書籍・雑誌

「寒い国のラーゲリで父は死んだ」感想

 基本的に、私はこのブログには書物についての感想は書かないことにしている。今では私はかつてほどの読書家ではないが、小論文指導に必要な書物は日常的に目を通すし、文学作品やミステリーも読む。月に10冊以上はコンスタントに読んでいるだろう。しかし、私の場合、読書体験は企業秘密に属するので、ここには書かない。

 が、山本顕一(ここではあえて呼び捨てにさせていただく)の「寒い国のラーゲリで父は死んだ」(バジリコ 12月22日発売)については、ひとこと語りたくなった。

 この著者は私の大学院時代の恩師のひとりであり、実話に基づく映画「ラーゲリより愛を込めて」の主人公・山本幡男のご長男でもある。映画の中でも、何度か、顕一は登場する。その著者が、父・幡男のこと、ご自身のこと、ご自身と父親との関係について赤裸々に語ったものだ。

 全体を貫くテーマは父・幡男との相克だ。戦争にとられる前、幡男は家庭では陰気で強権的であって、顕一はそんな父を嫌悪していた。ところが、父は捕虜となり、シベリアに抑留され、過酷な状況の中、高潔なリーダーとして活躍し、偉大な足跡を残し、悲劇的な死を迎える。そして、あまりに劇的で、あまりに説得力のある、そして家族への愛にあふれた遺書が家族のもとに届けられる。遺書によって道義を尽くして立派に生きるように強いられた著者は反発しつつ、それに沿おうとするが、プレッシャーを感じ、しかも父親へのわだかまりを捨てられない。そして、人生に挫折し、苦しむ中で、父の偉大さを再認識し、素直に尊敬できるようになる。

 山本先生をよく存じ上げているためかもしれないが、私はハラハラしながら、そして共感しながら、ちょっとだけ読むつもりだったのが、やめられなくなって、最後まで一気に読んだ。幡男という人物についても、映画「ラーゲリより愛を込めて」やその原作となった辺見じゅんのノンフィクション「ラーゲリ 収容所から来た遺書」に描かれていない部分を含めて知ることができた。

 私が最も感銘を受けたのは、この山本家の人々の言葉への信頼ということだった。

 幡男はロシア語が達者で通訳をしながら、シベリア抑留の中でアムール句会を主宰して、優れた俳句を自ら作り、仲間たちに句作を促す。故国から遠くに離れても日本語を忘れず、そこに誇りを持つためだっただろう。第13章に紹介される幡男の句は、私のような素人にも、その研ぎ澄まされた感覚によって深い思いを描く名句であることがわかる。顕一の母親(つまり、映画では北川景子が演じる幡男の妻)のモジミという珍しい名前は、その父親が「文字美」を意識してつけたという。顕一はフランス語、フランス文学という言語の専門家であり、この著書からわかる通り見事な名文家だ。そして、本書の中でひときわ文学的な色彩を持つ第11章に語られる弟さんは経済学者で、不遇の中で見事な言葉をつぐんでいたことを著者は死後に発見する。

 そもそも私は辺見じゅんの「ラーゲリ 収容所から来た遺書」は、ドーデの「最後の授業」(母語の大切さを訴えた短編として以前から取り上げられてきたが、近年、知られるようになった通り、これには、そう単純には解釈できない様々な問題がある)以上に、母語の大切さを語る名作だと思う。幡男はロシア語の達人でありながら、日本語を大事にしてシベリアの過酷な状況の中、句会を主宰し、句を詠む。それに感化された仲間たちが、幡男の紡ぐ見事な言葉から成る遺書を暗唱して遺族に伝える。言葉を大事にし、言葉の中で生きた幡男の人生を描き出している。(映画「ラーゲリより愛を込めて」の中で、言葉に対する愛という、原作の最大のテーマと思われるものがカットされていたのは、まことに残念だと私は思う)。

 そして、本書「寒い国のラーゲリで父は死んだ」は、幡男の遺書を受け取った顕一が、その一つ一つの言葉を吟味し、それを言葉として乗り越えていく物語だ。第7章に書かれる渡辺一夫の思い出も、この日本を代表する知識人の言葉に惹かれる著者の思いにほかならない。顕一はきっと渡辺一夫の中にもう一人の父親を見出したのだろう。そして、父親に対してと同じように、渡辺一夫の言葉に対して葛藤する。

