プノンペン」と「帰ってきたヒトラー」

 映画を2本みた。岩波ホールで「シアター・プノンペン」、TOHOシネマ新宿で「帰ってきたヒトラー」。簡単に感想を書く。

 

「シアター・プノンペン」はソト・クォリーカーという女性監督の作ったカンボジア映画。

 プノンペンに住む女子大学生ソポンは目的もなくやや自堕落な生活を送っているが、あるときプノンペンの壊れかけた映画館で自分の母が出演した映画を見る。完結編が失われたというその映画を完成させようとするうち、クメール・ルージュの時代の様々な事実が明らかになっていく。そして、様々な立場でクメール・ルージュの時代を生き抜いてきた日々との融和を訴える。

そんなストーリーだが、過去と現在が交錯し、どんでん返しがあり、人々が生きがいを取り戻すというテーマもありで退屈はしない。それにカンボジアの田園風景を描く映像が美しい。その心意気は素晴らしい。とはいえ、盛りだくさん過ぎて、ストーリー展開に無理がある。また、「ニューシネマ・パラダイス」など、これまで見た覚えのあるたくさんの映画のつぎはぎに思えるようなところも少なくない。おもしろくは見たし、魅力を感じたが、感動するほどでもなかったし、名画というほどでもなかった。

それにしても、プノンペンの変わりように目を見張った。私がプノンペンやシェムリアップ、アンコールワットなどを訪れたのは1992年だった。内戦は終わっていたが、時々銃声が聞こえ、小競り合いが続いていた。クメール・ルージュによる破壊から立ち直りつつあるとはいえ、焼け跡時代の日本と重なる風景だった。裸同然だったり、ぼろきれをまとっただけだったりの子どもたちがたむろし、バラックのような建物があちこちにあった。

ところが、この映画の中のプノンペンはネオンが輝き、高層ビルがたくさん立っている。もちろん途上国らしさは裏町には残っているが、近代的な大都会に見える。プノンペンのこの25年の変化は大きそうだ。久しぶりにカンボジアにいきたくなった。

 

「帰ってきたヒトラー」は、デヴィット・ヴェンド監督のドイツ映画。これは最高におもしろく、しかも刺激的だった。

突然、ヒトラーが2014年にタイムスリップする。本人は大まじめに自分がヒトラーであることを訴えるが、周囲は本気にしない。テレビ局をクビになったディレクターがヒトラーを題材に番組を作ろうとするうち、ヒトラーはお笑い芸人とみなされ、人気を得ていく。初めのうちはみんな笑ってみているが、徐々にヒトラーの扇動に乗っていく。ヒトラーは大衆の心の奥にある排他的で暴力的な本音を代弁したのであって、ヒトラーを生み出す状況は現代社会にも十分にある。そのような状況をこの映画は描き出していく。

しかも、ドキュメンタリー映画ふうにヒトラー役の役者がヒトラーになりきって街に出て人と話したり、現実と虚構が入り混じったりする。映画として実に手が込んでいる。なんでも利用して視聴率を取ろうとしているうちに、むしろ抜き差しならなくなっていくテレビというメディアの危険性も描かれる。そうしながら、まさしく虚構と思われていたものが現実になっていく様子が展開される。

ぞっとするようなリアリティをもった映画だった。

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オルミ監督の「緑はよみがえる」、IBM管弦楽団、京都観光のことなど

岩波ホールでエルマンノ・オルミ監督の「緑はよみがえる」をみた。 

 昔、「木靴の木」を見て感動した。これまで見たすべての映画の中でベスト20に入る映画だった。オルミ監督の映画はほかに「ポー川の光」を見ている。それもなかなかいい映画だった。だが、「緑はよみがえる」については、期待が大きすぎたせいか、それほどの感動は覚えなかった。

第一次大戦中、オーストリアとの戦いで雪に囲まれ、風邪やインフルエンザに襲われながら、塹壕の中での理不尽な戦いを強いられるイタリア軍の兵士たちの物語。大きな英雄譚があるわけでもなく、何かのミッション達成が描かれるわけでもなく、ただ兵士たちの苦難の日々と、多くの兵士の死が描かれる。

