音楽

加耒徹×古海行子の「水車屋の美しい娘」 知的でありながらも鬼気迫る演奏!

 2026718日、トッパンホールで、加耒徹×古海行子デュオリサイタル《シューベルト~一瞬の春~》を聴いた。曲目は、前半に古海行子のピアノでシューベルトの「楽興の時」、後半に加耒徹のバリトン、古海の伴奏で「水車屋の美しい娘」。素晴らしい演奏だった。3日連続で感動のコンサートを聴くことができた。

 前半については、ピアノ独奏曲をほとんど聴かず、しかもシューベルト好きではない私としては、何も語ることができない。古海のピアノは勢いがあってとてもいいのだが、私の修行が足りないというべきか、シューベルトの室内楽曲やピアノ曲を聴くと「長いなあ」と思ってしまう(古海さん、ごめんなさい)。

「水車屋の美しい娘」は素晴らしかった。加耒の歌は、ほとんどオペラ全曲を聴くほどの起伏を持ち、ドラマを持っていた。時に鬼気迫ると表現すべきほどだった。ピアノも勢いがあってとてもよかった。見事に、時に鋭い和音で激しい想いを伝え、シューベルトの世界を作り出した。

 加耒は最初の一音から最後まで正確な音程で完璧にコントロールした声で歌う。声そのものも美しい。余裕のある知的で穏やかな声。そして、ドイツ語の発音も実に美しい。私にはドイツ語は分からないが、きっと発音も正確なのだろう。しかも、知的に音楽を構築し、一つ一つの曲にドラマがあり、歌曲集全体も大きなドラマがある。それが、ドイツを理解してない私にも十分も伝わるように歌う。しかも、声の広がりや響き具合までも完璧で音楽に即している。うーん、すごい! ドイツの最高峰のリート歌手たちにまったく引けを取らないと思う。

 序盤の数曲は活気にあふれ、恋心にあふれている。加耒の歌は、第5曲や第7曲での高揚は恋心の高鳴りが感じられる。そして、第14曲「狩人」や15曲「妬みと誇り」では、痛々しくまさに鬼気迫る。そして、第19曲では静かな絶望が支配し、最終曲では平和な川の流れに戻る。まさしく、恋をし、嫉妬し、苦しみ、絶望した若者の心の軌跡をたどることができる。全曲を聴き終えた後、一人の若者の生涯をともに生きた気がした。

 アンコールは「楽に寄す」。これも、70分近く歌った後とは思えない美声で、まさに音楽の楽しみを歌う。

 このところの日本人声楽家の躍進はすさまじい。実にうれしいことだ。

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映画「急に具合が悪くなる」 ユマニチュードの考え方!

 濱口竜介監督の映画「急に具合が悪くなる」をみた。濱口監督の映画は「寝ても覚めても」「ドライブ・マイカー」「悪は存在しない」を見て、いずれもとても良い映画だと思った。今回も話題になっているので気になっていた。3時間を超すので二の足を踏んでいたが、ともあれ時間を見つけてみることにした。

 原作は宮野真生子と磯野真穂の往復書簡であって、まったく映画とは異なるという。

 パリの老人介護施設のディレクターを務めるマリー(ヴィルジニー・エフィラ)はユマニチュード(認知症などの障害のある人も人間として敬意をもって接するという介護のあり方)の考えに基づいた介護をしようとしているが、現場の実務者たちから反対の声が上がってうまくいかずにいる。そんなとき、障害のある少年・智樹(黒崎煌代)を通して、日本人の役者・清宮(長塚京三)と演出家の森崎真理(岡本多緒)を知る。彼らの演劇がまさにユマニチュードの精神に基づき、それを実践しているように思えたからだった。とりわけ演出家の真理は癌のステージ4であり、急に具合が悪くなったら最期が近いという状況にいる。マリーは真理と意気投合し、真理に施設でイベントを行ってもらってユマニチュードを進める。反対していた人たちも、ユマニチュードを認めていく。だが、最後、真理は、急に具合が悪くなって亡くなる。

