音楽

エリアス弦楽四重奏団 ベートーヴェン・サイクル4日目 ワクワクして叫びだしたくなった!

 2023610日、サントリーホールブルーローズでサントリー・チェンバーミュージック・ガーデン、エリアス弦楽四重奏団 ベートーヴェン・サイクル4日目を聴いた。曲目は前半にベートーヴェンの弦楽四重奏曲第12番、後半に第7番(ラズモフスキー第1番)。

 これまでの3日間と同様、素晴らしかった。

 ただ、今回は、後期四重奏曲が前半なので、聴く側としてはちょっと勝手が違った。これまでは、前半にややこじんまりした、親密で息の合った演奏を聴いて、その勢いで後半に入って、より密度が高くてスケールの大きな曲に進んでいったが、今回はいきなり12番。

 私としては、いきなり心の奥深くをえぐるような音楽の中に連れ込まれて、戸惑ってしまった。心の準備ができていなかったので、初めのうち少し音楽が停滞しているように感じたのだったが、きっとそれは私の側に準備ができていなかっただけだろう。第1楽章では深い思いがじっくりと描かれ、第2楽章で静かに心の奥にまで入り込む。このころから、私は音楽の中に没入できた。そして、第3楽章で躍動を遂げ、終楽章で平明で明るい境地に達する。それをエリアス弦楽四重奏団は見事に演奏。とりわけ終楽章の燃焼度は圧倒的。いってみれば、猥雑な雰囲気の残る中、躁状態になって踊りだしたくなるような音楽とでもいうか。私は心の底からワクワクして叫びだしたくなる。

 後半の第7番も素晴らしかった。第1楽章は、チェロのマリー・ビトロック(第一ヴァイオリンのサラ・ボトロックの妹さんだろうか?)の深々としてスケールの大きな音が全体を引っ張る。四人が一分の隙もなく組み合って一つの音楽を作り上げていく。陰鬱さのないベートーヴェンの開放的で明るい世界。このようなベートーヴェンも本当に素晴らしい。そして、終楽章。すさまじい速度なのだが、まったく乱れず、四つの楽器が一体となって高揚していく。ここでも叫びだしたくなるような上昇感。

 この団体の演奏を聴くごとに、そのすごさを実感。多様な表現を持った素晴らしい団体だと思う。

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葵トリオのスケールの大きなベートーヴェンのハ短調

 202369日、サントリーホールブルーローズでサントリー・チェンバーミュージック・ガーデン、葵トリオのコンサートを聴いた。曲目は、前半にベートーヴェンのピアノ三重奏曲第3番とドビュッシーのピアノ三重奏曲ト長調、後半にラフマニノフの「悲しみの三重奏曲」第2番(1907年版)。

 実は、私は曲目を誤解していた。どういうわけか、別の曲だとばかり思いこんでいた。実際の曲目を知ってびっくり! 

 葵トリオはスケールの大きな演奏。ヴァイオリンの小川響子の振幅の大きな躍動感あふれるヴァイオリンが魅力だ。作品1―3というベートーヴェンの初期の初々しさの残る、しかしハ短調のベートーヴェンらしさがすでに表れているこの曲を、まさにこの曲にふさわしく演奏。秋元孝介のピアノがぐんぐんと音楽を推進し、伊東裕のチェロがロマンティックにそれを支える。見事な三人の連係プレイだと思う。ただ、もう少し、ためらいがちで鬱々とした部分もあってよいような気がした。あまりにスケールが大きく、あまりに外向きな曲になっている。しかし、聴いていてとても納得する演奏ではある。

 ドビュッシーのこの曲は、おそらく私は初めて聴いた。どんな曲なのか頭に思い浮かばなかったが、ドビュッシーの曲だからきっとCDか実演かで聴いたことがあるだろうと思っていたが、まったく聞き覚えがなかった。が、それにしても、葵トリオが演奏すると、大きく振幅し、スケールが大きくなり、ドラマティックになる。なるほど、このようなドビュッシーもあっていいだろう。もしかすると、ドビュッシーの内面はこうだったのかもしれないと思った。

 ラフマニノフの「悲しみの三重奏曲」第2番は、チャイコフスキーの死を悼む曲だそうで、まさに悲しみの表現。ラフマニノフらしく深い感情を激しい音楽にして表現する。とてつもなく難しいパートをこの三人は見事に演奏。きっと名演奏なのだろうと思う。ただ、やはり私はどうもラフマニノフは苦手だ。マーラーほど大嫌いというのではないが、あまりに激しい情緒の垂れ流しにどうにもついていけない。抑制しつつ情緒を吐露すのならいいが、ラフマニノフはこれ見よがしに情緒を爆発させるので、耐えがたくなる。しかも長い!私としては少々うんざりした。

 が、演奏としては見事。葵トリオの技量に驚嘆した。

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エリアス弦楽四重奏ベートーヴェン・サイクル3日目 感動に震えた!

