音楽

ミヒャエル・ザンデルリンク+ドレスデン・フィルのショスタコーヴィチ第5番に興奮

 2017626日、武蔵野市民文化会館でミヒャエル・ザンデルリンク指揮、ドレスデン・フィルハーモニー管弦楽団の演奏を聴いた。前半に、ウェーバーの「オイリアンテ」序曲と、フランソワ=フレデリック・ギイのピアノが加わってのベートーヴェンの「皇帝」。後半にショスタコーヴィチの交響曲第5番。素晴らしい演奏だった。

 古楽的な演奏だが、ザンデルリンクの指揮はとてつもなくスケールが大きい。実を言うと、「皇帝」はギイとかみ合わないような気がした。ギイはどちらかという叙情と知性のピアニストだと思う。もう少しこじんまりとして繊細なオーケストラのほうがぴたりとくる。第二楽章は少し不発であるような気がした。抒情が空回りする感じ。が、第三楽章になると、大きく盛り上がり、華麗になった。素晴らしかった。そして、ピアノのアンコールに「月光」の第一楽章。知的で繊細で抒情的で素晴らしい。「皇帝」でできなかった自分だけの世界をアンコールで作ってみせたかったのではないかと思った。

 後半はザンデルリンクの持ち味を存分に発揮できる曲。父親のクルトもショスタコーヴィチが得意だった。きちんと聞き比べたわけではないが、昔聞いたクルトの録音もこんな印象だったと思う。スケールが大きく、巨匠風の音楽づくり。ヴォルコフの本が出て世界のショスタコーヴィチ観が大きく変化したわけだが、ミヒャエル・ザンデルリンク指揮のこの曲には、そのようなことは一切お構いなしに聞こえる。

古めかしく聞こえる音響で壮大な世界を作っていく。とはいえ、ロシア風のけたたましい金管の彷徨や狂ったような木管の叫びではなく、そこはドイツのオーケストラであるだけあって抑制されている。第二楽章の諧謔も、第三楽章の抑圧された苦しみも実に説得力がある。緊張感が途切れない。そして、第四楽章になって大きく盛り上がり、堂々たる革命賛歌になっていく。ヒステリックなまでに革命を狂喜しているかのよう。これはこれで実にすがすがしい。感動した。興奮した。

 アンコールはエルガーの「エニグマ」からの曲。興奮を冷ますようなしっとりした曲。

 とはいえ、ショスタコーヴィチの興奮を抱いたまま帰った。

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ANCORA主催「オテロ」 簡素ながら工夫を凝らされた舞台

千葉市の新検見川駅から少し歩いたところにある風の丘HALLで「オテロ」をみた。主催はANCORA。風の丘HALLは84席のオペラ専門の小劇場。私はこの劇場で行われる公演のレベルの高さゆえにひいきにしている。今回は、とりわけ私の尊敬する三浦安浩さんの演出。見ないわけにはいかない。

 第1幕前半は多くの歌手の音程が不安定だったが、徐々に安定してきた。オテロを歌うのは上本訓久、デズデモーナは斉藤紀子。三浦演出のオペラ常連でこれまでも素晴らしい歌唱を聴かせてくれた二人だ。美声の上に張りがあってとてもいい。イヤーゴは大野浩司。太い声で演技も見事。そのほか、私はビアンカを歌った鈴木麻由の声と容姿にも大いに惹かれた。そのほかのメンバーもとてもレベルが高い。

 もう一人、ロドヴィーゴの松山いくおの演技にも目を見張った。前回、風の丘HALLで上演された「マノン」でも、あまりに達者な演技が目立っていたが、今回もまた素晴らしかった。この人の存在なしには今回の三浦さんの演出は成り立たなかっただろう。

 シェークスピアに基づく日本語のセリフとイタリア語によるヴェルディのオペラから成る。ピアノは村上尊志。日本語字幕はなし。

登場人物は扮装せず、男性はスーツ姿。オテロに好意を抱く人々は赤のシャツ、敵意を抱く人々は黒のシャツを着ている。登場人物たちは舞台にとどまらず、客席に自由に入ってくる。いや、初めから舞台と客席が分けられていない。松山さんを中心とした人物の日本語によるセリフの部分によってイマジネーションがかきたてられて、観客はオペラの世界の中に入りこむという仕掛けになっている。日本語字幕はつかず、細かいところは何が語られているかわからないが、日本語の台詞の場面によって、大まかには理解できるように組み立てられている。簡素ながら工夫のこらされた舞台だ。