 同じ構図は、先ほど触れた第11章、「弟の屁」にも表れる。これは一つの文学作品として素晴らしい。優秀でありながら、「屁」の持病のために実力を発揮できない、社会的活動ができない苦しみ、その中での葛藤が、兄の目から、愛情を込めたクールさで描かれる。それを語る言葉に中身が詰まっている。

 考えてみれば、弟さんは、顕一以上のプレッシャーの中に生きたのだろう。偉大な父親、そして優秀な兄。弟さんの心の中では、顕一が、顕一における父と同じ役割を果たしている。しかも、その二重のプレッシャーの中で、まるで父・幡男と同じように、言葉を紡ぎながらも、悲劇的な癌による死を迎える。このような父の遺書の成就の仕方に著者はある種の羨望を抱いているかのようだ。

 山本先生は、偉大な父親の遺書のプレッシャーの中で生き、ご自分は父親に託されたことを何一つ成し遂げていないという思いを抱いているとおっしゃっている。東京大学で学び、大学教授として多くの学生を教えたこと、まさにフランス語という言葉を教え、言葉を大事にする平和な世界の大事さを教えたことそれ自体で十分すぎるほどに遺書に書かれたことは達成していると、私は思うのだが、ご本人はそうは思えないらしい。

 しかし、そうした心の迷い、父との相克をここに描いたことは、間違いなく父親の意志を最終的に立派に達成されたということだと思う。ここに書かれるのは、前世代から宿題を課されて、その中で悪戦苦闘した人々のかなり普遍的な葛藤を見事な言葉で描きつくしているのだから。

 単に、今、話題になっている映画「ラーゲリより愛を込めて」のスピンオフ的な書物としてではなく、一つの著作として、「寒い国のラーゲリで父は死んだ」は見事な作品だと思う。映画に惹かれた人も(そして、もしかしたら、それに物足りなく思った人も)、原作の「ラーゲリ 収容所から来た遺書」とともに、この「寒い国のラーゲリで父は死んだ」を読んでほしいと思う。

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「彼は早稲田で死んだ」感想

 樋田毅著「彼は早稲田で死んだ」(文藝春秋社)を読んだ。1972年、早稲田大学構内で、中核派スパイの疑いをかけられた川口大三郎君が革マル派(革命的マルクス主義派)によって虐殺された。その後の革マル派追求運動の中心人物になった樋田氏(のちに朝日新聞記者として活躍)が、そのリンチ殺人事件の状況をまとめたものだ。

 次に読むべき本として手元に置きながら、事件当時、かなり近くにいた人間として、読むのが怖くてなかなか手に取らずにいたが、やっと読み上げた。本ブログにしばしばコメントを寄せてくださるENOさんがご自身のブログでこの本を扱っているのを読んで、私も何も言わないわけにはいかないと思った。

 あれから50年近くたつが、当時のことはよく覚えている。覚えているどころではない。後で知ったが、川口君が虐殺された時間に、私はその場所から数十メートルのところでうろうろしていた。この本の著者の樋田さんのこともよく覚えているし、そのほか、この本に登場する革マル派の人物たちの何人かも個人的によく知っている。

 私は1970年に早稲田大学第一文学部に入学した。入学してすぐ、「現代文学研究会」というサークルに入った。ところが、そのサークルは革マル派に所属していた。何も知らないまま革マル派の末端の予備生として組み込まれていた。

 サルトルやカミュやドストエフスキーなどの文学について語りたいと思ってそのサークルに入ったのだったが、私は、大分上野丘高校という軍国主義的と言えるような反動的な田舎の進学校で反体制的な運動を行い、マルクス主義にも関心を持っていたので、革マルの働きかけに特に違和感は覚えなかった。革マルの主張する通り、私もベトナム戦争に反対だったし、安保条約に反対だった。戦前の価値観が残り、個人の自由を抑圧する資本主義社会をぶち壊したいと思っていた。

 1、2か月だったが、革マル派の人たちと親しくした。革マル派の主催するデモにも参加した。この本の中に登場する革マルの幹部たちと個人的に知り合い、その考え方も知った。何人かのメンバーの実家やごきょうだいのお宅を訪れてごちそうになったこともあった。