 202367日、サントリーホールブルーローズでエリアス弦楽四重奏ベートーヴェン・サイクル3日目を聴いた。曲目は前半にベートーヴェンの弦楽四重奏曲第5番・第9番(ラズモフスキー第3番)、後半に第14番。

 初日、2日目に続いて素晴らしい演奏だった。

 第5番は、ちょっとユーモアを交えた雰囲気の演奏。あえて大袈裟な表現をして4人で心から楽しんでいる様子。それがこの曲の雰囲気にとてもあっている。このような演奏をハンガリーの団体で昔、聴いた記憶がある。その時、ちょっとジプシー的な演奏だと思ったが、今日もそんな印象を抱いた。それにしても、見事なアンサンブル。完璧に心を一つにして音楽の表情を楽器で表す。しかも、程よい温かみと鋭さを持っている。そして、第一ヴァイオリンの音色の美しさは比類ない。細身で明晰だが、とてもロマンティック。

 第9番は、第3楽章のスラヴ風のメロディがとても美しく、そして、最終楽章の凄まじい速いテンポでの音の重なりに圧倒された。凄まじい高揚感。4つの楽章が一つの物語をなしている。迷いの中から徐々に晴れて明るい世界になり、スラヴ的な哀愁を覚えたり、悲しみを覚えたりしながら、激しくも明るい世界に没入する。それを4つの楽器が一つになって行っている。

 そして、やはり第14番が圧倒的によかった。楽章の切れ目がないので、全体が緊密なつながりを持っている。それがとてもよくわかる演奏だと思った。一瞬の気のゆるみもなく、緊張感をもって音楽を進めていく。一つ一つの楽章の表情が明確にされ、しかもそれぞれがとても深みを感じさせる。魂の挑戦というか、魂の鍛錬というか。凄まじい世界を4人が作り出す。最終楽章はドラマティックに音が重なり合い、まさに圧巻。感動で身体が震えてきた。この曲でこれほど感動したのは、これが初めてかもしれない。

 この団体、本当に素晴らしい!

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エリアス弦楽四重奏 ベートーヴェン・サイクル2日目も素晴らしかった!

 202365日、サントリーホール ブルーローズでサントリ・チャンバーミュージック・ガーデン、エリアス弦楽四重奏ベートーヴェン・サイクル2日目を聴いた。曲目はベートーヴェンの弦楽四重奏曲第21113番。素晴らしい演奏だった。感動した。

 第2番はチャーミングでユーモラスで親密な演奏。しなやかでウィットに富み、しかも強いところは強い。起伏があるが、とても自然。それに四人が本当に心を合わせているのがよくわかる。完璧に一つになっている。しかも、音色が美しい。とりわけ第一ヴァイオリンの細身で心の響く音が素晴らしい。

 第11番「セリオーソ」は打って変わって激しい表現。鋭利でアグレッシブでドラマティック。ベートーヴェンらしい激しい感情でぐいぐいと攻めてくる。しかもリズムがよい。最終楽章のロッシーニ的な躁状態になる部分も素晴らしかった。まさに躁状態になった。

 第13番(「大フーガ」のつかないヴァージョン)も素晴らしかった。第2番とも第11番とも異なる、もっと深遠な表現。この団体は表現の幅が広いのが特徴なのかもしれない。演奏前に、第一ヴァイオリンのサラ・ビトロックさんのトークがあり、各楽章がそれぞれ別の性格をもっており、多様な性格の曲だと説明していたが、まさにそのような演奏だった。そして、それぞれの楽章に説得力がある。心の深淵を除くようであったり、諧謔的だったり、うっとりするほど美しかったり、わくわくするほど楽しかったり。

 今日の3曲もそれぞれ異なる表現をしながらも、心を一つにして美しい音色で奏でる親密な演奏であることは共通している。凄い弦楽四重奏団だと思った。

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新国立劇場「サロメ」 指揮に不満を覚えたが、ラーモアとトマソンはとても良かった