 全編、ユマニチュードの思想にあふれているといってよいだろう。ただし、これは単に認知症の高齢者に対しても人間らしく接する、というレベルではない。障害者も病人も健康な人と同じように生きていくべきだという考え方だ。それどころか、ホワイトボードに真理が書いてマリーに説明する通り、資本主義は外部を侵食していくことから成り立っている。そのため、少子高齢化が起こり、格差が生じ、様々な弊害が生み出されている。この映画で提唱されるのは、外部と内部をなくし、枠をなくし、すべてをひとまとめにしようというユマニチュードの考え方だ。つまり、ここでは、おそらく国籍も人種も階層もひとまとめにされる。生も死も同じこととみなされる。だから、この施設では健常者と被介護者が同等に行動し、役者・清宮はフランス語と日本語の混じった芝居を演じ、真理は死を生きようとする。

 実は私にはこの映画はことのほか親しみやすかった。私には、がんを患っていた妻が急に具合が悪くなって、そのまま緊急入院し、11日後に帰らぬ人になった経験がある。そして、妻の経験を踏まえて、その後、「70過ぎたらサメテガル」(小学館新書)という本を書いたが、それは「すべてサメテガル、つまり、どちらでもいい、どちらでも同じ、という意識で生きるべきだ」というテーマだった。その中に、生も死も同じではないか、という考えに少しだけ触れた。それは今から考えると、ユマニチュードの考えに近いものだった。

 ユマニチュードを実現するのは難しい。濱口監督も、この映画で描いたのが一つのユートピアであることは承知していると思う。だが、理念としてのユマニチュードを描いたこと自体、素晴らしいことだと思う。

 ストーリーの運びもとても明確でわかりやすい。あっと驚くような美しい場面がたくさんある。それにしても、二人の女優さん(ヴィルジニー・エフィラと岡本多緒)が魅力的だ。二人とも今回初めて知った。カンヌ映画祭で主演女優賞を獲得したという。当然の受賞だと思った。

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マルッキ&都響の「青ひげ公の城」に感動!

 2026717日、サントリホールで、東京都交響楽団定期演奏会を聴いた。指揮はスザンナ・マルッキ、曲目は前半に、デュカスの歌劇「アリアーヌと青ひげ」第3幕への前奏曲とドビュッシ「夜想曲」より「雲」「祭」、後半に、バルトークの歌劇「青ひげ公の城」(演奏会形式)。

 素晴らしい演奏だった。素晴らしい指揮者だと思った。

 都響が見事な音を出した。前半は、緻密で繊細で気品にあふれている。弦のトレモロがまるで雪の結晶がキラキラと光っているようだった。こんなきれいなトレモロを久しぶりに聴いたと思った。フランス的な響きと言ってよいだろう。だが、かなりドイツ的な構築性のようなものを感じる。力感もある。そして、マルッキの指揮姿が実に美しい。こんなに美しい指揮姿は、カルロス・クライバーを初めとして、数人しか覚えがない。優美な姿から、力強くも繊細な音楽が奏でられる!

 後半は圧巻だった。ソロの二人にまず驚嘆した。ジョン・レリエ(バス)とシルヴィア・ヴェレシュ(メゾ・ソプラノ)はともに声量も豊か(ただ、レリエの声になんとなくPAが入っているような感じだったが、気のせいだろうか)で歌いまわしも絶妙。舞台がないのに、目の前に情景が見えるようだった。とりわけヴェレシュの無理のない自然な声に圧倒された。

 そして、何よりもマルッキ指揮の都響が精妙で、時に爆発的で、まさに青ひげ公の城の幻想的で官能的で不気味な雰囲気を作り出し、ドラマを盛り上げた。緊張感にあふれ、まったく退屈しない。演奏会形式で、演技もつかないし、映像などもないのだが、特有の色彩がオーロラのように動いているような感じがした。

 それにしても、スザンナ・マルッキという指揮者、初めて聴いたが、素晴らしい指揮者だと思った。リズムがぴたりと決まって、揺るぎがない。そうした中で、構築的に音を作り、てきぱきと推進していく。しかも、細かいところまで神経が行き届いているので繊細で豊かな音が出てくる。都響の美しい弦楽器と管楽器を引き出している。

 もっと大熱狂の喝さいが起こるかと思ったのだが、意外とおとなしかったのは、曲の終わり方が地味なせいだろうか。私はなんだかマルッキ・ファンになりそう・・・。

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高関&シティフィル&荒井のショスタコーヴィチ 協奏曲第2番に興奮!

