映画・テレビ

映画「顔たち、ところどころ」 生き方が刻まれた顔!

 アニエス・ヴァルダとJR(33歳の若いフランスの写真家。本名を明かしていないらしい)の共作によるドキュメンタリー映画「顔たち、ところどころ」をみた。

 ゴダール、レネ、トリュフォー、ヴァルダ、そしてその当時ヴァルダの夫だったジャック・ドゥミは私が学生時代に夢中で追いかけたフランスの映画監督だった。ヴァルダの1964年の映画「幸福(しあわせ)」は、ドゥミの「シェルブールの雨傘」とともに大好きな映画だった。この映画を見るために、何度映画館に足を運んだことか。美しい色彩とモーツァルトのクラリネット五重奏曲が効果的に用いられ、心をかき乱されずにはいられなかった。そのヴァルダも88歳。若き写真家とドキュメンタリー映画を作ったという。みないわけにはいかない。

 ヴァルダも元々は写真家だった。ヴァルダとJRが出会う。JRは町の人々の写真を撮ったり、村の人の所有している昔の写真を手に入れたりして、それを巨大に引き伸ばして町の壁面全体に張りつけるパフォーマンスを行う写真家らしい。二人は車であちこちの村(この映画の原題は「VISAGES VILLAGES」(韻を踏んでいるが、意味的には「顔たち、村たち」)に出かけ、そこで生きる人の写真を建物に貼り付けていく。その様子がロードムービー風に、軽快な音楽に乗って描かれる。

いってみればそれだけの映画だ。だが、年の差54歳の道中が面白い。リスペクトしあい、時に反発し合う二人が自由に語り、楽しみ、村の人々と交流し、自分たちの芸術観をさりげなく披露する。被写体になる町の人々もその様々な価値観、様々な生き方を見せてくれる。多種多様というか、人様々というか。様々な生き方、その生き方が刻まれた顔。この映画の中には様々に生きる人への限りない愛情が注がれていて、それだけでも感動する。

そして、建物に貼り付けた写真の見事なこと。被写体のポーズ、写真の選び方、貼り付け方によるのかもしれないが、町全体が見事な芸術になる。そこで生きている人々を巻き込み、その人たちの生きる顔を描き出す芸術になる。なんでもないことに見えて、実はすごいパフォーマンスだと思った。

JRはかつてのゴダールと同じように常にサングラスをかけ、素顔を見せようとしない。かつてゴダールは友人であるヴァルダには素顔をさらしたことがあった。ヴァルダはJRにもサングラスを取るように促す。だが、JRはかたくなに拒否する。そこで、ヴァルダはJRをノルマンディに住むゴダールに紹介しようと考え、二人でゴダールの家に出かける。だが、ゴダールは約束をたがえて書置きを残して家を出ていた。ヴァルダは怒り、心を痛める。そんなヴァルダに対して、JRはサングラスを取って素顔を見せる。生き方が刻まれた顔がヴァルダにだけ明かされる。

人々の生きる姿、自分の生を肯定する姿、自由に生きる姿に何度も涙が出そうになった。

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映画「ここに幸あり」「汽車はふたたび故郷へ」「皆さま、ごきげんよう」「放浪の画家ピロスマニ」

 ジョージア出身の映画監督イオセリアーニの映画をDVDで3本みた。先日このブログに2本取り上げたので、合計5本見たことになる。簡単に感想を記す。また、「放浪の画家ピロスマニ」を久しぶりにみた。感想を記す。

 

51v34jrkdwl_sy90_ 「ここに幸あり」 オタール・イオセリアーニ監督 2007

 ジョージア出身のイオセリアーニ監督のフランス映画。大臣を罷免されたヴァンサンは、初めのうちは途方に暮れるが、やがて自由気ままに生きるようになる。それだけの話なのだが、様々な動物が登場して、何かというと友人たちで集まってタバコを吸い、酒を飲み、歌を歌い、楽器を演奏するというほのぼのした雰囲気がしみじみと素晴らしい。金や権力に執着してあくせくすることの愚かさをさりげなく描く。

 1930年代のフランス映画を思い出す。ルネ・クレールやジャン・ルノワールやジュリアン・デュヴィヴィエの描いた古き良きパリの香りがする。ジョージアで育ったことで、田舎の人間関係を今も心の奥に持っているということだろう。

 なんとヴァンサンの老いた母親を演じているのはミシェル・ピコリ! 日本映画で言えば、仲代達也がおばあさんを演じているようなものだ。そこにまったく違和感がないのも、まさに名優! 

