映画

映画「国宝」 主人公二人がよく似ている!

 映画「国宝」をみた。話に聞いていた通り、歴史に残る名作映画だと思った。

 映画は吉田修一の原作とはかなり異なる。原作の主要な人物が何人か登場しない。小説の主人公・喜久雄(黒川想矢・吉沢亮)も、そして花井半二郎(渡辺謙)も映画の世界で活躍するはずだが、それもすべてカットされている。喜久雄と俊介(越山敬達・横浜流星)そして、駿介の父親である半二郎の関係に絞ってストーリーが展開していく。しかも、後半、原作にない場面も挿入され、別のエピソードが添えられる。原作の精神が映画の観客に伝わるように、きわめて巧妙に作り変えられている。原作に忠実にして全体が薄まるよりも、このような方法を選んだ台本は大成功していると思う。

 芸を磨こうとする二人の青年の努力、そして、歌舞伎の血を受け継ぐ者とそうでない者の友情と葛藤。もうそれだけですべての場面が緊張感にあふれる。そこに女形の芸が加わり、華やかさが加わると、観客は夢中になって画面をみるしかなくなる。

 これはまさに裏と表の物語だ。それがひっくり返ったり、元に戻ったり。

 私は人間の顔の識別が苦手だ。映画をみてもしばしば混乱するし、日常生活でも困っている。そんなわけで、吉沢亮と横浜流星も見分けがつかずに困った。いや、それどころか、実を言うと、私はしばらく前、テレビ・ドラマで横浜流星をみて、その人物こそが大河ドラマで主役に抜擢され、CMでも見かける吉沢亮その人だとばかり思っていた。しばらくたって、二人が別人だと気づいて驚いたのだった。その後、ずっと私は二人の見分けがつかなかった。この「国宝」も、中盤になってやっと二人の区別がつくようになった。

(アメリカのアカデミー賞の候補作になっていると聞くが、日本人の私でも識別に苦労しているのに、外国人に識別できるのだろうか。ちょっと心配。もしかしたら、私の識別能力が特別に劣っているだけなのかもしれないが)。

 この二人のキャスティングは、きっと二人がとてもよく似ているためになされたのだと思う。二人が似ているために、この二人が裏と表の関係であることが明確になる。そして、映画が進んでいくにつれて、それが裏表の関係ではなく、一体の関係に変化していく。そして二人が一体化することで歌舞伎の伝統が一つの国宝という生命になっていく。これはすべての人格を喰らい、一つの抽象的な国宝という芸術美が結晶することを描く残酷な物語なのだと思う。

 残念ながら日本の古典芸能についての素養のない私には、映画に出てくる歌舞伎の内容を深く理解できない。その演目、その場が小説で、あるいは映画で選ばれり、変更されたりした理由もよくわからない(「曽根崎心中」については、足!にポイントがあるのは理解できるが)。もちろん登場人物たちの歌舞伎の仕草の巧拙を判断することもできない。それらを理解できたら、もっと楽しめただろうと思う。

 それにしても李相日監督の演出力に感嘆した。冒頭の殴り込みの場面からして、リアルであるとともに様式美にもあふれている! 少年時代の二人の演技も見事。そして、もちろん、二人の芝居、踊り、舞台上で動けなくなった俊介を喜久雄がかばう場面など、息をのむ。いや、その二つの場面だけではない。そのような場面にあふれている。しかも、映像は洗練され、動きにあふれている。芸ということでいえば、小野川万菊を演じる田中泯、幸子の寺島しのぶの演技力にも圧倒される。

 小説を先に読んでいたので、映画化には落胆するのではないかと危惧していたが、むしろ私は映画の力を再確認できた。私が小説を読んで少し違和感を覚えたところが上手にカットされ、同じような意味を持つ別の構成、別のエピソードに変えられ、それが違和感なく感動的な映像として展開していった。これは小説の映画化の見事な例だと思った。

 このような良い映画が大ヒットするのはうれしいことだ。

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映画「私たちが光と想うすべて」

 インド映画「私たちが光と想うすべて」をみた。監督はパヤル・カパーリヤー。初めての長編映画監督作品だという。

 看護師のプラバを中心にして、田舎から出てきて、ムンバイの病院で働く世代の異なる三人の女ともだちの状況を描く。プラバ(カニ・クスリティ)は親に決められた男と結婚した直後、夫はドイツに行って、そのまま帰ってこず、連絡も取れなくなっている。そのため、新しい道に踏み込めずにいる。プラバのルームメイトである年下の看護師アヌ(ディビヤ・プラバ)は、自分はヒンドゥー教徒でありながら、イスラム教徒の男性と恋している。病院の食堂で働く年上のパルヴァティ(チャヤ・カダム)は新しく建設されるビルのために、現在住んでいるアパートを立ち退かされる状況に陥っている。それぞれ苦しい岐路に立ち向かっている。