 2026716日、東京オペラシティコンサートホールで、東京都交響楽団の定期演奏会を聴いた。指揮は高関健、曲目は前半にヴァイオリンの荒井英治が加わって、ショスタコーヴィチのヴァイオリン協奏曲第2番、後半に武満徹の「ア・ウェイ・ア・ローン」と同じ荒井のソロでショスタコーヴィチのヴァイオリン協奏曲第1番。荒井はモルゴーア・クァルテットの第一ヴァイオリンとしてショスタコーヴィチの弦楽四重奏の演奏に定評がある。ぜひ聴いてみたいと思って、暑い中、足を運んだ。

 前半を聴き終えた段階では、とても良い演奏だとは思うものの、もう少し荒井には羽目を外してほしいと思っていた。ちょっと優等生的な演奏だと思った。もちろん、音程の良い鋭い音で明確に鳴らし、力感もあってとてもいいのだが、爆発しない。

 だが、後半はすさまじかった。まず、武満の曲もとてもおもしろかった。原曲は弦楽四重奏曲だとのこと。だが、弦楽合奏版だと内声部が充実して、魂の高鳴りを感じる。

 そして、ショスタコーヴィチの第1番の協奏曲は、高関の指揮によるシティ・フィルの切れの良さと楽器の重なりの美しさもさることながら、やはり新井のヴァイオリンに圧倒された。

 第1楽章の途中で弦が切れるというアクシデントがあった。が、すぐさまコンサートマスターの戸澤哲夫のヴァイオリンを受け取り、何事もなかったように続きを演奏。荒井と戸澤はシティ・フィルでもたびたび共演しているだろうし、モルゴーア・クァルテットでも第一ヴァイオリンと第二ヴァイオリンの仲でもある。気心の知れる仲なので、スムーズに受け渡しができたのだろう。次の楽章からは、再び、自分のヴァイオリンに戻って演奏。私は50年以上前からコンサートに通っているが、このような光景を見たのは、たしか2度目だ(前回見たのがいつだったか、思い出せない!)。

 第1楽章から集中力あふれるすごい演奏だったが、スケルツォからは、曲自体がそうだともいえるのだが、まさにはっちゃけて、ものすごい演奏になった。前半の第2番を不満に覚えたのは私の不徳の致すところだとつくづく思った。荒井は楽譜に書いていないことはしないのだろう。そして、第1番では後半ははっちゃけるようにできているのだろう。ショスタコーヴィチ特有の狂乱が爆発し、宇宙に向かって躍動するようなカデンツァが展開し、一気呵成に終楽章の熱狂に進んだ。高関のサポートも見事。ショスタコーヴィチの世界を堪能した。

 素晴らしい演奏だった。感動した。興奮した。

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ネマニャ&海老原&読響  ヴァイオリンの音そのものに感動

 202675日、かつしかシンフォニーヒルズ モーツァルトホールで、読響プレミアクラシックスを聴いた。

 指揮は海老原光、曲目は前半に、ビゼーの「アルルの女」第2組曲、その後、ヴァイオリンのネマニャ・ラドゥロヴィチがソリストとして、ドヴォルザークの「我が母の教え給いし歌」、ラヴェルの「ツィガーヌ」、マスネの「タイスの瞑想曲」、モンティの「チャルダーシュ」、後半にベートーヴェンの交響曲第5番「運命」。コンサートマスターは白井圭。

 私は、ネマニャ・ラドゥロヴィチのファン・クラブ「プレピスカ」の発起人にして、初代会長であって、現在もネマニャを追いかけている。そんなわけで、今回が今年3回目のネマニャのコンサートだった。

 ネマニャに関しては、あいかわらずの素晴らしい音色! 研ぎ澄まされた、音程のよい美音によって、躍動感のある超絶技巧が爆発する。しかも、テンポを動かしながらも、ほかの演奏家や観客と心を通わせあって演奏するので、音楽の高揚にまったく不自然さがない。最高の密度でぐいぐいと観客の心に訴えかける。

