映画

侯孝賢(ホウ・シャオシエン)の「好男好女」「憂鬱な楽園」「フラワーズ・オブ・シャンハイ」「珈琲時光」

 映画館で「少年」をみて以来、台湾の侯孝賢(ホウ・シャオシエン)監督に惹かれて、DVDをみつづけている。4本セットを購入。簡単な感想を記す。

 

「好男好女」 1995

 実は、私にはよく理解できなかった。1995年、まだ難解な映画がもてはやされていた時代だったといってよいのかもしれない。

 現代(1990年代)と二つの過去(1940年と1950年)が交錯して語られる。女優の梁静は映画に出演して、蒋碧玉という過酷な運命をたどった高齢の実在の女性の役を演じることになる。そこで、蒋碧玉(梁静と同じ女優が演じる)の人生が入り混じっていく。現在の女優は恋人に死なれて絶望の中にいて、無言電話に悩まされている。過去の蒋碧玉は、1940年に抗日活動に参加しようとして、仲間たちと中国が大陸に向かうが、逆に日本のスパイと疑われ拘束される。何とか誤解は解けるが、台湾に戻ってからは、1950年ころになって、今度は白色テロによって拘束され、夫を銃殺される。

 以上のようなストーリーはたどることができるのだが、過去と現在がどうかみ合っているのか、女優が何に悩んでいるのか、無言電話はいったい何なのか、いやそもそも今回もまた、ずっと暗い中で話が進むので、顔の識別が難しく、いったい誰が何で争っているのかもわからない。台湾の歴史を私が理解していないせいもあるのかもしれないが、それにしても・・・。ネットでレビューを読んでみたが、多くの人が理解できなかったと書いているので、これは私だけのことではなさそう。

 これを名画とみなすべきではないと思う。

 

「憂鬱な楽園」 1996年 

 チンピラのガオ(カオ・ジエ)は怪しい儲け話にのって、弟分のピィエン(リン・チャン)、その恋人のマーホァ(伊能静)とともにバイクで南の方へ出かける。ロード・ムービーのタイプに属すだろう。時代的にはかなり遅れてはいるが、1970年代アメリカの「イージー・ライダー」のような趣きがある。ジャームッシュも思い出す。長まわしのカメラ、演出臭さのない俳優たちの動き。筋書きのない物語とでもいうか。結局、ピィエンの親戚との騒動に巻き込まれ、車の事故を起こす。

 それにしても、これもまた誰が誰やらさっぱりわからない。映画の中盤になってやっとガオとピィエンの顔を認識できるようになった。台湾映画の特徴なのか、この監督の特徴なのか。クローズアップが少なく、画面が暗く、真正面からのショットが少ないので、登場人物の顔がはっきり映らない。家庭のテレビで見ると、どうもよく見えない!

 70歳を過ぎた今の私が見ても、この映画にはあまり共感しない。映画が作られたころ、リアルタイムにみていたら、もっと共感できたかもしれない。

 

「フラワーズ・オブ・シャンハイ」 1998

 香港映画、台湾映画に詳しくない私は、またも人物の顔の識別に苦労した。とりわけ遊女たちが果たして同一なのかどうか、常に不安に思いながらみた。だが、とても良い映画だった。

 上海の高級遊郭での物語。上海の役人である王(トニー・レオン)となじみの遊女、小紅(羽田美智子)のいざこざから別れまでの話を中心に、遊郭にやってくる客たちと遊女たちの人間模様を描く。

 遊郭内部の出来事だけが語られ、カメラは一度も外に出ていかない。租界となっている上海での出来事なのだから、遊郭の外では様々な政治的な事件が起こり、清国は滅亡に向かっているのだろうが、箱庭のような閉ざされた遊郭の中では、そんなことはおかまいなしに恋の遊戯がなされる。着飾った遊女たちの偽りの愛、心から愛が入り混じった架空の恋物語。それが美術品のような美しい映像で語られる。

 

「珈琲時光」 2004

 侯孝賢監督が小津安二郎生誕100年を記念して、「東京物語」のオマージュとして日本を舞台に日本の俳優たちを使って作った映画。

 フリーライターの陽子(一青窈)は台湾で長期滞在した後、東京に戻って、男友達である肇(浅野忠信)に協力してもらって台湾出身で戦中、戦後、日本で学んだ作曲家・江文也(こう・ぶんや)を取材している。陽子は実家に帰って、母(余貴美子)に台湾で出会った男性の子どもを孕んでいることを告白する。だが、母も父も特に口出しすることなく、日常を重ねていく。両親が東京の陽子の家を訪れるが、そこでも妊娠について特に何も言わない。古本屋の主人である肇といたわりながら生活していく。

 それだけの物語。小津の映画と同じようにローアングルのカメラワークで、笠智衆とおなじように父親役の小林稔侍は実に寡黙。陽子と肇の日常を淡々と描いていく。

 とてもいい映画だと思った。感動した。一青窈(名前だけは知っていたが、はやり歌を聴かない私は、遅ればせに今回初めてお顔を知った)と肇のあまりの自然な演技に惹かれる。日常生活の立ち居振る舞いそのままのような動き。そうであるがゆえに、とても美しい。まったく演技をしていない感じ。実際、撮影時、アドリブのように進められたらしいことが、監督インタビューで伝えられている。

