映画・テレビ

デュラスの映画「バクステル、ヴェラ・バクステル」「トラック」「船舶ナイト号」

 2026714日。映画「急に具合が悪くなる」をみに出かけようかと思っていたが、35℃を超す予報に恐れをなし、急に具合が悪くなってはシャレにならないと思ってとどまった。代わりに自宅の涼しい部屋でマルグリット・デュラスの監督した1970年代の映画をみた。

 デュラスは大好きな作家だった。後年、映画を監督するようになるが、それについても私は大いに関心を持って追いかけていた。簡単に感想を記す。

 

「バクステル、ヴェラ・バクステル」 マルグリット・デュラス監督 1976

 デュラスの監督した映画を何本か観ているが、いずれもわかりやすい映画ではない。この映画も例外ではない。

 最後まで観て、ようやく輪郭がわかってくる。どうやら、ヴェラ・バクステル(クローディーヌ・ガベイ)は浮気性の夫と破局。大富豪の夫は、若い男ミシェル(ジェラール・ドパルデュー!)の借金を帳消しにすることを条件にヴェラに言い寄らせて離婚を承知させようとしているらしい。ヴェラはそのことにうすうす気づいており、自殺を覚悟して別荘にやってきたようだ。

 ただ、そのような過去が語られるのは、ぽつりぽつりと語られるヴェラとほかの女性との会話の中であって、しかも、その話も行ったり来たりするので、全体像は把握しづらい。それどころか、ヴェラと話す二人の女性(デルフィーヌ・セイリグとナタリー・ネル)の正体もよくわからない。なぜ突然現れるのかもよくわからない。中心人物の一人であるヴェラの夫は登場しない。人物はほとんど表情を崩さず、特に演技をするわけでもなく、ほとんど棒立ちでしゃべる。

 要するに、登場人物が棒立ちで脈絡なく語り、そこから過去が少しずつ浮かび上がってくるというだけの映画であって、一般に言われるアクションもなく、メリハリもない。そして、全編にわたって、この避暑地にやってきた客がどこかで演奏しているという南米のカーニバル風の音楽が鳴り続けている。最後になって、ヴェラ・バクステルというのはかつて魔女として火あぶりの処せられた女性の名前だと明かされるが、それが全体とどうかかわるのかも明らかにされない。ただそれだけで、何事も起こることなく、映画は終わる。

 多様な解釈を許す映画だと思う。デュラス自身、それを意識して作っているだろう。

 私は、不確定な世界の中で孤独に生き、コミュニケーションを信じることのできない人間の魂をひしひしと感じる。カーニバル風の音楽は、あっけらかんとして明るいだけにいっそうヴェラの孤独感を浮き彫りにする。不確定の中でヴェラは喘ぎ、絶望し、何かを求めようとするが何を求めるかもつかめずにいる。そんな心象風景が人気ない寒々とした海辺の別荘地で展開される。絶望の衝動、破壊したいという衝動が、静的で淡々とした映像の中で静かにうごめいている。

 きっと一般受けはしない映画だろう。私もこれが名作だとは思わない。だが、「好きだあ!」とつくづく思う。デュラスの世界を私は心から愛する。

 

「トラック」  デュラス監督 1977

 部屋(デュラスの自宅だとのこと)の中にいる高齢の女(デュラス)と若い男(ジェラール・ドパルデュー)が語る。名前は語られないが、デュラス自身とドパルデュー自身として出演しているのだろう。

 二人は書類を見ながら、撮ろうとしている映画について打ち合わせをする。作者であるデュラスが、主演の一人であるドパルデューと話しながら未完成のシナリオを完成させようとしているということだろうか。

 映画の内容は、青いトラックにヒッチハイクで乗った女性(孫が生まれる、という設定なので、おそらく60歳前後)とトラック運転手がトラックの中で話を交わす、というものらしい。デュラスとドパルデューが話を進めるうちに、だんだんと登場人物の人物像が出来上がっていく。町や郊外、建設中の団地わき、田舎道あんどを走る青いトラックや、トラックからの光景が挿入される。しばしばベートーヴェンのディアベリ変奏曲が聞こえる(クレジット・タイトルによれば、パスカル・ロジェの演奏)。ただし、物語の中の人物は登場しない。ほとんど無人の光景や走りゆく車、遠くの建物が映し出されるだけだ。

 二人の話から映画の内容がだんだんと明らかになっていく。女は精神病院から抜け出したらしく、子どもを産み、ユダヤ人でもないのに生まれた子どもにアブラハムという名をつけた娘を尋ねようとしているようだ。ぽつりぽつりと女は語り、時に歌う。運転手は語る女に耳を傾ける。女とトラック運転手は親しくなるわけでもなく、意気投合するわけでもない。トラック運転手は共産党員で、女の夫も共産党員だったらしいが、女は共産主義に絶望している。マルクスも終わった、プロレタリア独裁も終わった、世界は終わったと語る。

 世界が終わった今、もう起承転結のある映画を作ることができないのだろう。共産主義が資本主義に飲み込まれ、プロレタリアが誰に抑圧されているのかもわからなくなり、共産主義が教条になってしまい、世界が不確定になった今、生き生きとした人物像を映画の中で描くことはできない。何を描いても嘘になってしまう。

 まさに1970年代の、ヌーヴォー・ロマンやヌーヴェル・ヴァーグさえもがすでに古臭くなった時代、プロレタリアートの意識がブルジョワジーそのものに化した時代。68年のパリの「五月危機」の時代。この映画で語られるのは、当時の知識人の精神の表明の一つと捉えられるだろう。だが、考えてみると、今もこの状況が深刻化するばかりで、まったく改善されていない。真面目に考えれば考えるほど、芸術の不可能、小説の不可能、映画の不可能の時代になってしまっている。

 

「船舶ナイト号」 デュラス監督 1977

「トラック」などと同じように、劇映画の体をなしていない。

 パリや周辺、建物や庭園や室内などが映され、ときおり映画出演のために待機しているらしい俳優たち(なんと女優の一人はドミニク・サンダではないか! もう一人の女優はビュル・オジェ、男優はマチュー・カリエール)が描かれるが、その人たちが登場人物を演じるわけではない。終始、無表情に座り、順番にメイキャプをするだけだ。

 デュラスとブノワ・ジャコの朗読がそれらの映像に重なって、作られるかもしれない映画のストーリーを語る。徐々に少しずつ分かってくるのは、どうやら、電話局で働く男に電話がかかり、それをきっかけに男は女と長電話をするようになり、二人の間に恋が芽生えるというのが、この映画のストーリーのようだ。

 二人は、しばらく声だけによるやり取りだったが、一度会おうということになる。しかし、女は現れず、ただ女は車から男を見てその姿を認識する。女は若くて美しい女性であり、私生児だが、父親は財界の大物であり、裕福に暮らしていること、白血病で会って自由に出歩けないらしい。最後には、少女のころから病状を見てくれていた医師と結婚をするが、その少し後に死を迎える。

 最初にアテネの街が映るが、同映画と関係があるのかよくわからない。船舶ナイト号というタイトルだが、船らしいものは映し出されない。

 要するに、「映画の不可能」を語る映画ということなのだろう。世界が解体してしまった以上、リアルに見える人物を登場させて、リアルに見える物語を展開させることなどできない。真実の人間は映画の中の登場人物のように、生き生きとリアルに生きているわけではない。いや、真実の人間という言葉も使うことはできない。何が真実なのかもわからない。だったら、このような、映画になろうとしてなれなかった映画を作りしかない。

 気持ちはわからないでもないが、実は、デュラスびいきの私であっても、この映画を楽しく観ることはできないし、傑作ということもできない。

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映画「夏至」「青いパパイアの香り」「ノルウェイの森」

 DVDなどで映画を数本みた。今回はいずれもトラン・アン・ユン監督の作品だ。感想を記す。

 

「夏至」 トラン・アン・ユン監督 2000

 先日の夏至の日の少し前、知人との会話の中で話題になって、そういえば、この映画をみていないことに気づいてDVDを購入した。とても良い映画だった。

 ハノイに住む3姉妹を中心に話が進む。母親の命日、母が死の直前に父とは別の男性の名前を呼んだことが話題になるが、この三姉妹もそれぞれ異性関係で悩みを持って生きている。

 夫にかまわれなくなった長女は外で男と密会している。次女は夫の子を妊娠している。三女は兄と同居しているが、兄に「男」を感じて妖しい状況にいる。最終的には長女の夫には外に愛人と子どもがいることが発覚、離婚を切り出される。次女の夫はサイゴンに出かけて、浮気心を出したことが知られる。三女は兄とは別の男性と関係を持つ。