 それにしても、シェークスピアの台詞の見事なこと。改めてほれぼれとする。お金をかけられないという状況を逆手にとって新たな試みをし、しかもシェークスピアの台詞まで再発見させてくれるところはさすが三浦さん。

 ただ、私は前から2列目で見たが、左右から音楽が聞こえて、音が1つにまとまらずに困った。もう少し後方の席で聴くほうが私の好みだった。

 ともあれ、この劇場で行われるオペラ公演の質の高さを改めて認識した。もっともっとこのようなレベルの高いオペラ公演を行ってほしい。

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 ヤング+読響+ネマニャのブルッフに感動

 2017年6月17日、東京芸術劇場で読売日本交響楽団第198回マチネ―シリーズを聴いた。指揮はシモーネ・ヤング、ヴァイオリンはネマニャ・ラドゥロヴィチ。

 最初の曲は「さまよえるオランダ人」序曲。冒頭から実にしなやかな音。そして、フォルテになるとずしんと体中に響くような音。緩急をつけ、時にはゆっくりすぎるほどゆっくり。弦を歌わせ、絶妙に響きをコントロールして微妙な音色を作りだしながら音楽を展開していく。これほどテンポを動かしているのに、まったく作為性がなく、自然に音楽が広がっていく。素晴らしいと思った。

 私がヤングの実演に接したのは「ナクソス島のアリアドネ」二期会公演だけなので、CDはかなりの枚数持っているが、指揮姿を目の前で見るのはこれが初めてだ。きわめてわかりやすい振り方だと思う。なるほど、このようにするとこんな音が出るのかと納得のできる振り方。腕の振りもしなやかでかつ強靭だ。

 とはいえ、今日の目的はヤングではなく、ヴァイオリンのネマニャ。私は発足当時のファンクラブの会長だった。

いよいよネマニャ登場。黒ずくめで、長い髪を片方に長く垂らしている。もしかして、化粧をしている? が、この人は何をしてもいい。そんなヴァイオリニストだと思う。

ブルッフのヴァイオリン協奏曲第1番が始まった。オーケストラは相変わらず素晴らしい音。そして、そこにネマニャの研ぎ澄まされた美しい音が加わる。音程がビシッと決まったクリアな音。オーケストラの作りだす背景の中にスーッと一本の鋭い線を描き出される。だが、怜悧な音というのではなく、心の律動を音にしたかのよう。スケールが大きく自然で美しい。いつものように指揮者のヤングやコンサートマストレスの日下さんと会いコンタクトを取って目による対話をしながら音楽を進めていく。

私がネマニャのこの曲の演奏を聴くのは二度目だ。前回は2014年4月、大阪のフェスティバルホールで大フィルの伴奏だった。前回もネマニャの音は素晴らしかったが、今回はいっそう音が研ぎ澄まされ、ロマンティックな魂の躍動を描き出す。スケールが大きい。しかも、今回の指揮はシモーネ・ヤング。基盤がしっかりしているので、ネマニャが大きな世界の中で躍動しても、枠組みは揺らがない。

私は2007年にフランスのナントでネマニャのヴァイオリンに触れて虜になったが、その時に比べてネマニャの音楽は間違いなく成熟している。以前にようにヴァイオリンという楽器を使って魂の舞踏を踊るのではない。もっと落ち着き、研ぎ澄まされた音で大きな絵を観客の前で描いていく。第二楽章の繊細な音楽も第三楽章のダイナミックで華麗な音楽も躍動しながら揺るがない。本当に素晴らしい。

大拍手の中でアンコールが始まった。パガニーニのカプリースをつなぎ合わせた無伴奏曲。おそらく2014年に大阪で聴いたものと同じヴァージョンだろう。

これはブルッフ以上に凄まじかった。緩急を自在につけ、名人技を披露し、激しいところは激しく速いところ速く。しかし、音がぴしりと決まっているので、下品にならない。まさしくカプリース(気まぐれ)。途中、弦がネマニャの髪に引っかかって少しだけ音が途切れた。オーケストラとのプログラム曲の最中にこんなことが起こったら大ごとだが、アンコールでカプリースをネマニャが演奏しているのだから、これもネマニャの魅力の一つだ。笑いが起こった。なんという音楽の快楽、なんという躍動。ダイナミックに音が上下し、魂がゆり動かされる。カプリースというのは実は心の躍動の音楽なのだと納得する演奏だ。

