映画

映画「葬送のカーネーション」 意味不明の荒涼たる世界の生と死のまじりあい

 トルコ映画「葬送のカーネーション」をみた。2022年のベキル・ビュルビュル監督。

 老人と10歳前後の女の子が車の後ろの座席で移動しているところから始まる。そして、徐々に二人が棺をもって冬の荒野地域を移動しようとしていること、どうやら車に乗せてもらったのはヒッチハイクだったらしいこと、車から降ろされた後は、棺を徒歩で運んだり、トラクターに乗せてもらったり、洞窟を探して夜を過ごしたりして、国境に向かおうとしていること、二人は祖父と孫らしく、祖父はトルコ語を理解できない様子であること、どうやら棺の中の遺体は少女の祖母らしいこと、祖母が故国に埋められることを望んでいたために祖父が遺体を運ぼうとしていたことなどがわかってくる。そして、遺体を段ボール箱に入れかえてトラックに乗せてもらって国境にたどり着くが、そこで中身が遺体だと発覚して警察にとどめられ、祖父の強い抗議にもかかわらず、その土地に埋葬される。祖父は故国に帰ることを願い、そのまま孫をトルコに置いて、国境を一人で超える。

 ずっと老人が苦労して棺を運ぶ様子が描かれる。トルコのそこそこ善良な人々がそれを手助けしたり、途中で放り出したりする。それだけの映画だ。説明がほとんどないので、観客はちょっとしたことを手がかりに推測していくしかない。しかも、少しずつしか真実は明かされない。観客はずっと様々なことに疑問を抱いたままだ。

 しかも、最後まで老人の故国はなんという国なのか(たぶん、シリアなのだろうが)、なぜ老人はトルコに来たのか、決して親しげに見えない老人と孫との間に何があったのかも明かされない。子どもの描いた絵や、国境付近で難民らしい人々が見えることから、どうやら内戦が起こって子どもの両親は戦争で殺され、祖父と祖母は命からがらトルコに逃げたらしいことは推測できるが、それも断定はできない。老人は洞穴の中で寝ている間に、貨物列車の脇で目を覚ました夢を見る。だが、その意味もよくわからない。

 私がこの映画を見て、最も興味を引かれたのは、何よりもこの「わからなさ」だった。二人を車に乗せる人々は、観客にも老人と孫にも意味不明の内輪の話を長々とする。とりわけトルコ語を介しない老人にはすべてが意味不明の世界だ。そのような不確定で意味不明の世界の中で生と死がまじりあう。老人はきっと孫を寒さから守るためだろう、棺から遺体を取り出して、そこに孫を寝かせたりする。二人にとってこの世界は死にあふれている。そうした世界を、観客も一緒になって味わう。

 祖母の墓に孫が描いた祖母の絵とともにカーネーションを飾ることから「葬送のカーネーション」という日本語タイトルがつけられているが、原題は「クローブを一つまみ」という意味だという。クローブ(丁子)は臭い消しとして使われる植物で、たしかに老人が車を運転する女性にもらったクローブを棺に入れる場面がある。しかも、カーネーションはクローブの香りがするとのことで、トルコ語ではクローブと同音異義だという。

 考えてみると、カーネーション=クローブは死を悼む花であると同時に臭い消しであり、生の世界と死の世界をつなぐものなのだろう。私が、よく理解できないながら、この映画をとてもおもしろいと思い、最後まで惹かれて見続けたのは、きっとこの生と死をつなぐ冬の荒涼とした世界での孤独な人間の営みを見る思いがしたからだと思った。

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カウリスマキ監督の映画作品「枯れ葉」をみた

 フィンランドの名匠アキ・カウリスマキ監督の新作「枯れ葉」をみた。カウリスマキ監督らしい佳作。

 酒びたりの労働者ホラッパ(ユッシ・バタネン)と孤独に暮らす女性アンサ。恋愛に不器用な中年の二人がカラオケバーで出会い、惹かれあって、何度かのすれ違いを経て結ばれるまでを描く。それだけの話だが、とても感動的でしみじみとして味わい深い。

 二人とも下層の肉体労働者。ホラッパの方は酒を飲みながら仕事をし、禁煙の場所でタバコを吸い、煙草を取り出しているときに、せっかくもらったアンサの電話番号をなくしてしまうなど、自業自得の面があるが、アンサは不運に見舞われて職を奪われ、孤独に暮らしている。アンサはホラッパがアルコールに依存していることを嫌っているため、いったんはホラッパは別れるが、酒を断って、紆余曲折の末、一緒に暮らそうとする。