 だが、すぐに疑問を持ち始めた。この本の中にあるように、まさに第一文学部は暴力支配されていた。革マル派がすべてを牛耳り、学生自治と称して大学が学生から徴収した会費を自分たちのものにし、民青(日本共産党系の組織)やほかのセクトを排除していた。特に、中核派を目の敵にして、構内で暴力行為が行われていた。教師陣も革マルから攻撃されるのが怖くて、意見を言えない状態だった。革マル派がストライキを呼びかけて授業がなくなったり、試験がなくなったりといったことは日常的だった。

 そしてそのころから、私はマルクス主義にも疑問を持ち始めた。革マル派の人々に勧められて、彼らの教祖である黒田寛一氏の本やマルクスの本を読んだが、納得できないことが多かった。私はもともとクラシック音楽好き、ニーチェ好きの人間であり、しかも高校のころからマルクス主義よりもアナーキズムのほうに共感していた。マルクスは偉大な思想家ではあるが、根本的に間違っている、少なくとも私の好む思想ではないと思うようになっていた。そして、目の前で起こっている排他的で暴力的な状況は、マルクス主義が本来持っている資質であると思うようになった。革マル派は反スターリニズムを掲げていたが、これぞまさにスターリニズムだと思った。

 革マル派から抜けるのには苦労した。集会に出席せずにいると、大学構内に入ったとたんに、革マルのメンバーに取り巻かれ、「なぜ来なかった? 議論しよう」と声をかけられ、なかなか解放してもらえなかった。当時、寮に住んでいたが、そこにもしばしば革マル派の人から電話がかかってきた。1年生の秋くらいになってやっと、声をかけられなくなった。

 入学時、私と同じように現代文学研究会に入った新入生がほかに3人いた。彼らもきっと私と同じような目に合っていたのだろう。一人を除いて、革マル派から完全に離れたようだった。

 そして、1972年秋。中核派のスパイだと疑われた川口君が大学内で虐殺された。何とも痛ましく悲しい出来事だった。私にとって衝撃だったのは、手を下した直接の加害者の一人が、現代文学研究会に私と同時に入ったメンバーだったことだった。もし私が革マルから抜けなければ、同じようなことをしていたのかもしれないと思った。あるいは逆に、一つ間違えば、川口君と同じような目に合っていたかもしれないと思った。加害者、被害者ともに他人ごととは思えなかった。同時に、加害者側の人たちも決して個人的には悪い人たちではないことも知っていた。それもまた衝撃だった。

 虐殺が明らかになり、早稲田大学内で革マル追い落としの運動が起こったとき、私も積極的に集会に参加した。樋田氏が中心になっている運動に加わった。革マル派の横暴を絶対に許してはならないと思った。個々人は悪い人たちではないが、だからと言って許されることではないと思った。

 この「彼は早稲田で死んだ」はその時の経緯が詳細に、リアルに描かれている。当時のことがよみがえる。まだ十分に総括できていない自分の過去に対峙させられる。

 私はこの事件を何一つ総括できていない。

 だが、その後の私の人生に、この事件が大きな影を落としていることを改めて感じた。私はその後、アナキストのグループに接近して行動を共にしたが、徐々に政治にウンザリして、観念的アナキストになっていった。そこにはこの事件の影響があっただろう。

 今でもしばしば考える。大学はどうあるべきか。学生自治会を認めるべきか。政治に暴力が認められるのか。暴力革命を認めるべきなのか。善良な個人が集団になるとなぜ暴力に歯止めが利かなくなるのか。マルクス主義をどう評価するべきか。そんな問題を考えるとき、原点にこの事件がある。原点を1972年に与えられながら、70歳を超えた今もまったく解決できていないことにも気づいた。

 本書に大岩圭之助=辻信一さんの話題が出てくる。1972年当時革マルの幹部のなかでもとりわけ暴力的なメンバーだった大岩さん(たぶん、当時は私もこの方を知っていたと思うが、今となっては覚えがない)がのちに大学教授となり、辻信一という名前で非暴力、弱者優先、スローライフの本を出しているという。私は辻信一のスローライフの本を読んで感銘を受けた記憶がある。樋田氏は一定の理解を示しながらも、明確な自己否定をしないままうやむやのうちに宗旨替えをした大岩氏を批判的に描いている。

 私は革マルのメンバーだったわけではなく、もちろん暴力肯定論者でもなく、そもそも暴力的な人間でもないが、私もこの大岩=辻さんのようなものだと思った。当時の出来事をきちんと総括しないまま現在に至っている。当時起こったことをきちんと解明しないまま、愚かな歴史としてみないふりをしている。やはりこれは批判されてしかるべきことだと思う。