 山手線、総武線、中央線、都電荒川線が繰り返し映し出される。電車の音も印象に残る。日常の中で移動しながら、自分らしさを求めている人たち。市井で生きる人たちが浮き彫りになる。陽子の母親は継母だということも後に明かされる。どうやら、陽子はかなり過酷な人生を歩んだようだが、さりげなく語られるだけで、社会の一コマとして通り過ぎていく。そうしたことが素晴らしい。しかも幸い、日本人の役者たちだから、さすがに私も顔の識別に困らない。江文也という作曲家、初めて知った。ピアノ曲がかかるが、魅力的な曲だと思った。

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侯孝賢(ホウ・シャオシェン)の「風櫃の少年」「童年往事」「恋恋風塵」

 リバイバル公開された「少年」の衝撃が大きかったので、ソフトを購入して侯孝賢(ホウ・シャオシェン)監督の映画を見続けている。簡単な感想を記す。

 

「風櫃(フンクイ)の少年」 1983年 侯孝賢(ホウ・シャオシェン)

 素晴らしい映画。

 おそらく、1960年代。台湾の離島の寒村、風櫃に住む兵役前の少年アーチン(鈕承澤)は3人の友人と悪さを繰り返し、けんかに明け暮れている。警察沙汰を起こして、村にいられなくなり、友人二人とともに、友人の姉を頼って高雄で働き始める。紹介されたアパートで男と同棲している女性シャオシンに恋心を抱く。シャオシンの同棲相手は犯罪を起こして逮捕され、釈放を機会に高雄を離れる。アーチンとシャオシンは接近するが、別れざるを得ない。

 現状に飽き足らず、周囲と衝突を繰り返し、あまりに愚かな行動をとりながらも成長していく少年の心を初々しく描いている。閉塞的であるために憎悪を覚えがらも心の中心にある故郷の島と貧しい家族、大都会に出ての戸惑い、淡い恋。私にも覚えがある。自分を重ね合わせる人は日本人の中にも多いだろう。二人の友人の造形も見事。三人の行動は愚かしくも、懐かしい。「四季」などのヴィヴァルディやバッハのアリアなど、バロック音楽が主人公の心情を表現するのにとてもうまく使われている。

 映像は美しく、俳優たちの演技も申し分なく、まさに初々しく生き生きとした人々。とても良い映画だと改めて思った。

 

「童年往事 時の流れ」1985年 侯孝賢(ホウ・シャオシェン)

 監督の自伝的作品だという。「少年」とよく似たストーリー。時代も同じころで、1960年代だろう。

 アハ(游安順)は、戦後になって広州から台湾に移住した一家の子どもで祖母や両親、五人のきょうだいとともに暮らしている。幼いころから負けん気が強く、家族を困らせている。高校生になるころには、肺病で病弱だった父は死に、母もがんに侵されて死ぬ。祖母も認知症のため一人で行動できなくなる。苦しい中、アハは不良少年と付き合い、敵対するグループとの抗争に巻き込まれ、家族や周囲に迷惑をかけ続けている。それでも家族を思い、恋をして成長していく。

 それだけの映画だが、台湾の少年たちの日常、心の機微が淡々と描かれて深く感動する。いや、それよりなにより、戦後に九州に生まれた私(私は1951年生まれだから、47年生まれのホウ監督よりも4歳年下ということになる)としては、まるで自分の子どもの頃の光景を目の当たりにするようで懐かしい。台湾が日本領土であったせいだろうが、子どもたちの服装も遊びも部屋の作りも私が子どもの頃の状況とほとんど変わらない。それだけで私は感情移入してしまう。そうやって描かれるアハの姿は、自分自身とは言わないまでも、周囲にいた友人たちの姿と重なる。

 

「恋恋風塵」 1987

 舞台は九份だという。山間の村に近所同士で兄と妹のように育ったアワンとアフン。アワンは中学を卒業すると台北に出て仕事をしながら、夜間高校に通うようになる。翌年、アフンが遅れて台北にやって来て、交流を続ける。二人は恋人同士のように心を通わせるようになる。だが、アワンは兵役に就くことになる。初めのうちは、アフンからの手紙が続くが、突然、それが途絶え、アフンがほかの男性と結婚したことが知らされる。

 兵役に出ている間に、恋人がほかの男と結婚…という出来事は世界中で起こっているだろう。だから、ごくありふれた出来事には違いない。私の印象に残っているものとしては「シェルブールの雨傘」がまさにこのようなストーリーだった。

 だが、映像美、俳優たちの動き、わき役たちの何気ないやり取り、地方と都会の生活感、モノの質感など、この映画はまさに独特。まじめで、でも少し不器用で、やさしくアフンを見守り、傷つくアワンの気持ちがとてもよくわかる。善良な家族、陳腐な教訓を語り続ける祖父、野外映画界などの村の営みなど、さりげない存在感が素晴らしい。

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映画「崖上のスパイ」「悲情城市」「赤い闇」「オネーギンの恋文」

 酷暑が続いている。今日は、午前中は雨が降って少し落ち着いているが、また午後になるとひどい暑さになるだろう。

 妻の新盆、一周忌を終え、一息ついている。この一、二年、まったく想定していなかったことが次々起こって、あたふたするばかりだったが、そろそろ自分の時間を大事にして生きていくことを心掛けたい。