 そんな三姉妹の心の機微が、緑を主調とした美しい映像によって詩的に、淡々と描かれる。ここに描かれるのは女性の普遍的な心の内だろう。いや、女性に限らない。男性も同じように生き、同じように感じている。

 家の周りは草木にあふれ、カーテンやドアも緑色、服装も緑のことが多い。この映画に描かれるのは、自然の中で、自然の一部として行われる人間の愛の行為であることがしみじみとわかる。監督は生命に対する深い愛情に基づいて自然の中の人間の愛の営みを詩情豊かに描く。

 ただ、人間の顔の識別能力に難のある私はベトナム美人たち数人の顔の区別ができずに困った。いやいや、男性も何人か区別がつかない! DVDを見直して、やっと納得したが、それでもかなり混乱した。この原因として、私がひどく能力不足だということもあるのだろうが、似た格好をするベトナムの人の特性もあるのだろうと思う。そして、むしろ俳優の個性が際立たないようにという監督の意向もあるだろう。

 いずれにせよ、心に残る良い作品だと思った。

 

「青いパパイアの香り」 トラン・アン・ユン監督 1993

 封切時に観ていたが、「夏至」がよかったので、30数年ぶりにもう一度観たくなった。トラン・アン・ユン監督がフランスで撮ったデビュー作だ。緑色が全体を覆っていた印象が残っていたが、話の内容はほとんど覚えていなかった。

 10歳で名家に女中に入ったムイが健気に尽くし、かつて娘をなくした奥様に可愛がられ、その後、新進作曲家のもとに奉公するが、その作曲家は西洋文化に染まった知識層の婚約者を捨てて、ムイと心を通わせるようになり、二人は結ばれる。それだけのストーリーだが、奉公先の緑にあふれた庭の草木、小動物、昆虫などが丁寧に描かれ、ムイが自然の中で生きていること、ベトナム社会が自然と共生していること、人間の営みが自然の中の一コマであることをしみじみと実感する。

「夏至」以上に、最初から最後まで緑色に覆われている。日本語タイトルは「青いパパイアの香り」だが、原題はL'odeur de la papaye verte。訳せば、「緑色のパパイアの香り」。緑も青も日本語では区別が難しいわけだが・・・。ともかく自然の緑色にあふれている。熟す前のパパイアがサラダにされる場面が二度出てくるが、青臭いパパイアが育っていくように、幼かったムイが成長していく様子が自然の一コマとして描かれる。

 フランス在住のベトナム人を中心にパリ近郊で撮影されたというが、幼いムイ(リュ・マン・サン)のなんと健気でかわいいことか、そして娘になってからのムイ(トラン・ヌー・イェン・ケー この後、「夏至」で三女を演じることになる女性のようだ)も美しい! 詩的で叙情にあふれる映像。本当に名作だと思う。

 

「ノルウェイの森」  トラン・アン・ユン監督 2010

 ついでに「ノルウェイの森」もみたくなった。

 前回観た時は、なぜ、ベトナム人のユン監督が村上春樹を映画化するんだろう!と不思議に思いながら、あくまでも村上春樹の「ノルウェイの森」の映画化だという意識でみた気がする。

 私は村上春樹よりも2歳年下で、同じ早稲田大学第一文学部演劇科の学生だった。きっとあちこちですれ違っていたと思う。彼の大学生活について書いたエッセイを読むと、なじみの場所や教授の名前がいくつも出てくる。とりわけ、「ノルウェイの森」を最初に読んだ時、「これは俺のことだ。もしかしたら村上春樹は俺の生活をのぞいていて、俺のことを書いたのではないか!」という荒唐無稽な錯覚にとらわれたほどだ。異性関係については私はワタナベほど恵まれていなかったが、それを除けば、同じような感覚を抱き、同じようなところに住み、同じような女性と付き合い、同じような言葉づかいをし、同じような行動をとっていた。のちに知り合った同世代の早稲田出身者もまったく同じように感じたと語っていたので、ほかにもたくさん同じ思いをした人がいたのだろう。

 映画をみても、ベトナム人の監督がよくもまあこれほど当時の早稲田の学生の生活や光景、そして精神世界を再現できたものだと思った。早稲田大学内の学生運動の状況は、まさにあの通り! ただ、私の通った1970年には早稲田大学内は革マルのヘルメットがほとんどで、校舎はもっと荒廃していた。それに、村上春樹は文学部の学生なので、授業を受けていたのは映画で映し出されるのとは別の校舎のはずだが、そんなことはどうでもいいだろう。

 高校時代にもう一人の自分とでもいうべきキズキ(高良健吾)を自死によって失ったワタナベ(松山ケンイチ)と直子(菊地凛子)は喪失感を共有しつつも、キズキとの関係から愛し合うこともできず、そこから逃れて生きることもできない。ワタナベは同じ大学の緑( 水原希子)と、直子は同じ精神病の施設で生きるレイコ(霧島れいか)と心を通わせて空虚を埋めようとする。

 考えてみれば、直子の住む山間部の療養施設は、村上のこの後の小説に頻出するパラレルワールドの原型なのだろう。ワタナベは二つの世界、二人の女性を行き交い、生のありようを見つめる。

 私は、それほど熱心な村上春樹の読者ではないとはいえ小説のほとんどは読んでいる。だが、いまだにパラレルワールドの意味などについて理解できずにいる。よって、ここではこれ以上、村上の小説には踏み込まない。そもそも踏み込むだけの知識もない。

 ユン監督は、この療養施設のある山間部をまさに、ユン監督が好んで描いてきた緑の世界として捉えている。自然の神秘にあふれ、生命の原型のような場。そこでワタナベと直子は苦しい愛の営みを行う。その場面のあまりの美しさ、あまりの壮絶さに驚く。ただし、この緑の世界は、ほかのユン監督の映画と違って小動物は現れない。むしろ周到に避けられているというべきか、小動物の姿もほとんど映らない。つまりは、緑の世界ではあるが、生命にあふれる世界ではない。心臓の鼓動の欠けた大自然! そして、徐々にその緑の世界は失われ、雪になり、直子は自死する。

 そうなんだ、そういえば、ワタナベが都会で出会ったもう一人の女性の名前は「緑」。しかも、緑の登場場面でも、確かに草木が周囲に映る。直子が療養所で暮らすのは緑のおいしげる世界。ワタナベは緑=生命を追い求めているということだろうか。そう考えると、否定的に描かれる女漁りをする永沢 (玉山鉄二)の登場場面では緑の草木があまり見えない。

 原作を読んだ段階ではこのことにまったく気づかなかったが、村上の小説の中にこの要素はあっただろうか。それとも、ユン監督の洞察? もしくは、もしかしたら、私の単なる妄想? 

 今回は、村上春樹の作品の映画化というだけでなく、ユン監督の作品としてもみることができた。この映画も名作だと思った。そして、村上春樹をきちんと読み返したくなった。

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映画「冬の旅」「蜂の巣の子供たち」「草の乱」「ブレイブハート」「大いなる遺産」

 時間のある時、我が家のテレビでBSで放送されたものやDVDやらprimevideoやらで古い映画をみている。気になったものはメモ代わりに簡単な感想を書いている。しばらく映画の感想をブログにアップしていないのを思い出したので、いくつかの映画の感想を載せる。

 

「冬の旅」 アニェス・ヴァルダ監督 1985

 ヴァルダ監督の映画はみられる限りすべてみているつもりでいた。大好きな監督だ。「幸福」は、パゾリーニ、アントニオーニ、ワイダの諸作品と並んで最も好きな映画の一つだ。が、このシューベルトの歌曲集のようなタイトルの映画(原題はSans toit ni loi、直訳すれば「屋根もなく、法もなく」)については、存在は知っていたが、みられると思っていなかったので、そのままになっていた。ネットであれこれみているうち、primevideoでみられると知った。素晴らしい映画だった!!