 202364日、新国立劇場で「サロメ」をみた。

 指揮はコンスタンティン・トリンクス、演出はアウグスト・エファーディング。この演出を見るのは、5回目か6回目だと思う。2016年には、ニールンドがサロメ、ヨカナーンがグリムスレイ、シュヴァルツがヘロディアス、フランツがヘロデを歌うという最強の布陣の素晴らしい上演だったので、今回も期待していたが、私はかなりがっかりした。

 まず、トリンクスの指揮に不満を覚えた。私にはかなり弛緩しているように聞こえる。緊張感がないし、倒錯的な官能性もない。このオペラを「ばらの騎士」の延長のようにとらえ、豊饒で贅沢な絵巻物のように演奏しているのかもしれない。だが、それではこの残虐で倒錯的なこの作品の魅力がまったく出ない。ヘロデとヘロディアスが登場する前のあの素晴らしいオーケストラの部分もヴェールの踊りの部分も、これは私の大好きなオペラなのに、少しも私は反応しなかった。

 しかも、もっと私の気に障ったのは、音が異様に大きいことだ。緊迫感のない音がただ大きな音で響くから、歌手たちの声をかき消してしまう。東フィルはかなり健闘していると思うが、それが裏目に出ているのを感じる。

 歌手陣については、圧倒的に素晴らしかったのはジェニファー・ラーモア。さすがラーモア! 大歌手がこの役のために日本に来てくれたことに感謝! ヨハナーンのトマス・トマソンもさすがの歌唱。しかし、声が客席まで届いたのはこの二人だけだった。

 サロメのアレックス・ペンダは、ともかく声が聞こえてこない。オーケストラにかき消されて、ヴィブラートばかりが聞こえてくる。とりわけ高音が聞こえなかった。ヘロデのイアン・ストーレイは、この役のわりには高貴な声。それはいいのだが、やはり声が届かない。

 ナラボートの鈴木准、小姓の加納悦子、ユダヤ人の与儀巧、青地英幸、加茂下稔、糸賀修平、畠山茂らも健闘しているのだが、やはりオーケストラに負けていた。

 この分厚いオーケストラを超えて客席にまで声を届かせるのは大変だったと思う。歌手のみなさんに同情したくなる。先日の「リゴレット」は素晴らしかった。おそらく、指揮者の力量の違いによるものだろう。もっとベニーニ・クラスの指揮者がタクトを振ってくれることを願う。

 ところで、このごろ思うのだが、開演前にオーケストラが音鳴らしをしていることが多い。アメリカ式らしい。私はそれを好まない。うるさくて仕方がない。音慣らしは客の前でやるべきものではなかろうと思う。指揮者の登場の後に音が聞こえてくるほうが、神聖な気持ちで音楽に接することができてうれしい。そうではないにしても、せめて、場内のアナウンスの際は、音鳴らしをやめるべきではないか。これまで何度か経験があるが、今日も、オーケストラが大きな音を鳴らしている最中に、「演奏中の写真撮影などをご遠慮ください。・・・携帯電話をお切りください。・・・耐震設備を有しています・・・」のアナウンスがなされた。もちろん、まったくアナウンスは聞こえない。これはこれで大事な情報なので、きちんと観客に聞いてもらうべきだと思うのだが。

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エリアス弦楽四重奏団のベートーヴェンサイクル初日 親密なのにスケールが大きい!

 2023年6月3日、サントリーホールブルーローズでサントリー・チェンバーミュージック・ガーデンの初日、エリアス弦楽四重奏団によるベートーヴェンサイクルを聴いた。曲目はベートーヴェンの弦楽四重奏曲第1・3・15番。この団体の実演を初めて聴いたが素晴らしい弦楽四重奏団だと思った。

 音色がそろっている。まるで1本の楽器から音が出ているかのよう。ぴたりと縦の線があって、4人が心を一つにして音楽を奏でていることを強く感じる。そして、第一ヴァイオリンの音色がとりわけ美しい。音程が良くて細身で、時に鋭く、激しく音が鳴るが、決して鋭すぎない。シャープさを売り物にしているような団体とはまったく異なる。第二ヴァイオリンだけが男性、ほかは女性だが、出てくる音楽は決してひ弱ではない。特に速く演奏するわけでもなく、テンポを揺らすわけでもなく、ごく正統的な演奏だが、しなやかで柔らかみがあり、親密な雰囲気が漂って、特異な存在感がある。