 ラヴェルの「ツィガーヌ」はお得意の曲だが、オーケストラ版もやはりすごい。超絶技巧を上手に目立たせながら、それだけでなく、ラヴェルの韜晦、諧謔、アイロニーが顔を出す。「チャルダーシュ」も、相変わらずの切れの良い超絶技巧の華やかさと躍動! その後、アンコールとしてヴァイオリンとオーケストラの躍動的な曲。とても楽しかったが、曲名は知らない! 全体的にはとても満足だった。

 海老原の指揮については、最初はもたつき気味だったが、後半になるにつれてよくなっていった。だが、全面的に感動というわけにはいかなかった。

 身振りの大きい指揮なので、どのような音楽を作りたいのか、観客からもとてもよくわかる。そして、その作りたい音楽は私にもとても納得できる。だが、私は音楽の流れが自然ではないというのか、作為的な感じがしてしまう。

 私は、常々、生きた音楽が、まさに生きもののように展開していってほしいと思っているのだが、海老原の音楽は、無理やり造形しているように聞こえる。まるで、音楽の論理によって出来上がった音楽ではなく、音楽好きが自分の好きなように音楽をいじろうとしているような感じがする。しかも、スケールの大きな音楽を作ろうとして、繊細な部分がおろそかになって、緻密でなくなる部分がある。私はまったくに素人なので、スコアを見てどこをどうとは言えないのだが、感覚的にそう思ってしまう。

 だが、ともあれ、私はネマニャの音にただただ感動する。不満があるとすると、ネマニャの同じ曲ばかりを何度も聴いていることくらいだろう。小曲ばかりでなく、大曲も聴きたい。ベートーヴェンやブラームスのソナタをすべて演奏してほしい。無伴奏曲も日本で演奏していない曲はたくさんある。それらを聴きたい。次回以降に期待したい。

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新国立「エレクトラ」 思い入れのあるこのオペラに心から感動した!

 202672日、新国立劇場で「エレクトラ」を観た。素晴らしい上演だった。

「エレクトラ」は高校時代(つまり1967年ころ)から大好きな作品だ。当時は日本盤のレコードはなく、セリフもわからないままただ輸入盤の音だけで魂が震えるような感動を覚えていた。初めて実演に接したのは、1977年、ローマを訪れた際、たまたまローマ国立歌劇場でマタチッチ指揮で上演されているのを知って、なんとラッキーなんだ!と思って観に行った。ところが、オーケストラにやる気がなく(私の安い席からヴァイオリンの若い女性奏者がガムを噛みながら演奏していたり、出番のない奏者がおしゃべりしていたりするのが見えた!)、歌手たち(名前は記憶していない)もあまり良くなかった。その次にみたのは、1980年のウィーン国立歌劇場の来日公演。ビルギット・ニルソンがエレクトラを歌い、そのほか、リザネク、グレース・ホフマン、ジェームス・キングという、伝説の歌手たち総出演のとんでもない配役だった! これは心底感激した!

 書き出すときりがないので、このくらいにするが、私の音楽人生の中で「エレクトラ」はこのようにかなり大きなウェイトを占める!!

 で、今回の公演についてだが、素晴らしいと思った。

 大野和士の指揮する東フィルにまず大いに感心した。調性音楽のたどり着いた極致とでもいうべき音楽を見事に再現してくれた! 激しい情念が渦巻き、豊穣でありながらも緊迫感にあふれている。シュトラウスの音の世界を堪能した。ぞくぞくし、何度となく感動に身が震えた。

 ヨハネス・エラートによる演出は、クリテムネストラとエレクトラの類似性(背景の二つの球体によってそれが暗示される)とアガメムノンとオレストの類似性(背後の人型がそれを暗示している)を強調する。エレクトラは母親クリテムネストラと似ているがゆえに憎しみを強め、父アガメムノンと弟オレストをあがめる。

 ホフマンスタールの作品は「変化する者と、それを拒否する者」というテーマが繰り返される。マルシャリンやアリアドネは変化を拒み、オクタヴィアンやツェルビネッタは変化を求める。「エレクトラ」でも、そのテーマが明確に示される。エラートの演出はホフマンスタールのテーマを明確に踏襲している。