 冬の南フランスで凍死した18歳のモナ(サンドリーヌ・ボネール)の生前の様子を、かかわった人にインタビューしながら再現していくという形で物語は進んでいく。いわばロードムーヴィー。モナはきれいで魅力的な女性だが、ほぼホームレスのような生活をしている。テントで野宿をし、汚い身なりで、時々仕事を得たり、男性に身を任せたりして暮らしている。モナにかかわって親切にする人、面倒をみようとする人もいる。襲おうとする人もいる。だが、モナは自由を求め、束縛を嫌って自由な生活を続ける。しかし、それはきわめて過酷であって、徐々に生活はすさみ、浮浪者グループと行動を共にするようになり、アルコールやドラッグにふけるようになり、モナは衰弱していく。

 人間の最も基本的な姿を描いた映画だと思った。誰もがこのようにして生きている。自由に生きたいと希求し、それを実行すると、様々な障害にあい、手助けしてくれる人はいるものの野垂れ死にするしかない。大きく言えば、これはそんな寓話だと思う。

 モナが出会う人物(環境を重視する植物の教授、自由と束縛の中で折り合いをつけて生きている元哲学教師、真面目に働くアラブ系の労働者、田舎町で地道に生きる家政婦、遺産を期待して叔母の死を待つ夫婦など)はまさに現代人の類型! モナを見ながら、おれもこうやっていろんな人たちとかかわって生きてきたなあ・・・という感慨を抱いた。

 それにしても映像が美しい。「幸福」のような鮮やかな色彩ではなく、いかにも田舎町の冬の寂しい風景だが、寂れた村も廃屋も老朽化したトラックも詩情にあふれている。ジョアンナ・ブルズドヴィチュの音楽もとてもいい。

 

「蜂の巣の子供たち」、1948年 清水宏監督

 この映画について、実はまったく知らなかった。名画だと称賛する人がいると知らされて、ともあれみてみた。

 一見したところ、イタリアの戦後のネオ・レアリスモの映画ととても雰囲気が似ている。ロッセリーニやデ・シーカを思い出す。戦地から多くの兵士が帰国していた戦後すぐの時期、身寄りのない復員兵が、戦争による浮浪児と知り合い行動を共にして、広島、そして、より北へと向かうという、いわば戦後のロードムーヴィー。男は、タバコを吸って犯罪めいたことをしていた子どもたちの生活指導をし、時折出会う女性を手助けする。だが、サイパンから引き上げる途中に両親を亡くした幼い子どもは病で死ぬ。

 ご都合主義的なストーリー展開、子どもたちのセリフの棒読みや硬直した動き、複数の人物の構図の不自然さなどを感じないでもないが、戦後の荒廃した都市や田舎での子どもたちの行動をともあれ生き生きと描く。それにしても、映像美に驚く。海辺や島々、山あいの村などの映像の美しさには息を飲む。子どもが死んだ幼児を負ぶって山に登り、幼児の死を知って駆け降りる場面はとりわけ圧巻。

 これは戦後日本のリアルを描いたものではない。まさしくこうなってほしいと願う理想を描いたものだ。最後の場面で、浮浪児たちと一般の子どもたちや多くの人が和解しあい歓迎しあう。まさにこれは監督がこの映画に託したこれからの理想の日本に向けてのメッセージだっただろう。

 

「ヤンヤン 夏の想い出」 エドワード・ヤン監督 2000

 劇場で再上映されているということだったが、DVDを探してみたら、あった。

 台湾映画と言えば、ホウ・シャオシェンの作品はかなり観た。このブログにも感想を書いた。エドワード・ヤン監督も台湾を代表する監督らしいが、これまで観たことがなかった。初めて観たが、素晴らしい! ホウ・シャオシェンは小津安二郎のような淡々とした雰囲気があるが、エドワード・ヤンは、少し似た雰囲気がありながらも、もっと強烈。

 ヤンヤンという10歳くらいの男の子とその周辺の物語。ヤンヤンの叔父にあたる人の結婚のころから、家族はおかしな方向に動き出す。母方の祖母は脳卒中で寝たきりになり、母は新興宗教にはまって山にこもり、父は冷静で理性的に処理しようとしながらも会社での仕事、初恋の人との再会に心を揺るがし、姉はマンションの隣に住む友達の恋愛のいざこざに巻き込まれることになる。母の兄弟たちもあれこれの混乱に巻き込まれる。

 ヤンヤンと意識をなくした祖母という二つの核を作ることによって、大勢の人間の悲喜こもごもがうまく整理して語られる。物語は拡散するようでいて、まとまりがある。そして、その全体を覆うのは、生きることの業というべきものだ。一人一人様々な個性を持ち、様々な事情をもち、誰もが苦悩を抱えながらも懸命に生きている。実際に自分の生を生きている者はそれを俯瞰的に見ることはできないが、こうして映画を見ると、それぞれの生のあり方を俯瞰できる。カメラをもらったヤンヤンが周囲の人の背後を撮るように。

 イッセー尾形がヤンヤンの父に人生の一端を教えてくれるビジネス相手として登場する。独特の味を出している。たくさんの見どころのある映画だったが、イッセー尾形の演じる人物が、バーで明るく騒いだ後、一人で静かにベートーヴェンの「月光」を弾く場面に私は最も感動した。

 

「草の乱」 神山征二郎監督 2004年

 1884年に起こった秩父事件にちょっと関心を持って何冊か本を読んだが、たくさんの人物が秩父のいくつもの村であれこれの活動をするので、頭が混乱! とりあえず事件の全体像を知りたいと思ってこの映画の存在を知り、DVDを購入した。本の中に出てきた人物が、なるほどこういう人だったのか!と納得できるような姿かたちで再現されており、おかげで事件の全貌をおおまかに把握できたし、映画を味わうこともできた。

 会計長として秩父事件にかかわる井上伝蔵(緒方直人)を中心に手際よく全貌を伝えている。緒方直人のほか、林隆三、杉本哲太らの名優の演技はさすがだ。よくできた映画だと思う。高利貸しと結託して農民を苦しめる政府、それに抗して立ち上がる貧民、見かねてリーダーになる村の実力者たち、いざとなると機能しなくなる自由党などが描かれる。

 ただ、困民党の幹部たち、そして反乱に参加する人たちがかなりこぎれいな格好をしており、貧しさが伝わらない。秩父の村の家も、当時であれば藁ぶき、萱吹きがほとんどだと思うのだが、そのような村が映し出されない。大勢のエキストラが反乱に参加する村民として登場するが、切羽詰まって命がけで行動する人たちの必死さが伝わらない。限られた資金で作られたのでやむを得ないとは思うが、もうすこしなんとかならないか。また、武器の調達をどうしたのか、組織化をどのようにしたのか、幹部たちの意見衝突はなかったのかなど、もう少し納得いく説明がないと、リアリティが感じられない。

 とはいえ、全体的にはきわめてリアルな映像に出来上がっている。

 

「ブレイブハート」 1995年 メル・ギブソン監督

「草の乱」を調べているうちに、反乱を描いた映画として「ブレイブハート」が取り上げられている記事を目にしたのでDVDを購入した。実は私は「マッドマックス」のころから、メル・ギブソンはかなり好き(クリント・イーストウッドとメル・ギブソンが私の贔屓の男優だ)で、主演映画や監督作品もそれなりにみているが、この映画はみていなかった。

 13世紀、イングランドのエドワード1世の残虐な支配に怒ったスコットランドの人々が、家族や妻をイングランド兵に殺されたウィリアム・ウォレス(メル・ギブソン)をリーダーとして反乱を起こす。そこに、政略結婚でフランスから皇太子に嫁いだイザベル王女(ソフィー・マルソー)がからむ。ウォレスは処刑されるが、それを契機に反乱は高まり、スコットランド民衆は独立を勝ち取る。

 エンターテイメント映画なので、どのくらい史実に基づくかわからない。きっとイザベルとの交流にはフィクションが混じるだろう。しかし、実に手際よくイングランドの情勢、スコットランドの貴族たち、ウォレスに同調する庶民の生活や考えを描いて説得力がある。反乱の場面のリアリティはすさまじい。ウォレスの人物像も、もちろんちょっと英雄視しすぎているとは思うが、とても説得力がある。アカデミー賞作品賞、監督賞を獲得したというが、それも当然だと思う。とても良い映画だった。

 

「大いなる遺産」 1946年 デヴィッド・リーン監督

 primevideoを検索しているうち、1946年の「大いなる遺産」を見つけてみてみた。 小学生か中学生のころ、NHKで放送されていた「劇映画」の時間にみた覚えがあった。主人公が古い屋敷のカーテンを開ける場面だけ記憶に残っていた。60年ぶりにみたことになる。ディッケンズの小説は「デヴィッド・カッパーフィールド」だけ読んで、とてもおもしろいと思ったが、何しろ長いので、ほかの作品は読んでいない。「大いなる遺産」も読んでいない。

 ピップを演じるのはジョン・ミルズ。私は老年のジョン・ミルズはかなり見たし、彼の娘さんのヘイリー・ミルズは大好きだったのだが、これがジョン・ミルズだとはかなり後まで気づかなかった。子どもの頃のエステラはジーン・シモンズ、ポケットはアレック・ギネス! ただ、それにしてもジョン・ミルズはこの役をやるには老けすぎている!

