映画

アントニオーニの映画「敗者たち」

 テレビで石川・富山の大雨、そしてチベット、ネパールの土石流が盛んに報道されている。チベット、ネパールの土石流はあまりに痛ましい。東日本大震災の津波被害を思い出す。日本人を含めて行方不明者も多い。多くの人の無事を祈りたい。

 そんななか、渋谷のイメージフォーラムでアントニオーニ特集が組まれていることを知った。まだ観ていない!と思って、あわてて初期の作品「敗者たち」(1953年)をみにいった。始まってすぐに、数年前にDVDを購入して観たことを思い出した。帰宅して、自分のPC内を検索してやっとかつて書いた感想(その時は、「敗北者たち」というタイトルを用いている)を見つけ出した。読んでみて、当たり前かもしれないが、今日抱いたのとそっくり同じ感想を記していたのに気付いた! 

 フランス、イタリア、イギリスを舞台にした3つの中篇から成るオムニバス映画だ。フランス篇は、仲間たちで郊外の公園に遊びに行って平気で友達を殺す高校生たち、イタリア篇は、豊かな家庭で育ったのに犯罪に手を染めて、つい人を殺してしまい、自分も高所から転落して死んでしまう若者、イギリス篇は、自分で女性を殺しながら目立ちたいために新聞社に記事を売り込む自称詩人を描く。いずれも欲望や見栄のために自分に敗れた人たち!

 私は、60年近く前からアントニオーニの映画を愛してきた。パゾリーニ、ワイダとともに大好きな映画監督だ。「太陽はひとりぼっち」「情事」「欲望」「赤い砂漠」「夜」「女ともだち」「さすらい」は心が震えるほど感動した。

 今日みた「敗者たち」では、フランス篇、イギリス篇もいいが、やはりイタリア篇に私は心惹かれた。犯罪に手を染めて彷徨する青年の空虚感、寂寞感は、後年のアントニオーニ作品に通じる。何を信じればいいのかわからない、確固とした存在感を得られない、ただすべてが白々とした、不確定で中身のないものに思える・・・そんな心象風景をアントニオーニは見事に再現している。これは1953年に作られた映画だが、1951年生まれの私は、そっくり同じような感覚を、アントニオーニの映画を感動してみていた1970年代も、そして、75歳を過ぎた今も抱き続けている。アントニオーニ映画をみると、しばしば思う。「ああ、ここに描かれているのは俺の心だ!」と。そして、きっと私以外の多くの人も同じように思って、彼の映画をみているのだろう。

 今回、イギリス篇でアイルランド民謡「ロンドンデリーの歌」が、様々な形に変奏されながら、繰り返し流されていることに気づいた。この歌の歌詞は、戦地に赴く若者を思って母親の心を描いている。が、いずれにせよ、故郷を思わせる歌なのだろう。きっと、心の故郷を忘れて虚栄心の中にさまよう犯罪者に欠けている精神をこの音楽は語っているのだろう。

 DVDで観たことのある映画だった。改めて劇場で観られてとてもよかった。

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映画「白パンと独裁者」

 ファティ・アキン監督の映画「白パンと独裁者」をみた。私はこれまでにこの監督の映画を4本ほどみている。いずれもとても良い映画だった(このブログに感想をアップしている)。今回の「白パンと独裁者」も素晴らしかった。

 アキン監督の恩師にあたるドイツの俳優・映画監督・作家であるハーク・ボームの自伝に基づく作品だとのこと。原題はアムルム。舞台となっている島の名前だ。

 第二次世界大戦末期、ナチス幹部の父を持つ12歳の少年ナニングはハンブルクに住んでいたが、今は、母親や弟、妹、そして母の姉(?)とともに母の実家のあるアムルム島に疎開している。母はヒトラー信奉者であり、気位が高く、高圧的で、ナチスに反発する人を軽蔑しながら生きている。ナニングもナチス信奉者たちのネットワークの中にいる。ところが、ヒトラーが自殺した日、母は子どもを出産し、その後、元気をなくす。そして蜂蜜を塗った白パンを食べたいと漏らす。ナニングはそれをきいて、母に白パンを食べさせたいと考えて、地元の人の手伝いをするなどの工夫をして、何とかパンを手に入れる。だが、母は喜ばず、腹をすかせた弟がパンを食べてしまう。