 パルヴァティがムンバイを出て、海辺の村に住み始めるのに付き合って、ほかの二人も村を訪れる。そこでアヌは追いかけてきた恋人と結ばれる。プラバは溺れかけた男を救い、その男の妻と勘違いされたことから、久しぶりに夫の幻影と対峙し、それがきっかけとなって夫との縁を断ち切る決意をする。大都会での苦しい選択から解放されて、三人は村の居酒屋で踊る。ストーリーはこのようにまとめられるだろう。

 ムンバイを描く場面では、都会の喧騒が大きな音でずっと響いている。電車、車、雑踏、機械音が絶え間なく聞こえてくる。人々は喧騒に追われて、自分にじっくりと立ち向かう余裕もなく日々都会に動かされている。場面が海岸の村に移ると、今度は海の音、風にそよぐ木々の音が大きく聞こえる。

 プラバに好意を寄せる地方出身のドクターやアヌの恋人であるイスラム教徒の男性を含めて、だれもが都会の喧騒の中、孤独な魂を抱きながら生きている。それぞれの心に共感できる。現世的な音にあふれ、機械音に囲まれた大都会と違って、村には海があり、洞窟があり、洞窟には女神像が彫られており、まさに神秘にあふれている。そこで三人は本来の生命を見つけ出し、絶望の暗闇の中に見える光を見出す。

 私が少し前にチベット旅行をしたために余計に感じるのかもしれない。私にはこの映画はその土地が本来持っていた神秘の生命力を失ってしまった現代の大都市に暮らす人々の懊悩を描く作品のように思えた。

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映画「美しい夏」 良い映画だったが、私のパヴェーゼとは異なる雰囲気だった!

 イタリア映画「美しい夏」をみた。

 原作はチェザーレ・パヴェーゼ。私は、50年ほど前、恩師であり、人生の大恩人であるイタリア文学者・米川良夫先生に教えていただいてパヴェーゼを知り、ひところ盛んに読んだ。今度、パヴェーゼの「美しい夏」が映画化されたという。これはみないわけにはいかない。監督はラウラ・ルケッティ。

 第二次世界大戦直前の1938年、イタリアのトリノが舞台になっている。ファシスト党が横暴をふるっている様子が描かれる。16歳の少女ジーニア(イーレ・ビアネッロ)は田舎から出てきて、兄と暮らしながら洋裁店でお針子として働いている。あるとき、絵のモデルとして働く年上の女性アメーリア(ディーバ・カッセル)と知り合い、彼女を通して画家たちと交流して、新しい世界を知るようになる。画家の一人グィドと恋をし、絵のヌードモデルになろうとし、アメーリアと同性愛的なかかわりを深める。

 従来の、田舎の道徳が崩れ、抑圧的な社会になろうとしている時代に、そこからはみ出して生きる芸術家たち。そのはざまを生きる少女の苦しくもさわやかな成長物語と言ってよいだろう。

 とても良い映画だと思った。演じている役者たちもとてもいい。イーレ・ビアネッロは純真でありながら大人の世界への好奇心を抱くジーニアを見事に演じ、ディーバ・カッセルは圧倒的な肉体美によって、奔放に生きるアメーリアを見事に具現する。ほかの登場人物も背景も、なるほど原作を読んでイタリア人がイメージするのはこのような人やモノなのかと納得する。

 映像も美しい。本当に今もこのような建物が残っているのか、街並みが残っているのか、どうやって撮影したのかと疑問を抱くほどに時代をしっかり描けていると思われるし、それぞれの画面がまるで美術品のような美しさを持つ。二人の女性が枯葉に埋もれる場面など息をのむほど美しい。

 ただ、好きな小説が映画化されるとそう思うのが宿命なのだとは思うが、やはりパヴェーゼを自分なりに読んできた人間からすると、「どうも、これはオレの読んできたパヴェーゼとは違うぞ」という気になってしまう。