 ソフトを購入して数本の映画を見たので、簡単な感想を記す。

 

「崖上のスパイ」 チャン・イーモウ監督 2021

 チャン・イーモウ監督の映画。昨年だったか、日本で公開されたが、ぐずぐずしているうちに終わってしまった。DVDを見つけて購入。

 日本が傀儡国家・満州を建国した時代。ソ連で訓練を受けた男女4人が満州国に潜入して、「ウートラ作戦」を行おうとする。だが、味方の裏切りによって満州の特務警察がその動きを察知して、4人を泳がせながら「ウートラ作戦」を探ろうとする。ところが、特務警察の中にもスパイがいて、四人を手助けする。そのようなサスペンス。映像美は見事。ハラハラドキドキ。

 ただ、残念ながら、私には登場人物の顔の区別がつかず、実に参った。敵味方入り乱れるのに、顔の識別ができないとどうにもならない。しかも、けがをしたり拷問を受けたりして、顔がはれていたりするし、満州の冬なので厚着をして顔を覆っている。これでは、いっそうわからなくなる!

 途中で初めから見直した。最後まで見たあとも、また飛ばし飛ばし見直してみた。だが、それでもまだ識別できず! 男たちもわからないし、よく見ないと女性スパイと特務警察の女性の区別もつかない! 私はとりわけ識別能力が劣るという自覚があるのだが、ネットのレビューを見たら、多くの人が私と同じように顔の識別ができなかったことを書いている。

 もう少し顔の識別という点に考慮して作ってほしかったと思うのは、私自身の能力欠如を十分に認識していないわがままな願いだろうか。

 

「悲情城市」 1989年  侯孝賢(ホウ・シャオシェン)監督

 先日みた「少年」があまりに鮮烈だったので、ホウ・シャオシェンの代表作といわれる台湾映画「悲情城市」のDVDを購入。

 映画は玉音放送で始まる。台湾の基隆に住む林家の四兄弟を通して、まさに終戦になって日本が台湾から離れる日から国民党政府の樹立までの4年間を描く。中心をなすのは、四男の文清(トニー・レオン)。日本という支配者が去ると、その後、もっと横暴な大陸人がやって来て、台湾は翻弄される。その様子が描かれる。長男は上海マフィアに殺され、次男は戦争で行方不明のまま、三男は上海マフィアとの闘いの中で精神を病み、四男・文清は台湾独立運動に巻き込まれて官憲に連行されたまま消息不明になる。

 四男・文清役の香港スターであるトニー・レオンが台湾語を話せないためにやむなく聾唖の役にしたというが、それが成功している。聾唖者が中心にいるために、映像に不思議な空間ができて、リアルな悲劇が神話のようなポエジーを生み出す。まさしく叙事詩になる。しかも、その聾唖者である文清は写真館を営んでいる。流動するリアルな事件を普遍的な歴史として永遠化させるのが写真の役割だ。こうして、知的で善良な聾唖者を通して、日本の敗北、中国からやってきた大陸人の横暴、台湾人の反抗が一つの叙事詩となって浮かび上がる。

 この映画で観光地として有名になったといわれる九份の光景もこの映画の魅力の一つだろう。映像が美しく、詩情があふれ出る。

 ただ、この映画でも私は林家の人々や上海マフィアの人々、文清のもとを訪れる知識人たちの顔の識別ができず、途中でDVDを見直さなければならなかった。私の能力不足なのだろうが、何とかならないものかと思ってしまう。私以外の人は、これをきちんと識別できるのだろうか?

 

「赤い闇 スターリンの冷たい大地で」 アグニエシュカ・ホランド監督 2019

 ヒトラーの取材経験があり、ロイド・ジョージに顧問をしていたジャーナリスト、ガレス・ジョーンズ(ジェームス・ノートン)は、スターリンの取材をしようとモスクワに出かける。ところが、モスクワで会うつもりだった仲間のジャーナリストが殺されている。疑問を持ったジョーンズは、スターリンの宣伝する革命の成功を疑い、単身ウクライナに赴き、そこで餓死する人々を目撃し、飢餓の中を彷徨う。生還した後、周囲の無理解にもかかわらず、スターリンの欺瞞とソ連の実情を訴え続ける。

 リアルに描かれており、とても説得力がある。権力者の農業指導が誤っているために不作になり、しかも、収穫された穀物はモスクワに送られて、現地には残されない。ウクライナはソ連中枢の植民地のようにされている。そのような状況が描かれる。現在のロシアとウクライナの戦争の原点がこのような点にあることもよく理解できる。

 よくできた映画だが、まあ予想通りといった感じで、特に感動はしなかった。

 

「オネーギンの恋文」1999年 マーサ・ファインズ監督

 チャイコフスキーのオペラ「エフゲニ・オネーギン」が大好きなので、ひょいとこの映画DVDを見つけて購入。細かいところでは、プーシキンの原作(ただ、家の建て替えのため、蔵書はレンタルルームに入れて仮住まいで暮らしているので、すぐには確かめられない)とも、オペラとも少し話が違うが、基本的には大差ない。最も大きな違いは、オネーギンとレンスキーの決闘が雪の中の郊外ではなく、湖畔で行われることだろうか。

