映画・テレビ

映画「誰も知らない」「歩いても歩いても」「海よりもまだ深く」「午後の曳航」

 少し時間的余裕ができたので、DVDを入手して、「万引き家族」で関心を持った是枝監督の映画を中心に何本か映画を見た。簡単に感想を書く。

 

41dqvi6worl_ac_us200_ 「誰も知らない」 是枝裕和監督 2004

 今回初めて見て、「万引き家族」との類似性を考えた。母親(YOU)に置き去りにされ父親の異なる四人きょうだい。もっとも年上の12歳の明(柳楽優弥)がきょうだいのめんどうをみて生活する。子どもたちは出生届が出されておらず、学校にも通っていない。周囲の大人たちは子どもたちの状況を知らず、深入りしようとしない。社会の片隅で子どもたちは悲惨な生活を続け、ついにもっとも年下の女の子は命を失い、途方に暮れた明は遺体をスーツケースに入れて羽田空港近くの河川敷に埋めに行く。

 この出演で柳楽優弥がカンヌ映画祭の最優秀主演男優賞を受賞したわけだが、確かに圧倒的な存在感。柳楽に限らず、子どもたちの演技について是枝監督の演出力に感服する。淡々と悲惨な生活をリアルに描く手腕も見事。ただ、大人たちに知られずに社会の中で孤立して生きていく子どもたちの姿を描くだけで、それ以上の深みを感じない。その点で「万引き家族」との大きな違いがある。

 

51rbwcauabl_ac_us200_ 「歩いても歩いても」 是枝裕和監督 2008

 その昔、家族に期待されていた男性がよその子どもを助けるために自分の命を差し出してしまった。その男性の法事に集まった家族の物語。

それぞれの登場人物が人間関係の悩みを抱え、他者に対する愛情と憤りを併せ持って生きている。映画の前半でわからなかったことが、後半で徐々にわかってきて、それぞれの抱える悩みの大きさが等身大で伝わってくる。「等身大」とここに書いたのは、大袈裟に誇張された形でなくしっかりと伝わるということだ。樹木希林、原田芳雄、阿部寛、夏川結衣、高橋和也らの演技が見事。そして子役たちも素晴らしい。

かつて亡くなった長男という「不在」を中心に物語が展開し、「不在」がみんなの心の影を落としている。ただ一人、その「不在」と関係のない妻(夏川結衣)の連れ子がもう一つの見えない「不在」を成して、その関係がとても興味深い。とても良い映画だと思った。

 

510xw073pel_ac_us200_ 「海よりもまだ深く」 是枝裕和監督 2016

 かつて文学賞を取りながら、その後、書けなくなって、文学の取材という口実の下にいかがわしい私立探偵の職についている男(阿部寛)が、離婚した元妻(真木よう子)と子とともに母(樹木希林)の暮らすアパートに寄ってそのまま台風に遭遇して帰れなくなる。堕落してしまった自分を反省し、やり直したいと考えるが、どうにもならない。そのような男の思いを描く。

私も30代前半までうだつの上がらない何も持たない人間だったので、この男の気持ちはよくわかる。だが、ただそれだけに思える。それ以上の深い内容をこの映画から見つけ出すことはできなかった。是枝監督の演出力には敬服するが、少し物足りなさを感じた。

 

 

41g6zdoesul_ac_us200_ 「午後の曳航」 ルイス・ジョン・カリーノ監督 1976

 大学院生だった時代に予告編を見たのをよく覚えている。だが、三島由紀夫原作の小説が大好きだった私は、イギリスを舞台に改めたこのイギリス映画を「きわもの」だと感じて見に行かなかった。原題は「The Sailor who fell from grace with the sea

それから40年以上たってみてみると、映画としてもとてもおもしろい。母親(サラ・マイルズ)、水夫(クリス・クリストファーソン)も魅力的であり、説得力のある人物として描かれている。

もちろん、横浜が舞台だったはずなのに、映画の中では小さな港町になっていたり、5人の少年たちのリーダーがあまりに独裁的であったりといった違和感はいくつもあるが、ともあれ、私の考える三島のエッセンスを伝えている。海と立ち向かう純粋なる水夫が恋によって卑俗な人間になり下がり、許せなかった少年がそれを罰するという大まかなストーリーも的確に描かれていると思うし、その背景にあるニーチェ的な思想もほのめかされている。海や船や港町の風景も美しい。1970年代の私の心の狭さを反省した。

 

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テンギス・アブラゼ監督「祈り」「希望の樹」「懺悔」

 岩波ホールでジョージアの巨匠テンギス・アブラゼ監督の三部作「祈り」「希望の樹」「懺悔」の連続上映を見た。アブラゼ監督の名前も初めて知った。三つの作品はいずれも絶品だった。ただ、重いテーマなだけに三本続けてみたあと、かなり疲れた。

「祈り」 1967

 モノクロの映像詩のような映画。いつの時代のことなのかよくわからなかった。中世なのだろうか。コーカサス地方で暮らすキリスト教徒とイスラム教徒にかかわる二つの話が中心になっている。一つはイスラム教徒に寛大に接したために仲間に責められて村を追われるキリスト教徒の話、もう一つはキリスト教徒を客人に招いたために村人に責められて殺されるイスラム教徒の話。いずれも異教徒に対して寛大に振る舞った二人が不寛容な人々に責め立てられる物語だ。