 実を言うと、始まってから20分くらいたってもまだパヴェーゼの原作を思い出せなかった。かつて感動して読んだはずなのに、この映画の原作はどの物語だっけ? もしかして読んだつもりで読んでいなかったのだろうかと思っていた。画家たちが登場してからやっと、これがまぎれもなくパヴェーゼの原作だと確信を持った。それほどに、この映画の雰囲気は、私の原作から思い描いていた雰囲気と異なっていた。あとで読み返してみたら、細かいところを除いてほぼ原作に忠実に描いている。だが、本質的なところで私のイメージとは違う。

 どこが違うのか考えてみた。一つだけ思い当たった。

 映画では、ヒロインであるジーニアがおずおずとした態度をとる。引っ込み思案で、しばしば暗い表情をし、ためらいがちに行動する。もちろん原作でもそのような傾向があるが、映画ほどではないと思う。原作では、繊細でためらいがちで内向的な雰囲気が強いのは文体であり、話の進め方であって、ジーニアはもう少し屈託のない印象が強い。文体や描写、話の進み方から繊細で人間味にあふれた寂寥感と孤独感がにじみ出る。

 映画化するとすれば、文体を表現するのは至難の業であって、どうしても登場人物の表情を用いるしかないのだろう。だから、やむを得ないとは思う。しかし、私はやはりこれはパヴェーゼではないと感じてしまう。

 一言でまとめてしまえが、なかなか良い映画だった、だが原作には及ばなかった、という、文学作品を映画化した作品に感じる感想をまたも抱いたということになるだろう。

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映画「岸辺露伴は動かない 懺悔室」 仮面と仮面の輪舞!

 先日、テレビで放送された映画「岸辺露伴 ルーヴルへ行く」をみた。何気なくみたのだったが、大変おもしろかった。漫画原作の映画を見慣れないせいかもしれないが、リアルと非リアルの自由な交錯に惹かれた。そこで展開される「黒の美」というテーマも興味深かった。今、上映中の「岸辺露伴は動かない 懺悔室」も薦めてくれる人がいて、出かけることにした。これもなかなかおもしろかった。

 原作は荒木飛呂彦、監督は渡辺一貴。

 有名漫画家・岸辺露伴(高橋一生)は文化イベントの招待を受けたのを機会に、マンガの取材のためにヴェネツィアに行く。そこで懺悔室にふと入って、神父と間違われ、仮面をつけた日本人男性(井浦新)から懺悔される。その男の懺悔によれば、かつてヴェネツィアで暮らし始めたころ、苦しむ日本人(戸次重幸)をいたぶって死なせてしまい、その男の霊に「幸せの絶頂で絶望に襲われる」という呪いを受け、それ以来、幸せにならないように工夫して生きているという。ところが、最愛の娘の結婚が近づき、幸せの絶頂になって絶望をもたらすのではないかと恐れている。露伴は、そうした父と娘にかかわる(ネタバレを避けて、これ以上は語らない)。

 露伴の不思議な服、ヴェネツィアという土地、ヴェネツィアンマスクなどの神秘的な様々な仕掛けによって、かなり不自然な設定が違和感なく受け入れられる。そのなかで、生と死の表裏、幸福と絶望の表裏が語られる。観客も不思議な世界に入り込む。ホラー映画的な要素もあり、演技者たちも説得力ある熱演。

 露伴と担当編集者の泉京香(飯豊まりえ)が小サロンでのピアノ伴奏版の「リゴレット」をみる場面がある。相手を殺すつもりで殺し屋を雇ったら、殺されたのはわが娘だったという場面。生と死、誠実と裏切り、虚と実、仮面と実像、そのようなものが入り乱れる。そして、「リゴレット」を変形する形でドラマは進んでいく。まさにヴェネツィアを舞台にした仮面と仮面の輪舞。

 ただ思ったのは、最高の幸せの中での絶望というのは、自分の命を失うことではなく、最愛のものを奪われることであるのは当然だろう。登場人物がそのことになかなか思い当たらないのは意外だった。

 それにしても、幸せは必ず失われる。幸せが大きければ大きいほど絶望も大きい、幸せと絶望はまさに表裏だと改めて思う。父親(この場面では大東駿介が演じている)がポップコーンを放り投げて口で受ける場面の不気味さは見事だった。

 ところで、映画の中のリゴレットとジルダの役を歌っていた歌手は誰なのだろう。ピアノ伴奏だったので、有名な録音からの抜粋ではないだろう。エンドクレジットに名前が出なかったので、有名歌手ではないのだろうか。しかし、かなりのレベルの歌だった。イタリアには、あのようなレベルの歌を歌える歌手がたくさんいるのだろうか。かなり気になった。