10年間ネマニャを追いかけてきて、その順調な成熟を頼もしく思った。大人の音楽になっている。が、決してかつての躍動の美学を失っていない。ますます将来が楽しみだ。

後半はブラームスの交響曲第2番。大いに期待していたが、実は少し失望した。どういうわけだろう。ワーグナーやブルッフの場合と音楽の作りはそれほど変わらないと思うのだが、緩急をつけ、時にゆっくりと歌いだし、時に大きくうねりだすと、なぜか形が崩れてしまう。まるでブルックナーのようになってしまって、ブラームスの魅力が半減する。

第2楽章と第3楽章では私はかなり退屈した。繊細であるべき部分が不自然に響き、音楽が空回りしている印象を受けた。そういえば、私はハンブルク・フィルと録音したブラームスの交響曲全集もあまりおもしろいと思わなかった。もしかしたら、ヤングはブラームスが苦手なのかもしれない。少なくとも、私の好きなブラームスにはならないのかもしれない。とはいえ、第4楽章ではさすがにロマンティックに盛り上がった。

ブラームスには少々失望したとはいえ、前半は素晴らしい演奏だった。大満足。

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 METライブビューイング「ばらの騎士」 第三幕で涙した

銀座の東劇でMETライブビューイング「ばらの騎士」をみた。2016-2017年のシーズンの最後の演目。豪華キャストなので、悪かろうはずがないのだが、それにしても素晴らしい。

ルネ・フレミングの元帥夫人、エリーナ・ガランチャのオクタヴィアン、ギュンター・グロイスベックのオックス男爵は、現在最強の布陣だろう。

ルネ・フレミングが元帥夫人を歌うのはこれが最後だという。私は2001年のメトロポリタン歌劇場の来日公演で彼女の元帥夫人をみて(オクタヴィアンはスーザン・グラハム、ゾフィーはバーバラ・ボニー。指揮はアンドリュー・デーヴィスだった。私の最上の「ばらの騎士」経験の一つだ!)大感激した記憶がある。「ばらの騎士」のテーマを一言で言えば、「あらゆることに終わりがある」。1990年代だったか、シュヴァルツコップの大ファンだった私はCDでフレミングの「四つの最後の歌」を聴いて、シュヴァルツコップのレパートリーをすべて最高レベルで歌える歌手が現れたと思ったのだったが、そのフレミングの元帥夫人も終わりを告げた。感慨深い。最後の三重唱は泣けてきた。

ガランチャは容姿も含めて、もしかしたら歴代最高のオクタヴィアンなのではないかと思った。強い声なのだが、それだけでなく、実にしなやか。グロイスベックの横暴でマッチョな絶倫男というべきオックスも実にいい。2012年のザルツブルクで彼のオックスに初めて接して、その人物像に驚嘆した。今回もその延長線上にある。町のあちこちにこんな人がいそう。実に説得力がある。声もいいし、演技もおもしろい。

もう一人、ゾフィーを歌ったエリン・モーリーも3人にまったく引けを取らない。それどころか、三重唱でももっとも目立っていたかもしれない。美しい高音。容姿もゾフィーにぴったり。

実は最後の三重唱でほんの少しバランスが崩れたように思った。が、すぐに立て直して精妙になった。そのあたりのライブ感も見ごたえがあった。愛の二重唱にも酔った。

ファニナルのマーカス・ブルックもよかったし、何と歌手を歌ったのはマシュー・ポレンザーニ。すごい存在感と素晴らしい美声。

演出はロバート・カーセン。時代は作曲された19世紀末から20世紀初頭に設定されている。オックスは軍服を着ており、軍人がしばしば現れる。第三幕は娼婦の館という設定で、そこにも大勢の軍人が客としている。どうやら元帥夫人はオクタヴィアンの後釜として巡邏隊の隊長を選んだらしいことがほのめかされる。そして、最後に舞台に現れる少年モハメッドは酔っ払っており、幕切れで背後に軍隊が現れる。古き良き時代が終わって血なまぐさい時代に突入することを暗示するのだろう。