 フィンランドの下層労働者の過酷な現実が描かれるが、カウリスマキの人間愛にあふれた視線や抽象化されてリアルすぎない描写のために、のほほんとした雰囲気が生まれて、静かで真摯な二人の愛を応援したくなる。たくさんの歌が流れて、その時々の登場人物の心象を語る。チャイコフスキーの「悲愴」の第一楽章が、二人の愛の気分を示す音楽としてたびたび現れる。これらの音楽もリアル過ぎなくするための仕掛けだろう。こうして映像はある種の寓話になっていく。

 ラジオでウクライナ戦争で犠牲になっているウクライナの市民についての報道が語られる場面が何度も出てくる。それについて登場人物はほとんど何も言及しないが、カウリスマキ監督は、戦争犠牲者への哀悼を示し、登場人物たちと同じように社会の理不尽に痛めつけられているウクライナの人々への連帯を呼びかけているのだろう。

 私は、昔、雑誌「ガロ」などで読んでいた永島慎二の漫画を思い出した。愛情にあふれた視線でのほほんとして穏やかに若者や子どもの世界を描きながらも、その問題意識は鮮烈だった。深刻にリアルに描かないだけにいっそうじっくりと社会を考える気持ちにさせられていた。そういえば、このごろあまり永島慎二は読まれていないのだろうか。残念なことだと思う。

 映画の二人は犬を従えて、秋の道を歩いていく。そこでタイトルにもなっているシャンソン「枯れ葉」(歌詞はフランス語ではなく、たぶんフィンランド語)が流れて映画は終わる。「枯れ葉」はフランス語ではfeuilles mortes。すなわち「死んだ葉っぱ」。フィンランド語でも同じのようだ。

 枯れて死んだ葉っぱの中を、二人は歩く。死にあふれた世界の中で、二人は愛をはぐくみ必死に生きようとする。それがカウリスマキ監督のメッセージなのだろう。

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映画「父は憶えている」をみた

 アクタン・アリム・クバト監督によるキルギスを描く映画「父は憶えている」をみた。

 しみじみとしたいい映画だと思う。東洋系の顔立ちをしたキルギスの人々の生活を知り、イスラム教徒の生き方を垣間見ることはできたが、この映画に現在の日本で暮らす私に何かを訴える力があるかというと、それについてはあまりあるとは思えなかった。

 周囲の発展から取り残されたかのようなキルギスの小さな村。線路があるが、どうやらこの村には駅はなさそうで、ただ列車が通り過ぎるのを踏切で待つばかり。舗装された近代的な道路があるが、この村はそこから少し入ったところに位置するようだ。そんな村にロシアに働きに出たまま20年以上帰ってこなかった男ザールク(監督自身が演じている)が戻ってくる。

 ザールクは息子夫婦の家で暮らすようになるが、事故で記憶を失っており、ひとことも言葉を発しない。家族についても理解しているようには思えない。幼馴染や家族が記憶を戻そうとするが、ザールクはただ取りつかれたように村のごみを集めるばかり。夫が死んだものと思って、妻ウムスナイは村の実力者で金の力で村の人々を締め付けようとする嫌われ者の妻になっている。ウムスナイは二人の男の間で悩みぬき、聖職者に助言を求めようとするが、彼らも横暴な実力者の支配下にあって、役に立つ助言をもらえない。結局、ウムスナイは現在の横暴な夫から離れてザールクの元に戻ろうとするところで映画は終わる。

 ゴミは消費社会を象徴する。この村は、消費文明に取り残されていながら、いや、そうであるだけにいっそう雑多なゴミにあふれている。ロシアから帰ったザークルは、ある意味で消費文明に敗れ、きっとロシアでゴミ集めのような出稼ぎの仕事をしていたのだろう。ザールクはごみを集めて村をきれいにする。つまりは、消費文明の汚れを消そうとする。

 映画の冒頭と途中で、大きな根が土の上に張り出している木々が映し出される。まさに裸にされた木の根。恵まれない地域で老いてなお生き続けようとする生命体の象徴なのか。

 ただこの映画は楽天的な解決を見つけ出しているわけではない。男の記憶は戻らず、宗教はさまざまな問題を解決できず、村人が幸せになるわけでもない。この映画はそのような状況を静かに描き出している。

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侯孝賢(ホウ・シャオシエン)の「好男好女」「憂鬱な楽園」「フラワーズ・オブ・シャンハイ」「珈琲時光」

 映画館で「少年」をみて以来、台湾の侯孝賢(ホウ・シャオシエン)監督に惹かれて、DVDをみつづけている。4本セットを購入。簡単な感想を記す。

 