 そんなストーリーだが、戦争末期の状況と少年の成長が重ね合わされている。

 ナニングは白パンを得るために努力するうち、魚や鳥などの生命の息づく島での生活を知り、島の人々となじみ、人々の現実、ナチスの蛮行、これまでヒトラーを崇拝していた人たちの末路を知っていく。母親一辺倒だったナニングは母を相対化し、その非人間性も認識する。おそらくドイツの各地で起こっていたであろう親ファシストと反ファシストの反目、都会からの疎開してきた人々の苦労と地元民との対立、戦後の親ファシストの零落をナニングは見つめる。

 最後、ナニングと反目していた疎開者の女の子が、家族とともに島を離れようとするナニングにプレゼントを差し出す場面がある。戦前、戦中の様々な人の反目、対立が和解へと進むことがここで暗示される。

 まさにナニングは戦後ドイツそのものを象徴するだろう。ナチス一辺倒だったドイツは真実を知り、対立していた人々と和解し、新しい勢力に力をゆずっていく。

 美しい映像、ナニングをはじめとした生き生きとした子どもたち、人生を感じさせる島民。ナニングは、必ずしも品行方正ではなく、可愛らしい子でもなく、いつまでもナチスの側にいて、母の影響下から逃れられないがゆえに、いっそうリアリティがある。

 アキン監督はトルコ系ドイツ人であって、以前にはトルコ系の人々のドイツでの葛藤にあふれる生活を描いていた。そのアキン監督が今になってこの映画を作ったのは、もしかすると、過去のドイツの分断と反目を乗り越えた歴史を描くことによって、現代社会の分断と反目が乗り越えられることへの期待を表明しているのかもしれない。

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映画「海辺の一日」  夫の失踪について考えてみた

 映画「海辺の一日」をみた。1983年にエドワード・ヤンが監督した台湾ニューシネマの最初期の重要な作品だという。今回は日本初公開。

 ジャーリィ(シルビア・チャン)は、兄の恋人だったウェイチンが欧米に留学し、ピアニストとして成功して台湾に帰国したことを知って、会いに行く。そして、会わずにいた十数年の出来事を語るうちに、過去の出来事がほぐされていく。兄・佳森(ジャーセン)は開業医だった父に命じられていやいやながら有力者の娘と結婚し、数年前に亡くなっていた。佳莉自身は、大学で知り合った真面目な男性と恋愛結婚するも、夫が家庭を顧みずに働くうちに、夫婦関係はぎくしゃくして、ついに夫は海に身を投げて自殺を図る。

 二人の女性の話の中から、台湾社会の家父長的な家族関係に苦しんでいた若者が、資本主義になじみ、苦しみながらも自分を確立していく様子が明らかになっていく。ストーリーはそのようにまとめられるだろう。

 私は少々冗長に感じて退屈した部分もあったが、各登場人物の心情がじっくりと描かれ、社会のありようも的確に見せてくれて、とても良い映画だった。二人の女性も魅力的、演技も映像も見事。

 ただ、私は大いに疑問を抱いた。海辺で男性の死体が上がるが、それは本当にジャーリィの夫だったのか、それとも作中で一部の人物がほのめかす偽装自殺だったのかという肝心なことが最後まで明かされない。しかも、ウェンチンがわざわざインタビューを断ってジャーリィに会いに来たのは、間違いなく元恋人の動向を知りたいからのはずなので、真っ先に話題になると思うのだが、その人物の死が告げられるのは映画の最後の部分だ。

 つまり、この映画は久しぶりに会った二人の女性の会話としてはあまりに不自然であって、論理的整合性から大きく外れる。もし、これがミステリーの一部であったら、名探偵は「妙ですねえ。ふつう、そのことを最初にききませんかねえ。もしかして、嘘をついていませんか」(コロンボか右京さんの口調を思い出してほしい)と言い出しそうだ。

 いや、私は論理的整合性が弱いから、この映画は駄作だ、などといいたいわけではない。論理的整合性のない名作はたくさんある。

 もしかしたら、ヤン監督がまだ映画作りに慣れていないせいで、このような不整合を見逃した、あるいは作劇上の無理矢理の作為を施したとも考えられないでもないが、きっとそうではないだろう。とりわけ、夫が自殺したのかどうかという大問題(これによってジャーリィの人生観はまったく異なったものになるはずだ!)が明かされないのには何らかの意味があるだろう。しかも、この映画のタイトルは「海辺の一日」なのだから!

