映画・テレビ

映画「寝ても覚めても」「ハナレイ・ベイ」

 村上春樹がらみで、日本映画を2本みた。感想を記す。

「寝ても覚めても」 2019年 濱口竜介監督

「ドライブ・マイ・カー」がとてもよかったので、同じ監督の前作をみてみた。これもとてもいい映画だった。

 朝子(唐田えりか)は、麦(東出昌大)と運命的な出会いをして、交際していたが、放浪癖のある麦は突然、行方をくらます。その数年後、朝子の前に麦とそっくりの亮平(東出の二役)が現れる。ためらいながら、心優しく、コミュニケーション力のある亮平との愛を深めて結婚にまでこぎつけるが、そこに芸能界にデビューして注目され始めた麦が朝子のもとにもどってくる。一旦、朝子は麦を選ぶが、亮平の元に戻る。

 それだけの話だが、友人たちとの交流、東日本大震災の余波、かつての友の難病といった日常の様々な出来事を絡めて、若者の心情が共感を持って描かれていて、社会と個人のかかわり、個人の生きる道についてじっくり考えたい気持ちを促される。

 ただ、どのくらい監督の意図に基づいているのかわからないが、非日常の放浪者である麦と日常的な良き市民である亮平の対比が、ぼやけている。それがもっと鮮明でないと、映画全体の構図が曖昧になると思うのだが。東出の演技力不足のせいでそうなっているのだろうか。友人役の伊藤沙莉がとても魅力的。

 芸能ゴシップに疎い私は、この映画を見終わったあとで、この映画で主役を務めた二人が不倫問題を引き起こしたことを知った。あまり演技力のある二人というわけではなさそうだが、もし、そのようなことでこの二人がこれから先、芸能界で活動できなくなるとすれば、もったいないと思った。

 

「ハナレイ・ベイ」 松永大司監督

 村上春樹の短編に基づく映画。それなりには楽しめたが、濱口監督の「ドライブ・マイ・カー」の深みからは程遠い。しかも、かつて原作を読んでいたが、記憶にない場面があるので読み返してみたら、私には改悪ではないかと思われるところがたくさんあった。

 原作と映画の最も大きな違いは、ハワイのハナレイ・ベイにやってきた二人の日本人サーファーの役割だ。原作では、二人の名前は明かされず、サチの亡くなった息子と同じようにかなり軽薄で、しかもサチの息子がこのハナレイ・ベイでサメの襲われて死んだことを最後まで知らないことになっている。

 ところが映画では、少なくとも二人のうちの一人(村上虹郎)は実は英語を話すことができ、それなりにしっかりしており、サチ(吉田羊。ちょっと美人すぎるなあ!)の息子(佐野玲於)の事故死を人に聞いて知り、サチに絡んだアメリカ人を懲らしめることになっている。しかも、原作では、サチの息子の名前は、ハワイのホテル従業員からテカシという日本人としてはかなり珍しい名前で示されているだけなのだが、映画では「タカシ」となっており、日本人サーファーの名前は「高橋」(タカシとタカハシは、もちろん1文字増えているだけの違い)とされている。

 二つ目の違いは、息子の手形が映画では重要な意味を持っていることだ。ハワイの警察官の女性が、息子の手形をとっており、それをサチに繰り返し渡そうとする。サチは拒否するが、最後には受け取って、改めて息子の手形をみて悲しみにふける場面がある。

 もう一つ。映画の中で、マルティーニ作曲のシャンソン「愛の喜び」がピアノ独奏や歌入りで、拍子を変えるなどして繰り返し流される。原作では、サチはジャズピアニストであって、楽譜を読めないまま自由にピアノを操ることになっているが、映画では、ピアノ演奏は自由というにはほど遠く、かなりぎこちない。「愛の喜び」の歌詞は、「愛の喜びはつかの間だが、愛の悲しみは永遠に続く」。愛の苦しみ特に失恋を歌う曲だ。

 これらの原作と映画の違いから導き出されるこの映画のテーマは、「ハワイで息子を亡くして途方に暮れていたサチは、日本からやってきたサーファー高橋の中に、息子の姿を見る。そうするうちに、ろくでもないと思っていた息子も実はしっかりしていたことに気づき、悲しみを新たにする。息子の父親、そして息子に対しての愛はつかの間であったが、それを亡くした悲しみは永遠に続く」ということになりそうだ。

 やはり、この捉え方はかなり一面的だと思う。息子を理解できないまま亡くしてしまった無念、死後になって息子を理解しようする足搔き、ほかのサーファーには死んだ息子の亡霊が見えているらしいのに自分には見えないという絶望。その絶望の中で日々生きていくという人間の営み。それがハワイの海辺で展開されるのがこの原作だと私は思うのだが、そのような雰囲気が一面的なテーマによって薄れていると思う。

 このような映画の雰囲気のまま、ストーリーを妙にいじらずに、原作通りにしていれば、もっとずっと深い映画になったのに・・・と思った。

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映画「花咲くころ」「ノマドランド」「友だちのうちはどこ?」「異端の鳥」

 DVDを購入して映画を4本みた。いずれもとても良い映画だった。感想を記す。

 

「花咲くころ」 2013年 ナナ・エフクティミシュヴィリ、ジモン・グロス監督

 ジョージア映画。1992年、ソ連崩壊後の内戦時代を舞台にして、14歳の少女エカとその親友ナティアの暮らしを描く。かなり衝撃的な秀作だと思う。

 内戦の影響だろう、トビリシの少年少女の世界にも暴力がはびこっている。銃が日常的に手に入り、人々がナイフを振り回す。人々の生活は貧しく、パンの配給を求める市民は殺気立っている。そんな中、エカは父親が刑務所に入っているために屈折した日々を送っている。ナティアは飲んだくれの父親と心の離れた家族に苦しんでいる。ある時、二人はピストルを手に入れる。ナティアはほぼ暴力的に乱暴な男に連れ去られてその男と結婚することになるが、すぐに夫の本性が明らかになり、別れたいと思い始める。しかも、夫はナティアがかつて心を寄せていた青年ラドを嫉妬のあまりナイフで殺してしまう。ナティアはピストルで夫を殺そうとするが、エカはピストルを奪って池に捨てる。

 前半、実をいうと、顔の認識能力に難のある私は、そもそもエカとナティアの区別がつかずに困った。しかも、二人に家族や友人がいるものだから、ますますわけがわからない。二つの家族がごっちゃになって、途中でDVDをはじめから見直した。が、後半はぐいぐいとドラマに引き込まれた。

