映画

映画「来し方 行く末」 静かな存在感、豊かな喚起力、そして強いメッセージ

 リュウ・ジャイン監督の中国映画「来し方 行く末」をみた。

 舞台は北京。ウェン・シャン(フー・ゴー)は大学院で学び、脚本家をめざしていたが、うまくいかずに、40歳を前にして弔辞の代筆の仕事に甘んじている。善良にして真面目。亡くなった人物を多方面から取材してその人の生きた姿を描くので弔辞の評判がいいが、人生の面ではうだつが上がらず、自信をなくして、自作の書きかけの脚本の登場人物シャオイン(ウー・レイ)を幻想の同居人のように感じながら一人で淡々と生きている。

 そんな中、様々な人の死に出会い、かつて弔辞を書いた人物の女友だちと交流するうち、徐々に弔辞を書いていた経験からだれもが主人公になれるのだということを認識していく。つまりは、彼自身の弔辞はまさに一人一人を主人公にする物語を書いていたのだということを再確認するということでもあるだろう。そして、自分も主人公になる意欲を持ち未来に希望を持つようになる。簡単にまとめると、こんなストーリーということになりそうだ。

 私は、うだつの上がらないウェン・シャンの善良で誠実な生き方に強い共感を覚える。周囲の人々が成功しようとして忙しく生き、スマホを手放さずにいるのに対して、主人公は、死者に寄り添い、残された人々が死者を何とか肯定的に捉えるようにと腐心して弔辞を書く。人の命、生活、生きる意味、そして人と人のコミュニケーションを大事にしようとする。地方出身者であって、北京という大都会にまだ十分になじめずにいるのだろう。ただ過去を大事にするあまり、先に進めず、周囲にも溶け込めずに焦っている。そうした焦燥感も共感できる。

 おそらく、リュウ・ジャイン監督は、一獲千金を狙って日常生活を大事にせず、経済優先になってしまう現代人に対して、日常で行っている善良で地道な活動は無駄にはならない、それが肥やしになって未来につながるというメッセージを伝えたかったのだろう。それはまた一人一人の生き方を大事にする社会を求めているというメッセージでもあるだろう。

 淡々とした日常の描き方が素晴らしい。小津の映画のような存在感がある。しかも映画の展開のうまさにも舌を巻いた。観客の誰もが不思議な同居人シャオインに気づき、何者だろうと気になり始める。それが徐々に種明かしされていく。その手腕が実に自然。

 映画の中で語られる死者たちのエピソードの喚起力にも驚いた。暑い中で受験勉強をする妹のために12キロ(だったかな?)離れた場所から毎日氷を運んだ男性、団地に竹を植えた高齢男性などのほんの数行で語られるエピソードで、その人物のリアルな姿が見えてくる。

 中国の映画には、時々このように静かで深い作品がある。

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イタリア映画「慈悲なき世界」「マロンブラ」「鉄の王冠」「金持ちを追放せよ」「栄光の日々」

 時間を見つけて、安売りのイタリア映画DVDセットをみている。簡単な感想を記す。

「慈悲なき世界」 1948年 アルベルト・ラトゥアーダ監督

 これは正真正銘の傑作。フェリーニが脚本を担当すると、途端におもしろくなる。さすが! 第二次大戦直後、アメリカ軍がイタリアを管轄している時代。兄を探しに港町に行くアンジェラ(カルラ・デル・ポッジョ)は銃で撃たれた黒人米兵ジェリーを助ける。二人の間に恋が芽生えるが、アンジェラは犯罪組織の一員に組み込まれてしまい、ジェリーもそれに巻き込まれる。そこから抜け出してアメリカに密航しようとするが、犯罪組織のボスに見つかり、アンジェラは殺される。ジェリーはアンジェラの死体とともに車で岸壁から転落する。

 まさに戦中戦後の慈悲なき社会を描く。ネオリアリズムのタッチで、戦後の紺頼がリアルに描かれる、犯罪に手を染める人、健気に生きる人が見事に描かれる。本国で差別される黒人の状況もしっかりと描かれている。アンジェラを助ける女性をジュリエッタ・マシーナが演じている。音楽はニノ・ロータ。

 

「マロンブラ」 1942年 マリオ・ソルダーティ監督

 厳格な叔父に湖畔の城から出ることを禁止されて生きる令嬢マロンブラ(イザ・ミランダ)。かつて、同じ城に閉じ込められていた女性チェチーリアの手紙を見つけて、コロンブラはチェチーリアと区別がつかなくなる・・・。まあそんな話。ゴチック小説まがいの展開。このタイプの映画を「カリグラフィスモ」というのだそうだ。ただ、狂気じみた気位の高い令嬢、チェチーリアの息子らしい作家、遺産を争う貴族たちなどという道具立てに、私のような現代の高齢者はリアリティを感じることができない。ヒロインにまったく感情移入できなかった。