 ただ、オネーギン(レイフ・ファインズ。監督はレイフ・ファインズの妹だとのこと)の造形が不十分で、映画をみるだけでは、なぜタチアナ(リヴ・タイラー)がオネーギンに惹かれて恋文を書くのか、なゼオネーギンはタチアナの恋文に冷淡だったのか、なぜオネーギンはレンスキーをからかったのか、なぜ最後にタチアナに夢中になるのかが納得できない。何の説明もなしに音楽だけで描かれるオペラのほうが説得力があると思った。もう少し、初々しくもひねたニヒリストであるオネーギン、純情なレンスキー、夢見る少女だったのが大人として脱却するタチアナを描いてほしいと思った。

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映画「ふたりのマエストロ」 おもしろかったが、なぜかオペラが演奏されなかった!

 ブリュノ・シッシュ監督のフランス映画「ふたりのマエストロ」(2022)をみた。芸術的な名作というわけではないが、クラシック音楽好きの私にはとても楽しめる映画だった。

 フランソワ・デュマール(ピエール・アリディティ)とドニ・デュマール(イヴァン・アタル)。父と子で同じ指揮者の仕事をしているが、決して親子の仲は良くない。どうやら父は少し不遇のようで、息子の方は大活躍中(なにやらヤンソンス父子、ヤルヴィ父子を思い起こしてしまう。ただ、これらの実在の父子は仲が良いと聞いているが)。嫉妬なのかほかに事情があるのか、父は息子の受賞に不快感を隠さない。そして、こともあろうに、ミラノ・スカラ座の支配人は、息子に音楽監督の依頼をしようとするが、秘書の勘違いで父に依頼してしまう。父はその気になるが、事実を知った息子はどう伝えるかを悩む。もろもろの葛藤ののち、最後、スカラ座の就任公演で二人がともに指揮台に立って同時に指揮をして、見事な「フィガロの結婚」序曲を演奏することで和解する。

 息子のドニが、その息子(つまり、フランソワの孫)とピアノ連弾をする場面がある。そこで二人が心を通わせることが、最後の場面の伏線になっている。

 現実には二人の指揮者がタクトを振るということはあり得ない(ベートーヴェンの第九の初演で、耳の聞こえないベートーヴェンの横に副指揮者が立ったという有名なエピソードはあるが)し、もしそんなことになったら、オーケストラは大混乱するだろう。しかし、二人のタクトのリズムはぴたりと合って、確かにこのようなタクトだったらもしかしたら演奏は成り立つかもしれないと思わせる。とても感動的な場面。私の目には涙がにじんだ。

 劇中にクラシック音楽がかなり出てくるが、ミラノ・スカラ座(もちろん、歌劇場!)にかかわる話なのにオペラがまったくかからない。きっと意図的だろう。ドヴォルザークの「母の教えてくれた歌」、ベートーヴェンの第九の第2楽章、ラフマニノフの「ヴォカリーズ」、モーツァルトの「フィガロの結婚」序曲、モーツァルトの「ラウダーテ・ドミヌム」、カッチーニ作とされる「アヴェ・マリア」、シューベルトの「セレナーデ」など、声楽曲、本来声楽で演奏される曲、声楽の入る部分のある曲、そしてオペラの序曲が出てくるが、オペラそのものが演奏されない。いわば、オペラの周辺のタイプの音楽ばかり。ドニは経験不足ということなので、おそらくオペラを振った経験があまりないということだろうが、それにしても、もし、ふつうにこの映画を作るとすれば、主人公がスカラ座の音楽監督に就任しようというのだから、ヴェルディやプッチーニやドニゼッティやベッリーニやロッシーニ、あるいはモーツァルトのオペラの演奏場面が出てきそうなものだ。ところが、見事にそれらが避けられている!

 なぜだろう。さっきから考えているが、答えが見つからない。

 まったく自信はないが、一つだけ仮説を思いついた。もしかしたら、シッシュ監督は、「これは実際にはありえない虚構の話なんです」という徴として、オペラを用いなかったのではないか。オペラを用いると、リアルなスカラ座の音楽監督をめぐる物語になってしまう。そうなると、最後の二人の指揮者が同時に指揮をする場面はあまりに荒唐無稽。それを避けて、あえて父と子の和解に関する、実際にはありえない寓話になるように最後の場面を作り、オペラを避けた・・・。あまり説得力はないのかもしれないが・・・。今のところ、このくらいのことしか思いつかない。

 ともあれ、楽しめたので、それで良しとしよう。

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台湾映画「少年」 人物とモノのしみじみとした存在感

 台湾映画「少年」をみた。台湾映画に疎い私は、巨匠・侯孝賢(ホウ・シャオシェン)の作品をみるのは初めて。台湾ニューシネマの原点ともいえる1983年の幻の作品のデジタルリマスター版だという。とてもいい映画だった。感動した。

 シングルマザーである母親シウインが実直な男性ターシュンと結婚したため、連れ子として新しい父親と暮らすことになった少年アジャの物語。父は優しくかばってくれるが、アジャは心を開くことができず、いつまでも反抗をやめず、不良仲間と連れ立って悪さばかりしては親は学校に呼び出されている。そして、中学生になると、刃傷沙汰まで起こし、ついに母は夫の間で板挟みになったと感じて自殺してしまう。アジャはさすがに心を入れ替えて軍隊に入る。そのような物語を、隣の家で暮らす同級生の女の子の目を通して語られる。