 話の進め方は実にうまい。さすがリーン監督。しかし、現在の視点から見ると、あれこれの人物の心情や様々な行動の動機について私などは疑問だらけになる。映画をみている間はそれほど気にならないが、見終わった後、次々と疑問がわいてきた。だが、言ってみれば、そのように作ってしまうところが監督の技術なのだろうと思う。

 

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中国映画「紅い鞄」「ココシリ」

 DVDを購入して中国映画を2本みたので、簡単な感想を記す。

「紅い鞄」 2003年 ハスチョロー監督

「胡同の理髪師」(2006)などの名作を生みだしたモンゴル族出身のハスチョロー監督の作品。この監督については、私は「胡同の理髪師」に大いに感動したあと、それ以前に作られた「草原の女」(2000)をみて、あまりに陳腐な内容にがっかりしたのだった。今回観たのは、2003年の作品。なるほど、私の評価としても、ちょうど中間くらい。

 チベット奥地の墨脱(モォトゥオ)が舞台になっている。上海の老人がモォトゥオの山岳部で暮らす子どもたち(どうやら、チベット族とも異なるメンパ族の集落の子どもたちらしい)のために私財を投じて小学校を建て、そこで暮らしているという。上海の記者・ワンは、老人を診察に来た同じ上海出身の女医や地元の学校長や荷物運びの業者ら10人ほどで学校に向かう。ところが、その道のりが想像を絶する険しさ。道なき道を歩くというレベルではない。数日をかけてのまさにヒマラヤ登山! 絶壁、沼地、渓流越えが続く。何人もが危険な目にあい、怪我をする。一人は崖から転落して命を落とす。そうする中、現地の人になじもうとしなかった上海出身のわがままな女医を含めて、ぎくしゃくしていた人々も仲間意識を持ち始める。

 次々と起こるトラブル、襲いかかる自然の危機。それによって初めは亀裂が広がるが、徐々に心を合わせていく、というよくあるパターンのお話。しかも、それぞれのトラブルや危機が定型化されているので、あまりリアリティを感じない。

 ただ、そうした中で、しばしば語られるのが、教育の大事さだ。上海の老人は教育の大事さを知って学校を建てた。学校長はそれを信じて教育に尽くそうとして学校に向かう。校長の娘も迷っていたが、老人の建てた学校の教師になろうと決意する。タイトルの「赤い鞄」とは、記者が生徒たちに送ろうとしているランドセルのような鞄のことだ。映画の最後になっても、老人は登場せず、学校も映し出されないが、「学校の重要性」がこの映画の隠れテーマとしてある。

 ただ、どうなのだろう。チベットの状況をいくらかでも知ってみると、この物語は複雑な問題を孕んでいる。上海の老人が建てた学校なのだから、きっとそこでは中国政府の政策に基づく中国語の教育が行われるのだろう。そして、子どもたちは中国の教養を身に着けて市民になっていくのだろう。それはメンパ族の言葉も、チベットの文化も捨てることにつながるだろう。強権的な中国政府によって中央の教育が強制されているわけではなく、善意の人々がそれを後押ししているという面が間違いなくある。そして、おそらく、それを一つの文明開化として望んでいる現地の人もいるのは間違いない。監督がこの状況をどう考えてこの映画を作っているのか気になった。

 

「ココシリ」(原題:可可西里)2004年 陸川(ルー・チュアン)監督

 チベット高原北部のココシリが舞台だ。ココシリとは「美しい山」「美しい娘」を意味するという。この地域にはチベットカモシカが生息しており、密猟者が絶えない。今回も密猟が行われ、取り締まりの見張り役が殺される。それを知ったマウンテン・パトロールのリーダー、リータイ(デュオ・ブジエ)は、十数名のボランティアの隊員を率いて密猟者を捕らえるために命がけの探索に出る。北京から来た記者ガイ(チャン・レイ)が同行を許されて取材する。

 それだけ聞くと、これまで映画で何度か見たような話に思えるし、話の作りは、記者の同行と言い、過酷な状況の連続といい、「紅い鞄」と似ている(「ココシリ」の方が2年前に作られているが)。あるいは、西部劇でも同じような趣向の映画を見たような気がする。だが、この映画は過酷さが尋常ではない。

 何しろ、ここは海抜4000メートルを超す地域で、雪が降り、砂嵐が起こる。15日をかけて車で追いかける。「ネタバレ」になるのでくわしくは書かないが、ハッピーエンドではなく、次々と悲惨な事態が生じ、何人もが命を落とし、この上なく悲劇的な結末を迎える。しかも、これは実話に基づいているという。圧倒的に美しい高原を背景に、生と死のあまりに壮絶なドラマが展開する。

 一言で言って、チベットの生命の過酷さを実感する。みんなが命懸けで生活している。生と死が隣接している。そして、パトロール隊は、500頭近いチベットカモシカを殺す密猟者たちを絶対に許さないという信念のもと、自分たちの命が危機に陥ることよりも密猟者を追いかけることを優先する。そこで強く感じるのは、生への慈しみ、故郷を守ろうとする思いだ。密猟者の手先となって働いているのは、ほかの生活手段を奪われてやむを得ずに手伝いをしている人たちだ。リーダーはその人たちの命もできるだけ同等に扱おうとする。

 ここではチベットの政治状況もこれまでの歴史も語られない。だが、想像を絶する過酷な世界で生きている人たちの生と死の営みがストレートに伝わってくる。これは大変な名作だと思う。

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映画「侍タイムスリッパ―」「PERFECT DAYS」

 Prime videoで映画を2本みた。簡単に感想を記す。

 

「侍タイムスリッパ―」 2024年 安田淳一監督

 日本アカデミー賞最優秀作品賞受賞作品。話題になった作品。幕末、会津の藩士・高坂新左衛門(山口馬木也)は、長州藩士を殺害しようと闘っているとき、雷に打たれてタイムスリップ。現代の京都の太秦撮影所に移動してしまう。ほかにできることもなく、時代劇の斬られ役として働くうち、時代劇の大御所・風見恭一郎(冨家ノリマサ)の推薦で話題の映画の準主役に抜擢される。ところが、その風見は、実は30年前にタイムスリップした戦いの相手だった。二人は、侍魂を現代に見せようとして、時代劇つくりに励む。高坂は会津藩の悲劇を知って同胞に報いたいと考える。

 簡単にまとめるとそんな話。ありがちな設定、まさにベタな映画。だが、これが実におもしろい。純朴で生真面目な高坂の気持ちが手に取るようにわかるように作られている。現代にタイムスリップした戸惑い、不器用な恋、風見への揺れ動く心が面白おかしく描かれる。そして、映画と現実が重なり合う、というこれまたベタな展開もうまく応用される。

 私は藤田まことのファンだったので、彼の主演する「剣客商売」は熱心に見ていた。息子役を当初演じていたのは渡部篤郎だったが、途中から山口馬木也に代わった。まったく知らない俳優さんだった。渡部に比べて華がなく地味な感じがしたが、それでも味のある役者なのでひそかに応援していた。また、冨家ノリマサは美男だけで味のない役者だと思って、もったいないと思いながら見ていた。ところが、この二人の凄さ! 年を経るにしたがって、味が増し、本当にいい役者になっていた。いや、二人だけでなく、すべての役者がいい味を出している。

 

PERFECT DAYS」 2023年 ヴィム・ヴェンダース監督

 ヴェンダース監督が日本を舞台に、役所広司を主人公にして撮った映画。小津安二郎の映画に傾倒するヴァンダースらしい、まさに小津を思わせる映画。

 毎日、決まった時刻に起きて決まった行動をとって東京のトイレを清掃する作業員平山(役所広司)の毎日を追いかける。姪が登場して平山の過去の状況がほのめかされたり、仕事仲間の恋愛事情、行きつけのスナックのママの苦悩などが描かれたりするが、さりげなく、日常の一コマとして扱われる。そして、平山は日々の生活の喜びと悲しみと苦悩を抱えながら、完璧に仕事をこなし、トイレを見事なまでに清潔にし続ける。

 それだけの映画なのだが、映像美、ゆっくりと流れる生活感、登場する人々(仕事仲間の柄本時生、ホームレスの田中泯、居酒屋店主の甲本雅裕、スナックママの元夫の三浦友和)の存在感が素晴らしい。風景がそこにあり、そこに人が生きている、ただそれを描くだけで素晴らしい映画になるのだと、つくづく思う。

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映画「ドクトル・ジバゴ」「ミツバチのささやき」「エル・スール」「暗殺の森」

 NHKBSで放送され、録画していた映画をまとめて観た。いずれも、封切当時に観た記憶があるが、その後、55~40年ぶりに再び観たもの。簡単な感想を記す。

 

「ドクトル・ジバゴ」 1965年 デヴィッド・リーン監督

 封切時、私は中学生だった(あるいは高校1年生?)と思う。当時、それなりに感動してみた記憶はあるが、ロシア革命についてもよく理解していないままみたせいもあるかもしれない。今回、60年ぶりくらいにみて、内容をほとんど忘れていたことに気づいた。記憶に残っていたのは、ララ(ジュリー・クリスティ)の美しさくらい。

 改めてみて、よくできた映画だと思った。ロシア革命に翻弄される人間の物語。「社会ではなく個人こそが大事」というメッセージを強く訴える。ロシア革命の状況も手際よく描いている。スケールの大きな大歴史ドラマとして映像も美しい。ただ、二人の女性の間で板挟みになりながら誠実に生きようとするジバゴ(オマー・シャリフ)やその周辺に次々と革命の理不尽が襲い掛かるので、観ていて辛くなる。実際に、ロシア革命時の知識人はこのような目にあったのかもしれないが。オマー・シャリフの演技も一本調子に感じる。コマロフスキー役のロッド・スタイガー、妻役のジェラルディン・チャップリン、兄役のアレック・ギネスの演技に感嘆した。

 

「ミツバチのささやき」 1973年 

 これも封切時にみたのだが、人間の記憶はあてにならない。ところどころ記憶にあったが、私が最も鮮明に覚えていたのは主人公の少女が死んだ後の父親の嘆きの場面だったので、少女が死ぬものと思ってみていたら、死ななかった! 心の底からほっとした! どうもほかの映画と混同していたようだ。それにしても、これは素晴らしい映画!