 現代はJardins en Automne「秋の庭」。多くの動物、民族、様々な階層の人が共生すること心のふるさとを描こうとする。現実にはあり得ない社会なのだが、このように描かれると、つかの間の自由な世界が広がる思いがする。

 

51pmsr9omyl_sy90_ 「汽車はふたたび故郷へ」 2010

 これまで見てきたイオセリアーニ監督の映画と少し趣きが異なる。これは自伝的な映画らしい。ジョージアで育った少年が映画監督になるが、ソ連時代の検閲のために自由に作品を発表できない。自由を求めてフランスに亡命するが、そこでもプロデューサーの干渉によってうまくいかない。

苦悩が描かれるが、そこはイオセリアーニ監督。タバコを吸ったり酒を飲んだり楽器を演奏したりしてくつろぐ場面、様々な動物の場面がでてきて、独特の余裕、独特の生命賛歌がある。声高に語るのではなく、しみじみと家族愛、故郷愛、生命への愛が画面から漏れてくる。

 主人公は川の中で人魚の幻影を見る。最後、久しぶりに故郷に帰り、家族と川辺にピクニックに行って、人魚に誘われて川の中に入り込む。そこで映画は終わる。人間社会から一歩離れて、ある種の理想郷を描くことの決意表明だと私は思う。このような苦しい時代の後、イオセリアーニ監督は人間界から少し身を離して、人魚の世界、すなわち独特の理想郷を描くという作風で自分の道を見つけ出したのだから。

 

61pyirjbgl_sy90_ 「皆さま、ごきげんよう」 オタール・イオセリアーニ監督 2015年 

 81歳になったイオセリアーニが監督したフランス映画。これまでのイオセニアーニ監督の映画は同時代の人々の軽いタッチの群衆ドラマだったわけだが、今回はフランス革命期のパリでのギロチンで斬首される貴族の話に始まって、近代的な戦闘(おそらくソ連内、あるいは東欧での衝突)の場面が入り、そのあとで現代のフランスの話になる。つまり、歴史的にも縦断する群集劇と言えそうだ。

大勢の人物が登場し、その人たちがすれ違うだけだったり、かかわりを持ったりしながら、いくつものエピソードが語られるというイオセニアーニ監督特有の作風。そして、イオセリアーニ映画でよく見荒れる通り、タバコを吸い、酒を飲む場面が頻出する。

主役格は二人の老人。衝突したり、仲直りしたり、政府に歯向かったり、酒を飲み交わしたりして過ごす。かつて命を奪い合う出来事が起こり、今は平和になっているが、あれこれの小さな衝突がある。そのような世界を描く。時空間をつなぐ小道具としてギロチンできられた首・頭蓋骨があり、塀の中に突如として現れては消える時間を行き来する扉がある。

原題はCHANT D’HIVER、つまり「冬の歌」。人生の黄昏を迎えた二人の最後の人生の哀歓を描いているといえそうだ。ただ、残念ながら、私には全体を通すテーマがよく理解できなかった。おもしろいとも思わなかった。あれこれ盛り込みすぎて収集できなくなっているのを感じた。

 

51fqwqbcmvl_sy90_ 「放浪の画家ピロスマニ」 ゲオルギ・シェンゲラヤ監督 1969

 ジョージア(もちろん、当時はグルジアと呼ばれていた)映画の古典的傑作。40年以上前、封切時にみた。が、まるで絵画のような美しい映像の連続だったこと以外、内容についてはまったく覚えがない。アブラゼ監督のジョージア映画を3本、岩波ホールで見たのを機会に、久しぶりに見直した。封切時に見た時の感覚を思い出した。

 説明を排した寡黙な映画だ。すべての場面がそのまま絵画になるほどに美しく味わいがある。ピロスマニの絵画を模した構図。ジョージア(の自然や街並みを背景に放浪の画家ピロスマニの生涯が描かれる。まさしくピロスマニ自身の絵画による絵巻物。セリフが少なく、ほとんど説明がないがゆえに、ピロスマニの孤独な人生がそのまま伝わる。初めて見た時には、あまりに不思議な感覚に途方に暮れた記憶があるが、今見ると、その美しさに酔う。

 野原や畑を走る少年とピロスマニが重なる場面がある。ピロスマニが少年の心を大人になっても持ち続けて、ナイーブ(フランス語の本来の意味での)な絵画を描き続けたことを示す。この映画手法もまたとてもナイーブだが、この素朴な映画の中でこのように描かれると、素直に納得する。

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映画「スターリンの葬送狂騒曲」 史実もこのようなことだったのだろう

映画「スターリンの葬送狂騒曲」(アーマンド・イアヌッチ監督 イギリス映画)をみた。風刺の効いたドタバタ喜劇かと思っていたら、それほど笑いの場面はなかった。スターリンが突然、意識を失って倒れ、ついには死亡する。政治局員たちは後継者争いをする。当初はスターリンの手先として粛清の手助けをしていたラヴレンチ・ベリヤ(サイモン・ラッセル・ビール)が実質的な権力を持っていたが、徐々にフルシチョフ(スティーブ・ブシェーミ)が力を振るい始めて、ベリヤを失脚させ、銃殺刑にする。その様子を戯画化して描いている。

 私は「ほぼ全共闘世代」だから、一時期、マルクスの著作を何冊か読み、ロシア革命にも関心をもってレーニン、スターリン、トロツキーについても調べていた。ただ残念ながら、その後50年近くの間、関心をなくして、ほとんどそうした本を読まなかったので、すっかり忘れてしまった。映画を見ながら、「マレンコフって何をした人だっけ?」「そういえば、ミコヤンていたなあ」と思うだけだった。