 私は、ミケランジェロ・アントニオーニ監督(パゾリーニ、ワイダとともに私の大好きな監督だ!)の名作「情事」(1960)を思い出す。あの映画でも、映画の冒頭部分で行方不明になった女性が、最後まで発見されず、当初、映画としての不整合が指摘されたのだった。しかし、アントニオーニ監督の関心は、むしろその不在、喪失のほうにあった。私は「海辺の一日」にもアントニオーニの匂いを感じる。

 では、この夫の失踪は何を意味するのだろう。映画を見終わった後からずっとそれを考えているのだが、今に至るまでわからない。ネットでだれか何かを言っていないかを探して見たが、今のところ、あたりがない。そもそも私のような疑問を持っている人があまりいないようだ。

 よくわからない。だが、なんとなく、私はこの映画のテーマは「喪失」なのではないかと感じている。

 二人の女性は大きな喪失を抱いている。喪失を埋めようとして生きてきた。その喪失について語りたくてジャーリィはウェイチンと会おうとする。過去の桎梏から逃げて自由になろうとするが、新しい希望も失ってしまう。二人の女性だけではない。真面目に生きようとして、過去の様々なものを失ってしまった夫も、愛する女性を捨てて父に従った兄もきっと強い喪失感を抱いている。大きく広がる喪失感。

 台湾の1983年の精神的状況がどのようなものなのかよくわからないので、はっきりしたことは言えないのだが、私はヤン監督が時代精神のようなものを察知して、この独特の喪失感を描いたのではないかという気がしている。

 実際、この映画をみた後、私はずっと、あの失踪の意味は何だろうと気になり、真面目に生き抜こうとしてそこから逸脱した男の喪失を感じ続けている。

 

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映画「急に具合が悪くなる」 ユマニチュードの考え方!

 濱口竜介監督の映画「急に具合が悪くなる」をみた。濱口監督の映画は「寝ても覚めても」「ドライブ・マイカー」「悪は存在しない」を見て、いずれもとても良い映画だと思った。今回も話題になっているので気になっていた。3時間を超すので二の足を踏んでいたが、ともあれ時間を見つけてみることにした。

 原作は宮野真生子と磯野真穂の往復書簡であって、まったく映画とは異なるという。

 パリの老人介護施設のディレクターを務めるマリー(ヴィルジニー・エフィラ)はユマニチュード(認知症などの障害のある人も人間として敬意をもって接するという介護のあり方)の考えに基づいた介護をしようとしているが、現場の実務者たちから反対の声が上がってうまくいかずにいる。そんなとき、障害のある少年・智樹(黒崎煌代)を通して、日本人の役者・清宮(長塚京三)と演出家の森崎真理(岡本多緒)を知る。彼らの演劇がまさにユマニチュードの精神に基づき、それを実践しているように思えたからだった。とりわけ演出家の真理は癌のステージ4であり、急に具合が悪くなったら最期が近いという状況にいる。マリーは真理と意気投合し、真理に施設でイベントを行ってもらってユマニチュードを進める。反対していた人たちも、ユマニチュードを認めていく。だが、最後、真理は、急に具合が悪くなって亡くなる。

 全編、ユマニチュードの思想にあふれているといってよいだろう。ただし、これは単に認知症の高齢者に対しても人間らしく接する、というレベルではない。障害者も病人も健康な人と同じように生きていくべきだという考え方だ。それどころか、ホワイトボードに真理が書いてマリーに説明する通り、資本主義は外部を侵食していくことから成り立っている。そのため、少子高齢化が起こり、格差が生じ、様々な弊害が生み出されている。この映画で提唱されるのは、外部と内部をなくし、枠をなくし、すべてをひとまとめにしようというユマニチュードの考え方だ。つまり、ここでは、おそらく国籍も人種も階層もひとまとめにされる。生も死も同じこととみなされる。だから、この施設では健常者と被介護者が同等に行動し、役者・清宮はフランス語と日本語の混じった芝居を演じ、真理は死を生きようとする。

 実は私にはこの映画はことのほか親しみやすかった。私には、がんを患っていた妻が急に具合が悪くなって、そのまま緊急入院し、11日後に帰らぬ人になった経験がある。そして、妻の経験を踏まえて、その後、「70過ぎたらサメテガル」(小学館新書)という本を書いたが、それは「すべてサメテガル、つまり、どちらでもいい、どちらでも同じ、という意識で生きるべきだ」というテーマだった。その中に、生も死も同じではないか、という考えに少しだけ触れた。それは今から考えると、ユマニチュードの考えに近いものだった。

 ユマニチュードを実現するのは難しい。濱口監督も、この映画で描いたのが一つのユートピアであることは承知していると思う。だが、理念としてのユマニチュードを描いたこと自体、素晴らしいことだと思う。

 ストーリーの運びもとても明確でわかりやすい。あっと驚くような美しい場面がたくさんある。それにしても、二人の女優さん(ヴィルジニー・エフィラと岡本多緒)が魅力的だ。二人とも今回初めて知った。カンヌ映画祭で主演女優賞を獲得したという。当然の受賞だと思った。

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台湾映画「霧のごとく」 懸命に生きた市井の人たちへの愛!