そこに清楚で美しい女性が悪魔のような男と婚礼をあげ、ついには死に追いやられ、葬儀が行われる場面が超歴史的に(つまり、古代や現代を舞台にそのような場面が展開する)挿入される。高潔で寛大な天使のような精神が不寛容で欲深い悪魔のような精神に蹂躙されるという普遍的な真実を示しているのだろう。

とても厳粛で宗教的で美しい。ただ、映画全体としては、いかにも「芸術」という感じがして、鬱陶しい気がしないでもない。

 

「希望の樹」 1976

 ロシア革命前のジョージアの村の物語。村人たちの様々なエピソードが語られるが、中心になっているのは貧しい青年ゲディアと清純な少女マリタの恋だ。二人は牧歌的な社会で清純に愛し合うが、マリタは権力者シェテに見染められ、親に結婚を決められてしまう。結婚後もゲディアと室内で会っているところを目撃されて、不義を働いたとみなされ、さらし者にされ、村人たちによって死に追いやられる。

そうした物語の中に、村人から信頼されているが、封建的な因習を押し付ける長老、多くの男を色香で惑わす美女、因習をすべて破壊する革命を熱狂的に求める男、優雅な装いのぼろ服を着て過去の恋愛について触れ歩く厚化粧の中年女性、金の魚や希望の樹など奇跡の生物を発見することに命を懸け、ついには凍死してしまう男性などがからむ。

 重層的に革命前夜の村の状況を描く。ソ連時代の映画なので革命前の牧歌的でありながらも旧弊で閉塞的なジョージアの社会が否定的に描かれる。が、その人間模様はとても魅力的だ。単なる革命礼賛ではなく、人間の奥深くを見つめている。革命前の前近代的な自然崇拝のような不思議な宗教的雰囲気にも心ひかれる。

それにしても映像が美しい。冒頭のひなげしの野原で白馬が死んでいく場面は衝撃的。牧歌的に見える世界で起こる悲劇をこの場面が象徴している。ぼろ服の厚化粧女性の身のこなしもマネの「日傘をさす女性」のような趣があって、とても魅力的だと思った。

 

「懺悔」 1984

 ジョージア内の架空のある市の物語。独裁的な市長だったヴォルラムが病死する。その後、その市長の独裁的な行動の被害に遭った女性が裁判の場で市長の強圧的な行動を語る。市長は黒シャツを着てヒトラー風のちょび髭をつけた、まさしくファシスト風。気に入らない市民に因縁をつけて粛清していく。だが、なかなか愛嬌のある市長で芝居っけたっぷり。「イル・トロヴァトーレ」のアリアを見事なテノールで歌って聞かせたりする。それだけに空恐ろしい。

ここに語られるのは、宗教という精神の指針を失ってしまった人々の動揺だ。市長は現代的な社会の建設のために聖堂を破壊する。すると社会は指針を失ってしまう。市長の息子も孫も、それを失って生きる意味を見つけられずにいる。懺悔したいが、聖堂を壊してしまっているので、それすらできない。

これはまさしくソ連の時代のスターリンによる粛清とその後の状況を描いているだろう。検閲を逃れるためもあってか、すべてが被害女性の「夢オチ」の形をとっており、過去の出来事も虚構が入り混じって幻想的になっている。だが、それが深刻な社会問題を描きながらも、非現実的な場面(甲冑を着た部下たち、女神テミスなど)が加わって、遊び心が発揮される結果になっている。フェリーニ的な映像も時々見られる。

 映像の美しさ、そして市長とその息子の二役を演じる役者さん(アフタンディル・マハラゼ)の演技力に圧倒された。全体的に大変おもしろい映画だった。

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細田守「未来のミライ」 おもしろいと思わなかった

 私はもちろんアニメ・ファンではない。テレビや国際線の機内映画でジブリ作品などの話題になっているアニメ映画を見ることはあるが、劇場でアニメを見たことは、少なくともこの10年以上ないと思う。たまたま時間つぶしのために入った博多駅の駅ビル(AMU)で時間的に都合のよいこの映画を見ただけだった。

「サマーウォーズ」「おおかみこどもの雨と雪」「バケモンの子」はとてもおもしろかったが、それらと比べてもかなり完成度が低いと思った。特に退屈しないで最後まで見たが、最後までおもしろいとは思わなかった。

 妹が生まれて、お兄ちゃんになったばかりの4歳のくんちゃん。妹・ミライばかりかまう両親や祖父母に怒りを感じる。怒りが爆発するごとに時空が乱れて過去や未来の世界につながって、昔の母やひいじいじが現れる。赤ん坊のミライも少女の姿で現れる。妹に嫉妬していたくんちゃんも、現在の生活が過去や未来の家族の生とつながっていることに気付いていく。

 私はまず、ここにまとめたような数行で言い切ってしまえるようなテーマのシンプルさに不満を抱いた。あまりにテーマが単純。しかも、生まれたばかりの赤ん坊に嫉妬するというテーマもありふれている。テーマだけでなく、嫉妬する具体的な出来事もありきたり。幼い子どもはもっと違ったところで嫉妬するのではないかと何度も思った。少なくとも、そのような場面を出してくれないと、見ているものとしてはリアリティを感じない。

 また、不自然さもあちこちに感じた。まず、4歳という設定のくんちゃんが大人びた口調でかなり理路整然と語るのも不自然。自分の感情をコントロールできずに理不尽に甘えるくんちゃんなのだから、これほど大人びた言葉を使えないだろう。また、ひな人形を仕舞うのが遅れると婚期が遅れるのを恐れて未来のミライが現れるという設定も、私にはリアリティが感じられない。細田監督は、ひな人形という家族に代々受け継がれるものを象徴的に出したかったのだろうが、「婚期が遅れる」などというつまらない迷信を真に受けてわざわざこんなキャラクターの少女が未来からやってくるだろうか。