 内戦間の少女たちの心を通して、まさしく時代のあり方、人間のあり方を鋭く描いている。殺伐とし、様々なところで分断の起こる社会。その中でも、人と人の信頼を求め、家族愛や友情を得ようとする人々。初々しい心を持ちながら、時代に翻弄されていく若者たち。

 新郎と幸せに結ばれたとは言えないナティアの結婚式で、エカは納得できない気持ちを抱えたまま無表情なまま踊りを披露する場面は素晴らしかった。

 

「ノマドランド」 2021年 クロエ・ジャオ監督

 昨年のアカデミー賞受賞作品。封切当時から見たいと思っていたが、DVDを購入して視聴。よい映画だと思った。

 企業の倒産のために家を追われ、夫を失った中年女性ファーン(フランシス・マクドーマンド)が車上生活をし、季節労働者として働きながら旅をする様子を描くロードムービー。何らかの暗い過去を持ち、家を捨てて車で生活をするノマドが描かれる。それだけの話だが、悲しい気持ちを抱き、様々な苦難に合いながらもできるだけ自由に生きていこうとする人たちへの共感、そしてまさに弱い人間への共感が映像全体に現れていて、静かに感動できる。

 旅の先々の自然の風景も美しい。出会う人たちの漏れてくる人生の断片も身につまされる。そして、主役のマクドーマンドをはじめとする俳優たちの自然な演技にも脱帽。

 

「友だちのうちはどこ?」 1987年 アッバス・キアロスタミ監督

 アッバス・キアロスタミ監督の傑作として知られている映画だ。

 イラン北部の小さな村。小学生のアハマッドは同級生のノートを間違えて持って帰ってしまう。先生は厳しくて、ノートに宿題を書いてこなかったら同級生は退学になると宣告している。アハマッドは自宅に帰って、間違えたノートに気づき、友だちの家を探してノートを渡そうとするが、家族はアハマッドに次々と仕事を言い渡し、探しに行ってからも大人たちはアハマッドの話をきちんと聞いてくれない。あちこちを訪ね歩くが、夜になっても結局、友だちの家は見つからず、仕方なしに友だちのノートにアハマッドが宿題を書いて、翌日、友だちに渡す。

 それだけの話なのだが、確かにとてもよくできている。子どもの純粋な気持ち、親たちの理不尽な指示、一方的に他者に厳しさを教え、言いつけに従わせようとする社会が浮き彫りになり、それでも貧しく真面目に生きていこうとする人々の姿が浮き彫りになる。映像も美しく、子どもたちの演技もけなげでかわいくて、素晴らしい。

 ただ、「桜桃の味」「オリーブの林をぬけて」「トスカーナの贋作」「ライク・サムワン・イン・ラブ」「風が吹くまま」などのこの監督の映画をみたが、どうも私はあまりおもしろいと思わない。この「友だちのうちはどこ?」も、意図はわかるものの、少々退屈に思ってしまう。そもそも私はこう見えてかなりせっかちなので、次々と邪魔が入って子どものしたいことができずにいる様子を丹念に描かれると、それだけでイライラする。一言でいえば、とてもよくできた映画だが、私の好きな映画ではなかった。

 

「異端の鳥」 2018年 ヴァーツラフ・マルホウル監督

 封切時、ぜひみたいと思いながら時間が合わなかった。DVDを購入して鑑賞。これは凄い映画!

 まず何をおいても最初に言わなければならないのは、この圧倒的な白黒の映像美。最初から最後まで、完璧にコントロールされた映像美の世界が展開される。日常的な意味で、どれほど不潔で薄汚れた場面を描いても、詩的世界になっている。そうすることによって、第二次世界大戦の舞台となった東欧の田舎町の現実が一つの神話世界になる。

 それにしても、あまりに残酷で理不尽な社会だ。主人公の少年は、どうやらユダヤ人らしい。ホロコーストを逃れるために、家族から離れて一人、知り合いの女性の家にかくまわれていたが、その女性が突然、病死。一人であちこちをさまようことになる。見るからにユダヤ人らしい風貌なのだろう。どこに行っても除け者にされ、差別され、迫害され、奴隷のように扱われる。少年自身も残酷な目に合わされるが、先々で出会う人々の多くが理不尽な目に合っている。それをほとんど説明のない映像で、台詞もなく、ただ静かに克明に描かれる。

 ドイツ軍、ソ連軍、コサック兵らが互いに戦い、また村人を痛めつけ、村人同士もいがみ合い、最終的に主人公の少年がすべてに痛めつけられる。中には、少年を助ける大人もいるが、それは長続きしない。最期には父親と再会して引き取られるが、暗い表情のままでハッピーエンドの雰囲気はない。

 

 原題は「ペインテッド・バード」。色を塗られた鳥。つまり、色が違うために同種の鳥からも攻撃されてしまう除け者の鳥。映画では、複数のスラヴ系の言語を抽出して作った人工言語が用いられているという。そうすることで、東欧のどの国が舞台なのかわからなくしたということだが、そのために、いっそう神話的になっている。

 現在、ウクライナでのロシアの兵士による残虐な行為が報道されている。この映画で語られているのは、70数年前に終わったことではない。現在なお、このような残虐な行為が兵士によって、そして一部の市民によって行われているだろう。まさにこの映画は、人間の持つ残虐性、暴力性を神話として真正面から描いているといえるだろう。

 原作はコシンスキという作家の小説だという。まったく知らない作家だが、読んでみたいと思って注文した。

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映画「メイド・イン・バングラデシュ」 まっすぐな映画!

 岩波ホールで、バングラデシュの女性の奮闘を描く映画「メイド・イン・バングラデシュ」をみた。監督はルバイヤット・ホセイン。

 繊維縫製工場で働く若い女性シンは、あまりに悲惨で不当な労働状況に疑問を抱き、様々な妨害や無理解をはねのけて労働組合を作る。それだけの話。

 予告編を見て、これまで何度も見てきた女工哀史もの、組合ものに思えて、きっとつまらないだろうと思ったが、ネットでみると評価が高いので、ともあれ、みてみた。岩波ホールとしては、近年、稀に見るほどの大勢の観客だった。で、結局、映画はどうだったかと言うと、やはりつまらなかった。

 これまでみてきたこのタイプの映画とさほど変わりがない。まあ、要するに、資本家の側はみんなが権力的な悪い奴ら。資本家側は権力と結託して、労働組合結成を妨害し、男たちも、そして男社会を当然として生きている女性たちも、シンの活動の足を引っ張る。が、策略を用いて、組合結成を勝ち取る。ただ、その策略がおもしろいかと言うと、それもあまりに安易。