 私は実はほとんど人物を識別できなかった。もちろんカラー映画だが、意識的にモノクロに近い色遣いがなされている。みんなが軍服を着ており、みんなが厳寒の中で体中を衣服で覆っているうえ、塹壕の中なので薄暗い。未知の俳優たちを見分けるのはかなり難しい。が、これは群集劇なので、きちんと識別しなくても映画を理解するのにそれほどの問題はないといえるかもしれない。

 私が感じたのは、監督の慈愛の視線だ。兵士たちは理不尽に命令されて殺し合い、理不尽に苦しみ、理不尽に故郷や自然が破壊されていく。弱い人間たちが必死に尊厳を守り、なんとか生き抜こうとする。そして、苦難から生き残ったものがまた新たな歴史を作っていく。そのような人間の悲劇と宿命を淡々と、しかも哀切と愛情を込めて描いている。「木靴の木」とは比べようもないが、これはこれでとても良い映画だと思った。

 ところで、疑問に思ったことがある。

 1980年代前半だったと思う。イタリア映画祭か何かで今回と似た雰囲気の映画を見た。男たちがスイスの奥地で雪に囲まれて過ごす物語だった。「木靴の木」に感動した後、同じオルミ監督がずっと以前に撮った映画だということで見にいった記憶がある。モノクロの静謐な映画だった。ところが、それらしい題名がオルミ監督の作品リストにないような気がする。今回購入したプログラムにも、それらしい映画の記述がない。私の記憶違いなのだろうか・・・。

 ところで、ここ数日の出来事を書いておく。

 2016522日、文京シビックホールで日本IBM管弦楽団第27回定期演奏会を聴いた。日本IBMの関係者で作るアマチュア・オーケストラだ(ただし、賛助メンバーもかなり含まれているとのこと)。日本IBM出身の先輩に誘われた。指揮は松尾葉子。曲目はシャブリエの狂詩曲「スペイン」、ビゼーの「アルルの女」第2組曲、ムソルグスキー作曲・ラヴェル編曲の「展覧会の絵」。アマチュア・オケながらフランス的な軽やかで澄んだ響きを出しているのでびっくり。もちろん、しばしば音が濁るが、なかなか見事だった。

 524日、仕事で京都に赴き、京都産業大学付属中学校で小論文研修を行った。大変実りの多い研修だったが、15時までに仕事が終わったので、少し観光をして、おいしい京料理を食べてから東京に戻ろうと思った。

駅にカバン(私は研修の講師なのでそれなりに重い荷物を持っている)を置いて観光しようとしたところ、サミットのために京都は厳戒態勢でJRのすべてのコインロッカーが使用禁止になっていた。30度を超す暑さの中、あちこち探したが、JR以外のコインロッカーはすべて使用中。諦めて、カバンを持ったまま国立京都博物館にタクシーで行った。博物館ならカバンを預けて見学できると思った。ところが、なんと京都博物館もテロを警戒して展示物は見られない状態だった。そのままタクシーで駅に引き返した。きっとどこに行っても同じ状況だろうと考えて新幹線で東京に戻った。徒労だった!

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ベロッキオ監督の映画「夜よ、こんにちは」「愛の勝利を ムッソリーニを愛した女」「眠れる美女」

 5月3・4・5日はラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポンで過ごした。その後、6・7・8・9日と家で過ごすことができた。その間、先日に続いて、ベロッキオ監督の映画をDVDでみた。感想を書く。いずれもとてもおもしろかった。とりわけ、「愛の勝利を ムッソリーニを愛した女」には感動した。

 

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「夜よ、こんにちは」 2006年

 1978年に起こったイタリアのテロリスト集団「赤い旅団」によるモロ元首相誘拐殺人事件を題材にした映画。メンバーの一人である女性キアラは、モロ氏監禁し、その状態を見て話を聞いているうちに自分の行動に疑問を持ち始める。キアラの考えの揺れを非現実的な映像も含めて描いていく。