 まさに全編が美術品。美しい映像。光と影が絶妙。6歳くらいの少女アナの純真な表情も可愛い。

 フランコ時代のスペインの田舎町で閉塞状況の中にいる家族。自然は生と死と性にあふれている。ミツバチもしかり。父親はミツバチを飼っているが、論文を書いておそらく外の世界に飛躍したいと思っている。母親は外の世界にいる昔の恋人に向けて届くかどうかわからない手紙を書いている。アナとイザベルの姉妹は無邪気に生きているが、あるとき、村の集会所で映画「フランケンシュタイン」をみる。これは、生と死の秘密を子どもたちにまざまざと知らせるものだった。しかも、隠されているが、そこに性的な要素も含まれる。そんなアナの前に、脱走兵が現れる。まさに外の世界からの来訪者! アナは脱走兵にフランケンシュタインを重ね合わせて、そこに大人の男を感じて交流するが、脱走兵は射殺されてしまう。アナはショックを受け、森をさまようが、街の人たちに助けられる。

 そうした少女から大人への脱皮。それを閉塞状況の中に描き、そうしたアナの変化によって家族全体が閉塞状況から少し立ち直っていく様子も描かれる。

 

「エル・スール」 1983年 ヴィクトル・エリセ監督

「ミツバチのささやき」と同じ監督の10年ほど後の作品。「ミツバチのささやき」にもまして美しい映像。まるでジョルジュ・ドゥ・ラ・トゥールの絵のような陰影。すべての画面が一幅の美術作品。

 1950年代と60年代、スペイン北部の村で暮らす一家の様子が、8歳の時と15歳の時の娘エストレーリャの目から描かれる。ナレーションが入っているので、「ミツバチのささやき」よりもずっと話はわかりやすい。父(オメロ・アントヌッティ)は南部の生まれだが、反フランコであったために父親と仲たがいして南部を離れ、妻子とともに北部で暮らしている。エストレーリャはあるとき、父がある女性に憧れていることを知る。そして、それが映画女優であり、かつて父が付き合っていたことを知る。それまで父は何度も家を出ていたが、ついに父が真相を娘に明かした翌日、家を出て自殺してしまう。

 娘を深く愛し、南部での過去の暮らしを忘れようとしながらそこから離れられない男の物語と言えるだろう。多くの人間がこの男性と同じような面を持っているだろう。私も大いに共感する。しみじみと共感する。

 ただ、私としては、「ミツバチのささやき」ほどの感動は覚えなかった。

 

「暗殺の森」 1970年 ベルナルド・ベルトルッチ監督

 封切時にみて大いに感動した覚えがある。私はパゾリーニが大好きだったので、その弟子筋にあたる若手監督の作品だというので注目して観たのだったが、これまたドミニク・サンダの怪しい魅力以外ほとんど覚えていなかった。だが、改めて観て、これもまた圧倒的に素晴らしい映画だと思った。

 まず斬新な映像美に驚く。今でも新鮮なのだから、当時はもっと驚いただろう。パゾリーニの映像詩と呼べる映像も素晴らしかったが、こちらは若いのに、もっとこなれている。画面の構図、背景など考えつくされており、音楽のようにそれだけで意味を作り出す。

 子どものころ、同性愛者に襲われて、その人間を殺してしまったというトラウマを持つ青年マルチェッロ(ジャン=ルイ・トランティニャン)は、その異常な体験のゆえ、普通の人になりたいという願望を抱き続けている。ムッソリーニ政権下、マルチェッロは大勢に順応してファシストになり、秘密組織の指令を受けて、新妻ジュリア(ステファニア・サンドレッリ)との新婚旅行を利用して、パリ在住の恩師である反ファシズム運動を行うクアドリ教授の内情を偵察することになる。が、クアドリ教授の若い妻アンナ(ドミニク・サンダ)に惹かれ関係を持つ。しかも、偵察するだけでなく、夫妻を暗殺する命令を受ける。マルチェッロはためらって、自分では実行できずに手引だけする。夫妻は殺される。そして、ムッソリーニ政権は崩壊。ファシストの時代は終わる。すると、今度はマルチェッロは反ファシストの側につこうとする。しかも、どうやら子どもの頃のマルチェッロを襲った男はどうやら生きていたことに気づく。マルチェッロの人災が反転する。そのような状況が描かれる。

 クールで冷酷だが人間の弱さを持つマルチェッロ、謎の女性アンナ、ちょっと愚かだが、それはそれで魅力的なジュリア。それぞれを説明過多にならずに描く。その手際にも驚嘆する。モラヴィア(ひところ、私はかなりこの作家の小説を読んだ!)の原作だというが、ストーリーもとてもおもしろい。久しぶりにみて、改めて感動した。

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米ドラマ「将軍」 うたかたの命を自覚しつつも自分の宿命をまっとうする人々

 アメリカのエミー賞の18部門受賞した真田広之プロデュース・主演のドラマ「SHOGUN 将軍」をみた。私は二世帯住宅で娘一家と暮らしているが、娘の家がディズニープラスに入会しており、一家が留守にしている間を利用して、全10話連続でみた。

 第3話くらいまでは、よくぞこれでアメリカの視聴者がついてきてくれたものだと感心しながらみた。

 吉井虎永(真田広之)が天下を取る前の状況を、難破船で日本に到着したイギリス人ジョン(コスモ・ジャーヴィス)と、その通訳・鞠子(アンナ・サワイ)を通して描いていくが、まず人間関係がかなり複雑。日本人であれば、みているうちに、なるほどこれが徳川家康で、これが三浦按針、これが細川ガラシャ、石田三成、淀君・・・をモデルにしているとわかっていくが、日本史をまったく知らない西洋人は理解できたのだろうか。

 しかも、私の識別能力が格別に劣っているということかもしれないが、画面がずっと暗いこともあって、日本人である私が登場人物、とりわけ女性たちの顔を識別できない。誰が誰やらわからなくなる。欧米人にはいっそうわかりにくかっただろう。

 ただ、冒頭から、画面の持つ存在感やリアリティは凄まじい。日本らしい風景やら美しい構図、存在感のある小道具、人物のしっかりした所作。そして、人の命が軽く扱われ、目上の者の命令でいとも簡単に命が奪われていき、それを当然、あるいは、それを正義とする文化。そうした存在感、現実感を作り出す真田広之、アンナ・サワイ、西岡徳馬、二階堂ふみらの演技力。視聴者はきっと異世界に入り込むような気持で見続けていったのだろう。

 ドラマは第4回目、5回目と回を重ねるごとに面白くなっていく。登場人物たちが、歴史上のモデルを飛び越えて生きた人間になっていく。フィクションが広がり、いっそう人間の心の機微が描かれるようになる。石田三成をモデルとする石堂(平岳大)の虎永に対する包囲網、それに対する虎永のしたたかな権謀術数、ジョンと鞠子のひそかな愛、浅野忠信演じる人間臭い樫木藪重の二枚舌などが並行して描かれ、同時に日本人の死生観が語られていく。

 第7回以降は、私はかなり夢中になってみた。自分の命をうたかたのものとみなして、主君に仕え、よろこんで自分の命をささげる生き方、そうした死生観に疑問を抱きながらも女性を愛することによってそのような価値観の中に入り込んでゆくジョン、そのような愛憎のもつれに引き付けられた。

 登場人物たちは敵、味方とは別に、二つのグループに分かれる。うたかたの命を自覚しつつも自分の宿命をまっとうしようとする賢い人たちと、そうしたことに気づかず物事のことわりを理解せず、愚かに生きていく人たち。賢い者同士は心を通わせ、それぞれの宿命を理解しあいながらも互いに別の道を行く。その潔さが美しい。