人間の姿になって語る愛犬もひねりがなく、あまりに当たり前すぎるし、ひな人形をしまおうとあわてる場面のくんちゃん、ミライちゃん、愛犬の行動にも納得がいかなかった。「だるまさんが転んだ」を使ってドタバタっぽくしたかったのだろうが、それぞれの人物にそのような行動をとる必然性がないので、私には少しもおもしろいと感じられない。映画の冒頭で違和感を覚えると、ずっと尾を引いて、最後までリアリティを感じられなくなってしまう。

 で、結局、「妹が生まれて、かまわれなくなって怒っていたくんちゃんも、家族に支えられていたことに気付いて、ちょっとお兄ちゃんになりました」というわかりきった話を、ありふれたエピソードをむりやりファンタジーっぽくして語っただけの話になってしまったように思った。

 最後のクレジットで有名な俳優さんが声優を務めていたことを知った。不覚にも、私は一人も気づかなかった。

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「万引き家族」 心の絆で結びつく偽装家族の危うさ

 カンヌ映画祭でパルムドールを受賞したことで話題になっている是枝裕和監督の「万引き家族」をみた。とてもいい映画だった。

 万引きで生活している家族。虐待されている女の子の面倒を見るうち、その子までも家族の一員のようになっていく。だが、祖母(樹木希林)の病死を契機に、家族に見えていた人々が他人の集まりだったことがわかり、しかも死体遺棄や誘拐の罪で男(リリー・フランキー)と女(安藤サクラ)は、警察に逮捕されてしまう。

 行為だけを客観的には見れば、中心の男女はまちがいなく犯罪を行う犯罪者にほかならないのだが、ふたりは善意にあふれ、一般の社会から見捨てられた人々を救っている。助けられた人々もそこでは自分らしくいられ、存在を認められて生きている。

 まさしく最下層の生活。子どもたちは学校に通えず、日々の食べ物に事欠き、壊れかけた家で雑魚寝をして暮らす。この偽装家族は資本主義のシステムに痛めつけられて生きているがゆえに、そこから逃れるために万引きをし、年金詐欺を働いているともいえるだろう。彼らは一般の家庭のように制度化された経済的結びつきとしての家庭を築いているのではなく、セリフの中で語られるように、心の絆によって結びついている。だが、万引きや年金詐欺という日本の経済システムの裏をかく行為によって経済から自由な生活を送っているように見えて、常にお金の問題に振り回され、せこく後ろめたく生きていくしかない。その意味で危うさにあふれている。長続きするはずがない。

 是枝監督はもちろん万引き家族を肯定的に描いているわけではない。だが、間違いなく、資本主義の犠牲になって最底辺で肩を寄せ合って、ある意味で社会への復讐として心を大事にして生きていく人に共感を寄せて描いている。そのような絆の危うさを認識しながらも、それに愛情を注いでいる。

 女性と少女が風呂の中で同じような傷があるのに気付く場面、女性が少女を抱き寄せる場面など感動的な場面がいくつもある。

 二人の子どもの演技も見事。そして、やはり安藤サクラのさりげない表情、そして同居する娘を演じる松岡茉優も素晴らしい。彼女が風俗の仕事をして、言葉の不自由な客を抱きしめる場面も感動的だ。テレビのバラエティ番組で見たことのある顔だったが、こんなにいい女優とは知らなかった。樹木希林の演技については言葉をなくすほど。

 ただ、私としては、上に書いた内容以上の深さをこの映画の中に感じることはできなかった。とても良い映画だと思ったが、これまでの是枝作品に比べて圧倒的に優れた映画とは思えなかった。

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アルモドバル監督「セクシリア」「マタドール」「ハイヒール」「アタメ」「ジュリエッタ」、そして「人生スイッチ」

アルモドバルが監督、あるいは制作をした映画を数本みた。大傑作も、駄作としか思えないものもある。簡単に感想を記す。

 

216gwgcax8l 「セクシリア」 1982

アルモドバル監督のごく初期の作品。私はこれは駄作だと思う。人工授精の権威である学者を父親に持つセックス狂の女性セクリシリアと、ある国の皇太子を中心に、あれこれのセックスがらみの物語が展開される。愛を求めて右往左往する人々のドタバタ劇といったところだが、強いエネルギーを感じるものの、このような世界に、67歳になった私は残念ながら共感できない。いや、たぶん、10代でも共感できなかっただろう。若きアントニオ・バンデラスが出演している。

 

51gqspyvhtl_sy445_ 「マタドール」 1986

 それぞれセックス相手を殺していく男と女。男は生と死のはざまで生きてきた元闘牛士、女はその闘牛士にあこがれていた弁護士。その男女が、犯してもいない殺人を自供した神経症の若者(アントニオ・バンデラス)を介して知り合い、惹かれ合っていく。生と死とセックスと闘牛。血なまぐさくも陶酔的な世界がアルモドバル特有の原色の色彩によって展開される。激しい世界だが、人間の奥底にある欲望を見事の描いていると思う。

 私は、学生の頃、パゾリーニの映画が大好きだった。なぜ私がこのところアルモドバルの映画を見続けているのか。きっと私はパゾリーニと同じようなものをアルモドバルの中に見ているのだと思う。そして、それは私の心の奥にもあるものだと思う。