「好男好女」 1995

 実は、私にはよく理解できなかった。1995年、まだ難解な映画がもてはやされていた時代だったといってよいのかもしれない。

 現代(1990年代)と二つの過去(1940年と1950年)が交錯して語られる。女優の梁静は映画に出演して、蒋碧玉という過酷な運命をたどった高齢の実在の女性の役を演じることになる。そこで、蒋碧玉(梁静と同じ女優が演じる)の人生が入り混じっていく。現在の女優は恋人に死なれて絶望の中にいて、無言電話に悩まされている。過去の蒋碧玉は、1940年に抗日活動に参加しようとして、仲間たちと中国が大陸に向かうが、逆に日本のスパイと疑われ拘束される。何とか誤解は解けるが、台湾に戻ってからは、1950年ころになって、今度は白色テロによって拘束され、夫を銃殺される。

 以上のようなストーリーはたどることができるのだが、過去と現在がどうかみ合っているのか、女優が何に悩んでいるのか、無言電話はいったい何なのか、いやそもそも今回もまた、ずっと暗い中で話が進むので、顔の識別が難しく、いったい誰が何で争っているのかもわからない。台湾の歴史を私が理解していないせいもあるのかもしれないが、それにしても・・・。ネットでレビューを読んでみたが、多くの人が理解できなかったと書いているので、これは私だけのことではなさそう。

 これを名画とみなすべきではないと思う。

 

「憂鬱な楽園」 1996年 

 チンピラのガオ(カオ・ジエ)は怪しい儲け話にのって、弟分のピィエン(リン・チャン)、その恋人のマーホァ(伊能静)とともにバイクで南の方へ出かける。ロード・ムービーのタイプに属すだろう。時代的にはかなり遅れてはいるが、1970年代アメリカの「イージー・ライダー」のような趣きがある。ジャームッシュも思い出す。長まわしのカメラ、演出臭さのない俳優たちの動き。筋書きのない物語とでもいうか。結局、ピィエンの親戚との騒動に巻き込まれ、車の事故を起こす。

 それにしても、これもまた誰が誰やらさっぱりわからない。映画の中盤になってやっとガオとピィエンの顔を認識できるようになった。台湾映画の特徴なのか、この監督の特徴なのか。クローズアップが少なく、画面が暗く、真正面からのショットが少ないので、登場人物の顔がはっきり映らない。家庭のテレビで見ると、どうもよく見えない!

 70歳を過ぎた今の私が見ても、この映画にはあまり共感しない。映画が作られたころ、リアルタイムにみていたら、もっと共感できたかもしれない。

 

「フラワーズ・オブ・シャンハイ」 1998

 香港映画、台湾映画に詳しくない私は、またも人物の顔の識別に苦労した。とりわけ遊女たちが果たして同一なのかどうか、常に不安に思いながらみた。だが、とても良い映画だった。

 上海の高級遊郭での物語。上海の役人である王(トニー・レオン)となじみの遊女、小紅(羽田美智子)のいざこざから別れまでの話を中心に、遊郭にやってくる客たちと遊女たちの人間模様を描く。

 遊郭内部の出来事だけが語られ、カメラは一度も外に出ていかない。租界となっている上海での出来事なのだから、遊郭の外では様々な政治的な事件が起こり、清国は滅亡に向かっているのだろうが、箱庭のような閉ざされた遊郭の中では、そんなことはおかまいなしに恋の遊戯がなされる。着飾った遊女たちの偽りの愛、心から愛が入り混じった架空の恋物語。それが美術品のような美しい映像で語られる。

 

「珈琲時光」 2004

 侯孝賢監督が小津安二郎生誕100年を記念して、「東京物語」のオマージュとして日本を舞台に日本の俳優たちを使って作った映画。

 フリーライターの陽子(一青窈)は台湾で長期滞在した後、東京に戻って、男友達である肇(浅野忠信)に協力してもらって台湾出身で戦中、戦後、日本で学んだ作曲家・江文也(こう・ぶんや)を取材している。陽子は実家に帰って、母(余貴美子)に台湾で出会った男性の子どもを孕んでいることを告白する。だが、母も父も特に口出しすることなく、日常を重ねていく。両親が東京の陽子の家を訪れるが、そこでも妊娠について特に何も言わない。古本屋の主人である肇といたわりながら生活していく。

 それだけの物語。小津の映画と同じようにローアングルのカメラワークで、笠智衆とおなじように父親役の小林稔侍は実に寡黙。陽子と肇の日常を淡々と描いていく。

 とてもいい映画だと思った。感動した。一青窈(名前だけは知っていたが、はやり歌を聴かない私は、遅ればせに今回初めてお顔を知った)と肇のあまりの自然な演技に惹かれる。日常生活の立ち居振る舞いそのままのような動き。そうであるがゆえに、とても美しい。まったく演技をしていない感じ。実際、撮影時、アドリブのように進められたらしいことが、監督インタビューで伝えられている。