 台湾のチェン・ユーシュンの監督「霧のごとく」をみた。

 1950年代、戒厳令下の台湾・嘉義で暮らす15歳の少女阿月は、反政府運動のために逮捕され、銃殺刑になった兄の遺体を引き取るため、一人で台北に行く。ところが、到着したとたん、悪い男たちに騙されて売春宿に売られそうになり、たまたま助けてくれた人力車の車夫・趙公道と行動を共にする。そうして、離れて暮らす踊り子の姉(9m88という不思議な芸名を持つ有名な歌手が演じている)のもとを訪ね、公安の刑事たちに追われ、天下の大泥棒(実在の人物らしい!)とも顔を合わせて、どうやら解剖のために医院に回されていた兄の遺体と対面する・・。

 車夫・趙公道が魅力的に描かれている。隙あらば人を出し抜こうとしているすれっからしだが、根からの悪人ではなく、阿月に同情し、あれこれと手助けする。それどころか、最後には自分の危険も顧みず阿月を助ける。自身も過去に傷を持ち、歴史に翻弄されながら、図太く生きている。

 公安の刑事たちも、それはそれで魅力的だ。幹部刑事は権力をかさに着て他人の弱みに付け入る卑劣漢だが、女性を愛し、子どもをかわいがっているようだ。その部下は幹部を憎み、車夫に幹部を殺させ、どうやらそののちに車夫を殺して、女性を自分のものにしようとしている。

 戒厳令下を生きたこすからくて悪にあふれ、しかも、生命にあふれ、善良なところも併せ持った人たち。その人間模様が展開する。

 まさに、霧のごとく生きた人たちだ。つまり、兄の書いた物語で語られる通り、雲になれず、したがって雨になって大地を潤すことができなかった霧のような人間たち。歴史の表面には表れず、時代を作ったわけでもないが、その時代を確かに生き、翻弄されながらも、何とかよい未来を切り開こうとして懸命に生きた市井の人たち。この映画はそのような庶民への愛にあふれている。

 医院の下働きの男が、ほかの解剖のための遺体とともにプールを漂う兄の遺体を棒で引き寄せる場面がある(私は大江健三郎の「奇妙な仕事」を思い出した)。阿月は姉とともに、常に未来に希望を託そうとした兄を思い出しながら、その様子を祈るようにしてみている。悲惨な歴史の中にも明るい未来があることを信じようとする。壮絶な、そして感動的な場面だった。

 最後に、舞台は現代になって、阿月は病院でたまたま老いた趙公道と再会する。趙公道は銃殺されてはおらず、25年の監獄生活を送った後、無事に生きていた。趙公道は阿月の兄の形見の時計(=未来への希望)を阿月に託す。子どもを持つ阿月に未来への希望を託そうとしているのだろう。

 実をいうと、台湾史に無知のため時代背景がよくわからず、登場人物たちの過去の行動がうまくつかめないところもあった。少し調べてみる必要がある。だが、この映画を作った人たちの熱いメッセージはしっかりと伝わってきた。

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「シンプル・アクシデント」追記、そして「熊は、いない」「君は行き先を知らない」

 先日、「シンプル・アクシデント」についての感想を記した。少し、書き忘れたことがあった。

 砂漠の中で主人公はかつて自分を拷問したと思われる男を生き埋めにしようとする。がらんとした砂漠の真ん中に大きく枝分かれした一本の木がある。その場面を見て、なんとなく既視感をおぼえた。あとで、登場人物のやり取りから、それがベケットの舞台「ゴドーを待ちながら」の有名な舞台(Wikipediaによると、1978年のアヴィニョン演劇祭の舞台らしい)だった。登場人物の二人は、かつて恋人同士であったころ、「ゴドーを待ちながら」を見たとのことだった。

 いうまでもなく、この戯曲は不条理劇として評判になったもので、1970年代にフランス文学に関心を持った人間は、間違いなくベケットの洗礼を受けているだろう。私は夢中でベケットの戯曲や小説を読んだものだ。