 

Photo 「ハイヒール」 1991年 アルモドバル監督

 大女優(マリサ・パレデス)を母親に持つニュース・キャスターのレベーカ(ビクトリア・アブリル)は、幼いころから家庭よりも仕事を選ぶ母親に不満を持ち、母の愛を求め続けている。互いに心のすれ違いを繰り返しながら、母親は娘の犯した殺人の罪をかぶって死んでいく。ストーリーにするとそのようなことだが、それを過激に、色鮮やかに描く。一般人の日常とはかけ離れた世界が激しい色遣いで描かれるために、それが私たちの日常のエッセンスとして示されているのを感じる。音楽は坂本龍一。おもしろい映画だと思った。

 

318ce93gpkl_sy90_ 「アタメ」 2005

 現在の日本では、このような映画は許されないのではなかろうか。まさしく、ストーカーを肯定するような映画。天涯孤独の孤児リッキー(アントニオ・バンデラス)は孤児院や精神病院で暮らしていたが、正常と認められて外に出る。すぐに憧れのポルノ女優マリーナ(ビクトリア・アブリル)のもとに向かい、部屋に監禁し、縛り付ける。そして、愛を求める。初めは拒んでいたマリーナもそれを受け入れるようになる。最後はリッキーを家族の1人と認める。ムシのいい映画だが、見ていると、確かにこのストーカー男の純情に同情したくなり、二人の燃える愛を応援したくなる。愛はきれいごとではない。激しい独占欲であり、相手を屈服させることであり、肉体そのもので相手を満たすことでもある。この映画を見ると、そのような思いを強くする。名作とは言えないが、問題作ではある。

 

257 「ジュリエッタ」 2016

 封切時には見なかった。素晴らしい映画。最高傑作といえるかもしれない。アリス・マンロー原作とのこと。マンローの短編はいくつか読んで強い感銘を受けた記憶がある。確かにマンローっぽい筋立てだ。

 ジュリエッタ(現在はエマ・スアレス、若いころはアドリアーナ・ウガルテ)は、列車の中で話しかけられた男性を冷たくあしらうが、その男性はその直後に自殺する。列車内で知った別の男性と恋に陥り、のちに結婚して娘をもうけ、幸せに暮らすが、夫の女性関係で喧嘩した日、夫はうっぷん晴らしの漁にいき、嵐にあって遭難死する。のちになって父親の死の状況を知った娘は母を許せなかったのだろう、新興宗教を信じるようになり、母と断絶する。ジュリエッタの母親は寝たきりになり、父親はそんな妻の目の前で若い女を愛人にして子どもをもうける。

罪の意識、死と隣り合う生、死とセックス、母と娘の葛藤。そのようなものが重なり合い渦となってストーリーが展開する。激しい内面を淡々と描く。いくつもの激しい愛憎が重なり合うが、それらがジュリエッタの中で微妙に重なり合っている。これほど重層的な愛のもつれを見事に描く手腕に驚く。アルモドバルにしてはおとなしめの表現だが、そうであるだけにひしひしと迫ってくる。

 

51fjtvw7zpl_sy445_ 「アイム・ソー・エクサイテッド」 2014

 異様につまらなかった。故障のために着陸できなくなって上空を旋回する飛行機の中で起こるドタバタ劇。男性客室乗務員や操縦士たちの全員がゲイで、ビジネスクラスの乗客たちの数人はセックス狂い。卑猥な言動にあふれ、あれこれ事件が起こる。笑いを目指しているところもあるのかもしれないが、私はまったく笑えない。私が笑えないのは、私がゲイではないためだということではないと思う。

 

81jj6trzal_sy445_ 「人生スイッチ」 2015年 ダミアン・ジフラン監督  (ペドロ・アルモドバル製作)

 アルモドバル監督の映画かと思ってみてみたら、別の若い監督の作品だった。国内で大ヒットしたアルゼンチン映画だとのこと。内容的には大物監督に勝るとも劣らぬ傑作だった。

6本の短編から成るオムニバス映画。いずれも、ちょっとしたことから行き違いになって引っ返しがつかなくなり、だんだんと大ごとになっていく物語がかなりブラックに、しかしユーモアたっぷりに描かれる。前の車を追い抜こうとしてトラブルになり、嫌がらせを重ねているうちに壮絶な殺し合いになってゆく・・・といったような物語が6本続く。途方もなく残酷な話も混じっているが、登場人物があまりに人間的なので、つい笑ってしまう。しかも、「人生って、確かにこんなところあるよなあ」と思えてくるし、最後にはそれなりにさわやかな気分になれる。なかなかの傑作だと思う。この監督の名前をよく覚えておこう。

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河瀨直美監督「Vision」 人間と自然の合一としての踊り

河瀨直美監督「Vision」を見た。素晴らしかった。

 Visionという薬草を求めて、フランスの女性エッセイスト、ジャンヌ(ジュリエット・ビノシュ)が吉野の山にやってきて、そこで暮らす中年男、智(永瀬正敏)と出会い、愛を交わすようになる。そして、謎の女性アキ(夏木マリ)と知り合い、後に謎の若者、鈴(岩田剛典)を知る。

 ヴィジョンという薬草の存在を介することによって、この映画の舞台である奈良県の山林が一つの自然と生の原初的な結びつきの場となる。そこでは、過去と現在、現実と幻が交錯する。生のエネルギーが形となり、感触を持つ世界になる。