 そんなわけで、どのくらい史実に近いのかわからない。ただ、おそらく実際にこのようなことが起こったのは間違いないだろうと思う。政治局員の全員が周囲を出し抜いて権力を得ようという意志は持っているが、時機を失したり、決断できなかった人間が失脚していく。ベリヤやフルシチョフ、そしてスターリンの子どもたちの実像は確かにこれに近いものだっただろう。

 そうした政治局員たちと対照的に自分の意志を貫く女流ピアニストをオルガ・キュリレンコが美しく演じている。ただ、それだけの映画なので、私としてはあまり深い感銘は受けなかった。少なくとも、新たな発見はなかった。

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映画「アフガン」「スターリングラード」「素敵な歌と舟はゆく」「月曜日に乾杯!」

 このところ、マイペースで仕事をしている。ロシア旅行をしたせいもあって、ロシア映画、ジョージア映画を何本か見た。簡単に感想を書く。

 

51pbh9cco2l_sy90_ 「アフガン」 フョードル・ボンダルチュク監督 2005年 

 1960年代、高校生だった私はセルゲイ・ボンダルチュク監督の「戦争と平和」を見て圧倒された記憶がある。フョードル・ボンダルチュクはそのセルゲイの息子さんとのこと。8月の戦争の季節なので、戦争映画をいくつか見てみた。

 ソ連によるアルガン侵攻はアメリカによるベトナム侵攻とそっくり同じ構図だ。軽い気持ちで軍隊に入り、アフガンに送られた若者たちは、壮絶で凄惨な戦場を目の当たりにし、現地の人々に支持されていない戦いを経験する。そして、第9中隊の配属された人々は、祖国のため、自分たちの誇りのために戦い抜こうとするが、イスラム兵の総攻撃を受け、一人を残して全滅する。

 戦争の場面があまりにリアル。凄絶な戦争の中に投げ込まれた感じがする。アメリカ映画のように登場人物の個性をうまく描き分け、芸術家の卵、うぶな青年、与太者の生きざま、死にざまを追っていく。

 ソ連のアフガニスタンに対する暴虐、アフガニスタン国民に対するソ連兵たちの人権蹂躙などは描かれない。私たち西側の人間からすると、かなりソ連寄りのこの映画の視点に疑問を持たざるを得ない。だが、ロシア映画としてはやむを得ないだろう。そもそもこれがロシア人の視点なのだろう。

 

51novyuazql_sy90_ 「スターリングラード」 フョードル・ボンダルチュク監督 2013

 映画の冒頭、2011年の東日本大震災のがれき(ただ、看板などの様子からして、ニューヨークあたりのチャイナタウンっぽい)が映し出される。救援に来たロシアのグループの1人が生き埋めになったドイツ人を助けようとして、繋がった電話で話しかけて元気づけようとする。そうして、スターリングラードの対ドイツ軍の凄絶な戦いの中でがれきの中で生き抜いた自分の母親とそれを守った男たちの話をする。

 ソ連とドイツの戦争を大局から描くのではなく、アパートの中に孤立しながら、貧弱な武器だけで敵に攻撃を仕掛ける数人に焦点を絞っている。常に煤が降りしきる中、薄汚れた兵士たち、市民たちが必死に戦い、殺し合う。ソ連兵もドイツ軍将校も愛を大事にし、私怨にかられる。アパートに立てこもった5人は一人の女性を守ったまま全員死んでいく。

 スターリングラードの凄絶な戦いの全体像が分からず、アパートに置かれた人々の位置づけなのが曖昧なので、少々退屈したが、映像はきわめて芸術的。かつてのソ連映画のような説教臭さもヒロイズムもなかった。好感の持てる映画作りではあった。

 

51wte3qsxl_sy90_ 「素敵な歌と舟はゆく」 オタール・イオセリアーニ監督 1999

 ジョージア(グルジア)出身の映画監督イオセリアーニの作ったフランス映画。戦争映画を見た後でこれを見ると、心からホッとする。

 不思議な群集劇だ。名前も経歴も明かされないままパリの街のたくさんの人物が登場する。その人々があちこちでかかわりを持ったり、お互い知らないままにすれ違ったり。中心になるのはある大邸宅の裕福な家族。妻が実業家として活発に動き回る。おしゃれに着飾ってパーティを開き、階層を強く気にかけ、上流階級として下層の人たちを叱り飛ばして生きている。老いた夫や子どもたちは、そうした環境から逃げ出したがって、下層の人々と親しくしている。息子は実際に町の下層の人々と親しく交わるうちにチンピラと関わって刑務所に入る。夫は最後、小舟に乗って邸宅を脱出し、歌いながら放浪する。小さな子どもやペットのコウノトリは家に寂しく残される。

 それだけの話なのだが、軽妙でさりげなくて、しかも観察と暖かさにあふれているので、退屈しないでみることができる。シューベルトの「美しき水車小屋の娘」の第1曲「さすらい」がたびたび聞こえてくる。まさしく、これは「さすらい」の映画。がんじがらめになった現代社会から身を離してもっと自由にもっと気楽に、お金や階級やしきたりにこだわらずに生きていくことを、肩ひじを張らずに自然に語りかける。