 山手線、総武線、中央線、都電荒川線が繰り返し映し出される。電車の音も印象に残る。日常の中で移動しながら、自分らしさを求めている人たち。市井で生きる人たちが浮き彫りになる。陽子の母親は継母だということも後に明かされる。どうやら、陽子はかなり過酷な人生を歩んだようだが、さりげなく語られるだけで、社会の一コマとして通り過ぎていく。そうしたことが素晴らしい。しかも幸い、日本人の役者たちだから、さすがに私も顔の識別に困らない。江文也という作曲家、初めて知った。ピアノ曲がかかるが、魅力的な曲だと思った。

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侯孝賢(ホウ・シャオシェン)の「風櫃の少年」「童年往事」「恋恋風塵」

 リバイバル公開された「少年」の衝撃が大きかったので、ソフトを購入して侯孝賢(ホウ・シャオシェン)監督の映画を見続けている。簡単な感想を記す。

 

「風櫃(フンクイ)の少年」 1983年 侯孝賢(ホウ・シャオシェン)

 素晴らしい映画。

 おそらく、1960年代。台湾の離島の寒村、風櫃に住む兵役前の少年アーチン(鈕承澤)は3人の友人と悪さを繰り返し、けんかに明け暮れている。警察沙汰を起こして、村にいられなくなり、友人二人とともに、友人の姉を頼って高雄で働き始める。紹介されたアパートで男と同棲している女性シャオシンに恋心を抱く。シャオシンの同棲相手は犯罪を起こして逮捕され、釈放を機会に高雄を離れる。アーチンとシャオシンは接近するが、別れざるを得ない。

 現状に飽き足らず、周囲と衝突を繰り返し、あまりに愚かな行動をとりながらも成長していく少年の心を初々しく描いている。閉塞的であるために憎悪を覚えがらも心の中心にある故郷の島と貧しい家族、大都会に出ての戸惑い、淡い恋。私にも覚えがある。自分を重ね合わせる人は日本人の中にも多いだろう。二人の友人の造形も見事。三人の行動は愚かしくも、懐かしい。「四季」などのヴィヴァルディやバッハのアリアなど、バロック音楽が主人公の心情を表現するのにとてもうまく使われている。

 映像は美しく、俳優たちの演技も申し分なく、まさに初々しく生き生きとした人々。とても良い映画だと改めて思った。

 

「童年往事 時の流れ」1985年 侯孝賢(ホウ・シャオシェン)

 監督の自伝的作品だという。「少年」とよく似たストーリー。時代も同じころで、1960年代だろう。

 アハ(游安順)は、戦後になって広州から台湾に移住した一家の子どもで祖母や両親、五人のきょうだいとともに暮らしている。幼いころから負けん気が強く、家族を困らせている。高校生になるころには、肺病で病弱だった父は死に、母もがんに侵されて死ぬ。祖母も認知症のため一人で行動できなくなる。苦しい中、アハは不良少年と付き合い、敵対するグループとの抗争に巻き込まれ、家族や周囲に迷惑をかけ続けている。それでも家族を思い、恋をして成長していく。

 それだけの映画だが、台湾の少年たちの日常、心の機微が淡々と描かれて深く感動する。いや、それよりなにより、戦後に九州に生まれた私(私は1951年生まれだから、47年生まれのホウ監督よりも4歳年下ということになる)としては、まるで自分の子どもの頃の光景を目の当たりにするようで懐かしい。台湾が日本領土であったせいだろうが、子どもたちの服装も遊びも部屋の作りも私が子どもの頃の状況とほとんど変わらない。それだけで私は感情移入してしまう。そうやって描かれるアハの姿は、自分自身とは言わないまでも、周囲にいた友人たちの姿と重なる。

 

「恋恋風塵」 1987

 舞台は九份だという。山間の村に近所同士で兄と妹のように育ったアワンとアフン。アワンは中学を卒業すると台北に出て仕事をしながら、夜間高校に通うようになる。翌年、アフンが遅れて台北にやって来て、交流を続ける。二人は恋人同士のように心を通わせるようになる。だが、アワンは兵役に就くことになる。初めのうちは、アフンからの手紙が続くが、突然、それが途絶え、アフンがほかの男性と結婚したことが知らされる。

 兵役に出ている間に、恋人がほかの男と結婚…という出来事は世界中で起こっているだろう。だから、ごくありふれた出来事には違いない。私の印象に残っているものとしては「シェルブールの雨傘」がまさにこのようなストーリーだった。

 だが、映像美、俳優たちの動き、わき役たちの何気ないやり取り、地方と都会の生活感、モノの質感など、この映画はまさに独特。まじめで、でも少し不器用で、やさしくアフンを見守り、傷つくアワンの気持ちがとてもよくわかる。善良な家族、陳腐な教訓を語り続ける祖父、野外映画界などの村の営みなど、さりげない存在感が素晴らしい。

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映画「崖上のスパイ」「悲情城市」「赤い闇」「オネーギンの恋文」