ジャンヌはこの山林で暮らすことで、森山未來演じつかつての恋人である日本人青年(田中泯演じる猟師に動物と間違われて撃たれて死んだという設定のようだ)を思い出し、鈴こそが、ジャンヌと日本人青年の間に生まれ、この山林の老夫婦に育てられた子どもだと知る。

1000年に一度(正確には、素数である997年に一度)現れるヴィジョンという薬草は、この世界に現れる生のエネルギーそのものなのだろう。だから、時空が歪んで過去と現在が交錯するのも当然なのだ。理性でコントロールできないことが起こるのも当然なのだ。ジャンヌはそのような世界の中で生きることになる。

そのようなエネルギーそのものが、夏木マリと森山未來の踊りによって表現される。踊りとは、人間と自然との合一にほかならない。この二人の肉体の中で人間と自然が一つになる。すべてのエネルギーが発散する。

それにしても素晴らしい映像。美しい森が映し出される。しばしば、そこに子どもたちの騒ぐ声が重ねられる。森は生きている。森は生命の声を上げている。犬が吠える。主人公は犬を連れている。犬もまた人間と自然を結び付ける存在だろう。河瀨の描く山林はまさしく生きとし生ける者たちがうごめき、渦巻く世界だ。この上なく美しく、しかし、この上なくおどろおどろしく、得体のしれないエネルギーにあふれている。

 実はわからないところがたくさんあった。ここに書いたのも、もちろん私の勝手な解釈に過ぎない。この映画そのものが、私がここに書いたような理性的な解釈をも吹き飛ばすような力をもっている。

「あん」や「光」のようなわかりやすい映画もよかったが、私はやはり説明を排し、抽象化されながらもきわめて具体的な手触りのある映像にしてくれる河瀨作品が大好きだ。今回はただただ映像と舞踏に酔った。踊りの場面では涙が出そうになった。いや、実際に涙が出た。わけもわからず、ただただ生そのものを私の心の奥底に感じて、魂がゆすぶれた。

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アルモドバル監督「神経衰弱ぎりぎりの女たち」「欲望の法則」「キカ」「抱擁のかけら」「私が、生きる肌」

アルモドバル監督「神経衰弱ぎりぎりの女たち」「欲望の法則」「キカ」「抱擁のかけら」「私が、生きる肌」

 

 これまで何度かスペインの巨匠アルモドバル監督の映画の感想をここに書いてきたが、また5本見たので、簡単な感想を書く。

 

718x0vot6jl_ac_ul320_sr224320_ 「神経衰弱ぎりぎりの女たち」 1989年

 18世紀から20世紀にかけて、フランスにブールヴァール劇と呼ばれる芝居があった。中年夫婦のいざこざ、何人もの人物を巻き込んでの騒動、偶然の様々な出来事、和解といった家庭内的な小さなドラマを描いていた。アルモドバル監督の映画は、ブールヴァール劇の過激版といってよさそう。中年男女の分かれ、テロリストとのかかわり、自殺未遂、殺人未遂。女性たちみんなが常軌を逸している。狂気じみた行動が行動を呼んで混乱していく。ブールヴァール劇をドタバタのブラック劇に仕立てたといえそう。

 独特の美学がとても魅力的。ただ、アルモドバル監督がゲイであるせいか、美男は登場するが、きれいな女性が登場しないで、女性たちはいずれもヒステリックをとる。男性としては感情移入しにくい。そのために、心から楽しむことはできなかった。

 

51yxjd2bccl_ac_us200_ 「欲望の法則」  1990年

 3人のゲイ(エウセビオ・ポンセラ、 アントニオ・バンデラス、ミゲル・モリーナ)と1人の性転換で女性になった元男性(とはいえ、演じているのはカルメン・マウラ)の物語。ゲイの1人(バンデラス)が嫉妬のあまり恋敵の男性を殺し、自殺する。かなりきわどいストーリーだし、間違いなく異性愛者である私には理解できない世界なのだが、なかなかに説得力がある。映像の魔術というべきか、それぞれの人物に感情移入できるし、それぞれの愛のあり方にも納得できるし、愛の過剰も十分に理解できる。好きな映画ではないが、アルモドバルの独特の世界観をとても興味深く思う。

 

91iko0grsll_ac_ul320_sr226320_ 「キカ」 1994年

 メイキャップアーティストの中年女性キカ。ある有名作家のテレビ出演のメイキャップを担当したことから、その作家と関係を持ち、その義理の息子とも愛し合うようになって同棲する。キカは明るくて楽天的で男性に対して軽く、みんなに好かれている。ところが、作家と義理の息子、そして家政婦までが秘密を持っているために、3件の殺人、1件の殺人未遂が起こり、キカもレイプされる。ふつうに描くとヒッチコックのような映画になりそうなところを、アルモドバル監督は軽くて明るいタッチで色遣いも派手なドタバタで描き出す。死者の蘇生の場面などのストーリー上の飛躍もあり、とてもおもしろい世界を創り出す。

 ただ、「欲望の法則」も「神経衰弱ぎりぎりの女たち」も「キカ」も、いわゆる美人女優が出演していないので、男性としては物足りない。ヒロインのキカも魅力的には描けているが、少なくとも私には女性としての魅力が感じられないので、「なかなか面白い独特の映画」以上とは思わなかった。

 