 

「鉄の王冠」 1941年 アレッサンドロ・ブラゼッティ監督

  歴史映画。ヴェネチア国際映画祭金獅子賞を受賞と言おうが、そんな良い映画とは思えなかった。いくらか史実、あるいは中世の伝説に基づいているのだろうか。中世の鉄の王冠をめぐる物語。オイディプス伝説とジークフリート伝説と「マクベス」をごたまぜにしたようなお話。背景や音楽は、ワーグナー、とりわけ「タンホイザー」や「ローエングリン」を思わせる場面がたくさんある。

 ただ、どの人物も掘り下げが甘く、その心情が伝わらない。戦闘場面や、コロッセオのようなところでの決闘場面があるが、それも現在からみると、かなり安っぽくてリアリティに欠ける。

 

「金持を追放せよ」 1946年 ジェンナロ・リゲルリ監督

 果物屋を営むジョコンダ(アンナ・マニャーニ)はとんとん拍子に成功して大富豪になり、没落した伯爵(ヴィットリオ・デ・シーカ)の館を買い取るが、集まってきた詐欺師たちにすべてをはぎ取られて、元に戻ってしまう。結局信頼できたのは、伯爵だけ。そうした人間喜劇を、マニャーニとデ・シーカが演じる。他愛のないストーリーだが、戦後の混乱期の経済事情も分かって、とてもおもしろい。

 

「栄光の日々」 1945年 監督:ジュゼッペ・デ・サンティス、マリオ・セランドレイ、マルチェロ・パリエーロ、ルキノ・ヴィスコンティ

 第二次大戦末期、イタリア北部は、ナチスとファシストに占領されており、愛国者たちはパルチザンの戦いを挑んだ。その有様を描くドキュメンタリー。実写の力というべきか、まさに「事実」が迫ってくる。戦後のイタリア映画を支えたフェリーニ、ヴィスコンティ、パゾリーニといった人々がネオリアリズムから出発したことがよくわかる。

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映画「ヒロシマ、そしてフクシマ」 原子力について討論する契機に

 ドキュメンタリー映画「ヒロシマ、そしてフクシマ」をみた。恩師である山本顕一先生(先ごろ公開された映画「ラーゲリより愛を込めて」で二宮和也が演じた実在の人物・山本幡男のご長男でもある)がプロデュースした作品。

 監督はマーク・プティジャン。広島の原爆投下の治療にあたり、その後、被爆者の治療や反核運動にかかわってきた、映画の公開当時96歳であった肥田舜太郎医師の活動を描いている。フランス人監督がフランスで肥田医師の活動を知り、感銘を受けて映画作りを思い立ったということらしい。

 肥田医師は、原爆投下直後に、被爆の身体に与える大きな影響に気づき、それを隠そうとするアメリカ軍に抗議し、すべての原子力に反対して活動している。そして、福島の事故についても、日本の企業の無責任や政府の事実隠ぺいの責任を追及している。粘り強く、確信にあふれ、しかもヒステリックにならずに地道に活動している。その真摯な姿が描かれる。とても意義のある良い映画だと思う。原子力の怖さがとてもよくわかる。

 ただ、この映画について疑問に思うことがいくつかあった。まず、フランス人である監督がなぜ日本のこのような活動に関心を持ったのか、いやそもそも、この映画は日本人に見せようとしているものなのか、フランス人に見せたいのか。つまりは、この映画の製作動機は何なのかということが、この映画をみてもよくわからなかった。原子力反対という自分の立場を鮮明に打ち出して作る映画である以上、自分の基盤を明確に示す方が説得力が増すと思うのだが、どうだろう。

 もう一つは、反対意見をあまり考慮していないことが気になった。原子力発電を廃止するとなると、日本の電力供給はどうなるのだろう。きっと日本の電力を維持できなくなるだろう。原子力を否定するのであれば、電力使用を控えるべきなのか。電力使用を控えると国力低下は必然であり、原子力発電所を放棄しなかった国々に後れを取ることになるだろう。だが、それを受け入れるべきなのか、それともほかの方法があるのか。