 原題はAdieu, plancher des vaches。直訳すると、「さらば、牝牛の床よ」ということになると思うが、要するに、「さらば、住み慣れた家よ」というような意味らしい。

 

51bzpnhhmhl_sy90_ 「月曜日に乾杯!」  オタール・イオセリアーニ監督 2002

 これもイオセニアーニ監督らしいとぼけた味わいの映画だ。

中年男ヴァンサン(ジャック・ピドゥ)はフランスの田舎町で家族と暮らし、車と電車で工場に通い、やる気のない労働者たちに交じって、健康の上からも環境のよくない職場で溶接工として単調に働いている。ところが、ある日、拘束されて働くことに嫌気がさして職場放棄し、遠くに住む父親や友人と会い、そのあと、ふらっとヴェネツィアに出かける。そこで会った人と友達になって、ワインを飲み、お金が底を尽きたことにも特に気にせず、気ままに暮らし、しばらくして家に戻る。

それだけのストーリーが、田舎の家族や旅の途中で出会った人々の人間模様とともに描かれる。これを見るほとんどの人が、「ああ、実はオレももともとはこんな風に、お金にも人間関係にもあくせくしないでのん気に生きていくのが好きなタイプの人間なんだ・・・」と思うだろう。世の中の矛盾にうんざりしながらも、肩に力を入れずに町の片隅で人間を信じてのんびり生きていこうとする生き方に共感する。このような能天気な生き方を通すには、それなりの覚悟が必要であり、それを映画として描くには恐るべき人間観察が必要だろう。それを見事にやってのけるイオセリアーニ監督に脱帽。

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映画「誰も知らない」「歩いても歩いても」「海よりもまだ深く」「午後の曳航」

 少し時間的余裕ができたので、DVDを入手して、「万引き家族」で関心を持った是枝監督の映画を中心に何本か映画を見た。簡単に感想を書く。

 

41dqvi6worl_ac_us200_ 「誰も知らない」 是枝裕和監督 2004

 今回初めて見て、「万引き家族」との類似性を考えた。母親(YOU)に置き去りにされ父親の異なる四人きょうだい。もっとも年上の12歳の明(柳楽優弥)がきょうだいのめんどうをみて生活する。子どもたちは出生届が出されておらず、学校にも通っていない。周囲の大人たちは子どもたちの状況を知らず、深入りしようとしない。社会の片隅で子どもたちは悲惨な生活を続け、ついにもっとも年下の女の子は命を失い、途方に暮れた明は遺体をスーツケースに入れて羽田空港近くの河川敷に埋めに行く。

 この出演で柳楽優弥がカンヌ映画祭の最優秀主演男優賞を受賞したわけだが、確かに圧倒的な存在感。柳楽に限らず、子どもたちの演技について是枝監督の演出力に感服する。淡々と悲惨な生活をリアルに描く手腕も見事。ただ、大人たちに知られずに社会の中で孤立して生きていく子どもたちの姿を描くだけで、それ以上の深みを感じない。その点で「万引き家族」との大きな違いがある。

 

51rbwcauabl_ac_us200_ 「歩いても歩いても」 是枝裕和監督 2008

 その昔、家族に期待されていた男性がよその子どもを助けるために自分の命を差し出してしまった。その男性の法事に集まった家族の物語。

それぞれの登場人物が人間関係の悩みを抱え、他者に対する愛情と憤りを併せ持って生きている。映画の前半でわからなかったことが、後半で徐々にわかってきて、それぞれの抱える悩みの大きさが等身大で伝わってくる。「等身大」とここに書いたのは、大袈裟に誇張された形でなくしっかりと伝わるということだ。樹木希林、原田芳雄、阿部寛、夏川結衣、高橋和也らの演技が見事。そして子役たちも素晴らしい。

かつて亡くなった長男という「不在」を中心に物語が展開し、「不在」がみんなの心の影を落としている。ただ一人、その「不在」と関係のない妻(夏川結衣)の連れ子がもう一つの見えない「不在」を成して、その関係がとても興味深い。とても良い映画だと思った。

 

510xw073pel_ac_us200_ 「海よりもまだ深く」 是枝裕和監督 2016

 かつて文学賞を取りながら、その後、書けなくなって、文学の取材という口実の下にいかがわしい私立探偵の職についている男(阿部寛)が、離婚した元妻(真木よう子)と子とともに母(樹木希林)の暮らすアパートに寄ってそのまま台風に遭遇して帰れなくなる。堕落してしまった自分を反省し、やり直したいと考えるが、どうにもならない。そのような男の思いを描く。

私も30代前半までうだつの上がらない何も持たない人間だったので、この男の気持ちはよくわかる。だが、ただそれだけに思える。それ以上の深い内容をこの映画から見つけ出すことはできなかった。是枝監督の演出力には敬服するが、少し物足りなさを感じた。

 

 

41g6zdoesul_ac_us200_ 「午後の曳航」 ルイス・ジョン・カリーノ監督 1976

 大学院生だった時代に予告編を見たのをよく覚えている。だが、三島由紀夫原作の小説が大好きだった私は、イギリスを舞台に改めたこのイギリス映画を「きわもの」だと感じて見に行かなかった。原題は「The Sailor who fell from grace with the sea