 ただ、現在、日本でこのようなものを作るとすれば、きっと喜劇的要素を増やしたり、大胆な策略を呼びものにするなど、もっとひねった展開にするだろうところを、まっすぐに表現しているところはある意味、新鮮だと思った。逆にいえば、バングラデシュはまっすぐにこれを描かなければならないほどに深刻な社会だということだろう。

 日本の衣料は、間違いなく、このような途上国の女性たちの安い賃金での奴隷的な労働によって成り立っている。私たちが、安く様々なものを入手できるのは、このような奴隷的な労働のおかげだということを、認識せざるを得ない。

 あまり面白い映画だとは思わなかったが、ダッカの状況を見られたことはとてもうれしい。30年近く前だったと思う。カメラマンだった伯父が仕事でバングラデシュをしばらく訪れたことがある。その印象を聞いたら、叔父は即座に、「この世の地獄だった」といった。

 この映画をみる限り、現在のバングラデシュは「地獄」ではなさそうだが、かなり深刻な社会であることは、インフラの状況などからも想像がつく。何はともあれ、コロナが終息したら、バングラデシュにも行ってみたいものだと思った。

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イラン映画「英雄の証明」 のっぴきならない中で生きる人々の人間模様!

 コロナ禍は続き、ウクライナはますます深刻な状況になっている。憂鬱な日が続く。今日は、東京春音楽祭のブリン・ターフェルのリサイタルに行く予定だったが、数日前、本人が新型コロナウイルスに感染して公演中止との知らせが届いた。数日前に中止決定ということは、もしかして、ターフェルは日本の検疫で陽性が判明したということだろうか。そうだとすると、本人も含めてどれほど残念であることか。あれこれのことについて、何とかならないものかとつくづく思う。

 代わりにというわけではないが、アスガル・ファルハディ監督の映画「英雄の証明」をみたので感想を書く。素晴らしい映画だと思った。名作だと思う。大いに感動した。

 私が初めてみたファルハディ監督の映画は「ある過去の行方」だった。あまりの凄さに驚嘆して、その後、「彼女が消えた浜辺」や「別離」をみてますます心酔した。「セールスマン」や「誰もがそれを知っている」にはさほど感動しなかったが、今回の「英雄の証明」はこれまで以上の感動を覚えた。

 イランの古都シラーズでの話。借金のために投獄されていたラヒムは、婚約者が金貨の入ったバッグを拾ったため、それを使って借金を返そうとするが、思い直して、姉を通して落とし主に返却する。ところが、それが美談としてテレビで放送され、英雄扱いされたために大ごとになり、ついにはSNSで、それはすべて作り事だと攻撃されるようになる。ラヒムは誤解を解こうと懸命になるが、金貨を落とした女性が消息不明のために、自分の行為が事実だと証明できない。努力すればするほど、誤解が深まってしまう。金貨を落とした女性を探すが、訳ありの女性のようで、正体が知れない。刑務所や慈善団体の思惑に吃音の息子も巻き込まれる。そんな物語だ。

 実は金貨の落とし主は、死刑判決を受けた夫を助けようとして奔走する女性だった。ラヒムと女性は何度かすれ違っているが、互いに気づかない。結局、全面的に理解してもらうことは諦めて、息子や婚約者を大事にして生きていくことを決心したラヒムが再び刑務所に収監されるのと同じとき、その横で、その夫が刑務所を出て女性と久しぶりに顔を合わせているところで映画は終わる。

 ファルハディの映画の多くがそうであるように、今回も、登場人物たちのそれぞれの言い分のいずれにも理がある。ラヒムを刑務所に追いやった男性もラヒムの元妻も刑務所職員も慈善団体職員も囚人たちも決してめちゃくちゃなことを言っているわけではない。私が同じ立場なら、きっと同じように主張するだろう。ラヒムの婚約者も姉夫婦も子どもたちも、善良に必死に生きている。みんながのっぴきならない状況で、やむを得ない決断をする。だが、そのためにしわ寄せができて、誰かが苦しむ。とりわけ苦しみが集中するのは、吃音症のラヒムの息子だ。父も母も別の人と再婚しようとしており、しかも大人たちは、世間の同情を引くために、吃音でしゃべるこの子の訴えをSNSで流すことを計画する。

 のっぴきならない状態に引きずり込まれて、それなりに誠実に生きていこうとする人たち。彼らが必死に生きれば生きるだけ悲劇が拡大する。SNSの社会では、それが一層加速度的に拡大していく。そうした人間の心の奥、社会の仕組みがサスペンスタッチで暴き出される。観客の一人である私としては、ファルハディの人間観察、社会観察の目に驚嘆しながら、その人間模様を追いかけるしかない。ラヒムはひどい目に合ったが、別の女性が救われただけ、この事件には救いがある。

 それにしても、ラヒムを演じるアミル・ジャディディはちょっと愚かで善良で、しかもけんかっ早いこの主人公を見事に造形。吃音の子ども役の少年も素晴らしい。姉夫婦、債権者の男性もまた、実に素晴らしい演技。脚本も見事な出来もさることながら、ファルハディの演出力にも圧倒される。

 ただ、この映画を見ながら、戸惑うことも多かった。借金で服役し、しかも服役中の囚人が「休暇」と称して、一時期、社会に復帰している! それに、そもそも、今の世の中で、「金貨」ってどういうこと?と思うし、金貨を落とした女性は、死刑囚の夫をお金の力で出所させられたようだ! どういう制度なのだろう! ラヒムの息子がラヒムの姉一家とともに暮らしており、ラヒムが服役中も元妻は親権を主張していないようだったが、それにどんな事情があったのだろう。イラン特有の事情があるのだろうか。

 いや、そもそも私は上に書いたようにこの映画を解釈し、ネットでも同じように思った人が多かったことを確認したが、本当のことを言うと、ちょっと不安が残る。なにしろイランの女性は私たちから見ると、みんなよく似ているし、みんなチャドルを身にまとっているので顔の区別がつかない。金貨を落とした女性と死刑囚の夫を救おうとしていた女性、そして、最後の場面で刑務所の外で男性との再会を喜んでいた女性を、映画の流れから、私は同一人物だと思ったのだったが、本当に同一人物であるかどうか百パーセントの自信はない(DVDが発売されたら、何度も巻き戻して、この点を確認したい!)。

 とはいえ、何はともあれ素晴らしい映画だった。刑務官が吃音の子どもに親の無実を訴える動画をSNSに配信しようと企て、子どもはたどたどしい言葉で必死にカメラの前で真実を訴えようとし、家族はそれを見ていたたまれない気持ちになっていく場面は涙なしにはいられなかった。