 この戯曲は、ゴドーという正体不明の存在を待つ二人の男が、あれこれしゃべるが、結局ゴドーは現れず、ゴドーが何者なのかもわからないという話しだが、ゴドーGodotGodではないかという解釈がある。いずれにせよ、何か希望のようなものを象徴しているだろう。

「シンプル・アクシデント」は、イラン世界、そして国際世界の和解という幻想を待ちながら人々が右往左往する映画なのだと思う。

 

 そのほか、パナヒ監督の映画をPrimevideoを探して観た。感想を記す。

「熊は、いない」 2023年 ジャファル・パナヒが監督

 パナヒ監督自身が主演している。

 イラン政府から映画製作を禁じられたパナヒ監督は、国境の村に滞在し、携帯電話やパソコンを通して遠隔で監督をしてトルコでドキュメント風の映画を撮影している。そんなとき、村の恋愛のいざこざの果てに愛し合う村の若い男女が殺害される事件に巻き込まれてしまう。

 村人の口を通して語られる村のバカげた因習に多くの人が囚われ、そのために身動き取れなくなり、いがみ合って、自由に行動できなくなっている。実際には熊などいないのに、みんなが熊がいると恐れている因習社会! そのために殺人まで起こっている。

 トルコで撮影中の映画でも、主役女性が映画の中に真実そのものを描かれておらず、未来が見えないことに絶望し、トラブルの挙句自殺してしまう。ここでも、ありもしないものに阻まれているということらしい。

 実は、トルコで撮影されているという映画の内容、主役女性の怒りなどについて、私はよく理解できなかった。そのため、なんだかよくわからないのだが、それでも、さすがパナヒ監督の作品! 置かれた状況、その中の人々の苦しみが伝わる。

 

「君は行き先を知らない」 2023年 パナー・パナヒ監督

 巨匠ジャファル・パナヒ監督の息子さんであるパナー・パナヒの監督作品。息子さんの作品とは知らず、Primevideoでパナヒを検索したら出てきたので巨匠の作品だと思い込んでみはじめたが、どうもあまりおもしろくない。その時点で調べてみて、息子さんの監督作品だと気づいた。何度も中断しながら、我慢して最後までみた。

 レンタカーで小学生くらいの子どもと青年、その両親が国境に向かっている。どうやら青年が密出国するということらしいが、子どもはそれを知らない。だんだんと状況が明らかになっていく・・というロードムービー。だが、道中で起こるいろいろなことが唐突に感じられる。

 私がイランの状況を理解していないからかもしれないが、なんだか意味不明。子どもも可愛げがないし、車の中でみんなで何度もポピュラーソングらしい歌を歌う意味もよくわからない。映像は異様に美しいのだが、登場人物に共感もできず、意味も分からずに終わってしまった。

 しばしば、シューベルトのピアノソナタ第20D.595の第2楽章の断片が流れる。イラン映画でクラシックが流れるのは珍しいと思った。孤独な魂を描きたかったのだろう。が、どうもこの映画はそれがうまくいっているようには思えなかった。

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パナヒ監督の映画「シンプル・アクシデント」 最後の場面は和解への希望か?

 イランの映画監督・ジャファル・パナヒの新作映画「シンプル・アクシデント」をみた。

 パナヒ監督は、「チャドルと生きる」「これは映画ではない」「人生タクシー」をみたことがある。いずれも刺激的で、とてもおもしろい映画だった。イラン社会の矛盾を真正面から描き、いくつかの映画では、ノンフィクションとフィクションを織り交ぜて、イラン政府から映画を撮ることを禁止されながらも映画を撮ろうとすることの苦労を描いていた。さて今回はどうだろうと思って観に出かけた。今回は完全なフィクションだった。

 自動車整備工のワヒドは、かつて反政府とみなされて投獄され、拷問を受けた過去があった。ある時、故障をして持ち込まれた車を運転する義足の人物をみて、それが、自分を残虐に拷問した「エグバル」だと確信する。目隠しをされていたのでエグバルの顔はよくわからないが義足の音から間違いないと思う。男を拉致して殺そうとするが、男は人違いだと訴える。ワヒドの確信は揺らぎ、義足の男を閉じ込め、引き回しながらも、同じようにエグバルにひどい拷問を受けた仲間たち四人に判断してもらおうとする。そうして、反政府とみなされて投獄された人々の苦しみがあらわになっていく。