「赤い旅団」によるモロ氏誘拐殺人事件についてはよく覚えている。私自身を含む当時かなり左翼的だった若者の左翼離れを加速させた事件だった。

 当時の独善的な過激派集団の意識、生きること、愛することへの根本的な問いが描かれてとてもおもしろい。映像も美しい。ただ、私としては「ポケットの中の拳」や「肉体の悪魔」ほどの衝撃は覚えなかった。

 

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「愛の勝利を ムッソリーニを愛した女」 
2009

 すべてを犠牲にしてムッソリーニ(フィリッポ・ティーミ)を愛し抜き、その息子を生みながら、のちにムッソリーニに捨てられ、存在を抹殺された女性(ジョヴァンナ・メッゾジョルノ)の自分と息子を認めさせようとして敗れていく物語。ムッソリーニが国民への演説で勝利を語り、国民を鼓舞し、国民の自由を訴える裏で、女性は人権を奪われ、精神病院に閉じ込められ、自由を失っていく。その不条理が絵画のように美しい画面によって語られる。事実に基づくようだ。

 狂おしい愛のあり方、生命をかけた激しい闘いに圧倒される。画面全体に激しい生命があふれている。この映画にも圧倒的な美しい場面がいくつもある。絵葉書的に美しいのではなく、画面全体に生命が宿り、エロスにあふれている。大いに感動してみいった。

 

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「眠れる美女」 
2012

 2009年、イタリアで植物人間として生きていた「眠れる美女」の尊厳死を認めるべきかどうかが政治的な問題になり、国論を二分する大騒動になったらしい。その騒動を背景にして、それぞれ尊厳死や自殺をめぐる三つのエピソードが描かれる。自殺や尊厳死を認めるべきか、それとも命を何よりも重視するべきか。重いテーマだが、映像があまりにリアルであまりに美しいために、つらい気持ちにならずに目を引き付けられて見入る。それぞれの人物の心の葛藤が真に迫っている。

様々な解釈が可能であり、様々な暗示が映画の中で示される。ベロッキオ監督自身の立場がどちらなのかもそれほど明確ではない。だが、監督が語ろうとしている大枠は、「人間の生命こそが何よりも大事だ。それを支えるのが人と人の絆であり愛である」というきわめて単純なことだと思う。単純だからつまらないというのではない。このような骨太のテーマががっしりとあるからこそそれぞれのディテールがリアルであり、それぞれの人物の感情に移入でき、登場するすべての人間が愛おしくなる。素晴らしい映画だと思った。

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映画「グランドフィナーレ」を楽しみつつ、新宿バルト9の大音響に閉口した!

 パオロ・ソレンティーノ監督の映画「グランドフィナーレ」を新宿バルト9で見た。とてもおもしろかった。

 自分が自分であると認識するのは、記憶でしかない。記憶によって過去を事実だと認識し、他者との関係を維持する。ところが、高齢になるにしたがって記憶が曖昧になっていく。すると、何が事実であるかわからなくなり、自分であることの自信がぐらつき、他者とのつながりも不安定になる。

 この映画の二人の主人公、かつての大音楽家フレッド・バリンジャー(マイケル・ケイン)と、その長年の友人である映画監督ミック・ボイル(ハーヴェイ・カイテル)は、まさにそのような状況に直面している。ともに老いを強く意識せざるを得なくなり、他者との絆を取り戻そうとし、事実を事実として確認しようとする。それができずにいら立ち、老いを嘆いている。この映画には、その二人がスイスの高原にある高級ホテルに滞在中に体験した様々な出来事が描かれる。

 登場人物の多くが、人とのつながりを失い、それを回復しようとあえいでいる。フレッドの娘は夫に裏切られ、別の男とのつながりを見つける。ハリウッド俳優は周囲の無理解にいら立ちながらも、なんとか人々との折り合いをつける。主人公の一人であるミックは、かつての盟友であった大女優ブレンダ(演じているのはジェーン・フォンダ!)に新しい映画への出演を断られ、それを機会に過去を振り切って新たなつながりを求め始める。