51vpt60aval_ac_us200_ 抱擁のかけら」 2010年

 盲目の脚本家(ルイス・オマール)の前に謎の男が現れることから、徐々に14年前、脚本家が別の名前の映画監督として活躍し、女優志願の女性(ペネロペ・クルス)と恋に落ち、その女性のパトロンである実業家の復習を受け、しかも交通事故に遭って女性を失い、自らも盲目になったことがあらわになっていく。中年男と囲われ女の激しい恋が身につまされるようなリアリティを持っている。脚本家を取り巻く人々も説得力をもって描かれる。そして、ペネロペ・クルスがあまりに魅力的。「トーク・トゥ・ハー」「ライブ・フレッシュ」「帰郷 ボルベール」に匹敵する、あるいはそれ以上のアルモドバルの傑作だと思う。

 

51ttzh5wz9l_ac_us200_ 「私が、生きる肌」 2012年

 徐々に真相がわかる構成になっている。要するに、人体実験もいとわない先端医学研究者(アントニオ・バンデラス)が、娘を死に追いやった若者を誘拐し、性転換手術を施し顔も替えて亡き妻(エレナ・アラヤ)そっくりの女性を作り上げる。そうするうちに、愛し合っているという幻想を抱くが、妻そっくりになった男に殺される。男女の枠が取り外された不思議な官能の世界が展開し、人間の持つ独占的な愛の欲望をえぐりだす。

 不思議な映画だ。従来の愛の概念をはみ出している。この上なく極端な形で狂おしい愛の形を描く。もちろん監督はそれを肯定しているわけではないが、人間の心の奥にある一つの業と捉えているのだろう。大変説得力がある。

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映画「50年後のボクたちは」「父、帰る」「裁かれるは善人のみ」「エレナ」「華麗なるギャツビー」

 数本の映画をDVDなどで見たので簡単な感想を記す。

 

5081redmmccl_sy445_50年後のボクたちは」 ファティ・アキン監督 2017年 ドイツ映画

 先日見た「女は二度決断する」のアキン監督の前作。原題は「チック」。ドイツのベストセラー小説の映画化とのこと。クラスのはみ出し者のマイクは14歳。父は若い女性と浮気、母はアル中。クラスではほかのほとんどの生徒が憧れの女の子の誕生パーティに呼ばれているのに、一人だけ呼ばれていない。そんな時、東方ロシア(つまり東洋系の容姿)出身のチックが転校してくる。マイクの両親が家を離れた夏の日、意気投合して、チックが無免許運転する車で南に向かって無鉄砲な旅に出かける。そのロードムービー。二人は途中で少し年上の女の子イザと出会う。しばらく行動をともにする。山に登り、三人で50年後にも会おうと約束する。

チックの過去もイザがなぜそのようなところにいるのかもまったく説明がない。二人の食事を振る舞ってくれる子どもたちと女性がどのような人なのかもわからない。その夏だけの不思議な体験。そこが面白い。ブルジョワ階級の愛に恵まれない少年が得体のしれない人間たちに出会って、自分の世界の外に出ていく。

子どもの無軌道な行動に対して、大人としてはあれこれ心配になるが、ともあれすがすがしい。なぜすがすがしいかというと、自分にも覚えがあるからだろう。私も中学生のころ、家出したことがある。すべての社会的束縛をすてて無軌道なエネルギーを発散したかった。チックのような、悪いことを教えてくれる同級生もいたし、仲良くしていたこともある。それを思い出す。3人の主人公はとても魅力的に描けている。

 

「父、帰る」 2004年 ロシア アンドレイ・ズビャギンツェフ監督

 確かに歴史に残る素晴らしい映画だと思った!  ただ何を言いたいのかとなると、よくわからない。

 母や祖母と暮らす兄弟(中学生くらいのアンドレイと小学生くらいのワーニャ)のもとに、12年間家を出ていた父親が突然帰ってくる。兄弟は父に連れられて、泊りがけで釣りに行くが、父は強圧的で子どもたちに理不尽に命令し、それに従わないと暴力をふるうばかり。しかも、計画を変えて、別のところに行き始める。そして、湖に行き、ボートで無人島に行って、何かを探す。兄のアンドレイは従順で父親に従う様子を見せ、弟ワーニャは反抗を繰り返す。父は無人島で事故で死に、二人は父の遺体をボートに乗せて帰ろうとするが、父の遺体はボートともに湖底に沈んでしまう。

 カフカ的世界だと思った。父親の行動(無人島に何かを隠していたのを掘り出したらしい)も、兄弟の行動もすべて無駄になる。理不尽な命令にしたがって、兄弟は必死に行動するが、その行動にどういう意味かわからずにいる。何の結果ももたらさない。ただただ理不尽。

 ロシア人は、大きな革命に巻き込まれ、強大な権力によって多く犠牲を出したが、結局、理不尽な結果しかもたらされなかった。殺伐とした精神の中にいる。ロシアの人々はそのような精神状況にいるのかもしれない。そのような世界をこの映画は鋭く描いている。しかし、もちろんそれはソ連にかぎったことではない。現代人は西側の人間もこの映画のような荒涼とした精神の中にいる。この映画を見ると、改めてそのことに気付かされる。

 それにしても圧倒的な映像美。一つ一つが絵画のよう。最後まで招待が明かされず、不気味で理不尽で、しかもどこか人間的な父親を演じる役者にも、二人の子どもたちの演技にも感服。

 先日、この監督の「ラブレス」を見て、とてもよい映画だと思ったが、私は「父、帰る」のほうに圧倒的な感銘を受けた。

 