 かつて拷問された五人の反応がとても興味深い。ワヒドは義足男を見つけた時には興奮して一方的な行動をとるが、いったん疑い始めてからは冷静になっていく。一人の暴力的な男(現在、ネットで排斥的なことを声高に主張している人々の典型的な考えを代表していそう!)だけが、間違いないと決めつけて、強硬に殺してしまえと激しく主張するが、ほかの人々は拷問に深く傷つき、復讐したいと強く願いながらも、無実の人間をあやまって傷つけることを恐れる。

 ワヒドは、義足の男の妊娠中の妻が倒れて、幼い娘が助けを呼んでいるのに気づいて病院に連れていき、妻は赤ん坊を出産。ワヒドらはあわてて妻を救助しているうちに、徐々に気持ちを軟化させていく。だが、もちろん拷問者を許すことはできない。

 終盤になって、義足男はワヒドらになぶり者にされつつも、妻と赤ん坊が助けられたことを知らされ、それに対して感謝の意を示す。そして、拷問を受けた者たちの苦痛の激しさを知って、自分が拷問者であったことを告白する。ワヒドは義足男に無理やり謝らせるだけにして、それ以上の復讐はしないで、郊外に置き去りにして去る。

 最後の場面、ワヒドが仕事をしているとき、背後で義足の音。ワヒドは振り返らずに怯えて立ち止まる。もしかしたら、義足男がワヒドを見つけて復讐に来たのか、それとも和解の言葉をかけに来たのか。だが、足音はそのまま去っていく。

 イランの体制派と反体制派の憎みあいや、イランの社会の現状が映される。それほど宗教の縛りが強そうに見えず、どこの国でもありそうな結婚前の写真撮影、ご祝儀のお金の取り立てなどが描かれる。まさにイラン社会のリアル!

 タイトルは、「シンプル・アクシデント/偶然」。もっと俗に言い換えれば、「ほんのちょっとしたこと」というような意味だろう。

 映画の冒頭、ちょっとした事故で犬が車に轢かれて死ぬ場面がある。ちょっとしたことで車が故障し、たまたま車はワヒドのいる修理工場に運ばれる。そして、終盤で語られる通り、そもそも義足男が政府側の立場になったのも、まさにちょっとしたことによる。ちょっとしたことで、運命が分かれ、人生が狂わされて、敵対し、憎みあっていく。

 最後の場面、ワヒドの背後を義足の音が通り過ぎていく。様々に解釈できるだろう。私は、これを監督の和解への希望だと思う。きっと、義足の男は和解を申し出に来たのだと思う。そして、何も口にしないまま去った。

「イランの人々は、ちょっとしたことで立場が分かれてしまい、憎みあうようになってしまった。だが、実は、誰もが家庭を大事にし、他者を思いやる人間だ。その差はちょっとしたことでしかない。だったら、和解しあえるのではないか」。

 この映画はそんなメッセージを伝えていると思った。

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映画「そして彼女たちは」

 ダンデンヌ兄弟が監督した映画「そして彼女たちは」(2025年 ベルギー・フランス合作)をみた。原題はJeunes mères。そのままずばり「若い母親たち」!

 母子支援施設で出産、育児のサポートを受ける貧しくて若いシングルマザーたち5人(ジェシカ、ジュリー、アリアンヌ、ペルラ、ナイマ)を描く。5人とも複雑な家庭環境の中で育ち、薬物中毒などに苦しみ、それぞれのパートナーに恵まれているわけでもない。しかも、10代の少女たち(ジュリーはどうやら15歳のようだ)なので、未熟で精神が不安定であって、薬物に手を出したり、母親に甘えようとしたり、懸命に入所者を支えようとするスタッフたちに八つ当たりしたりする。

 私はダンデンヌ兄弟の映画を何本かみているし、とても良い映画を作る兄弟監督だと認識しているが、実をいうと、あまり好きな映画監督ではない。常に現実社会の弱者をリアルに描き、時に弱者を食い物にする人間のクズと呼ばれても仕方のないような人物までも克明に扱うので、見ていてイライラする。しかも、私からすると、すでに知っていること、少なくとも想像のつくことを描いて、社会や人間について新しい発見につながるようなものを描いてはくれない。私は社会の見方、人間の見方、世界の見方を根底から変えてくれるようなものが映画に求めているが、ダンデンヌ兄弟の映画にはそれがあるとは思えない。