 第1番は初々しくて、まさに親密さが表に出た演奏だった。若きベートーヴェンの心のひだが聞こえてくるような音楽だった。第3番も、だんだんとベートーヴェンらしさが表に出るが、バランスが良く、しなやかで、のびのびしていて、とても美しい。

 前半を聴いた時点で、とても素晴らしいと思いながら、スケールの小ささを感じていた。親密で小さくまとまっている感じ。この感じでは、後期の弦楽四重奏曲はつまらないのではないかと勝手に心配していた。

 だが、後半も素晴らしかった。いや、後半こそ素晴らしかった。同じようにアンサンブルが良く、4人がしっかりと一つの音楽を作っているが、少しもスケールの小ささを感じない。それどころか、全体が大きく躍動し、ベートーヴェンの心が躍り出てくる。第15番(作品132)は、まるでヴァイオリン協奏曲のようにヴァイオリンが活躍する曲だが、ほかの楽器がうまくヴァイオリンを導き、全体で大きな世界を作っていく。それにしても第一ヴァイオリンのサラ・ボトロックのヴァイオリンが美音で躍動して本当に素晴らしい。第3楽章のあまりに真摯な祈りの心を経て、最後は心を躍らせる。

 明日以降が楽しみだ。

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オペラ映像「ナクソス島のアリアドネ」「イタリアのトルコ人」 フェリーニへのオマージュ!

 オペラ映像を2本みた。簡単に感想を記す。

 

リヒャルト・シュトラウス 「ナクソス島のアリアドネ」2022627-29日 フィレンツェ、ペルゴラ劇場

 

 大好きなオペラなので期待してみたのだが、あまりおもしろくなかった。ダニエーレ・ガッティ指揮のフィレンツェ五月祭管弦楽団がかなりちぐはぐ。びしりと決まらない。リハーサル不足だろうか。ガッティの指揮も、なんだかもたもたしている。かなりローテンポでしっとり歌おうとするのだが、そのため音楽に推進力が生まれない。プロローグとオペラの音楽的な差もあまり感じず、かなり平板に感じた。

 歌手陣も、大物たちが出演している割にぱっとしないのを感じた。作曲家のソフィー・コッシュもアリアドネのクラッシミラ・ストヤノヴァも、名歌手なのに、妙に重い。指揮者の指示なのだろうか。

 とりわけ問題を感じたのは、ツェルビネッタのジェシカ・プラット。好きな歌手のひとりなのだが、どうもツェルビネッタらしくない。プラットが大柄だということもあるし、歌ももったりしている。

 マティアス・ハルトマンの演出は、ナクソス島を南のリゾート島に見立てたもので、派手な装飾、派手に衣装の人々が出入りする。テーマである「孤独」、「動きと停滞の対比」がまったく消えてしまっている。なぜ、リゾート地にしたのか、私は理解に苦しむ。

 

ロッシーニ 「イタリアのトルコ人」20168月 ペーザロ、ロッシーニ劇場

 2016年の収録だが、発売になったばかり。素晴らしい。このオペラは、バルトーリの歌う映像をみたことがあったが、今回の映像ははるかにそれをしのぐ。

 歌手陣はみんなが最高レベル。まずフィオリッラを歌うオルガ・ペレチャツコが本当に見事な歌。高音の美しさはもちろん、色気があって、しかも清潔な歌いまわしもとてもいい。バルトーリほどの躍動感はないが、この役はこのくらいしっとりしている方がいい。まさに浮気っぽくて色気のある女性。容姿の面でも、これ以上は考えられない。

 セリム役のアーウィン・シュロットもさすがの勢いのある歌。ジェローニオのニコラ・アライモもシュロットに負けないほどの声量で、しかもこの人の芸達者ぶりはさすがとしか言いようがない。シュロットとアライモの二重唱はあっと驚くほどに楽しい。ナルチーゾのルネ・バルベラも張りのあるテノール。詩人プロスドチモを歌うピエトロ・スパニョーリもほかの名歌手たちにまったく負けていない。ザイダのセシリア・モリナーリも深みのあるアルトでとてもいい。これまた容姿的にも満足。