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映画「来し方 行く末」 静かな存在感、豊かな喚起力、そして強いメッセージ

 リュウ・ジャイン監督の中国映画「来し方 行く末」をみた。

 舞台は北京。ウェン・シャン(フー・ゴー)は大学院で学び、脚本家をめざしていたが、うまくいかずに、40歳を前にして弔辞の代筆の仕事に甘んじている。善良にして真面目。亡くなった人物を多方面から取材してその人の生きた姿を描くので弔辞の評判がいいが、人生の面ではうだつが上がらず、自信をなくして、自作の書きかけの脚本の登場人物シャオイン(ウー・レイ)を幻想の同居人のように感じながら一人で淡々と生きている。

 そんな中、様々な人の死に出会い、かつて弔辞を書いた人物の女友だちと交流するうち、徐々に弔辞を書いていた経験からだれもが主人公になれるのだということを認識していく。つまりは、彼自身の弔辞はまさに一人一人を主人公にする物語を書いていたのだということを再確認するということでもあるだろう。そして、自分も主人公になる意欲を持ち未来に希望を持つようになる。簡単にまとめると、こんなストーリーということになりそうだ。

 私は、うだつの上がらないウェン・シャンの善良で誠実な生き方に強い共感を覚える。周囲の人々が成功しようとして忙しく生き、スマホを手放さずにいるのに対して、主人公は、死者に寄り添い、残された人々が死者を何とか肯定的に捉えるようにと腐心して弔辞を書く。人の命、生活、生きる意味、そして人と人のコミュニケーションを大事にしようとする。地方出身者であって、北京という大都会にまだ十分になじめずにいるのだろう。ただ過去を大事にするあまり、先に進めず、周囲にも溶け込めずに焦っている。そうした焦燥感も共感できる。

 おそらく、リュウ・ジャイン監督は、一獲千金を狙って日常生活を大事にせず、経済優先になってしまう現代人に対して、日常で行っている善良で地道な活動は無駄にはならない、それが肥やしになって未来につながるというメッセージを伝えたかったのだろう。それはまた一人一人の生き方を大事にする社会を求めているというメッセージでもあるだろう。

 淡々とした日常の描き方が素晴らしい。小津の映画のような存在感がある。しかも映画の展開のうまさにも舌を巻いた。観客の誰もが不思議な同居人シャオインに気づき、何者だろうと気になり始める。それが徐々に種明かしされていく。その手腕が実に自然。

 映画の中で語られる死者たちのエピソードの喚起力にも驚いた。暑い中で受験勉強をする妹のために12キロ(だったかな?)離れた場所から毎日氷を運んだ男性、団地に竹を植えた高齢男性などのほんの数行で語られるエピソードで、その人物のリアルな姿が見えてくる。

 中国の映画には、時々このように静かで深い作品がある。

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イタリア映画「慈悲なき世界」「マロンブラ」「鉄の王冠」「金持ちを追放せよ」「栄光の日々」

 時間を見つけて、安売りのイタリア映画DVDセットをみている。簡単な感想を記す。

「慈悲なき世界」 1948年 アルベルト・ラトゥアーダ監督

 これは正真正銘の傑作。フェリーニが脚本を担当すると、途端におもしろくなる。さすが! 第二次大戦直後、アメリカ軍がイタリアを管轄している時代。兄を探しに港町に行くアンジェラ(カルラ・デル・ポッジョ)は銃で撃たれた黒人米兵ジェリーを助ける。二人の間に恋が芽生えるが、アンジェラは犯罪組織の一員に組み込まれてしまい、ジェリーもそれに巻き込まれる。そこから抜け出してアメリカに密航しようとするが、犯罪組織のボスに見つかり、アンジェラは殺される。ジェリーはアンジェラの死体とともに車で岸壁から転落する。

 まさに戦中戦後の慈悲なき社会を描く。ネオリアリズムのタッチで、戦後の紺頼がリアルに描かれる、犯罪に手を染める人、健気に生きる人が見事に描かれる。本国で差別される黒人の状況もしっかりと描かれている。アンジェラを助ける女性をジュリエッタ・マシーナが演じている。音楽はニノ・ロータ。

 