 鞠子らの大阪城脱出の企て、切腹未遂に終わった後の鞠子とジョンの交わり、鞠子の壮絶な最期、虎永との腹を割った話の後の藪重の最期などの見せ場も多い。

 日本人が中心になってこのようなドラマをアメリカで作ることができたことを、私も日本人の一人としてとても誇らしく思う。同時に、このような異文化を描くドラマがアメリカで大きな人気を得たこともまた頼もしいことだと思う。異文化の価値観を知り、その死生観を知って、自らの死生観を顧みるという知的営為は文化社会には必要なことだ。

 同じジェームス・クラヴェルの原作に基づく、三船敏郎、島田陽子、リチャード・チェンバレンらの出演した1980年のドラマもよく覚えている。とてもおもしろいドラマだったが、今回ほどの感銘は受けなかった。今回のドラマはエミー賞12部門受賞も当然だと思った。

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映画「象は静かに座っている」「ラヴソング」「八月のクリスマス」「セントラル・ステーション」

 一昨日(2022年11月28日)、5回目のコロナウイルスのワクチンを接種した。これまで毎回、それなりの副反応に襲われた(38度前後の熱だった)が、今回は、ほとんど異状なくすみそう。どれくらい効果があるのかわからないが、ともあれ少し安心。

 ちょこちょこと自宅テレビで映画をみている。数本見たので、簡単な感想を記す。

 

「象は静かに座っている」  2018年 フー・ボー監督

 ベルリン国際映画賞などの数々の賞を獲得した中国映画。監督のフー・ボーは処女作であるこの映画を完成させた後、29歳で自ら命を絶ったという。

 まさに鮮烈な映画だと思う。どこを切ってもそこから血が噴き出すような鮮烈さ。かつて見たパゾリーニの映画を思い出す。作風はと言えば、よく言われているようだが、タル・ベーラに似ている。

 舞台になっているのは石家荘市の郊外のようだ。友をかばっているうちに級友を階段から突き落として死なせてしまう少年ブー、親友の妻と浮気しているところを見つかって、目の前でその親友に身投げ自殺されたやくざ者の青年チェン(彼は、階段から落ちて死んだ少年の兄でもある)、家庭の都合で老人ホームに入れられるのに抵抗している老人ジン、だらしのない母との生活に嫌気がさして学校の副主任を相手に性的な関係をもって、それがネットでさらされてしまう少女リン。

 それぞれに居場所を失った四人。投げやりになりながら、必死にあがくがどうにもならない。その四人が交錯しあい、影響を与え合う。チェンは撃たれ、ブーとリンとジンは、満州里にいるといわれている座ったままの象を見に行こうと旅に出る。

 象のいる遠い都市・満州里というのは、「ここではないどこか」「居場所のある地域」なのだろう。モンゴル自治区の都市なので、中国の人にとっては国内にある異郷と思えるのかもしれない。そこに行っても結局はどこも同じだと思い知らされるだけだと思いつつ、そこに行こうとする。そうするしかない。そのような絶望と閉塞とかすかな希望を描いているといえるだろう。

 だが、それよりなにより、登場人物の上半身を中心に手持ちカメラで撮ったような映像が鮮烈だ。上半身以外は映し出されていないことが多い。そうすると、登場人物が何をしているのかよくわからない。横に誰がいるのかもはっきりしない。登場人物が携帯電話で動画を見る場面があるが、ふつうの映画なら、動画の内容が映し出されるところ、この映画ではそのような説明的な場面はほとんどない。登場人物以外の遠景は焦点がずれて常にぼやけている。観客は画面の外に何があるか、遠くのぼやけている光景は何なのかを推測し、読み取りながら映画をみなければならない。そして、観客にも何が起こっていたのかを発見していくように映画は作られている。

 メネシュ・ラースロ監督のハンガリー映画「サウルの息子」でも同じような手法が用いられていた。ラースロはタル・ベーラの弟子筋の人なので、きっとフー・ボー監督はその影響を受けているのだろう。視野の広くない画面なので、登場人物と同じように観客も激しい閉塞感を覚える。狭苦しく、何もかも理不尽、何もかもゴミ、そんなやりきれなさが伝わる。

 234分の長い映画だが、息もつかせぬ展開なので、だれている暇はなかった。途中、食事などで休憩はいれたが、一気に見た。このような感性を持つ若者であれば、この世の中は生きにくいと思うが、そうであるだけに自死せずに鮮烈な作品を作ってほしかった。今更ながら残念。

 

「ラヴソング」 1997年 ピーター・チャン監督

 香港映画。1986年に大陸から香港に移住してきたシウクワン(レオン・ライ)は、マクドナルドで働く大陸出身の女性レイキウ(マギーチャン)と出会い、テレサ・テンの歌が好きだという共通の趣味もあって意気投合し、恋に落ちる。シウクワンには大陸に残した婚約者がいたが、レイキウとの関係を断ち切れない。婚約者を香港に呼んで結婚するが、レイキウとの関係を続けて、結婚は取りやめ、レイキウもほかの男と結婚して、二人は別れてしまう。だが、テレサ・テンの歌を好む二人は、この歌姫の死が伝えられた日、ともに思い出の場所に行って、再会する。

 それだけの話なのだが、大陸人にとっての香港、自由への憧れなどとともに男女の機微が描かれて、とても味わい深い映画になっている。天真爛漫だったシウクワンが人生を知って大人になっていく過程、レイキウがやくざ者の夫をもって二人男の間で揺れ動く様子などが淡々と、しかしリアルに描かれる。テレサ・テンの存在が大陸人にとっていかに大事であったかもよくわかる。

 とても良い映画だと思うが、残念ながら、テレサ・テンをテレビで見たことはあったものの、特に思い入れのなかった私には、この部分についてはピンとこなかった。

 

「八月のクリスマス」 1998年 ホ・ジノ監督

 別の映画を探しているうちに、間違えてつい注文してしまったDVDだったので、あまり期待してないでみたが、感動して見入った。韓国のラブストーリー。

 小さな写真館を営むジョンウォン(ハン・ソッキュ)は若い女性客キム・タリム(シム・ウナ)と懇意になって心を通わせあう。ともに恋愛感情を抱くが、不治の病に侵され死期の近いジョンウォンは何も告げず、世を去る。

 それだけの物語なのだが、ほのぼのとした日常の中の愛と死に心打たれる。監督の日常の描き方、二人の主人公や周囲の登場人物の心の描き方に感服。さりげない日常の中で人が生き、人が死んでいく。そこに愛が芽生え、それは写真のように心の中に刻印される。「重病もの」というジャンルに入るだろうが、深刻にならず、お涙頂戴でもなく、人間の愛と死をやさしく、しかも鋭く描いてまさに感動的な映画になっている。

 韓国映画にも韓国ドラマにもそれほど強くない私(ただ、「冬のソナタ」「チャングムの誓い」「トンイ」はひょいと見たらやめられなくなって、かなり夢中になった)は、この二人の有名俳優を知らなかったが、ハン・ソッキュのさりげない演技力に脱帽、そしてシム・ウナのあまりに初々しい美しさにうっとりした。うーん、今更ながらだが、韓国映画おそるべし!

 

「セントラル・ステーション」 1998年 ヴァルテル・サレス監督

 NHKBSプレミアムでみた。ブラジル映画。初老の女性ドーラ(フェルナンダ・モンテネグロ)は、リオ・デジャネイロのセントラル・ステーションで、字の書けない人のために代筆屋をしている。そこに中年女性とその息子ジョズエがやってきて、遠くに離れた父親への手紙をドーラに依頼するが、その直後、女性は交通事故死する。一人残された少年ジョズエはほかに知り合いがいないためにドーラを頼る。ドーラは厄介に思いながらも面倒を見ざるを得なくなって、ついには二人で父親を探す旅に出る。そのロード・ムービー。

 ドーラはけっして善人ではないという設定。ジョズエを厄介払いしたいとたびたび考えるし、助けてくれたトラック運転手の男性に恋をしてのぼせ上ったりもする。だが、心を通わせあってゆく。そして、最後、父親には会えないが、異母兄弟に出会うことができ、ドーラはジョズエを兄弟に託して、自分は去っていく。

 アメリカ映画でもよくあるパターンだが、登場する人々の雰囲気、途中で出会う光景がアメリカ映画ではありえない。二人が紛れ込む宗教的な村祭りも驚く。復活祭か何かなのだろうか? 二人を助けるトラック運転手は巡回牧師を兼ねているという。敬虔な、というか、ちょっと狂信的なカトリック社会の状況が描かれる。この映画はまさに群れからはぐれてしまった子羊たちの物語でもある。その意味でとても興味深かった。