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チャン・イーモウ監督の映画「上海ルージュ」「サンザシの樹の下で」「英雄」「LOVERS」「グレートウォール」「SHADOW 影武者」

 先ごろ、ジャ・ジャンクー監督の映画を立て続けにみたが、ついでにチャン・イーモウ監督の映画もみることにした。これまでにも何本か観ていたが、先日、イーモウが担当した北京の冬季オリンピックの開会式と閉会式をみて、東京オリンピックの開会式・閉会式とのレベルの差に啞然! やはり、イーモウ監督は凄いと思った。映画ももっとみたくなったのだった。

 

「上海ルージュ」 1995

 1930年上海。闇の組織の一員である伯父を頼って上海にやってきた14歳の少年・水生。親分の愛人である歌手・金宝(コン・リー)の召使として雇われる。ところが、組織同士の抗争があり、組織内の裏切りがあって、叔父は殺され、ついには金宝も親分によって殺される。初めは、水生もその堕落ぶりに金宝に軽蔑を感じていたが、その生い立ち、悲しみを知るうちに慕うようになり、金宝が殺されそうになったときに、親分に歯向かって捕らえられる。闇の組織のうごめく退廃した戦前の上海の闇社会を、悲しい愛人と純粋な田舎の少年通して描いた作品と言えるだろう。

 上海の退廃的で華やかな世界と闇の世界の抗争、そしてその中の人間模様がとてもリアル。都会の虚飾の世界も、田舎ののどかな世界も映像美にあふれている。とてもいい映画だと思った。

 

「サンザシの樹の下で」 2010年 

 文化大革命当時、両親が右派とみなされて苦しむ少女ジンチュウが下放されて訪れた農家でインテリの青年スンと出会い恋に落ちるが、スンは難病のために死んでいく。それだけの典型的なお涙頂戴の恋愛映画なのだが、文革に揺れる社会、そこで生きる庶民、不遇の中にいる家庭がリアルに、美しく描かれている。さすがイーモウ。ジンチュウを演じる女優さん(チョウ・ドンユィ)があまりに可愛らしく、感情移入せずにはいられない。安っぽい映画のように、文革の負の側面が単純に描かれるわけではなく、またもちろん、涙を誘う安っぽい仕掛けもない。ういういしいジンチュウの心を描く。みごと。

 

「英雄 Hiro」 2002

 イーモウ監督作品だとは知っていたが、かつてテレビで盛んにCMが流され、あまりに「大スペクタクル」の「大活劇」風なので、これまで敢えて観ないできた。だが、見事なオリンピック開会式・閉会式を見せられると、やはりイーモウはとてつもない演出家だ。活劇も観ておこうと思いなおした。

 古代中国。秦の王(チェン・タオミン)を暗殺するために訪れた刺客・無名(ジェット・リー)が、それまでの残剣(トニー・レオン)、飛雪(マギー・チェン)、如月(チャン・ツィー)との争いを語って王に近づき殺害しようとするが、王の懐の深さに感銘を受けて諦め、その結果、秦の王は生き延びて始皇帝になる。それだけのストーリーを宇宙的ともいえるような映像美と様式美で見せてくれる。

「マトリックス」ばりのワイヤーアクションには少々しらける。また、主人公たちの剣づかいの非現実的な名人技も私には説得力がない。

 だが、こうしたことを様式美にまで高めて、神話世界のひとつの舞踏として展開していると考えると、これはこれで見事。まあ要するに、中国の非現実的なまでに美しい大自然の中で舞踏としての果し合いが展開し、自らの大義のために自分の命を差し出し、愛する者を殺し、愛する者に殺されることを美学と捉える武士道にも似た世界観が示される映画だということだろう。しかも、これだけの壮絶な果し合いをしながら、全体的な印象としては実に静謐。ゆるぎない静かで落ち着いた、しかも色鮮やかな大宇宙の中で人間の争いが行われる。このスケールたるや、確かにすごい!

 俳優たちのとてつもない存在感にも圧倒される。テレビでジェット・リーの映画は何本かみたことがある(私は、テレビ東京で昼間放送される「午後のロードショー」をかなりみている)が、なるほどいい役者だと初めて思った! チャン・ツィーも本当に魅力的!

 

LOVERS」 2004

 唐王朝の飛刀門と呼ばれる反乱組織の娘シャオメイ(チャン・ツィー)と、反乱組織壊滅のためにシャオメイに近づく金(金城武)の悲恋の物語。そこに劉(アンディ・ラウ)が絡む。「英雄」と同じような、とてつもない映像美によって繰り広げられる活劇。一つ一つの画面があまりに美しい。ワダエミによる衣装も色彩豊かで美しい。それにしても、これほどの活劇であるにもかかわらず、圧倒的な静寂とでもいうか。東洋的な静の美が全体を支配している。竹林や草原や雪景色の美しさは言葉をなくす。二人の死の場面もあまりに壮絶であまりに美しい。

 風のように居所を定めず、自由に生き、愛を全うしようという思いが政府と反政府の戦いによって打ち砕かれる。色彩豊かな美によって描かれた浄瑠璃の世界ともいえそう。

 あまりの美しさにうっとりとしてみたものの、やはりこのような活劇は私の好みではない。ストーリーにはあまり惹かれなかった。ただ、チャン・ツィーは本当に魅力的!

 

「グレートウォール」 2016

 グレートウォールとは万里の長城のこと。万里の長城は外敵の侵入を防ぐために建設されたというのが歴史的な常識だが、ここでは怪獣(小型の恐竜のように造形されている)を防ぐためのものとして設定されている。黒色火薬を求めて中国にやってきた西洋人ウィリアム(マット・デイモン)が中国の人々と怪獣の大群との戦いに巻き込まれ、女性将軍リン・メイ(ジン・ティエン)とともに戦って勝利を収める。

 これがほんとうにイーモウの映画なのか?と疑いたくなるくらいにつまらなかった。砂漠を行く場面などは映像美にあふれるが、内容はあまりに陳腐。よくあるB級の怪獣話と大差ない。かつての「エイリアン」ほどに化け物の不気味さはないし、怪獣に象徴的な深みもない。ウィリアムと女性将軍との恋もありきたりで、そもそもこれほどに腕力の必要な戦いに、このような女性的な戦闘服を着た女性たちがなぜ加わっているのかもよくわからない。完全な失敗作だと思った。

 

SHADOW 影武者」 2019

 これは正真正銘の名作だと思う。稀有な名作と言ってもいいと思う。まさに墨絵の世界。あまりに非現実的な戦闘場面が繰り広げられるが、それもまた墨絵の様式化された宇宙の中の出来事と考えれば、確固たるリアリティを持つ。

 戦国時代の中国。都督の影武者として活動する男(ダン・チャオ)が、隣国の王族に戦いを挑み、その国に占領されたままになった領地を奪い返し、自国の王と本物の都督の争いに乗じて、二人を殺し、都督となって美しい妻(スン・リー)までも自分のものにする。

 最初から最後まで、目を疑うほどの墨絵の世界で展開され、カラーは淡い色が時々現れるくらいなのだが、凄絶な血の色を感じる。だが、それが墨絵として描かれるので、美が際立つ。最後の1、2分、私は、自分でもどういう感情かわからないまま、得体のしれないものに触れた戦慄を感じて、文字通り体が震えていた。

「グレートウォール」をみて、イーモウも世界的なエンターテインメント監督になってしまってかつての芸術力を失ったかと危惧したが、とんでもなかった。凄まじい!