 フィラルモニカ・ジョアキーノ・ロッシーニを指揮するのは、スペランツァ・スカプッチという女性指揮者。躍動感にあふれており、一瞬のゆるみもなく、溌剌とした音楽を作り出す。これもとてもいい。ずっと同じように躍動感があるのだが、私が指揮者だったら、ちょっと躍動感のない部分を入れたりして雰囲気を変えると思うのだが、この人はずっと同じように突っ走る。これはこれで一つの考え方だろう。

 演出はダヴィデ・リヴェルモレ。たぶん、これは映画監督のフェデリコ・フェリーニへのオマージュだろう。オペラが始まる前に、映画のオーディションのような情景が舞台上で展開する。そして、バスローブっぽい恰好で帽子をかぶって構想を練る詩人が現れ、詩人の創作なのか、それとも目の前で繰り広げられる現実なのか曖昧なストーリーが展開する。バスローブっぽい恰好で帽子をかぶって構想を練る、というのは、フェリーニの名画「8 1/2」で映画監督(フェリーニ自身をモデルにしている)を演じたマルチェロ・マストロヤンニの格好を思い出させる。この映画はまさに、このオペラと同じように、狂言回しのような映画監督の頭の中の構想と目の前の現実が入り混じって起こる情景を描いたものだった。

 しかも、フェリーニの映画にしばしば登場したサーカスの人々や野性的な大柄な女性が現れる。最後は、「8 1/2」と同じようなどんちゃん騒ぎ。

 演出家は、このオペラの構造が、フェリーニの名画「8 1/2」と似ていることに着目して、フェリーニ仕立てにしたのだろう。そして、確かにこうすることによって、ストーリーの不自然さを緩和でき、観客をフェリーニの映画を見ているようなうきうきした気分にできる。

 ただ、私はフェリーニの映画を感動してみた人間であり、その世代の人間なので、演出意図に気づくが、イタリアでもみんなが気付くわけではなかろう。少なくとも日本人でそれに気づくのは一部の人だろうと思う。

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フリューゲルカルテットのモーツァルト 病院食のようだったが、意図的なのか?

 2023529日、東京文化会館小ホールで、モーツァルト協会例会、「1787年の光と影」、ハ長調 K515とト短調 K516のふたつの弦楽五重奏曲を聴いた。演奏はフリューゲルカルテットとヴィオラの磯村和英。

 フリューゲルカルテットは一線で活躍する岩田恵子、ビルマン聡平(ヴァイオリン)、大森悠貴(ヴィオラ)、植木昭雄(チェロ)によって2019年に結成された四重奏団。磯村さんはもちろん、ビルマン聡平や植木さんをこれまで何度か聴いてとても良い演奏だったので、期待して出かけた。

 意図的にこのような演奏にしているのだろうか。冒頭から、私は大いに疑問に思った。味付けがあまりに薄い。4月に入院をして、信じられないほど味の薄い病院食を出されて閉口した。素材の味が出ていればいいのだが、そうでもなかった。音楽を聴きながら、その時のことを思い出した。

 全体の音量も小さい。メリハリはほとんどない。ただ合わせているだけに思える。ハ長調のこのおおらかでスケールの大きい雰囲気がない。ト短調の曲になると、悲しみを強調するのかと思っていたが、こちらも同じ雰囲気だった。ト短調の出だしも、あの激しい悲しみの表現があまりに控えめ。だから、ハ長調とト短調の正反対の特徴を持つこの二つの弦楽五重奏曲の対比があまり出ない。第四楽章の途中から明るく活発になるところも、その前との対比が出ない。モーツァルトの悲しみもモーツァルトの躍動感も表現されない。フレーズとフレーズの性格の違いも明確に示されない。ハ長調もト短調もずっと同じ雰囲気。アンコールはモーツァルトの弦楽五重奏曲K593。これも同じような演奏だった。

 近年の演奏は対比を強調するタイプのものが多い。そうやって激しく音楽を作っていく演奏が増えている。もしかしたら、そのような味付けの濃すぎる演奏に対して、フリューゲルカルテットはノンをたたきつけて、あえて病院食にしているのだろうか。ほとんど味付けのない、最初から最後まで同じような演奏にし、音量もずっと控えめにして、「今の演奏は味付けが濃すぎる。そんなものは邪道だ。私たちのこそが本当のモーツァルトだ」と言いたいのだろうか。