 最後、フレッドは、それまで拒否していた女王陛下からの依頼を受け入れ、今や痴呆になった妻(つまり、過去の記憶を失った妻)だけに歌ってほしいと思っていた自作の曲を指揮する。頑なに他者とのつながりを拒んでいた態度を改め、次の世代へと自分たちの記憶をつなげようとしたということだろう。

 最後の演奏会の場面で、ソプラノを歌うのはスミ・ジョー。カラヤンに見いだされて注目を浴びた韓国人ソプラノだが、しばらく動向を聴かなかった。懐かしい! そして、ヴァイオリンを弾くのがなんとムローヴァではないか!「え、もしかしてムローヴァ?」と思い、最後のクレジットで確かめた! 私の大好きなヴァイオリニストの一人だ。

 様々に解釈できる映画だと思う。私はここに書いたように受け取った。が、美しい画面、マラドーナを思わせる元サッカー選手やミス・ユニバースの女性やら食事に来て一切口を利かないカップルやらマッサージ女性やら、登場人物たちがとても魅力的。映像的にも美しい場面がたくさんある。かつてフェリーニに使われた言葉だが、ソレンティーノはまさしく映像の魔術師だと思った。様々に楽しめる映画だ。

 ところで、私は新宿バルト9でこの映画を見たのだが、音響の大きさに驚いた。最初から最後まで耳をつんざくような音。予告編だけが大音響なのかと思っていたら、本編が始まっても同じ大きさ。私には耐えられなかった。カバンの中にイヤホンステレオ用の密閉型イヤホンがあったので、それを耳栓代わりに使った。これがなかったら、私はきっと堪えらずに途中で外に出ただろう。なぜ、こんな大音響にする必要があるのだろう?

 終わった後、係の人にいつもこのように大音響なのか確かめたら、意図的にそのようにしており、それを喜ぶ客も多いとのこと。この大音響に堪えられない思いをするのは少数派なのだろうか。

確かに、私は騒音を我慢ならないと思うことがしばしばある。きっと平均よりは騒音に対してかなり不寛容(よい言葉を使えば、「敏感」ということになる)なのだろう。だが、多くの人がこのような無神経な大音響を平気でいられるとはどういうことだろう!と思わないではいられなかった。これから、できるだけ新宿バルト9では映画を見ないように心がけ、もしほかでやっていない映画がかかっているときには耳栓を用意していくしかなさそうだ。

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地震の恐れの中、映画「偉大なるマルグリット」「アイリス・アプフェル 94歳のニューヨーカー」をみた

 大分市のシネマ5bisで、いつ地震に襲われるかとひやひやしつつ映画を二本見た。観客は10人前後だったが、途中、ほとんどすべての観客の携帯電話から緊急地震速報の警告音が鳴った(携帯電話をオフにしておくのがマナーだと思うが、今回のような状況では、むしろ携帯の電源を入れておくべきだろう)が、特に大きな揺れもなく、最後まで何事もなく見ることができた。

 まずは、グザヴィエ・ジャノリ監督の「偉大なるマルグリット」。

 オペラ愛好者の間では、伝説の音痴ソプラノであるジェンキンス夫人は有名だ。私は1970年代にFM放送でこの女性の歌を聴いてある種の感動を覚え、20年ほど前、CDを見つけて購入。時々聴いている。わざとはずして歌っているというレベルではない。本人は気持ちよく「夜の女王のアリア」などのオペラアリアを歌っているが、天才的なはずれ具合。初めのうちは途方もない音痴を笑って聴いているが、そのうちその無邪気な歌心に感動を覚える。はずれてはいるが、聴くものの心に訴えかける力をジェンキンス夫人の歌は持っている。

 きっとジャノリ監督も同じように思ったのだろう。そして、この映画を作ったのだろう。ジェンキンス夫人はアメリカ人で最後はカーネギーホールでリサイタルを開くのだが、ここではヒロインはマルグリット・デュモン男爵夫人というフランス人で、場所はフランスという設定にされている。