 とはいえ、ここまでリアルに、その弱さ、その欠点も含めて、少女たちの実像を描き、それぞれの苦しみ、悩みを見せられると、私もまた彼女たちの人生を共有し、彼女たちに声援を送り、彼女たちとともに泣いたり怒ったりしたくなってくる。家庭環境から逃れられず、自分が育てられたように子供を育てるような境遇に追いやられてしまい、それを断ち切るためには、どんな人間でも信じられないほどの覚悟が必要となることを実感する。

 子どもを産むときになって、自分を捨てた母への思いを強くして、執拗に母を求めるジェシカ、薬物に頼りたくなる気持ちを抑えて、真面目なパートナーに支えられて何とか健気に生きようと努力するジュリー、パートナーに裏切られて姉に頼るしかなくなるペルラ、母の説得を振り切って、自分の子どもを手放すアリアンヌ。どの少女の気持ちも痛いほどわかる。解決しなければならない社会矛盾が山のようにあることに気づかされる。

 最後の場面で、ジュリーは、自らも薬物中毒の過去を持ちながらも真面目に立ち直ろうとしているパートナーとともに、かつての恩師を訪ねて、結婚の証人になってくれるように依頼する。老教師は驚きながらも快く引き受け、ジュリーが授業で感動したというアポリネールの詩「告別(Ladieu)」を暗唱し、それに曲をつけたシャンソンをピアノ伴奏をつけて歌う。そして、その後、赤ん坊に向けて、元気になる曲としてモーツァルトの「トルコ行進曲」を弾く。調律の甘い、しかもあまりうまくないピアノだが、老教師の思いがこもっている。恵まれない人たちが、自分の境遇を断ち切って未来を築いてほしい気持ちを共有したくなる。さすがにこれは泣けてくる! 

 調べてみたら、マルティヌーがアポリネールのLadieuに曲をつけているらしい。最後のクレジットをよく読まなかった(字が小さくて、私のような老人には読むのはかなり難しい!)のだが、あれはマルティヌーの曲だったのだろうか。

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映画「センチメンタル・バリュー」 三世代にわたって続く苦悩

 映画「センチメンタル・バリュー」をみた。監督はヨアキム・トリアー。カンヌ映画祭グランプリ、アメリカのアカデミー賞2026年国際長編作品賞受賞(つまり、日本映画「国宝」よりも高く評価された!)のノルウェー・フランス・デンマーク・ドイツ合作ということらしい。

 とてもいい映画だった。

 離婚して家を出た父親と、残されて育ち、わだかまりを抱く姉妹が葛藤の末に理解しあうようになる、という大筋のなかに、様々な要素が組み込まれる。

 映画監督のグスタフ(ステラン・スカルスガルド)は、離婚後、家を出ていたが、妻の死後、家に戻る。グスタフの母はナチスへの抵抗のために拷問を受け、それが癒えずに、その家で自殺したのだった。グスタフは母をモデルにした15年ぶりの新作映画を撮ろうとして、その主役に一流の舞台俳優である長女のノーラ(レナーテ・レインスベ)を当て、ノーラの妹アグネスの息子も出演させようとする。だが、父親に複雑な感情を持つ姉妹はそれを断る。だが、互いの苦しみを理解しあうようになり、脚本がノーラにふさわしいことを誰もが理解して、ノーラと少年の出演がかなう。

 映画の冒頭で語られる通り、ノーラは幼いころに家を擬人化した作文を書き、しばしば家が家族をどう見守っているかを意識する。つまりは、この映画は、舞台となっている「家」がグスタフの母、グスタフ、ノーラの3世代をどのように見守ってきたかの物語でもある。

 この3世代は重なり合っている。グスタフの母は自殺、グスタフは母の自殺で大きな心の傷を負い、ノーラは両親の離婚で苦しんで自殺未遂らしい経験があるようだ。3世代が同じような苦しみを味わい、それを引きずっている。3世代が暮らした家は、当初からひずみがあったが、それが今も残っている。

 しかも、登場人物の全員が、自分なりに懸命に生きている。苦しみを抱えながら、なんとかそれを克服しようとし、自分なりに周囲のことも考えて生きている。だが、引きずる苦悩をどうすることもできず、関係がぎくしゃくし、誤解が生じ、悩みが生じる。まさに人生! まさに人間関係!