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ウォン・カーウェイの映画

 一昨日、両腕に赤い湿疹が30か所以上もできているのを発見。妻を亡くした後、部屋の掃除をろくにしていないので、ダニにでも刺されたのか、それともほかの虫なのかと気になって皮膚科で診てもらった。「虫ではなさそう。何か大きなストレスがあったのではないか。ストレスによって免疫力をなくすと、それが皮膚に現れることがある」と言われて納得。

 妻の死後、一日中落ち込んでいるわけではないが、なかなか元気が出ない。気晴らしをしようと思っても億劫になってしまう。これが、70歳を過ぎて妻に先立たれた夫のかなり普遍的な状況だと思う。こうして、陰鬱な気分が肌に出てきたわけだ。

 湿疹くらいならたいしたことはないが、このままでいると、からだを壊してしまうと思い当たった。免疫力を弱めていたら、コロナにかかって重症化することも考えられる。かくなるうえは、ストレス解消を最優先にするほうがよさそうだ。まあ、これまでもコンサートに出かけていたが、これから少し意識的に明るい方向の向こうと思う。

 先日、プーンピリア監督の「プアン 友だちと呼ばせて」を見て大いに感動。このタイの監督がウォン・カーウェイの影響を受けていると知った。そういえば、香港映画の巨匠ウォン・カーウェイの名前は知っているが、作品をみたことがない。この機会に何本かみることにした。簡単に感想を書く。

 

「欲望の翼」 1990年 ウォン・カーウェイ監督

 1960年の香港の裏町が舞台になっている。生みの親に捨てられ、育ての親に虐待されたという思いを抱いている青年ヨディ(レスリー・チャン)。投げやりな生活を送っているうち、サッカー場の切符売り娘スー(マギー・チャン)を口説き、付き合い始める。だが、ヨディはスーを捨て、踊り子のミミ(カリーナ・ラウ)に乗り換える。ヨディを愛してさまようスーの様子を心配して見守る警官タイド(アンディ・ラウ)、ミミを慕うサブがからんで、物語は進んでいく。最後、実の母を探しにヨディはフィリピンに行き、中国人街の闇社会とかかわりを持って殺されてしまう。

 ヨディがスーに語る「1960年4月16日の3時1分。君は僕といた。この1分を忘れない」という口説き文句は出色だ。そのほか、詩的な言い回しがたくさんあり、映像にも乾いた詩情が漂う。刹那的に生きるしかない若者たち。まさに1960年前後のイタリア映画やポーランド映画を思い出す。いい映画だと思う。

 

「花様年華」 2000年 ウォン・カーウェイ監督

「欲望の翼」と同じように、1960年代の香港を舞台にしている。チャウ(トニー・レオン)とチャン(マギー・チャン)はそれぞれ家庭を持っているが、配偶者とともにアパートの隣に住むようになる。ある時、それぞれの配偶者が行動を共にして不倫しているらしいことに気づく。裏切られていることを感じた二人は、絶望の意識を介して接近してゆく。愛を率直に表現できない二人は、それぞれの配偶者や作家志望のチャウの小説中の出来事に仮託して愛を告げあう。それぞれの配偶者は声だけで映像は出ない。そのために、親密で閉ざされた雰囲気が強調される。

 エロティックと言えるほどの美しいチャイナドレス、赤い色調の部屋、官能的な音楽。セリフは少なく、絵画のように美的で蠱惑的な映像が二人の世界を作り出す。トニー・レオンとマギー・チャンは、私のようなオールド・ファンには佐田啓二と山本富士子に見えてしまう。なんだか往年の日本映画のスターたちに雰囲気がよく似ている。

 ただ、いったい、このアパートはどんなシステムになっているのだろう? バルザックの小説や往年のフランス映画(「ミモザ館」など)に出てくるようなパンションのようなものなのだろうか。このようなシステムは今もあるのだろうか。そのあたりはよくわからなかった。

 とてもいい映画だと思う。ストーリー的に大きな展開があるわけではないが、この官能的で親密な雰囲気はとても魅力的だ。

 

「2046」  2004年 ウォン・カーウェイ監督

「欲望の翼」「花様年華」とともに三部作をなすとみなされる作品。とても良い雰囲気で、つい引き込まれるが、なんだか話はよくわからない。

 チャウ(トニー・レオン)は官能小説家となって退嬰的な生活をしている。かつて、ホテルの2046号室で女性と愛を交わしたことが忘れられずにいる。過去にこだわり、そこから抜け出して、新たな2046を求めて女性遍歴を重ねているが、SF小説「2046」を書き始める。2046に向かって進む列車にはアンドロイドの女性たちが客室乗務員として勤務しており、その女性たちの自分の遍歴してきた女性たちを投影させる。ざっとまあこんなふうにストーリーはまとめられるだろう。

 失われた愛を求めての渇望の物語といえるだろう。ミケランジェロ・アントニオーニの映画を思わせる。愛し合うことが不可能なので、不毛なセックスを求める。しかし、それでも満たされず、過去から抜け出せない。ベッリーニのオペラ「ノルマ」の有名なアリアが何度か流される(ゲオルギューが歌っているようだ)。一途に恋に生きるノルマの生きざまが浮かび上がってくる。

 チャウを愛し、チャウと同じように素直に愛を交わせない娼婦役のチャン・ツィイーが本当に魅力的。そのほか、フェイ・ウォン、コン・リー、カリーナ・ラウ、マギー・チャンらの中国人の女優たちが存在感にあふれていて、素晴らしい。日本人タクの役に木村拓哉が出演している。トニー・レオンらの中国人俳優たちの圧倒的な存在感に比べて、いかにも頼りなげだが、きっとこれが監督の意図なのだろう。一人異世界に紛れ込んだ感じが、それはそれでおもしろい。

 

「恋する惑星」 1994

 香港ヌーヴェル・ヴァーグというべき作品だと思う。失業した刑事(金城武)と勤務中の警官(トニー・レオン)の二人を基軸に、その恋の相手(ブリジット・リンやフェイ・ウォン)との突拍子もない行動を独特の映像で追いかける。説明が少なく、主人公や女性たちの行動の意味がよくわからない。だが、ポップな音楽、流れる映像が実に心地よい。そうした中、秩序からはみ出して生きるしかない若者の生の衝動が伝わってくる。金城武やトニー・レオンがとても魅力的に描かれている。

 

「天使の涙」 1995

「恋する惑星」と同じような雰囲気の作品だ。殺し屋(レオン・ライ)とそのエージェント(ミシェル・リー)、殺し屋がたまたま出会う金髪娘(カレン・モク)、口のきけない青年(金城武)などがそれぞれの行動をモノローグの形で語り、これらの人物が交錯していく。ゴダールらのヌーヴェル・ヴァーグ作品をもっと先鋭化させた感じ。それぞれの人物がマンガ的に行動し、詩的だが、意味を確定しがたいセリフが続く。ただ、映像が美しく、映像の動きも見事なので、まったく退屈することはない。とても良い映画だと思う。

 

「愛の神、エロス」 2004年 オムニバス映画

 ウォン・カーウァイ「若き仕立屋の恋(The Hand)」、スティーブン・ソダーバーグの「ペンローズの悩み」、ミケランジェロ・アントニオーニの「危険な道筋」の3編からなる。

 カーウェイの作品が最もおもしろかった。仕立て屋(チャン・チェン)は囲われ者の女性(コン・リー)の身体を手で探って寸法を取り、その虜になる。女性は仕立て屋をいたぶるばかりだったが、最後には零落し、娼婦に成り下がって難病にかかる。女性も仕立て屋を憎からず思っているが、すでにセックスはできず、手を使って満足させようとする。手を使っての性的関係であるだけに、一層フェティシズムを掻き立てる。映像も実に淫靡。

 ソダーバーグの作品は精神分析医(アラン・アーキン)と患者(ロバート・ダウニーjr)のやり取り。夢と精神科医とのやり取りと現実の交錯がおもしろいといえばおもしろいが、どこがエロスなのかよくわからなかった。アントニオーニの作品は、愛し合おうとしながら愛し合えずにいる夫婦の物語。海辺の映像と二人の女性の全裸は目を見張るほど美しいが、アントニオーニの映画としては物足りない。

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イタリア映画「田舎女」「修道院のガリバルディ部隊兵」「十字架の男」など

 かなり前に10枚組DVD1980円のイタリア映画コレクションを購入。1本目からみていったが、1本目をみたころ、妻はまだ家にいた。妻の入院中、そして、葬儀の後も、家にいる時には、音楽を聴いたり、このDVDをみたりしていた。10枚みおわったので、簡単な感想を記す。