 同じことが、安全保障面でもいえる。原子力発電を止めるということは、原子力開発を諦めるということであり、核兵器を完全に放棄するということだ。もちろんそれが理想だが、人権否定の国は悪いものを率先して開発する。ロシア、中国、北朝鮮が核開発をして日本を脅すようになってもよいのか。それをどうとらえ、どう解決するのか。

 おそらく肥田医師は、そのような反対意見を何度も耳にし、そのような人たちと論戦を交わしてきただろう。肥田医師はどのように語っていたのだろう。どのような信念を持っておられたのだろう。それをもっと知りたいと思った。

 監督がフランス人であれば、日本人とは異なって、そのようなリアルな視点でとらえることが可能だろう。フランス本国の考え方と比較することもできるだろう。

 この映画によって原子力の怖さを改めて知ることができたが、私が解決できずにいることについてのヒントを与えてくれるものではなかった。ただ、この映画をみたうえで、その後に討論会が催され、原子力について考えを深める場になるとすれば、これは素晴らしい映画ということができるだろう。

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イタリア映画「絆」「いつまでも君を愛す」「困難な時代」「八月の日曜日」「嫉妬」

 しばらく映画をみなかった。先日、久しぶりに「ゆきてかへらぬ」をみて、自分が映画好きだったことを思い出した。このところ、立て続けに映画館に足を運び、家でもDVDなどで映画をみている。購入して長い間放置していた安売りのイタリア映画のDVDセットを何本か見たので、簡単に感想を記す。

 

「絆」1949年 ラファエロ・マタラッツォ監督

 自動車修理工場を経営して幸せに暮らす一家。そこに、自動車泥棒が車を修理に出すが、その男は妻(イヴォンヌ・サンソン)のかつての恋人だった。男は、未練のある妻を脅して自分のものにしようとするが、それに気づいた夫(アメデオ・ナザーリ)が男を殺してしまう。妻は弁護士に言われて裁判ではあえて男の愛人だったとうその証言をして夫も無実にする。弁護士がのちに事実を語って、妻は元の家に戻る。

 ちょっとできすぎた話で、しかも、リアルに考えれば、妻がこのような事態になるのを避ける方法はいくらでもあると思うのだが、ともあれハラハラしながら見ることができ、最後はほっとする。妻役のサンソンは、自動修理屋の奥さんとしてはあまりに派手な美人なのがリアリティに欠ける気がするのだが、当時のイタリアの観客はそうは思わなかったのだろうか。

 

「いつまでも君を愛す」 1933年 マリオ・カメリーニ監督

 1942年に同じ監督がリメイクしたとのことなので、これは旧版ということになる。子どものころから過酷な人生をたどってきたアドリアーナ(エルサ・デ・ジョルジ)は恋人の子どもを産んだとたんに代理人を通して別れを告げられ、その後、シングルマザーとして生きることになる。働いている美容室でかつての恋人に再会して身勝手な復縁を迫られるが、それ以前から思いを寄せていた誠実な会計士に助けられ、愛し合うようになる。

 よくあるタイプのストーリーだが、1930年代のローマ(?)の状況が描かれ、美容室の様子、会計士の家庭などがリアルに描かれていてとてもおもしろい。70分に満たない短い映画だが、心情はしっかり描かれている。なかなかに良い映画だった。

 

「困難な時代」1948年 ルイジ・ザンパ監督

 とても良い映画だと思った。舞台はシチリア。ファシズムが台頭し、市役所に勤める初老のピシテッロ(ウンベルト・スパダーロ)は反ファシストの仲間たちと親しくしているが、ファシスト党に入党しなければ解雇されると脅されて従い、いやいやながら党員として活動する。国全体がムッソリーニ熱に浮かされるなか、長男(マッシモ・ジロッティ)とともに時代に抗しようとするが、長男はドイツ軍に殺害されてしまう。時代が変わって、ムッソリーニが失脚、アメリカ軍が上陸して、今度は国全体が反ファシストになる。国民の多くは、以前から反ファシストだったふりをする。ピシテッロは時代の空気についていけない。「私たちは卑怯者だ。投獄を恐れずに自分の意見を言っておれば、こんなことにならなかった」というようなことをピシテッロは語る。

 家庭内でも、家族がムッソリーニを崇拝するようになり、社会が分断され、理不尽が幅を利かせるようになる。そんな中、若者は恋をし、生活は続いていく。そのような状況がリアルに描かれる。家族や周辺の人々をわかりやすく描く。