 だが、私はあまりこのような演奏をあまりに平板だと思った。退屈してしまった。私はこの2つの弦楽五重奏曲が大好きなだけに残念だった。

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ニッセイオペア「メデア」 音程の不安定さを感じて楽しめなかった

 2023527日、日生劇場でNISSAY OPERA 2023 ケルビーニ作曲の「メデア」をみた。指揮は園田隆一郎、演出は栗山民也、管弦楽は新日本フィルハーモニー交響楽団。意外なことに、日本初演だとのこと。期待して出かけた。

 だが、多くの歌手たちの音程の不安定さのために楽しむことができなかった。最初に登場した侍女たちも、グラウチェの小川栞奈もクレオンテの伊藤貴之も声をしっかりとコントロールできていないために、音程が定まらない。肝心のメデア役の岡田昌子も私には、声量のある美声ながら、ずっと音程が不安定に聞こえる。ジャゾーネの清水徹太郎は初めのうちこそ、少し音程が怪しかったが、途中から持ち直して、第2幕以降は安心して聴いていられた。ずっと安定した歌を聴かせてくれたのは、ネリス役の中島郁子だけだった。

 園田隆一郎の指揮する新日フィルも、徐々に良くなってきて、最後の場面ではなかなかの音楽を聴かせてくれたが、最初のうちは音の粗さを感じた。

 新国立劇場の「リゴレット」、METライブビューイングの「ばらの騎士」と2日連続して素晴らしいオペラを聴いたのだったが、良い演奏は3日は続かなかった。残念。

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METライブビューイング「ばらの騎士」 シュトラウスの世界を堪能した!

 METライブビューイング「ばらの騎士」(2023415日公演)をみた。指揮はシモーネ・ヤング、演出はロバート・カーセン。

 まず歌手陣が充実している。元帥夫人はワーグナーやベートーヴェンの主要な役で大活躍のリーゼ・ダーヴィドセン。ドラマティックな声の持ち主なので、元帥夫人の繊細な表現に合っているのかどうか少し心配だったが、まったくの杞憂だった。この役にふさわしいしなやかで気品のある美しい声で、複雑な表情を見事に歌った。シュヴァルツコップのような技巧を凝らした歌ではなく、もっと率直な歌いっぷりだが、むしろ現代ではこのような表現のほうが説得力があるだろう。

 オクタヴィアンのサマンサ・ハンキーも素晴らしい。今回、この歌手を初めて知ったが、初々しくて溌剌としていて、まさにボーイッシュ。少年に見える!声もしっかり出ていた。ゾフィーのエリン・モーリーはこれまでも何度か聴いてきたが、ますます表現力が増したようだ。METの育成プログラム出身だったと思うが、すごい歌手に育ったものだ。高音がとても美しく、うっとりするほど。第3幕の三重唱は溶け合った声に感動した。

 オックス男爵のギュンター・グロイスベックは、今やこの役を得意としているようだ。エネルギッシュで若々しいオックスで、下品でありながら愛嬌があってとてもいい。ブライアン・マリガンは実に人間臭いファーニナルを作り出して、これもいい。

 ヤングの指揮は、繊細でしなやかで、しかも音の重なりが鮮明。私個人の趣味としてはもう少しダイナミックな部分と官能性の両方があってほしかったが、それはないものねだりというべきだろう。

 カーセンの演出では、時代をシュトラウスがこのオペラを作曲した第一次世界大戦前に変えており、オックス男爵やオクタヴィアンは軍服を着ている。そして、ファーニナルは成り上がりの武器商人という設定になっている。幕切れの部分、台本では黙役の小姓がゾフィーの残したハンカチを取りに舞台上に戻るが、今回の演出では、まだオクタヴィアンとゾフィーがベッドの上で愛を交わしているとき、小姓が現れ、手(手に何を持っていたのかは確認できなかった)を舞台背景に向けると、向こうにある戦車などが崩壊する。つまりは、愛の力が武器を壊すというメッセージだろう。同時に、シュトラウスが男女の愛のオペラを作ることによって戦争に向かおうとする社会をなし崩しにしようとしたという解釈を示したともいえるだろう。

 ただ、第二幕が娼館という設定になっていたのが、私には納得できなかった。娼館だとすれば現実問題として、元帥夫人が立ち入らないだろう。そこに何か象徴的意味があるのかと思ったが、私にはわからなかった。

 とはいえ、さすがMET。最高の歌手陣、最高の舞台。シュトラウスの世界を堪能した。

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