「マロンブラ」 1942年 マリオ・ソルダーティ監督

 厳格な叔父に湖畔の城から出ることを禁止されて生きる令嬢マロンブラ(イザ・ミランダ)。かつて、同じ城に閉じ込められていた女性チェチーリアの手紙を見つけて、コロンブラはチェチーリアと区別がつかなくなる・・・。まあそんな話。ゴチック小説まがいの展開。このタイプの映画を「カリグラフィスモ」というのだそうだ。ただ、狂気じみた気位の高い令嬢、チェチーリアの息子らしい作家、遺産を争う貴族たちなどという道具立てに、私のような現代の高齢者はリアリティを感じることができない。ヒロインにまったく感情移入できなかった。

 

「鉄の王冠」 1941年 アレッサンドロ・ブラゼッティ監督

  歴史映画。ヴェネチア国際映画祭金獅子賞を受賞と言おうが、そんな良い映画とは思えなかった。いくらか史実、あるいは中世の伝説に基づいているのだろうか。中世の鉄の王冠をめぐる物語。オイディプス伝説とジークフリート伝説と「マクベス」をごたまぜにしたようなお話。背景や音楽は、ワーグナー、とりわけ「タンホイザー」や「ローエングリン」を思わせる場面がたくさんある。

 ただ、どの人物も掘り下げが甘く、その心情が伝わらない。戦闘場面や、コロッセオのようなところでの決闘場面があるが、それも現在からみると、かなり安っぽくてリアリティに欠ける。

 

「金持を追放せよ」 1946年 ジェンナロ・リゲルリ監督

 果物屋を営むジョコンダ(アンナ・マニャーニ)はとんとん拍子に成功して大富豪になり、没落した伯爵(ヴィットリオ・デ・シーカ)の館を買い取るが、集まってきた詐欺師たちにすべてをはぎ取られて、元に戻ってしまう。結局信頼できたのは、伯爵だけ。そうした人間喜劇を、マニャーニとデ・シーカが演じる。他愛のないストーリーだが、戦後の混乱期の経済事情も分かって、とてもおもしろい。

 

「栄光の日々」 1945年 監督:ジュゼッペ・デ・サンティス、マリオ・セランドレイ、マルチェロ・パリエーロ、ルキノ・ヴィスコンティ

 第二次大戦末期、イタリア北部は、ナチスとファシストに占領されており、愛国者たちはパルチザンの戦いを挑んだ。その有様を描くドキュメンタリー。実写の力というべきか、まさに「事実」が迫ってくる。戦後のイタリア映画を支えたフェリーニ、ヴィスコンティ、パゾリーニといった人々がネオリアリズムから出発したことがよくわかる。

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映画「ヒロシマ、そしてフクシマ」 原子力について討論する契機に

 ドキュメンタリー映画「ヒロシマ、そしてフクシマ」をみた。恩師である山本顕一先生(先ごろ公開された映画「ラーゲリより愛を込めて」で二宮和也が演じた実在の人物・山本幡男のご長男でもある)がプロデュースした作品。

 監督はマーク・プティジャン。広島の原爆投下の治療にあたり、その後、被爆者の治療や反核運動にかかわってきた、映画の公開当時96歳であった肥田舜太郎医師の活動を描いている。フランス人監督がフランスで肥田医師の活動を知り、感銘を受けて映画作りを思い立ったということらしい。

 肥田医師は、原爆投下直後に、被爆の身体に与える大きな影響に気づき、それを隠そうとするアメリカ軍に抗議し、すべての原子力に反対して活動している。そして、福島の事故についても、日本の企業の無責任や政府の事実隠ぺいの責任を追及している。粘り強く、確信にあふれ、しかもヒステリックにならずに地道に活動している。その真摯な姿が描かれる。とても意義のある良い映画だと思う。原子力の怖さがとてもよくわかる。

 ただ、この映画について疑問に思うことがいくつかあった。まず、フランス人である監督がなぜ日本のこのような活動に関心を持ったのか、いやそもそも、この映画は日本人に見せようとしているものなのか、フランス人に見せたいのか。つまりは、この映画の製作動機は何なのかということが、この映画をみてもよくわからなかった。原子力反対という自分の立場を鮮明に打ち出して作る映画である以上、自分の基盤を明確に示す方が説得力が増すと思うのだが、どうだろう。

 もう一つは、反対意見をあまり考慮していないことが気になった。原子力発電を廃止するとなると、日本の電力供給はどうなるのだろう。きっと日本の電力を維持できなくなるだろう。原子力を否定するのであれば、電力使用を控えるべきなのか。電力使用を控えると国力低下は必然であり、原子力発電所を放棄しなかった国々に後れを取ることになるだろう。だが、それを受け入れるべきなのか、それともほかの方法があるのか。