 戦前、戦中、戦後に日本でも同じようなことが起こっただろう。ピシテッロの思いは、多くの良識ある人の終戦直後の思いだっただろう。

 ただ、マッシロ・ジロッティがあまりに輝かしく描かれ、兵役を終えて命からがら戻ったときも一人超然としている。大スターだったゆえの演出だろうか。少し奇異に思えた。また、反ファシストは教養あるタイプの人たちで、集まって余興にオペラ(「ノルマ」など)を歌うのに対して、ファシストはオペラを理解せず、歌劇場で「ノルマ」をみて、反ローマ的なセリフを知ってあわててカットを指示する様子が語られる。これは事実に基づくのだろうか。そして、ファシストは無教養という認識は正しいのだろうか。

 

「八月の日曜日」 1950年 ルチアーノ・エンメル監督

 戦争が終わってから、7年ほどたった8月の日曜日、ローマの人々は列車や車や自転車でこぞって大海水浴場オスティアにでかける。東京の人が湘南の海に出かけたように。その大勢の人々の朝から夕方までの1日の人間模様を描く。ローマの人々なので、にぎやかこの上ない。わいわいがやがやの中で若い恋や中年の恋が芽生えたり、不和が起こったり、恋が進展したり、犯罪が起こったり、大家族がともあれ楽しんだり。この映画の主人公は、まさにローマの人々! 庶民の哀歓が伝わる。手際よく人物を描く手腕にも驚く。これもネオリアリズムの一つの形だろう。

 オスティアは、私の大好きだった映画監督パゾリーニが殺害され、遺体を捨てられていた場所なので、1978年、ローマを訪れた折、タクシーでその場所まで行った記憶がある。知らない俳優ばかりだと思ってみていたら、真面目な警官役にマルチェロ・マストロヤンニが出てきた! このころから独特の雰囲気を持っている!

 

「嫉妬」 1953年 ピエトロ・ジェルミ監督

 無駄のない台本と隅々まで計算しつくされた映像。全体がびしりと決まって、きわめて論理的に物語が展開する。これぞ名匠ピエトロ・ジェルミの醍醐味。ある意味で定石通りの展開なのだが、緊迫感にあふれ、俳優たちの演技が見事なので、ぐいぐいと引き込まれる。

 イタリアの村を支配する侯爵(エルノ・クリサ)。親戚の圧力で、貧しい出の娘アグリッピナ(マリーザ・ベリ)と別れて、別の女性を結婚せざるを得なくなるが、忠実な男ロッコとアグリッピナを偽装結婚させて、関係を続けようとする。だが、ロッコが裏切りそうなのに気づいて、嫉妬のあまり殺してしまう。ロッコ殺しの罪でほかの人間が無実で捕らえられたために苦しんで神父に告解はするが、警察には伝えない。結局、無実の人間は殺され、侯爵はいよいよ苦しんで、死を迎える。最後までアグリッピナへの愛を貫く。

 狂ったように愛し合う身分違いの男女、嫉妬のあまり男を殺して良心の呵責に苦しむが、真実を語る勇気を持たない男。そのようなドラマティックな状況を見事に描いていく。まさにリアリズム。

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映画「校庭」 ローラ・ワンデル監督 徹底的な視野の狭さによる凄味!

 2021年のベルギーの映画。子どもを扱った72分の映画だが、なかなか重くて凄い映画!

 7歳の少女ノラ。3歳年上の兄アベルとともに、どうやら転校してきたようだ。仲のよい兄と妹なのだが、不安なノラがアベルに頼ろうとして接近したことが原因で、アベルはいじめにあうようになる。ノラは父親にそのことを話して解決しようとするが、いっそういじめは悪化。父親も頼りにならない。理解を示してくれた先生は退職してしまう。兄の心はどんどんと離れていく。その後、父親が介入して、ともあれアベルへのいじめは沈静化するが、その後、ノラにまでもいじめは広がり、しかも、アベルは今度はいじめの加害者になって、もっと弱い子をいじめだす。

 ある意味で、学校ではかなりありふれた出来事だろう。この映画がすごいのは、このような子どもの世界を、子どもの目からリアルに描いている点だ。子どもの背丈にカメラが設定される。しかも、まさに子どもの視線はこうなのだろう、映像は視野が狭く、遠くは映されず、中心以外はぼやけている。子どもがみているであろう世界が描かれていく。場所の全体像も大人の全体像も映されない。子どもの目から、おとなへの絶望、身動きの取れない状況が描かれていく。

 明らかにハンガリーのラースロ―監督の映画「サウルの息子」(私は驚異的な名作だと思っている!)の影響を受けているだろう。「サウルの息子」は、アウシュヴィッツで、ユダヤ人でありながナチスの手先としてユダヤ人虐殺の当事者として活動する男サウルの狂気じみた世界を描いた映画だった。そこでも、サウルから見た視野の極端に狭い世界がスクリーン上に映し出されて、サウルの意識を描いていた。