それから40年以上たってみてみると、映画としてもとてもおもしろい。母親(サラ・マイルズ)、水夫(クリス・クリストファーソン)も魅力的であり、説得力のある人物として描かれている。

もちろん、横浜が舞台だったはずなのに、映画の中では小さな港町になっていたり、5人の少年たちのリーダーがあまりに独裁的であったりといった違和感はいくつもあるが、ともあれ、私の考える三島のエッセンスを伝えている。海と立ち向かう純粋なる水夫が恋によって卑俗な人間になり下がり、許せなかった少年がそれを罰するという大まかなストーリーも的確に描かれていると思うし、その背景にあるニーチェ的な思想もほのめかされている。海や船や港町の風景も美しい。1970年代の私の心の狭さを反省した。

 

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テンギス・アブラゼ監督「祈り」「希望の樹」「懺悔」

 岩波ホールでジョージアの巨匠テンギス・アブラゼ監督の三部作「祈り」「希望の樹」「懺悔」の連続上映を見た。アブラゼ監督の名前も初めて知った。三つの作品はいずれも絶品だった。ただ、重いテーマなだけに三本続けてみたあと、かなり疲れた。

「祈り」 1967

 モノクロの映像詩のような映画。いつの時代のことなのかよくわからなかった。中世なのだろうか。コーカサス地方で暮らすキリスト教徒とイスラム教徒にかかわる二つの話が中心になっている。一つはイスラム教徒に寛大に接したために仲間に責められて村を追われるキリスト教徒の話、もう一つはキリスト教徒を客人に招いたために村人に責められて殺されるイスラム教徒の話。いずれも異教徒に対して寛大に振る舞った二人が不寛容な人々に責め立てられる物語だ。

そこに清楚で美しい女性が悪魔のような男と婚礼をあげ、ついには死に追いやられ、葬儀が行われる場面が超歴史的に(つまり、古代や現代を舞台にそのような場面が展開する)挿入される。高潔で寛大な天使のような精神が不寛容で欲深い悪魔のような精神に蹂躙されるという普遍的な真実を示しているのだろう。

とても厳粛で宗教的で美しい。ただ、映画全体としては、いかにも「芸術」という感じがして、鬱陶しい気がしないでもない。

 

「希望の樹」 1976

 ロシア革命前のジョージアの村の物語。村人たちの様々なエピソードが語られるが、中心になっているのは貧しい青年ゲディアと清純な少女マリタの恋だ。二人は牧歌的な社会で清純に愛し合うが、マリタは権力者シェテに見染められ、親に結婚を決められてしまう。結婚後もゲディアと室内で会っているところを目撃されて、不義を働いたとみなされ、さらし者にされ、村人たちによって死に追いやられる。

そうした物語の中に、村人から信頼されているが、封建的な因習を押し付ける長老、多くの男を色香で惑わす美女、因習をすべて破壊する革命を熱狂的に求める男、優雅な装いのぼろ服を着て過去の恋愛について触れ歩く厚化粧の中年女性、金の魚や希望の樹など奇跡の生物を発見することに命を懸け、ついには凍死してしまう男性などがからむ。

 重層的に革命前夜の村の状況を描く。ソ連時代の映画なので革命前の牧歌的でありながらも旧弊で閉塞的なジョージアの社会が否定的に描かれる。が、その人間模様はとても魅力的だ。単なる革命礼賛ではなく、人間の奥深くを見つめている。革命前の前近代的な自然崇拝のような不思議な宗教的雰囲気にも心ひかれる。

それにしても映像が美しい。冒頭のひなげしの野原で白馬が死んでいく場面は衝撃的。牧歌的に見える世界で起こる悲劇をこの場面が象徴している。ぼろ服の厚化粧女性の身のこなしもマネの「日傘をさす女性」のような趣があって、とても魅力的だと思った。

 

「懺悔」 1984

 ジョージア内の架空のある市の物語。独裁的な市長だったヴォルラムが病死する。その後、その市長の独裁的な行動の被害に遭った女性が裁判の場で市長の強圧的な行動を語る。市長は黒シャツを着てヒトラー風のちょび髭をつけた、まさしくファシスト風。気に入らない市民に因縁をつけて粛清していく。だが、なかなか愛嬌のある市長で芝居っけたっぷり。「イル・トロヴァトーレ」のアリアを見事なテノールで歌って聞かせたりする。それだけに空恐ろしい。

ここに語られるのは、宗教という精神の指針を失ってしまった人々の動揺だ。市長は現代的な社会の建設のために聖堂を破壊する。すると社会は指針を失ってしまう。市長の息子も孫も、それを失って生きる意味を見つけられずにいる。懺悔したいが、聖堂を壊してしまっているので、それすらできない。