指揮はセバスティアン・ヴァイグレ。実はあまり好きな指揮者ではない。第一幕では、ちょっと納得できないところがあった。が、最後まで聞くと完璧に打ち負かされた。

 

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新国立「ジークフリート」 世界最高レベルの歌手たちに興奮

 2017610日、新国立劇場で「ジークフリート」をみた。

 歌手に関しては世界最高レベルだと思う。ジークフリートのステファン・グールド、ブリュンヒルデのリカルダ・メルベート、さすらい人のグリア・グリムスレイ、ミーメのアンドレアス・コンラッドに関しては、現代においてこれ以上は考えられないほど。本当に素晴らしい。声が伸び、音程も正確、役柄にピタリと沿っている。グールドは格調高く、メルベートは強靭で可憐、さすらい人は高貴、ミーメは嫌味たっぷり。いうことなし。

 アルベリヒのトーマス・ガゼリ、エルダのクリスタ・マイヤーも素晴らしかった。少ない出番がもったいない。二人とももっと聴きたいと思った。ファフナーのクリスティアン・ヒュープナーについては、ちょっと不安定なところがあった。森の小鳥は鵜木絵里、九嶋香奈枝、安井陽子、吉原圭子の四人が歌った。日本を代表する歌手たちだが、グールド、メルベート、グリムスレイといった世界最高レベルの歌手に比べると、やはり声の伸びに不足があるのを感じざるをえなかった。とはいえ、もちろん大健闘。

 指揮の飯守泰次郎は、第一幕では抑え気味だったが、徐々にドラマを盛り上げていった。小手先の盛り上げをしないで、じっくりとドラマを作っていく。ただ、かつてのマエストロ飯守の演奏するワーグナーはもっとうねっていたと思う。あまり「うねり」のない演奏だった。円熟の境地になったということか、それともオケのせいなのか。とはいえ、第三幕間で聴くと、最高に盛り上がって実に素晴らしい。

 ただ、東京交響楽団については、金管のミスが目立った。オーケストラ全体でも精妙さに欠けると思った。初日ならともかく、今日は最終日のはず。もう少しなんとかならないものか。

ゲッツ・フリードリヒの演出については、わからないところはたくさんあるが、今となってはあまり刺激的ではない。ミーメの持っていた赤い傘に何の意味があったのだろう。ミーメの防御的な姿勢を象徴しているのだろうか。あるいは、血しぶき? 小鳥が四人登場するのもそれほど意味があるとは思えなかった。

瑕疵はあるにせよ、ともあれワーグナーをみると興奮する。「ジークフリート」は「指環」の中では最も興奮度の低い楽劇だが、それでも第三幕になると感動に打ち震える。いやあ、ワーグナーっていいなあ・・と今日も思った。

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岡田博美 異次元の音楽世界

 201768日、武蔵野市民文化会館小ホールで岡田博美ピアノリサイタルを聴いた。曲目は前半にピエルネのパッサカリアop.52とベートーヴェンのピアノ・ソナタ第21番「ワルトシュタイン」、後半にマラフスキの「ミニチュア」、ドビュッシーの「子供の領分」、リストの「ドン・ジョヴァンニの回想」。ピエルネとマラフスキはまったく知らない作曲家だが、とてもおもしろい曲だった。

すべてに岡田博美の美学が貫かれている。驚いたのはベートーヴェンとドビュッシー。聞きなれたベートーヴェンやドビュッシーではない。人によっては強い抵抗を感じるかもしれない。

私たちの聞きなれたベートーヴェンのドイツ的なごつごつしたドラマがない。まるでリストのよう。しかも、いわゆる外面的で派手なリストではなく、緻密な音の洪水によって12音階的と言えるような厳しくも怜悧な音楽世界を構築したリスト。一度すべての音を脱構築して再び構築しなおしたような音楽だった。感情を排して、ただただ音だけによる世界を作り上げたとでもいうか。音楽が大きく盛り上がるが、情熱的とかロマンティックとかいうのではなく、ただひたすら音の世界が爆発する。