「校庭」でも、極端に視野の狭い子どもの世界が同じような手法で描かれる。大人はみんながそれなりの善意を持っているが、それでも信用できない。子どもたちは屈託なく、しかも残酷。自分が何かをするといっそう事態は悪くなる。みんなが辛いのはわかっているが、どうにもならない。それが俯瞰的な視野を持てずに、目の前のことしか理解できない映像によって描かれていく。

 この映画では、いじめへの解決の道は示されない。この映画の原題はun monde。フランス語(≒ベルギー語)で「一つの世界」。まさに、子どもたちにとっての「世界」そのもの、しかもありふれたひとつの世界を描いている。

 それにしても、子どもたちの演技が素晴らしい。とりわけ、ノラを演じるマヤ・バンダービークの表情や動きに驚く。多感で兄思いだが、時に依怙地になり、時に怒りを爆発させる等身大の子どもを目の前に見せてくれる。観客はノラに感情移入していく。このあたりが、主人公への感情移入も許さなかった「サウルの息子」と違うところだが、描かれるのが学校なので、「校庭」では、感情移入が不可欠だっただろう。

 ところで、このところ、私のみる映画は中年以上の客がほとんど、60代、70代が中心の場合もある・・・という状態だったが、この映画は、客はまばらながら、ほとんどが20代、30代に見えた。60歳以上に見える人はひとりもいない! あれ、もしかして私は間違えて別のホールに入り込んでしまったかな、と不安に思ったほどだった。若者がこの映画をみて感銘を受けてくれると嬉しい。

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映画「ジュテーム、ジュテーム」 不定形で不確定な世界

 アラン・レネの監督作品はかなりみた。50年ほど前、周囲にはゴダール、トリュフォー好きが多かったが、私はこれらの監督よりもレネのほうが好きだった。特に、「二十四時間の情事」は圧倒的名作だと思っていた。「去年、マリエンバードで」も、少々退屈で意味不明ではあったが、おもしろいと思っていた。

 そして、今回、レネの死から10年以上たって、1968年に作られた「ジュテーム、ジュテーム」が日本で初めて封切になった。レネを愛した人間としては観に行くしかない。

 自殺に失敗して回復したクロード(クロード・リッシュ)が、タイムトラベルの研究所の実験の被験者に選ばれ、1年前に1分間だけ戻ることのできる不思議なタイムマシンの中に入る。ところが、機械は故障したらしく、クロードは過去の中に閉じ込められ、断片的な過去を繰り返し生きることになる。そうするうち、観客にも、クロードが恋人カトリーヌ(オルガ・ジョルジュ・ピコ)を愛していたが、事故か自殺か、あるいはクロードが殺したのか曖昧ながら、カトリーヌが死に、その不在のために生きる気力をなくしたクロードが自殺を図ったらしいことがわかってくる。クロードは、自殺を図った状態で現在に戻るが、すでに手遅れになってしまう。

「去年、マリエンバードで」をみた時とそっくり同じような印象を抱いた。主人公とともに観客までも時間の迷路のなかに閉じ込められた感覚に襲われる。カフカの「城」の世界に入り込んで出られなくなった雰囲気と言ってもいい。同じ場面が繰り返され、それが少しずつ変容し、いったい何が起こっているのかわからない、映画が何を言おうとしているのかもわからない。事実が事実でなくなり、すべてが不定形で不確定になる。確実なものはなくなり、すべてが意味不明になっていく。

 アラン・レネはまさにそれを狙っているのだと思う。彼は言葉にすることのできない、繰り返しと意味不明と不確定な世界を感じている。それを観客に追体験させようとする。事実が解体され、世界が解体される。

 おもしろい映画ではない。感動する映画ではない。退屈で意味不明。しかし、私もレネと同じようにしみじみと思う。世界って、実はこうなんだよなあ。こんなふうに不確定でねじれていて、歪んでいて意味不明なんだよなあ・・・と。

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映画「ゆきてかへらぬ」 美しい映画だったが、中也の詩への思いがよくわからなかった

  映画「ゆきてかへらぬ」をみた。

 文壇の恋愛事件では、千代をめぐる谷崎潤一郎と佐藤春夫の争いが有名だが、もう一つ、大部屋女優だった長谷川泰子をめぐる中原中也と小林秀雄の関係も有名だ。これはその三人の関係を映画化したもの。