 

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賈樟柯(ジャ・ジャンクー)の映画「長江哀歌」「世界」「罪の手触り」「山河ノスタルジア」「帰れない二人」

 ウクライナ情勢が気になる。ロシアの思い通りにしてしまうと帝国主義時代に逆戻りする。かといって、NATOの側が出かたを間違えば第三次世界大戦になる。そして、このままでは間違いなくウクライナの人々の命が失われる。こうしたことを避けるのは至難の業だと思う。私には、だれがどうすればよいのかまったくわからない。ともあれ祈るしかない。

 そんな中、NHKBSBSプレミアムで賈樟柯(ジャ・ジャンクー)監督の「長江哀歌(エレジー)」をみた。とてもおもしろかった。この監督の映画のDVDを数枚購入して観た。感想を書く。

 

「長江哀歌(エレジー)」 2006

 原題は「三峽好人」。主人公は二人。しかし、二人に接点はない。映画は、三峡ダム建設のために水没する町を舞台に、それぞれ交流のない二人の人探しをする主人公を追っている。

 一人は、16年前に別れた妻と娘を探すために山西省からやってきた下層労働者のサンミン。風采もよくなく、うだつも上がらない小柄な男だ。解体工事の労働につきながら、やっと妻を見つけ出すが、もともと金で買われた妻はサンミンの元に戻るのに積極的ではない。それでも妻を取り戻そうと、過酷な労働に就くことを決意する。もう一人は、音信不通の夫を探し、離婚を申し出ようとやってきた女性シェ・ホン(チャオ・タオ)。夫は工場を経営してどうやらうまく立ち回っているようで、別の成功した女性と交際しているらしい。

 それだけの話だが、一つの町が水没し、そこに事情も階層も異なる二人にかかわる様々な人生が埋もれていく哀しみがしみじみと描かれる。まさに人生丸ごとの喪失。21世紀初めの、まだ貧しさの残る中国内陸部の庶民の猥雑な生活もリアルに描かれ、人々の生きざまが見えてくる。サンミンの住む世界では男たちのほとんどは上半身裸で、しばしばうどんのようなものを食べ、一方、シェ・ホンは常にペットボトルに水を入れて飲んでいる。「生きる」ことを強く感じさせる。

 不思議な場面がある。サンミンが歩いていると、空に突然UFOが現れる。次にシェ・ホンが映し出されるが、そこにもUFO。しかし、もちろんUFOは物語の展開とは無関係。きっとこのUFOの場面は互いに関係のない二人の登場人物の物語が同じ場所で同時期に進行しているを示して、二つの物語をつなぎ合わせる役割を果たしているだろう。同時に、これはジャ・ジャンクーの署名のようなものなのだと思う。手塚治虫の漫画の欄外にしばしば登場した不思議な虫のようなものと同じだ。統一の取れた三峡地域の物語をみる異質な視点である監督自身がこのUFOに現れているのだろう。この署名の仕方も興味深く思う。

 

「世界」 2004

「長江哀歌」よりも2年前の作品。とてもいい映画だと思う。

 タオ(チャオ・タオ)は北京の世界公園でダンサーとして働いている。世界公園というのは、一日で世界を回れるというのをうたい文句にしている、世界各地の名所を実物の10分の1サイズで陳列している北京に実在するテーマパーク。エッフェル塔やらピラミッドやらサン・ピエトロ寺院やらがある。タオには守衛のリーダーをしている恋人タイシェンがいるが、体の関係は拒否している。ところが、ふとしたことからタイシェンは別の女性と懇意になる。

 そうしたストーリーを基軸に、テーマパークのきらびやかなショーの裏側で、出稼ぎにきたダンサーや警備員たちの男女のいさかい、恋、窃盗、DV、借金まみれの事故死などが描かれる。最後、タイシェンに別の女性がいることを知ったタオは友人の家に逃げ込むが、それをタイシェンは追いかけていき、そこで一酸化炭素中毒で死んでしまう。

 表面だけ華やかで、実は外国のきらびやかな部分を真似しただけの「世界公園」。歴史や文化の裏付けがなく、ただ表面だけを真似した砂上の楼閣とでもいうべき公園。安っぽくて偽物じみていて、物悲しい。貧しくも懸命に生きている人たちが出稼ぎに来て働いており、人間的なドラマを作り出している。まさに、これぞ人間世界。そして、これぞ現実の中国の姿なのだろう。中国の現実の縮図がみられる。

 最後、二人の中毒死が確認された後、タイシェンとタオの声が聞こえる。「俺たち、死んだのか。」「いいえ、これは新しい始まりよ。」。きっとこれはジャンクー監督の未来に寄せるメッセージなのだろう。

 何度かアニメ映像が挿入される。登場人物の見る携帯電話や、頭の中で空想したことがらがテレビゲームの映像のようなアニメで描かれている。ちょっと唐突だが、これも「長江哀歌」のUFOのような効果なのだろう。

 なお、この映画のヒロインは「長江哀歌」と同じチェン・タオが演じている。演技派のとてもいい女優さんだと思う。

 

「罪の手ざわり」 2013

 4つの犯罪が描かれる。村長や資本家の不正を告発しようとするが、相手にされずに怒りを募らせ、不快な人々を銃殺する男。故郷になじめず、捨て鉢になったかのように強盗などの犯罪を繰り返す男。不倫相手の男性との将来に希望が持てずにいるときに、その妻からなじられ、お店の客から売春婦扱いされたのをきっかけに殺人を犯す女性(チャオ・タオ)。真面目に働こうとするが何もかもうまくいかず、恋にも破れて自殺する青年。

 北野武監督を思わせるような静謐でありながら暴力的な映画だが、登場人物の悲しみや心の痛みが伝わる。いずれも、時代に取り残され、孤立し、自暴自棄になってしまった人間たち。直接的に中国社会を批判しているわけではないが、これらの犯罪の背景に国家主導の市場経済のゆがみがあるのがよく理解できる。そして、クリアで凄絶な映像が美しい。

