「彼は早稲田で死んだ」感想
樋田毅著「彼は早稲田で死んだ」(文藝春秋社)を読んだ。1972年、早稲田大学構内で、中核派スパイの疑いをかけられた川口大三郎君が革マル派(革命的マルクス主義派)によって虐殺された。その後の革マル派追求運動の中心人物になった樋田氏(のちに朝日新聞記者として活躍)が、そのリンチ殺人事件の状況をまとめたものだ。
次に読むべき本として手元に置きながら、事件当時、かなり近くにいた人間として、読むのが怖くてなかなか手に取らずにいたが、やっと読み上げた。本ブログにしばしばコメントを寄せてくださるENOさんがご自身のブログでこの本を扱っているのを読んで、私も何も言わないわけにはいかないと思った。
あれから50年近くたつが、当時のことはよく覚えている。覚えているどころではない。後で知ったが、川口君が虐殺された時間に、私はその場所から数十メートルのところでうろうろしていた。この本の著者の樋田さんのこともよく覚えているし、そのほか、この本に登場する革マル派の人物たちの何人かも個人的によく知っている。
私は1970年に早稲田大学第一文学部に入学した。入学してすぐ、「現代文学研究会」というサークルに入った。ところが、そのサークルは革マル派に所属していた。何も知らないまま革マル派の末端の予備生として組み込まれていた。
サルトルやカミュやドストエフスキーなどの文学について語りたいと思ってそのサークルに入ったのだったが、私は、大分上野丘高校という軍国主義的と言えるような反動的な田舎の進学校で反体制的な運動を行い、マルクス主義にも関心を持っていたので、革マルの働きかけに特に違和感は覚えなかった。革マルの主張する通り、私もベトナム戦争に反対だったし、安保条約に反対だった。戦前の価値観が残り、個人の自由を抑圧する資本主義社会をぶち壊したいと思っていた。
1、2か月だったが、革マル派の人たちと親しくした。革マル派の主催するデモにも参加した。この本の中に登場する革マルの幹部たちと個人的に知り合い、その考え方も知った。何人かのメンバーの実家やごきょうだいのお宅を訪れてごちそうになったこともあった。
だが、すぐに疑問を持ち始めた。この本の中にあるように、まさに第一文学部は暴力支配されていた。革マル派がすべてを牛耳り、学生自治と称して大学が学生から徴収した会費を自分たちのものにし、民青(日本共産党系の組織)やほかのセクトを排除していた。特に、中核派を目の敵にして、構内で暴力行為が行われていた。教師陣も革マルから攻撃されるのが怖くて、意見を言えない状態だった。革マル派がストライキを呼びかけて授業がなくなったり、試験がなくなったりといったことは日常的だった。
そしてそのころから、私はマルクス主義にも疑問を持ち始めた。革マル派の人々に勧められて、彼らの教祖である黒田寛一氏の本やマルクスの本を読んだが、納得できないことが多かった。私はもともとクラシック音楽好き、ニーチェ好きの人間であり、しかも高校のころからマルクス主義よりもアナーキズムのほうに共感していた。マルクスは偉大な思想家ではあるが、根本的に間違っている、少なくとも私の好む思想ではないと思うようになっていた。そして、目の前で起こっている排他的で暴力的な状況は、マルクス主義が本来持っている資質であると思うようになった。革マル派は反スターリニズムを掲げていたが、これぞまさにスターリニズムだと思った。
革マル派から抜けるのには苦労した。集会に出席せずにいると、大学構内に入ったとたんに、革マルのメンバーに取り巻かれ、「なぜ来なかった? 議論しよう」と声をかけられ、なかなか解放してもらえなかった。当時、寮に住んでいたが、そこにもしばしば革マル派の人から電話がかかってきた。1年生の秋くらいになってやっと、声をかけられなくなった。
入学時、私と同じように現代文学研究会に入った新入生がほかに3人いた。彼らもきっと私と同じような目に合っていたのだろう。一人を除いて、革マル派から完全に離れたようだった。
そして、1972年秋。中核派のスパイだと疑われた川口君が大学内で虐殺された。何とも痛ましく悲しい出来事だった。私にとって衝撃だったのは、手を下した直接の加害者の一人が、現代文学研究会に私と同時に入ったメンバーだったことだった。もし私が革マルから抜けなければ、同じようなことをしていたのかもしれないと思った。あるいは逆に、一つ間違えば、川口君と同じような目に合っていたかもしれないと思った。加害者、被害者ともに他人ごととは思えなかった。同時に、加害者側の人たちも決して個人的には悪い人たちではないことも知っていた。それもまた衝撃だった。
虐殺が明らかになり、早稲田大学内で革マル追い落としの運動が起こったとき、私も積極的に集会に参加した。樋田氏が中心になっている運動に加わった。革マル派の横暴を絶対に許してはならないと思った。個々人は悪い人たちではないが、だからと言って許されることではないと思った。
この「彼は早稲田で死んだ」はその時の経緯が詳細に、リアルに描かれている。当時のことがよみがえる。まだ十分に総括できていない自分の過去に対峙させられる。
私はこの事件を何一つ総括できていない。
だが、その後の私の人生に、この事件が大きな影を落としていることを改めて感じた。私はその後、アナキストのグループに接近して行動を共にしたが、徐々に政治にウンザリして、観念的アナキストになっていった。そこにはこの事件の影響があっただろう。
今でもしばしば考える。大学はどうあるべきか。学生自治会を認めるべきか。政治に暴力が認められるのか。暴力革命を認めるべきなのか。善良な個人が集団になるとなぜ暴力に歯止めが利かなくなるのか。マルクス主義をどう評価するべきか。そんな問題を考えるとき、原点にこの事件がある。原点を1972年に与えられながら、70歳を超えた今もまったく解決できていないことにも気づいた。
本書に大岩圭之助=辻信一さんの話題が出てくる。1972年当時革マルの幹部のなかでもとりわけ暴力的なメンバーだった大岩さん(たぶん、当時は私もこの方を知っていたと思うが、今となっては覚えがない)がのちに大学教授となり、辻信一という名前で非暴力、弱者優先、スローライフの本を出しているという。私は辻信一のスローライフの本を読んで感銘を受けた記憶がある。樋田氏は一定の理解を示しながらも、明確な自己否定をしないままうやむやのうちに宗旨替えをした大岩氏を批判的に描いている。
私は革マルのメンバーだったわけではなく、もちろん暴力肯定論者でもなく、そもそも暴力的な人間でもないが、私もこの大岩=辻さんのようなものだと思った。当時の出来事をきちんと総括しないまま現在に至っている。当時起こったことをきちんと解明しないまま、愚かな歴史としてみないふりをしている。やはりこれは批判されてしかるべきことだと思う。
もちろん、それは私一人ではなく、かなり多くの私と同世代の人にも当てはまることだとも思う。だが、一人一人が学生運動の時代を忘れ去って現在をのほほんと生きている自分を振り返るべきだと思う。50年前の出来事をまとめた本書が私に教えてくれたのは、このことだった。
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