「ツィゴイネルワイゼン」などの脚本を担当した田中陽造が秘蔵していた脚本を根岸吉太郎監督が掘り出して映画化したということらしい。なるほど、いわれてみれば、根岸の「ヴィヨンの妻」の趣もあるが、田中脚本、鈴木清純監督の「ツィゴイネルワイゼン」の雰囲気もある。なお、私は根岸吉太郎氏とは早稲田大学第一文学部演劇科で同期だった。映画を志す仲間としてよく話したのを覚えている。彼の映画は今も気になるので、さっそくみたのだった。

 京都で一人暮らしをしている17歳の中原中也は女優志願の女・長谷川泰子と知り合い、同棲するようになる。二人は東京に出た後、文芸評論家として活躍を始めた小林秀雄と交流するようになるが、泰子は小林に心変わりして、今度は小林と暮らすようになる。だが、中也も泰子も互いの思いを完全には断ち切れない。小林もそれを理解して、奇妙な三人の関係が始まる。が、中也は別の女性と結婚、病にかかって若くして死ぬ。そうした状況を描く。

 映像はとても美しい。屋根瓦の家が立ち並ぶ中、和傘を上から撮影した場面など、息をのむほど素晴らしい。花屋敷だろうか、遊園地の場面もとても魅力的だ。そして、泰子を演じる広瀬すずと小林を演じる岡田将生の演技もとても説得力がある。根岸監督らしい繊細で色彩的に美しく、心の機微を描く作品だと思う。

 ただ、私が不満に思ったことが二つあった。一つは、中也の詩人としての思いやその天才性が伝わらないことだった。中也は天才であり、小林はそれを理解し、その天才性を共有しようとするわけだが、中也がどのような思いで詩を書いているのか、どのように天才なのかが納得できないので、映像に没入できない。木戸大聖は天才を演じようとして健闘しているが、むしろ空回りしてしまう。

 もう一つの不満は、中也の死は1937年、日本の中国進出は泥沼化し、太平洋戦争へ突き進んでいる時期なのだが、そうした時代的雰囲気がまったく描かれない。意図的に三人の関係に絞って描こうとしているのだろうが、そのような時代に、閉塞的な日本でフランスの影響を受けた詩人たちの思いを描かないと、彼らの必死さが伝わらない。彼らの行動が社会から孤立した絵空事に思えてしまう。

 肝心なところで私を納得させてくれなかったので、あちこちにある映像美も、唸るような脚本の見事さも、私を深く感動させてくれなかった。

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映画「悪は存在しない」 ラストを私なりに解釈してみた

 濱口竜介監督のベネチア映画祭銀獅子賞受賞作「悪は存在しない」をみた。途中までは納得してみていた。そこまでは、ある意味、とてもよくできたふつうの映画だった。

 長野県とみられる山間の寒村。水は澄んでおり、鹿や鳥が立ち寄り、村人は豊かな自然の中で生きている。ところがそこにグランピング場(気軽にキャンプのできる場所)の建設計画が持ち上がる。企業に委託された芸能事務所の男性・高橋と後輩の女性・黛が企業側の代表として説明会にやってくるが、住民の反対にあってたじたじとなる。何とか折り合いをつけようとして、村の中心的な人物である便利屋の巧(たくみ)に接触する。巧やその娘である小学生の花(はな)と行動をともにするうちに、二人の芸能事務所のメンバーは自然の豊かさに目覚めていく。

 芸能事務所の社長も、コロナ禍を生き延びるために会社の方針で仕方なくこの種の仕事に力を入れている。グランピング場を計画している企業もすでに補助金をもらう都合上、時間をかけるわけにはいかない。そして、だれもがそれなりに現地の住民のことも考えている。確かに、「悪は存在しない」。そうした状況を映画は丁寧に描く。私が名前を知っている役者、それどころか顔を知っている役者は出演していない。そうであるがゆえに一層映像がリアルに感じられる。人間の生きる姿、自然のありようが存在感にあふれて描かれている。

 ところが、最後の10分ほどだろうか。突然話が展開し、何が起こったのかわからなくなる。映像は幻想的になり、極端に説明が省かれる。

 花が行方不明になる。村が総出で探すが、なかなか見つからない。翌朝(?)、巧は手負いの鹿に襲われて(?)絶命した(?)花を発見。芸能事務所の高橋は巧と行動を共にしていたが、高橋が倒れている花のもとに駆け寄ろうとすると、巧は突然、高橋を襲って殺そうとする(?)。いったんは息を吹き返した(?)高橋が喘ぎながら倒れる(?)ところで映画は終わる。