これはまさしくソ連の時代のスターリンによる粛清とその後の状況を描いているだろう。検閲を逃れるためもあってか、すべてが被害女性の「夢オチ」の形をとっており、過去の出来事も虚構が入り混じって幻想的になっている。だが、それが深刻な社会問題を描きながらも、非現実的な場面(甲冑を着た部下たち、女神テミスなど)が加わって、遊び心が発揮される結果になっている。フェリーニ的な映像も時々見られる。

 映像の美しさ、そして市長とその息子の二役を演じる役者さん(アフタンディル・マハラゼ)の演技力に圧倒された。全体的に大変おもしろい映画だった。

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細田守「未来のミライ」 おもしろいと思わなかった

 私はもちろんアニメ・ファンではない。テレビや国際線の機内映画でジブリ作品などの話題になっているアニメ映画を見ることはあるが、劇場でアニメを見たことは、少なくともこの10年以上ないと思う。たまたま時間つぶしのために入った博多駅の駅ビル(AMU)で時間的に都合のよいこの映画を見ただけだった。

「サマーウォーズ」「おおかみこどもの雨と雪」「バケモンの子」はとてもおもしろかったが、それらと比べてもかなり完成度が低いと思った。特に退屈しないで最後まで見たが、最後までおもしろいとは思わなかった。

 妹が生まれて、お兄ちゃんになったばかりの4歳のくんちゃん。妹・ミライばかりかまう両親や祖父母に怒りを感じる。怒りが爆発するごとに時空が乱れて過去や未来の世界につながって、昔の母やひいじいじが現れる。赤ん坊のミライも少女の姿で現れる。妹に嫉妬していたくんちゃんも、現在の生活が過去や未来の家族の生とつながっていることに気付いていく。

 私はまず、ここにまとめたような数行で言い切ってしまえるようなテーマのシンプルさに不満を抱いた。あまりにテーマが単純。しかも、生まれたばかりの赤ん坊に嫉妬するというテーマもありふれている。テーマだけでなく、嫉妬する具体的な出来事もありきたり。幼い子どもはもっと違ったところで嫉妬するのではないかと何度も思った。少なくとも、そのような場面を出してくれないと、見ているものとしてはリアリティを感じない。

 また、不自然さもあちこちに感じた。まず、4歳という設定のくんちゃんが大人びた口調でかなり理路整然と語るのも不自然。自分の感情をコントロールできずに理不尽に甘えるくんちゃんなのだから、これほど大人びた言葉を使えないだろう。また、ひな人形を仕舞うのが遅れると婚期が遅れるのを恐れて未来のミライが現れるという設定も、私にはリアリティが感じられない。細田監督は、ひな人形という家族に代々受け継がれるものを象徴的に出したかったのだろうが、「婚期が遅れる」などというつまらない迷信を真に受けてわざわざこんなキャラクターの少女が未来からやってくるだろうか。

人間の姿になって語る愛犬もひねりがなく、あまりに当たり前すぎるし、ひな人形をしまおうとあわてる場面のくんちゃん、ミライちゃん、愛犬の行動にも納得がいかなかった。「だるまさんが転んだ」を使ってドタバタっぽくしたかったのだろうが、それぞれの人物にそのような行動をとる必然性がないので、私には少しもおもしろいと感じられない。映画の冒頭で違和感を覚えると、ずっと尾を引いて、最後までリアリティを感じられなくなってしまう。

 で、結局、「妹が生まれて、かまわれなくなって怒っていたくんちゃんも、家族に支えられていたことに気付いて、ちょっとお兄ちゃんになりました」というわかりきった話を、ありふれたエピソードをむりやりファンタジーっぽくして語っただけの話になってしまったように思った。

 最後のクレジットで有名な俳優さんが声優を務めていたことを知った。不覚にも、私は一人も気づかなかった。

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「万引き家族」 心の絆で結びつく偽装家族の危うさ

 カンヌ映画祭でパルムドールを受賞したことで話題になっている是枝裕和監督の「万引き家族」をみた。とてもいい映画だった。

 万引きで生活している家族。虐待されている女の子の面倒を見るうち、その子までも家族の一員のようになっていく。だが、祖母(樹木希林)の病死を契機に、家族に見えていた人々が他人の集まりだったことがわかり、しかも死体遺棄や誘拐の罪で男(リリー・フランキー)と女(安藤サクラ)は、警察に逮捕されてしまう。

 行為だけを客観的には見れば、中心の男女はまちがいなく犯罪を行う犯罪者にほかならないのだが、ふたりは善意にあふれ、一般の社会から見捨てられた人々を救っている。助けられた人々もそこでは自分らしくいられ、存在を認められて生きている。

 まさしく最下層の生活。子どもたちは学校に通えず、日々の食べ物に事欠き、壊れかけた家で雑魚寝をして暮らす。この偽装家族は資本主義のシステムに痛めつけられて生きているがゆえに、そこから逃れるために万引きをし、年金詐欺を働いているともいえるだろう。彼らは一般の家庭のように制度化された経済的結びつきとしての家庭を築いているのではなく、セリフの中で語られるように、心の絆によって結びついている。だが、万引きや年金詐欺という日本の経済システムの裏をかく行為によって経済から自由な生活を送っているように見えて、常にお金の問題に振り回され、せこく後ろめたく生きていくしかない。その意味で危うさにあふれている。長続きするはずがない。