 ここでも、いつもの女優チャオ・タオが主要な役を演じている。「長江哀歌」「世界」にも登場した小柄な労働者サンミンも端役で登場。存在感があるわけではないが、名もなき下積みの労働者の雰囲気がとてもいい。

 

「山河ノスタルジア」 2015

 名作だと思う。感動した。過去、現在、未来の三人の男女の3つの時代の生きざまを描く。

 過去(1999年)、山西省の地方都市。歌うのが好きな明るい女性タオ(チャオ・タオ)は二人の男友だち、野望を持つジンシェンと、おとなしいリャンズーに思いを寄せられている。野望に満ちたジンシェンからプロポーズされて結婚。親友にタオを奪われたリャンズーはそこで暮らし続ける気持ちにならずに、都市を去る。タオはジンシェンとの間の子どもダオラー(アメリカの貨幣単位「ドル」の意)を産む。

 現在(2014年)。リャンズーは炭鉱で働いていたが、体を壊して故郷に帰る。妻はリャンズーの昔の友達であるタオを探し出して、金を借りる。タオはすでにジンシェンと離婚して父親と暮らしているが、父が急死。タオと離れてジンシェンと暮らしている息子ダオラーを葬儀のために呼ぶが、離れて暮らす母と息子はうまくコミュニケーションできない。

 未来(2025年)。ダオラーは大学生になって、オーストラリアに移住している。父ジンシェンが検察の追求から逃れるために移住したらしいことがわかる。父は自堕落に暮らしており、ダオラーも目的を失い、空虚な気持ちを抱いている。中国語を話せないために、中国語教室に通っているが、母親と同じくらいの年齢の教師ミアに惹かれ、恋仲になる。ミアと過ごすうちに母と会いたい気持ちを起こし、ミアとともに中国旅行を計画する。一方、母タオは一人で暮らし、1999年を思い出して川辺で踊る。

 子供の名前がダオラーというのが象徴的だ。お金を追い求める社会に翻弄される人々の心の空虚。失ってしまった心のよりどころを探してかつての三人の若者とその子どもが彷徨う。それだけのことなのだが、映像が美しく、一人一人の仕草が身に染みる。その心の痛みがしみじみと伝わってくる。やるせなさ、もどかしさ、そして絶望、希望。人生ってこうだよなあ…としみじみと思う。

 タオを演じるチャオ・タオの演技に圧倒される。いや、それ以前にジャンクー監督の演出力にも。川、山、渓谷。まさにノスタルジーが掻き立てられる。

 

「帰れない二人」 2018

 舞台は山西省の大同。やくざのビンとその情婦チャオ(チャオ・タオ)。ビンは地域のやくざの兄貴分としてグループを仕切っている。ところが、車で移動中にバイクの集団に襲われ、袋叩きにあうビンを助けようと、手元にあったビンのピストルを発砲したことにより、チャオは5年間、刑務所で暮らすことになる。刑期を終えて戻ってみると、ビンはほかの女性と恋仲になっている。チャオはあちこち放浪し、ついにはビンとよりは戻すが、ビンは長年の不養生のために下半身不随になっている。チャオはビンに寄り添って生きていこうとするが、ついにビンは厄介になるまいとして出ていく。

 テーマは「喪失」だろう。その象徴として、出所後のビンを尋ねて、チャオは三峡ダムによって都市の大部分が水没する奉節を訪れる。次々と過去を喪失していく中国。ジャンクー監督のお気に入りの女優チャオ・タオはきっと中国を体現しているのだろう。猥雑なエネルギーにあふれていい気になり、その実、様々なものを失ってしまっている。たくましく生きているが、いつまでも満たされない。

 映画の出来としてはあまりよくないと思うが、よいものにせよ、悪いものにせよ、映像の中には失われつつある中国をみることができる。

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映画「金の糸」 金の糸はきっと「許し」なのだろう

 ジョージア映画「金の糸」をみた。家庭の用で水天宮駅付近に宿泊中、空いた時間に岩波ホールで「金の糸」をみられることに気づいて、慌ててみに行った。2019年にはジョージア旅行をした。ジョージアは大好きな国だ。岩波ホールの映画祭のおかげでジョージア映画はかなりみている。しかも、岩波ホールは近日中に閉鎖になる。これはみないわけにはいかない。監督は、91歳の女性監督ラナ・ゴゴベリゼ。

 素晴らしい映画だった。老作家のエレネは、娘夫婦や孫と暮らしている。ところが、79歳の誕生日を迎えた日、娘の夫の母親ミランダがアルツハイマー病にかかって一人で暮らせなくなり、みんなと同居するためにやってくることになったことが知らされる。ソ連時代に、女性の党幹部として活躍していたミランダとは、エレネは肌が合わない。だが、同じ日、かつての恋人アルチルから電話がかかる。愛の思い出がよみがえるが、二人は高齢のために出歩くことができず、電話でかつての愛を反芻するしかない。

 エレネの中にかつての恋の思いが広がる。同時に、常にご立派な態度で人を指導しようとするミランダには不愉快な思いを募らせている。そうするうち、エレネの詩を発禁処分にして、その後の人生を狂わせたのがミランダ本人であり、しかもかつての恋人アルチルまでもがミランダにすり寄っていたらしいことを知る。そもそも、エレネの両親を流刑にしたのはソ連共産党だった。エレネは許せない気になる・・・・、だが、そのミランダも今やアルツハイマー病にかかり、町を彷徨している。しかも、ミランダは嫌味な人間ではあるものも、自分を犠牲にして弱い人を助けている面もあることをエレネは知る。

 金の糸とは日本の陶器を修復する「金継ぎ」からヒントを得た言葉だという。割れてしまったパーツを金の糸でつなぎ合わせる。過去の様々な思い出を今になってつなぎ合わせる。つらい思い出と幸せな思い出が隣り合わせになってつなぎ合わされる。ともあれ、それらが何とかつながって一つの人生が出来上がっている。

 エレネの暮らすのは、まさに金継ぎのようにしてつなぎ合わされた集合住宅だ。ヒッチコックの「裏窓」を思い出すような造りのアパートで、そこで暮らす人々の生活が垣間見える。そこで暮らす人みんながけなげに生きている。その中に、何度も男性を追い出しては、いつの間にか男性を許して、よりを戻す女性がいる。

