映画「悪は存在しない」 ラストを私なりに解釈してみた
濱口竜介監督のベネチア映画祭銀獅子賞受賞作「悪は存在しない」をみた。途中までは納得してみていた。そこまでは、ある意味、とてもよくできたふつうの映画だった。
長野県とみられる山間の寒村。水は澄んでおり、鹿や鳥が立ち寄り、村人は豊かな自然の中で生きている。ところがそこにグランピング場(気軽にキャンプのできる場所)の建設計画が持ち上がる。企業に委託された芸能事務所の男性・高橋と後輩の女性・黛が企業側の代表として説明会にやってくるが、住民の反対にあってたじたじとなる。何とか折り合いをつけようとして、村の中心的な人物である便利屋の巧(たくみ)に接触する。巧やその娘である小学生の花(はな)と行動をともにするうちに、二人の芸能事務所のメンバーは自然の豊かさに目覚めていく。
芸能事務所の社長も、コロナ禍を生き延びるために会社の方針で仕方なくこの種の仕事に力を入れている。グランピング場を計画している企業もすでに補助金をもらう都合上、時間をかけるわけにはいかない。そして、だれもがそれなりに現地の住民のことも考えている。確かに、「悪は存在しない」。そうした状況を映画は丁寧に描く。私が名前を知っている役者、それどころか顔を知っている役者は出演していない。そうであるがゆえに一層映像がリアルに感じられる。人間の生きる姿、自然のありようが存在感にあふれて描かれている。
ところが、最後の10分ほどだろうか。突然話が展開し、何が起こったのかわからなくなる。映像は幻想的になり、極端に説明が省かれる。
花が行方不明になる。村が総出で探すが、なかなか見つからない。翌朝(?)、巧は手負いの鹿に襲われて(?)絶命した(?)花を発見。芸能事務所の高橋は巧と行動を共にしていたが、高橋が倒れている花のもとに駆け寄ろうとすると、巧は突然、高橋を襲って殺そうとする(?)。いったんは息を吹き返した(?)高橋が喘ぎながら倒れる(?)ところで映画は終わる。
いったい何が起こったのだろう。巧はなぜ高橋を殺そうとしたのだろう。
多様な解釈が可能だと思う。濱口監督は、おそらく自由に解釈できるようにあえて作っているのだろう。私なりにあれこれ考えてみた。
「悪は存在しない」というタイトルがヒントになりそうだ。
確かに、高橋をはじめ都会から来た人たちにもそれぞれの事情があり、みんなが悪人というわけではない。だが、悪は存在しないとみなして、それを許容していたら、なし崩し的に自然が破壊されてしまう。自然の中で育ち、人と動植物の媒介をしていた少女・花の死は、そのような「悪は存在しない」「仕方がない」というそれぞれに人間の都合による言い訳で自然を壊してきた結果なのではないか。
高橋に代表される都会人は、根は善良ではあるが、なびきやすく、自分に甘い。そのような態度こそがすべてを壊してきた。自然の中で生きる巧自身もチェーンソウを使い、車を使って自然を汚している。映画の中では、自然に反する音、たとえば鹿を撃つ銃声や空を飛ぶ飛行機の音がしばしば強調される。
しかし、同時に「悪は存在しない」ということは、「善悪は存在しない」「善も存在しない」ということになる。
多くの人が自然を「善」とみなしている。自然は美しく、素晴らしく、良いものだと考えている。環境保護の考えの中ではそのような文脈で自然は語られる。だが、実際にはそうではない。自然は災害を起こすし、自然の世界は弱肉強食で善悪は通用しない。映画の中で、繰り返し木々が映されるが、そこで響くオルガンの音楽はけっして美しいものではない。不協和音にあふれ息苦しく、暗いエネルギーにあふれた音だ。
花が鹿に殺されたのも、そのような善ではない自然の中でのことだった。「悪は存在しない」、そもそも善もない、冷徹でエネルギッシュな生命の論理で動いている。だから、その中で花が死んでも仕方がない。そもそも、まさにその名前の通り、この少女は花のような存在なのだ。
結局、巧は、自分の都合で自然を破壊していった人間たちに怒り、同時に、様々なものを破壊し、人間を殺すこともある自然の論理に気づいたのではないか。だからこそ、娘の死を契機に自然の論理を体現して、自然を壊そうとする高橋を殺したのではないか。巧は「悪は存在しない」「善悪は存在しない」「存在するのは、決して美しくない自然の理不尽な論理だ」と思い知り、それを実行したのではないか。
私なりの解釈を書いてみたが、まだまだよくわからない部分がいくつもある。私に読み取れていない寓意もたくさんありそう。そのわからなさも含めて、確かにこれはとても良い映画だった。
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