 わだかまりをもって素直になれない子どもの気持ちがとてもよく描かれている。どうしようもない悪ガキなのだが、憎めなく描くところもさすがというしかない。子どもたちの表情が生き生きとしており、舞台となった淡水の光景がとても美しい。登場人物ひとりひとりが立体感を持っている。

 淡々としたリズムだが、シウインのホステス時代の仲間の来訪、1学年下の女の子に対するアジャの不器用な恋が描かれ、それぞれの人物の過去が明らかにされたり、心の襞があらわになったりして、観客は静かに登場人物の心の中に入っていく。また、おもちゃや扇風機や古本などの小道具がさりげない存在感を示す。人物だけでなく、モノや風景も静かに、しかし雄弁に懸命に生きている人々の姿を語る。

 

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映画「サントメール ある被告」 見えない差別がアイデンティティを崩壊させる!

 フランス映画「サントメール ある被告」を見た。セネガル系フランス人アリス・ディオップの監督作品。素晴らしかった。大いに感動した。

 実話に基づくらしい。あるセネガル系の女子学生ロランスはずっと年上の白人男性と恋に落ちて子どもを産むが、生後15か月ほどで殺害する。その裁判を、同じように年の差のある白人との間の子どもをはらんでいる新進作家のアフリカ系女性ラマが傍聴する。その様子を克明に描く。サントメールというのは裁判の行われた土地の名前らしい。セリフの多くは裁判記録に基づくという。

 白人世界の中では、アフリカ系女性は激しい差別に出会う。完璧なフランス語を話し、大学でヴィトゲンシュタインを研究したいと意欲を燃やしても、白人教授はそれを真摯な学究意欲と思わず、歪んだ欲望やウソの欲求だとみなす。アフリカ女性が子どもを産んでも、黒人の血を引く子供を白人は恥に思う。白人たちは、自分たちでは善意と思いながらも見えない差別を繰り返す。では、ロランス自身は親たちと同じようにアフリカ人としてのアイデンティティを持っているかというと、まったくそうではなく、西洋の精神を持ち、親たちと距離を持っている。そして、親たちも差別の中で自分たちのアイデンティティを保てずにいる。そのような引き裂かれた状況が裁判の中で明らかになる。

 その中で、女性裁判長は真摯に真実を求め、女性弁護士はロランスの心を受け止めようとする。傍聴するラマは、白人のあまりの無理解のために、自分も子供を産むのをためらい苦しむ。だが、おぼろげながらロランスの苦しみが弁護士の言葉によって明らかになり、傍聴席にも伝わったとき、ラマも子供を産む決意をする。

 私はかつてはフランス文学の研究者を目指していた。だが、熱心な研究者ではなかった。「日本人がフランス人に混じってプルーストを研究して何の意味があるんだ。日本人がフランス人のマネをするなんて滑稽ではないか」と強く感じ、熱心に学ぶ気持ちになれなかった。日本人はアフリカ系の人ほどの差別は受けなかったと思うが、根底には、それと同じようなものをこの映画のテーマに感じた。もちろん、フランスの移民たちは、不勉強な私などよりももっとずっとのっぴきならない、文化的ねじれの中にいる。西洋の学問や文化に関心を持ったアフリカ系の人間のアイデンティティはどうあるべきか。ヨーロッパ文化の中で生きる人間は子供をどう育てればいいのか。

 映画の冒頭、アフリカ系のラマはマルグリット・デュラスのシナリオ「ヒロシマ・モナムール」(「二十四時間の情事」というあまりに愚かしい日本語題名がついている!)を題材に、ドイツ兵と情を交わした女性への集団的リンチの状況をリセ?の授業で生徒に説明する場面がある。アフリカ系の教員が、西洋文化を講義するなど現在ではありふれた情景だろうし、あるべき姿でもあるだろう。しかし、語る主体の問題意識として考えた場合、それほど簡単には割り切れない問題をはらむ。おそらく、これはヨーロッパの移民の多くが心の奥に抱える問題だろう。

 子殺しについてラマが検索している中で、パゾリーニの映画「王女メディア」の、メディアを演じたマリア・カラスが子殺しを決意する場面が映し出される。この映画は、すべての映画の中で私が最も愛する映画だ。メディアも、低い文化の地コルキスで育ったメディアが、先進の地であるコリントスで差別されて、アイデンティティを失い、その復習として子殺しを決意するという背景を持っている。

 このようなことは、これから先、世界中で起こってくるだろう。移民社会における文化的アイデンティティというのはきわめて重要な問題だと思う。

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「オフィサー・アンド・スパイ」 とてもおもしろかった

 映画「オフィサー・アンド・スパイ」をみた。監督は、私が学生時代から親しんできたロマン・ポランスキー、原題は「J’accuse」(「われ、告発す」)。19・20世紀のフランス文学に関心のある人間にはこのタイトルはピンとくる。これは「ドレフュス事件」を扱った映画。J’accuseとはもちろん、文豪エミール・ゾラが国家スパイ罪で投獄されたユダヤ人の軍人ドレフュス大尉が無実であること、それを国家が隠蔽しようとしていることをロロール紙で告発したときに用いた言葉としてフランス文学史に残っている。