 

「外套」アルベルト・ラトゥアーダ監督 1952

 ゴーゴリの「外套」に基づいているが、ゴーゴリ特有のロシア的な得体のしれない不気味なユーモアではなく、イタリア的なユーモアになっている。ゴーゴリの場合、マスとしての貧しい人々はあまり強く描かれないが、この映画ではいかにもイタリア的なエネルギッシュで騒がしくて集団的な庶民が描かれる。まあそれなりにはおもしろいが、とてもおもしろいわけではなかった。

 

「ローマの太陽の下で」 レナート・カステラーニ監督 1948

 戦後すぐのネオレアリズモ映画。ローマの育ちのよくない若者たちの戦中戦後の無軌道な行動を描く。自分のしでかしたことが原因で母と父を失ってしまい、やっと自分の行動の愚かさに気づく。ただ私としては、ロッセリーニやデ・シーカのような貧しい子どもたちのやむにやまれぬ行動ではなく、パゾリーニの初期の小説や映画のような不良たちのむき出しの激しい生でもなく、中途半端な不良たちの軽率な行動なので、あまり共感できずあまりおもしろいとも思わない。つまらないことを騒がしくしているだけに思えた。

 

「百万あげよう」マリオ・カメリーニ監督 1935

 大富豪の青年(ヴィットリオ・デ・シーカ)が、周囲の人々が本心で接してくれないのを苦にした青年が貧しい浮浪者になりすましてサーカス団に紛れ込み、心から心配してくれる女性(アッシア・ノリス)と恋に陥る。他愛のない話をコメディタッチで描いている。

 デ・シーカの軽妙な演技はとても魅力的だが、あまりに都合よく話が進むので、現代人としてはリアリティを感じられない。

 

「永遠のガビー」 1934年 マックス・オフュルス監督

「みんなの恋人」として人気絶頂の女優ガビー(イザ・ミランダ)が自殺を図った。手術台でのガビーの回想で映画が始まる。ガビーは女学校で教師に一方的に愛されたために退学になり、親の厳しい管理下に置かれる。そんなとき、近所の大富豪の息子ロベルトに憧れるが、ついに愛し合うようになる。ロベルトの母親にも信頼されるが、大富豪の父親にも愛されるようになり、それが発覚。母親を自殺に追い込んでしまう。ロベルトの父親と結婚するが、良心の呵責から、ともに暮らすことに耐えられずに別れ、女優になって成功。その後、ロベルトと再会するが、ロベルトはガビーの妹と結婚していた。

 男に愛され、そのために不幸になって、いつまでも精神的に満たされないガビー。見ていて辛いが、名誉と富を得ても愛の渇望に苦しむ様子がリアルに描かれており、よくできた映画だといえるだろう。ただ、今となってはありふれていると感じてしまう。

 

「スペイン広場の娘たち」 1952年 ルチアーノ・エンメル監督

 昼になるとローマのスペイン広場に集まる仲良しの美しい三人娘(ルチア・ボゼー、コゼッタ・グレコ、リリアナ・ボンファッティ)の恋模様をコメディタッチで描いている。ローマの庶民の生活の状況を含めてとても興味深く見ることができる。近所の人たちとわいわいがやがやと騒ぎ、自分の感情を表に出しながらも他人を思って生きているローマっ子たち。三人はそれぞれに恋をし、失恋したり、修復したり。リアリティがあり、共感してみることができる。

 最後の方に気のいいタクシー運転手の役で若きマルチェッロ・マストロヤンニが登場。三人の一人と恋に陥る。いやあ、このころからマストロヤンニにはオーラがある!

 それにしても三人ともとても美しい! ボゼーはとびっきり魅力的。いや、それだけでなく、その恋敵役をする女性もものすごい美人だと思う。今の私から見ると、その母親の世代の人たちも美しい。

 ただ、スペイン広場で見かけて三人と親しくしている大学教授の語りで物語が展開するが、この人が知るはずもない内容なので、その点、現代のナレーションの常識からすると、少し違和感を覚える。

 

「田舎女」 1953年 マリオ・ソルダーティ監督

 モラヴィア原作。大学教授夫人ジェンマ(ジーナ・ロロブリジーダ)が自宅で食事中、客の女性をナイフで刺そうとして錯乱するところから映画が始まる。呼ばれた医師パオロ、母親、夫の大学教授、ジェンマ本人の回想によって映画が進んでいく。最初に恋したパオロは実は腹違いの兄だった。自暴自棄になって教授と結婚するが、田舎暮らしに退屈し、ある女性人と知り合いになって、うまく丸め込まれて売春まがいのことをさせられそうになる。そこでその女性を刺したのだった。ジェンマは夫にそのことを告白し、許しを得る。

 ちょっとできすぎの感がある(モラヴィアの小説の多くにそのような傾向があると思う)が、リアルな映像、俳優たちの見事な演技によって、とても良い映画になっている。

 私は映画を見始めたころからジーナ・ロロブリジーダのファン(知ったときには、すでにかなりの年齢だったが!)。本当に魅力的だと思う。

 

「タッカ・デル・ルーポの山賊」 1952年 ピエトロ・ジェルミ監督

 19世紀後半、ガリバルディによるイタリア統一後、国民の生活は必ずしも好転したわけではなかった。南イタリアの貧しい人たちの一部は山賊となってブルボン朝の残党と結びついて新政府を攻撃していた。そのような時代に、新政府の兵士たちが国民の無理解に直面しながら山賊を鎮圧する姿を描いている。社会矛盾を諸見の側から描く映画の多いジェルミ監督としては珍しいのではないかと思うが、兵を率いる厳しい大尉(アメデオ・ナザーリ)が主人公として描かれる。

 イタリア史に関心を持っている人には面白いかもしれないが、そうでない現代の日本人にはあまり面白さがわからない作品だといって間違いなさそうだ。

 

「道化師の晩餐」 1942年 アレッサンドロ・ブラゼッティ監督

 15世紀のフィレンツェ。義理の兄たちにいじめられ、恋人を奪われ、辱めを受けた男が復讐をして、兄たちを滅ぼす物語。1942年には目新しかったのかもしれないが、今から見ると、どうということのない物語。復讐の方法も現在から考えるとリアリティを感じない。まったく感銘を受けなかった。

 

「修道院のガリバルディ部隊兵」 1942年 ヴィットリオ・デ・シーカ

 さすが、デ・シーカの映画というべきか、これはおもしろい! 娯楽作品としての常套手段をうまく取り入れ、センス良く話を進める。ユーモアあり、ほろりとさせるところあり、サスペンスありで飽きさせない。

 二人の孫を連れて、老婦人カテリネッタが侯爵夫人マリエッラの館を訪れ、昔話を始める。若かったころ、台頭するブルジョワ家庭に生まれたカテリネッタと没落貴族の家に生まれたマリエッラは、隣同士でありながらも家庭が敵対していたので、初めはぎくしゃくするが、同じ女子修道院の寄宿舎に入り、仲良くなる。そこにガリバルディ部隊の将校が負傷して修道院に逃げ込み、二人で助けようとする。ところが、実は、その将校はマリエッラの恋人だった。

 ガリバルディの独立戦争の時代背景に女性二人の友情をうまく描いている。ブルボン側からガリバルディ側に移ろうとする市民の状況もよくわかる。高貴なマリエッラと、活発で自然児のカテリネッタの対比もとてもおもしろい。ガリバルディ軍の隊長役にデ・シーカ本人が登場。それだけで画面がしまる。

 

「十字架の男」 1943年 ロベルト・ロッセリーニ監督

 ロッセリーニの戦争三部作の一つ。イタリア軍のソ連戦線。ウクライナが舞台だろう。イタリア軍に加わる従軍司祭の活動を描く。負傷した兵士とともに戦場になる村に残り、砲撃を受けながら現地の農民と合流し、ソ連軍の兵士に対しても分け隔てなく接する。そして、最後、個人的感情から仲間を撃ったソ連兵を助けようとして自分の命もなくす。

 1943年というから、まだ戦争中。しかも、イタリア軍はファシスト政権下にある。そのさなかにこれほど迫真力のある戦争場面を作り上げたこと自体に驚く。しかも、そこで人道主義を訴える。さすがロッセリーニ!

 恋人を殺されたソ連軍の女性兵士が自分の過去を話して従軍司祭がそれを慰める場面。ソ連兵がイタリア語で話をしていることに違和感を覚えるし、突然、改心したように共産党を批判的な立場から自分の人生を語り始める女性の態度も説得力不足だが、そこで語られる司祭の「神は見捨てない。イエスはすべての死者が生きるために死んだ」という慰めの言葉はなかなかに説得力がある。これが当時のカトリックの従軍司祭の理念だったのだろう。

 

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