 そう、この映画のテーマはきっと「許し」なのだろう。人生には、幸せな思い出、悲しい思い出、それらが入り混じる。そのような人生がエレネの老いた身体の中を動いている。それらをつなぎ合わせる金の糸は、きっと「許し」なのだ。エレネは傲慢なミランダを許し、恋の相手だったアルチルを許し、家族を許すことで、人生という陶器がつなぎ合わされ一つとなる。

  こうして、人生が親から子供、孫、曾孫へと受け継がれていく。ヒロインの家庭の女性はみんなとてもよく似た容姿。歴史あるジョージアのトビリシの美しい街の中で歴史が伝えられていく。しみじみとした映像。心のつぶやきをひそかに伝える音楽。

 私の人生にもいろいろなことがあった。打ちひしがれたこと、楽しかったこと、幸せだったこと、悲しかったことなど、様々なパーツから成っている。だが、私はまだ様々なことが許せずにいる。許すという境地に達することができずにいる。きっと許すことができるようになったとき、きっと私の人生は一つのまとまりを持つのだろうと思った。

 

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「ドライブ・マイ・カー」 本当に深く考えさせられる映画

 アカデミー作品賞にノミネートされたということで話題になっている濱口竜介監督の映画「ドライブ・マイ・カー」をみた。現在、コロナ禍でもあり、我が家の事情もあって、なかなか外に出にくい状況で、コンサートもいくつかパスしている。そこで、インターナショナル版のDVDを購入したのだった。家庭の用があって、途中2度ほど中断したが、退屈することなく、おもしろく観た。評価の高さに納得できるとても良い映画だと思った。

 原作とはかなり異なる。原作では全体を東京での家福とドライバーみさきの二人の場面で構成されている。だが、小説の中で回想として描かれる亡き妻(霧島れいか)との生活が映画では先に描かれ、しばらくたってから、みさき(三浦透子)が登場する。そして、広島や北海道、ラストでは韓国へと舞台が広がっている。そのほか、村上春樹の「女のいない男たち」に含まれるほかの短編のエピソードが語られたり、原作では福家の想像として語られるものが現実として描かれていたり。

 そして、最大の違いは、映画全体がチェーホフの「ワーニャ伯父さん」と重ね合わされていることだ。原作でも「ワーニャ伯父さん」はほんの少し出てくるが、映画では、役者兼演出家でもある家福(西島秀俊)が広島の演劇祭で「ワーニャ伯父さん」の演出を担当し、その主役に妻の不倫相手だった高槻(岡田将生)を起用して、読み合わせをするという設定になって、その状況が詳細に描かれる。

 この「ワーニャ伯父さん」はなんと多国籍の役者による複数言語の舞台として設定されている。つまり、登場人物の一人一人が英語や日本語や韓国語や中国語やタガログ語、そして手話で語る。つまり、ワーニャは日本語で語り、それを受けてエレーナは中国語、ソーニャは手話という具合だ。果たして、このような演劇が成り立つだろうかと疑問に思うが、これこそがこの映画の大きなテーマだろう。すなわち、人と人の理解、言葉による理解の可能性。

 妻に不倫され、妻と本当に心を通わすことができないまま、妻を亡くしてしまった家福。家族の中にいながら心がばらばらになって、理解しあえなくなっているワーニャと同じように、友も持たず、人と理解しあうという心に疑念を持って孤独の中で生きている。そこに、ソーニャと同じように不器量なドライバーみさきと出会う。みさきに徐々に心を開き、心を通わせていく。

「ワーニャ伯父さん」のラスト、不祥事を起こした高槻に代わってワーニャを演じる家福と手話によるソーニャで二人の心境が語られる。「つらくともじっと耐えて、最後の日まで生きていこう、そして、おとなしく死んでいこう、その時神の前で自分たちがどんなに苦しんだかを語ろう、そしてそれまでの人生を振り返ろう」。これはまさに、福家自身と、声によって語らないみさきの決意だろう。つらく生きてきた家福とみさきはこのように理解を確かめ合っている。大まかにはそのようなストーリーとして描かれている。

 最初に原作を読んだ時、まったくそのような読み方はしなかったが、確かに、この短編をそのように読むことは可能だと思った。原作を深く描いているともいえるだろう。

 改めて原作を読んでみると、高槻の言葉として、次のように語られている。原作を確かめてみたら、映画でもほとんどそっくりそのまま語られていた。

「でもどれだけ理解し合っているはずの相手であれ、どれだけ愛している相手であれ、他人の心をそっくり覗き込むなんて、それはできない相談です。そんなことを求めても、自分がつらくなるだけです。しかしそれが自分自身の心であれば、努力さえすれば、努力しただけしっかり覗き込むことはできるはずです。ですから結局のところ僕らがやらなくちゃならないのは、自分の心と上手に正直に折り合いをつけていくことじゃないでしょうか。本当に他人を見たいと望むのなら、自分自身を深くまっすぐ見つめるしかないんです」。

 きっとこの短編は、そしてこの映画は、妻の心をのぞき込もう、亡き妻を理解しようとした男が、寡黙なドライバーとの出逢いによって自分の心を見つけて、それに折り合いをつけていこうとする物語なのだろうと思った。

 私は初めに原作を読んだとき、家福に往年の名優・河原崎長一郎(昔々、映画「私が棄てた女」をみたときから、好きな俳優だった)を思い浮かべていた。西島秀俊はこの役にはちょっとカッコよすぎる。とはいえ、とても見事な演技。岡田将生はぴったり。そしてドライバー役の三浦透子はよくもまあこれほどまでにこの役そのものの、しかもとても魅力的な女優がいたものだと感嘆。妻役の霧島れいかも美しくて神秘的。「ワーニャ伯父さん」を演じる各国の役者さんたちもとてもリアルでいい。

「深く考えさせられる映画だった」という言葉は常套句だが、この映画はまさに深く考えさせられる映画だった。ちょっと長めに感想を書いたが、実はまだまだ書きたりないことがある。それほどまでに奥深い映画だといえるだろう。もし、これがアメリカのアカデミー作品賞をとったら、私としてはむしろ、これほどまでに芸術性の高い映画に最高の栄誉を与えるこの賞の価値を見直したい気持ちになる。

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映画「アイダよ、何処へ」 宗教と時代を超えた絶望の自問

 1980年代、ユーゴスラビアを訪れたことがある。紙幣に6つの言語が書かれているのに驚いたのを覚えている。対ナチ抵抗の英雄だったチトー大統領が存命の間は、民族同士の平和が保たれていたが、その後、冷戦崩壊とともに、ユーゴスラビアという国も崩壊、いくつもの国に分裂し、果ては虐殺事件が起こるようになった。一度、旅行したことのある人間として、この地域の状況はとても気になっていた。今回、1995年、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争のさなかに起きた「スレブレニツァの虐殺」を描く実話に基づくヤスミラ・ジュバニッチ監督の映画「アイダよ、何処へ」が上映されているとあっては、見ないわけにはいかないと思っていたが、やっと時間を見つけて映画館に出かけた。