慈善団体やマスコミの人々が金を引き出すために夫人を利用しようとする。しかし、利用しようとする中の何人かは、そのはずれた歌に言いがたい魅力があることを感じている。そして、夫であるデュモン男爵が外に愛人を作り、夫婦の間がうまくいっていない。夫人がオペラにのめりこむ背景にはそのような事情があるらしい。リサイタルで「ノルマ」のアリアを歌う喉から血を吐いて歌えなくなり、その後、精神の病に陥る。最後、医師を中心にした人々が夫人に自分の歌の録音を聞かせて、その音痴のほどをわからせ、正気に戻らせようとするが、夫人は自分の声を聴いて倒れる。が、夫人への愛に目覚めた夫が妻を抱いて心配するところで、映画は終わる。

とてもおもしろい映画だった。デュモン夫妻の夫婦関係と、作家=音楽評論家と歌手との関係がパラレルに描かれ、1920年代のアヴァンギャルドな芸術状況がおりこまれ、クラシック音楽もふんだんに聴ける。オペラ好きにはたまらなく楽しい。ただ、私としてはあれこれとテーマを広げなくても、マルグリットの歌のはずれ具合や彼女の無垢な心を追いかけるだけでも十分に観客を感動させられたのではないかとは思った。

 もう一本「アイリス・アプフェル 94歳のニューヨーカー」を見た。普段なら絶対に見ないタイプの映画。アプフェルというまるで南国の派手な色彩の鳥のような服装をした女性を追いかけたドキュメンタリー映画。

 これもとてもおもしろかった。見事な生きざま。個性的なファッションセンスを主張し、見事にものを着こなしていく。服や小物などの魅力を引き出していく様子はあっぱれというしかない。この女性にはユーモアのセンスもある。女性を支えて100歳の誕生日を迎え、しかもユーモアを忘れない夫カールの生き方も見事。

 ただ、これほど物質に執着し、次々と物質を購入し、コレクションする様に大いに疑問を感じないわけにはいかなかった。まさしく物質文明の権化のような夫婦だ。よほどの財力がなければこのようなことはできないし、物質にあふれた社会でなければできない。個性を自分の行動や自分の作品でなく、購入した物質で表現するというのも、私にはそれほどすごいことには思えない。ただ、そのような疑問もこの老夫婦のあっぱれな生きざまを見ていると、それはそれで立派なものだとは思った。

 映画を見た後、ホテルに戻ってしばらく本を読んでから、高校時代からの友人と夕食。しばらく余震もない。もう落ち着いたのだろうか。そうならいいのだが。

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ベロッキオの映画「ポケットの中の拳」「エンリコ四世」「肉体の悪魔」

 芸術・演出の分野で私が日本で最も尊敬する人物(あえて名前は伏せる)から薦められてマルコ・ベロッキオの監督作品をいくつか見た。ベロッキオについては、「そういえば、名前を聞いたことがある」という程度だった。日本ではベロッキオの作品はほとんど公開されていないので、私自身を含めて、あまり関心を持っていない人が多いのではないか。初めてベロッキオの映画を見た。あまりのすごさに驚いた。簡単な感想を書く。

 

「ポケットの中の拳」  1965年

 モノクロによるベロッキオの処女作。簡単にまとめれば、盲目の母と障害のある弟を殺して、邪魔になる家族からの解放を企てる青年アレッサンドロ(ルー・カステル)の物語なのだが、そんなストーリーではまとめきれない衝撃作だ。長兄アウグスト(マリノ・マゼ)も同じように家族を重荷に思いながら、そこから完全には逃げさせずにいるのに対して、アレッサンドロはそれを実行したわけだが、最後、自らも家族を閉じ込める家の中で痙攣を起こして、脱出できないことを認識する。