 私は大学院時代の指導教官である今は亡き渡辺一民先生がドレフュス事件に大きな関心を持っておられ、「ドレーフュス事件」という著書もあるので、45年ほど前から関心を持ってきた。

 初めに言わせてもらうと、それにしてもなんとセンスのない邦題だろう。「われ、告発す」でも「ドレフュス事件」でも、またはいっそのこと「ジャキューズ」でもいいのではないか。よりによって、いったい何のことかわからず、映画の内容を表しているわけでもなく、しかもまったくおもしろそうにも思えない「オフィサー・アンド・スパイ」などという題をつけるとは! 後で調べたら、これは映画の原作の英語タイトルだそうだが、そうだとしても、「オフィサー」を「士官」としなくて日本人には通じにくい。そのためもあるだろう、私は池袋HUMAXシネマズの午前の回で見たのだが、客は私を含めて4人だけだった! 

 映画はほんとうにおもしろかった。ゾラが参戦する前、ドレフュス大尉(ルイ・ガレル)が投獄され、その後、ピカール中佐(ジャン・デュジャルダン)が情報局の責任者になって局内の刷新をするうち、ドレフュスの無罪の証拠を見つけるところが中心に描かれる。ピカールは事実を公表するように上層部に迫るが、周囲は隠蔽を求め、よってたかってピカールを迫害する。結局ピカールは逮捕され、私生活も暴かれる。そこにゾラが参戦し、やっと世論が動くが、フランス全体が反ユダヤ主義で凝り固まっており、ユダヤ人であるドレフュスの無罪はなかなか勝ち取れない。そのような状況が克明にリアルに描かれる。

 偏狭な反ユダヤ主義に凝り固まって、一方的に攻撃する人々、自分の保身ばかりに関心を持つ人、無関心な人。ピカールをとりわけ美化するわけでもなく、その弱みも含めて、ポランスキーは描く。きっとこの通りだっただろうと思わせるだけの説得力がある。軍人たちの態度、パリの街の様子などもまさにリアル。一人一人の演技も見事。

 ポランスキーはユダヤ人で、しかも小児性愛の罪で逮捕され、本人は無罪を主張している(ただ、新聞報道などを見る限りでは、ポランスキーの主張はかなり分が悪そう)。そうした自分の体験を織り込もうとしているのかもしれない。もしかすると、自己正当化のための映画なのかもしれない。だが、やはり映画としてとても素晴らしい。「水の中のナイフ」「反撥」「袋小路」「テス」「戦場のピアニスト」などの名作に匹敵する代表作だと思う。

 世論が一方的になって一人のスケープゴートを見つけて攻撃し、冷静な人間が真実を明らかにしようとしてもこぞってそれを迫害する。それはもちろん前世紀末に起こっただけの事件ではない。今なお世界中で起こっている事件だ。

 渡辺一民先生はこの事件を、国家犯罪に対して、国民は、そしてとりわけ知識人はどのような立ち向かうべきなのかというモデルとして取り上げておられた。確かに、この問題は今もまったく古びていない問題だと再認識した。

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映画「単騎、千里を走る。」「SAYURI」「レッドクリフ」

 中国からみの映画を引き続き、数本みたので感想を記す。

「単騎、千里を走る。」 チャン・イーモウ監督 2005

 イーモウ監督、高倉健主演の日中合作映画。かなり前にテレビで一度みた記憶があるが、今回、みなおした。とてもいい映画だと思った。

 息子(中井貴一・声だけの出演)が不治の病だと知った父親(高倉健)は、息子のやり残した仕事を引き継ごうとして中国にわたり、雲南省に伝わる仮面劇「単騎、千里を走る」を撮影しようとして奮闘するロードムービー。様々な苦労をするうち、行き来のなかった親子に理解が生まれる。

 監督の意図はとてもよくわかる。ただ私は実はストーリーのあちこちに無理を感じる。それまで漁師をしていた初老の男性が、突然、中国に仮面劇の撮影に行こうとする決意がどうも納得できない。中国の官僚組織がこの父親に同情して刑務所内での撮影を許すことも、また、その父親が服役中の京劇役者の子どもを探しに行こうとするのも、よくわからない。

 しかし、そうであっても、そこは高倉健の圧倒的存在感とイーモウ監督の恐るべき演出力(登場した多くの人が素人だという!)と雲南省の絶景のおかげで、ともあれ納得させられてしまう。この父親役、高倉健でなければ成り立たなかっただろう。

 父親と、役者の子どもヤンヤンの交流は感動的。ヤンヤン役の子どもの演技も自然で素晴らしい。

 

SAYURI」 ロブ・マーシャル監督 2005

 日本の芸者さゆりの半生を描いている。この映画製作が発表された時、せっかく日本を舞台にして、日本の風俗を描く映画なのに、芸者の役を演じる女優の多くが中国系の女性であることを残念に思ったのを覚えている。それもあって、これまでみないでいたのだったが、チャン・ツィーの映画を何本かみているうちに、これもみたくなった。