 同じことが、安全保障面でもいえる。原子力発電を止めるということは、原子力開発を諦めるということであり、核兵器を完全に放棄するということだ。もちろんそれが理想だが、人権否定の国は悪いものを率先して開発する。ロシア、中国、北朝鮮が核開発をして日本を脅すようになってもよいのか。それをどうとらえ、どう解決するのか。

 おそらく肥田医師は、そのような反対意見を何度も耳にし、そのような人たちと論戦を交わしてきただろう。肥田医師はどのように語っていたのだろう。どのような信念を持っておられたのだろう。それをもっと知りたいと思った。

 監督がフランス人であれば、日本人とは異なって、そのようなリアルな視点でとらえることが可能だろう。フランス本国の考え方と比較することもできるだろう。

 この映画によって原子力の怖さを改めて知ることができたが、私が解決できずにいることについてのヒントを与えてくれるものではなかった。ただ、この映画をみたうえで、その後に討論会が催され、原子力について考えを深める場になるとすれば、これは素晴らしい映画ということができるだろう。

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イタリア映画「絆」「いつまでも君を愛す」「困難な時代」「八月の日曜日」「嫉妬」

 しばらく映画をみなかった。先日、久しぶりに「ゆきてかへらぬ」をみて、自分が映画好きだったことを思い出した。このところ、立て続けに映画館に足を運び、家でもDVDなどで映画をみている。購入して長い間放置していた安売りのイタリア映画のDVDセットを何本か見たので、簡単に感想を記す。

 

「絆」1949年 ラファエロ・マタラッツォ監督

 自動車修理工場を経営して幸せに暮らす一家。そこに、自動車泥棒が車を修理に出すが、その男は妻(イヴォンヌ・サンソン)のかつての恋人だった。男は、未練のある妻を脅して自分のものにしようとするが、それに気づいた夫(アメデオ・ナザーリ)が男を殺してしまう。妻は弁護士に言われて裁判ではあえて男の愛人だったとうその証言をして夫も無実にする。弁護士がのちに事実を語って、妻は元の家に戻る。

 ちょっとできすぎた話で、しかも、リアルに考えれば、妻がこのような事態になるのを避ける方法はいくらでもあると思うのだが、ともあれハラハラしながら見ることができ、最後はほっとする。妻役のサンソンは、自動修理屋の奥さんとしてはあまりに派手な美人なのがリアリティに欠ける気がするのだが、当時のイタリアの観客はそうは思わなかったのだろうか。

 

「いつまでも君を愛す」 1933年 マリオ・カメリーニ監督

 1942年に同じ監督がリメイクしたとのことなので、これは旧版ということになる。子どものころから過酷な人生をたどってきたアドリアーナ(エルサ・デ・ジョルジ)は恋人の子どもを産んだとたんに代理人を通して別れを告げられ、その後、シングルマザーとして生きることになる。働いている美容室でかつての恋人に再会して身勝手な復縁を迫られるが、それ以前から思いを寄せていた誠実な会計士に助けられ、愛し合うようになる。

 よくあるタイプのストーリーだが、1930年代のローマ(?)の状況が描かれ、美容室の様子、会計士の家庭などがリアルに描かれていてとてもおもしろい。70分に満たない短い映画だが、心情はしっかり描かれている。なかなかに良い映画だった。

 

「困難な時代」1948年 ルイジ・ザンパ監督

 とても良い映画だと思った。舞台はシチリア。ファシズムが台頭し、市役所に勤める初老のピシテッロ(ウンベルト・スパダーロ)は反ファシストの仲間たちと親しくしているが、ファシスト党に入党しなければ解雇されると脅されて従い、いやいやながら党員として活動する。国全体がムッソリーニ熱に浮かされるなか、長男(マッシモ・ジロッティ)とともに時代に抗しようとするが、長男はドイツ軍に殺害されてしまう。時代が変わって、ムッソリーニが失脚、アメリカ軍が上陸して、今度は国全体が反ファシストになる。国民の多くは、以前から反ファシストだったふりをする。ピシテッロは時代の空気についていけない。「私たちは卑怯者だ。投獄を恐れずに自分の意見を言っておれば、こんなことにならなかった」というようなことをピシテッロは語る。

 家庭内でも、家族がムッソリーニを崇拝するようになり、社会が分断され、理不尽が幅を利かせるようになる。そんな中、若者は恋をし、生活は続いていく。そのような状況がリアルに描かれる。家族や周辺の人々をわかりやすく描く。