ドビュッシーにも同じようなものを感じた。俗っぽさがなく、一つ上のレベルの音楽世界を築いている。アンコールの最後に演奏された「月の光」も怜悧な知性と澄みきった響きによって独特の世界を作りだしている。

とりわけリストの「ドン・ジョヴァンニの回想」は圧巻。「ドン・ジョヴァンニ」のアリアをもとに自由にアレンジされ、これでもかこれでもかと音の世界が繰り広げられる。感情を歌っているのでも情熱を叩きつけているのでもない。音の色彩によって展開される万華鏡のような世界。それが凄まじい。

アンコールはダカンの「カッコウ」、ショパンの「革命」エチュードと、先ほど書いた「月の光」。ポピュラーな曲なのだが、まったく違った響きがする。

岡田さんはもはやベートーヴェンやショパンやドビュッシーを奏でるというよりも、自分の音の世界を作りだすという境地に達している。驚くべき音楽世界だと思った。

2013年の9月、私が指導していた多摩大学のゼミの活動として、大学のオープンキャンパスの特別コンサートに岡田さんにおいでいただいたことがある。リストによる「タンホイザー」序曲をはじめ凄まじい演奏を披露していただいた。岡田さんのような世界的なピアニストに来ていただけて大変光栄だと心から思ったが、本日、改めて、岡田さんはとてつもなく偉大なピアニストだということに気付いた。今日も凄いものに触れさせてもらった。

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読響シンフォニックライブ 川瀬指揮のショスタコーヴィチ第12番はとてもよかった

 201767日、ミューザ川崎シンフォニーホールで、読響シンフォニックライブを聴いた。川瀬賢太郎指揮、田村響ピアノで、前半はラフマニノフのピアノ協奏曲第2番、後半はショスタコーヴィチの交響曲第12番「1917年」。このごろあちこちで名前を聴く二人の若手演奏家だが、私は一度も聴いたことがなかった。

 ラフマニノフは好きな作曲家ではなく、それほど聴きなじんでいるわけではないので、何とも言えないが、私は最後まで腑に落ちなかった。ラフマニノフの曲想に対して、田村のピアノにロマンティックな情感が欠けているように思えた。もちろん意識的にそうしているのだろうが、では、どのような音楽を作りたいのか、私には見えてこなかった。残念ながら、あまり感動しなかった。

 後半のショスタコーヴィチは、とてもおもしろかった。ショスタコーヴィチについても、私は演奏をあれこれ言えるほど聴きこんでいないが、ショスタコーヴィチ特有の神経痙攣の爆発とでもいえるような部分には興奮した。川瀬の指揮はきわめて力感にあふれ、しかもしっかりと整理されていて、とてもよかった。

 ただ、私はショスタコーヴィチの交響曲よりも室内楽曲のほうがずっと好きだ。交響曲はソ連当局やソ連国民を意識しているせいか、韜晦が混じっていて私は素直に感動できない。ヴォルコフの「ショスコタコーヴィチの証言」が現れて、その真偽が問題になる前から、私はそのような思いを抱いていたが、この「証言」の後は、交響曲を聴くごとに私の頭の中は疑問符だらけになる。今回もそうだった。最終楽章は本当に祝祭風なのか、最後のしつこいまでの繰り返しに何か意味があるのか。・・・ただ、オーケストラの力演に押されて、ともあれ納得させられた。

 アンコールはショスタコーヴィチの「タヒチ・トロット(二人でお茶を)」(アメリカのミュージカルソングをショスタコーヴィチが編曲したもの)。とても軽妙でありながらも、ショスタコーヴィチらしさが随所にあってとてもおもしろかった。

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オペラ映像「カヴァレリア・ルスティカーナ」「道化師」「ペレアスとメリザンド」「真珠とり」「メリー・ウィドー(フランス語版)」

 オペラ映像を何本か見たので、感想を書く。

 

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「カヴァレリア・ルスティカーナ」「道化師」 2015年コヴェント・ガーデン、ロイヤル・オペラ・ハウス

 

 アントニオ・パッパーノの指揮、ダミアーノ・ミキエレット演出の「カヴァレリア・ルスティカーナ」「道化師」。主演はともにアレクサンドルス・アントネンコ。性格の異なる二つの役をアントネンコは実にうまく歌っている。声も素晴らしい。サントゥッツはエヴァ=マリア・ウェストブローク。これも見事。特筆するべきはネッダのカルメン・ジャンナッタシオ。小柄な女性だが、実に魅力的で声も強靭。まだかなり若いと思うが、これからが楽しみだ。トニオのディミートリー・プラタニアスもうまく演じている。

 演出によって二つのオペラを関連付けている。「道化師」のネッダとシルヴィオの出会いが「カヴァレリア・ルスティカーナ」の間奏曲の部分で黙役で示される。「道化師」の間奏曲の部分では、トゥリドゥの死後、心が癒されないまま道化芝居を見物に来たサントゥッツァとルチアが登場する。なるほど!