 ヒロインのチャン・ツィー、先輩芸者のミシェル・コー、敵対する芸者のコン・リー。確かに魅力的。日本女性陣(大後寿々花・工藤夕貴・桃井かおり)もいいが、やはり中国系のビッグスターたちの存在感にはかなわない。日本男性陣(渡辺謙・役所広司)はさすが。色彩豊かな映像で芸者の悲しみと歓びが切々と語られる。

 ただ、私としては、10歳くらいの少女が、優しくしてくれた大人に恋して、その後、思い続けるというストーリーにあまり説得力を感じない。それに、中国人たちが演じるアメリカ映画がこれほどまでに日本を描いたということ、そして、中国女性の演じる芸者たちが見事に日本人風なのには感心するが、やはり街並みや群衆の動きが日本的ではないのが気になる。日本人同士が英語で語るのも、どうにも違和感を覚えてしまう。そもそも、英語で語ると、顔の表情や仕草が日本人らしくなくなる。

 まあ、「ラスト・サムライ」も同じようなものだったし、これまでみたアジアを舞台にした映画(「キリング・フィールド」「グッドモーニング、ベトナム」など)もきっと現地の人から見れば同じようなものだったのだろうから、致し方ないだろうが。

 なかなかいい映画だったが、感動するにはいたらなかった。

 

「レッドクリフ」 パート1・2 2008年・2009年 ジョン・ウー監督

 かつてさかんにテレビCMが流れていた。食傷気味だったので、関心を持たなかったが、ともあれこのところ中国関係の娯楽映画に触れたついでに観てみた。

「三国志」の中の赤壁の戦いを描いた大歴史ドラマだ。その昔、岩波文庫で「金瓶梅」「紅楼夢」と読み進めてとてもおもしろかったので、その後、「三国志」を読み始めたところ、誰が誰やら訳が分からなくなって、すぐに挫折した。次に「三国志演義」に挑戦したが、これも挫折。このタイプの読み物は私向きではないと思って、そのままになっていた。それもあって、今回も少々警戒してみはじめたが、何のことはない、かなり荒唐無稽な大スペクタクル映画だった。

 どのくらい「三国志」や「三国志演義」に基づいているのかわからないが、あまりにできすぎの話であり、戦場の場面もあまりに荒唐無稽。それなりによくできているので退屈することはないし、話もよくわかる(ただ、あとで調べて、脇役と思っていた人が関羽や張飛というビッグネームだったのでびっくり)し、ともあれ戦闘場面が派手でおもしろいのだが、何ということのない話だと思った。

 トニー・レオン(周瑜)、金城武(諸葛孔明)、張豊毅(曹操)はとても良い演技だと思う。周瑜の奥さん役の女優さん(リン・チーリン)をとてもきれいだと思った。調べてみたら、日本のドラマにも出演しているとのことなので、これまで知らなかった私のほうが世間から外れているのかもしれない。

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映画「MINAMATA」 外国人から見た水俣だからこそ成り立った映画

 映画「MINAMATA」をみた。名優ジョニー・デップが日本人になじみのあるユージン・スミスを演じて水俣病を扱っているのでみたいと思いつつ、機会を見つけられなかった。昨年まで東進ハイスクールでの仕事のために時折通っていた吉祥寺まで出かけて、みてきた。とてもよい映画だった。監督はアンドリュー・レヴィタス。

 かつて戦争写真で有名だった写真家ユージン・スミス(ジョニー・デップ)は今や妻子にも見棄てられ、仕事もうまくゆかずに飲んだくれている。そんなとき日系女性アイリーン(美波)に出会い、水俣の状況を知って、それを写真に撮りたい気を起こして、水俣に乗り込む。チッソ工場の妨害を受け、何度も弱気になり、何度も自信をなくし、再び酒に溺れそうになりながらも、現地の人と心を通わせるようになって、病気に苦しむ人々、その中での肉親の愛情などを撮影する。そして、水俣の名は世界に知られることになり、裁判も被害者側が勝利する。

 少々、切り込み不足は感じないでもない。水俣にはもっと悲惨な状況があっただろう。会社側の隠蔽工作もあっただろう。運動の担い手たちの苦労は映画で描かれているようなものではなかっただろう。いや、そもそも現地の人たちは映画ほどに美男美女たちではなかっただろう。もっと悲惨でもっとどろどろしており、もっと目をそむけたくなるものだっただろう。飲んだくれの写真家の再出発といったありきたりのドラマの中で、まるで付随物としてのように水俣が描かれる。凄惨な史実を扱う映画をみるとき、どうしてもそのような思いに駆られたくなる。

 だが、ふと考え直してみる。これは外国人から見た水俣だからこそ成り立った映画なのだ。日本人が作ると、もっと深入りしなければならなくなる。表面的なアプローチでは許されない。だからこそ何も語れなくなってしまう。一人の個人的な悩みを抱えた外国人が見た水俣という大枠があるからこそ、水俣の真実を外から描くことができる。一面の真実をリアルに描くことができる。その意味では、見事なアプローチと言えるだろう。

 被害者のリーダーを演じる真田広之とチッソ会社の社長を演じる國村隼の存在感がこの映画に深みを与えている。真田は苦しみの中で何とか理性的になろうと戦ってきた地域のインテリの生きざまが動きの一つ一つから伝わる。國村のふてぶてしい策士でありながら被害者の実態を耳にするといたたまれなくなる人物ぶりが実にリアル。