 いったい何が起こったのだろう。巧はなぜ高橋を殺そうとしたのだろう。

 多様な解釈が可能だと思う。濱口監督は、おそらく自由に解釈できるようにあえて作っているのだろう。私なりにあれこれ考えてみた。

「悪は存在しない」というタイトルがヒントになりそうだ。

 確かに、高橋をはじめ都会から来た人たちにもそれぞれの事情があり、みんなが悪人というわけではない。だが、悪は存在しないとみなして、それを許容していたら、なし崩し的に自然が破壊されてしまう。自然の中で育ち、人と動植物の媒介をしていた少女・花の死は、そのような「悪は存在しない」「仕方がない」というそれぞれに人間の都合による言い訳で自然を壊してきた結果なのではないか。

 高橋に代表される都会人は、根は善良ではあるが、なびきやすく、自分に甘い。そのような態度こそがすべてを壊してきた。自然の中で生きる巧自身もチェーンソウを使い、車を使って自然を汚している。映画の中では、自然に反する音、たとえば鹿を撃つ銃声や空を飛ぶ飛行機の音がしばしば強調される。

 しかし、同時に「悪は存在しない」ということは、「善悪は存在しない」「善も存在しない」ということになる。

 多くの人が自然を「善」とみなしている。自然は美しく、素晴らしく、良いものだと考えている。環境保護の考えの中ではそのような文脈で自然は語られる。だが、実際にはそうではない。自然は災害を起こすし、自然の世界は弱肉強食で善悪は通用しない。映画の中で、繰り返し木々が映されるが、そこで響くオルガンの音楽はけっして美しいものではない。不協和音にあふれ息苦しく、暗いエネルギーにあふれた音だ。

 花が鹿に殺されたのも、そのような善ではない自然の中でのことだった。「悪は存在しない」、そもそも善もない、冷徹でエネルギッシュな生命の論理で動いている。だから、その中で花が死んでも仕方がない。そもそも、まさにその名前の通り、この少女は花のような存在なのだ。

 結局、巧は、自分の都合で自然を破壊していった人間たちに怒り、同時に、様々なものを破壊し、人間を殺すこともある自然の論理に気づいたのではないか。だからこそ、娘の死を契機に自然の論理を体現して、自然を壊そうとする高橋を殺したのではないか。巧は「悪は存在しない」「善悪は存在しない」「存在するのは、決して美しくない自然の理不尽な論理だ」と思い知り、それを実行したのではないか。

 私なりの解釈を書いてみたが、まだまだよくわからない部分がいくつもある。私に読み取れていない寓意もたくさんありそう。そのわからなさも含めて、確かにこれはとても良い映画だった。

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映画「葬送のカーネーション」 意味不明の荒涼たる世界の生と死のまじりあい

 トルコ映画「葬送のカーネーション」をみた。2022年のベキル・ビュルビュル監督。

 老人と10歳前後の女の子が車の後ろの座席で移動しているところから始まる。そして、徐々に二人が棺をもって冬の荒野地域を移動しようとしていること、どうやら車に乗せてもらったのはヒッチハイクだったらしいこと、車から降ろされた後は、棺を徒歩で運んだり、トラクターに乗せてもらったり、洞窟を探して夜を過ごしたりして、国境に向かおうとしていること、二人は祖父と孫らしく、祖父はトルコ語を理解できない様子であること、どうやら棺の中の遺体は少女の祖母らしいこと、祖母が故国に埋められることを望んでいたために祖父が遺体を運ぼうとしていたことなどがわかってくる。そして、遺体を段ボール箱に入れかえてトラックに乗せてもらって国境にたどり着くが、そこで中身が遺体だと発覚して警察にとどめられ、祖父の強い抗議にもかかわらず、その土地に埋葬される。祖父は故国に帰ることを願い、そのまま孫をトルコに置いて、国境を一人で超える。

 ずっと老人が苦労して棺を運ぶ様子が描かれる。トルコのそこそこ善良な人々がそれを手助けしたり、途中で放り出したりする。それだけの映画だ。説明がほとんどないので、観客はちょっとしたことを手がかりに推測していくしかない。しかも、少しずつしか真実は明かされない。観客はずっと様々なことに疑問を抱いたままだ。

 しかも、最後まで老人の故国はなんという国なのか(たぶん、シリアなのだろうが)、なぜ老人はトルコに来たのか、決して親しげに見えない老人と孫との間に何があったのかも明かされない。子どもの描いた絵や、国境付近で難民らしい人々が見えることから、どうやら内戦が起こって子どもの両親は戦争で殺され、祖父と祖母は命からがらトルコに逃げたらしいことは推測できるが、それも断定はできない。老人は洞穴の中で寝ている間に、貨物列車の脇で目を覚ました夢を見る。だが、その意味もよくわからない。