 酷暑が続いている。今日は、午前中は雨が降って少し落ち着いているが、また午後になるとひどい暑さになるだろう。

 妻の新盆、一周忌を終え、一息ついている。この一、二年、まったく想定していなかったことが次々起こって、あたふたするばかりだったが、そろそろ自分の時間を大事にして生きていくことを心掛けたい。

 ソフトを購入して数本の映画を見たので、簡単な感想を記す。

 

「崖上のスパイ」 チャン・イーモウ監督 2021

 チャン・イーモウ監督の映画。昨年だったか、日本で公開されたが、ぐずぐずしているうちに終わってしまった。DVDを見つけて購入。

 日本が傀儡国家・満州を建国した時代。ソ連で訓練を受けた男女4人が満州国に潜入して、「ウートラ作戦」を行おうとする。だが、味方の裏切りによって満州の特務警察がその動きを察知して、4人を泳がせながら「ウートラ作戦」を探ろうとする。ところが、特務警察の中にもスパイがいて、四人を手助けする。そのようなサスペンス。映像美は見事。ハラハラドキドキ。

 ただ、残念ながら、私には登場人物の顔の区別がつかず、実に参った。敵味方入り乱れるのに、顔の識別ができないとどうにもならない。しかも、けがをしたり拷問を受けたりして、顔がはれていたりするし、満州の冬なので厚着をして顔を覆っている。これでは、いっそうわからなくなる!

 途中で初めから見直した。最後まで見たあとも、また飛ばし飛ばし見直してみた。だが、それでもまだ識別できず! 男たちもわからないし、よく見ないと女性スパイと特務警察の女性の区別もつかない! 私はとりわけ識別能力が劣るという自覚があるのだが、ネットのレビューを見たら、多くの人が私と同じように顔の識別ができなかったことを書いている。

 もう少し顔の識別という点に考慮して作ってほしかったと思うのは、私自身の能力欠如を十分に認識していないわがままな願いだろうか。

 

「悲情城市」 1989年  侯孝賢(ホウ・シャオシェン)監督

 先日みた「少年」があまりに鮮烈だったので、ホウ・シャオシェンの代表作といわれる台湾映画「悲情城市」のDVDを購入。

 映画は玉音放送で始まる。台湾の基隆に住む林家の四兄弟を通して、まさに終戦になって日本が台湾から離れる日から国民党政府の樹立までの4年間を描く。中心をなすのは、四男の文清(トニー・レオン)。日本という支配者が去ると、その後、もっと横暴な大陸人がやって来て、台湾は翻弄される。その様子が描かれる。長男は上海マフィアに殺され、次男は戦争で行方不明のまま、三男は上海マフィアとの闘いの中で精神を病み、四男・文清は台湾独立運動に巻き込まれて官憲に連行されたまま消息不明になる。

 四男・文清役の香港スターであるトニー・レオンが台湾語を話せないためにやむなく聾唖の役にしたというが、それが成功している。聾唖者が中心にいるために、映像に不思議な空間ができて、リアルな悲劇が神話のようなポエジーを生み出す。まさしく叙事詩になる。しかも、その聾唖者である文清は写真館を営んでいる。流動するリアルな事件を普遍的な歴史として永遠化させるのが写真の役割だ。こうして、知的で善良な聾唖者を通して、日本の敗北、中国からやってきた大陸人の横暴、台湾人の反抗が一つの叙事詩となって浮かび上がる。

 この映画で観光地として有名になったといわれる九份の光景もこの映画の魅力の一つだろう。映像が美しく、詩情があふれ出る。

 ただ、この映画でも私は林家の人々や上海マフィアの人々、文清のもとを訪れる知識人たちの顔の識別ができず、途中でDVDを見直さなければならなかった。私の能力不足なのだろうが、何とかならないものかと思ってしまう。私以外の人は、これをきちんと識別できるのだろうか?

 

「赤い闇 スターリンの冷たい大地で」 アグニエシュカ・ホランド監督 2019

 ヒトラーの取材経験があり、ロイド・ジョージに顧問をしていたジャーナリスト、ガレス・ジョーンズ(ジェームス・ノートン)は、スターリンの取材をしようとモスクワに出かける。ところが、モスクワで会うつもりだった仲間のジャーナリストが殺されている。疑問を持ったジョーンズは、スターリンの宣伝する革命の成功を疑い、単身ウクライナに赴き、そこで餓死する人々を目撃し、飢餓の中を彷徨う。生還した後、周囲の無理解にもかかわらず、スターリンの欺瞞とソ連の実情を訴え続ける。

 リアルに描かれており、とても説得力がある。権力者の農業指導が誤っているために不作になり、しかも、収穫された穀物はモスクワに送られて、現地には残されない。ウクライナはソ連中枢の植民地のようにされている。そのような状況が描かれる。現在のロシアとウクライナの戦争の原点がこのような点にあることもよく理解できる。