 エレクトラは宮殿内に閉じ込められ、変化することを拒否して、過去への復讐心を抱き、未来の展望がない(ピエロの格好をした三人がエレクトラの心証を象徴している)。妹クリソテミスは母の世界と姉エレクトラの世界の間で揺れ動いている(クリソテミスがしばしば乗るブランコは揺れを象徴しているのだろう)。オレストは変化を求め、まさに実際に暗殺を行うことで変化を成し遂げる。オレストによる復讐はなされたものの、エレクトラは実際に手を下したわけではない。つまり、変化したわけではない。ただ踊るばかり、すなわち先に進んで変化しようとするわけでもなく、一箇所で運動を繰り返す。

 しかも、エラートの演出では、最後にクリテムネストラが現れて、ホフマンスタールではぼかされていた「母殺し」というテーマが明確に示される。結局、エレクトラは自分とよく似た母親殺しに加担しただけで、何も変化させることはできなかった! ということをエラート演出は残酷にも示してしまう。

 歌手陣はすさまじい。エレクトラのアイレ・アッソーニは見事にこの難役を歌いこなす。声が強靭であるだけでなく、表現力も素晴らしい。そして、それ以上の存在感を示すのが、クリテムネストラの藤村実穂子だ。依然として声は衰えない。しかも、妖女の雰囲気が実にいい。クリソテミスのヘドヴィグ・ハウゲルドはエレクトラを圧するほどの驚くべき声量を聴かせてくれる。ふだんはこの役はもう少し清純な声の歌手が歌うことが多いが、これはこれで立派に演出と合致する。オレストのエギルス・シリンスも見事な声で文句なし。

 エギストの工藤和真はこの役にしては高貴な声だが、王さまなのだから、これでよいのだと思う。脇役を歌うのは、糸賀修平、河野鉄平、森谷真理、金子美香、谷口睦美、清水華澄、髙橋絵理、田崎尚美、斉木健詞、中村真紀、杉山由紀という日本を代表する名歌手たち! すべての役が最高度に歌われる。

 60年前から大好きなオペラが日本の新国立劇場でこれほどのレベルで上演されるのを観ることができて、本当に感動した。

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オペラ映像「椿姫」「ドン・ジョヴァンニ」「コシ・ファン・トゥッテ」

 数本のオペラ映像をみたので、簡単に感想を記す。

ヴェルディ 「椿姫」 199212月 ヴェネツィア、フェニーチェ大劇場

 グルベローヴァの「椿姫」の映像をみたことがあるつもりだったが、これは知らなかった。「ユダヤの女」を改めてみて、シコフの凄さを痛感し、ネットで探しているうちにこの映像を見つけた。

 ヴィオレッタを歌うグルベローヴァの凄さは言うまでもない。なんという美しい声! 高音の美声だけで心が震える!第一幕もさることながら、最終幕も素晴らしい。涙なしにはいられない。稀有な存在だったと改めて思う。

 アルフレードのニール・シコフもグルベローヴァにまったく引けを取らない。声の伸びも素晴らしいし、やはり演技力には圧倒される。知的な人間でありながら、一本気で愛のための抑えのきかなくなった青年を見事に歌う。ジョルジョ・ジェルモンのジョルジョ・ザンカナーロもさすがの歌唱。

 指揮はカルロ・リッツイ。演出はピエル・ルイジ・ピッツィ。現代の感覚からすると、ちょっとあか抜けない指揮と演出に思えるが、ともあれ、二人の主役の歌唱が圧倒的なので、ほかはどうでもよくなる。

 

モーツァルト 「ドン・ジョヴァンニ」 202112月 ウィーン国立歌劇場

 フィリップ・ジョルダンの指揮なのに、どういうわけか序曲からまったくもって精彩を欠く。まるで、気の抜けたビールのような味わい。もっとシリアスでドラマティックな演奏を期待していたのだが、あまりに淡白。どうしたことだ!・・・何の情報もなく観始めて、そう思っていた。上演日付を見たら、2021年の演奏。もしかしたら、と思っていたが、最後のカーテンコールになって納得。コロナ禍のための客のいない上演だった! 確かにこれでは気合の入ろうはずがない。

 バリー・コスキの演出は、コミックな要素を退け、シリアスに徹しているように見える。ずっと岩山のような、ごつごつした黒い岩肌の見える舞台で展開される。ドン・ジョヴァンニの心象世界を描いているのだろうか。ただ、このような背景にすると、特にレポレッロによるコミカルな部分が失われてしまう。それにしても歌手陣は大きく動き回る。そのせいだろう、細身の若い歌手たち!