 是枝監督はもちろん万引き家族を肯定的に描いているわけではない。だが、間違いなく、資本主義の犠牲になって最底辺で肩を寄せ合って、ある意味で社会への復讐として心を大事にして生きていく人に共感を寄せて描いている。そのような絆の危うさを認識しながらも、それに愛情を注いでいる。

 女性と少女が風呂の中で同じような傷があるのに気付く場面、女性が少女を抱き寄せる場面など感動的な場面がいくつもある。

 二人の子どもの演技も見事。そして、やはり安藤サクラのさりげない表情、そして同居する娘を演じる松岡茉優も素晴らしい。彼女が風俗の仕事をして、言葉の不自由な客を抱きしめる場面も感動的だ。テレビのバラエティ番組で見たことのある顔だったが、こんなにいい女優とは知らなかった。樹木希林の演技については言葉をなくすほど。

 ただ、私としては、上に書いた内容以上の深さをこの映画の中に感じることはできなかった。とても良い映画だと思ったが、これまでの是枝作品に比べて圧倒的に優れた映画とは思えなかった。

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アルモドバル監督「セクシリア」「マタドール」「ハイヒール」「アタメ」「ジュリエッタ」、そして「人生スイッチ」

アルモドバルが監督、あるいは制作をした映画を数本みた。大傑作も、駄作としか思えないものもある。簡単に感想を記す。

 

216gwgcax8l 「セクシリア」 1982

アルモドバル監督のごく初期の作品。私はこれは駄作だと思う。人工授精の権威である学者を父親に持つセックス狂の女性セクリシリアと、ある国の皇太子を中心に、あれこれのセックスがらみの物語が展開される。愛を求めて右往左往する人々のドタバタ劇といったところだが、強いエネルギーを感じるものの、このような世界に、67歳になった私は残念ながら共感できない。いや、たぶん、10代でも共感できなかっただろう。若きアントニオ・バンデラスが出演している。

 

51gqspyvhtl_sy445_ 「マタドール」 1986

 それぞれセックス相手を殺していく男と女。男は生と死のはざまで生きてきた元闘牛士、女はその闘牛士にあこがれていた弁護士。その男女が、犯してもいない殺人を自供した神経症の若者(アントニオ・バンデラス)を介して知り合い、惹かれ合っていく。生と死とセックスと闘牛。血なまぐさくも陶酔的な世界がアルモドバル特有の原色の色彩によって展開される。激しい世界だが、人間の奥底にある欲望を見事の描いていると思う。

 私は、学生の頃、パゾリーニの映画が大好きだった。なぜ私がこのところアルモドバルの映画を見続けているのか。きっと私はパゾリーニと同じようなものをアルモドバルの中に見ているのだと思う。そして、それは私の心の奥にもあるものだと思う。

 

Photo 「ハイヒール」 1991年 アルモドバル監督

 大女優(マリサ・パレデス)を母親に持つニュース・キャスターのレベーカ(ビクトリア・アブリル)は、幼いころから家庭よりも仕事を選ぶ母親に不満を持ち、母の愛を求め続けている。互いに心のすれ違いを繰り返しながら、母親は娘の犯した殺人の罪をかぶって死んでいく。ストーリーにするとそのようなことだが、それを過激に、色鮮やかに描く。一般人の日常とはかけ離れた世界が激しい色遣いで描かれるために、それが私たちの日常のエッセンスとして示されているのを感じる。音楽は坂本龍一。おもしろい映画だと思った。

 

318ce93gpkl_sy90_ 「アタメ」 2005

 現在の日本では、このような映画は許されないのではなかろうか。まさしく、ストーカーを肯定するような映画。天涯孤独の孤児リッキー(アントニオ・バンデラス)は孤児院や精神病院で暮らしていたが、正常と認められて外に出る。すぐに憧れのポルノ女優マリーナ(ビクトリア・アブリル)のもとに向かい、部屋に監禁し、縛り付ける。そして、愛を求める。初めは拒んでいたマリーナもそれを受け入れるようになる。最後はリッキーを家族の1人と認める。ムシのいい映画だが、見ていると、確かにこのストーカー男の純情に同情したくなり、二人の燃える愛を応援したくなる。愛はきれいごとではない。激しい独占欲であり、相手を屈服させることであり、肉体そのもので相手を満たすことでもある。この映画を見ると、そのような思いを強くする。名作とは言えないが、問題作ではある。

 

257 「ジュリエッタ」 2016

 封切時には見なかった。素晴らしい映画。最高傑作といえるかもしれない。アリス・マンロー原作とのこと。マンローの短編はいくつか読んで強い感銘を受けた記憶がある。確かにマンローっぽい筋立てだ。

 ジュリエッタ(現在はエマ・スアレス、若いころはアドリアーナ・ウガルテ)は、列車の中で話しかけられた男性を冷たくあしらうが、その男性はその直後に自殺する。列車内で知った別の男性と恋に陥り、のちに結婚して娘をもうけ、幸せに暮らすが、夫の女性関係で喧嘩した日、夫はうっぷん晴らしの漁にいき、嵐にあって遭難死する。のちになって父親の死の状況を知った娘は母を許せなかったのだろう、新興宗教を信じるようになり、母と断絶する。ジュリエッタの母親は寝たきりになり、父親はそんな妻の目の前で若い女を愛人にして子どもをもうける。