 被害女性がユージンを信頼して奇形の子どもを風呂に入れる様子を写真に撮らせる場面には涙を流すしかなかった。ユージンを主人公にしたからこそ、この場面をクライマックスにして、水俣病を告発すると同時に、人間の生きる姿を浮き彫りにすることができたともいえるだろう。

 ユージンが行き来する水俣の家々や風景があまり日本らしくなく、まるで東南アジアのような雰囲気だということは誰もが感じるところだろう。1970年前後の九州の田舎を私はよく知っているが、映画の中の雰囲気は私の記憶とはかなり異なる。そのあたりにもう少し気を遣ってくれていれば、私たちの世代の日本人はもっと強烈な感動を覚えただろうと思う。

 とはいえ、それにしても、名優ジョニー・デップがこのような形で日本の問題を描いてくれたことに感謝したくなる。そして、映画の最後で語られる通り、この後も水俣病は解決しておらず、世界のあちこちで同じような悲惨な被害が続いている。そのような訴えかけも私たちの胸にこたえる。

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ハイティンクのこと、そして「コンバット」のこと再び

 ベルナルト・ハイティンクの訃報をみた。グルベローヴァに次いで、また親しんできた名演奏家が亡くなった。

 私にとってハイティンクは大好きな指揮者というわけではなかったが、コンセルトヘボウ管弦楽団、ウィーン・フィル、ロンドン交響楽団、シュターツカペレ・ドレスデン、ロイヤル・オペラ・ハウス来日公演でモーツァルト、ベートーヴェン、ブルックナーを聴いて、そのたびに深く感動した記憶がある。じっくりと音楽の本質を聴かせてくれる演奏だった。若いころの録音は「特徴がない・生ぬるい」などと批評されることが多く、ヨーロッパでの名声のわりに日本では人気がなかったように思う。そして、実際、私も録音を聴いて、そのような印象を抱いた。だが、実演を聴くと、そのような低い評価を忘れてしまうだけの説得力があった。本当に素晴らしい指揮者だなあと何度も思った。合掌。

 

 先日、昔のアメリカのテレビ・ドラマ「コンバット」のDVDを購入して観始めたことをここに報告した。結局、シーズン1・2と6の合計73話をみた。全152話の中の半分弱ということになる。とてもおもしろかったが、さすがにちょっと飽きてきて、シーズン3・4・5はとばした。

 シーズン6からカラー放送になっているが、さすがにネタ切れになったようで、だんだんと設定が不自然になっていく。囚人兵を組織してならず者部隊にしたり、敵味方が入り乱れて洞窟に閉じ込められたり、敵の戦死者を味方の生きた兵士に見せかけて敵の攻撃をかわしたりといった、ちょっとふつうではありえないエピソードが続くようになった。それはそれで面白いし、ドラマとしてとてもよくできているのだが、初期のリアルな戦争の状況を描いていたのとは様変わりしている。

 それにしても、登場人物のキャラクター設定がおもしろい。ヴィック・モロー演じるサンダース軍曹は身のこなしも機敏、人間の心を知ったうえで、厳しく戦争の現実と向き合い的確に戦闘を進めていく。リュック・ジェイソン演じるヘンリー少尉は身のこなしこそサンダース軍曹に劣るが、知的な雰囲気はなかなか魅力的。6、7割はサンダース軍曹が主役、時にヘンリー少尉が主役だったが、中学生の私は、その回の主役がサンダース軍曹ではなくヘンリー少尉だとちょっとがっかりしたものだ。それから50年以上経った今も、やはり同じように私はヘンリー少尉よりもサンダース軍曹が登場する回を好む。

 ほかのレギュラー陣も実に人間的。このようなキャラクターであるからこそ、戦争ドラマが無理なく続いたのだと思う。カービーはきわめて優秀な兵士であり、他人思いで心優しいが、喧嘩っぱやくて、女にだらしがなくて、差別意識を強くて常に問題を起こす。ケーリー(アメリカ版ではケージという名前になっている)はフランス系のカナダ人で、フランス語通訳を務め、しっかりと自分の仕事をやり遂げる、いわば職人。リトルジョンは少し動作がのろく、あまり知的とは言えないが、しっかりした倫理観と常識を持っている。カーター衛生兵は、銃撃にはかかわれない中、衛生兵として人の命を何よりも大事にして、仕事を全うしようとする。そんな兵士たちの織り成すドラマは戦場という究極の場での人間ドラマになる。

 当時の映画スターたちやその後スターになる人たちが大勢出演しているのにも驚いた。以前、再放送などでみて、ジェームス・コバーン、リカルド・モンタルバン、ロバート・デュヴァル、デニス・ホッパーが出演していたのは認識していたが、エディ・アルバートとアリダ・ヴァリが(内縁の?)夫婦役で出たときには本当に驚いた。ただ、私のようなヨーロッパ映画ファンにとって、アリダ・ヴァリと言えば、オードリー・ヘップバーン級の大スターなのだが、あまり扱いが大きくないのが残念。

 しばらく休んで、また「コンバット」をみたくなり、そのころ、まだDVDが販売されていたら(できれば、それほど高くない金額で!)、その時、残りのシーズン3・4・5をみることにしよう。

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