 歌手陣はレベルが高い。ただ、どの歌手も、観客がいないせいだろう、高揚していかない。みんなが冷めている。それがよくわかる。ただ、さすがというべきか、第二幕後半になって音楽が盛り上がってきた。ドン・ジョヴァンニの地獄落ちのあたりは震撼するほどだった。

 ドンナ・アンナのハンナ=エリザベート・ミュラー、ドンナ・エルヴィラのケイト・リンジー、ツェルリーナのパトリツィア・ノルツアとても魅力的。マゼットのペーター・ケルナーも美声でしっかり歌う。騎士長のアイン・アンガーもさすが。ドン・ジョヴァンニのカイル・ケテルセンももちろん悪くないのだが、ドン・ジョヴァンニの悪の魅力を放つまでには至らない。レポレッロのフィリップ・スライはかなり弱い。それなりにコミックな動きをするが、ことごとくスベッているように思える。この殺伐とした舞台でコミカルさを出すのは、ベテランの大歌手でも難しい。客がいないので、なおのことだ。経験の少ない若い歌手にこのような役をやらせるのは酷だと思った。

 それにしても、女性三人があまりに容姿面できれいなのに驚く。よく見ると男性たちもほとんどがかなりのイケメンではないか。歌唱面でも見事なので文句を言う筋合いはない、いや、それどころか実にありがたいことなのだが、オペラ歌手がこんなに美男美女ぞろいでいいんだろうか、という不思議な疑問に駆られてしまう。

 ところで、この頃のソフトによくあることなのだが、字幕と歌がずれていたり、日本語の字幕の字体が日本では絶対に使わない形であったり、男言葉と女言葉が逆になっていたりといったことが起こっている。国際版のディスクには日本人スタッフが字幕作成にかかわっていないのだろうか。何とかならないものか。

 

モーツァルト 「コジ・ファン・トゥッテ」 20246月 ウィーン国立歌劇場

 こちらは「ドン・ジョヴァンニ」とは違って、最初から張りのある気合の入った音! 躍動感があり、自然に音楽が流れる。オーケストラについては素晴らしい。

 こちらも、演出はバリー・コスキ。最初は全員が現代の服装で登場。ドン・アルファンソが演出家、デスピーナが助手で、4人の歌手たちとともにオペラ(たぶん、「コシ・ファン・トゥッテ」!)を上演しようとしているという設定。確かにこのオペラは現代から見ると、変装が不自然だったり、コンプライアンス違反だったりするので、二重舞台にすることでそれを緩和できる。

 しかも、このオペラはアルファンソとデスピーナ、フィオルディリージとドラベッラ、グリエルモとフェランド、フィオルディリージとグリエルモ、ドラベッラとフェランドなどがそれぞれ対称をなし、それが錯綜する劇なのだが、コスキの演出では、第二幕で二人の男性が女装してフェランドがフィオルディリージとそっくり、グリエルモがドラベッラとそっくりの服を着る。二人の女性はかなり大柄なので、遠目では見分けがつかなくなるほどだ。つまりは、もう一つ左右対称が明示されるわけだ。

 最後、裏切りが発覚したあと、四人は怒り出して、ドン・アルファンソの演出する劇団から飛び出していく。その後、ドン・アルファンソはリンゴを食べる。つまりは、愚かだった四人は、知恵のあるドン・アルファンソによって人間の真実を知ってしまって、怒って出て行った…ということだろう。私としては、それほど大きな感銘は受けないが、なかなかおもしろいとは思う。

 特に傑出した人はいないが、歌手陣は充実している。フィオルディリージのフェデリカ・ロンバルディ、ドラベッラのエミリー・ダンジェロ、グリエルモのペーター・ケルナー、フェランドのフィリペ・マニュ、ドン・アルフォンソのクリストファー・モルトマン、デスピーナのケイト・リンジーはそれぞれみごとに歌っている。

 全体的にとても良い上演だと思った。ただ、これも「ドン・ジョヴァンニ」と同じように字幕に不備が多い。何とかならないか!