 原題は「Quo Vadis, Aida」。ネロ時代のキリスト教徒の殉教を描くシェンキェヴィチの小説「クオ・ヴァディス」と、古代エジプトの民族対立の中で愛をめざす女性の苦しみを描くヴェルディのオペラ「アイーダ」を思い出さざるを得ない。

 かつて、ボスニア・ヘルツェゴビナには、カトリック、ギリシャ正教、イスラム教のそれぞれの住民が隣り合って平和に暮らしていた。ところが、対立が起こり、セルビア人が民族浄化を企てるようになる。スレブレニツァの虐殺は、ムラディッチ将軍の率いるセルビア兵がスレブレニツァを侵攻し、イスラム系男性住民8000人以上を虐殺した事件だ。映画は、この事件がアイダ(イタリア語ではないので、アイーダでなく、アイダと発音される)という女性を通して描かれる。

 女性主人公アイダ(ヤスナ・ジュリチッチ)はスレブレニツァで教師として働いていたが、今は、紛争の解決のために国連軍として駐留するオランダ軍の英語通訳として働いている。はっきりとは語られないが、イスラム系なのだろう。ところが、そこにムラディッチ将軍が侵攻し、多くの市民が国連軍のキャンプに避難場所を求めて押しかける。危険を察知し、夫と二人の子どもを何とか逃がそうと、通訳の特権を利用してあらゆる手を打つが、聞き入れられず、三人とも虐殺されてしまう。そして、しばらくして平和が戻る。家族を失ったアイダは教師の職に復帰し、もと住んでいた家に戻る。そこには、かつて敵対しあっていた人々がまた隣り合って暮らしている。果たしてこの平和は続くのか、かつて殺しあった相手を許せるのか・・・。

 映画は実にリアル。逃げ惑う大衆が描き出されるが、おそらく当時の現実を再現しているのだろう。オランダ軍は、セルビア兵の暴力の前に何もできず、国連も機能していない。イスラム系の男たちは銃を持ったセルビア兵の言いなりになって黙って殺されていくしかない。汚い手を使っても、無理難題を言い出してもなんとか家族を救おうとしながら、なにもできないアイダの焦りが観客に痛いほど伝わる。

 アイダはかつての教え子をセルビア兵の中に見つける。その若者は悪びれることなく、アイダに親しげに話しかけ、アイダの息子の近況を無邪気に尋ねる。しかし、それはアイダにしてみれば、息子の顔を知って告発するセルビア人が存在する脅威を意味する。かつて隣人として生きていた者同士のいかんともしがたい対立と殺戮。

 これはイスラム系住民の悲劇というだけではない。この悲劇は宗教を超えている。たまたまこの地域ではイスラム系住民が虐殺されたが、例えば、かつてトルコではイスラム教徒によってカトリック系のアルメニア人たちが虐殺された。いや、それどころか、セルビアでの対立も、イスラム系住民がセルビア人を攻撃した過去があったために、そのような残虐な行動に移ったという面がある。

「クオ・ヴァディス、アイーダ」は、宗教と時代を超えた宗教対立への自問、「私たちはどうすればいいのか? 私たちの多様な宗教を抱えた人類はどこに向かえばいいのか?」という絶望の自問にほかならない。

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中国映画「大地と白い雲」 モンゴル文化への共感

 岩波ホールで、中国映画「大地と白い雲」をみた。ワン・ルイ監督作品で、原作は内モンゴルの作家・漠月の小説「放羊的女人」だという。

 内モンゴルの大草原の中で暮らす若い夫婦チョクトとサロール。チョクトは草原の中で羊を飼って暮らす生活に嫌気がさし、都会での生活を夢見る。しばしば家を空けて、仲間と連れ立って街に出て飲んだくれ、車を買って行動したがっている。サロールは、それに対して、しばしば怒りをぶつけながらも夫を愛し、いつまでも草原で暮らしたいと考えている。大寒波が訪れた日、車を買う夢を実現しようとしていつまでも帰らぬチョクトに怒りをぶつけるうちにサロールは流産してしまい、その後、チョクトは一旦は草原で暮らそうとする。しかし、サロールが二人目の子どもを懐妊して新たな希望を持ち始めた矢先、またもチョクトは都会に出稼ぎに出てしまう。しばらくしてチョクトが草原の家に帰ると、サロールは赤ん坊を抱えての生活に立ち行かなくなって、それまでの生活を捨て、やむなく都会に出た後だった。

 監督は漢民族の人らしいが、セリフのほとんどがモンゴル語で語られる。大草原の美しい風景。壮大な自然の中で暮らす夫婦。それに満足する妻とそこから出たがる夫。ある意味、ありきたりのテーマなのだが、モンゴル文化を守ろうとする人間と、それに嫌気がさして都会の文化(つまりは漢民族の世界)にあこがれる人間というテーマが見え隠れし、背景に壮大なモンゴルの風景があるので、映画に深みがある。なかなか良い映画だと思った。

 知識がないので、この監督の思想がどのようなものかわからないのだが、この映画をみる限り、監督はモンゴル文化に深く共感しているようだ。チョクトをあえて軽佻でどうしようもない人間として描くことによって、「モンゴル」対「漢民族」という対立軸を避けて、モンゴルの文化への共感を語っているのだろう。中央文化になびくことを拒み、自分たちの文化に誇りを持つモンゴルの人々。しかし、物質文明になびいてしまう人々がふえ、中央政府の力が増して(落下した人工衛星の断片を探す軍隊の車列がそれを象徴している)、モンゴルの人々は生活基盤を失われて、伝統的な文化を守ることができない。そのような状況を淡々と描いている。

 ちょっと図式が単純で、しかも話がなかなか進まないので、退屈しないでもないが、じっくりと人間と風景を描いて、説得力がある。ただ、これを内モンゴルの人が見ると、どう感じるのだろうかと気になった。

 ところで、私がモンゴル旅行に出かけたのは2017年。ウランバートル中心の短い旅行だったが、中国国内の内モンゴルとモンゴル共和国の違いはあるとはいえ、やはり風景は似ている。ただ、その時、ゲルに泊まったが、この映画をみて、ゲルがまったく出てこないのが意外だった。モンゴル共和国では、ゲルは観光客向けの簡易ホテルとしてだけでなく、間違いなく、庶民の住居として機能していた。中国ではそのような文化は廃れたのだろうか。それも気になった。

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