812wjbvp8al_sy445_ 「裁かれるは善人のみ」 2014年 ロシア アンドレイ・ズビャギンツェフ監督

 同じズビャギンツェフ監督の映画。

 ロシアの海辺の町に住む中年男コーリャ。権力によって欲望を満たす横暴な市長に家を取り上げられ、頼っていた旧友の弁護士に妻を寝取られ、しかも、その妻は自殺したため、殺した疑いをかけられ、15年の刑を言い渡される。踏んだり蹴ったりの人生。その苦悩を荒涼とした風景とともに描く。弁護士も妻も自分なりに懸命に生きようとしている。だが、どうにもならない。誰もが生きる意味を見出すことができず、真実はどこにもなく、ただ欺瞞だけが横行する。そのような世界を絶望感をもって描く。

 日本語タイトルがよくないと思った。これではまるで権力に打ち負かされる善人の悲劇のようではないか。映画の中で「ヨブ記」について語られる。原題は「リヴァイアサン」。ホッブスの著書で有名だが、もとは「ヨブ記」に出てくる海の怪物を意味する。コーリャが、まさしく踏んだり蹴ったりの人生を歩みながらも神を信じるヨブと重ねあわされている。だが、コーリャは飲んだくれで暴力的であって、決して善良な人間ではない。しかも、神を信じていない。もはや神を信じられなくなったヨブが海の怪獣リヴァイアサンに痛めつけられる物語とでもいうか。リヴァイアサンは単に権力を意味しているわけではないだろう。不条理で理不尽な超越的なものだろう。誰もが必死に生きているのだが、わけのわからない力に翻弄されて打ち負かされてしまう。そんな世界を描いている。

 荒涼たる海、廃船、人の通らないさびれた道路、海岸のうらぶれた景色が圧倒的迫力で迫る。だが、作品の出来としては、「父、帰る」には及ばないと思う。

 

71ylkdf6htl_sy445_ 「エレナ」 2011年 ロシア アンドレイ・ズビャギンツェフ監督

 元看護師のエレナは資産家である現在の夫と再婚。平穏に暮らしている。ところが夫が病に倒れ、死を覚悟することになる。夫は遺言書を書くというが、それはエレナにとって好ましいものではない。放置すると、前の夫のとの間にできた子ども一家、とりわけ孫のサーシャの大学進学のための資金がなくなる。エレナは毒薬を夫に与えて遺言書を書きなおす前に殺害する。それだけの話だ。ある意味できわめて単純。最後、夫と暮らしていた豪華な家に子ども一家を呼び寄せる。自堕落で他者に依存しているばかりの家族。とりわけサーシャは勉強もせず、悪い仲間と暴力事件を起こすばかり。映画の冒頭と最後、ほとんど動きなしに家が映し出される。一体エレナの行動にどのような意味があったのか、大罪を犯して手に入れたものはどれほど愚かなものか。それを冒頭と最後の映像が静かに語りかける。とても単純でわかりやすい映画だが、映像の力に唸ってしまう。

 

「華麗なるギャツビー」 1974年 ジャック・クレイト監督

 40年以上前、予告編を見た覚えがある。本編も見たいと思ったが、原作を読む前に映画を見るのに抵抗があった。そして、映画も音楽も文学もヨーロッパびいきで、英米ものに惹かれることの少ない私は、フィッツフェラルドの原作になかなか手が出なかった。最近、やっと野崎孝訳を読んだので、NHKのBS放送を録画していた1974年の映画を見てみた。

 原作を読んだ直後に映画を見ると、あれこれと不満が出てしまう。これでは、語り手のニックがあまりに木偶の坊。トムもあまりに粗暴。デイジー(ミア・ファーロー)、マートル(カレン・ブラック)ら登場人物たちがあまりに大袈裟に演技し、あまりにわかりやすく、原作にある繊細さが感じ取れない。ギャツビー(ロバート・レッドフォード)の純情も魅力も十分に伝わらない。ただ、映画の中の桁外れに裕福で豪華な世界にびっくり。九州出身の田舎者で、しかもそれほどお金に余裕のない階層出身の私は小説を読んでもこれほどの豊かさを想像できなかったが、確かにフィッツジェラルドが描いたのもこのようなスケールの出来事だったのかもしれない。登場人物たちの行動に納得できないところがあったが、なるほどこれほどの金持ちだったら、そういう行動をとるのかもしれないと思えるところはいくつかあった。

 とはいえ、映画を見て、原作での語り手ニックの位置づけなどが見えてくる。収穫はたくさんあった。

 

201391s7xbdz9l_sy445_ 「華麗なるギャツビー」2013年 バズ・ラーマン監督

 1974年の映画を見て、不満を感じたので、2013年に作られた「華麗なるギャツビー」もみてみた。ほとんど漫画的といえるほどに豪華さ、贅沢さを描く。このほうがむしろ不自然さを感じない。語り手ニック(トビー・マグワイア)の役割も納得できる。ギャツビー(レオナルド・ディカプリオ)もいい味を出している。あれこれ付け足して説明過剰ではあるが、原作(村上春樹訳を購入して読んでみた。少なくとも私の世代には野崎訳よりも村上訳のほうがずっと読みやすい。自然にこなれていて、細かいところまで神経が行き届いた訳だと思う)のエッセンスはこちらの映画のほうが伝えているように思った。

 ただ、この映画を見ても、原作の味わいを映像で出すのは難しい・・というこれまで何十回となく感じてきたことを改めて思った。

 