罪の意識、死と隣り合う生、死とセックス、母と娘の葛藤。そのようなものが重なり合い渦となってストーリーが展開する。激しい内面を淡々と描く。いくつもの激しい愛憎が重なり合うが、それらがジュリエッタの中で微妙に重なり合っている。これほど重層的な愛のもつれを見事に描く手腕に驚く。アルモドバルにしてはおとなしめの表現だが、そうであるだけにひしひしと迫ってくる。

 

51fjtvw7zpl_sy445_ 「アイム・ソー・エクサイテッド」 2014

 異様につまらなかった。故障のために着陸できなくなって上空を旋回する飛行機の中で起こるドタバタ劇。男性客室乗務員や操縦士たちの全員がゲイで、ビジネスクラスの乗客たちの数人はセックス狂い。卑猥な言動にあふれ、あれこれ事件が起こる。笑いを目指しているところもあるのかもしれないが、私はまったく笑えない。私が笑えないのは、私がゲイではないためだということではないと思う。

 

81jj6trzal_sy445_ 「人生スイッチ」 2015年 ダミアン・ジフラン監督  (ペドロ・アルモドバル製作)

 アルモドバル監督の映画かと思ってみてみたら、別の若い監督の作品だった。国内で大ヒットしたアルゼンチン映画だとのこと。内容的には大物監督に勝るとも劣らぬ傑作だった。

6本の短編から成るオムニバス映画。いずれも、ちょっとしたことから行き違いになって引っ返しがつかなくなり、だんだんと大ごとになっていく物語がかなりブラックに、しかしユーモアたっぷりに描かれる。前の車を追い抜こうとしてトラブルになり、嫌がらせを重ねているうちに壮絶な殺し合いになってゆく・・・といったような物語が6本続く。途方もなく残酷な話も混じっているが、登場人物があまりに人間的なので、つい笑ってしまう。しかも、「人生って、確かにこんなところあるよなあ」と思えてくるし、最後にはそれなりにさわやかな気分になれる。なかなかの傑作だと思う。この監督の名前をよく覚えておこう。

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河瀨直美監督「Vision」 人間と自然の合一としての踊り

河瀨直美監督「Vision」を見た。素晴らしかった。

 Visionという薬草を求めて、フランスの女性エッセイスト、ジャンヌ(ジュリエット・ビノシュ)が吉野の山にやってきて、そこで暮らす中年男、智(永瀬正敏)と出会い、愛を交わすようになる。そして、謎の女性アキ(夏木マリ)と知り合い、後に謎の若者、鈴(岩田剛典)を知る。

 ヴィジョンという薬草の存在を介することによって、この映画の舞台である奈良県の山林が一つの自然と生の原初的な結びつきの場となる。そこでは、過去と現在、現実と幻が交錯する。生のエネルギーが形となり、感触を持つ世界になる。

ジャンヌはこの山林で暮らすことで、森山未來演じつかつての恋人である日本人青年(田中泯演じる猟師に動物と間違われて撃たれて死んだという設定のようだ)を思い出し、鈴こそが、ジャンヌと日本人青年の間に生まれ、この山林の老夫婦に育てられた子どもだと知る。

1000年に一度(正確には、素数である997年に一度)現れるヴィジョンという薬草は、この世界に現れる生のエネルギーそのものなのだろう。だから、時空が歪んで過去と現在が交錯するのも当然なのだ。理性でコントロールできないことが起こるのも当然なのだ。ジャンヌはそのような世界の中で生きることになる。

そのようなエネルギーそのものが、夏木マリと森山未來の踊りによって表現される。踊りとは、人間と自然との合一にほかならない。この二人の肉体の中で人間と自然が一つになる。すべてのエネルギーが発散する。

それにしても素晴らしい映像。美しい森が映し出される。しばしば、そこに子どもたちの騒ぐ声が重ねられる。森は生きている。森は生命の声を上げている。犬が吠える。主人公は犬を連れている。犬もまた人間と自然を結び付ける存在だろう。河瀨の描く山林はまさしく生きとし生ける者たちがうごめき、渦巻く世界だ。この上なく美しく、しかし、この上なくおどろおどろしく、得体のしれないエネルギーにあふれている。

 実はわからないところがたくさんあった。ここに書いたのも、もちろん私の勝手な解釈に過ぎない。この映画そのものが、私がここに書いたような理性的な解釈をも吹き飛ばすような力をもっている。

「あん」や「光」のようなわかりやすい映画もよかったが、私はやはり説明を排し、抽象化されながらもきわめて具体的な手触りのある映像にしてくれる河瀨作品が大好きだ。今回はただただ映像と舞踏に酔った。踊りの場面では涙が出そうになった。いや、実際に涙が出た。わけもわからず、ただただ生そのものを私の心の奥底に感じて、魂がゆすぶれた。

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