 戦前、戦中、戦後に日本でも同じようなことが起こっただろう。ピシテッロの思いは、多くの良識ある人の終戦直後の思いだっただろう。

 ただ、マッシロ・ジロッティがあまりに輝かしく描かれ、兵役を終えて命からがら戻ったときも一人超然としている。大スターだったゆえの演出だろうか。少し奇異に思えた。また、反ファシストは教養あるタイプの人たちで、集まって余興にオペラ(「ノルマ」など)を歌うのに対して、ファシストはオペラを理解せず、歌劇場で「ノルマ」をみて、反ローマ的なセリフを知ってあわててカットを指示する様子が語られる。これは事実に基づくのだろうか。そして、ファシストは無教養という認識は正しいのだろうか。

 

「八月の日曜日」 1950年 ルチアーノ・エンメル監督

 戦争が終わってから、7年ほどたった8月の日曜日、ローマの人々は列車や車や自転車でこぞって大海水浴場オスティアにでかける。東京の人が湘南の海に出かけたように。その大勢の人々の朝から夕方までの1日の人間模様を描く。ローマの人々なので、にぎやかこの上ない。わいわいがやがやの中で若い恋や中年の恋が芽生えたり、不和が起こったり、恋が進展したり、犯罪が起こったり、大家族がともあれ楽しんだり。この映画の主人公は、まさにローマの人々! 庶民の哀歓が伝わる。手際よく人物を描く手腕にも驚く。これもネオリアリズムの一つの形だろう。

 オスティアは、私の大好きだった映画監督パゾリーニが殺害され、遺体を捨てられていた場所なので、1978年、ローマを訪れた折、タクシーでその場所まで行った記憶がある。知らない俳優ばかりだと思ってみていたら、真面目な警官役にマルチェロ・マストロヤンニが出てきた! このころから独特の雰囲気を持っている!

 

「嫉妬」 1953年 ピエトロ・ジェルミ監督

 無駄のない台本と隅々まで計算しつくされた映像。全体がびしりと決まって、きわめて論理的に物語が展開する。これぞ名匠ピエトロ・ジェルミの醍醐味。ある意味で定石通りの展開なのだが、緊迫感にあふれ、俳優たちの演技が見事なので、ぐいぐいと引き込まれる。

 イタリアの村を支配する侯爵(エルノ・クリサ)。親戚の圧力で、貧しい出の娘アグリッピナ(マリーザ・ベリ)と別れて、別の女性を結婚せざるを得なくなるが、忠実な男ロッコとアグリッピナを偽装結婚させて、関係を続けようとする。だが、ロッコが裏切りそうなのに気づいて、嫉妬のあまり殺してしまう。ロッコ殺しの罪でほかの人間が無実で捕らえられたために苦しんで神父に告解はするが、警察には伝えない。結局、無実の人間は殺され、侯爵はいよいよ苦しんで、死を迎える。最後までアグリッピナへの愛を貫く。

 狂ったように愛し合う身分違いの男女、嫉妬のあまり男を殺して良心の呵責に苦しむが、真実を語る勇気を持たない男。そのようなドラマティックな状況を見事に描いていく。まさにリアリズム。

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映画「校庭」 ローラ・ワンデル監督 徹底的な視野の狭さによる凄味!

 2021年のベルギーの映画。子どもを扱った72分の映画だが、なかなか重くて凄い映画!

 7歳の少女ノラ。3歳年上の兄アベルとともに、どうやら転校してきたようだ。仲のよい兄と妹なのだが、不安なノラがアベルに頼ろうとして接近したことが原因で、アベルはいじめにあうようになる。ノラは父親にそのことを話して解決しようとするが、いっそういじめは悪化。父親も頼りにならない。理解を示してくれた先生は退職してしまう。兄の心はどんどんと離れていく。その後、父親が介入して、ともあれアベルへのいじめは沈静化するが、その後、ノラにまでもいじめは広がり、しかも、アベルは今度はいじめの加害者になって、もっと弱い子をいじめだす。

 ある意味で、学校ではかなりありふれた出来事だろう。この映画がすごいのは、このような子どもの世界を、子どもの目からリアルに描いている点だ。子どもの背丈にカメラが設定される。しかも、まさに子どもの視線はこうなのだろう、映像は視野が狭く、遠くは映されず、中心以外はぼやけている。子どもがみているであろう世界が描かれていく。場所の全体像も大人の全体像も映されない。子どもの目から、おとなへの絶望、身動きの取れない状況が描かれていく。