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上岡&読響のワーグナーとブラームス 私はついて行けなかった

 2026628日、東京芸術劇場で読売日本交響楽団の日曜マチネーシリーズを聴いた。指揮は上岡敏之、曲目は、前半にワーグナーの「タンホイザー」序曲と、ソプラノのアウシュリネ・ストゥンディーテが加わって、ワーグナーの「ヴェーゼンドンク歌曲集」、後半にブラームスの交響曲第4番。

 上岡らしいかなり癖の強い演奏だった。「タンホイザー」は前半はかなり遅いテンポで、ロマンティック・オペラというよりも後年の楽劇のような雰囲気だった。ただ、こうすると、私にはちょっと「思わせぶり」な感じがしてしまう。後半、ドラマティックになり、切れの良いうねりが出てくるが、私はこれも不自然な気がする。まるで、歌舞伎の「見得」を切っているような感じ。それはそれで素晴らしいとは思うのだが、全体の形が崩れているように思える。

 ヴェーゼンドンク歌曲集については、ストゥンディーテはとてもきれいで強い声。よい演奏だと思った。ただ、ここでも上岡が私にはあまりに恣意的に思える。もちろん素晴らしい部分はたくさんある。ぞっとするほど透明な音であったり、躍動だったり。だが、テンポが遅くなって、今にも止まりそうになるなど、どうも私は落ち着かない。

 ブラームスの4番についても、同じような印象を抱いた。冒頭のフレーズも独特のアクセントがついていてとても魅力的。そのほか、あちこちにアッというような聴かせどころがある。テンポを揺らしたり、特定の楽器が強かったり、新鮮なアクセントがついていたり。部分部分は耳を惹かれる。凄い!と思ったりもする。だが、全体として、私にはまとまりが壊されているように思える。それに第2楽章の異様に遅いテンポも、私はついて行けなかった。要するに、あちこちで見得を切っているために、全体が自然に流れず、あまりに恣意的に聴こえたのだった。

 きっと好きな人は好きなのだろう。そして、きっとそれぞれの部分に上岡のしっかりした根拠があるのだろう。それが上岡の魅力なのだろう。だが、私はついていけない。やはりこれは私の好きなワーグナーやブラームスではない。やむを得ないことだ。

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ネマニャ2日目 縦横無尽なプロコフィエフの無伴奏ソナタ

 2026626日、浜離宮朝日ホールでネマニャ・ラドゥロヴィチ ヴァイオリン・リサイタルの2日目を聴いた。ピアノ伴奏はステファニー・フォンタナローザ。曲目は前半にバルトークのルーマニア民俗舞曲とプロコフィエフのヴァイオリン・ソナタ第2番、後半に、チャイコフスキーの「なつかしい土地の思い出」、プロコフィエフの無伴奏ヴァイオリン・ソナタ ニ長調、サラサーテのツィゴイネルワイゼン。

 昨日と同じ印象を持った。ネマニャのヴァイオリンは素晴らしい! 日本刀で紙をさっと切るような切っ先鋭い鮮明な音! そこにエネルギーがあふれ、情熱的な超絶技巧が加わる。時にテンポを緩めたり速めたりするが、絶妙の構成感によってしっかりと全体をまとめる。ハーモニスクの音が本当に美しい。躍動感も圧倒的!

 ルーマニア民俗舞曲とツィゴイネルワイゼンについては、私は特に不満を抱かなかった。ピアノは大いに健闘していると思った。だが、プロコフィエフのソナタとチャイコフスキーの曲では、やはり私はピアノに不満を覚えた。プロコフィエフは昨日のフランクと同じように踏み込み不足を感じる。腰が引けているというか、遠慮がちというか。ヴィヴィッドに反応しない。チャイコフスキーについては、世界を作るのをヴァイオリンに任せきって、ピアノは特有の世界を作らない。ヴァイオリン以上に、音楽の独特の世界を作ってほしいのに、かなりそっけない。もう少し何とかならないか。少々もどかしさを感じた。