 パッパーノの指揮は大変雄弁。ドラマティックで美しい。こんなに雄弁なのにまったく不自然さはない。すごい指揮者だと思った。この映像について、私はこれまで知らなかったが、名演奏、名演出だと思った。

 

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ドビュッシー「ペレアスとメリザンド」2012年 パリ、バスティーユ歌劇場

 ロバート・ウィルソンの演出がおもしろい。具体物はほとんどなく、登場人物の動きも具体性がない。まるで能の舞台をみているよう。象徴的な静かな動きから成る。歌手もそろっている。ペレアスのステファヌ・ドゥグーとメリザンドのエレナ・ツァラゴワ、ゴローのヴァンサン・ル・テクシエ、ジュヌヴィエーヴのアンネ・ゾフィー・フォン・オッターはいずれも美しいフランス語、きれいな抑制した声が見事。

ただ、実は私はこの音楽には30分以上耐えられなかった。私の購入したDVDに欠陥があるのか、それともほかの事情があるのか、音量が上がると音が割れてジャリジャリというノイズが混じる。機械の故障かと思って別の再生機でかけてみたが、結果は同じだった。別のDVDではそのような症状は出ないので、少なくともこのDVDに問題があるようだ。

そんなわけで、フィリップ・ジョルダンの指揮については、何とも言えない。

 

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ビゼー 「真珠採り」2012年 ナポリ、サン・カルロ劇場

 ちょっとイタリア語なまりのフランス語が気になるが、なかなか楽しめた。日本でも大人気のディミトリ・コルチャクがナディールを歌って、とても美しい声を聴かせてくれる。レイラを歌うのはパトリツィア・チオーフィ。歌に文句はないが、あまりにエキセントリックな雰囲気。演技でこのようにしているのだろうか。初めのうちはこれでよいにしても、後半ではもっと女性的な動きを見せてほしいのだが、ずっとエキセントリックなままだ。せっかくの美貌なのに、これでは私にはなぜナディールとズルガがこれほどに恋い焦がれるのか理解に苦しんでしまう。ダリオ・ソラーリのズルガとロベルト・タリアヴィーニにヌーラバドもよい声だが、ちょっとイタリア語なまりが強すぎる気がした。

 指揮はガブリエーレ・フェッロ、演出はファビオ・スパルヴォリ。ともに活気があって、私としてはとてもおもしろかった。

 

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レハール オペレッタ「メリー・ウィドウ」(フランス語版)2007年 リヨン歌劇場

 このオペレッタはそもそもパリが舞台。そのためもあって、フランス語で歌われても十分に説得力はある。このオペレッタが好きな人はかなり違和感を覚えるかもしれないが、私のようにレハールに特になじんでいない人間には、まったく違和感なく、まるでフランスのオペレッタのように楽しめた。フランス語も実に自然。

 未亡人を歌うヴェロニク・ジャンスがやはり素晴らしい。風格があり、声に品格がある。  ダニロのイヴァン・ラドロウも端正な顔立ちと歌いぶり。ナディアを歌うマガリ・レジェがコケティッシュでかわいらしい。小規模なオペレッタとしては全員が容姿、声、演技ともに申し分ない。

 演出はマーシャ・マケイエフ。ローラン・プティの演出と同じように、おしゃれでユーモラスで動きがあるので、見ていて飽きない。さすが、フランスの劇場での演出はほかと違って軽やかで大人の遊びにあふれていて、存分に楽しめる。ジェラルド・コースタンの指揮もテキパキしていて、しかも情緒があり、とても楽しめる。満足の一枚だった。

 

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METライブビューイング「エフゲニー・オネーギン」最後には大感動