 よくできた映画だが、まあ予想通りといった感じで、特に感動はしなかった。

 

「オネーギンの恋文」1999年 マーサ・ファインズ監督

 チャイコフスキーのオペラ「エフゲニ・オネーギン」が大好きなので、ひょいとこの映画DVDを見つけて購入。細かいところでは、プーシキンの原作(ただ、家の建て替えのため、蔵書はレンタルルームに入れて仮住まいで暮らしているので、すぐには確かめられない)とも、オペラとも少し話が違うが、基本的には大差ない。最も大きな違いは、オネーギンとレンスキーの決闘が雪の中の郊外ではなく、湖畔で行われることだろうか。

 ただ、オネーギン(レイフ・ファインズ。監督はレイフ・ファインズの妹だとのこと)の造形が不十分で、映画をみるだけでは、なぜタチアナ(リヴ・タイラー)がオネーギンに惹かれて恋文を書くのか、なゼオネーギンはタチアナの恋文に冷淡だったのか、なぜオネーギンはレンスキーをからかったのか、なぜ最後にタチアナに夢中になるのかが納得できない。何の説明もなしに音楽だけで描かれるオペラのほうが説得力があると思った。もう少し、初々しくもひねたニヒリストであるオネーギン、純情なレンスキー、夢見る少女だったのが大人として脱却するタチアナを描いてほしいと思った。

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映画「ふたりのマエストロ」 おもしろかったが、なぜかオペラが演奏されなかった!

 ブリュノ・シッシュ監督のフランス映画「ふたりのマエストロ」(2022)をみた。芸術的な名作というわけではないが、クラシック音楽好きの私にはとても楽しめる映画だった。

 フランソワ・デュマール(ピエール・アリディティ)とドニ・デュマール(イヴァン・アタル)。父と子で同じ指揮者の仕事をしているが、決して親子の仲は良くない。どうやら父は少し不遇のようで、息子の方は大活躍中(なにやらヤンソンス父子、ヤルヴィ父子を思い起こしてしまう。ただ、これらの実在の父子は仲が良いと聞いているが)。嫉妬なのかほかに事情があるのか、父は息子の受賞に不快感を隠さない。そして、こともあろうに、ミラノ・スカラ座の支配人は、息子に音楽監督の依頼をしようとするが、秘書の勘違いで父に依頼してしまう。父はその気になるが、事実を知った息子はどう伝えるかを悩む。もろもろの葛藤ののち、最後、スカラ座の就任公演で二人がともに指揮台に立って同時に指揮をして、見事な「フィガロの結婚」序曲を演奏することで和解する。

 息子のドニが、その息子(つまり、フランソワの孫)とピアノ連弾をする場面がある。そこで二人が心を通わせることが、最後の場面の伏線になっている。

 現実には二人の指揮者がタクトを振るということはあり得ない(ベートーヴェンの第九の初演で、耳の聞こえないベートーヴェンの横に副指揮者が立ったという有名なエピソードはあるが)し、もしそんなことになったら、オーケストラは大混乱するだろう。しかし、二人のタクトのリズムはぴたりと合って、確かにこのようなタクトだったらもしかしたら演奏は成り立つかもしれないと思わせる。とても感動的な場面。私の目には涙がにじんだ。

 劇中にクラシック音楽がかなり出てくるが、ミラノ・スカラ座(もちろん、歌劇場!)にかかわる話なのにオペラがまったくかからない。きっと意図的だろう。ドヴォルザークの「母の教えてくれた歌」、ベートーヴェンの第九の第2楽章、ラフマニノフの「ヴォカリーズ」、モーツァルトの「フィガロの結婚」序曲、モーツァルトの「ラウダーテ・ドミヌム」、カッチーニ作とされる「アヴェ・マリア」、シューベルトの「セレナーデ」など、声楽曲、本来声楽で演奏される曲、声楽の入る部分のある曲、そしてオペラの序曲が出てくるが、オペラそのものが演奏されない。いわば、オペラの周辺のタイプの音楽ばかり。ドニは経験不足ということなので、おそらくオペラを振った経験があまりないということだろうが、それにしても、もし、ふつうにこの映画を作るとすれば、主人公がスカラ座の音楽監督に就任しようというのだから、ヴェルディやプッチーニやドニゼッティやベッリーニやロッシーニ、あるいはモーツァルトのオペラの演奏場面が出てきそうなものだ。ところが、見事にそれらが避けられている!