 そんなわけで、私はプロコフィエフの無伴奏ソナタに最も感動した。これはもう本当にすごい。バッハの無伴奏のような祈りにも似た敬虔な雰囲気はまったくないが、縦横無尽な世界が広がる。それがネマニャの作る音楽にぴったりと合致している。スケールの大きなハチャメチャな雰囲気があるかと思うと、シリアスな雰囲気もあり、歌心もあり、諧謔的になり、遊び心、悪戯心が顔を出し、繊細にして大胆。恐れ知らずの英雄が心の大冒険をするような無伴奏ソナタだった。

 アンコールは昨日と同じ「Over the Rainbow」、最後にお決まりのモンティの「チャルダッシュ」。ネマニャに、クレメルやカヴァコスのような本格派のヴァイオリニストの道を進んでほしいと密かに期待している私としては、このようなアンコールはあまりうれしくないのだが、素晴らしい演奏であることは間違いない。

 予定を変更してサイン会が中止とのことだった。きっと明日の朝、神戸に移動するつもりだったのを、台風が来ているために、今晩中に神戸まで(あるいは、行けるところまで)行っておこうということだろう。無事に着いてほしい!

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ネマニャは今回も凄かった! だが・・・

 2026625日、浜離宮朝日ホールでネマニャ・ラドゥロヴィチ ヴァイオリン・リサイタルを聴いた。2日連続のコンサートの初日。ピアノ伴奏はステファニー・フォンタナローザ。曲目は前半にチャイコフスキーの「ポリーナのロマンス」(歌劇「スペードの女王」より)とフランクのヴァイオリン・ソナタ、後半にJ.S.バッハの「シチリアーノ BWV1031」とシャコンヌ、リリ・ブーランジェの2つの小品 「夜想曲」と「行列」、ラヴェルの「ツィガーヌ」。

 ネマニャ・ラドゥロヴィチは、2007年、ナントのラ・フォル・ジュルネで初めて聴いて熱狂して以来のファンだ。来日のたびに聴いてきた。今回は久しぶりのピアノ伴奏によるリサイタルなので、とても楽しみにして出かけた。

 あどけない少年だったネマニャもすっかり大人になっている。相変わらずの長髪、ロックっぽい恰好。そして、相変わらずの素晴らしい美音! 澄み切った音、ダイナミックな躍動。思い切りのよい弓さばきで人の心の奥底にスーッと刺さっていく。チャイコフスキーはまさにロマンティック、フランクは情熱的。

 ・・・ただ、実は私はピアノに不満を感じた。

 フランクのソナタはヴァイオリンとピアノが互角にがっぷりと組みあってこそ深い音楽が鳴り響く。ところが、ピアノがどうも遠慮がちで、ここぞというときに盛り上がってこない。一つ一つの音も、私にはネマニャの音に比べると、あまりにくすんで聴こえる。

 後半のシャコンヌはとてもよかった。ただ、これまで何度かネマニャのシャコンヌを聴いてきて、ちょっと余裕がありすぎるような気がした。確かに、以前に比べて成熟し、技巧も増し、余裕をもってバッハの世界を描いている。だが、若いころのネマニャの演奏は、がむしゃらにバッハの本質をつかみ取ろうとしていたのだったが、今はそのがむしゃらさがない。私は若いころに演奏のほうが好きだった。

 とはいえ、リリ・ブーランジェの曲はとてもチャーミングで、しかも躍動的。そして、休みなしでそのままツィガーヌに突入! これはすごい演奏だった。がむしゃらさがあり、フランス的エスプリがあり、ラヴェル特有の諧謔があり、圧倒的な超絶技巧がある。研ぎ澄まされた音、絶妙のハーモニスク、音程が良いのでクリアでシャープ! 躍動し、飛躍し、駆け巡る。ただただ圧倒された。ただ、ここでも、私はピアノに少し不満を抱いた。もっとヴァイオリンと互角に弾いてくれないと、音楽全体がくすんでしまう・・・。

 アンコールはバルトークのルーマニア民族舞曲第6曲と「Over the Rainbow」、最後にお決まりのモンティの「チャルダッシュ」。

 ネマニャは今回も凄かった! が、ちょっと不満も抱いたのだった。

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