 東劇でMETライブビューイング「エフゲニー・オネーギン」を みた。第三幕は涙を流した。

 このオペラが私は中学生のころから大好きだ。その後、チャイコフスキーという作曲家には一定の距離を置くようになったが、このオペラについては今も愛せずにはいられない。多くの人が「オネーギンがあまりに傲慢」「オネーギンよりもタチアナに惹かれる」という中で、私はオネーギンという人物が大好きだ。初めてオペラを知ったころ、中学生ながら岩波文庫だったか原作を読んだ。韻文が多くて読むのに苦労したのを覚えている。が、生意気で多感な中学生だった私は、「ふさぎの虫」(確か、このような訳語が使われていたと思う)に襲われる世をすねたオネーギンをカッコイイと思った。そのオネーギンに惹かれ、最後にはねつけるタチアナを可憐だと思った。オネーギンの分身としての素直な心の持ち主であるレンスキーにも共感した。オペラの最初の30分の陰鬱な田舎の雰囲気でオペラの世界に没入した。それから50年以上たつが、いまだに同じ思いでいる。

 そして、今回のライブビューイング。ホヴォロストフスキーが体調不良とのことでペーター・マッテイがオネーギンを歌った。マッテイのオネーギンは、前半は傲慢で嫌味な部分を強調し、後半は真摯さを示す。うまい演技、最高の声。これまで確か2回ほど、この人のオネーギンの映像を見た記憶があるが、現代最高のオネーギンだと思う。ネトレプトのタチアナももちろん素晴らしい。

ただ、今回の演奏や演出も含めて、ネトレプコのタチアナは中学生のころから私が愛してやまない「エフゲニー・オネーギン」とは少し違う。私が大好きなのは、チャイコフスキーの内向的でメランコリックで地味な部分が現れたこのオペラだ。つまり、タチアナはもっと暗く内向的でうちに秘めていてほしい。演奏ももっとけだるく、陰鬱で切なく、そして田舎風であってほしい。ロビン・ティチアーティの指揮はあまりにヴィヴィッドで鮮やか、ネトレプコが歌うとどうしても華麗になる。

とはいえ、第三幕は素晴らしい。劇的な場面になると、ティチアーティの指揮が実にさえる。幕切れは切なく悲しく悲劇的。マッテイもネトレプコも実に素晴らしい。

歌手陣の中で目だったのはグレーミン公爵を歌ったシュテファン・コツァン。若手だが、見事な低音。レンスキーを歌ったアレクセイ・ドルゴフは健闘していたが、主役二人に比べると力不足、魅力不足を感じた。オリガを歌ったエレーナ・マクスモワはとても魅力的な若手歌手だが、前半、少し音程が不安定だった。

さすがメトロポリタン歌劇場の公演だけあって、最後には満足させ感動させてくれる。次回は「ばらの騎士」。今から楽しみでならない。

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ツェートマイヤーの無伴奏バッハ 2日目

 2017513日、トッパンホールでトーマス・ツェートマイヤーのバッハの無伴奏ヴァイオリン曲の連続演奏2日日を聴いた。前半に無伴奏パルティータ第3番とソナタ第3番、後半にパルティータ第2番。

 初日に引き続いて素晴らしい演奏。鮮烈な音。男性的で鋭く、潔い。確信をもって強く表現する。振幅の大きな表現だが、きわめて理にかなっているので、一つ一つの音のつながりに納得がいく。感動する。

 この人は、ひとまとまりのフレーズを一つのフォルムとみなし、それを自在に配置して全体の構成を作っているようだ。まるで美術におけるキュービズムのよう。シャコンヌはとりわけ絶品だった。各所にクライマックスを作るのではなく、フォルムを重ね、スケールを大きくとって徐々に盛り上げ、最後には静かに終息していく。言語を拒絶をしているがゆえに美しい一つの非言語の物語が展開されていく。とてつもないヴァイオリニストだと思った。

 アンコールはビーバーのパッサカリアとツィンマーマンのソナタだという。ツェートマイヤーが何やら語って弾きだしたが、私には聞き取れなかった。曲名はあとでネットで確認した。これも素晴らしい演奏。

 多摩大学を退職すると仕事が楽になるかと思っていたが、いつまでたっても時間ができない。仕事が立て込んでいるので、雨の中、急いで帰った。

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