 もちろん、それは私一人ではなく、かなり多くの私と同世代の人にも当てはまることだとも思う。だが、一人一人が学生運動の時代を忘れ去って現在をのほほんと生きている自分を振り返るべきだと思う。50年前の出来事をまとめた本書が私に教えてくれたのは、このことだった。

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2冊の本「≪ニーベルングの指環≫教養講座」(山崎太郎)と「ひとりヴァイオリンをめぐるフーガ」(パパヴラミ)、そして拙著のこと

 久しぶりに原稿の締め切りに追われていない。お盆の間、本を読んだり、映画のDVDを見たりして過ごした。

 私は読んだ本についての感想は基本的にはこのブログに書かないことにしている。時間が取れなくて、実はたいして読んでいないという事情もあるし、私も本を書くのが商売なので、手の内を明かしたくないという事情もある。が、この数日に読んだ2冊の音楽関係の本については、この原則を破ってもいいだろうと思った。簡単に感想を書く。

 

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山崎太郎「≪ニーベルングの指環」教養講座」

 ワーグナー研究家の山崎氏による入門書だが、入門書のふりをしつつ、きわめて専門的なことまで踏み込んだ名著だと思う。

私は高校生のころからワーグナーの「指環」に親しんできたが、レコードを聴いたり映像を見たり、実演を見たりしてして、疑問に思うことがいくつもあった。「え、なぜ突然、こんなセリフが出てくる?」「え、この登場人物はなぜそんなことを知ってるんだ? 一体いつ知る時間があったんだ?」「つまり、このセリフはどういうこと?」「え? このセリフ、前の部分と矛盾するんじゃないの?」「おいおい、この登場人物、今一体何歳なんだ?」「前の場面から一体、何年たっているんだ? 計算が合わないではないか」「きっと、ワーグナーが台本を書くときに、つい勘違いしてこんなことを書いてしまったんだろう」などなど。

山崎は愚直なまでに台本をそのままに受け取って、そこに整合性を見出し、そこに込められた意味を解き明かしていく。その手際が見事。生真面目な研究書でも、教科書的な入門書でもなく、知的冒険に満ちた独自の解説書。しかも、あれこれの文章作成上の仕掛けがある。読み始めると、おもしろくてやめられなくなる。目を見開かれた指摘がいくつもあった。バルザックやドストエフスキーとの関係の指摘にも深く納得した。

これから先、ワーグナーに触れるたびにこの本を読み返すことになりそうだ。

 

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テディ・パパヴラミ(山内由紀子訳) 「ひとりヴァイオリンをめぐるフーガ」 

 パパヴラミは私の大好きなヴァイオリニストの一人だ。2011年のナントのラ・フォル・ジュルネで初めて接し、様々な感情の入り混じった独特の音色と情熱的でありながらもきわめて知的な弾きっぷりに圧倒された。2011年と今年(2017年)のラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポンでも来日している。そのパパヴラミが自伝を出していると聞いて読んでみた。この本のタイトルを音楽愛好者向けにいいかえれば、「独奏ヴァイオリンのためのフーガ」ということになる。

 単にヴァイオリニストの自伝というレベルを超えておもしろい。1971年に生まれ、鎖国時代のアルバニアで少年時代を過ごし、神童として知られるようになり、12歳の時、奨学金を得てフランスに留学する。しかし、実はパパヴラミの家系は独裁者ホッジャに批判的だった。パパヴラミ自身もすでにアルバニア社会に息苦しさを覚え、アルバニアに帰国したら芸術家としての将来がないことに気付いていた。両親とともにフランスに出てこられたときに亡命を決行する。が、そのため、祖父母は強制収容されてしまう。その後、ホッジャは死亡、東欧の社会主義体制が崩壊し、パパヴラミも故国を訪れられるようになる。

 パパヴラミはアルバニアの作家イスマイル・カダレの作品を何冊もフランス語に訳しているという。文学に大きな関心と才能を持っているようだ。子ども時代の心理や体験が実に初々しく語られる。また、隔離された国家で英才教育を受け、フランスに留学して戸惑う様子、徐々に社会主義の中でも特殊な当時のアルバニアの息苦しさに気付いていく様子も実にリアル。文学作品としてもとても優れていると思う。