 そうした三世代における苦しみの様子を家は見つめている。そこには、タイトルにある「センチメンタル・バリュー」(「思い出の品」というような意味らしい)がある。思い出の品のたくさんある家、そこでの家族の葛藤。そして、最後、映画の中での「母親」は、どうやら自殺を思いとどまるらしい。苦悩からの脱出がほのめかされる。

 もしかしたら、この「家」というのは、ノルウェーという国のことかもしれないな、とも思った。いやいや、もっと普遍的に、ヨーロッパ世界、あるいは日本を含む全世界のことかもしれない。第二次大戦前から現代までの世代間に引き継がれた苦しみ、世代間の葛藤、そうしたものが形を変えながら引き継がれている。もうそろそろその苦悩から逃れられてもいいのではないか・・・。

 美しい映像。素晴らしい演技。ただ、とても良い映画だとは思いながらも、これが年で最高の大傑作かというと、それほどでもないかなあという気持ちにもなった。

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映画「国宝」 主人公二人がよく似ている!

 映画「国宝」をみた。話に聞いていた通り、歴史に残る名作映画だと思った。

 映画は吉田修一の原作とはかなり異なる。原作の主要な人物が何人か登場しない。小説の主人公・喜久雄(黒川想矢・吉沢亮)も、そして花井半二郎(渡辺謙)も映画の世界で活躍するはずだが、それもすべてカットされている。喜久雄と俊介(越山敬達・横浜流星)そして、駿介の父親である半二郎の関係に絞ってストーリーが展開していく。しかも、後半、原作にない場面も挿入され、別のエピソードが添えられる。原作の精神が映画の観客に伝わるように、きわめて巧妙に作り変えられている。原作に忠実にして全体が薄まるよりも、このような方法を選んだ台本は大成功していると思う。

 芸を磨こうとする二人の青年の努力、そして、歌舞伎の血を受け継ぐ者とそうでない者の友情と葛藤。もうそれだけですべての場面が緊張感にあふれる。そこに女形の芸が加わり、華やかさが加わると、観客は夢中になって画面をみるしかなくなる。

 これはまさに裏と表の物語だ。それがひっくり返ったり、元に戻ったり。

 私は人間の顔の識別が苦手だ。映画をみてもしばしば混乱するし、日常生活でも困っている。そんなわけで、吉沢亮と横浜流星も見分けがつかずに困った。いや、それどころか、実を言うと、私はしばらく前、テレビ・ドラマで横浜流星をみて、その人物こそが大河ドラマで主役に抜擢され、CMでも見かける吉沢亮その人だとばかり思っていた。しばらくたって、二人が別人だと気づいて驚いたのだった。その後、ずっと私は二人の見分けがつかなかった。この「国宝」も、中盤になってやっと二人の区別がつくようになった。

(アメリカのアカデミー賞の候補作になっていると聞くが、日本人の私でも識別に苦労しているのに、外国人に識別できるのだろうか。ちょっと心配。もしかしたら、私の識別能力が特別に劣っているだけなのかもしれないが)。

 この二人のキャスティングは、きっと二人がとてもよく似ているためになされたのだと思う。二人が似ているために、この二人が裏と表の関係であることが明確になる。そして、映画が進んでいくにつれて、それが裏表の関係ではなく、一体の関係に変化していく。そして二人が一体化することで歌舞伎の伝統が一つの国宝という生命になっていく。これはすべての人格を喰らい、一つの抽象的な国宝という芸術美が結晶することを描く残酷な物語なのだと思う。

 残念ながら日本の古典芸能についての素養のない私には、映画に出てくる歌舞伎の内容を深く理解できない。その演目、その場が小説で、あるいは映画で選ばれり、変更されたりした理由もよくわからない(「曽根崎心中」については、足!にポイントがあるのは理解できるが)。もちろん登場人物たちの歌舞伎の仕草の巧拙を判断することもできない。それらを理解できたら、もっと楽しめただろうと思う。

 それにしても李相日監督の演出力に感嘆した。冒頭の殴り込みの場面からして、リアルであるとともに様式美にもあふれている! 少年時代の二人の演技も見事。そして、もちろん、二人の芝居、踊り、舞台上で動けなくなった俊介を喜久雄がかばう場面など、息をのむ。いや、その二つの場面だけではない。そのような場面にあふれている。しかも、映像は洗練され、動きにあふれている。芸ということでいえば、小野川万菊を演じる田中泯、幸子の寺島しのぶの演技力にも圧倒される。

 小説を先に読んでいたので、映画化には落胆するのではないかと危惧していたが、むしろ私は映画の力を再確認できた。私が小説を読んで少し違和感を覚えたところが上手にカットされ、同じような意味を持つ別の構成、別のエピソードに変えられ、それが違和感なく感動的な映像として展開していった。これは小説の映画化の見事な例だと思った。

 このような良い映画が大ヒットするのはうれしいことだ。

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