 私は「カラマーゾフの兄弟」を思い出した。三人の男の兄弟と一人の妹。男女の違いはあるが、ドミートリー、イヴァン、アリョーシャと異母兄弟のスメルジャコフに重なる。しかも、この家族は遺伝的にスメルジャコフと同じように(そして、ドストエフスキーと同じように)「てんかん」の持病を持つ。そして、親殺し。「カラマーゾフの兄弟」では、理念だけを語り、実行できなかったイヴァンに代わってスメルジャコフが殺人を実行するが、本作では、脱出しようとするだけでできなかった長兄に代わってアレッサンドロが殺人による閉塞状況からの脱出を図る。だが、それでもブルジョワ家族のがんじがらめにされた生活から逃れることができない。ここに描かれるのは、おそらく1960年代のイタリアの閉塞的な資本主義社会だろう。

 とはいえ、ここに示したようなストーリーの「謎解き」では捉えきれないエネルギーや社会に対しての怒り、生きることへの息苦しさがこの映画には渦巻いている。閉塞状況の中で生きる若者のぶつけようのない生の苦悩を感じた。

私も高校生のころ(つまり、50年ほど前の1967~70年)、生徒たちに坊主頭を強制し、一切の自由を許さずにまるで軍隊のように受験競争に駆り立てる地方の進学校の息苦しさに我慢ができず、暴力的に怒りをぶちまけていた。このアレッサンドロと同じような状態にいた。あの頃を思い出した。

 

「エンリコ四世」1984

 私が偏愛するイタリアの大作家ピランデッロの戯曲の映画化。なんとマルチェロ・マストロヤンニの主演。クラウディア・カルディナーレも出演している。

 エンリコ四世(日本では、ハインリヒ四世として知られている。カノッサの屈辱で世界史上に知られる11世紀の神聖ローマ皇帝。教皇と対立して抵抗したもののついにはカノッサで教皇に謝罪をした)の扮装をしているときに落馬して頭を打ち、自分が本当にエンリコ四世だと思いこんで20年以上を生きた男の物語。最後、エンリコ四世はすでに狂気から回復していたらしいことがわかるが、それがまた新たな狂気なのか、あるいは周囲の人々のほうが狂気なのか重層化してくる。人生は虚構、人生は狂気、何が真実なのか、もしかしたら何も真実ではないのかも・・・というピランデッロの世界が映像化されている。

 とてもよくできた映画だと思ったが、本来的に虚構が見え透く舞台ではなく、リアリティのある映画にすると、ピランデッロの虚構の見え透く世界が薄れてしまう気がした。ベロッキオをもってしても、ピランデッロのこの戯曲は映画化が難しかったのかもしれない。

 

 

「肉体の悪魔」 1986

レーモン・ラディゲ原作の映画化だが、時代も場所も設定も登場人物の名前も原作とは異なる。かなり自由な映画化。これは大傑作。

まさしく肉体性の魔にとりつかれた男女。相手を求めあい、愛し合い、セックスに耽る。それが実に美しい。反社会的な肉体、反社会的な性行為の素晴らしさとでもいうか。一途に、ほかのすべてをなげうって二人の愛に燃える。それだけの映画といえるのかもしれないが、その衝撃度が大きい。ジュリア役のマルーシュカ・デートメルスがあまりに官能的で美しい。アンドレア役のフェデリコ・ピッツァリスも見事に肉体の喜びを表現している。

名場面がいくつもある。冒頭の飛び降りをしようとする下着姿の黒人女性、衆人環視の檻の中でセックスをする男女、ボートの乗る2人、酒場で踊るジュリア、そして最後の、口頭試問を受けるアンドレアの後ろで涙を流すジュリア。画面自体が官能的で、引きこむ力を持っている。言葉をなくして映像に見とれた。

 

 ほかにも数本ベロッキオの映画を入手した。近いうちに見るつもりでいる。

 九州で地震が続いている。18歳まで住んでいた土地なので大いに心配。

 しかも、あと1時間ほどで九州に向けて出発しなければならない。仕事の途中、実家のあった大分県日田市に寄って、相続などに関する雑務を行うつもりだったが、今朝(2016416日)の地震で到着できない恐れがあるので、取りやめた。が、仕事を控えているので、九州にはいかないわけにはいかない。途中で足止めを食うかもしれないが、ともかく出発する。

 

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