 なぜだろう。さっきから考えているが、答えが見つからない。

 まったく自信はないが、一つだけ仮説を思いついた。もしかしたら、シッシュ監督は、「これは実際にはありえない虚構の話なんです」という徴として、オペラを用いなかったのではないか。オペラを用いると、リアルなスカラ座の音楽監督をめぐる物語になってしまう。そうなると、最後の二人の指揮者が同時に指揮をする場面はあまりに荒唐無稽。それを避けて、あえて父と子の和解に関する、実際にはありえない寓話になるように最後の場面を作り、オペラを避けた・・・。あまり説得力はないのかもしれないが・・・。今のところ、このくらいのことしか思いつかない。

 ともあれ、楽しめたので、それで良しとしよう。

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台湾映画「少年」 人物とモノのしみじみとした存在感

 台湾映画「少年」をみた。台湾映画に疎い私は、巨匠・侯孝賢(ホウ・シャオシェン)の作品をみるのは初めて。台湾ニューシネマの原点ともいえる1983年の幻の作品のデジタルリマスター版だという。とてもいい映画だった。感動した。

 シングルマザーである母親シウインが実直な男性ターシュンと結婚したため、連れ子として新しい父親と暮らすことになった少年アジャの物語。父は優しくかばってくれるが、アジャは心を開くことができず、いつまでも反抗をやめず、不良仲間と連れ立って悪さばかりしては親は学校に呼び出されている。そして、中学生になると、刃傷沙汰まで起こし、ついに母は夫の間で板挟みになったと感じて自殺してしまう。アジャはさすがに心を入れ替えて軍隊に入る。そのような物語を、隣の家で暮らす同級生の女の子の目を通して語られる。

 わだかまりをもって素直になれない子どもの気持ちがとてもよく描かれている。どうしようもない悪ガキなのだが、憎めなく描くところもさすがというしかない。子どもたちの表情が生き生きとしており、舞台となった淡水の光景がとても美しい。登場人物ひとりひとりが立体感を持っている。

 淡々としたリズムだが、シウインのホステス時代の仲間の来訪、1学年下の女の子に対するアジャの不器用な恋が描かれ、それぞれの人物の過去が明らかにされたり、心の襞があらわになったりして、観客は静かに登場人物の心の中に入っていく。また、おもちゃや扇風機や古本などの小道具がさりげない存在感を示す。人物だけでなく、モノや風景も静かに、しかし雄弁に懸命に生きている人々の姿を語る。

 

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映画「サントメール ある被告」 見えない差別がアイデンティティを崩壊させる!

 フランス映画「サントメール ある被告」を見た。セネガル系フランス人アリス・ディオップの監督作品。素晴らしかった。大いに感動した。

 実話に基づくらしい。あるセネガル系の女子学生ロランスはずっと年上の白人男性と恋に落ちて子どもを産むが、生後15か月ほどで殺害する。その裁判を、同じように年の差のある白人との間の子どもをはらんでいる新進作家のアフリカ系女性ラマが傍聴する。その様子を克明に描く。サントメールというのは裁判の行われた土地の名前らしい。セリフの多くは裁判記録に基づくという。

 白人世界の中では、アフリカ系女性は激しい差別に出会う。完璧なフランス語を話し、大学でヴィトゲンシュタインを研究したいと意欲を燃やしても、白人教授はそれを真摯な学究意欲と思わず、歪んだ欲望やウソの欲求だとみなす。アフリカ女性が子どもを産んでも、黒人の血を引く子供を白人は恥に思う。白人たちは、自分たちでは善意と思いながらも見えない差別を繰り返す。では、ロランス自身は親たちと同じようにアフリカ人としてのアイデンティティを持っているかというと、まったくそうではなく、西洋の精神を持ち、親たちと距離を持っている。そして、親たちも差別の中で自分たちのアイデンティティを保てずにいる。そのような引き裂かれた状況が裁判の中で明らかになる。

 その中で、女性裁判長は真摯に真実を求め、女性弁護士はロランスの心を受け止めようとする。傍聴するラマは、白人のあまりの無理解のために、自分も子供を産むのをためらい苦しむ。だが、おぼろげながらロランスの苦しみが弁護士の言葉によって明らかになり、傍聴席にも伝わったとき、ラマも子供を産む決意をする。

 私はかつてはフランス文学の研究者を目指していた。だが、熱心な研究者ではなかった。「日本人がフランス人に混じってプルーストを研究して何の意味があるんだ。日本人がフランス人のマネをするなんて滑稽ではないか」と強く感じ、熱心に学ぶ気持ちになれなかった。日本人はアフリカ系の人ほどの差別は受けなかったと思うが、根底には、それと同じようなものをこの映画のテーマに感じた。もちろん、フランスの移民たちは、不勉強な私などよりももっとずっとのっぴきならない、文化的ねじれの中にいる。西洋の学問や文化に関心を持ったアフリカ系の人間のアイデンティティはどうあるべきか。ヨーロッパ文化の中で生きる人間は子供をどう育てればいいのか。