 何とパパヴラミがジャンヌ・モローの推薦によって映画「危険な関係」に出演して、カトリーヌ・ドヌーヴと共演したという記述がこの本の中にあった。言われてみれば、確かに、パパヴラミは引き締まった体型のなかなかの好男子。さっそくDVDを注文した。

 

 そして、私の新刊の参考書を二冊紹介させていただく。

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 ひとつは、「小論文これだけ! 今さら聞けないウルトラ超基礎」。小論文をまったく書いたことがない、それどころか、子どものころから作文を書くのも大の苦手だったという高校生向けに、一つの文を正しく書く方法など、基礎の基礎から手取り足取り解説している。

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 もうひとつは、「
AO・推薦入試をひとつひとつわかりやすく」(共著)。AO・推薦の志望理由書の書き方、面接の受け方、小論文の書き方を解説(私は小論文を担当)。

 ともに、小論文をこれから始める人にぜひ読んでいただいたい参考書だ。

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ウエルベックの小説「服従」

 最近の私はかつてほどの大の読書家ではないが、もちろん仕事柄かなりの本を読む。ただ、書物はまさしく仕事そのものなので、それらについて書くと、手の内を明かすことになってしまって仕事に差し支えが出そう。そんなわけで、このブログを始めた時から、準備中の原稿の内容とともに、読んだ本の感想は書かないことを原則にしている。

 が、話題のミシェル・ウエルベックの小説「服従」(河出書房新社 大塚桃訳)を読んだので、少しだけ感想を書く。ウエルベックの小説は、以前、衝撃的という評判の「素粒子」を読んだだけだった。ぐいぐい引きこまれて読むというわけではなかったが、着想に驚嘆し、作者の思索の深さを感じた。今回、フランスのテロとの関係で「服従」が話題になっているので、先に「プラットフォーム」も読んでみたが、同じ印象。そして「服従」。

 ごく簡単にストーリーをまとめると、2022年、フランス社会がイスラム化し、選挙によってイスラム党が政権を握ったため、もっとも非イスラムと思われる19世紀の作家ユイスマンス(退廃的な人工楽園を描いていたが、晩年、宗教に目覚めてカトリックに帰依した)を研究していた優秀な大学教授も、だんだんと自ら社会に服従するようになり、「服従」を美徳とするイスラム教に改宗する・・・ということになるだろう。

 ニュースなどで取り上げられていたので、政治抗争をリアルに取り上げ、イスラム教の浸透の危険性を警告する小説かと思っていたら、むしろこれまでのウエルベックの小説と同じように一人の男の精神生活を描きつつ、人間のあり方、生きることの究極の意味について、ドストエフスキー的といってよいほどに掘り下げた小説といえそうだ。キリスト教や服従についての語り手とルディジェとの会話などは「悪霊」などの主人公たちの議論を思わせる。

そして、厄介なことに、ウエルベックのほかの小説と同じように「異化効果」が用いられている。作者は読者が語り手に同化するのではなく、語り手の行動に違和感を持ち批判を感じるように仕組む。読者は語り手に共感と批判を同時に持たなければならない。しかし、読み進むうち、どれがウエルベックの本音なのか、イスラムへの語り手の考えはどこまでウエルベック自身のものなのかわからなくなる。

ウエルベックの考えを読み解くための手がかりになりそうなのが、語り手のユイスマンスへの解釈なのだが、私はユイスマンスの小説のよい読者ではない。きちんと読んだのは「さかしま」だけで、ほかは必要があって飛ばし読みした程度。「服従」の中の語り手のユイスマンスへの言及には、私にはついていけないところ、判断に迷うところが多々あった。

少しユイスマンスの小説を読んでみて、「服従」を再読する必要があると思った。

いずれにしても、ウエルベックは政治状況、精神状況をからめたうえで、これまでの「個」を中心とする西洋的な価値観の崩壊について語っている。ヨーロッパの人間のみならず、世界の人間と考えなければならない問題だろう。

それにしても、最初からイスラム党が政権を握って強圧的な政策を進めていくという展開ではなく、国民の多くが反動勢力である国民戦線を警戒するからこそイスラム党が政権を握り、しかも、その指導者は温厚で知的であって国民の信頼を得ている・・・という近未来的な政治状況が実に恐ろしい。おそらくそうはならない(フランスではイスラムへの抵抗が強い)と思うが、なるほどこのような状況だったら十分にあり得るだろう・・・と思ってしまう。