 私がこの映画を見て、最も興味を引かれたのは、何よりもこの「わからなさ」だった。二人を車に乗せる人々は、観客にも老人と孫にも意味不明の内輪の話を長々とする。とりわけトルコ語を介しない老人にはすべてが意味不明の世界だ。そのような不確定で意味不明の世界の中で生と死がまじりあう。老人はきっと孫を寒さから守るためだろう、棺から遺体を取り出して、そこに孫を寝かせたりする。二人にとってこの世界は死にあふれている。そうした世界を、観客も一緒になって味わう。

 祖母の墓に孫が描いた祖母の絵とともにカーネーションを飾ることから「葬送のカーネーション」という日本語タイトルがつけられているが、原題は「クローブを一つまみ」という意味だという。クローブ(丁子)は臭い消しとして使われる植物で、たしかに老人が車を運転する女性にもらったクローブを棺に入れる場面がある。しかも、カーネーションはクローブの香りがするとのことで、トルコ語ではクローブと同音異義だという。

 考えてみると、カーネーション=クローブは死を悼む花であると同時に臭い消しであり、生の世界と死の世界をつなぐものなのだろう。私が、よく理解できないながら、この映画をとてもおもしろいと思い、最後まで惹かれて見続けたのは、きっとこの生と死をつなぐ冬の荒涼とした世界での孤独な人間の営みを見る思いがしたからだと思った。

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カウリスマキ監督の映画作品「枯れ葉」をみた

 フィンランドの名匠アキ・カウリスマキ監督の新作「枯れ葉」をみた。カウリスマキ監督らしい佳作。

 酒びたりの労働者ホラッパ(ユッシ・バタネン)と孤独に暮らす女性アンサ。恋愛に不器用な中年の二人がカラオケバーで出会い、惹かれあって、何度かのすれ違いを経て結ばれるまでを描く。それだけの話だが、とても感動的でしみじみとして味わい深い。

 二人とも下層の肉体労働者。ホラッパの方は酒を飲みながら仕事をし、禁煙の場所でタバコを吸い、煙草を取り出しているときに、せっかくもらったアンサの電話番号をなくしてしまうなど、自業自得の面があるが、アンサは不運に見舞われて職を奪われ、孤独に暮らしている。アンサはホラッパがアルコールに依存していることを嫌っているため、いったんはホラッパは別れるが、酒を断って、紆余曲折の末、一緒に暮らそうとする。

 フィンランドの下層労働者の過酷な現実が描かれるが、カウリスマキの人間愛にあふれた視線や抽象化されてリアルすぎない描写のために、のほほんとした雰囲気が生まれて、静かで真摯な二人の愛を応援したくなる。たくさんの歌が流れて、その時々の登場人物の心象を語る。チャイコフスキーの「悲愴」の第一楽章が、二人の愛の気分を示す音楽としてたびたび現れる。これらの音楽もリアル過ぎなくするための仕掛けだろう。こうして映像はある種の寓話になっていく。

 ラジオでウクライナ戦争で犠牲になっているウクライナの市民についての報道が語られる場面が何度も出てくる。それについて登場人物はほとんど何も言及しないが、カウリスマキ監督は、戦争犠牲者への哀悼を示し、登場人物たちと同じように社会の理不尽に痛めつけられているウクライナの人々への連帯を呼びかけているのだろう。

 私は、昔、雑誌「ガロ」などで読んでいた永島慎二の漫画を思い出した。愛情にあふれた視線でのほほんとして穏やかに若者や子どもの世界を描きながらも、その問題意識は鮮烈だった。深刻にリアルに描かないだけにいっそうじっくりと社会を考える気持ちにさせられていた。そういえば、このごろあまり永島慎二は読まれていないのだろうか。残念なことだと思う。

 映画の二人は犬を従えて、秋の道を歩いていく。そこでタイトルにもなっているシャンソン「枯れ葉」(歌詞はフランス語ではなく、たぶんフィンランド語)が流れて映画は終わる。「枯れ葉」はフランス語ではfeuilles mortes。すなわち「死んだ葉っぱ」。フィンランド語でも同じのようだ。

 枯れて死んだ葉っぱの中を、二人は歩く。死にあふれた世界の中で、二人は愛をはぐくみ必死に生きようとする。それがカウリスマキ監督のメッセージなのだろう。

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