 映画の冒頭、アフリカ系のラマはマルグリット・デュラスのシナリオ「ヒロシマ・モナムール」(「二十四時間の情事」というあまりに愚かしい日本語題名がついている!)を題材に、ドイツ兵と情を交わした女性への集団的リンチの状況をリセ?の授業で生徒に説明する場面がある。アフリカ系の教員が、西洋文化を講義するなど現在ではありふれた情景だろうし、あるべき姿でもあるだろう。しかし、語る主体の問題意識として考えた場合、それほど簡単には割り切れない問題をはらむ。おそらく、これはヨーロッパの移民の多くが心の奥に抱える問題だろう。

 子殺しについてラマが検索している中で、パゾリーニの映画「王女メディア」の、メディアを演じたマリア・カラスが子殺しを決意する場面が映し出される。この映画は、すべての映画の中で私が最も愛する映画だ。メディアも、低い文化の地コルキスで育ったメディアが、先進の地であるコリントスで差別されて、アイデンティティを失い、その復習として子殺しを決意するという背景を持っている。

 このようなことは、これから先、世界中で起こってくるだろう。移民社会における文化的アイデンティティというのはきわめて重要な問題だと思う。

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「オフィサー・アンド・スパイ」 とてもおもしろかった

 映画「オフィサー・アンド・スパイ」をみた。監督は、私が学生時代から親しんできたロマン・ポランスキー、原題は「J’accuse」(「われ、告発す」)。19・20世紀のフランス文学に関心のある人間にはこのタイトルはピンとくる。これは「ドレフュス事件」を扱った映画。J’accuseとはもちろん、文豪エミール・ゾラが国家スパイ罪で投獄されたユダヤ人の軍人ドレフュス大尉が無実であること、それを国家が隠蔽しようとしていることをロロール紙で告発したときに用いた言葉としてフランス文学史に残っている。

 私は大学院時代の指導教官である今は亡き渡辺一民先生がドレフュス事件に大きな関心を持っておられ、「ドレーフュス事件」という著書もあるので、45年ほど前から関心を持ってきた。

 初めに言わせてもらうと、それにしてもなんとセンスのない邦題だろう。「われ、告発す」でも「ドレフュス事件」でも、またはいっそのこと「ジャキューズ」でもいいのではないか。よりによって、いったい何のことかわからず、映画の内容を表しているわけでもなく、しかもまったくおもしろそうにも思えない「オフィサー・アンド・スパイ」などという題をつけるとは! 後で調べたら、これは映画の原作の英語タイトルだそうだが、そうだとしても、「オフィサー」を「士官」としなくて日本人には通じにくい。そのためもあるだろう、私は池袋HUMAXシネマズの午前の回で見たのだが、客は私を含めて4人だけだった! 

 映画はほんとうにおもしろかった。ゾラが参戦する前、ドレフュス大尉(ルイ・ガレル)が投獄され、その後、ピカール中佐(ジャン・デュジャルダン)が情報局の責任者になって局内の刷新をするうち、ドレフュスの無罪の証拠を見つけるところが中心に描かれる。ピカールは事実を公表するように上層部に迫るが、周囲は隠蔽を求め、よってたかってピカールを迫害する。結局ピカールは逮捕され、私生活も暴かれる。そこにゾラが参戦し、やっと世論が動くが、フランス全体が反ユダヤ主義で凝り固まっており、ユダヤ人であるドレフュスの無罪はなかなか勝ち取れない。そのような状況が克明にリアルに描かれる。

 偏狭な反ユダヤ主義に凝り固まって、一方的に攻撃する人々、自分の保身ばかりに関心を持つ人、無関心な人。ピカールをとりわけ美化するわけでもなく、その弱みも含めて、ポランスキーは描く。きっとこの通りだっただろうと思わせるだけの説得力がある。軍人たちの態度、パリの街の様子などもまさにリアル。一人一人の演技も見事。

 ポランスキーはユダヤ人で、しかも小児性愛の罪で逮捕され、本人は無罪を主張している(ただ、新聞報道などを見る限りでは、ポランスキーの主張はかなり分が悪そう)。そうした自分の体験を織り込もうとしているのかもしれない。もしかすると、自己正当化のための映画なのかもしれない。だが、やはり映画としてとても素晴らしい。「水の中のナイフ」「反撥」「袋小路」「テス」「戦場のピアニスト」などの名作に匹敵する代表作だと思う。

 世論が一方的になって一人のスケープゴートを見つけて攻撃し、冷静な人間が真実を明らかにしようとしてもこぞってそれを迫害する。それはもちろん前世紀末に起こっただけの事件ではない。今なお世界中で起こっている事件だ。

 渡辺一民先生はこの事件を、国家犯罪に対して、国民は、そしてとりわけ知識人はどのような立ち向かうべきなのかというモデルとして取り上げておられた。確かに、この問題は今もまったく古びていない問題だと再認識した。

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