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拙著「読んだつもりで終わらせない名著の読書術」刊行

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 10日ほど前、拙著「読んだつもりで終わらせない名著の読書術」(KADOKAWA)が発売になった(その後、様々な家庭の事情などもあって、このブログに報告するのが遅れた)。

 名著、とりわけ文学作品を読みたいと思いながらなかなか手に取れずにいる人に向けて、古典作品の読み方を紹介して、もっと古典に親しんでいただくように勧める本だ。

 本書の第一部では、どのように名著に向かえばよいのか、どのように味わえばよいのかを文学の初心者向けに説明している。

 もちろん、名著の正しい読み方などない。人それぞれの読み方、味わい方がある。いいかえれば、それぞれの人が自分の思いを仮託しながら読むことのできる書物こそが名著だといえるだろう。だからから必然的にすぐれた文学作品はわかりにくい。様々な解釈が可能であるがゆえに、エンターテインメントのようにわかりやすく書かれていない。そのために、多くの人が古典の名著に少し触れて、「わからない」「つまらない」と思ってしまう。そうした状況を少しでも変えたいと思って、この本を企画したのだった。

 まずは、様々な読みがあるのだから正解探しをするべきではないこと、しかし、そうはいっても文学作品を読む場合には目の付け所があること、そして何よりも、繰り返し読み返したりすることによってだんだんと理解が深まってくることを実例を挙げながら紹介している。

 第二部では、第一部で紹介した方法を取りながら、具体的に太宰治「人間失格」、夏目漱石「こころ」、カフカ「変身」、ドストエフスキー「罪と罰」、パスカル「パンセ」を題材に私なりの読み方、私なりの解釈を紹介している。

ここに取り上げたのは、日本文学とドイツ文学、ロシア文学、そしてフランス思想関係の書物だ。私のもともとの専門は20世紀フランス小説と、現代アフリカ小説なので、本書で取り上げたのはいずれも専門外のものばかり。専門家ではない私が自分なりの読みを紹介するのは少々おこがましくはないかという思いもあったが、専門家ではないがゆえに自由な読みができるのではないかと考えて、あえて以前から親しんできたこれらの作品を選んだのだった。専門家ではないがゆえの弱点もあるかと思うが、逆に強みもあると信じたい。

多くの人に本書を読んでいただけるとうれしい。そして、私の読みを参考にして、自分なりにもっと深い読みを見つけ出していただきたい。

 少し私の近況を記す。

 今年は、6月に義父、10月に実父、12月に我が家の飼い犬が亡くなった。そして、12月18日には、大分県杵築市で暮らしていた叔母が89歳で息を引き取ったとの知らせが入った。幼かったころ、しばらくの間同じ家で暮らした叔母だった。急な葬儀が大学のAO入試と重なったので私は出席できなかった。合掌。

 大学の授業が終わり、あれこれの雑用が終わって、やっと一昨日から新しい本の原稿の執筆を再開。8月に両親の状況の悪化のためにそれまでの施設にいられなくなってから執筆はまったく捗らなくなり、10月に父が亡くなってからはぴたりと止まっていた。私には兄弟がいないので、ふだんはかなり気楽に生きていけるのだが、親の面倒、親の死、その後の様々な儀式や手続きとなると、すべて私と妻にかかってきて、どうにも動きが取れない。締め切りを過ぎた原稿。事情が事情だけに編集者も理解してくれてはいるが、責任を感じる。正月明けまでには何とか完成させないと!

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拙著3冊の紹介

 何冊か、私の著書が刊行された。いくつか紹介したい。

 

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「教養」を最強の武器にする読書術 (大和書房)

 教養が見直されてきている。私も大学で教えながらつくづく思うのは、若者の教養不足だ。教養がないと、広い思考ができない。どうしても浅くて狭いものになってしまう。

私は若いうちは、受験勉強もろくにせず、就職もしないで、音楽に夢中になり、本ばかり読んでいた。中年以降は若者の教養を付けるための教育関係の仕事をしてきた。つまり、私は教養だけには自信がある。この本はそんな私が教養のためにどのような本を読むべきかを説明したものだ。前半にはノンフィクション、後半には文学作品をまとめ、その読み方などについて解説した。

 

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バカ上司を使いこなす技術 (中経の文庫)