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大分のナイヤガラの滝と呼ばれる原尻の滝、そして映画「馬を放つ」のこと

 一昨日(2018年4月21日)から大分市に来ている。市内にある岩田学園を、私が塾長を務める白藍塾がサポートして小論文指導をしているので、その業務の一環として学園を訪れるため。岩田学園を訪れるのは今日(23日)だけだが、大分市は私が10歳から18歳まで過ごした土地なので、少し前に大分入りして、少し近くを回ることにした。一昨日の夜は大分付近に暮らす旧友二人と飲食をともにし、昨日はそのうちの一人の車で、快晴の初夏の陽気の中、原尻の滝にいった。ナイヤガラの滝とよく似た滝だ。今、かなり有名なようだが、私が大分にいるころには知られていなかった。友人も初めてだというので、出かけたのだった。

 友人は仕事と観光で134か国を訪れ、ナイヤガラの滝の近くに住んだこともあるというが、その彼もナイヤガラの滝に似ていると感嘆。その後、佐賀関にあるよしだ会館というレストランで昼食。関アジ、関サバを堪能した。その後、大分のホテルまで送ってもらった。

 夕方にはひとりで大分市内の映画館で「馬を放つ」を見た。岩波ホールで見たいと思いながら、時間が合わずにいた。大分で見られるのはラッキーだった。アクタン・アリム・クバト監督のキルギス映画だ。素晴らしかった。感動してみた。

 ケンタウロスと呼ばれる初老の男。かつては映画技師として働いていたが、現在では建設現場で働き、聾唖の障害を持つ妻との間に言葉を発しない息子と幸せに暮らしている。ところが、夢を見たことから、馬は人間の翼であり、神に近づくことのできるものだというキルギスの伝説を実践したいと考えるようになる。そして、競走馬として飼われた馬たちを野に解き放つ。そこに、遠縁の権力者やケンタウロスに好意を持つ未亡人シェラパット、そのシェラパットに片思いを寄せる泥棒のサルディが絡んで物語は展開する。

 最後、ケンタウロスは村を追放され、サルディに撃たれて死ぬ。が、それと王子に、それまで言葉を発しなかった息子が「倒産」という声を発する。

 ケンタウルスはどこまでも優しい男だ。人間に対しても馬に対しても。馬とはケンタウロスにとって神に最も近い自然そのものなのだろう。人間は自分の都合で自然を破壊する。人間は自分の都合で馬をこき使い、虐待する。ケンタウロスは宗教的な教義には無関心だ。ただ馬を通して神に近づこうとしている。

 キルギスでは中東ほどイスラム教の戒律が厳しくなさそうだ。キルギスの伝説が神の教えと融合しているらしいケンタウロスの考えは異端に属すだろうが、それほど厳しくとがめられない。アクタン・アリム・クバト監督はケンタウロスを肯定的に描く。

 私はドストエフスキーの「白痴」を思い出した。現代に現れたキリストのような他者を愛し、聖なる部分を持つ男性。現代社会に、イスラム社会におけるキリストのような人物が再現し、周囲と折り合うことができずに追放されてしまう。監督はドストエフスキーの徴を映画の中に残しておきたかったのではないだろうか。遠縁の横暴な警察署長、少し頭の足りない宗教勧誘者などドストエフスキー的人物といえるだろう。

 かつて映画館として使われていた場所で村人たち祈りをささげている時、ケンタウロスはふと思い立って、映画技師にもどって馬が走る昔の映画を映し出す。感動的な場面だった。

 何か所か私はかなり深く感動した。

 ただ、大分ではよくあることかもしれないが、この映画を見ていた観客は私を含めて3人だけだった。しかも、私ともう一人は間違いなくシニア料金。いつまでこの映画館が成り立つか少々心配。

 本日、このあと岩田学園で研修を行い、特別授業を行うが、早く目が覚めたので、この文章を書いた。

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映画「女は二度決断する」 衝撃的なラストだが・・・

「そして、私たちは愛に帰る」や「消えた声が、その名を呼ぶ」を監督したトルコ系ドイツ人ファティ・アキンの新作映画「女は二度決断する」をみた。前の2作が衝撃的だったので、今回も期待してみた。期待を裏切らない衝撃作だった。

新作のストーリーを書くと、「ネタバレ」ということになるだろうからくわしくは書かない。トルコ系の男性と結婚したドイツ女性カティヤ(ダイアン・クルーガー)。ところが、夫と息子がネオナチによるテロで殺されてしまう。カティヤは爆弾を仕掛けた女性を目撃していたこともあって容疑者はしばらくして特定される。だが、・・・・。

アキン監督はこれまでもトルコ系ドイツ人の置かれた状況をたびたび描いてきた。今回はまさしく真正面からその問題を取り上げている。小細工もせず、複雑な状況を絡めることもなく、シンプルに怒りと悲しみ、そして復讐心を描く。観客はカティヤとともに被告夫婦に憤慨し、その弁護人や偽の証言をするギリシャ人に憤慨する。カティヤの復讐心、最後の決断も十分に理解できる。私は夢中になって最後まで見た。そして、最後、カティヤの行動に衝撃を受けた。

ただ、やはりアキン監督にしてはシンプルすぎる。深刻な問題であるだけに、アキン監督は余計なものを描きたくなかったのだと思うが、もう少し社会情勢を描くなり、トルコ系住民の心の奥を描くなりしてほしい。私はこの作品は、「そして、私たちは愛に帰る」や「消えた声が、その名を呼ぶ」には及ばないと思った。

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