 明らかにハンガリーのラースロ―監督の映画「サウルの息子」(私は驚異的な名作だと思っている!)の影響を受けているだろう。「サウルの息子」は、アウシュヴィッツで、ユダヤ人でありながナチスの手先としてユダヤ人虐殺の当事者として活動する男サウルの狂気じみた世界を描いた映画だった。そこでも、サウルから見た視野の極端に狭い世界がスクリーン上に映し出されて、サウルの意識を描いていた。

「校庭」でも、極端に視野の狭い子どもの世界が同じような手法で描かれる。大人はみんながそれなりの善意を持っているが、それでも信用できない。子どもたちは屈託なく、しかも残酷。自分が何かをするといっそう事態は悪くなる。みんなが辛いのはわかっているが、どうにもならない。それが俯瞰的な視野を持てずに、目の前のことしか理解できない映像によって描かれていく。

 この映画では、いじめへの解決の道は示されない。この映画の原題はun monde。フランス語(≒ベルギー語)で「一つの世界」。まさに、子どもたちにとっての「世界」そのもの、しかもありふれたひとつの世界を描いている。

 それにしても、子どもたちの演技が素晴らしい。とりわけ、ノラを演じるマヤ・バンダービークの表情や動きに驚く。多感で兄思いだが、時に依怙地になり、時に怒りを爆発させる等身大の子どもを目の前に見せてくれる。観客はノラに感情移入していく。このあたりが、主人公への感情移入も許さなかった「サウルの息子」と違うところだが、描かれるのが学校なので、「校庭」では、感情移入が不可欠だっただろう。

 ところで、このところ、私のみる映画は中年以上の客がほとんど、60代、70代が中心の場合もある・・・という状態だったが、この映画は、客はまばらながら、ほとんどが20代、30代に見えた。60歳以上に見える人はひとりもいない! あれ、もしかして私は間違えて別のホールに入り込んでしまったかな、と不安に思ったほどだった。若者がこの映画をみて感銘を受けてくれると嬉しい。

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映画「ジュテーム、ジュテーム」 不定形で不確定な世界

 アラン・レネの監督作品はかなりみた。50年ほど前、周囲にはゴダール、トリュフォー好きが多かったが、私はこれらの監督よりもレネのほうが好きだった。特に、「二十四時間の情事」は圧倒的名作だと思っていた。「去年、マリエンバードで」も、少々退屈で意味不明ではあったが、おもしろいと思っていた。

 そして、今回、レネの死から10年以上たって、1968年に作られた「ジュテーム、ジュテーム」が日本で初めて封切になった。レネを愛した人間としては観に行くしかない。

 自殺に失敗して回復したクロード(クロード・リッシュ)が、タイムトラベルの研究所の実験の被験者に選ばれ、1年前に1分間だけ戻ることのできる不思議なタイムマシンの中に入る。ところが、機械は故障したらしく、クロードは過去の中に閉じ込められ、断片的な過去を繰り返し生きることになる。そうするうち、観客にも、クロードが恋人カトリーヌ(オルガ・ジョルジュ・ピコ)を愛していたが、事故か自殺か、あるいはクロードが殺したのか曖昧ながら、カトリーヌが死に、その不在のために生きる気力をなくしたクロードが自殺を図ったらしいことがわかってくる。クロードは、自殺を図った状態で現在に戻るが、すでに手遅れになってしまう。

「去年、マリエンバードで」をみた時とそっくり同じような印象を抱いた。主人公とともに観客までも時間の迷路のなかに閉じ込められた感覚に襲われる。カフカの「城」の世界に入り込んで出られなくなった雰囲気と言ってもいい。同じ場面が繰り返され、それが少しずつ変容し、いったい何が起こっているのかわからない、映画が何を言おうとしているのかもわからない。事実が事実でなくなり、すべてが不定形で不確定になる。確実なものはなくなり、すべてが意味不明になっていく。

 アラン・レネはまさにそれを狙っているのだと思う。彼は言葉にすることのできない、繰り返しと意味不明と不確定な世界を感じている。それを観客に追体験させようとする。事実が解体され、世界が解体される。

 おもしろい映画ではない。感動する映画ではない。退屈で意味不明。しかし、私もレネと同じようにしみじみと思う。世界って、実はこうなんだよなあ。こんなふうに不確定でねじれていて、歪んでいて意味不明なんだよなあ・・・と。

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