 先ごろ、「バカ部下を使いこなす技術」(中経の文庫)を出し、大変好評だったが、本書はその続編だ。前著は、「性愚説」にもとづいて、部下というものは本来バカであることを前提にして、どのようにしてバカな部下に上司の意図をわからせるべきか、どうすれば部下を動かせるのかを皮肉な視点から解説したものだった。本書もまた、上司というものは本来的にバカでしかあり得ないということを前提にして、上司に対してどのように話をし、どのように対応して、上司をうまく操縦するかについて解説した。にんまりしながら読めて、きちんと役に立つことを目指している。

 

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わかりやすい文章を書く技術 (フォレスト出版)

 本書は以前ビジネス社から出されていた「できる人の書き方、嫌われる人の悪文」に加筆をしたものだ。わかりやすい文章にするにはどこに気をつけるか、どう構成し、どう説得力を持たせ、どのように面白くするかについて解説している。文章を書くことに苦手意識を持つビジネスマンのための文章入門書だ。

 

 

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二人の大先輩の著作 「翔べよ源内」と「悔しかったら、歳を取れ」

 二人の大先輩の著作を立て続けに読んだので、感想を書かせていただく。

519dbvcmdcl__sl500_aa300_  一つは小中陽太郎先生の「翔べよ源内」(平原社)。小中先生とは、このところ、親しくさせていただいている。小中先生の話術とエッセイの語り口の面白さについて常々感服していたが、本書はそれが一層際立っている。

 平賀源内を扱った小説だが、自由で楽しくてハチャメチャな源内の生き方を、まさしく源内にピッタリの自由な語り口で書きつづっている。遊びが多く、脱線が多い。下ネタもあちこちに出てくる。まさしく融通無碍の文体。

従来の小説で多用される描写が極めて少ない。自然や人物、状況について、必要不可欠な情報だけしか与えられない。にもかかわらず、いや、むしろそうだからこそ、登場人物は自由に飛翔する。時代小説愛好者は、時代特有のにおいがないと言うかもしれない。が、それこそが源内の在り方であり、小中先生の生き方でもあるのだろう。良い意味で、実に軽やか。司馬遼太郎に近い歴史的アプローチだが、読後感は全く異なり、もっとずっと自由ですがすがしい。

小中先生は、まさしく現代の平賀源内とでも呼ぶべき存在だと、改めて思った。

 

41ty9guypyl__sl500_aa300_  もう一冊は、野田一夫先生の「悔しかったら歳を取れ! わが反骨人生」(幻冬舎 ゲーテビジネス新書)。野田先生は、私の勤める多摩大学の初代学長であり、現在の寺島学長が就任する前の学長代行だった。「和をもって貴しとなす」という言葉を何より嫌い、反骨を貫いた半生を描いている。

 野田先生は現在85歳。先月だったか、久しぶりに先生にお会いしたが、80歳代とは思えない。お世辞でも何でもなく、60歳以下に見える。背筋をぴんと伸ばし、元気な声で話をされ、速足で歩く。話の内容も、大学生などよりもずっと若々しい。私はこれまでの人生で、野田先生ほど若々しかったことは、20代のころを含めて一度もないだろう。

 本の中身は、私は既に聞いたことのある話が中心だったが、改めて野田先生のスケールの大きさに感服。私が気に入っているのは、足の悪い学生のエピソードだ。

 ある時、教室に遅刻して足を引きずる学生が入ってきた。野田先生は「何だ、その歩き方は」と怒鳴った。野田先生はこのようにしてしょっちゅう怒鳴る。ところが、その学生は生まれつき足が悪かった。学生がそのことを伝えると、先生はこういったという。「ああ足か。足でよかったな。世の中には頭の悪い奴がいっぱいいるが、見えんから、本人も気がつかん。足なんか気にするな。むしろ、頭の悪い奴のことを同情してやれ」

 これぞ野田流。頑固一徹。頭の回転が速く、当意即妙に警句を吐く。必ずしもだれもが賛同する価値観ではない。反発を覚える人もいるだろう。だが、そこには深い人間観察と温かい人間愛が含まれている。だから、話が面白い。このレベルの警句は、野田先生と話していると、5分に一つくらいは出てくる。この本の中にも、このようなエピソードが現れる。

 この本はとてもおもしろい。しかし、正直言うと、野田先生と話をしていると、もっともっとおもしろい話がたくさん出てくる。野田先生にはこれからももっとたくさんの本を出してほしいものだ。

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